『日本人とは?』再刊にあたつて

岸田國士




 この書物は旧版の前がきにあるとほり、終戦直後、あわたゞしい空気のなかで、自分のうちにくすぶつてゐる感情を一応整理するつもりで書いたメモに類するものである。しかし、また同時に、これは、私とおなじやうな立場にあつて時代の混乱を見まもつてゐる人たちの共感を得、それによつて、祖国の運命に一つの希望をつなぐことができたらといふ念願をこめて、「宛名のない手紙」と名づけたのである。

 雑誌「玄想」に連載され、ついで、養徳社から単行本として出版された当時、その反響は、意外に大きく、しかも、その性質は、まちまちであつた。一方では、私の言はんとするところを善意をもつてうけ容れ、かゝる論議の無駄でないことを認めてくれた人も多かつたが、また一方、この文章に対して思ひがけない反感を示し、ほとんど憤慨にちかい調子で私を責めた人もいくたりかあつたのである。
 それほど不用意なつもりではなかつたのに、さういふ予期しない結果を生んだ原因はどこにあつたか。私はむろん、それについて反省した。意余つて言葉足らず、といふところにも、人を首肯せしめないものがあるにちがひない。しかし、なんといつても、かういふ面倒な問題は私のやうな人間が、かういふ風にあげつらふべきではない、といふ見方が成り立ち得るからであらう。
 これはまことに尤もなことで、われながら、余計なおせつかいだといふ気がしないでもない。しかし、さはらぬ神に祟りなしといふ態度ほど自分をみじめにするものはないと、私は思つた。それを言はなければならぬ人物、言つてほしい人物が、なかなかそれを言はぬといふ日本の現状を思ふと、誰でもいゝ、それを言はずにゐられぬ人間が、まづ、曲りなりにも言つた方がよくはないか、と、自分を励し、鞭うつたのである。私は、どんなに叱られても、どんなに板につかなくても、やはり、これを敢て言つたことを悔いてはゐない。

 たゞ、養徳社版がもう絶版になつてゐるのに、更に版をかへてこれを公にするのは、少し執拗にすぎはせぬかといふおそれもなくはなく、ある種の人々には、重ねて不快を与へるかもしれぬと思へば、もう、いゝ加減に黙つたらよからう、といふ内心の声を、私は、今、やすやすと聞き流せないのが本音である。
 決して責任を転嫁するつもりはないけれども、一切をT・K君の裁量に委せて、その好意と激励とにこたへることにした。

  千九百五十一年一月
著者





底本:「岸田國士全集27」岩波書店
   1991(平成3)年12月9日発行
底本の親本:「日本人とは?」目黒書店
   1951(昭和26)年3月5日発行
初出:「日本人とは?」目黒書店
   1951(昭和26)年3月5日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2010年5月21日作成
2011年5月30日修正
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