近況
岸田國士
文学座三月公演のゴーリキーの「どん底」を演出することになり、信濃町のアトリエ近くに宿をとって、みっちりけいこをするつもりである。だれでも知っている「どん底」が、日本の俳優でどれほどロシア的な明るい劇になるかをためしてみるのが楽しみである。
テキストは神西清君の新訳によるが、これが今、出来ただけ私の手許に届けられ、二十一日の本読みまでに間に合う手はずがついている、と、私は信じながら、それぞれの人物にふさわしい名ぜりふを、すべての俳優が奇想天外な調子でしゃべりまくってくれるように祈っている。
雨上りの小田原の海辺を、仕事の手伝いに来てくれたN嬢とぶらぶら散歩していると、波打際でいくたりかの男が威勢よく何かをつっている。もうすでに、砂浜に投げ出してある可なり大きな魚をのぞき込んでみると、それは、ボラに違いないと思った。そこへ、子供をおぶったおかみさん風の婦人が近づいて来た。私は、その婦人にたずねた。――これはなんですか? その婦人は、言下に――スズキです、と答えた。スズキなら、大したものだ、と考え、私たちは、また歩き出した。すると、長いさおを縦横に振って波頭めがけて糸を投げ込んだ一人の男が、見事に大物をつりあげるのを見た。これはまた、さっきの倍もありそうな大物である。私は、その男の誇らしげな眼に笑いかけながら、おめでとう、という代りに言った。――やあ、スズキですね。その男は、軽く眼をそらして「ボラだよ」と言い放った。
私は、あやふやな知識とは、こういうものであると、訓すように、かたわらのN嬢に言った。
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