牛山ホテル(五場)

岸田國士




牛山よね  ホテルの女将
同 とみ  よねの養女
藤木さと  真壁の妾
石倉やす  仏蘭西人の妾
真壁    S商会出張所旧主任
三谷    S商会出張所新主任
三谷夫人
鵜瀞うのとろ    S商会社員
島内    同
金田    金田洋行主
岡     写真師
納富    剣道教師
ロオラ   別居せる真壁の妻
 その他、ボーイ、車夫、水夫、女等

仏領印度支那のある港

九月の末――雨期に入らうとする前
港に近く、仏国人の住宅地と、所謂「アナミツト」の部落とに接する一区劃、その中心にある日本人経営のホテル。



ホテルの帳場兼女将の居間――畳が敷いてある。
前面一段低く、椅子、テーブルを置いた土間。
右手に玄関を兼ねた撞球場に通ずるドア。左手は二階に上る階段と、食堂の入口。正面は大きな窓。
そこから波戸場の一部と水平線が見える。

日が暮れようとしてゐる。

とみ(十九)が、風呂から上つて、化粧をしてゐる。
やす(二十九)は、腹這ひになつて雑誌を読んでゐる。
二人とも白木綿の襦袢に腰巻だけをしてゐる。
さと(二十四)が、土間の上り口に腰をおろして、ぼんやり窓の外を見てゐる。これは、浴衣がけである。

さと  船はもうさつきから、著いたつだツとん、なんしとツとだろかい。
とみ  ベル・ビユウで茶でも飲んどツとたい。
やす  検疫で止められとツとだろ。上海から来た船はやかましかもん。
とみ  ほんに、コレラのはやつとるとだつた。おやすさん、風呂ふれつてこんかな……。
やす  今日は、やめとかう。
とみ  ひゆうじこつけ……!(無精者!の意)
やす  東京の奥さんに見てもらへばええ、印度支那にどぎやん別嬪がをるか……。
さと  船のつく日はいやいや。なんにも手につきやせん……。
やす  あんたが、また、何を待つとツとな。
とみ  ムツシユウ・真壁たい、きまつとるぢやなツか。
やす  今まで其処そけへをつた人間ば、誰が待つもんか。
とみ  そんならだりや。
さと  …………。
やす  今度来る主任さんな、あんた、名前ば覚えとらんかい。
さと  ムツシユウ・三谷……。
やす  さうさう、今朝、八号に行つたりや、そんムツシユウ・三谷のこツで、みんな大騒ぎだつた。
とみ  奥さんば連れて来ツていふとだツてえ……。
さと  そらかばツてん、わしがこと、なんか云ふとりやせんだつたかい。
やす  あんたぐりや、運のよか人間な少なかて云うとつた。
さと  さういふこつぢやなかと。あつちのおツ母さんがわしのこつば悪う思ふとりやせんかしらん……。
やす  どうしてや。ただ、こぎやにや云ふとつた。――あんがもうちツと、うちできばツてくるツと、よかばツてんがあて……。
さと  そぎやんした相談ばもちかけられたばツてん、わしや断わつた。そぎやん云ふつてちや、今から、いくらなんでもなあ……。
やす  そらあさうたい。尤も、わしなら、わかりやせん。そこがあんたと違ふとこつたい。わしや、今ん男と別れたら、また八号にでんごろごろしとつて、代りのムツシユウ・フランセばつかまゆツたい。今更国なんぞに戻つて、苦労する気にやならん。

ロオラ(三十)がはひつて来る。猶太系の仏国女、かなり贅沢ななりをしてゐる。
さと、慌てて起たうとする。

ロオラ  (眼ざとくそれを見つけ)もし、もし、あなた、真壁と一緒にゐる方でせう。真壁に会はせて下さい。
さと  (そこへ立ちすくんだまま返事が出来ずにゐる)
とみ  ムツシユウ・真壁、をらんばい。今、ケエに人ば迎ひぎや行つた。
ロオラ  うそでせう。あなた方、みんなうそつきです。わたし、あの人に沢山話したいことがありますから、どうしても会ふんです。
とみ  をらんけん、をらんていふとた。嘘と思ふなら、部屋でんなんでん見てつとよかた。
やす  ほんなこてケエに行つとるけん、見て来なつせ。天草丸のいとるケエだるけん。
ロオラ  店の方へ行つても、会へません。何時でもゐないつて云ふんです。此処へは来たくありませんけれど、しかたがありません。
やす  わからん人ね、あんたも……。アレ・ボワル・オ・ケエ。ムツシユウ・エ・ラ・アベク・マダム・ウシヤマ。セ・セリユウ。
ロオラ  C'est pas vrai! (かう云ひながらどんどん二階に上る)
とみ  よかつかい。あぎやんことさせて……。
やす  むぞげえ!……。(可哀さうに!の意)
さと  裁判な、まだ片づかんとかしらん……。

やがて、ロオラが降りて来るが、その儘出て行つてしまふ。

やす  ムツシユウ・真壁が日本に戻るて云ふけん、慌て出したツだらう。あんたんつらば、う覚えとつたなあ。
さと  たつた一つぺんなるばツてん、会うたたあ。
とみ  こないだおツ母さんに、あんたのこと、いろいろ訊いとつたえる。マリヤアジしたかてろん、子供が出けたかてろん、なんてろん、かんてろんて……。
やす  雲南の山ん中は、寂しかばい。いた男となりや、あぎやんとこれたて、暮すこツたい。吝気しうてしたてちや出来でけんし……丸一年、自分の国の言葉ば使はでん居つて見ろな、あんた、どぎやんあつて思ふ。君が代だいろなんだいろ、歌はうごつなるばい。
とみ  日本語ば教ゆつとよかろてえ。
やす  あんたたちと話すごた行かんたい。そんなら同じこツたもん。(起ちあがり)どら、風呂ふれへいつてう……(出て行きながら)一番の蚊帳、早うまた吊つとかんと、おツ母さんにおこらるるばい。
とみ  今日は入らんて、いふとつて……。

(起つて、これも二階に上る)

岡(三十二)写真機を提げてはひつて来る。神経質らしく、一種の畸形的体格をした男。

岡  (さとを見つけ)あんた、ひとりかな。
さと  誰に用んあつと?
岡  実はあんたに……なんて、別に用と云ふわけぢやなかばツてん、写真ば一枚、撮らして貰はうて思ふち……。
さと  わしや、こん土地いをる間は、写真なんぞ撮りたうなかと。
岡  どうして?
さと  いつそとめ(みんな)そぎやんいうとるけんたい。
岡  何処で……八号でかい? ところが、さういうとつて、みんな撮つてますよだ、お花さんが、先月キヤビネを撮つたし、お千代さんは、こないだ、大型を写したし、それで、みんなには内証だつて云ふんだから、をかしかよ。妙な癖ば、つけたもんたい。
さと  ほうら、そぎやんいうて、あんたが喋舌つてしまふけん、かん……。
岡  あんただけは特別、黙つとつてあげる。それに、あんたは、もう、あすこにや居らんひとなんだもの。そぎやんむつかしかこといはんてちやあ、一枚写しておきなはりまつせ。かう云つちや何だが、九州へんにや、僕ぐらゐの写真屋はゐませんよ。
さと  そぎやん威張るなら、お千代さんの写真ば見せちみなはり。どぎやん写つとるか。
岡  お千代さんとあんたとは、違ふたい。写真は実物次第ですからね。
さと  今度来る三谷さんていふ奥さんば、写させて貰へばよかたい。
岡  それはそれ、これはこれ、商売と好意とをごつちやにしないで下さい。あんたなら、ただで写さうて云ふとたい。
さと  そぎやんこというとつて……。
岡  冗談ぢやなかばい。あんたが、ムツシユウ・真壁と二年間一緒に暮したのも、商売気を離れてのこと、僕があんたの姿をカメラに納めて置きたいと希ふのも、これや、写真師岡なにがしとしてぢやなかです。金もなく、名もなく、印度支那三界に果敢ない恋を追ふ一日本人の、最後の心癒せです。
さと  …………。
岡  そぎやん顔して、なんたいな、とつけむにやあ。おさとさん、わらくしや、これでも、真面目ですばい。あんたは、明日から自由なからだぢやありまツせんか。
さと  …………。
岡  兎に角、二三日うちには、自由なからだになツとだらう。たつた一年でよか。僕の傍にをつてくだはり。一年が永すぎれば一月でもええ。一月、国へ帰るとば、延びやあちくだはり。なあ、おさとさん、後生のお願ひです。
さと  …………。
岡  ムツシユウ・真壁には金がある。僕にはないばツてんが、僕には、ムツシユウ・真壁にはなかものがある。あんたは、男の真心といふものを知つとりますか。愛する女のためには、命でも差出すといふ男の真心を……。必要な時は、金で縛つて置く。用がなうなれば、金をやるから出てゆけ。これが男の真心たいな? 成程、そのお蔭で、あんたは、五年の年期を三年あまりで済ますことができ、その上嫁入りの支度金まで持つて、お父つつあんの傍へ帰れるて云ふかも知れん。しかし、それがなんたいな? あんたは、ムツシユウ・真壁と、さういふ風に平気で別れられるぢやなかですか。
さと  平気……? どうしてそぎやんこついはるツとな?
岡  どぎやんしてん別れられんと云ふんぢやなかでせう。
さと  そぎやんこつ云ふても、しよんなかもね。
岡  つまりそこたい。しよんなかごつさせたのは誰な?
さと  もう、わかつとるけん、やめちくだはり。わしも、馬鹿ぢやなかけん……。
岡  さうですか。それぢやしよんなか。写真だけ撮らせち下はり。記念に一枚……。(写真機を出しながら)そのままでよかな。
さと  そんなら、今、著物ば著換えち来るけん、待つとつてな。(急いで階段を昇る)

岡は写真機を程よき処に据ゑ、撮影の準備をする。
この時、ホテルの女将よねを先頭に、鵜瀞、真壁、三谷夫妻、島内、金田などが、どやどやはひつて来る。
岡は驚いて、写真機を引抱へる。
よね(五十五)――太つた女、無造作なつくり。何処となく、苦労人らしい、さつぱりした女。
鵜瀞(四十二)――毛深かい眼のどんよりした男。酒飲みのだらしなさ。
真壁(四十)――がつしりした、活動家らしい、幾分荒んだ風貌。無表情。
三谷(三十七)――秀才型の紳士。固苦しい気取り。
三谷夫人(二十六)――内地ではざらに見る現代風の若夫人型。和服でヴヱールをかぶつてゐる。
島内(二十五)――事務員らしい地味な青年。
金田(四十七)――植民地の小商人タイプ。不似合な口髯と眼鏡。

よね  (岡を見て)そぎやんところで、あんた、なんばしよツと?
岡  (何やら口の中で云ふが聞えない)
よね  (大きな声で)誰もをらんとかい、ここにやあ……?

食堂の方から、だるさうに、土人のボーイが現はれる。

よね  ムツシユウのバガアジ・アポルテ・アン・オオ。コンプリ?
ボーイ  モア・パ・モアイヤン。
よね  プルコア・パ・モアイヤン・エン? トワ・ツウジユウル・マラアド。アロオル・ヴア。オン・ガルドラ・パ・トア。コンプリ……?
三谷  なんていふの。
よね  しよんなかですとたい、アナミツは……。支那人の方がよつぽど役にたちますばい。
真壁  荷物は店のボーイにやらせるからいいよ。奥さん、お疲れでせう。部屋でおやすみになつたらどうです。もういいんだらう、婆さん。

とみが二階から降りて来る。

よね  (とみに)部屋の方はもうよかかい。
とみ  ああ、よか。
よね  そんなら、どうぞ……。
岡  (三谷に近づき、名刺を差出しながら)私、かう云ふものです。どうかよろしく。
三谷  ああさうですか。へえ、こんなところに、日本人の写真屋さんがあるとは思はなかつたね。や、これからいろいろまた……。
岡  (三谷夫人に会釈しながら)是非一度、そのうちに……。
三谷夫人  ほんとに……。(夫に)ねえ、あなた、船の中で撮つたのをお願ひしたら……。(岡に)現像もなさいますんでせう?
岡  はあ、何でも致します。
三谷  まあ、後にしよう。出すのは面倒臭い。
三谷夫人  どうせ駄目かも知れませんわ。
真壁  (三谷夫人に)そいぢや、どうか……。(先きに起つ)

よね、三谷夫人、三谷の順にその後につづく。

よね  (階段を昇りながら)今日はボーイが寝とるもんですけん……。
真壁  二日ぐらゐでも、船はあれで、なかなか疲れますよ。
三谷夫人  あら、そんなでもございませんの。香港でゆつくり休んで参りましたし、海がそれや静かで……。
真壁  (声だけ聞える)社宅の方は、もつと場所もよし、建物もしつかりしてゐますよ。

やすが風呂から出てくる。

やす  なんしとツとな、いつそとめ(みんな)、こぎやんとこツで、ぼうつとして……?
金田  うんこそなんか、そぎやんふとあしば、やあち……。おい、とみ公、コンニヤクを一杯……。
鵜瀞  おれにも……。

とみは戸棚から、コニヤツクの罎と杯を二つ出して注ぐ。

やす  (岡に向ひ)そるから、あんたは、どぎやんしたつ? 一体全体、誰ば写したと……?
岡  (聞えないふりをして)もう暗うなつたけん、今日はやめとかう。
鵜瀞  (金田に)どうだい、今夜あたり、一番戦はさうか。
島内  今度の大将、うるさいぜ。
金田  なに、わしが引張り込むよ。
鵜瀞  細君も一緒にか。だけど、一昨日の晩は、荒かつたぜ。MYの連中、青くなつてたよ。柴野の奴さん、帰りの旅費をみんなすつちやつたからね。
島内  小森だよ。太い奴は……。一晩に八百ピヤストルつていふのは、レコードでせう。
岡  ぢや、みなさん、お先きへ……。

岡が出て行くと、入れ違ひに、車夫と別のボーイとが荷物を運んで来る。

金田  ぢや、今夜は何処で……?
鵜瀞  此処はうるさいから、おれんとこでやらう……。飯は出さないよ。
金田  断わらなくつたつて、食つて行くよ。
島内  (とみに)おい、飯はまだか。
とみ  今日はどさくさして、おすなつたつですばい。
島内  (食堂をのぞきに行き)なんだ、まだテーブルの用意もできてないぢやないか。
とみ  そぎやんこつ、わしに云ふたてちや知らんけん。
島内  おれも、何処かへ家を借りよう。三度三度催促しなくつちや、飯を食はさないなんて、人を馬鹿にしてやがらあ……。
とみ  今日は、きつと、御馳走んあるとばい。
島内  ここの御馳走つて云へば、塩辛い茶椀蒸しにきまつてるぢやないか。
鵜瀞  あいつを、まだ食はすかい。鶏のトサカまで刻み込んである奴だらう。
とみ  あぎやんこつば云ふとる。
やす  ほんなこつだるけん、しよんなかたい。
金田  島内さん。今晩は、あたしが支那飯チヤンめしをおごらう。
島内  そいつあ、有難いな。
やす  金田さん、わしにや……?
金田  鵜瀞先生、どうしたもんだらうね。
鵜瀞  くせになるから、よしてくれ給へ。
やす  あんたにや、頼みやせん。
鵜瀞  三谷夫人つていふなあ、あれや、どつかで見たことがある。
金田  さういふ女は、よくあるよ。
鵜瀞  おれは不図、学生時代のことを思ひ出した。もう二十年も前のことだ。神田の下宿でごろごろしながら、幻の恋人にひそかな微笑を送つて居た頃だ。
金田  おい島内さん、出掛けよう。
鵜瀞  まあ、聴け。
金田  面白くないよ、さういふ話は……。
鵜瀞  さうかなあ、そいぢや、さよなら。
島内  荷物は、このままにしといていいですね。
鵜瀞  知らないよ。君が責任を持つんだよ。我輩は、主任の引越しなんか手伝ふ身分ぢやない。その為めに、君つていふ申分のない秘書役がついてるぢやないか。君が居ないうちに、主任夫人の長襦袢が一著、鞄の中から消えてゐたつて、罪を我輩になすりつけちやいかんよ。
島内  (もぢもぢしてゐる)
やす  よかばな、ムツシユウ・島内、わしが番しとつてあげるけん。行つて来なつせ。
金田  よし、よし、さういふ人も居なけれやね。ぢや、また後で……。

両人出で去る。
鵜瀞、コニヤツクを注いで飲む。

とみ  金田のハゲちやん、うなかな、毎晩めあばんムツシユウ・島内ば引張りやあち……。
鵜瀞  やくな、やくな。
とみ  憚りさん、お門違ひですよだ。
やす  (鵜瀞に)なして人のつらば見とつとな、そぎやん眼つきばして……。大好ぢやあすかん、馬鹿んごたる
鵜瀞  おや。

二階から、よねの声が聞える。とみを呼んでゐるのである。とみはその方に行く。

鵜瀞  どうだい、近頃、病気の方は……。
やす  もうちつと悪かこてえしとくと。
鵜瀞  早く帰つてくれつて云つて来るだらう。
やす  何時まつでんこぎやんしとれとは云はんくさい
鵜瀞  浮気をしろとはなほ云ふまい。
やす  云はんてちや、すツときやすツたい。
鵜瀞  つまらねえから、よさう。時に、おさとさんは、泣いてるか、笑つてるか。
やす  人んこつばつかり心配せんてちや、早う嫁御でん、貰へばよかてえ……。ええ年ばして、見ちやをられんばい。
鵜瀞  昨日、誰かもそんな事を云つたよ。おまへさんにや悪いが、おれんとこで辛抱できるなあ、おやすさんぐらゐなもんだつて云つた奴がある。
やす  ふん。そぎやんこつ云ふた奴のつらば見たか。わしや、辛棒ていふこたあ、大好でやあすかん。そんかわり、人がなんと云ふたてちや、いたこたあ、すツたい。
鵜瀞  おれみたいなことを云やがる。おい、もう空だぜ、この罎は……、台湾、上海、西貢サイゴン、新嘉坡……それと、ここにもう今年で七年……。好きなことは何でもやつて来たが、やつたことは好きなことばかりぢやない。お前さんだつてさうだらう。思ひ出してもいやなやうな男の顔が、二つや三つ頭の中にこびりついてるだらう。
やす  …………。
鵜瀞  おれだつて、かう見えて、月夜の晩に、西貢の植物園を、女に泣かれながら、夜通しうろついたこともあるんだ。
やす  もうよかよか、胸ん悪うなる……。
鵜瀞  変な持病だね、そいつあ……。さあ、また来よう。また来るよ、モン・プチ……。
やす  ああ、またおいで、グロオ・コシヨン……。

鵜瀞は出て行く。やす一人になる。
やすは、暗くなつたあたりを気にしながら、窓ぎわに行く。
汽笛の唸り声。――長い沈黙。
やがて、よねととみが、二階から降りて来る。

よね  (とみに)そんなら、早うたツ……。(やすに)ケエで二時間も立たされつ、そん上、こんだあ、税関がせからしうしね。(うるさくつてね)
やす  ピポオつて好かんやつ、そぎやん時ばつかり、役人づらして……。
よね  それがくさい、此ん前、米ば積み出す時、ムツシユウ・真壁の握らせ方が足らんだつたけんたい。そぎやんだろもん、今までこぎやんこた、なかつた。尤も、荷物が沢山ぢや……。
やす  それから、おつ母さん、昨日きのん話や、どぎやんしゆうかな。バツケエの話くさい
よね  そぎやんこつていふもな、わからんやうで、何時の間にだいろ、知れるもんばい。わしや、やめたがよかろて思ふ。一月や二月、そぎやんこつしてみたとこツで、いくりやんもなりやせんぢやなツか。そりよりや、おまい、はよう戻つてやつた方がよかばい。
やす  おつ母さんな、こぎやすこたあ、なかなか堅かな。
よね  うん。おい、堅かばい。兎に角、きまつた男があつてえ、そぎやんこたあ、おれにやでけん。そいでとゑえてきたツだもん、これまで……。そん方が身のためだるけん。苦労んなうしてよかばい。病気と云ふちやあ、こぎやんして、ぶらぶらあすうどらるツたあ、誰のお蔭かな。もうちつたあ、親身にならにや。あツでん優しか人ぢやなツか。
やす  せからしか!(うるさいよ)
よね  なにがせからしかもんか。

此の時、とみが駈け込んで来る。その後から、仏蘭西の水夫が、酔つぱらつて追ひかけて来る。すると、もう一人が、それを止めようとして引つ張る。それでも、たうとうはひつて来て、今度は、そこにゐたやすの肩に手をかける。やすは、平手で、烈しくその頬を打つ。二人の水夫は、何か怒鳴りながら出て行く。

よね  八号と間違へたつたい。

再びロオラがはひつて来る。

ロオラ  今晩は……。真壁、もう帰りましたか。
よね  なにか用かな。
ロオラ  一寸、会つて話したいことがあります。さう云つて下さい。
よね  あんた、ムツシユウに用のあんなら、弁護士に頼んだ方がよかでせう。アボカな……。その方がよかですばい。
ロオラ  アヴオカ、駄目です。真壁からお金を貰つてゐます。わたしの頼むこと、聞いてくれません。
よね  裁判所の方はどぎやんなりましたか。
ロオラ  まだ済みません。あの人、国へ帰ると、あと困ります。わたし、早くお金欲しいですから……。また、ペテルスブルグへ帰ります。今、お金、一文もないんです。(ハンケチを出して涙を拭く)今朝から、なんにも食べません。
よね  わしから、ムツシユウ・真壁によう話して見てあげまツしゆう。あん人は、悪か人ぢやなかですばい。日本人な、女の方でやかましう云ふても、金は出しまツせん。黙つとると、出します。(懐から紙入れを出し)一文もなうちや、お困りだらう。少なかばツてん、こるばとつて置きなつせ。(紙幣を一枚渡す)
ロオラ  (それを受取り)ありがたう。merci, merci beaucoup! わたし恥かしいです。J'ai honte, vous savez, j'ai tellement honte! ……(泣き入る)



ホテルの一室――寝台が二つ並んでゐる。寝台には蚊帳が吊つてある。

朝――電燈がついたままになつてゐる。

さとは、髪を結つてゐる。
真壁は、まだ寝床の中で新聞を読んでゐる。

さと  わしや、今晩の会にや、出んでもよかでせう。
真壁  出た方がいい。おれたちは、誰に憚るところもない間柄だ。
さと  そツでもねえ……。
真壁  お前は、三谷の細君に気兼ねをしてるんだらう。お前だつて堂々たる真壁夫人だ。長く一緒にゐるわけぢやなし、あと一日で、もうあの先生たちと顔を会はすことなんかありやしないんだもの……。
さと  そぎやんこと云ふと、また悲しうなるぢやありまつせんか。あと一日のなんのつて……。
真壁  お土産は、もう揃つたか。
さと  はい、ぼつぼつ集めとります。
真壁  おれも、此処の店を無事に勤め上げたのなら、お前にも、もつとなんとかしやうがあるんだが……。
さと  あつちの方も、まだ、片がつかんとかなあ。
真壁  そんなことを、お前が心配しないだつていい。
さと  そらあ、わしが心配したてちや、なんにもなりやせんばツてん……。どうせ、奥さんぢやなかつぢやるけん……。
真壁  さうだ。世の中の奥さんたちみたいに、男の苦労まで背負込む女になつちやおしまひだ。女は、自分だけで背負ひきれないくらゐの苦労があるんだからな。
さと  また髪が抜け出した。困つてしまふ。
真壁  おれは、あのロオラといふ女に、十年間苦しめられた。今迄、お前も訊かうとしなかつたから、おれは云はなかつたが、おれと、あの女とは、抑※(二の字点、1-2-22)、お互に、欺し合つてゐたやうなものだ。おれが露西亜大使館で副領事をしてゐた頃、仏蘭西語の教師に雇つたのが、あの女だが、二人は、別々の目的で一歩一歩近づき合ひながら、表面は、世間並の恋人らしい真似をしはじめた。よく云ふ、自分でかけた穽に自分で引つかかつたといふ奴さ。これもざらにある結婚の型だ。あいつは、おれの眼を盗んで、金を溜める。おれは、あいつに内証で女をこしらへる。大使館をやめて、此の土地へ舞込んで来てから、おれたちは、同じ檻の中で噛み合ふ獣のやうな生活をし続けた。愈※(二の字点、1-2-22)辛棒ができなくなつて、二人は別々の家に住むことにした。それからは、お前が知つてる通りだ。離婚の訴訟は向うから起したのだが、こつちにも、慰藉料ぐらゐ請求する理由は十分にある。だが、まあ、これは、世の中の夫婦といふものが、お前たちが考へてるやうに、単純なものぢやないといふ証拠に云つて聞かした迄さ。国へ帰つたら、おとなしい、よく働くお婿さんを早く見つけるやうにするのはいいが、わけのわからん男なんかの、甘つたるい誘ひを真にうけて、うつかり一生を託する気になると、それこそ、取りかへしがつかないよ。男からは、愛情を求めるかはりに、愛情のしるしだけを貰つて置けばいい。わかるかい、おれの云ふことが……?
さと  …………。
真壁  そんなに、ぢつとして聴いてないでもいいよ。さつさと髪を結つてしまへ。

長い沈黙。

さと  わしや、今度あんたから貰ふた金で、お父つつあんに、こまあか店ば出さするつもりですたい。近所に酒飲みの多かけん、酒屋が一番よかて思ひます。
真壁  さうして、売るお酒は、みんなお父つつあんに飲まれてしまふんだらう。そいつあ、やめた方がいいね。実を云ふと、おれは、お前をまたお父つつあんの手に戻すことはあぶないと思つてるんだ。今もつてる二千円の金を飲まれちまつて、もうあと二千円こさへろと云はれたらどうする。また、ここへ舞ひ戻つて来るか。さうして、今度は、おやすのやうに、身動きができなくなつた上に、恐ろしい病気までうつされるか。さうなつてから、おれに相談しようつたつて、おれはその時分、何処にゐるかわからないよ。何時も云ふやうに、おれにはおれの仕事がある。あと一日で、おれはお前のことなんか忘れてしまふんだ。はつきり云つとくよ。お互に心残りはない筈だ。何時までも別れた人間のことを思ひ出すなんてことは、おれの性分ぢやない。お前は、誰のことも考へないで、一人で、自分の運命を切り開いて行け。おれも、今度の仕事で、店に二十万といふ穴をあけたが、これで、どうやら商売人らしい度胸もついた。おれにも、新しい未来が見え出して来た。二千噸の塩が、あの大雨に流れ去つた光景は、おれの過去四十年を葬る痛快な儀式だ。
さと  わしやさいぜんから不思議でならんと……。そツてちや、あんたが、いろいろなこと云ひなはるとば聴いとつて、そるば自分に云はれとるごたる気のせんとだもね。
真壁  なるほど、それがほんとうかも知れない。おれは今、お前のことより、自分のことを余計考へてゐる。お前にもそれがわかるのだ。今日のピクニツクは、お前の送別会だつて云ふが、男は誰々が行くんだ。
さと  はじめは、男を一人も入れんつもりだつたりや、鵜瀞さんがどうしてん行くて云ふてききまツせんと。ぢやるけん、あん人だけですたい。
真壁  八号の女たちもみんな行くのか。
さと  はい。
真壁  また何時かのやうなことがあると厄介だから、運転手に酒を飲まさないやうにしろ。
さと  はい。そつでん、鵜瀞さんが、きつと相手をさすぢやろ。今晩の宴会は六時からだて云ふとだつて、それまでに戻らるるか知らん……心配なこツぢや。
真壁  三谷の方の世話は島内だけで大丈夫かね。
さと  三谷さんつて云へばあの奥さんね。
真壁  どうしたつて……。
さと  わしのこつば、奥さまて云ふとばな。
真壁  だからいいぢやないか。
さと  そツでん、なんだいろ可笑しか。昨夜、食堂でかう云うて尋ぬツとですばい。――「あの、奥さまも、社宅の方にずつといらつしつたんですか」つて……。
真壁  それで……。
さと  な、をかしかでせう。わしや、なんて云ふてええかわからんだつたけん、「いいえ、はあ、ちよつと」……こぎやん云ふといたと。
真壁  「いいえ、はあ、一寸」か……。社宅にお前がゐちやいけないのか。
さと  いかにも悪かごつ云ふとぢやもね。それから勝手の工合なんかどぎやんですて訊くと……。「コツクに委せきりで、よう知りません」……こぎやん云ふといたと……。
真壁  そんなこと、どうだつていいよ。
さと  (髪を結ひ終り、著物を著替へ始める)
真壁  (これも起きて顔を洗ふ)
さと  朝御飯、部屋へ取寄せちやいかんか知らん?
真壁  どうして……? いいさ。
さと  二人だけで食べる、これが最後しめあですもね……。今晩は宴会……。明日の朝は、忙しうしてゆつくり出来んし、そん上、六時ていふ時間に乗り込むんぢや、御飯なんぞ、たべてをられやせん。
真壁  (部屋の呼鈴を押す)
さと  わしが、今さう云ふてツてえ……。

やがて、とみが、現はれる。

さと  あ、済まんばツてん、御飯ば、こつちに持つて来てもらをごたる。今朝は、ここでたべるけん……。あ、そるから、あらあ何時いつもん通りなるばツてん、コンニヤクば一杯づつ附けて来てくれんかい。
とみ  罎とめ持つてくればよかなあ。
さと  それでよか。今日は果物くだもんの新しかとんあるか知らん……。
とみ  さあ、どぎやんだいろ、訊いてみゆうたい。

とみが立つた後、さとはしばらくその後を見送つてゐる。

真壁  (笑ひながら)たうとう、コンニヤクがなほらなかつたね。
さと  コニヤツク……。そツでん。みんながさう云はんもんだるけん、わしだけコニヤツクてろん、なんてろん云ふと、可笑しかつですもね。
真壁  少し、風が出て来た。明日は荒れなきあいいが……。
さと  わしどんが、こつちいツときや、ほんなこてえ惨めだつた。船底へ菰ば敷いて寝かされたツだもね。支那人の苦力がいつぴや乗つとつて、何処でんかしこでん唾吐きちらきやあつ。そろから、さかなの骨でんなんでん、ペツペツて吐きやつ。そツだるけん、わしどま、御飯も食べる気はせんだつた。暑うし、臭うし、そん上、蠅んをつて、窮屈し、真暗うし……。
真壁  もういい、もういい、そんな話は……。そんなことばかり考へ出すもんぢやない。世の中は、そんなところばかりぢやないんだ。広い海を見ろ、広い海を……。お前の国の方では、女ばかり働いて、男は遊んでるんぢやないか。
さと  わしが国にをるときや、男でんをなごでん、あすうどるもんなんぞ見たこたなかつた。まあ、遊うどると云へば、子供ぐりやんもんた。
真壁  さうでもなからう。
さと  うちのつつあんてちやあ、あツでん、なかなか働き手ばな。ただ、きばつてもなんにもならんだけたい、ああた。
真壁  お前の話は、陰気臭くつていかんよ。働いたつてどうもならんなんてことがあるものか。働き方がわるいだけの話さ。下手に働くといふことは働かないのと同じことだ。とは云ふがね。これは女には当てはまらない理屈だ。さ、また、催促しないと、二時間ぐらゐ待たされるよ。
さと  わしが、行たツ見て来る。

さと、出で去る。
真壁は、窓を開け放つ。かなり強い風が、カーテン、蚊帳などを吹き上げ、真壁の著てゐるピジヤマの前が、ぴつたり胸にくつつく。彼は、長く伸びた頭髪を心地よげに後ろに靡かせ、風の真面に立つたまま、眼を細くして、海の方を見てゐる。
汽笛が長く尾を曳く。それに交つて、天主教会の鐘の音が、かすかに鳴り響く。
長い間。
やがて、さとが、ボーイと共に朝食の膳を運んで来る。とみはその後から、コニヤツクの罎を提げて現はれる。

さと  窓んいとるとかな。
真壁  (黙つて窓を閉ぢる)
さと  (テーブルの上を片づけ)さ、此処こけへ置いてくれな。
とみ  あんな、今、岡さんが来てなあ、今日あの人も行くて云つとつた。写真機ばもつて行たツ、わしどんば、みんなうちいてくるツてツたい……。
さと  (腰かけながら、一寸、真壁の方を見た後)あぎやん人、んてちや、よかこてえ……(かう云つて、首をちぢめ、舌を出す真似をする)
とみ  そツでん、只でよかて云ふとばい。
さと  (ボーイが寝台をしなほさうとするのを見て)ノン・ノン。パ・メントナン。アツプレ。(真壁に珈琲を注いでやる)
とみ  もう、用はなかぢやろかい。
さと  もうなか。

とみとボーイ、出で去る。
真壁とさとは、黙つて、食事をしはじめる。
真壁は仏蘭西風の簡単な朝食、さとは和食である。

さと  (思ひ出したやうに、コニヤツクの罎を取り上げ)注ぎまツしうか。別れの盃ですばい。わしもちつとばツかり……。(杯を差し出し)はい、乾杯……。ア・ボートル・サンテ……。
真壁  (同じく杯を差出し)ア・ラ・ヴオートル……。(笑ひながら飲む)
さと  これで安心した。そるばツてん、なんだいろ、まだ、明日あしたたつごたる気のせん。どうしてだいろ。
真壁  用意さへ出来てれば、それもいいさ。お前が明日たつ。おれが、三日置いて、十一日か……。なるほど、おれも、そんな気はしないな。お前を送り出したら、おれは、その晩から、ベル・ヴユウへ移らうと思つてるんだ。ここはどうにも我慢がならんよ、この木賃宿は……。婆さんは珍らしくいい人だが、ホテル経営の手腕はゼロだ。
さと  そるばツてん、こツでなからんば、わしどんが気楽に泊つたりなしたりしちやをられんもね。普通の日本人には、これで丁度よかつばな。なるばツてんが、あんおつ母さんだるけん、こツでよかかも知れん。誰でん、此処こけへ来る日本人は、ホテルへツとぢやなく、おつ母さんとこれツとばな。頼めばどぎやんこつでんしてくれるし、昔が昔だけに、わしどんが気持ば一番うわかつてくるツと……。そけえ行くと、八号のおつ母さんどまあ、うはべは親切で、気のつくごたるばツてん、頼らうていふ気ば起させんとばな。何処だいろ油断のでけんていふ気のしはせんかなあ。
真壁  なに、此処の婆さんだつて、なかなか油断はならないよ。おれは、お婆さんが、あのおとみといふ娘を、ある仏蘭西人に押しつけようとしてるつて話を聞いたよ。ああして、身寄のない子を養女にしてゐると云へば人聞はいいが、また、実際、幾分の義侠心らしいものも手伝つてはゐるんだらうが、それも、育て上げれば、金になるといふことを知つてゐたからだ。或は、もう少し穏かに云へば、今になつて、それに気がついたんだ。
さと  そん話しや知らんだつたばツてん、おつ母さんな、いつでん、男をもつなら西洋人に限るて、そぎやん云ふとつて……。わしの前でん、平気でそぎやん云ふとばな。
真壁  それや、自分がいい籤を抽き当てたからさ。それで、お前にもフランセを世話しようつて云ふのか。
さと  まさか……。
真壁  どう云ふんだい。毛唐は親切でいいつて云ふのかい。
さと  それよりか、一番、のんびりしとつてよかて云ふとたあ。
真壁  あの婆さんが云ひさうなこつた。
さと  わしや、初手から見ると、よつぽど変つたか知らん……?
真壁  おれのところへ来てから、少しは利口になつたくらゐのものだ。おれはお前を教育しようと思つたことはないが、お前はなかなか心掛がよかつた。しかし、いろいろ考へてみると、お前をまたお父つつあんの手へ戻すことは、なんだか、あぶないやうな気がするなあ。
さと  ……。
真壁  やつぱり此の土地にゐた方が、何かいいことがあるやうな気がしやしないか。
さと  ……。
真壁  明日の船で、此の土地を離れるつていふことは、逃れられない運命かどうか。寧ろ、おれといふ人間がゐる為めに、さうなるのではないか。かう考へてみると、おれは、今、お前の運命について、もう一度神に訊ねて見なければならないといふ気がし出した。――おれが神といふのは、お前の本心だ。
さと  ……。
真壁  おれに気兼ねはいらないよ。お前は全く自由なんだ。どうだ、やつぱり国へ帰るか? それとも、船を断つて、もうしばらく此処にゐるか?
さと  ……。
真壁  それ見ろ、お前はまだ迷つてるぢやないか。



硝子戸越しにホテルの食堂が見えるヴエランダ――食堂の内部が明るいのに反して、外はわづかに人の顔が見分けられるほどの暗さ。
ヴエランダの一隅には、さとがテーブルに突俯し、その傍でやすが背中をさすつてゐる。食堂は、今、宴会の最中である。
真壁と三谷とを中心に、その左は、三谷夫人、右は空席一つ、是に向ひ合つて、金田、鵜瀞、島内、岡などの姿も見える。
けばけばしい、染模様の著物を著た八号の女たちに交つて、とみが酌をして廻る。
真壁の正面に起ち上つて、テーブル・スピーチをしてゐる巌乗な半白の老人は納富(六十三)である。

納富  ……さういふわけで、一介の剣道師範たる私は、今を去る二十五年前、内地の熟練な農夫二十家族、五十名を引き連れて、此の地に渡つて参りました。
鵜瀞  (酒のまはつたらしい調子で)その話はもう三度聞いた。
納富  因循にして気概なき此の地方の青年は、悲しい哉、わが剣道の精神を解せず、私の素志は空しく今日に至つたのでありますが、一方、模範農場の経営と、農作指導の事業は、著々とその歩を進め、その翌々年には、仏蘭西政府より、名誉ある橄欖褒章の贈与を受けました。今日、わが日本国民の需要に応じ得る印度支那米の産出は、実にその期間に於て、確乎たる基礎を作り得たものと信じます。然るに、これらの日本農夫は、その技術に於てこそ、誇るに足るべきものでありましたが、国家百年の計を立つる精神的訓練に於ては、甚だ欠くるところがありました結果、或は病気と称し、或は報酬の不満を唱へ、或は、父親が亡くなつたからとか、或は嫁を貰はにやならぬとか申して、一人還り、二人還り、遂に、私一人を置き去りにして、悉く帰国してしまつたのであります。
鵜瀞  もうわかつた、わかつた。おい、お千代、先生にお酌をしろ。
納富  大分、座が乱れてまゐりましたから、これくらゐで止めますが、要するに、植民地に於ける同胞の団結は……。
鵜瀞  (起つて行つて納富を席につかせ、無理に盃を押しつける)
納富  よし、よし、もう少しだから……(起たうとするが、鵜瀞は起たせない)
金田  おい、鵜瀞君、いい加減にしろよ。(途方にくれ)それでは、甚だ不体裁でありますが、先生のお話は何れ此の次の機会に伺ふとして、真壁さん、どうぞ……。
真壁  僕は、もう別に……。
金田  それやいけません。それぢや、形がつかない。
鵜瀞  (なほも、しつツこく、納富にからみついて行く)
納富  (それを突きのけ)うるさいツ。

此の声に驚いて、さとは、顔をあげる。

やす  なんでもなかつだるが。どぎやんかい、ちつたよかかい?
さと  (うなづく)
やす  あぎやん飲むとだもね、そらあ苦しか筈た。

食堂の内部は、異様に緊張した長い沈黙が続く。

やす  そん上に、自動車んうはなかつたつえる。無茶に急ぐとだもね……。おツでん、頭んふらふらしたつばい。

此の時、食堂で、また話声がしはじめる。

金田  かうしてゐてもなんですから、三谷さん、それぢや一つ……。
三谷  ……。
真壁  そんな形式的なことはどうだつていいぢやないか、君。かういふ会を開いて下さるのは有りがたいが、挨拶を強ひられるのは困るよ。植民地には、植民地らしい交際と礼儀とがある筈だ。酒を飲んで、馬鹿話でもすれや、それでいいことにしようぢやないか。
女の声  賛成……。
金田  それぢや、さういふことにしますか。岡君、手品でもやつたらどうだ。
岡  今日は駄目です。酔ふとつて駄目です。島内さん、なんかやんなはり。
島内  ……。
三谷  此処にゐるねえさんたちは、三味線を弾かないのかい。
金田  弾ける人もゐるんだね。
三谷  さつき家内とも話したんですが、かうしてゐると、丸で日本にゐるやうですね。日本にゐて、少し変つたことをしてゐるやうな気がしますよ。
真壁  君が一人で来たら、さうでもないんだよ。君達御夫婦を除いて、どれもこれも、内地にゐさうな人間は一人だつてゐやしない。みんな少しづつ日本人でなくなつてゐるよ。
納富  わたしはさう思はんですな。なるほど植民地のふしだらな生活が、骨の髄まで滲み込んでゐる人間も、一人や二人はゐませうが、大かたは、いざと云へば、これでも日本人です。少くとも、わたしは、飽くまで日本人としての……。
真壁  僕の云つたのは、さういふ意味ぢやないんだが――さうおつしやるあなたにしても、失礼かも知れんが、何処か海外放浪者の特徴を具へてをられる。僕は無論、思想的にも、感情的にも、一個のコスモポリタンです。三谷君のやうな人から云へば、僕などは、立派に世界ゴロの仲間にはひるんだらうが、納富さんなんかは、かういふ名称を著せられることは不服でせうな。
鵜瀞  わたしはどうです。
真壁  君か、君は、先づ、植民地ゴロといふところだね。
鵜瀞  植民地ですつて……。なにもさう、階級をつけないだつていいぢやないか。西洋人をお神さんにもつてたからつて、世界中を股にかけたやうなこたあ、云つて貰ひますまい。
岡  上海から新嘉坡までは、全く、鵜瀞さんの縄張りだな。
鵜瀞  写真屋は黙つてろい。
真壁  何をそんなに威張つてるんだ。同じ植民地ゴロでも、野心勃々たる奴は、あれでなかなか愉快です。何時か此処にも来たんだが、例の、バンコツクで歯医者をしてゐたといふ男なんか、免状もなんにも持たずに、暹羅の金持から治療代をしこたまふんだくつてたんだからね。向うで怪しいと思ひ出した頃は、もう姿を晦ましてゐたんだ。さうして、香港に現はれた時には、ちやんと、基隆運輸株式会社支配人といふ名刺を作つてゐる。それから、ホテル代を一月分踏み倒して、ここへやつて来た。僕は、そんな手には乗らないが、金田君なんか、大分怪しげな翡翠を買はされてゐたぜ。
金田  ありや、一杯食ひました。
真壁  それがさ、あの男になら、瞞されてもそんなに腹が立たないよ。どこか愉快なところがある。自分さへ安全なら、大いに声援でもしたいつていふやうなところがある。
金田  冗談ぢやない。
真壁  僕は、自分にもさういふところがあるからかも知れないが、快活な悪事といふものには、そんなに反感が起らないんだ。なんにも出来ないで、不平ばかり並べてる奴は、人間の屑だと思つてる。
鵜瀞  (起ち上り)なにを……。
金田  君のことを誰も云つてやしないよ。
鵜瀞  おれは、人間の屑か。よし……。

(真壁の方に近づいて行く)

金田  (それを遮らうとする)
島内  (起ち上り)鵜瀞さん、さ、あつちへ行かう。
鵜瀞  (二人の手を振り払ひ)誰が今迄、その人間の屑をこき使つたんだ。一と晩中、荷役の見張をさせたのは誰だ。自動車にも乗せず、日に三度もアロンへ走り使ひをさせたのは誰だ。朝の間に、チヤンの苦力を五十人駆り集めろと云つたのは誰だ。
真壁  おれだ。――そのうち、どれか一つ、満足に出来たことがあるか。今、こんなことを云ひ出す必要はない。しかし、君が、さうして僕のやり口を非難するなら、僕の方にも云ひ分がある、此処にをられる諸君には、いろいろの意味で、お別れの挨拶がしたいのだ。その挨拶には、また、いろいろの点で、感謝の意を含めたいと思つてゐる。しかし、君だけには、今迄の僕に対する態度から見て、一言も云ふべきことはない。黙つて別れることが、一番穏かな挨拶だ――さう考へてゐたんだ。
鵜瀞  八十ピアストルの月給で、そんな仕事ができると思つたら、大間違ひだぞ。
三谷  おい、君、そんなことは、此処で云はなくつたつて、いくらも云ふ時機があるぢやないか。みつともないからよし給へ。
鵜瀞  云ひたいのは月給のことぢやないんだ。人を使ふなら、人情を弁へろと云ふんだ。島内を見ろ。ああやつて神妙な顔はしてゐるが、心の中では、我輩と同じやうに、貴様を恨んでゐるんだ。
島内  鵜瀞さん、何時僕がそんなことを云つた。
鵜瀞  云はなくつたつて、我輩にはわかつとる。
金田  よせつたら……君はそれがいかんのだよ。お互に云ひたいことを云つたら、きりがない。過ぎ去つたことは過ぎ去つたこととして、愉快に飲まうぢやないか、愉快に……。(鵜瀞を席に連れて行き、盃を差す)

長い沈黙。

やす  ムツシユウ・真壁のはらきやあた顔、はじめて見た。
さと  頭ん、るるごたる。
やす  部屋に戻つてたかい。
さと  ……。
やす  明日の朝は早かツだろが、もう寝た方がよかばい。

食堂では、人々が小声で話し合つてゐる。
やがて、

三谷  (起ち上り)それぢや、われわれは、これで失敬します。どうも有りがたう。
三谷夫人  (これも席をはなれて一同に会釈する)
真壁  僕も失敬しよう。お先へ……。

三人は食堂を出る。

金田  今日はみんな少し変だ。
納富  こんな宴会ならやらん方がいい。
岡  ムツシユウ・三谷の奥さんなんか、びつくりしなはつたらう。
島内  鵜瀞さん、いけないよ、あんなこと云つちや……。
とみ  酒は、もうよかかな?
金田  ああ、もういい。それから、ねえさんたち帰つてもいいよ。
納富  さうさう、金田君、あんたのとこに、からすみがあつたね。あれ、少し欲しいんだがね。
金田  からすみ……あれや、もう、みんなでしたよ、先生。
納富  みんなか。そいつあ、残念だ。(起ち上り)それぢやね、ごまめを二合ばかり届けてくれんか、明日でいいから……。
金田  よろしうござんす。

納富、出で去る。

岡  写真はどぎやんします、金田さん。
金田  あ。さうだ、忘れてた。また今度にしよう。
岡  しよんなか幹事さんだなあ。(かう云ひながら、席を起ち、ヴエランダの方に出て来る。さうして、女たちから離れ一隅の椅子に倚る)
島内  (続いてヴエランダに現はれ、岡の近くに座を占める)
金田  おい、みんな行つちまつちや、困るぢやないか。この酔払ひ先生、誰れが連れて帰るんだい。

女将牛山よねが食堂に現はれる。

よね  もう済みやしたか。
金田  婆さん、どうかしてくれ、此男……。
よね  ほつとけば、よかぢやツせんか。(かう云ひ捨ててヴエランダに出て来る)
やす  (よねを見つけ)一寸、こるば見てくれな、おつ母さん、此処こけんもをつとばな、をなごん酔払ひの……。
よね  どうしたと、そぎやん苦しかかい。さう云ふと、ちつと乱暴だつたもんね、今日は、……何時もんおさとさんぢやなかつたごたつた。(腰をおろす)


食堂では、金田が、しばらく女たちとこそこそ話をした後、ヴエランダの方を一寸のぞいたまま出で去る。
すると、女たちは、一斉にテーブルを囲み、残り物をつまみながら、小声で雑談をしはじめる。時々笑声が起る。

やす  (岡に向ひ)あんたは可笑しか人な。用もなかて、こぎやんとこれ出て来て、なんばぢろぢろ見とつと……?
岡  もう喧嘩は御免だ。人の顔さへ見れば喰つてかかるなあ、よくない癖だよ。おやすさん、おらあ、みんながもうちつと、お互の気持ば尊重し合ふごつしたかて思ふとたい。
やす  (相手の言葉が耳にはひらないやうに)兎に角、わしや、あんたといふ人が眼ざわりでしよんなかつだるけん……。
岡  どうも済みまツせん。

とみが現はれる。

とみ  島内さん、ムツシユウ・三谷があんたに一寸げな……。
島内  今頃、何の用だい。
とみ  今、奥さんの肩ん上、やもりの一匹天井からつこけえツ来たげなけん、そんこつかも知れんたい。
島内  やもりが……? やもりとおれとどう関係がある。(かう呟きながら出で去る)

とみは食堂の方へ行く。
食堂にゐる女たちは、ヴエランダをのぞき、よねに会釈して、それぞれ出て行く。

やす  あああ、わしや、もういやになつてしまふた。
よね  なんがや。
やす  こぎやんしとツとがたい。病気なんぞ、どぎやんなつたてちやよかけん、戻ろかしらん……。
よね  病気のなほるまでや、戻つて来るなていふとだるけん、早う病気ばなほすとよかぢやなかツか。
やす  ところが、そぎやん早うはなほらんとだるけん……。何時までんこぎやんしとるぎりや、ろくなこた、ありやせんえる。
よね  そん時や、そん時の話たい。おまいがそんつもりでをればよかばツてん、ムツシユウ・シヨオドロンにして見れば、代りのをなごはいくらでんあツとだるけんね。
やす  そぎやんばつかりも云はれんたい、こツでもな。あら、つんツてしもたツばい、こんは……。
よね  随分窮屈だつたらう、二年間、ああいふ暮しをしとつちや……。
やす  わしなら、二日も辛抱はでけんなあ。ばツてんが、今度はちつた羨しか。
よね  おまいも、そぎやんした気になつたかい。
やす  尤も、わしなら、その金ばもつて、上海にでん遊びぎや行たツはち来る。日本に戻つたてちや、しよんなかつだもね……。
よね  そらあまあ、別の話なるばツてん、こるから、日本に戻つて一体どぎやんする気だろかい。これで、本人は、そぎやんまぢや、よるくうどらんとばい。
やす  こんは、どぎやんことんあつたてちや、そぎやんまぢや、うれツしやにやせんと……。そん代り苦労もなかごたる。
よね  日本に戻ることん、そぎやんまでうれしうなかわけは、おれにやわかつとるばツてん。さうかと云うて、こぎやん話んなつとるもんば、引き留むるわけんも行かず……。
やす  わしんもわかつとツと……。だるけん、云ふとた、――あんまり人次第だるけんいなくて……。
よね  ほんに。今日もシヨオロンの浜で、しみじみおれへ云うたつなるばツてん、ムツシユウ・真壁が此処こけえをる間は、どうしてんたんわけにや行かんて、そぎやん、自分できめとツと……。
やす  日本に戻らんば、金はやらんて云ふとか知らん……。
よね  さうぢやなかツたい。今朝なんぞ、どつちでん自分の好きなやうにせろて、そぎやん云ふたげな。船の方は、今から取り消せばなんでもなかつだるけんて……。
やす  それぢや、なんのこたなかぢやなかツかな。やつぱあ、いざと云へば、戻つた方がよかごだる気のすツとだろた。
よね  ううん、ムツシユウしやが、をらんぎりや、自分ぢや、此処こけえをろごたるて、そぎやん云ふとつた。
やす  妙な義理ぢやなツかな、そらあ……。よし、そんなら、わしが、引止めて見しゆう。おい、おさとちやん、風邪引くばい。

此の時、とみが、慌ててはひつて来る。

とみ  あんなあ、おつ母さん、今なあ、またロオラが来たつばな。
よね  そツで、どぎやんした。
とみ  黙つて二階へ上つたツた。
よね  そぎんこつさせちや、仕様しよんなかぢやなツか、お前がをつて……。
とみ  そツでん、どんどん上つて行くとだもね……。
よね  そんなら、よかけん、早う食堂ば片づけさせろ……。
とみ  岡の間抜が、また写真機を忘れて行たつ。
やす  (笑ひながら)どつちが間抜けだいろ。そけえをるぢやなツか。
とみ  御免なつせ。知らんだつた。(きまり悪るさうに走り出す)
さと  (ぼんやり)ここは、何処けえ。
やす  あら、よつこりしよ、気味の悪るか。何処んつもりでをツとけえ。
さと  (あたりを見まわし)宴会、もう済んだつかな。
よね  しつかりせんかい、冗談ぞうたんのごたる。そツで明日あす発たるツとかい。
さと  ……。
やす  頭痛はもうなほつたかい。
さと  うん。(かう云つたと思ふと、急にしくしく泣き出す)
やす  あら、どぎやんしたて云ふと……。ひよくうツと、いろいろなこつば思出おめだやつけんだろ。どぎやん云ふたてちや、そらあ、ほかんこつた違ふけんね。
よね  あんまり、そばから、なんのかんのつて云はん方がよかばい。

長い間。

やす  俺共おつともと違うて、やつぱ、一途に思ひ込むたちだツたばいね。今迄ん様子ぢや、案外平気んごつ見えとつたばツてん……。

長い間。

よね  さあさあ、そぎやんやあとつたてちや、どぎやんもなりやせんとだるけん、これからのこつば考へて、気ばふたうもつこツたい、ムツシユウのことなんぞ、早う忘れてしまうた方が悧巧もんばい。妙なこつ、そツでん、今日になつて、ひよくうつと……。
やす  そらあ、しよんあるもんかな。いよいよつていふ晩だもね……。
さと  そぎやんぢやなかつ。そツで悲しかツぢやなかあつ。
やす  そんなら、国に戻ろごたなしでん、やあとつとけえ。
さと  ……。
よね  さうとすれば、なほ可笑しかぢやなツか。そぎやん好かんとこれ、わざわざ戻らんてちやよかつだるけん……。
さと  わしや、なんだいろ、自分でもわからんと……。ただ、明日発つと思ふたりや、ひよくうつと、涙んこみ上げて来たツた。
やす  一人で戻つとん寂しかつだらう。
さと  さうか知らん……。そぎやんでもなかごたる。――わしや、男と別るるこた、もちつと辛かもんだらうて思ふとたりや、そらあ、自分でも不思議なぐらゐ何のこたなか……。今朝でん、あん人いろいろ云うてくれるとばツてん、かういふときや、ほんなこつなら、泣かんばならんとばいて思ひながら、そるが、どぎやんしてん泣かれんだツたつ……。今なんぞ、あん人んこた、ちつとん考へとりやせんだツたツだツて……。そツでん、つひ、胸んつまつて……。

此の時、二階から、Menteur! Menteur! と叫ぶ女の声がきこえる。

よね  そらあ惚れた仲なりや別なるばツてん、云うてみれや年期奉公のごたつとだるけん、そるが当り前たい。なんね、一時いつときでん住み馴れた土地ば離るつていふもなあ、なんとなしい、心寂しかもんたい。早かもんたい、丸三年になるけんね。
やす  さつきからも、おつ母さんと話したこツだるが、あんたしやが、そん気になれば、ずつと此処こけえをつたてちや、大丈夫、やつて行かるツとだるけんね。どつちかて云へば、あんたなんぞ、そん方が仕合せかも知れんとたあ。当分遊んどらるる金はあツとだるけん。そんうちい、よか運のいてツたい。なあ、おつ母さん。
よね  おるも、今日、浜で、そるば云ふたツた。
さと  つまらんと……。わしにや、どうしてん、そるが出来でけんと……。今更、そるば云ひ出すてこたあ出来でけんと……。そぎやん云へば、あん人、そぎやんかて云ふにきまつとる。いかんなんぞ云やあせん。ばツてんが、そるが、わるうして仕様しよんなかツだもね。どぎやんしてん、そツぢや済まんていふ気がすツと……。
やす  そぎやんこたあ、なかぢやなツか。自分のいたごつせろて云ふとだらう。
さと  そるがさい。そぎやな云ふとつても、あん人ん気持から云へば、わしば国に戻したかつだもね。国に戻つたてちや、わしが仕合せになるとは思つとりやせんとなるばつ。そツでんが、やつぱ、わしば国に戻した方が安心すツとたあ。そるが、わしにやわかツとだもね。
やす  そらあ、あんたん、そぎやん思ふだけたい。あん人が安心しうが安心しみやあが、あとんこたあ、どうだツたツてちやよかぢやなツか。あんたんこぎやんしたかて思ふこつば、させてくれしやがすれば……。
さと  そるがわしにや出来でけんとだるけん……。あん人は、こぎやんせろて云うて、そるば、そん通りすツてうなかことんあツと……。わしやあん人ん気持だけは、もうわかつとるつもツたい。だるけん、言葉にも顔色にも出さんごたるこつば、どこだいろで感づツとたあ……。さうすツと、もう、どぎやん出来でけんと……。そん通りイなつてしまふとだもね。
よね  なんべんも云ふごたるばツてん、お父つつあんの、あぎやんした人でなからんぎりや、おつてちや、国に戻るこつば勧むツとなるばツてん、どうにもかうにも、あツぢや、わざわざ苦労ば重ねぎや行くごたるもんだものね。そるよりや、こつちで、ちやんとした男ん世話にでもなつて、からだば落ちつけた方がいくら楽だいろ知れやせんからな。あんたほどの器量なら、望み手はいくらでんあるし、そるこそ、おツでん、ほつときやせんたい。(間)そんなら、ムツシユウしやが、をらんぎりや、国に戻ツとば見合せてもよかて云ふとかい。
さと  ……。

二階の女の声が益※(二の字点、1-2-22)激しくなる。一同はそれとなく耳を聳てる。

よね  何か都合ばつくつて、ひと船遅らするこてえすれば……? さうすれば、ムツシユウは先へ発つてしまふし、あとは、こつちのしゆうごたるごツたもん……。なあ、岡さん、それがよかなあ。
岡  僕は、おさとさんのいたごつするがよかて思ふ。
やす  そぎやんこたあ、わかつとるぢやなツか。だるけん、いた通りさする話ばしとツとたい。
よね  今迄、そけをつて、己共おつどんが話ば聞いとつたツだるけん、一人だけつらしゆうてしたてちや、そらあ出来でけんたい。仲間入りばせんぎりや承知せんけん……。
岡  僕は、あんた達の仲間入りやせんたい。ばツてんが、僕一人の考へで、おさとさんに発つこたあ見合せち貰ひたか。僕は、おさとさんに、はツてかるれば、此ん土地にやをられん人間たい。第一、美しかもんと云へば、一体、何があるか。男は狼のごつ餓え、女は牝犬のごつ恥知らずたい。そん上、自然はと云へば、黄色か熱と、灰色の空気に傷められた不健康そのものの姿たい。そん中で、たつた一つ、僕の眼を楽しませ、心を慰むるもなあ、おさとさんの存在たい。僕は、もう決して、おさとさんにどうしてくれとは云はん。そらあ、自分の夢ば自分で醒ますごたるもんたい。僕は、ただ、おさとさんは自分の眼の届くとこれえ置いておきたかだけたい。僕は、一生、写真師らしう、レンズを透しておさとさんの姿を眺め暮さうと思ふとる。そんなら、よかろうがな、おさとさん……。今日、シヨオロンで、あんたは一人、僕が向けたレンズを避けたのはどういふわけたいな。それはもうよか。訊きますみやあ。ばツてん、僕が何時でんあんたに向けとる心のレンズは、あんたもくるこたあでけんがな。

此の時、突然、二階で一発の銃声が響く。
鵜瀞を除く外、一同の視線は、期せずして階上に注がれる。
長い沈黙。



真壁の部屋――真夜中
寝台の一方に、真壁が頭に繃帯をして寝てゐる。
さとはその傍で、ぼんやり椅子に腰かけてゐる。
三谷はやや離れて、これも椅子にかけてゐる。
よねが、立つたまま話しをしてゐる。

よね  そるがね、いろいろなこつば訊かるツとですよ。わしや、かう云うてやつた。――こつちはをなごだるけん、ロオラさんの味方にもなるばツてん、日本人としちや、ムツシユウ・真壁の肩を持つて……。さうしたりや、コンミツセエルも笑うとりました……。
真壁  三谷君、君が、さつき、駈けつけて来てくれた時、あの女は机に向つてたらう。何を書いてたと思ふ。
三谷  知らない。あの時、なにやら、云つたやうだつたね、僕たちの方を振り向いて……。島内君は、「誰もこの部屋にはひるな」つていふやうに聞えたと云ふんだが……。
真壁  それは僕も気がつかなかつた。しかし、あれは、君、手紙を書きかけてゐたんだよ。警察の奴が訊いたら、さう云つてた――ペトログラアドにゐるお袋のところへ出すんだつて……。
三谷  すると、君に会ふまでは、あんなことするつもりはなかつたんだね。
真壁  それやわからん。話の結果によつてはと思つてゐたかも知れんよ。不断ピストルなんか持つて歩く女ぢやないんだから……。兎に角、あいつを向けられた時は、流石に驚いた。しかし、どうする暇もないんだ。いけないツと思つた瞬間、頭ががんとした。それでも、煙の中に、あの女の姿がはつきり見えたので、すぐにその手からピストルをもぎ取つたんだ。さうすると、奴さん、急に、両手で顔を蔽つたまま、机の方へ歩いて行つた。君たちがすぐ来てくれなかつたら、僕があの女を殺してゐたかも知れないよ。
三谷  そんなことはあるまい。君は、非常に冷静だつた。何事もなかつたやうな顔をしてゐた。
よね  コンミツセエルも、ムツシユウ・真壁は、どうして笑つとつたつかて、こぎやん訊いとりました。
真壁  もう、その話は、よさうや……。遅いから、君たちもねむいだらう。寝てくれ給へ。
三谷  僕は平気だがね。君はどうだ。まさかすぐは寝つかれまい。

この時、三谷夫人がはひつて来る。

三谷夫人  如何でいらつしやいます。
真壁  やあ、どうもお騒がせしました。もうなんでもありません。
三谷夫人  あたくし、なんだかまだ心配ですわ。
真壁  随分、妙な人間ばかりゐるところでせう、印度支那つていふところは……。
三谷夫人  でも、こんなことは、東京の真中にゐたつて、あることですわ。ただ、この土地で、かういふことがあると、さう申しちやなんですけど、さもありさうなことつていふ気がいたしますわ。
三谷  おい、おい、無茶なことを云ふな。
真壁  ほんとですよ。このホテルだつて、初めて来て見ると、何かの巣窟つていふ感じですからね。電気はこの通り暗いし、壁や天井は、ああいふ風に雨漏りの跡だらけだし……。
三谷  その上を、やもりがあんなに匍ひまはつてゐるしね。
よね  それや、このホテルばかりぢやありまツせんばい。
三谷夫人  あら、何処にでもゐますの。
真壁  ゐますね。社宅の方は、もつとひどいですよ。もつと大きな奴がゐますよ。
よね  ところが、あらあ、どぎやんもしやしませんけんな。わしの知つとる仏蘭西人は、あるば一匹、ビールの中に入れて、いつしよに飲みうでしまひましたばい。
三谷夫人  まあ、気味がわるい。
三谷  しかし、お前は、日本を発つて来る前から、大に、印度支那を讃美してたぢやないか。
三谷夫人  あたくしの云ふのは、もつと、奥の方ですわ。安南の森の奥ですわ。
三谷  なんだつけな。――孔雀と錦鶏鳥とが、なんとかの花の間を飛びまはつてゐるつていふんだらう。さういふところ、あるかい、真壁君……。
真壁  あるかも知れんよ。どうかね、婆さん……。
よね  さあ、なんのこつだいろ、よくわかりまつせんだつたばな。虎は、ちいつとこの奥に行くと、をるごたるな。アナミツの部落へう出て来るて云ひますたい。人間の子供が好物ちたなあ。
三谷  少し話が違ふやうだね。
三谷夫人  全く……。
三谷  婆さんは、この土地に二十年からゐるつていふ話だが、随分、いろんなことに出くわしたらうね。
よね  でくわしましたちゆあ……。日本人ばつかりぢやありまツせんけんな、これまでわしが知り合うて来た人間て云へば……。前の連合が、仏蘭西人でツしう。毎日、仏蘭西人同志のことを、見たり聞いたりしましたたい。そツでん、人情ていふものは変らんもんですな。アナミツの方は、使ふとるもんがおもですけツどんが、あん人達にやあん人達の世間ていふもんがあつて、やれなんのかんのて、それ相当にごたごたがあツとですな。――かういふ土地で、重だつた人間になツと、苦労が多かもんな。わしなんぞは、学校もろくに行つとりまつせんばツてんが、年配が年配だるけん、若いをなごたちに、おつ母さん、おつ母さんて、せからしか相談ば持ち込まれますしな。
三谷夫人  (さとに向ひ)こんなことがあつちや、奥さまも、明日お発ちになるつてわけには行きませんわね。
さと  (真壁の方を見て)さあ……。
真壁  (黙つてその視線を避ける)

長い沈黙。

よね  もう、わしどめにや用はありまツせんな。
真壁  ああ、もう別にない。やすんでくれ。
よね  そんなら、おやすみなはりまツせ。

よね、出で去る。

三谷  (妻に)僕達も引上げようか。
真壁  あ、君達は、迷惑でなけれや、もう少し、話してつてくれないか。実は、奥さんに是非聴いて貰ひたいことがあるんだ。
三谷夫人  どんなことでせう。伺ひますわ。
真壁  なに、大したことぢやないんです。僕は今迄、自分のしようと思ふことを、人に相談したことなんかは一度もないんですがね。今度だけは、どうしても決心がつかずにゐるんですよ。おさと、お前は、一寸下へ行つてろ。

さと、三谷夫婦に会釈して出で去る。

三谷  今時分下へ行つたつて、君、ゐるところなんかあるのかい。
真壁  あいつあ、何処にゐたつてかまやしないんだよ。どうせ、下がうちみたいなもんなんだ。それはさうと、奥さん、あの女をどう思ひます。
三谷夫人  どうつて……。ほんとに、おやさしい方ですわ。
真壁  奥さんなんかから御覧になると、僕たちの関係は、さぞ不純なもののやうにお考へになるでせうが、そのために、あの女を軽蔑しないでやつて下さい。
三谷夫人  軽蔑だなんて、そんな……。でも、いろいろ伺つてみると、あの方もこれから、大変ですわね。
真壁  もう、そんなお話をしましたか。
三谷夫人  いいえ、詳しいことは、なんにもおつしやらないんですけれど、ただ、あたくしが、お察ししてるだけですわ。
真壁  僕は、あの女に対して、するだけのことはしたつもりでゐるんです。ところが、いざ国へ返すといふ所になつて、大きな不安を感じ出した。と云ふのは、あの女が、国へ帰ることを、それほど悦んでゐないといふことと、もう一つは、その理由が、至極有力な理由だといふことなんです。
三谷夫人  さうおつしやれば、さういふところも、おありになるやうですわね。
真壁  さうでせう。それについて、あなたに何か云つてましたか。
三谷夫人  いいえ、はつきりしたことは、さうおつしやいませんけれど、なんだか、御自分でも、不安なやうなお口裏でしたわ。
真壁  僕は、それで、よつぽど、計画を変へさせようかと思つてみたんですが、どうもそれが云ひ出せない。可笑しな話ですが、あいつの顔を見ると、ついまよつてしまふんです。
三谷夫人  でも、お国へお帰りにならないとすると、ほかに、いらつしやるところでもおありになるんですの。
真壁  ありやしません。まあ、此処にゐて、どつかへからだを落ちつけるより、しかたがないでせう。
三谷夫人  でも、此処ではねえ……。
真壁  そんなら、何処へ行つても同じことですよ。この土地なら、顔馴染もあるし、また以前のやうな生活に落ち込む前に、誰か世話をするものがあるだらうといふ気がするんです。本人も、それを望んでゐるんぢやないかと思ふんですよ。仏蘭西人の妾になつて、一生楽な暮しをしてゐる日本の女が随分ありますからね。
三谷夫人  まあ、あなたまで、そんなことを……。
真壁  ほかの女ぢやありませんよ。ああいふ前身の女ですよ。
三谷夫人  それぢや、折角、あなたがこれまでにしてお上げになつたことが、なんにもなりませんわ。
真壁  奥さん、僕を買ひ被らないで下さい。あの女が何んと云つたか知りませんが、僕は、自分のリベラルな行為を反省して、今更それを責める気持は毛頭ありませんし、あの女の将来についても、徹底的に考へてみる勇気はないんです。ただ、自分の眼の前で、あの女が、これから歩いて行く方向を決めようとしてゐる場合、僕の意思がそこに働くことを非常に恐れてゐるといふだけなんです。もう少し穿つて云へば、僕といふ人間の存在が、あの女の運命を決定することになると大変だと思ふだけなんです。白状しますが、かういふ気持は、僕が今迄経験したことのない気持です。
三谷夫人  男の方つて、割合に、さういふことは無頓著なものですわ。
真壁  かうして、もう船まで決めてある。明日はその船が出ようとしてゐる。それに、あの女は迷つてゐます。僕も、それを、発つなとは云へずにゐる。もともと、国へ帰るといふことは、それこそ、あたり前のことのやうに思つて、決めた問題なんです。僕が此処を引上げる。あの女とこれ以上一緒にゐるわけに行かない。差し当りあいつの行くところがない。旅費さへあれば、国へ帰るだらう。で、いくらか金をやるといふ話をしたんです。
三谷夫人  それが一番自然ですわ。
真壁  ところが、今になつて考へてみると、あの女の手に、二千円といふ金がはひつた。その金があれば、おやぢのところへなんか帰らなくつても、当分、一人で暮して行くことができる。それなら、日本よりも此処の方が、あの女にとつては住みいいに違ひない。金がなくなつても、慌てる必要はない。そんなら、何んのために、明日、この土地を離れるのだ、さういふ疑問が起つて来たんですよ。
三谷夫人  でも、それは、あんまり実際的すぎるやうに思ひますわ。そのお考へは……。
真壁  実際的……。さうでせう。僕も、これくらゐ実際的な考へ方はないと思つてゐます。しかし、その実際的といふことが、僕を一番誘惑するんです。それにですよ、それほど僕の気持は動いてゐながら、その考へを、はつきりあの女に伝へるといふことが、何んだか、してはならないことのやうに思へる。それについて、昨日からいろいろ自己解剖をやつてみてるんですが、かういふことも、一つの理由だらうと思ふ。――それは、恐らく、三十の声を聞いて以来、絶えて音沙汰のなかつた僕のロマンチズムが、久々で、しかも最後の別れを告げに来たんだと思つてゐるんです。三谷君、まあ、笑はずに聴いてくれ。――僕は、あの女を、一度は、ほんたうに救ひ出してやりたい、いや、少くとも、救ひ出したといふ気持になつてみたい――さうぢやないかと思ふんだ。
三谷  それやさうだらう。君だつて、さう平気で別れられるとは思はないよ。
真壁  いや、それとこれとは違ふんだ。うるさいだらうが、もう一度云ふよ。あの女が国へ帰るといふことは、ただ、おやぢの手へ戻るといふことにはならない。それはどうせ無駄かも知れないが、一度は、普通の女になるといふことだ。
三谷夫人  さういふことがわかつていらつしやるんでせう。
真壁  待つて下さい。少し上気のぼせてるとみえて、さつきから、なんだか下らないことを云ひ過ぎたやうですが、僕が奥さんにお願ひしたいのは、実は、かういふことなんです。――あの女が、若しこの土地にゐるやうになつたら、なにくれと、相談相手になつてやつて下さいませんか。ここの婆が、何れ、いろんな世話を焼くだらうと思ひますが、ああいふ種類の女ですから、いよいよ駄目となつたら、また御承知の八号へでもころがり込むだらうと思ふんです。これだけは、僕も、やり切れない。非常に勝手なお願ひですけれど、さういふ場合には、一つ、女中にでも使つてやつて下さい。
三谷夫人  …………。
真壁  あなたが、若し、それを承知して下されば、僕の決心はもうきまるんです。あの女は、明日の朝までに、きつと発ちたくないといふ意志をほのめかすでせう。さうしたら、僕は、それに賛成してやります。決して、責任をもつていただかうとは思ひませんよ。ただ、あの女に最後の足場を与へてやつて下さい。
三谷夫人  それやもう、あたくしどもで出来ますことならなんでもいたしますわ。でも、ほんたうに、その方がよろしいんですか知ら……。(三谷に)ねえ、あなた……。
三谷  それは、われわれが喙を容れるべき筋ぢやないさ。しかし、実際問題として、さういふ場合、あのひとの方から、こつちへ相談に来てくれなくちや困るなあ、僕たちとしても、あんまり立ち入つた真似はできないから……。
真壁  うん、それや、勿論、さうさせる。――ですがねえ、奥さん、さつきから、あなたのお顔を見てると、なにか知ら、僕の後暗いところを責めてをられるやうに思へるんですが……。
三谷夫人  (笑ひながら)後暗いところなんか、おありになるんですの。
真壁  後暗いと云ひますか。卑怯な態度と云ひますか。
三谷夫人  (やや皮肉に)よくそれがおわかりになりましたのね。
真壁  変なもんですね。僕の神経が、それほど鋭敏になつてゐるんですよ。
三谷  なんだい、はつきり云つてくれよ、二人とも……。
真壁  (しばらく考へた後)僕はね、あの女と結婚してもいいと思つてゐるんです。しかし、さうすると、あの女が可哀想ですよ。僕は、半年経たないうちに、あの女を棄ててしまふでせう。



一と同じ場面。――払暁
よねが籠に果物をつめてゐる。
とみは部屋を片づけてゐる。
土人のボーイが、二階から、トランク、柳行李などを持つて降りて来る。

よね  (柱時計を見た後、ボーイに)イレ・デジヤ・シ・ズウル。エン。デペエシユ・トア。

ボーイは急いで荷物を外に運び出す。さとが旅行の身支度を整へて、二階から降りて来る。

よね  まだ寝とらすとかい、ムツシユウ・真壁は……。
さと  ゆうとるけん、起こさんだつた。
よね  そツてちや、おまい、挨拶もせんでや。
さと  昨日ん朝、もうしてしもた。別れの盃までしたつばな。
よね  そるばツてん、昨夜ゆうべあるから、ここで寝てしもうなんのて、おまいも、よつぽど、呑気かね。おらあ、今朝、眼ん覚めつ時、そびあ、お前が寝とるもんだるけん、びつくりしたツばい。
さと  何時の間にだいろてしもたツた。余程よつぽどくたぶれとつたツばい。
よね  どつちしてん、ムツシユウ・真壁に黙つてつていふ法はなかろ。
さと  ううん、そぎやんぢやなかつなるばツてん。わしや、なんだいろ、あん人と話すとがおとろしかツだもね。
よね  そぎやん馬鹿んこつば云ふとる場合ぢやなかばい。なんがおとろしかもんか。そん上、あぎやん怪我までしとる人ぢやなツか。あれぎりなんにも云はでん出て行くなんてこたあ、そらあ、いくらなんてちやをかしかばい。
さと  まだ時間のあツとか知らん……。
よね  時間な充分あツたい。ゆつくり別ればして来るがよか。
さと  そんなら、もう一ぺん行たツ来るけん。

(二階に上る)
やすが楊子を使ひながら、奥から出て来る。

やす  おさとさんな……?
よね  あんも妙なね。昨夜ゆうべからムツシユウのそばにや寄ツつきもせえでんをつて、今朝んなつても、なんにも云はでん、発つなんて云ひ出すとばい。
やす  どういふんだいろ、わしにやわからん。喧嘩でんしたツぢやなかツだろかい。
よね  そぎやんした風も見えんばツてん……。何か云はるツとんおとろしかつだろばツてん、今更、なんも、そぎやんびくびくするこたあなかぢやなツか。
やす  国に戻るていふこたあ、どつちしてん、自分一人で決めたツだろな。ムツシユウが、発つなとでん云ふとぢやなかツかな?
よね  そるが、おれんもわからんとたい。いくら訊いても、はつきりしたこたあ云はんし、昨夜ゆんべでん、おらあ、もう面倒臭うなつたけん、どぎやんでん、よかごつするがよかて、そぎやん云うてやつたたい。ムツシユウは此処にをつたらどぎやんかとまで云ふとツと。自分も、ほんたうは、そぎやんしゆうごたツと。そんなら、なんも云ふこたあなかぢやなツか。そるば、どうしてん、発たずにやをられんて云ふととだるけん、こんくりやあわけんわからん話てあるもんぢやなかと。
やす  一ぺん国にも戻つて見たかていふだけたい、きつて……。そん内、ふらつとあ戻つてくるけん……。

この時、食堂の入口から、寝ぼけ面をした鵜瀞が、のそのそ出て来る。

やす  あ、魂消たんぐわつた。
よね  なんちうこつな、ムツシユウ・鵜瀞……あんた、そぎやんとこれ寝とツたつな、昨夜ゆうべから……。
鵜瀞  知らぱくれるなあ、よさうぜ。人を、いい加減に扱いやがつて……。
よね  平生いつも心掛んわるかけんたい。そんなら、昨夜ゆんべん騒ぎも知らんだろが。
鵜瀞  おれが何かしたのか。
やす  あんたがムツシユウ・真壁に怪我させたツたい。
鵜瀞  何時……?
よね  さ、もうそろそろ出掛けんば……。
鵜瀞  やつぱり今朝発つのかい、おさとは……。
よね  どうしてん発つていふけん、さうさせんばしよんなかつたあ……。あんたも船まで送つて行つてやらんかな。
鵜瀞  送つてくよ。それや……、しかし、大将はどうしてるんだい。
やす  頭に繃帯ばして寝とツたい。
鵜瀞  ほんとか、それや……。
やす  見て来ツとよか、部屋に行たツ……。
鵜瀞  (何かを思ひ出すやうに、ぢつと考へ込む)

やすは食堂の方へ出て行く。

よね  ほんなこたあ、昨夜ゆんべロオラさんが来て、ムツシユウ・真壁ばピストルでうつたツたい。
鵜瀞  (ぢつとよねの顔を見つめてゐる)
よね  わしどんまでコンミツセエルに調べられたり大騒ぎをしたつばな。
鵜瀞  (相変らず目を見据ゑながら)それで……?
よね  後で見舞みめえに行かんばうなからう。なん、傷あなんでんなかごたるばツてん。
鵜瀞  おれや知らんよ、そんなこたあ……。おい、めしを食はしてくれ。
よね  ボーイにそぎやん云ふて、何なツとて来なつせ、もう時間のなかツだるけん。
鵜瀞  (欠伸をしながら食堂の方に去る)

さとが、二階から、途方にくれたやうな顔をして、一歩一歩躊ひながら降りてくる。
よねは籠に果物を詰め終ると、何かを取りに奥の方へ行く。――さとが降りて来たのに気が付かない。
さとは階段を降りきると、土間の椅子にぐつたりと倚りかかり、頬杖を突いてぼんやり考へ込む。
長い間。
地の底から湧くやうな汽笛の響。
やがてよねが現はれる。

よね  もうよかつかい……?
さと  (黙つて点く)
よね  ムツシユウ・真壁は見送つてらツさんとかい。
さと  (黙つて点く)
よね  そるばツてん、門口位までや、見送つてらしたてちやよかりさうなもんね。もう起きとらすとだろもん。
さと  (首を振る)
よね  おまやあ、本なこて、挨拶ばして来たつかい。
さと  そツてちや、けても起きらんとだもね。二へんも三べんもうだつなるばツ、そツでん目ば覚さんと……。ゆさぶろと思うて手ばあたりや、部屋んなきやでゴトンて音んしたツ……なんもをりやせんとなるばツてん、わしや、ひよくつと、からだ一ぴやヅンとして、どぎやんすることも出来でけんだツたツ……。もう一ぺんうでみうと思つてちや、声ん出んだツたツ。寝台のそびあ立つたまま、あん人んとるつらばぢつと見とツたツた。そしたりや、ひよくつと布団ば被つてしもたツだもね。わしがをるとば知つとツとだいろ、知らんとだいろ……つんツとツとだいろ、つん眠ツとらんとだいろ、そらあわからんだつたツなるばツてん……。わしや、もうこツでかて思ふたツた。そツで、胸ん中で、さいならて云ふて、こぎやんして降りて来たツた。そるけん、もうなんも云はでんたせツくれな。
よね  おまいそぎやん云ふなら、そツでかこてしとこう。こんかげにや果物くだもんと菓子ばちつとばつかり入れといたばい。そるから、もう忘れもんななかろね。
さと  なか。

やすが、メリンスの兵児帯を締めながら奥から現はれる。

よね  早うせんぎりやおくるツぞ。
やす  わしやもうよかツばな。
よね  (大きな声で)おとみ……。早うせんぎりや遅るツぞ。

とみが外出の用意をして奥から出て来る。

とみ  わしや何ば持つと? あ、こるば持つてく。(さう云ひながら土間に下りて果物の籠を提げる。)

其処へ、鵜瀞が又顔を出す。

よね  ムツシユウ・鵜瀞、早うせんぎりや遅るるばな。
鵜瀞  おれは行くのは止めとかう。腹が減つて動けん。(さう云ひながら畳の上にごろりと寝ころがる)おさとさん、おれは此処で勘弁してくれ。
さと  …………。
よね  さ、そぎやんこた云はでん、ムツシユウ・鵜瀞……。
やす  こぎやん人間に見送つて貰はん方がよかばい、おさとさん。
さと  そんなら達者たつしやうしとんなツせ。
鵜瀞  ああ、あんたも御機嫌よう。

よねを先頭に、さと、やす、とみの順に外へ出る。
長い間。
やがて二階から島内が寝間著のまま降りて来る、あたりを見廻す。

島内  (鵜瀞に)もう発つたんですか。
鵜瀞  ああ。
島内  そいつはしまつた。(かう云つて、しばらく躊躇してゐるが、そのまま二階に上つて行く)

長い間。
三谷夫人が二階から降りてくる。時計を見る。

三谷夫人  (鵜瀞に)もう発ちましたんでせうか、あのひと……。
鵜瀞  (起き直り)ええ、たつた今……。
三谷夫人  さうでしたか。(かう云つて稍※(二の字点、1-2-22)途方にくれたやうに、窓の外を見てゐるが、これも、その儘二階に上つてしまふ。)

鵜瀞は再び仰向けに寝ころがる。
長い間。
やがて、ピジヤマを著た真壁の姿が、階段の途中に現はれる。ぢつと下を見下してゐる。が、それは、さとがいよいよ出発したといふことを見とどけるよりほか何の目的もないらしい。静かに踵を回らして自分の部屋に帰つて行く。

――幕――





底本:「岸田國士全集4」岩波書店
   1990(平成2)年9月10日発行
底本の親本:「牛山ホテル」第一書房
   1929(昭和4)年11月25日発行
初出:「中央公論 第四十四年第一号」
   1929(昭和4)年1月1日発行
入力:kompass
校正:門田裕志
2012年2月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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