沢氏の二人娘

岸田國士




沢 一寿
  悦子  その長女
  愛子  その次女
奥井らく  家政婦
  桃枝  その子
神谷則武  輸入商
田所理吉  船員、悦子等の亡兄の友人

東京――昭和年代
[#改ページ]

     一

某カトリツク療養院の事務長、元副領事、沢一寿(五十五歳)の住居。郊外の安手な木造洋館で、舞台は白ペンキ塗のバルコニイを前にした、八畳の応接間兼食堂。
古ぼけた、しかし落つきのある家具。壁には風景画と、皿と、それらの中に、不調和にも一枚の女の写真が額にしてかけてある。三十五六の淋しい目立たない顔である。丸髷に結つてゐる。飾棚には、細々した洋風の置物。記念品らしい白大理石の置時計。バルコニイの手摺に色の褪せた副領事の礼服が干してある。
十月の午後。
家政婦奥井らく(三十八歳)が、卓子の上で通帳を調べてゐる。

らく  (通帳から眼を離さずに)桃枝、桃枝……桃ちやん……。(返事がないので、起ち上つて扉の方へ行く。出会ひがしらに水兵服の少女が現はれる)さつきから呼んでるのに……何処へ行つてたの? ご不浄?
桃枝  (首をふりながら、なんとなくもぢもぢしてゐる)
らく  (嶮しく)二階へ上つたね。なぜ、黙つてそんなことをしますか? ここはお前の家ぢやないんだよ。
桃枝  …………。
らく  (なだめるやうに)今これがすんだら、お茶でもいれるから、あつちのお部屋で雑誌でも読んでらつしやい。
桃枝  ひとりぢやつまんないわ。もうそんなもんのぞかないから、母さんあつちへ来てよ。
らく  駄目、駄目、うるさくつて……。
桃枝  だつてあたし御手伝ひするつもりだつたのよ。(間)母さん月給いくら貰つてんの、あててみませうか?
らく  当てなくたつてようござんす。
桃枝  あたし学校を出たら、その月から三十円稼いでみせるわ。
らく  どうぞ御自由に……。
桃枝  さうさう、伯父さんてばね、あたしみたいな娘、女学校へ通はせとくのは勿体ないんですつて……。
らく  ほんとだよ。
桃枝  少女歌劇へ出たら、さぞ人気が出るだらうつて云ふの。
らく  馬鹿だ、あの伯父さんは……。さ、そいぢや、これは後のことにして……。お前、ちよつと火鉢のお火をみといておくれ。(干してある礼服の埃を払ひ、それを持つて奥にはいる)

桃枝も、一旦奥へはいるが、再び現はれて卓子の上の通帳をめくつてみる。眼を見張つたり、口を尖らしたり、笑ひを噛み殺したりする。やがて廊下に跫音。急いで、素知らぬ風を装ひ、バルコニイの方へ歩を運ぶ。
らくがコサツク帽を手にもつてはいつて来る。

桃枝  なあに、それ?
らく  トランクの底から出て来たの。
桃枝  これで帽子だわ。
らく  惜しいことに、こんなに虫がついて……。
桃枝  (独語のやうに)なんだか変ね、このうち……。こんな帽子かぶる旦那さんがゐてさ、十年も前に死んだ奥さんの写真が、あんなところに飾つてあつてさ……。
らく  (帽子をバルコニイの手摺にのせながら)それがどうして変だい。お前こそ、子供らしくないよ、余計な事にこせこせ気がついて……肝腎の勉強はお留守でせう。(間)今日はもう遅いから、お茶はこの次のことにして、その代り、ぽつちりだけど、お小遣をあげよう。(帯の間から蟇口を出し、五十銭銀貨を一つ渡す)
桃枝  いいの、貰つて?
らく  遠慮する柄かね。でも、一人で活動なんかへはいるならあげませんよ。
桃枝  ふふ……ぢや、あたし……。
らく  あ、ちよつとお待ち……ことによつたら、今日は、お嬢さんたちお帰りがおそいかも知れないから、お前あたしと一緒にごはんたべてかない?
桃枝  ええ、ご馳走があれば……なんて……。

その時、扉の入口へ、沢一寿の姿が現はれる。

一寿  ほう、来とるな。
らく  おお、びつくりした。何時お帰りでしたの? 玄関は開きましたんですか。(娘を追ひ出すやうにする)
一寿  もうぢき、お客さんがみえるから、何時かの葡萄酒を出してな。それから、飯はどうなるかわからんが、ともかくスキ焼ぐらゐできるやうに支度をしといてくれ。なに、仰々しいことはいらん。うちうちの客だ。今日は突然、電話で病院の方へやつて来るつていふから、そんなら、うちへ寄れつて云つてやつたんだ。こつちからはよく訪ねるくせに、向ふからついぞ来たことのない男さ。おや、あのは何処へ行つた? もう帰したのか? 何ぞもたしてやるんだつたのに……。おい、上から部屋着をもつて来いよ。ああ、疲れた。トレ・フアチゲだ。(巻煙草に火をつける)

やがて、らくが派手なガウンを持つて来る。一寿は、ワイシヤツの上にそれを着て、右手をらくの肩にかけ、頬に軽く接吻をするが、女は無表情のままそれを受けたきりで、そつとからだを引く。

らく  (相手の耳が遠いのに慣れてゐるらしく)お茶は苦い方にいたしませうか?
一寿  ああ、うんと濃く出して……。それから、外套のカクシに夕刊がある。
らく  只今……。

らくの後姿を見送りながら、煙草の煙を長く吐き出して、民謡風の曲を低く口吟む。らくの持つて来た夕刊を受け取り、読みはじめる。茶が来る。音を立てて啜る。日が落ちかける。表に自動車の止る音。

一寿  やつて来たな。(間もなく呼鈴が鳴る)よし、よし、おれが出る。いや、お前出ろ。丁寧にな。

らくが玄関に出る。その間、一寿はまた夕刊を取上げる。落ちつくためである。そこへ、らくが名刺を持つてくる。

一寿  (さも今思ひ出したやうに)おお、さうか。さあ、さあ、こつちへお通しして……。(扉のところまで出迎へながら)いよう、これはこれは……。すぐわかつたかね。

客は、これも元外務省書記生で、今日は輸入商として相当産をなしたと伝へられる神谷則武(五十二歳)である。

神谷  わかるにはわかつたが、訪問には悪い時刻になつたな。いや、実は、今夜ね、ある男に会ふことになつてるんだが、その前に、是非ちよつと君に話しときたいことがあつてね。
一寿  まあ、ゆつくりしてつてくれ。なんにもないが、晩飯にスキ焼でもつツつかう。久し振りで、巴里時代を演じようぢやないか。白葡萄酒ヴアン・ブランも、口を開けないのがある。
神谷  まあ、待つてくれ。今日はさういふわけにいかん。今云つた通り、約束があるんだ。
一寿  え?
神谷  約束があるつて云つてるんだよ、人に会ふ……。
一寿  いいさ、いいさ、約束なんか取消したまへ……。君の細君はうまい日本語でさう云つたことがあるぜ――「日本人の時間、どうにでもなります」つて……。
神谷  (あたりを見廻して)やあ、いろんなものを、ちやんと持つてるね、君は……。見覚えのあるものばかりだ。あの皿は、ストツクホルムで一緒に買つたもんだ。ね、さうだらう……。あの会議に行つた連中ぢや、残つてるのは笠原だけさ。こないだ土耳古から帰つて来た。たうとう参事官まで漕ぎつけやがつた。どうだい、病院の方は……? 多少慣れたかね。パスポートに判を捺すのとはどつちが楽だ?
一寿  一日中薬の臭ひを嗅いでるつていふのは、面白いもんだよ。外へ出るとなんだか、鼻を忘れて来たやうでね。まあ、大きなことは云へないが、これでも、事務長さんで、年が物を云ふから有難いよ。副領事になると、とたんに、首が飛んだなんてこたあ、誰も知りやしない。海外放浪二十年、多少は法螺も吹けるしね。若い医者を煙に捲くぐらゐなんでもないさ。(紅茶を運んで来たらくに)そんなものより、葡萄酒の方がいい。平民的に行かう。忘れたかい、クレベエルのカフエーでさ、月給前になると、――エ・ギヤルソン、ドウウ・ブランなんて呶鳴つたもんだ。
神谷  競馬で摺つた後なんかもね。さう云へば、この奥さんだな、(壁の写真を見ながら)苦労をさせたのは。留守宅俸給を逆為替で捲き上げたりなんかしてさ。
一寿  (葡萄酒の栓を抜きながら)いや、ほんとの苦労は、それから先だ。マドリツドで首を切られた後、十年間義務不履行といふ時代があつたんだ。女房は、しかし、泣きごとを云つて寄越さなかつた。吾輩は、アルヂエリヤへ渡つて、一と旗挙げるつもりでゐたところが、ほら、欧洲大戦だ。まあ、一ついかう。目論見は外れる、かへる旅費はなしさ。ええい、糞ツていふわけで……。
神谷  義勇兵だらう。その話は聞いた。
一寿  さあ。(杯を挙げる)
神谷  (これに応じて)レジオン・ドヌウルの健康を祝す。
一寿  千九百二十四年の夏だ……女房危篤の知らせで……。
神谷  実は、話といふのは、ほかでもないがね……。(時計を見る)
一寿  え?
神谷  お嬢さん方はまだお勤めか……。何時頃だい、退けるのは?
一寿  上の奴は、今日は夜学へ出る筈だ。下の奴はもうぢきに帰つて来る。
神谷  夜学にまで引つ張り出されるのか?
一寿  自分で志願したんださうだから、世話はないさ。なんでも、その方は無給でやつてるらしい。

間。

神谷  君も長男を亡くしたとなると悦子嬢には養子だね。
一寿  オー・ノン・メルシイ。
神谷  さうか、我党の士だな。うん、時にその話だがね、愛子さんの方を先に片づけるつていふのはまづいかなあ?
一寿  ああ、愛子つて云へば、あの節はいろいろどうも……。当人も非常に感謝してるよ。近頃の娘は働くことを自慢にしとるやうだ。レコード会社とは、それにしても陽気でいい。どんなもんだらう。うまく勤まつてるかな。
神谷  大丈夫さ。社長の木崎が馬鹿に力瘤を入れてるから。なかなかシヤキシヤキしてるつていふ話だ。吾輩も、まあこの分ならと思ふんだが、しかし、つらつら将来のことを考へて見ると、そこにまたいろいろな不安がないでもない。女はやつぱり女さ。そこでひとつ、世話のしついでだから、そのシヤキシヤキのお嬢さんを、今のうちに、手早く、玉の輿へ乗つけちまはうといふ相談だが、聴いてくれるかね?
一寿  玉の輿……? おい、おい、これでも氏は正しいんだぞ。
神谷  パルドン。相手は、国こそ違ふが子爵閣下だ。名刺を見せるが、ちやんと、左肩に五つの星の王冠が刷り込んである。おまけに、財産の点では、メエゾン・ペルシエの副支配人と云つただけで、相当の代物だつてことがわかるだらう。
一寿  何処の副支配人?
神谷  ペルシエさ。知らんか。横浜に支店のある……。
一寿  毛唐かね。
神谷  野暮なことを云ふな。レジオン・ドヌウル!
一寿  いちいちレジオン・ドヌウルを云ふなよ。娘を何処で見たんだね。
神谷  ダンスホールかと思つたら、さうぢやない。実は奴さん、日本の流行歌を歌ふんでね。それがなかなか愛嬌があつて面白いもんだから、国華レコードに勧めてみたんだ。先例もないことはないが、味もまるで違ふし、社長、喜んでね。吾輩が連れてつて、社で吹き込ませたもんさ。その時、接待係といふのか、君んとこの令嬢が、さあ、用意が出来ましたから、どうかこちらへといふやうなわけでね、よろしくシヤルマントなところを見せてしまつたんだな。それからといふもの、うるさく社へ顔を出すさうだよ。忘れないうちに云つとくが、その青年、年は三十七、日本流に数へても、八だ。名前は、ルネ・ド・ボオシヨア、文字通りのブルジヨア・ジヤンチヨンムで、さつき云ひかけたが、モロツコにどえらい地面と、革の工場をもつてるさうだ。
一寿  なんの?
神谷  革さ、牛や羊の皮……。
一寿  玉の輿かと思つたら、それぢや革の輿か。なるほど、別段腹も立たんね。しかしだ。かう見えて、吾輩も、やつぱり日本人の端くれだな。娘を毛唐の腕に抱かせるのかと思ふと、なんとなく後暗い。当人同士、事を運んだといふなら別だが、君もそこを察してくれ。これで妙なもんだ。娘たちの意志に逆らふまいとすればするほど、父親の見栄といふやうなものが、事毎に自分を臆病にする。一切干渉はせんといふ主義だが、さうなると、もう、してやりたいことも、おつかなびつくり伺ひを立ててからといふ始末だ。知つての通り、母親もなく……。
神谷  さう、まあ、悄げるなよ。
一寿  悄げるわけぢやないが、勇気はまるでない。娘たちと一緒に暮すことさへ、気兼ねだ。そこで、此間も、――どうだ、お前たちは、もつと自由な空気を吸へ、アパート生活でもしてみる気はないか、さう云つてやると、二人とも顔を見合して、結局、不賛成さ。どういふわけかと思つたら、自分たちが稼ぐ分だけは、今迄どほり勝手に使ひたいと云ふんだ。吾輩程度の分際では、生活費をまるまる補助するといふことは、こりや無理にきまつてる。が、そこだて。吾輩の恩給の七十円なにがしといふもんを、月々そつちへ廻さうかと云つてみた。すると、今度は、どういふ返事をしたと思ふね。
神谷  むろん、異議あるまい。
一寿  異議はない。ただし、どうせ呉れるんなら、このままかうしてゐて、それだけお小遣に貰つた方がいいといふわけさ。
神谷  なんだつて、さう小遣がいるんだ。
一寿  上の奴には、妙な道楽があるらしい。
神谷  道楽とは?
一寿  慈善さ。寄附行為さ。
神谷  ほほう、珍しいね。
一寿  いゝかね、そこでだよ、その七十円なにがしのお小遣も、たうとう有耶無耶で出すことになつた。ところで、吾輩がそいつを渋々出してると思ふかね。とんだ間違ひだ。オー・コントレエル。吾輩は、何時もびくびくもんで――そのうちに突つ返されやしまいかと思ひながら――それこそ、顔も見ないやうにして放り出すんだ……。
神谷  先生たちは、君の暮し向きについて、別に知らうともせんのだな。
一寿  実は、近頃少々、手元を見透かされ気味でね。なかなか、うつかりできん。――お父さんは痩我慢を張つてるなんて、二人が蔭で笑つてやすまいかと思つてね。
神谷  笑つてるね、たしかに。吾輩も可笑しくつてたまらんよ。
一寿  ぢや、そのつもりで一杯あけてくれ。(葡萄酒を注がうとする)
神谷  もう沢山。君の話を聞いてゐると、世の中に子供をもつぐらゐ不幸はないといふことになる。
一寿  従つて、君ぐらゐ仕合せな男はないといふことになる。細君は、相変らず、君を叱るかね。
神谷  あんな婆は問題ぢやない。有つて無きが如しさ。
一寿  ほんとに無ければなほよろしいか。
神谷  (玄関の方を振り返り)誰か来たやうだね。ぼつぼつ失敬しよう。
一寿  なに、娘だらう。丁度いいから、少しからかつてやつてくれ。だが、今の話は内証だぜ。

らくが現はれる。

らく  お二人とも御一緒にお帰りになりました。(更に声を高くして)あのお嬢様……。
一寿  わかつとる。神谷さんがいらしつてるからつて、さう云ひなさい。

悦子愛子の姉妹がはいつて来る。姉は和服、妹は洋装である。一見地味な扮りをした姉は、何処となく朗らかで、妹はパツとした服装のわりに、冷たく取澄してゐる。

一寿  どうした、早いぢやないか、今日は……?
悦子  虫が知らせたのよ、ねえ、愛ちやん……。
愛子  (神谷に)先達ては……。
神谷  やあ、かうして、お二人を並べて見るのは随分久し振りだな……。
一寿  初郎の葬式の時、寺へ来てくれた、あの時が最後かね。
神谷  この春ね。さうだ。悦子さんも愛子さんもなかなか評判がいいですよ。
愛子  あら、どちらで……?
神谷  到るところで……。さうさう、ボオシヨア君は近頃も社へやつて来ますか?
愛子  ああ、あの西洋の方……。ええ、あの方ならちよいちよい……。
神谷  いい青年でせう。わりに上品な……。フランスの貴族ですよ。
愛子  御自分で、それを吹聴してらつしやいますわ。
神谷  吹聴するかなあ。困るんだ、実に、フランス人つてやつは……。
一寿  (得意げに)争はれんもんだ。(悦子に)今日は夜学はないのか?
悦子  代つて貰つたのよ。だつて、この人つたら、どうしても今夜映画見に行くつてきかないんですもの……。
神谷  この次は、わたしがお伴しよう。
悦子  でも今日は、ごゆつくりなすつていただけるんでせう。
一寿  こいつの学校つていふのがね、貧民の子弟が大分来るらしいんだ。もうちつといい学校へ替へて貰へつて云つてるんだけど……。
悦子  いい学校ぢや、こつちが勤まりませんわ。
神谷  気のせゐかも知れんが、かうしてみると、悦子さんは少し疲れておいでのやうだな。子供の相手の仕事は、賑やかなやうで、実は、地味なことこの上なしですね。わたしも中学を出て二年ばかり田舎の小学校へ勤めたことがあります。
一寿  どうだね、姉の方は、君の眼鏡で、適当な候補者はないかね。
悦子  お父さんは何時でもあれね。さういふお話、ここでなさらないでもいいわ。
神谷  ははあ、聞えないや。
一寿  ところで、君、ほんとに急ぐのか? 今用意をさせてるんだがね。
愛子  あたしたち、どうしようか知ら……。
一寿  お前たちは引止めないよ。
神谷  いや、いや。吾輩は、そんなことはしてゐられない。もう約束の時間だ。悦子さん……、この次は是非、愛子さんと一緒に、何処かへ御案内しませう。日曜ならよろしいな。
愛子  (神谷に)あの、呼出しですけれどお電話いただけば……。(さう云ひながら、自分のハンドバツクから名刺を出して、神谷に渡す)
一寿  へえ、そんな名刺こさへたのか。
神谷  可笑しな話だけどね。うちのマダムは、此の頃になつて、女名前の手紙をいちいち見分けるのには閉口しとる。
一寿  君のところへ、そんなものが来るかね。
神谷  お嬢さんたちの前で云ふことだ。良心に誓つて、猥らなもんぢやない。あんたみたいな娘が一人欲しいなんて云ふとつたよ、うちの婆さん……。

丁度そこへ、らくが、一過の手紙を持つて来る。

らく  速達が参りました。
一寿  速達……?(受取つて)Tiensチヤン! 誰だらう……。はてな、田所理吉……(娘たちは顔を見合はし、意味ありげに眼くばせをする)
神谷  ぢや、吾輩はこの辺で引上げよう。まあ、お嬢さん方、ごゆつくり……。
一寿  さうかね。スキ焼はまた今度か。
神谷  さうしよう。ボンソアル・モン・ヴイユウ!(手を差出す)
一寿  メ・コンプリマン・ア・マダム。

一同、神谷を送つて、玄関に出る。
やがて、悦子と愛子とがはいつて来る。

悦子  タイプが共通ね。
愛子  でも、流石にどつか違ふわ、憎々しいところがあるわ。
悦子  さうか知ら……。おやぢより、もつとおつちよこちよいに見えるけど……?
愛子  さうよ、いいつもりでゐるところがね。
一寿  (はいつて来て)面白い男は面白い男だが、少し調子に乗りすぎとる。ああいふ男が成功するんだから世の中は広いもんだ。世間は広いやうで狭いといふが、その実、狭いやうでゐてやはり、広い……。
愛子  パパ。……
一寿  わかつとる。今、渡すから、ちよつと待つてくれ。この速達が、どうも気になる。田所理吉といふ男は、金輪際、わしの記憶にない。(手紙を開封する)
悦子  あら、覚えてらつしやらない?
愛子  去年の夏、兄さんが連れて来たお友達よ。
一寿  (しばらく黙読してゐるが)ふむ、なるほど、さう書いてある。初郎と一緒の船に乗つてゐたとある。……「御臨終の模様など、詳しくお耳に入れたく、枕頭にあつて、及ばずながら最後まで御世話申上げた同僚の一人として、夙にかくすべき義務を感じてゐた次第であります。なほ初郎君亡き後ではありますが、小生一身上の問題につき、御親父たる貴下の御配慮を煩はしたき儀もあり……≪なんぢや、これは……≫、此度、休暇上陸の機を得ましたのを幸ひ、至急御面接お許し下さるやう願ひあげます。突然参上いたすも如何かと存じますので、予め御都合御漏し下されば幸甚に存じます。住所は表記の処でございますが、念のため電話番号を記しておきます。下谷一七九三。」

長い沈黙。

愛子  なんだか変ね。(悦子の方をみる)
悦子  (小声で)知つてるわよ。
一寿  小生一身上の問題か……。御親父たる貴下の御配慮とは、どういふ筋合のもんかな。
悦子  兄さんの代りにお父さんに心配していただかうつていふのよ。
一寿  それはわかつとるが、何を心配しろといふんだ。
愛子  そんな話聞かない方がいいわ。他人のことまで心配してたらきりがなくつてよ。
一寿  去年の夏と……あのうちの一人だな。顔なんかろくに覚えとらんが……。お前たち一緒に何処かへ出掛けたぢやないか。
悦子  ほら、奥多摩へピクニツクよ。
愛子  …………。
悦子  みんな黒かつたわね。だけど……。
一寿  とにかく、会はんわけに行くまい。お前たちも一緒にどうだ。
悦子  兄さんのことで詳しいお話を聞けるには聞けるけど……。さあ……(愛子の顔を見る)
愛子  あたしはどうでも……。その手紙の調子だと、会つても面白くなささうだわ。
悦子  なんだか固苦しい文章ね。尤も兄さんは「奉り候」よ。候文の方が短くつてすむんですつて……。
愛子  さ、この方はパパにお委せして、あたしたち、そろそろ出掛けませうよ。
悦子  ちよつと待つて……。兄さんのことからいろんなこと思ひ出したわ。ああ、なんだか不思議よ。こんなぼうつとした気特にまだなれるのか知ら……。
愛子  いつまでもお若くつて結構ね。
悦子  朝は早いし、夜はねむいし、眼の前には用事ばつかり溜つてるし……。
愛子  遊ぶだけでも忙しいし……。
悦子  さうよ。頭が、前へも後へも働かないつていふ感じね。それが、今晩は……ほんとに久し振りだわ……。嗤はれてもいいから、あたし、少し、しんみりしようつと……。
愛子  これからすんの? よしてよ、後生だから……。
悦子  (父のそばへ行き)ねえ、お父さん、同胞きやうだいや親子の間に、何か秘密があるつてことは不幸ぢやない? 秘密つていふと大袈裟だけど、自分だけで苦しまなけりやならないことがあつたら……。
一寿  (眼をつぶつてゐる)どうしてそんなことを云ひ出したんだ。
悦子  どうしてつてことないけど、兄さんのことを、ふつと考へて、親同胞つてもつと近いもんぢやないかつて気がしだしたの。みんなてんでんばらばらでゐすぎたわ。お互に、知らないことが多すぎるわ。うちぢや誰も相談つてことをちつともしないのね。どうして、かうなんでせう。
愛子  お互が一番頼りにならないからよ。世の中の面倒な問題、何が解決してくれると思つて? 一に勇気、二にお金、三に時間よ。名誉心や、同情がなんになるもんですか。
悦子  だからよ。その、勇気もお金も時間もない時の話よ。
愛子  汽車に乗るんぢやないから、時間はたつぷりあるでせう。
悦子  死ぬまで待てばね。
一寿  はてな、初郎の写真は、何処へしまひ込んだつけな……。
悦子  愛ちやん、議論なんか何時だつて出来るから、今日は、三人で、約束しませうよ。お互に、心配なことはなんでも相談し合ふこと、いつさい秘密を作らないこと、お互に気がねなんかしないで注文を出し合ふこと……。
愛子  自分の行為に対し自分が責任をもつつてこと、姉さん、お嫌ひ? 議論ぢやないわよ。ただいとくだけ……。
悦子  今あたしが云つたことは、それと矛盾しないと思ふわ。
一寿  よし。二人の云ふことはわかつた。両方とも正しい。わしが折衷案を出す。
愛子  いいわよ。どうせ守れない約束なんかしたつてしやうがないわ。
悦子  あたし云ひ方が、教師臭いからいけないのね。どう云つたらいいか知ら……。みんなが、だんだん遠くへ離れて行くやうな気がして、なんだか心細いのよ。まだまだ今のうちは、手をつないでなきやどうにもならないんぢやない?
愛子  パパは、あたしたち二人が子供の時分、どつちが余計可愛いとお思ひになつた?
一寿  (当惑した笑ひ)さうさな……。
悦子  そりや、あんたよ。生れた時から抱つこされてたんですもの。
一寿  (笑ひに紛らしてしまふ)
愛子  さういふこと、平気で云へないもんか知ら……。
一寿  なにしろ、お前が四つ、姉さんが六つの時には、もうわしは日本を離れちまつたんだから……。
愛子  あたしの方が可愛いかつたつて、ちやんとおつしやいよ。
悦子  愛子つていふ名前をみてもわかるわね。
一寿  そいつは、お前……。
愛子  だから、今がどうつていふわけぢやないのよ。以前のこと。とつくの昔のことよ。ああ、うれしい。それだつてパパの秘密の一つよ。
悦子  よしなさいよ、いぢめるのは……。
一寿  さういふことをいふなら……まあ、赦しといてやらう。お母さんが一番よく知つてるさ。わしは、お前をおぶり、姉さんを抱いて、「汽笛一声」を唄ひながら、縁側を行つたり来たりしたことがある。
悦子  それ、なんのためだつたの?
一寿  寝かせつけるためさ。二人とも泣虫でしやうがなかつた。
悦子  お母さんはさういふ時、どうしてらしつたの?
一寿  さあ、なにをしてたか?
愛子  知つてるわ。お里へ帰つてらしつた。
一寿  畜生、聞いたな、その話を。

間。

悦子  兄さんが学校のお友達を大勢連れて来て「やい、みんな、欲しいやつに、おれの妹やるぞ」なんて呶鳴つてたの、あれ、幾つぐらゐの時か知ら……。あたしつたら、その前へ呼び出されて、平気で立つてたのよ。……さうね、平気でもなかつたけれど……。子供の時分つて、考へると、こはいわ……。
愛子  さ、しんみりしちやつたら、出掛けませうよ。今夜は忙しいのよ。

そこへ、らくが、テーブルを片づけに来る。

らく  おなかがお空きになりましたでせう。
悦子  いいえ、さうでもないわ。御飯の用意まだでせう。あたしたち、もう出掛けるの。
らく  おや……。
愛子  いいのよ、そんなにびつくりしないだつて……。外で食べるつもりなんだから、どうせ……。

一寿が妙な咳払ひをする。らく、急いで退場。

一寿  近頃、洋食といふもんが、まるで口に合はん。お前たちは、洋食洋食と云つて騒ぐが、あんなもん、何処がうまいんだ。
悦子  丁度いいぢやないの、おらくさんはバタの臭ひを嗅ぐと胸がわるくなるつて云つてるから……。
一寿  (悦子に)おい、二階から洋服の上着をもつて来てくれ。いや、わからんかな。わしが行かう。(出で去る)
愛子  さつきの手紙ね、おやぢ、ほんとに見当つかないか知ら?
悦子  あたしはつくけど……。
愛子  後生だから、姉さん、余計な干渉しつこなしよ。
一寿  (帰つて来て、紙幣の束を卓子の上に投げ出し、知らん顔をして、煙草に火をつける)
愛子  (それを全部そのまま自分の方へ引寄せ、悦子に)ぢや、これで、こないだの分、みんな貰つとくわよ。かまはなくつて?
悦子  (笑ひながら)しかたがないわ。またいる時借りるから……。お父さん、愛ちやん、すばらしいピアノを買ふんですつて……。独逸製よ……。
一寿  そんな金が何処にあつた?
愛子  安い出物があつたの。もち、セカンド・ハンドよ。たつた四百円ですもの。
一寿  だから、そんな金を何処から引出したんだ。
愛子  あら、引出すつていへば銀行ぢやないの?
悦子  お父さん、御存じない? 愛ちやんは財産家よ。(妹に眼くばせをして)云つてもいいこと?
愛子  人の貯金のことなんか、どうだつていいわよ。さうさう、ねえ、パパ、このお人形、あたしに頂戴ね。せんから欲しかつたの。(飾棚の和蘭人形を取上げる)
悦子  あら、ずるいわ。
一寿  そいつはなあ……まあいいか。人にやるんぢやないよ。
愛子  (奥に向ひ)ちよつと、おらくさん……小母さん……あたしの部屋の電球とり替へといてくれた?

奥で、「あ、さう、さう」といふらくの声。

悦子  球なんか自分で替へなさいよ。

そのうちに、らくが、電球を持つて現はれる。

らく  これでよろしいでせうか。

愛子は引つたくるやうにそれを受け取つて、すかしてみる。

愛子  駄目よ、これ、二十四ワツトぢやないの? 四十でなきや、暗くつて、字も読めないわ。
一寿  (娘のやや粗雑な言葉の調子を聞きとがめ、しばらく、ぢつと眼をつぶつてゐるが、やがて)おい愛子、それから悦子、お前たちに云つておくがね……。(長い間)このひとは、もう雇人ぢやないんだよ。

この突然の宣言に、女たち三人は、それぞれの驚き方で、すくむやうに後退りをしながら、互に妙な会釈を交す。

一寿  お前たちに「お母さん」と呼ばせるかどうか、そこまではなんとも云へない。お前たちの意見もあることだらう。ただ、かういふことは、内証にしておくべきでないと、今ふと考へついたんだ。お前たち二人は、なんにも心配しないで、伸び伸びと、自分の生活を築いて行きなさい。このひとも、半生は不仕合せだつた。わしも弱かつた。これも縁だらう。黙つて見逃しておくれ……。

らくと悦子とは、云ひ合はしたやうに顔を伏せる。愛子は、ひとり、昂然と、父の方を見据ゑてゐる。
父親退場。

悦子  ぢや、ちよつと、あたしたち出て来ますわ。

娘達退場
らく、室を出ようとする。
娘桃枝、そつと現はれ母親の顔を見る。

     二

舞台は前に同じ。
数日後の日曜日――午前十時頃。
一寿と田所理吉(二十九歳)。主客は卓子を挟んで向ひ合つてゐる。田所は、二等運転士の服装、健康な赭顔に絶えず微笑を泛べてゐる。

田所  あれが香港かハワイあたりだつたら、病院も相当なのがありますし、ことによつたら、あんなことにならずにすんだかも知れません。しかし、丁度、発病の時機もわるかつたんです。
一寿  いろいろ、みなさんにお世話をかけたことだらう。日頃の不養生が祟つたんだね。酒はあまりやらんやうだつたが、あの通り、どか食ひをしよるんでね。
田所  いや、初郎君なんか、まだ神妙な方ですよ。去年の夏、一緒に伺つた岡田なんて奴は……。

そこへ悦子が現はれる。

悦子  愛子はなんだか気分がわるいんで、失礼するつて申してますわ。少し風邪気味らしいんですの。
田所  (ぢつと悦子の顔を見つめ)ちよつと顔だけ見せるつてわけに行きませんか。
一寿  今朝、食事の時は起きて来よつたぢやないか。
悦子  起きてはゐるんですよ。でも変な顔してお目にかかるのいやなんでせう。さうさう、岡田さんはどうしていらしつて?
田所  相変らずですよ。今もお話したんですが、奴さん、この夏お嫁さんを貰ひましてね……。
悦子  あら……。
田所  それで可笑しいんです。上陸するたびに、まあ家へ帰るのはいいとして、船へ戻つて来ると、きまつて腹をこはしてるんです。なんでも、いきなり汁粉をこさへさせて、そいつを朝昼晩と食ふらしいんですな。
悦子  まさか……。
田所  船乗りなんて、みんな子供みたいなもんですよ。
悦子  それでゐて、何時かは、麦酒をあんなに滅茶にお飲みになつて……。
田所  あれは初郎君がわるいんだ。先生は人をおだてる名人でしてね、煽動家ですよ。うちの船長がその手に乗つて、たうとう黒ん坊の女と寝たつて話……あ、いけねえ……。
一寿  何とね?
悦子  いやねえ、黒ん坊の女とですつて……。
一寿  ああ、君がかね。
田所  いや、僕の話ぢやないんです。ああ、もうよさう。どうもたまに陸へ上ると、頭の調子が狂つて来やがる。
一寿  ああ、君、なんか特別な話があるんだつたね。こいつがゐちや具合がわるいか。
悦子  あたしはもう引込むわよ。明日の準備もありますし……では、ごゆつくり……。

悦子が奥へはいると、両人はしばらく、黙つて煙草を吸つてゐる。

田所  どうも、少し、切り出しにくいんで……。
一寿  さあ、遠慮なく云ひ給へ。但し、僕の力に及ぶことかどうか……。
田所  それが問題なんですが、ぢや、はつきり云ひます。実は、愛子さんのことで御相談があるんです。
一寿  …………。
田所  僕も、やつと一等運転士チーフ・メートの免状も取りましたし、そろそろ……。
一寿  ああ、わかつた。愛子をくれと云はれるのか。そいつは、僕に相談してもなんにもならんよ。僕から取次いでもいいやうなもんだが、あれも自分のことは自分でやると云つとる。なるほど、それだけの頭もできとるやうに思ふから、僕も一切信用して、放任主義を取つとるんだ。そりや、君、世間の親達は、娘の将来にあれこれと喙を容れたがるが、それだけ娘を幸福にできるもんか? 僕はその点、親の権能といふもんを、正しく認識しとるつもりなんだ。娘の方から相談してくれれば、こりやまた別で、当りさはりのない注意ぐらゐしてやれんこともないが、僕んとこの娘たちは、ことにあの愛子といふ奴は、なかなか自信家でね。僕からでも、そんな話を持ち出さうものなら、てんで相手にはせんよ。まあまあ、そこはよろしくやり給へ。
田所  さうおつしやられると、実は、どうしていいかわからなくなるんです。まつたく取りつく島がないわけなんで……。といふのは、順序として、お話しなければわかりませんが、以前、初郎君に一度愛子さんの心持を訊いてもらつたことがあるんです……。
一寿  ほう、すると……?
田所  むろん、手紙でなんですが、そのお返事つていふのが、まつたく予想外で、僕はそのために、却つて、愛子さんの真意がわからなくなりました。つまり、その文句によりますと、――田所といふ男は、名前も顔も覚えてゐない。従つて、なんらの関心も持つてゐない。何れにせよ、自分はもともと結婚はしないつもりなんだから、その話はこれきり打切つてもらひたい……。
一寿  結婚せんつもりだつていふのかね。へえ、そりや僕も初耳だ。そんなら、君、ほつとき給へな。
田所  いや、結婚するしないは別として、僕の名前も顔も忘れてゐられる道理はないと思ふんです。まる二日、ああして、一緒に顔をつき合はしてゐたんですからね。お宅で一日御厄介になつた挙句、翌日は、みんなで奥多摩へピクニツクをしました。途中、冗談も云ひ合つたり、すつかり仲好しになつたつもりなんです。
一寿  岡田君とごつちやになつてるんぢやないかね?
田所  まあ、しかし、そのことは、一度お目にかかりさへすれば、解決がつくと思ふんですが、今日の様子では、それもむづかしいやうだし、近いうちにまた出直して来ませう。ただ、僕が来たことについて、何か誤解をされてゐては困るんです。会ひたくないと云はれるんなら、たつてとは云ひませんが、さうなると、僕の方でもその理由を伺つておきたい気がします。
一寿  待つてくれ給へ。どうもよく腑に落ちんが、君の言葉の調子でみると、愛子は君の意志を知つてゐて、わざと顔を見せたがらんのだといふやうに聞えるが、それなら、君も返事を聞く必要はないんぢやないのかね?
田所  返事よりも、理由です、僕が聞きたいのは……。
一寿  なんの理由……。
田所  返事のできない理由です。
一寿  返事ができるかできんか、まだ訊ねてもみないぢやないか。
田所  わからないかなあ。さつき云つたでせう。初郎君への返事は、まるで返事になつてゐません。
一寿  或は、それが返事の代りかも知れんな。
田所  さうおつしやるのは、あなたがまだ、肝腎な点を御存じないからです。僕たちの間柄を、普通なもんだと思つてらつしやるからです。
一寿  穏かならんことを云ふぢやないか。男女の間柄を、普通でないといふと、どういふことになるね。
田所  愛子さんを此処へ呼んでごらんなさい。僕の前へ立たせてごらんなさい。すぐにお察しがつくと思ひますから。

一寿は、茫然として一つ時相手の顔を見つめてゐる。が、やがて、起ち上つて、奥にはいりかける。しかし、そのまま、思ひ返して座に戻る。

一寿  とにかく、いづれ僕から愛子に話してみよう。一旦、君は帰り給へ。さういふわけなら、この間題は僕が預つた。
田所  それはかまひませんが、近いうち、一度愛子さんに会はせていただけるでせうか。
一寿  その必要があればね。双方のために会はん方がいいといふことになれば、つまり、必要がないわけだ。
田所  いいえ、それはあなたの方の御都合できまるわけでせう。僕の方は、どうあつても、愛子さんの口から、一言、はつきりした御返事を聞きたいんです。
一寿  「ノー」といふ返事なら聞くに及ぶまい。
田所  ところが、ただ「ノー」では、僕が承知すまいとおつしやつて下さい。
一寿  承知せんといふのはどういふ意味だね。
田所  満足できないといふ意味です。
一寿  そりや無理だ。どんな約束をしたか知らんが、当人同士の約束だけでは、正式の約束とは云へん。第一、親の僕が、与り知らんといふ法はないぢやないか。
田所  あなたは、一切干渉をなさらない方針ぢやなかつたんですか。
一寿  今はさうだ。しかし、娘がそんな約束ぐらゐに縛られて、身動きができん羽目に落ちてゐるなら、吾輩は、断じて、約束なるものを取消させる。こりや当り前だらう。
田所  今ここで、何を云つても無駄なやうですから、愛子さんにお目にかかれる機会を待ちませう。僕は、話さへわかればいいんです。決して、男らしくない真似はしないつもりです。ただ、いくら世間を識らないお嬢さんでも、自分の行為に責任をもてない筈はありません。相手の面目を潰さないぐらゐのことは心得てゐて欲しい。過去は過去として認めた上で、現在の立場を明かにする方法は、いくらでもあると思ひます。
一寿  過去と云はれるが、それも序に聞いておかう。いつたい二人の関係といふのは、どの程度まで進んでゐたんですか?
田所  それを、はつきり申上げるためには、愛子さんの同意を得なければならないでせう。かまひませんか?
一寿  そいつはかまはんと思ふが……いや、待ち給へ。君にそれだけのデリカシイがあるなら、僕も、強ひて訊くまい。愛子から云はせることにしよう。かうつと……では、またといふのもなんだから、君、しばらく、悦子と話でもしてゐてくれ給へ。僕は、ちよつと愛子の様子を見てくるから……。

一寿が奥へ引込むと、入違ひに悦子が現はれる。

悦子  (小声で)妹はどうしてああでせう。お目にかかるのが恥かしいのか知ら……。あたくし、お手紙のこと、知つててよ。
田所  ああ、僕の手紙ですか。愛子さんは、ほんとに読まないで破いちまつたんでせうか。兄さんのところへは、さう云つて来てましたよ。どうも、そいつが信じられないんだ。
悦子  あたくしにも、絶対、あなたのことは隠してるんだから、不思議だわ。でも、今奥で話したけれど、あのひとたしかにどうかしててよ。そりや、気分もわるいにはわるいんでせうけれど、御挨拶ぐらゐできない法ないつて、あたし、さんざん勧めてみたの。駄目ね。変りましたよ、以前と……。冷たいつていふのか、強いつていふのか、あの頃から見ると、女らしいところなんかすつかりなくなつたわ。自分でも、それを努めてるつて風ね。でも、あなたに対する気持には、たしかに、自然でないところがあるわ。詳しい事情はよく知らないけど……。
田所  事情は、大体、今お父さんにお話したんですが、どうも、一方的な説明は、こいつ、しにくくつて……。
悦子  (好奇的に眼を見張り)あら、そんな深い事情がおありになるの? うそでせう。いくらなんでも、たつた二日の間に。そこまで行けるか知ら……?
田所  行つたんだから仕方がないでせう。
悦子  妬いてると思はれちやいやだけど、あの子、あたしなんかより、ずつと大胆だわ……。
田所  あなたには、むろん、第一に親しみを感じますよ。
悦子  (そこにある急須に手を触れてみて)少しおぬるいか知ら。

間。

田所  学校の方は、まだお止めになりませんか?
悦子  停年には間がありますもの。
田所  いや、さういふ意味でなく、相変らず、興味をおもちですか?
悦子  職業としてでは、もつと柄に合つた仕事がありさうに思ふんですけれど、あそこにゐると、贅沢がしたくなくなるので、それが何よりですわ。自分の生活に、慾望を起さないといふ境遇は、外に考へられませんもの。毎日、貧乏な子供の家庭を訪ねて廻るのも、驕つた気持でするのとはまた別ですからね。こつちの懐をいためない程度で、さういふことをする慈善家たちと違つて、あたしは、有りつたけのものをみんな、洗ひざらひ放り出すんですの。一銭のお金でも、自分のためよりは、餓ゑてゐる人達のために使ふつていふのが、むづかしい理窟はぬきにして、今のあたしにとつて、生き甲斐みたいなもんですわ。
田所  生れつきですか?
悦子  どうせ気まぐれなんだから……。子供のころの、なんとなく薄暗い生活が、かういふ人間を作つたんでせう。やつぱり、お弁当のおかずで卑下をした記憶が、どうしても抜けきらないからよ。
田所  初郎君からもよくそんなことを聞かされましたよ。お父さんのお留守中でせう。でも、あなた方御同胞きやうだい三人は、性格的に、まるで極端と極端のやうですね。
悦子  兄は暢気でしたね。
田所  暢気つていふのか、とぼけてるつていふのか、平気で思ひ切つたことをやりましたよ。これは内証だけれど、船で泥棒をした苦力を南京袋へ押し込んで、海ん中へぶち込んぢやつたりしてね。
悦子  え? そして……?

その時、一寿が現はれる。

一寿  別々に話を聞いたんでは、どうもよくわからんが、……(悦子のゐるのに気づき)あ、お前は遠慮した方がよからう。(悦子の姿が消えるのを待つて)さつきの君の話は、たしかなんだらうね。当人は、君のことを忘れてはをらん。これは、現に当人が前言を取消したんだから安心し給へ。ところで、君との関係だが、君の云ふやうな約束に類したことは、絶対にしてをらんと云ひ張るんだがね。その点は、何か君の勘違ひぢやないか? 或は、思ひ過しとでも云ふか。
田所  (苦笑して)さうすると、僕が、余つぽど間抜けな男になるわけですが、それを事実について申上げることは、なんとしても忍びません。自分自身のために忍びないんです。しかし、あなたの公平な御判断で、愛子さんが、僕に会ふことを拒まれる点の理由を突きとめていただきたいもんです。
一寿  会ひたくないから会はんといふ理由も、紳士に対する礼は別として、我儘な女としては、成り立たんこともないと思ふが……それでは、父親の僕が相済まんわけだ。そこは、平に御容赦を願ふとして、いいかね、今日はひと先づ、あいつの我儘をゆるしてやつて下さい。人間は感情の動物といふが、女はまた格別だ。まあ、気分が悪いといふ口実を設けよつただけでも、あいつにしては可愛らしいと、そこは、男の方で腹を見せてやり給へな。
田所  僕は、女の心といふものをそれほど深く識つてる筈もないんですが、愛子さんのその態度は、まつたく、不可解と云つたぐらゐでは済まされないもんです。そちらで、飽くまで事実を否認なさるんなら、それで僕も万事を了解しませう。ただ、最後のお願ひとして、その一言を、愛子さんから直接伺ひたいもんですが、どうでせう?
一寿  それがさ、君、今云ふ通り……。なにしろ、二十四と云つても、女はまだ子供だ。一人歩きはできんのだよ。自分を求めてゐるのだと知つた相手に対して、婉曲な拒絶の方法など考へられるものか。そこで、気分が悪くなつたり、腹痛を起したりする……。
田所  いいえ、僕は婉曲な断り方なんかして欲しくありません。はつきり、厭やなら厭やで結構です。但し、僕としては、愛子さんになぜ、こんな卑怯な、そして歯痒い取扱ひを受けなけりやならないのか、なぜもつと堂々と、僕に会ひたくないなら、ない――好意がもてなくなつたら、もてなくなつた釈明をしてくれないのか、その点だけを訊ねたく思ふんです。でなければ、僕は諦めるにも諦められないぢやありませんか。いつたい全体、この家ぢゆうの者がどうかしてるんだ!
一寿  大きな声を出さないでくれ給へ。隣近所があるんだぜ。印度洋の真ん中と違ふよ。
田所  印度洋の真ん中なら、あなた方のいのちは、もうとつくになくなつてる筈だ!

彼は、憤然と席を蹴つて、入口の方に去りかける。一寿は、慌ててそれを遮らうとするが、彼の出て行く方向が玄関なので、ほつとした形で、その後姿を見送つてゐる。
しばらくすると、らくが、おどおどしながらはいつて来る。茶器を片づけはじめる。

らく  お昼はどういたしませう。
一寿  (その方を見ないで、やや無言。やがて)今の話を聞いてゐたか?
らく  いいえ……ええ、ところどころ……。
一寿  昼は、おれはまたうどんだ。愛子の奴、なにしてるか見て来てくれ。平気な顔してたら、ちよつとここへ来るやうに云ひなさい。

らくと入れ違ひに、悦子が現はれる。

悦子  たうとう帰つたわね。どうなるかと思つたわ。
一寿  話を聞いたか? 阿呆らしい話を……。
悦子  阿呆らしいつて、あれ、愛ちやんが悪いのよ、きつと……。
一寿  どつちにしてもさ。阿呆らしいのはわしだ。わかつたやうなわからんやうな、妙な話もあつたもんさ。愛子はお前に何か云うたかい?
悦子  両方の話を綜合すると、あたしには、ほぼ見当がつくわ。
一寿  そりや、わしにもついとる。愛子の奴、手でも握らせよつたんぢやらう。
悦子  さあ、それくらゐならね、向ふもああまでは云はない筈よ。
一寿  さうか知らん……。
悦子  あああ、人つてわからないもんだわ……。
一寿  どうでも、こいつ、白状させてやらう。

そこへ愛子が、なんでもないやうな顔をして現はれる。

愛子  あら、姉さん、ここにゐたの?
悦子  あつちへ行つてようか?
愛子  どうして? かまはないわよ。パパ、なんか御用?
一寿  まあ、そこへ掛け給へ。お前は一体、あの田所といふ男を、どう思ふ?
愛子  どうもかうもないわ。ただうるさいと思ふだけよ。
一寿  さういふ風にうるさくするのには、なんか男の方に訳がなければならん。早く云へば、さつき話したやうな、お前の何処かに、相手を乗じさせる隙があつたといふことだ。お前は、そんなことは知らんといふかも知れんが、向ふは慥かに、証拠を握つとるやうなことを云ふんだぜ。わしもそれ以上は訊ねもせず、あの男も、流石にかうとは云ひ切らなんだが、なんとなく、わしは、お前の方に弱味があるなといふ気がした。あの場合、会はんといふものを、強ひて会はせるほどのこともないと思つたから、まあいいやうに追つ払つたが、こいつはひとつ、わしの耳に入れといてもらはんと困る。強いことを云うて、あとで引つ込みがつかんやうになつたら、赤恥をかかにやならん。わしは、それを心配しとるんだ。あの男は、船乗りにしちや分別もあり、年のわりに純なところもある。話のしやうでは、以前は以前、今は今といふことぐらゐ解りさうなもんだと思ふ。そこは、呑み込んでかかりさへすりや、わしにも手心があるしな。知らん存ぜぬ一点張りでは、まづいぞ、こりや……。

沈黙。

悦子  あたしが口を出しちやわるいけど、こないだもそこを云つたのよ。ひとりで苦しんでるのは損よ。
一寿  (悦子に)お前はやつぱり、あつちへ行つてなさい。

悦子は、更に、愛子の耳元で何か囁いた後、妙にいそいそとその場を立ち去る。

一寿  そんなら、向ふが、かういふことを勘違ひしてるんだなと思ふやうなことがあつたら、それを云つてごらん。
愛子  …………。
一寿  こつちはそのつもりでなくつても、男の方で、いい気持になつてるかも知れんといふやうなことはないか?
愛子  (素つ気なく)さういふことなら、いくらだつてあるわ。
一寿  あるか、なるほど。ぢや、いちいち、挙げてみなさい。
愛子  (相変らず、人ごとのやうに)先づ、新宿で切符を受け取るとき――あの人がみんなのを買つてくれたの――そん時、あたし、その切符を受け取る拍子に、あの人の指を一緒につまんぢまつたの、はつと思つて、顔をあげたら、あの人、真つ赤になつて、なんべんもお辞儀してたわ。
一寿  (考へて)うむ……それから……?
愛子  電車から降りる時、あの人、網棚の上へのつけてあつたお弁当の包みを、ひとりで下ろさうとしてたから、あたし、何気なくそれを、ひとつひとつ受け取つてやつたのよ。すると、いちいち、すみません、すみませんつて勘定するみたいに云ふから、――すまないことないわつて、ただそれだけ云つたの。さうしたら泣きさうな顔して、あたしの眼、ぢいつと見てた。
一寿  (考へて)ふむ……それはそれだけだね?
愛子  ええ。それから、青梅電車の中で、ほかに人が少なかつたもんだから、みんなとてもはしやいで、歌を唄ふかと思ふと、お互に悪口の云ひ合ひをしたり、とても大変なの。あたしは、だまつて聞いてたんだけど、――一番なんとかはだあれだ――つていふ問題を一人が出すとあと四人が一緒に応へるつていふ、子供みたいな遊び、兄さんが発明したの。――一番おすましはだあれだ――つて、それはお姉さんが出したのよ。さうしたら、兄さんと岡田さんが、一緒に――タドンコロンつて、あの人の綽名よ、さう云つたら、あの人がいきなり、――僕の隣りの人つて云ふの。あたしのことよ。でも、多数決だから、あの人の負けよ。その次ぎ、岡田さんだつたかが――一番黒いのだあ……つて云ひかけた時、あたし、丁度、コンパクトを出してたもんだから、いきなり、それで、――この人つて、指さうと思つたら、それが、生憎、あの人の鼻へさはつちやつたの。
一寿  (考へて)白くついたわけだね。(長い沈黙)で、あとは、みんなその程度のことか。もそつと、深刻なのはないか?
愛子  ぢや、みんな云つちまふわ……。ほら、みんなが酔つ払つて、宿屋へ泊らうつてことになつたでせう。男三人と、女二人、もちろん別々の部屋に寝たのよ。そのうちに、男の方で、ぐうぐう鼾が聞えて来たわ。ただ、そのうちで、あの人だけが、何時までも歌を唄つてるの。低い声だけど、節なんかはつきり……。
一寿  寝言ぢやないんだな。
愛子  ええ。姉さんは、蒲団を引つかぶつて、何処が頭だかわからないやうにしてるし、あたしは、それができないから、明るい電気の下で、眼が冴えて眠られないぢやないの。かすかに、流れの音が聞えて来て、あの人のバスにそれが交ると、寝返りを打つのも怖いやうな静かな晩になつたわ。
一寿  隣の部屋との唐紙は閉めてあつたのか。
愛子  それがよ。閉めてあつたのよ。でも、少し隙間が開いてるもんだから、あたし、気になつて……ひよいと、何気なく手を伸ばして、それを閉めようとしたの……。その手をぐいとつかまれた時、あたし、もうなんにも見えなかつた。声も出なかつたの。ハツと気がついてみると、部屋が真つ暗になつてて、……外には風が出てゐたらしいわ。雨戸が頭の上で、ゴトゴト鳴つてゐたの……。
一寿  たしかに、あの男だとわかつてたんだね。
愛子  (急に、つめ寄るやうに)わかつてたらどうなの? あたしの責任なの?(激しく)いやだわ、いやだわ……そんなの、なんにもなかつたのとおんなじだわ。最初から最後のものを与へるなんて、そんな馬鹿な女どこにもないわ。さういふことが、何の証拠になるの? 男が、それで、何を得たと云へるの? 自惚れるがいいわ、勝手に……。約束なんて、それがどんな約束なの? 愛してる証拠なら、ほかにあるわ。いくらだつてみせられる……。さうよ、なぜ拒まなかつたかつて云ふんでせう。ああ、女つて、そんなもんぢやないわ……。(卓子に突つ伏す)

この時、悦子が忍び足で、入口に現はれ、父の方に眼くばせをして、快げな微笑を送る。一寿は、それに応へる代りに、静かに瞼を閉ぢる。

悦子  (そつと愛子の肩に手をかけ)大丈夫よ、大丈夫よ、愛子ちやん……。あたしたちが附いてるわよ。長い間、ひとりで苦しかつたでせう。可哀さうに……。そんな秘密をあんたが持つてると判つたら、あたしは、もつともつとあんたを労はらなけりやならなかつたんだわ……。遠くにゐたあんたが、今、急に、こんなにあたしたちの近くへ戻つて来ようなんて……それこそ、夢のやうだわ……。だから、あたし、悲しいのか、うれしいのかわからない……。さうよ、葬らなけりやならない過去は、早く葬つてしまはう……ね。あんた、まだ泣いてるの……?
愛子  (急に顔をあげ)うゝん、泣いてなんかゐない……(その通りである)
悦子  もつと、あたしのそばへ寄りなさいよ。
愛子  ええ、ありがたう……。だけど、あたしたちは、姉さんの云ふやうに、近くなつたなんて、うそだわ。大うそだわ……。
悦子  あら、どうして?
愛子  (冷たく)パパ、あたしは、今日から、この家を出てくわ。なんにも心配しないで頂戴ね。いろんなことが、だんだんわかつて来たからだわ。自分の生活は、お父さんや姉さんのそばにないつてことがわかつたの……。(入口に立つてうしろを振り返り)居所がきまつたら、すぐお知らせするわ……。
一寿  おい……愛子……。

愛子姿を消す。
悦子は、しばらくそれを見送つてゐるが、ふと、父の眼に涙を発見し、急いで、自分もハンケチを取出す。

     三

あるアパートの一室。正面に扉。右手に窓。左手に幕を引いたアルコーヴ。寝台の一端が見える。室の中央に瀬戸火鉢。
前場より二年後の冬、昼近く。
扉をノツクする音。
寝台から、むくむくと起き上つた男は、無精髭を生やした沢一寿である。彼は、扉を開けに行く。奥井らくが立つてゐる。

一寿  なんの用だ!
らく  さう突慳貪に云はないで下さいよ。はいつちやいけないんですか。
一寿  用事を早く云つたらいいだらう。
らく  それぢやあなた、風邪を引きますよ。いいんですか。
一寿  (渋々、引つ返して丹前の袖を通しながら)今日は娘たちの来る日なんだ。また見つかると、わしはいやだよ。
らく  だから、すぐ帰りますよ。(さう云ひながら、火鉢のそばに蹲る)
一寿  ねえ、おい、今の境遇ぢや、さうさうは困るよ。もう就職も、わしは思ひきつた。神谷の奴も、てんで相手にしてくれず、この年になつて、方々へ頭を下げて廻るよりは、かうして細々と暮してゐた方がましかも知れんと、近頃やつと覚悟をきめたんだ。
らく  愛子さんの方からは、ちつと、どうかできないんですか。
一寿  それだけは勘弁してくれ。あいつも、来るたんびに、なんか置いてかうとするが、わしは断然、そんなものは受取らんと突つ返してやる。毛唐の女房になつて、楽をしようつてぐらゐの女だ。娘は娘でも、こつちから弱味をみせたくないんだ。
らく  あたし一人だけなら、今のでどうかかうかやつて行けるんですけど、桃枝を学校へ出すとなると、こりや無理にきまつてるんです。悦子さんに、あたしからお詫びしてもかまひませんから、元々どほりにしていただけないでせうか?
一寿  元々どほりつて、三人が一緒に暮すことかい。そいつは、もう真平だ。お前と悦子の間に挟まつて、わしはどれだけ苦労したか、まあ考へてみてくれ。ほかの理由でならとにかく、お前との折合ひが悪くつて、あいつが出て行くといふもんを、それならさうしろと、このわしが云へるか。妙な意地で、三人がばらばらになつた。それでも、そのためにわしは双方への顔がたつた。もう、これでよろしい。なんにも変へる必要はない。そうつとしといてくれ。
らく  あたしも、最初伺つた時は、あんなことになるつもりはなかつたんですからね……。
一寿  それを、今云ひ出してどうするんだ。
らく  どうしようていふんぢやないんですよ。自分で自分がわからないつてことを云つてるんです。今日も月謝のことで桃枝とすつたもんだの挙句、ふらふらつと、ここへ来てしまつたんです。
一寿  ふらふらつとなら、もうちつと気の利いたところへ行くとよかつた。五円はおろか、二円も覚束ない、今のところ……。
らく  へえ、今日がお二人の見える日でしたかね。ちつとも気がつかなかつた。
一寿  毎月の第三日曜つてこと覚えといてくれ。愛子の亭主がゴルフをやりに行く日だ。今日はこれで風もなし、絶好のゴルフ日和だな。(クラブを振る真似をする)
らく  あなた、やつたことあるんですか。ゴルフとかつて……。
一寿  (照れて)ない。

この時、扉をノツクする音。
一寿、慌てて、扉を細目に開ける。
「お電話です、横浜から」といふ声。

一寿  ありがたう。(らくに)ぢや、今日はもう帰るか?
らく  しかたがないでせう。(これも起ち上つて、一緒に出かけるが、思ひ出したやうに)また序に、洗濯を持つて行きますよ。

彼女は、戸棚から、汚れたシヤツ、猿股、ハンケチなどを取り出し、それを新聞紙に包む。脱ぎ棄てた洋服を壁に掛ける。ポケツトの中のものを出してみる。銀貨がチヨツキのカクシからこぼれる。その一つ二つを、手早く帯の間へ押し込む。
一寿が、寒さうにはいつて来る。

らく  さうさう、いい話を聞きましたよ。
一寿  (大袈裟に)ああ、たまにはいい話を持つて来てくれ。
らく  さういふいい話かどうか知らないけど、今ゐる家の階下したの店へ来る問屋さんでね、悦子さんの学校へ文房具を入れてる人があるんです。その人がさう云つてましたよ――悦子さんは、どうして、すごいんですつてね。
一寿  さういふ噂は、半分に聞いとくといい。
らく  そりや噂だから、根も葉もないことかも知れないけど、なかなかすごいんですつて……。
一寿  すごいすごいつて、なにがすごいんだ?
らく  すごいんですつて、ああ見えて……。
一寿  校長を丸め込んでるとでも云ふのか?
らく  まあ、あたしの口からは云はない方がいいでせう。
一寿  やれやれ、さういふ癖が、お前にもあるのか。四十年この方、わしの識つた女は、例外なくそれだつたよ。
らく  そんなら言ひませうか。
一寿  云はんでよろしい。聞きたくない。
らく  あら、怒つたんですか?
一寿  (火鉢の炭を吹きながら)拗ねてみせるやうな年になつてみたい、もう一度……。
らく  悦子さんは、若い男の先生達から、とても騒がれてるんですつて……。ところが、うんと騒がしといて、そのうちの一人を、誰も知らないうちに、ちやんと手なづけてるんですつて、三年前から……。そりや、わからないやうにうまいんですつてさ。相手は五つとか年下なんですけどね、学校にゐる時は、まるで子供扱ひにして、お使ひまでさせるんですつて……。
一寿  (益々顔を火鉢に近づけ、やたらに灰を吹き上げる)あちいツ!(顰めた顔で、らくをみあげ)おい、頼むから帰つてくれ。
らく  はい、はい、ぢや、御用がなければ、あたくしは帰ります。
一寿  教へた通りの挨拶をして行け。
らく  (ぎごちなく、一寿の額に接吻する)

彼女が出て行くと、一寿は、洋服に着かへはじめる。最初の場で唄つたのと同じ節の歌を口吟む。大きく咳払ひをする。嚏めをする。手で鼻を拭く。
カラの釦をはめようとしてゐる時、扉をノツクする音。

一寿  アントレエ! おはいりイ!

悦子が、肩掛に顔を埋めてはいつて来る。

悦子  お変りない?
一寿  変らざること、ミイラの如し。お前も風邪は引かんかい?
悦子  風邪なんか引いてられないわ。忙しくつて忙しくつて……。
一寿  結構だ。
悦子  愛ちやん、今日来る?(チヨツキと上着を着せかけてやる)
一寿  今電話をかけて寄越した。出かける時間だけど、ゴルフ場から車が帰つて来ないんで、ことによると、少し遅れるかも知れんつてさ。十二時には間に合ふだらう。
悦子  今日は是非、会つてきたいの。この前はあんな風にして別れたもんで、あと気持ちが悪くて……。でも、ああなつちまつたら、なほらないもんね。もうちやんと性格になつてるわ。どういふものか知ら……人の言ひなりになるつてことがいやなのね。
一寿  亭主にはああでもなからう。
悦子  それが、あのひとうまいのよ。西洋人が日本の女のどういふところに目をつけてるか、ちやんと呑み込んでるわよ。西洋人のお神さんになつて、西洋の女の真似をしちや損だつてことを、百も承知なんだから感心だわ。甘え方だつて、ほら、何時かみてなかつた? あたしたちの前なんかと、どう? がらつと変つちまふでせう。まるで芸者よ。あれ、驚いた、あたし……。
一寿  驚くことはないさ。お前だつて、亭主を持つたらおんなじこつた。
悦子  違ひますよ。いくらなんでも、かういふ(頸と肩とを同時に寄せて行くしなを作つてみせ)真似は、あたしにはできつこないわ。あんな恰好、何時の間に覚えこんだか、訊いてやらうか知ら……。
一寿  また、また! お前も近ごろ、ずばずば云ひ過ぎるよ。あいつはあいつでいいぢやないか。わしも、お前も、あいつの世話になつてるわけぢやなし、苦労はめいめい、有り余るほどもつてるんだ。それみろ、お前は痩せたぞ、この節……。
悦子  云はないでよ、それ……。自分にもわかつてるのよ。どこまで痩せてくか、黙つて見てて頂戴よ。これで、どうにもならないんぢやないの……。
一寿  苦にしちやいかん、苦にしちや……。人生は、ひらりとからだをかはすものの勝利だ。神谷をみろ、神谷を……。あいつが、からだをかはし損つたのは、細君だけだ。そのほかのことは、こいついかんとなつたら、その場で、なんの躊躇もなく、ひらり、ひらりだ。わしもそいつを喰つた一人だ。ああなくつちやならん。どうしたんだ、え? 妙に沈んじまつたぢやないか?
悦子  あたし、お水一杯ほしいわ。汲みたてない?(一寿が起たうとするのを止めて)いいわ、いいわ、あたし、行つて飲んで来るから……。コツプ貸して……。(戸棚へ行つて、自分でコツプを出す)
一寿  わしが持つて来てやらう。
悦子  いいのよ、さうしてらつしやいよ。

悦子は、幾分重い足取りで廊下に出る。一寿はぽかんとそれを見送つてゐる。やがて、起ち上つて、蟇口の中を検める。紙幣が二三枚小さく畳んで入れてある。チヨツキのカクシに指を突つ込んで、小銭をつまみ出す。ちよつと考へる。が、別に何も気がついた風は見えない。
十二時の汽笛。
悦子が、帰つて来る。顔が蒼ざめてゐる。

悦子  おうお、寒い。
一寿  さあ、あたれ、あたれ……。(椅子を一脚火鉢のそばへ引寄せてやる)
悦子  おらくさん、どうしてます?
一寿  うむ?(聞えないふりをしてゐる)
悦子  おらくさんよ。近頃、どうしてますつて訊いてるの。
一寿  (曖昧に)いやあ……あれもねえ……なんちゆうことはないさ。
悦子  あたし、ちつともかまはないから、一緒におなりになつたらどう……。さうしていただかないと、あたし、却つて困るわ。第一、御不自由でせう。それに、あたしがわる者みたいで……。ねえ後生だからむづかしいこと云はないで、側へ呼んでおあげなさいよ。
一寿  なあに、お前が思つてるほどのことはない。わしも、かういふ生活は、慣れつこになつとるし、気楽でいいよ。なにも今更、朝は味噌汁でなけりやならんといふわけもなしさ。お前たちさへ、かうして、時々顔を見せてくれさへしたら、このままかうしてゐるのが、誰にも迷惑をかけんで一番いい。おや、お前、熱でもあるんぢやないか。顫へてるぢやないか。(娘の額に手をあててみる)まだ寒いか。
悦子  (肩で呼吸をしながら)愛ちやん、早く来ないかなあ……。人が待つてるのを知らないんだわ……。
一寿  (腰を浮かし)もう家を出たかどうか、訊いてみよう。
悦子  電話? いいぢやないの。来る時は来るわよ。あたし今日は愛ちやんと、一生の仲直りをすんの。
一寿  立会人はいらんのか? わしは、もう役に立たん。お前たちの一生と云へば、わしが死んでからの方が長いわけだ。
悦子  立会人なんかいるもんですか? ひとりでにうまく行く方法を考へたのよ。
一寿  さう云ふが、お前たちはそれほど仲の悪い姉妹きやうだいでもないぢやないか。それに較べると、あれなんかひどかつた。話したかも知れんが、わしが最初に外務省から語学の勉強にやらされたフランスのトウウルといふ町でだが、丁度下宿をした家に、五十そこそこの婆さんが二人ゐてね、一方はマダム・テパアズ、一方はマドマゼル・ポオリイヌとみんなが、呼んでゐた。二人とも、その家の主人の姉さんで、めいめい食扶持を持ち寄つて所謂共同生活をやつてゐるわけだが、その二人姉妹は、姉さんのマダム・テパアズがお嫁に行つてゐる間の幾年かを除いて、それこそ、朝晩顔をつき合はせてゐるといふ間柄だ。ところで、この二人は、もう十年間お互に口を利かないといふんだから、驚くぢやないか。それまでは、何かにつけて意見が合はず、しよつちゆう、口論もする代りに、まだ、人の前なんかでは、普通の姉妹に見えたものださうだ。どつちか一方が、箒を持つて門口までもう一方を追つかけて来るところをよく見かけたなんていふ話は、まだ愛嬌があつていい。それが、最近の十年といふもの、今も云ふとほり、ぱつたり、口を利かなくなつてしまつた。むろん、話し合ふ用事なんかなくなつてしまつたんだらう。わしは、食堂で、三度三度その二人が卓子の両はしを占領して、まるつきり眼と眼を反け合つてゐる有様を、ある時は気まづく、またある時は滑稽に思つてながめ暮したもんだ。あそこまで行けば、喧嘩も徹底してゐる。仲が悪いなんていふ生やさしい関係ぢやない。さうだらう、顔を見るのもいやだから、自分はほかへ遷らうつていふ気をどつちかが起しさうなもんだのに、さういふ気は起さない。ね、毛唐はさういふところが面白い。遷つた方が負けになるんだ。主人の細君、つまり、その婆さんたちの義理の妹といふのが、これはまた陽気な女で、いい対照だつた。さう云へば、喧嘩をしてゐる二人も、顰めつ面ばかりしてゐるわけぢやない。相手を前において、ほかのものと必要以上にはしやいだりすることもあるんだ。一種の示威運動だ。――お前さんと口を利かないぐらゐで、あたしの人生は不幸になりやしないよと、つまり、それとなく虚勢を張つてみせる。さあ、さうなると、一方も、これに対抗する上から、そばの誰かをつかまへて、自分が現在如何に幸福であるか、その日その日を如何に楽しく送つてゐるかを力説する。更に片つ方が親友と旅行する計画について吹聴すると、片つ方は、教会の集りで、余興委員に挙げられたことを自慢するといふ具合に、そのへん、なかなか、聴く方でも骨が折れる。

扉をノツクする音。

一寿  アントレエ!

愛子が、すばらしい洋装で現はれる。

一寿  (わざと、西洋紳士が貴婦人を迎へ入れる時のやうな調子を真似て)ビヤン・ヴニユウ・シエエル・マダム。(それから、椅子をもう一脚火鉢のそばへ寄せながら)アツソイエ・ヴ・マダム・ラ・ヴイコンテス!
愛子  (父親の道化芝居には目もくれず、いきなり、姉の方に向つて)どう? 忙しい? 
悦子  愛ちやん、今日は一生の仲直りしませう。あたし、今度、遠くへ行くことになつたの。
一寿  (驚いて)何処へ行くつて?
悦子  まだ、はつきり決めてないの。なるべく遠くへ行つちまふつもりよ。
愛子  なあぜ。
悦子  少し、わけがあつて……。ゆつくり話すわ。
一寿  転任かい?
悦子  ええ、まあ、都合によつては、さういふ形式になるかも知れないわ。
一寿  お前の志望でかい、それとも……。
悦子  ちよつと、その話は後にして、今日は、どうすんの?
一寿  (愛子の顔をみて)また、例の支那料理か?
愛子  坐るの困るわ、あたし……。それに、今日はゆつくりできないの、お茶に呼ばれてるから……。
一寿  何処のお茶?
愛子  大使館よ。二時にルネが迎へに来てくれることになつてるの。あたしに委せてくれない、今日は?
一寿  その方の用意は若干してあるがね。まあ、たまに御馳走になるのもよからう。だが、服はこれしかないんだが……。いや、お前さへよけりや、わしはかまはん。
愛子  この部屋、たまに掃除すんの?
一寿  なに、今起きたばかりなんだよ。珈琲もまだ沸かさにやならず……。
愛子  珈琲、もういいぢやないの。ねえ、いらないでせう、姉さん。
悦子  でも、御自慢なんだから、させておあげなさいよ。
一寿  (珈琲の道具を用意しながら)材料が材料だから、思ふやうには行かんさ。

その間に、愛子は、寝台に近づき、姉の隣に腰をかける。

愛子  (ぢつと、姉の横顔を見て)顔色がわるいわね。
悦子  あたし、今の学校よすことになつたの。
愛子  でも、よしたつきりぢやないんでせう。
悦子  それがね、愛ちやん、少し面倒なことが起つたの。聞いてくれる?
愛子  聞いてよければ……。
悦子  相変らずね。ほら、何時かのこと覚えてる? あんたが家を出るつて、怒つた時を。あたしが同情したのがわるいつて……、ぷりぷりしたぢやないの。
愛子  ああ、例の問題の時ね。
悦子  あのこと、あたしまだわからないんだけど、あんたが一人で苦しんだらうと思つて、一生懸命慰めるつもりだつたら、あべこべに御機嫌を損じちやつて、おまけに、当分絶交みたいなことになつたの、あれ、今でも不思議なのよ。
愛子  …………。
悦子  お互に秘密なんかないやうにつて、あの少し前、あたしが云ひ出したわね。あん時の気持、今も変つてないわ。だから、今度は、あたしの秘密を打明ける番なの。あんたのプライドが、何時かの問題であたしの前に傷けられたとすれば、今日は、あたしのプライドを、あんたの前で、踏みにじらうと思ふの……。それでアイコぢやないの。でも、あたしは、あんたのやうに、自分を信じることができないから、同情してくれればしてくれるだけ、うれしいと思ふわ。もちろん、他人からぢやなくつてよ。あんたからよ。妹のあんたからよ。あたしは今、眼の前が真つ暗なの。あんたにだつて、ああしろかうしろつていふことはできないかも知れないけど、とにかく、力をつけてよ。倒れさうになつたら、手をかしてよ。後生だから、希望があるうちは、その希望の方へあたしを向け直してよ……。
愛子  …………。
悦子  どう、約束してくれる? 云つても無駄ぢやないつてことを感じさせてくれなきや、あたし、勇気がでないわ。
愛子  とにかく話してみたら……? あたしで、出来るだけのことはするわ。ただ、その前に、これだけのことは云つとくけど、姉さんが重大だと思ふことを、あたしはそれほどに思はないかも知れないわよ。そん時、同情のしかたが足りないなんて云つちやいやよ。
一寿  (珈琲を珈琲つぎに入れながら)二人ともお代りはいらないか?
愛子  いらないわ。ぢや、云ひなさいよ。
悦子  頼りないなあ……。でも、思ひ切つて云ふわ――愛ちやんを悦ばすと思つて云ふわ。
愛子  (ぴくりと眉を動かす)
悦子  あたし、実は、学校のある男の教師と、三年前から、愛し合つてゐたの。むろん、周囲がうるさいから、絶対誰にも知れないやうに注意してたわ。それはまあ、うまく行つたの。
愛子  …………。
悦子  ところが、去年の夏頃から、ふつとした機会に、もう一人の男の教師と度々話をするやうになつて、別にそれはなんでもないんだけど、ほら、前の男が妙に気を廻しはじめたの。初めはただ、そんなこと弁解するのは馬鹿々々しいぐらゐに思つてたわ。嫉妬つて恐ろしいもんね。たうとうしまひに、人前であたしの方をにらみつけたり、二人きりになると、めそめそ泣いたりするやうになつて来て、いくらわけを云つても承知しないんでせう。こつちもうるさくなるわ、しまひに……。勝手にしろつていふ気になるわ。それで、その結果が、まつたく、思ひがけない方向へあたしを引つ張つてつたの……。それまで何でもなかつた相手と、冗談みたいにして離れられない関係ができちまつたのよ。今から思ふと、なんだつてそんな向ふ見ずなことができたらうつて気がするんだけど、もうしかたがないわ。あれで半年ぐらゐの間、その二人の男を、一方には飽くまでさうなつたことを打明けず、一方には、以前の男を棄てたやうに見せて、大胆つていふか、図々しいつていふか、まるで良心のない生活を続けて来たの。どうかしなけりや、どうかしなけりやと思ひながら、一日一日がたつてしまつたのね。でも、たうとう、来るものが来たと云つていいわ。その二人は、同時に、あたしから瞞されてゐたことを知つたわけよ。そして、一方ではもう、その噂が校長の耳にはいつてるの。一昨日、あたしは校長の前に呼ばれて、然るべく身の始末をするやうに云ひ渡されたの。校長は、そりやあたしを信用してたの。その信用が、職務の範囲を越えて、ある時は、個人的な親愛とまで感じられる程度だつたから、若しあたしさへその気になれば、これもどんなことで……と、内心不安に思ふやうなことさへあつたわ。その校長が、あたしに、さういふ宣告を下さなけりやならないんだから、随分皮肉ね。
一寿  さ、熱いうちにどうだ?
悦子  ええと、ああ、さうだわ……。将来を慎めば、今度のことは内密にして、何処か離れた土地へ、三人とも別々に転任させてもいいつて、校長は云つてくれたんだけど、男が二人とも、それは承知しないの。前の男は、かうなつたのは自分が悪いんだから、過ぎ去つたことは過ぎ去つたこととして、どうしても一緒に、これから二人で生活の建て直しをしようつて、きかないの。後の男は後の男で、自分の方にその権利があるつて譲らないから、あたしは、もう、はつきり自分の考へが云へなくなつてしまふぢやないの。一方はまだ二十五で、一方はもう……たしか三十だわ。二人を並べると、あたしの気持は、十分、前の男の方に傾いてゐることはわかつてるの。
愛子  若い方ね?
悦子  ええ……。でも、さういふ気持を別にしても、その方が正しいんぢやないか知ら……?
一寿  (自分の珈琲を飲み干し)おい、折角のが冷めちまふぢやないか。
愛子  (黙つて、卓子に近づき、珈琲茶碗を取り上げる)姉さん、それだけの話?
一寿  なにをお前たちは、こそこそ話してるんだ?
愛子  秘密の話よ。パパは聞かなくつていいの。(姉の方に近づく)
悦子  興味ない?
愛子  そこまでは事件の筋道ね。スキヤンダルになるかならないかは、姉さんの態度ひとつだわ。
悦子  どうすればいいの?
愛子  あたしならつていふ返事はできるけど、姉さんの場合は、さあ、どうか知ら?
悦子  これで二十八よ、あたしはもう……。どういふ意味でも、新しく出直すつてことが、女にはもうできない年になつてるのよ……。あんたの何時か言つた、勇気もお金も時間もない、今の場合を考へて頂戴……。なにが恐ろしいつて、あたしは、一人つきりになることよ。(涙を拭く)
愛子  (突然大声で笑ひ出す)
悦子  (キツとなり)どうして笑ふの?
愛子  ごめんなさい、つひ笑ひたくなつたの……。
悦子  いいわよ。笑ひたけりや笑ひなさいよ。やつぱりさうなんだわ……。あんたみたいな冷血に、なにを云つたつてわかるもんか! 今日限り、姉妹の縁を切るわよ。洋妾みたいな生活をして得意になつてたら大間違ひだわ。あんたには、心の悩みなんてものがないんでせう。男の顔がお金にみえて、毛皮の外套が幸福のシンボルなんでせう……。
一寿  また喧嘩をはじめたのか。月に一度、云ひ合ひをしに此処へ来るんなら、わしやもう、部屋を貸してやらんぞ。
愛子  姉さん……。何時かのことを思ひ出さない? あたしが、あんな口惜しい思ひをしてる時に、姉さんは、口で優しくあたしをなだめながら、心の中で、笑つてゐたぢやないの……。あたしが馬鹿に見えたんでせう? あたしが泥だらけになつて、それがうれしかつたんでせう……? だから、同情にならないとは云はないわ。それがあたしたちの同情よ。相手を慰める悦びに、人は酔ふことがあるのよ。姉さんは、それだつたのよ。それを有難がる相手もあつていいでせう。あたしはちつとも有難くないの。だから、あたしは、人にもそれをしないのよ。悪く思はないで頂戴……。
悦子  そんな理窟、聞きたくない。あたしは心から、あんたの不幸を悲しんであげたんだ。
愛子  悲しんでくれて、それがどうなつた? 人間の不幸が若し過ちから生れるもんなら、さういふ不幸を、先づ、笑ふのがほんとだわ。あたしはむろん、今、そんな意味で笑つたんぢやない。姉さんが、心の中で、あたしを笑つた、あの笑ひ方を、声に出してみせてあげたのよ。わかつて? おつしやる通り、アイコだわ。
一寿  あああ、いい加減によさないか? わしは腹がへつて来た。(さう云ひながら、室内を歩きまはる。喧嘩がすむのを何時もの通り待つてゐるのである)
悦子  ぢや、それで勘定はすんだわけね。序に、これからは、赤の他人になりませう。妹がゐると思ふから、あたしも一人になるのが淋しかつた。もう、今日限り会ふこともないでせう……。(起ち上り)お父さん……。あたし、また近いうちに出直して来るわ。

悦子は、さう云ひながら、部屋を出て行く。
一寿と愛子とは、それを見送る。

一寿  姉さんはどうしたんだ? なにを怒らしたんだ?
愛子  また素敵な仲直りをしたいもんだから、思ひ切り、腹を立てたふりをするのよ。パパは、姉さんの味方をしなきや駄目よ。それから、今日は、あたし一人でつまんないから、これで帰るわ。御馳走する予定で、これ持つて来たから置いてくわよ。(紙幣を卓子の上に投げ出す)
一寿  (慌てて)ええい、また、そんなことをする! わしは、それが嫌ひだつて云つてるぢやないか。持つて帰りなさい、持つて帰りなさい、そんなもの……。少しぐらゐ小遣が自由になるからつて、無駄使ひを覚えなさんな。
愛子  ぢや、これで、靴下でも買はうツと……。(紙幣をハンドバツクにしまひ)ぢや、さよなら……また、来月……。

愛子は、ゆるゆる戸口から姿を消す。一寿は、その方は見ずに、上着を脱いで、戸棚からパンのカケラを取出し、チーズを片手につまんで、あちこちと歩きながら、代る代るそれを口に運ぶ。ラヂオの音楽が、この情景の底を皮肉に彩つて――

――幕――





底本:「岸田國士全集6」岩波書店
   1991(平成3)年5月10日発行
底本の親本:「現代戯曲 第二巻」河出書房
   1940(昭和15)年9月17日発行
初出:「中央公論 第五十年第一号」
   1935(昭和10)年1月1日発行
※底本の二重山括弧は、ルビ記号と重複するため、学術記号の「≪」(非常に小さい、2-67)と「≫」(非常に大きい、2-68)に代えて入力しました。
入力:kompass
校正:門田裕志
2007年1月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について