村で一番の栗の木(五場)

岸田國士




亮太郎
あや子
その他無言の人物数人
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第一場


山間の小駅――待合室
真夏の払暁。

発車の直後といふ気配。
二三の旅客に交つて、都会のものらしい夫婦連れが、改札口の方から現れる。一隅を選んでそこに手荷物を置き、汗を拭ひ、左右を顧み、やがて、女が先に、男がそれに続いて腰を下ろす。
他の旅客は、待合室を通り過ぎるだけである。
男は出来合ひらしい白の洋服、女は現代風のかなり整つた身じまひ。――手荷物は、服装の割に野暮な信玄袋と行李鞄、それに、中型のシューツケース。

亮太郎  疲れたらう。
あや子  やつぱり眠れなかつたわ。どつかに顔洗ふところないか知ら……。
亮太郎  朝飯を食へば、前の宿屋で洗へるけれど……まだ早すぎるだらう。それとも軽便を一つ待つて、六時のに乗つたつていいや。
あや子  六時のだと、何時に着くの。
亮太郎  七、八、九、まあ、九時だね。
あや子  それでもいいわね。折角買つたお弁当が無駄になるけど……。
亮太郎  お土産にちやうどいいよ。
あや子  お弁当のお土産つて、あるか知ら……。(間)あたし、さうする。
亮太郎  待てよ、ちよつと、見て来よう、もう起きてるかどうか(出て行く)
あや子  (待つてゐる間、信玄袋の上に両腕を托し、それに額を当ててゐる)
亮太郎  (首を振りながら入つて来る)駄目。駄目だ。あと一時間かかるつて……。それぢや六時のに間に合はない。
あや子  その次は何時?
亮太郎  (時間表を見ながら)六時の次が、七時三十分……その次が九時三十分……。
あや子  ぢやいいわ。まだおなかはすいてないし、それに、顔なんかどうだつていいんでせう。見る人なんかゐやしないわね。
亮太郎  見る人はゐるよ。みんな見るよ。それこそ、通る奴通る奴、みんな振り返つて見るよ。君のやうな女は、開闢以来、あの村に現れた例しはないんだから……。
あや子  いやな方……。でも、お化粧なんか気をつけて見る人はないでせう。これでいいのよ。
亮太郎  でも気持がわるかないかい。
あや子  いいの、面倒臭いわ。
亮太郎  そんならいいさ。軽便一時間半、馬車一時間、谷を下り、坂を上ること二十分、橋を渡ること二度、梯子段十七段、門から玄関までざつと十間、廊下二十歩、それでやつと座敷へ通ると、おやぢとお袋の口上が短く見積つて滔々十五分、着物を着替へて風呂へはひり、昨夜は寝てないからと言つて一休みするまで、なかなか暇がかかるぜ。
あや子  いくらなんだつて、着く早々寝られやしないわ。お母さんは優しい方?
亮太郎  だから不断さう言つてるぢやないか――お袋は、僕の言ふことならなんでも聴く。恐らくお嫁さんにも同様だらう。うちには女の子がゐないから、きつと珍しがるよ。甘えてやり給へ。
あや子  甘えられるお母さんだといいわね。(間)ねむいのよ、あたし……。(また信玄袋の上に突つ伏す)
亮太郎  寝てろよ。まだ三十分ばかりある。(間)恐ろしい霧だ。

間。

あや子  あれ、霧なの。さうだわ、変ね、あたし、さつきから、なぜ煙みたいなものが一杯あるのかと思つてたの。やつぱり気候のせゐね。
亮太郎  気候のせゐさ。海抜二千九百尺、これからまだ登りになるんだ。君は白樺といふ木を見たことはないだらう。それから、落葉松、えぞ松といふやつ……。(間)眠れるかい。
あや子  ええ。
亮太郎  話はやめようか。
あや子  いいのよ。聴きながら眠るから……。
亮太郎  洒落たこと言つてらあ……。君に、栗の木のこと話したか知ら……。
あや子  なに?
亮太郎  栗の木さ……。屋敷にある大きな栗の木さ。
あや子  ええ。
亮太郎  話したかい。
あや子  ええ。
亮太郎  なんて話したつけな。
あや子  村で一番の栗の木だつて……。
亮太郎  あれや、全く見ものだよ。ふた抱へある栗の木つていふのは珍しいだらう。栗が落ちる頃は、毎朝、うちぢゆうの女が出て拾ふんだが、朝の間だけでは拾ひきれないほどなんだ。
あや子  ……。
亮太郎  この秋は、東京へ送らせることにしよう。独りぢや、栗を焼いて食ふ気にもならないからね……。(間)だけど、家ん中が穢いのをびつくりしちや駄目だよ。田舎の家なんていふものは、古いのを自慢にしてるんだからね。煤けてるほど値打があると思つてるんだ。その代り、風が吹いたつてぐらぐらするやうなことはない。
あや子  もうあと幾分?
亮太郎  三十分。
あや子  まだ三十分? さつきとおんなじね。
亮太郎  おんなじだ。
あや子  時計が止つてやしない?
亮太郎  止つてやしないよ。
あや子  ……。
亮太郎  軽便まで誰か迎へに来てるかも知れないよ。弟が来てるか、おやぢが来てるか。
あや子  お父さん、そんなにお達者なの。
亮太郎  達者もなにも、急ぐ時でなきや、馬車なんかへ乗りやしないよ。
あや子  お歩きになるの、馬車で一時間の処を……?
亮太郎  あたり前さ。田舎者つて、そんなものだよ。畑だつて、自分でするんだよ。
あや子  あら……。だつて、人を使つていらつしやるんでせう。
亮太郎  使つてるさ。使ふもんも一緒になつて働くんだよ。
あや子  そんなもんなの。
亮太郎  そんなもんさ。
あや子  さうでせうね。あたし、早くお父さんが見たい。
亮太郎  おやぢの方で腰をぬかすか、君の方で眼をまはすか、僕も早くそれが見たいよ。
あや子  なぜ?
亮太郎  なぜつて、お互に意外だらうからね。君が想像してる僕のおやぢと、おやぢが想像してる僕の家内と、その両方とも、僕にはどうやら見当がついてる。実際と違ふ程度が、どつちも同じやうなものだよ。
あや子  さうか知ら……。お父さん、お髭を生やしてらつしやる?
亮太郎  さあ、髭つていふより、毛に近いものを生やしてたかも知れない。どうして?
あや子  髪は分けてらつしやる? それとも……。
亮太郎  禿げてるかつていふんだらう。まだ禿げてやしなかつたらう。薄いには薄いがね。だが、分けてるなんと思ふと大間違ひだぜ。第一……もう止さう、そんな馬鹿な話……。君は、駄目だよ。わからないかなあ、田舎の百姓爺がどんな恰好をしてるか……。
あや子  百姓爺つたつて、普通のお百姓ぢやないんでせう。
亮太郎  その差大ならず。僕が櫛を使つてたら、息子が女の真似をするやうになつたつて村中言ひふらしやがつた。
あや子  まさか。
亮太郎  (笑ひながら)まあ、そんなもんだよ。(間)今のうちに眠つとけよ。
あや子  もうねむくなくなつたわ。少し寒いか知ら……。
亮太郎  自分はどうなんだい。羽織はすぐ出せるやうにしてあるんだらう。朝晩はこの調子だよ、これから……。
あや子  夏涼しいと変ね。
亮太郎  夏だと思はなけれやいいさ。なにしろ、裏の森ぢや鶯が啼いてるんだからね、今頃……。
あや子  さうですつてね、去年の夏、軽井沢へ行つた友達がさう言つてたわ。軽井沢とそんなに違はないんでせう。
亮太郎  もつといいとこだよ、変な毛唐なんかうろうろしてなくつて……。
あや子  あなたは西洋人が嫌ひね。
亮太郎  嫌ひだよ、あんな化物みたいなもの……。それはさうと、僕の方の田舎にね、初めて毛唐がやつて来たことがあるんだ。もう二十年も前だけれどね。それが、今で言へば山岳旅行をやつたんだね、毛唐のことだから……。すると、一人の百姓が、山の中でその毛唐に出くはしたらしいんだ。その百姓、びつくり仰天して、山を駈け降りて来たのさ。さうして天狗がゐた、天狗がゐたと、村の者に注進に及んだからたまらない、その頃は青年団なんていふものはなかつたから、屈強な若いものが、手に手に得物を携へて天狗退治に出かけた、といふのは嘘らしいが、兎に角、あとで、それが毛唐だとわかり、なるほど鼻は高かつたと、みんなが……。
あや子  うそばつかし、そんな話……。だけど、ありさうなことね。(と言つて、今度は、腹を抱へて笑ひ始める)
亮太郎  それ見ろ、面白いだらう。君、毛唐好きか。
あや子  好きでも嫌ひでもないわ。
亮太郎  そんならいいや。
あや子  何がいいのよ。
亮太郎  なんだか忘れた。
あや子  ……。
亮太郎  兎に角、栗の木は見ものだよ。花が咲いてれば、一里手前から見える。
あや子  あたし、お弁当たべようか知ら……。お茶がないわね。さうだ、お茶がない。どうするつもりだつたのか知ら……。
亮太郎  飲まないつもりだつたんだらう。水で我慢するさ。この辺の水はいいよ。それに薬かも知れないよ。ラヂウムかなんか含んでて……。
あや子  そんなら、すまないけど、汲んで来て頂戴。
亮太郎  何へ?
あや子  何かへよ、きまつてるぢやないの、その辺に空壜か何か落ちてないこと?
亮太郎  よし、君が、それだけ徹底してくれりや、水も汲んで来甲斐がある。待つて給へ。(出て行く)
あや子  (弁当を開いて食ひ始める)

この間に、温泉廻りの上方者らしい男が、芸者か仲居風の女を連れて、汽車の時間表を見に来る。が、しばらくすると、また何処へか行つてしまふ。

亮太郎  (ビール壜を提げて帰つて来る)
あや子  (片手でそれにさはつてみて)あら、熱いのね。お茶を貰つてらしつたの。
亮太郎  男子意気に感ずれば、お茶ぐらゐ貰つて来るよ。僕も食ふぜ。(腰をおろし、弁当を食ひはじめる)この魚、大丈夫か。
あや子  お茶、どうして飲むの。
亮太郎  自分で考へろ。
あや子  かうすんの? (と言ひながら、喇叭ラツパ飲みをしようとするが、思はしく行かない。徒らに唇を尖らすばかり)
亮太郎  (素知らぬ顔で)飲んだら、こつちへよこせ。
あや子  (すぐに)ぢや、はい。
亮太郎  何だ。飲んでないぢやないか。(流石に、手際よく壜を傾ける)
あや子  これで、折角の、紳士旅行も台なしね。
亮太郎  台なしなもんか。
あや子  だつて、あの汽車の中のすまし方はどう。あたし、可笑しくつて……。不断のみもしない葉巻なんかふかしてさ……。脚をかう組んで、額に八の字をよせて、そして文芸春秋を読んでる光景は、たしかに歴史的よ。
亮太郎  君はどうだ。……止さう、顔が赧くなる。
あや子  おつしやいよ。あたしのどこが可笑しい?
亮太郎  可笑しいさ、あんなに何べんも時計を見ちや……。
あや子  時計? あら……。(笑ひながら)汽車に時間はつきものよ。
亮太郎  駅長ぢやあるまいし……。しかし、君は案外可愛いらしいところがあるよ。四十円の腕時計で、たうとう一晩の睡眠を棒に振るなんて。
あや子  (もう相手にならない)おいしくないのね、このお弁当……(ちよつと顔をしかめ)どら、お茶を飲まして……。
亮太郎  おやぢより、弟を見てびつくりしやしないかなあ。
あや子  なぜ。
亮太郎  無愛想な奴だからさ。
あや子  そんな?
亮太郎  いつか、模範青年つていふんで県で表彰されたんだがね、なんでも、そん時、知事なんかゐる前で、この免状みたいなものは、なんにもならないから返すつて言つて、問題を起しやがつたんだ。
あや子  でも、痛快な方ね。
亮太郎  痛快でないこともないが、誰にでもその調子だからね。君なんかにも、平気でどんなことを言ふかも知れないよ。
あや子  それがわかつてればいいわ。でも……。
亮太郎  乱暴なことはしやしないよ。ゐるかゐないかわからないやうな男だからね。十日も口を利かないことがあるよ。
あや子  まあ。
亮太郎  だから、こつちから、あんまり話なんかしかけない方がいい。うるさいと思ふと、返事をしないんだ、誰にでも……。
あや子  あなたにでも……。
亮太郎  (曖昧に)うん。(間)自然、みんなとの折合が悪くつてね。それはまあ、近頃のことなんだがね。
あや子  みんなつて、おうちの方と……?
亮太郎  それより、村の顔役なんかとね。そのくせ傭人にはいいらしいんだ。変なもんだね。使つてるものの評判は馬鹿にいいんだ。
あや子  社会主義ぢやない?
亮太郎  さうかも知れんよ。(間)そんなこともあるまいがね。
あや子  ずつと、おうちにいらつしやるのね。
亮太郎  師範を中途でよしてね、嫌ひなんだ学校が……。本はなかなか読むらしい、何処で探して来るか。
あや子  でも、さういふ方も面白いわね。あたし、朴訥な方、好きよ。
亮太郎  馬鹿ぢやないんだよ。
あや子  馬鹿なんて、そんな……。ぢや、東京の者なんかはお嫌ひでせう。
亮太郎  都会といふものを軽蔑はしてるね。あれで、なかなか、理窟を言はせると、言ふらしいね。
あや子  油断がならないわね。兄さんを負かしやしない。
亮太郎  こつちは、理窟は苦手だからね。農村問題なんか、真つ平だ。
あや子  あなたは、もうすつかり都会人ね。
亮太郎  さうでもないが、所謂「根こぎにされたもの」の一人には違ひない。その点、弟の偉いところも、わかるにはわかるんだ。
あや子  それやさうだわ。生れた土地を離れないつていふことは、善し悪しは別として、美しいことだわね。
亮太郎  (妻の顔をつくづくと見つめ)君にしてその言あり、世は挙げて郷土主義に靡くかと思はれるね。あゝあ、山川にして情あらば、嘗て一度ひとたび志を立てて郷関を出でたる我れ、今、身に錦は飾らずとも、美しき妻を携へて、再び汝の懐に還り来れるを喜び迎へよか。ブウブカドン、ブウドンドンだ。
あや子  おや、おや……。
亮太郎  (やけに茶を飲む)

長い沈黙。

あや子  霧が霽れてよ。
亮太郎  霽れた。(時計を見て)さ、出掛けよう。もうあと十分で出る。
あや子  軽便までは遠かないんでせう。
亮太郎  一足ひとあしだよ。そこに見えてるぢやないか。あれの一時間は優に汽車の五時間草臥れる。大丈夫か。
あや子  大丈夫よ。
亮太郎  大丈夫か。そいぢや、弁当の空なんかいつまでも持つてないで、そいつを一つ持つた。(シューツケースを頤で指し、自分は信玄袋と行李とを両手に提げる)
あや子  (惶てて弁当の空を椅子の下に投げ込み、起ち上る)
亮太郎  (歩き出しながら)旅行といふものは不思議なもんだね。動くことが苦にならん。
あや子  (これも歩き出し)ねえ、あなた、ちよつと待つて頂戴、(と言つて背中を夫の方に向け)帯、ちやんとなつてる?
亮太郎  なつてる。

両人、再び歩き出す。


第二場


山の中腹にある農家の前庭
日盛り……
大きな栗の木の根もとに、蓆が敷いてある。

亮太郎が蓆の上に腰をおろして、ぼんやり遠くを見てゐる。
そこへ、あや子が現れる。

あや子  もうおすみになつて。ずゐぶん長いお話ね。
亮太郎  ……。
あや子  あたし、ああいふ時、何処にゐていいかわからないから、困るわ。お母さんは、どうしても、あたしに、お仕事のお手伝ひをさして下さらないの……。
亮太郎  長くゐるんぢやないからいいけれど、もう少し、「うちのもの」になれないかなあ……。
あや子  あたし?
亮太郎  君が努めてるつていふことはわかるよ。努めたつて無理だつていふこともわかつてるんだが、どういふか、いちいち、いろんなことにこだはらずに、平気でやれないもんかなあ。
あや子  どんなこと?
亮太郎  どんなことつて……例へば、芋の皮をむくんだつてさうだ。やれ、お手伝ひしませうとか、やれ上手にむけるか知らとか、やれ、何んだとか、かんだとか、わざわざ、自分を自分で特別扱ひにしてるところがあるよ。
あや子  保次郎やすじろうさんが、何か、あたしのこと、おつしやつたんでせう?
亮太郎  やすはなんにも言やしないよ、君のことなんか……まあ、あんまり、あれこれと気を遣はない方がいいよ。どうせ、しつくりは行かないにきまつてるんだし、しつくり行つたところで、どうにもならない話なんだ。もつと、呑気にして給へ、呑気に……。その方が、お互に楽だよ。
あや子  あたしだつて、何も、それほど気を遣つてるわけぢやないのよ。かういふ生活に慣れようと思へば、それや、もつと、どうにかしやうがあると思ふわ。だけど、やつぱり、お客さん気分なんだから……。
亮太郎  それや、さうさ。僕が第一、さうなんだ。これが自分の家だと思つてみたところで、これをどうしようつていふ気にはなれない。そのことで、今、保とも話をしたんだが、さしづめ、あいつから、無責任呼ばはりをされても仕方がないわけさ。
あや子  無責任だつておつしやるの。
亮太郎  まあ、さういふ意味なんだらう。それが、家運隆盛なら、僕が知らん顔をしてゐたつて、問題は起らないわけさ。――余程苦しいらしいんだ。
あや子  ……。
亮太郎  君は、こんな田舎で暮さうとは思はないだらう。
あや子  事情によつては、そんなこと言つちやをられないわ。
亮太郎  その覚悟があるか。
あや子  だけど、あなたがここにいらつしやれば、どうにかなるつていふの。
亮太郎  それや、わからないさ。保の言ひ分は、はつきりしてる。――ただ自分たちが働いただけでは追つ附かない、人の物を搾り取らなければ……と言ふんだ。物事をさういふ風に考へるやうになつてるんだよ、あいつはね。
あや子  何時でも何か考へてらつしやるやうね。――あの眼は、とても素敵だわ。この間も、草鞋を作りながら、本を読んでらつしやるのよ。あたしがそこへ行つたら、ぢいつと眼をあげて、こつちを見てゐるの。その眼の美しさつたらなかつたわ――澄んでゐて、深みがあつて、そのくせ、冷たい感じはしないの。
亮太郎  馬鹿に褒めるね。あいつは、案外、角が取れてゐるよ。もつとゴツゴツしてるかと思つたら……君なんかには、なかなか優しさうぢやないか。
あや子  ええ、それや優しいの。あなたのお話ぢや、どんなこはい方かと思つたわ。ただ、物を言ふのがお嫌ひね。どうかすると唖みたい。何を言つても、首を振るだけなの。張合ひがないつたら……。少し、恥かしいのね。まだ、子供よ。
亮太郎  さうか知ら……だけど、何か君、見たつて言つてたぢやないか、二三日前……。
あや子  あれは、あなた……それや、子供つて言つたつて、丸つきり子供ぢやないんですもの……。それくらゐのこと……。でも、あれを見て、あたし、ほんたうに綺麓なものを見たやうな気がしたわ。
亮太郎  綺麗なものか……。つまり、ロマンスにしてゐるのさ、君の方で……。
あや子  それはどうでもいいの。なんだか、あたしたちのさういふやうなものと、全く違つた種類の……別の世界にでなければないやうな、――だと思つたわ。
亮太郎  そんな大袈裟なものぢやないんだらう。――二十三にもなれば、男の恋愛は空想でなくなるよ。――誰もゐない川つ縁で、魚の泳ぐのを見てるやうなふりをして、そこへ来かかつた女の子を、呼び止めて見るぐらゐの度胸はついて来る。そればかりぢやない。何か手渡ししてたつていふぢやないか。
あや子  もう止しませう、そんな穿鑿は……。あたし、そんなつもりで言つたんぢやないの。ただ、さういふところを見て、自分でハツと顔を赧らめるやうな、そんな印象を受けなかつたことが不思議に思へたからなの。つまり、それほど現実ばなれがしてたんだわ。あの女の子、なんていふ名かしら……。何処の子かしら……。落葉掻きの帰りらしいのよ。
亮太郎  ますます詩的ぢやないか。パストラルだね。
あや子  さうよ……。なに、そんな笑ひ方して……。いやな方ね。(間)また少し歩いてみないこと、その辺……。さうさう、あたしと一緒に歩くのは、何んとかつて言つてらしつたわね。
亮太郎  目立つんでね。
あや子  (溜息をつき)窮屈ね。
亮太郎  窮屈だが、仕方がないさ。強ひて周囲の感情と闘ふ必要もないさ。
あや子  さつきは、もつと平気になれつておつしやつたくせに……。
亮太郎  だからさ、もつと平気で土地についた生活をすればいいんだよ。わざわざ、都会人ぶらなくつたつて……。
あや子  変なことをおつしやるのね。もう、わからない、あたし……。あなたは、もつと、人の気持のわかる方だと思つてゐたわ。丸で無茶よ、この頃あなたのおつしやることは……。どうかしませうよ。このままぢや、お互につまらないでせう。あなたは、何かの不満を、あたしの処へばかり持つていらつしやるんぢやない。
亮太郎  さうか……。さういふ処があるかも知れない。わるかつたよ。どうもいけないね、かういふ生活をしてると……。頭がすつかり悪くなる。感覚が鈍くなる。精神に溌剌としたところがなくなるよ。田舎の生活が必ずしもわるいんだとは思はないが、自分の生活でなくなるからいけないんだ。君は、今日は顔色が悪いね。気分がわるいんぢやない?
あや子  今、おつしやつたこと、あなたも気がついてらつしやるなら、あたし、安心だわ。でも、ほんとに気をつけて頂戴ね。ここにゐる間だけなら、まだいいけれど、あなたが、ずつとさういふ風になつておしまひになるんぢやないかと思ふと、あたし、泣きたくなるわ。(間)さう言へば、あなたも、今日は、お顔色がよくないのね。さつきのお話で、また心配がふえたからでせう。(間)でも、保次郎さんは、あなたのことを悪くは思つていらつしやらないんでせう、そんなに……。
亮太郎  好く思つてるとも言へなからうね。
あや子  困るわね。
亮太郎  別段困りもしないさ。こつちが向うをわかつてやるほど、向うぢや、こつちがわからずにゐるだけさ。弟なんていふものは、そんなもんだよ。
あや子  あたしから、よくお話してみても駄目かしら……。
亮太郎  話すつて、何を話すんだい。
あや子  あなたの気持なり何なり……。
亮太郎  僕の気持を話したつてしやうがないさ。あいつに、どうして貰はうといふわけぢやないんだから……。
あや子  でも、誤解があつちや……。
亮太郎  面白くないといふのかい。しかし、それもね、時機の問題だと思ふんだ。今は何と言つたつて駄目だよ。僕が、家の金を使つて、都会に出て、学問をして、そして郷里のことは顧みないで、下らない仕事をしてゐるといふのが、あいつの気に喰はないんだ。そいぢや、自分は、どれだけ郷里のために尽し、どれだけ有意義な仕事をしてゐるかといふと……(首をふり)いけない、どうも、頭が悪い。しかし、あいつはなんと言つたつて、子供ぢやないよ。なるほど、油断のならないところがある。さつき言つたやうなことばかりでなく、僕自身が、なんだか、あいつに脅かされてゐるやうな気がしてしやうがない。
あや子  それはあなたのひがみよ。
亮太郎  それが君にどうしてわかる。――いや、僕の言ふのはね、あいつに、何か企みがあるといふやうな、そんなことをぢやないんだ。もつと運命的な、どうすることも出来ない二人の関係によることらしい。はつきり言ひ表すことはできないがね。(間)以前はそんなことはなかつたんだよ、二人とも小さい時はね、どつちかつて言へば仲のいい兄弟だつた。(空を見上げ)よくここで遊んだもんだ、この栗の木の下で……。ある日、学校ごつこをしようつていふんで、僕が先生になつたわけさ。もちろん、年上のものが先生になるのを当然と心得てゐたわけだが、あいつはいきなり、ぢや、あんちやんが先生なら、おらは校長さんだと言ひ出しやがるんだ。それで学校ごつこはおじやん……。今度は、兵隊ごつこさ。その頃、松本の聯隊かなんかが村へ演習に来てね、子供たちは、盛んに兵隊ごつこをやつたもんだ――そこで、僕が軍曹になると言ひ出した。――可笑しいだらう、それはね、うちへ泊つた兵隊の頭が軍曹だつたんだ。さうすると、やつは、どうしてさういふ気になつたか、いきなり、ぢや、おらは斥候だ、と言つて駈け出したまま、何処へ行つたのか、晩まで帰つて来ないんだ。これには僕も閉口したよ。やつはどうも、兄きを兄きと思はないところがあつた。
あや子  それより、想像力があなた以上に発達してたわけよ。
亮太郎  想像力がね。うん、それはたしかにさういふところはあつた。(間)しかし、この栗の木の下は懐しいよ。(また空を見上げ)五六年前に比べても、気のせゐか、葉の茂り工合が、一層物々しくなつてゐる。東京附近に、こんな栗の木はちよつとないだらう。何しろ、この村で一番大きいんだからね。樹なんていふものも、これくらゐになると、どことなく霊的な偉大さといふか、一種犯すべからざる威厳を備へて来る。神秘的でさへある。それにいろいろな思ひ出が結びつき、家といふものの伝統的な観念が加はつて、今の僕の生活に、何か大きな力で働きかけて来るやうな気がするんだ。考へやうによつては、気味がわるい。
あや子  あなたは、東京にいらつしやる時と、まるで違つておしまひになつたわね。
亮太郎  どういふ風に……。
あや子  物事を妙に考へ込むやうになつてらつしやるわ。そんなぢやなかつたんだけれど……。
亮太郎  (強ひて快活に)なに、考へてる最中のことを口へ出して言ふのと、考へてしまつたあとで、何か別のことを言ふのとの違ひさ。新しい刺激がないと、同じことばかり考へるやうになる。ああ考へてみたり、かう考へてみたりするんだ。同じ頭で、同じ事をひねくつてゐるほど馬鹿げたことはないよ。(間)ところで、今晩はね、ちよつと長野まで行かなきやならん用事ができたんだ。寂しいだらうけど、留守番をしててくれる?
あや子  どんな御用なの……。あたし、行つちや、いけない?
亮太郎  中学の同級会なんだよ。別に行つたつてしやうがないんだが、家のことで、また何かと世話になる奴も来るしするから、顔だけ出しとかうと思ふんだ。遅くなつても泊らずに帰つて来る。終列車で、あすの昼は帰れるから……。
あや子  さう……ぢや、しかたがないわね。そいで、もうすぐお出かけになるの。
亮太郎  今、馬車を呼びにやつてある。(間)洋服にしようか。
あや子  どちらでも……。白いのなら、洗濯をしなくつちや駄目でせう。着てらつしたままよ。ああいふもんの洗濯なんか、いつたいどうするの、――さうさう、いとかうと思つてて……。
亮太郎  ぢや、和服にしよう。
あや子  でも、袴がいるでせう。
亮太郎  いらないさ。いるもんか。(間)ぢや、出してくれ。(起ち上る)
あや子  (やや声を落して)昨夕ね、お母さんがおつしやつたのよ――あのね、保次郎さんの単衣が、もう着られるのがないんですつて……。だから、古いんでいいから、亮太郎のを一枚やつてくれつておつしやるの。
亮太郎  やつたらいいぢやないか。
あや子  ええ、それがね、浴衣なら二枚あるけど……単衣は、ちよいちよい着と、よそ行と、一枚づつつきや持つて来なかつたでせう。どうしようか知ら……。
亮太郎  よそ行をやつたらいいだらう。
あや子  でも……あなたが……。
亮太郎  いいから、やれよ。今日は、ぢや、少し暑いけど、もう一つの洋服を着てかう。
あや子  さうなさる?
亮太郎  さうするより、しやうがないだらう。
あや子  今日は、いい方を着てらしつて、それを、あした、なにしたらどう……。一日ぐらゐのびたつて……。
亮太郎  それぢや、まづいよ。すぐ出してやり給へ……。
あや子  お母さんは、やつぱり、保次郎さんが可愛いのね。
亮太郎  だから僕が可愛くないつていふわけぢやないよ。
あや子  いいえ、少し変だと思ふわ。あたし、そんなこと、言はれてするのは、いやよ。だつて、あの方、着物なんて召すことがある? ないぢやないの。あたしが、行李を開けてるのを御覧になつて、急にそんなことおつしやるのよ、お母さんは……。ちやんとわかるわ。年寄りつていやなものね。
亮太郎  おい。
あや子  はい……。御免なさい……。(間)あ、あの馬車でせう。あんなに埃を立てて……。

両人去る。
舞台、しばらく空虚。
保次郎、うつむき加減に、鍬を肩にかついで、ゆるやかに歩を運んで来る。彼は、古い紺のズボンに巻脚絆をつけ、上はシャツ一枚、無帽で髪の毛を長く伸ばしてゐる。ちよつと立ち止つて、あたりを見まはす。また歩き出す。栗の木の根もとに、鍬を投げ出し、両腕を腰にあてて、一つ時、眼を細くして遠くの方を見入つてゐる。ふと、何か考へ込むやうに、空を仰ぐ。溜息をつく。どつかと、蓆の上に腰をおろす。小型の書物を取り出して、頁を繰るが、それを読み続けるでもなく、下に置いて、また溜息をつく。首をやけに振る。頭を木の幹にもたせかける。


第三場


前場と同じ。
月夜。
遠くで太鼓の音がする。

あや子が栗の木の下にしやがんでゐる。
亮太郎が現れる。

あや子  何処を歩いてらしつたの……、こんなに遅くまで……。みんな心配してたのよ。
亮太郎  心配することはないさ。まさか自殺もすまいからね。
あや子  そんな心配ぢやないのよ。あなたは、すぐそれね……。(間)途で、保次郎さんにお遇ひにならなかつた?
亮太郎  保は、今、そこにゐたぢやないか。違ふかい。いや、遇はなかつたよ。月夜で道を迷ふ心配はないし、水車を抜けて、釣橋のところまでぶらぶら歩いて行つたよ。頭の痛いのもなほつた。
あや子  それやよかつたわね。あたし、また、何処へいらしつたのかと思つて……。散歩の時は、何時でもさう言つて出てらつしやるのに……。
亮太郎  その辺をちよつとひと廻りして来るつもりだつたのが、つい、引張られて行つてしまつたんだ。
あや子  ……。
亮太郎  月の光にさ……。月の光といふものは、人をどこまでも引張つて行くものだよ。あれや、確に変だ。吸ひ込まれて行くとでもいふか、自分が歩いてゐるんぢやない、自分のまはりにある空気が、からだを包んだまま流れて行くやうな気がするんだ。
あや子  もう遅いのよ。何時だと思つてらつしやる? やすみませうよ。
亮太郎  まあ聴けよ。ここに立つてゐると、この栗の木の下は暗いやうだらう……。葉が茂つてゐて、ここだけが影になつてゐるせゐだ。ところが、遠くから見ると、そら、あの道の曲つてるところね、あの辺から見ると、ここのところだけが、うつすらと、妙に光つて見えるんだ。木の葉を透して来た月の光は、やつぱり青くなるのかね。青く、しかも、濡れたやうな光り方がする。その光の中に、むろん、君のさうしてゐる姿が浮き出してゐたよ。誰かもう一人ゐたやうだつたが、それははつきり見えなかつた。おほかた、君の影だらう。それとも、木の枝の影か……。さうだ、この枝だ……(頭の上の枝を仰いで見る)なるほど、ここにかうしてゐると、自分のゐるところさへわからないね。(間)をかしな木だよ、この栗の木は……。夜見るとなほ不思議だ。まるで、木の下にゐるといふ気持はしない。何か、かう、覆ひかぶさつて来るね。この二三日殊にさう思ふんだが、この木は、何か考へてゐるよ。何かしようと思つてるよ。人がここへ来ると、奇妙に葉が垂れ下つて来る。さうして、頭の上に重たいものを積み上げるんだ。すると、なんだか、からだがしびれるやうな風になる。呼吸いきがつまつて来る。ぢつと立つてゐられなくなる。(間)そら、もう、脚がふるへて来た。こら、(と言つて心臓に手をあて)ここがこんなに……(さう言ひながら、ぐつたりと、そこへ腰をおろしてしまふ)
あや子  (あつけに取られて、そこに立ちすくむ。が、気を取り直して)あなたは、たしかにおつむが疲れていらつしやるのよ。神経衰弱つていふんだわ、一度お医者さんに見ておもらひになつたら……?
亮太郎  大丈夫だよ。(間)そのくせ、ここへはよく足が向くんだ。そればかりぢやない。おやぢに用がある。――おやぢはよくここで仕事をしてゐる。静かに本を読まうと思ふ。――ここが一番静かだ。話相手が欲しい。――ここへ来れば誰かゐる。殊に、君の側に行きたいと思へば、ここに来さへすればいい。――君は、ここよりほか気に入つた場所はないらしい。
あや子  そんなことはないんですけれど……。
亮太郎  別に悪いことぢやないからいいさ。だが、僕はもう、この木の下は御免だ。今日限り、ここへは来ないよ。(間)どうしてそんな処に立つてるの……。もつと側へ寄れよ。誰も見てやしないよ。さ、ここが平らでいい。
あや子  (言はれるままに腰をおろす)
亮太郎  そろそろ東京へ帰りたくなつたらう。それより、もうとつくにここがいやになつてるかも知れない。よく辛抱してくれたね。
あや子  どうしてそんなことおつしやるの。ちつともいやになんかなりやしませんわ。ただね……?
亮太郎  ただ……?
あや子  ただ、あなたが、あんまりふさいでばかりいらつしやるから……。
亮太郎  さうか、それぢやもつと愉快にならう。君、今日は、午前中、何をした。
あや子  今日はね、この間から溜つてる新聞を読んでしまつたの。
亮太郎  何か面白いことがあつたか。
あや子  あなた、御覧になつたんぢやない?
亮太郎  笑話だけさ。それと漫画……。「ダブとドフ」ね、時事の附録さ、あれは傑作だね。
あや子  さう? あたし見ない。
亮太郎  お話にならん、あれを見ないなんて……。
あや子  どういふ話なの?
亮太郎  どういふ話つて……いろいろあるさ。それから、笑話にもなかなかいいのがある。近頃感心したのにこんなのがある――男が、女を自分の横に坐らせて自動車を走らせて来る。奴さん、片手にハンドルを握り、もう一方の手で女を抱いてゐるんだ。それで、お巡りさんが、「こら、こら、両手で持たにやいかん」と注意したもんだ。すると、「自動車がどつちへ行くかわかりません」とやつたね。
あや子  (ぽかんとしてゐる)
亮太郎  わからんのか。
あや子  (やつとわかり)ああ、さう……。面白いわね。
亮太郎  面白くなささうな面白がり方だな。そいぢや、これはどうだ。(間)おい、聴いてるのか。
あや子  聴いてますわ。(間)でも、あなた御自身が、無理に面白がつてらつしやるんぢやない? 今日は……。お加減が悪いなら、もう家の中へおはいりになつたらいかが……? だんだん冷えて来ましたわ。また風邪でも召すと……。
亮太郎  もう少し、ね、いいだらう。もう少し喋らしてくれ。面白くなければ、黙つてほかのことを考へてゐてもいい。喋りたいといふ本能は死も恐れないといふ話がある。このまま黙つて寝ろと言はれれば、僕は、潔く死を選ぶ。そこでだ、ええと、なんだつけな、君は、僕のうちを、もう少しどうかしたうちだと思つてたらう。かう聞くと、君は、なんと答へていいか解るまい。ぢや、言ひ直さう。僕がどうして君をこの家に連れて来たかと言へばだね、もちろん、こんなぼろ家を見せたいからでもなければ、おやぢやお袋に君を引き合はせて、大いに孝行振りを示さうとしたわけでもない。君はどう思つてるか知らんが、それはつ前にも言つた通り、おやぢもだんだん年を取るし、弟は家の身代を固めるといふことに興味も希望ももつてゐないし、やつぱり僕が一度帰つて、おやぢが死ぬまで相当に暮して行くだけのことはして置かなければならんと気がついたからなんだ。そこで、帰つて見ると、もう遅い。少しばかりあつた山も畑も、大方は人手に渡らうとしてゐる。君は、その時だね、ある失望を感じやしなかつたか。
あや子  ……。
亮太郎  この栗の木も、そのうちに、誰かが来て、伐り倒して行くかも知れない。さういふ日が来るやうな気がするんだ。
あや子  あなたの心配してらつしやることは、あたしには、ちつともわかりませんわ。あなたのおうちの財産がどうであらうと、それが、あなたにとつてどうもなければ、あたしだつてどうもありませんわ。あなたは、そんなことを気に病んでいらつしやるの。
亮太郎  そんならいいさ。ぢや、もうなんにも言ふことはないよ。(頭を抱へてかすかに身悶えする)僕は、やつぱり東京へ帰らうと思ふ。その方がほんとだといふ気がする。つまらんと言へばつまらんが、あんなものの研究も、しかけてみれば、続けてやりたい気もするしね。さう言へば、この辺には、蝙蝠が多いんだよ。そら、昨夕も台所にゐたぢやないか。今、巣を見つけてゐるんだ。
あや子  ぢや、毎日、森の中を歩いていらつしやるのは、それなの……? お父さんが笑つてらしつたわ。子供の時分は、あんなぢやなかつたつて……。いやね、黙つて……。
亮太郎  (妻の意外にも快活な調子に惹き入れられて)言ふとまた五月蠅うるさいからさ。子供の時分つて、僕が子供の時分は、おやぢはうちにゐた例しはないんだからね。祖父がうちにゐて畑をする、おやぢは材木を伐り出しちや、車に積んで町へ運んだもんだ。その頃が萩原家も得意の絶頂だつたらしい。おやぢは、何か君にこぼしやしないかい。
あや子  いいえ、別に……。でも、お父さんは面白い方ね。時々人を笑はせるやうなことをおつしやるのね。
亮太郎  どんなこと……?
あや子  をかしいからよすわ。
亮太郎  いいから言つてみ給へ。
あや子  あたしが帰つて来たので……よしませう、つまらないことだから……。
亮太郎  そんなこと言つてるひまに言つたらいいぢやないか。君が帰つて来たので……?
あや子  村中の男がおめかしをし出したつて……。
亮太郎  馬鹿な……。
あや子  それ御覧なさい。

長い沈黙。

亮太郎  そんなこと言ふもんかい。君がさう思ふから言つたんだらう。白状しろ。
あや子  いいわ、そんなら……。
亮太郎  怒らなくつたつていいさ。(間)さつきから太鼓の音がしてるね。お祭の稽古だな。

長い沈黙。


第四場


前場と同じ。
朝――霧が降つてゐる。

遽かに騒々しい声が聞える。その中で、亮太郎の怒気を含んだ喚声が一段高く耳につく。最後に、「馬鹿ツ」と一声、あとは寂寞。
あや子が、亮太郎を抱くやうにして、素足のまま、後ろを振り返りながら現はれる。栗の木の根もとに亮太郎を寝かせ、髪の毛を撫で上げ、その顔をのぞき込む。
亮太郎は、眼をつぶつて、苦しさうに呼吸をしてゐる。――あや子の絶望に近き表情。

あや子  あなた、しつかりして下さい。お苦しかありません。大丈夫ですか。おつむり冷やしませうか。待つてて頂戴……。(起ち上り、その辺を見まはす)誰か、ちよつと来て下さい。(返事がないので、自分で母屋の方へ走つて行く)

やや長い間。

亮太郎  (かすかに眼を開いて、手を額のへんに当ててみる。それから、喉をさする)
あや子  (金盥に水を入れて持つて来る)いますぐ……(かう言ひながら、甲斐甲斐しく手拭を絞り、それを額に当て)いやよ、あなた、あんなことなすつちや……(夫の胸に泣き伏す)
亮太郎  (割合にはつきり)やすを見て来い。
あや子  いいえ、あの人は大丈夫……。
亮太郎  怪我はさせやしなかつたか。
あや子  いいえ、大丈夫……。でも、あぶなござんしたわ、両方とも……。(間)あなたがおわるいのよ、あんなことをおつしやるから……。もつとひどい怪我でもなすつて御覧なさい……それこそ……。どうしてまた、あんな乱暴をなすつたの……。いや、いや……。
亮太郎  少し乱暴だつたな。(間)保を呼んで来てくれ。
あや子  まだいけません。もつとあとにしませう。(額を手でさはつてみて)ここ、お痛いでせう……。お気分はどうもありません、もう……?
亮太郎  どうもない……。さつき、少しふらふらしただけだ。
あや子  さうですとも、あんな太いもので……。だけど、当りどこがよかつたんですわ。
亮太郎  (苦笑しながら)うまく当ててくれたんだらう。こつちは夢中だつたが……。
あや子  あなたのは、そんなにひどく当つてません。だつて、ちやうどあん時、手でよけたの、あの人……。
亮太郎  詳しく見てたね。
あや子  さうぢやないけど……。あぶなくつて留められないんですもの……。それに、あの人たち、見てる人も見てる人ですわ。
亮太郎  あの人たちは、自分でやりたい人たちだ。人のでも、止めるのは、もつたいないと思つてる。(急に跳ね起き)もういい。(さう言つたものの、ぐらぐらと眩暈が来て、思はず妻の肩に手をかける)
あや子  あぶない。だから、もつと静かにしてらつしやい、ね、もうしばらくの間……。(そつと亮太郎を寝させる)ひどいわね、見舞にも来ないで……。このままうつちやらかしとくなんて……。
亮太郎  おやぢは……?
あや子  向ふにいらつしやるでせう。
亮太郎  お袋が心配してるといけないから、ちよつと、もう何でもないつて言つて来てくれ。
あや子  あつちからいらつしやるのが当り前ですわ。
亮太郎  外のもんの手前、来れないんだよ。ちよつと行つて来てくれ。それから、保にも、気の鎮まるやうに、僕がわるかつたつて謝つて来てくれ。
あや子  あたし、いや、そのお使ひは……。
亮太郎  おい、そんなこと言つてないで……。あそこへ来てる奴等には、さうした方がいいんだ。おれは、弟と喧嘩をして、この家を出て行く気にはなれない。まして親類の奴等から後ろ指をさされるのはいやだ。あとになると具合がわるいから、今のうち、あつさり下手に出て置かう。おれもよつぽど馬鹿だよ。
あや子  それぢや、あなた、あんまり、御自身つていふものが無さすぎますわ。かうなつたらかうなつたで、理窟はありますもの……。
亮太郎  あつても、それはまづいよ。保が僕に向つてああ言つた。――百姓の子は百姓をしろと言つた。それをむきになつて怒れば怒る方がわるい。
あや子  でも、あんな言ひ方をしなくつたつて……。
亮太郎  そこだよ。あいつの腹は解つてゐる。こつちを侮辱することは、自分の主張を燃え立たせる手段なんだ。あの時代には考へさうなことだ。あん時は、どういふものか、相手が弟だといふ気はしなかつた。なんだか、仕事の敵といふやうな気がした。いや、それより、不思議なことには……自分の生活を脅す……悪魔のやうな気さへしたのだ。

長い沈黙。

あや子  また興奮なさりやしない?
亮太郎  僕は、かう見えて、臆病なんだよ。(また起き上らうとする)もうよからう。
あや子  (押へつけるやうにして)後生だから、もう少し横になつてて頂戴。
亮太郎  (笑ひながら)だつて、ここはお前、寝るやうにできてないんだぜ。(頭を振つてみて)どうもないよ。こら、どうもない。ぢや、少しもたれさせてくれ。(半身を起し、妻の方に倚りかかる)をかしなもんだね、かうしてるのも……。
あや子  あたし、もう、ここ、いや……。なんて違つた生活なんでせう。二人つきりでゐれば、どんなに苦しんだつて苦しみ甲斐があるわ。道は一筋といふ気がするんですもの……。
亮太郎  だから、東京へ帰るよ。明日にでも帰るよ。(ふと耳をそばだて)また向うが騒がしいぜ。どうしたんだか、見て来て御覧。(間)あれ、保の声だらう。何んと言つてる? 誰だい、あの声は……。おやぢぢやないか。これや、いかん。早く見て来い。
あや子  (夫から離れ、用心深い足取りで奥に去る)

長い間。――この間に、亮太郎は、静かに起ち上り、栗の木に手を支へながら、首を伸ばすやうにして奥の様子に聴き耳を立てる。
再び騒々しい喚き声が聞える。それがひとしきり鎮まると、今度は、年を取つた女の、かき口説くやうな泣き声が、手に取るやうに聞えて来る。

あや子  (足音を忍ばせて帰つて来る)
亮太郎  なんだ。
あや子  保次郎さんが、またお父さんと……。
亮太郎  なんだつて……。
あや子  よくわからないけど、お父さんは、今すぐ出て行け、貴様こそなんとかつて大変な剣幕なの。保次郎さんの方は、変に皮肉な笑ひ方をしながら、もちろん、なんとかとなんとかは両立しないんだから、こんな家にはゐられないつて、さつさと脚絆を穿かうとしてるの。それをお母さんが泣いて止めてらつしやるとこ……。
亮太郎  (耳を傾けながら、制するやうに)よし、よし……。


第五場


第一場と同じ。
深夜――

あや子が腰かけてゐる。その前を亮太郎が行つたり来たりしてゐる。
やや長い間。

あや子  あなた、腰かけていらしつたら……。何んだか、気がせかせかして、なほ時間がたつのが遅いやうだわ。

間。

亮太郎  静かになつたね。雨も止んだやうだ。
あや子  もつとひどい嵐になるかと思つてたのに……。
亮太郎  ああいふ時、君はなかなか勇敢だね。雷が鳴るたんびに、眼の色は変つてたが、あれツとかなんとか言つて、人に抱きつかないところは、たしかに女丈夫の面影がある。
あや子  おだてないで頂戴。
亮太郎  おだてるんぢやないが、あれでは、側についてる男は物足らないよ。こつちは、ひと通り壮烈な気持になつて、君の出方一つでは、僕がついてるから安心し給へツてなことを、涙ぐらゐ眼にためてだね、あれでも、言つてみたかつたんだ。
あや子  馬鹿にしてるわ。
亮太郎  僕には、どうも近頃、さういふ欲求があるやうだ。
あや子  あたしが、勝気すぎるつておつしやるんでせう。
亮太郎  さういふわけぢやない。

長い沈黙。

あや子  あしたの朝、着いたら、すぐ髪を洗ふの。
亮太郎  君はさういふことを考へてゐるのか。(間)保の奴、きつと東京へ出て来るぜ。
あや子  ……。
亮太郎  保のことを言ふと、君はすぐ変な顔をするが、あれでも、僕にとつては一人きりの弟だ。ああして家を出ては行つたものの、今頃、何処で何をしてると思ふと、ちよつと暗い気持になるよ。同じ家を出るのにしても、僕たちのやうに、ほかに生活の基礎があれば、また別だがね。(間。突然、窓の外に向ひ)誰だ、そこに立つてるのは……。
あや子  (ギヨツとして、そつちの方を見る)
亮太郎  なあんだ、電柱か……。

長い沈黙。

あや子  あなたは、ほんとに、どうかしてらしつてよ。
亮太郎  どうかしてるね、確に……。あの栗の木の下がいけないと思つてゐたんだが、この停車場もよくない。ああ、眼が眩みさうだ。(どつかと腰をおろし、頭を両手でかかへる)
あや子  静かにさうしてらつしやい、黙つてね……。つまらないことばかりおつしやるからいけないの。なんでもないことを変にお取りになるからいけないのよ。
亮太郎  それやさうだ。君はなんでも知つてる筈だ。早く東京へ帰らう。
あや子  ええ、帰りませう。

間。

亮太郎  田舎つていふところは、どうして、かう、総てが陰気に出来てるんだらう。山も陰気だ。森も陰気だ。谷も陰気だ。家も木も草も、動物も人間も、みんな陰気だ。陰気なばかりぢやない。毒気を含んでゐる。僕だけか知ら、さう思ふのは……?
あや子  あなただけよ。あなたのさういふ気持が、あたしにもうつつたといふだけよ。
亮太郎  君にもうつつたつてね。それぢや、君は、なにか、あの家を、初めは陰気だと思はなかつたかい。
あや子  陰気だとは思はなかつたわ。
亮太郎  それぢや、どう思つた。
あや子  どうつて別に……。
亮太郎  あの栗の木だつてさうだ。
あや子  また栗の木……。
亮太郎  さうだ、よさう。(間)だがね……。さうだ、よさう。

長い沈黙。

あや子  東京はまだ暑いでせうね。
亮太郎  暑いだらうね。(間)どうして、そんな暗い方ばかり向いてるの。誰かそこにゐるの?
あや子  (哀願するやうに)あなた……。
亮太郎  馬鹿なことを言ふもんぢやない。(起ち上り、またその辺を歩き廻る)おやぢはね、おれが死ぬまで帰つて来んでもいいつて言ふんだ。それはどういふ意味だと思ふ。君には、あまり口を利かないやうだつたね。
あや子  ええ。
亮太郎  しかし、君のことを感心してたよ、よく気がつくつてね。田舎者が感心するつていへばそれくらゐのとこさ。(間)お袋は、君を人間扱ひにはしてなかつたね。いや、ほんとだよ。少くとも、ただの人間だとは思つてなかつたよ。お辞儀ばかりしてたぢやないか。あれも、変な婆さ。笑ふつていふことを忘れてしまつたんだね。
あや子  ほんとに……。
亮太郎  昔から、あの村では、村で一番の何々つていふ具合に、いろんな名物を数へ上げて、それを事毎に噂し合つたもんだ。村で一番の金持が何処の誰、村で一番の年寄が何処の誰つていふ、それをまた、子供達までが聞き覚えてね。ずゐぶん滑稽な話さ。僕なんか、小さいくせに、その頃村で一番の美人だつたお初さんといふ娘を見に、そつと、その家の庭へ忍び込んで行つたもんだ。もちろん、一人でぢやないよ。(間)今ぢやもう、そんなことを問題にしなくなつたらしいね。世間が広くなつたんだ。(間)村で一番の栗の木つていへば、だから、その時分は、相当自慢の種さ。どうして笑ふの。だから、今ぢや、自慢にもならないつて言つてるぢやないか。(間)君は、今度、僕の家つてものを見て、がつかりしたらう。
あや子  また、そんなこと……。
亮太郎  やつぱり、あの栗の木だけかな、さうしてみると、君に見せるつていへば……。

間。

あや子  それを伐らしておしまひになるのは惜しいわ。
亮太郎  どうせおやぢが承知しやしないよ。そこで、もうこつちは、栗の木なんかに用はないんだから、さつさと、こんな処は引上げて、もつと気の利いた生活を始めると、それでいいぢやないか。(間)さ、もう少し愉快な話をしよう。
あや子  ……。
亮太郎  僕はね、今度東京へ帰つたら、どつかで借金をして、家を一軒建てるよ。自分で設計をしてさ。この間うちから、それを考へてるんだが、庭はどういふ風にしよう。木を植ゑるとすると、どんな木がいいかね。
あや子  サルスベリつていふ木ね、あの木、あたし好き……。
亮太郎  サルスベリか、あれもいいね。
あや子  栗の木は……?
亮太郎  おい、よせ。

長い沈黙。

あや子  なによ、そんなに大きな声を出して、見つともないぢやありませんか。
亮太郎  やつぱり言つてしまはう。いいか、君は、僕にかくしてることがあるだらう。栗の木が何んだ。どうして、君は、そんなことを言ひ出すんだ。栗の木の下でどうしたといふんだ。それを言つてみ給へ。
あや子  なにおつしやるの、あなたは……。
亮太郎  なんにも言やしないよ。君が言ひ出すのを待つてるんだ。今日まで、どんなに我慢をしたか。もうよからう、この辺で、解決をつけよう。
あや子  なんの解決……?
亮太郎  駄目だ。君にさう出られると、やつぱりこつちの負けだ。なんでもない、そこで、その庭だ。サルスベリを一本と……。
あや子  なによ、はつきりおつしやいよ。栗の木つて言つたのがわるかつたの。
亮太郎  悪かないよ。まあ僕の言ふことを聴け。庭にはサルスベリを一本と……。僕はね、伊太利風の庭園にしようかと思つてるんだが、どうだらう。
あや子  どうも変だと思つたら、やつぱり、さうなのね。そんならさうと、どうしてもつと早くおつしやらなかつたの。
亮太郎  なんでもないつて言つてるぢやないか。それとも、少し植木に金をかけて、純日本風の庭をこさへようか。サルスベリだつて植ゑられるよ。
あや子  ねえ、あなた、今のお話、ちやんとして下さらない。何時までも、そんな風に思つてらつしやるといやだから……。
亮太郎  もういいんだよ。僕が悪かつたよ。家の方は、そんなに広くなくつてもいいね。
あや子  そんなこと、いや、誤魔化さうとなすつちや……。あたし、聴かないから……(首を振る)
亮太郎 だから、僕がわるかつたつて云つてるぢやないか。もうわかつたよ。何とも思つてやしないよ。
あや子  ほんとね。
亮太郎  ああ、ほんとだよ。
あや子  きつとね。
亮太郎  きつとだよ。そんなにむきになる奴があるかい。戯談なんだよ、あれや……。
あや子  また、そんな……。
亮太郎  だから、それでいいつていふのに……。うるさいなあ。(いきなり、急ぎ足で外に出る。が、しばらくして、戻つて来る)綺麗に晴れてる。星が一杯だよ、空は……。ここへ着いた時は朝だつたね。さうさう、そこで弁当を食つたつけな。あん時は、それでも、大いに帰省気分かなんかで、軽便の時間を待ち遠しがつたもんだ。ひと月のうちに、変れば変るもんだね、気持なんていふものは……。しかし、人間には、ほんたうに故郷といふものが必要なのかねえ。君なんかどうだい。東京が恋しいといふのは、故郷だからといふよりも、都会だからといふ理由の方が主だらう。僕が東京を恋しがると同じわけに違ひない。都会は住んでみないと、ほんたうの有難味がわからない。田舎の生活は、想像してゐる方が楽しいといふのは真理だね。
あや子  それも、人によりはしないこと?
亮太郎  人によるかも知れないが、田舎はもう懲り懲りだ。
あや子  やつぱり、家といふものが中心にならなければ……。
亮太郎  それや、さうだ。結局、情愛の問題だね。親とか、兄弟とか――君はまあ、さういふものはないからいいけれど――煩はしい関係といふ以外に意味のないものかも知れないよ、どうかするとね。
あや子  それが不思議よ、あたし……。
亮太郎  僕だつて、不思議でないことはないさ。こんな筈ぢやないと思ふこともあるが、さう思つても、やつぱりどうすることもできないんだからしやうがない。
あや子  不幸ね。
亮太郎  フカウ……?
あや子  ふしあはせね。
亮太郎  ああ、さうさね……。まあ、しかし、それもどうだかわからないさ。肉親の愛だけが、人間を育てて行くわけのものぢやないからね。
あや子  夫婦の愛は……?
亮太郎  それは口に出すべきことぢやない。
あや子  あら、どうして……?
亮太郎  さういふものなんだよ。(時計を見ながら)もう、ぼつぼつ、切符を売りさうなものだね。(切符売場の方へ近づく)
あや子  秋みたいね、今夜は……。
亮太郎  ……。
あや子  全く秋だわ。
亮太郎  しみじみとかい?
あや子  ええ、しみじみと……。
亮太郎  駄目ぢやないか、先を言はなけれや……。
あや子  だつて、何にも言ふことはないわ。
亮太郎  ぢや、しかたがない。(朗吟するやうに)
けふつくづくと眺むれば
悲みの色口にあり
たれもつらくはあたらぬを
なぜに心の悲める。
……………………。
あや子  それ、なんの歌……?
亮太郎  知らないのか。秋の歌さ。――秋風わたる青木立……と続くんだが、それはまあ、それとして、向うから、誰か提灯をつけてやつて来た。
あや子  この汽車に乗るんでせう。
亮太郎  提灯は二つだ。発つ人、送る人か。
あや子  ……。
亮太郎  (あや子の傍に座を占め)此の停車場も、これでしばらく見納めだ。
あや子  さう思ふと、やつぱり、ちよつと変でせう。
亮太郎  変なもんかい。(間)しかし、君はうれしさうだね。ほんとにうれしいのかい。東京へ帰るのが、そんなにうれしいか。
あや子  ええ、うれしいわ。
亮太郎  もう、二度とここへは来たくないか。
あや子  来たくない。
亮太郎  どんなことがあつてもか。
あや子  どんなことがあつても……。
亮太郎  そんなら、いつまでも、僕のそばを離れないか。
あや子  離れない。
亮太郎  どんなことがあつてもか。
あや子  (うなづく)
亮太郎  (起ち上り)よし……。
あや子  (顔をそむけ、指の先で、そつと涙をふく)
亮太郎  (その辺を歩きまはりながら)村で一番の栗の木よ、今年もうんと実がれ。

――幕――





底本:「岸田國士全集2」岩波書店
   1990(平成2)年2月8日発行
底本の親本:「村で一番の栗の木」白水社
   1941(昭和16)年7月30日発行
初出:「女性 第十巻第五号」
   1926(大正15)年11月1日
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2012年1月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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