私はこの書物を大正十
この機会に、出来るだけ手を入れるつもりで原書ともくらべてみたが、思ひがけない誤訳もいくつか発見したし、今日までに得た原作者に関する知識で文体なども多少改める必要を感じた。要するに、翻訳といふ仕事は、手をかければかけるだけ安心できる仕事で、その点、乏しい才能を鞭撻して鞭撻し甲斐のある、凡そ唯一の文学的作業であるやうに思ふ。
最近、同じ作者の「にんじん」がいろいろな事情に恵まれて短期間に不思議なくらゐ版を重ねたのであるが、訳者は勿論、この「葡萄畑」が、「にんじん」の如く一般の口に合ふとは思つてをらぬ。たゞ、「にんじん」によつて作者ルナアルの一面を識つた読者に、更めて「葡萄畑」の一面を紹介することにより、この類ひ稀な芸術家の風貌をやゝ全面的に伝へることができたら、訳者の望は足りるのである。
「にんじん」が、彼の少年時代を苦き回顧の情を以て綴つたものとすれば、「葡萄畑」は、よりストイツクな心境を透して、人生と自然とに慎ましい微笑を送つてゐることがわかる。
浪漫的ユモリスムから古典的自然主義への進展は、彼に取つては一つの飛躍であり、転向であるとさへ思はれるのであつて、小説「にんじん」に含まれる「俗情」の意識的暴露は、ルナアルの一生を通じて、悲劇的な執拗さを示してゐるにもせよ、読者を反撥せしめるものが次第になくなつて来た。
「葡萄畑」に於て、特にわれわれを愉しませるものは、彼自ら、「
彼が好んでつかふ比喩の形式を、思想の貧しさとして嗤ふものもあるが、比喩は、彼の場合、単なる比喩ではなくして、生命の瞬時の
かういふ特質は、文学のあらゆる特質のうちで、最も翻訳に適せぬものと信じるが、この冒涜は、私のルナアルに対する無上の愛によつて償ひたいと希つてゐる。
「葡萄畑」は、一八九四年(明治二十八年)著者三十歳の時の出版にかゝる。「にんじん」も同年の出版であるが、それよりも少し遅れて出た。
ルナアルについては、言ひたいこと、言はねばならぬことが私にはいくらでもあるやうな気がするが、それを纏めて発表する機会もあると思ふから、こゝでは、参考のために、簡単な年譜を記しておくに止めよう。
一八六四年二月二十二日。仏国ニヴェエル県シヤアロンに生る。
一八六六年(?)。シトリイに移住す。
一八七四年(?)。ニヴェエルのサン・ルイ寮に入寮、こゝより小学校に通ふ。年三回、兄のモオリスと共に帰省す。(「にんじん」のうちに描かれてゐる生活は、この期間の生活である)
一八八一年。巴里に出で、下宿よりシヤルルマアニュ高等学校文科に通学す。高等師範学校の受験を断念す。
一八八三年。高等学校卒業。「ゴオロア」紙の主筆に面会し、爾後同紙に寄稿す。
一八八五年。短篇集「村の罪悪」出版を拒絶せらる。
同年、ブウルジュの歩兵連隊へ一年志願兵として入隊す。
一八八六年。歩兵伍長として除隊。東部鉄道会社に傭はる。月給百二十五法。
その後、倉庫会社に転じ、新聞綴込係となり、またリヨン氏の秘書兼家庭教師の職を得。
同年、国立劇場女優ダヴィイル夫人により、自作の詩「薔薇」朗読せらる。
同年、結婚す。
一八八八年。「村の罪悪」出版せらる。
一八八九年。長男出生
メルキュウル・ド・フランス誌の創刊に当り、同人に加はる。
その後、アルフォンス・ドオデエの家に出入し、また、リュシャン・ギイトリイ、エドモン・ロスタン、トリスタン・ベルナアルなどと交を結ぶ。
一八九四年。「にんじん」を出版す。
同年、「葡萄畑の葡萄作り」を出版す。
一八九五年。郷里に近きシヨオモに家を借り、毎年四月又は五月より十月までを過す。
一八九六年。「博物誌」を出版す。
一八九七年。戯曲「別れも愉し」初演さる。
同年、父自殺す。
一九〇〇年。戯曲「にんじん」アントワアヌの手により上演さる。シヨオモ村会議員に選出さる。
一九〇四年。シイトリイ村長に選挙さる。
一九〇七年。ユイスマンスの後を享け、アカデミイ・ゴンクウル会員に選ばる。
一九〇九年。母病死す。
一九一〇年。動脈硬化症に罹り、五月二十二日払暁、巴里の家にて歿す。
一九二五―二七年。全集出版さる。(一八八七年より死に至るまでの日記初めて世に出づ)