空の赤きを見て

岸田國士




人物
周蔵
周一
兼子
美代
医師
宮下

東京の裏町――周蔵一家の住居
座敷に通ずる茶の間
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座敷は周蔵の病室になつてゐる。屏風の陰から時々、力のない咳が聞える。

兼子  (茶の間で火をおこしながら)又、お咳が出ますね。今すぐお薬をあげますから、独りでお起きになつちやいけませんよ。
周蔵  …………。
兼子  急ぐ時には、ほんとに困つちまふ、この炭は……。(かう云つて、座をたつ。奥にはひる。やがて、奥で)あら、お起きになつちやいけませんつて云つてるのに、いやね、お父さんは……。どうなすつたの……。そんなにお苦しいの。どら、そつと横におなりなさいね、さすつてあげますから……。そんなことなすつてらつしやると、旅行が駄目になりますわ。せつかくお医者さまのお許しが出たのに……。(間)え、そんなことあるもんですか。大丈夫ですわ。
周蔵  おれにはちやんとわかつとる。だが、お前たちに心配をかけてすまん。
兼子  そんなことありませんわ。ちやんと当てがあつて出掛けたんですから、ちつともそんな……。もうそろ/\帰つてらつしやる時分よ。さうすると、何時お発ちになるかきまるわけね。もうすつかりこつちは用意ができてるんですから、いざつて云へば何時でも切符を買ひに行くばかりですわ。(間)いゝわね、今ごろの汽車の旅は……。でもお疲れにならないか知ら……。何時間ですの、十時間ぐらゐ……?
周蔵  どうせ寝たきりなんだから、窓から外を見る事も出来ず、たゞ、ゴトゴトとゆられるだけが、旅と云へば旅さ。
兼子  ほんとにね。ですけれど、あつちへお着きになれば、こんなコセコセしたところでなく、広々した畑や森を見晴らせる、それこそ、別天地で、ゆつくり養生なされるんですから、どんなにいゝか知れませんわ。
周蔵  なに、養生しに行くんぢやない。どうせ死にに行くのさ。
兼子  また、そんな……。
周蔵  おれも、若い頃は、何か出来さうに思つて東京へ出て来たんだが、此の年になるまで、たうとう運が向かずにしまつた。葬式代一つ溜めず、おめおめ国へ帰つたところで、誰も好い顔をして迎へてくれはすまいが、それでも、このまゝお前たちの世話になつてゐるより、気は楽だ。
兼子  どうして、お父さんは、さうなんでせう。親が年を取つて、子供の世話になるのは当り前ですわ、あたし、何時でも周一さんにさう云つてるんですわ、お父さんは、なんだつて、あんなに気兼ねばかりなさるんだらうつて……。
周蔵  お前は感心な嫁だ。いや、ほんとだよ。お世辞にでもさう云つてくれるのはうれしい。おい、その障子を少し開けてくれ。
兼子  蠅がまた出て来ましたね。取りませうか。(蠅叩きで蠅を取る音)
周蔵  周一は、ほんとに金の出来る当てがあるのかい。
兼子  あるつて云つてましたわ。
周蔵  何処だ。
兼子  さあ、何処ですか……。それは聞いて見ませんでしたけれど……。
周蔵  遠方でゞもあるのか……。昨夜はたうとう帰らなかつたね。
兼子  えゝ。
周蔵  そんなに無理をしなくつたつていゝのに……。
兼子  …………。
周蔵  あの川はまだ釣りができるか知ら……。
兼子  今晩は何をこさへませう。
周蔵  天麩羅はどうかな。
兼子  そんな無理なことをおつしやつたつて……。まだお粥をあがつてるくせに、……。そいぢや、いゝお茄子がありますから、シギ焼をこさへませう。少しぐらゐなら、かまひませんわ、きつと……。あとでお医者さんに伺つて見ませうね。
周蔵  天麩羅が食ひたい。
兼子  今にね。今にあがれますわ。さ、もうお話はよしませう。またお咳がでるといけませんからね。こゝ開けといて寒かありません?
周蔵  …………。
兼子  少し閉めませうね。
周蔵  …………。
兼子  電気はまだ来ないのか知ら……。(かう云ひながら茶の間に現れる。鉄瓶に手をあてゝ見る。火をかき立てる。おくれ毛を気にしながら火を吹く)

表のあく音――

美代  (入り来る)只今……。
兼子  お帰んなさい、もう外は寒いくらゐでせう。
美代  そんなでもないわ。でも大概セルね。兄さんは……。
兼子  まだ……。
美代  (奥に眼をやり)眠てるの。
兼子  さあ、今までお話をしてたんだけど……。
美代  (奥をのぞき、低く)只今……。(返事がない)今日はどう。咳は……。
兼子  さつき、ちよつと……。でも、よつぽど納まつたやうだわ。
美代  いつも姉さん一人で……。悪いわね。
兼子  なに云ふの。あなたこそ、毎日、大変だわ。今日はうつかりしてゝ、まだお湯も沸かしてないの。
美代  いゝわよ。あたしが、今日はお勝手するわ。
兼子  そんなこと……。ぢや、手伝つて頂戴ね。兄さんはどうなのか知ら、今夜は……。
美代  変ね、何処まで行つたんでせう。ほんとに当てがあるのか知ら……。
兼子  お父さんもさう云つて心配してらつしたわ。
美代  心配するつて、自分が云ひ出したくせして……。
兼子  (奥に聞えたらと眼で制しながら)でも、それやね。
美代  兄さんも好い加減にしとけばいゝのに……。仕事まで休んで、また馬鹿な目を見るんぢやないこと……。
兼子  まあ、いろいろ考へてゐるでせう。
美代  兄さんの考へならわかつてるわ。子供の義務つて云ふんだわ。そのことで一生懸命なんだわ。
兼子  …………。
美代  親の云ふことをなんでも聴いてたら、自分達の生活が目茶苦茶になるつていふことが判らないのか知ら……。
兼子  それも程度問題ですけれどね。
美代  だからよ、程度問題よ。無理にお金をこしらへて、仕事を幾日も休んで、どうせ見込のない病人を、こつちからあつちへ運んで見たところで、なんにもならないぢやないの。病人は満足しても、健康な人間に不必要な犠牲を払はせることは、たしかに罪悪よ。病人は病人らしくしてゐてこそ同情もされるんだわ。いくら親だからつて、子供の迷惑も考へないで、我儘な要求をする権利はないわ。さういふ我儘を通させるのは、結局、下らないセンチメンタリズムよ。
兼子  さう一概に云つてしまつてもなんだけれど……。
美代  あたしは、もう精がないの。毎日八時間も働いて、それが誰のためにもならないと思ふと、全く精がないの。
兼子  誰のためにもならないことはないわ。
美代  ぢや、そのつもりで、御飯の仕度をしませう。あたし、おなかが空いて来たわ。
兼子  御免なさいね、今日は、ほんとに手廻しがわるくつて……。(急いで起ち上り、台所に行く)
美代  (その後に続く)

(座敷で周蔵の咳が聞える。美代がはひつて行く)

美代  お眼ざめになつて……。
周蔵  …………。
美代  そんなに手をお出しになつちや、寒いわ。どうなさるの、これ、おつしやれば取つて上げるわ。

長い沈黙

周蔵  周一はまだ帰らんか。
美代  まだですわ。
周蔵  兼子は何をしてる。
美代  御夕飯の仕度……。
周蔵  周一は何処へ行つたか、お前も知らんのか。
美代  知りませんわ。
周蔵  駄目だらうな。
美代  駄目だつたらどうなさる。
周蔵  仕方がないさ。
美代  ほんとに……?
周蔵  …………。
美代  後生だから、此の上兄さんをお責めにならないでね。
周蔵  おれが何時責めた。
美代  お責めになつたのも同じですわ。
周蔵  都合がつけばと云つたゞけだ。
美代  それですわ。都合をつけようとして、兄さんは、あつちこつち走り廻つていらつしやるんですわ。都合をつけなければならないと思つてらつしやるんですわ。
周蔵  おれは無理にとは云やせん。
美代  兄さんは、無理に都合をつけようとしていらつしやるんです。だから、今日若しお帰りになつて、まだ都合がわるいやうだつたら、お父さんから、そんなにしなくつてもいゝつておつしやいね。
周蔵  …………。
美代  さうして、兄さんを少しでも楽にしてあげて下さい。あんまりお可哀さうですわ。
周蔵  お前はえらく兄さんのことを心配するな。ほかに兄さんのことを心配するものはないのか。
美代  ないぢやありませんか。
周蔵  …………。
美代  お父さんが、こゝで、あたしたちのそばで、ゆつくり養生して下されば、これでまあ、どうかかうか、大した無理をしないでもやつて行けるんですわ。今、お父さんが、国へお帰りになれば、臨時の入費は別としても、やつぱり、世帯が二つになるわけですから。
周蔵  だから、国へ帰れば、お前たちの世話にならんと云つてるんだ。
美代  さうおつしやつても、なかなか、さうは行きません。やつぱり、ほかにこれといふ人はないんですもの……。どうせ兄さんの方にかゝつて来るんですわ。第一、誰の家へいらつしやるおつもりなんですの。
周蔵  それなら心配はいらんよ、貞が何時でも来いと云つてくれてゐる。
美代  叔母さんですか。そんなことができるものですか。だつて、叔母さんは、他所の家へ行つてらつしやるんでせう。それに、お父さんが、こんなにお悪いことは御存じないんぢやありませんか。
周蔵  もういゝ、わかつとる。お前は何も知らんくせに、余計なことを云ふな。国にゐる人間は、お前たち見たいに、すぐ銭勘定はしはせん。
美代  銭勘定ですつて……。そんなことをお話してるんぢやありませんわ。兄さんは、これからといふ方なんですから、なるだけ生活の苦労をさせないやうにしてあげたいと思ふんです。それは、今のところ、お父さんのお心次第ですわ。
周蔵  おれの心次第……。どうして、おれの心次第だ。おれは寧ろ、お前たちの負担を軽くしてやらうと思つてるくらゐだ。
美代  それなら、国へなぞいらつしやらないで、此処で養生をなすつて下さい。後生ですから、さうして下さい。
周蔵  …………。
美代  さうして下さいますわね。
周蔵  …………。
美代  そんなに、此処がおいやなの。あら、どうして……どうして涙なんか……。(優しく)そんなにいらつしやりたいの。

長い沈黙

表で「御免」といふ声。

兼子が取次に出る。

兼子の声  は、左様で御座います。(間)いゝえ、昨日から帰りませんのですが……。(間)あ、さうでいらつしやいますか……つい、まだ……、初めまして……。何時も宿が御厄介になります。(間)は、いゝえ……(間)は、御蔭さまで……。どうぞ、むさ苦しいところで御座いますが、ちよつと……。病人が御座いますもんですから、なんですか、一向片づきませんで……。どうぞ……そこでは、あんまりなんで御座いますから……。(さう云ひながら、客を案内して茶の間に現れる)

客は、周一の勤先なる会社の上役、宮下である。

宮下  さうさう、御病人があるといふことは予て伺つてゐましたが、どんな御容子ですか。
兼子  (座蒲団をすゝめ)どうぞ、お敷き下さいませ。
宮下  (座につき)いや、もう、どうぞ改まつた御挨拶はぬきにして頂いて……。早速ですが……(兼子が奥に気を兼ねてゐるらしいのを見て、急に声を低め)早速ですが、実は、今日浦田君が会社の方を無断で欠勤されたことについて、一寸、御伺ひしたいと思ふのですが、何か変つたことでもおありになつたんぢやありませんか。
兼子  はあ、実は、昨日から家を出ましたきり、なんの音沙汰もないんで御座いますが、少し事情が御座いまして、あちらこちら、知合ひを訪ね歩いてゐる筈なんで御座いますが……。会社の方へは、無論、御断りをしてあるだらうと思つてをりましたが、それは飛んだことで……御心配をかけて誠に相済みません。
宮下  いや、それはまあ、かまはんですがね、事情が事情なら……。なにしろ、今まで勤勉な方なんですから、それくらゐのことでどうかうといふことはありませんが……。実はかうなんです……。(考へて)それより、その事情といふのが、おわかりなら、私まで御話し下さいませんか。その方が簡単かも知れません。
兼子  はあ、お話いたすのはなんでも御座いませんが……。ほんの内輪のことなんで御座いますから、あなた様がたにお話いたしてよいことやらどうやら……。
宮下  それは構はんぢやありませんか。私も、微力ながら、浦田君の……なんと云ひますか……一身上のことでは、いろいろ御骨折もしなけれやならん位置ですからして……。そんなことはお気兼ねには及びますまい。
兼子  左様で御座いますか。では、ちよつと、お待ち下さいませ。(奥へはひり、美代を閾ぎわに誘ひ出し、なにか耳元にさゝやく)
美代  (うなづきながら茶の間に入り来る)
兼子  浦田の妹で御座います。
美代  初めまして……。始終お厄介になります。
宮下  いや、行き届きません……。あなたもたしか、何処かへお勤めでしたな。
美代  はあ、一寸した雑誌社に勤めてをります。
宮下  結構です。なかなか、御婦人で、大変ですな。
美代  いゝえ、なにも出来ませんのですから……。それで、只今のお話で御座いますが、すこし申し上げたくないことで御座いますから、そちらの御用向を伺ひました上で、お打ち明けしなければならないことなら、申し上げることにいたしたいと存じますんですが、如何で御座いませう。御信用申し上げないわけぢやないんで御座いますが、兄の気性から申しましても、人様の御耳に入れることゝ、入れないことゝ、はつきり私どもにはわかるやうな気がいたしまして……。
宮下  あ、さうですか……。そんなら、こちらから申しませう。なに、なんでもないことですが、やはり、職務柄、一応取調べの形式だけは踏んで置きませんと、あとが厄介なもんですからね……。つまり、その、実はかうなんです。今日午後のことですがね、金庫の金が一部分紛失してることを発見したんです。ところが、ほかの社員はみんな出勤してるのに、浦田君と、それから、肝腎の会計が、いづれも無届欠勤してゐるんですな。まあ、お待ちなさい。そこでゞす、いろ/\評議をした結果、一応、此の両人を調べて見る……犯罪の嫌疑をかけるといふ意味でなくですね、その上、表沙汰にすべきものならするし、内輪で穏便に解決できるものならさうする、といふことになりましてな……。浦田君の方は、まあ、係の関係上、私が直接会つて話を聞かうと、かういふやうな訳で、突然うかゞつたのですが……。いや、平素の人格から云つても、こんな疑ひをかけられる人ではないが、ちやうど、運悪く、欠勤されたのが、しかも無届で欠勤されたのが、かういふ結果を生んだのです。もちろん浦田君に限つて、そんな間違ひはないと思ひますが――こんなことを云つちやなんだが、むしろもう一人がほんとうのなんでせう――私はさう信じてゐるんです。あなた方にこんなことをお聞かせする必要はなかつたかも知れませんが、(それでないと芝居にならない――な、な、何を云ひ出すんだ)――いや、それでないと、却つて、浦田君をはじめ、あなた方を信用しないことになるわけですから、あから様に申し上げたまでゞす。どうかお気におさへにならないやうに……。浦田君が帰られたら、すぐに、一つ、私の宅まで来て頂きたい。私は決して、悪いやうには取計らひません。どうかくれぐれもさうお伝へ下さい。
美代  承知致しました。御親切にありがたう御座いました。それで、さきほどの、なんで御座いますが、さういふお話とは、全然関係のないわけ合ひで御座いますから、わざとお耳には入れません。
宮下  しかし、行先は、ほゞおわかりでせうな。
美代  それが、わからないんで御座います。
宮下  しますと……。
美代  わからないんで御座います。さつぱり……。

長い沈黙

兼子  今晩は多分帰るだらうと思ひますが、……。帰りましたら……。
宮下  えゝ、兎に角、お待ちしてゐます。やあ、どうも失礼しました。
美代  それでは、なに分、よろしく……。
兼子  おかまひもいたしませんで……。

宮下退場――兼子と美代はそれを送つて出る。

美代  (はいつて来ながら)まさかねえ……。
兼子  (恐しいものを見まいとするやうに、両手で顔を蔽ひながら)なんだつて、また、あんなことを……。
美代  さうよ、そんなことがあつて溜るもんですか。馬鹿よ、今の人は……。
兼子  帰つてらつしやればすぐわかることだわ。
美代  さ、もうそんなことを気にかけないで、早く御飯にしませう。(台所に行く)
兼子  (立つたまゝぼんやり考へ込んでゐる)

やがて、台所で、美代の低く口吟む歌が聞える。その歌の声は、だんだん高くなるが、調子が次第に乱れ、間もなく、はたと止む。

兼子  (思ひ出したやうにその方に行きかける。が、その時、表の方に跫音でも聞えるらしく、耳をそばだてる)

長い沈黙

美代の声  (奥で)姉さん……。
兼子  なあに……。
美代  これ、あとどうすんの。
兼子  (台所に行く)その庖丁切れなくつてよ。もういゝわ、それで……。あんた、あがつて頂戴……。あとあたしがするから……。御覧なさい、あの空の赤いこと……。
美代  あたし、きらひよ、かういふ空の色は……。なぜだか、かうして見てると、なんにでも逆つて見たくなるの、自分自身にさへ……。変でせう。
兼子  あたしは、夕焼を見ると、なんだか忙なくなつたやうな気がするの、御夕飯頃だからでせうね。
美代  (ぼんやり)さうでせう。

長い沈黙

表の開く音。
やがて、浦田周一が、疲れた顔附ではひつて来る。
その気配を感じたのだらう。台所から、美代と兼子とが前後して現れる。相方とも、互ひに顔を見合つたまゝ、ぢつと其処に立ちすくむ。――女どもの眼には、ありありと不安の色が浮び、胸はある予感にふるえてゐる。
周一は、それらの眼を避けるやうに、黙つて奥の間に行きかける。

美代  今、やすんでらつしやるやうよ。
周一  どうして、お前たちは、そんな顔をしてるんだい。
兼子  (うろたへて)お帰んなさい。
周一  お帰んなさいぢやない。どうしたと云ふんだ。
兼子  (美代の方を見る)
美代  どうもしないわ。兄さんこそどうかしてらつしやるのよ、そんなに、帰る早々怒つて……。(間)だつて、不意に上つてらつしやるんですもの……。誰かと思つたわ。お疲れになつたでせう。
周一  飯はまだか。
兼子  それがね、今日はどうしたんだか、おくれちまつたの……。いま美代ちやんに手伝つていたゞいて、大急ぎで仕度をしてるところなの。おなか、空いてらつしやる?
周一  そいぢや、はやくしてくれ。ちよつとまた出て来るから……。
兼子  何処へいらつしやるの。
周一  いゝから、はやくしろツたら……。ゆうべは、とろツともしてないんだ。どら、まくらを出してくれ。(よこになる)
兼子  (枕を出しながら)もうぢきですよ、眠ないで我慢してらつしやいね。何か上へかけませうか。
周一  いらん。
兼子  (台所へ行きながら)ゆうべはずゐぶん心配しましたわ。
美代  (帽子を片づけなどしてから、それとなく、一つ時兄の顔を見守つてゐる。が、これもやがて台所に姿を消す)
周一  お医者さんはまだかい。
兼子  えゝ、まだ……。
周一  留守中誰か来たらう。(返事がない。間)留守中、誰か来なかつたかい。
兼子  (云ひにくさうに)えゝ、あの、見えましたわ。
周一  誰だ。
兼子  あの、宮下さんですの。
周一  社のかい。
兼子  えゝ。
周一  なんだつて……。(返事がない。間)わざわざ来たのかい。
兼子  (現る。静かに、しかし、面には悲壮な決意をあらはし、夫のかたはらに坐る)それがね、たゞ、あなたに会ひたいつて、いらしつたんですの。今日社の方をお休みになつたんでせう。
周一  明日まで待てない用事なのか。
兼子  さあ、でも、明日またお休みになるかも知れないとお思ひになつたんでせう。
周一  用事のことはなんにも云つてなかつたかい。

此の時、美代の姿が閾ぎわに現はれ、聞くともなしに、此の話を聴いてゐる。

兼子  今日帰つたら、すぐ来るやうにさう云つてくれつて、おつしやつたきりでしたわ。
周一  先生の家へ……?
兼子  えゝ。
周一  (起き上り)をかしいなあ。

長い沈黙

兼子  あなた、それで、あの方はどうでしたの、都合よく行きまして?
周一  (しばらくこれに答へず、やゝ、あつて、力なく首を振る)
兼子  (それを見て、思はず眼を見張る。その眼は、意外な幸福にぶつかつて驚き輝く眼である。その眼を、素早く台所の方に向ける。途端に、美代の視線に出会ふ)
美代  (兄のそばに駈け寄り)兄さま、それでいゝのよ、その方がいいのよ、お父さんはもう国へ帰らなくつてもいゝつて云つてらつしやるわ。さうすれば、お金なんかいらないわ。ね、もうお金のことは忘れて頂戴。ほんとに、お金は出来なかつたんでせう、そこに持つてらつしやりやしないわね。(涙声にて)どつこにも……ないわね。兄さま、返事をして頂戴。
周一  なにをそんなに騒ぐんだ。
兼子  (美代の肩にすがり)美代ちやん……。(泣く)
周一  どうしたんだ、一体、お前たちは……。(二人の顔をつくづく眺め)宮下が来て何か云つたのか。
美代  もう大丈夫よ、姉さん、おつしやい。
兼子  今日ね、会社の金庫から、お金が失くなつてるんですつて……。ところが、今日無届欠勤をしたのが、会計の方と、あなたと二人きりなんですつて……。だから、つまり……。
周一  二人に嫌疑がかゝつたわけだね。
美代  嫌疑つていふわけぢやないつて云つてらしつたわ、たゞ、一応兄さんにも聞いて見てつておつしやるんだわ。
周一  ふむ、さうか。そいぢや、話はわかつてゐるさ。
兼子  会計つて、どんな方……。
周一  有村さ、お前知らないか。
兼子  知りませんわ。奥さんはおありになるんでせう。
周一  子供が大勢あるつていふ話だ。
兼子  さうでせうね。お気の毒ですわね。
周一  気の毒だ、――気の毒な奴は何処にでもゐるよ。
美代  兄さんは少し気の毒がる癖があり過ぎるのね。

奥で周蔵の呻き声が聞える。
三人は驚いて奥にはひる。
やがて、慌しい声で―――

周一  おい、早くそのコボシを取つて……。
兼子  かうした方がよくはありません。
美代  お父さん、しつかりなさい、お父さん、あたしですよ。
周一  兼子、急いで……。
兼子  (取乱した様子で表口に走る)
周一  お父さん、大丈夫です。さ、僕の手を握つてらつしやい。
美代  あたしの手も、はい、もつとしつかり……。
周一  もう一日二日我慢して下さい。きつと国へお帰りになれるやうにしますから、……。昨夜友だちの話では、明日の晩か明後日の朝、金を届けてくれるさうです。さうしたら、すぐ発ちませう。汽車も二等なら空いてるでせうし、ゆつくり横になつて行けます。苦しいですか。もうしばらくの辛抱です。今、医者が来ます。例の注射を一本すれば、また楽になりますからね。え、なんです、僕ですか、どうしたんです。金ですか。えゝ、明日の晩か、明後日の朝、きつと持つて来てくれる筈です。(間)はい、よう御座んす。その御心配はいりません。叔母さんには、今日電報を打つて置きませう。
美代  手がこんなに顫えて……。お寒かありませんか。
周一  寒いですか。

長い沈黙

美代  (台所へ何か取りに行く。やがて、金盥に水を入れて持つて来る)
周一  (それと出会ひ頭に奥から出て来る。美代を引止めて)おいお前、今日何かお父さんに云やしないか。さつきのことは聞かしやしまいね。
美代  いゝえ、よくおやすみになつてましたから……。
周一  何か、お父さんの気に入らないやうなことを云やしないか。
美代  いゝえ、別に……。
周一  国へ帰るなとか何とか云つたんだらう。
美代  それは云ひましたわ。
周一  それ見ろ。余計なことを云ふからさ。病人に何を云つたつて仕様がないぢやないか。
美代  …………。
周一  お前がおれのことをいろいろ心配してくれてゐるのはわかつてる。しかし、おれにも相当の考へがあるんだから、そばから差出た真似をするのはよしてくれ。
美代  でも、お父さんは、兄さんだけのお父さんぢやありませんわ。あたしにだつて、お父さんに、かうして下さい、あゝして下さいつて云ふ権利はありますわ。
周一  僕の意に逆つてまでか。
美代  兄さんだつて、好きでお父さんの云ふまゝになつてらつしやるんぢやないでせう。
周一  そんなことがお前にどうしてわかる。
美代  わかりますわ。あたし、そのことで、兄さまに信念がおありになるかどうか疑つてるの。兄さまに養はれてゐる人間が、気紛れな要求をして、兄さんの負担を重くさせるなんて間違つてゐますわ。さういふ要求を享け容れようとなさるのは、兄さんがたゞ親といふものを恐れていらつしやるからですわ。
周一  それはお前が間違つてゐる。恐れてゐるからとは限らない。愛してゐるからかもわからない。いや、愛してゐるからだ。
美代  それなら、なほ、お父さんの我儘な望みを思ひ止まらせるやうになさらなければなりませんわ。あたしたち兄妹の手で、最後まで看護をしたいといふ意志を、はつきりおつしやるべきですわ。先祖の墓のそばで死にたいといふお望みは、一応もつとものやうですけれど、一番たよりになる筈の子供たちのそばをはなれて、それもこんなに無理算段をさせてまで、動けないからだをひきずつていらつしやる必要がどこにあるでせう。物の道理から云つてもさうですわ。
周一  年寄りに道理を云つて聞かせても役に立たないよ。
美代  それだからつて、こつちが、道理に合はないことを、強いてする義務はありませんわ。そこが、あたしには不服なんですの。兄さんは、それを愛情の問題だつておつしやるんでせうけれど、あたしは、さうは思ひませんわ。
周一  もういゝつたら、その話は……。今、そんなことを問題にしてる場合ぢやない。
美代  えゝ、それやさうですわ。(急いで奥にはひる)
周一  眼を覚まさせない方がいゝ。

表が開いて、兼子、続いて医師がはひつて来る。すぐに奥に通る。

長い沈黙

医師  さうお苦しみになりはしませんでしたね。
周一  はあ。さつき非常に顫えてましたが……。
医師  兎に角、注射をして置きませう。
周一  さうですか。
医師  此の通りです。

長い重苦しい沈黙

医師、続いて周一、美代が現れる。
医師座につく、周一と美代とがその左右に坐る。間。

周一  どうでせう。
医師  今晩までゞせうな。どうも致し方ありません。もう少しもつかと思ひましたが……しかし、結局、時間の問題でした。
周一  さうです。病人は国へ帰れなかつたことを残念に思ふでせうが、これも天命です。
医師  後程、また伺ひます。
周一  もう意識を取り返すやうなことはないでせうか。万一を期せられるやうな手当はないでせうか。
医師  奇蹟をまつより外ありません。人事を尽すといふ上からは、何事も無駄です。
美代  もう何を云つても聞えませんでせうか。
医師  聞えますまい。しかし、人間の声は、耳にだけ響くものではないのですから、あなたの御声は、まだかすかに動いてゐる心臓に、何処からか伝はるかも知れません。かう申上げるのは、医者の最後の義務だと思ひます。では、御免下さい。

医師退場。
周一と美代その後に続く。――やがて、

周一  (現れ、立つたまゝ、奥を見てゐる)
美代  (その傍に立ち、兄の顔を見守る)
周一  (涙を拭く)
美代  (兄の肩に縋り)兄さん、泣くのはよしませうね、ね、泣くのはよしませう。あたしは、こら、悲しくないのよ。どうしてだか悲しくないの。(さう云ひ終つて、堪えきれぬやうに咽び泣く)

――幕――





底本:「岸田國士全集3」岩波書店
   1990(平成2)年5月8日発行
底本の親本:「新選岸田國士集」改造社
   1930(昭和5)年2月8日発行
初出:「婦女界 第三十六巻第六号」
   1927(昭和2)年12月1日発行
入力:kompass
校正:門田裕志
2012年2月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード