「新日本文学全集第三巻・岸田國士集」あとがき

岸田國士




 私は最初戯曲家として出発し、今でもその方が専門のつもりでゐるが、戯曲を書きつづけるためには、なにかしらもつと刺激がいるといふ気がする。芝居そのものに興味がもてるやうな状態でなければ駄目である。
 そこへいくと、小説の方は、少くとも新聞雑誌の長篇小説といふものは、引受けたら最後、責任を果すまでは、ある軌道に乗せられて、目に見えない力と取つ組みあつて行かねばならぬ。途中で息が切れさうになることもあるが、それを我慢して押し通すところに、一種の張合が生じる。

 戯曲も小説も含めて、これが純文学かどうかといふやうなことを、私はさう問題にしてゐない。さういふ標準は、文学的には微妙な精神の機能にあるのだから、作家が意識的にこれを求め得る部分よりも、無意識のうちにそこへ導かれる部分の方がより多いのだと信じてゐる。
 狭いといふことはたしかに、純粋へ通じるひとつの近道である。しかし、私の作家としての希ひは、なによりも、「幅をもつ」といふことである。
 人間に於ては心理を、社会に於ては風俗を、私の眼は常に追ふ。生活はその雰囲気に、思想はその在りやうに、私の興味はおほかたつながる。現実への懐疑と、理想への信頼とは、私のうちにあつて、決して矛盾はしないのである。

 この集に収めた小説二篇は、それぞれ新聞と雑誌に連載したもので、比較的最近の作である。
「暖流」は昭和十三年春から秋へかけて東朝大朝の朝刊に書いた。
 発表に先だち、紙上に次のやうな文章を「作者の言葉」として掲げた。
大きな病院の窓に灯がついたり消えたりする。それは幾百の男女の生命の不安なをののきとも見られるが、また同時に、その病院の建物――院長の家族を始め、そこに職場をもつ人々を含めて――の繁栄と衰滅の境を暗示してゐるのである。
こゝに一人の男がある。まだ夢を失つてゐない年である。しかも彼の手に委ねられたのは、希望のない事業と恩人一家の救ふべからざる運命であつた。彼は苦悶した。美しい二人の女性が立ち現はれる。純情は踏み躙られるかに見え、一人一人の心は冬のやうに寒い。
が作者は、この物語の中で、人生の悲惨を得意げに暴かうとするつもりはない。私は寧ろ、最も冷酷な現実のなかにこそ人間の生きようとする意志が、「神聖な火」が燃えてゐることを信じ、読者と共に眼を据ゑて、例へば風雪の海上に一脈の暖流を探らうとするものである。
 この物語の主題は、云ふまでもなく、現実と理想との相剋から生れる人生の美醜両面を描くにあるのだが、必ずしも私はこゝで「新しい倫理」を説かうとしたのではない。寧ろわれわれの伝統的な感情が、現代の混乱を極めた世相のなかで、如何にその生来の面目を発揮するかといふ問題に答へようとしたのである。
 ある意味では近代的とも云へる性格の持主、日疋祐三は、その古めかしい道義の観念を、あらゆる行動の面に於て生かしきらうとした男にすぎない。志摩啓子にしても、理知的な自分をいくぶん誇示するところのある現代娘であるけれども、その実、彼女の不屈な精神は、父泰英の武士的風格が作りだした家庭の訓育に負うてゐるのである。更に、石渡ぎんの殆ど盲目的な純情は、同じ純情でも、西洋の女の自我徹底とは似もつかぬもので、むしろ、対象のなかへ己れを没入させるていの、日本的「女ごゝろ」をあくまで示したつもりである。
 かういふ人物の取合せは、どうかすると作品を古色蒼然たらしめるおそれが多分にある。近代的にして、しかも「西欧的」でなく、日本的にして、しかも因襲の臭ひを脱したといふ種類のトーンがこの物語には必要であつた。
 それには果して成功したかどうか?

「落葉日記」は、嘗て同名の戯曲を書いたことがあり、その主題をそのまゝ小説にしたものであるが、もちろん、構想はまつたく新しくした。
 戯曲の方は、老婦人下枝しづえ子を主人公としたものであるが、小説の方は、その孫娘梨枝子を第一の主要人物とした。
 こゝでは、西欧的なものと日本的なものとの対立、殊に、その不幸な結合から生れる救ひなき性格破産の悲劇を取扱つてみようと試みた。
 例外的な事件と人物からなるこの物語の発展に、読者はやゝ現実の世界から引きはなされる感じがあるかもわからぬが、うつかりすると、これこそ、現代日本の明日の姿かもしれない。作者は、さういふことを暗示したつもりである。
 小説に於ける詩、散文のなかのリリシズムといふ問題をも、私はこの作品で意識的に追求しようとした。
「根こぎにされたもの」の空虚と哀愁とを、生々しいリアリズムの筆にのせることは、私のこの次ぎの仕事である。

 この集に入れた戯曲三篇は、それぞれ、劇作家としての私にとつて、ある意味での記念作である。
「ママ先生とその夫」は、発表後しばらくたつて劇団築地座がこれを上演した。故友田恭助君が、朔郎の役を演じて好評であつた。多分、私のものを彼が手がけた最初であつたと思ふ。
 上演に際して気がついたことは、こんな「意地の悪い」作品をどうして書いたらうといふことである。見物の心を愉しませる要素が実にすくない。妙に寒々としたものが後に残る。
 これは必ずしも意外な発見ではないが、実際の舞台からこれほどまでの印象を受けようとは思つてゐなかつた。

 さう云へば、小説の場合も含めて、私の書くものは、いつたいに冷たいといふ批評をよく受ける。それは、作者が「冷たい人間」であるといふ意味にもとれるので、私は、自分で自分を振り返つてみないわけにはいかない。
 なるほど、私は、実際の生活のなかで、「堪へる」といふことの習慣を身につけてしまつたやうである。であるから一方では、「赦す」といふことを人間の美徳とさへ考へないやうになつてゐるのである。
 ところが、作品のうへでは、私のその二つの傾向が、極めて不用意なかたちで現はれる結果、どこか嗜虐的な風貌をおびるのではないかと思ふ。「仮借しない」といふ態度が私の云はゞ「息抜き」なのであり、物を書く時のせめてもの自己満足なのである。
 しかしながら、これはどうも、自分の「冷たさ」を否定することにはならないやうである。
 私は、まだ、自分のかたくなな心に注ぐ涙を、人に見せたくない見栄でいつぱいである。

「沢氏の二人娘」と「歳月」とは、同じ年の一月と三月とに、相次いで発表したもので、この頃、私の戯曲創作慾が再燃しかけたことを証明してゐる。
 例によつて、いづれも雑誌へ活字としてのせるために書いたといふ、戯曲本来の用途にいくぶん合しないものであるが、それでも、戯曲の戯曲たる条件だけはまづ遺憾なく具へてゐるといふ風な出来栄えの作品であつて、私の最近作として、読んで欲しいものである。
 たゞ、このへんで、私は、「戯曲のための戯曲」といふ創作態度を翻然改めるべく決心したことを附言しておかう。
 恐らく、これらを最後として、若し私に将来戯曲作品を発表する機会があるとすれば、それはやゝ面目を一新したものになるであらう。
「戯曲は如何に書かるべきか」といふ修業は、もう私をうんざりさせた。
 そろそろもう、「戯曲によつて何を語るべきか」といふ課題が私を捉へはじめてゐるのである。
 かういふ迂遠な道を辿らねばならなかつた、「私たちの時代」を、後世の文学史家はとくと研究してみねばならぬと、ひそかに私は信じてゐる。





底本:「岸田國士全集28」岩波書店
   1992(平成4)年6月17日発行
底本の親本:「新日本文学全集第三巻・岸田國士集」改造社
   1940(昭和15)年7月20日発行
初出:「新日本文学全集第三巻・岸田國士集」改造社
   1940(昭和15)年7月20日発行
入力:門田裕志
校正:Juki
2010年12月8日作成
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