S夫人への手紙[別稿]

岸田國士





 書斎を転々と方々にうつしてゐる私を、あなたはおわらひになり、また放浪癖がはじまつたとおつしやるのですが、たしかに、さういふところもないではないでせう。しかし、ただそれだけのことと思つてくださつては困ります。すこし開き直つていへば、今の時代は、ひとところにゐて物をみることは不可能だといふことです。場所をかへたらどれだけ物がはつきりみえるか、といふことは、私が、静岡の町はづれに、上州の山村のさびれた避暑地に、それぞれいく月かを過して、たまに東京へ舞ひ戻つて来るといふただそれだけの生活を通して、なにか、今まで自分の視界から逃れてゐた時代の性格のいはば基底とでもいふべきものをつかみ得たやうな気がするのです。
 時代の真の性格といふものは、決して一つの書斎の窓からのぞき得るものではなく、現在の新聞の社会記事のなかに浮び出てゐるものでもありません。そこになにかが映つてゐるとすれば、それはただ片鱗にすぎません。しかも、全体を問題にするならば、それらの片鱗は、しよせん見ても見なくてもよいものです。
 こんなことはあなたにわざわざ申す必要のないことですが、まつたく今日ぐらゐ角度をかへて物を見なければならぬ時はなく、また、自分の精神の状態が判断を誤まらせ易い時期はないと思ひます。異常なことがすぐに普通のことになり、平凡なことがなにか重大な意味をもつやうにとられたりするのは、まことにそのためです。
 例へば、あなたにとつてまことに奇怪千万で、しかも深刻な意味をもつものと思はれたあの集団見合ひなる現象は、いつたいなんでせう? あなたもおつしやるやうに、たしかにあれは「悲しいファース」に違ひありません。しかし、ああいふ現象は、それ自体として当代の青年男女の心理を端的に示したものでもなく、また、いはゆるつねに戦後の社会をおそふ結婚難の様相ともそれほど関係はなく、まして、日本の封建的因襲に逆らふ新しい風俗の発芽とみるわけにはいきません。
 いはば、それらのすべてをいくらかは含んでゐるにはゐるでせうが、また同時に、それらの原因のいづれをもまともなかたちで内在させてゐないのです。つまり、口実としてそれが利用されてゐるにすぎない点を注意すべきです。いかなる時代にも人心の隙をねらつてゐる営利主義は、あらゆるものを看板として役立てます。
 あなたは前欧洲大戦直後のフランスで、やはり若い女性の結婚難が叫ばれたことを、おそらくお聞きになつてゐると思ひますが、その頃、私がもつとも関心をそそられたことは、政府は男女いづれの性なるを問はず、ある年齢以上の未婚者に対して、可なり高率の独身税を課したことです。
 いかがですか? 深刻とはかくのごときことを言ふのではありますまいか。

 それはさうと、最近、あなたにも特別なショックを与へたらうと想像される一つの事実について、ともかくも私の考へを申しあげておきます。それは、またしても、連合軍司令部から発せられた「日本人の嘘」についての警告です。ただし、司令部当局は、慎重にも、そのことを戦争裁判の証言と占領軍関係の事件の取調べに際して、と、限定しました。が、われわれは、そこに「悪習」といふ表現が用ひられてゐるだけに、さういふ限定を越えて、一般日本人に通ずる「不幸な習性」を厳しく指摘したものと解しないわけにいきませんでした。
 率直に言へば、実に文句をならべる余地のない、手痛い批評であり、それだけにまた、誰でもが迂闊に聞き流すことをゆるされない、頂門の一針であります。
 あなたも多分、これまでにしばしば身辺の問題で経験もされ、それについて、ある種の断定を下しておいでになることと思ひますが、われわれ日本人の多くが、しばしば「嘘を嘘と思はぬ」言動を行ひ、それをまた周囲が、それはそれとして寛大にゆるしてゐる傾向を、すこし考へのある日本人ならば、みな気がついてゐるのです。
 私は今ここで、一般的な「嘘の心理」や、「嘘の哲学」をあなたに説かうとは思ひません。まして、スタンダールやドストエフスキイにみられるやうな、「嘘と真実」の微妙な融合、「嘘つきの天才なるがゆゑに深く真実に徹する」ひとつの偉大にして複雑な精神について語る必要はさらさら認めません。問題は、単に、個人および社会の、実生活に即した、秩序と道徳の平凡な問題です。
 ところで、われわれ日本人の「嘘をつく」その「つき方」ですが、これはまつたく、二つの面から来てゐる度し難い「習慣」で、一つはむしろ却つて道徳的感傷から、一つはまつたく奴隷化された卑屈な態度から来るものです。
 そして、詮じつめれば、いづれも、単純な自己中心の物の考へ方、「その場のがれ」といふ怠惰因循な精神の反射的な欲求が根本になつてゐると思はれます。「いい子になる」こと、「人にいやな顔をされない」こと、「臭いものに蓋をする」こと、これが、日本人大多数の処世の道とさへ言ひきれるでせう。それも、つねに目前の効果を計算にいれてゐますから、自分と相手との関係によつて、その出かたはいろいろです。
 真実といふものは、多くは「どぎつく」相手を打つものです。それと同時に、真実といふものは、時によると、相手にそのままを伝へることが、もつとも困難なものでさへあります。したがつて、修飾がいくらかその「どぎつさ」を緩和し、困難を容易にするやうな錯覚に陥りがちです。嘘の第一歩がはじまります。
 真実を真実として口に出す勇気も、真実を真実として受けいれる勇気も、ともに、感傷と「その場のがれ」とを的として戦ふことを意味すると思ひます。

 ついでにもうひとつ、これと似よつたことで、あなたにこの際特に申しあげておきたいことは、敗戦後の日本人が、なにごとによらず、自分たちの問題を自分たちで処理できず、いちいち「進駐軍の命によつて」やつと恰好をつけてゐるといふ事実についてです。
 これはもう、日本人自身が、そのことを困つたこととして、みんな異口同音に話し合つてゐることで、いまさら、ひとりで嘆いてみてもはじまらぬわけなのですが、これも考へてみれば、さう単純に投げ出してしまへる話ではありません。
 私はつい昨日のことですが、上野駅から汽車に乗りました。ご承知のやうな混乱を予想して、心重く改札の時間を待つたのです。
 ところで、改札がはじまると、場内のスピーカーが叫びました。――「進駐軍の命令によつて」フォームを走ることは禁止されたこと、それに従はないものは厳罰に処せられること、が、はつきりと伝へられました。いつもなら駅員が行列を区切つて誘導してゐてさへ、列車に近づくと、もう列を乱して車内に殺到する、あの死にもの狂ひの光景は、どこへいつたのでせう。行列は葬式のやうに静々と、駅員を先登にしてどこまでもフォームを歩きつづけます。
 これもまた、あなたがごらんになつたら、「滑稽な悲劇」だとおつしやるかもしれない。まつたく、その通りです。
 私は、ふと思ひ出しました。終戦直後のことですが、ある地方の小都市に、進駐軍の命令として、「今後自動車の警笛を聞いて道をよけないものは、その場で処分をする」といふ極めて手のかかつた布告が町角に貼り出されてゐたことです。その時、私は、なんとなく「苦いをかしさ」が胸にこみあげて来た。なぜかと言へば、お互の経験からすると、自動車の警笛を耳にしてすぐに道をよけない動物と言へば、牛か豚であります。
 奥さん、どうかこんなことを言ふ私をとがめないでください。いやしくも同胞について語る言葉としては、慎みを欠いてゐるやうにとられるかもしれませんが、決して私は、さういふ言葉によつて、自らを卑めてゐるわけではないのです。
 なにかの機会にお話した記憶がありますが、かういふ現象は、風俗的にみれば、一見、野蛮未開の歴史を物語るやうですけれども、それを全面的に否定する意味でなく、むしろ、日本人の場合は、社会生活の発展の経路から見て、非常に特殊な人間形成の方向がとられたひとつの例であつて、これを道徳的に、あるひは智能的に、いきなり欧洲文明の尺度をもつて推し測るのは、少し残酷なのです。
 近代の洗礼をうけたばかりのわれわれは、物質文明の巨大な力の前で、なによりも、茫然とし、ぎごちなく振舞ひ、そして、「照れかくし」にうき身をやつしてゐる次第なのです。ただ、その結果をすこしばかり軽く見すぎてゐることが、民族の運命にとつて由々しい誤算であることは申すまでもありません。
(一九四八・六)





底本:「岸田國士全集27」岩波書店
   1991(平成3)年12月9日発行
底本の親本:「岸田國士全集 第十巻」新潮社
   1955(昭和30)年9月30日
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2010年7月1日作成
2011年5月30日修正
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