文化の新体制

岸田國士




       一

「文化」といふ言葉は今までごく手軽に使はれて来ました。しかし、果して文化とはどういふことでせう。今まで多くの人は、たゞ「文化」といふ言葉のもつ、漠然とした感じを胸に受けとつてゐただけで、文化の本当の姿を突きつめて考へてみたことはなかつたのです。これは少くとも今日まで、自覚された「文化」といふものが、国民生活の隅々に行きわたつてゐなかつたからです。近頃は殊に「文化何々」といかゞはしい物の名称にかぶせられ、お先つ走りの好みに投ずる軽薄な語感さへ生むに至りました。いくらかものゝわかつた人々の間でも、文化生活といへば、余裕のある金持階級の近代趣味を誇る生活を指すやうに考へられ、文化事業といへば、なんとなく贅沢な慈善行為や、毒にも薬にもならぬ仕事が連想されがちでありました。
 しかし、正しい意味の「文化」とはさういふものではありません。もつとわれわれの身についたもので、国民全体の日常生活がいかに行はれてゐるか、その「生活の心構へと方法」とが、とりもなほさず「文化」のあらはれなのであります。
 われわれが三度三度食事に使ふ茶碗と箸がすでにわれわれの文化です。茶碗や箸などは無ければなくつても十分食事はできます。しかし茶碗を使ひ箸を用ひるといふこと、そこに人間生活に於る文化の姿が示されてゐるのです。同じ茶碗や箸でも、なるべく使ひよく、丈夫で、形も色も美しいとすれば、それが文化的にみて優れたものなのです。それと同時に、それらの道具を上手に取扱ひ、清潔にし、これによつて、気持よく食事がとれるといふことになれば、それだけで、もう一つの立派な文化生活なのであります。

       二

 さう考へて来れば、文化といふものが如何にわれわれの日常生活を左右してゐるかがわかります。文化が健全に進むにつれて国民の生活が向上し、それによつてまた物心両面ともに国力が増大するといふことがいへるのであります。
 さういふわけでありますから、大政翼賛会文化部はいろいろの方面から、直接間接に、現代文化の欠陥を埋め、日本固有の優れた文化を守り育てると同時に、明日の新しい生活を築くために必要な糧を、求め、培つて行くつもりであります。とりわけ、お互はいま当面の難局を切りぬけるために必死の努力をつづけてゐますが、物資の欠乏は、当然のことゝして、もう暫く忍ばなければなりますまい。しかし同じく困苦に耐へるにしても、国民全体は、もつともつと元気に、希望をもつて、明日の戦ひにのぞまなければなりません。それがためには、日本人同士は、どんなことがあつても人を見殺しにはしないといふ、お互の強い信頼があつてほしい。それからまた、われわれがほんとに力を合せ、一緒に智慧をしぼれば、まだまだいくらでも余裕がでるのだといふ安心もあつていゝと思ひます。たゞ、もつと本気になつて、政府も国民も、現在の文化の弱点がいつたいどこにあるかを知らうと努めなければなりません。この方面にいくぶん力の入れ方が足りなかつたのが、今日の新体制を生んだ最大原因だと云つてもよろしいので、今からでも決して遅くはありません。官民協力、経済翼賛の実をあげると共に、上下一体、文化翼賛の美果を結ぶところに国防国家の力強い体制が完成されて行くのです。この意味でわれわれは、当面の生活秩序を一日も早く整へ、世界文化の母胎たる新国民文化を創り上げるために、永遠の計をめぐらさなければなりません。
 日本には昔から立派な独特の文化があります。この香り高い日本文化の伝統をもう一度現代の生活のなかに生かし、一方海外文化の長所を吟味採択し、その上に立つて、ほんたうにわが民族の天賦を誇り得る、東亜新文化の樹立を先づ完成することが急務であります。そしてなほこゝに反省すべきことは、今までの政治といふものに対する国民大部分の考へ方です。政治は政治家だけがやつてくれるものといふ考へ方、国民は政治がどういふ風にやられてゐるかといふことに全く無関心でゐたことは、なんといつても大きな間違ひです。
 今度の新体制が確立した暁は、「政治」も、今までのやうな民衆の心持から離れた政治ではなく、真に万民翼賛の名に値する明るい政治になる筈で、そこではじめて日本らしい日本の姿が浮びあがるわけであります。
 われわれは今こそ夢をもたなければなりません。そしてその夢を一人一人にでなく、みんなが力をあはせて、徐々に実現させていかなければなりません。
 それには、先づわれわれの日常生活を計画的に樹て直すことが絶対に必要なのであります。その詳しい具体的の方法は、いづれ発表します。

       三

 国民生活に根をおろし、その上に自然に実を結ぶ所謂学問芸術は、それぞれの専門家はゐますけれども、国民全体の責任に於てこれを発達助長させなければなりません。
 今日まで、どちらかといへば、学問芸術は国民の一部の間にしか縁のないものであるかのやうにみられてゐましたが、これは各専門家の狭い考へからでもあり、また社会の組織や施設がその普及徹底に十分な用意を欠いてゐたためでもありますが、第一には国民全体がこれをそれほど大事なものとして要求しなかつたところに大きな原因があつたといへるのであります。
 そこで、われわれはお互の生活をもつと豊かに秩序だつたものにするため、ものゝ考へ方を根本的に改める必要があります。すなはち、自分の道を自分のために、或は自分の家族だけのために切りひらいて行くのではなく、めいめいが人間として智慧を磨き、徳を修めるのは、すべてこれ国民として、この日本を強く、正しく、美しい国にするためだといふ信念に生きることであります。世の中のどんな仕事を択ぶにしても、自分の才能力量に応じた人間の磨き方を専心こゝろがけなければなりません。他民族と事をかまへるにしても、またこれと手をつなぐにしても、日本人の一人一人が、人間として心から尊敬されるやうにならなければ、国家の運命を分ち担ふ資格はないのであります。この「人間を磨く」といふことは、必ずしも学問を積むといふことでもなければ、芸術に身を委ねるといふことでもありません。ただ、おのづから学問の道に通じる頭の素直な使ひ方と、やがて芸術の感動にまで伸びる豊かな心情の育て方とにあるのです。
 近衛首相の声明にある「臣道実践」とは、国民おのおのがその職域を通じて奉公の誠をいたすことに違ひありませんが、なほ、その言葉の深い意味は、日本臣民の一人一人が、国体の尊厳と歴史の精華とを、その思想と行動のうちにはつきり現すことだと、われわれは確信するものであります。いひかへればこれこそ真の日本人として、世界のどの眼からも、親しみ敬はれるやうな「ゆかしさ」と「凜々しさ」とを身につけることであります。

       四

 さて、大政翼賛会文化部は、以上のやうな大目標に向つて、全国民協力の運動を起したいと思ひます。
 そのために、いはゆる「文化部門」と称せられる専門領域の総動員を行ひます。科学技術、文学芸術、教育、宗教、新聞雑誌、ラヂオ、出版、医療衛生、体育娯楽等の広い範囲にわたつて、それぞれの強力な組織を作り、更にこれを綜合統一して、共同の国家目的に結びつけ、国民生活の指導推進の役割を果させると共に、それぞれの水準を世界的に高める活溌な働きを奨励援助し、民族永遠の発展と飛躍とを約束しなければなりません。
 この理想は、決して、某々外国の形式的模倣ではなく、わが日本の独自な意志と祈願でありまして、組織そのものゝ性質も、運用の機微も、かゝつてわが民族性の理解の上にたゝなければなりません。
 従つて、各部門の再編成に当つても、徒らに単一組織をでつちあげることをせず、既存の団体の特色ある機能を活かし、必要に応じてこれを純化することはあつても、個々の創造的使命はこれを十分に尊重する方針であります。たゞ従来、同じ専門部門に属しながら、不必要な孤立を守り、有無相通じる道を講じてゐなかつたやうな不合理極まる状態を脱却せしめることが肝要だと思ひます。それと同時に、各専門部門の有機的なつながりがないため、各部門それ自身として一種の栄養不良に陥り、国民文化全体として健全な発達をさまたげられてゐた事実歴然たるものがありますので、これを是非なんとかしなければなりません。
 文化部は逐次、各職域部門の横の連繋と、更に必要に応じ、それぞれの緊密な共同作業とを促進する計画であります。
 かういふ風に再編成された全文化機構は、その運用を国家政策に適応せしめることが極めて容易であるばかりでなく、その自主的な活動面に於ても、国民生活日々の糧となり、尺度となり、慰安となり、刺激となり、支柱となるのであります。
 知識はおのづから増し、判断は正確になり、能率が上り、休養足り、娯楽に事欠かず、病弱を忘れ、家庭に憂色なく、隣人相睦むといふ、話のやうな幸福な日が、かくておとづれるだらうといふことをわれわれは信じてゐます。決して空景気をつけようとしてゐるのではありません。
 書物は出版配給の合理化によつて、よい本がみなの手にはいり易くなるでせう。芝居や映画はもつと面白くなり、誰でも見られるやうになるでせう。
 地方農山漁村には、力強い悦びの歌があがり、どんな辺鄙な土地へも、移動演芸隊といふやうなものがしばしば奉仕的に巡廻して行くでせう。衛生施設が着々完備されるでせう。衣食住の問題にしても、これをただ経済的な方面でばかり問題にしてゐる時機ではありません。品は安くても着心地のよい着物の工夫、量は少くても味のよい身になる食物の選択調理、狭い家を上手に住む住み方といふやうな一切の問題が、国民のこの際解決すべきことであります。
 翼賛会生活指導部と協力して、これは当文化部でも専門家を動員して既に研究に着手してゐるのです。

       五

 日常生活を闊達明朗ならしめることは、国民各自の努力だけでは思ふやうになりませんから、これはひとつ、文化部としてさまざまな案を提供したいと思ひます。これが指導者たる芸術家、科学者等の自発的参加も可能であらうと考へられます。
 秩序と底力のある生活が国民のものとなつて、はじめて、時代の文化は見事に花咲くのであります。
 われわれは、現に遂行しつゝある戦争といふ大事業を完成するために、われわれの既にもつてゐる文化の力をありつたけ活かして使はなければなりませんが、更に、明日のより大きな国家的役割を果すため、今日からもうその準備に取りかゝつておかなくてはなりません。それは、いふまでもなく、世界的日本の地位にふさはしい雄渾にして高雅な国民文化の素地を作りはじめることであります。
 由来わが民族の伝統は、一個の天才の創造になる文化財にはさほど恵まれてゐないかはり、各時代を通じ、歳月の鑿によつて削られ、多くの知られざる手によつて磨きあげられた、天衣無縫の名作品に満ちてゐるのであります。
 日本文化の精髄は、実にこの心と心を繋ぎ、力を力に積み重ね、「個」を「衆」のうちに没し去つた生命の泉を基調としたものだと考へられます。民族の天才は、一人一人の精神に宿らないで、むしろ、国民の歴史の一時期を生んでゐるといへるのであります。この見方からすれば、わが国の発展にとつて、専門家の孤立割拠ほど無意味なことはなく、国民の一致協力ほど必要なものはありません。
 大政翼賛会文化部は、単に政府側関係官庁と表裏一体となつてその職責を遂行するばかりでなく、文化に関する各職能部門の綜合事務局たる責任を果すつもりであります。(昭和十六年二月)





底本:「岸田國士全集25」岩波書店
   1991(平成3)年8月8日発行
底本の親本:「生活と文化」青山出版社
   1941(昭和16)年12月20日
初出:「文化の新体制(大政翼賛叢書第六輯)」大政翼賛会宣伝部
   1940(昭和15)年12月15日
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2010年1月20日作成
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