作者の言葉(「牛山ホテル」の後に)
岸田國士
この作品について私はなんべんも解説めいたものを書いたが、自分で自分の作品に註釈をつける必要があるとは思はない。それは常に読者に何かを強ひることになるからだ。
それゆゑ、この文章は、「牛山ホテル」と切りはなして読んでほしい。
私は戯曲といふ文学形式が、日本ではまだ十分にその多様性が認められてゐないことを知り、自分の才能におかまひなく、いろいろな試みをやつてみる決心をした。処女作の「古い玩具」をその手始めとして、日本ではそれまで「戯曲」にはならぬと思はれてゐたやうな主題をわざわざ撰び、それを無理に戯曲にでつちあげる工夫をしつゞけてゐた。つまり、その結果は、「何かを言ふために戯曲を書くのではなく、戯曲を書くために何かを言ふ」といふ極端な宣言までしたほどである。
しかし、ある時、ふと、「おれに当り前の戯曲が書けるか知ら」といふ疑問が起り、すこし態度をかへて、いはば正道ともいふべき戯曲的主題と構成とをもつた一作品の創作を思ひ立つた。それがこの「牛山ホテル」である。
それも雑誌に発表する関係上、いくらか枚数の制限があつて、やつとこれだけの長さにまとめあげたのだが、後で考へると、やはり、書き足りないところが目立ち、重量感の足りないものになつた。
それともう一つ、この作品が私のほかの作品と違つてゐるところは、ある程度モデルがあるといふことである。もつとはつきり言ふと、私の過去の生活、経験、観察が、直接この作品の中に取り入れられ、登場人物の一人一人に、いくらかづつ実在の人物の面影をしのばせるものがある、といふことである。
この作品を書いたのは、昭和三年(一九二八)の暮れで、私が仏領印度支那に渡つたのが、それより十年前である。私はほとんど無一物でフランス渡航を企て、幸ひ香港で臨時の職を得てこの未知の土地へひとまづ落ちつくことができた。滞在わづかに三ヶ月であつたけれども、この東洋の植民地における日本人の生活の印象は、私の脳裡に深く刻みつけられた。孤独な放浪の旅と、陰鬱な南方の季節と、民族の運命に対する止みがたき不安と、これらが一体となつて、この作品の基調を成してゐるものと思はれる。
私の長い作家活動を通じて、この「牛山ホテル」が私の代表作となり得るかどうか、私にはわからぬ。しかし、多くの人がさう決めてくれゝば、私は敢て異議を申立てる気もない。
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