感化院の太鼓(二場)

岸田國士




麦太郎
繭子
海老子夫人
女事務員
葱沢院長
袖原さん
其他無言の人物
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第一場


 公園の一隅――杉の木立を透して黒板塀が続いて見え、梅雨晴れの空に赤瓦が光つてゐる。
 小径を前にして朽ちかけたベンチが一つ、サイダアの空瓶や新聞紙の丸めたのや蹈みつけられた折などがあたりに散らかつてゐる。
 繭子を先頭に、麦太郎、海老子夫人が現はれる。繭子は水色のパラソルをさした二十三四歳の未婚者。麦太郎は金釦の制服に帽子だけ鳥打といふ怪しげないでたち、おまけに勿体らしく細身のステツキをついてゐるが、その手つきはまだ十三四の初々しさである。海老子夫人は、紋附の黒の夏羽織、傘はささずに、扇子をつかつてゐる四十四五の近代母性型、黙つてゐる時、上唇で鼻の孔を塞ぐ癖がある。

海老子  繭ちやんつたら、そんなに早く歩くと、母さんはついて行けないよ。
繭子  だつて、麦ちやんが、うしろから背中をつつくのよ。
麦太郎  (前に差出したステツキを引つ込めて)また、おれのせゐにしやがる。
海老子  今日だけ大人しくしてゐておくれね、麦ちやん……。さ、ここでしばらく休んで行かう。かう息が切れてゐては、院長さんとお話もできやしない。(ハンケチを敷いてベンチに腰をおろす)
繭子  汚れてやしなくつて……(母のする通りにする)
麦太郎  (二人が腰かけるのを見すまし)おれは逃げると……(かう云ひながら、一目散に走り出す)
海老子┐
   ├ (同時に顔を見合せ、同時に起ち上り絶望的に、)麦ちやん!
繭子 ┘
麦太郎  (五六歩、走り出したと思ふと、すぐ戻つて来て)……なんて……。
海老子  (麦太郎の腕を捕へ)喫驚させちや、いや……昨夜あんなに約束したでせう。母さんは決してお前の為めにならない事はしないからつて……。院長さんにもよくお話をして置いたんだからね。感化院つていふと人聞きは悪いけれど、あそこはほかと違つて、決して窮屈な教育法はないんだつて、さう云つたでせう……そこんところは、今までの中学なんかより余つぽど自由なんだよ。絵の好きなものには絵ばかり習はせるし、体操の好きなものには体操ばかりさせるんだしね。お前のやうになんにもしたがらない子には、なんにもさせずに置いて下さるだらう。
麦太郎  嘘つけい。
海老子  ほんとさ。そのうちにだんだんしたいこと、好きなことができて来るやうに教育して下さるんだもの。ねえ、繭ちやん。
繭子  ええ、さうよ。あたしもさういふ学校へ行けばよかつたわ。さうしたら今頃、こんなになつてやしないわ。毎日朝起きると、今日はなにをしようか知らなんて考へないで済むんだわ。
麦太郎  おれやそんなこと考へねえや。
海老子  だからさ、お前はそれでいいんだよ。ただ、自分で何がしたいのか知らずにゐるだけさ。お前のすることは、何一つとして、好きでしてることぢやない。さうだらう。人の迷惑になることなんか、誰が好きでするものか。
麦太郎  さうとも限らねえ。
繭子  駄目よ、母さんがなんて云つたつて……。
麦太郎  (ステツキを振り上げ)生意気云ふか。
繭子  (ふいと立ち上り)姉さんは、今日、何んのためについて来てあげたと思つて?
麦太郎  わかつてるぢやねえか。
海老子  麦ちやん、後生だからこんなところへ来てまで乱暴をしないでね。姉さんはこれで一番お前の味方なんだよ、お前は知らないけれど……。母さんだつて、それや、お前が可愛いさ。お父さんがあんなにおつしやるのを、もうしばらくと云つて、手許へ置いたのもあたしだ。今度のことがあつてからだつて、あたしは、夜もろくろく眠らないでお前の行末を考へた。しかし、お前を見るあたしの眼には、まだ何処か不純なところがある。かうまでしてやつてゐるのに……さういふ気持がないとは云へない。殊に、お前を生んで今日まで育てて来たことを思ふと、つい、望んではならないことまで望みたくなる。さういふ時、姉さんがゐてくれないと困るんだよ。姉さんは、もつと公平な眼で、あたしとお前との間を見てゐてくれる。あたしがどうかしてお前の云つたりしたりすることを、実際以上に悪く取つて、ついそれを顔色に出したりなんかすると、いつでもあたしをたしなめてくれるんだよ。だから、今日は最後に院長さんにお前のことを、お話しする時、姉さんにそばで聴いてて貰はうと思ふの。あたしがついお前のことを悪く云ひ過ぎでもするといけないと思つてね。
麦太郎  それと、若しかして、途中でおれが逃げ出しでもしたら、一緒につかまへさせようと思つてね。
繭子  (笑ひながら)姉さんにつかまへられるなんて、意気地がないわ。
麦太郎  だから、どうしたい。
海老子  (ハラハラしながら)そんなこと、怒らなくつたつて……。
麦太郎  おれや、繭子なんて女は嫌ひだ。起きるから寝るまで結婚のことばつかり考へてやがつて、人が感化院にはひるつて云や、羨ましいやうな顔をして見せたり、そばで自分のことを褒められると、眼をつぶつて聴いてやがら……。
繭子  ぢやどうして聴いてればいいの。眼をあけてればいいの。
麦太郎  つぶつてるよりやましだ。
海老子  そんなこと、どつちだつていいぢやないか。さ、それより、麦ちやんどうなのさ、大人しくついて来るかい。ついて来るばかりぢやいけない。あそこで当分辛抱するかい。院長さんの前で、また駄々をこねられちや、母さんが困るからね。
麦太郎  院長つて、どんな奴か見てから決めらあ。また、うちのおやぢ見たいな奴なら御免だ。
海老子  うちのお父さんだつて、お前さへもつと大人しくしてゐれば……。
麦太郎  わかつた、わかつた。もうその話はよしてくれ。あの板塀で囲つてある中が感化院かい。なかなか広さうぢやないか。早く中が見たくなつた。動物園だと思や間違ひはないね。
繭子  あら、そんなもんぢやなくつてよ。いやな麦ちやんね。
海老子  とんでもない考へ違ひをしてるんだね。此の子は……。昨夜もさう云つたでせう、寝室や勉強部屋がちやんとあつて……運動場にはブランコやテニスコートもあるし、大きな池があつて、その池にはボートがあるし、草花が好きなものは花壇も作るし、小鳥と遊びたいものは小鳥も飼へるし……。
繭子  楽器だつて、みんな揃つてるつておつしやつたぢやないの。ピアノでも、なんでも……。おうちよりよつぽどいいわ。
麦太郎  てめえもはひれ。
繭子  女は駄目なんだつて。
麦太郎  女の感化院つて、ないのかい。
海老子  女が感化院にはひるやうぢや、おしまひだからね。
麦太郎  男はこれからと来てやがらあ。あんな塀ぐらゐ、飛び越えるなあ、わけはねえな。
海老子  そんなことでもして御覧、お前……。
麦太郎  うるせえな。いちいち……。云ふだけぐらゐ云はせとけよ。(ここで、何を思つたかズボンのカクシから細い針金の巻いたのを取り出し、その一端を道ばたの樹にやや高く結びつけ、もう一方の端を手にもち、ベンチの上に立つ)
海老子  なにをするの。
麦太郎  あの木の上に栗鼠がゐるんだ。かうして待つてると、栗鼠の奴が降りて来て、針金の綱渡りをやるから見てて御覧。
繭子  どこにゐるの。
麦太郎  あの枝の茂みにゐるぢやないか。声を立てると逃げちまふよ。

海老子夫人と繭子は一心に樹のてつぺんを見上げてゐる。すると、一方から、一組の男女が現はれる。男は買ひたての麦稈帽をかぶつた中年の紳士、女は丸髷に結つた芸者と判断すれば間違ひなく、人前を憚り、男が少し足を速めたところである。男は、煙草を出して火をつける。途端に、麦稈帽子が阿弥陀になつたと思ふと、勢よく後ろへ飛ぶ。麦太郎の悪戯が功を奏したのである。男は、あツと叫んで、頭へ手をやつたが、もう遅い。解し兼ねて、あたりを見廻す。

麦太郎  そこ通つちや駄目だよ。
海老子  (はじめて気がつき)失礼な、……。
繭子  麦ちやん。
海老子  (急いで帽子を拾ひ)ほんとに申訳ございません。只今、なんですか、あの樹の上に栗鼠がゐるとかつて申しましてね……。その栗鼠に、針金の綱渡りをさせようとしてゐたところなんでございますよ。なに、いつでも、そんなことをして遊んでゐるもんでございますから、つい気にもとめずに……ほんとに、母親がついてをりまして、なんとも申上げやうがございません。

男は、帽子を受け取ると、につともせずに、それをかぶつて去る。やがて、女の「なんとか云つておやんなさいよ」といふ声だけが聞える。

海老子  麦ちやん、どうしてお前はさう、母さんに苦労ばかりさせるの。
繭子  栗鼠なんてうそでせう。
麦太郎  (にやにや笑つてゐる)
繭子  (思ひ出したやうに笑ひこける)
海老子  笑ひごとぢやないよ。(さう云ひながら、これも笑ひを噛み殺して)あの人、でも、おとなしい人だつたからいいやうなもんだけれど、若しかほんとに食つてかかつて来られたらどうするつもりなの。もう子供だからぢやすまされないよ。母さんは、お前のしたことを、みんなに謝まりに生まれて来たやうなもんだ。
麦太郎  おれの方が後で生れたんだぜ。
海老子  だからさ、謝まるために、お前を生んだやうなもんだつて云ふのさ。
麦太郎  そいぢや、また、話が違はあ。
海老子  (情けなさうに)お前は、物事に懲りるつていふことがないんだね。
麦太郎  泣くなあ、見つともねえから、よさうぜ。だから、もう、これでおしまひだよ。感化院へはひつたら、その代り、何をしたつていいんだらう。ううん、なんにもしなくつていいんだらう。(考へて)いけねえ、どつちだかわからなくなつちやつた。
繭子  麦ちやんは、ほんとは、人が好いのね。あたし、麦ちやんがどんなおいたをしても、顔を見てると、なんだか怒れなくなるのよ。
麦太郎  怒つたつて、怖かねえや。
繭子  ね、さういふところよ。
麦太郎  なにを、えらさうな。

此の時、感化院の方から、吹奏楽のマアチが聞えて来る。三人とも、しばらく無言のままその方に耳を傾ける。

海老子  (起ち上り)さ、行かう、あそこへ……。

――幕――
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第二場


前場の吹奏楽がまだ続いてゐる。
自然じねん学院と称する私立感化院の応接室。
海老子、麦太郎、繭子の三人が、女事務員に案内されてはひつて来る。

女事務員  どうぞしばらくお待ち下さいませ。院長先生がすぐお見えになりますから……。
海老子  恐れ入りました。
女事務員  あの、そちらへお掛け下さいまし。さうしてお立ちになつてらつしやいますと、あたくしがあとで叱られますから……。
海老子  (きよとんとして)さうですか。(腰をおろす)

女事務員は、繭子と麦太郎に椅子を薦め、会釈して出で去る。麦太郎は、すぐ起つて行つて窓から外を見る。

海老子  麦ちやん、帽子は……。
麦太郎  (すぐ脱がうとはしない。が、扉が開く音で、急に帽子へ手をやる)

葱沢院長、五十六歳の剽軽らしい老紳士。片眼に繃帯をしてゐる。

院長  や、お待たせしました。
海老子  たうとう連れて参りました。
院長  それはよかつた。一と通り案を立てて置きました。よくまたお話をした上で……。
海老子  はあ、どうぞ何分よろしく……。こちらは繭子と申しまして、麦太郎の姉でございます。
繭子  今度はまた弟が……。
院長  なに、心配なさらんでよろしい。御覧の通り、普通の学校です。家庭です。それと同時に倶楽部です。麦太郎君。そんな方を向いてないで、こつちへ来給へ。
麦太郎  (照れくささうに笑つてゐる)
海老子  お恥しいことでございますが、この年になつて、まだお辞儀といふものができないんでございます。
繭子  できないんぢやないわ、しないのよ。しないことにきめてるのよ。
院長  なにかわけがあるでせう。それに、わたしはお辞儀なんかして欲しくない。麦太郎君、君は学校の科目のうちで何が一番好きかね。
麦太郎  ……。
海老子  さあ、好きなものなんて、ございますか知ら……。
院長  一寸、黙つて……。え? なに?
麦太郎  まだなんにも云やしねえ。

長い間。
女事務員、茶を運んで来る。音楽止む。

院長  ぢや、麦太郎君との話はあとにして、何かまだ伺つとくことがあれば……。
海老子  はあ、それやもう、申し上げればきりがございません。何時ぞやお耳に入れましたことは、ほんの緒だけでございますから……。麦ちやん、お前もそこで聴いておいで。母さんが今から先生にお話しすることは、ただお前のためを思つてなんだからね。お前の今迄したことを、残らず先生に聴いていただいて、直すところは直していただくやうにしなけれやね。余計なことを云ふと思つて、母さんを恨んぢやいけないよ。それはさうと、先生、お眼をどうなさいました。
院長  これですか。これはね、うちの悪戯小僧が、先きへ縫針をつけた吹矢でもつてね、うまくねらひ撃ちをしたらしんですよ。
海老子  まあ、お危い……。
院長  いやはや、油断がなりませんよ。
海老子  それで、そのお子さんは、どうなさいました。
院長  どうもしません。相変らず吹矢を吹いて遊んでゐます。その代り、紙の的をこさへてやりました。
海老子  (感動して)麦ちやん伺つたかい。では、先程のお話でございますが、この前申し上げましたことを、また繰り返すやうになりましても、なんでございますから……。
繭子  母さん、それに、麦ちやんの前ぢや、やつぱり可哀さうだわ。
院長  いや、なに、別に細かいことは伺はなくつてもよろしい。大体承知をしてゐます。それでなんですか、今迄、御両親の手元から離れてをられたことはないのですな。
海老子  ございません。
院長  ない……。学校は何度失策じりましたか。
海老子  小学校で一度、中学で二度……。
麦太郎  三度だい。
海老子  さうだつたかね……。
院長  中学で三度……。その、なんとかいふ秘密団体は、君が大将だつたのかね。
繭子  副団長でせう。
院長  団長といふのは……? 中学の友達かね。
麦太郎  …………。
海老子  それが、先日申上げました通り、女の子なんでございますよ。まだ十九かそこいらの……。
院長  ああ、さうさう。その女の子と何処で知り合ひになりました。今度は自分で返事をし給へ。
麦太郎  …………。
海老子  お言葉でございますが、この子は、さういふお訊ねに、答へるなんてことは決してしないんでございますよ。どの学校の先生方も、これにはほとほと閉口していらつしやいましたし、先日、警察の方で調べがございました節も、この子だけは徹頭徹尾口を利かなかつたつて、それはそれは署長さんもお腹立ちの様子でございました。親の口から申すのも変でございますけれど、わたくしが訊ねますことだけには、それでも、不精無精返答を致しますんですの。尤も、おほかたは出鱈目らしうございますけれどね。追々お躾けを願ふことに致しまして、今日のところは、どんなに仰つしやつていただきましても、結局無駄だらうと思ひますんですが、如何なもんでございませう。先日も申し上げました通り、日頃これには、何一つ、不自由な目を見せたことはございませんのです。宅では決して贅沢な暮しを致してをりますわけぢやございませんけれど、子供だけには欲しいものを与へるやうにいたしてをりました。あんな大それたことをする仲間には、はひつてをりましたが、自分の懐へは一銭もいれなかつたらうと思ふんでございますよ。その代り、根性が曲つてゐるといふ点では、(麦太郎の方を見て)一寸類がございますまい。それと、たちのよくない悪戯を、平気で致しますこと、これはまた、先生、考へても恐ろしくなるほどでございます。
院長  それといふのが、何時かも申したやうに、自分で何がしたいのか知らずにをられるんです。決して好きでやつてをられるんぢやないです。
海老子  ほんとにさうでございませうね。ですから、どんな悪戯をしましても、(繭子の方をちらと見て)顔を見るとつい憎めなくなるんでございますよ。人がよろしいと申しますか、姉なんかと喧嘩をいたしましても、何処か手加減をするといふところが見えましてね、口でいふほど乱暴はいたしませんの。それはまた、この繭子と申しますが、いたつて弟思ひでございまして、自分がひどい目に遭はされてゐながら、相手をかばふつていふ風でございますからね。
繭子  あたしのことなんかおつしやらなくつてもいいわ。
海老子  それでも、お前さういふことからお話しなけれやわからないぢやないか、それで、なんでございます、この子に致しましても、もともと、かういふ性質ではございませんのですよ。小さい頃は、みなさんがお驚きになるほど発明な子でございましてね、誰も教へもいたしませんのに、百人一首なんか、そらで覚えてしまひまして……。
麦太郎  母さんの云ふことはそれだけかい。
海老子  え、ああ、これくらゐだよ。
麦太郎  そんなら、おれの方で、少し訊きたいことがあるんだ。訊いてもいいかい。
海老子  あたしにかい。
麦太郎  誰でもいい、返事のできるものが、返事をしてくれ。一体、良いとか悪いとかいふこた、誰が決めたんだい。どうして良いことつていや面白くなく、悪いつていふことだけが面白いんだい。
院長  それはね、麦君……。
麦太郎  麦君つて誰のことだい。
院長  ぢや、麦太郎君、それはね、良いとか悪いとかいふことは、人間がきめたんだ。大勢の人間が、長い間かかつて決めたんだ。それから、良いことが面白くないといふのは何時でもできるからだ。悪いことが面白いといふのはなかなかできないからだ。いいかね。ところが良いことの中にも、なかなかできない良いことがある。こいつは、どうして素敵に面白いもんだ。そいつをやりはじめると、悪いことなんか面白くなくなつて来る。どうして今迄あんなつまらないことを面白がつてやつてゐたかと思ふやうになる。
麦太郎  世の中には良いことと悪いことしかないのかい。
院長  うむ? そんなことはない。
麦太郎  おれや、勉強と運動はいやだよ。
院長  よし、よし、それでいい。
海老子  でも、先生……。
院長  いや、よろしい。

この時、一時止んでゐた吹奏楽が、また聞え出す。
女事務員がはひつて来る。

女事務員  先生、あちら、もうよろしいさうでございます。
院長  あ、さう、それぢや……。ええと、お母さんと、お姉さんは、しばらく此処でお待ちを願ひます。麦太郎君、さ、こつちへ来給へ。(起ち上る)
麦太郎  (一寸躊躇するが、にやにや笑ひながらついて行く)

院長と麦太郎が出で去つた後、女事務員は茶など汲み直す。

海老子  もうどうぞおかまひ下さいませんで……。
女事務員  こちらの院長さんとは御懇意なんでいらつしやいますか。
海老子  ええ、ある方の御紹介をいただいたもんですからね。でも、随分お骨が折れませうね。かういふお仕事は……。
女事務員  お好きでなけれや出来ないこつてすわ。あたくしなんか、かうしてをりましても、直接生徒さん方とはどうつていふ関係はないのですけれど、つくづく眼に余ることがございますのよ。かなり良いとこの坊つちやん方もいらつしやるんですけれどね、どういふもんですかね。ぢや、御免遊ばせ。(出で去る)
繭子  どこまでも事務員らしいわね。
海老子  云ふことがかい。
繭子  でも、よかつたわ。
海老子  よかつたね。あの調子なら大丈夫だらう。
繭子  なかなかお上手だわ。
海老子  馴れてらつしやるからね。でも、あたしや自分の云はうと思ふことばかり考へてたもんだから、誰がなんて云つたか、さつぱり覚えてゐないよ。自分でさへ、何をどう云つたか、夢中だつたもの。変なことを云やしなかつたかい。
繭子  おつしやつたわ。(間)それはさうと、麦ちやん、あれで相当考へてるのよ。
海老子  さうかね。考へててくれりやいいけれど……。
繭子  (耳を澄まし)「マンハツタンの浜辺」だわ。なかなかうまいぢやないの。
海老子  かういふところならまあ安心だね。でも、なんだか、胸がどきどきして来たよ。
繭子  あれで、あたしが結婚のことばかり考へてるなんてことがわかるのね。可笑しくなつちやつた。
海老子  こんなことがお前の縁談に障らなけれやいいけれど……。
繭子  障つたつていいわよ。あたしが考へてるのは、そんなことぢやないんだから……。(間)女の感化院つて、やつぱりあるんだわ。思ひ出したの、あたし……。板橋の方だつたわ、たしか……。
海老子  時々様子を見に来たつていいんだらうね。
繭子  なんなら、この近所へ引越して来てもいいわ。
海老子  お前からもお父さんにお願ひして見ておくれよ。お父さんは、麦ちやんがああなつたのを、あたしのせゐだと思つてらつしやるんだからね。お話がしにくくつて……。
繭子  第一がお父さんのせゐよ。その次ぎがお友達……その次ぎが……よさう。
海老子  あたしだつてお云ひなんだらう。それやもう、あたしにだつて責任はあるさ。お前からさう云はれれば、あたしはなんにも云へないさ。
繭子  あら、あたし、なにも、母さんを……。

音楽が何時の間にか極めてファンタスチックな調子に変り、しかも、それが、今迄よりずつと遠くに聞える。そして、だんだんかすれて行く。
この時、院長が現はれる。
院長の顔は、さつきよりも青ざめてゐて、なんとなく陰険らしくさへ見える……。

院長  さあ、これで形がつきました。受持の保姆は、袖原さんといふ、米国で児童心理の研究をした方で、理想的のお母さん役です。只今、御紹介します。それから、直接関係のある先生を一々お引合せして置きますから……

かう云ひ終らないうちに、ぞろぞろ、先生たちがはひつて来る。何れも極めて特色のある風貌を具へ、それが一見、この世の人物とは思はれないほどの奇怪千万な印象を与へなければならない。この印象を極めて効果的にするため、これらの人物はそれぞれ仮面を被つてゐてもいい。一同がはひり終るのを待つて――

院長  それではと、これが体育の砂森君……。
海老子  初めまして……。
院長  こちらが音楽の風間君……。
海老子  どうぞよろしく……。
院長  そちらにをられるのが、自然科学の岩成君……。
海老子  さやうでらつしやいますか……。
院長  その隣が、美術の広見君……。
海老子  お名前はかねて……。
院長  その左が衛生の水落医学士。……
海老子  衛生の……はあ、ほんとにまあ。……
院長  ほかにまだをられますが、丁度講義の最中だつたり、帰られた後だつたりして、今日は残念ながらお目にかかることができません。

少し前から、音楽が止み、その代り、太鼓の音のみが聞える。この時、一人遅れて、保姆の袖原さんが、襟をかき合せながらはひつて来る。これは、普通の女、但し、見たところ、自信と常識で冷たくなつたオールド・ミスである。

院長  あ。保姆の袖原さん……。こちらが今の生徒のお母さんとお姉さん……。
海老子  御覧の通りの……。
袖原  (遮ぎるやうに)坊つちやまはたしかにお預りいたしました。あたくしなんか、なんにも出来ませんけれど、院長先生のお指図を受けて、根限りお世話をいたして見ます。
海老子  御親切に、有がたうございます。なにしろ、あんな……。
袖原  いいえ、いいえ、あれ御覧遊ばせ……(耳をすます)あの太鼓は、坊つちやまですよ。もうすつかり、なじんでおしまひになりました。今、遊戯室へお連れすると、いきなり太鼓を見つけて、これ、敲いてもいいかつてお訊きになりますから、「ええ、ええ」つて申上げましたの。さうすると、よろこんで撥をお取りあげになるぢやございませんか。それを見て、あたくし、すつかり安心いたしました。ああいふ無邪気な方つてありませんわ。一寸、此処へ出て、御覧遊ばせ……。

海老子夫人と繭子は、戸口に立つ。

袖原  あそこです、あの窓から見えませう。

海老子夫人は、しばらくこれを見てゐるが、いきなり、両手で顔を覆ふ。それにつれて、繭子も、袂を眼にあてる。二人は、そのまま部屋の中に駈け込む。

海老子  (声をふるはせ)麦ちやんが太鼓を……。
繭子  (これも喉をつまらせ鸚鵡返しに)麦ちやんが太鼓を……。
海老子  (笑ひ、かつ泣きながら)太鼓を、……太鼓を……なんだつて、また、太鼓を……。

二人の泣笑ひに交つて、けたたましい太鼓の音が鳴り響く。無気味な顔が一斉に、その視線を二人の女の上に注いでゐる。

――幕――





底本:「岸田國士全集3」岩波書店
   1990(平成2)年5月8日発行
底本の親本:「牛山ホテル」第一書房
   1929(昭和4)年11月25日発行
初出:「新潮 第二十五年第九号」
   1928(昭和3)年9月1日発行
※複数行にかかる中括弧には、けい線素片をあてました。
入力:kompass
校正:門田裕志
2012年1月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード