俳優倫理
岸田國士
1 俳優とは何か
講義の題目は俳優倫理というのですが、俳優倫理という言葉は今日までどこでも使われた例はないと思います。この研究所で初めてそういう講義の題目を作ったのですが、元来、この種の問題に関して今日まで纏った意見というものは恐らく東西を通じて発表されてないだろうと私は思います。しかし、俳優を単に芸術家としてだけでなく、人間として論じた人は沢山ある。そういう議論を通じて見ますと、社会が俳優にいったい何を求め、又俳優をどういう風に見ているかということがほぼわかる。皆さんも既にお気づきのように、今日まで、日本でも、外国諸国でも、一般社会が実際に、俳優という職業を一種特別なもの、ほかのどんな職業とも非常に違ったものと見ているのです。
そこで、芸術家としての俳優についていえば、立派な俳優となるためにはそれ相当の修業がいるのですが、俳優もまた一個の人間として、社会人として、そこに一つの自分を完成する途がなければならない。またそういう風にして、人間としての自分を完成することによって、一方芸術家としての自分をも育てあげることができるのだという考えから、ひとつ現代の新しい道徳というものを基礎として、私は俳優倫理という問題を考えてみたいと思っています。
殊に現在日本ではいろいろな意味で、日本人の精神的な問題が研究されております。例えば、文学の方で申しますと、モラールの問題というものがある。モラールというのは在来の日本の言葉でいえば、道徳とか倫理とかいうことになります。この、文学の上で非常に重大に考えられているモラールの問題というのは、結局、文学を作りあげるためばかりでなく、今日の人間がどういう倫理観をもつべきであるかという、そういうことが非常に探求されているのです。俳優の仕事は一面に於て文学につながるものである。そして、同時にまた、今日の社会と関係をもっている。何故かというと、俳優の仕事の根本には、やはり人間の研究、人間生活を表現するということがあり、またそれと同時に、一般社会にどういう影響を与えるかという問題が含れているからです。
そこで、俳優倫理の問題は、将来、俳優を志すものにとっても、またその俳優をふくむ一つの大きな共同作業である演劇全般にとっても、決して等閑視することのできないものなのです。なにしろ、俳優倫理という問題は、恐らく学問としての一つのちゃんとした形はとることができないでしょう。また、私が一年間講義をしても、それが纏るものとは考えていない。これはひとつ、是非皆さんと一緒にこの問題を考えて行きたいと思う。そこで、差当り私がここで受持つ時間を利用して、この俳優の倫理という問題を次のように分けて、みなさんにお話してみようと思います。
先ず、いったい俳優とはどういうことをするものかという問題、俳優とはなんぞやということです。その次には俳優の天職、いいかえれば、俳優がおのずから与えられている所の使命です。第三には俳優の素質、これはいいかえると、どういう人間が俳優になるのに最も適しているか、また更に別の言葉でいいますと、俳優になる人間はどういう資格を具えていなければならないかということです。第四は俳優の才能、ここで素質と才能とはっきり区別しましたが、素質というのは、いわば、その俳優が俳優である前に既に人間として具えている一つの特質です。才能といいますと、その人が俳優になって、或は俳優を志して、そうして、その人の俳優という職業の修業過程に於て、即ち、俳優という職業の勉強をしながらそれを伸して行くところのその人の特色です。勉強によって、修業によってその人が身につけるところの一つの資格です。これが才能です。最後に人及び芸術家としての俳優の理想です。この五つの項目に分けてお話をしたいと思います。
その前にちょっとお断りしておきますけれども、ここにおいでになる諸君をこうして見渡すと、年輩の上からいっても相当の違いがあるようだし、従って学校の程度なんかも随分違っているようです。それで、私の話は一体どこへ標準をおいて話をしたらいいかということを今日もみちみちいろいろ考えました。相当な年輩で上級の学校をでられた方を標準にして話せば、まだ若い中学校も終ってないという人には少しむずかしすぎる。又、その逆にするというと、これはまた程度の高い人には面白くない。それで非常に話がしにくいのですが、それは臨機応変に皆さんの顔色をみながら、なるべくみなさんの納得の行くように話をしていく、そういうことは余り巧くないのですが、そう努めるつもりです。
ただ、解らないこと、或はいろいろな疑いが私の話で起った場合には、ちゃんと書きとめて後で質問してほしい。これは一つみなさんにお願いしておきます。そうしないで、漠然とこういう抽象的な話を聴きっぱなしにしておくと、なんにもならないと思います。ここで持ち出した問題については、もう一度自分の頭を使って考え直す、自分で納得の行くまでそれを考えた上で、更にその問題を段々押し進めて行く、発展させて行くということが、こういう精神的な問題を考える時には大事なのです。普通、倫理とか修身とかいうものがつまらないのは、先生がそういう話をする、それを聞きっぱなしにするからつまらないのです。だから、大概学校ではつまらないということになっている。われわれもそういう経験がないではない。そのつまらない話を引受けるのですから、それを別に面白くする方法はないのです。そういう学問は、結局、教師が喋って生徒が聴きっぱなしにすれば、どんな話でも面白くないものなのです。その問題については、それを聴くものめいめいが自分の頭を使ってその考えを押し進めていく。そうするとあるところにぶっつかってそれから先は進まない。進まないというのは自分に疑いが起るか、或はそれから先は自分の頭で考えられない一つの大きな世界が拡っているから、そういうことにぶっつかる。頭の出来てない人は打突り方が早い。頭のねれた人は相当奥まで入って行けるが、結局ぶっつかる。どんな頭の人でもあるところに行ってぶっつかる。そのぶっつかるまで自分が考えるということがこの精神的な問題を取扱う面白さです。ですから、それを皆さんに予めお願いをしておきます。
それでは、俳優とはなんぞや、という問題から始めます。みなさんは俳優になろうという志望をもっておられる。してみると、俳優というのはどういうものだということに就いてはきっと考えていられるだろうと思います。実はここで一人、一人にその問題についてこっちから質問を出して、返事をして戴きたいのです。別にテストするわけでもなんでもないのです。ただ、そういう問題を一緒に考えるという意味で、自分の考えていることを自分で纏めて返事をして戴きたいのです。俳優とはなんぞや、その返事をきく前に、そういう問題について考える材料をみなさんに提供します。
俳優とはなんぞやという問題は、これに答える方法はいろいろあります。今日まで、やはり俳優という言葉の定義というものがいろいろ出来ているようです。しかし、その俳優という言葉のただ定義だけでは、それぞれの俳優がどういうつもりで俳優を志したか、俳優になっているか、俳優という職業に従事しているかということは殆どわからないのです。これは一般に俳優というものの定義を通じてすべてそういう傾向があります。そこで、俳優とはなんぞやという問題をわれわれが考える場合は、俳優というのはこういうものだということを、ただ世間一般が考えているような考え方でなくして、寧ろ俳優の立場から、俳優というその地位に自分がたって、そうして俳優とはなんぞやということを考えなければならない。そこが非常に違うのです。例えば、俳優というのは舞台の上で戯曲のなかにある人物に自ら扮して、そうして演技によって観客にその人物の生活を再現して見せるものである、という定義がここにあるとする。そうすると、その定義はなるほど定義として、先ず大体に於て、俳優というものの性質をいい尽しているようです。しかしそれならば、そういうことのどこが一体面白くて俳優になっているかということは、それでは全然わからない。また、そういうことをすることが、一体どういう目的にそうのであるか、また、なんのためになるか、ということもわからない。人間が銘々いろいろな仕事をするためには、その仕事の目的というものがちゃんとある。そうしていろいろな仕事の性質をいい現わす場合には、それぞれの仕事の社会的目的というものがほぼいい現わされているのが普通です。例えば軍人は軍人としての一つの職業――これは軍人は自分で職業とはいっていないようですけれども、客観的にみれば、やはり一つの職業です――その職業について軍人はなんのために存在するかということは、社会的な仕事の面でちゃんとその目的が明瞭に示されている。俳優というものになると、舞台の上でということから始まる。或は劇場という所から始まる。この劇場なるものが、舞台なるものが、なんのためにあるか、それが切り捨てられていて、考えられていない。そこが私は、俳優という問題を新しく考え直してみなければならない大きな理由だと思う。劇場とか舞台とかが、この世の中にあるその理由までをひっくるめて、俳優とはなんぞやということを考えなければならない。これを、みなさんがその問題について考える一つの基礎として先ず云っておきたい。俳優が社会人として、文化の担当者として、往々にしてその自覚が疑われるということは、つまり、俳優とはなんぞやという問題について、俳優自身が徹底的な考え方を今日までしていなかったところにも確かに罪があると思う。また、世間一般も俳優とはなんであるかということに就いて、やはりそういうところまで考えてみなかった習慣が今日まで残っている為だと思う。そこで俳優とはなんぞや――俳優がこの世の中にあるその意味を、もっと大きなところから考えてみなければならない。それが一つです。
もう一つその問題について考える準備として、いつたい[#「いつたい」はママ]芝居というものはどういうものであるかということです。その問題もまた今まで、芝居とは、或は演劇とは、という定義がいろいろ下されている。それらの定義が、やはり、芝居というのはこういうもの、演劇というのはこういうものであるという、その定義の下し方がやはり殆ど常に、それをただ単に他の芸術と区別するために作られた定義にすぎないのです。もう少しむずかしくいうと、美学的定義というものが非常に多い。例えば、美術ですが、絵とはこういうもの、彫刻とはこういうもので、或は音楽とはこういうものであるとして、それらの音楽とか美術とかに対立させて、演劇とはこういうものである、というのは美学的定義といえるのです。そういう定義に立って芝居というものを考えていると、おのずから、俳優というものについて考える時も、今と同じ言葉を使うと、つまり美学的な――俳優の仕事、或は演技というものの美学的地位、美学的な一つの目的というものしか考えられない。これがやはり私の考では非常に狭い。或は俳優の仕事というものを人間の立場から考えなくさせた大きな一つの原因だと思う。
そこで芝居、或は演劇とはなんぞやということを考える場合に、やはりこの社会に、或は人類の間に、演劇、芝居がどういう風にして、なぜ、生れて来たか、そこまで考えなければいけない。そうして、その芝居というもののなかで占めている俳優の位置というものを考えますと、そこに初めて俳優とはなんぞやという問題が、舞台とか或は劇場とかいう、そういう一つの限られた場所から飛躍して、全人類のなかに於て占めている一つの俳優の地位というものが明らかにされてくる。そういうことによって、俳優というものの尊厳な一つの意義が発見されます。
演劇史を少しよんだ人は知っている筈ですけれども、芝居がいったい古い社会にどうして起ったかということを考える時に、無論芝居の原始的な古い起りというものは実際にはわからない。いろいろな研究の結果ほぼ推定できる、想像がつくという程度のものですが、しかし、まず、今日まで残っているいろいろな記録だとか、或は学者の研究した資料というようなものを通じて、今日ではほぼ見当がついている。それは、結局人間が芝居といえるようなものを始めたのは、一つの人間の集団生活、――人間が集って生活をしているなかで、その集団生活には常につきものであるところのお祭、そのお祭の行事として行われたものだということが推定される。つまり芝居とお祭というものが切っても切れない関係にあるということです。しかも、このお祭というのはいうまでもなく、宗教的なものです。即ち、人間が神を祭るということは、その集団生活の幸福を祈る、安寧無事を感謝する、或はその集団生活のなかに恐るべき不幸が来ることを惧れて、そういう不幸が来ないように神に祈る、そういう極く原始的な人間の感情の現われなのです。
そういうお祭に行われた行事のなかに、この芝居というものの芽がふいている。それはどういう風にして芝居という形をとり出したかというと、神を祭る一つの集団、その集団のなかで、ある特定の人物が、――神と人間、つまり、民衆とその民衆が祭っている神との仲介者になる、そういう人物が、常に必要である。神と神を祭る人達の媒介をする人物です。これがお祭の一番根本的な形式です。神とその神を祭る人間の間に、その両者を結びつける一人の人間が選ばれる。即ち人間の祈りを神に伝え、神の思召を人間に伝える役です。そういう人間が選び出される。ですから、そういう人間は神の代りとなり、神様を自分が代表することになり、また同時に人間を代表することにもなる。つまり一人の人間が神と人間との二つの性格を自分の裡にかりに持つという特別な役目なのです。この役目が、その時代によって、或は民族によって、いろいろな形になっておりますが、この場合にはそれは聖職者である。つまり、日本の神道でいえば神主、キリスト教でいえば司祭である。その聖職者、つまり、神に仕え、同時に神の代弁者であるところの聖職者というものは、その仕事の関係、その仕事の性質上、自分は時としては神の心を心とすると同時に、人間の心を以てまた神に対している。これは一人の人間が、神と人間との二つの役を自分でもっているということになるのであって、この形がそもそも俳優というものの仕事を生み出す一番もとの形であると、今日では考えられている。
そのお祭の中で、神と人間との媒介をする人間というものはどういうことをしたかというと、一般民衆を代表して神に祈りを捧げ、神を祭ると同時に、一般民衆の方に向って神の言葉を伝える――そういうことをしたのです。それが初めは民衆のなかから何か知れない特別の力を持った人間がそういう風に選び出されて来るのですが、やがてそれが一定した職業になって来る。そうすると、ここにまた一層、今日いうところの俳優的な特色というものがましてきます。俳優的な特色というものがどういう風にして増して来るかというと、その聖職者は、ただ単に神の言葉を伝えるだけでなくて、それが如何にも神の言葉であるかの如く、その人間は如何にも神そのものであるかの如き印象を一般の民衆に与えることが非常に大事であります。それが一つです。
もう一つは、殆どどの宗教もそうでありますけれども、神の傍には悪魔がいる。ある時は悪魔の危害から脱れる為に神に祈る、或はまたある時は、神の怒りにふれて悪魔の手に委ねられる、という運命に一般の人間はあるものと信じられていた。そこで、その神に仕える所の聖職者は、ただ単に神の姿を一般民衆に髣髴として見せ、神の言葉を恰もそれが真実の神の言葉であるような印象をもって伝えるばかりでなくて、一方に於て、その神と対立する所の悪魔の姿をも一般民衆にまざまざと伝える必要があったのです。そこで、その聖職者は、一人でもって、時としては一般の民衆を代表する人間の姿となり、時には一般民衆に絶大な力をふるう神そのものとなり、また時にはその神と対立する所の悪魔の姿をさえも借りることがあった。その聖職者は、人間であると同時にまた神であり、悪魔であるという一人三役を演じることになる。
これはさっき聖職者の職業的な必要からということを云いましたけれども、しかし一方こういうことがまた云える。職業的なという言葉を余り現代風に解釈してはいけません。即ちその聖職者が自ら神の名に於て一般民衆に接するということはどういうことかというと、それは決して今日いう所のいわゆる職業的必要からではなくて、それはまた同時に人類が本能として持っている自己の理想化ということの一つの現われなのです。自分に理想的な姿を与える、自分を理想的な姿に於て空想する、――寧ろ幻想するという言葉を使いたい――そういう一つの夢を抱いている、そういうものを自分の頭の中に描き出す、という、そういう人間の本能です。そういうことを実際にして見せる、自分でいろいろな欠点を持ち、いろいろな弱点を持っている人間、その人間がいわゆる完璧な神の姿として現われるということは、これは人間の一つの夢であります。そういう夢を悉くの人間は本能的に持っているものなのである。その夢を実際ある瞬間にでも実現することができる人間というものは、非常に選ばれた人間であった。そういう選ばれた人間が神と人間との媒介をなし得るのです。従って聖職者は、そういう人間の夢を豊富にもっていて、その夢を普通の人間にはでき得ない所まで実現し得る才能を持った人間であったのです。
そこで次第に原始民族のお祭という形式が、複雑になり、進んでくると、お祭のなかに於ける芝居の最初の芽が段々伸び育って、お祭が複雑になると同様にその芝居というものも複雑になってくる。そうしてそこに、原始演劇というものの形がはっきり現われて来るのです。
その原始演劇というものの形はどういうものかというと、唯一人の聖職者が一般の民衆に代って神に祈り、また自ら神の代理として民衆に接し、また時として悪魔の声をさえも、民衆にきかせるだけのことでなくなってきて、そこで、もっと複雑な仕組みが生れてくる。聖職者のいろいろな空想が、ある仕組みによって一般民衆に示されるということになる。
ここで、簡単な例を挙げると、最初はこの聖職者は神に代って民衆に一つの神の言葉を伝えていた。ところがその神の言葉を更に註釈し、敷衍し、そして、それらに対してもっと現実的な効果をあげる為に、ここに一つの物語を仕組む。その物語を最も直接に民衆の目、耳に訴える為に、最初に自分が神の言葉を語り、悪魔の声を放っていたのが、それぞれここに、神に扮する人間を作り、悪魔に扮する人間を作り、神と悪魔とのいろいろな力に支配されている所の人間或は人間群というものをそこに作り出し、そうして一人一人の人間にそういう役をあてがって、そこに一つのスペクタルを作ってみせる。その場合、聖職者はその演出家であったのです。時としてはまた、そのなかのある役に聖職者自身も扮していた。この原始演劇の形は、勿論極く漠然とした記録によって、それを想像するのですけれども、しかし、これはややはっきりした形で残されているギリシア演劇の初期のものによって、そういう所から演劇が起って来たということがほぼ想像される。これは今日でも、例えば、日本の演劇の起原を考えてみる場合に、外国劇、支那劇、と或は南洋諸島の原始演劇というようなものの影響が考えられると同時に、日本の田舎などに今日民俗芸術として残っている演劇形態、というものが有力な手がかりとなるのですが、そういう演劇の形からも、やはり同じようなことが推論されるのです。
そこで、今話したような原始演劇、演劇の起りというものを尋ねて見て、芝居とはどういうものであったかということについて、先ず一つのはっきりした結論が生れる。つまり芝居とは人間の集団生活に於て、その集団の一つの共通な心が求めている幸福の祈願であります。人類の一つの集団が集団の心として求めている生活の歓喜であります。それが昔はその集団のお祭という形で起り、そしてそれが、次第に時代が進むに従って、その集団の共通の娯楽という形になってきている。集団がそれによって共に娯しむという、娯楽という形になってきている。共に娯しむ娯楽というところに演劇の一番本質的な意味があったのです。今日からみると、芝居が好きだとか好きでないとか、そこへ行くとか行かないとかいうことは、銘々の個人の趣味といえるのですが、これが常態となったのは極く近代のことで、一つの集団全体が演劇を作り出し、その演劇を楽しみ、その演劇によってその集団の幸福感というものを満足させるということは、また、一人の例外もなく参加することによって行われたということは、非常に重要なこととして考えなければならない。集団生活の幸福感というものが、その行事たるお祭によって象徴されるというのは、つまりそこなのです。
そもそも芝居というものが元来そういうものであるとすると、その芝居をする本体というのは、俳優であって、俳優はお祭の聖職者なのです。これを別の言葉でいうと、俳優は、すべての人間に代って最も近く神のそばにあり、それと同時に最も近く悪魔の位置にあるものなのである。この、神に最も近づき、また時とすると、自分で悪魔の声を放つということは、これは人間はすべて誰でも例外なく本能として持っている一つの傾向なのです。いい換えると、俳優とはすべての人間が本能的に夢想している一つの行動を身を以て行ってみせ、それが現実の仮感に訴える、そういう職業なのです。
この定義めいたものは、俳優芸術というもののごく根元的な純粋な形を先ずここに引っ張り出して、それに与えた定義なのですが、しかし、そういう精神が次第に失われつつあるということが一方にある。その失われつつあるということは、今日の俳優というものに対する一般の認識が非常に誤ってきた原因であります。いずれその問題に付いては最後に話しますけれども、俳優の理想というものは俳優の本来の姿を取戻さなければいけない。現在おかれているところの、現在あるがままの俳優の姿というものは非常に歪められた、また一方からいうと、非常に変質的になっているものなのです。これに注意しておきます。
さっき現実の仮感という言葉を使いましたけれども、この仮感という言葉はこういうことです。わかり易い例をあげますと、最も単純な芸術の形態で最近発達したものにラジオがあります。ラジオでは一つの物語なり、或はラジオ・ドラマなどをきかせますが、ラジオは元来声だけできくものである。音響だけを頼りに一つの現実にふれる訳です。それ故、一面からいえば、ラジオ・ドラマというものは、音の効果、或は声の効果というものだけを使って、そこに一つのものが仕組まれたように考えられている。しかし実際はそうではない。もし単にそういうものであれば、ラジオ・ドラマというものは非常に単調で味いの浅いものになります。むしろ、それ位ならば純粋の音楽をきいている方がいいようなものです。ところが、ラジオ・ドラマというもの、つまり人間が肉声によって一つの物語を伝えるということは、必ずしも耳だけに訴える感覚ではなくて、同時に人間のあらゆる他の感覚、殊にラジオで一番縁の遠いように思われる眼の仮感というものに訴える要素が十分なければならないのです。つまり、声をききながら、ものを見ているような視覚、眼の仮感に訴えることが第一番です。ある女の人の声をきく。ラジオですからその女の人は勿論なんにも見えない。しかし、その女の人の唇の動き、その唇の間から見える歯のならび、その女の人の息づかいから感じられる鼻の微妙な動き、声の調子から考えられるその人の眼つき、そういうものが仮感として、聴いているものの脳裡に浮び出て来なければいけない。そういうようにラジオ・ドラマというものは書かれているし、また語らなければいけないのです。だから耳に訴える要素だけで以てラジオ・ドラマが出来ているという単純な考え方は、この芸術の仮感というものの重要さに気がつかない結果だといえます。
そこで俳優芸術に於ける現実の仮感ということをいいましたが、舞台に於て演じているところの俳優の演技は、これは現実に於て生活している一人の人間の動きなり、言葉なりというものではない。しかし、恰もそれであるかの如き感じ、そういうものが同時に芝居をみるものの心の中に湧かなければいけない。見ているものの精神の中にそういう状態が惹起されなければいけない。俳優の演技がそういう状態を惹起する力を持っているのは、つまり、俳優の演技の中には現実の仮感というものがあるからです。これを略して現実感ということをいいますが、文学などでいう現実感――リアリティというものとちょっと違いがある。現実感によって呼び起されたところの印象ということが云い得ると思うが、現実感そのものではない。しかしまた、これはまるで本当のようだということとも違う。俳優の演技というものは実際の現実の生活のなかの本当のことと全然違わなければいけない。現実の生活に本当にあることは、これは芸術でない。俳優の演技というものはそういうものを更に芸術化したものでなければならない。その芸術化するということによって、この仮感が生れて来る訳です。それはまた恰も現実の如しという感じとは違う。恰も現実の如しということでは満足はできない。それならば現実をみればいい。現実に於ても見られない、舞台の上で俳優によって演じられている、その演技によって初めて受けるところの感銘、そういうものが即ち芸術なのです。例えば、舞台に於て泣く、本当に泣いているということは別に巧いということではない。それは物真似です。これも俳優の才能というところで、物真似と俳優の演技の違うところを話そうと思います。実際はあんな風に泣くことはない。実際泣いているように見えるよりもっと泣いているということを見物の眼と耳に沁み込ませるものが俳優の演技です。本当に泣いているように泣いているというのでは、これは俳優ではない。
そこで、この俳優とはなんぞやということについて、現在に於ける一般の状態からして俳優とはこういうものだという風に考えることは、別段今日重要なことだとは私は思わない。むしろ元来こうあるべきものであるということこそ、俳優とはなんぞやという問題に最もよく答え得ることなので、その点を忘れた所謂俳優とはなんぞやという問題への回答は殆どなんら価値はない。少くとも私の話を通じて、その原則を頭においていただきたい。そうして初めて、現在の演劇の問題、現在の俳優の問題にふれて行くことができ、そこに初めてみなさんの立派な態度というものが生れてくるわけです。
2 俳優の天職
次は俳優の天職という問題です。
先程いいましたように、俳優というのはもともと人類のお祭というものを司る一つの神聖な職業であったのです。最初の精神はそういうものでありましたが、次第に社会の移り変り、人間の所謂智慧の発達というようなことにつれて、世の中の仕事がいろいろ複雑化して、そこに分業が行われるようになって、俳優が所謂神を祭る仕事と段々に分れてきた。つまり神主とか司祭とか或は僧侶とかいうものと離れて、俳優というものが分業になって来たわけです。
分業になると、そこから俳優がかつては神を祭る職業であったということが段々忘れられて来て、反動としてもっとも人間的な姿として俳優が神の祭壇から遠ざかったのです。その神の祭壇から遠ざかるということはいわゆる信仰を失うということではなくて、つまり職業として宗教に対立する立場に立った。最初は神を祭る場合に、そこの行事として行われた演劇というものが、結局宗教から排撃される、宗教そのものから非難される、つまり宗教の敵であるかの如く見做された時代が、過去の歴史に於て屡々あります。ヨーロッパでは十六世紀にそういう傾向が始っている。一方に於て十六世紀には寺院を劇場として芝居が演じられたことがあるのに、それとさほど隔っていない時代に、寺院から全く演劇が排斥されたことが事実あります。日本の芝居の歴史を考えて見てもやはりそうなので、所謂出雲の於国が神社の巫女であって、しかも、その神社の祭礼の行事として、京都で日本最初といわれる歌舞伎を――今日とまるで形は違いますけれども――やった。そこには神社との密接な関係があったのでありますが、次第に徳川時代になって、歌舞伎芝居というものが全くそういう宗教とは縁のないものになってきた。そういう時代は芝居というものについて全くその本来の姿というものが忘れられている時代だったと私は思う。
これを新しい言葉で、新しい時代にあてはめて、芝居というものを考えてみると、今日一般の人達が芸術に求めているものは、恰も原始民族が宗教に求めているものと非常に相通ずるところがある。今日一般の信仰が衰えて芸術が神に変ったということはいい得ないが、古代に於ける宗教というものの精神と近代に於ける芸術というものの精神とは相通ずるものがある。近代に於ける芸術理論というものから、古代の人が宗教的祭典のなかに求めていた一つの集団としての喜び、悦楽、そういうものが今日どういう形で残っているかということを考えますと、古代の祭典のなかに生れた芸術というものが、今日その形を段々変えておりますが、芸術の精神ということに就いては少しも変っていない。そこで、嘗て古代の民族が神に祈った如く、今日の人間は心の中に秘めた一つの祈願というものを何によって満たしているか。勿論、お寺詣りをする人、或は教会に通う人といろいろあるでしょうが、しかし古代に於てはみられなかった「芸術」というものを自分の生活の一つのよりどころとする、云いかえると、精神的な慰安、精神的な糧とすることは、丁度古代の民族が神に祈って自分の心を慰め、自分の心に何か力を与えられようとしたことと実にその状態が一致しています。
今日では、この芸術の形態がまた昔と違ってきて、個人個人でその芸術を鑑賞し、娯しむという、そういう芸術の形態が非常に発達しました。例えば、文学でも一人で以て本を読むということが先ず普通です。音楽でも例えばレコードをかけるとか或はラジオであるとか、どうかすると自分の部屋で自分だけで娯しむということが、芸術を楽しむ娯しみ方に今日ではなっております。そういう芸術の形が現在は発達しておりますけれども、しかし、これは近代に於てそういう形に発達したのであって、元来文学でさえも、昔は大勢が同時に娯しむという形で発表されていた。つまり、物語の作者は大勢の聴き手を前にしてその物語を自分で語った。詩人は自分の作った詩を大勢の聴き手の前で朗誦した。場合によっては音楽の伴奏をつけることもある。美術なども同様です。昔は個人の住宅の室内を飾る美術品も勿論皆無ではありませんけれども、多くは公衆の寄り集る所、或は公衆の眼にふれる場所を装飾する為の美術品というものが第一位を占めていた。ところが次第に美術というものは、建築を除いて、多くは個人的にそれを娯しむということに今日ではなってきました。
ところが、演劇だけはあくまでも集団としてこれを鑑賞する形のまま残されている。勿論ギリシアとかローマとかいう時代の劇場と近代の劇場とは、その収容人員とか劇場の構造という点では非常に違ってきた。昔は非常に解放的であったのが、今日ではどちらかというと閉鎖的になってきた。別の言葉で云うと、昔は露天でいわゆる屋外的趣を持った一つの集合場所であったが、今日では一つの屋根のある建物のなかで、どちらかといえば室内的なものには変って来ましたけれども、ともかくも集団として娯しむ芸術として、殆ど唯一の名残を止めているのが演劇であります。従って今日の演劇は他の芸術に比べて、集団で鑑賞する、或は逆にいえば、多くの人々を同時に娯しませる、多くの人々に同時に訴える特殊な芸術として、もっとも昔のままの姿を完全に伝えている芸術だといえる。そうしてこれが演劇の恐らく根本的に他の芸術と違うところである。
従ってその芸術をいとなむというその仕事の中で、俳優はやはり観衆という集団を相手としている。恰も原始民族が一つの群衆となって神を祭った如く、今日の観衆は舞台という祭壇を通じて芸術の神、ミューズの声をきこうと願っている。そのミューズの声を昔の聖職者の如く民衆に伝えるのが即ち俳優なのであります。それと同時に俳優は今日もなお、一つの劇場に集るところの大衆の、人間としての本能、即ち先程もいいましたようにいろいろな意味に於ける近代人の夢を、俳優の演技というものを通して初めて現実の仮感として自分の身に感じることが出来るのであります。いいかえると、俳優はそこにいる大衆のすべての一人一人に代って、それらの大衆の夢を育てている魔法使です。
そこで、人間というものを先ず考えなければならない。人間の夢と私はいいましたけれども、人間の夢というものは実に厄介なものである。非常に美しい夢もあるけれども、しかし、美しいばかりが夢ではない。人間は複雑である。その人間が複雑であるほど夢も複雑なのであります。人間は神に近づこうということばかりを夢想しているのではない。人間は自分にいろいろな弱点をもっている。そして、そのいろいろな自分の弱点を、ある時は否定し、ある時は肯定し、ある時はそれを抑圧するけれども、ある時はそれを利用する。人間は様々の欲望を様々な形でとげようと望んでいる一つの動物なのです。そこで人間というものを必要以上に美しく考えることはない。人間の本来の姿は美しくもあり醜くもある。非常に神々しくもあり、非常に悪魔の如くでもある。また同時に優しい所もあり、虫けらの如くきたない所もあるのです。そういう複雑な姿をもった人間の夢はなんでありましょうか。これは必ずしも美しい夢ばかりではない。神聖な高い夢ばかりを描いているのではない。そこで、俳優が自分の仕事を真面目に考える時に、よくそれを分析してみる必要がある。例えば、ここでもし人間の夢というものが非常に美しい神々しいものであるならば、俳優は決して舞台の上で悪魔の役をしたくはないし、また人間の夢が非常に贅沢なものであるならば、俳優は舞台の上で一つの苦痛なり悲しみなりの表現というものをするのを決して楽しいと思わない。しかし、人間の夢というものは、今云ったように、複雑なのであります。そこで人間は、自分が悪人であったら、或は自分が非常に大きな苦痛を味ったらと、そういうことを空想することの快感というものを持っている。何故そうであるのかというと、それは結局自分は現実の生活に於てそうでありえないという決定的な事実に基づいている。現実の生活ではそうありえないということを、ただ空想の世界に於てだけそうありうることが、人間の夢なのです。そこが楽しいのです。一つの道徳論としては、勿論そういう人間の夢を批判する余地はあります。そういう夢を抱くことが果して正しいかとか、果して人間としてけだかいことであるかとか、そういうことの批判はあります。しかし、事実として人間の赤裸々な姿を考えた場合には、人間の一面にそういうことがあることは決して忘れてはいけない。つまり人間は神の心を宿し、同時に悪魔の心を宿し得る。神であると同時に悪魔である。神であると同時にということはいい過ぎかも知れませんが、神の一面をもっていると同時に悪魔の一面をも持っている。そこに人間の面白さがある。そういう面白さというものがつまり芸術を生み出すのです。
芸術はある意味で人間の研究である。人間研究のメスはその人間の二つの面に容赦なく加えられなければならない。容赦なく加えることで初めて人間研究はできる。
そこでもう一度前にかえりますが、俳優の天職というのは、そういう人間の姿を普通の人間が現実の生活に於てはいろいろな事情、いろいろな条件でそれを現わすことが出来ない、満足させることが出来ない、そういう人間の羨望をいろいろな機会にいろいろな形で俳優は身を以て舞台の上でそれを示す。それを示すということが、結局どういうことになるかというと、一般の人間の渇望をいやすということです。即ち、一般の人間がそれによって自分の心に一つの楽しさを与えられ、自分の心を豊かにする、その糧となるということです。どの人間も、人間研究というものをそんなに十分にやっているものではない。自分が人間でありながら、一番わからないのが人間の姿であります。その人間の姿をいろいろな形で示すことが、それらの一般の人に心の糧を与えてやることになる。俳優はそういう意味での糧を一般の人に与えなければならない。
こう考えてくると、俳優の天職というものは他の社会の何れの職業にも似ていない。同じ芸術の畑の中でも、他の芸術家とはまた非常に違ったところがあります。どこがいちばん違っているかというと、それはいうまでもなく、自分の肉体そのものを表現の具とすることです。唯一つ舞踊というものがこれに似ている。舞踊と演劇との違いはまたいずれいいます。この自分の肉体を以て表現するということで以て、次の問題になる俳優の素質ということになるのですが、しかし俳優の天職という問題でもう少しいいたいことがあります。
これまでのところで、表面から見た俳優の天職ということは大体わかったと思います。これを今度は裏から見る。俳優の天職を裏から見るということはどんなことかというと、今日一般世間の人が俳優の仕事を考える場合になんとなく真面目に取りあげないようなところがある、世間の通念は俳優の仕事というものをほんとうに真面目なものとしてみていないようです。その偏見はどういう所から来たか、その偏見をどういう風に是正しなければならないか、という問題が残っております。
諸君は一般世間が俳優というものをどんな風に見ているかということについて、或ははっきりした知識がおありにならないかもしれない。何故かというと、諸君は非常に若い。そうして現代では俳優というものの世間の見方がいくらか変って来ております。かつてはなかったような、俳優に対する一つの正しい見方というものも相当拡まっている。それで、諸君は或はそういう見方のなかで育ち、そういう見方のなかで仕事をしている結果、世間の底流をなしている部分に、まだ俳優の職業に対する誤った観念が厳然と残っているということを気づかれないかも知れない。はっきりいいますと、これは日本ばかりではありませんが、俳優の仕事そのものを、余り尊敬すべき仕事でないと考えるような一つの偏見が先ずある。もう一つは俳優になっている人、即ち俳優自身についても、その日常の生活や社会人としての行動や、職業意識の現れなどから、これを普通の人間として尊敬できないものであるかのような考え方をするものがないでもない。みなさんは、俳優を志望するに当って周囲の眼がなにを語っていたか、思い起すことができるでしょう。おそらく、それは複雑なものであったろうと思います。
俳優の仕事自体に対する偏見、俳優を人間として見ての偏見、その二つを今あげましたが、それを一つ一つ分けて申します。俳優の仕事が尊敬すべき仕事ではないというような考え方は一体どういう風にして起って来たか。この前お話をしましたように、俳優とはなんぞや、俳優の天職とは何か、それがはっきりわかれば、俳優の仕事は十分尊敬すべき仕事であり、また俳優は人間として、ほかの仕事に携っている人間と少しも変ったところはないのだということがわかるのですが、それにも拘らず、前に云ったような偏見が世間にあるのはどういうわけかというと、先ず第一に、俳優芸術というものに対する理解がないからです。
俳優は公衆の前で自分以外の他の人物に自分を擬する。これは考えようによっては、身分本来の姿を隠して、自分と全く異った別の人間の振りをすることだ。この考えを押しすすめて行くと、己れを偽って、そうして全く自分とは関係のない他の人間であるかの如く人に信ぜしめるということです。こういう風にいうと、問題が面倒になります。人間は自分というものを偽ってはならぬ、自分というものをちゃんと、ありのままに、示すことが、普通一般に立派なことと考えられております。ところが俳優というものは、自分をそのまま人に見せない、人の眼をだますことを商売にしている、うまくだませばだますほど人がよろこぶと心得ている、これはどうしても普通の道徳と相反する行為をしているのである。こういう風に俳優の芸術というものをみれば、おのずから偏見が生じるわけです。
世間一般は必ずしもそういう風に理屈はつけていない。理屈はつけてはいませんが、なんとなく俳優の仕事を見る場合に、こういう見方もできるものらしい。これでは彼等としても俳優の仕事を尊敬することはできません。それではそういうことを理屈としてちゃんといった人がいるかというと、これはなくはない。それで最も有名なのはフランスのジャン・ジャック・ルソーという人です。ルソーは御承知だろうと思うけれども、いわゆる近代思想の一方の代表者で、文学の上でいわゆる自然主義の開拓者の一人です。つまり、人間は自然にかえらなければいけない、人間のいろいろな粉飾というものを去って自然にかえらなければいけない、一口にいうとそんな倫理を説いた人ですが、そういう人であればこそ、芝居というものがそもそも面白くなかったのでしょう。殊に俳優の業というものは一人の人間を最も自然の姿から遠ざけ、いろいろな粉飾を施すことによって自己を没却してしまうもののように見たのです。これはルソーの倫理学からいえば、一つの邪悪である。ルソーはそういう風に一つの哲学的立場から俳優の仕事というものを非難し、軽侮している。この考え方はいわゆるルソー流の考え方で、世間一般はこれほどはっきりした思想の上に立っていませんが、理屈をつければそういう理屈になりうるような、そういう感情が一般にあることを、先ずみなさんは知っておいていいと思います。またそういうことを薄々感じていられる方もあると思います。しかし、俳優の芸をこういう風にみることは、即ち演劇というものを否定することになります。これはルソー以来今日まで、ヨーロッパ諸国のなかでも、必ずしも跡を絶った思想ではない。社会一般が感情的に俳優の仕事をそんなに尊敬しないばかりでなく、ルソーのようなはっきりした考え方を持っているものがまだいます。
日本ではどうかというと、これは御承知と思いますが、「河原者」という言葉がある。「河原乞食」ともいいます。これは元来歌舞伎劇というものの成立を調べれば直ぐわかるのです。例えば、於国という出雲神社の巫女が、平生は神社の巫女として神聖な歌舞を業としていたのですが、彼女は自分の芸を一般大衆の娯楽にまで押進めようとしたのです。そこで、京都に出て、三条河原に小屋掛けの舞台を作って、そこで極く原始的な楽劇をやって見せた。この河原というのは当時の都市に於る唯一の広場です。そこで、おそらく、他の都市に於ても、この種の興行物は河原を選んで行われたろうと想像されます。ともかく、この歌舞伎の小屋が河原にたてられ、俳優はこの小屋で起居したというところから、一定の住居もなく、芸と媚を売って諸国を転々とする男女、即ち「河原者」という名がつけられたのです。
近代の演劇史を通じてみて、俳優の社会的地位の低かったことは争えない事実ですが、そこから、世間の軽蔑も生れているのです。「河原者」などという名はもとはそういう所から起ったのでありますが、しかし、歌舞伎が非常に発達し、劇場としての経済的基礎も出来、演劇そのものが社会の上層まで趣味として入り込んだそういう時代でも、やはり芝居小屋は所謂「悪所」のひとつと見做され、芝居をする人間即ち俳優を、世間は蔭で「河原者」とよんで、何か素性のいやしい人間のように見ていたということは、これはそもそも何に原因するのでしょうか。
封建時代のそういう考え方は、どうして次第に改められなかったか。その原因はやはり俳優自身の社会的存在がまだ十分一般に認められない、つまり社会的地位が十分に出来なかったということに帰する。何故そうであるか、何故そういう風に俳優の社会的地位は出来なかったか。非常に大勢の人を娯しませ、場合によっては大勢の人を感動させ、芝居を見に行くということがかなり高尚な娯楽となり、趣味となった時代でさえも、なおどうして俳優の社会的地位が向上しなかったか。それはつまりこういうことだと思います。
大衆は自分たちを感覚的に娯しませてくれる人間を精神的に尊敬しないものだということです。芝居というものが感覚のよろこびに終るものである限り、俳優はその人格の力を観衆の上に及ぼすことはできません。日本の芝居の場合は、俳優の肉体の魅力と感覚的なものだけに頼る、ごく狭い傾向が、今日まで俳優をほんとうの芸術家として、その受けるべき当然の尊敬を受けられないようにした原因です。
こういう説明のなかから、直ぐみなさんはその考の誤っていることに気がつかれるだろうと思います。これは社会の通念――世の中一般の人間のものの考え方というものが、如何に浅薄で、同時にものの真髄をきわめていないかということの証拠にもなる。そこで先ず俳優の仕事が尊敬するに足らない、従って俳優の仕事というものは一つの偽りの仕事であるという、こういう考え方に対して、それではどういう正しい考え方があるかということを申します。
俳優の仕事に対するそんな考え方は、俳優だけの場合を考えますと、如何にも俳優に対して不公平であるように考えられましょう。それはその通りで、一般に芸術論というものの幼稚な発達しない時代に於ては、ただに俳優ばかりでなく、すべて芸術家というものに対して元来社会はそんな見方をしていたのです。ただ、多くの他の芸術家は一般の公衆の前に姿をさらしていない。その作品を通じて公衆に接している。例えば、物語の作者、今日でいう小説家、或は画家、建築家、音楽の作曲家、そういう芸術の製作者達は自分の作品を通じてのみ一般公衆に見えているので、自分の姿をみせていない。これが一つの逃げ道であって、その仕事それ自体に対する社会一般の誤った通念の矢面に立たないですんだ理由です。ところが、俳優、舞踊家、音楽の演奏家、こういう人々は総て自分の姿を公衆の前に出す。それで、俳優ほどではありませんが、舞踊家が踊りをする、音楽家が演奏をするということは、一般世間からそのものが本当に価するだけの尊敬をうけていなかった。小説の作者、或は画家というようなものも、その作品自体で一般の人達を感動させた場合には、その仕事そのものは世間の人達の讃嘆の的になるのですけれども、しかしそれにしても非常に優れた傑作のみが一般世人の讃嘆の的になるのであって、小説を書く仕事、或は音楽の作曲をする仕事、殊にまた舞踊の振付をする仕事自体に対して、世間はなんら理解はなかった。小説の作者、物語の作者というものは、やはり社会の一般水準からいいますと、決して高い地位はえてなかったのです。
しかし、今いったように、俳優の場合、そういう一般の芸術家に対する考え方のなかにあって、特に自分の姿を公衆の前にさらすということがあり、而も自分の姿のままでなくて、それを偽って見せると世間は思っております。偽って、だまして、自分以外の姿として、それを人に見せている。それは今いったように芸術論というものの幼稚な時代の一つの一般的な考え方であるが、それならば今日はどうか。今日でも尚且つ一般世間は芸術に対して、それ相当な尊敬を決して与えておりません。これも俳優芸術に限りません。一般の芸術に対して、世間は芸術家が望み、或は芸術を愛するものが望んでいるような尊敬の仕方はしていない。それを土台として頭において戴きたい。もう一つは俳優の芸術、即ち演技というものが、肉体を働かせることによって生ずる一つの感覚芸術であるという誤解です。少くとも肉体のみによって成立つ芸術だと思っている一つの誤解、これを先ず改めさせなければいけない。これも少し考えてみればなんでもないことで、誤解であることは直ぐわかるのですが、しかし、それがやはり一つの誤解となっている。もう一つは肉体というものが精神と比べていやしい或はけがれたものであるという、一つの非常に素朴な宗教的なとも云える考え――これも亦俳優芸術というものをはっきり権威づけ価値づけるために、十分改めさせなければならぬ観念であります。将来、俳優芸術を守り育て、それを社会一般に正当に認識させる為には、この三つの点を十分是正する必要があると思う。
第一に、俳優の仕事は、決して偽りの仕事、或は人をだます仕事ではないということです。そういう考えは先ずどういう風に是正したらいいか。これは相当世間に深く入り込んでいて、なかなか一朝一夕で改められるものではないと思うが、しかし、結局は舞台の上で俳優が演じるその演技というものの真実性――演技があくまで真実を伝えるものであるという、その仕事の意味をはっきり徹底させることが必要です。俳優の演技は他の芸術と全く同じように真実が最も大事なものである。真実を伝えるために俳優の演技というものがあるのです。これは他の芸術と全く同じである。
その真実を伝えるということが俳優の演技のなかに本当にみられることによって、先ずそれは是正しなければならない。つまり俳優が自分というものを離れた別の人間になっているという嘘――それを普通に嘘といえば――そういう嘘を全くのりこえたところに真の生命がある。これはやはり他の芸術の場合には、それが素直に一般の人の感情に伝えられるのですが、俳優の場合はそこに俳優自身の肉体というものが眼の前にあるだけに、そういう俳優の芸術にも共通である真実性が往々人にわからないですまされる。
もう一つは俳優がその真実性というものを本当に掴んでいない。そういうものを本当に舞台の上で見物に示すという芸術家的な信念、情熱がない場合には、これは全くその世間の偏見を正すことはできない。俳優はなるほど一般公衆の前に自分の肉体を示すが、しかし、それと同時に、俳優は俳優の全精神を、魂を、舞台の上に立派に表現している。その点をしっかり俳優自身が自覚していなければならない。そうして仮令他の芸術家が作品を通してその芸術家の精神のみを伝えているにせよ、肉体というものは精神にくらべて、特に卑しい、或は汚れているものだということは絶対にない。もっとも、この芸術論の立場に対しては、或はそれに反対した立場というものも考えられましょう。しかし、それと反対の立場というものは、これは結局演劇芸術を認めない立場になる。演劇芸術そのものを否定する立場は、これはここで論外としなければならない。しかし、演劇芸術に携わるもの、または演劇芸術を芸術の立派な部門と考えるものは、肉体と精神の関係に於て、肉体は精神の下位にあるという観念を全く一掃しなければならない。これが非常に重要なことだと思う。ただ、ここにかりに一人の俳優が、自分の肉体の技術的訓練、肉体の感覚的魅力というものに絶対的な価値をおいて、精神の美しさ、精神の気高さ、精神の力強さというものを全く顧みないとすれば、これは世間の俳優に対する一種の偏見を益々助長させることになる。自分自身でそれを証明することになる。ところが、そういう世間の偏見というものは、実は俳優のなかに俳優自身がそういう偏見を持っていた所にも大きな原因があるということも忘れてはならない。それと同時に演劇芸術の魅力は、一方、精神に訴える真実と美の世界に重点がおかれていなければならないことを、俳優自身が十分に認識してこそ、はじめて、俳優の演技に、真の意味に於ける気高さ、深さ、重みというものがついて来るのです。
俳優の仕事に対する偏見の原因もこれで一通りわかり、またその原因に対してどういう態度を取らなければならないかということもこれで一通りわかったと思いますが、その次には人としての俳優をどうみるべきか、という問題、これはここで私が話をする俳優倫理というものの愈々倫理らしい所になって来るのです。
先ず俳優の仕事の特殊性から来る問題があります。俳優芸術というものの性質上、先程申しましたように、俳優が俳優として一般公衆に見える時には、自分というものの姿ではなくして、自分以外の或るものの姿で一般に見えるということがまず普通です。そうすると、今度は逆に、俳優が自分自身の姿で一般の人に見える時はどうであるか。これが先ず人としての俳優を考える場合の一番大事な所です。俳優が素顔でいる。この「素顔で」ということをよく云う。舞台の扮装をしない、舞台の役を通じないで、何某という俳優が普段の儘の姿で人に接し、世間に向う時、その俳優は一体どういう態度で人に接しているか、或は俳優は平生自分の生活の中ではどういう気持で生活をしているだろうかということを考えてみます。
いくら俳優でも、舞台以外では、普通の人間とちっとも変ったところはないでありましょうか? 変ったところがあってはいけない、如何なる場合でも俳優であるという意識を失わない、それがやはり立派な俳優である、という一つの説。俳優でも、人に接する時には所謂俳優であるという意識を捨てて、全く一個の人間として人に接すべきであるという説。
この二つの説がありますが、実際その何れかをみな実行しているわけです。私も日本の有名な俳優を幾人か知っております、西洋の有名な俳優に幾人か接したこともあります。なかには比較的親しく、その人の日常生活も知り、また平生ひとを引見する時の態度を観察したことのある人もあります。大きく分けて、やはり今云ったように、所謂俳優としての意識を絶えずもって人に接している人と、俳優であるという意識を全くもたないで、少くとも脱ぎ捨てているかの如き態度で人に接している人と、大体二通りに分けることができる。
それは一体どっちがいいのか。この議論は寧ろ諸君に私の方から聴きたいくらいですが、これは一概にどっちがいいとは云えないと思います。何故かというと、その二種類の俳優に会った印象から云えば、そのいずれにもいい所がある。絶えず俳優らしく、俳優としての意識をもち、平生も恰も芝居をして居るかの如き心懸けを以て人に接しているのを見れば、確にその人が本当に優れた俳優なら、ある意味では立派であります。恰もいい役者がいい芝居をしているのを楽しむように、その俳優に会っている間は、相手の人間は楽しい。現にそういう印象を味ったことが度々私はある。ところが一歩退いて考えて見ますと、そういう態度で人に接している俳優が一旦俳優であることの必要が少しもないような場合、果してそれを押し通して不都合はないか。普段その人を俳優として見る時ならば、非常に魅力のあるその人の態度なり、応待の仕振りなり、或は生活の仕方なりが逆に不愉快なものになった経験を私は持っている。さっき云ったジャン・ジャック・ルソーの如き思想が生れるのは、実は俳優というものは多少いつでも「お芝居」をしているものだという、そういう基礎観念に基いているのです。俳優というものは、人に会っても、どこかにその舞台の上である役を演じているような、そういう意識があるものだ、こういう基礎観念があるからこそ、俳優というものはどこか信用ができぬ、油断がならぬという考え方が生れるわけです。
しかし果してそれが俳優全体であるかというと、決してそうでないということも、私は一方で証明できます。一方にどういう人がいるかというと、舞台の上では立派な役者が、平生は殆ど役者であるということがわからないような生活、態度で、役者であるという意識が殆どないような風に見える。実際は、その人の役者であるという意識は、元来そういう現れ方をするのかも知れませんが、しかし少くとも俳優であるということを鼻の先きにぶらさげていない。それならば、そういう人は舞台の上だけで魅力があり、平生の自分に還った場合には、平凡な、誰の注意もひかない、或は場合によっては非常に見窄しい一人の人間になってしまうのかというと、これは決してそうじゃない。優れた俳優は、平生俳優という意識から全く離れて、普通の人間として生活し、人に接している時でも、その人間のおのずから持っている一つの魅力によって、恰も舞台の上でその役者が或る役に扮している時と全く同じような魅力を人に感じさせるものです。これが役者の特色であります。つまり俳優が自分自身の役を立派に演じていると云えるわけですが、そういうことは、何かまだそこに嘘がありはしないかという疑問が起りそうです。しかし、その言葉をどう細かく分析して見ても、それは嘘にはなりません。自分の役というものは唯一つしかない。その役を立派に演ずるということも唯一つしか演じ方はない。普通の人間――われわれ俳優でないものは、自分以外のものにはなれないと同時に、自分というものをそれほど研究していませんから、自分が人にどう見えるかということはそんなに気にしません。勿論、普段工夫を積んでもいない。気取りというものはないことはないけれども、自分の存在が相手に快感を与えるということを必ずしも義務とも誇りともしていない。女の人はこの意味から云うと、いくらかは誰でも俳優であります。それでも普通の人は、自分の人間的魅力というものに対して、そう自信はない。美しいと誰からでも云われる人がややそういう自信をもっていて、それが時によると、人を反撥させることにもなるのでありますが、俳優はいろいろの意味で、人間の魅力とはなにかということをちゃんと心得ているのであります。そして自分はそういうものによって人から愛されていることを自覚し、そこに生活の一切を委ねているのです。この自分の役を立派に演ずるということが、俳優の他の普通の人間と違った一つの特徴です。それでこそ立派な俳優と云えるのだと私は思います。そういう態度で生きていることは、今度は逆に自分のもっているあらゆる肉体的精神的魅力を駆使して、舞台の上で与えられた役を、十分に演じ活かすことの訓練になるのです。
そうであって、初めて、自分以外のある人物の魅力を頭のなかで立派に作り上げて、観衆を楽しませる能力があるというわけです。ですから、俳優の立派であるか、へっぽこであるかということは、それは決して舞台の上にあがって、ある役を演じてはじめてわかるのではない。平生、彼が人間として、どこか素晴しい魅力があるかないかということで判断がつくのであります。
そこで、自分の役を立派にやるということに、更に附加える一つの条件がある。その自分というものが立派であるに越したことはないということです。名優というものはそういう意味でどこか立派な自分というものを持っている。そうして、立派な自分というものを、平生立派に演じているわけです。これが名優中の名優です。「どこか立派」と私は云いましたが、これは人間のことですから、すべての意味に於て立派であるということは、望むべくしてなかなか実際にはそうはいきません。例えばいろいろな職業、いろいろな仕事によって、その人間の立派である部分がそれぞれ違っていて差支えないと私は思う。その人の特性というものがすべての点で人に優れているということは理想である。そういうことは事実望めない。それぞれの社会のいろいろな部門で働く人々が、自分の役割を完全に果すうえで、一番都合のいい特質を備えていることが必要であります。しかし、それとは関係なく、ただの人間として、どこか一点、人にすぐれているところがあっても差支えない。
俳優は、そういう具合に、どこか一点人より優れているということが大事であります。俳優の場合は、特にこれが必要だと思う所以は後で述べますが、決して、顔かたちが人より美しいというようなことを指すのではありません。それよりも寧ろ、個性の伸び育った美しさを持たなければならない。その上でその自分を立派に平生演ずるということは、そういう自分を完全に表現するということです。ところが、俳優以外の人は仮りに或る点で非常に立派な個性をもった人であるとしても、しかしそういう立派さというものをどうかすると拙く表現する場合が沢山ある。ですから、見るものが見なければわからないという表現の仕方をやっている。それでいいのです。しかし俳優だけは、少くとも大部分の人間と違って、その人間の立派さというものを立派に表現する能力、技術、心掛けを持つことが絶対必要であります。そこで、俳優は、ある点だけでは少くとも普通の人以上でなければならないということがわかります。さてそれならば、俳優としてどういう点だけは人並以上でなければならないか、それを俳優の素質という問題でお話致します。
3 俳優の素質
A 精神的素質
よく俳優になりたいという人がいて、私は俳優になる素質がありましょうかと云います。諸君も俳優になられる前に、或は俳優を希望される前に、自分は俳優として適した素質を持っているかどうかということが、一番大きい疑問だったと思う。確に、俳優になる為には、俳優に必要な素質というものがあります。これは絶対的なものです。素質がなければ、如何に努力しても勉強しても、それは或る所から上へは行かない。その或る所という標準を非常に低くとれば、これは誰でも俳優になれる。しかし、少しいい芝居、或はいい映画というものを考えて、そういう仕事の水準を目安におけば、俳優の素質というものは相当高い所に置かれなければなりません。
さて、今日まで、俳優の素質というものについては、これを総括的に研究した人もある。それからまた優れた一人の俳優について、この人はどうしてこんなに立派な俳優になったか、一体どういう所が優れているのだろうかということを研究して、ある答を得ることもあります。そこから、一般俳優の素質を考える為に、私は次のように問題を分けていたらよかろうと思う。
先ず精神的な方面であります。これは精神の方が肉体よりも大事だという意味ではありませんが、先ず精神的な方面から云えば、俳優に最も必要な素質は感性、あるいは感受性です。これは英語でセンシビリティと云っております。これは、物事の性質を細かく鋭く刺戟として感じとる力であります。親切な人、勤勉な人、勇気のある人、几帳面な人、そういう性質を持った人が沢山いる。しかし、それらの人が必ずしもこの感性に於てすぐれているということはできません。感じが鈍いというような人は別として、人並以上感受性の豊かな、鋭敏な人は、それだけでもう恵まれた素質をもっているということができます。
感性というものはどういう働きをするか。
二通りの働きをします。極くわかり易く云いますと、ものごとから受ける印象の度合が普通の人よりも、はっきりしている。ものごとの強弱や変化を鋭敏に感じとる、大概の人がぼんやり知らずに過すようなことを、ピンと感じる、あの働きを指すのです。感性は鋭敏で、且つ豊かでなければなりません。
――豊かであるということと、鋭敏であるということは少し違います。豊かであれば、たいがい鋭敏であるが、鋭敏ではあるが必ずしも豊かでないという場合もある。非常に鋭敏だけれども、その感受性は限られた範囲で、その範囲に於てはその人の感受性は鋭敏だ。しかし非常に貧しい、豊かでない。だからその限られた範囲外ではその人の感受性は存外鈍い、という場合がある。感受性は豊かで同時に鋭敏でなければならない。知力、或は知性、というものに対して、感受性は全くそれと違った働きをする、ものごとを感じとる力です。しかし感受性と云えば、所謂受身になる。いわゆる感性と感受性という言葉はどっちもセンシビリティの訳語ですけれども、感性を感受性よりも少し意味を広く私は解釈したい。何故ならば、一方の感性ということはものを感得する、味得するというような場合に働くだけでなく、ものごとを表現する場合にも働く。自分で或る事柄を現わそう――云い現わそう、或は身振でそれを人に見せよう、という場合にも、感性というものは働くものです。ですから受身になって或る事柄を感じて受けとるという場合でなく、或ることを現わすという場合にも、感性というものが非常に大事なのです。それはどういう風に働くかというと、自分が示そうとしていること、現わそうとしていることが、目的どおり適切で正確であるかどうかということ、そういう度合を微妙に感じる力、それを瞬間に規整する力です。
例えば、ここで泣き真似をする。如何にも本当に泣いているようにみせようとする。本当は泣いていないのだが、冗談に泣いているというのがある。よく誰でもふざけてやることですが、そうでなく本当に泣いてる真似をする。これは俳優の演技としてはやさしい、やさしいというより寧ろ一番単純なことです。物真似ということは、俳優の演技の一番原始的な部分です。その泣き真似をここに持って来る。その時には、自分流の泣き方以外に、いろいろな人の今までの泣き顔を頭に浮べる。いろいろな人のいろいろな泣き方というものをこれまでに見ている。そういうものが自分の記憶の中に積み重ねられている。あの時のあの人の泣き方はこういう感じがしていた。如何にも親しい友達が死んだ時の悲しさをあの泣き方は、はっきり示している。非常に感動的な泣き方だ。あの時のあの人は兄弟喧嘩をして如何にもくやしそうな泣き方だ。同じ泣くのでもいろいろな泣き方のニュアンスがある。程度や色合の違いがあります。そういうものを自分の記憶のなかに誰でも持っている。微妙にそれらの違いを感じ、受けとるのは、感性によって受けとっている。ところが、それが記憶のなかに積み重ねられていて、自分が泣き真似をする時、知らず知らず自分の記憶のなかからひとつの型を選びだすのです。それを選び出す時に、自分の今の目的に一番かなったやつをうまく、即座に突きとめ、それを最も自然に、正確にやってのけるのは、この感性の力です。
泣くということの一例を挙げたに過ぎませんが、自分が或ることを示そう、現わそうとする時に、その現わそうとすることが、自分の思っている通りに現われているかどうかを瞬間に判断し、これを即座に調節する能力、これは感性です。俳優にはこの感性というものが一番大事である。一番大事であるということは、他の普通の人よりも、鋭くそうして豊かでなければならないということであります。これが第一です。
第二は想像力。
想像力というのは、言葉どおり、ものを想像する力です――空想とはちょっと違いますが、これは英語ではイマジネーションといいます。普通ものを想像するというと、誰かと会っていろいろな話をしている。あの人はあんなことをいっているけれども本当はこうなんだろう。あの人は私にあんなお世辞をいうけれども、おなかの中では軽蔑しているのだ。そんな風に、相手の気持をいろいろ推測してみる。或は旅行をしようと思う。例えば、京都なら京都へ行くとすると、今頃の京都はさぞ青葉で美しいだろう。行ったことがある人なら、京都では例えば嵐山の景色を想像する。仮りに言葉の頃でなく花時に行った人なら、花の頃の嵐山を頭に浮べて、花が川の水に映って非常に明るい光に満ちていた。その嵐山が今は青葉が水に青く影を映しているだろう。そういう一つの風景の想像ということもある。また今日誰かに会おうとする。どこかで待ち合わしてそこで会う。一体何んの用だろう。何時どこそこに来てくれというので、これから行くのだが、あの人はなんの用事で自分を呼んだのだろう。そうするとその人の最近の消息を考え出して見て、もうじき結婚すると云っていたが、ことによると、相手でも見つかって相談するのじゃないか、その相手はどういう人だろう。あの人はこういう人が好きだと云っていたから、多分こういう人だろう。これが普通云われる想像力で、誰でも所謂想像力が全くないということはありませんけれども、比較的そういう想像をする癖があって、いろいろ想像を逞しくする人がある。想像を逞しくする人、必ずしも想像力の豊かな人ではない。想像を逞しくすることは決して想像力ではない。それが立派にその人の精神的な能力と云えるような想像力は、決してそういう単なる想像ではありません。物事を想像するその仕方の中に一つの確かな拠り所があって、しかもその想像はある現実よりも一層真実であるというような生命力をもっている場合を云うのです。ただああじゃないだろうか、こうじゃないだろうかと、勝手な想像を廻らすような想像は、これはその人の性質とは云えるかも知れませんが、能力とはいえません。同じように頭を働かせながら、その想像が非常にうがっている。少くとも、その想像された世界は、事実そのものを離れて、真実の上に立つ夢の面白ささえあるというような、そういう頭の働きが、ある種の人間には備わっています。この能力が即ち想像力で、俳優の場合にはそれが非常に大事です。
何故そういう想像力が大事か。俳優は一つの脚本、戯曲のテキストの中にある所の一つの人物を先ず自分の頭の中に描きだします。脚本を読む、その脚本の中にはいろいろな人物がいます。その人物というものは、脚本のなかでは、いつでも或る程度にしか描かれていません。その人物の全部が実に巧に正確に描かれてあると云っても、しかしなお且つ決してそれは全貌そのものではない。全貌を想像し得るように描かれているだけのことです。想像し得るということは、読者の想像力を計算にいれてあるということです。ところが、その戯曲を読む場合に、想像力がない読者――俳優なら俳優の想像力が豊かでない場合は、そういう人物の一人一人を頭に描く時に、その姿というものは、その作品の作者が望み、求めているその全貌ではない。もっと貧弱な姿であるにきまっています。ですから、そういう俳優が自分の頭の中に描いた人物は、それ以上には舞台で演じ得ないわけです。逆に或る脚本の中の人物を、俳優は、作者の意図に反することなく、いくらでも生々と、その役らしく演じる自由をもっているのですから、想像の範囲なるものは、決して限られていません。それが優れた役者であるならば、その作品全体を読んで見て、その人物を作者が求めている以上に、ぐっと面白く想像してみることもできるわけで、これは、何人も、そういう自由を妨げることはできません。俳優が自分の演じる役を面白く生き生きと想像できればできるだけ、その芝居は面白くなる。これが、いわゆる演技以前の演技といわれるものです。
あとは俳優がそれぞれの人物を精いっぱいに表現することが残るだけです。しかもこれを表現するために、例の感受性とともに、この想像力が再び働かなければなりません。
想像力はどこから湧いて来るか。丁度さっき感性の所でいいましたように、今までの経験で記憶というものの堆積が誰にでもありますが、そういうものを自由に組み合せることのできる能力というものが想像力の土台になる。
頭の中にいろいろな経験というものがつみ重ねられて、それが記憶となって残っています。その記憶がただ固定して、動かずにいるだけでは、ただ記憶の役目しか果しません。それに黴が生えているような状態になって残っているというだけではいけない。それが必要に応じて自由自在に動かし得るような状態になっていなければいけない。これが人間の想像力というものの土台になる。ですからかりに先天的にそういう性質をもっている人間がいたとしても、やはり経験というものがそれを生かすのです。その経験というのは、決して自分があることをするということばかりが経験ではない。小説家があることを想像で描くということをいいますが、その想像力はやはり経験というものが土台になって、そこでその働きが生れるのです。しかし、小説家が自分の小説に書いたような事柄を悉くやっているのかというと決してそうではない。これも経験という言葉の意味を非常に狭く解釈することになる。本をよむこと、人から話をきくこと、或は人の話と自分で見たこととを結びつけて、そこでまた一つの新しい経験を得るということもある。
想像力と観察というものとは普通違ったものとされていますが、観察というものが非常に綿密に確かにされていなければ、想像力というものがやはり決して豊かなものになりえないのです。観察力と想像力とは違ったものですが、その間には非常に密接な関係があります。
そこで第三に必要なのは観察力ですが、この順序は重要ですから、はっきり憶えておいていただきたい。一番大切なのが感性、その次が想像力、それから今度の観察力です。極端な場合ですけれども、想像力も観察力も非常に貧弱である。或は殆どそういうものがないというような俳優で、感性一点張りで役者をしている相当な役者がいます。ここで名前をいうと悪いからいいませんが、日本の旧劇の役者では相当な名優といってもいい役者でありながら、想像力と観察力は殆んどゼロ、一般の社会の人の中以下であって、ただ感性というものだけがずば抜けて高い。その為にああいう芸をちゃんと身につけて、而もそれを立派に護り育ててくる。そういう人がいる。殊に歌舞伎のような芝居では、それである程度いい。だが、ここで話しているのは、歌舞伎の俳優を標準にしているのではありません。そこをはっきりさせておいていただき度い。芝居の種類によって、俳優に必要な精神的能力、素質というものがまた多少違いますが、しかし、一般俳優というものについては、そういう順序が大切なのです。
想像力は実際目の前にないものを想像する。しかし、観察力というものは実際目の前にあるものを見て、そのものの状態と特色をはっきり識別する力です。
例えば、そこに二人の青年がいる。その二人の青年は違うということは別に観察力がなくてもわかる。しかしどう違うか。それを仮りにある人にいって貰いますと、そのいい方で以て、その人の観察力がテストできる。勿論、一口にはいえない。一口にいうことが必要なのではない。ここも違う、あそこも違う。それをあげてゆく間にその人の観察力というものがわかる。而もその違うという点はいろいろな点が違うのですが、しかし大事な違いと、それほど大事でない違いがある。大事な違いを見落さないことです。これを観察力に富んでいる、或は観察が鋭いという。洋服の色が違う、一方は黒、一方は鼠、それは誰でも気がつく。それは気がついてもえらくない。観察力があるとはいえない。片方は眼鏡をかけて、片方は眼鏡をかけていない。普通の人はすぐにそういういい方をする。髯が生えている、片方は生えてない。顔が赤い、片方は白い。そんな表面的な違いだけなら誰でもわかる。観察力がなくてもいい。しかし、この人は観察力をもっている、この人の観察力が鋭いといえるのは、そういう一般的な違いを残らず頭に入れ、しかも、もっと人間として根本的に違う点を、ちゃんと見落さないことです。観察力が鋭いということはどういうことを意味し、どういう利益があるだろう。もうひとつ例をあげると、ここに一人の青年がいる。この青年は初めて見るのだが、一体何をしているんだろう? この問いに、間違っても非常に面白い答が出せる人は観察力があるといえる。例えば諸君のうちには、既に舞台の経験を積んだ人がいる。そういう一人を初めてみて、これは俳優だといいあてるものがあったら、これは観察の天才です。殊に新劇の俳優というものなどを、そう誰でも、俳優だといいあてることはできません。しかし、そういう風にぴたっと当てないでも面白い返事というものはある。非常に俳優という観念にあてはまらない、新しい一人の俳優に対して、この人は何をしている人だろうといった場合、それの面白い返事は何かというと、非常にそれと近いか、或はかなり遠いけれども、その職業と俳優とは一点共通なものを持っている、他の面では非常に違うが、ある一点だけ共通しているものを持っている、そういう職業をパッという。それが面白い返事です。そういう返事ができる人は観察力があるというわけです。もう一つ電車の中で長い時間ずうっと自分の前に大勢の人が並んでいる。そういう場合、相手の人をそれとなく観察することが出来る。年を取った人、若い人、女の人、男の人、或いは立派な身成りをした人、みすぼらしい身成りをした人、いろいろなのがある。ところで、その人達に点数をつけることができます。例えば、それを全部俳優と仮想して、これに点数をつけてみせることができる。しかし、種々雑多の、社会のいろいろな人がいる場合、一体何を標準にして点数をつけるかが問題です。いろんな標準でつけられます。大学生として、中年の紳士として、結婚適齢期のお嬢さんとして、なんでもいい。私はこれを、一般の人に通じる人間的魅力という点に標準をおいてやってみるのが面白いと思っています。それは特に諸君にもやっていただきたいと思う。つまり、こういう標準で点数をつけるということが一番俳優の勉強になる。電車の中に並んでいる人物の中で、どの人が一番面白い人間か、或は一番人間として魅力があるか、その標準はいつの場合でも通用します。誰がやってもいい。そうして、それを相手にいわなければ少しも失礼ではない。この点数のつけ方というものは、これは又一つのテストになる。点数をつけるその人のテストになります。ですから、私が諸君と一緒にどっかへ行く。偶々、乗物の中に並んでいる人達をみて、ABCという名前をつける。それからみなさんに点数をつけて貰う。どれが一番人間として魅力があるか、そして、その答を私が見る。そうすると、あなた方の観察力がわかるばかりでなく、これは想像力のテストにもなる。感性のテストにもなる。つまり、俳優の素質の大部分がテストされます。結局、あなた方はどういう人間を以て面白いとしているかということなのです。人間の魅力はどういう所にあるかを、諸君がはっきり知っているかどうか? それを我々が知るのには、最も便利な方法です。
第一に正しく観察しているか、鋭く観察しているか、更に細い観察をしているか。先ずそれができるということが、俳優にとって非常に大事なことです。人間の魅力、人間としての面白さがどこにあるか、どういうところが一体面白いのかを判断し、そして、それを観察して、自分の頭の中に入れておく、これが俳優にとっては非常に必要な修業です。そういうことができるのは観察力のお蔭です。これはその俳優が、現代の最も複雑で而も深い人間性というものを、舞台の上に表現する場合に最も役立つのです。つまり現代の演劇を作り出す上に、非常に必要な素質であります。それがなければ現代の演劇というものは生れないのです。
第四に記憶力。
記憶力は四番目です。これは、あるにこしたことはないという程度のものです。記憶力がゼロであるどころか、マイナスである俳優が沢山います。而もあれは一向に台詞を覚えないといわれながら、なかなか幅を利かしている人がいます。しかし、記憶力がマイナスである為に、その役者は得をしない。ゴシップの種になるというだけで、決して得をしていません。演技を完成する上で、きっと大きな損をしています。この人が記憶力があったら、もっとほかの方へ力を使って、もっと伸びるだろうということになります。
だから、記憶力が強いということは、やはり台詞を早く覚えるというだけでなく、その他の方へ安心して力が伸ばされる。特に現代の演劇は大勢の者が協力して作り上げていく。現代の演劇で記憶力がなかったら――記憶力というのは主に台詞を覚えることですが、台詞を早く覚えないということは、他の人に非常に迷惑です。普通の記憶力、或は普通以上の記憶力をもっている人に非常に迷惑です。共同作業としての演劇を妨げるものです。これも決して先天的と限るわけにいきません。記憶力は最も確実に、訓練することによってえられるものです。しかし、また一通りの訓練ではどうにもならない程に記憶力の鈍い人もあります。
B 肉体的素質
肉体的素質を大きく分けて、容貌姿態と声の二つとします。普通肉体的条件と云いますと、顔が綺麗であるとか、或は姿が好いとか、肉体の均斉がよくとれているとか、いろいろとそういう風に云いますけれども、そのほかに声を含めます。俳優としての肉体的素質は、私の考えでは、普通の意味で恵まれているにこしたことはない、ということが一口にいえる。肉体的素質が恵まれているということは、どういうことかというと、顔が綺麗であるとか、姿がいいとか、声が美しいとか、そういう簡単な標準できめてしまうこともありますけれども、それならどういう顔が俳優として綺麗だと云えるか、どういう声が美しいか、そういうことになると、これは大変にむずかしい問題になる。
普通、男の人でも女の人でも、顔が綺麗だと男の人なら美男、女の人ならば美人というが、それと、俳優としての肉体的条件から云って、その顔が美しい、或は姿に魅力があるというのとは少し意味合が違う。これを十分に知っていなければならない。大体人間の顔が綺麗だとか、姿が好いとかいうのは、勿論一つの常識的な標準に従って、それを決めるのだけれども、そこには又万人の好みもあり、国や時代によっての標準の差異などがあって、今日すべてに共通な美の尺度というものは、きめるわけにはいきません。まして、どの程度に綺麗だということはなかなか云えない。それはどういうことかというと、美しいとか綺麗だとかいうことは、単に形の上からばかり論じるのでなく、そこには、常に肉体の表情を決定する精神的な要素がいろいろの度合で含まれるからです。女の人の顔かたちを批評する場合でも、お人形のように綺麗だという場合もありましょう。或はまた非常に愛嬌のある美しさだという風に云うこともありましょう。或はいわゆる美人とは云えないけれども、なんとなく、眼の表情に人を惹きつける魅力がある。こんなところまで来ると、いわゆる美人ということと、人を惹きつける魅力があるということとは、殆ど違った標準で語られているような印象を与える訳です。
そこで、顔かたちが、整って美しいということは、俳優としてそれだけで或る特権を与えられているようであるけれども、しかしまだ、唯それだけでは、なんの役にも立たない。何故ならば、顔かたちが整って美しいということよりも、顔かたちはいわゆる普通の標準で整っているとは云えない、寧ろいろいろな欠点があるけれども、しかもなお、人を惹きつけ或は人の眼を引く一つの魅力がある。そういう場合の方が、はるかに俳優としては成功する場合が多いからです。俳優は時としてその顔かたちの所謂整った美しさによって、それだけで観衆の注意を引くし、又所謂多くの崇拝者を持つこともできるのであるが、しかし、それだけでは芸術家として伸びるものではない。顔が美し過ぎるために芸が上達しない例は今日まで俳優の歴史を通じて沢山あります。
天性の麗質も、それを更にいろいろな方法で磨かなければ、ほんとうの意味で人間としての魅力にはならないので、もしそれだけで満足するようなことがあれば、天性の麗質は宝の持ち腐れとなるばかりでなく、そういう俳優の末路は、むしろ一段と不幸なのです。そこで普通いう意味の美男、美女ではないが、しかし、どこかに魅力があるというような俳優は、一面、精神的にある特徴を備えているためもありますが、一方では、真面目な修業によって、自分の芸を磨いて行こうとするところから、益々美男、美女でないことが、ひけ目にならなくなります。それを思うと、肉体に自然に与えられた美質というものよりも、寧ろその肉体をいろいろな方法によって磨き鍛えることによって、一層魅力づけるということが大切だということになります。
その肉体を磨き鍛える方法は、どういう方法かというと、無論お化粧ということもあるし、肉体的訓練ということもある。もう一つもっと大事なことは、精神的な訓練によって、その結果を肉体の上に現わす、これが最も大事なことです。この肉体と精神との関係というものは、今日まで、一般に俳優の肉体というものを考える場合、みんなが考えていたことではない。しかし、これからの俳優は、特にその点を大いに研究しなければなりません。いい換えれば、肉体には一つの表情というものがある。その肉体の表情というものは、主として精神の現われなのである。例えば、一人の俳優の顔を例にとって見ると、その顔が美しいとか綺麗だとかいうことは、その顔の値打を批評する言葉の全部ではない。それよりも、もっとわれわれに魅力があることは、例えば、その顔が非常に聡明であるとか、或はまた非常に意志の強そうな顔をしているとか、そういう風な精神的な特徴を示す言葉で以て云い表さなければならない顔です。これはどういうことかというと、顔にしろ、姿にしろ、肉体そのものの美しさは、精神の裏打ちというものがなければ、それは、まったく感覚的な美しさに過ぎない、少くともそういうものは、俳優の第一の武器ではありません。
次は声です。
声はいったい肉体か、という疑問が起るかも知れないが、声というものは、肉体によって発せられるもので、声はどういう風にして出るかということは、生理学でみなさん習っていると思う。だから、声も一つの肉体的素質の中に数えます。この声もまた容貌姿態と同じように、いい声とか、悪い声とかいうけれども、これは、例えば、音楽の方では、いい声と云えば、大体或る標準に基いて、優れた声ということを意味する。耳に快く響く声、つまり音楽に適した声です。しかし、芝居や、トーキー映画に於ては、俳優のいい声というものが、今日まで、それほどはっきりした標準をきめられていません。芝居なりトーキーなりに適した声と云っただけでは、どんな声か、まだよくわからない。
普通いい声という、そういう声が勿論、芝居やトーキーで悪いわけはありませんが、俳優としてやはり、いわゆる美しい容貌を恵まれている人と同様に、確かに、これは若干の強味であると同時に弱味でもあるのです。なぜなら、声がいいというだけで、その自分の声に余り頼り過ぎて、その声をほんとうに調節し、使いこなす修業をついお留守にします。つまり、声を相手に聞かせることだけで満足して、その声を使って、芝居で大事な、何を相手に伝えるかというその伝えるもの、伝える方法を軽く見てしまう危険がある。
この例も沢山あります。そこで声についてもう少し細かく話をしたいと思うのですが、この講義は実は倫理のお話ですから、それと関係のありそうなことだけを話すことにします。
普通いい声、悪い声、或は高い声、低い声、そういうことをいうが、それ以上に、さっきの容貌姿態の時と同じように、もっと精神的な要素を声の質に結びつけることがあります。例えばやさしい声、或いは突慳貪な声、甘ったれた声、悲しい声、そういう風に声と人間の感情を結びつけること、それからまた、その声の質にもっと人間の値打のようなものを結びつけることがあります。これが一番はっきり分るのは、利口な声と、馬鹿な声です。云っていることがなんであっても、その人の声によって、その人が利口か馬鹿か、ほぼわかる。これは恐ろしいことであります。或はその人が非常に考え深いか、或は軽薄か、そういうことが、声で大体見当がつきます。一例を挙げればそうですけれども、この声というものは、やはり子供の時から大人になるまで、或は年寄りになるまで、決して同じでない。段々変って来ます。しかも、その変り方がいろいろな条件で変る。風邪をひいて咽喉を痛めたというような一時的なこと以外、いろいろな条件で変る。年をとると、だんだん声も年をとりますが、年のとり方にいろいろある。人間の声は生活によって鍛えられ、或は荒らされる。鍛えられるというのは声を絶えず使うような仕事をしている人でなくても、自然に生活で鍛えられた声というのがある。充実した、立派な生活でも鍛えられるし、苦労と闘い、血みどろの生活のなかでも鍛えられる。いわゆる人間がしっかりしてくるのと比例して、声もしっかりして来ます。底力があり、頼もしい声です。年をとっても、苦労を知らない、或は苦労にひしがれた声は、それぞれ、明暗の違いがあるだけで、いずれも生の声と云っていいのです。
特別に声の訓練をしていない若い人の声は、全部が全部、生の声と云えます。俳優としては、舞台の上で台詞を云うのに、若ければ若いなりに、年配ならば年配なりに、鍛えられた声を持っているということは絶対に必要です。どんな俳優でも、段々舞台の上の修練が積むと、自然に声が鍛えられて来る。即ち舞台で声が通るということは、一面声の鍛えられた証拠です。しかし、それだけでは、まだ魅力ある声とは云えない。人間の味いがその声に加わらなければ、ほんとうの俳優の声とは云えません。どういう風にして人間の味いを加えるのかというと、いま云った充実した生活と、優れた教養による外はないと思います。生活によって鍛えられた声というのには、さっきも云ったように、いろいろありますが、教養によって味いをつけられた声というのは、殆ど一定の特徴があります。なんとなく深みがあり、力強いとは云えなくても、十分に圧縮された声です。声は勿論、声楽とか、和楽のいろいろな歌、長唄、義太夫、謡曲、そういうもので最も自然に直接鍛えられます。演説や講義のようなものでも鍛えられます。俳優として、そういう補助的な直接の声の訓練も大事ですが、なんと云っても、声の質がより以上に問題であります。いかによく通る声でも、例えば、下品な、狂気じみた声では困るし、同じ美声の名に値しても、浪花節語りのような不自然な特殊な感情に訴える声では、それはあまり有難くないのです。ごく広い意味での生活が、一人の俳優を通して、その表情姿態、その言葉、その声の中に沁み出るということは、即ち俳優芸術の最も微妙な点で、これはどうしても現在の俳優について徹底的に論議しなければならない問題であります。
ここでひとつ例をとれば、同じ年輩の二人の人を比べ、その人の声を聴いてみると、大体教養の程度の違いがわかる。教養という言葉がまたなかなか面倒な内容をもっていますけれども、これはただ本を読むとか、学問をするとか、そういうことだけではない。勿論本を読むということもその一つですけれども、ともかく自分を文化人として完成させるために、必要なものを身につける、その身につけたものをいうのです。古い言葉でいうと、それぞれの階級の嗜みです。だから、高い程度の学校を出ているとかいないとか、これは絶対なものでは無論ない。本を沢山読んでいるとかいないとか、これも絶対的でない。しかし、本を読むということ、或は学校に行くということは教養の一部です。
大事なことは、それからちゃんと栄養になるものを吸収し、それによって生活の規準をより高いところに築いているかどうかということです。しかし、例えば、女の人でいうと、尋常小学校でやめてしまった人と女学校以上の学校に行った人とではそれは勿論家庭の空気にもよりますけれども――およそ声の出し方、声の性質が違うものです。必ずしも、どっちが立派だとは云えません。其の他の条件が加わりますから。しかし、違うことは、それだけで違う。男の場合でもそうです。例えば、肉体労働者と精神労働者は声が非常に違う。これは教養によっても声が鍛えられるという証拠です。そういうように、肉体と精神というものは、俳優の場合には少くとも密接な関係があるのであります。肉体的な素質ということで容貌姿態と声と二つを挙げましたが、この何れも、ただそれだけの価値では絶対的なものでありません。必ず精神的な要素が、それに加って、俳優の肉体的な素質は高められるものであるということを先ず知るべきであります。これで俳優の素質ということをざっと話しました。
4 人及び芸術家としての俳優の理想
これは俳優に限らない、社会のいろいろな部門で働いている人間が人間として、また同時にその働いている部門の職業人として、それぞれ一つの理想を持っている。この二つの理想を一致させるということが、この人間社会の生活に於て非常に重要なことであります。例えば、文学者ならば、文学者としての理想と人間としての理想とを一致させる。同様にまた俳優も、人及び芸術家としての理想を一致させるということが大事です。しかし、それはまた非常に困難なことでもあります。人としての理想はいうまでもなく、一般の倫理学で教えているように人格の完成であるが、芸術家としての理想は、独自な美の創造であります。人格の完成というのは、人間として生きて行くうえに、最も普遍妥当な徳を身に備え、自分の属している社会、国家のために真に役立つということです。
芸術家としての理想は、自己の才能によって人間の感情に新しい表現を与え、現実の生活をより「美しく」することであります。道徳の善も結局は「美」に通ずるものでありますが、芸術は寧ろ「真なるもの」を追求することによって、美に到達する道です。人格の完成という場合に於ける道徳的善と、美の創造を目指す真の探求とが、芸術家としての生活に於てどう調和するかという問題は、なかなか厄介な問題で、昔からいろいろ論議されていますが、原則として、そこには決して矛盾はないと思います。それが矛盾するように見えたり、或る場合には、自分でその矛盾に苦しんだりするのは、いずれも修業の道程に於ける未習熟の結果であります。ただ、芸術家は、そういう現象をいい加減に胡麻化さないだけであります。俳優が一人の社会人として生活する、その態度のなかにもしそういう問題が起ったとすれば、それは先ず次のような三つの場合に限るだろうと思われます。
第一に芸術家は真面目であるということと厳粛であるということとの区別をはっきり知らなければならない。真面目であるということは、例えば、人間としての過ちを犯さない為に、戦々兢々として日常の生活の細かい部分まで気を配って、苟くも人から誤解を受けないように言動を慎むとか、あらゆる慾望をできるだけ制して常に無難な道を歩こうと努力する、そのような態度が普通真面目といわれているので、人としてそういう態度を守ることは、これは道徳の上から別に非難の余地はない。むろん消極的です。しかし、努めてできることはこれくらいのことです。しかし、人間はある時は芸術家であり、ある時は政治家であり、事業家であり、兵隊である。いわゆる真面目さということだけが、その人の身上ではない。それよりも、もっと大事なことが人間にはあるのであって、俳優の場合に於てもそうである。日常生活の小さな部分にまで気を配って、ひたすら真面目であろうと努めるような、そういう努力は、これは芸術家として自分を伸すことではない。そういう生活によって、なお且つ、芸術家として自分を伸し得る人もあるかも知れない。これはないとは保証できないが、それはすべての人にあてはめてその人の為になるということは保証できません。これは道徳の話としては非常にデリケートな話で、よく私のいう意味を酌んでいただかなければならないけれども、少くとももっと積極的な、大胆な生活というものがある。当って砕けるという生活の中に、本当の芸術家としての自分を伸ばす途がある。しかもそういう生活が必ずしも道徳と矛盾する途ではないのです。ある時は道徳の埓外へ危く踏み出そうとすることがあるかもしれない。しかし、その場合に最も厳粛な態度というものが要求される。この厳粛な態度というのはどういうことかというと、その道徳の埓から万一一歩ふみ出した場合に、その責任を悉く自分が負う。その為に自分はいわゆる神の怒にふれることを覚悟しなければならない。それがただ口だけで、どんな罪でも引受けるといって大きな顔をするのではない。万一道徳の埓外に踏み出した場合、非常に激しい悔恨、非常に大きな苦痛をその人間は実際に味わなければならないのです。またそれが味えるような人間でなければ本当の芸術家ではない。そういう覚悟と良心をもって事に当り、生活を律するのには、大きな勇気がいります。この勇気が、高い意味に於ける道徳の追求である。そして、そういう生活態度が、即ち厳粛ということなのです。この辺は先程もいいましたようにデリケートな芸術家の生活の道でありますから、みなさんは今後の修業に於て、ただ単に芸の修業を心掛けるばかりでなく、芸術家としての心構えのうえで、十分想いをひそめ、みずからさとるところがなければなりません。
もう一つは、一般の人は大体に於て控え目である。或はまた、地味にものごとをするというのが、先ず美徳とされている。また一方では、あまり喜怒哀楽を顔に出さぬ方が奥床しく、立派だという風な考え方もあるようです。日本人の風習がそれを教えている。しかし、俳優の場合には、それが意識的にそうであるのは差支えないとして、素質的にそうなってしまっていては、これは少々困るのです。俳優はその性格としてエキスペンシィヴであるということ、つまり、自分の感情を思いのまま、外にはっきり見せる、そういう性質がむしろ得なのです。そのエキスペンシィヴであるということが、俳優の一つの特権であっていいのです。普通の人ならば、そうまで要求されない感情の動きの現わし方が、俳優の場合には、少し極端でも許されると私は思うのです。なぜなら、そういう訓練を平生から心がけておかなければ、舞台の演技は生彩を失います。
普通の人なら、うまく云えないと思って黙っているようなことでも、俳優はどしどし云ってみるがよろしい。普通の人は自尊心から、或は謙遜から物をいいしぶる。俳優には、その自尊心も、謙遜も、時には無用です。ものを外に素直に出すということを心掛ける必要がある。これは普段の生活に於て心懸けるというよりも、そういう性質を持っているということが大事なことです。そういう性質を持たない人は、俳優として非常に損をします。それは或る場合に、人の眼をみはらせるでしょう。しかし、そういう性質を持っているということを、ちっとも苦にすることはないということです。もちろん程度問題ですけれども、かりに非難を受けても、それほど気にすることはない。これは俳優の特権である、俳優として恵まれた性質であると思って差支えない。だから悲しい時は率直に泣き、怒りたい時には率直に怒るということが、俳優としてはいいことです。これは何か知ら、日本人の道徳と矛盾をするように見えましょう。しかし、それは見えるだけなのです。
もう一つは、今の話と関係がありますけれども、自意識の過剰を清算しなければいけない。自意識というのは、人間がいろいろなことをしたり喋ったりする時に、自分がしているのだ、自分が喋っているのだ、ということを絶えず頭に置いて、それを監視していることです。監視しているばかりでなく、絶えず自分を批判していることです。自分の言ったり、したりすることを絶えず批判する結果、勢いそれを抑えつける、この抑えつけるということが自意識の過剰です。誰でも、普通の人間ならば、自意識がないということはないのです。自意識が全くないというのはどういう人間でしょうか。まず動物に近い阿呆です。これはじっさい自意識がない。自分が何をやっているのかまるで知らないような状態です。よくまあ平気であんな恥しいことができる、というが、それは自意識の欠乏しているということを云い現わしています。
ところが自意識の普通のあり方というのは、自分がこうしているのだということを絶えず頭の中で考え、そうしてそれを批判し、自分の心に手綱を附けてこれを御して行くことです。自分が何か拙いことをいおうとすると、手綱を控える。故なく躊躇すると、手綱をゆるめて自分を前に出す。自意識が過剰だとその手綱をいつでも引締めている。皆さんは人が馬に乗って居るのをよく御覧になるでしょう。或は自分で馬に乗る方もあるかも知れないが、馬は首をうしろへ引いて口からあぶくを出す。ぐっと手綱を引締められているからです。ああいう状態に人間の心があるのが、自意識過剰の状態です。
この自意識過剰の状態が、ある場合には羞みとなり、また、てれるということになる。しかし、羞みとか、てれるとかいうことは、ある瞬間、自意識が過剰に陥る場合ですけれども、これは誰でもあることで、別に不思議なことではない。羞んだりてれたりしない人間は恐らく一人もいないでしょう。これは別に問題にはならない。殊に若い女の人の羞みというものは、極く自然な美しいものとされています。男の人でもてれるということは、なかなか愛嬌のあるものです。しかし、この羞みも照れるも、極端になると始末がわるい。日本人くらい、その点で、ひどく羞み、照れる国民はないのです。これは日本人が、世界のどこの民族に比べても、自意識が多すぎるという証拠です。
そこで、日本人全体を標準にして考えると、適度な自意識をもつということが先ず必要ですが、俳優の場合は、更に、普通の人よりは少しくらい自意識が少くても構わない。つまり自意識が過剰に陥ることがない為には、普通の人よりも、少しくらい自意識が少くても構わない。つまり自意識の過剰に陥ることがない為には、普通の人よりも自意識が幾分少くても、それほど、その俳優の欠点にはならない。これは勿論、舞台の演技を中心として云っているのです。舞台に立つうえから、どうしても自意識過剰が邪魔になる。しかし、日常の行動や素行というような問題で、一般の人から俳優が不信の眼で見られるのは、そういうところにも原因があることを注意しなければなりません。つまり、そういう特質を自分で許しすぎる為でもある。俳優の場合には、それ自身欠点ではないというような性質が、どうかすると、その生活を乱すのですが、これもその例の一つです。
以上三つの点で、普通の人のいう道徳というものと、一見矛盾する点があるように思われます。これは極く表面的な意味で矛盾するように見えるのであって、本質的に、人及び芸術家としての理想が矛盾するのではありません。
更に、この、俳優の、人及び芸術家としての理想の中には、ただ人間として人格の完成を目指し、芸術家として美の創造を目標とするということ以外に、一つの大事な役割の達成があります。それは社会に於ける俳優の文化的役割というものです。俳優も他の文化部門の人達と同様に、世の中の進歩、文化の発達ということに寄与しなければならない。その寄与することが、俳優の一つの大きな役割です。勿論、演劇という芸術を通じて、俳優は演技によってそういう役割を自然に果しているのですけれども、しかし、演劇というものは、俳優一人でできるものではない。俳優は既に演劇という一つの文化的役割を持っている仕事に従事しているのですから、それだけで文化的役割は或る部分果しているのですが、殊に俳優としての文化的役割がこの他にあります。それはどういうことかというと、次の三つであります。
俳優は先ず、その俳優が優れた俳優であり、多くの観衆から讃美の的となっていればいるほど、何等かの意味に於て一般の民衆のお手本になっているということです。一般民衆がその俳優のどこかを真似ようとする。この影響力について考えなければならない。俳優は民衆の一つの偶像である。俳優は直接一般民衆に何も教えるような役目は持っておりません。これは他の芸術家と同じですけれども、しかし少くとも俳優は自分の全部を一般民衆の前に示して、そうして而もそれが一般の民衆の憧れとなるのですから、一番大事な点は、民衆の趣味というものと関係を持つことであります。ある人気俳優の言語動作、化粧法などというものは、非常に速かに一般民衆の中に伝播されます。既に日本でも歌舞伎俳優というものは、わが国の或る一部の社会には、その趣味の影響を非常に与えております。現在では、外国のトーキー、殊にアメリカ映画の俳優が、日本の若いゼネレーションに非常に趣味的な影響を与えております。しかもその趣味が、けばけばしく悪くなればなるほど、影響力が強いということが非常に恐ろしいことです。その趣味がよく洗練されていれば、それは目立った影響力、直接な影響力はないかも知れないが、一般民衆に知らず識らず深い影響を与えるものです。これが先ず大事なことです。
今日まで日本ではあまり気づかれていませんが、実際には俳優が喋る言葉が一般に影響力を持ちます。つまり俳優は言葉のチャンピオンです。俳優の使う言葉が、その国のその時代の、最も正しい標準になる、美しい言葉でなければならない。現に欧米ではその通りになっております。これも一つの大きな文化的役割として、これからの俳優はおろそかにできない問題です。
もう一つは、いかに多くの俳優が揃っていても、それがただ名優であるというだけでは、その国の文化のバロメーターにならない。文化の水準が高いとはいえない。何故ならば、ジャバにはジャバの名優があり、アフリカの土人の中にかりに芝居らしいものがあるとすれば、その中に名優がいるかも知れない。だから名優が沢山いるということだけでは、その国の文化が高いという証拠にならない。その国の文化が高いということの一つのバロメーターになるのは、俳優の中に学識のあるものが沢山いるということです。現代人として最も高い教養をもった人達が、俳優の中に沢山いるということが、その国の文化が高いということのバロメーターです。
ですから、例えば外国の大学で、日本の俳優にひとつ来て貰って日本の芝居の話をして貰いたいといわれた場合、そこへ出かけていくと、大学の学生ばかりでなく、大学の教授、更にその国の沢山の文化人、学者、芸術家などが、その講堂に集って、恐らく日本の俳優の講演をきくでしょう。その場合に、その俳優の喋る話の内容が、いわゆる知的な水準に於て低かったならば、日本の文化は甚だ貧しいものと判断されても仕方がない。西洋の文明国ならどこの国へ行っても、その国の俳優が、大学者などと少しも違わない調子で、演劇の専門的な薀蓄を傾け、一般国民に公の場所で話をしていることがよくあります。それを今日の日本に於て直ちに求めることができなければ、ひとつみなさんの時代には、是非そういう風になっていただきたいと思います。
人及び芸術家としての理想のなかに、もう一つ職業人としての誇りと嗜みということを加えたいと思う。俳優もやはり一つの職業人です。その職業人としての誇りと嗜みというものがなければならない。この点がまた、今日まで俳優道徳というものに欠けていた点です。職業人といえば、その職業を遂行する上に於て、いろいろな人的関係というものが生ずる。いろいろな人を相手にしなければならない。その相手にする人というのは、先ず企業家です。演出家です。或は脚本家です。俳優としての同僚です。更に見物、或は批評家というものがあります。こういう人たちと絶えず接触をしなければならない。即ち職業人として、如何に誇りをもち、如何に嗜みをもって、そういう人達との関係を秩序あるものとして行かねばならぬかということは、俳優の道徳として非常に大事なことです。これもごく簡単にお話します。
先ず演劇は綜合芸術だということをいいます。綜合芸術だということは、いろいろな芸術の部門が集って、それらの協力によって出来上った芸術という意味ですが、しかし綜合芸術という言葉は、実はドイツのワグネルが芝居に対して初めて使った。音楽、美術、舞踊、文学そういういろいろな要素によって芝居が出来上っているという意味で、綜合芸術ということをいったわけです。これは実はワグネルが自分の専門とする歌劇について論じた一つの意見ですが、そのワグネルの歌劇論が近代演劇論の口火になったのです。その為に演劇は綜合芸術なりということを、今日もなおいう人がいます。その点では私は少し意見が違う。意見が違うが、しかし、それはそれとして、芝居は多くの人達の協同作業であるということは、これは間違いない。非常に沢山の人が力を合わせて作りあげる仕事であるということは間違いない。そういう意味で、今あげた人々とは、いろいろな関係で共同の責任を分ち合わなければならない。
先ず、企業家は概して資本家です。しかし企業家対俳優というものは、これは決して資本家対労務者ではない。また、封建的な意味に於ての主従関係でもない。それはやはり他の生産部門と違った、特殊な関係であることを考えなければなりません。俳優を今日の興行者は決して単なる労働者として扱っていないでしょう。また主従関係に於ける如く隷属視していないと思うけれども、どうかすると、この資本家対労働者、或は主従関係というようなものが、何か隙があれば流れ込んでくる惧れが多分にある。それは一方興行者側に於ても、新しい思想によってそういう誤った観念を一掃しなければならないけれども、また俳優自身としても、企業家に対してそういう頭を以て臨んではならないと思います。
演劇、映画の企業形態というものは現在いろいろあって一概にはいえませんが、結局演劇乃至映画の企業家と俳優の関係は、全く他に例のない特殊な関係なのです。それが特殊な関係であるということは、今日までいろいろな例でみなさんも御承知と思うが、この間に一つの新しい道徳というものが、ここで作られるのでなければならない。これはみなさんには、そういう問題が今後あるということだけ頭においていただいて、そういう道徳とはこういうものだということについての私の考えは、ここではいわないことにします。
その次は同じ芸術家であり技術家である演出家――演出家と俳優との関係。演出家というのは、いわば音楽の演奏に於けるコンダクターのようなものであると私は思う。しかし、今日の日本の実情に於ては、このコンダクターは、同時に多くの場合、教師をかねているのです。だが、この関係は徐々に変ってくると思う。必ずしも演出家は俳優の先生ではなくなる時代がくると思う。先生ではなくなるが、しかしコンダクターである。このコンダクターと演奏家との関係を考えれば、その演奏が最も完全に行われる為に、コンダクターと演奏家との結び付き方はどういう風でなければならないかということは、素人でもわかります。ただ、演奏家が非常に優れている場合、即ちコンダクターとその演奏家と、芸術的な才能に於ても経験に於ても適わない、同等であるという場合には、この両者の間の関係はどうなるか、そこに一つの一番微妙な関係が生じる。それはどういうことかというと、一つの団体の活動というものにはどうしても指揮者が要る。その指揮者が総てのものの上に立つのではあるけれども、すべてのものよりすべての点で優れている必要はない。指揮をするという技術だけが優れていれば、その他では全く同等であることができるのです。
演出家と俳優との間で、演出という技術に於てその演出家が専門家であれば、その他の点に於て俳優と演出家とは同等であって差支えない。また、そうなり得るものである。事実、そういう例が沢山あります。そういう場合には、俳優と演出家との間では、結局、信頼と友情と意気の投合というものが存立すればよろしい。この演出家と俳優との関係を一律に考えるところに、いろいろ妙な現象が起るのです。例えば、演出家の方からいうと、あの俳優は生意気だというようなこと、或は俳優の方からいうと、あの演出家はちっともこっちのやりたいことをさせてくれないというようなことなど、いろいろ妙ないきさつが起る。演出家と俳優との間には、いろいろな段階がある、いろいろな組合せがある、ということを考えないから、そういうことになるのです。これは実際舞台に立つ場合、或はカメラの前に立つ場合に、そのことを十分考えていなければ愉快な仕事ができません。
作者と俳優との関係についていいますと、俳優のことを西洋ではインタプレートという言葉を使っている。これは普通、通訳という意味に使うのですが、ここでは通訳ではない。作者のいおうとすることを代っていう役という意味です。そういう意味で俳優のことをインタプレートといいます。そうすると、これは作者の代弁者です。作者が自分の作品のなかで、ある人物を創り出す。するとその人物を、一人の俳優が、作者の思いのままに舞台の上で表現してくれる。この俳優と作者との関係というものは、実に密接な関係です。作者にとっては、俳優があって初めて自分の芸術が一般観衆の心に訴えられると同時に、俳優の方からいうと、優れた作者があって初めて自分の才能を引き出して貰えるのです。
昔から、一人の役者が、一人の優れた作者を得た為に一躍自分の名声を高めたという例が沢山あります。日本でも、割に近い例で、この間死んだ市川左団次が、岡本綺堂という作者がいた為に俳優としても非常ないい仕事をすることができました。日本では昔の芝居の因襲から、作者と俳優の関係が二通りに考えられている――即ち座附作者と座附作者でない作者とが考えられている。こういう例は日本以外にないのです。一方に、俳優がこういう役をやりたい、こういう役を書いてくれといえば、その命に従って書くというような作者と、もう一つは、作者が書いたものは俳優は全然自分の意見をそれに加えることができないで唯々諾々とやらねばならない、そういういかめしい作者と、二通りしかありませんけれども、作者というものは元来こんな風にどっちかに偏ったものではないのであって、俳優と作者とは実に演劇の上では一番密接な友達なのです。西洋では、自分のかいた作品を、自分の好きな尊敬する俳優にみせて、その俳優の意見をきいてその作品を修正し、舞台にかけるまでは二人で協力してやる例は度々なのです。今日の日本はそういう状態にまだなっていないようですが、これは作者の方もそういう風につとめなければならないと思う。
今度は同僚の場合です。同僚というものは非常に面倒なものです。同僚であり同時に競争相手です。相手があって初めて芝居ができるのであるけれども、しかし往々にして、相手の為に自分の芸というものが舞台の上で消されて了う。食うとか食われるとかいう言葉が俳優の間で使われるのはその為です。しかし、芸術的な協力というものは、他の部門では、例えば絵や彫刻の場合、或は音楽の作曲とか演奏とか、殊に文学の作品に於ける合作という場合には、二人の間に全く一致した見解と助け合う気持がなければ、できないのですけれども、俳優は往々にしてそうでなく、稽古の時には両方でちゃんと調子を合わせて稽古しながら、いざ舞台に上るというと、相手の芸をなるべく目立せないようにして、自分の芸をなるべく目立たすようにするというような、非常に陰険な卑劣なことが、因襲として今日まで行われているのです。常にそうではないけれども、そういうことが俳優の場合には度々行われる。これは日本ばかりでありません。西洋でもそういうことが度々あります。殊に日本の古い芝居の如きは、その中の主な役をとった役者が、最も舞台の中心になって見物の注意を集めなければならない必要上、必ずしも芸術的な効果という点ばかりでなく、その俳優が自分の権勢慾、名誉慾のために、他の役者を犠牲にするというようなことが、今日もなお行われているようです。これは決して芝居の本当のよさというものを見物にみせることにならないのです。こういうことが行われているということが、実際、俳優というものの社会的品位を非常に落しているのです。
同じ俳優同士でも、その中に先輩、同輩、後輩というものが自ら分れるわけです。先輩、同輩、後輩というものに対する、それぞれの誇りと嗜みというものは、先程いった職業人として表に持っているべき誇りと嗜みということから一歩も外にでない筈だと思います。先輩からはいろいろな指導も受けなければなりません。同僚からはいろいろな相談を受けなければなりません。後輩からはまた、いろいろな刺戟を受けなければなりません。よく俳優が舞台の経験を積めば積む程、或るものを失って行き、舞台の経験の全くない、或は浅い俳優が持っているものによって、同じ舞台の上で自分の演技の魅力をそがれてしまう、というようなことを聞きます。これは芝居の方でも、映画の方でもそういうことがある。経験のあるものが経験のないものより魅力がないということがあるのです。これは経験のある、つまり先輩たる俳優にとっては、実に容易ならんことであって、度々問題になるのですけれども、それについてここでは詳しくは云いませんが、それは先輩たるものが俳優としての修業の積み方に、どこか不完全なところがあったということであります。いいかえると、素人のうちはもっていたいいものを失っているのです。而もそれは俳優として大事なものです。舞台の経験がそれを失わせるのではない。永い俳優生活の惰性が演技を型にはめてしまったのです。こういうことを、後輩の、つまり若い、自分よりも新しい俳優によって、絶えず見せつけられているのです。そこに一つの大きな脅威がある。しかし、それをただ脅威とせず、それによっていい刺戟を受け、自分の中に持っているものが失われないように、常に反省すべきです。
その次は見物です。
見物のことをお客という。お客さんということは、金を払って来るからお客さんでしょうが、お客というようなことを云うのが、そもそも怪しからぬと私は思う。或は贔屓ともいいます。このお客とか贔屓とかいう言葉はどういうことか。俳優は一体何をお客や贔屓に与えているのでありましょうか。もっと広く云えば、俳優は金を払って芝居を見に来る人、映画を見に来る人に、何を与えているのでしょう。与えているもの如何によっては、文字どおりお客でありましょうし、贔屓でありましょう。このお客とか贔屓とかいう言葉が生れたことは、俳優が見物に何を与えているかということを考える場合に、単に商品を与えていたということを告白しているのです。俳優はその演技によって、見物を楽しませているということは、これは事実でしょう。しかし見物に或る楽しみを与えているということだけで満足できましょうか。見物を楽しませるということの意味が、いわゆる見物にサーヴィスするということであったら、その俳優は見物に実にくだらないものしか与えないわけです。そういう俳優のこの卑下の心理が、お客とか贔屓とかいう言葉に現われています。そうではありません。本当の俳優が見物に与えるものは、もっと尊いものです。尊いものを見物に与えるというのは、見物はただ単に俳優の演技の魅力によって自分の心を楽しませて貰うばかりでなく、演劇芸術というものを通じて精神の糧を得ているのです。俳優は公衆から愛されるばかりでなく、人間として芸術家として、それ相当な尊敬を受ける資格があるのです。この尊敬をかち得るのでなければ、俳優の仕事は実に惨めな仕事と云わなければなりません。われわれは友達を持っている。しかしその友達が自分を楽しませてくれる、自分を喜ばしてくれる、ただそういう友達であったならば、その友達は別に有難い友達とは云えないでしょう。その人格に於て、その学識に於て、またその才能とか、友情とかに於て、真に尊敬に価する友達であって初めて心を許すことができるのです。芸術家もそうであります。ただ楽しませるだけの芸術家は、芸術家という名に値しない。そういう商売は、他にそれぞれ名称を与えられております。
ここで芸人と芸術家の区別がはっきり分れるわけです。見物こそはあなたがたの全生命の支えであり、公平な審判者であり、罪のない信者であります。
もう一つ批評家があります。俳優や作家、つまりものを作り出すものと、その作ったものを批評するものとの関係は、また一つの面白い問題でありますけれども、それはここでは略しましょう。
職業人としての誇りと嗜みというなかで最後に云いたいことは、俳優のいわゆるスター心理というものです。俳優が少し有名になって、いわゆる贔屓がついて来たというような気持になって来る。ファンから手紙がくる。企業家が御機嫌をとるようになる。こうなると、人間の常として、いわゆる偉くなったような気持がする。偉くなったら、偉くなった気持であって少しも差支えありませんけれども、俳優の場合の偉くなり方というものには、非常にまた微妙な警戒が必要なのです。何故かというと、他の職業であれば、偉くなれば偉くなったで、それ相応の扱いを社会がする。それ相応の扱いを社会がするのみならず、その当人の偉くなり方が少し変ならば、直ぐひっくり返されます。足下が直ぐ危くなります。他の社会は総てそうであります。文学の世界でもそうです。ところが俳優の世界では、その俳優が変な偉くなり方をしても、案外、当人に誰もなんとも云わないのです。これが俳優の場合、所謂変な偉くなり方をすることが多い最大原因です。そうして変な偉くなり方をした役者はどういうことになるかというと、それと同時にその人の芸は進歩が止ります。そうして徐々に自分のかち得た人気というものが薄らぐのです。この俳優のスター心理というものは、決して現代日本だけの現象でありません。どこの国でも、いつの時代でも、そういう傾向があります。これは一体どういうわけかと考えて見ると、これには実際無理もない、恕すべき点があるのです。自分の偉くなった理由について自ら顧るということが、俳優の場合には実にむずかしいのです。さっきも云ったように、俳優の自意識の問題もありますが、それよりも自分の芸というものについて、自分自身でその価値を厳密に判断することができない。これは俳優という仕事の一番の弱味でもあり、また、その為に独特の自信がつくのであります。もう一つは俳優の芸術というものは、瞬間的なものです。これを押しすすめて行くその俳優が舞台を退けば、あとには名前だけしか残らない。記録にとってとれないこともありませんが、まず俳優としては、その作り出したものが永久の生命をもつものでありません。ここに若干また、刹那的満足を追う傾向が生れます。
そこで、私はここで皆さんにこう云って置きたい――「よろしい。スターになったら、威張りなさい。幾らでも、偉い顔をなさい。しかし、その偉い顔の中にも、なお且つ人を反撥させない魅力がなくてはいけません。堂々と、しかも程よく、存分に、スターたるの悦びを満足なさい」
そのためには、やはり、人間としての巧まない魅力がなければ駄目です。ところが、そこまで人間としての修業が出来ている女優が、フランスにありました。このサラ・ベルナァルは、実に世界で芝居が始って以来の大スターであります。
実にスターらしいスターであり、また同時に、自分がスターであることの満足を一生持ち続けていた女優です。そのスターらしさというものは、誠に普通の常識では考えられないくらい見事なものでした。その云うこと、なすことは実に大袈裟、傍若無人である。その辺の若い作家などは、そばへ行くと頭をなでられる。男はすべて、自分の坐っている足下に跪いて御機嫌をとらなければ承知しない、というような傍若無人さであったけれども、そのスター振りのなかに、大女優としての貫禄とその魅力、殊に女性としての輝くばかりの美しさを、絶えず保っていたということが、サラ・ベルナァルをまったく奇蹟的な例外的な存在としたのです。サラ・ベルナァルより才能に於てもまたその素質に於ても劣っていて、しかも偶然のいろいろな機会に恵まれて、一躍スターになったような俳優が、サラ・ベルナァルを真似すれば、それは滑稽以上のものではない。周囲のものは、蔭で舌を出して笑っていることでしょう。そういう光景も私はやはり見ております。
大体これで皆さんに話しておきたいことは云い尽しましたが、もう一つ附け加えますと、職業人としての誇りと嗜みというなかで、いわゆる、役の軽重という問題についてお話したいと思います。
よく芝居なり映画なりで、役が軽すぎるとか小さすぎるとかいうので、役者がぶつくさ云う話を聞く。勿論どんな人でも、自分の演ずる役が、脚本の中で重大な役であることは嬉しいでしょう。他の人が重要な役をつとめて、そうして自分とそれ程才能も違わないと思うのに、自分の方が小さな、いわゆるつまらない役をやるということは、その俳優にとっては幾らか自尊心を傷けられるように感じられるかも知れない。その不満を公然表明する。そこで役が揉めるということになる。これは恐らく芝居始って以来、興行者、或は演出家が、この俳優の役もめには手を焼いているのであります。一般から云っても、今日まで少しもこの風習は改まっていない。ただ新劇だけが殆どその風習を改めました。これもただ、そういうことをしてはならないのだという自戒で、自分を戒めて悶着を起さないだけで、内心はどうかわかりません。まだそこまで保証はできません。が、とにかくこの種の悶着は新劇ではなくなりました。経験も古く、技倆も上だというような俳優が、時には脇役を演じ、或は端役に廻る。それが新劇では一応無理なく納っています。所謂スターシステムの弊害を認め、適材適所の原則が配役の根本であることを認めたからです。この役の軽重という問題を、ひとつなんとかして、俳優諸君が自分の納得の行く理窟と感情とで解決しておかなければならない。理窟はもうはっきりしています。感情の上では、これがいかに人情とはいいながら、さもしい人情であるかを反省すればいいのです。本当に芝居という芸術を愛し、これに全生命を捧げることができれば、そうしてこの仕事に最も必要な「全体の効果」ということをよく呑み込めば、自分に振り当てられた役割を、それがどんなものであろうと、完全に生かすことの喜びと誇りが、一切の情熱をかり立てる筈です。役不足は、多くは人間としての、又は芸術家としての教養の不足から来るものであることを、特に、私は強調しておきたい。つまり本当の自信がないからです。人間としての教養は、団体の仕事、そのなかでの一つの役割というものの性質をはっきりわからせてくれます。芸術家としての教養によって、演劇或は映画というもののなかに於て俳優の占めている地位、つまりその芸術的な領域と、その俳優の個々の特性を十分に理解する能力が得られるからです。そういう教養のない場合には、逆に俳優の個々人が自分一人の利害ということしか考えられないからだと私は思います。
これで私の担当の俳優倫理という話は終ったわけでありますが、なにしろまだ日本では新らしい俳優という観念と、過去の因襲的な芝居道とが結び付いておりまして、まだ現代の理想的な俳優のタイプというものさえ、はっきりと一般の人の頭には描かれていない。ですから、俳優の倫理という問題を考えるについても、これからの新しい芝居、新しい映画、そういう世界で、もっともっと、いろいろな大事な問題がこれから提出されるだろうと思う。そういういろいろな問題を、諸君は、ただ、在来の古い考え方で以て片附けないようにして戴きたい。恐らく、もう既に私自身にさえ想像のつかないような新らしい問題、誰も今までに解決していない問題が、次ぎ次ぎに生じつつあると思います。そういう問題を、諸君は、個人個人で、更にお互の間でよく検討して、そうして今後の日本の新らしい俳優倫理というものを打ち立てることが、諸君の努力でありましょう。私はただそういう問題を考える緒口を皆さんに示したというにすぎません。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。