これからの戯曲

岸田國士




 文学の一部門たる戯曲が文学の大勢に従はない訳はない。それで「これからの戯曲」といふ問題は「これからの文学」が如何なるものであるかを解決することによつて、自ら明らかになる訳であるが、然し、それだけではまだ十分ではない。何となれば、文学の中でも、小説は小説、抒情詩は抒情詩、戯曲は戯曲で、それぞれ、ジャンル(様式)としての進化を遂げなければならないからである。故に、「これからの戯曲」は「これからの文学」なる一般特質を有つであらうと同時にその特質と並んで、別に一つの特質を示さなければならないことになるのである。
 私は、与へられた問題を、かく狭義に解釈して、「これからの戯曲」が「これまでの戯曲」から、如何なる点で区別さるべきかを述べてみることにする。
 先づ、それがためには、「これまでの戯曲」とはどんなものであるか、それをはつきりさせておかなければならないが、元来、旧いものといひ、新しいものといひ、その区別は批判者の立場によるものであることを注意しなければならない。私は、一方、眼を世界劇壇の大局に注ぎながら、しかもなほ自分の足を、飽くまでも日本現代の戯曲界の上に置くものである。それ故に欧米に於ては、既に「これまでの戯曲」に属するものにも、日本に於ては、十分「これからの戯曲」として認めらるべき様々の傾向があることを主張したいと思ふ。さうかといつて、これまでいろいろな機会に移入された欧米劇界の流行品が、悉く、日本に於ける「これからの戯曲」を暗示するものであるといふ考へ方にも与し難い。
 そこで私は、今日、劇壇及び一般世間に通用してゐる所謂「戯曲」といふものの既成観念に対して「これからの戯曲」が、如何なる新しい道を指示するか、指示しようとしてゐるか、それだけのことを、いろいろの方面からやや具体的に列挙して見る。
 一、「戯曲的」といふ言葉の内容が示す通り、従来、事件乃至心的葛藤の客観的形象を戯曲の本質と見做してゐたのであるが、古来の名戯曲が、よつて以てその名戯曲たる所以を発揮してゐた「美」の本質が、寧ろ、より主観的な、「魂の韻律」そのものにあることを発見して「これからの戯曲」は一層この点を強調する心象のオオケストラシヨンにあらゆる表現の技巧を競ふであらう。その結果「何事かを指し示す」戯曲より、「何ものかを感じさせる」戯曲へと遷つて行くであらう。この意味で、戯曲が次第に小説的になるといふ見方は当たらない。小説的になるといふよりも、寧ろ詩的になるのである。
 公衆は、舞台に「物語」を要求する愚さを覚るであらう。「どうなるか」といふ興味につながれて幕の上るのを待たなくなるであらう。人物の一言一語、一挙一動が醸しだすイマアジュの重畳は恰も音楽の各ノオトが作り出す諧調に似た効果を生じることに気づくであらう。俳優の科白は、単に「筋」を伝へるものではなく、常に、ある「演劇的モメント」を蔵してゐることがわかるであらう。
 戯曲家は、そこで初めて、真の芸術家となり得るのである。
 一、活動写真の進歩は、演劇の領土を狭くしたことは事実である。演劇の眼にのみ訴へる部分は悉く活動写真といふ自由な表現形式に圧倒された観がある。この結果は、演劇に於ける「台詞」の位置を確立せしめた。演劇は、一層戯曲の言葉に頼らなければならなくなつた。この意味で「これからの戯曲」は、いはゆる「観るための演劇」より「聴くための演劇」に、より以上本質的価値を発揮しなければならないであらう。戯曲家は、ゆゑに、何よりも詩人たることを必要とする。
 一、従来の戯曲作法は、成るべく場数を少くすることを教へた。
「これは五幕だが、三幕にまとめられるものだ」とか、「これを一幕に仕上げられないやうでは駄目だ」とかいふ批評さへ通用した。三幕八場、乃至五幕十二場といふやうなものもありはしたが、それらは、少くとも作劇術の標本にはなり得ない性質のものであつた。古くはシェイクスピイヤ、ミュッセ、さてはイプセンにさへ、場数の多いものはあるが、それらの戯曲は例外の如く取扱はれて来た。然るに、近頃、先駆的色彩を有する劇などに於て、屡々十場、二十場といふ戯曲が現はれ出した。これから益々この傾向が著しくなるであらう。これには色々理由もあるであらうが、ある人々の如くこれをもつて単に活動写真の影響なりとするのは些か早計である。
 成るほど、映画的手法を漫然と取入れてゐる作家もあるにはあるだらうが、それよりもつと重大な原因がある。
 第一に舞台装飾の最近傾向が、実写的克明さと浪漫的華美とをしりぞけて、専ら観念的、象徴的、暗示的単純さを強調するところから、場面転換に経費と時間とを要しなくなつた結果、劇作家は、従来の如く、場数の制限を受けることが少くなつたのである。
 実際、劇作家は、ここで初めて旧い作劇術の拘束を脱したといつてよい。
 いふまでもなく、場所と時間とを限られることが戯曲創作上、最も大なる苦痛である。戯曲の人物が、往々にして「不必要」な口を利き、「不必要」な動作をすることによつて、作品の「生命感」を稀薄にし、芸術的効果を減殺することがあるのは、ややもすれば「不必要」に幕を開けて置かなければならないからである。時と場所と、人物との間に空隙が生ずるからである。必要な時に、必要な場所に、必要な人物のみを現はし、その人物が必要なことのみを云ひ、行ふことによつて、如何に戯曲の生命が溌剌さを加へることであらう。
「これからの戯曲」が、必ずしも場数の多いものになるとは限らないが、無理に場数を少くする不自由さから、漸次解放されることはたしかである。将来、舞台装置の機械的進歩と共に、それこそ、映画に近い場面転換が行はれるかもしれない。さういふ舞台を予想した戯曲を、私もそろそろ書かうと思つてゐる。
 場数の多い戯曲が生れる理由はその他にもある。勿論第一の理由と関連はしてゐるが、これは戯曲そのものの文学的進化に直接結びついてゐる理由である。即ち、感情の昂揚、論理の破壊、ファンテジイの強調、視角の変化、感覚の遊離、潜在意識の探求、これら新文学の特色は、戯曲の構成に、より端的な、より飛躍的な手法を選ばせた。連続する事件の常識的観察を排して、極めて短時間に圧搾された生命の現象的効果を、断片として、次ぎ次ぎに捉へて行くことが小説に於てさへ、一つの新味ある表現上の発見となりつつあることを見ればわかる。
 小説に於ける「一行アキ」の効果は、やがて戯曲に於ける場面転換の効果である。

「これからの戯曲」といふ問題について、まだ論ずべきことも多々あるが、要するに、以上は、その一端にすぎない。初めにも述べたやうに、日本の現代劇は、まだその基礎が出来上つてゐない。基礎とは、西洋劇が今日まで築き上げた「写実」の境地に外ならない。わが劇壇から将来、『烏の群』や『死の舞踏』や、『叔父ワーニヤ』が生れるとしても、それは決して、「これまでの戯曲」と呼ぶことはできないやうな気がする。(一九二九・六)





底本:「岸田國士全集21」岩波書店
   1990(平成2)年7月9日発行
底本の親本:「現代演劇論」白水社
   1936(昭和11)年11月20日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2007年11月20日作成
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