風俗時評

岸田國士




一 医院


医師  どうも不思議だねえ。どこも、なんともないが、それでも痛むかね?
患者  痛むかはひどいですよ、先生、このしかめつ面がわかりませんか!
医師  もともとさういふ顔かと思つとつたよ。どれ、もう一度見せなさい。こゝだね、押へてちや駄目だ、手をどけなくつちや……。これで痛むかね? 痛む? どういふ風に痛むね?
患者  いやだなあ、口で言へるやうなもんぢやありませんよ。なにしろ、なにがぶつかつたんだかわからないんですからね。外からか内からかもわからないですからね。
医師  さうか。突然、急に痛み出したんだね。別に、誰もそばにやゐなかつたかね? 抓られでもしたんぢやないか?
患者  先生、戯談はよして下さい。抓る相手がゐれや、それくらゐわかりますよ。それに、指なんていふ生やさしい感じぢやありませんからね。かう、刃物でゑぐられるやうな、錐を突き刺されるやうな、かうなんとも云へない……。
医師  刃物も錐も使つた形跡はない。してみると、神経的なもんだ。
患者  神経だと、どういふことになるんですい? お宅の専門ぢやないんですか?
医師  いや、専門でないといふわけぢやないが、厄介だね。電気でもかけてみるか。
患者  心細い云ひ方をしないで下さいよ。電気にでもなんでもかゝりますよ、毒でさへなけや……。あ、痛た、た、あん時の事を思ひ出したゞけで、これですからね、その当座と来たら、眼がくらんで道ばたへ坐つちまひましたよ。
医師  道を歩いてたのかね。
患者  さつき、さう云つたでせう、お祭りの寄附を集めて廻つてたつて……。
医師  それや聞いたが、もう少し詳しく云つて見給へ。町内を一軒々々廻つて歩いたわけだね、ふむ、すると?
患者  すると、ほら、あの狸横町の左側三軒目に名取つていふ家があるでせう。名取氏高、尊氏のあべこべだ。あるでせう。中学の先生でさ。あの家へ行つて、へえ、今日は、お賽銭をどうぞつて、表から声をかけました。
医師  あの家なら、僕も一度往診したことがある。縁なし眼鏡をかけて、ちよつと綺麗な奥さんがゐらあ。
患者  それ/\、その奥さんつて女が、つんとすまして出て来た。――只今、たくがをりませんですから、あたくしではわかり兼ねます……。
医師  はゝあ、よほど出すもんと思つたんだね。
患者  あつしや、云つてやつたねえ。――なに、ほんのお賽銭ですから、お思召で結構です。すると、――お賽銭つて申しますと、こちらから持つて参るもんぢやございませんか知ら……。
医師  声色、うまいねえ。なるほど、その通りだ。
患者  ――いや、お賽銭と云つても、つまり、お祭のなんですから、町内の若いもんにおみ酒の一杯もふるまつてやつていたゞきたいんで……。――ですから、それなら宅とも相談いたしまして……。いや、奥さん、そんな大そうなことをお願ひするんぢやありません。これだけのお宅の奥さんなら、お主人から委されてゐる会計といふもんがある筈だ。
医師  君、さう云つたのか?
患者  云ひましたとも。ねえ、その会計のうちから、お白粉代をちよつと倹約なされば、世間並の義理が果せるんぢやありませんか。ねえ、これが、押売り物乞ひなら、それや別です。町内で、年に一度の陽気なお祭、しかも、そのお祭りは、勿体なくも稲荷大明神のお社といふもんがあつての話でさあ。ねえ、奥さん、野暮なことを云はないで、門構の手前、いつてう、気前の好いところをお見せなさい……。
医師  門構の手前はよかつたね。僕なんかも、それを云はれると、いや、云はれなくつても、門の大きさつてものは気になるもんだ。
患者  すると、渋々出しました。帯の間のガマ口から、五銭白銅を一つ。……チエツ、……思はず、あつしや、手を引つ込めた。――あら、少なすぎます? 訊くやつあ、ねえや。――こちとらの家でさへ、子供の駄賃がこれだつて、云つてやつた。
医師  すると、また追加したかね?
患者  驚いて、五十銭玉を放り出しやがつた。愉快だつたね。だが、今更、礼も可笑しなもんだ。照れかくしに、大きく鼻をこすつて玄関を飛び出した。よく見ると、なに、それほどの門構でもねえ。ガラガラ、ピシヤリ……。表で、向ひ側を廻つてる野郎に出くわしました。――おい、これみろ、豪勢なんだらう。初めての五拾銭玉を見せびらかさうとすると、その時です、先生……。痛いツ!
医師  そこで、眼がくらんで、道ばたへしやがんぢまつたわけだね。
患者  肩先ですぜ、先生……やられたツと思ひました、そん時は……。
医師  まだ痛むかね。
患者  また痛み出したやうだね。
医師  腫れてもゐない。凹んでもゐない。
患者  変だな、気のせいつてこたないね。
医師  さういふこともあるよ。膏薬でも塗つて、一と晩、様子を見てみるんだね。さ、あつちへ行つて……。
看護婦  先生!
医師  なんだ。
看護婦  あの、根本さんからお電話で、御隠居さんが急に、なんですか、足の裏がお痛みになるんださうです。我慢がおできにならないから、すぐ診に来ていたゞきたいつておつしやるんです。
医師  足の裏が痛む。……? どういふ風に?
看護婦  さあ、それは伺ひませんでしたけれど、お熱はないさうです。
医師  よし、自転車の掃除はできてるね。それから、もう一人待つてる患者さんは?
看護婦  あゝ、さつきから、頬つぺたが痛くつて、ぢつとしてゐられないつて、表を歩いてらつしやいます。
医師  呼んで来なさい。それから、今の人には、左肩へイヒチオルを塗つて、温湿布だ。いや、冷湿布の方がいゝか。まあ、どつちでもいゝや。
紳士  先生、どうしたつていふんでせう、これや……。歯の方はなんともないんですが、頬の筋肉がやけに痛むんですがなあ。
医師  まあ、ちよつと、お坐りになつて……。お名前は……。
紳士  名前なんか後にして下さい。年は四十二です。首から上の病気はしたことはありません。
医師  ちよつと、拝見……。御商売は?
紳士  口を開けたまゝぢや、云へない商売なんですが……。
医師  ぢや、どうぞ……。
紳士  貿易商……。
医師  なるほど……もう一度、中を……。別に糜れてもゐないやうですね。かうしてはさんでどうですか。痛む場所は指の当つてゐるところぐらゐですか?
紳士  さあ、指がどこに当つてるか見えないですな。
医師  いや、感じで結構です。
紳士  感じません、なんにも……。たゞ、痛いだけです。とてもお話にならないくらゐ痛いです。
医師  一種の流行病かも知れませんね。さきほどから、大部、さういふ患者さんが見えるからどうも不思議ですよ。で、何時からです、痛みは?
紳士  今朝、店へ出掛けようと思ひまして、家を出ました。何時も自動車を呼ばせるんですが、今日はこの通りお天気がよろしいもんですからな、練兵場を突つ切つて本町通りまでぶらぶら歩いてみようといふわけで、丁度、騎兵連隊の裏門のへんに来かゝると、妙に、長閑な気持になりましてな。桃がもう蕾をもつてゐますし、選挙はやつと形勢もきまりましたし、つひ、平生好きな浪花節が、ひとくさり……。
医師  はゝあ、あなたも浪曲党ですか?
紳士  赤垣源蔵徳利の別れ、なに、たゞレコードで覚えたくらゐのもんですがね、勿論人様の前ぢや絶対にやりません。誰も聴いてないと思ふと、なんとなく節が浮んで来ます。それを、まあ、やつたわけです。すると、その折角陶然とした気持のところへ、出し抜けに、キリキリキリ……。
医師  痛み出したんですな?
紳士  あんまり頬つぺたに力を入れすぎて、これや、破れたかなツと思つたほどです。
医師  おほきに。でも、鼻の方はどうもありませんでしたか? あれや、大分、鼻も使ひますからな。
紳士  いや、その方は、別に……。
医師  ふむ、してみると、その時、頬の筋肉が痙攣を起したといふ風にも考へられるが、そんなに長く痛むのはをかしいですな。頬の筋肉は、この通り、腕や脚などと違つて、伸び縮みの自由なもんですから、つれるといふやうなことは、まあないと思ひますが、念のためにマツサアジでもやらしてごらんになつたらいゝでせう。別に薬は差上げません。強ひてとおつしやるなら、含嗽を二三日分、持つてお帰りになりますか。
紳士  いや強ひてとは申しませんが、やはり、その、安静の必要がありませうか?
医師  頬だけは、無理にお動かしにならない方がよろしいでせう。
看護婦  先生、また根本さんからお電話なんですけれど……。
医師  あゝ、今すぐ伺ふからつて……。やあ、御大事に……。
紳士  診察料は如何ほど……?
医師  さうですか、では、向うの窓口でいたゞきませう。初診は……えゝと、これも、窓口で申上げます。痛いツ! なるほど、これだな。


二 警察署


署長  会ひますよ。誰も会はないと云つてやしない。何の用事ですか?
洋服の男  勿論、此処だけでは済まされない問題です。向うの出方ひとつでは、訴訟を起してやる。実に怪しからん。
署長  誰だね、その怪しからんといふのは?
洋服の男  誰だかわかつてれや、君なんかに会ふ必要はないんだ。
署長  大分興奮してるやうだが、どうしたんだね、鼻を押へて?
洋服の男  鼻を押へてるのは、痛いからですよ。わかつてるでせう!
署長  喧嘩でもしたのか?
洋服の男  君、人をなんだと思つてるんです?
署長  君こそ、此処を何処だと思つてるんだ!
洋服の男  僕は、かういふもんだ。
署長  あゝ、さうですか。
洋服の男  県学務委員の資格で、特に御相談したいんだがね、犯人を即刻逮捕して貰ひませう。
署長  犯人と云ひますと?
洋服の男  僕に、この通り危害を加へた人間がゐるんだ。これや、明かに暴行であり、傷害罪を構成すると思ふが、どうです?
署長  では、その傷害罪の行はれた時、場所、状況等、及び、犯人の人相、風体その他を詳しく云つて下さい。
洋服の男  あゝ、それはなんでもない。今朝元村の選挙事務所から国道をバスで帰つて来た。ところが、麓はまだ除雪が完全に行はれてゐないんで、バスが立往生をしたんです。車が雪の中へめり込んで、なかなか抜けない。いくら待つても出さうもないんで、いさゝか業を煮やしてゐると、いきなり、誰かが、僕のこゝを目がけて、拳骨を喰はした。痛いツ、なにするんだツ、さう云つて、あたりを見たが、犯人らしい奴は、もう何処かへ姿を暗ましてしまつてゐる。
署長  それまで、そばには誰かゐましたか、さういふことをしさうな男でも……?
洋服の男  さあ、それまでは、ゐなかつたな。
署長  乗客は、無論、少いでせうな。
洋服の男  さやう、それでも、腰かけるところは満員でした。
署長  車の中でゞすか、外でゞすか?
洋服の男  無論、中さ。
署長  中? 乗客は誰も降りないんですか?
洋服の男  いや、降りた。みんな降りた。
出者長  あなたは?
洋服の男  降りない。
署長  すると、車の中には、あなた一人といふわけですね?
洋服の男  その前まではね。しかし、擲つた奴は、その時、こつそり、車の中へはひつて来たに違ひないです。
署長  そんなら、痛いツ、なにするんだツとあなたが云つた時、姿がもう見えないわけはありませんね。
洋服の男  それが、見えない、たしかに見えなかつた。だから、どうしようもない。
署長  ぢや、僕の方もどうしようもありませんね。どんな人物だか見当がつかないぢやありませんか。
洋服の男  そこは、御商売柄、なんとか見当がつきさうなもんぢやありませんか。でなけれや、警察つていふもんの必要もないわけだ。
署長  乗客は、みんなどうしてましたか?
洋服の男  車の尻を押すものがゐたり、雪を手で掻きのけるものがゐたり、みんな、寒いからぢつとしてやしない、はゝゝゝ。
署長  あなたは、車の中で居眠りでもしてゐたんですか?
洋服の男  いゝや、それどころぢやないですよ。十時半までに町へ帰りつかなけや、十時からの演説会に間に合ひませんからね。少しでも時間を利用しようと思つて、演説の草稿を読んでました。
署長  乗客のうちで、土地のもの以外には?
洋服の男  二三人を除いて、大方、顔は知らんから、何処の馬の骨だかわかつたもんぢやない。あ、痛たツ、痛いツ……。
署長  そんなに痛いくらゐ擲られたら、鼻血ぐらゐ出さうなもんですね。
洋服の男  なんですつて? 鼻血が出ないから痛くはないと云ふんですか? 擲られたのも嘘だといふんかね? 鼻血が出ようが出まいが、それや、こつちの勝手ぢやありませんか? おほきにお世話だ。それより、早く挙げて下さい、犯人を……。バスは乗客ぐるみ、この前に停めさせてあるからね。
署長  へえ、バスがそこに停つてるんですね。そいつは大変だ。おうい……橋爪……。
橋爪巡査  はい。
署長  君、御苦労だが、署の前にバスが停つてるさうだから、乗客の中でこの方を擲つたものがあるかどうか調べてね、ゐなかつたら発車させてくれ。
橋爪巡査  をつたらどうしますか?
署長  をつたら、拘留だ。
洋服の男  をるに違ひないさ。皆、知らん顔をしてる。大衆つていふもんは図々しいもんだ。みんな拘留にしたらどうですか、全部の責任といふことにして。
署長  証拠がないとさういふわけにも行きませんが……。
橋爪巡査  あの、バスは何処にも見当りません。それから、交番から頻々と、電話をかけて参るんですが、町内が妙に騒がしいさうです。
署長  お祭りだからだらう。
橋爪巡査  いや、そればかりでなく、痛い、痛いといふ声が方々に聞えるさうです。
署長  痛い、痛いといふ声が聞える? なぜ? なんだ、一体、それや……。怪我人でも出るのか?
橋爪巡査  いや、別にさうでもないらしいですが、兎に角、今、部長が巡回に出られました。
洋服の男  痛いツ、どうも堪らん……この辺で、一番うまい医者つていふと、誰ですね。
署長  外科なら、すぐそこに馬淵博士の病院があります。ここを出て、左へ半丁ほど行くと、看板が出てゐます。お送りさせませうか。
洋服の男  それには及ばんが、ちよつと、君から電話で僕を紹介しといて下さい。
橋爪巡査  なんです、今のは?
署長  わからん。あゝいふ人間は、一番正体がつかみにくい。頭だと思ふとそれが尻尾だつていふやうな動物がよくあるぢやないか。(電話)うむ、さうだ、あゝ、君か、……どういふんだい、その騒がしいつていふのは……え? ……時々ね、ふむ、男も女も……物凄い叫び声? はあ、それが、行つてみるとなんでもないのか。原因もなんにもわからない? え? よく聞えない。落ち着いて云ひ給へ? あゝ、それで……へえ、お祭の飾りを……提灯の上につける花の飾りだね、うむ、町ぢう残らずか? はゝあ……悪戯にしちや大がゝりだ……。誰も気がつかないうちにだね。あゝ、さうか、みんな溝へ棄てゝあるのか? ……なるほど、さう云つてるか、誰も彼も……余計なもんを無理に買はされたつてね。はゝゝゝ、綺麗でもなんでもないつてか。……つまり、さうされても、誰も苦情を云はないわけだね。そいつは面白いね。だが、痛い痛いと、そいつとは、何か関係があるかね。待てよ、これや、ことによると、重大事件だぞ。僕も出掛るから、君、あとよろしく……。
橋爪巡査  お出掛けになりますか。
署長  サイド・カアの用意! あ、消防隊は全部、すぐ配備につくやうに……。


三 小学校(多分私立ならん)


校長  かういふ状態が続くと、今日は授業を続けるわけにも行きますまい。児童は帰すことにしよう。もう一度訊くが、一年生では一人つきりだね、痛いと云つたのは。
教師A  さうです。読方の時間に一度と、唱歌の時間に一度です。しかし、私自身、今朝から数度の痛みで、この通り、汗をかいてゐます。
校長  君ひとりぢやないよ。高峯君なんか、一時間目にもうへたばつてしまつた。二年は六人と、三年は……。
教師B  十一名……。僕は修身の時間が一番ひどかつた。
校長  四年以上は数へきれないほどと……。
教師D  あたくしの組は一人もございません。
校長  高等一年の女生だね。
教師D  はあ、裁縫の時間も体操の時間も、なんともございませんでした。
校長  で、君自身は?
教師D  別にどこも痛みません。みなさんがさうおつしやるのが不思議ですわ。
教師B  ふむ、さういふ人もあるんだな。
教師E  この人は別さ。漫才を聴いても可笑しくないつてひとだからね。神経が特別にできてるんだ。
校長  なんにしても、これや、前代未聞の流行性悪疾に違ひない。体質その他、健康の状態にもよるだらうが概して、年を取るほどひどくやられるらしい徴候がある。わたしはこの通り、まだなんともないが、児童は上級生に行くほど平均殖えてゐるし、先生の方も、大体、年に比例して痛みがはげしいやうだ。
教師F  それもさうですが、さつきからの話を聞いてゐますと、なんだか授業の課目によつてやられ方が違ふやうです。なにかさういふことと関係はないでせうか?
校長  ふむ、それは少し穿ちすぎた観察のやうだが、君は何の時間に一番ひどかつた?
教師F  やつぱり修身の時間です。あとの算術の時間には、生徒の方も僅かに二人きりですし、僕も、一度、ほんのわづか、キリキリと来ただけです。
校長  さう云へば、あゝして校庭で遊んでるのをみると、誰もなんともないらしいね。
教師A  此処でかういふ話をしてゐても、誰もなんともありませんしね。
校長  まつたく……。だが、小使の話によると、町ぢうで大分、呻き声が聞えるらしい。校医のところへも、患者が殺到してゐるつてね。君たちは、しかし、大したこともないやうだね、さうしてゐられるところをみると……。
教師B  えゝ、思ひ出すと、チクチクするぐらゐのもんです。でも、さつきは、耳がちぎれるのかと思ひました。
校長  痛む場所がめいめい違ふといふのは変だね。生理的にそこが弱点といふわけだらう。
教師G  すると、わたしは脇の下が弱点かな。
校長  ぢや、とにかく、一応、落ちついてゐるやうだから、もう少し様子を見ることにしよう。子供たちにも、マスクをさせるといゝね(ポケツトからマスクを出してかける)それでは次の時間を始めるとして、なほ十分注意してくれ給へ。少くとも、本校からは重症患者が一人も出なかつたといふことにしてくれ給へ。かういふ病気は、ひとつは気のものだ。精神の持ちやうで、病魔などは退散できる。うん、さうだ、かういふ時に手の平療法が利くんぢやないかな。僕の家内が近頃やつとるんでね。それやまあ、それとして、諸君もこゝをしつかり頑張つてくれ給へ。面倒になつたら、生徒はすぐに帰す。君たちも当分休んでよろしい。但し、飽くまでも処置に手落ちのないやうに。どうだらうね、寧ろ、今日は、授業の方は休んで、今から僕が訓話をしようか。校庭がいゝだらう。その後で、この町のために、更に日本帝国全土のために、本校職員生徒一同の名に於て、悪疫退散の祈祷式をやらうか。八百万の神々を心に念じながら、全校七百の頭を地に伏せて、一億の同胞を護り給へとやるのさ。これや、なかなか感激的だぜ。よし、早速やらう。加治君、日報社へちよつと、電話で報らせといてくれ給へ。それから、写真を取つときたいな。
教師D  新聞社へ報らせるのはどうかと思ひますが……。
校長  君は、何時でもそれだからいかんのだ。つまらん宣伝は、これやいかん。僕には、ちやんと信念があるんだ。国民思想の頽廃を救ふには、かゝる美挙を大々的に一般国民の胸に刻みつけることです。聞いても涙の出るやうな話、現在、民衆はそれに饑ゑてゐる。純真な小学児童の行為は、荒みきつた民衆の心のともしびだ。芝居でも、子供が出ると、われわれは泣かされる。あの呼吸を忘れてはならない。あ、もう、集つたか。では……。
 さて、みなさん……。今晩から、いよいよこの町のお祭りですね。明日はお休み、家でゆつくり、お父さん、お母さん、お兄さん、お姉さん、弟さん妹さんと、面白くお遊びなさい。あんまり御馳走を喰べすぎないやうに、夜遅くまで外をぶらぶらしてゐないやうに、お宮へは、必ず一度お参りをなさい。
 ところで、今朝から、ぼつぼつ、からだのそここゝが、キリキリ、或はチクチク、痛いといふ変な病気が流行り出した。これはまだはつきり病気かなにかわかりませんが、みなさんのうちにも、大分さういふのがある。なに、たいしたことぢやあるまいと思ふが、万一の用心に、今日の授業はこれで終りとして、家へ帰へることにする。若しか、お父さんやお母さんが痛い痛いとおつしやるやうだつたら、十分に看護をしておあげなさい。しかし、考へてみると、これが若し性のよくない流行り病ひだとしたらですよ。なかなか、こんなことぢや治まるまい。重いのになると死ぬかも知れない。虎列剌かペストのやうに、恐ろしい伝染病だとしたらどうしますか。この町は固より、日本全国、更に、わが無二の友邦たる満洲国にまで蔓延して、それこそ、空前の大惨事を演じ出すかも知れない。さうなると、これはもう自分一身の問題ぢやない。
 そこで、みなさん、名誉ある本校の職員生徒一同は、この国家非常の時に当つて、なにをなすべきでせう? 手を挙げなくつてよろしい。先生が云ひます。ただ、われらの祖先たる神々に、至誠を籠めて、この災難を免れさせ給へと祈るより外ありません。さ、これから、お祈りをします。天に向つて一同最敬礼!
 エヘン、袋町尋常高等小学校長、浅野栄造、全校職員生徒を代表して、謹んで八百万の神々に祈願し奉る。仰ぎ希くば、われらの赤心、報国献身の微衷を汲ませ給ひ、袋町住民の安泰無事、加へて、日本全国、近隣友邦の平穏息災のために、広大なる加護の力を垂れ給へ。あ、痛た、た、たツ……痛いツ!(倒れる)足だ、足首だ……やられたツ! 残念ツ! あ、写真屋か……かまはん、此処を撮れ、此処を……かうしてるところを……。いや、なんでもない……痛いツと……。
写真屋  ちよつと、お動きにならないで。
校長  うむ、さうか、かうだな、これでいゝか。痛い、実に……。いゝや、なあに、これしき……。早く撮れツ! もう一度、最敬礼……こつちを見ないで……。おゝ、わたくしはどうなつてもかまひません。生徒を無事に家にお帰し下さい。南無八幡大菩薩、稲荷大明神、金比羅大権現、七福神……千手観音……五百羅漢……。


四 理髪店


主人  へえ、旦那はどうもありませんか。わたしや、今朝つから二度ばかり、ちよつとした発作が来ましたよ。女房も今しがた、ヒイヒイ喚いてました。さう長くは続かないらしいですね。うまいことを云ふ人がゐますよ。ほら、近頃新聞に出てますね、宇宙線とかつていふ……。なんでも、眼に見えない粒子だつていふぢやありませんか。それに、どうかした時、ちつとばかり大きなのが混つてることがあるさうですね。丁度それにぶつかると、その瞬間、云つてみりや、鉄砲の弾丸の小さいんですからね。これや、痛いにきまつてまさあ。
客  ふむ、誰だね。さういふ説を立てたのは……?
主人  そこの後藤さんつていふ家の坊つちやんですよ、今年高等学校を出る方ですがね、秀才ださうです。
客  僕はまた別の説をもつてるんだがね。人に喋つちやいかんよ。まだ証明が不十分だから、公にされちや困る。これや、おやぢさん、たしかに、毒瓦斯の仕業だよ。
主人  えツ、毒瓦斯ですつて!
客  あゝ、何処かから、日本に向つて、最新式の方法で毒瓦斯を送つてるんだと、僕はにらんでる。或は、生命線ぢやない、殺人光線か、あいつの弱いのかも知れんが、そのへんはたしかにわからない。とにかく、何処かの国が、企んでやつてゐることに違ひない。いよいよ、重大危機の前奏曲だぜ。
主人  おどかしちやいやですよ、旦那。お髭も剃りますか?
客  絶対に秘密だよ。流言蜚語の張本人にされちや厄介だからね。あ、痛ツ! おい、気をつけろよ。何を突き差したんだい?
主人  おや、なんにもしやしませんぜ。今、首筋の毛を払つてるんですよ。
客  だから、その首筋が痛いんだよ。おい、痛いつたら、やめてくれツ!
主人  をかしいなあ、どうもしやしませんよ。この刷毛は一番やあらかな刷毛で……。
客  こゝだ、どうもなつてないか?
主人  なつてるもんですか。この太い皺は以前からでせう。どら、もつとよく毛を落してみませう。
客  痛い、たい……。これやひどい痛みだ。ちつと……もうやめとく……。
主人  それやどうもお気の毒さま……。旦那もいよいよ毒瓦斯の組ですぜ。へえ、いらつしやい。どうぞ……。今日はお早いですな。へえ、お役所も閉鎖ですか。
若い客  所長も部長もみんなやられちまつたよ。随分ひどいのがあるんだね。所長なんか舌に来たらしいが、口は無論利けないし、青息吐息さ。
主人  旦那はどうもないですか。
若い客  役所でなんともないのは僕一人さ。平生の心掛が違ふからな。
主人  いゝえ、そんなことぢやないつて云ひますぜ。敵が攻めて来る前触れだつて云ひますぜ。毒瓦斯……。
若い客  よせよ、つまらんこと云ふのは。震災の時に懲りてるぢやないか。一人でもそんなことを云ひ出すものがあると、伝はるのは早いからね。
主人  わたしぢやありませんよ、云ひ出したのは……。
若い客  取り次ぐ奴がゐるからいけないんだ。が、さういふことは、ちよつと云つてみたいもんだよ。
主人  戦争つて云へば、わたしなんざまだこれで予備ですが、むづむづしますね。正義の戦ひつてやつならやつてみたいですよ。正義の旗を押し立てゝ、領土がだんだん拡がつて行くなんざあ、わるくありませんからね。
若い客  早く年を取りたいよ。
主人  おや、変つてますねえ、旦那は……。失礼ですが、おいくつです?
若い客  二十九だ。
主人  まだお一人らしいですね。
若い客  結婚は断じてしないよ。
主人  おや、これも変つてらあ。どうしてですね。
若い客  今時結婚する女も、今時生れて来る子供も可哀さうだからさ。
主人  悲観論者ですね。なにをさう悲観するんです?
若い客  君たちにやわからないよ。
主人  断じてわからんか。さう云へば、近頃の新聞には、「断じて」とか、「断乎」とかいふ字が盛に使つてありますね。勇武果敢の精神を表はした、頗る日本的な言葉ですなあ。握り拳で胸をたゝくといふやつでせう。百万人と雖も君は往け、一人と雖も我れ逃げん、なんていふ空威張りとは違ひますぜ。あなたは別として、近頃の若いもんは元気がありませんなあ。こいつをみんな奮ひ立たせるのは、政府だつて容易ぢやないでせう。
若い客  君の云ふ通りだ。われわれはまつたく元気がないよ。ないんぢやない、元気そのものに希望がもてないんだ。大きな声で歌を唱つてみる。なぜそんなことをするのかと、すぐ自分に訊いてみたくなるんだ。これでも、やる時はやるぞツと、誰でも思つてるよ。
主人  酒なんか飲むつて方も、若い人には少くなりましたね。
若い客  飲みたい奴は飲んでるよ。こつそり飲んでるよ。酔ふと暗闇を歩きまはるんだ。
主人  陰気だね。
若い客  自分つていふ人間を、ちやんと見てくれる相手がゐなくなつた、これが現代青年の淋しさだよ。
主人  表面だけでなんでも判断しちまふつてところはたしかにありますね。忙しいからでせうな。
若い客  さあ。眼の方がだんだん狂つて来たんぢやないかねえ。人の眼を信用できない、自分の眼も信用しない。これぢや、すべてが喰ひ違ひだらけだ。人をだましながら、瞞されてゐる。それがだんだん平気になつて、瞞されても損をしなければよし、瞞す時だけ得をしようとする腹になつて来てゐるんだ。万事、宣伝の世の中といふのは、さういふ心理の反映だよ。
主人  なるほど、わたしの商売下手は、その心理をつかまないとこから来てるね。いや、実はね、この店も、これから少し宣伝をしようと思つてるんですよ。
若い客  やり給へ。今のうちなら、何をやつたつて、恥にならないよ。しかし、変なもんだね。床屋さんの気風つてものは、昔からこれや一種特別なものらしいね。
主人  さうですか? なんかお役に立てば、どうか遠慮なく使つて下さい。へえ、いらつしやい。只今、すぐです。
若い客  日本は今、十八世紀といふところだからね。ボオマルシエがゐたら、悦んで書くだらうな。
主人  旦那がお書きになつちやどうです。
若い客  それこそ、忽ち首だ。首になつて本が売れなきやどうするんだ。なんでも、人と違つたことを云つたり、したりしちやいけないんだよ。本音を吐くと通用しない世の中だ。黙つて下を向いてるに限るよ。あ、痛たツ? これだな。たうとうやられた。いたゝゝゝゝ。
主人  どこです?
若い客  内股だ、左の内股だ。なるほど、こいつは……猛烈だ。どうしたらいゝんだ……。早く医者を呼んでくれ……あゝ、ちぎれさうだ、脚がちぎれさうだ……。
主人  おや、また何処かでやられたな。女二人いつしよにやられたな。こいつは、医者ぢやどうにもならないらしいですよ。ちつとの我慢です、そこにさうしていらつしやい。はい、お待遠さま、どうぞこちらへ……。
職工服の男  ちつとばかり男振りを上げてくんな。
主人  ほう、その上かね。
職工服の男  有りがてえ御時勢よ。この服の当節持てることつたらねえんだぞ、え、知るめえ、おつつあん。どつちへ転んでもたゞは起きられねえつてな、このことだよ。ブルヂヨアは駄目、インテリは駄目、財閥も官僚も政党もフアツシヨも、みんな駄目、百姓は気が利かず、小商人は狡いと相場がきまりや、あとは、おれたちと女子供だ。なあ、おつつあん、そんな按摩とおんなじ上つ張りなんか脱いぢまつて、かう云つた菜ツ葉服を一着に及べよ。
主人  あんたたちの会社はえらい景気だつて云ふぢやないか。
職工服の男  あたり前よ。一つ時は、「あんた赤ぢやない?」なんて訊かれたもんよ。「うゝんさうぢやねえ」と云つていゝものかどうか、こいつがわからなかつた。ところが、近来は……。
主人  あんたは、まだ、痛い目にや遭はないかね。
職工服の男  それが妙ぢやねえか。この服を着てると、あんまりやられないらしいよ。
主人  工場ぢやどうだね?
職工服の男  技師や技手が半分ばかりやられたな。それと、組長の奴が大方へたばつたよ。みんな笑つたね。誰かが悪戯してるみたいで、をかしいやね。
主人  戦争が起るつていふやうな話はないかね、あんたたちの方ぢや……。
職工服の男  二三年前から、あるにやあるね。


五 ある家庭


父  号外かい?
息子  えゝ、ほう、全国的らしいですね。アメリカも支那もなんともないらしいですが……いや、上海電話で、やはり日本人がやられてますね。あ、桑港でも、日本移民並に領事館員が頻々と苦痛を訴へ……ですつて……。
父  場所を撰ばず日本人だけか。
母  うちだけ助かつてるのは不思議なやうですね。お隣でもお向ひでも、今朝から変な声を立て通してますよ。
息子  子供はあんまりやられないやうですね。忠坊が二年の組では四人とか五人とか云つてましたよ。
母  静子はどこにゐるの?
息子  二階で手紙かなんか書いてます。さうさう、女学校ぢや、あいつ一人ぐらゐだつて云つてましたよ、なんともなかつたのは……。
母  南無阿弥陀仏。
息子  およしなさいよ、念仏なんか唱へるのは……。
母  あんたは聞いてないだつていゝよ。
息子  あ、また拝みに行つた。
父  いちいち、お前もうるさく云ふな。
息子  お父さん、今日、僕、なにをする気にもなれないんですが、少し面倒臭いお話してもよござんすか?
父  お前の話はいつでも面倒臭いが、まあいゝ、聴かう。
息子  僕、近頃、いろんな疑問が起つてしやうがないんです。今まで誰にも云はずに自分独りで考へましたが、もう我慢ができなくなりました。
父  そんなこと我慢せんでよろしい。学校の先生で、さういふ相談に乗つてくれる人はゐないのか?
息子  英語の先生一人ぐらゐでせう。しかし、まだ若いですからねえ。ちよつと危いんですよ。
父  えらさうなことを云ふな。年をとりすぎてゐても、同様に危いと思はないか。
息子  同じ見当違ひでも、年寄の方は魅力がないから大丈夫のやうな気がするんです。酔はす力つていふもんがないですからねえ。
父  圧へつける力だけか?
息子  しかし、お父さんは、その力をあんまり加減しすぎるやうに思ひますね。別に不平といふほどぢやないけど、なんだか、かう、お気の毒みたいな気がするんですよ。そんなことないかなあ。
父  気の毒に思つて貰ふのは、ちよつと困るが、実際さうなら仕方がない。親爺なんていふものは、元来、気の毒なもんだよ。それは、はたで見てさうなので、息子は、そんなこと考へちやいかん。話といふのはなんだ?
息子  僕、近頃勉強が少し厭やになつて来たんです。つまり、努力を必要とする程度が大きくなつて来たんです。
父  高等な学問に進めば進むほど、それや当り前ぢやないか。
息子  いゝえ、さういふ意味でなく、興味とか、希望とか、そんなものが努力を助けるでせう。さういふ助けがなんだか少くなつたやうに思ふんです。で、その原因を考へてみたんですが、これは理想と云ひますか、夢と云ひますか、さういふ目標がはつきりしなくなつたからだと思ふんです。以前は、今から考へると、まつたく文字通り夢を見てゐたんですから、博士になるとか、世界一の鉄橋をこしらへるとか、ノーベル賞をもらふとか、文部大臣になつたら、小学校の先生を女の先生ばかりにしてやらうとか、そんなことを呑気に考へて、本を読んでゐたもんです。ところが、日本人で、どういふ方面に進めば、人類全体のために立派な仕事ができるかといふ実際的な問題にぶつかると、みんなこの目標が、一定のところで、「この先日本人入るべからず」といふ立札に遮られてゐることがわかりました。非常に運よく行けば、それも、可なりうまく世間を泳いで行けば、あるところまで行けるやうな気もしますが、それには、僕の性格や神経が邪魔をすると思ふんです。僕はもう既に、日本といふ土地に植ゑつけられた種です。この土壌を外にして、僕を育てゝくれるものはない。肥料の質も限られ、日当りも風通しも、すべて、定められた条件の下に、僕は、いくら藻掻いたつて、自分の思ふ通りに伸びられやしない。自分の望んでゐる花を咲かせ、実をつけることは不可能な運命におかれてゐるんです。
父  では、日本に生れたことは不幸だと云ふんだね。
息子  いゝえ、そんな泣き事ぢやありません。僕は日本人で沢山です。それ以外のことを望んでなにゝなるでせう。いや、寧ろ、日本人たることを誇りとしたいがために、こんなことを考へるんです。日本は、なぜこんな国なんでせう。昔は知りません。今のことです。現在のことです。政治のことも僕にはよくわかりませんが、こんなことでいゝのかと思ふやうなことが、公然と、天下に通用してゐる有様は、少し文明国のなんであるかをのぞいたものなら、誰にでも不思議に思はれる筈です。西洋の映画を見たり、小説を読めば、すぐにわかることです。勿論、人間の住むところ、罪悪は常に行はれるでせう。しかし、人間が人間であることを自覚した国に、人間らしからざる仮面が、白昼横行してゐるといふ気味の悪い現象が起り得るでせうか?
父  人間らしくない仮面とはなんのことだ。
息子  虚偽の精神が美名を掲げて、文明社会の常識を冷笑してゐる有様です。現在の日本が生みつゝある、あらゆる風潮、運動、流行は、みな、その本質に於いて、知識人の与し得ない空虚さと厚顔しさをもつてゐます。理論や旗印はなんとでもなります。一旦、その動機や真の目的を突き止めたなら、顔を蔽ひたくなるやうな卑しさと、未開人のやうな単純さが幅を利かしてゐるんぢやないでせうか?
父  世間といふものは、何処に行つたつて先づそんなもんだ。世間との戦ひは、だから、天才にゆるされた唯だ一つの道なんだ。
息子  天才なら、その戦ひに勝てるとおつしやるんですか?
父  勝てるかどうか、今日まで、われわれが天才と呼んでゐる文化の恩人は、それに打ち勝つたものを云ふんぢやなからうか。少くとも、精神的には……。
息子  しかし、天才がどれほど孤独なものにしろ、ある程度まで、世間といふものは、その天才を育て上げる栄養分をもつてゐるんぢやないでせうか? お父さんは、独逸や仏蘭西や英国や露西亜を、何処も御存じですね。現代のさういふ国々の生活が、決して理想的ではないにしろ、また、恐らく、可なりの頽廃味を帯びてゐるにしろ、なほかつ、人類の進歩に役立つ大きな伝統の力で支へられてゐるとはお思ひになりませんでしたか?
父  日本にだつてそれはあるんだ。それが、一時、混乱期に遭つて、流れを堰き止められてゐるのさ。西洋にも、さういふ時代が幾度もあつたのだ。外国から流れ込んで来る文化の力が、非常に強大な場合、それを享け容れようとする面と、これを阻まうとする面とが、互に摩擦し合つて、結局それは一つに合するのだが、当座は非常に水も濁るし、波も立つのだ。その期間は、相反する面が二つながら、完全な姿を保たずに、軽佻と粗野、奇矯と傲慢といふ風に対立した外観を呈するのだ。しかし、やがて、時間がそれを調整してくれる。表面のあくが取れて、次第に統一のある洗錬された文化が生れて来る。お前は、さういふ時代を明日にでも望んでゐる。それはよくわかる。が、ある統一、ある純化に達するまでには、すべてのものが揉み合ふことこそ必要だ。是非、さうなけれやならんのだ。手つ取り早く、東と西とを調合するなどといふことは、個人なら別だが、民族なり国家なりの立場から考へると、人が云ふほど簡単に行かぬ。その点、保守派の連中も、やつぱり、あせりすぎ、心配しすぎてゐるよ。
息子  お父さんは、僕の問ひに答へては下さいませんでしたね。
父  おや、さうだつたかな。
息子  ですから、ぢや、僕なんかはどうすればいゝんです。
父  中庸を行くさ。
息子  ところが、今は、その中庸つていふものがない時代なんぢやないですか? それがあつてくれゝば、僕みたいな人間は、ほんとに助かるんです。あゝ、さうさう、こないだ、さう云へば、面白いものを見つけましたよ。
父  なにを見つけた?
息子  麹町をバスで通つたら、六丁目へんのところの角に、床屋があるんです。その看板が変つてるでせう。「中等理髪店」
父  なるほど、中庸を行く主義だな。
息子  待つて下さい。僕はそれを見て、なんだか、明るい気持になつたんです。ほつとしたやうな、それでゐて、胸のおどるやうな気がしたんです。どういふわけでせう。
父  だから、お前の求めてゐる中庸の道が、そこに一例として示されてゐたからだらう。
息子  しかし、それより、もつとユウモラスなものを感じましたよ。
父  この世間に、そんな神妙な、謙虚な看板がほかにないことを知つてゐるからだらう。
息子  さうです。理髪店はみんな「高等」つていふことになつてますからね。看板の偽りは公然許されてゐるところへもつて来て、これはまた、正直なといふ、一種の可笑しさでせう。しかし、その床屋が、等級から云へば、中等もどうかと思ふやうな店なんで、これや、なほ、可笑しいですよ。僕は吹き出しちやつた。
父  しかし、可愛らしい話だ。
息子  すねてるみたいなところもあるんですよ。主人つていふのの顔が見たかつた。
父  一種の革命家だな。
息子  まつたく、中庸主義は、当代の革命思想かも知れませんね。痛いツ! なんだ、姉さんか、よせよ……。
静子  あんたが、痛いツていふとこ、一度見たかつたのよ、ごめんなさい。
息子  お母さんにして来てやれ!


六 ホテル


夫  帰らなくつて大丈夫かねえ。
妻  帰つたつておんなじぢやないの。
夫  いや、若しか、これがだんだんひどくなつて行くやうだと、旅行先ぢやどうにもならないぜ。
妻  東京にゐたつてどうにもならないわ。さつきのラヂオでも、みんなこの際、落ちついて、先々のことをあれこれと想像するなつて云つてたわ。
夫  旅行先で落ちつけなんていふ意味ぢやないよ、それや。会社のことも心配だからなあ。
妻  どう心配なの?
夫  どうつて、みんなどうしてるかと思つてさ。
妻  迷子になつたら、あたしがついてるとお思ひなさい。
夫  何か、日本人の体質を犯す特殊な黴菌が発生したんだね。しかも局部的なんだから、これや、皮膚からはいつて来るものに違ひない。
妻  あたしがかゝつたらなほして下さる?
夫  研究の興味が起るかも知れないよ。保険医なんかしてると、死なない病気なんて問題外だからね。僕はつくづく思ふよ、患者を病苦から救ふといふ悦びを一度味つてみたいとね。学校を出てから、貧乏のお蔭で、早く月給にありつくことばかり考へた。病院で働いたつて、たゞみたいなもんだからね。だから、この手で、そのために五年間せつせとノートを取つたこの手で、まだ一人として、人間の生命を光明に導いたといふ経験がないんだ。田舎の両親は病気といふものを知らない。君が僕のものになつてから、幾月、いや、正確に云へば昨日からだが、まだ、指の先にトゲが刺つたとも云はない。好意的に、会社の仲間や、下宿の神さんに薬を盛つてやつたことはあるが、何時の間によくなつたのか、よくなつても一応の挨拶さへ受けたことはない。たまたま、その後、健康についてそれとなく訊ねてやることもある。すると、きまつて、あんな病気は放つといてもなほつたんだといふやうな顔をするか、さもなけれや、思ひ出したやうに、果物の缶詰を送りつけて来る。君のお母さんは、自分が病身だから娘を一人医者のとこへやるんだなんて、戯談のやうに仲人の林さんに話したさうだが、幾度遊びに行つても、健康についてこの僕に相談を持ちかけた例しはない。そのくせ、帝大の何とか博士に十年前痔を見てもらつたなんてつまらない話ばかり聞かせる癖がある。
妻  あら、だつて、それはあなたとお話を合せるつもりよ。お医者さんにはお医者さんの話をするのが一番似合ふと思つてるのよ。
夫  さうかも知れんが、わざわざ帝大のなんとか博士と云はんでもいゝだらう。僕は田舎の医専出であつてみれば。
妻  そんなの、可笑しいわ、ひがんでるみたいで……。
夫  しかし、僕は、結局、その方が気楽でいゝよ。買ひかぶられるといふことは恐ろしいことだ。だが、それよりも、自分の力を弁へず、猫も杓子も六ヶ敷い仕事を楽々と引受ける大胆さにはあきれるよ。中には、頼まれもしないことに乗り出して行く向う見ずもある。こいつは医者ばかりぢやない。政治家なんていふのは、その組の代表者が多い。世間も、これには顔負けがすると見えて、黙つて見てゐるから面白いよ。高を括つて案外悧巧な世間の顔が、先生たちにはまた感じられないと来てるからなほ面白い。図々しいのは、これこれのことをやると云つただけで、もう自分にそれをやる資格がついた気でゐる。ほんたうの専門家でないといふ強味を、日本ぐらゐ発揮できる国はないんぢやないかな。時と場合で、少しづつ専門をづらす呼吸を呑み込んでゐればいゝんだ。三流五流の手合が集まつて、日本の文化を指導しようつていふんだから、おいほんたうかと訊き直したくなるやうなことがあるよ。
妻  さうね、ところが、七八流どころに、存外神経だけはまともな人物がゐるんぢやない?
夫  それを大衆と云ふかね。いや、大衆もあてにならんよ。僕の考へぢや、大衆には三種類あるんだ。第一に、大衆的大衆、愚衆と呼ばれる玉石混淆の無知識階級、第二に、識者面をした大衆、即ち大学出の俗衆、第三が、大衆を以て任ずる識者、即ち、一二流の人物を含む最も頼もしい文化人だ。
妻  ぢや、大衆にはひらないものは、ないわけね。
夫  ある。官吏と政治家さ。
妻  あゝ、さういふ意味でね。
夫  が、しかしだよ、日本では、当分、大衆には統一された意志といふものは期待できない。つまり、大衆を以て任ずる識者が、大衆の中に埋れてゐるからだ。これが、指導的地位に立つた時でなけれや、大衆は自ら何を求めてゐるかをさへ知る術がない。況や、その欲するところを云ふなどといふ芸当はしたくても出来ないのだ。例へば、おれが躍気になつてこんなことを喋舌つたつて、これが大衆の声だなんてだあれも思やしない。あの男、少し気でもふれてるなぐらゐに、大衆自身が思ふ時代なんだ。おれの云ふことが耳にはひらないやうな奴に、誰が代表を頼むものか。選挙の日は寝てゝやるよ。
妻  あら、大きな声で、駄目よ。あのポスタアがこつちをにらんでてよ。
夫  ポスタアの言ふことはいゝや。賛成だ。言ふ人が……おつと、もう少し深いところまで考へてくれなきや困ると、僕は、敢て当局の誠意と頭脳に信頼する次第である。あ、痛たツ! いたいツ!
妻  どうなすつたの? ねえ、どこがお痛いの?
夫  あゝ、変なとこが痛いんだ。
妻  だから、どこかおつしやいよ。
夫  ちよつと待つてくれ、考へる。うむ、これや、注射の針を抜いたりさしたり続けさまにやられてるやうだ。手を握らしてくれ。
妻  その押へてらつしやるとこ?
夫  違ふ。仮に押へてみてるんだ。
妻  いやあねえ、早くお探しなさいよ。
夫  さつき、識者と云つたのは、必ずしも学問のある人間といふ意味ぢやない。つまり、「選ばれた人々」といふ意味だぜ。
妻  いゝわよ、そんなこと、どうだつて……。
夫  いや、よくない。だから、あ、痛たツ! 自ら大衆を以て任ずる「選ばれた人」の外に、自ら識者を以て任ずる「選ばれた人」があつていゝわけだね。うむ、これや、ことによると、筋肉ロイマチスかも知れんぞ。君の手、痛くない?
妻  なに、お尻なの?
夫  寧ろ脚に属する部分。
妻  どつちでもいゝから、おズボンお脱ぎになつてごらんなさいよ。
夫  見たつてわかりやしないよ。しかし、さういふ種類の識者は、大衆なるものゝ意味を理解してゐないんだ。大衆の一面を見てもう一つの面を見てゐない。もつとも、こいつは生れつきだ。自分ではどうにもならないもんらしい。済まないが、こゝを少し、さすつてみてくれない? さうさう、もつと強く……。さういふ連中は、自分でそれに気がつかなけれや、結構仕合せさ。金でもあれや申分はない。痛いツ! いや、いゝんだ。食ふだけのものがありや、自分だけの生きる領分といふものが、ちやんとあるにはあるんだから……。どうもいかん。よし、そこを、いつそ、力いつぱいつねつてくれ。
妻  かう?
夫  もつと力いつぱい! あゝ、その方が楽だ。
妻  ごらんなさい、あの芝生の上を散歩してる男、あれよ、お風呂場で、わざと間違へたふりをして、女湯の方へはひつて来たのは……。
夫  わざと間違へるつてやつは、なかなかむづかしいんだね。見破られないつていふことは殆んどないね。
妻  ほら、あれあれ、あのお嬢さんのそばへ寄つて行くわ。
夫  娘なんだらう。
妻  違ふわよ。さういふこと、あなたにはわからないか知ら?
夫  娘か娘でないかがかい? わからん場合もあるだらう。
妻  この場合は明瞭だわ。そら、近所をあんなにうろうろしてるお父さんつてありますか。
夫  見ちやわるいみたいにして見てるね。
妻  あれで、決して話しかけなんてしないわよ。
夫  よくわかるね。
奏  さういふもんよ。あゝいふ男が、電車なんかで、女に悪戯をするのよ。
夫  その話はよしてくれ。今朝の新聞を見て胸が悪くなつたよ。なんだか、浅間しいつていふか、毒々しいつていふか、男になんぞなぜ生れたらうと僕は思つたよ。
妻  西洋にもあゝいふ男ゐるか知ら?
夫  西洋の男はみんなあゝだらう。
妻  違ふところは、すぐに、「マドモアゼル、なにをごらんになつていらつしやいます」とかなんとか、話しかけるとこね。
夫  なるほど、話しかけるね、映画なんかでも……。
妻  若い学生なんかには、日本でも近頃、さういふのがゐるわ。
夫  さうすると、どんな返事をするんだい。
妻  したくなけれや、しないのよ。
夫  それやさうだらう。男女共学は問題になるし、到る処男女同席は条件付だし、うつかり若い女と一緒に歩いてると人がそばからなんとかかんとか云ふし、ちよつと知らない女に話しかけでもすると、女の方ぢやすぐにこの男自分に気があるなんて自惚れちまふし、それも、あゝいふ男がゐるからだと思へば諦めもするが、あゝいふ男が少なからずゐるとすると、そして、それが日本の特徴だとすると、こいつは、うかうかできんぞ。あゝいふ男がなぜそんなに多いかを考へてみる必要がある。女の貞操と比例して、餓鬼みたいな男が殖えるんぢや、差引零ぢやないか。僕は、僕自身のことを考へて、日本の旧来の習慣が、今日の風潮と混つて、さういふ結果を生むんだと思ふ。これも、たゞ、男電車、女電車を作つてみたところでなんにもならぬ話だ。原因を考へずに結果だけで矯正しようとする、せつかちな、実は、浅薄な思想善導方針が、あらゆるものを益々歪めつゝあるんだ。田舎の学生が都会の学校へはひつて、三年以上下宿屋の生活をするんだが、その間の落寞たる身辺風景は、誰が察してやつてゐるか? 彼等は、埃つぽい教室から飛び出すと、余程のものでなけれや、勉強などは手につかんのだ。彼等は先づ青春を追つて彷徨ふ羊の群となる。肌に爽やかな空気と、鼻を快くくすぐる若草の匂に憧れる。当然なことだ。現代の都会は、彼等田舎出の青年に、何を与へ得るといふのか? カレツヂ・ライフと称する溌溂とした雰囲気が徹底的に欠けてゐる状態を、学校当局も父兄も気がついてをらぬ。美の尊崇と、夢の愛撫とを忘れて、ひたすら就職難に恟々たる彼等の青年期は、実に惨めを通り越してゐる。家庭を中心とする淑女たちとの交際は、望んでも得られない。カフエー、麻雀倶楽部がせめてもの草原だ。それを許せとは云はぬ。これに代るものを与へることによつて、カフエー、麻雀倶楽部を寂れしめよである。近代の知的な快楽が、男女の交渉の中で如何なる役割を演じてゐるか? 異性の魅力が何分通りかは知らぬが、それとの自由な対談会話の中に於いて汲み取らねばならぬといふ精神的訓練を経た上で、そこに自然な青春的陶酔を味はふやうな状態におかれたなら、それ以上進むものは進むであらうが、進む道はおのづから定るであらう。
妻  あたしたちのやうにね。
夫  君と僕とは、話をする前から、道が定つてゐたのだ。
妻  あれごらんなさい。お嬢さんが、逃げ出したわ。変な顔して後を見送つてる、あの恰好……。
夫  これは動物園の話だが、牡のやまあらしが、牝のやまあらしの後をうるさくつけ廻すので、たうとう牝のやまあらしが、うるさがつてからだを捻ぢ向けた。すると、その拍子に、牡のやまあらしは、鼻面をしたゝか刺で突かれた。檻の外で見物が笑つた。牡のやまあらしは、鼻を地べたにくつつけて、恨めしさうに見物の方を睨みながら、さもかう云ひたさうであつた。「そんなら、お前やつてみろ!」。本で読んだんだ。言葉のない動物の恋愛は、そのまゝ日本の男の、みんなとは云はん、たゞ一部のそれに当てはまるね。
妻  それこそ、「痛いツ」ぢやないの。
夫  あゝ、さうさう、痛いのはどうなつたつけな。君まだつねつてるの?
妻  あらいやだ、おズボンだけ一生懸命でつまんでたわ。もう、よくつて?
夫  それはさうと、死んだ傭人の遺族に特別な厚意を示した某外人のことを、大の親日家だとしてぢやんぢやん褒め立てて新聞が書いたね。国家的見地もいゝが、これぢや、日本といふ国を、自分自身でこきおろすやうなもんだ。こんなことを、こんなに珍しがる日本人は、それほど外国人を人間扱ひにすることを忘れてゐる国民であらうかと疑はせるに過ぎんのだ。富士山や桜を自慢するやうな国威発揚がなにになる。自分の力で作つたもんぢやあるまいし。それより日本人のこれからの仕事は、世界に向つて、おれたちはお前等と違つたこれこれの文化をもつてゐるぞなんて見栄を切ることぢやない。おれたちは、君ら以上に、君らの理想とする人類の進歩と幸福の建設に寄与してゐるんだと、確信を以て答へ得ることだ。が、一保険医のおれ自身が、日本国民に代つてこんなことを答へ得る時が来ようとは思つてをらんがね。
妻  それがいけないのよ、あなた、それがいけないのよ。もつと自信をお持ちなさいつたら……。
夫  よし、自信をもたう。
妻  なにを見てらつしやるの?
夫  うむ、なに、ちよつと沖の景色を眺めてるんだ。
妻  綺麗なひとが通る時はね。みつともないわ。そんなに首を突き出して。
夫  参つた! まだ女つていふもんがこんなに珍しいのかなあ。


七 警察署


署長  や、みんな御苦労……。大分おさまつたやうだね。家へはひつてぢつとしてると大体いゝやうだから、消防隊も引上げたらいゝだらう。どうも、喋舌るのが一番よくないやうだ。口は禍の門だからね。諸君も、不言実行に限るよ。さう云へば、署内では誰もやられたものはないか?
巡査A  幸ひ一人もやられません。留置場の先生たちも異状ありません。あゝ、さうさう、さつきかういふ婦人が十ぐらゐの男の子を連れて来まして、これを置いて行きました。なんでも、その子供が日に一銭づつ貯金をしてゐたのを、今朝の新聞に「息子に捨てられた可哀さうな老母」といふ記事が出てゐたので、それを見て、是非その可哀さうな母親といふ人を救つてあげたいと、その貯金を全部出して来たんださうです。その子供は袋町小学校の三年生で、これに書いてあります。住所を訊ねましたら、そんなことはどうでもいゝとか云つてをりましたが、兎に角控えておきました。割に上品な、インテリ婦人でした。
署長  いくらはひつてるんだい。ふむ、六円二十六銭……か。その新聞の記事つていふのは、どんなの、持つて来てみ給へ。あゝ、これか、服部君が何時か話した、あの婆さんのことだね。
巡査B  因業婆らしいですね。近所の評判もよくありませんです。
署長  息子二人の教育のために蓄財を費ひ果し、と書いてある。ほう、息子の一人は相当に暮してるんだね。
巡査B  その実、月給は六十円ばかりしか取つとらんやうです。婆さんが嫁と一緒に住むのはいやだと云ふから、別に部屋を借りて住はせたら、今度は、月々の手当が不足だとこぼす。その上、品物を勝手に買つて、息子の家へ代金を取りにやるといふ始末なんださうです。困ると云つてそれを断ると、その足で近所へ息子夫婦の悪口を触れ歩くといふ箸にも棒にもかゝらない婆ですつて。近頃は、それぢや、息子の方で愛想をつかしたんでせう。
署長  それやまあいゝが、この金は届けてやらんわけにや行くまい。好意は好意だからな。
巡査B  しかし、婆さんのためには懲らしめになりませんね。
署長  それもさうだ。と言つて、かういふわけだから、やるには及ばないつて突つ返してやるのも変だなあ。今度はその子供に及ぼす影響を考へなけれやならん。
巡査A  さうさう、その婦人が、その金を出す途端に、恐ろしい悲鳴をあげました。やつぱり例のやつらしいんです。
署長  なんだ、それぢや、此処も油断がならんかな。なんだ、その男は?
巡査C  掏摸をつかまへて来ました。
巡査A  よう、お前か。また来たな。
掏摸  恐れ入ります。
署長  ぶち込んどけ。
巡査C  お前みたいな奴こそ、今日は、滅茶苦茶にやられるといゝんだ。
掏摸  ところが、生憎と、無事でして……。今朝から、存分に仕事ができました。
巡査C  ふとい野郎だ。
署長  ぢや、この金は、おれが預つとくわけにも行かんから、婆さんによくお説教をして渡してやれ。息子の方にも、世間でこんなに心配するものもゐるんだから、親だけは、どんなことがあらうと粗末に扱ふなつて、注意してやることにしよう。渡辺君、君ひとつ、顔なじみらしいから、よろしくやつて来てくれ給へ。
巡査B  あんまり顔なじみでも有難くありませんが……。
署長  しかし、新聞といふもんは恐ろしいもんだ。筆の曲げ方ひとつで、暗い世間が明るくなるんだ。無心の子供に善行を行はしめ、わが国を永遠の安きに置かしめる力は、誠に当代の偉観だ。どうした、また、表が騒しいぞ。はじまつたな。
巡査A  あ、今度は、激しいらしいですな。
署長  慌てるな。沈着、沈着……。おゝ、滝君か。忙しいだらう。君んところの号外は一番早かつたね。お手柄だ。ところで、今朝の記事の一つが、忽ち見事な反響を呼んだぜ。こら、「息子に捨てられた老婆」に金一封の寄附だ。しかも、齢十歳の少年からだ。どうだ、これも素晴らしい記事だらう。うむ、痛いツ!
巡査部長  署長、大変です。選挙の演説会場で、弁士が総倒れです。
署長  待て! この病気は、悪性ぢやないぞ! 痛みの具合が、非常にさつぱりしたもんだ。こんな健康な苦痛を、おれはいまゝで味つたことはない。やれやれ、大いにやれ。痛がる奴に同情は無用だ。警官諸君も、これから仕事が楽になるぞ!

昭和十一年三月号の中央公論誌上に発表したものである。雑誌の発売が十九日で、例の二・二六事件の一週間前であつた。





底本:「岸田國士全集6」岩波書店
   1991(平成3)年5月10日発行
底本の親本:「現代風俗」弘文堂書房
   1940(昭和15)年7月25日発行
初出:「中央公論 第五十一年第三号」
   1936(昭和11)年3月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:kompass
校正:門田裕志
2011年5月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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