愛妻家の一例
岸田國士
ルナアルの日記を読んで、いろいろ面白い発見をするのだが、彼は自分の少年時代を、「にんじん」で過したゞけあつて、大人になつてからも、常に周囲を「にんじん」の眼で眺め暮した世にも不幸な人間なのである。一度は友達になるが、その友達は、大概いつかは彼のひねくれ根性に辟易し、彼の方でも、その友達のどこかに愛想をつかして、どちらからともなく離れて行つてしまふ。
作家として、痛ましいほどの良心をもち、真実を追求する態度の厳粛さは、凡そ悪魔に憑かれてゐるとでも云ひたいくらゐだのに、人を愛し、人から愛される何ものかを欠いてゐる不思議な性格が、針のやうに彼を見る心を刺すのである。
さういふ彼が、この世で唯一人、無条件に愛し得たのは、平凡なやうだが、その妻のマリイであつた。しかも、その愛情の濃やかさ、純粋さ、気高さは、まづ、私の知る限り類がないといつてもいゝくらゐである。
彼の日記は、その細君について屡々語つてゐるが、細君なら時々それを読むかも知れないといふ配慮の下に書かれてはゐない。その証拠に、細君に知れては困るやうなことも書いてある。
彼は、二十二で結婚した。巴里で腰弁生活をはじめた時代である。処女作の出版を断はられた時代である。
細君はマリネツトといふ愛称で呼ばれ、十年の糟糠の妻は、彼の眼に常に新鮮であつた。
彼は彼女を芝居に連れて行つて、さて云ふ――
「マリネツトもまた、彼女の楚々たる装ひに於いて成功した。レースにくるまつて、しとやかな共和の女神のやうだ」と。
彼はまた、一座の女たちの露骨な話題にうち興じてゐるなかで、自分の細君がどんな風かといふのを、「退屈しきつた純潔さ」と見るのである。
大概の男がかういふことを云ふと、常にどこか「甘く」なるものである。さう感じることが決して甘いのでもなく、感じたらそれをその通り云つて、これまた必ずしも甘いわけではないが、さう感じる感じ方、それを云ふ云ひ方のなかに、ある種の隙が生じるのである。
さういふ隙が、生活の全体をふくらましてゐる場合があり、それが人間の愛嬌のやうなものにまでなつて、時には底の知れない深みを与へることがある。露西亜人などにはさういふ傾向が多い。
それが、仏蘭西人、殊にその中でも、神経の塊りのやうなこのルナアルの細君礼讃振りには、普通にいふ「甘さ」といふものは微塵も感じられず、その代り、泣いてゐる子供がふと玩具を見せられて泣き止んだ時の、云はゞあのほつとするやうなものが潜んでゐる。
天真爛漫は、彼に於いては、まことに痛切な救ひなのである。そして、彼をその状態におき得るものは、天下に細君一人なのである。
彼のけち臭い自尊心、蒼白い懐疑、燻ぶる反抗精神が、彼女の前で、雲散霧消する現象は、まことに、壮絶の極みである。尤も、壮絶といふ言葉に皮肉な意味はない。或ひは悲壮といふ方がいゝかもしれない。事実、私の胸は涙でいつぱいになることがある。
彼はあるところでかう書いてゐる。
「マリネツトは、次第に伸び育つて怒りになりさうな私の不機嫌を、芽生のうちに摘み取る術を知つてゐる」と。
世間にかういふ細君が絶無であるとはいはない。また、自分の妻の美点を、かく知り、感謝の念を以てかく語る男が、まつたくゐないとは限るまい。しかし、ルピツク夫人を母親にもち、「自分は誰からも愛されてゐない」と叫ぶ少年「にんじん」の生涯を考へたならば、結婚が彼にもたらした一つの幸福について、われわれはそれを単なる幸福といふ言葉で片づけ得るであらうか?
表を見せれば、必ず裏を云ふ彼、成功の蔭で自己を嘲笑ひ、友情の重さを秤りにかける彼、そして、浮気をしない亭主とはこの世で一番しよんぼりした男であることを認める彼が、たゞ望んで獲た女なるが故に妻を貴しとする筈はないのである。
マリネツトとは、どんな女性であつたらうか?
二人はある日、墓地を散歩した。彼女は、一つの墓石の前に跪き、その表面へ指で――それゆゑ跡は残らないが、――二人の名前を書いた。
その時の、彼ルナアルのしんみりした顔附を想像するのは、これは読者の当然な権利である。
聡明で、聡明なるが故に単純で、貞淑で、貞淑なるが故にコケツトな一人の女性を考へてみることもできる。
再び云ふが、結婚後十年、稀代の拗ね者、純日本的照れ屋ルナアルをして、野に菫を摘ましめ、これを妻への土産とせしめたものは、たゞ単に、孤独な魂の感傷にすぎないであらうか?
彼は結局、妻のすがたを次のやうに描いた。
――パジイへ散歩。私は林を抜ける、感じのいゝ道を選んだ。ところが、まるでどろどろの道だ。泥の中に踏み込むたびに、マリネツトは、「なんでもないわ」とか、「もう大丈夫、心配しないで。草のなかで足を拭くわ」とか云ふ。こんな風に、泥だらけの道にも文句を云はない女、それは、生活を恐れない、いゝ道連れだ。
――ところで、この頃はもう、私は小さな子供みたいにしてゐる。私はマリネツトに云ふ――お前には、母性の本能をすつかり満足させてくれる申し分のない子供が出来たんだよ。その子供は、先づ、なんでも赦して貰ひたがつてるんだ。仕事をしないでもあんまり叱らないでくれつていふんだ。さうして、全然なんにもしないでゐられゝば、いつまでも喜んでるんだ。
マリネツトは私にすべてを与へてくれた。私の方は、彼女にすべてを与へたといへるだらうか! やつぱり、私のエゴイズムはそつくりそのまゝ残つてゐるやうな気がする。
私が彼女に、「率直に云つてくれ」と云ふ時、彼女は私の眼の色で、どこまで本当のことを云つていゝか、といふことをちやんと読みとる。
これは、私が愛してゐると、確信できる唯一の人間だ――それから私自身と。が、まだ私自身の方は……。私はよく、自分で自分に嫌悪の蹙め面をさせることがある。さうだ、彼女を私は非常に愛してゐる。しかも、決して私が見損つてゐるわけではない。
恐らく、彼女は私のことが不安になつて、そして、自分でかう云ひきかせたのだらう――「自分を救ふ道はたつた一つしかない。あの人を絶対に信頼することだ。さうすれば、決してやり損ふことはないだらう。知らないで万一やり損つても、あの人が教へてくれるだらう。さうして赦してくれるだらう」と。
時々、彼女が子供たちを見守つてゐると、実に子供たちに近く見えて、まるで子供たちは彼女の二本の枝みたいだ。
彼女の心はその眼に表はれてゐる薔薇色の心だ。太陽のやうな心だ。
彼女の眼の底には、網膜の上には、愛情にも曇らされない一つの鏡、一つの小さな部分があるのだらうか。そして、そこには私も美しくは映らないのだらうか?
彼女の剥き出しの腕には涼味がある。
私にはマリネツトがある。私はもうなんにも要求する権利はない。
彼女のそばでは、私は、「俺の作品は……」とか、「俺の特質は……」とか、「俺の才気は……」とか平気で云へる。そして、少し躊躇しながら、「俺の才能は……」とも云へる。彼女はかういふ云ひ方を実に自然に受け取つてくれるので、私の方でも、ちつとも気はづかしさを感じない。
彼女が私をよくしてくれたかどうか、それははつきりわからない。然し、見たところは確かによくなつた。
彼女が私のおかげでひどい貧乏をするかもしれないと思ふと、胸がつまるやうな気がする。
然し、私は大急ぎでかう考へる。――「彼女はきつと、立派にそれに堪へてくれるだらう。さうして、ますます俺を愛してくれるだらう」
彼は仏蘭西に生れ、作家となり、しかもその作品のうちで、一度も「姦通」を描かなかつた珍しい人物である。恐らく、この種の空想は、彼には堪へられないものであつたに違ひない。ある作家について、彼は軽蔑の口調を以て云ふのである――妻に裏切られても傑作が書けさへすればいゝと思つてゐるやうな男――と。
しかし、その彼も屡々夫婦生活の危機を問題とした作を書いてゐる。『日々の麺麭』や『ヴエルネ氏』の如きは、それである。
『日々の麺麭』の女主人公マルトには、たしかに彼の祈願が籠められてゐる。
「……アルフレツドを騙さうなんて気は、毛頭ありませんわ。それにしても、決して騙さないつてことが確かにわかつてたら、それやつまりませんわ、あたくし……」
これが美しい人妻マルトの言葉なのである。夫の友人で、彼女を讃美する男に対する婉曲な防禦である。
彼女はかうも云ふ――
「永久に節操を守るなんていふ誓ひを立てたくないんですの。真面目な女でも、あたくしは、時として自分の抵抗力を疑ふ真面目な女ですわ……」
作家ルナアルの「女性」は、彼の「言葉」の如く陰翳に富み、男心の隅々までを知り尽してゐる。
妻マリネツトの面影が、そのまゝこのマルトの中に映つてゐるかどうかは疑問である。恐らく、本質的に別個なタイプのやうであるが、彼が女性、殊に、「自分の女」に求め、望むものは、彼のエゴイズムと、脆さに対する趣味との惨憺たる摩擦から生ずるものであつて、彼の愛妻心理も亦尋常一様なものではないにきまつてゐる。(「婦人公論」昭和十年十二月)
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