驟雨(一幕)

岸田國士




人物
朋子

恒子
家政婦

時  六月の午後

所  洋風の客間を兼ねた書斎
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朋子が割烹着を脱ぎながら、慌ただしくはひつて来る。その後から、家政婦が、何か云ひたさうにしてついて来る。

朋子  さうよ、あれはあれでいゝの。(割烹着を家政婦に渡し、机の前に坐る)あと、ハンケチだけでせう。暇を見て、しといて頂戴。こがさないやうにね。あゝ、それから……その前に一寸お使ひに行つて来てくれない。そこの八百屋に苺が出てるかどうか見て、若し、出てゝもいのがなかつたら、駅の前まで行つてね。上等のを一箱取つて来て……。
家政婦  おいくらぐらゐのを……。
朋子  いくらでもいゝことよ、良いのでさへあれや……。(ペンを取り上げ、抽斗をさがしながら)あたし一寸、端書を書くから、それも序に入れて来るのよ。さ、支度をして頂戴。(端書を書く)えゝと……。

(家政婦去る。長い間)

朋子  あ、芳沢さん……、今朝来た端書を此処へ一寸……。状差に差してあるでせう、絵端書よ。
家政婦  (端書を持つて来る)これで御座いますか。
朋子  (見ずに受け取り)えゝ、それ……。(見て)これぢやないの。今朝来たのがあるでせう。(笑ひながら)いやね、これは……。

(家政婦、これも笑ひながら去る)

海岸の写真よ、蒲郡つて書いてある……
家政婦  (絵葉書を見ながら現る)
朋子  (引つたくるやうに)どら……。えゝ、これよ。(間)――「二人とも、大層気に入り、四五日逗留の予定……」か。
家政婦  は?
朋子  こつちのこと……。早く支度して頂戴。

(家政婦去る)

朋子  (書きながら)「……それでは、今のうちゆつくり遊んでお置きなさい。旦那様によろしく……」と。芳沢さん、さ、これを持つてつて……。まだなの、支度は……? あ、さうさう、お風呂を見といてね、行く前に……。もうお帰りになる時分だから……。
家政婦  (奥から)もうちやんと沸いてをります。
朋子  さう。(間)そいぢや、なにしてるの、あんた。
家政婦  一寸帯をし直してをりますんです。
朋子  帯なんか、いゝぢやないの、いちいち……。すぐそこなんだもの……。

(玄関の戸が開く音、朋子出て行く。間。――)

譲  (現れる。機械的に机の上の絵葉書を取り上げ、それを読む)
朋子  (続いて現れる)すぐお風呂になさいます?
譲  (返事をしない。そのまゝ、奥に去る)
朋子  (やゝ暗い表情。ぐつたりして椅子による。が、すぐに気を取り直して起ち上る)
譲の声  おい。
朋子  (黙つて奥にはひる)

長い間。
玄関で「御免なさい」といふ女の声。続いて、朋子の「あら……」といふさも意外らしい叫び声。

朋子の声  どうしたの……。どうして帰つて来たの。ひとり?(間)今朝見たわ。(間)えゝ、四五日逗留するつていふから、まだなかなかだと思つてたのに……。(間)さう、まあお上んなさいよ。(間)うちぢや今帰つたとこ。(間)いゝのよ、そんなこと……。

朋子、続いて恒子現る。――恒子は、やゝ疲れてゐるらしい。

朋子  どうかしたんぢやない。いやね、笑つてばかしゐて……。
恒子  (腰かけながら)まあ、一寸休まして頂戴、今着いたとこなの。
朋子  そいで……?
恒子  あの人?(意味ありげな微笑)今云ふから待つてて。(溜息)ほんとにお邪魔ぢやなくて……。
朋子  (訝かしげに)いや、あたし。そんなに笑つてばかしゐちや……。つねちやん……。
恒子  せつかちね、姉さまは……。(かう云ふと、急に、姉の視線を避け、ハンケチを取り出す。眼に涙が溜つてゐる。それが、われながら可笑しいといふ風に、また笑はうとするが、もう我慢ができない。ハンケチを眼にあてると、いきなり肩をゆすつて泣く)
朋子  (途方に暮れて)可笑しなひとね……。どうしたつていふの。(妹の肩に手をかける)
恒子  ……。
朋子  泣いてたんぢや分らないぢやないの。あの人がどうかしたの。早くおつしやいよ。
恒子  御免なさい。姉さまの顔を見たら、つい悲しくなつたの。(間)あたし、よつぽど黙つてようかと思つたの。黙つて、辛抱しようかと思つたの……。だけど、もう駄目……。あんまりなんですもの……。あたし、あたし、うちへ帰るわ。(間)どうしても、いやなの。
朋子  どういやなの。
恒子  どうつて……何もかも。

長い沈黙。
姉は、うなだれた妹の横顔を、まじまじと見入つてゐる。

朋子  喧嘩したんでせう。
恒子  いゝえ、そんなことぢやないの。(間)やつぱり、いけなかつたわ。
朋子  やつぱりいけないつて……前から何か……。
恒子  さうぢやないけど、そら、行儀が悪いつて云つてたでせう。
朋子  そんなこと……?
恒子  そればかりぢやないの。えゝ、つまりさうだけど、それが、ただ行儀が悪いんぢやないの、あたし、つくづく愛想がつきたわ。
朋子  男つてみんなさうよ。
恒子  そら、何時かうちへ来た時、母さまの前で欠伸あくびをしたつて、母さまがあとで怒つてたでせう。あゝいふことが、のべつ幕なしなの。それや、欠伸なんか、あたしの前でしたつてなんとも思やしないけど、他人ひとがゐる時に、そばではらはらするやうなことを平気でするのよ。
朋子  どんなこと……。
恒子  いちいち云へないの、あんまりいろんなことで……。汽車へ乗つてからだつてさうだわ。いきなり、腰掛の上へ脚をのつけて、ぐうぐう眠るのよ。それが、つた日からさうよ。
朋子  話もしないで……?
恒子  話なんかするもんですか。まるで何の為めに旅行するんだかわかりやしないわ。みんなが変な顔して見てるの。さうでせう、ハンケチもかけないで、口をあいて眠つてるんですもの。
朋子  (笑ひをこらへて)式やなんかで草臥くたびれたんだわ。
恒子  そいぢや、あたしはどう……。久しぶりで、あんな帯を締めてさ。
朋子  あなたは違ふわよ、女ぢやないの。
恒子  もう、姉さまも、さういふことを云ふやうになつてらしやるのね。
朋子  ……。
恒子  それから宿屋についてからでも、女中なんかにばかり話しかけて――冗談を云つたり……それや変なの。御飯をたべる時なんて、あたし、お給仕してる女中に恥かしくつて……。だつて、云ふことが下司げすなの、――ネエさん、東京だらう。どうも田舎のひとにしちや、様子がイキだと思つた――かうなの。女中の云ふことがいゝわ。――旦那も東京ですか――だつて。さうすると、変な手つきをして頭を掻くの。――いや、逆襲は恐れ入るなあ――つて。どうでせう、いやね。
朋子  恒ちやんも六ヶ敷いわね。さういふことを云ふもんよ、男つて……相手次第ではね。
恒子  兄さまもおつしやつて……?
朋子  えゝ……さあ、兄さまはどうだか……。
恒子  おつしやらないわよ。それからもつとひどいことがあるの。昨夜なの、それは……。――蒲郡つて、何県? つて訊いたら――何県だと思ふつて聞きかへすの。姉さま知つてらつしやる? 知らないわねえ。だから、いい加減に三重県? つて、ただ云つてみたの。さうしたら、笑ひながら、――そいぢや、どの辺にあるか、日本の地図を書いて、円をつけて見ろつて云ふの。あたし、そんな女学校の試験みたいなこと、いやだつて云つてやつたの。さうしたら、紙と鉛筆とを出して、どうしても書けつてきかないの。しまひに、日本地図も書けないのかつて、それや、しつつこく云ふの。だから、あんまり癪でせう。日本の地図ぐらゐ書けますわつて、そら、よく書いたわね、あの通り書いてやつたの。さうすると、本州だけしか書かないうちに、――なんだ、それや胡瓜きうりかつて……(笑ひながら泣き出す)
朋子  え?
恒子  胡瓜かつて云つたわよ(また泣く)
朋子  (腹立たしさと、可笑さとを制しながら)随分、失礼ね。
恒子  あんな人のところへ、どうしてく気になつたか知ら……。デリカシイつていふものがちつともないの。(間)朝、顔を洗ふ時、どういふ風にするか知つてて……(溜息)それから、服を着る時……手を前後左右に振り廻すの……。洋服を着るなら、洋服の着方ぐらゐ覚えればいゝのに、そのざまつたら、見てゐられないの。
朋子  さも憎らしさうね。さう云つたもんぢやないわ。変に気取つてる男なんかよりは、さつぱりしていゝぢやないの。
恒子  処が、さつぱりなんかしてないの。なぜつて云へば、その気取らないところを気取つてるわけなの。わかる? おれは気取つてなんかゐないぞつていふところを見せるつもりなんでせう。それが、もう一種の気取りだつていふことを知らずにゐるの。だから、すること云ふことに、いちいちこだはりがあつて、そばにゐると、ぢれつたくなるの。ふんて云ひたくなるの。
朋子  さうか知ら……。
恒子  さうさう、式ん時だつてわかるわ。どう、あの、なんでもないやうな風のしかたは……。さもこんなことは面倒臭いつていふやうな様子をして、そのくせ、あれで、固くなつてるのよ。ほら、よくしらばくれた顔をするぢやないの。あれが、てれかくしよ。――へえ、僕があの女と結婚するんですか。へえ、僕が此のお酒を飲むんですか。へえ、一緒に旅行をするんですか。まるでさういふ顔よ、あの顔は……。第一、停車場へ行くまで、行先を決めないなんて、あんまり人を馬鹿にしてるわ。母さんなんか、随分気を揉んでいらしつたわ。いくど母さんが訊いても、――さあ、まだ決めてありませんがね。まあ、行き当りばつたり、汽車の止つた処へ降りるんですな。どこつて別段見たい処があるわけぢやなし……。ハハハハハ……。かうなんでせう。母さまはむろんだけど、赤羽の伯父さまなんか、横を向いて苦い顔をしていらしつたわ。それも気取りよ。無頓着振るのよ。却つて可笑しいのに……。
朋子  あたしも、それは覚えてる。さう云へば、変な人だと思つた。
恒子  それから、まだあるわ。東京駅で、みんな送つて来て下すつたでせう、あん時、姉さまが、汽車の中へ花束を持つて来て、二人に下すつたでせう。それを見て、なんて云つたか覚えてらつしやる。
朋子  (キツパリ)えゝ。――これどうするんですかつて……。そして、――厄介だなあ、持ちものになつて……どうせすぐ萎れちまふんでせうつて……。
恒子  ね。わかるでせう、バツが悪いのを誤魔化さうと思つて、わざと素気ないことを云ふのね。それが、気が利いてればいゝけれど、それだけの頭はなし、つい、人の気を悪くするやうなことを云つてしまふのね。
朋子  困つた人ね。しにくいわね。
恒子  軽蔑したくなるわ。可哀さうになるのが本当かも知れないけれど……。
朋子  さう云つちまつちや、また、なんだけれど……。
恒子  いゝえ、いゝのよ、姉さま、あたしはもう決心してるんだから……。
朋子  決心つて……?
恒子  だから、あたし、帰るのよ、うちへ……。

長い沈黙。

朋子  それや、あなた、思ひ切りが早すぎてよ。そんなもんぢやないわ。(間)男つていふものは……。
恒子  もう沢山、その御説教なら……。男つていふ者はどうなの……。誰がさうきめたの。姉さまも、やつぱりさうなのね。ぢや、こんなこと、御相談するんぢやなかつたわ。
朋子  恒ちやん。まあ、もつと考へてみませうよ。それや、恒ちやんの想像してたやうなものぢやなかつたかも知れないけれど、今聞いた、ただそれだけの話なら、そんなに、あなたが思つてるほど、重大なことぢやなくつてよ。第一、あの人が、あなたを愛してゐないつていふ証拠にはならないぢやありませんか。
恒子  それがどうなの。愛されてゐるか、ゐないかは、第二の問題よ。
朋子  え?
恒子  第一の問題は、愛されて幸福な相手かどうかつていふことだわ。
朋子  だつて、恒ちやん、それはもう……。
恒子  初めからわかつてたつて云ふんでせう。えゝ、わかつてたわ。それが間違つてたらどうするの。間違つてなくつても、望んでゐたことが駄目だつたらどうするの。姉さまは幸福だから、あたしのことなんかおわかりにならないんだわ(泣く)

沈黙。

朋子  (キツとなり)何云ふの、恒ちやん。こんなことを、あたしの口から云ふのはいやだけれど、一番あなたのことを心配してるのはあたしよ。だからこそ、かうして、何処よりもあたしの処へ相談に来てくれたんでせう。だから、相談に乗るわよ。いろいろなことを云つたり云はれたりしてみませうよ。怒つちや駄目よ、すぐ、あなたのやうに……。
恒子  姉さま、あたし、どうしても、このまま帰るのはいやよ。これだけはと思つて、云はずにゐたけれど、姉さまがさうおつしやるなら、みんな云つてしまふわ。きつとびつくりなさるわ。あたしも、これだけは我慢ができないの。
朋子  一寸待つて頂戴。落ちついてものをおつしやいよ。云つてしまつたら、もう取り返しのつかないことがあるわよ。もちろん、姉さんに云つたからつて、それをまた誰に云ふつてわけぢやないけれど、あたしは、ただ、あなたが、自分のほこりを自分で傷けるやうなことをしないやうに、それだけのことを云つて置きたいの。あなたに、今、冷静になれつて云ふのは無理かも知れないけれど、あたしだけは、せめて、度を失はないでゐなくつちやならないでせう。あなたの為めによ。さ、しつかりして頂戴。さうして、出来るだけ感情を交へないで、事実だけを聞かして頂戴。若し云つていゝことなら……。

長い沈黙。

恒子  さうおつしやられると、云へなくなるわ。
朋子  やつぱり、云はない方がいゝんでせう。
恒子  だつて、それを云はずにゐれば、姉さまに、あたしの気持がわかつて頂けないんですもの。それに……云つたつてかまはないわ。どうせ円く治まることなんかありつこないんですもの……。それはね、かうなの。
朋子  (起ち上り)すぐ来るわ。あなた、お腹がすいてやしない。
恒子  いゝえ。
朋子  でも、兎に角、あり合せでね。
恒子  いゝのよ、姉さま……。あたし、これから、大久保へ帰るから……。
朋子  大久保へ……。どうして……。まあ、もう少しあたしの云ふことを聴いてから、ね。(出で去る)

長い間。

家政婦  (茶を運んで来る)いらつしやいませ。
恒子  (黙つて会釈する)
家政婦  ちつとも存じませんで……(茶を進める)もうお帰りになつたんで御座いますか。
恒子  えゝ。

(家政婦去る)

譲  (現る)やあ、失敬。もう帰つて来たんですか。早いぢやありませんか。
恒子  (挨拶に困つて)東京が恋しくなつたもんですから……。
譲  新婚旅行なんてものも、これでだんだん形式的になつて行くんですね。まあ、云つてみれば、人がするからするつていふ程度の興味しかありませんね。しかし、それは、あとから感じることで、それをやつてる最中は、いささか夢中で、といふのが本当かも知れないな。
朋子  (現る)何を独りで饒舌しやべつてらつしするの。あのね、あなた……(と、夫の耳に口を寄せるやうにして、小声で何か云ふ)
譲  (快活に)さうか。それはお邪魔をした。ぢや、まあ、ごゆつくり……(起ち上る)しかし、飯は一緒に食ふんだらう。
朋子  えゝ、むろんよ。
恒子  あら、兄さま、よろしいんですのに……。姉さま、ほんとに、兄さま、いらしつてもかまはないことよ。その方が却つていゝわ。兄さまにも、一緒に聞いて頂くわ。そして、御意見を伺はせて頂くわ。
朋子  さう……。あたしは、どうでもいゝけれど……(二人の顔を見比べて)ぢや、兄さまにもゐて頂きませう。どうせ、いざつていふ場合には、相談に乗つて頂かなくつちやならないんだから……。
譲  (わざと落ち着きを見せて)何事です、一体、そんなに改まつて……。(腰をおろす)
朋子  どう、あらましのことを先に云つといたら……?
恒子  ……。
朋子  でも、一寸、一口には云ひにくいわね。何んて云つたらいゝか知ら……。
譲  簡単に云へばわかるよ。何か間違ひでも起つたのかい。
朋子  (恒子の方を見ながら)間違ひつていふわけぢやないんですけれど……。そいぢや、あたしから云ふわ。ね、いゝでせう。かうなの。やつぱり、今度の問題なの。(間)恒子の話では、どうもうまく行かないらしいんですの。それが、取り立てて、かういふことがあつたつていふよりも、性格的に合はないんでせうね。第一、若い女の気持が、ちつともわからない人らしいわね。
譲  それや、しかし、お前……。
朋子  えゝ、それを、今、あたしも、恒子に云つたんですけれど……まさか、こんなでもあるまいと思つてたらしいのね。母さまなんかも、陰で心配してたんですし、あたしもそれとなく、恒子に注意したことがあつたくらゐですからね。でも、程度の問題になると、これやね、やつぱり、見損ひ……殊に、恒ちやんの前でなんだけれど、さう悪い方にばかり取れないつていふ場合もあるし……。一概に恒子を責めるわけにも行かないと思ふんですけれど……。あたしにも幾分の責任はあると思つてゐるんですわ。
恒子  そんなことありませんわ。姉さまはなにも……。
朋子  まあ、聴いてらつしやい。それで、恒子は、今になつてこんなことを云ひ出すのは不嗜ふたしなみのやうだけれど、将来のことを、もう一度考へ直してみたいつて云ふんですの。
譲  もつと具体的な説明を聴かうぢやないか。
恒子  でも……(姉の顔を見る)
朋子  いろんなことが重つてゐるらしいんですけれどね、それが……。さうね、どういふことから云つたらいゝか知ら……。ねえ、恒ちやん、あなた、一番いやだと思つたことはなに? 一番辛抱ができないと思つたこと。
恒子  それが、さつきお話しようと思つてたことなの。それを云はなければわからないから、やつぱり云ふわ。(間)それが昨晩ゆふべなの。(間)宿屋で、偶然、あの人のお友達つていふ人に遇つたのよ。今迄聞いたこともない人なの、それが、晩方から来て、一緒にお酒を飲み出したの。それだけなら、まだいゝの。二人共酔払つて、何時までも大きな声で饒舌つてるんでせう。あたし、あんまりだと思つたから、お隣の方の御迷惑になりやしないかつて、さう云つてみたのよ。さうしたら。「余計な心配をするなツ」て呶鳴るの。さうして、いきなり、何処かへ行かうつて、二人で出て行つたきり、いつまで待つても帰つて来ないの。一晩中、まんじりともしないで、あたし、待つてたわ。夜が明けてからよ、変な顔して帰つて来るの。さうして、あたしの顔を見て、にやにや笑つてるの。

長い沈黙。
朋子は、これも眼に涙を溜めて夫の顔を見てゐる。

恒子  それでも、あたし、しばらくは黙つてゐたの。ただ、もう東京へ帰りませうつて、おとなしく云ひ出してみたのよ。すると、怒つたのかつて聞くの。いゝえ、ただ、あたし、東京へ帰りたくなりました、なんなら、一人で帰していただきます、さう云つてやつたの。

沈黙。

恒子  ――帰りたけれや帰らう。しかし、あんなことはなんでもないんだよ。つき合ひなんだからねえつて、さも、あたり前のやうに云ふの。あたしは、あの人がどんなにあやまつたつて、こればかりはゆるせないと思つてゐるんでせう。そこへもつて来て、あんまりな云ひ草だから、――あなたは、あたくしに恥かしいとはお思ひになりませんかつて、思ひきつて云つたの。(間)さうすると、おれは何も後ろ暗いことをした覚えはない。それをお前が疑ふのは、お前の勝手だ、かうなの。だから、あたしは、――いゝえ、疑ふ疑はないぢやありません。ああいふなさり方は、あたしを侮辱なさるばかりでなく、あなた御自身を侮辱なさるものですつて、まあ、さうむつかしくは云はなかつたけれど、さういふ意味のことを云つたつもりなの。そん時は、もう、声が出なかつたかもしれないわ。(間)だつて、胸が一杯なんですもの。

長い沈黙。

朋子  それだけ……云ふことは。
恒子  (うなづく)
朋子  あなた、どうお考へになつて……?
譲  少し乱暴だね。
朋子  少しどころぢやありませんわ。それから、あの人はどうしたの。
恒子  どうもしないわ。それから、ひと口も口を利かないの。東京駅へ着くまで、二人とも、黙つたままよ……。ただ、うちへ寄つて来るつて、さう云つて別れたきり……。
朋子  ぢや、あなたが、ここへ来たことは知らないのね。
恒子  どうせ察してるでせう。
譲  しかしね、恒ちやん、男つて云ふものは、……。
朋子  そのお説教なら、もう沢山……。
譲  どうして……。
朋子  あたしが、さつき、恒子から云はれたんですの。なるほど、さういふことがあつたのでは、男つて云ふものはぐらゐぢや承知ができない筈ね。(間)でも、まあ、兄さまの御意見を伺はうぢやありませんか。
譲  (少し固くなつて)さう開き直られても困るが、僕は、何も、男の弁護をするんぢやない。しかし、しかしだね、さういふ問題は、もう少し、動機から穿鑿してかゝらないと、表面に現れた事実だけでは、あんまり厳しい批評はできないものなんだ。
朋子  だつて、あなた……。
譲  まあ、待て。それでだね。僕が、一つ、先生に代つて、云ひ開きをしてみようか。(間)――実はだね、あの時はだ、その友達に会つてさ、やあ、お楽しみとかなんとか云はれてだね、少しテレ気味になつてゐたんだ。友達に会つても、ろくに話しもしないで、始終細君のそばばかりにくつついてゐたなどと、あの男のことだから、みんなに云ひふらさないものでもない。少し露骨だが、まあ、夜なんかでもだね。早くから二人つきりになりたがつてなどと、どうせ悪口を云ふに違ひないとね。それも少しいまいましい。よし、やつにさつぱりしたところを見せてやらう。それには、晩飯でも一緒にゆつくり食つて、酒でも飲んで……細君ばかりに興味をもつてゐるわけぢやない、といふところを見せる為めには……。
恒子  (何か云はうとする)
譲  まあ、お聴きなさい。そこは頗る細君を信用し、また細君の信頼を利用して、どんどん事を運んだ。始めてみると、細君は、あまり御機嫌がよくない。そこで、涙を呑んでですね、細君に一喝を食はせた。えらいぞ! と友達の眼は叫んだ。あたり前よ。と鼻をうごめかしながら、実は眼つきで細君に詫びたのだが、一向通じない。
朋子  およしになつたら、そんな冗談口は……。
譲  冗談は云つてやしない。ねえ、恒ちやん、僕の話は、決して不真面目ぢやないでせう。調子でものを判断しちやいかんよ。どうせ理窟で解決のつく問題ぢやないんだ。早く云へば、その時の気分がわかればいゝんだ。さうでせう、恒ちやん。
恒子  (うつむいたままでゐる)
譲  愚図愚図してゐると、九仭の功を一簀にかくおそれがある。これはいつそ、この場を立ち退いた方が安全だ。なに、それも後でわかる話だ。よく話せばわかる。話さないでも、考へればわかつてくれる筈だ。聡明な彼女のことだから……。そこで、大に前後不覚を装つて、細君の前から姿を消したんです。もうそのくらゐでいゝ筈なんだが、相手の男が、どうもうるさい男で、なんだ、もう帰るのか、そんなに寂しいのか、とかなんとか云ひ出すので、どうせここまで来たならと、悪く度胸を据ゑてしまつたんですね。さて、翌朝、友達をやうやく納得させて、やれやれと云ふ訳で、細君のそばに飛んで帰ると、案じた通り、ぽつねんと、彼女は、眼をはらして待つてゐる。その時、西洋の男なら、――おゝ、わが愛する妻よ、いとしき者よ、さぞびつくりしただらう、悲しかつただらう、腹が立つただらう。わたしがお前を大事にしてゐるといふ証拠には……などと、いろいろ優しさうな言葉を捜すんですが、日本の男は、それだけの心持ちを、ただその、なんでしたつけ……あ、そのにやにやで現し得るんです。西洋の女なら、又そこで――お前さんはどんなにわたしを悲しませたでせう。もうこれから、あんなことをしてはなりません。若しまた、これが最後でなかつたら、わたしは、どんな男のところへ走つて行くかわかりませんよ、てなことを云つて、亭主を脅迫する処ですが、日本の女は、そこは心得たもので、頤を襟へうづめたまま、黙つて、畳のへりを見つめてゐる。それが、どれほど亭主を恥ぢ入らせることでせう。口を開いたところで、まあ、東京へ帰りませうぐらゐな、極めて婉曲なね……。
朋子  あなたは、今日はよくそんなにお饒舌りがおできになるのね。もういゝ加減になさらない? たいがい解りましたわ。ねえ、恒ちやん、兄さまの、その先はもう伺はなくたつて、わかるわね。
恒子  (うなづく)
譲  どうわかつたの。そこで切られては皮肉のやうに聞えるが、さうぢやないんだよ。僕の云はうとしてることはですね。つまり、あそこまでは、無事なんだ。問題はない。面倒になつたのは。たゞその先へ行つてからだ。――怒つたの。いゝえ……云々からです。しかしながら、それもですね、僕の解釈に従へば、たゞ、一時の、感情のもつれ、と云ふか、云はばお互にすね合つてゐるだけの話ですな。
朋子  (ムキになり)今おつしやつたことは、あなた、ほんたうにさう考へていらつしやることなの。
譲  と云ふと、どういふことになるかね。僕は、さつきお前から、ぢやない、恒ちやんから聞いた話に基いてだね、最も常識的な考へ方をしてみたまでだ。それでだね、若し恒ちやんが、その時の事情やなにかを綜合してみてだ、今僕が云つたやうなわけに違ひないと思へばだね、それはそれで、大した問題にしなくつてもいゝぢやないか。たゞ、どういふ風にして、これから仲直りをするかといふ問題が残つてゐるわけだが……それは、至極平凡な問題だ。
朋子  だからそんなことを御相談してゐるんぢやありませんわ。恒ちやん、あなた、どう思ふ、今のお話……。
恒子  (遠慮深く)姉さま、あたし、思つたことを云つていゝこと?
朋子  えゝ、よう御座んすとも……(さう云つて夫の方を見る)
譲  僕には遠慮はいりませんよ。云ひ給へ、しかし、腹がすいて来たな。
朋子  御飯はもういゝんですけど、一寸、まあ、切りをつけてからにしませうね。その方がよくはありません?
譲  よからう。さ、恒ちやんは、どういふの……。
恒子  今のお話ね、あれが男のほうに取つては、立派な……云ひぬけかも知れませんけれど、あたしたち女、といふと大袈裟ね、あたしだけの問題にしてもよう御座んすわ。あたしにしてみれば、それはちつとも、ありがたいことぢやありませんわ。男の、さういふ見栄は――女を踏みつけにして平気でゐるといふ誇りなんかは、どつちみち、尊敬の出来る習慣ぢやないと思ひますの。
朋子  それやさうね。
恒子  ですから、あたし、やつぱり、決心をしますわ。
譲  決心はまあ、もつと後でもできますよ。ぢや、どういふ理由があるにしても、それは免されないつていふわけですね。
恒子  免す免さないぢやありませんわ。生活態度の違ひなんですもの……。
朋子  さうね、全く……。
恒子  それが、そのことだけに現はれてゐるんぢやないんですもの、その違ひが……。すること、なすこと、一一、あたしには見てゐられないんですの……。
譲  それは、何時からです。
恒子  その日からですわ、式を挙げてから、……。
譲  急にですか。
恒子  急に目立つて来ましたわ。
朋子  それは、向うの態度が急に変つたといふよりも、恒ちやん、あなたの気持ちに、その時から、ある句切りができたからぢやないの。さういふことはあつてよ。きあ、これからこの人と一緒に新しい生活をはじめるんだ、さう思ふと、その人を、また新しい眼で見直すつていふ風になるんぢやなくつて。その時、はじめて、夫としての、いろいろな細かい心づかひなんかが、一一、自分の気持を明るくしたり、暗くしたりするんだと思ふわ、それは、まあ、あたしの経験……(と云ひながら、夫の方に軽く笑ひかける)
譲  (しきりに、うなづいて見せる。甚だ厳粛な顔をしてゐる)
恒子  それもあるでせうね。
譲  それは、しかし、お互ひだよ。男の方から云つても、それと同じことが云へるんだ。それや、女ほど、そのことばかり気にしてゐないだらうけれどね……。結婚してみると、やつぱりさうだつたのかと思ふことや、こんなだとは思はなかつたと感じることが、男の眼にだつて、ざらに映るんだ。
朋子  (一寸テレて)つまり幻滅ね。でも、女の方は、なんと云つても、慎み深いし……。
譲  どうだか……。
朋子  男の生活に自分を従はせるといふ努力だけは……。
譲  それやするさ、表面だけはね……。
朋子  いゝえ、その為めに、いろいろな犠牲まで払つてゐます。
譲  どんな犠牲……。
朋子  夫の趣味に合はなければ、自分の趣味も犠牲にしてゐます。
譲  音楽のことを云ふんだらう。
朋子  いゝえ、そればかりぢやありません。
譲  そればかりでなけれや、なんだ。あゝ、さうか、あのことを云ふのか(笑ひたさうな、皮肉な眼つきをして天井を見上げる)
朋子  なんですの。なんのことですの。
譲  人に訊く奴があるか。
朋子  (笑ひながら)あれは、昔のことですわ。兎に角、あたしにさういふことをおつしやる資格は、あなたにはありませんわ。恒子の前で、あんまり変なことをおつしやらないで下さい。
恒子  姉さま……。
朋子  いゝのよ、兄さまは、すぐあれなの、誰の前でも……。
譲  (笑ひながら)ぢや、恒ちやんの旦那さんとおんなじだ?
恒子  うそよ、兄さまはかたよ。第一、新婚旅行で、姉さまの写真を八十枚もお取りになつた方ですもの……。
譲  よく覚えてるなあ。恒ちやんの旦那さんは取らなかつたかい。
恒子  写真機なんて、洒落たものを持つてるもんですか。ステツキだつて持つてやしませんわ。
朋子  あら、ステツキを持つて歩かないの。ぢや、何を持つて歩くの……? 蝙蝠傘……?
恒子  それと、鞄よ。両手で、大きな鞄を提げて歩くの。赤帽なんかに持たせないの。だつて、自分で持てるつていふんですもの……。
譲  力は強いんだね。
恒子  (曖昧に)えゝ。汽車から降りる時なんか、人の荷物までおろしてやるのよ。
朋子  さういふ処は、なかなか深切ぢやないの。
恒子  それでゐて、あたしが乗つたり降りたりする時は、手も貸してくれないの。自分一人、どんどん先へ行つちまふの。
朋子  東京駅から、ずつと眠り通しなんですつて……。
譲  だれ?
朋子  あの人がですよ。恒子なんかにはかまはずに、グウグウ、高鼾をかいてるんですつて……。口をあけて……。
譲  鼻が悪いんぢやない。
朋子  行儀が悪いんですよ。宿屋なんかにゐても、ずゐぶん、そばでハラハラするやうなことがあるんですつて……。この人の前で、女中に冗談を云ふことなんか平気らしいのね。御飯のたべ方だつて、それや下品なんですつて。まるで紳士らしいところがないつて云ふの(夫の顔を見つめる)
譲  そんなことは、まあいゝさ(妻の視線を避け)別に大したことぢやない。
朋子  一番見てていやなのは、何でも、わざとつまらなさうな顔をすることなんですつて……。いくら景色がよくつても、景色がいゝつていふではなし、何か食べれば、きつと不味さうにして食べるし、お土産みやを買ふつて云へば、荷物になるつて変な顔をするし、それや張合がないらしいのね。
譲  (自分のことを云つてるのではないかといふやうな、くすぐつたい微笑)
朋子  その上、不精なんですつて……。お湯から上つても、髪は解かず……(夫の櫛をあててない髪を見上げ)爪がのびたらのびたまま……(譲、それとなく、自分の爪を見る)少し散歩しませうつて云へば、海なら此処に寝ころんでたつて見える、散歩なんて草臥れるばかりだ、かうなんですつて……。
譲  (いよいよ、自分に思ひ当ることがあるらしく、小鼻をふくらませて、恒子の方を見る)
恒子  (これはまた、姉の驚くべき想像力にやや不審を抱くと同時に、いくらか、尊敬をさへ払ひたい気持になる)
朋子  (益※(二の字点、1-2-22)雄弁に)そのくせ、つまらないところで威張つて見せるのね……。蒲郡つて何県だつて訊くから、そんなわかりきつたことと思つて、返事をせずにゐたんですつて……。さうしたら、いゝ気になつて、日本地図を書いて、何処の処か円をつけて見ろつて、学校の先生みたいなことを云ふんですつて……。出来ないんだと思つて、あまりしつツこく云ふから、さつさと日本地図を書いてやつたんですつて……。さうしたら、本州だけしか書いてないのに、なんだ、それや茄子なすびかつて……。
恒子  胡瓜きうりよ、姉さま。
朋子  さうさう。胡瓜かつて訊くんですつて……。
譲  なるほどね(笑ふ)
朋子  随分失礼ね。(間)それやこれや、ちつとも新婚らしい気持になれないんでせう、あんまり殺風景で……。はじめからそれじや、少し可哀さうね。
譲  それで、お前は、どう思ふんだい。恒ちやんに賛成なのか。(間)さう簡単には行くまい。(間)第一、お前だつたらどうする。
朋子  恒子とあたしとは違ひますよ。自分の立場からでは判断はできませんわ。恒子は、あたしなんかよりは理想も高いんですし……。
恒子  そんなことありませんわ。でも、こんなことを御相談するつていふのが間違つてゐるのかもしれませんわね。自分では迷つてなんかゐないつもりなんですけれど、あとで、なぜ一言あたしたちの耳に入れなかつたつて、さうおつしやられるにきまつてると思つたもんですから、兎に角、お話ししてみたんですの。でも、いろいろ参考になりましたわ。
朋子  ぢや、やつぱり別れるつもり。
恒子  えゝ。
譲  しかし、恒ちやん、それ以上の幸福が、先に待つてゐると思つたら間違ひだよ。もう一度結婚するやうなことがあるとしてだね、その結婚が、より不幸な結婚かもしれないと云ふことだけは考へて置く必要があるね。そんな結婚ならしないと云ふかもしれないが、結婚といふものは、今度でもわかる通り、実際してみないとわからないものだ。さうでせう。尤も、あてにならない幸福を探り当てるために、自分の運命を切り開いて行く決心なら別だ。倒れては起き、倒れては起き、さうして、たうとう行き着く処へ行きつかないで力が尽きる、さういふ生活をすら意義のある生活だと思へば、これや、また別だ。ね。理想的の夫を見つけ出すまで、つぎつぎと、男から男に遷つて行くつていふやうなことは、これやできないでせう。果して、恒ちやんが、これならと思ふやうな男に出会ふチヤンスが、確実にありますか。あるとは云へませんね。さうすると、若しチヤンスが無い場合にどうするか、そのことも一応考へて置かなければなりませんね。離婚と云ふ問題は、これやなかなかむつかしい。(間)だつて、やつぱり離婚でせう、結婚してるんだから……。
朋子  さうね。たつた一週間やそこらだけれど……。
譲  それは、一緒にゐる期間が短かければ、それだけ、まあ、損失は少いわけです。しかし、一番大事なものは失つてゐるんだ。
朋子  (痛ましげに恒子の方を見る)
譲  月並な議論だけれど、普通の貞操観念に従へば、あんたはもう、処女として夫を選択する資格はないんですからね。それで、仮令よしんば、やゝ理想的な再婚ができたとしてもです、新しい夫婦関係は、全く純粋なもんぢやない。何か、こだはりがあるに違ひない。二人が愛し合へば愛し合ふだけ、そのこだはりが目立つて来るものなんです。さういふ関係を、それや、双方の努力によつて、非常に美しいものにすることもできる。しかし、それは先づ例外だ、と云つていゝですね。
恒子  あたくし、別に再婚しようとも思つてゐませんし、今別れれば、明日から幸福に生活ができるとも思つてゐませんけれど、いやいやながら、あゝいふ人と一緒にゐるといふことが、全く無意味に思へてならないんですの。さういふ夫を選んだ軽率さは、別の方法で罰せられてもいゝと思ふんですの。例えば、一生独身で暮すといふやうなことなら、甘んじて忍べるだらうと思ひますわ。それだけの覚悟があるなら、今ひと思ひに別れてしまつた方が、却つて自分に忠実ぢやないかと思ふんですけれど……。
譲  自分にだけ忠実でも仕方がないでせう。
朋子  さうよ。自分のことだけ考へてちや駄目よ。
恒子  ぢや、誰のことを考へるの。
朋子  みんなのこと……。第一に、母さまのことよ。どんなに心配なさるか知れないわ。
譲  いや、それより第一に、旦那さんのこと考へてみようぢやありませんか。あなたは、先生を取り返しのつかない不幸に陥れるかもわからないんですよ。さういふ時はどうします。平気でをられますか。向うはどうなつてもかまはないんですか。
恒子  そんなことおつしやつたつて、兄さま、あの人は、あたくしのことを考へてはくれないんですもの……。それよりも、二人の幸福を、平気でにじつてゐるんですもの……。二人の生活を楽しいものにするつていふ希望が、あの人のどこにも現れてゐないんですもの……。さうしてみれば、あたくしの方ばかり、あゝもしよう、かうもしよう、つて骨を折つてみても無駄ぢやありません?
譲  無駄かどうか、まだわかりませんよ、一週間やそこらぢや……。
恒子  (涙声で)兄さまは、飽くまでも、あたくしに、忍従生活をおすゝめになるのね。二人が力をあはせてすべきことを、あたくし一人にしろとおつしやるのね。姉さま、あたくしはいやよ、それは……(涙を拭く)

沈黙。

それや、向うにする意志はあつても、力が足らなくて、それができないなら、一人でやつてみますわ。どこまでもやつてみますわ。しかし、する力があつて、しないのなら……する意志がないのなら、あたし、どうしても、そんな元気は出ませんわ……。さうする興味もありませんわ。いやです、いやです、死んでもいやです……(声を忍んで泣く)
朋子  (貰ひ泣きをしながら、声だけは快活に)しつかりなさいよ、泣いてなんかゐる時ぢやなくてよ。困るわね。かういふのは。……別段、あなたを不幸にしようと思つてるわけぢや、勿論ないでせうし、どうかすると、自分はあたり前のつもりでやつてることが、あなたの気に入らない……まあ、それや、あなただけでなく、どんな女の気に入る筈もないでせうけれどね――気に入らないばかりでなく、それが、あなたの生活まで暗くするつてんでせう。ありさうなことね。だけど、向うにわる気はないとすれば、どうでせう、ぼつぼつ、気長に、直してみることはできないか知ら、……。
恒子  性格だから駄目よ……。
朋子  さうね、ただ無作法つていふのと違ふんだから、……。
譲  やつぱり程度の問題だね。男つていふものは、多少、さういふ欠点をもつてゐるよ、女から見ればね。性格とかなんとか云つたところで、結局、習慣さ。無責任なことは云へないが、恒ちやんが若し、男の我儘を許さないといふ主義で行くなら、男の従属物たる地位を潔く棄てることだ。さうして、文字通り愛し合ふ為めには、文字通り対当の能力を示すべきです。
恒子  対当の能力つて云ひますと、経済的に独立することをおつしやるんでせう。
譲  経済的とは限りません。例へば僕が学校の教師をする。(妻を見返り)こいつが商店の事務員になる。

(朋子と恒子とは顔を見合はせる)

朋子  (心外らしく)こいつとはなに……?
譲  親密な関係を表はす呼び方だよ。併し、それで決して、女が独立してゐるとは云へません。こいつは、何かつていふと、僕の処へ来て、ねえ、あなた、どうしませう……。
朋子  うそばつかし……。
譲  うそなもんか。ねえ、これぢや対当の能力とは云へますまい。
恒子  でも、お互にさういふ風にすればいゝんですわ。どんなことでも相談し合つて……。
譲  ――ねえ、あなた、どうしませう……。
朋子  もう沢山ですよ。
譲  うるさい話ですな、どうも……。恒子さん、兎に角、今日はお帰んなさい、旦那さんのそばへ……。さうして、知らん顔をして芝居をおねだりなさい。僕達もお伴をしますつて……。
朋子  (陽気に)それがいゝわ。(しんみり)ね、さうなさい。
恒子  (その気持に乗りかねて、何か遠くのものを見つめてゐる)
譲  (静かに立ち上り)僕は、一寸、食事までに、頭を直して来ます。序に爪も剪つて来ます。マダム・ツネコ・サイトウの陪食を仰せつかつてゐるんだから……。
恒子  (姉の顔をちらと見て、軽く笑ひかけるが急に真顔になり)姉さま、あたし、今日は帰して頂くわ。折角ですけれど、なんだか落ちつかなくて……。
朋子  帰るつて、どつちへ……?
恒子  (低く)大久保……。
朋子  (これも低く)やつぱり……。

長い沈黙。

恒子  ぢや、兄さま(起ち上り)御免遊ばせ。つまらない事をお耳に入れて、ほんとに……。
譲  もつとよく考へて御覧なさい。(妻に)お前、なんなら、送つて行かないか。
朋子  えゝ。ぢや、どう、恒ちやん、今から向うへ行つたつて、どうせ……。
恒子  えゝ、でもいゝのよ、心配しないで頂戴……。ぢや、さよなら……。また伺はせて頂くわ、明日にでも……。
朋子  さう、でも、一寸送つて行くから待つてゝ頂戴。
恒子  いゝのよ。姉さま、ほんとに……大丈夫よ……。

一同が座を起つた時、驟雨沛然として到る。
三人は無言のまま、窓越しに外を見つめる。
恒子。大きな溜息をつく。

朋子  なんていふお天気でせう。
譲  すぐ止むだらう。もう少し休んでいらつしやい。

長い沈黙。

――幕――





底本:「岸田國士全集2」岩波書店
   1990(平成2)年2月8日発行
底本の親本:「昨今横浜異聞」四六書院
   1931(昭和6)年2月10日発行
初出:「文芸春秋 第四年第十一号」
   1926(大正15)年11月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2012年1月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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