町立病院の
庭の
内、
牛蒡、
蕁草、
野麻などの
簇り
茂つてる
邊に、
小やかなる
別室の一
棟がある。
屋根のブリキ
板は
錆びて、
烟突は
半破れ、
玄關の
階段は
紛堊が
剥がれて、
朽ちて、
雜草さへのび/\と。
正面は
本院に
向ひ、
後方は
茫廣とした
野良に
臨んで、
釘を
立てた
鼠色の
塀が
取繞されてゐる。
此の
尖端を
上に
向けてゐる
釘と、
塀、さては
又此の
別室、こは
露西亞に
於て、たゞ
病院と、
監獄とにのみ
見る、
儚き、
哀な、
寂しい
建物。
蕁草に
掩はれたる
細道を
行けば
直ぐ
別室の
入口の
戸で、
戸を
開けば
玄關である。
壁際や、
暖爐の
周邊には
病院のさま/″\の
雜具、
古寐臺、
汚れた
病院服、ぼろ/\の
股引下、
青い
縞の
洗浚しのシヤツ、
破れた
古靴と
云つたやうな
物が、
ごたくさと、
山のやうに
積み
重ねられて、
惡臭を
放つてゐる。
此の
積上げられたる
雜具の
上に、
毎でも
烟管を
噛へて
寐辷つてゐるのは、
年を
取つた
兵隊上りの、
色の
褪めた
徽章の
附いてる
軍服を
始終着てゐるニキタと
云ふ
小使。
眼に
掩ひ
被さつてる
眉は
山羊のやうで、
赤い
鼻の
佛頂面、
脊は
高くはないが
瘠せて
節塊立つて、
何處にか
恁う一
癖ありさうな
男。
彼は
極めて
頑で、
何よりも
秩序と
云ふことを
大切に
思つてゐて、
自分の
職務を
遣り
終せるには、
何でも
其鐵拳を
以て、
相手の
顏だらうが、
頭だらうが、
胸だらうが、
手當放題に
毆打らなければならぬものと
信じてゐる、
所謂思慮の
廻はらぬ
人間。
玄關の
先は
此の
別室全體を
占めてゐる
廣い
間、
是が六
號室である。
淺黄色のペンキ
塗の
壁は
汚れて、
天井は
燻つてゐる。
冬に
暖爐が
烟つて
炭氣に
罩められたものと
見える。
窓は
内側から
見惡く
鐵格子を
嵌められ、
床は
白ちやけて、そゝくれ
立つてゐる。
漬けた
玉菜や、ランプの
燻や、
南京蟲や、アンモニヤの
臭が
混じて、
入つた
初めの一
分時は、
動物園にでも
行つたかのやうな
感覺を
惹起すので。
室内には
螺旋で
床に
止められた
寐臺が
數脚。
其上には
青い
病院服を
着て、
昔風に
頭巾を
被つてゐる
患者等が
坐つたり、
寐たりして、
是は
皆瘋癲患者なのである。
患者の
數は五
人、
其中にて
一人丈は
身分のある
者であるが
他は
皆卑しい
身分の
者計り。
戸口から
第一の
者は、
瘠せて
脊の
高い、
栗色に
光る
鬚の、
眼を
始終泣腫らしてゐる
發狂の
中風患者、
頭を
支へて
凝と
坐つて、一つ
所を
瞶めながら、
晝夜も
別かず
泣き
悲んで、
頭を
振り
太息を
洩し、
時には
苦笑をしたりして。
周邊の
話には
稀に
立入るのみで、
質問をされたら
决して
返答を
爲たことの
無い、
食ふ
物も、
飮む
物も、
與へらるゝまゝに、
時々苦しさうな
咳をする。
其頬の
紅色や、
瘠方で
察するに
彼にはもう
肺病の
初期が
萠ざしてゐるのであらう。
其に
續いては
小體な、
元氣な、
※鬚[#「丿+臣+頁」、34-下-21]の
尖つた、
髮の
黒いネグル
人のやうに
縮れた、
些しも
落着かぬ
老人。
彼は
晝には
室内を
窓から
窓に
往來し、
或はトルコ
風に
寐臺に
趺を
坐いて、
山雀のやうに
止め
度もなく
囀り、
小聲で
歌ひ、ヒヽヽと
頓興に
笑ひ
出したり
爲てゐるが、
夜に
祈祷をする
時でも、
猶且元氣で、
子供のやうに
愉快さうにぴん/\してゐる。
拳で
胸を
打つて
祈るかと
思へば、
直に
指で
戸の
穴を
穿つたりしてゐる。
是は
猶太人のモイセイカと
云ふ
者で、二十
年計り
前、
自分が
所有の
帽子製造場が
燒けた
時に、
發狂したのであつた。
六
號室の
中で
此のモイセイカ
計りは、
庭にでも
町にでも
自由に
外出のを
許されてゐた。
其れは
彼が
古くから
病院にゐる
爲か、
町で
子供等や、
犬に
圍まれてゐても、
决して
他に
何等の
害をも
加へぬと
云ふ
事を
町の
人に
知られてゐる
爲か、
左に
右、
彼は
町の
名物男として、
一人此の
特權を
得てゐたのである。
彼は
町を
廻るに
病院服の
儘、
妙な
頭巾を
被り、
上靴を
穿いてる
時もあり、
或は
跣足でヅボン
下も
穿かずに
歩いてゐる
時もある。
而して
人の
門や、
店前に
立つては一
錢づつを
請ふ。
或家ではクワスを
飮ませ、
或所ではパンを
食はして
呉れる。で、
彼は
毎も
滿腹で、
金持になつて、六
號室に
歸つて
來る。が、
其の
携へ
歸る
所の
物は、
玄關でニキタに
皆奪はれて
了ふ。
兵隊上りの
小使のニキタは
亂暴にも、
隱を
一々轉覆へして、
悉皆取返へして
了ふので
有つた。
又モイセイカは
同室の
者にも
至つて
親切で、
水を
持つて
來て
遣り、
寐る
時には
布團を
掛けて
遣りして、
町から一
錢づつ
貰つて
來て
遣るとか、
各に
新しい
帽子を
縫つて
遣るとかと
云ふ。
左の
方の
中風患者には
始終匙でもつて
食事をさせる。
彼が
恁くするのは、
別段同情からでもなく、と
云つて、
或る
情誼からするのでもなく、
唯右の
隣にゐるグロモフと
云ふ
人に
習つて、
自然其眞似をするので
有つた。
イワン、デミトリチ、グロモフは三十三
歳で、
彼は
此室での
身分の
可いもの、
元來は
裁判所の
警吏、
又縣廳の
書記をも
務めたので。
彼は
人が
自分を
窘逐すると
云ふ
事を
苦にしてゐる
瘋癲患者、
常に
寐臺の
上に
丸くなつて
寐てゐたり、
或は
運動の
爲かのやうに、
室を
隅から
隅へと
歩いて
見たり、
坐つてゐる
事は
殆ど
稀で、
始終興奮して、
燥氣して、
曖※[#「目+末」、37-上-24]なある
待つことで
氣が
張つてゐる
樣子。
玄關の
方で
微な
音でもするか、
庭で
聲でも
聞こえるかすると、
直ぐに
頭を
持上げて
耳を
欹てる。
誰か
自分の
所に
來たのでは
無いか、
自分を
尋ねてゐるのでは
無いかと
思つて、
顏には
謂ふべからざる
不安の
色が
顯はれる。さなきだに
彼の
憔悴した
顏は
不幸なる
内心の
煩悶と、
長日月の
恐怖とにて、
苛責まれ
※[#「抜」の「友」に代えて「ノ/友」、35-下-3]いた
心を、
鏡に
寫したやうに
現はしてゐるのに。
其廣い
骨張つた
顏の
動きは、
如何にも
變で
病的で
有つて。
然し
心の
苦痛にて
彼の
[#「彼の」は底本では「後の」]顏に
印せられた
緻密な
徴候は、一
見して
智慧ありさうな、
教育ありさうな
風に
思はしめた。
而して
其眼には
暖な
健全な
輝がある、
彼はニキタを
除くの
外は、
誰に
對しても
親切で、
同情が
有つて、
謙遜であつた。
同室で
誰かゞ
釦鈕を
落したとか
匙を
落したとか
云ふ
場合には、
彼が
先づ
寐臺から
起上つて、
取つて
遣る。
毎朝起ると
同室の
者等にお
早うと
云ひ、
晩には
又お
休息なさいと
挨拶もする。
彼の
發狂者らしい
所は、
始終氣の
張つた
樣子と、
變な
眼付とをするの
外に、
時折、
晩になると、
着てゐる
病院服の
前を
神經的に
掻合はせると
思ふと、
齒の
根も
合はぬまでに
全身を
顫はし、
隅から
隅へと
急いで
歩み
初める、
丁度激しい
熱病にでも
俄に
襲はれたやう。と、
施て
立留つて
室内の
人々を
して
昂然として
今にも
何か
重大な
事を
云はんとするやうな
身構へをする。が、
又直に
自分の
云ふ
事を
聽く
者は
無い、
其の
云ふ
事が
解るものは
無いとでも
考へ
直したかのやうに
燥立つて、
頭を
振りながら
又歩き
出す。
然るに
言はうと
云ふ
望は、
終に
消えず
忽にして
總の
考を
壓去つて、
此度は
思ふ
存分、
熱切に、
夢中の
有樣で、
言が
迸り
出る。
言ふ
所は
勿論、
秩序なく、
寐言のやうで、
周章て
見たり、
途切れて
見たり、
何だか
意味の
解らぬことを
言ふのであるが、
何處かに
又善良なる
性質が
微に
聞える、
其言の
中か、
聲の
中かに、
而して
彼の
瘋癲者たる
所も、
彼の
人格も
亦見える。
其意味の
繋がらぬ、
辻妻の
合はぬ
話は、
所詮筆にする
事は
出來ぬのであるが、
彼の
云ふ
所を
撮んで
云へば、
人間の
卑劣なること、
壓制に
依りて
正義の
蹂躙されてゐること、
後世地上に
來るべき
善美なる
生活のこと、
自分をして一
分毎にも
壓制者の
殘忍、
愚鈍を
憤らしむる
所の、
窓の
鐵格子のことなどである。
云はゞ
彼は
昔も
今も
全く
歌ひ
盡されぬ
歌を、
不順序に、
不調和に
組立るのである。
今から
大凡十三四
年以前、
此の
町の一
番の
大通に、
自分の
家を
所有つてゐたグロモフと
云ふ、
容貌の
立派な、
金滿の
官吏が
有つて、
家にはセルゲイ
及びイワンと
云ふ
二人の
息子もある。
所が、
長子のセルゲイは
丁度大學の四
年級になつてから、
急性の
肺病に
罹り
死亡して
了ふ。
是よりグロモフの
家には、
不幸が
引續いて
來てセルゲイの
葬式の
終んだ一
週間目、
父のグロモフは
詐欺と、
浪費との
件を
以て
裁判に
渡され、
間もなく
監獄の
病院でチブスに
罹つて
死亡して
了つた。で、
其家と
總の
什具とは、
棄賣に
拂はれて、イワン、デミトリチと
其母親とは
遂に
無一
物の
身となつた。
父の
存命中には、イワン、デミトリチは
大學修業の
爲にペテルブルグに
住んで、
月々六七十
圓づゝも
仕送され、
何不自由なく
暮してゐたものが、
忽にして
生活は一
變し、
朝から
晩まで、
安値の
報酬で
學科を
教授するとか、
筆耕をするとかと、
奔走をしたが、
其れでも
食ふや
食はずの
儚なき
境涯。
僅な
收入は
母の
給養にも
供せねばならず、
彼は
遂に
此の
生活には
堪へ
切れず、
斷然大學を
去つて、
古郷に
歸つた。
而して
程なく
或人の
世話で
郡立學校の
教師となつたが、
其れも
暫時、
同僚とは
折合はず、
生徒とは
親眤まず、
此をも
亦辭して
了ふ。
其中に
母親は
死ぬ。
彼は
半年も
無職で
徘徊して
唯パンと、
水とで
生命を
繋いでゐたのであるが、
其後裁判所の
警吏となり、
病を
以て
後に
此の
職を
辭するまでは、
此に
務を
取つてゐたのであつた。
彼は
學生時代の
壯年の
頃でも、
生得餘り
壯健な
身體では
無かつた。
顏色は
蒼白く、
姿は
瘠せて、
初中終風邪を
引き
易い、
少食で
落々眠られぬ
質、一
杯の
酒にも
眼が
廻り、
往々ヒステリーが
起るのである。
人と
交際する
事は
彼は
至つて
好んでゐたが、
其神經質な、
刺激され
易い
性質なるが
故に、
自ら
務めて
誰とも
交際せず、
隨て
亦親友をも
持たぬ。
町の
人々の
事は
彼は
毎も
輕蔑して、
無教育の
徒、
禽獸的生活と
罵つて、テノルの
高聲で
燥立つてゐる。
彼が
物を
言ふのは
憤懣の
色を
以てせざれば、
欣喜の
色を
以て、
何事も
熱心に
言ふのである。で、
其言ふ
所は
終に一つ
事に
歸して
了ふ。
町で
生活するのは
好ましく
無い。
社會には
高尚なる
興味が
無い。
社會は
曖※[#「目+末」、36-下-9]な、
無意味な
生活を
爲して
居る。
壓制、
僞善、
醜行を
逞うして、
以つて
是を
紛らしてゐる。
是に
於てか
奸物共は
衣食に
飽き、
正義の
人は
衣食に
窮する。
廉直なる
方針を
取る
地方の
新聞紙、
芝居、
學校、
公會演説、
教育ある
人間の
團結、
是等は
皆必要缺ぐ
可からざるものである。
又社會自ら
悟つて
驚くやうに
爲なければならぬとか
抔との
事で。
彼は
其眼中に
社會の
人々を
唯二
種に
區別してゐる、
義者と、
不義者と、
而して
婦人の
事、
戀愛の
事に
就いては、
毎も
自ら
深く
感じ
入つて
説くのであるが、
偖自身には
未だ一
度も
戀愛てふものを
味ふた
事は
無いので。
彼は
恁くも
神經質で、
其議論は
過激であつたが、
町の
人々は
其れにも
拘らず
彼を
愛して、ワアニア、と
愛嬌を
以て
呼んでゐた。
彼が
天性の
柔しいのと、
人に
親切なのと、
禮儀の
有るのと、
品行の
方正なのと、
着古したフロツクコート、
病人らしい
樣子、
家庭の
不遇、
是等は
皆總て
人々に
温き
同情を
引起さしめたのであつた。
又一
面には
彼は
立派な
教育を
受け、
博學多識で、
何んでも
知つてゐると
町の
人は
言ふてゐる
位。で、
彼は
此の
町の
活きた
字引とせられてゐた。
彼は
非常に
讀書を
好んで、
屡倶樂部に
行つては、
神經的に
髭を
捻りながら、
雜誌や
書物を
手當次第に
剥いでゐる、
讀んでゐるのではなく
咀み
間合はぬので
鵜呑にしてゐると
云ふやうな
鹽梅。
讀書は
彼の
病的の
習慣で、
何んでも
凡そ
手に
觸れた
所の
物は、
其れが
縱令去年の
古新聞で
有らうが、
暦であらうが、一
樣に
饑えたる
者のやうに、
屹度手に
取つて
見るのである。
家にゐる
時も
毎も
横になつては、
猶且、
書見に
耽けつてゐる。
ある
秋の
朝のこと、イワン、デミトリチは
外套の
襟を
立てゝ
泥濘つてゐる
路を、
横町、
路次と
經て、
或る
町人の
家に
書付を
持つて
金を
取りに
行つたのであるが、
猶且毎朝のやうに
此の
朝も
氣が
引立たず、
沈んだ
調子で
或る
横町に
差掛ると、
折から
向より
二人の
囚人と四
人の
銃を
負ふて
附添ふて
來る
兵卒とに、
ぱつたりと
出會す。
彼は
何時が
日も
囚人に
出會せば、
同情と
不愉快の
感に
打たれるのであるが、
其日は
又奈何云ふものか、
何とも
云はれぬ一
種の
不好な
感覺が、
常にもあらず
むら/\と
湧いて、
自分も
恁く
枷を
箝められて、
同じ
姿に
泥濘の
中を
引かれて、
獄に
入られはせぬかと、
遽に
思はれて
慄然とした。
其れから
町人の
家よりの
歸途、
郵便局の
側で、
豫て
懇意な
一人の
警部に
出遇つたが
警部は
彼に
握手して
數歩計り
共に
歩いた。すると、
何だか
是が
又彼には
只事でなく
怪しく
思はれて、
家に
歸つてからも一
日中、
彼の
頭から
囚人の
姿、
銃を
負ふてる
兵卒の
顏などが
離れずに、
眼前に
閃付いてゐる、
此の
理由の
解らぬ
煩悶が
怪しくも
絶えず
彼の
心を
攪亂して、
書物を
讀むにも、
考ふるにも、
邪魔をする。
彼は
夜になつても
燈をも
點けず、
夜すがら
眠らず、
今にも
自分が
捕縛され、
獄に
繋がれはせぬかと
唯其計りを
思ひ
惱んでゐるのであつた。
然し
無論、
彼は
自身に
何の
罪もなきこと、
又將來に
於ても
殺人、
窃盜、
放火などの
犯罪は
斷じて
爲ぬとは
知つてゐるが、
又獨つく/″\と
恁うも
思ふたのであつた。
故意ならず
犯罪を
爲すことが
無いとも
云はれぬ、
人の
讒言、
裁判の
間違などは
有り
得べからざる
事だとは
云はれぬ、
抑も
裁判の
間違は、
今日の
裁判の
状態にては、
最も
有り
有べき
事なので、
總じて
他人の
艱難に
對しては、
事務上、
職務上の
關係を
有つてゐる
人々、
例へば
裁判官、
警官、
醫師、とかと
云ふものは、
年月の
經過すると
共に、
習慣に
依つて
遂には
其相手の
被告、
或は
患者に
對して、
單に
形式以上の
關係を
有たぬやうに
望んでも
出來ぬやうに、
此の
習慣と
云ふ
奴がさせて
了ふ、
早く
言へば
彼等は
恰も、
庭に
立つて
羊や、
牛を
屠り、
其の
血には
氣が
着かぬ
所の
劣等の
人間と
少しも
選ぶ
所は
無いのだ。
翌朝イワン、デミトリチは
額に
冷汗を
びつしよりと
掻いて、
床から
吃驚して
跳起た。もう
今にも
自分が
捕縛されると
思はれて。
而して
自ら
又深く
考へた。
恁くまでも
昨日の
奇しき
懊惱が
自分から
離れぬとして
見れば、
何か
譯があるのである、さなくて
此の
忌はしい
考が
這麼に
執念く
自分に
着纒ふてゐる
譯は
無いと。
『や、
巡査が
徐々と
窓の
傍を
通つて
行つた、
怪しいぞ、やゝ、
又誰か
二人家の
前に
立留つてゐる、
何故默つてゐるのだらうか?』
是よりしてイワン、デミトリチは
日夜を
唯煩悶に
明し
續ける、
窓の
傍を
通る
者、
庭に
入る
者は
皆探偵かと
思はれる。
正午になると
毎日警察署長が、
町盡頭の
自分の
邸から
警察へ
行くので、
此の
家の
前を二
頭馬車で
通る、するとイワン、デミトリチは
其度毎、
馬車が
餘り
早く
通り
過ぎたやうだとか、
署長の
顏付が
別で
有つたとか
思つて、
何んでも
此れは
町に
重大な
犯罪が
露顯はれたので
其れを
至急報告するのであらうなどと
極めて、
頻りに
其れが
氣になつてならぬ。
家主の
女主人の
處に
見知らぬ
人が
來さへすれば
其れも
苦になる。
門の
呼鈴が
鳴る
度に
惴々しては
顫上る。
巡査や、
憲兵に
遇ひでもすると
故と
平氣を
粧ふとして、
微笑して
見たり、
口笛を
吹いて
見たりする。
如何なる
晩でも
彼は
拘引されるのを
待ち
構へてゐぬ
時とては
無い。
其れが
爲に
終夜眠られぬ。が、
若し
這麼事を
女主人にでも
嗅付けられたら、
何か
良心に
咎められる
事があると
思はれやう、
那樣疑でも
起されたら
大變と、
彼はさう
思つて
無理に
毎晩眠た
振をして、
大鼾をさへ
發いてゐる。
然し
這麼心遣は
事實に
於ても、
普通の
論理に
於ても
考へて
見れば
實に
愚々しい
次第で、
拘引されるだの、
獄舍に
繋がれるなど
云ふ
事は
良心にさへ
疚しい
所が
無いならば
少しも
恐怖るに
足らぬ
事、
這麼事を
恐れるのは
精神病に
相違なき
事、と、
彼も
自ら
思ふて
是に
至らぬのでも
無いが、
偖又考へれば
考ふる
程迷つて、
心中は
愈々苦悶と、
恐怖とに
壓しられる。で、
彼ももう
思慮へる
事の
無益なのを
悟り、
全然失望と、
恐怖との
淵に
沈んで
了つたのである。
彼は
其れより
獨居して
人を
避け
初めた。
職務を
取るのは
前にも
不好であつたが、
今は
猶一
層不好で
堪らぬ、と
云ふのは、
人が
何時自分を
欺して、
隱にでも
密と
賄賂を
突込みは
爲ぬか、
其れを
訴へられでも
爲ぬか、
或は
公書の
如きものに
詐欺同樣の
間違でも
爲はせぬか、
他人の
錢でも
無くしたり
爲はせぬか。と、
無暗に
恐くてならぬので。
春になつて
雪も
次第に
解けた
或日、
墓場の
側の
崖の
邊に、
腐爛した二つの
死骸が
見付かつた。
其れは
老婆と、
男の
子とで、
故殺の
形跡さへ
有るのであつた。
町ではもう
到る
所、
此の
死骸のことゝ、
下手人の
噂計り、イワン、デミトリチは
自分が
殺したと
思はれは
爲ぬかと、
又しても
氣が
氣ではなく、
通を
歩きながらも
然思はれまいと
微笑しながら
行つたり、
知人に
遇ひでもすると、
青くなり、
赤くなりして、
那麼弱者共を
殺すなどと、
是程憎むべき
罪惡は
無いなど、
云つてゐる。が、
其れも
此れも
直に
彼を
疲勞らして
了ふ。
彼は
乃ふと思ひ
着いた、
自分の
位置の
安全を
計るには、
女主人の
穴藏に
隱れてゐるのが
上策と。
而して
彼は一
日中、
又一晩中、
穴藏の
中に
立盡し、
其翌日も
猶且出ぬ。で、
身體が
甚く
凍えて
了つたので、
詮方なく、
夕方になるのを
待つて、
こツそりと
自分の
室には
忍び
出て
來たものゝ、
夜明まで
身動もせず、
室の
眞中に
立つてゐた。すると
明方、
未だ
日の
出ぬ
中、
女主人の
方へ
暖爐造の
職人が
來た。イワン、デミトリチは
彼等が
厨房の
暖爐を
直しに
來たのであるのは
知つてゐたのであるが、
急に
何だか
然うでは
無いやうに
思はれて
來て、
是は
屹度警官が
故と
暖爐職人の
風體をして
來たのであらうと、
心は
不覺、
氣は
動顛して、
卒、
室を
飛出したが、
帽も
被らず、フロツクコートも
着ずに、
恐怖に
驅られたまゝ、
大通を
眞一
文字に
走るのであつた。一
匹の
犬は
吠えながら
彼を
追ふ。
後の
方では
農夫が
叫ぶ。イワン、デミトリチは
兩耳がガンとして、
世界中の
有ゆる
壓制が、
今彼の
直ぐ
背後に
迫つて、
自分を
追駈けて
來たかのやうに
思はれた。
彼は
捕へられて
家に
引返されたが、
女主人は
醫師を
招びに
遣られ、ドクトル、アンドレイ、エヒミチは
來て
彼を
診察したのであつた。
而して
頭を
冷す
藥と、
桂梅水とを
服用するやうにと
云つて、
不好さうに
頭を
振つて、
立歸り
際に、もう二
度とは
來ぬ、
人の
氣の
狂ふ
邪魔を
爲るにも
當らないからとさう
云つた。
恁くてイワン、デミトリチは
宿を
借る
事も、
療治する
事も、
錢の
無いので
出來兼ぬる
所から、
幾干もなくして
町立病院に
入れられ、
梅毒病患者と
同室する
事となつた。
然るに
彼は
毎晩眠らずして、
我儘を
云つては
他の
患者等の
邪魔をするので、
院長のアンドレイ、エヒミチは
彼を六
號室の
別室へ
移したのであつた。
一
年を
經て、
町ではもうイワン、デミトリチの
事は
忘れて
了つた。
彼の
書物は
女主人が
橇の
中に
積重ねて、
軒下に
置いたのであるが、
何處からともなく、
子供等が
寄つて
來ては、一
册持ち
行き、二
册取去り、
段々に
皆何れへか
消えて
了つた。
イワン、デミトリチの
左の
方の
隣は、
猶太人のモイセイカであるが、
右の
方にゐる
者は、
全然意味の
無い
顏をしてゐる、
油切つて、
眞圓い
農夫、
疾うから、
思慮も、
感覺も
皆無になつて、
動きもせぬ
大食ひな、
不汚極る
動物で、
始終鼻を
突くやうな、
胸の
惡くなる
臭氣を
放つてゐる。
彼の
身の
周りを
掃除するニキタは、
其度に
例の
鐵拳を
振つては、
力の
限り
彼を
打つのであるが、
此の
鈍き
動物は、
音をも
立てず、
動きをもせず、
眼の
色にも
何の
感じをも
現はさぬ。
唯重い
樽のやうに、
少し
蹌踉るのは
見るのも
氣味が
惡い
位。
六
號室の
第五
番目は、
元來郵便局とやらに
勤めた
男で、
氣の
善いやうな、
少し
狡猾いやうな、
脊の
低い、
瘠せたブロンヂンの、
利發らしい
瞭然とした
愉快な
眼付、
些と
見ると
恰で
正氣のやうである。
彼は
何か
大切な
祕密な
物を
有つてゐると
云ふやうな
風をしてゐる。
枕の
下や、
寐臺の
何處かに、
何かを
そツと隱して
置く、
其れは
盜まれるとか、
奪はれるとか、
云ふ
氣遣の
爲めではなく
人に
見られるのが
恥かしいのでさうして
隱して
置く
物がある。
時々同室の
者等に
脊を
向けて、
獨窓の
所に
立つて、
何かを
胸に
着けて、
頭を
屈めて
熟視つてゐる
樣子。
誰か
若し
近着でもすれば、
極惡さうに
急いで
胸から
何かを
取つて
隱して
了ふ。
然し
其祕密は
直に
解るのである。
『
私をお
祝ひなすつて
下さい。』
と、
彼は
時々イワン、デミトリチに
云ふことがある。
『
私は
第二
等のスタニスラウの
勳章を
貰ひました。
此の
第二
等の
勳章は、
全體なら
外國人でなければ
貰へないのですが、
私には
其の、
特別を
以てね、
例外と
見えます。』
と、
彼は
訝かるやうに
些と
眉を
寄せて
微笑する。
『
實を
申しますと、
是はちと
意外でしたので。』
『
私は
奈何もさう
云ふものに
就いては、
全然解らんのです。』
と、イワン、デミトリチは
愁はしさうに
答へる。
『
然し
私が
早晩手に
入れやうと
思ひますのは、
何だか
知つておゐでになりますか。』
先の
郵便局員は、さも
狡猾さうに
眼を
細めて
云ふ。
『
私は
屹度此度は
瑞典の
北極星の
勳章を
貰はうと
思つて
居るです、
其勳章こそは
骨を
折る
甲斐のあるものです。
白い十
字架に、
黒リボンの
附いた、
其れは
立派です。』
此の六
號室程單調な
生活は、
何處を
尋ねても
無いであらう。
朝には
患者等は、
中風患者と、
油切つた
農夫との
外は
皆玄關に
行つて、一つ
大盥で
顏を
洗ひ、
病院服の
裾で
拭き、ニキタが
本院から
運んで
來る、一
杯に
定められたる
茶を
錫の
器で
啜るのである。
正午には
酢く
漬けた
玉菜の
牛肉汁と、
飯とで
食事をする。
晩には
晝食の
餘りの
飯を
食べるので。
其間は
横になるとも、
睡るとも、
空を
眺めるとも、
室の
隅から
隅へ
歩くとも、
恁うして
毎日を
送つてゐる。
新しい
人の
顏は六
號室では
絶えて
見ぬ。
院長アンドレイ、エヒミチは
新な
瘋癲患者はもう
疾くより
入院せしめぬから。
又誰とて
這麼瘋癲者の
室に
參觀に
來る
者も
無いから。
唯二ヶ
月に一
度丈け、
理髮師のセミヨン、ラザリチ
計り
此へ
來る、
其男は
毎も
醉つてニコ/\しながら
遣つて
來て、ニキタに
手傳はせて
髮を
刈る、
彼が
見えると
患者等は
囂々と
云つて
騷ぎ
出す。
恁く
患者等は
理髮師の
外には、
唯ニキタ
一人、
其れより
外には
誰に
遇ふことも、
誰を
見ることも
叶はぬ
運命に
定められてゐた。
しかるに
近頃に
至つて
不思議な
評判が
院内に
傳はつた。
院長が六
號室に
足繁く
訪問し
出したとの
風評。
不思議な
風評である。
ドクトル、アンドレイ、エヒミチ、ラアギンは
風變りな
人間で、
青年の
頃には
甚敬虔で、
身を
宗教上に
立てやうと、千八百六十三
年に
中學を
卒業すると
直ぐ、
神學大學に
入らうと
决した。
然るに
醫學博士にして、
外科專門家なる
彼が
父は、
斷乎として
彼が
志望を
拒み、
若し
彼にして
司祭となつた
曉は、
我が
子とは
認めぬと
迄云張つた。が、アンドレイ、エヒミチは
父の
言ではあるが、
自分は
是迄醫學に
對して、
又一
般の
專門學科に
對して、
使命を
感じたことは
無かつたと
自白してゐる。
左に
右、
彼は
醫科大學を
卒業して
司祭の
職には
就かなかつた。
而して
醫者として
身を
立つる
初めに
於ても、
猶今日の
如く
別段宗教家らしい
所は
少なかつた。
彼の
容貌は
ぎす/\して、
何處か
百姓染みて、
※鬚[#「丿+臣+頁」、40-上-12]から、ベツそりした
髮、
ぎごちない不態な
恰好は、
宛然大食の、
呑※[#「抜」の「友」に代えて「ノ/友」、40-上-13]の、
頑固な
街道端の
料理屋なんどの
主人のやうで、
素氣無い
顏には
青筋が
顯れ、
眼は
小さく、
鼻は
赤く、
肩幅廣く、
脊高く、
手足が
圖※[#「抜」の「友」に代えて「ノ/友」、40-上-15]けて
大きい、
其手で
捉まへられやうものなら
呼吸も
止まりさうな。
其れでゐて
足音は
極く
靜で、
歩く
樣子は
注意深い
忍足のやうである。
狹い
廊下で
人に
出遇ふと、
先づ
道を
除けて
立留り、『
失敬』と、さも
太い
聲で
云ひさうだが、
細いテノルで
然う
挨拶する。
彼の
頸には
小さい
腫物が
出來てゐるので、
常に
糊付シヤツは
着ないで、
柔らかな
麻布か、
更紗のシヤツを
着てゐるので。
而して
其服裝は
少しも
醫者らしい
所は
無く、一つフロツクコートを十
年も
着續けてゐる。
稀に
猶太人の
店で
新しい
服を
買つて
來ても、
彼が
着ると
猶且皺だらけな
古着のやうに
見えるので。一つフロツクコートで
患者も
受け、
食事もし、
客にも
行く。
然し
其れは
彼が
吝嗇なるのではなく、
扮裝などには
全く
無頓着なのに
由るのである。
アンドレイ、エヒミチが
新に
院長として
此町に
來た
時は、
此の
病院の
亂脈は
名状すべからざるもので。
室内と
云はず、
廊下と
云はず、
庭と
云はず、
何とも
云はれぬ
臭氣が
鼻を
衝いて、
呼吸をするさへ
苦しい
程。
病院の
小使、
看護婦、
其の
子供等抔は
皆患者の
病室に一
所に
起臥して、
外科室には
丹毒が
絶えたことは
無い。
患者等は
油蟲、
南京蟲、
鼠の
族に
責め
立てられて、
住んでゐることも
出來ぬと
苦情を
云ふ。
器械や、
道具などは
何もなく
外科用の
刄物が二つある
丈けで
體温器すら
無いのである。
浴盤には
馬鈴薯が
投込んであるやうな
始末、
代診、
會計、
洗濯女は、
患者を
掠めて
何とも
思はぬ。
話には
前の
院長は
往々病院のアルコールを
密賣し、
看護婦、
婦人患者を
手當次第妾としてゐたと
云ふ。で、
町では
病院の
這麼有樣を
知らぬのでは
無く、一
層棒大にして
亂次の
無いことを
評判してゐたが、
是に
對しては
人々は
至つて
冷淡なもので、
寧ろ
病院の
辯護をしてゐた
位。
病院などに
入るものは、
皆病人や
百姓共だから、
其位な
不自由は
何でも
無いことである、
自家にゐたならば、
猶更不自由を
爲ねばなるまいとか、
地方自治體の
補助もなくて、
町獨立で
立派な
病院の
維持されやうは
無いとか、
左に
右惡いながらも
病院の
有るのは
無いよりも
増であるとかと。
アンドレイ、エヒミチは
院長として
其職に
就いた
後恁る
亂脈に
對して、
果して
是を
如何樣に
所置したらう、
敏捷と
院内の
秩序を
改革したらうか。
彼は
此の
不順序に
對しては、さのみ
氣を
留めた
樣子はなく、
唯看護婦などの
病室に
寐ることを
禁じ、
機械を
入れる
戸棚を
二個備付けた
計りで、
代診も、
會計も、
洗濯婦も、
元の
儘に
爲て
置いた。
アンドレイ、エヒミチは
知識と
廉直とを
頗る
好み
且つ
愛してゐたのであるが、
偖彼は
自分の
周圍には
然云ふ
生活を
設ける
事は
到底出來ぬのであつた。
其れは
氣力と、
權力に
於ける
自信とが
足りぬので。
命令、
主張、
禁止、
恁云ふ
事は
凡て
彼には
出來ぬ。
丁度聲を
高めて
命令などは
决して
致さぬと、
誰にか
誓でも
立てたかのやうに、
呉れとか、
持つて
來いとかとは
奈何しても
言へぬ。で、
物が
食べたくなつた
時には、
何時も
躊躇しながら
咳拂して、
而して
下女に、
茶でも
呑みたいものだとか、
飯にしたいものだとか
云ふのが
常である、
其故に
會計係に
向つても、
盜むではならぬなどとは
到底云はれぬ。
無論放逐することなどは
爲し
得ぬので。
人が
彼を
欺いたり、
或は
諂つたり、
或は
不正の
勘定書に
署名をする
事を
願ひでもされると、
彼は
蝦のやうに
眞赤になつて
只管に
自分の
惡いことを
感じはする。が、
猶且勘定書には
署名をして
遣ると
云ふやうな
質。
初にアンドレイ、エヒミチは
熱心に
其職を
勵み、
毎日朝から
晩まで、
診察をしたり、
手術をしたり、
時には
産婆をも
爲たのである、
婦人等は
皆彼を
非常に
褒めて
名醫である、
殊に
小兒科、
婦人科に
妙を
得てゐると
言囃してゐた。が、
彼は
年月の
經つと
共に、
此事業の
單調なのと、
明瞭に
益の
無いのとを
認めるに
從つて、
段々と
厭きて
來た。
彼は
思ふたのである。
今日は三十
人の
患者を
受ければ、
明日は三十五
人來る、
明後日は四十
人に
成つて
行く、
恁く
毎日、
毎月同事を
繰返し、
打續けては
行くものゝ、
市中の
死亡者の
數は
决して
減じぬ。
又患者の
足も
依然として
門には
絶えぬ。
朝から
午まで
來る四十
人の
患者に、
奈何して
確實な
扶助を
與へることが
出來やう、
故意ならずとも
虚僞を
爲しつゝあるのだ。一
統計年度に
於て、一萬二千
人の
患者を
受けたとすれば、
即ち一萬二千
人は
欺かれたのである。
重い
患者を
病院に
入院させて、
其れを
學問の
規則に
從つて
治療する
事は
出來ぬ。
如何なれば
規則はあつても、
茲に
學問は
無いのである。
哲學を
捨て
了つて、
他の
醫師等のやうに
規則に
從つて
遣らうとするのには、
第一に
清潔法と、
空氣の
流通法とが
缺くべからざる
物である。
然るに
這麼不潔な
有樣では
駄目だ。
又滋養物が
肝心である。
然るに
這麼臭い
玉菜の
牛肉汁などでは
駄目だ、
又善い
補助者が
必要である、
然るに
這麼盜人計りでは
駄目だ。
而して
死が
各人の
正當な
終であるとするなれば、
何の
爲に
人々の
死の
邪魔をするのか。
假にある
商人とか、ある
官吏とかゞ、五
年十
年餘計に
生延びたとして
見た
所で、
其れが
何になるか。
若又醫學の
目的が
藥を
以て、
苦痛を
薄らげるものと
爲すなれば、
自然茲に一つの
疑問が
生じて
來る。
苦痛を
薄らげるのは
何の
爲か?
苦痛は
人を
完全に
向はしむるものと
云ふでは
無いか、
又人類が
果して
丸藥や、
水藥で、
其苦痛が
薄らぐものなら、
宗教や、
哲學は
必要が
無くなつたと
棄るに
至らう。プシキンは
死に
先つて
非常に
苦痛を
感じ、
不幸なるハイネは
數年間中風に
罹つて
臥してゐた。して
見れば
原始蟲の
如き
我々に、
切て
苦難てふものが
無かつたならば、
全く
含蓄の
無い
生活となつて
了ふ。からして
我々は
病氣するのは
寧ろ
當然では
無いか。
恁る
議論に
全然心を
壓しられたアンドレイ、エヒミチは
遂に
匙を
投げて、
病院にも
毎日は
通はなくなるに
至つた。
彼の
生活は
此の
如くにして
過ぎ
行いた。
朝は八
時に
起き、
服を
着換へて
茶を
呑み、
其れから
書齋に
入るか、
或は
病院に
行くかである。
病院では
外來患者がもう
診察を
待構へて、
狹い
廊下に
多人數詰掛けてゐる。
其側を
小使や、
看護婦が
靴で
煉瓦の
床を
音高く
踏鳴して
往來し、
病院服を
着てゐる
瘠せた
患者等が
通つたり、
死人も
舁ぎ
出す、
不潔物を
入れた
器をも
持つて
通る。
子供は
泣き
叫ぶ、
通風はする。アンドレイ、エヒミチは
恁云ふ
病院の
有樣では、
熱病患者、
肺病患者には
最も
可くないと、
始終思ひ/\するのであるが、
其れを
又奈何する
事も
出來ぬので
有つた。
代診のセルゲイ、セルゲヰチは、
毎も
控所に
院長の
出て
來るのを
待つてゐる。
此の
代診は
脊の
小さい、
丸く
肥つた
男、
頬髯を
綺麗に
剃つて、
丸い
顏は
毎も
好く
洗はれてゐて、
其の
氣取つた
樣子で、
新しい
ゆつとりした
衣服を
着け、
白の
襟飾をした
所は、
全然で
代診のやうではなく、
元老議員とでも
言ひたいやうである。
彼は
町に
澤山の
病家の
顧主を
持つてゐる。で、
彼は
自分を
心窃に
院長より
遙に
實際に
於て、
經驗に
積んでゐるものと
認めてゐた。
何となれば
院長には
町に
顧主の
病家などは
少しも
無いのであるから。
控所は、
壁に
大きい
額縁に
填つた
聖像が
懸つてゐて、
重い
燈明が
下げてある。
傍には
白い
布を
被せた
讀經臺が
置かれ、一
方には
大主教の
額が
懸けてある、
又スウャトコルスキイ
修道院の
額と、
枯れた
花環とが
懸けてある。
此の
聖像は
代診自ら
買つて
此所に
懸けたもので、
毎日曜日、
彼の
命令で、
誰か
患者の
一人が、
立つて、
聲を
上げて、
祈祷文を
讀む、
其れから
彼は
自身で、
各病室を、
香爐を
提げて
振りながら
廻る。
患者は
多いのに
時間は
少ない、で、
毎も
極く
簡單な
質問と、
塗藥か、
※麻子油位[#「箆」の「竹かんむり」に代えて「くさかんむり」、42-上-12]の
藥を
渡して
遣るのに
留まつてゐる。
院長は
片手で
頬杖を
突きながら
考込んで、
唯機械的に
質問を
掛けるのみである。
代診のセルゲイ、セルゲヰチが
時々手を
擦り/\
口を
入れる。『
此の
世には
皆人が
病氣になります、
入用なものがありません、
何となれば、
是皆親切な
神樣に
不熱心でありますから。』
診察の
時に
院長はもう
疾うより
手術を
爲る
事は
止めてゐた。
彼は
血を
見るさへ
不愉快に
感じてゐたからで。
又子供の
咽喉を
見るので
口を
開かせたりする
時に、
子供が
泣叫び、
小さい
手を
突張つたりすると、
彼は
其聲で
耳がガンとして
了つて、
眼が
廻つて
涙が
滴れる。で、
急いで
藥の
處方を
云つて、
子供を
早く
連れて
行つて
呉れと
手を
振る。
診察の
時、
患者の
臆病、
譯の
解らぬこと、
代診の
傍にゐること、
壁に
懸つてる
畫像、二十
年以上も
相變らずに
掛けてゐる
質問、
是等は
院長をして
少からず
退屈せしめて、
彼は五六
人の
患者を
診察し
終ると、ふいと
診察所から
出て
行つて
了ふ。で、
後の
患者は
代診が
彼に
代つて
診察するのであつた。
院長アンドレイ、エヒミチは
疾から
町の
病家を
有たぬのを、
却つて
可い
幸に、
誰も
自分の
邪魔をするものは
無いと
云ふ
考で、
家に
歸ると
直ぐ
書齋に
入り、
讀む
書物の
澤山あるので、
此の
上なき
滿足を
以て
書見に
耽るのである、
彼は
月給を
受取ると
直ぐ
半分は
書物を
買ふのに
費やす、
其の六
間借りてゐる
室の三つには、
書物と
古雜誌とで
殆埋つてゐる。
彼が
最も
好む
所の
書物は、
歴史、
哲學で、
醫學上の
書物は、
唯『
醫者』と
云ふ一
雜誌を
取つてゐるのに
過ぎぬ。
讀書爲初めると
毎も
數時間は
續樣に
讀むのであるが、
少しも
其れで
疲勞ぬ。
彼の
書見は、イワン、デミトリチのやうに
神經的に、
迅速に
讀むのではなく、
徐に
眼を
通して、
氣に
入つた
所、
了解し
得ぬ
所は、
留り/\しながら
讀んで
行く。
書物の
側には
毎もウオツカの
壜を
置いて、
鹽漬の
胡瓜や、
林檎が、デスクの
羅紗の
布の
上に
置いてある。
半時間毎位に
彼は
書物から
眼を
離さずに、ウオツカを一
杯注いでは
呑乾し、
而して
矢張見ずに
胡瓜を
手探で
食ひ
缺ぐ。
三
時になると
彼は
徐に
厨房の
戸に
近づいて
咳拂ひをして
云ふ。
『ダリユシカ、
晝食でも
遣り
度いものだな。』
不味さうに
取揃へられた
晝食を
爲し
終へると、
彼は
兩手を
胸に
組んで
考へながら
室内を
歩き
初める。
其中に四
時が
鳴る。五
時が
鳴る、
猶彼は
考へながら
歩いてゐる。すると、
時々厨房の
戸が
開いて、ダリユシカの
赤い
寐惚顏[#ルビの「ねぼけがほ」は底本では「ねぼけがは」]が
顯はれる。
『
旦那樣、もうビールを
召上ります
時分では
御座りませんか。』
と、
彼女は
氣を
揉んで
問ふ。
『いや
未だ……もう
少し
待たう……もう
少し……。』
と、
彼は
云ふ。
晩には
毎も
郵便局長のミハイル、アウエリヤヌヰチが
遊びに
來る。アンドレイ、エヒミチに
取つては
此の
人間計りが、
町中で
一人氣の
置けぬ
親友なので。ミハイル、アウエリヤヌヰチは
元は
富んでゐた
大地主、
騎兵隊に
屬してゐた
者、
然るに
漸々身代を
耗つて
了つて、
貧乏し、
老年に
成つてから、
遂に
此の
郵便局に
入つたので。
至つて
元氣な、
壯健な、
立派な
白い
頬鬚の、
快活な
大聲の、
而も
氣の
善い、
感情の
深い
人間である。
然し
又極く
腹立易い
男で、
誰か
郵便局に
來た
者で、
反對でもするとか、
同意でも
爲ぬとか、
理屈でも
並べやうものなら、
眞赤になつて、
全身を
顫はして
怒立ち、
雷のやうな
聲で、
默れ! と一
喝する。
其故に
郵便局に
行くのは
怖いと
云ふは一
般の
評判。が、
彼は
町の
者を
恁く
部下のやうに
遇ふにも
拘らず、
院長アンドレイ、エヒミチ
計りは、
教育があり、
且つ
高尚な
心を
有つてゐると、
敬ひ
且つ
愛してゐた。
『やあ、
私です。』
と、ミハイル、アウエリヤヌヰチは
毎のやうに
恁う
云ひながら、アンドレイ、エヒミチの
家に
入つて
來た。
二人は
書齋の
長椅子に
腰を
掛けて、
暫時莨を
吹かしてゐる。
『ダリユシカ、ビールでも
欲しいな。』
と、アンドレイ、エヒミチは
云ふ。
初めの
壜は
二人共無言の
行で
呑乾して
了ふ。
院長は
考込んでゐる、ミハイル、アウエリヤヌヰチは
何か
面白い
話を
爲やうとして、
愉快さうになつてゐる。
話は
毎も
院長から、
初まるので。
『
何と
殘念なことぢや
無いですかなあ。』
と、アンドレイ、エヒミチは
頭を
振りながら、
相手の
眼を
見ずに
徐々と
話出す。
彼は
話をする
時に
人の
眼を
見ぬのが
癖。
『
我々の
町に
話の
面白い、
知識のある
人間の
皆無なのは、
實に
遺憾なことぢや
有りませんか。
是は
我々に
取つて
大なる
不幸です。
上流社會でも
卑劣なこと
以上には
其教育の
程度は
上らんのですから、
全く
下等社會と
少しも
異らんのです。』
『
其れは
眞實です。』と、
郵便局長は
云ふ。
『
君も
知つてゐられる
通り。』
と、
院長は
靜な
聲で、
又話續けるので
有つた。
『
此の
世の
中には
人間の
知識の
高尚な
現象の
外には、
一として
意味のある、
興味のあるものは
無いのです。
人智なるものが、
動物と、
人間との
間に、
大なる
限界をなして
居つて、
人間の
靈性を
示し、
或る
程度まで、
實際に
無い
所の
不死の
換りを
爲してゐるのです。
是に
由つて
人智は、
人間の
唯一[#ルビの「ゆゐいつ」は底本では「ゐいつ」]の
快樂の
泉となつてゐる。
然るに
我々は
自分の
周圍に、
些も
知識を
見ず、
聞かずで、
我々は
全然快樂を
奪はれてゐるやうなものです。
勿論我々には
書物が
有る。
然し
是は
活きた
話とか、
交際とかと
云ふものとは
又別で、
餘り
適切な
例では
有りませんが、
例へば
書物はノタで、
談話は
唱歌でせう。』
『
其れは
眞實です。』と、
郵便局長は
云ふ。
二人は
默る。
厨房からダリユシカが
鈍い
浮かぬ
顏で
出て
來て、
片手で
頬杖を
爲て、
話を
聞かうと
戸口に
立留つてゐる。
『あゝ
君は
今の
人間から
知識をお
望みになるのですか?』
と、ミハイル、アウエリヤヌヰチは
嘆息して
云ふた。
而して
彼は
昔の
生活が
健全で、
愉快で、
興味の
有つたこと、
其頃の
上流社會には
知識が
有つたとか、
又其社會では
廉直、
友誼を
非常に
重んじてゐたとか、
證文なしで
錢を
貸したとか、
貧窮な
友人に
扶助を
與へぬのを
恥としてゐたとか、
愉快な
行軍や、
戰爭などの
有つたこと、
面白い
人間、
面白い
婦人の
有つたこと、
又高加索と
云ふ
所は
實に
好い
土地で、
或る
騎兵大隊長の
夫人に
變者があつて、
毎でも
身に
士官の
服を
着けて、
夜になると
一人で、カフカズの
山中を
案内者もなく
騎馬で
行く。
話に
聞くと、
何でも
韃靼人の
村に、
其夫人と、
土地の
某公爵との
間に
小説があつたとの
事だ、とかと。
『へゝえ。』
と、ダリユシカは
感心して
聞いてゐる。
『
而して
可く
呑み、
可く
食つたものだ。
又非常な
自由主義の
人間なども
有つたツけ。』
アンドレイ、エヒミチは
聞いてはゐたが、
耳にも
留らぬ
風で、
何かを
考へながら、ビールをチビリ/\と
呑んでゐる。
『
私は
奈何かすると
知識のある
秀才と
話を
爲てゐることを
夢に
見ることがあります。』
と、
院長は
突然にミハイル、アウエリヤヌヰチの
言を
遮つて
言ふた。
『
私の
父は
私に
立派な
教育を
與へたです、
然し六十
年代の
思想の
影響で、
私を
醫者として
了つたが、
私が
若し
其時に
父の
言ふ
通りにならなかつたなら、
今頃は
現代思潮の
中心となつてゐたであらうと
思はれます。
其時には
屹度大學の
分科の
教授にでもなつてゐたのでせう。
無論知識なるものは、
永久のものでは
無く、
變遷して
行くものですが、
然し
生活と
云ふものは、
忌々しい
輪索です。
思想の
人間が
成熟の
期に
達して、
其思想が
發展される
時になると、
其人間は
自然自分がもう
已に
此の
輪索に
掛つてゐる
遁れる
路の
無くなつてゐるのを
感じます。
實際人間は
自分の
意旨に
反して、
或は
偶然な
事の
爲に、
無から
生活に
喚出されたものであるのです……。』
『
其れは
眞實です。』
と、ミハイル、アウエリヤヌヰチは
云ふ。
アンドレイ、エヒミチは
依然相手の
顏を
見ずに、
知識ある
者の
話計りを
續ける、ミハイル、アウエリヤヌヰチは
注意して
聽いてゐながら『
其れは
眞實です。』と、
其れ
計りを
繰返してゐた。
『
然し
君は
靈魂の
不死を
信じなさらんのですか?』
と、
俄にミハイル、アウエリヤヌヰチは
問ふ。
『いや、ミハイル、アウエリヤヌヰチ、
信じません、
信じる
理由が
無いのです。』と、
院長は
云ふ。
『
實を
申すと
私も
疑つてゐるのです。
然し
尤も、
私は
或時は
死なん
者のやうな
感もするですがな。
其れは
時時恁う
思ふ
事があるです。
這麼老朽な
體は
死んでも
可い
時分だ、とさう
思ふと、
忽ち
又何やら
心の
底で
聲がする、
氣遣ふな、
死ぬ
事は
無いと
云つて
居るやうな。』
九
時少し
過ぎ、ミハイル、アウエリヤヌヰチは
歸らんとて
立上り、
玄關で
毛皮の
外套を
引掛けながら
溜息して
云ふた。
『
然し
我々は
隨分酷い
田舍に
引込んだものさ、
殘念なのは、
這麼處で
往生をするのかと
思ふと、あゝ……。』
親友を
送出して、アンドレイ、エヒミチは
又讀書を
初めるのであつた。
夜は
靜で
何の
音も
爲ぬ。
時は
留つて
院長と
共に
書物の
上に
途絶えて
了つたかのやう。
此の
書物と、
青い
傘を
掛けたランプとの
外には、
世に
又何物も
有らぬかと
思はるる
靜けさ。
院長の
可畏き、
無人相の
顏は、
人智の
開發に
感ずるに
從つて、
段々と
和ぎ、
微笑をさへ
浮べて
來た。
『あゝ、
奈何して、
人は
不死の
者では
無いか。』
と、
彼は
考へてゐる。『
腦髓や、
視官、
言語、
自覺、
天才などは、
終には
皆土中に
入つて
了つて、
旋て
地殼と
共に
冷却し、
何百萬年と
云ふ
長い
間、
地球と一
所に
意味もなく、
目的も
無く
廻り
行くやうになるとなれば、
何の
爲に
這麼物が
有るのか……。』
冷却して
後、
飛散するとすれば、
高尚なる
殆ど
神の
如き
智力を
備へたる
人間を、
虚無より
造出すの
必要はない。
而して
恰も
嘲るが
如くに、
又人を
粘土に
化する
必要は
無い。あゝ
物質の
新陳代謝よ。
然ながら
不死の
代替を
以て、
自分を
慰むると
云ふ
事は
臆病ではなからうか。
自然に
於て
起る
所の
無意識なる
作用は、
人間の
無智にも
劣つてゐる。
何となれば、
無智には
幾分か、
意識と
意旨とがある。が、
作用には
何もない。
死に
對して
恐怖を
抱く
臆病者は、
左の
事を
以て
自分を
慰める
事が
出來る。
即ち
彼の
體を
將來、
草、
石、
蟇の
中に
入つて、
生活すると
云ふ
事を
以て
慰むることが
出來る。
『
其れとも
物質の
變換……
物質の
變換を
認めて、
直に
人間の
不死と
爲すと
云ふのは、
恰も
高價なヴアイオリンが
破れた
後で、
其明箱が
換つて
立派な
物となると
同じやうに、
誠に
譯の
解らぬ
事である。』
時計が
鳴る。アンドレイ、エヒミチは
椅子の
倚掛に
身を
投げて、
眼を
閉ぢて
考へる。
而して
今讀んだ
書物の
中の
面白い
影響で、
自分の
過去と、
現在とに
思を
及すのであつた。
『
過去は
思出すのも
不好だ、と
云つて、
現在も
亦過去と
同樣ではないか。』
と、
彼は
其れから
患者等のこと、
不潔な
病室の
中に
苦しんでゐること、
抔を
思ひ
起す。『
未だ
眠らないで
南京蟲と
戰つてゐる
者も
有らう、
或は
強く
繃帶を
締められて
惱んで
呻つてゐる
者も
有らう、
又或る
患者等は
看護婦を
相手に
骨牌遊を
爲てゐる
者も
有らう、
或はヴオツカを
呑んでゐる
者も
有らう、
病院の
事業は
總て二十
年前と
少しも
變らぬ。
窃盜、
姦淫、
詐欺の
上に
立てられてゐるのだ。であるから、
病院は
依然として、
町の
住民の
健康には
有害で、
且つ
不徳義なものである。』
と、
彼は
思ひ
來り、
更に
又彼の六
號室の
鐵格子の
中で、ニキタが
患者等を
打毆つてゐる
事、モイセイカが
町に
行つては、
施を
請ふてゐる
姿などを
思ひ
出す。
其れより
又彼は
醫學の
此の
近き二十五
年間に
於て、
如何に
長足の
進歩を
爲したかと
云ふ
事を
考へ
初める。
『
自分が
大學にゐた
時分は、
醫學も
猶且、
錬金術や、
形而上學などと
同じ
運命に
至るものと
思ふてゐたが、
實に
驚く
可き
進歩である。
大革命とも
名けられる
位だ、
防腐法の
發明によつて、
大家のピロウゴフさへも、
到底出來得べからざる
事を
認てゐた
手術が、
容易く
遣られるやうにはなつた。
今では
腹部截開の百
度の
中、
死を
見ることは一
度位なものである。
梅毒も
根治される、
其他遺傳論、
催眠術、パステルや、コツホなどの
發見、
衞生學、
統計學などは
奈何であらう……。』
我々ロシヤの
地方團體の
醫術は
如何であらうか、
先づ
精神病に
就いて
云ふならば、
現今の
病氣の
類別法、
診斷、
治療の
方法、
共に
皆是を
過去の
精神病學と
比較するならば、
其の
差はエリボルスの
山の
如き
高大なるものである。
現今では
精神病者の
治療に
冷水を
注がぬ、
蒸暑きシヤツを
被せぬ、
而して
人間的に
彼等を
取扱ふ、
即ち
新聞に
記載する
通り、
彼等の
爲に、
演劇、
舞蹈を
催す。
彼は
又恁く
思考へた。
現時の
見解及び
趣味を
見るに、六
號室の
如きは、
誠に
見るに
忍びざる、
厭惡に
堪へざるものである。
恁る
病室は、
鐵道を
去ること、二百
露里の
此の
小都會に
於てのみ
見るのである。
即ち
此所の
市長並に
町會議員は
皆生物知りの
町人である、であるから
醫師を
見ることは
神官の
如く、
其の
言ふ
所を
批評せずして
信じてゐる。
例へば、
溶解せる
鉛を
口に
入るゝとも、
少しも
不思議には
思はぬであらう。が、
若し
是が
他の
所に
於ては
如何であらうか、
公衆と、
新聞紙とは
必ず
此の
如き
監獄は、とうに
寸斷にして
了つたであらう。
『
然し
其れが
奈何である。』
と、
彼はパツと
眼を
開いて
自ら
問ふた。
『
防腐法だとか、コツホだとか、パステルだとか
云つたつて、
實際に
於ては
世の
中は
少しも
是迄と
變らないでは
無いか、
病氣の
數も、
死亡の
數も、
瘋癲患者の
爲だと
云つて、
舞踏會やら、
演藝會やらが
催されるが、
然し
彼等をして
全く
開放することは
出來ないでは
無いか。
而て
見れば、
何でも
皆空しい
事だ、ヴインナの
完全な
大學病院でも、
我々の
此の
病院と
少しも
差別は
無いのだ。
然し
俺は
有害な
事に
務めてると
云ふものだ、
自分の
欺いてゐる
人間から
給料を
貪つてゐる、
不正直だ、
然れども
俺其者は
至つて
微々たるもので、
社會の
必然の
惡の一
分子に
過ぎぬ、
總て
町や、
郡の
官吏共でも
皆詰り
無用の
長物だ。
唯だ
給料を
貪つてゐるに
過ぎん……
而して
見れば
不正直の
罪は、
敢て
自分計りぢや
無い、
時勢に
有るのだ、もう二百
年も
晩く
自分が
生れたなら、
全然別の
人間で
有つたかも
知れぬ。』
三
時が
鳴る、
彼はランプを
消して
寐室に
行つた。が、
奈何しても
睡眠に
就くことは
出來ぬのであつた。
二
年此方、
地方自治體はやう/\
饒になつたので、
其管下に
病院の
設立られるまで、
年々三百
圓づつを
此の
町立病院に
補助金として
出す
事となり、
病院では
其れが
爲に
醫員を
一人増す
事と
定められた。で、アンドレイ、エヒミチの
補助手として、
軍醫のエウゲニイ、フエオドロヰチ、ハヾトフといふが、
此の
町に
聘せられた。
其人は
未だ三十
歳に
足らぬ
若い
男で、
頬骨の
廣い、
眼の
小さい、ブルネト、
其祖先は
外國人で
有つたかのやうにも
見える、
彼が
町に
來た
時は、
錢と
云つたら一
文もなく、
小さい
鞄只一個と、
下女と
徇れてゐた
醜女計りを
伴ふて
來たので、
而して
此女には
乳呑兒が
有つた。
彼は
常に
廂の
附いた
丸帽を
被つて、
深い
長靴を
穿き
冬には
毛皮の
外套を
着て
外を
歩く。
病院に
來てより
間もなく、
代診のセルゲイ、セルゲヰチとも、
會計とも、
直ぐに
親密になつたのである。
下宿には
書物は
唯一
册『千八百八十一
年度ヴインナ
大學病院最近處方』と
題するもので、
彼は
患者の
所へ
行く
時には
必ず
其れを
携へる。
晩になると
倶樂部に
行つては
玉突をして
遊ぶ、
骨牌は
餘り
好まぬ
方、
而して
何時もお
極りの
文句を
可く
云ふ
人間。
病院には一
週に二
度づつ
通つて、
外來患者を
診察したり、
各病室を
廻つたりしてゐたが、
防腐法の
此では
全く
行はれぬこと、
呼血器のことなどに
就いて、
彼は
頗る
異議を
有つてゐたが、
其れと
打付けて
云ふのも、
院長に
恥を
掻かせるやうなものと、
何とも
云はずにはゐたが、
同僚の
院長アンドレイ、エヒミチを
心祕に、
老込の
怠惰者として、
奴、
金計り
溜込んでゐると
羨んでゐた。
而して
其後任を
自分で
引受け
度く
思ふてゐた。
三
月の
末つ
方、
消えがてなりし
雪も、
次第に
跡なく
融けた
或夜、
病院の
庭には
椋鳥が
切りに
鳴いてた
折しも、
院長は
親友の
郵便局長の
立歸へるのを、
門迄見送らんと
室を
出た。
丁度其時、
庭に
入つて
來たのは、
今しも
町を
漁つて
來た
猶太人のモイセイカ、
帽も
被らず、
跣足に
淺い
上靴を
突掛けたまゝ、
手には
施の
小さい
袋を
提げて。
『一
錢おくんなさい!』
と、モイセイカは
寒さに
顫へながら、
院長を
見て
微笑する。
辭することの
出來ぬ
院長は、
隱から十
錢を
出して
彼に
遣る。
『これは
可くない』と、
院長はモイセイカの
瘠せた
赤い
跣足の
踝を
見て
思ふた。
『
路は
泥濘つてゐると
云ふのに。』
院長は
不覺に
哀れにも、
又不氣味にも
感じて、
猶太人の
後に
尾いて、
其禿頭だの、
足の
踝などを
しながら、
別室まで
行つた。
小使のニキタは
相も
變らず、
雜具の
塚の
上に
轉つてゐたのであるが、
院長の
入つて
來たのに
吃驚して
跳起きた。
『ニキタ、
今日は。』
と、
院長は
柔しく
彼に
挨拶して。
『
此の
猶太人に
靴でも
與へたら
奈何だ、
然うでもせんと
風邪を
引く。』
『はツ、
拜承まりまして
御坐りまする。
直に
會計に
然う
申しまして。』
『
然うして
下さい、お
前は
會計に
私がさう
云つたと
云つて
呉れ。』
玄關から
病室へ
通ふ
戸は
開かれてゐた。イワン、デミトリチは
寐臺の
上に
横になつて、
肘を
突いて、さも
心配さうに、
人聲がするので
此方を
見て
耳を
欹てゝゐる。と、
急に
來た
人の
院長だと
解つたので、
彼は
全身を
怒に
顫はして、
寐床から
飛上り、
眞赤になつて、
激怒して、
病室の
眞中に
走り
出て
突立つた。
『やあ、
院長が
來たぞ!』
イワン、デミトリチは
高く
※[#「口+斗」、47-上-10]んで、
笑ひ
出す。
『
來た々々!
諸君お
目出たう、
院長閣下が
我々を
訪問せられた!
此ン
畜生め!』
と、
彼は
聲を
甲走らして、
地鞴踏んで、
同室の
者等の
未だ
甞つて
見ぬ
騷方。
『
此ン
畜生! やい
毆殺して
了へ!
殺しても
足るものか、
便所にでも
敲込め!』
院長のアンドレイ、エヒミチは
玄關の
間から
病室の
内を
覗込んで、
物柔らかに
問ふので
有つた。
『
何故ですね?』
『
何故だと。』と、イワン、デミトリチは
嚇すやうな
氣味で、
院長の
方に
近寄り、
顫ふ
手に
病院服の
前を
合せながら。
『
何故かも
無いものだ!
此の
盜人め!』
彼は
惡々しさうに
唾でも
吐つ
掛けるやうな
口付きをして。
『
此の
山師!
人殺!』
『まあ、
落着きなさい。』
と、アンドレイ、エヒミチは
惡るかつたと
云ふやうな
顏付で
云ふ。
『
可くお
聽きなさい、
私は
未だ
何にも
盜んだ
事もなし、
貴方に
何も
致したことは
無いのです。
貴方は
何か
間違つてお
出なのでせう、
酷く
私を
怒つてゐなさるやうだが、まあ
落着いて、
靜かに、
而して
何を
立腹してゐなさるのか、
有仰つたら
可いでせう。』
『だが
何の
爲に
貴下は
私を
這麼ところに
入れて
置くのです?』
『
其れは
貴君が
病人だからです。』
『はあ、
病人、
然し
何百
人と
云ふ
狂人が
自由に
其處邊を
歩いてゐるではないですか、
其れは
貴方々の
無學なるに
由つて、
狂人と、
健康なる
者との
區別が
出來んのです。
何の
爲に
私だの、そら
此處にゐる
此の
不幸な
人達計りが
恰も
獻祭の
山羊の
如くに、
衆の
爲に
此に
入れられてゐねばならんのか。
貴方を
初め、
代診、
會計、
其れから、
總て
此の
貴方の
病院に
居る
奴等は、
實に
怪しからん、
徳義上に
於ては
我々共より
遙に
劣等だ、
何の
爲に
我々計りが
此に
入れられて
居つて、
貴方々は
然うで
無いのか、
何處に
那樣論理があります?』
『
徳義上だとか、
論理だとか、
那樣事は
何も
有りません。
唯場合です。
即ち
此處に
入れられた
者は
入つてゐるのであるし、
入れられん
者は
自由に
出歩いてゐる、
其れ
丈けの
事です。
私が
醫者で、
貴方が
精神病者であると
云ふことに
於て、
徳義も
無ければ、
論理も
無いのです。
詰り
偶然の
場合のみです。』
『
那樣屁理窟は
解らん。』
と、イワン、デミトリチは
小聲で
云つて、
自分の
寐臺の
上に
坐り
込む。
モイセイカは
今日は
院長のゐる
爲に、ニキタが
遠慮して
何も
取返さぬので、
貰つて
來た
雜物を、
自分の
寐臺の
上に
洗ひ
浚ひ
廣げて、一つ/\
並べ
初める。パンの
破片、
紙屑、
牛の
骨など、
而して
寒に
顫へながら、
猶太語で、
早言に
歌ふやうに
喋り
出す、
大方開店でも
爲た
氣取で
何かを
吹聽してゐるので
有らう。
『
私を
此處から
出して
下さい。』と、イワン、デミトリチは
聲を
顫はして
云ふ。
『
其れは
出來ません。』
『
如何云ふ
譯で。
其れを
聞きませう。』
『
其れは
私の
權内に
無い
事なのです。まあ、
考へて
御覽なさい、
私が
假に
貴方を
此から
出たとして、
甚麼利益が
有りますか。
先づ
出て
御覽なさい、
町の
者か、
警察かが
又貴方を
捉へて
連れて
參りませう。』
『
左樣さ/\
其れは
然うだ。』と、イワン、デミトリチは
額の
汗を
拭く、『
其れは
然うだ、
然し
私は
如何したら
可からう。』
アンドレイ、エヒミチはイワン、デミトリチの
顏付、
眼色抔を
酷く
氣に
入つて、
如何かして
此の
若者を
手懷けて、
落着かせやうと
思ふたので、
其寐臺の
上に
腰を
下し、
些と
考へて、
偖言出す。
『
貴方は
如何したら
可からうと
有仰るが。
貴方の
位置を
好くするのには、
此から
逃出す一
方です。
然し
其れは
殘念ながら
無益に
歸するので、
貴方は
到底捉へられずには
居らんです。
社會が
犯罪人や、
精神病者や、
總て
自分等に
都合の
惡い
人間に
對して、
自衞を
爲すのには、
如何したつて
勝つ
事は
出來ません。で、
貴方の
爲すべき
所は一つです。
即ち
此處に
居る
事が
必要であると
考へて、
安心をしてゐるのみです。』
『いや、
誰にも
此處は
必要ぢや
有りません。』
『
然し
已に
監獄だとか、
瘋癲病院だとかの
存在する
以上は、
誰か
其中に
入つてゐねばなりません、
貴方でなければ、
私、でなければ、
他の
者が。まあお
待ちなさい、
左樣今に
遙か
遠き
未來に、
監獄だの、
瘋癲病院の
全廢された
曉には、
即ち
此の
窓の
鐵格子も、
此の
病院服も、
全く
無用になつて
了ひませう、
無論、
然云ふ
時は
早晩來ませう。』
イワン、デミトリチはニヤリと
冷笑つた。
『
然でせう。』と、
彼は
眼を
細めて
云ふた。『
貴方だの、
貴方の
補助者のニキタなどのやうな、
然云ふ
人間には、
未來などは
何の
要も
無い
譯です。で、
貴方は
好い
時代が
來やうと
濟してもゐられるでせうが、いや、
私の
言ふことは
卑いかも
知れません、
笑止しければお
笑ひ
下さい。
然しです、
新生活の
曉は
輝いて、
正義が
勝を
制するやうになれば、
我々の
町でも
大に
祭をして
喜び
祝ひませう。が、
私は
其迄は
待たれません、
其時分にはもう
死んで
了ひます。
誰かの
子か
孫かは、
遂に
其時代に
遇ひませう。
私は
誠心を
以て
彼等を
祝します、
彼等の
爲に
喜びます!
進め!
我が
同胞!
神は
君等に
助を
給はん!』と、イワン、デミトリチは
眼を
輝かして
立上り、
窓の
方に
手を
伸して
云ふた。
『
此の
格子の
中より
君等を
祝福せん、
正義萬歳!
正義萬歳!』
『
何を
那樣に
喜ぶのか
私には
譯が
分りません。』と、
院長はイワン、デミトリチの
樣子が
宛然芝居のやうだと
思ひながら、
又其風が
酷く
氣に
入つて
云ふた。
『
成程、
時が
來れば
監獄や、
瘋癲病院は
廢されて、
正義は
貴方の
有仰る
通り
勝を
占めるでせう、
然し
生活の
實際が
其れで
變るものではありません。
自然の
法則は
依然として
元の
儘です、
人々は
猶且今日の
如く
病み、
老い、
死するのでせう、
甚麼立派な
生活の
曉が
顯はれたとしても、
畢竟人間は
棺桶に
打込まれて、
穴の
中に
投じられて
了ふのです。』
『では
來世は。』
『
何、
來世。
戯談を
云つちや
可けません。』
『
貴方は
信じなさらんと
見えるが
私は
信じてます。ドストエフスキイの
中か、ウオルテルの
中かに、
小説中の
人物が
云つてる
事が
有ります、
若し
神が
無かつたとしたら、
其時は
人が
神を
考へ
出さう。で、
私は
堅く
信じてゐます。
若し
來世が
無いと
爲たならば、
其時は
大いなる
人間の
智慧なるものが、
早晩是れを
發明しませう。』
『フヽム、
旨く
言つた。』
と、アンドレイ、エヒミチは
最と
滿足氣に
微笑して。
『
貴方は
然う
信じてゐなさるから
結構だ。
然云ふ
信仰が
有りさへすれば、
假令壁の
中に
塗込まれたつて、
歌を
歌ひながら
生活して
行かれます。
貴方は
失禮ながら
何處で
教育をお
受けになつたか?』
『
私は
大學でゝす、
然し
卒業せずに
終ひました。』
『
貴方は
思想家で
考深い
方です。
貴方のやうな
人は
甚麼場所にゐても、
自身に
於て
安心を
求める
事が
出來ます。
人生の
解悟に
向つて
居る
自由なる
深き
思想と、
此の
世の
愚なる
騷に
對する
全然の
輕蔑、
是れ
即ち
人間の
之れ
以上のものを
未甞て
知らぬ
最大幸福です。
而して
貴方は
縱令三
重の
鐵格子の
内に
住んでゐやうが、
此の
幸福を
有つてゐるのでありますから。ヂオゲンを
御覽なさい、
彼は
樽の
中に
住んでゐました、
然れども
地上の
諸王より
幸福で
有つたのです。』
『
貴方の
云ふヂオゲンは
白癡だ。』と、イワン、デミトリチは
憂悶して
云ふた。『
貴方は
何だつて
私に
解悟だとか、
何だとかと
云ふのです。』と、
俄に
怫然になつて
立上つた。『
私は
人並の
生活を
好みます、
實に、
私は
恁云ふ
窘逐狂に
罹つてゐて、
始終苦しい
恐怖に
襲はれてゐますが、
或時は
生活の
渇望に
心を
燃やされるです、
非常に
人並の
生活を
望みます、
非常に、
其れは
非常に。』
彼は
室内を
歩き
初めたが、
施て
小聲で
又言出す。
『
私は
時折種々な
事を
妄想しますが、
往々幻想を
見るのです、
或人が
來たり、
又人の
聲を
聞いたり、
音樂が
聞えたり、
又林や、
海岸を
散歩してゐるやうに
思はれる
時も
有ります。
何卒私に
世の
中の
生活を
話して
下さい、
何か
珍らしい
事でも
無いですか。』
『
町の
事をですか、
其れとも一
般の
事に
就いてゞすか?』
『
先づ
町の
事からして
伺ひませう。
其れから一
般のことを。』
『
町では
實にもう
退屈です。
誰を
相手に
話するものもなし。
話を
聞く
者もなし。
新しい
人間はなし。
然し
此頃ハヾトフと
云ふ
若い
醫者が
町には
來たですが。』
『
甚麼人間が。』
『いや、
極く
非文明的な、
奈何云ふものか
此の
町に
來る
所の
者は、
皆、
見るのも
胸の
惡いやうな
人間計り、
不幸な
町です。』
『
左樣さ、
不幸な
町です。』と、イワン、デミトリチは
溜息して
笑ふ。『
然し一
般には
奈何です、
新聞や、
雜誌は
奈何云ふ
事が
書いてありますか?』
病室の
中はもう
暗くなつたので、
院長は
靜に
立上る。
然して
立ちながら、
外國や、
露西亞の
新聞雜誌に
書いてある
珍らしい
事、
現今は
恁云ふ
思想の
潮流が
認められるとかと
話を
進めたが、イワン、デミトリチは
頗る
注意して
聞いてゐた。が
忽ち、
何か
恐しい
事でも
急に
思ひ
出したかのやうに、
彼は
頭を
抱へるなり、
院長の
方へくるりと
背を
向けて、
寐臺の
上に
横になつた。
『
奈何かしましたか?』と、
院長は問ふ。
『もう
貴方には一
言だつて
口は
開きません。』
イワン、デミトリチは
素氣なく
云ふ。『
私に
管はんで
下さい!』
『
奈何したのです?』
『
管はんで
下さいと
云つたら
管はんで
下さい、チヨツ、
誰が
那樣者と
口を
開くものか。』
院長は
肩を
縮めて
溜息をしながら
出て
行く、
而して
玄關の
間を
通りながら、ニキタに
向つて
云ふた。
『
此處邊を
少し
掃除したいものだな、ニキタ。
酷い
臭だ。』
『
拜承まりました。』と、ニキタは
答へる。
『
何と
面白い
人間だらう。』と、
院長は
自分の
室の
方へ
歸りながら
思ふた。『
此へ
來てから
何年振かで、
恁云ふ
共に
語られる
人間に
初めて
出會した。
議論も
遣る、
興味を
感ずべき
事に、
興味をも
感じてゐる
人間だ。』
彼は
其後讀書を
爲す
中にも、
睡眠に
就いてからも、イワン、デミトリチの
事が
頭から
去らず、
翌朝眼を
覺しても、
昨日の
智慧ある
人間に
遇つたことを
忘れる
事が
出來なかつた、
便宜も
有らばもう一
度彼を
是非尋ねやうと
思ふてゐた。
イワン、デミトリチは
昨日と
同じ
位置に、
兩手で
頭を
抱へて、
兩足を
縮めた
儘、
横に
爲つてゐて、
顏は
見えぬ。
『や、
御機嫌よう、
今日は。』
院長は六
號室へ
入つて
云ふた。『
君は
眠つてゐるのですか?』
『いや
私は
貴方の
朋友ぢや
無いです。』と、イワン、デミトリチは
枕の
中へ
顏を
愈埋めて
云ふた。『
又甚麼に
貴方は
盡力仕やうが
駄目です、もう一
言だつて
私に
口を
開かせる
事は
出來ません。』
『
變だ。』と、アンドレイ、エヒミチは
氣を
揉む。『
昨日我々は
那麼に
話したのですが、
何を
俄に
御立腹で、
絶交すると
有仰るのです、
何か
其れとも
氣に
障ることでも
申しましたか、
或は
貴方の
意見と
合はん
考を
云ひ
出したので?』
『いや、
那樣ら
貴方に
云ひませう。』と、イワン、デミトリチは
身を
起して、
心配さうに
又冷笑的に、ドクトルを
見るので
有つた。『
何も
貴方は
探偵したり、
質問をしたり、
此へ
來て
爲るには
當らんです。
何處へでも
他へ
行つて
爲た
方が
可いです。
私はもう
昨日貴方が
何の
爲に
來たのかゞ
解りましたぞ。』
『
是は
奇妙な
妄想を
爲たものだ。』と、
院長は
思はず
微笑する。『では
貴方は
私を
探偵だと
想像されたのですな。』
『
左樣。いや
探偵にしろ、
又私に
窃に
警察から
廻はされた
醫者にしろ、
何方だつて
同樣です。』
『いや
貴方は。
困つたな、まあお
聞きなさい。』と、
院長は
寐臺の
傍の
腰掛に
掛けて
責るがやうに
首を
振る。
『
然し
假りに
貴方の
云ふ
所が
眞實として、
私が
警察から
廻された
者で、
何か
貴方の
言を
抑へやうとしてゐるものと
假定しませう。で、
貴方が
其爲に
拘引されて、
裁判に
渡され、
監獄に
入れられ、
或は
懲役に
爲れるとして
見て、
其れが
奈何です、
此の六
號室にゐるのよりも
惡いでせうか。
此に
入れられてゐるよりも
貴方に
取つて
奈何でせうか?
私は
此より
惡い
所は
無いと
思ひます。
若し
然うならば
何を
貴方は
那樣に
恐れなさるのか?』
此の
言にイワン、デミトリチは
大に
感動されたと
見えて、
彼は
落着いて
腰を
掛けた。
時は
丁度四
時過ぎ。
毎もなら
院長は
自分の
室から
室へと
歩いてゐると、ダリユシカが、
麥酒は
旦那樣如何ですか、と
問ふ
刻限。
戸外は
靜に
晴渡つた
天氣である。
『
私は
中食後散歩に
出掛けましたので、
些と
立寄りましたのです。もう
全然春です。』
『
今は
何月です、三
月でせうか?』
『
左樣、三
月も
末です。』
『
戸外は
泥濘つて
居りませう。』
『
那樣でも
有りません、
庭にはもう
小徑が
出來てゐます。』
『
今頃は
馬車にでも
乘つて、
郊外へ
行つたらさぞ
好いでせう。』と、イワン、デミトリチは
赤い
眼を
擦りながら
云ふ。『
而して
其れから
家の
暖い
閑靜な
書齋に
歸つて……
名醫に
恃つて
頭痛の
療治でも
爲て
貰らつたら、
久しい
間私はもうこの
人間らしい
生活を
爲ないが、
其にしても
此處は
實に
不好な
所だ。
實に
堪へられん
不好な
所だ。』
昨日の
興奮の
爲にか、
彼は
疲れて
脱然して、
不好不好ながら
言つてゐる。
彼の
指は
顫へてゐる。
其顏を
見ても
頭が
酷く
痛んでゐると
云ふのが
解る。
『
暖い
閑靜な
書齋と、
此の
病室との
間に、
何の
差も
無いのです。』と、アンドレイ、エヒミチは
云ふた。『
人間の
安心と、
滿足とは
身外に
在るのではなく、
自身の
中に
在るのです。』
『
奈何云ふ
譯で。』
『
通常の
人間は、
可い
事も、
惡い
事も
皆身外から
求めます。
即ち
馬車だとか、
書齋だとかと、
然し
思想家は
自身に
求めるのです。』
『
貴方は
那樣哲學は、
暖な
杏の
花の
香のする
希臘に
行つてお
傳へなさい、
此處では
那樣哲學は
氣候に
合ひません。いやさうと、
私は
誰かとヂオゲンの
話を
爲ましたつけ、
貴方とでしたらうか?』
『
左樣昨日私と。』
『ヂオゲンは
勿論書齋だとか、
暖い
住居だとかには
頓着しませんでした。
是は
彼の
地が
暖いからです。
樽の
中に
寐轉つて
蜜柑や、
橄欖を
食べてゐれば
其れで
過される。
然し
彼をして
露西亞に
住はしめたならば、
彼必ず十二
月所ではない、三
月の
陽氣に
成つても、
室の
内に
籠つてゐたがるでせう。
寒氣の
爲に
體も
何も
屈曲つて
了ふでせう。』
『いや
寒氣だとか、
疼痛だとかは
感じない
事が
出來るです。マルク、アウレリイが
云つた
事が
有りませう。「
疼痛とは
疼痛の
活きた
思想である、
此の
思想を
變ぜしむるが
爲には
意旨の
力を
奮ひ、
而して
之を
棄てゝ
以て、
訴ふる
事を
止めよ、
然らば
疼痛は
消滅すべし。」と、
是は
可く
言つた
語です、
智者、
哲人、
若しくは
思想家たるものゝ、
他人に
異る
所の
點は、
即ち
此に
在るのでせう、
苦痛を
輕んずると
云ふ
事に。
是に
於てか
彼等は
常に
滿足で、
何事にも
又驚かぬのです。』
『では
私などは
徒に
苦み、
不滿を
鳴し、
人間の
卑劣に
驚いたり
計りしてゐますから、
白癡だと
有仰るのでせう。』
『
然うぢや
無いです。
貴方も
愈深く
考慮るやうに
成つたならば、
我々の
心を
動す
所の、
總ての
身外の
些細なる
事は
苦にもならぬとお
解りになる
時が
有りませう、
人は
解悟に
向はなければなりません。
是が
眞實の
幸福です。』
『
解悟……。』イワン、デミトリチは
顏を
顰める。『
外部だとか、
内部だとか……。いや
私には
然云ふ
事は
少しも
解らんです。
私の
知つてゐる
事は
唯是丈です。』と、
彼は
立上り、
怒つた
眼で
院長を
睨み
付ける。『
私の
知つてゐるのは、
神が
人を
熱血と、
神經とより
造つたと
云ふ
事丈です!
又有機的組織は、
若し
其れが
生活力を
有つてゐるとすれば、
總ての
刺戟に
反應を
起すべきものである。
其れで
私は
反應してゐます。
即疼痛に
對しては、
絶※[#「口+斗」、51-下-12]と、
涙とを
以て
答へ、
虚僞に
對しては
憤懣を
以て、
陋劣に
對しては
厭惡の
情を
以て
答へてゐるです。
私の
考では
是が
抑生活と
名づくべきものだらうと。
又有機體が
下等に
成れば
成る
丈け、より
少く
物を
感ずるので
有らうと、
其故により
弱く
刺戟に
答へるのである。で、
高等に
成れば
隨てより
強き
勢力を
以て、
實際に
反應するのです。
貴方は
醫者でおゐでて、
如何して
那麼譯がお
解りにならんです。
苦を
輕んずるとか、
何にでも
滿足してゐるとか、
甚麼事にも
驚かんと
云ふやうになるのには、
那です、
那云ふ
状態になつて
了はんければ。』と、イワン、デミトリチは
隣の
油切つた
彼の
動物を
差してさう
云ふた。『
或は
又苦痛を
以て
自分を
鍛練して、
其れに
對しての
感覺を
恰で
失つて
了ふ、
言を
換へて
言へば、
生活を
止めて
了ふやうなことに
至らしめなければならぬのです。
私は
無論哲人でも、
哲學者でも
無いのですから。』と、
更に
激して。『ですから、
那麼事に
就いては
何にも
解らんのです。
議論する
力が
無いのです。』
『
如何してなか/\、
貴方は
立派に
議論なさるです。』
『
貴方が
例證に
引きなすつたストア
派の
哲學者等は
立派な
人達です。
然しながら
彼等の
學説は
已に二千
年以前に
廢れて
了ひました、もう一
歩も
進まんのです、
是から
先、
又進歩する
事は
無い。
如何となれば
是は
現實的でない、
活動的で
無いからで
有る。
恁云ふ
學説は、
唯種々の
學説を
集めて
研究したり、
比較したりして、
之を
自分の
生涯の
目的としてゐる、
極めて
少數の
人計りに
行はれて、
他の
多數の
者は
其れを
了解しなかつたのです。
苦痛を
輕蔑すると
云ふ
事は、
多數の
人に
取つたならば、
即ち
生活其物を
輕蔑すると
云ふ
事になる。
如何となれば、
人間全體は、
餓だとか、
寒だとか、
凌辱めだとか、
損失だとか、
死に
對するハムレツト
的の
恐怖などの
感覺から
成立つてゐるのです。
此の
感覺の
中に
於て
人生全體が
含まつてゐるのです。
之を
苦にする
事、
惡む
事は
出來ます。が、
之を
輕蔑する
事は
出來んです。で
有るから、ストア
派の
哲學者は
未來を
有つ
事が
出來んのです。
御覽なさい、
世界の
始から、
今日に
至るまで、
益進歩して
行くものは
生存競爭、
疼痛の
感覺、
刺戟に
對する
反應の
力などでせう。』と、イワン、デミトリチは
俄に
思想の
聯絡を
失つて、
殘念さうに
額を
擦つた。
『
何か
肝心なことを
云はうと
思つて
出なくなつた。』
と、
彼は
續ける。『
其れぢや
基督でも
例に
引きませう、
基督は
泣いたり、
微笑したり、
悲んだり、
怒つたり、
憂に
沈んだりして、
現實に
對して
反應してゐたのです。
彼は
微笑を
以て
苦に
對はなかつた、
死を
輕蔑しませんでした、
却つて「
此の
杯を
我より
去らしめよ」と
云ふて、ゲフシマニヤの
園で
祈祷しました。』
イワン、デミトリチは
恁く
云つて
笑出しながら
坐る。
『で
假りに
人間の
滿足と
安心とが、
其身外に
在るに
非らずして、
自身の
内に
在るとして、
又假りに
苦痛を
輕蔑して、
何事にも
驚かぬように
爲なければならぬとして、
見て、
第一
貴方自身は
何に
基いて、
這麼ことを
主張なさるのか、
貴方は一
體哲人ですか、
哲學者ですか?』
『いや
私は
哲學者でも
何でも
無い。が、
之を
主張するのは、
大に
各人の
義務だらうと
思ふのです、
是は
道理の
有る
事で。』
『いや
私の
知らうと
思ふのは、
何の
爲に
貴方が
解悟だの、
苦痛だの、
其れに
對する
輕蔑だの、
其他の
事に
就いて
自ら
精通家と
認めてお
出なのですか。
貴方は
何時にか
苦んだ
事でも
有るのですか、
苦しみと
云ふ
事の
理解を
有つてお
出でゝすか、
或は
失禮ながら
貴方はお
幼少時分、
打擲でもなされましたことがお
有りなのですか?』
『
否、
私の
兩親は、
身體上の
處刑は
非常に
嫌つて
居たのです。』
『
私は
父には
酷く
仕置をされました。
私の
父は
極く
苛酷な
官員で
有つたのです。が、
貴方の
事を
申して
見ませうかな。
貴方は一
生涯誰にも
苛責された
事は
無く、
健康なること
牛の
如く、
嚴父の
保護の
下に
生長し、
其れで
學問させられ、
其からして
割の
好い
役に
取付き、二十
年以上の
間も、
暖爐も
焚いてあり、
燈も
明るき
無料の
官宅に、
奴婢をさへ
使つて
住んで、
其上、
仕事は
自分の
思ふ
儘、
仕ても
仕ないでも
濟んでゐると
云ふ
位置。で、
生來貴方は
怠惰者で、
嚴格で
無い
人間、
其故貴方は
何んでも
自分に
面倒でないやう、
働かなくとも
濟むやうと
計り
心掛けてゐる、
事業は
代診や、
其他の
やくざものに
任せ
切り、
而して
自分は
暖い
靜な
處に
坐して、
金を
溜め、
書物を
讀み、
種々な
屁理窟を
考へ、
又酒を(
彼は
院長の
赤い
鼻を
見て)
呑んだりして、
樂隱居のやうな
眞似をしてゐる。一
言で
云へば、
貴方は
生活と
云ふものを
見ないのです、
其れを
全く
知らんのです。
而して
實際と
云ふ
事を
唯理論の
上から
計り
推してゐる。だから
苦痛を
輕蔑したり、
何事にも
驚かんなどと
云つてゐられる。
其れは
甚だ
單純な
原因に
由るのです。「
空の
空」だとか、
内部だとか、
外部だとか、
苦痛や、
死に
對する
輕蔑だとか、
眞正なる
幸福だとか、と
那麼言草は、
皆ロシヤの
怠惰者に
適當してゐる
哲學です。で、
貴方は
恁うなのだ、
先づ
齒が
痛むと
云ふ
農婦が
來る……と、
其れが
奈何したのだ。
疼痛は
疼痛の
事の
思想である。
且又、
病氣が
無くては
此の
世に
生きて
行く
譯には
行かぬものだ。
早く
歸るべし。
俺の
思想とヴオツカを
呑む
邪魔を
爲るな。と
恁う
云ふでせう。
又或若者が
來て
奈何云ふ
風に
生活を
爲たら
可いかと
相談を
掛けられる、と、
他人は
先づ一
番考へる
所で
有らうが、
貴方には
其答はもう
丁と
出來てゐる。
解悟に
向ひなさい、
眞正の
幸福に
向ひなさい。と
恁云ふです。
我々を
這麼格子の
内に
監禁して
置いて
苦しめて、
而して
是は
立派な
事だ、
理窟の
有る
事だ、
奈何となれば
此の
病室と、
暖なる
書齋との
間に
何の
差別もない。と、
誠に
都合の
好い
哲學です。
而して
自分を
哲人と
感じてゐる……いや
貴方是はです、
哲學でもなければ、
思想でもなし、
見解の
敢て
廣いのでも
無い、
怠惰です。
自滅です。
睡魔です!
左樣!』と、イワン、デミトリチは
昂然として『
貴方は
苦痛を
輕蔑なさるが、
試に
貴方の
指一
本でも
戸に
挾んで
御覽なさい、
然うしたら
聲限り
※[#「口+斗」、53-上-13]ぶでせう。』
『
或は
※[#「口+斗」、53-上-15]ばんかも
知れません。』と、アンドレイ、エヒミチは
言ふ。
『
那樣事は
無い、
例へば
御覽なさい、
貴方が
中風にでも
罹つたとか、
或は
假に
愚者が
自分の
位置を
利用して
貴方を
公然辱しめて
置いて、
其れが
後に
何の
報も
無しに
濟んで
了つたのを
知つたならば、
其時貴方は
他の
人に、
解悟に
向ひなさいとか、
眞正の
幸福に
向ひなさいとか
云ふ
事の
効力が
果して、
何程と
云ふことが
解りませう。』
『これは
奇※[#「抜」の「友」に代えて「ノ/友」、53-上-21]だ。』と
院長は
滿足の
餘り
微笑しながら、
兩手を
擦り/\
云ふ。『
私は
貴方が
總てを
綜合する
傾向を
有つてゐるのを、
面白く
感じ
且つ
敬服致したのです、
又貴方が
今述べられた
私の
人物評は、
唯感心する
外は
有りません。
實は
私は
貴方との
談話に
於て、
此上も
無い
滿足を
得ましたのです。で、
私は
貴方のお
話を
不殘伺ひましたから、
此度は
何卒私の
話をもお
聞き
下さい。』
恁くて
後、
猶二人の
話は一
時間も
續いたが、
其れより
院長は
深く
感動して、
毎日、
毎晩のやうに六
號室に
行くのであつた。
二人は
話込んでゐる
中に
日も
暮れて
了ふ
事が
往々有る
位。イワン、デミトリチは
初めの
中は
院長が
野心でも
有るのでは
無いかと
疑つて、
彼に
左右遠ざかつて、
不愛想にしてゐたが、
段々慣れて、
遂には
全く
素振を
變へたので
有つた。
然るに
病院の
中では
院長アンドレイ、エヒミチが六
號室に
切に
通ひ
出したのを
怪んで、
其評判が
高くなり、
代診も、
看護婦も、一
樣に
何の
爲に
行くのか、
何で
數時間餘も
那麼處にゐるのか、
甚麼話を
爲るので
有らうか、
彼處へ
行つても
處方書を
示さぬでは
無いかと、
彼方でも、
此方でも、
彼が
近頃の
奇なる
擧動の
評判で
持切つてゐる
始末。ミハイル、アウエリヤヌヰチは
此頃では
始終彼の
留守に
計り
行く。ダリユシカは
旦那が
近頃は
定刻に
麥酒を
呑まず、
中食迄も
晩れることが
度々なので
困却つてゐる。
或時六
月の
末、ドクトル、ハヾトフは、
院長に
用事が
有つて、
其室に
行つた
所、
居らぬので
庭へと
探しに
出た。すると
其處で
院長は六
號室で
有ると
聞き、
庭から
直に
別室に
入り、
玄關の
間に
立留ると、
丁度恁云ふ
話聲が
聞えたので。
『
我々は
到底合奏は
出來ません、
私を
貴方の
信仰に
歸せしむる
譯には
行きませんから。』
と、イワン、デミトリチの
聲。
『
現實と
云ふ
事は
全く
貴方には
解らんのです、
貴方は
未嘗て
苦んだ
事は
無いのですから。
然し
私は
生れた
其日より
今日迄、
絶えず
苦痛を
嘗めてゐるのです、
其故私は
自分を
貴方よりも
高いもの、
萬事に
於て、より
多く
精通してゐるものと
認めて
居るです。ですから
貴方が
私に
教へると
云ふ
場合で
無いのです。』
『
私は
何も
貴方を
自分の
信仰に
向はせやうと
云ふ
權利を
主張はせんのです。』
院長は
自分を
解つて
呉れ
人の
無いので、さも
殘念と
云ふやうに。『
然云ふ
譯では
無いのです、
其れは
貴方が
苦痛を
嘗めて、
私が
嘗めないといふことではないのです。
詮ずる
所、
苦痛も
快樂も
移り
行くもので、
那樣事は
奈何でも
可いのです。で、
私が
言はうと
思ふのは、
貴方と
私とが
思想するもの、
相共に
思想したり、
議論を
爲たりする
力が
有るものと
認めてゐるといふことです。
縱令我々の
意見が
何の
位違つても、
此に
我々の一
致する
所があるのです。
貴方が
若し
私が一
般の
無智や、
無能や、
愚鈍を
何れ
程に
厭ふて
居るかと
知つて
下すつたならば、
又如何なる
喜を
以て、
恁うして
貴方と
話をしてゐるかと
云ふ
事を
知つて
下すつたならば!
貴方は
知識の
有る
人です。』
ハヾトフは
此時少計り
戸を
開けて
室内を
覗いた。イワン、デミトリチは
頭巾を
被つて、
妙な
眼付をしたり、
顫上つたり、
神經的に
病院服の
前を
合はしたりしてゐる。
院長は
其側に
腰を
掛けて、
頭を
垂れて、
凝として
心細いやうな、
悲しいやうな
樣子で
顏を
赤くしてゐる。ハヾトフは
肩を
縮めて
冷笑し、ニキタと
見合ふ。ニキタも
同じく
肩を
縮める。
翌日ハヾトフは
代診を
伴れて
別室に
來て、
玄關の
間で
又も
立聞。
『
院長殿、とう/\
發狂と
御坐つたわい。』と、ハヾトフは
別室を
出ながらの
話。
『
主憐よ、
主憐よ、
主憐よ!』と、
敬虔なるセルゲイ、セルゲヰチは
云ひながら。ピカ/\と
磨上げた
靴を
汚すまいと、
庭の
水溜を
避け/\
溜息をする。
『
打明けて
申しますとな、エウゲニイ、フエオドロヰチもう
私は
疾うから
這麼事になりはせんかと
思つてゐましたのさ。』
其後院長アンドレイ、エヒミチは
自分の
周圍の
者の
樣子の、ガラリと
變つた
事を
漸く
認めた。
小使、
看護婦、
患者等は、
彼に
往遇ふ
度に、
何をか
問ふものゝ
如き
眼付で
見る、
行き
過ぎてからは
私語く。
折々庭で
遇ふ
會計係の
小娘の、
彼が
愛してゐた
所のマアシヤは、
此の
節は
彼が
微笑して
頭でも
撫でやうとすると、
急いで
遁出す。
郵便局長のミハイル、アウエリヤヌヰチは、
彼の
所に
來て、
彼の
話を
聞いてはゐるが、
先のやうに
其れは
眞實ですとはもう
云はぬ。
何となく
心配さうな
顏で、
左樣々々、
々々、と、
打濕つて
云つてるかと
思ふと、やれヴオツカを
止せの、
麥酒を
止めろのと
勸初める。
又醫員のハヾトフも
時々來ては、
何故かアルコール
分子の
入つてゐる
飮物を
止せ。ブローミウム
加里を
服めと
勸めて
行くので。
八
月にアンドレイ、エヒミチは
市役所から、
少し
相談が
有るに
由つて、
出頭を
願ふと
云ふ
招状が
有つた、で、
定刻に
市役所に
行つて
見ると、もう
地方軍令部長を
初め、
郡立學校視學官市役所員、それにドクトル、ハヾトフ、
又も
一人の
見知らぬブロンヂンの
男、
ずらりと
並んで
控へてゐる。
傍にゐた
者は
直ぐに
院長に
此の
人間を
紹介した、
猶且ドクトルで、
何だとかと
云ふポーランドの
云ひ
惡い
名、
此の
町から三十ヴエルスタ
計り
隔つてゐる、
或る
育馬所に
居る
者、
今日此の
町を
何かの
用で
些と
通掛つたので、
此の
場所へ
立寄つたとのことで。
『えゝ
只今、
足下に
御關係の
有る
事柄で、
申上げたいと
思ふのですが。』と、
市役所員は
居並ぶ
人々の
挨拶が
濟むと
恁う
切り
出した。『あ、エウゲニイ、フエオドロヰチの
有仰るには、
本院の
藥局が
狹隘ので、
之を
別室の一つに
移轉しては
奈何かと
云ふのです。
勿論是は
雜作も
無い
事ですが、
其れには
別室の
修繕を
要すると
云ふ
其事です。』
『
左樣、
修繕を
致さなければならんでせう。』と、
院長は
考へながら
云ふ。『
例へば
隅の
別室を
藥局に
當てやうと
云ふには、
私の
考では、
極く
少額に
見積つても五百
圓は
入りませう、
然し
餘り
不生産的な
費用です。』
皆は
少時默してゐる。
院長は
靜に
又續ける。
『
私はもう十
年も
前から、さう
申上げてゐたのですが、
全體此の
病院の
設立られたのは、四十
年代の
頃でしたが、
其時分は
今日のやうな
資力では
無かつたもので。
然し
今日の
所では
病院は、
確に
市の
資力以上の
贅澤に
爲つてゐるので、
餘計な
建物、
餘計な
役などで
隨分費用も
多く
費つてゐるのです。
私の
思ふには、
是丈の
錢を
費ふのなら、
遣り
方をさへ
換へれば、
此に二つの
模範的の
病院を
維持する
事が
出來ると
思ひます。』
『では一つ
遣り
方を
換へて
御覽になつたら
如何です。』
と、
市役所員は
活發に
云ふ。
『
私は
前にも
申上ました
通り、
醫學上の
事務を
地方自治體の
方へ、お
渡しになつては
如何でせう?』
『
地方自治に
錢を
渡したら、
其れこそ
彼等は
皆盜んで
了ひませう。』と、ブロンヂンのドクトルは
笑ひ
出す。
『
其りや
極つてます。』と、
市役所員も
同意して
笑ふ。
院長は
茫然とブロンヂンのドクトルを
見たが。『
然し
公平に
考へなければなりません。』と
云ふた。
皆は
又少時默して
了ふ。
其中に
茶が
出る。ドクトル、ハヾトフは
皆との一
般の
話の
中も、
院長の
言に
注意をして
聞いてゐたが
突然に。『アンドレイ、エヒミチ
今日は
何日です?』
其から
續いて、ハヾトフとブロンヂンのドクトルとは
下手なのを
感じてゐる
試驗官と
云つたやうな
調子で、
今日は
何曜日だとか、一
年の
中には
何日有るとか、六
號室には
面白い
豫言者がゐるさうなとかと、
交々尋問ねるので
有つた。
院長は
終の
問には
赤面して。『いや、
那は
病人です、
然し
面白い
若者で。』と
答へた。
もう
誰も
何とも
質問を
爲ぬのである。
院長は
玄關の
間で
外套を
着、
市役所の
門を
出たが、
是は
自分の
才能を
試驗する
所の
委員會で
有つたと
初めて
悟り、
自分に
懸けられた
質問を
思ひ
出し、
一人自ら
赤面し、一
生の
中今初めて、
醫學なるものを、つくづくと
情無い
者に
感じたのである。
其晩、
郵便局長のミハイル、アウエリヤヌヰチは
彼の
所に
來たが、
挨拶もせずに
匆卒彼の
兩手を
握つて、
聲を
顫はして
云ふた。
『おゝ
君、ねえ、
君は
僕の
切なる
意中を
信じて、
僕を
親友と
認めて
呉れる
事を
證して
下さるでせうね……え、
君!』
彼は
院長の
云はんとするのを
遮つて、
何かそわ/\して
續けて
云ふ。『
私は
貴方の
教育と、
高尚なる
心とを
甚だ
敬愛して
居るです。
何卒君、
私の
云ふことを
聞いて
下さい。
醫學の
原則は、
醫者等をして
貴方に
實を
云はしめたのです。
然しながら
私は
軍人風に
眞向に
切出します。
貴方に
打明けて
云ひます、
即ち
貴方は
病氣なのです。
是はもう
周圍の
者の
疾うより
認めてゐる
所で、
只今もドクトル、エウゲニイ、フエオドロヰチが
云ふのには、
貴方の
健康の
爲には、
須く
氣晴をして、
保養を
專一と
爲んければならんと。
是は
實際です。
所が、
丁度私も
此の
節、
暇を
貰つて、
異つた
空氣を
吸ひに
出掛けやうと
思つてゐる
矢先、
如何でせう、一
所に
付合つては
下さらんか、
而して
舊事を
皆忘れて
了ひませうぢや
有りませんか。』
『
然し
私は
少しも
身體に
異状は
無いです、
壯健です。
無暗に
出掛ける
事は
出來ません、
何卒私の
友情を
他の
事で
何とか
證させて
下さい。』
アンドレイ、エヒミチは
初の一
分時は、
何の
意味もなく
書物と
離れ、ダリユシカと
麥酒とに
別れて、二十
年來定まつた
其生活の
順序を
破ると
云ふ
事は
出來なく
思ふたが、
又深く
思へば、
市役所で
有りし
事、
其自ら
感じた
不愉快の
事、
愚な
人々が
自分を
狂人視してゐる
這麼町から、
少しでも
出て
見たらば、とも
思ふので
有つた。
『
然し
貴方は一
體何處へお
出掛けにならうと
云ふのです?』
院長は
問ふた。
『モスクワへも、ペテルブルグへも、ワルシヤワへも……ワルシヤワは
實に
好い
所です、
私が
幸福の五
年間は
彼處で
送つたのでした、
其れは
好い
町です、
是非行きませう、ねえ
君。』
一
週間を
經てアンドレイ、エヒミチは、
病院から
辭職の
勸告を
受けたが、
彼は
其れに
對しては
至つて
平氣であつた。
恁くて
又一
週間を
過ぎ、
遂にミハイル、アウエリヤヌヰチと
共に
郵便の
旅馬車に
打乘り、
近き
鐵道のステーシヨンを
差して、
旅行にと
出掛けたのである。
空は
爽に
晴れて、
遠く
木立の
空に
接する
邊も
見渡される
凉しい
日和。ステーシヨン
迄の二百ヴエルスタの
道を二
晝夜で
過ぎたが、
其間馬の
繼場々々で、ミハイル、アウエリヤヌヰチは、やれ、
茶の
杯の
洗ひやうが
奈何だとか、
馬を
附けるのに
手間が
取れるとかと
力んで、
上句には、
何も
默れとか、
彼れ
此れ
云ふな、とかと
眞赤になつて
騷を
返す。
道々も一
分の
絶間もなく
喋り
續けて、カフカズ、ポーランドを
旅行したことなどを
話す。
而して
大聲で
眼を
剥出し、
夢中になつてドクトルの
顏へはふツ/\と
息を
吐掛ける、
耳許で
高笑する。ドクトルは
其れが
爲に
考に
耽ることもならず、
思に
沈む
事も
出來ぬ。
汽車は
經濟の
爲に三
等で、
喫烟を
爲ぬ
客車で
行つた。
車室の
中はさのみ
不潔の
人間計りではなかつたが、ミハイル、アウエリヤヌヰチは
直に
人々と
懇意になつて
誰にでも
話を
仕掛け、
腰掛から
腰掛へ
廻り
歩いて、
大聲で、
這麼不都合極る
汽車は
無いとか、
皆盜人のやうな
奴等計りだとか、
乘馬で
行けば一
日に百ヴエルスタも
飛ばせて、
其上愉快に
感じられるとか、
我々の
地方の
不作なのはピン
沼などを
枯して
了つたからだ、
非常な
亂暴をしたものだとか、などと
云つて、
殆ど
他には
口も
開かせぬ、
而して
其相間には
高笑と、
仰山な
身振。
『
私等二人の
中、
何れが
瘋癲者だらうか。』と、ドクトルは
腹立しくなつて
思ふた。『
少しも
乘客を
煩はさんやうに
務めてゐる
俺か、
其れとも
這麼に
一人で
大騷をしてゐた、
誰にも
休息も
爲せぬ
此の
利己主義男か?』
モスクワへ
行つてから、ミハイル、アウエリヤヌヰチは
肩章の
無い
軍服に、
赤線の
入つたヅボンを
穿いて
町を
歩くにも、
軍帽を
被り、
軍人の
外套を
着た。
兵卒は
彼を
見て
敬禮をする。アンドレイ、エヒミチは
今初めて
氣が
着いたが、ミハイル、アウエリヤヌヰチは
前に
大地主で
有つた
時の、
餘り
感心せぬ
風計りが
今も
殘つてゐると
云ふことを。
机の
前にマツチは
有つて、
彼は
其れを
見てゐながら、
其癖、
大聲を
上げて
小使を
呼んでマツチを
持つて
來いなどと
云ひ、
女中のゐる
前でも
平氣で
下着一つで
歩いてゐる、
下僕や、
小使を
捉へては、
年を
寄つたものでも
何でも
構はず、
貴樣々々と
頭碎。
其上に
腹を
立つと
直ぐに、
此の
野郎、
此の
大馬鹿と
惡體が
初まるので、
是等は
大地主の
癖であるが、
餘り
感心した
風では
無い、とドクトルも
思ふたのであつた。
モスクワ
見物の
第一
着に、ミハイル、アウエリヤヌヰチは
其友を
先づイウエルスカヤ
小聖堂に
伴れ
行き、
其處で
彼は
熱心に
伏拜して
涙を
流して
祈祷する、
而して
立上り、
深く
溜息して
云ふには。
『
縱令信じなくとも、
祈祷をすると、
何とも
云はれん
位、
心が
安まる、
君、
接吻爲給へ。』
アンドレイ、エヒミチは
體裁惡く
思ひながら、
聖像に
接吻した。ミハイル、アウエリヤヌヰチは
唇を
突出して、
頭を
振りながら、
又も
小聲で
祈祷して
涙を
流してゐる。
其れから
二人は
其處を
出て、クレムリに
行き、
大砲王(
巨大な砲)と
大鐘王(
巨大な鐘、モスクワの二大名物)とを
見物し、
指で
觸つて
見たりした。
其れよりモスクワ
川向の
町の
景色などを
見渡しながら、
救世主の
聖堂や、ルミヤンツセフの
美術館なんどを
廻つて
見た。
中食はテストフ
亭と
云ふ
料理店に
入つたが、
此でもミハイル、アウエリヤヌヰチは、
頬鬚を
撫でながら、
暫少時、
品書を
拈轉つて、
料理店を
我が
家のやうに
擧動ふ
愛食家風の
調子で。
『
今日は
甚麼御馳走で
我々を
食はして
呉れるか。』と、
無暗と
幅を
利かせたがる。
ドクトルは
見物もし、
歩いても
見、
食つても
飮んでも
見たのであるが、たゞもう
毎日ミハイル、アウエリヤヌヰチの
擧動に
弱らされ、
其れが
鼻に
着いて、
嫌で、
嫌でならぬので、
如何かして一
日でも、一
時でも、
彼から
離れて
見たく
思ふので
有つたが、
友は
自分より
彼を一
歩でも
離す
事はなく、
何でも
彼の
氣晴をするが
義務と、
見物に
出ぬ
時は
饒舌り
續けて
慰めやうと、
附纒ひ
通しの
有樣。二
日と
云ふものアンドレイ、エヒミチは
堪へ
堪へて、
我慢をしてゐたのであるが、三
日目にはもう
如何にも
堪へ
切れず。
少し
身體の
工合が
惡いから、
今日丈け
宿に
殘つてゐると、
遂に
思切つて
友に
云ふたので
有つた、
然るにミハイル、アウエリヤヌヰチは、
其れぢや
自分も
家にゐる
事に
爲やう、
少しは
休息も
爲なければ
足も
續かぬからと
云ふ
挨拶。アンドレイ、エヒミチは
うんざりして、
長椅子の
上に
横になり、
倚掛の
方へ
突と
顏を
向けた
儘、
齒を
切つて、
友の
喋喋語るのを
詮方なく
聞いてゐる。
然りとも
知らぬミハイル、アウエリヤヌヰチは、
大得意で、
佛蘭西は
早晩獨逸を
破つて
了ふだらうとか、モスクワには
攫客が
多いとか、
馬は
見掛計りでは、
其眞價は
解らぬものであるとか。と、
其れから
其れへと
話を
續けて
息の
繼ぐ
暇も
無い、ドクトルは
耳が
[#「耳が」は底本では「耳を」]ガンとして、
心臟の
鼓動さへ
烈しくなつて
來る。と
云つて、
出て
行つて
呉れ、
默つてゐて
呉れとは
彼には
言はれぬので、
凝と
辛抱してゐる
辛さは一
倍である。
所が
仕合にもミハイル、アウエリヤヌヰチの
方が、
此度は
宿に
引込んでゐるのが、とうとう
退屈になつて
來て、
中食後には
散歩にと
出掛けて
行つた。
アンドレイ、エヒミチは
やつと一人になつて、
長椅子の
上に
のろ/\と
落着いて
横になる。
室内に
自分唯一人、と
意識するのは
如何に
愉快で
有つたらう。
眞實の
幸福は
實に
一人でなければ
得べからざるもので
有ると、つく/″\
思ふた。
而して
彼は
此頃見たり、
聞いたりした
事を
考へやうと
思ふたが、
如何したものか
猶且、ミハイル、アウエリヤヌヰチが
頭から
離れぬので
有つた。
其の
後は
彼は
少しも
外出せず、
宿に
計り
引込んでゐた。
友は
態々休暇を
取つて、
恁く
自分と
共に
出發したのでは
無いか。
深き
友情によつてゞは
無いか、
親切なのでは
無いか。
然し
實に
是程有難迷惑の
事が
又と
有らうか。
降參だ、
眞平だ。とは
云へ、
彼に
惡意が
有るのでは
無い。と、ドクトルは
更に
又沁々と
思ふたので
有つた。
ペテルブルグに
行つてからもドクトルは
猶且同樣、
宿にのみ
引籠つて
外へは
出ず、一
日長椅子の
上に
横になり、
麥酒を
呑む
時に
丈け
起る。
ミハイル、アウエリヤヌヰチは、
始終ワルシヤワへ
早く
行かうと
計り
云ふてゐる。
『
然し
君、
私は
何もワルシヤワへ
行く
必要は
無いのだから、
君一人で
行き
給へ、
而して
私を
何卒先に
故郷に
歸して
下さい。』アンドレイ、エヒミチは
哀願するやうに
云ふた。
『
飛だ
事さ。』と、ミハイル、アウエリヤヌヰチは
聽入れぬ。『ワルシヤワこそ
君に
見せにやならん、
僕が五
年の
幸福な
生涯を
送つた
所だ。』
アンドレイ、エヒミチは
例の
氣質で、
其れでもとは
云ひ
兼ね、
遂に
又嫌々ながらワルシヤワにも
行つた。
其處でも
彼は
宿から
出ずに、
終日相變らず
長椅子の
上に
轉がり、
相變らず
友の
擧動に
愛想を
盡かしてゐる。ミハイル、アウエリヤヌヰチは
一人して
元氣可く、
朝から
晩迄町を
遊び
歩き、
舊友を
尋ね
廻り、
宿には
數度も
歸らぬ
夜が
有つた
位。と、
或朝早く
非常に
興奮した
樣子で、
眞赤な
顏をし、
髮も
茫々として
宿に
歸つて
來た。
而して
何か
獨語しながら、
室内を
隅から
隅へと
急いで
歩く。
『
名譽は
大事だ。』
『
然うだ
名譽が
大切だ。
全體這麼町に
足を
踏込んだのが
間違ひだつた。』と、
彼は
更にドクトルに
向つて
云ふた。『
實は
私は
負けたのです。で、
奈何でせう、
錢を五百
圓貸しては
下さらんか?』
アンドレイ、エヒミチは
錢を
勘定して、五百
圓を
無言で
友に
渡したのである。ミハイル、アウエリヤヌヰチは
未だ
眞赤になつて、
面目無いやうな、
怒つたやうな
風で。『
屹度返却します、
屹度。』などと
誓ひながら、
又帽を
取るなり
出て
行つた。が、
大約二
時間を
經つてから
歸つて
來た。
『お
蔭で
名譽は
助かつた。もう
出發しませう。
這麼不徳義極る
所に一
分だつて
留つてゐられるものか。
掏摸ども
奴、
墺探ども
奴。』
二人が
旅行を
終へて
歸つて
來たのは十一
月、
町にはもう
深雪が
眞白に
積つてゐた。アンドレイ、エヒミチは
歸つて
見れば
自分の
位置は
今はドクトル、ハヾトフの
手に
渡つて、
病院の
官宅を
早く
明渡すのをハヾトフは
待つてゐるといふとの
事、
又其の
下女と
名づけてゐた
醜婦は、
此の
間から、
別室の
内の
或る
處に
移轉した。
町には、
病院の
新院長に
就いての
種々な
噂が
立てられてゐた。
下女と
云ふ
醜婦が
會計と
喧嘩をしたとか、
會計は
其女の
前に
膝を
折つて
謝罪したとか、と。
アンドレイ、エヒミチは
歸來早々先づ
其住居を
尋ねねばならぬ。
『
不遠慮な
御質問ですがなあ
君。』と
郵便局長はアンドレイ、エヒミチに
向つて
云ふた。
『
貴方は
何位財産をお
所有ちですか?』
問はれて、アンドレイ、エヒミチは
默した
儘、
財嚢の
錢を
數へ
見て。『八十六
圓。』
『
否、
然うぢやないのです。』ミハイル、アウエリヤヌヰチは
更に
云直す。『
其の、
君の
財産は
總計で
何位と
云ふのを
伺うのさ。』
『だから
總計八十六
圓と
申してゐるのです。
其切り
私は一
文も
所有つちや
居らんので。』
ミハイル、アウエリヤヌヰチはドクトルの
廉潔で、
正直で
有るのは
豫ても
知つてゐたが、
然し
其れにしても、二萬
圓位は
確に
所有てゐることゝのみ
思ふてゐたのに、
恁くと
聞いては、ドクトルが
恰で
乞食にも
等しき
境遇と、
思はず
涙を
落して、ドクトルを
抱き
締め、
聲を
上げて
泣くので
有つた。
ドクトル、アンドレイ、エヒミチはベローワと
云ふ
婦の
小汚ない
家の一
間を
借りることになつた。
彼は
前のやうに八
時に
起きて、
茶の
後は
直に
書物を
樂しんで
讀んでゐたが、
此の
頃は
新しい
書物も
買へぬので、
古本計り
讀んでゐる
爲か、
以前程には
興味を
感ぜぬ。
或時徒然なるに
任せて、
書物の
明細な
目録を
編成し、
書物の
背には
札を一々
貼付けたが、
這麼機械的な
單調な
仕事が、
却つて
何故か
奇妙に
彼の
思想を
弄して、
興味をさへ
添へしめてゐた。
彼は
其後病院に二
度イワン、デミトリチを
尋ねたので
有るがイワン、デミトリチは二
度ながら
非常に
興奮して、
激昂してゐた
樣子で、
饒舌る
事はもう
飽きたと
云つて
彼を
拒絶する。
彼は
詮方なくお
眠みなさい、とか、
左樣なら、とか
云つて
出て
來やうとすれば、『
勝手にしやがれ。』と
怒鳴り
付ける
權幕。ドクトルも
其れからは
行くのを
見合はせてはゐるものゝ、
猶且行き
度く
思ふてゐた。
前には
彼は
中食後は、
屹度室の
隅から
隅へと
歩いて
考へに
沈んでゐるのが
常で
有つたが、
此の
頃は
中食から
晩の
茶の
時迄は、
長椅子の
上に
横になる。と、
毎も
妙な一つ
思想が
胸に
浮ぶ。
其れは
自分が二十
年以上も
勤務を
爲てゐたのに、
其れに
對して
養老金も、一
時金も
呉れぬ
事で、
彼は
其れを
思ふと
殘念で
有つた。
勿論餘り
正直には
務めなかつたが、
年金など
云ふものは、
縱令、
正直で
有らうが、
無からうが、
凡て
務めた
者は
受けべきで
有る。
勳章だとか、
養老金だとか
云ふものは、
徳義上の
資格や、
才能などに
報酬されるのではなく、一
般に
勤務其物に
對して
報酬されるので
有る。
然らば
何で
自分計り
報酬をされぬので
有らう。
又今更考へれば
旅行に
由りて、
無慘々々と
惜ら千
圓を
費ひ
棄てたのは
奈何にも
殘念。
酒店には
麥酒の
拂が三十二
圓も
滯る、
家賃とても
其通り、ダリユシカは
密に
古服やら、
書物などを
賣つてゐる。
此際彼の千
圓でも
有つたなら、
甚麼に
役に
立つ
事かと。
彼は
又恁る
位置になつてからも、
人が
自分を
抛棄つては
置いて
呉れぬのが、
却つて
迷惑で
殘念で
有つた。ハヾトフは
折々病氣の
同僚を
訪問するのは、
自分の
義務で
有るかのやうに、
彼の
所に
蒼蠅く
來る。
彼はハヾトフが
嫌でならぬ。
其滿足な
顏、
人を
見下るやうな
樣子、
彼を
呼んで
同僚と
云ふ
言、
深い
長靴、
此等は
皆氣障でならなかつたが、
殊に
癪に
障るのは、
彼を
治療する
事を
自分の
務として、
眞面目に
治療をしてゐる
意なのが。で、ハヾトフは
訪問をする
度に、
屹度ブローミウム
加里の
入つた
壜と、
大黄の
丸藥とを
持つて
來る。
ミハイル、アウエリヤヌヰチも
猶且、
初中終、アンドレイ、エヒミチを
訪問ねて
來て、
氣晴を
爲せることが
自分の
義務と
心得てゐる。で、
來ると、
宛然空々しい
無理な
元氣を
出して、
強ひて
高笑をして
見たり、
今日は
非常に
顏色が
好いとか、
何とか、ワルシヤワの
借金を
拂はぬので、
内心の
苦しく
有るのと、
恥しく
有る
所から、
餘計に
強ひて
氣を
張つて、
大聲で
笑ひ、
高調子で
饒舌るので
有るが、
彼の
話にはもう
倦厭りしてゐるアンドレイ、エヒミチは、
聞くのもなか/\に
大儀で、
彼が
來ると
何時もくるりと
顏を
壁に
向けて、
長椅子の
上に
横になつた
切り、
而して
齒を
切つてゐるのであるが、
其れが
段々度重なれば
重る
程、
堪らなく、
終には
咽喉の
邊りまでがむづ/\して
來るやうな
感じがして
來た。
或日郵便局長ミハイル、アウエリヤヌヰチは、
中食後にアンドレイ、エヒミチの
所を
訪問した。アンドレイ、エヒミチは
猶且例の
長椅子の
上。すると
丁度ハヾトフもブローミウム
加里の
壜を
携へて
遣つて
來た。アンドレイ、エヒミチは
重さうに、
辛さうに
身を
起して
腰を
掛け、
長椅子の
上に
兩手を
突張る。
『いや
今日は、おゝ
君は
今日は
顏色が
昨日よりも
又ずツと
可いですよ。まづ
結構だ。』と、ミハイル、アウエリヤヌヰチは
挨拶する。
『もう
全快しても
可いでせう。』とハヾトフは
欠をしながら
言を
添へる、
『
平癒りますとも、
而してもう百
年も
生きまさあ。』と、
郵便局長は
愉快氣に
云ふ。
『百
年てさうも
行かんでせうが、二十
年や
其邊は
生き
延びますよ。』ハヾトフは
慰め
顏。『
何んでも
有りませんさ、なあ
同僚。
悲觀ももう
大抵になさるが
可いですぞ。』
『
我々は
未だ
隱居するには
早いです。ハヽヽ
左樣でせうドクトル、
未だ
隱居するのには。』
郵便局長は
云ふ。
『
來年邊はカフカズへ
出掛けやうぢや
有りませんか、
乘馬で
以てからに
彼方此方を
驅廻りませう。
而してカフカズから
歸つたら、
此度は
結婚の
祝宴でも
擧げるやうになりませう。』と
片眼をパチ/\して。『
是非一つ
君を
結婚させやう……ねえ、
結婚を。』
アンドレイ、エヒミチは
むかツとして
立上つた。
『
失敬な!』と、
一言※[#「口+斗」、60-上-5]ぶなりドクトルは
窓の
方に
身を
退け。『
全體貴方々は
這麼失敬な
事を
言つてゐて、
自分では
氣が
着かんのですか。』
柔かに
言ふ
意で
有つたが、
意に
反して
荒々しく
拳をも
固めて
頭上に
振翳した。
『
餘計な
世話は
燒かんでも
可い。』
益荒々しくなる。
『
二人ながら
歸つて
下さい、さあ、
出て
行きなさい。』
自分の
聲では
無い
聲で
顫へながら
※[#「口+斗」、60-上-11]ぶ。
ミハイル、アウエリヤヌヰチとハヾトフとは
呆氣に
取られて
瞶めてゐた。
『
二人とも、さあ
出てお
行でなさい。さあ。』アンドレイ、エヒミチは
未だ
※[#「口+斗」、60-上-15]び
續けてゐる。『
鈍痴漢の、
薄鈍な
奴等、
藥も
絲瓜も
有るものか、
馬鹿な、
輕擧な!』ハヾトフと
郵便局長とは、
此の
權幕に
辟易して
戸口の
方に
狼狽出て
行く。ドクトルは
其後を
睨めてゐたが、
匆卒ブローミウム
加里の
壜を
取るより
早く、
發矢と
計り
其處に
投付る、
壜は
微塵に
粉碎して
了ふ。
『
畜生!
行け! さツさと
行け!』と
彼は
玄關迄駈出して、
泣聲を
上げて
怒鳴る。『
畜生!』
客等が
立去つてからも、
彼は
一人で
未だ
少時惡體を
吻いてゐる。
然し
段々と
落着くに
隨つて、
有繋にミハイル、アウエリヤヌヰチに
對しては
氣の
毒で、
定めし
恥入つてゐる
事だらうと
思へば。あゝ
思慮、
知識、
解悟、
哲學者の
自若、
夫れ
將た
安にか
在ると、
彼は
只管に
思ふて、
慙ぢて、
自ら
赤面する。
其夜は
慙恨の
情に
驅られて、一
睡だも
爲ず、
翌朝遂に
意を
决して、
局長の
所へと
詑に
出掛る。
『いやもう
過去は
忘れませう。』と、ミハイル、アウエリヤヌヰチは
固く
彼の
手を
握つて
云ふた。『
過去の
事を
思ひ
出すものは、
兩眼を
抉つて
了ひませう。リユバフキン!』と、
彼は
大聲で
誰かを
呼ぶ。
郵便局の
役員も、
來合はしてゐた
人々も、一
齊に
吃驚する。『
椅子を
持つて
來い。
貴樣は
待つて
居れ。』と、
彼は
格子越に
書留の
手紙を
彼に
差出してゐる
農婦に
怒鳴り
付る。『
俺の
用の
有るのが
見えんのか。いや
過去は
思ひ
出しますまい。』と
彼は
調子を一
段と
柔しくしてアンドレイ、エヒミチに
向つて
云ふ。『さあ
君、
掛け
給へ、さあ
何卒。』
一
分間默して
兩手で
膝を
擦つてゐた
郵便局長は
又云出した。
『
私は
决して
君に
對して
立腹は
致さんので、
病氣なれば
據無いのです、お
察し
申すですよ。
昨日も
君が
逆上られた
後、
私はハヾトフと
長いこと、
君のことを
相談しましたがね、いや
君も
此度は
本氣になつて、
病氣の
療治を
遣り
給はんと
可かんです。
私は
友人として
何も
彼も
打明けます。』と、
彼は
更に
續けて。『
全體君は
不自由な
生活をされてゐるので、
家と
云へば
清潔でなし、
君の
世話をする
者は
無し、
療治をするには
錢は
無し。ねえ
君、で
我々は
切に
君に
勸めるのだ。
何卒是非一つ
聽いて
頂きたい、と
云ふのは、
實は
然云ふ
譯であるから、
寧君は
病院に
入られた
方が
得策であらうと
考へたのです。ねえ
君、
病院は
未だ
比較的、
食物は
好し、
看護婦はゐる、エウゲニイ、フエオドロヰチもゐる。
其れは
勿論、
是は
我々丈の
話だが、
彼は
餘り
尊敬をすべき
人格の
男では
無いが、
術に
掛けては
又なか/\
侮られんと
思ふ。で
願くはだ、
君、
何卒一つ
充分に
彼を
信じて、
療治を
專一にして
頂きたい。
彼も
私に
屹度君を
引受けると
云つてゐたよ。』
アンドレイ、エヒミチは
此の
切なる
同情の
言と、
其上涙をさへ
頬に
滴らしてゐる
郵便局長の
顏とを
見て、
酷く
感動して
徐に
口を
開いた。
『
君は
彼等を
信じなさるな。
嘘なのです。
私の
病氣と
云ふのは
抑恁うなのです。二十
年來、
私は
此の
町にゐて
唯一人の
智者に
遇つた。
所が
其れは
狂人で
有ると
云ふ、
是丈の
事實です。で
私も
狂人にされて
了つたのです。
然しなあに
私は
奈何でも
可いので、からして
畢竟何にでも
同意を
致しませう。』
『
病院へお
入りなさい、ねえ
君。』
『
左樣、
奈何でも
可いです、
縱令穴の
中に
入るのでも。』
『で、
君は
萬事エウゲニイ、フエオドロヰチの
言に
從ふやうに、ねえ
君、
頼むから。』
『
宜しい、
私は
今は
實以て
二ちも
三ちも
行かん
輪索に
陷沒つて
了つたのです。もう
萬事休矣です
覺悟はしてゐます。』
『いや
屹度平癒ですよ。』
格子の
外には
公衆が
次第に
群つて
來る。アンドレイ、エヒミチは、ミハイル、アウエリヤヌヰチの
公務の
邪魔を
爲るのを
恐れて、
話は
其丈にして
立上り、
彼と
別れて
郵便局を
出た。
丁度其日の
夕方、ドクトル、ハヾトフは
例の
毛皮の
外套に、
深い
長靴、
昨日は
何事も
無かつたやうな
顏で、アンドレイ、エヒミチを
其宿に
訪問ねた。
『
貴方に
少々お
願が
有つて
出たのですが、
何卒貴方は
私と一つ
立合診察を
爲ては
下さらんか、
如何でせう。』と、
然り
氣なくハヾトフは
云ふ。
アンドレイ、エヒミチはハヾトフが
自分を
散歩に
誘つて
氣晴を
爲せやうと
云ふのか、
或は
又自分に
那樣仕事を
授けやうと
云ふ
意なのかと
考へて、
左に
右服を
着換へて
共に
通に
出たのである。
彼はハヾトフが
昨日の
事は
噫にも
出さず、
且つ
氣にも
掛けてゐぬやうな
樣子を
見て、
心中一方ならず
感謝した。
這麼非文明的な
人間から、
恁る
思遣りを
受けやうとは、
全く
意外で
有つたので。
『
貴方の
有仰る
病人は
何處なのです?、』アンドレイ、エヒミチは
問ふた。
『
病院です、もう
疾うから
貴方にも
見て
頂き
度と
思つてゐましたのですが……
妙な
病人なのです。』
施て
病院の
庭に
入り、
本院を
一周して
瘋癲病者の
入れられたる
別室に
向つて
行つた。ハヾトフは
其間何故か
默した
儘、
さツさと六
號室へ
這入つて
行つたが、ニキタは
例の
通り
雜具の
塚の
上から
起上つて、
彼等に
禮をする。
『
肺の
方から
來た
病人なのですがな。』とハヾトフは
小聲で
云ふた。『や、
私は
聽診器を
忘れて
來た、
直ぐ
取つて
來ますから、
些と
貴方は
此處でお
待ち
下さい。』
と
彼はアンドレイ、エヒミチを
此に
一人殘して
立去つた。
日は
已に
沒した。イワン、デミトリチは
顏を
枕に
埋めて
寐臺の
上に
横になつてゐる。
中風患者は
何か
悲しさうに
靜に
泣きながら、
唇を
動かしてゐる。
肥つた
農夫と、
郵便局員とは
眠つてゐて、六
號室の
内は
として
靜かであつた。
アンドレイ、エヒミチは、イワン、デミトリチの
寐臺の
上に
腰を
掛けて、
大約半時間も
待つてゐると、
室の
戸は
開いて、
入つて
來たのはハヾトフならぬ
小使のニキタ。
病院服、
下着、
上靴抔、
小腋に
抱へて。
『
何卒閣下是をお
召し
下さい。』と、ニキタは
前院長の
前に
立つて
丁寧に
云ふた。『
那が
閣下のお
寐臺で。』と、
彼は
更に
新しく
置れた
寐臺の
方を
指して。『
何でも
有りませんです。
必ず
直に
御全快になられます。』
アンドレイ、エヒミチは
是に
至つて
初めて
讀めた。一
言も
言はずに
彼はニキタの
示した
寐臺に
移り、ニキタが
立つて
待つてゐるので、
直ぐに
着てゐた
服を
すツぽりと
脱ぎ
棄て、
病院服に
着換へて
了つた。シヤツは
長し、ヅボン
下は
短かし、
上着は
魚の
燒いた
臭がする。『
屹度間もなくお
直りでせう。』と、ニキタは
復云ふてアンドレイ、エヒミチの
脱捨た
服を
一纏めにして、
小腋に
抱へた
儘、
戸を
閉てゝ
行く。
『
奈何でも
可い……。』と、アンドレイ、エヒミチは
體裁惡さうに
病院服の
前を
掻合はせて、さも
囚人のやうだと
思ひながら、『
奈何でも
可いわ……
燕尾服だらうが、
軍服だらうが、
此の
病院服だらうが、
同じ
事だ。』
『
然し
時計は
奈何したらう、
其れからポツケツトに
入れて
置いた
手帳も、
卷莨も、や、ニキタはもう
着物を
悉皆持つて
行つた。いや
入らん、もう
死ぬ
迄、ヅボンや、チヨツキ、
長靴には
用が
無いのかも
知れん。
然し
奇妙な
成行さ。』と、アンドレイ、エヒミチは
今も
猶此の六
號室と、ベローワの
家と
何の
異りも
無いと
思ふてゐたが、
奈何云ふものか、
手足は
冷えて、
顫へてイワン、デミトリチが
今にも
起きて
自分の
此の
姿を
見て、
何とか
思ふだらうと
恐しいやうな
氣もして、
立つたり、
居たり、
又立つたり、
歩いたり、やうやく
半時間、一
時間計も
坐つてゐて
見たが、
悲しい
程退屈になつて
來て、
奈何して
這麼處に一
週間とゐられやう、
况して一
年、二
年など
到底辛棒をされるものでないと
思ひ
付いた。さう
思へば
益居堪らず、
衝と
立つて
隅から
隅へと
歩いて
見る。『さうしてから
奈何する、あゝ
到底居堪らぬ、
這麼風で一
生!』
彼はどつかり
坐つた、
横になつたが
又起直る。
而して
袖で
額に
流れる
冷汗を
拭いたが
顏中燒魚の
腥い
臭がして
來た。
彼は
又歩き
出す。『
何かの
間違ひだらう……
話合つて
見にや
解らん、
屹度誤解が
有るのだ。』
イワン、デミトリチはふと
眼を
覺し、
脱然とした
樣子で
兩の
拳を
頬に
突く。
唾を
吐く。
初め
些と
彼には
前院長に
氣が
付かぬやうで
有つたが
施て
其れと
見て、
其寐惚顏には
忽ち
冷笑が
浮んだので。
『あゝ
貴方も
此へ
入れられましたのですか。』と
彼は
嗄れた
聲で
片眼を
細くして
云ふた。『いや
結構、
散々人の
血を
恁うして
吸つたから、
此度は
御自分の
吸はれる
番だ、
結構々々。』
『
何かの
多分間違です。』とアンドレイ、エヒミチは
肩を
縮めて
云ふ。『
間違に
相違ないです。』
イワン、デミトリチは
又も
床に
唾を
吐いて、
横になり、
而して
呟いた。『えゝ、
生甲斐の
無い
生活だ、
如何にも
殘念な
事だ、
此の
苦痛な
生活がオペラにあるやうな、アポテオズで
終るのではなく、
是があゝ
死で
終るのだ。
非人が
來て、
死者の
手や、
足を
捉へて
穴の
中に
引込んで
了ふのだ、うツふ! だが
何でもない……
其換り
俺は
彼の
世から
化けて
來て、
此處らの
奴等を
片端から
嚇して
呉れる、
皆白髮にして
了つて
遣る。』
折しもモイセイカは
外から
歸り
來り、
其處に
前院長のゐるのを
見て、
直に
手を
延し、
『一
錢お
呉なさい!』
アンドレイ、エヒミチは
窓の
所に
立つて
外を
眺むれば、
日はもう
とツぷりと
暮れ
果てゝ、
那方の
野廣い
畑は
暗かつたが、
左の
方の
地平線上より、
今しも
冷たい
金色の
月が
上る
所、
病院の
塀から百
歩計りの
處に、
石の
牆の
繞らされた
高い、
白い
家が
見える。
是は
監獄で
有る。
『
是が
現實と
云ふものか。』アンドレイ、エヒミチは
思はず
慄然とした。
凄然たる
月、
塀の
上の
釘、
監獄、
骨燒場の
遠い
焔、アンドレイ、エヒミチは
有繋に
薄氣味惡い
感に
打たれて、
しよんぼりと
立つてゐる。と
直後に、
吐と
計り
溜息の
聲がする。
振返れば
胸に
光る
徽章やら、
勳章やらを
下げた
男が、ニヤリと
計り
片眼をパチ/\と、
自分を
見て
笑ふ。
アンドレイ、エヒミチは
強ひて
心を
落着けて、
何の、
月も、
監獄も
其れが
奈何なのだ、
壯健な
者も
勳章を
着けてゐるではないか。と、
然う
思返したものゝ、
猶且失望は
彼の
心に
愈募つて、
彼は
思はず
兩の
手に
格子を
捉へ、
力儘せに
搖動つたが、
堅固な
格子はミチリとの
音も
爲ぬ。
荒凉の
氣に
打たれた
彼は、
何かなして
心を
紛らさんと、イワン、デミトリチの
寐臺の
所に
行つて
腰を
掛る。
『
私はもう
落膽して
了ひましたよ、
君。』と、
彼は
顫聲して、
冷汗を
拭きながら。『
全く
落膽して
了ひました。』
『では一つ
哲學の
議論でもお
遣んなさい。』と、イワン、デミトリチは
冷笑する。
『あゝ
絶體絶命……
然うだ。
何時か
貴方は
露西亞には
哲學は
無い、
然し
誰も、
彼も、
丁斑魚でさへも
哲學をすると
有仰つたつけ。
然し
丁斑魚が
哲學をすればつて、
誰にも
害は
無いのでせう。』アンドレイ、エヒミチは
奈何にも
情無いと
云ふやうな
聲をして。『
奈何して
君、
那樣に
可い
氣味だと
云ふやうな
笑樣をされるのです。
幾ら
丁斑魚でも
滿足を
得られんなら、
哲學を
爲ずには
居られんでせう。
苟も
智慧ある、
教育ある、
自尊ある、
自由を
愛する、
即ち
神の
像たる
人間が。
唯に
醫者として、
邊鄙なる、
蒙昧なる
片田舍に一
生、
壜や、
蛭や、
芥子粉だのを
弄つてゐるより
外に、
何の
爲す
事も
無いのでせうか、
詐欺、
愚鈍、
卑劣漢、と一
所になつて、いやもう!』
『
下らん
事を
貴方は
零して
居なさる。
醫者が
不好なら
大臣にでもなつたら
可いでせう。』
『いや、
何處へ
行くのも、
何を
遣るのも
望まんです。
考へれば
意氣地が
無いものさ。
是迄は
虚心平氣で、
健全に
論じてゐたが、一
朝生活の
逆流に
觸るゝや、
直に
氣は
挫けて
落膽に
沈んで
了つた……
意氣地が
無い……
人間は
意氣地が
無いものです、
貴方とても
猶且然うでせう、
貴方などは、
才智は
勝れ、
高潔ではあり、
母の
乳と
共に
高尚な
感情を
吸込まれた
方ですが、
實際の
生活に
入るや
否、
直に
疲れて
病氣になつて
了はれたです。
實に
人は
微弱なものだ。』
彼には
悲愴の
感の
外に、
未だ一
種の
心細き
感じが、
殊に
日暮よりかけて、
しんみりと
身に
泌みて
覺えた。
是は
麥酒と、
莨とが、
欲しいので
有つたと
彼も
終に
心着く。
『
私は
此處から
出て
行きますよ、
君。』と、
彼はイワン、デミトリチに
恁う
云ふた。『
此へ
燈を
持つて
來るやうに
言付けますから……
奈何して
這麼眞暗な
所にゐられませう……
我慢爲切れません。』
アンドレイ、エヒミチは
戸口の
所に
進んで、
戸を
開けた。するとニキタが
躍上て
來て、
其前に
立塞る。
『
何方へ!
可けません、
可けません!』と、
彼は
※[#「口+斗」、63-下-12]ぶ。『もう
眠る
時ですぞ!』
『いや
些と
庭を
歩いて
來るのだ。』と、アンドレイ、エヒミチは
怖々する。
『
可けません、
可けません!
那樣事を
爲せても
可いとは
誰からも
言付かりません。
御存じでせう。』
云ふなりニキタは
戸を
ぱたり。
而して
背を
閉めた
戸に
當てゝ
猶且其所に
仁王立。
『
然し
俺が
出たつて
其れが
爲に
誰が
何と
云ふ。』アンドレイ、エヒミチは
肩を
縮る。『
譯が
分らん、おいニキタ
俺は
出なければならんのだ!』
彼の
聲は
顫へる。『
用が
有るのだ!』
『
規律を
亂す
事は
出來ません、
可けません!』とニキタは
諭すやうな
調子。
『
何だと
畜生!』と、
此時イワン、デミトリチは
急に
むツくりと
起上る。『
何で
彼奴が
出さんと
云ふ
法がある、
我々を
此に
閉込めて
置く
譯は
無い。
法律に
照しても
明白だ、
何人と
雖、
裁判もなくして
無暗に
人の
自由を
奪ふ
事が
出來るものか!
不埒だ!
壓制だ!』
『
勿論不埒ですとも。』アンドレイ、エヒミチはイワン、デミトリチの
加勢に
頓に
力を
得て、
氣が
強くなり。『
俺は
用が
有るのだ!
出るのだ!
貴樣に
何の
權利が
有る!
出せと
云つたら
出せ!』
『
解つたか
馬鹿野郎!』と、イワン、デミトリチは
※[#「口+斗」、64-上-6]んで、
拳を
固めて
戸を
敲く。『やい
開けろ!
開けろ!
開けんか! 開けんなら
戸を
打破すぞ!
人非人!
野獸!』
『
開けろ!』アンドレイ、エヒミチは
全身を
ぶる/\と
顫はして。『
俺が
命ずるのだツ!』
『もう一
度言つて
見ろ!』
戸の
那裏でニキタの
聲。『もう一
度言つて
見ろ!』
『ぢや、エウゲニイ、フエオドロヰチでも
此處へ
呼んで
來い、
些と
俺が
來て
呉れツて
云つて
居ると
然う
云へ……
些とで
可いからツて!』
『
明日になればお
出でになります。』
『
何日になつたつて
我々を
决して
出すものか。』イワン、デミトリチは
云ふ、『
我々を
茲で
腐らして
了ふ
料簡だらう!
來世に
地獄がなくて
爲るものか、
這麼人非人共が
如何して
許される、
那樣事で
正義は
何處にある、えい、
開けろ、
畜生!』
彼は
嗄れた
聲を
絞つて、
戸に
身を
投掛け。『
可いか、
貴樣の
頭を
敲き
破るぞ!
人殺奴!』
ニキタはぱツと
戸を
開けるより、
阿修羅王の
荒れたる
如く、
兩手と
膝でアンドレイ、エヒミチを
突飛し、
骨も
碎けよと
其鐵拳を
眞向に、
健か
彼の
顏を
敲き
据ゑた。アンドレイ、エヒミチはアツと
云つたまゝ、
緑色の
大浪が
頭から
打被さつたやうに
感じて、
寐臺の
上に
引いて
行かれたやうな
心地。
口の
中には
鹽氣を
覺えた、
大方齒からの
出血であらう。
彼は
泳がんと
爲るものゝやうに
兩手を
動かして、
誰やらの
寐臺にやう/\
取縋つた。と
又も
此時振下したニキタの
第二の
鐵拳、
背骨も
歪むかと
悶ゆる
暇もなく
打續て、
又々三
度目の
鐵拳。
イワン、デミトリチは
此時高く
※聲[#「口+斗」、64-下-3]。
彼も
打たれたのであらう。
其れよりは
室内復音もなく、
ひツそりと
靜り
返つた。
折から
淡々しい
月の
光、
鐵窓を
洩れて、
床の
上に
網に
似たる
如き
墨畫を
夢のやうに
浮出したのは、
謂[#ルビの「い」は底本では「いは」]ふやうなく、
凄絶又慘絶の
極で
有つた、アンドレイ、エヒミチは
横たはつた
儘、
未だ
息を
殺して、
身を
縮めて、もう一
度打たれはせぬかと
待構へてゐる。と、
忽ち
覺ゆる
胸の
苦痛、
膓の
疼痛、
誰か
鋭き
鎌を
以て、
刳るにはあらぬかと
思はるゝ
程、
彼は
枕に
強攫み
着き、
きりゝと
齒をば
切る。
今ぞ
初めて
彼は
知る。
其有耶無耶になつた
腦裏に、
猶朧朦氣に
見た、
月の
光に
輝し
出されたる、
黒い
影のやうな
此の
室の
人々こそ、
何年と
云ふ
事は
無く、
恁る
憂目に
遭はされつゝ
有りしかと、
堪へ
難き
恐しさは
電の
如く
心の
中に
閃き
渡つて、二十
有餘年の
間、
奈何して
自分は
是を
知らざりしか、
知らんとは
爲ざりしか。と
空恐しく
思ふので
有つたが、
又剛情我慢なる
其良心は、とは
云へ
自らは
未だ
嘗て
疼痛の
考へにだにも
知らぬので
有つた、
然らば
自分が
惡いのでは
無いのであると
囁いて、
宛然襟下から
冷水を
浴びせられたやうに
感じた。
彼は
起上つて
聲限りに
※[#「口+斗」、64-下-18]び、
而して
此より
拔出でて、ニキタを
眞先に、ハヾトフ、
會計、
代診を
鏖殺にして、
自分も
續いて
自殺して
終はうと
思ふた。が、
奈何したのか
聲は
咽喉から
出でず、
足も
亦意の
如く
動かぬ、
息さへ
塞つて
了ひさうに
覺ゆる
甲斐なさ。
彼は
苦しさに
胸の
邊を
掻き
毟り、
病院服も、シヤツも、ぴり/\と
引裂くので
有つたが、
施て
其儘氣絶して
寐臺の
上に
倒れて
了つた。
翌朝彼は
激しき
頭痛を
覺えて、
兩耳は
鳴り、
全身には
只ならぬ
惱を
感じた。
而して
昨日の
身に
受けた
出來事を
思ひ
出しても、
恥しくも
何とも
感ぜぬ。
昨日の
小膽で
有つた
事も、
月さへも
氣味惡く
見た
事も、
以前には
思ひもしなかつた
感情や、
思想を
有の
儘に
吐露したこと、
即ち
哲學をしてゐる
丁斑魚の
不滿足の
事を
云ふた
事なども、
今は
彼に
取つて
何でもなかつた。
彼は
食はず、
飮まず、
動きもせず、
横になつて
默してゐた。
『あゝもう
何も
彼もない、
誰にも
返答などするものか……もう
奈何でも
可い。』と、
彼は
考へてゐた。
中食後ミハイル、アウエリヤヌヰチは
茶を四
半斤と、マルメラドを一
斤持參つて、
彼の
所に
見舞に
來た。
續いてダリユシカも
來、
何とも
云へぬ
悲しそうな
顏をして、一
時間も
旦那の
寐臺の
傍に
凝と
立た
儘で、
其れからハヾトフもブローミウム
加里の
壜を
持つて、
猶且見舞に
來たのである。
而して
室内に
何か
香を
薫ゆらすやうにとニキタに
命じて
立去つた。
其夕方、
俄然アンドレイ、エヒミチは
腦充血を
起して
死去して
了つた。
初め
彼は
寒氣を
身に
覺え、
吐氣を
催して、
異樣な
心地惡しさが
指先に
迄染渡ると、
何か
胃から
頭に
突上げて
來る、
而して
眼や
耳に
掩ひ
被さるやうな
氣がする。
青い
光が
眼に
閃付く。
彼は
今已に
其身の
死期に
迫つたのを
知つて、イワン、デミトリチや、ミハイル、アウエリヤヌヰチや、
又多數の
人の
靈魂不死を
信じてゐるのを
思ひ
出し、
若し
那樣事が
有つたらばと
考へたが、
靈魂の
不死は、
何やら
彼には
望ましくなかつた。
而して
其考へは
唯一
瞬間にして
消えた。
昨日讀んだ
書中の
美しい
鹿の
群が、
自分の
側を
通つて
行つたやうに
彼には
見えた。
此度は
農婦が
手に
書留の
郵便を
持つて、
其れを
自分に
突出した。
何かミハイル、アウエリヤヌヰチが
云ふたので
有るが、
直に
皆掻消えて
了つた。
恁くてアンドレイ、エヒミチは
永刧覺めぬ
眠には
就いた。
下男共は
來て、
彼の
手足を
捉り、
小聖堂に
運び
去つたが、
彼が
眼未だ
瞑せずして、
死骸は
臺の
上に
横臥つてゐる。
夜に
入つて
月は
影暗く
彼を
輝した。
翌朝セルゲイ、セルゲヰチは
此に
來て、
熱心に十
字架に
向つて
祈祷を
捧げ、
自分等が
前の
院長たりし
人の
眼を
合はしたので
有つた。
一
日を
經て、アンドレイ、エヒミチは
埋葬された。
其の
祈祷式に
預つたのは、
唯ミハイル、アウエリヤヌヰチと、ダリユシカとで。