劇作と私
岸田國士
雑誌「劇作」が生れるについて、私は直接なにも力にはなつてゐないが、同人のなかには親しい仲間も加はつてゐたし、蔭ながら声援をおくるといふ立場で、大いに発展を期待してゐた。
元来、戯曲家を育てる温床の役目は、よかれあしかれ、劇場が引受けるべきであつて、如何に才能ある新人を網羅するにもせよ、一雑誌の経営が完全にこれを果し得る筈はないのであるが、そこは何につけても特殊な事情をはらんでゐる現代のわが国に於て、劇文学に志すものの目標となる魅力に富む舞台はまづ皆無と云つていゝのだらう、勢ひ、「劇作」といふやうな雑誌の必要が感じられて来るのである。
しかし、一方、私の考へでは、純粋な革新運動としての理論展開は、自由な発表機関をもたなければならず、その意味に於ける雑誌の使命は決して等閑にはできないのである。
「劇作」は、創刊当初から、同人の作品発表と新作家の紹介は相当注目を惹いたが、これに伴ふ評論陣に於ていささか物足りなさを感じさせ、新鋭の努力が華々しい同志の掛声によつて登場するといふ風がなかつた。寧ろ、同人たちはめいめい自分の領域を守つて、わづかに公平であらうと努めてゐるかに見えた。
かういふところが「劇作」のなんとなく小憎らしいところで、私などもつい遠慮がちになり、グループとして昂揚する精神のなかに自他ともに引入れられる若々しさがもうちつとあつてもいゝのではないかと、老婆心ながら、気を揉んでゐた次第である。
今日では、「劇作」の諸君の一人一人を私も個人的に識るやうになり、それぞれの作家としての業蹟に敬意を表してゐるが、当節、戯曲家は戯曲だけ書いてゐればいゝといふやうな時代かどうかを、更めて、諸君とも話してみたいと思つてゐる。
少くとも、こゝに第百号を迎へた雑誌「劇作」の今後の躍進は、単なる新作の「活字による発表」を超えて、劇文学一般を通じての生活への寄与といふことにあるのではないかと思ふ。われわれの明日の生活は、政治の変貌と密接に結びつくのみならず、芸術文化の部門に於ける由々しい動揺をも覚悟しなければならないのである。
「劇作」はその本来の指導性をこゝに発揮すべき時機である。即ち、諸君は既に「武器」を持つてゐるのだといふことを忘れないで欲しい。
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