トリスタン・ベルナアルに就いて

岸田國士




 彼はポルト・リシュやベルンスタンと同じく猶太の血を享けてゐる。しかも、仏蘭西人らしい特質の最も多くを備へてゐる猶太作家である。
 彼は甚だ金持である。スポーツ、わけても競馬と拳闘の熱愛者である。その上、評判の交際家である。その生涯を通じて親友の悉くを失つた一代の偏屈屋ジュウル・ルナアルさへ、彼だけには腹を立てなかつたらしい。

 彼は作家として、少しも野心的な仕事は残してゐない、寧ろ、芸術家としてはそれほど特異な存在ではなかつたかも知れぬ。一方に、ジョルジュ・クウルトリイヌを有し、一方にモオリス・ドネエを有する仏蘭西の喜劇壇は、彼の作品に漂ふ一味のユウモアを、大して珍らしがる筈がない。

 しかし、巴里人は、彼が何となく好きなのである。多くの批評家も亦、彼を故らに担ぎ上げることこそしないが、彼の作品には絶えず好意を寄せてゐる、云はば、かういふ作家もあつていいといふ作家の一人に違ひない。
 此の全集に、モオリス・ドネエや、エミイル・ファアブルやを割愛して、恐らく文学的にはその下位にありと思はれるベルナアルを加へたことは、彼の作品が、喜劇の様式として一つの特殊な類例を示してゐるからでもあるが、ただそればかりではなく、彼の作品中に描かれてある生活が、案外、他の作者によつて取扱はれる機会が少く、従つて、われわれ外国人の新たな興味を惹くに足ると信じたからである。

「自由の重荷」は千八百九十七年にジェミエの手で制作劇場の舞台にかけられた。彼の作品としては比較的芸術味に富んだものの一つである。此の喜劇の形式は、寧ろ、ファルスと呼ばるべきものの要素を多分に含んでゐて、それも中世の笑劇ファルス、例へば、「代言人パトラン先生」などと共通な味ひをもつてゐる事は何と云つても見逃すわけに行かない。それはまた我国の狂言風なものにも通ずる原始的な、素朴な道化味である。
「懐を痛めずに」(一八九八年)――これは原作の表題を直訳すると「ロハの御馳走」とでも云ふのだが、頗る他愛ないスケッチ劇で、一寸した思ひ附きをあれだけ活かした所が面白い、勿論、傑作とは云へないし、ただ、「都合で」此の作品を選んだに過ぎぬが、さうかと云つて、此の作者の他のものを一つ選び出す事は中々困難である。「ニッケル鉱金の足」や、「英語を話せばこれくらゐ」など、大劇場で盛に上演されつつあるものもあるが、長いだけに、どうも態々翻訳する気にはなれぬ。最初訳す積でゐた「村で一人の盗賊」は、代表作の一つに並べられてゐるものだが、今度読み返してみて、あんまり感心しなかつた。殊に主題の古さが目立つた。それで計画を変へることにした。

 要するに、トリスタン・ベルナアルは、自分の猶太気質を、仏蘭西人の目で眺めてゐる作家である。そこから、独得とも思はれる寛大な皮肉が生れ、一見楽天家らしい厭世観が不気味な閃きを見せる。彼の機智は、クウルトリイヌのそれの如く奔放でない代り、一種の洒脱さをもち、「困惑」の状態を描くに当つて、彼は最もその妙所を捕へる才能をもつてゐるやうに思はれる。此の点、「ニッケル鉱金の足」や「英語を話せばこれくらゐ」ほど完全な見本はないが、以上の二作でも、その才能はかなり遺憾なく発揮されてゐる。
「困惑」の状態――それ自身、既に好個の笑劇的題材である。但し、見物を「困惑」させずに、「困惑」の状態を描き得るものは、そんなに多くはない。





底本:「岸田國士全集21」岩波書店
   1990(平成2)年7月9日発行
底本の親本:「近代劇全集 第十五巻」第一書房
   1928(昭和3)年10月10日発行
初出:「近代劇全集 第十五巻」第一書房
   1928(昭和3)年10月10日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2007年11月14日作成
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