桔梗の別れ

岸田國士





ある高原の避暑地。落葉松からまつの森を背にしたテニスコートのかたはら。日が落ちて、橙色の雲の一塊が、雪をいたゞいた遠い峰を覆つてゐる。今テニスを終つたばかりの四人、そのうちの女二人は境笛子と母の杉江である。そして、二人の青年は、金津朔郎と酒巻深である。

酒巻  明日はかたきを打ちませうね。笛子ふえこさん。
笛子  明日は組を変へるんだわ。
杉江  母さんと組まなくつちや駄目だよ。
金津  小母さんに睨まれてると、うつかりしたことはできないからなあ。
杉江  また雷が来さうね。昨夜はなんてひどかつたんでせう。
酒巻  でいよいよ、明後日お帰りですか。
杉江  ひとまづね。だつて、パパ一人を、あんまり淋しい目にあはせることできませんもの、ねえ笛子……。
笛子  パパが――こつちへいらつしやればいゝんだわ。
杉江  それがおできになれないんだから仕方がないさ。
酒巻  鎌倉にだつてコートはあるでせう。
笛子  どうせホテルなんだから、あつてよ。
杉江  あなた方もあつちへおいでなさいな。
金津  ひとつ、おやぢに談判してやらう。
酒巻  僕んとこは、お袋が海は嫌ひなんだから、駄目だ。



その避暑地を通つてゐる軽便鉄道の停車場。プラツトフオームのベンチ。

杉江  こんな不便なところでも、慣れちまふと、もつとゐたいやうな気がするね。
笛子  えゝ。それにひとつはお友達ができたからよ。
杉江  あたしたちのテニスのお相手には、ちよつとお気の毒だつた。でも、毎日、よく厭きずに来て下すつたね。
笛子  ほんとよ。いゝ方たちね。東京へ帰つたら遊びに行つてもいゝかつて云つてらしつたわ。
杉江  パパがさういふことをなんておつしやるか……。
笛子  避暑地なんかで、若い男と親しくなつちやいけないつておつしやつたわね、あたしたち、もう、親しくなつちやつたか知ら……?
杉江  それやまた意味が違ふさ。あの人たちは、別にお前にどうかうつていふわけぢやないんだから……。
笛子  さう? でも、わからないわよ。
杉江  母さんにはわかつてるんですよ。お前はまだ、そんなこと考へなくつたつていゝんです。
笛子  だつて、考へちやふわ。金津かなつさんたら、昨夜、あたしにかういふのよ――「僕は、笛さんのやうな妹が欲しいなあ」つて……。
杉江  何時さ。
笛子  ヴエランダで涼んでる時……母さまがボンボンを取りに部屋へお帰りになつたでせう。あの間によ……。さうしたら、酒巻さかまきさんが負けずにかう云つたわ。――「笛子さんが君の妹だつたら、僕がお嫁さんに貰つてやる」つて……。
杉江  馬鹿だねえ、あの人は……。

そこへ、金津と酒巻が現はれる。

金津  遅れたかと思つた。
酒巻  この先生が髭なんか剃つてるからですよ。
杉江  わざわざ見送りに来て下すつたの、もう昨夜、「さよなら」をしたんぢやありませんか。
金津  あれから、二人で相談したんです、追分で乗替へでせう。あそこまで御一緒にお伴します。どうせ遊んでるんですから……。
杉江  まあ……。
笛子  そんなことなすつたら、きりがないわ。
酒巻  いゝえ、あれから先へは行きません。それも二人で約束したんです。そいぢや。僕が荷物を持ちませう。
金津  おい汽車が来てからで大丈夫だよ。



軽便鉄道二等車の中。客は四人きりである。沿道にはもう秋草が乱れ咲き、晴れた八月の朝日が、谷間の靄を吸ひ上げてゐる。

金津  おい酒巻、眠るのはよせ。
酒巻  眠つてやしない。いゝ気持なんだ。
笛子  ほんとに、のろいね、この汽車は……。
杉江  浅間があんなところへ顔を出したよ。ねえ、笛子……。
笛子  知つてゝよ。さつきから煙が見えてたわ。この辺は随分花が多いのね。人が居ないからでせう。あたし、ほしいわ。あの桔梗ききやう……。
酒巻  追分で、僕が取つて来てあげますよ。
金津  なんだ、眠つてたんぢやないのか。



追分の乗換駅――線路の片側に形ばかりの停車場と、農家が二三軒。その反対側は深い谿谷。何所かで滝の音がする。鶯も啼いてゐる。
乗換のため軽便を降りた客は、笛子の一行四人のほか、僅か四五人である。

杉江  十分間ぢや、滝を見に行くこともできませんね。
金津  僕たちの足なら大丈夫なんだがなあ、おい、何所へ行くんだ、おい、酒巻……。桔梗を取りに行くのか。よし、僕も一緒に行くよ。
酒巻  (もう谷を下りはじめながら)この辺にはないやうだぞ。
金津  (酒巻の後を追ひ)ない筈はないな。それぢや、僕は右の方へ行くから、君は左の方を探せ。
酒巻  左の方……? だつて、向うは、岩山ぢやないか。よし、そんなら、僕は真直に降りてつてみよう。余計取つた方が勝ちだぞ。

二人の姿が見えなくなる。

笛子  なんでも競争よ。あの人たちは……。
杉江  男つていふものは、昔からさうさ。
笛子  でも、あの人たちは特別よ。だつて、いやなことなら、大抵は人に押しつけ合ふのが普通でせう。それに、あの人たちつたら、さうぢやないの。なんでも自分でしたがるの。人にされちや負けたやうな気がするんでせう。何時かだつてさうだわ、あたしが、ラケツトを間違へて母さまのを持つて来ちまつたら、二人で喧嘩しながら取りに行くのよ。
杉江  あたしが頭痛がするつてやすんでた日かい。
笛子  えゝ、さうよ。それから、まだあるわ。あの日、テニスの帰りに、アイスクリームを飲んだのよ。さうしたら、はじめ金津さんがお金を払はうとしたの。すると酒巻さんが、「いゝよ、いゝよ」つて金津さんの手を押へてゐるの。さうして片方の手でポケツトを探すんだけれど、なかなかお金がみつからないんでせう。金津さんが、面倒臭がつてとうとうお金を出してしまつたのよ。すると、酒巻さんが「よし、そんなら、もう三杯もつてこい」つて云ふの、あたし一杯で沢山でせう。そんなに飲めやしないわ。金津さんも、お腹をこはしてゐるから、もういらないつて云ふの。さうしたら酒巻さん、その三杯のアイスクリームを一人で続けざまに飲み込んぢまつて、「さ、今の分をこれで取つてくれ」つて、自分のお金を出したわよ。
杉江  そんな事つて、ないね。
笛子  えゝないわ。
杉江  おや、あれ、金津さんの声ぢやないかい。行つて見て御覧。
笛子  (谷の降り口へ行く)どこよ。金津さん。
金津の声  こゝですよオ……。見えませんか。
笛子  見えないわ。
金津の声  これ、これ……四本みつけましたよ。
笛子  ありがたうオ……。(杉江に)随分遠くへ行つたらしいわ。草叢くさむらの中から声だけしきや聞えないの。あら、どつかでまた、酒巻さんの声がしてるわ。
酒巻の声  笛子さん……。
笛子  なあに……(起つて行つて、声のする方を見る)
酒巻の声  見えますか。こゝ、こゝ……。
笛子  見えないわ。
酒巻の声  素敵なやつを三本取りましたよオ。
笛子  たつた三本……?
酒巻の声  三本ぢや駄目ですかア……。
笛子  駄目よオ……三本ぽつち……。

長い沈黙

杉江  いゝ加減に赦しておあげよ。可哀さうに……。
笛子  だつて、三本ぢや、酒巻さんの方が負けよ。
杉江  どつちが負けたつて、お前のせゐぢやないよ。
笛子  だつて負ければ口惜しがるわ。
杉江  そんなことしてるうちに、もう汽車が来やしないかい。
笛子  音が聞えたら帰つて来るでせう。この辺の桔梗は、とても素敵な色ね。東京にないわ。あんなの。
杉江  どうせ途中でしをれちまふよ。
笛子  いゝわ。途中だけでも……。一時間でも長く山の気分を味つた方が……
杉江  そんなに山が気に入つたの。
笛子  萎れたら、そのまゝ持つて帰つて押花にするわ。
杉江  珍らしいことをいふね。
笛子  どうして……。二人で下すつたのを一輪づつおんなじ本に挿んどいてあげるわ。
杉江  やれやれ。そんなことを誰の前でも云ふもんぢやありませんよ。
金津の声  笛子さん……。
笛子  (またそつちに行き)え?
金津の声  うんとあるとこを見つけましたよ。やあ、大変、大変……。
酒巻の声  笛子さん……。
笛子  なによオ……。
酒巻の声  もう六本になりましたよ。
笛子  六本ぢや駄目よ。
酒巻の声  そんなこと云つたつて弱るなあ。崖がとても急なんだから……。
笛子  おつこちないやうになさいね。
酒巻の声  金津は何所にゐます。おオい、金津……。

返辞がない。長い沈黙。
軽便の近づいて来る音。やがて、列車がプラツトフオームにはひる。

杉江  どうしたんだらうね。あの人たちは、……。とにかく乗らなくつちや……。
笛子  酒巻さん……。汽車が来たわよ。
杉江  さ、早くお乗り……。
笛子  金津さん……。もう、よくつてよ。
杉江  聞えやしないよ。そんなこと云つたつて……。さ、もういゝから……。

二人は、客車に乗り込む。
窓から顔を出して男たちの帰つて来るのを待つが、なかなか姿を現はさない。
発車の笛。軽便は静かに動き出す。
その時金津が、両手に大きな桔梗の花束を抱へ息を切らして谷を上つて来る。が、もう遅い。
軽便は、最後の客車の輪廓をはるかにトンネルの口にのぞかせて、今、彼の眼から消えさらうとしてゐる。

金津  (プラツトフオームに立ち、花束を高く差し上げて、声をかぎりに)笛子さアん……。

彼は軽便がトンネルの中に隠れるのを待つて両手をぐつたりとおろす。
それと同時に、清々すが/\しい紫の束が、プラツトフオームの小砂利の上に崩れ落ちた。
酒巻は、何時までたつても上つて来ない。



再び軽便の二等車の中。
笛子と杉江が並んで腰かけてゐる。
軽便はいま下り勾配にかゝつてゐる。赤松の林をすかすと、山麓の平野が眼の前にひろがつてゐる。

杉江  ほかのものと違つて、桔梗の花ばかりは送つて貰ふわけにも行かないしね。
笛子  まあ、どうするか見てませうよ、あの人たち……。ほんとに、あんまり頑張るからよ。あら、もうあの鉄橋のとこへ来たわ。
杉江  首を出すと危いよ。
笛子  綺麗な水ね。おや、あれ、桔梗の花よ……誰か取つて捨てたんだわ。五六本ひと塊りになつて流れて来るわ……
 勿体ないわね……。
杉江  (ギヨツとして)笛子、さ、そんなものを見ないで、ここへおいで……。
笛子  母さま、どうなすつたの? そんな恐い顔をして……

――(幕)





底本:「岸田國士全集4」岩波書店
   1990(平成2)年9月10日発行
底本の親本:「令女界 第九巻第八号」
   1930(昭和5)年8月1日
初出:「令女界 第九巻第八号」
   1930(昭和5)年8月1日
入力:kompass
校正:門田裕志
2012年2月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード