ゼンマイの戯れ(映画脚本)

岸田國士




主なる人物
笠原平造  四十六才
妻たけ子  四十二才
長男政一  二十三才
娘 富子  二十才
次男圭次  八才
北野良作  四十五才
安田某   二十六才

此の「物語」は、特別の指定以外、どの部分を画面で表し、どの部分を字幕で、また、どの部分を「説明」で補はうとも、それは監督の自由である。たゞ、各場面々々の印象を、映画的に活かして貰へばいゝ。
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第一巻



古ぼけた柱時計が大きく映る。針が零時十五分を指してゐる。
捩子ねぢを持つた男の右手が現はれる。時計を捲き始める。針を九時に直す。
振子を振つて見るが、すぐ止まつてしまふ。


時計の内部が映る。ゼンマイが外れる。
そのゼンマイが、幕一杯に大きく映る。そして、今度は、それが急速度で廻転し始める。すると、その中心から、白い華車な女の右手が現はれる。人差指を出して、何かを指し示してゐる。
此の画面が次第に消えて、次の情景が写し出される。


笠原平造は、日当のいゝ椽先にあぐらをかいて、一心に小刀を動かしてゐる。見ると、玩具の船が出来かけてゐる。傍らに、圭次が、おとなしくそれを見てゐる。もう、帆をかけるばかりである。
妻のたけ子は庭の一隅で張物をしてゐる。
船ができ上つたので、平造は盥に水を入れて、それを浮かして見る。圭次がよく遊んでゐるのを見て、平造は鶏小屋に近づく。金網の破れたところを繕ふ。
富子は母に何かせがんでゐる様子である。
――お父さん、富子が、お友達のとこへ行きたいつて云ひますよ。
平造の慈愛と威厳とを無器用に交へた表情。
――今日はやめとけ。後でお客さんがあるから……。
富子の不服らしい顔附。
母親の富子をたしなめてゐる様子。
平造は、娘の気を惹くやうに、
――安田が、また、トランプをしに来るつて云つとつた。
富子、相変らず不機嫌である。しかし、どうにもならないことを知ると、急に、何もなかつたやうな顔して、奥に姿を消す。
平造は、鶏小屋を離れると、今度は、花壇の方へ歩を運ぶ。草花の新芽がのびてゐる。それに、軽く指をふれながら、誰に云ふともなく、
――今年は芍薬がよく出た。


ある官庁の事務室。――六七人の男が事務を取つてゐる。平造は頻りに帳簿の整理をしてゐる。
上役らしい男が現はれる。平造の傍に来て、平造の差出す書類に眼を通す。大きくうなづく。ふと、卓子の上に立てかけてある、写真立のやうなものに眼をつけ、それを取上げて見る。それは、カレンダアであるが、そのカレンダアを右に開くと、その裏が汽車の時間表になつてゐる。そして、左から畳み込んである別の紙に住所録がついてゐる。それをまためくると、裏に、必要な電話番号が書き込んであり、中央の仕切には、一枚の写真が張りつけてある。
――はゝあ、なるほど、これは便利なもんだね。君の考案かい。
平造一寸恐縮する。
――此の写真は、大連汽船にゐるつていふ息子さんだね。
――はあ。
上役は、なほ、その組立てを検めながら、
――しかし、なかなか器用だね。どうだい、一つ新案特許を取つちや……。立派な発明だよ、こりや、君……。ねえ、安田君。
安田君と呼ばれた隣席の男は、どつちもつかぬ笑ひ方をしてゐる。上役は、上機嫌で、
――暇があつたら、僕にもこれと同じやつを一つ、こしらへて呉れないか。
平造は、大いに面目を施して、上役に一礼する。
隣席の青年は、更めて、そのカレンダアを取り上げる。
――さう云や、さうですね。新案特許なんてものは、すぐ取れるらしいですよ。
向ひ側の男が手を出す。隣席の男の手からカレンダアを受け取る。それをつくづく見ながら、
――笠原式……何とつけたらいゝかね。


平造は、隣席の安田と共に役所の門を出て来る。
青年が頻りに話しかけるのを、上の空で聞いてゐる平造――彼は時々、自分の空想に向つて笑ひかけてゐるらしい。
平造の頭の中をかすめる幻影――
汽缶車――自動車――飛行機――電線――電話――ラヂオのアンテナ――電車――工場に於ける歯車の廻転――化学実験室――学者が試験管を振つてゐる――図書館の本棚――欧文の書籍――その頁が順々にめくれて行く。


平造は、何時の間にか一人になつてゐる。気がつくと、自分が今、何処にゐるのかわからない。一つ時、きよろきよろ、あたりを見廻はす。やつと、方角がわかつたらしく、急いで歩き出す。撒水夫が通る。平造は慌てゝ飛び退く。
――畜生! あんなものは、なんでもない。水の圧力を利用しただけだ!


家の門口である。平造は元気よく玄関の格子を開ける。
茶の間で服を着かへる。食事の用意が出来てゐる。食卓に着く。
たけ子の話
――お向うのお嬢さんは、いよいよ十日に式なんですつて……。今日、奥さんが見えて、仕度を一度見てやつてくれつておつしやるんでせう。見て来たの。大したものよ、そりや……。総桐の箪笥が二棹……それに……。
平造は黙つて此の話を聴いてゐる。聴いてゐるふりをしてゐるのかも知れない。その眼は、しかし、それとなく娘の上に注がれてゐる。
つつましく箸を運んでゐる娘の姿が、華やかな婚礼姿になつて眼の前に浮ぶ。そして、その傍に並んで坐つてゐる新郎の姿、これはまた、役所の同僚、安田なのである。
すると、何時の間にか、平造の眼の前には、今日、上役がカレンダアを見て、発明の才があると褒めた、あの時の光景がありありと浮んで来る。
平造は、はつと、我に帰る。誇らしげに、一同を眺めまわす。
――おれが、今に、どんなえらいことをしでかすか、まあ、見とれ。
妻と娘とは、あつけに取られて、平造の顔を見る。


夕食後――
平造は、夕刊を読んでゐる。
妻と娘は、針仕事をしてゐる。
圭次は、腹這ひになつて、絵を描いてゐる。
平造は、次の新聞記事に目をとめてゐる――



遠山平造氏の世界的発明
    ――飛行機垂直離陸の実験成功――

      ▲航空史上の一大記録▼

平造は、新聞を下に置いて、眼をつぶる。すると、次のやうな活字が表はれる――

笠原平造氏の世界的発明

平造は、思ひ出したやうに、起ち上つて、座敷へ行く。薄板、ボール紙などを取り出す。


スクリーン一杯にゼンマイ仕掛がうつる。そこへ白い華車な手が現はれて、ゼンマイのネヂを捲く。



第二巻



平造の考へ込んでゐる顔――
役所で。
町を歩きながら。
食事をしながら。
風呂の中で。
寝床の中で。
電車の停留所で。


平造は、いろいろな読物を読みはじめる。
通俗科学講話
機械工学
世界発明家評伝


印刷工場を見学してゐる平造。――彼は実に「感心屋」である。


自転車屋の店先で、オートバイの説明を聴いてゐる平造。――彼は少し強情なところがある、そのくせ、臆病である。


憲兵曹長の知人から、ピストルの構造並に各部の機能について、講釈をして貰つてゐる平造。――彼は、あまり理解力の強い方ではない。それでゐて、早合点をする癖がある。


平造は夕食が終ると、すぐに座敷に引込んでしまふ。その後ろ姿を見送る一同の淋しい顔。


平造は、座敷で、何か図面を引いてゐる。たけ子がはいつて来て話をしかけるが、返事をしない。しまひに、
――五月蠅い! おれが何をしてるか、それがわからんか。
たけ子は諦めて部屋を出る。


茶の間である。電燈がついてゐる。時計がとまつたまゝ九時を指してゐる。圭次が額に濡れ手拭を当てゝ寝てゐる。たけ子と富子とが、その枕元に不安らしい顔を並べてゐる。平造が襖を開ける。此の様子を見て、一寸、驚く。
――どうしたんだ。
――少し熱があるらしいんです。
 と、たけ子が答へる。
平造は、病人の顔をのぞき込む。
――どこが痛い?
病人は何か云つてゐるやうであるが、平造の耳にはいらない。
――富子、医者を呼んで来い。
――お待ち、わたしが行くから……。
たけ子は、かう云つて起ち上る。
此の時、三人の眼は、云ひ合はしたやうに、止つた時計の上に注がれる。


役所の卓子の前で考へ込んでゐる平造。
給仕が何か云つてゐる。平造は惶てゝ書類を探す。探し出した書類を見ながら、別の紙に何か書きつける。急ぐので思ふやうに捗らない――さういふ焦立たしさが見える。
給仕がまた呼びに来る。平造、何度もうなづく。しばらくして、やうやく仕事の形がついたらしく、書類を持つて出て行く。

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上役の部屋。――平造が恐縮したやうにはいつて来る。上役の不機嫌さうな顔。
――君は近頃、どうかしてるね。
平造は、やゝ窮屈な笑ひ方をする。が、だんだん反抗的な態度を示して来る。

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ある小さなカフエー。――平造と安田とが卓子に向ひ合つてゐる。
――新案特許は駄目でしたか。
――うん、あれや、どうだつてかまわんさ、処が、今度こそは大丈夫だ。
――何んです、今度のは?
――何んだと思ふね?
――さあ……? 鉛筆削りですか?
――馬鹿云つちやいかん。
それから、平造は、手真似身振を交へて、新発明品の説明をする。
それは、つまり、箱車に取りつける日覆である。炎天に重い車を曳いて歩く小僧達の惨めさから説き起して、人道上から見ても、その考案の価値が如何に大であるかを述べる。
――ねえ、安田君、さう思はないかね。
――そいつは、たしかに、いゝですな。
――第一資本を手に入れる必要があるんだ。
――何時か聞いた、あの人はどうです、弁護士で会社の社長をしてるつていふ人は……。幼友達だつていふぢやありませんか。資本ぐらい出してくれるでせう。
――いやだ。あいつの力は借りたくない。
――からだを動かすことなら、僕を使つて下さい。
――あゝ、君には、いろいろ相談するつもりだ。君は文章がうまいから広告文を書いて貰ふかな。
――ビラ撒きだつてやりますよ。
――はゝゝゝゝ。
両人は愉快さうに笑ふ。

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圭次の病床。――
医者が脈を看てゐる。そこへ平造が帰つて来る。

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座敷。――平造と医者とが対坐してゐる。
――どうも、私では少し不安ですから、どなたか専門医にお見せ下さいませんでせうか。
――余程重態でせうか。
――可なり重態だと思ひます。どうですか、いつそ病院へお入れになつては……。
平造は黙つて考へ込む。

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茶の間。――
たけ子が独り、圭次の枕元に坐つてゐる。
襖越しに医者の云ふことを聴き取らうとしてゐる。

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平造とたけ子とは、医者を送り出して、座敷に帰つて来る。二人はなるべく口を利くまいとしてゐる。しかし、云ふだけのことは云はなければならない。
――北野に相談して見ようか。
――およしなさいね、それだけは……。
――ぢや、どうする。
――政一のところへ云つてやつて見ませうか。
――あいつにか……。
――でも、ほかの場合と違ひますからね……。

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炎天下の路上を、寝台車が通る。その後から、平造が、扇子を使ひながら歩いて行く。時々、幌の間から中をのぞく。平造は車を挽いてる男に声をかける。
――此の車は、これで、いくらぐらいかゝるね。造らせるとすると……。

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平造が、座敷の机の前に坐り、両手で頭を砲へてゐる。左の手に繃帯をしてゐる。突然、机の曳出から、一葉の証書を取り出し、それを眺める。その証書は、「箱車用笠原式日覆」の新案特許証書である。何か決心したらしい面持で起ち上る。服を着替へはじめる。

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北野法律事務所といふ表札のかゝつた建物の前を、さつきから、行きつ戻りつしてゐる平造。

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応接室。――平造が北野良作と対坐してゐる。彼は風呂敷包をほどいて、特許証書を取り出す。そして、それを良作の方に差し出す。良作は、その証書と平造の顔とを見比べてゐる。平造の顔には、ありありと得意の色が浮ぶ。
――実は、このことについて、御相談に上つたんですが。
良作の怪訝な顔。
――へえ、君にかういふ才のあることは、ちつとも知りませんでしたね。さあ、しかし、わたしは、かう云ふ方面には丸で素人だが……。
平造は、こゝぞとばかり、
――なに、少し資本さへあれば、きつと成功するだらうと思ふんです。
良作は苦笑しながら、
――わたしも、自分の関係してゐる仕事に、もつと資本が欲しいくらゐなので……。
平造は、黙つて対手の顔を見てゐる。明かに失望の色が見える。
良作はそれを慰めるやうに、
――だが、心掛けては置きませう。事業家といふものは、どんなことに興味を持たないものとも限らない。機会があつたら、さういふ方面の人に話して見ませう。
平造は、頭を下げる。そして、逃げるやうに外へ出る。

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平造は人通りの多い町を歩いてゐる。ある四ツ辻で、老人が自動車に轢き倒される。人だかり。巡査、担架。
平造はそこで、自動車に轢かれても怪我をしない護身装置を考案しようと思つてゐる。それは鋼鉄製の鎧のやうなものか、或は魚を焼く金網のやうなものでなければならないと考へる。既に、さう云ふ護身装置をつけた人間が、眼の前に浮ぶ。そして、その人間が実際自動車に轢かれながら、平気で起き上つて歩いて行く有様が眼に見えるのである。処が、さういふ奇妙な格好をした人間が、右往左往する大通りを想像して見ると、一寸、変な気がする、こいつは、もう少し考へ直して見なければなるまい。

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ゼンマイのネヂを捲いてゐる大きな白い手。



第三巻



港に碇泊してゐる汽船の舷梯。
三等運転士笠原政一は、今、一通の長い手紙を読み了つたところである。唇がかすかに顫える。
手紙の一端が翻る。


政一どの   母より

 といふ字がはつきり読める。
政一の顔はだんだん悲痛な色を帯びて来る。彼は今、眼の前に一つの情景を描き出してゐる。
其処には、圭次が寝てゐる。勿論、病人であることだけはわかる。その傍に、母が泣き伏してゐる。
次ぎに、父が頻りに小刀で木を削つてゐる。やがて其の手をやめて、考へ込む。髪の毛を掻きむしる。疳癪を起して立上る。富子とたけ子が両方からその手に取り縋る。それを払ひ退けて、狂気のやうに笑ふ。
政一は、溜息を吐く。手紙を静かにしまふと、何か思ひ出したやうに、急いで其処を立ち去る。


政一の船室。――机の上に、家族一同の写真が飾つてあるのがすぐ眼につく。政一は、船室にはいると、いきなり、手紙を書きはじめる。


平造の役所の事務室。
平造の席ばかり空いてゐる。隣席の安田は、向ひ例の同僚と笑ひながら話をしてゐる。
――笠原君には、近頃会ふかい。先生よりも、娘さんにやどうだい。
安田は案外真面目である。
――えゝ。
――箱車の日覆は、やつぱり駄目かい。
――雇主に理解がないんで、どうにもならないつて云つてました。しかし、今度考案したのが当れば大したものでせう。
――何だ、今度のは?
――当てゝ御覧なさい。
――鼠取りだらう。
――あ、どうして知つてるんです。
――それ位のこた、わからあね。二三日前に新宿で奴さんに会つたんだよ。鼠取りなんか、今時、誰が買ふもんか。それはさうと、急に役所をやめられちや、先生も、困るだらうな。
――結局、気楽だつて云つてましたよ。
――あれで、なかなか、負惜みが強いから……。


病院。圭次の病室。
看護婦が忙しさうに出たり入つたりしてゐる。たけ子は圭次の顔をのぞき込んでゐる。医者が来て注射をする。


平造の家。――小使風の男が玄関を開ける。
――佐竹病院から参りました。すぐ皆さん、病院へおいで下さい、坊ちやんの御容態が少しお悪いやうですから……。
富子が飛んで出て来る。すぐに奥にはいる。
富子は座敷と茶の間との間を行つたり来たりする。そして、おろおろ声で、
――お父さんはどうしたらいゝだらう。


病院。
圭次の枕元には、たけ子と看護婦と医師とが附きそつてゐる。そこへ、富子が、息せき切つてはいつて来る。
――お父さんは、何処へいらつしやつたか、わからないの。
医師は脈を取りながら、
――まだ大丈夫です。
一同は気が気でないといふ風に、絶えず戸口の方に眼をやる。富子だけが、眼にハンケチを当てゝゐる。


荒物屋の店先で、新案蠅取器を手に取つて仔細に見てゐる平造の姿。


夕方である。繁華な大通り。動物の玩具を売つてゐる大道商人。茣蓙を敷いて、その上に、色々な動物が並べてある。殊に、兎、蛙、亀、蛇などが眼につく。可なりの人だかり。それは、たゞ、その玩具が珍しいばかりではない。何よりも、それを商ふ男の、人を喰つた口上が暇な散歩者の足を止めるらしい。
――如何です、本物よりよく出来てゐるでせう。それもその筈、こいつらには、人間の魂が吹き込んでありやす、へゝゝゝゝ。
男は、かう云ひながら、それらの動物を動かして見せる。
――これは兎です。はい、こちらが亀さん……。この通り、のそのそと逼ひ出します。なにが可笑しんです。君だつて此の亀と大して違やしないよ。(笑ふ)こんどは蛙です。さあ、飛んだ。おや、人間が笑つてるぞ、玩具の人間が……。さ、これはなんです、お嬢さん(と云つて、若い二人連れの女の鼻先へ、蛇の玩具をつきつける。あれツと大業に叫んで、女たちは顔をそむける)はゝゝゝゝ。なにも、怖いことはない。さういふ風に、あなた方の頭は単純に出来てる。ね、あなた方が嬉しいと思ふ事は、ほんとにうれしい事ぢやない。悲しいと思ふことも、ほんとに悲しいことぢやない。あなたがたが、たゞ、さう思ふだけですよ。わかりましたか。わかつた人は、手を挙げて! さあ、さあ、皆さん、ゼンマイ仕掛の頭で何を考へてゐるんです。早く買はないと日が暮れる。兎はこれで二十銭、亀と蛙が十五銭、蛇は特別で五十銭……。さあさあ、買つた買つた。
かう云ひながら、手早く、玩具のゼンマイを捲き直す。
それを、いろいろな気持で見てゐるいくつもの顔。――あるものは無邪気に感心し、あるものは、わざと馬鹿々々しいと云ふ薄笑ひを浮べながら、その実なかなか心を惹かれてゐる。また或る者は、人が見てゐるから見てゐると云ふ張合のない表情。その他、不健康な文明が生むさまざまな不健康な顔が、此の小さな生命の仮感によつて、いろいろな程度に刺激され、興奮させられてゐる有様が、気味悪るく、また、やゝ滑稽に現はされる。
そして、それらの顔の中に、いつの間にか、一つの新しい顔が加はる。それは平造の愚直そのものゝ如き顔である。その顔は、次第に他の顔の前に出て来る。つまり、他のものを押し分けて、動く亀の方に近づいて来るのである。
――どうです、一つ、旦那、お土産に亀の子は如何です。
かう、云ひかけられて、平造は、一寸、きまり悪るげに顔を引込める。
此の頃から、買手が盛に現はれる。銀貨や白銅をつまんだ手が、あつちからもこつちからも出る。
――兎をくれ給へ。
――おい、亀の子。
――蛇を二匹くれ、二匹。
――蛇と蛙を交ぜてくんな。
みんなの笑ひ顔。
忽ち商人の膝の前には白銅と銀貨の山が築かれる。
平造は、もうそこに文字通り腰を据えてゐる。そして、手に取つてこそ見ないが、玩具の動く仕掛を、前後左右から見究めようと努めてゐる。それがためには、殆んど地べたに頬を擦りつけなければならない。彼は衆人環坐の中にゐることを忘れてゐるやうである。彼が何気なく顔を近づけた刹那、一匹の蛙がピヨンと鼻の頭に飛びついた。可笑しいのは本人ではない。が、他のものは、そんなことには気がつかない。たゞ此の熱心さには、誰もが興味を感じてゐる。勿論かういふ場合の常として、中には、此の憐れむべき研究狂を鼻で嗤ふ気障な紳士も交つてゐる。
平造は、とうとう我慢ができずに、蛙を一匹手に取り上げる。裏返して見る為めである。その時、商人は、無意識か故意か、代金を受け取る手を、その方に差出す。すると子供が何か悪戯をして、それを見つけられた時のやうに、惶てゝ、蛙を下に置く。左右を見返る。多くの眼が自分の方に注がれてゐる。彼は、此の時こそ、自分の滑稽な立場をはつきりと意識する。逃げるやうにそこから立ち去る。


平造の右手。――掌の上に、銅貨が二枚。

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病院。
圭次の傍に、たけ子と看護婦とが、静かに話をしてゐる。たけ子は、額のあたりに、いくらかまだ暗い影を残してゐるが、看護婦の方は、殆ど、今朝の緊張した光景を忘れさせるほどの明るい微笑を以て之に対してゐる。圭次は両眼をはつきりと見開いて、何か物を云つてゐるらしい。たけ子が、匙で牛乳を飲ませる。
戸が開く。平造が悄然と、疲れ切つた姿を現す。たけ子の険しい眼付。平造は圭次の枕元に近づく。圭次の手を取る。その間、一言も発しないたけ子は、遂にゐたゝまらないやうに座を立つ。よろけながら戸口に近づく。戸を開ける。と同時に、袖を眼に押し当てる。姿が消える。

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病院の長い廊下。――薄暗い電燈の光り。
たけ子、窓から外を見てゐる。努めて気持を落付けやうとしてゐるらしい。何度も病室の戸口に眼をやる。廊下を往き来する看護婦、軽症患者、面会人など。
平造が出て来る。すぐたけ子のそばに近づく。たけ子はその方を振り向かうとしない。
――ちつとも知らなかつたよ。
――あなたは、まだ、御自分のしてらつしやることがわからないんですか。
――わるいことはしてやしない。
――結果は同じことですわ。あたしは、もう決心をしました。
――どういふ決心――?
そこで平造は、たけ子の顔をのぞき込む。たけ子は、汚らはしいものを避けるやうに、顔をそむける。
――おれの仕事を、もう少し理解してくれなくちや困る。おれの才能を何処までも伸ばさせてはくれないのか。
――それよりも、あなたはあなただけの仕事をしてゐて下さい。その方がみんなのためですわ。
――おれに、どれだけの事が出来るか、お前に解るか。ね、さうだらう。もう少し見てゐてくれ。
――それが解る前に、あたしたちは世間から見放されてしまふでせう。
此の時、病室の戸があいて、看護婦が手招きをする。たけ子、急いで病室に入る。平造之に従ふ。但し、看護婦の様子は、決して、彼等に危険を予感させる程度であつてはならない。

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病室の内部。――圭次、父親に何か云ふ。平造大きくうなづく。
――ようし、あした来る時持つて来よう。
平造は、一瞬間、何か考へてゐる様子である。が、すぐに、圭次の傍を離れ、たけ子に向ひ、小声で、
――もう少し辛棒してくれ、今度こそは物にして見せる。

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病院の門を出る平造の、淋しい影のやうな姿。

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動き止んだゼンマイ。――大きな白い手が現はれる。ネヂを捲き初める。



第四巻



平造の家。
先づ茶の間である。長火鉢もない。その代り、安物らしい瀬戸火鉢と、食器を並べたまゝのチヤブ台が一隅に片付けられてある。


庭の花壇には雑草が生ひ茂つてゐる。庭の一隅に、日覆を取附けた箱車が、しよんぼり置去りにされてある。鶏小屋には鶏が一羽もゐない。富子が洗濯物を干してゐる。


平造は、座敷で、相変らず何か考へ込んでゐる。あたりには、ゼンマイ仕掛けの玩具が三ツ四ツ散らかつてゐる。時々、それ等の玩具を動かして見る。先づ、拳闘の玩具である。その次は、ノンキナトオサンである。トオサンが歩くたんびに、自分も首を振る。最後に、輪を描いて飛ぶ飛行機である。これは最も平造の意に叶つたものであるらしい。彼は子供のやうに打ち興じる。


玩具屋の店先。
平造が切りに玩具をいぢつてゐる。


また別の玩具屋。――平造の顔が飾窓に映つてゐる。


最後に、ある玩具屋の店の奥。――玩具屋の主人は、あれこれと変つた玩具を平造に見せてゐる。入れ代り立ち代り新しい客が来て、買物をしては出て行く。平造は、もう余程長くゐるらしい。主人は、此の不思議な客を五月蠅く思ひ出す。もう相手にしなくなる。が、油断なく、一挙一動を監視してゐる。高い処に載せてある箱入の高価らしい玩具を、平造が一寸見せてくれと云つても、主人は、
――あれですか、あれやお手に合ひますまい。
 と云つて取り合はない。
平造は、主人の不機嫌を見て取り、何か買はなければ悪いと思ふが、生憎、懐は淋しいし、手頃な欲しいものがない。止むを得ず、おしやぶりを一つ買ふ。そして店を出る。


公園である。子供達が大勢遊んでゐる。縄飛びをするもの、ブランコに乗るもの、スベリ台を滑るもの、それから、独楽を廻すもの、小さな自動車を運転するもの、其の自動車が平造の眼にとまる。平造は、その側に近づいて行く。乗つてゐる子供には頓着なく、機械の点検を始める。スケートに乗つた子供が来る。その子供からスケートを取り上げて、自分で乗つて見る。勿論、その構造を研究することを忘れない。スケートを取られた子供は、泣き出しさうな顔をして平造の後ろ姿を見送つてゐる。遊動円木をやつてゐたその姉らしい少女が、弟のそばに来て、「どうしたの」と聞いてゐる。弟は、恨めしさうに、平造の方を指さして、何か訴へてゐる。「まあ、ひどい小父さんね」と言つてゐる少女の眼つき。
しばらくスケートは調子よく滑走を続けてゐたが、忽ち、車が廻らなくなる。平造は、前にのめる。急いで、修繕に取りかゝる。子供がたかつて来る。平造は、汗だくだくで、大人の面目を立てようとあせつてゐる。


病院。
圭次の枕元で、たけ子が居眠りをしてゐる。――静かな病室の朝の日ざし。
医者が回診に来る。
――もう一と息です。今が一番大事な時ですよ。
――お蔭様で命拾ひを致しました。


北野法律事務所の応接室。
良作と平造とが向ひ合つてゐる。
――どうです、一つわたしの会社で働いて見ませんか。
――家内から、さういふことをお願ひしたのではありませんか。
――いゝえ、わたしの一存です。わたしは旧友として、君達を見殺しにすることは出来ない。さうかと云つて、君達の窮境を救ふといふ名で、君達を、つまらぬ恩義で縛るやうな結果になることは絶対に避けたいと思ふのです。なにしろ、かう云つてはなんだが、君のやつてゐることは、どうも、わたしたちには見当がつかんよ。
――あゝ、さうですか……。信用できないと云はれゝばそれまでゝす。
――笠原君……。
平造は黙つて立ち上る。明らかに憤懣の情を抑へてゐる。
良作は沈痛な面持で平造を見上げる。

10


公園。――薄暮。
運動場には、子供は一人もゐない。それは何となく空虚な感じである。平造は、黙つてベンチに腰をおろす。そこへ、同じく仕事にあぶれたらしい労働者風の男が来かゝる。これも、ベンチに腰をおろす。全く別々な、しかし、同じく孤独な二つの魂が、何時からか、そこに置き忘れられたように見える。風が立つ。落葉が舞ふ。長い沈黙。
平造は、起ち上つて、歩き出すが、何を思つたか、また元の所に腰をおろす。
野良犬が一匹、尾を垂れて通る。

11


電車の中。――
平造は吊革にぶら下つて、人が読んでゐる新聞の盗み読みをしてゐる。その男が新聞をしまふ。手持無沙汰な顔をする。殊に眼のやり場に困る。その隣りに、子供を抱いた婦人が腰掛けてゐる――その子供の持つてゐる玩具に、ふと眼をつける。その玩具は、猿の木登りの玩具である。母親は子供をあやしながら猿を上げたり下げたりしてゐる。平造は、子供の顔をのぞき込んで「ばア」をする。さういふ時の、多くの若い母親がする会釈。平造は図々しくなつて、子供の玩具に手をかける。子供が泣き出す。母親は、見知らぬ男の無作法なお愛想に、やゝ反感を抱いたらしく、ぷいと席を立つ。すると、平造は、にやにや笑ひながら、その空席を占領する。
電車の中に並んでゐる無表情ないくつもの顔。

12


夜店。
ダンス人形を売る男。――人形は、あらはな両腕を細い腰に当てゝ、足拍子面白く、華やかなトーダンスを踊つてゐる。アセチリン瓦斯の光が、踊り子の冷めたい、白い肩先を照してゐる。
平造の顔が、大きく笑ふ。
――何と、うまいものを考へ出す奴がゐることよ! だが、おれは一体、何をどう工夫すればいゝのだ?

13


平造は富子の給仕で、形ばかりの夕食の膳に向つてゐる。
――あたし、今夜は、病院へ泊つて来ようかと思つたの。母さんは、あれから、幾晩も眠てないのよ。でも圭ちやんが帰つて来るならうれしいわ。――あたしがついてるから、一度家へ帰つてお休みなさいつて云ふのに、母さんは、どうしても圭ちやんをほうつて帰るのはいやだつて云ふんですもの。
平造は、食事を終ると、仰向けにごろりと寝ころがる。富子が枕を持つて来る。そして食事の後片付けをする。

14


平造の頭の中では、今、いろいろな玩具が次ぎ次ぎに、現はれては消え、現はれては消えするのである。殊に、ダンス人形は、平造の貧しい空想を嘲りながら、幾度も、その魅力ある活溌な運動を繰返す。
其処へ、ノンキナトオサンがノコノコ歩いて来る。
すると、ダンス人形が、いつの間にか、娘富子そつくりに見えて来る。こつちを向いて笑つてゐる。ノンキナトオサンの顔は、何時の間にか、平造の顔に変る。
そこへ、今度は同じやうな踊り子が、一人出て来る。二人は手をつないで廻り始める。ぐるぐる絶え間なく廻る。それが大きな独楽に見える。
と、今度は、踊り子が、一人一人爪先で廻り出す。それは、見てゐると、二つの独楽が並んで廻つてゐるやうである。
それが、また、一つの独楽になる。その独楽が踊り子になる。その踊り子が娘の富子になる。
ノンキナトオサンは、いきなり踊り子の手を取らうとする。
踊り子は驚いて、その手を振り放す。逃げる。追ふ。
踊り子は、ある波止場に追ひつめられる。が、ノンキナトオサンはもう足が動かなくなる。その時は平造である。両手を差出して、娘の名を呼ぶ。
踊り子は岸に浮んでゐるボートの中に飛び込む。ボートの上には、白い服を着た青年が乗つてゐる。ボートが岸を離れる。青年と踊り子とは顔を見合はして驚く。青年は政一である。二人は抱き合つて悦ぶ。
平造は、がばと跳ね起きる。眠つて居たらしい。が、その眼は、何か見失つたものを探してゐるやうである。
富子は気味悪るさうに父の視線を追ふ。はたと二人の視線が合ふ。平造は、しげしげと娘の顔を見守る。と、急に、平造の顔は輝いて来る。
――あれだ!
かういつて、膝を打つ。富子は、何のことかわからないが、此の言葉の調子に惹き入れられて、我れ知らず大きな息を吸ひ込む。
――ようし、占めた!
平造は更にかう叫んで、富子の両手を取る。

15


大きな白い手が、ゼンマイのネヂを捲き終つたところである。



第五巻



出帆しようとする汽船。盛に貨物を積み込んでゐる。監督の任に当つてゐる三等運転士笠原政一――彼は、ボーイから、今、二三通の手紙を受け取つたところである。そのうちの一通を、手早く開封する。
次の文面が読まれる。
――秋冷相催し候処、其許には相変らず頑健にて勤務の由安堵致し候。扨、前便の趣、其許の考、一応尤に候も、決して常軌を逸したる次第には無之、たとへ一度失敗するも再び起つ勇気と自信とを失はず、一家のものには多少苦労ありたらんも、そは成功の暁十分に償ひ得るものなり。母上よりは如何やうなる便りありたるやは知らざれども、そはみな取越苦労乃至は針小棒大的報告に過ぎずと存ぜられ候。なるほど今日までは、世の発明家と云はるるものが、何れも遭遇する困難と障害とを小生も免かるる能はざりしが、いよいよ、此度は、三ヶ月の苦心報いられて、成功疑ひなき新案物を発明いたすことに相成、近々特許出願の運びに御座候。目下秘密裡に見本製作中なれど、此の前の箱車用日覆などと違ひ、一般向なる上に、各家庭に備へて以て一家団欒の楽しみを増すべく、行く行くは外国へ輸出さるるやうにでもなれば、販路は無尽蔵ならんと存じ候。来春御帰省の砌りは、当方も多少面目を改めをるに相違無之候。
なほ、圭次の病気は、追々軽快に相向ひ二三日中には退院の予定に御座候。
いろいろ御話し致したきこともあれど、目下研究に忙殺され居り候間、これにて擱筆いたし候。
時候不順の折柄自愛専一に祈居候。家のことはくれぐれも心配御無用に候。
十月二十一日
政一殿

政一は、手紙をぢつと見つめてゐる。その時、起重機が廻り過ぎて、大きな箱が、政一の頭にぶつからうとする。
――危い!
 と、誰かが叫ぶ。政一は、無意識に飛び退く。ぢつと胸騒ぎを鎮めようとする。
母と妹の淋しく笑ふ顔が、その瞬間、政一の眼の前に浮ぶ。
白い服を着た支那の女が、手を叩いて笑つてゐる。
政一は苦笑する。


平造の家の茶の間。――夜である。圭次が寝床の上に坐つて、背中を、高くした掛蒲団にもたせかけてゐる。富子が本を読んで聞かせてゐる。
長い間。
襖が開いて平造が首を出す。
――お母さんは?
富子は答へる。
――まだ。
平造首をひつ込める。
長い間。
平造再び顔を出す。今度はすぐひつ込める。


暗い淋しい通り。角に交番がある。空車が一台通る。間。やがて、風呂敷包みを抱えた女が通る。うつむいて歩く。が、一寸、後ろを振り返る。それはたけ子である。姿が消える。――長い間。
男が一人反対の方向から来る。それは平造である。二人は何処かで、擦れちがつてゐる――お互に気がつかずに。


平造の家の茶の間。
たけ子は風呂敷をほどいて、着物を出す。富子がそれを検めてゐる。
――やつぱりお前にや地味だね。
そこへ、出し抜けに平造が帰つて来る。二人の方にちらと視線を投げ、黙つて奥にはひる。
富子とたけ子とは、何といふことなしに顔を見合せる。たけ子は、あわてゝ、眼をそらす。そして、口の中で、
――少し地味だね。


小さな木の独楽が二つ、皿の上で廻つてゐる。かち合つては離れ、またかち合つては離れする。一方は、急に勢がなくなつて、ぐらぐらしはじめる。それを、別のが小づく。ばつたり倒れる。
そこへ人間の手が出て、両方の独楽を廻し直す。
今度はその人間の全身が現はれる。云ふまでもなく笠原平造である。彼は、満足げにこの独楽を眺めてゐる。それは丁度、相撲狂が勝負を夢中で見てゐる時と同じ様子である。と云ふよりも寧ろ、行司に近い恰好である。
――はつけよい、のこツた。
勝負が終る毎に、この勝負相応の笑ひ方で、盛んに景気をつける。


茶の間では富子とたけ子とが、時々、あきれて、顔を見合はせる。こつちの空気は、その度毎に、憂鬱さを増して行くやうである。たけ子は、しまひに、たまり兼ねて、眉を深く寄せ、両手で耳を塞ぐ。
富子は心配さうに、たけ子の耳元に何事か囁く。そして襖の隙間から座敷の中をそつと覗く。しかし、平造が、一体、何をしてゐるのかわからない。母の方を顧みて、それと、首を振つて見せる。


平造が、朝早く、包みを抱えて家を出る。いつになく晴れやかな、のんびりした様子である。


茶の間では、たけ子が火鉢に火を起してゐる。富子がはひつて来る。長い間。
――お前はすぐにお父さんの肩を持つけれど、お父さんは、あたしたちのことを、ちつとも考へてやしないんだよ。
――そんなことはないわ。今だつて、出がけに、かう仰しやつたわ、いよいよ、お前たちに楽がさせられるつて……。
――その「いよいよ」……を、何度聴かされたことやら……。それよりお前、あの返事を聞きに行かなくつてもいいのかい。
――えゝ、行くわ。だけど、お父さんもお可哀さうよ。あゝして、一人で悦んだり、落胆したりしていらつしやるのを見ると、あたし、うそでもいゝから、信じてあげたくなるわ。でも、今度は大丈夫らしいの、なんだか知らないけれど……。


或る玩具屋。――主人が店を掃除してゐる。平造がはひつて来る。
――いつか話した玩具ね、やつと出来上つたんですがね、一つ、見てくれませんか。
平造は、包みをほどく。独楽を取り出して、それを廻して見せる。
――誰にでも出来る遊びなんです。
――なるほどね。
――特許出願中ですが、むろん、おりると思ふんです……。
――面白いですな。
――面白いでせう。
――しかし、よつぽど広告をしないと売れませんな。
――それやもう、広告はするつもりです。
――どうです、玩具を作る会社へ相談なすつて見たら……。
――はゝあ、さうですな。然し権利を手放したくないんです。
――それもさうですね。
――千や二千の端た金でね。
――それなら一つ、御自分で工場でもお建てになるんですな。
――それには、やはり、なんでしてね。
――さやう。
主人は、興味がなささうに、店の掃除を始める。平造は、所在なささうに、玩具をしまひかける。
――どうでせう、一つ、共同でやつて見る気はありませんか。
――共同と云ひますと……。
――いや、資本を少し出して下されば、わたしが万事仕事の方は引受けますから……。
――資本をね……。
主人は皮肉な微笑を浮べる。

10


別の玩具屋の店にはひつて行く平造の後ろ姿。

11


また別の玩具屋の店を、悄然と出て来る平造の姿。――相変らず包みを抱えてゐる。

12


北野法律事務所の入口。
平造がその前に往つたり来たりする。

13


平造の家である。
圭次が、寝床の上に坐つてゐる。その傍で安田が、退屈さうに新聞を読んでゐる。圭次が新聞をひつたくる。安田は、怒つた真似をして、それを奪ひ返す。圭次、面白がつて、またそれを取る。新聞が破れる。
――僕、立つて見ようか。
――駄目だよ、そんなことしちや……。
――もう、立てるよ、きつと……。
――駄目、駄目……。おつ母さんに云ひつけるよ。
そこへ、たけ子が現はれる。
――どうもお世話様……。富はどうしました。
――知りません。どつかへ出て行きましたよ。僕が来ると、どつかへ出て行くんだから……。
――まさか……。
安田はさう云つたものゝ、相手の返事が、ぴたりと来ないので、てれかくしに、
――遅いなあ、大将は……。
――どうせ、何時のことだかわかりませんよ。

14


北野法律事務所の応接室。
平造は、例の独楽を機械的に廻しながら、努めて対手の顔を見まいとしてゐる。
北野良作は、極めて冷やかな態度で之に対してゐる。それは決して、第三者の反感を唆るやうなものではないが、ある場合には、石のやうに無感覚な印象を与へ得る人物であることがわかる。
――いや、これ以上、どう云ふ名義にしろ、物質上の御援助は出来ません。どうか悪しからず。では、今日は急ぎますから、これで……。
呼鈴を押す。給仕が現はれる。
――あ、此の方を御案内して……。それから、すぐに出掛けるから車の用意……。
平造は、しかたなしに独楽をしまふ。

15


再び平造の家。安田が帰るところである。
――ぢや、今日の結果はあしたの朝聞きに来ます。どうかよろしく。
安田が帰ると、入れ変りに、富子が、何処からか姿を現はす。
――お前何処へ行つたの。
返事をしない。
たけ子は馬鹿らしくつてたまらないといふやうな顔をして台所に行く。
富子は、圭次の傍にすわる。
――もう一軒、頼んで来とかうかしら……カフエーだつていゝぢやあないの……。
返事がない。
――圭ちやん、もう横におなり。あんまりさうしてるとくたびれてよ。
――うゝん、もうさつき寝たんだよ。姉ちやん、こら……。
と云ひながら、圭次は、そつと、からだを起す。腰を据えてはゐるが、なるほど、立派に立ち上つた。半年ぶりで立ち上つた。富子は、此の意外な光景に、それを制することも忘れて、たゞ悦びに胸を躍らせる。弟の方に手を差し出し、転んだらばと身構える。が、圭次は、転ばない。自分でも、たしかに立てるとは思はなかつたらしい。うれしさに、思はず、大きな声で、
――おつ母ちやん。
 富子も、之に和して、
――母さん、はやく来て御覧なさい。圭ちやんが、立てるわよ。
 此の声に、母は、台所から姿を現はす。
――あら……。
 と云つて、そこに立ちすくむ。が、忽ち、がくりと膝を折る。
――圭坊……。
 遠くから両手を前に出す、両眼に涙が光る。

16


日東玩具製造会社といふ表札のかゝつた門。
平造が、がつかりした様子で門を出て来る。自転車が擦れずれに通る。風を喰つて、二三歩よろめく。帽子が落ちる。力がなささうにそれを拾ふ。しばらく、立ち止つて考へる。
平造の頭の中に、不図浮ぶ幻影――それは先づ、白く続いた鉄道線路である。黒い底知れぬ流れである。嵐模様の空にくつきりと太く、横に描かれた松の木の枝である。

17


平造は、ある玩具屋の飾窓をのぞいてゐる。その中に、「新案特許相撲独楽」といふ札のついた箱入の玩具が陳列してある。
――一寸、そいつを見せて呉れないか。
玩具屋の主人が出て来て、奥から別の箱を出す。
――これは、何処で作つてゐるのですか。
――えゝと、裏に書いてありませう。
――これは何時頃から売り出したんですか。
――さあ、最近は最近ですが……。
――他処では、あんまり売つてませんね。
――左様ですか。
――売つてませんよ。実は、わたしも、これと同じ玩具を考へてゐたんです。こゝに、この通り持つてゐますがね。
かう云つて、平造は、包みを解く。主人は訝しげに平造のすることを見てゐる。
――ねえ、この通り。自分で作つたんですから、体裁は悪いが、それ、この通り、相撲を取る。はつけよい、のこつた。そら、こつちが勝つた。どうです。
――なるほど。
――こりや、たしかに、わたしの方が考へついたことなんですがね。ひどい奴もあるものだ。なに、出るとこへ出ればわかる。駄目かな。特許まで取つてあるんぢや……。それにしても、どうして、こいつを知つたかです……。
――さうですな。

18


平造は、我家の門口を、どうして潜らうかと、一瞬間、躊躇する。いや、そこまで来る間に、迷ひ抜いたことであらう。

19


大きな白い手が、一生懸命にゼンマイのネヂを捲いてゐる。

20


茶の間では、富子とたけ子とが夕食の膳ごしらへをしてゐる。二人は、黙つて柱時計を見上げる。相変らず時計は止まつてゐる。
玄関の格子が開く。二人は同時に耳を聳てる。
玄関では、平造が、今迄見たこともないやうなはしやぎ方で、
――万歳、万歳!
 を連呼してゐる。どうしたと云ふのだらう。女どもは、我を忘れて起ち上る。富子が走り出る。

21


平造は、茶の間の真中に、どつかと腰を卸ろす。そして、如何にも重大な吉報を齎した人のやうに、徐ろに口を開く。
富子は、もう父の云はうとすることを察してゐるらしい。頻りに、うなづいて見せる。たけ子は、わざと冷静を装つてゐるが、内心、若しやといふ期待を失はずにゐることを暴露する。
平造は、徐ろに口を開く。
――さあ、いよいよ、おれも本望を達した。
これは、そばにゐる富子に向つて云ふ如く装つてゐるが、実はチヤブ台の上を、必要以上に長く拭いてゐる妻のたけ子に、それとなく聞かせるつもりらしい。
――今度は大成功だ。
――なに、どんなもの? ね、お父さん。
――まあ、待て。第一に、工場を建てる。職工は、始めは先づ五十人ぐらゐでよからう。
――なにを作るのよ、お父さん。
――今にわかる。何しろ、外国に輸出する約束をして来たんだ。一と月に四五百円の利益はすぐに上るんだから大したものだらう。
かういふと、其処には、工場で職工が働いてゐる光景が映る。平造は、社長らしい威厳を作つて、その間を巡視してゐる。外では、箱をいくつも積んだ荷馬車が、次ぎ次ぎと出て行く。
するとまた、立派な自動車に、盛装したたけ子と富子が乗り込んでゐる。その自動車は劇場の車に駐る。二人は、しづしづと車から降りる。
平造は、今や、包を解かうとしてゐる。富子は、膝を乗り出す。たけ子は横目でその方を見てゐる。何といふ用心深さだ! しかし、平造は、それに頓着なく、例の代物を、彼女等の前に、出来るだけ派手にひろげて見せるのである。そして満身の熱を煽り立てながら、
――これだ。ね、最新式拳闘独楽つて云ふんだ。
二つの独楽は、皿のやうな台の上で廻る。
――そら、ね、相撲ぢやない、拳闘だ。はつけよい。のこつた。面白いだらう。
圭次は勿論、女共に、これが面白くない筈はない。もう占めたものだ。彼女達は面白がつてゐる。平造は、一心に独楽を廻はす。
――そうら、こつちが勝つた。ノツク・アウトと云ふ手だ。もう一度。さ、しつかり。あぶないぞ、どつこい。面白いだらう、どうだ。
「面白いだらう」を繰りかへしつゝ、次ぎ次ぎと絶え間なく独楽を廻してゐるが、彼自身は困つたことに、だんだん面白くなくなつて来るのである。唇は自由に動かなくなる。眼は曇つて来る。息がつまつて来る。指がきかなくなつて来る。どうして顔を上げることができよう。
圭次は、まだ面白さうに見てゐる。しかし、女共は、平造のこのたゞならぬ様子を見て、実際それが面白いのかどうかわからなくなつて来る。面白くなければならないのだ。さうだ、面白くなければ大変だ――さう思ひながら、一生懸命に面白くあらうと努めるのである。
平造は、今、独楽が廻らなくなることを恐れるばかりである。独楽が廻り止んだ瞬間は、彼に取つて、総てが終る瞬間である。が、もう、これ以上、「面白いだらう」と云ふ力はない。たゞ無暗に独楽を廻し続ける。
圭次は、まだ、無心に独楽を見つめてゐる。
富子の眼が、先づ曇りはじめる。
たけ子は、流石に、失望を通り越して、ある新しい危機を予感してゐる。しかし、その予感は、平造の、あまりにも打ち萎れた姿の前で、寧ろ、一種の深い喜びに似た感動に変つて来る。彼女は、はじめて、何かしら、熱いものを胸の奥に感じてゐるらしい。

22


此の光景が次第に消えると、それにつれて、全く動き止んだ大きなゼンマイが、徐々に、はつきりと幕の上に浮んで来る。
(終り)





底本:「岸田國士全集1」岩波書店
   1989(平成元)年11月8日発行
底本の親本:「麺麭屋文六の思案」改造社
   1926(大正15)年12月20日発行
初出:「改造 第八巻第七号」
   1926(大正15)年7月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2012年1月4日作成
2016年4月13日修正
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