ぶどう畑のぶどう作り

LE VIGNERON DANS SA VIGNE

ルナアル Jules Renard

岸田国士訳




土地の便り




フィリップ一家の家風




 フィリップ一家の住居すまいは、おそらく、村じゅうでいちばん古い住居である。わらぶきの屋根は、苔がえて、ところまんだらに修繕をしたあとが見え、ひさしが地べたの上に垂れ、入口は頭がつかえるほどで、小さな十字窓は、てんから開かないようにできている。これで見ると、どうしても、二百年ぐらいった代物しろものとしか思えない。フィリップのおかみさんは、その点、気がひけるらしい。
「貧乏も、よっぽど貧乏じゃなくっちゃね、これをこのまんまうっちゃらかしとくなんて……」
「どうして? 僕は、とてもいいと思うね、このうち
すると、彼女は、
「壁にさわると壁土が指にくっついて来るんですからね」
フィリップが言うには、
「だから、小巴里新報プチ・パリジャンの古いので、穴をふさげばいいじゃないか。誰も、それをするなとは言やしない」
「お金持の住むようなうちが欲しいわけじゃないのさ。さっぱりしてさえすりゃいいんだから。これで、いくらか溜めてでもありゃ、こんなぼろ家でもすぐに手入れぐらいはするんだけれど」
「それは、よしたほうがいい、おばさん。まったくすてきだもの、このうちは」
「いつぺしゃんこになるかわからないね」
「心配せんでいい。お前が葬られるまでは大丈夫」
「これが頭の上へ落ちて来てかい」
こう返事をしたが、誰も笑わないので、自分ひとりで笑う。
「何も心配することはないさ」と、わたしは言う――「自分のうちを軽蔑しちゃいけない。それこそとんだ間違いだ。この家は、たいした値打ちがあるんだからね。御先祖から伝わった家じゃないか。あんたは、くなった人を粗末にはしないだろう。だから、亡くなった人から伝わったものは、大事に取っとくといい。あんたのうちは、古い時代の思い出なんだ。神聖な形見なんだ」
「そりゃまあそうですね」――フィリップのお神さんは、もう、うれしそうに、こう言うのである。
「僕がもしあんただったら、石ひとつ取替えたくないね。新しい家なんかより、僕はこのほうが好きだ。そりゃ、どんなにいいか――見て面白いと言う点から言っても、いろんなことを教えられると言う点から言っても、あの当世ふうのお邸なんかよりは、ずっとこのほうが好きだよ。そうだろう、第一、この古い懐しい家は、過ぎ去った事を思い出させる。それから、こういう家がなければ、われわれは、自分たちの先祖がどんなふうにして住居すまいをこしらえたかということがわからなくなるからね」
「な、どうだ」――ほとんど常にお神さんに反対して、わたしの意見に同意するフィリップは、この時も、こう言うのである。
「ほんと。こういうような家は、よっぽど遠くへでも行かなけりゃ見当たりませんね。まあこの辺でも、類がないんだから」――彼女は思い出したように――「おはいりなさい、どうぞ」と言った。
 まずしきいをまたいで驚くのは、脚に車の付いてない、幅も広いが、長さも長い寝台である。想像するに、この寝台は、煙突からでも入れたか、戸口からにしては、戸口があまりせま過ぎる。
「取りはずしができるんです」――フィリップが言う。
 お神さんは、決してこれを動かさない。一度壁にくっつけたら、くっついたままになっている。彼女は腕が長くない。それで、敷布をひろげるにも、壁の方の側の縁を折り込むにも、熊手を使う。
「以前には、寝台の上の方に、四つの紡錘つむに取り付けた四角い板の天蓋があって、そのまわりに、緑色の縁のついた黄色い幕が垂れていたんです」――フィリップがこう言うと、お神さんが、
「麻の地に、太い毛糸で繍取ぬいとりをした幕でしたよ。プウランジって言ったものですけれどね、り切れるなんていうことはありませんでしたよ」
「まったく、もつにゃもった。掛けたっきり、はずさないんです。寝台をかくしているわけですね。はいる時だけける、それが芝居小屋のようでね。おやじが寝にはいる時は、――おやすみ、わしはちょっくら芝居に行く――なんて言ったもんです」
「ああいうふうな幕は、もうありませんよ」――お神さんは言う――「お邸の奥さんがみんなはずして行きなすったんですよ。壁掛けにするって買集めていなすった」
「おやじは自分のを五十フランで売ったんです。いい値でさ。二十フランの値打ちもない代物しろものでしたからね」――フィリップが言う。
「まだこの手の寝台が一つ納屋なやの中にあるんですよ」――お神さんがこう言う。
「どうして使わないの。あんた方の年では、もう寝床ねどこを別々にしたほうが楽だろうに」
「フィリップは、別の寝床に寝たけりゃ寝るがいいんですよ。わたしは、わたしの寝床に寝るんだから」――お神さんはこう答える。
「お前のだ? つまりわしのじゃないか」――フィリップは言う。
「婚礼の時の寝床なんだから」――お神さんが言う。
「じゃ、別の寝床では眠られまいっていうわけだね」
「自分一人じゃ眠れないでしょうよ」
「あんたは、フィリップさん」
「わたしゃ外で泊ったっていうことがないんだからね」
 愛情とか、節操とかいう問題ではない。彼らは、最初の夜一緒に寝る、そこで、それが一生習慣になってしまう。二人とも、死ぬ時でなければ、この共同の寝床を離れないのだ。
 彼らは枕があるのに、その枕を使わない。夜は、それを椅子いすの上に置く。というのは、枕が、昼間、寝床の上に置いておくのに、見たところ、張り切って、固く、真っ白で、さっぱりしていなければならないからである。
「そうすると綺麗きれいでしょう」――お神さんは言う――「人が見た時、くしゃくしゃになってるといけないじゃありませんか」
「掛け布団の下へ隠しとくさ。誰にも見えやしない」
「上へ出しとくのが流行はやりですもの」
「だけど、枕があれば、枕を頭の下に敷くのはあたりまえだ」
 すると、フィリップは言う。
「棺桶の中で、枕を頭の下に敷くんです。だから相続するものは、きっと枕だけ死んだものにつけてやることになっています」
「どんなのをつけてやっても勝手ですからね」――お神さんが言う――「なにも一番いいのを持たしてやらなけりゃならんと限ったわけじゃないんだから」
 フィリップ夫婦は、わら布団と、羽根はね布団とを敷いてその上に寝るのである。毛布団というものをついぞ使ったことがない。羊や馬の毛は高過ぎるし、そのかわり、金を出さずに鵞鳥がちょうの羽根は手にはいるのである。
 わたしは言う。
「道ばたで、かわいそうに、羽根の抜けた鵞鳥を、そう言えば、よく見かけたよ。僕は病気なのかと思っていた」
「わざわざ抜いたんです」――フィリップは言う――「ただ、あいつはたしかに抜き過ぎましたよ。翼を支えている羽根を抜いちゃいけないんです。さもないと、翼が垂れて、鳥がよわります」
「痛がってくだろうね、あんなに、生きながら羽根を抜かれては」
「羽根が熟して、ひとりでに抜けるのを待っているんです。その時機が、羽根を抜く時で、年に三度抜きます」――お神さんが言う。
「所帯持ちの上手な女は、その時機を間違えません。一本の羽根も無駄になくなさないんです。羽根の落ちたのを一本拾うために、小川を七度飛び越すくらいの娘でなけりゃ、お嫁に行けないというくらいです」――フィリップが言う。
「いいな、その話は」
「いや、それは冗談じょうだんですよ」と、フィリップ。
 フィリップは寝台のこっちのはしに寝、お神さんは奥のほうに寝るのである。
「夜は夜の襦袢じゅばんを着て寝るの?」
「昼のじゃどうしてわるいんです」――フィリップが言う。
 その昼の襦袢は、わるいはずがない。少くとも一週間、どうかすると二週間ぐらい着ていて平気なのだから。わたしは、お神さんが下の肌着はだぎを脱ぐかどうか怪しいと思う。そんなにいろんなものを脱いだところで別段役にも立つまいではないか。彼らは眠るためだけに寝床にはいるようになってから、もういいかげんたつのである。彼らは、それにその羽根布団の中で、別々の巣を作って寝るのである。めいめい勝手にその中へもぐりこんでしまう。そして、身動きもせず、うだったように、寝しずまっている。彼らは、すうすう言って眠る。そして汗をかく。朝がた、戸を開けると、洗濯物の臭いがする。
「夢を見るかね、あんたは、フィリップさん」
「めったに」と、彼は言う――「夢はどうもいやでね、よく眠られなくって」
 彼は、夢というのは不愉快なものだと思い込んでいる。お神さんのほうはどうかというと、いまだかつて夢を見たことがない。
「夢を見るのかも知れないけど、気がつきませんよ」――こう言う。
「つまり、夢ってどんなものか知らないわけだね」
「知りません」
「話して聞かせたじゃないか」――フィリップが言うと、
「お前さんの頭の中であったことは聞いたよ。だけど、あたしの頭の中じゃ、そんなことは一度もないんだからね、だからさ」
 そのかわり、先に起きるのは、いつもお神さんである。
何時なんじに起きるの?」
「時候によりますね」
「夏は」
「夏ね。時間をきめてあるわけじゃないんですよ。お天道てんとう様のかげんなんですよ」
鎧戸よろいどが閉めてあっても?」
「閉めたことはありませんもの」――彼女は言う――「真っ暗がりは気味がわるくってね。お日様があたって眼をさますのはいい気持ですよ。お日様は、そこの、窓のまん前におうちがあって、うちから出なさると、わたしの鼻の上へ遊びに来られる」


 わたしは年始に彼らを訪ねた。
 この土地を去ったのは、野山が一面に繁りきったころであった。今度来て見ると、木の葉は散ってはいたが、麦が土から芽を出しているので、十月ごろよりも緑は鮮やかだった。長い間、日に乾いた草が、新しい短い草に変って、清々すがすがしい色を見せていた。牛は、あの厚ぼったいくちびるでそれをつまむことができない。それで、小屋に入れて置かなければならなかった。かつてそこにんでいた牛の家族を、野にはもう見ることができない。ただ、幾匹かの馬が、草原に残されている。牛にはなんにもありつけなかったような場所で、馬は食いものを拾うことができるのである。それに、寒さにも比較的よくえる。冬になると、ビロードのような光沢をもつ、ぱさぱさした毛が、からだ一面に生えるのである。
 ある種類の柏、それは葉のついた、その葉は新しい葉が出て来なければ落ちない、その柏を除いて、あとはどの木も、すっかり葉が散ってしまっている。
 通り抜けることはできないと思っていた生け垣が、今では、隙間すきまだらけになって、黒つぐみは、そこへ隠れるのに骨が折れる。
 白楊ポプラは、梢に、狼の頭のように突っ立ったかささぎの古巣をつけ、空にかかっている雲、蜘蛛くもの巣よりも細い雲を、掃いているかのよう。
 鵲はと見ると、遠くには行かないで、地上を、脚を組合わせるようにして跳ねまわり、やがて真直ぐな、例の機械仕掛けのような飛び方で、一本の木に向かって飛んで行く。ときどき、その木に止まりそこなって、隣の木のところでやっと止まるようなことがある。一羽はなれて、人目さえかずにいる――道ばたで見かけるのは、この鵲ばかりである。朝から晩まできちんと燕尾服を着込んでいる。これこそまったくわがフランスの鳥である。
 渋い林檎りんごがみんなちぎられ、はしばみの実がことごとく割られる。
 桑の実は長く伸びたとげの枝から姿を消してしまっている。
 うつぼ草の実が、しなびて、種をもってしまう。霜にあった後を、その実が好きなものはうまがって食う。
 しかし、赤い野薔薇ばらの実はいつまでも取られずにいる。最後になくなるのだろう。名前がおそろしいのと、心臓形ハートがたの実に毛がいっぱいえているからである。
 村の入口で、わたしは、その村がばかに小さいのに驚いた。裏庭で仕切られていた家という家――その裏庭の木の葉が落ちつくして――それが一かたまりになって、天主堂の向こうを張っているように見える。例のお邸が近く見える。農家がまばらになり、畑がきわ立ち、ぶどう畑が明るく開け、森が透いて見える。限られた地平線の一端から一端へ、小川が裸のまま流れている。
 そとには誰もいない。わたしが通っても、戸が一つ開くでもない。処々の煙突えんとつが煙を吐いている。ほかの煙突はたぶん室内に煙を吐き込んでいるのだろう。
 やっと、フィリップの家にたどり着く。わたしは、彼と彼のお神さんとに会ってうれしかった。彼は八月ごろと同じ服装をしている。ただ、冬のひげをたくわえている。わたしの訪問は、ある程度までしか彼を驚かさない、感動させない。ひびのはいった手をわたしに握らせて置いて、別に変ったこともないと言う。
「死んだ人は一人もないかね、僕が行ってから?」
「無いほうがいいでしょう」と、彼は言うから
「そりゃそう」と、わたしが――「だけど、あっても別に不思議はないね」
「土地のものが、そんなふうに死んでしまったら、そのうち一人も残らなくなりますよ」
「もっともだ……。今、仕事は忙しいの?」
「畑がけるようになるまで、なんでもござれです。村の課役で石割りもします。薪束もこさえます。ぶどう畑の杭も削ります。肥車こえぐるまを畑へひっぱっても行きます。それで、暇があれば火にあたっています。それから寝るんです」
何時なんじごろ」
「八時過ぎまで起きているのはつらいですよ。年鑑を出して読んで見ることもあるんですが、じき鼻を紙へくっつけて眠ってしまいます」
「あんたは、おばさん、お勝手の用事がすんでから、なにをするの」
「この通り、靴下を編むんですよ」
「やっぱりいつかの、あれかね?」
「それじゃ情ないでしょう」――彼女はこう答える。
「誰のです、そいつは、ピエエル君の?」
「いいえ、アントワアヌの」
「兵隊に行っている人。連隊は気に入ってるようかね」
「それがね、いっこうにわからないんですよ」――お神さんは答える――「手紙をまるでよこさないもんですからね。そうでしょう、切手を一枚もうけるのに三日かかるんですもの。それでいて、いっぺんに長い手紙を書くわけじゃないんですよ」
「いつまた、会えるの?」
「たぶん、今晩」
「今晩だって?」
「ええ、この前の手紙で、今日来るって、夕方の汽車でね、そう言って来たんですけれど。べつだん取消しても来ませんから」
「じゃ、来るんだろう。フィリップさん、あんた迎えには行かないの?」
「何しにです」
停車場ていしゃばへ迎えにさ」
「道は知ってるんだから」――フィリップは言う――「一人でれますって、子供じゃなし」
「だって、そのほうが、帰りたてのほやほやのところをキスしてやれるわけだ」
「そりゃまあ」
「そうだろう。あんたはアントワアヌ君が可愛いんだろう」
「わたしどもは、昔からそんなことはしないんです、停車場へ迎えに行くなんてことは」――フィリップは、てれくさそうにこう言うのである――「それに、わたしゃ、今日はまいと思うんです。来るならもう来てるはずですよ」
 フィリップが柱時計を見て、頭の中で時間を計っていると、鈴の音が聞こえた。
「そらね、先生だ」――わたしは言った。
「馬車で? そんなはずはないんだが」――フィリップは落ち着き払って言う――「ついでに乗せてでももらったかな」
 お神さんは立ち上る。靴下の編み針が、不安に襲われた動物の触角みたいに動いている。フィリップが戸をけて見に行く。
 アントワアヌではない。それは一人の親切な百姓で、停車場の人がことづけた包みを、フィリップの家へ持って来たのである。
 お神さんは、ひざまずいて、包みのひもを解く。すると、その中からアントワアヌの平常着ふだんぎが出て来た。休暇で来るなら自分で持って来るはずである。
「じゃ、来ないんだ」――お神さんは言う。
「包みの中に手紙がはいってるかも知れないね」――わたしが言う。
「いいえ」と、彼女。
「底の方を探してみたら?」
「なんにもない」と、また彼女は言う。
「明日、きっと郵便で来ますよ、手紙がね。どうして来られなかったか、わけを言って来ますよ。それから、新年おめでとうも言って来ますよ」
「そうかも知れん」――フィリップは言う。
 お神さんは、着物をひろげて、振って見た。半ズボン、上着、中折れ帽、よれよれのネクタイ、それから、いくらかの汚れもの。
「これ、みんな、向こうへ行く時に着けてった衣裳ですよ。まるで死んだみたいだ」


 その時は通知してくれるように、フィリップに頼んで置いたので、彼は電報を打ってよこした――「ブタコロスドヨウビ」。汽車の中が十二時間、やっと、フィリップの家に着く。
「先生は元気かね」――わたしは尋ねた。
「ええ」――フィリップは答える。
「どこにいるの?」
「小屋の中、放してあります」
「静かにしてるかね」
「二日こっち、じっとしてます。食物をやらないんです。しばらく食わせずに置いて殺すほうがいいんだから」
「そりゃおとなしいんですよ」――お神さんが言う――「昨日きのう、中庭をひっぱって歩いたんですがね、また小屋へ入れるのに、一人でどうかしらと思ってたら、なに、羊みたいに、わけなくいきましたよ」
「目方はいくら?」
「二百と七斤」
「たいした目方だね」
「そんなもんです」と、言って、フィリップは――「味は請合うけあいですよ。知り合いの百姓から買ったんですがね、大麦でふとらしたんだって言うから」
明日あす、天気がけりゃいいがなあ」
「風が北にまわりましたね」――フィリップは言う――「降るこたありません。今夜霜が落ちたらしめたもんです。豚を殺すのに持ってこいの天気になりますよ」
「用意はすっかりできてるの?」
「せがれのピエエルを留めて置きました。運河の方へ働きに行くのをやめて、手伝わせます」
「僕も手伝うよ」
「隣の神さんと、わたしとが、腸詰めをこしらえます」――お神さんが言う。
「何時に起こすの?」
「豚かね」
「ああ」
「日が昇ったら」
「じゃ、おやすみ。どら、眠って元気をつけてこよう」
「あなたが来て下すってよかった。あなたの目の前であれを殺すのはうれしい」――こうフィリップが言った。
 翌朝、七時に、彼はわたしの部屋の戸をたたく。煙突から射し込んで来る太陽の光で、着物を着る。フィリップは洗いたての前掛けをかけている。庖丁ほうちょうがよく切れるかどうかをあらためる。彼はもう地べたの上にわらをひろげてしまった。女ども、お神さんと隣の神さんが、あわてふためいているのに、彼は儼然げんぜんとしている。
 ピエエルは手をポケットに突っ込み、わたしと一緒に、親爺の後について豚小屋に行く。フィリップは、一筋の綱を手にもち、二人を戸口に待たせて、自分だけはいって行く。われわれは、耳をそばだてた。
 フィリップが豚のいどころを探し、話をしかけているのが聞こえる。豚は、この訪問にこたえて鼻を鳴らしている。が、べつだん、満足の意を表するでもなく、また不安を示すでもない。慣れているピエエルは、今、なにをしているんだと言うことをわたしに話して聞かせた。
「おやじは、綱を輪結びにして、やつの脚を縛ろうとしているんです」
 怒る、怒る、豚がしきりに怒っている。今度は、猛烈に鼻を鳴らし出した。どこかの犬がこれに応じてえる。やっこさん逃げたな、フィリップはつかまえそくなったな、わたしはこう見て取った。
「少し明りを入れてくれ、明りを」――フィリップが言う。
 わたしは戸をけた。そして、急いでめた。と言うのは、出しぬけに豚の鼻が目についたからである。わたしは、ピエエルに、わたしよりは上手に違いないので、戸をうまく押えていてくれと言った。が、猟はすぐ終った。フィリップは豚を小屋の隅に追い詰めて、短時間の取組合とっくみあいの後、取りおさえてしまった。
けた!」――彼は、豚の絶望的な叫びの中から、こう声をかけた。
 彼らは小屋から出て来た。豚は、後脚を一本綱で縛られ、その綱をフィリップが高々と握っている。見ると綺麗きれいな豚だ。さっぱり、そして、すっきりしている。お化粧をしたばかりのように見える。人がいるのと、が照っているので、先生はびっくりしている。走り出しては見たが、立ち止まって、きやんでしまう。外のほうに二三歩歩き出す。自由なからだになったつもりでいる。息を吐き出す。そして、もういろんなものの臭いをぎ分けている。そこで、フィリップは、ピエエルに綱を渡し、自分は、豚の両耳をつかんで、脚をじたばたさせ、やたらにうなるやつを、ひろげた藁の上にあおむけにひっくり返す。女どもは、一人は布ぎれと血を取る庖丁を差し出し、一人は、血を受ける鍋を差し出す。ピエエルは脚を引っ張って動かさない。わたしは、右へ行ったり左へ行ったりする。
 フィリップは、庖丁を歯でくわえて、身構えをする。一方の膝を豚の上にのせ、ふとった喉のあたりを撫でまわす。
 笑っていたピエエルが真面目まじめになる。女どもはおしゃべりをやめる、組み敷かれた豚は、いくらかもがかなくなったが、しかし、精いっぱいの声でどなる。耳が遠くなるほどやかましい。
「鍋をこっちへよこせ」――フィリップがお神さんに言う。
「桶をこっちへちょうだい」――お神さんが隣の神さんに言う――「鍋がいっぱいになったら、そっちへあけますからね」
「どうもきまりが悪い。役に立たないのは僕ばかりだ」――こう言うと、
「だって、見ててくれる人もいなけりゃ」――フィリップが言うのである。
 彼は指でしるしをつけた場所へ、庖丁の先を突き立て、それを刺し込む。刺し込むと言っても別段力を入れるわけではない。庖丁はわけなく滑り込む。豚のほうでも気持がいいだろうと思うくらいである。私は今にもいっそう叫び声が高まり、断末魔の狂乱が襲って来るかと待ち構えていた。と、もう動かなくなっている。かすかにうめいているだけだ。
 フィリップは庖丁の刃をひねった。血が滲み出る。やがて、ひろがった切り口から、規則正しく、どくどくと流れ出す。飛沫を散らすというようなことはない。赤い紐のように、濃くかたまって流れる。英雄の血のように豊かだ。見る眼には、ジャムの汁のように甘い。
 フィリップが傷口を押さえるごとに、お神さんは鍋の血を桶にうつし、それを隣の神さんが、凝結しないように手でかき廻している。この隣の神さんは、血の塊りを投げる。それをいかにも面白そうにやる。紅の布ぎれを張ったような、その表面の重いしわを、ゆっくりした手つきで、くっつけたり離したりする。
 間を置いて聞こえる豚の叫びが、もう止まってしまう。かすれた最後のうめき声が、最後の血を外へ押し出す。泉の流れが、小石の上を飛んで流れるように見えた。庖丁の刃が、まだ、ぶよぶよした喉の中で動いている。もう血は出ない。豚はからになった。フィリップは、揉んだ藁で傷口を塞いでしまう。
「たしかにわかってるの、フィリップさん、死んだっていうことは」
 豚は痛いよりもこわかったらしい。皮が生毛うぶげの下で薔薇色ばらいろを残している。どうしてわれわれがそれを苦しませたと思えよう。また、女どもが台所へ運んで行くあの血が、みんなこのからだから出たと思えよう。脚をひろげて、立ち上りそうに思われる。そして、あのこわばったかっこうで、固い引き金をなんべんも落すように、ぐんぐん真直ぐに、先のほうにのめり出るのではあるまいかと思われる。
「そんなことがたまにあります」――フィリップはわたしに言う――「どうかすると逃げ出すんです、尻に火がついたように」
 しかしフィリップは、冗談を言う日ではないといったように、豚の耳を立てて、わたしに、その下にある小さなどんよりした眼を見せた。印象に残る眼だ。これなら、もう火であぶってもいいのである。
 フィリップはその上に藁をかぶせる。と、ピエエルが火をつける。にわかに煙が舞い上って、眼をさす。焦げつく豚の皮の臭い、燃える角質の臭いが、やがて、われわれをよろこばせる――食慾をそそる。藁束の炬火たいまつで焔の工合いを調節し、それを脚の下や、耳の中に入れたりなどする。
 ピエエルが、熱のために割れたひづめを一つ拾うと、その窪みの中に、少しばかりの白い、やわらかそうな肉がくっついている。
「ちょうど焼けかげんですぜ」――彼はわたしに言う――「たべてごらんなさい。村の子供たちなら、これを拾うっていうんで大騒ぎをしますよ」
「なるほど味はわるくない、栗の香がする」
「どっさりおあがんなさい」――ピエエルはこう言いながら、豚の四本の脚の、残っている十五本のゆびから十五の爪肉を掘り出してわたしに投げてよこす。
 しかし、わたしは、うまいものを自分一人で食おうという料簡りょうけんの男ではないから、パリの友達に持って行ってやりたいと答えた。


 結婚の日に、フィリップは、いまだかつてこれほど笑ったことがないというほど笑った。そして、十四枚の皿を平げた。村中の女を踊らせた。一番年をとった婆さんたちでさえ、彼の腕に抱かれてまわらなければならなかった。嵐の日にせた案山子かかしが吹きまくられるように。
 これに反して、お神さんは、食い気さえどこへやら、黙って腰をかけていた。
 彼女は冗談を言われてもその意味がわからなかった。からかわれるとむきになった。からんで来る手を、そっけなく後へはねのけた。時々、指を組み合わせて、明日から早速針仕事にかかろう、拭き掃除をしなければならないなど考えていた。時々はまた、つまらなそうに、新郎の顔を眺めた、ちょうど片輪の動物が、あたりの人を盗み見るように。
 やがて、彼らは床についた。初めのうちは万事都合よく行った。彼女は、じっと動かずにいた。ただ、フィリップが与える接吻に、一つ一つ返しをすることだけ忘れないようにしていた。
 ところが、彼女は、とつぜん飛び上って、前の日に血を絞った羊のように、ウエーと泣いた。
「ええい、泣くなら泣け、おたんちん」――フィリップはどなった――「幾日いくんち待ってたと思やがるんだい。もう我慢はできねえ」
 彼は一方の手で、軽く、新妻を撫でさすりながら、もう一方の手で、しっかり、彼女の口をふさいだ。


「なんでもいい、どうせ同じことです」――フィリップは言う。
「あんたは、なんでも同じことにしてしまう。問題は幸福ということだ。この村の人たちは、以前より今のほうが幸福だろうか」
「若いものは、そうじゃないって言いますね」
「しかし、あんたはどうだね、フィリップさん、年寄り仲間とも話をし、若い連中のぐちも聞いてみて、どう思うね?」
「わたしは、以前よりは仕合せなのが本当だと思いますね。寝る場所もよくなったし、食い物もよくなる、以前ほどみじめな暮らしはしなくなりましたよ。わたしにしてからが、嫁をもらうまで寝台なんかに寝たことはなかったんですからね」
「家畜と一緒に寝てたんだね」
「ええ。乾いた藁のほうが、汚れた敷布よりゃましですよ。夜中の十二時に、家畜が眼を覚ますので、わたしは、それまでに、とろとろっとするばかりです。奴らには奴らの習慣があってね。夜中に起きて、まぐさを一口食うんです。つのが飼棚のさんにあたってことこというのが聞こえたりします。冬は、奴らの吐き出す息でからだが温まる。しかし、夏はよく外へ寝ました。夜じゅう草原に放してある牛の番をするんです。百姓で、自分の牛をほうっといて気楽に眠ってるような奴はいませんでした。役に立たなくなった古い手押し車を原に出して置いて、わくの上に、大麦や裸麦のからをかぶせて屋根を作り、番人はその中にはいって寝るんです」
「楽に寝られるかね、それで?」
「別に窮屈でもありませんよ。なにしろい時候の時ですからね。朝冷えで、ちょっと手がかじかむぐらいのものです」
「牛の番をするって、何が来るの?」
「第一、狼がいまさ」
「え、狼が、こんなニエヴル河のほとりに?」
「いたんですよ」
「今はどうしたの」
「知らないね。それから、牧場にさくをしてなかったので、今のようにね、で、牛が逃げ出すかもしれません。それに、番人は牛の番をするだけでなく、草を食わせなくっちゃならないんです。仕事で疲れきった牛は、あんまり食いたがりません。草の中に寝そべって眠るほうがいいんです。そこで、番人が車の中から出て行って、足でって起こすんです。牛は、しかたがなしに草を食いはじめる。時々は、日中ひどく照りつけられたような後なんか、下男が夜じゅう、凉みがてら、一匹ずつ見まわって歩くこともあります。日の出る前に、牛を鋤車すきぐるまにつけるんです」
「牛の番をする。そこで、フィリップさん、その番人の番は誰がするんだろう」
「誰もしない。これくらいの苦しい仕事は、みんな、あたりまえだと思っていましたよ。ほかの仕事と別に変らないぐらいに思っている。まあ、こんな仕事を、いまどきの若いものに言いつけてごらんなさい。いやだと言ってはねつけるか、承知をしたところで、車の中にはいないで、あっちこっちと、近所の百姓家を目がけて、おさんどんのそばへあったまりに行くのがせいぜいでさ」
「でも、どうして夜番をしないようになったの?」
「もう流行はやらなくなったんです」
「百姓はそれで気楽に眠れるかね?」
「ええ」
「で、牛のほうは?」
「自分で番をするわけです」
「それで、育ち方がわるくなったっていうようなことはないかね」
「いいえ。現にやっているのは、仕事をしない牛だけ見まわって、草を食わせるんです。そして、ふとらせるんです。わたしが働いてたころも、終りがたには、それが、コルネイユのうちで、わたしの仕事になっていました。毎朝、四時に、特別牧場に放してある牛を見まわりに行くんです。朝飯前に、そのほかの牧場を半分だけ見に行き、帰って来ると、大急ぎでどんぶりを平げ、昼までに、残りの半分を見まわる。一匹ずつ、病気はないかどうか見てあるき、なお、いちいち脂肪あぶらのつきかげんを手でさわって見ます」
「ずいぶんくたびれるね、その仕事は」
「ほかの仕事と別に変りませんよ」
「一度もあぶない目にあったことはないの?」
「牛はわたしを知っていますからね。恐ろしいのは露ばかりです。長靴をはいているのに、もものところまで昇って来る。日が照っても、昼までは脚が乾いたということはありません、食卓につくまではね」
「コルネイユのうちの人たちはあんたを大事にしたかね」
「お神さんは、わたしたちの分に、裸麦や蚕豆そらまめ豌豆えんどうや、なにやかやを入れたパンを作ってくれました」
「小麦だけ入れないで?」
「少しは入れてありましたよ、いくらなんでもね」――フィリップは言う――「ただ、どく麦、酔うやつね、あいつをあんまり入れ過ぎるもんだから、眼を覚ます時に、まぶたをあけることができないんです」
「肉はどっさり食わせるかね」
「馬が一匹怪我でもしてくたばりかけると、そいつを殺して、使ってるものに食わせるんですが、その肉が二週間も続けうちでね。でも、ひづめまで食ったもんでさ」
「酒は飲めたの?」
「一度も。今じゃ、使われているものも飲みますがね」
「良い酒を?」
「犬の足を洗うのにゃ良いでしょうよ。酒を飲むって言えりゃ、それでいいんです、あいつらは」
「農家の人がよくなったのかね」
「そうじゃありません。働くほうが横着になったんですよ。請求するんですからね」
「あんたには、それができなかったんだね」
「わたしらのころは、そんなことを考えるものもありませんでした」
「あんた方は日に十五スウぐらいしか稼げなかったのに、今のものはその三倍稼いでいる。あんた方は連枷からさをで麦を打ち、るのが仕事だったのに、今のものは機械で打ち、唐箕とうみを使っている。あんた方はお祭の日にしか休みを取らなかったのに、今のものは、それをぶつくさ言う」
「そして楽ばかりしようとする」
「そりゃね、楽になれば、それにつれて欲しいものもできてくる。それで、差し引きどうだろう、今は昔より仕合せというわけでもないね」
「なるほど、そうも言えるでしょう。若いものが猫も杓子しゃくしも土地を離れて、パリへ出掛けて行くんだから。そうすりゃ贅沢ぜいたくな暮らしができようってわけでね。なるほど、運さえよけりゃ宝を掘り当てます。が、残っているものは、今も昔と変らず、驢馬ろばになったつもりでいなけりゃなりません。ごくきりつめて、せっせと稼げば、暮らしだけは立てて行かれる上に、年を取ってから、堅パンを買う金ぐらいは、溜めて置けますよ」
「肉もなけりゃ」
「餓え死はしませんよ」――フィリップはこう言う。
「死に方が遅いと言うだけだ。どうだろう、フィリップさん、世の中の悪いことは、一方で有り余るほどっているのに、一方でつべきものも有てないでいる、そこから来るんだと思わないかね」
「金持もいなくっちゃならないんですからね」
「どうして?」
「だって、今まで、ずっといたものなんだから」
「どうして、あんたが金持になる番にあたらないんだ。あんたのおやじさんもお祖父じいさんも貧乏だった。あんたも貧乏だ。あんたの息子さんも、そのまた子供も貧乏に違いない。そりゃどうしてだろう」
「でも、そりゃ、そういうふうにできてるからですよ」
「ただ偶然にそうなっただけさ。偶然しだいで、どうにでもなるんじゃないか」
「その偶然という奴が、わたしにかぶりを振ったんでしょう」
「そういう不当なことに対して、あんたは苦情を持ち込む権利があるだろう」
「受け付けてくれるものがありゃね」
「どうだかわかるもんか。大きな声でどなるんだ。金持は出すと思うね」
やっこさんたち、それほど馬鹿じゃありませんよ。奴さんたちの身になってみりゃ……」
「少くとも、余分なものだけは出させるがいい」
「人に何かやると、金でもなんでもね、その人間は善いほうにゃ向かないもんです。わたしにしてからが――早い話がね――すぐに始末におえない人間になりますよ」
「財産をつぶさないようにはできるだろう、世間なみの金持のように」
「いいや、いいや」
「どうして? 頑張るんだね。どうしてさ?」
「われわれと、あの連中とは違うからですよ」
 これが、彼のきまり文句である。人間には二つの種族がある、金持の種族と貧乏種族。彼は金持の種族ではない。話はすこぶる明瞭である。その頭から抜けきらせることは不可能だ。
 そのままでいるがいい。


 九時になると、村は静かに眠ってしまう。
 野良犬一匹、目につかない。
 外には、月が照っているばかり。その月がまた、無駄なことに、白い光を投げかけている。誰も利用するものがない。むなしく時間をつぶして、人影のない通り、閉めてある鎧戸、そのほか、生なき物体を照しているに過ぎない。
 ところが、夜中の十二時に、かんぬきが病みついたのどから出るうめき声のような音を立てる。戸がく。フィリップが現われる、素足で、襦袢じゅばん一つに木綿の頭巾ずきんといういでたちだ。彼は欠伸あくびを一つする。両腕を拡げる。そよ風に肌をさましながら、月を見上げる。ずっと今まで、きまって、満ちたり欠けたりするのを知っていながら、またまんまるなのを見ておどろく。
 中庭をぎって、肥料溜めになっている低い壁ぎわまでやって来る。一つは習慣になっているのと、一つは経済ということを考えて、そこへ小便をする。
 すぐには帰ろうとしない。牛が水を飲むように、この静けさを味わうのである。
 すると、また別の閂が音を立てる。第二の戸が開いて、同じ理由で起きて来た蹄鉄屋が家のなかから出て来る。彼は毛糸の上着をひっかけ、木靴をはいている。第一の視線が月のほうにそそがれる。
「こいつは見事」
 言うことはたったそれだけ。
 小便をする。
 やがて指物師が姿を見せる。次に宿屋の亭主、それからガニアアル、それからフェルネ、それぞれ用向きの程度によって、急ぎかたが違う。
 まるで、ここでこの時刻に出会う約束でもしたようである。
 ところがそうではない。彼らはこういうふうに、夏の澄み渡った真夜中に起きるというだけである。その間、ちょっと、かみさんたちをうちへ残して自由を与えて置く。彼らにとっては自然のほうがましなのである。
 お互いに顔を見合わせてよろこぶ。とぎれとぎれに口を利く。その声がよく響くので驚いている。冗談を言い合ったり、わるさをしようなどとは思わない。また寝に行くまでに、めいめい待ち合わせる。別に急ぐこともない。寝床はあんまり好きでないらしい。
母屋おもやの大将は死んだのかい、来ないぜ」
 ジェロムと言う村の最年長者が、杖をついて出て来る。娘が、
「おとっつぁん、風邪かぜを引くっていうのに。股引ももひきだけおはきよ、それじゃ」
 いくら言ってもだめである。
 彼は頑としてかない。柔弱なまねをするくらいなら、くたばったほうがいいのだ。
 一同が、親しげに「今晩は」といいかける。
 それどころではないので、返事をしない。
 人生の最も些細な行為を、しかつめらしく果たす。月も彼の欲求を紛らすことはできないと見える。
 彼は用をすます。一同も用をすます。
「また、あした」
今日きょうだろう、また今日と言えよ」
 しょうことなさそうに、めいめい帰って行く。戸が音を立てる。最後の閂が、喉を締めつけられるように響く。
 月が、ひとり外に残っている。今までよりもいっそう退屈そうに。紅雀の夢にさえ破れそうな沈黙である。


 フィリップのお神さんはまだそわそわしている。そして得意満面である。というのは、大金持のお邸、その奥さんのドランジュ夫人が、彼女のところへ訪ねて来たのである。
「ほんとなんですよ、そりゃ、まったくですよ」――お神さんが言う。
「おめでとう。いつのことだね、その光栄にあずかったのは」
「今朝ですよ。部屋で仕事をしていますとね、だしぬけに、あの綺麗きれいな奥さまがはいって来なさるじゃありませんか。わたしはどこへ体を置いていいかわかりませんでした。で、おっしゃるには、――今日こんにちは、お神さん。その辺を通りかかったので、ちょっとお寄りしましたの――ってね。わたしは一時いっときぽっとなりましたよ。それでも気を取り直して――まあ、ようこそ、奥さま――こう言って、お掛けになる椅子を差上げたんですがね。――いいえ、ありがとう、くたびれていませんから――っておっしゃるんですよ。でも、なんだかせわしそうな呼吸いきづかいをなすっていらっしゃったようですけれどね――それでも立っているほうがいいっておっしゃるんです。家の壁だとか、柱時計だとか、寝台だとか、迫持せりもちのところだとかを、つくづく見ておいでになりましたよ。それから、おやじさんや、子供たちのことをお尋ねになったり、今年は、まぐさや麦や果物くだものがよくできそうかどうか、そんなことをいたりなんかなすって、話をなさるにも、わたしゃお返事をするひまがないんですもの。で、そのうちに、どうしたものか、思い出したように――さよなら――って言って、帰っておしまいになったんですよ」
「そんなに急に?」
「そんなふうでしたよ」
「おかしいな」
「ね、おかしいでしょう、お邸の奥さまが、朝っぱらから、わたしのような貧乏人のところへ訪ねて見えるなんて、誰がほんとにするでしょう」
「誰もほんとにしないね。僕も、いろいろ考えてみるが、その訪ねて来たわけがわからない」
「わけですって。だけど、奥さまが、そのわけをおっしゃったんですもの。わたしがどうしているか様子を見に来て下すったんです。御親切から、ただそれだけですよ」
「たしかにそうかね」
「でも、ほかに、あの方がここに見えるわけはないじゃありませんか。おいで下さいと言った覚えもないし」
「おばさん、あんたは、真面目まじめに、あの人がほんとに、あんたを訪ねてくれたんだと思っているの?」
「そうじゃないんですか。そりゃあなた、べつだんわざわざでもなく、ぶらっと寄って下すったんでしょうけれどね。わたしこう思ったんですよ――奥さまは散歩にお出掛けになった。天気はよし、晴れ晴れした気持におなりになった。わたしのうちの前をお通りになると戸がいている。わたしの姿がお目にとまった。――おや、フィリップの住んでいる小屋をまだ見たことがない。どれ、あの神さんがどんなふうにうちで暮らしているかを見てやろう。きっと、神さんがよろこぶだろう――まあこんな気をお起こしになったんでしょうよ」
「ありがたいと思ってるの?」
「だって、あのお方が、わたし風情ふぜいをそんなにさげすんでは下さらないと思うと、いやな気持はしないでしょう。それにしても、さぞわたしのことを無作法な女だとお思いになったでしょうよ。それがね、何か冷たいものでも召上りませんかって、伺うのをつい忘れてしまったんですよ。あんまり急に行っておしまいになるもんだから。できることなら、後から追っかけて行きたかったけれど」
呼吸いきづかいがせわしかったっていうね?」
「ええ、暑いもんだから、真っ赤な顔をしておいででしたよ」
「ねえ、おばさん、あの人がはいって来た時、あんた、道の上に何か見かけなかったかね」
「いいえ」
「道に牛がいなかった?」
「どんな牛が?」
「牛がいたかって言うのさ」
「牛が道を通るのを見ていて、何が面白いもんですか」
「あんた、牛をこわいと思ったことはないの? あんたがだよ」
「なんだってまた、そんなことをくんです」
「お邸の奥さんは牛をこわがるかどうか知ってるかね?」
「知りません。知ったところでなんにもならないでしょう」
「なんにもならないどころか、それが大事なんだ。なぜなら、お金持のお邸の奥さんのドランジュ夫人が牛をこわがる人で、その奥さんがあんたのうちへはいってきた時に、ちょうど道の上を牛が通っていたとしたら、その奥さんが訪ねて来たからって、驚くに当たらないし、また、自慢にもならないわけだからね」
「やれやれ、あんたは、わたしよりよっぽど人が悪い」――お神さんは、当てがはずれたというような顔をして、こう言った。
「いやね、おばさん、僕は、今朝けさ、何もかも見ていたんだよ」


 短く丸く、薪束のようなからだつき、それが、戸棚の脚のような広い足で、がっしりと立ったまま、彼女は、へりくだった調子で、自分がコルネイユの奥さんの乳を吸ったと言うのである。
「わからない、だって、あの人とあんたと同じ年かっこうじゃないか」
「そりゃあんた」――こう言って――「奥さんが娘っ子のポオリイヌの乳を離しなすった時、お乳がとまらなくってね、それでわたしが手伝ってあげたんですよ」
「どうやって?」
「吸ったんですよ」
「いくつだったの、あんたは」
「十九」
「でも、あんたはまだお嫁に行く前だろう」
「ええ」
「それで、コルネイユさんとこの奥さんは恥かしがらなかった?」
「わたしのほうからそう言ったんですよ。初めは、いいって言うんです。――あんたにできるもんか、おかしくって――こう言うんです。で、わたしは――奥さん、わたしは心からしてあげたいと思っているんです。なにも自分が面白くってやるんじゃありません。あなたが病気になるのが目に見えているからです――。すると、奥さんは、胴着のボタンをはずし、わたしは、奥さんの膝の間に割り込みました。すぐに慣れてしまいましたよ、奥さんは。朝、眼を覚ますと、わたしを呼ぶんです――さ、おっぱいを吸いにおいで――。そりゃ優しいんですよ、言い方がね。そのうち、間もなく楽になりましたけれどね。すると、いろんなれ馴れしい言葉でお礼を言いなすったっけ」
「気持はどう、い気持かしら?」
「べつだん飛びつくほどの仕事でもありませんね。ただ、あのやさしい奥さんが、苦しんでいなさるんでね。それを見ながら、ほうっておけますか」
「いいや、それはほうっとけない」
「ほんとにかわいそうでしたからね」
「吸乳器をどうして使わなかったの」
「そんなものはそのころ知られてませんでしたからね」
 お神さんはパイプを当てて自分で吸ってみたのだけれど、結局、人間の口に越したものはない。
「あんたは乳を吸うのが上手だったんだね」
「ええ、自慢でなくね。はじめのうち、なにしろ娘のことですからね、朋輩から、からかわれるのがこわさに、隠れていましたけれどね。そのうち、誰よりもわたしが一番吸い方が上手だっていう評判が立ってしまって、それからというものは、どこかに乳の張る女がいると、わたしを呼びに来るんですよ。嫁入りしてからは、一度もこの仕事をことわったことはありません」
「そんな評判が立っても、フィリップさんは、あんたを可愛がらなくなるなんていうことはなかった?」
「どうして、どうして」――フィリップが口を出す――「人の乳を飲んで、肥えるの肥えないの、水々しくはなる、色は白くなる、ひどく思召おぼしめしにかなったわけですよ」
「ところが、こう言っても信用はなさるまいが……」――お神さんは言う――「わたしは、頼まれればいやな顔もせずに、土地の女の乳を吸ってやったでしょう。それに、そういう女たちの一人でも、あたしの乳を吸ってくれようとはしないんです。わたしが、自分の重い乳房を出して見せると、しかめっつらをして、兎のように逃げてってしまうんです」


「ねえ、お前さん、あたしゃもう我慢ができないんだから。昨夜ゆうべはとろっともしないんだよ。布団にみついていたのさ。もうたくさん。やすりを持っといでよ。歯を削ってもらわなくっちゃ」――お神さんはフィリップにこう言った。
「おれが、歯を削ることなんかできるもんか」――フィリップが答える。
「だっていつか、錠前屋のようになんの金具だか削っているのを見たんだもの」――お神さんは言う――「それに、たかが婆さんの歯一本、削れないなんてあるもんか」
「そんなに言うなら、やってやら」
やすりは?」――彼女は決然として言った。
「なんだ、この口は」――フィリップは言う――「これでスープを食うのか、このサーベルみたいなやつで」
「びくびくしないでさ」――この種の冗談じょうだんに慣れているお神さんは、言い放った――「そいつを突っ込んで、あたしが――それでいい――って言うまでするんだよ。そうしてから、歯の上に、チョコレエトの銀紙を貼りつけるからさ」
ああんしろ」――フィリップが言う。

一〇

 フィリップは、今朝けさ、草を刈っている。彼は片隅にチョッキをてた。そして、ボタンをはずしたシャツ、ひとりでくっついている股引ももひき、この暑さに麦稈むぎわらでもない帽子、そういういでたちで、今日は、もう十分花を持ったと思われる自分の草地の草を刈りはじめた。
 フィリップは熟練した草刈りである。無謀な熱心さで草地に鎌を入れるようなことはしない。まずはしのほうの草から、最初のひと鎌を入れるのだが、それが、最後のひと鎌と同じように、せかずあわてずやるのである。彼は、規則正しい切り方で草を倒し、地面とすれすれに鎌を使おうとする。それは、まぐさの一番上等な部分は茎の根本ねもとだからで、なお、同じ広さの刈り幅にすること、次の手を始めないうちに前の手が終らないことに気をつけている。
 彼はたった一人の「憲兵」も残さない――というその意味は、鎌に当たらないで立っている一本の草もないようにするということである。
 わたしは、彼が遠くから、小股で、足をひきずるようにして、右の脚は折り、左の脚はほとんど伸ばしたまま、いくらかり気味になって、やって来るのを見る。彼が素足のままつっかけている木靴は、二本の平行した足あとをつける。彼は深い草の湖の中に、一筋の綺麗きれいな道をつけて行く――後でそこを歩いても、足を濡らさないですむような綺麗な道を。
 鎌は、右から左へと、急速な、そして確かな線を描いて、切り払って行く。それから、もとの位置に直って、尖端が上を向き、これから倒されようとする草を、背で撫でる。
 ときどき軽くうなる。またときとしてはきしる。あちらこちら、原では、せいの高い草が、不安らしく揺れる。と、とつぜん、石ころにぶつかって、くさめをする。
 フィリップは手を休める。指の先で刃をいじってみる。それから、木の角箱つのばこに入れて腹の下にさげている砥石といしで刃を立てる。今度はひげでもれるようになる。
 十時ごろ、お神さんがびんに一杯水を持って来る。
 彼がそれを飲んでいる間、彼女は「のみ」を探すのである。「蚤」というのは「ふるえ草」ともいう禾本科かほんかに属する草の俗名で、ごく細い茎の端に、辛うじてくっついている小さな花が、その華奢きゃしゃな茎とともに、いつでも羽虫のようにふるえているのである。お神さんは、それで花束をこしらえる。なぜなら、この「ふるえ草」は、しおれることがない。したがって、花瓶にして煖炉の飾り石の上に置いておくと、翌年の夏まで優しい姿を保っているからである。これが田舎の女に与えられた冬の花である。
 フィリップは水をたんまり飲んで、胃袋がふくれると、瓶をお神さんに渡す。お神さんはそれが温まらないように、地べたへじかに、そしてチョッキの下へ隠す。
 フィリップはすぐに草を刈りにかからない。鎌のひじを支えて、ひと息つくのである。天気模様が変りはしないか、雲が地平線の上に覆いかぶさりはしないかを見るのである。そうして、シャツの袖で、額の汗を拭くのである。
 お神さんは、ただ一つの貧弱な花束を摘み取っただけで、暑くってしようがない。前掛けで、これも顔を拭くのである。彼らは、ひじと肱とをすれすれに、一時いっとき、何もせずにじっとしている。
 なんにも期待してはいけない。
 刈り草のにほいをいで、彼らはうっとりと酔心地になるようなことはない。
 彼らは、あなた方をうれしがらせるために、草の中に寝ころがったりなにかしそうにもない。

一一

 フィリップは、一日半だけ、邸勤めの下男をしたことがある。その当時、お神さんが乳母うばに行っていたので、彼女が自分のいる近所に、夫の職を見つけてやったのである。
 最初の日は、外出をして町の見物をすることを許された。見るものもろくに見なかった。見てもべつだん驚かなかった。なぜなら、迷子まいごになるのが心配だったから。それにしても、腸詰屋の店が彼の目を奪った。
 翌日、奥さんは彼に仕事服と前掛けとを着けさせて、尋ねた。
「お前さんの名はなんていうの?」
「フィリップ」
「これから、ジャンていう名におし」
 そして、教育に取りかかった。
 まず、家具の拭き掃除をすることであった。
 一人になって、鏡を見ると、自分で自分だということがわからなかった。
 はたきを投げ出して腰をおろした。とほうに暮れて、じっとしていた。
 それから、意を決して立ち上った。煖炉の上の花瓶を一つ、なるべく軽い粗相ですむように、一番小さなのを取り上げた。そして、それを落とした。
 かけつけた奥さん、
「しょっぱなから調子のいこと、ジャン」
「はい、奥さん」――彼は答えた――「腹を立てないで下さい。わたしは帰ります」
「そんな粗相をしたからって、誰もおい出すとは言やしないよ。ジャン、こんどから気をつけておくれね」
「せっかくですが、奥さん、ともかくお暇を頂きます」
「どうして? 置いてあげるって言ってるじゃないの」
「わたしがいやだと言うのに置いて下さるんですか。さきほど、わたしは嘘をつきました。あの花瓶は、わざと、悪意で、暇を出されようと思って、こわしたのです」
「また代りの人を探さなけりゃならないのかね」――奥さんは言う――「あと八日はここで働く義務があるんだからね、そういうきまりなんだから」
「あなたのところではね。ところが、わたしのほうでは、国のほうでは、工合いよく行かなけりゃ、やかましいことを言わずに別れるっていうことになっていますがね。じゃ、前掛けを、ようがすか、ほうりますよ」
 その晩、彼は悦び勇んで村に帰り、自分の家の戸をけ、窓を開け、庭の空気を吸い込んだ。彼は焔で二つに折れた薪の両端をくっつけた。そうして、スープを煮る水を沸かしはじめた。
 時々、彼は微笑ほほえんだ。そして独りで言った、
「取りに来れるなら来て見るがいい、その八日間の義務とかいうやつを」

一二

 フィリップは気位が高いというようなところはいっこうない。なんでもくれればもらうというふうである。紫のリボンがついだ子供の麦稈帽子むぎわらぼうし、そのリボンに「軍艦海神号」と金文字で書いてあるのを彼に与えたものがある。
 フィリップの頭は大きくない。その帽子にうまくはまるのである。
「これで夏が越せます」
「リボンをはずすといい」
「なに、邪魔になりません」
 フィリップが、若いともいえない年で、この子供くさい帽子を頂いて、畑で仕事をしているのを見ることができる。リボンの紫はおいおいにせてゆくが、海神ネプチュヌの金色こんじき燦爛さんらんたる名は、日光にもめげないでいる。
 猟に行くと、彼はわたしの行動を監視している。そして、わたしが垣を越えようとするたびごとにとんで来て、荊棘いばらや、とげのついた針金を掻きわけてくれる。
「そんなにしてくれなくってもいいのに」――こうわたしが言う――「それじゃ虻蜂あぶはち取らずになる。僕は独りで通れるから」
「あなたは別に心配じゃありませんよ。あなたの服ですよ。ちっとも用心っていうことをなさらないから、いろんなものに引っかけて破れるんです。いずれおさがりはわたしのところへ来るんだから、できるだけ傷ものにしまいと思ってね」
 八月のは草を焼いた。そうかといって、納屋に入れてあるまぐさを、今、家畜にやることはできない。冬になったらどうすることもできなくなる。
 で、やっぱり草原に放して置く。
「けれど、何も食わずにいるじゃないか。苦しいだろうに」
せるのが眼に見えるんです」――彼は言う。
「草は一本もなし、何を食えばいいんだね、やっこさんたち」
「何もべやしません。地べたに接吻するだけでさ」

 彼は決して、今から先のことを楽しむということがない。
「いよいよ草がえる。には花が咲くし」――わたしがこう言うと、
「ええ、また霜の用意がひと苦労でさ」

 裏の畑で仕事をして汗をかいているので、ぶどう酒を一杯持って行ってやると、それを受け取りはするが、まず、水を一杯くれと言う。彼はのどのかわきを水でとめる。それから、楽しみにぶどう酒に口をつける。

 兵隊に出ている息子が長く手紙をよこさない。フィリップは、気がかりだという様子を見せたくない。彼は、自分の父親が、七年間兵隊に行って、七年間便りをしなかった話をする。どこにいるかわからなかった。
「とにかく帰って来ました」――フィリップは言う――「帰ってきたので、家へ入れたんです」

 彼は、分葱わけぎしか食いたくない時は、自分で病気だということがわかるのである。頭がほてり出すと、彼は「熱がある」と言った。ところが、それは頭痛がするだけなので、なおるのに手間がかからない。しかし彼は、熱病をんでそれが癒ったのだと思っている。

 に乾してある絹のシャツをいじくって見て、彼は言う。
「こいつはいいな」
「そんなものを着て平気でいられるかい」――お神さんが言う。
「いられるさ」
「絹のシャツを百姓の股引ももひきと一緒に着るのかい」
「いけないのか」
「困った人だね、この人は、ほかと釣合いが取れないじゃないか。狼の尻尾しっぽは狼についてなくっちゃね」
「やれやれ、しかたがねえ。一度ぐらい、その尻尾が道に落ちてることはないか」

 彼は、投網とあみをうつ時だけ風呂にはいるわけである。

 彼は股引をぶざまなかっこうではいていることがしばしばある。ボタンがはずれていたりする。しかし彼は、寒い空気さえ肌に触れなければ、そんなことはどうでもいいと言っている。

 彼は、自分の牝牛を『おはな』と呼んでいる。
「都合がいんですよ。腹が立つ時、『はなったれ』って言や、すぐ別の名ができちまうんです」

 役場の掲示はがれそうにならなければ読まない。貼ってある間は、べつだん急ぐにはあたらない。

 彼の笑い声は、遠くで聞くと、むせび泣きのような音をたてる。彼が笑っているのを確かめるためには、彼の顔を見なければならない。

 細民の汗は必ずしも象徴シンボルにはならない。フィリップは、いつでも、うるしを塗ったように汗をかいている。猟に行って、われわれ二人のうち、見るところ、たしかに、彼のほうがはえに好かれるようである。

 彼はった兎を目籠に入れる。ところが、兎の耳がはみ出して、ぶらっとさがるので、目籠がかくれてしまう。フィリップに殺された兎が、そんなまずいかっこうをしてパリへ行くという法はない。彼は、そこで耳を引っ張り上げて、それをイギリスピンで留めて置くのである。

 夕方、猟から帰って、彼は言う――
「あれだけの道を、また歩きなおすのはいやだなあ」

 あぶらぶとりの女を見て、あの女は、うまく骨をかくしていると言う。

 風が強く吹くと、風見が手間を惜しまないと言う。

 川の水があふれると「海が見える」と言う。

 彼が非常に愛していた弟が死んだとき、「こんなことにゃ、ちょっくらと慣れそうもねえ」と言った。

「どんなことだって無いとは限らない」――彼は言う――「猫の尻尾しっぽでさえ舞い込んで来たんだ」
[#改ページ]

ナネット、ミサに遅る


 今日きょう、日曜日、生れてはじめて、従姉いとこのナネットはミサに遅れた。
 彼女は遅れようと思って遅れたのではないが、いずれにしても、彼女がわるかったのである。どうしてそうなったかというと、それはこうだ。
 今朝けさ、早くから仕事をすまして、いつもの通り煖炉のそばにすわった。煖炉の口からミサの鳴るのが聞こえるのである。戸口からではよく聞こえない、というのは、彼女の家の中庭と隣の家の中庭とを仕切っている壁があって、それが鐘の音をさえぎるからである。ところが、この大きな煖炉からは、鐘の音がまっすぐに耳にはいる。鐘の下にすわっているよりもはっきり耳にはいって来るのである。
 平常ふだんなら、彼女にとって、こうして鐘の音を始めから終りまでいているのは、無上の楽しみである。彼女は最後の音を聞かなければ立ち上らない。それから戸の鍵を締めて、出掛けて行くのである。それだのに、今朝は、最初のひとつきが鳴る前に、昨夜ゆうべあんまりまぐさをふるいすぎたその疲れが出て、椅子いすにかけたまま居眠りをした。この一週間、いっときも休む暇のなかった働き女がよくやる、あれ式に、すっかり眠り込んでしまったのである。心の底まで眠ってしまったのである。それを起こしたのがわたしだ。ちょうど散歩から帰って来て、いた窓口から挨拶の言葉をかけた。
「ミサに行かないの、今朝は」
「まだ時間があるよ」――ナネットは、いきなり立ち上って、眼をこすりながらこう言う。
「時間がある? だってもうミサは鳴ったよ」
「うそ」――彼女は笑いながら言う。
「うそじゃないよ」
「うそだったら。鳴ったんなら聞こえるはずだもの」
「眠ってたからさ」
「眼をつぶってただけだよ、それもちょっとの間さ」――彼女は言う――「眠ってたなんて言えやしない。ほんとにてたんじゃないんだから」
「じゃ、ちょうど鐘が聞こえないぐらい眠ってたんだろう」
「鐘が鳴りゃ、大きな音がするんだから、びっくりしてとび起きらあね」
「いくら頑張ったって、この僕が鳴ったと言うんじゃないか。あんたが行きつく時分には、もう司祭さんは始めてるから」
「大丈夫」――彼女は言う――「司祭さんはお年がお年だから、そう早くはできないし、ちゃんと間に合うよ」
「じゃ、信用しないんだね、僕の言うことを」
「いったいお前さんはミサがいつ鳴るか知ってるのかい、そんなこと言うけれど」
「もう一度言うが、僕はつんぼでもないし、道の真中で立ったまま眠りもしないからね。鳴ったと言ったら鳴ったんだよ」
「そうか。そんなに立派に聞こえたんなら、なぜ自分で行かないんだい、この罰当たり」
「おや、僕が冗談じょうだんを言うと思ってるんだね」
「へん、それくらいのことはしかねないからさ、信心のことときたら」
「きっとだから……」
「うるさい」
「よしよし、強情っぱり、勝手にするがいい。ちゃんと教えてあげたんだからね。お気の毒だが後悔しなさんな。従弟いとこのうちの従弟いとこがせっかくこう言ってるのに、それで取りかえしのつかない罪を犯したら、それこそ自業自得だと思うがいい」
「さ、歩いた、歩いた」――彼女は言う――「わたしの冥加みょうがなんか気にしないで、もっと散歩をしておいで。あたしの冥加はあたしが自分でいいようにするんだから」
 彼女は、こう言い放ったものの、内心、あまりおだやかでない。中庭に出て、空を見上げる。まるで遅れた鐘の音を探すように。わたしの顔を見なおして、首をかしげる。やがて、わたしに対する不信用が勝を制して、彼女は家の中にはいる。
 しかし、しばらくすると、郵便配達が路ばたから声をかける。
「ミサには行かないんかね、今日は、おっかさん」
「行くよ、行くよ」――ナネットは、どぎまぎしながら答える。
「おりゃまた、行かないのかと思った」――郵便配達はこう言いかえす。
「あの、ひょっとして、ミサの鐘はもう鳴ったんじゃあるまいかね」
「とっくに鳴ったよ」
「とっくにって、よっぽど前にかい」
「よっぽど前だよ」――郵便配達のこう言う声が、もう遠くで聞こえる。
 ナネットはあわてて家の戸締りをする。そして、急いで教会堂に行く。彼女は『あっけらかん』と呼ばれるヴァンサンじじいの戸口の前を通る。彼は半身不随で、もうミサにも行かず、腰掛けの上で日向ぼっこをしているのである。それがナネットに言う。
「どこへ行くんだよ、あわてくさって」
「きまってるじゃないか、ミサにさ」と彼女は言う。
「みんなを迎えにかい」――『あっけらかん』が言う。
 冷やかされて、ナネットは、またぐらへ棒を投げつけられたように、ぎっくりとする。やるせなさに、胸をつまらせて立ちどまる。
「やっと御供物おくもつを供えるお祈りが始まったぐらいなものだよ、どうしたって」
「もうすんだころさ、たぶん」――相手の心も知らずに『あっけらかん』はこう言うのである。
「どうしよう」――ナネットはつぶやく。
 彼女は思いあまって、路の上でふるえ出す。もう前へ進むことができない。ミサがすんで、出ようとしている信者たちの驚いた顔を見ながら、これから行って、教会堂の腰掛けに腰をおろすだけの勇気はなさそうである。人に見られるのが恥かしい。司祭さんは、例の眼でこっちをにらむに違いない。彼女はその目付きを知っている。魂の底までぞっとする目付きである。今から家へ帰って、隠れていたほうがましだ。口惜くやしさと後悔とで泣き暮らしたほうがましである。
 こうなっては、もう取りかえしがつかない。彼女は一度ミサに遅れた。今まで、どんな理由があっても、怠けることはもちろん、病気のためだろうが、仕事が忙しかろうが、決して欠かしたことはないのである。これまで、お産をするたんびに、その日は運よく日曜以外の日であった。
 ところが、今日、もう死に目にも近づいて、ミサに行きそこなう。それに、彼女は、ほんとのことを言わないということができないたちなので、いいかげんな口実はつくらない。彼女は言う。
「わたしがミサに遅れた。それは全くわたしの過ちからだ。大きな過ちからだ。うっかり怠け込んだからだ」
 村中のものは、いち早くそれを聞き伝える。彼女は一軒一軒を訪ね、う人ごとに懺悔をする。初め、人は笑っているが、後に気の毒がる。彼女はわたしのところへも懺悔をしに来た。
うちへ帰ると、寝台の上にひざまずいて、持っている本をひろげてミサを読んだんだよ。だけどお前、やっぱりね、いくら一生懸命に読んでも、御堂の式に出るのとは違うからね」
「そりゃ違うどころの話じゃないさ」
「どころの話じゃないね」――しおしおと彼女は言うのである。
「この次から、お前さんの従弟いとこの言うことはちゃんと聞くがいい」
「お前は、だって、本気でものを言ってるのかどうかわからないんだもの、いつでも。あたしゃこの日曜っていう日は忘れないよ」
「この罪をあがなうのにゃ骨が折れるね」
「神さまのおゆるしがあれば、きっと罪ほろぼしをするよ」
「僕が神さまだったら、ちょっと考えるね」
「後生だからよしておくれ」――彼女は言う――「かたきを討つつもりだろうが、そんなにあたしをいじめないでおくれ。あたしゃ、これでいいかげん苦しんでるんだからね」
「天罰だよ」
「ひどいことを言うね、お前は」――彼女は言う――「お前はたちがよくない、今夜は。どれ、ほかの人に、あたしの不幸を話してこよう、ルイーズさん、それからパジェット、それからまあ、誰でもいい、この人と思う人に」
「行っといでよ。おっと、気をつけて、あんたはすそ梯段はしごだんを掃いてるよ。裾を引き上げなくっちゃ。いや、そんなに、それじゃあんまりだよ、すねが見えるじゃないか」
綺麗きれいな脛だから」
「誰も綺麗だなんて言やしない」
「この小僧め」――年を取った従姉いとこは、厳かな調子で、それとなく答える――「なあに、それならそれでいいさ、お前は人情っていうものを知らないんだ。どうせあたしなんかどうなったっていいんだろう、それでよくわかったよ」
[#改ページ]

幼な馴染なじ


 ロベエルが心もち口をけると、糸切り歯の一本無いのが目につく。それは、二人とも小さかった時、わたしが、弓の矢でいたのである。あまりぽっきりとかけたので、ロベエルはわたしが巧妙にねらいを定めたものと思い込んだ。驚愕と不安の一時いっときが過ぎて――唇から血が出ているではないか――わたし自身も彼と同じようにそう思った。名人の腕前に二人ともおおいに面目を施した。久々でロベエルにうと、彼は笑いながら、
「あなたですよ、こいつをかいたのは」
「わたしだよ、そうそう、だが別にみっともなくはないじゃないか」
「なあに、かえって都合がいいんです、口笛を吹くのにね」――彼は少しぜえぜえ声でこう答える――「そのへんのつぐみなんかにゃびくともしませんや」
 この思い出はわれわれを親しくし、しんみりさせるのである。
 わたしはこの男、わたしの友ロベエルが好きだ。なぜなら彼は自分の生れた村に住み、それを離れようとしないから。パリはいまだかつて彼の心をかない。彼はパリを知らないのである。パリもほかの町と違うはずはない、こう思っている。それで博覧会にも出掛けようという目論見もくろみさえ立てない。
 彼は満足してその日を送っている。日傭いである彼は、畑の仕事なら、いやになるくらいある。他人の仕事を終えると、自分の畑に手を入れる。疲れるということがない。餓え死をしないだけのものは十分に稼ぐ。ふとって脂ぎっているとは言えないが、達者なことは達者である。食うものは主にパンで、その他、サラダやチーズもうんとつめこむ。それから生水なまみずも飲む。良い空気は吸いたいだけ吸う。
 彼の手は握ると少しがさがさしている。耳は寒さに凍え、日にけて、木の葉が虫に食われたというかたちだ。しかし、眼は鋭く、しっかりしている。髪の毛の色はちょっと口で言い表わしにくいが、お世辞をぬきにして、白髪は一本もないと言える。わたしよりも年を取らない。
 すぐ、彼はたばこ入れをわたしのほうに差し出す。
「や、ありがとう、わたしはやらないんだ、ところで、驚いたね」――わたしが言う。
「どうしてです」と彼。
「どうしてって、ぎたばこなんか、君の年で、婆さんみたいじゃないか、わたしの伯母ならわかってるが」
「嗅ぐのは脳にくんですよ」
「そう、そりゃ知ってるがね、頭がすうっとすらあね。だが、若いものがなんだ、みっともない癖だね。長くやってるのかい」
「おやじが死んでからでさ」
「どういう関係なんだ、そりゃ。悲しくって嗅ぎたばこを嗅ぐわけか」
「そうじゃありませんよ」――彼は言う――「こうなんです。おやじがね、死ぬ前に、このたばこ入れを形見にくれたんです」
「こいつは鼠尾ねずおだね」
「ええ、あんまり綺麗きれいじゃありません。かばの木の皮ですよ。おやじがそりゃ大事にしてましてね。銀のたばこ入れなんかよりゃこのほうが好きだったでしょう。でも、どんなのが好きにもなんにも、これきりなかったんだから。それに、どうしてもこいつを手離したがりませんでね。おやじがこいつをくれたについては、きっと、わたしも使うようにっていう腹だったろうと、こう思ったもんですから、そのうち、これで嗅ぐようになったわけです」
「そんならまあ、君は好きで嗅ぐわけじゃなく、お父さんの記念を尊重して嗅ぎたばこを嗅ぎ始めたんだね」
「慣れるのにちっとも骨は折れませんでしたよ。はじめて嗅いでみたとき、気持がよかったんですよ。うたばこよりはからだにもよし、ずっと安上りでさ」
「その上、死んだお父さんを悦ばすわけだね」
「まあそうですね。このたばこ入れをけるたんびに、おやじのことを考えます」
「たんびに?」
「まあね」
「君はそんなにお父さんが好きだったのかい」
「ええ」――ロベエルは言う――「働き手でしたからね、おやじは。それに真直ぐなひとでしたよ」
「遺産っていうのは、そのたばこ入れだけかね」
「おやじの家も残して行きましたよ」
「いま君が住んでる?」
「ええ」
「住み心地はいいかね」
「広いんでね。いくらか湿けるようですがね。わたしは一日中、外で働いて、寝に帰るだけなんだから。湿けて困るのは、うちにじっとしている御新造ごしんぞさんだけでさ」
「どこの御新造さん」
「家内ですよ」
「お神さんをもらったの」
「ええ、あなたと同じでさ」
別嬪べっぴんかね、君んとこの御新造さんは」
「あなたんとこのと同じでさ」
「いやはや」
「全くわたしにとっちゃ申し分なしの別嬪でしょうな。二人の頭を枕の上に並べてみて、べつだん、ほかの夫婦よりゃまずいとも思いません」
「子供はあるの」
「二人、あなたと同じ、一人は男、一人は女、これもあなたと同じでさ。ですが、間違ってたと思うのは、そいつを養うことが、あなたのようにできるかどうか、そこを考えてみなかったことです」
「何を言うんだ、君はわたしよりは金持だよ、そしてわたしより仕合せだよ」
 この言葉を聞くと、ロベエルは大声で笑い出した。そして、抜けた歯の穴で、陽気な節まわしの口笛を吹き出した。それが彼の返事だ。議論をしようにもできない。
「勝手に口笛を吹くがいい」――わたしは言う――「そのうちにきっと君のうちの近所へやって来るよ」
「退職恩給でもついたらね」
「そうさ」
「わたしゃ、これでもう退職になってるんでさ。お待ちしてます」
「隣り同士で一生を送るかな」
「そいつはいい」――ロベエルは言う――「あなたは気位の高くない方だ。したの人間が好きなんだから」
「わたしも下っ端の人間じゃないか。どうしてそうからかうんだ、ロベエル。しようがない男だなあ。小さい時のように、二人は友達になれると思わないかい」
「そりゃあなた、思いますよ」――ロベエルは真面目になってこういう――「晩になると、代り代りに訪ね合って、カルタでもやりましょう」
「ほんとにそうしようよ。それから、砂糖を入れたブランでも飲もうよ。それから、寝る前には本を読もうよ、本を。どうだい、時々は本を読むかい」
「村の図書館の本を読みます」
「どんな本?」
「物語でさ」
「フランスの?」
「いいえ、インド人の……。奴らは茨の林を掻きわけてはいずり廻るんですね。で、だしぬけに飛び出して来て、農園を荒して行くんです。ぞっとするね。襦袢じゅばんの中へ汗をかくんです。そういう本ですよ。夢中になって読むのは。あなたは?」
「わたしもそうだ。それから、今日みたいに、日当たりのいいところを散歩しようね。まあ見てごらん、この土地を、われわれの故郷を。美しいじゃないか。この大きな草原、向こうに見える牧場、それをイヨンヌ河が貫いている、なんていう緑の色だ」
「すてきな射的場ができますぜ」
「射的場、なんだってそんな気になったんだ。あれは、とびきり上等な草がえる草地だよ」
「金になる草地です」――ロベエルが言う。
「われわれの大きな白い牡牛が、あのおかげで生きてるんだ。それにどうして、牡牛の代りに兵隊なんぞを入れようって言うんだ」
「別にそういうわけじゃないんですよ」
「それならそれでいいが……。それからまあ、あっちをごらん、河の向こう岸を……、どうだい、あの鐘楼の夕陽に輝いていることは」
「畜生、あいつをここから、ずどんと一発大砲でやったらなあ」
「またそんなことを言う。いったい、どうしたんだい。この自然を見て、君はそんな気ばかり起こすのかい。まるで将軍みたいなことを言うじゃないか。戦争があればいいと思うのか」
「いいや、いいや、戦争はまっぴら」――ロベエルは言う――「わたしゃ政治がどうのこうのと言ったことはありません。政府なんかなんだっていいんです、ただ戦争さえ起こしてくれなけりゃ……。わたしゃ戦争以外に恐ろしいものはありません」
「でも、今さっき、この草原を荒したり、あの鐘楼を大砲で撃ったりしようと思ったじゃないか」
「ありゃ、言うにゃ言いましたけれど、ほかのことを言ってもよかったんです」
「気をつけたほうがいいよ、ロベエル、人が聞いてるからね。そんなことを口に出すと、人がそいつを覚えていて、またほかのものに言うんだ。なにげなく言ったことでも、人は、君がそんなことを考えていると思うからね。なんでもない言葉が世間の評判になる。ことに、君は自分の村をほかの村よりはいいと思っている。すると、君をよく知らない人間どもは、君がほかの土地のものを嫌っているように取るんだ。もしさっき言ったようなことを、そう言う人間が聞いたら、いくら君が平和な人でも、君は兄弟たちを絞め殺すことしか考えていないって言うよ、きっと」
[#改ページ]

マドムアゼル オランプ


 マドムアゼル オランプ・バルドウの生涯を物語れば、一つ郷土小説ができるのであるが、それは単調にちがいない。彼女のすることは別に変ったことではない。人のために尽くすのが彼女の仕事である。
 わたしがって以来、彼女はいつもオールド・ミスのままである。十年前も今より若くはなかったし、十年後もおそらく今より年を取ることはあるまい。もう一定不変である。それは、いつまでもそのままでいる早熟なオールド・ミスである。誰でも勝手に年をつけることができる。
 彼女の兄が、もし彼女から、持参金として取ってある金を借りて、それを商売でくしてしまわなかったら、とっくの昔お嫁に行けたのである。彼女はお嫁に行くことを諦めた。しかし、彼女は非常に兄を愛している。あんな兄さんをと言う人たちに、兄は感心だと彼女は答えるのである。
 彼女は、今日こんにちでは母親のために身を捧げている。母親もまた、息子の失敗で、無一文になったのである。二人は、オランプの稼ぐ金で、ただそれをあてに暮らしている。で、このオールド・ミスは、実にやりくりがまずい。というのは、できるだけ少くもうける工夫をしているとしか思えないのである。
 針仕事にかけては、どんな種類のものでも立派にやってのける腕を持ち、田舎の刺繍師ししゅうしとしては、申し分のない才能を備えているにかかわらず、それを有効に働かせることができないのである。
 一人の細君が涎掛よだれかけを持って来て、刺繍をしてくれと頼む。
「型をって頂きます」――オランプがこう言う。
 細君は、どれがどうだかわからずに、それでも粗末な涎掛けのために、手の込んだ、金のかかる刺繍を選び出す。オランプは何も口をれない。彼女は仕事をする。そうして涎掛けの値打ちに相当した代価を請求する。
「いくらなんでも三十スウの涎掛よだれかけに飾り花をつけて、それで十五フラン下さいといえますかね。あの奥さんがびっくりしても、それを無理だとは言えないわよ」
「でも、オランプさん、あの人が選んだ型はあんまり贅沢ぜいたくすぎるって、そう言って聞かせてやればよかったのに」
「せっかくあたしを贔屓ひいきにして下さるのに、そんなことを言って、気まずい思いをさせる勇気はあたしにはないんですもの」
 彼女は、町の小さい娘たちに一時間五スウで裁縫を教えることを考えついた。
「高くはありませんね」――わたしがこう言うと、
「高いくらいですよ。でも、よかったら二時間いればいいんだから」
「同じ報酬で……」
「そりゃ……来た以上はいくらいたって……」
 なるほど彼女の言うことはほんとである。一時間の代りに二時間、オランプさんのところにいる、それは全くどうでもいいことに違いない。難問題は、むしろ、娘たちが彼女のところに来るかどうかということである。
「ぐちを言うことはないんです。町の奥さんたちは、そりゃ親切で、仕事も下さるししますからね。ジェルヴェ夫人、お医者さんの奥さん、あの方は娘さんの支度をすっかりあたしにさせて下さるんですよ」
「娘さんはお嫁に行くんですか」
「いいえ、まだ十四ですもの」
「それにもうその支度を、あなたがなさるんですか」
「だって、早晩お嫁に行くことはきまってるじゃありませんか」
「それにしても、ジェルヴェ夫人は手廻しが早いな」
「あたしのためには都合がいいんですよ。自分の気が向いた時に、その支度のほうは、ぼつぼつやればいいんでしょう。今週は襦袢のぬいとりを一つ、来週はハンケチを一つ、そんなふうにね、ジェルヴェ夫人は、別にあたしに急いでとはおっしゃらないんだから」
い人ですね」
「そりゃそうですよ。お嫁入りの時に、パリに行って一緒にさせれば、支度はできてしまうんですからね」
「そうすりゃ高くつくでしょう」
「お金持なんですもの」
「同時にしまり屋なんですよ。きっと金は払わないでしょう。いや、わたしの言うのはね、余計は出すまいっていうこと」
「あたしがいるだけ下さることになっているんです。私どもは貸借かしかりの勘定があるんです」
「だって、あなたは勘定をしたためしがないじゃありませんか」
「後生だから」――オランプは言うのである――「後生だから、ジェルヴェ夫人になんくせをつけるのはよして下さいね。こうしてあたしに仕事をさして下さるのは、慈悲深い方だからですよ」
 これらの奥さんたちは、自分のからだに着けられないようになったものを、オランプ嬢にやるのが一つの楽しみである。彼女は、涙を流してなんでももらうのである。彼女は色のせた裾着に不自由をすることもなく、また彼女さえその気になれば、毎朝げちょろけた胴着を新しく着替えて出ることさえできるのである。彼女は、時間を繰り合わせて、改まったお礼廻りをする。で、これらの後援者たる奥さんたちを訪問する時には、なるべく先方でもらった古着を身にまとって行くというしおらしい注意を怠らない。彼女はただお礼を述べるだけでは満足しない。何か、ちょっとしたもの、なんでもない、レースの端切はぎれとか、まあそういった、眼だけ使って、懐を痛めないものを置いて来るのである。
 彼女を補助するのは愉快である。が、それがためには、ただ寛大であるばかりではいけない。よくあとさきを考えなければならない。町長の奥さんはそこを誤った。彼女は、毎年、オランプのために、流行に関する雑誌を取ってくれるのであるが、それが、有益な、彼女のよろこぶ贈物だと思っているに違いない。ところが、それはオランプにとってありがたくない贈物である、というのは、その雑誌の懸賞競技に加わろうと躍起やっきになるオランプが実に惨めだからである。もっとも、彼女が一等当選という事にでもなれば、それは産を成し名を挙げるわけなのであるが、オランプ自身は、趣味のある女でもなければ、独創的な頭があるとも言えない。近代のランプの傘は、踊り子のように軽快でなければならないということすら知らずにいるのである。彼女の作品はというと、すかいがはいっていて、目もあてられない重くるしいものに仕上っている。送料と手数料とを払ったあげく、今度は返送料を払わなければならない。だから、針差しとか料理のしおりとかいうようなものに返送料までつけてやることは二の足をふむのである。彼女は、呼鈴よびりんの引き紐を出して、たった一度、第四等名誉賞状を得たきりである。それは優雅なものではない。堅牢である。ぶら下っても切れないような代物しろものであった。
 彼女は時々休息をする。手拭いほどの大きさしかない裏の畑を耕しもする。折ふし、どんぶりに一杯ぐらいの苺を売ることがある。
 この小さな町では、誰彼を問わず、彼女を利用している奥さんたちまで、いっせいに、マドムアゼル オランプの徳をたたえている。ただ一人、その母親のバルドウ夫人だけ、それを知らないでいる。
 オランプは、兄の破産から僅かばかりのものを救って、それでほとんど間に合っているように母親には思わせてある。母親は心からそれを信じ、幸福を感じながら暮らしている。自分では、だから、なんにもしない。何をしようたってできもしない。彼女には持病の湿疹がある。それを掻いてばかりいる。
 オランプは、つまり、ごまかしている。それで、苦もなく母親にみじめな境遇を知らせないですむ。毎日四時に起きるのに、母親には六時に起きると言ってある。彼女は、この定刻前の二時間を勝手の仕事に使わないようにしている。母親に知れるからである。彼女は裁縫をしたり、刺繍をしたり、音の立たない仕事しかしないのである。六時になると、バルドウ夫人が目をさまして、こう言うのが聞こえる。
「オランプや、もう起きたらどうだい」
オランプはこたえない。
「起きるんだよ」――バルドウ夫人は繰り返す――「ミサに遅れるじゃないか」
 オランプは、そうすると、ちょうど寝床からいやいや脱け出る時のような声をして返事をする。
「ええ、母さん、もう起きてよ」
「ゆうべは、お前、何時に寝たの」
「いつもの通りよ。母さん、九時」
「ずるけもの」と、バルドウ夫人は甘くきめつける。
 それが真夜中の十二時だったことを、どうして知ることができよう。
「お前は乱暴だよ、オランプ、そんなに無茶に急いで食べるって法があるものか」
「そうじゃないのよ」――オランプは言う――「母さんが遅いのよ。母さんはお年寄りの歯でしょう、あたしのほうが歯は丈夫なんですもの。だから、あたしが先にしまって、先に食卓を離れるのはあたりまえだわ。なんなら、待ってて、母さんの食べるのを見ててあげましょうか」
「勝手におしよ」――バルドウ夫人は言う――「だが、言っとくがね、からだが丈夫だからって、お前はそれをいいことにしてるよ」
 わたしが、彼女にオランプは聖女だと言うと、驚いて、「やっぱりね」――彼女はわる気でなくこう言う――「やっぱりね、一緒に暮らしてみないとわからないもんですね」
「ほんとよ、母さんの言うことは」――オランプは言う――「あたし、ずいぶん意地の悪いことがあるの」
「そう言っちゃ、またあんまりだがね」――バルドウ夫人は言う――「これの言うことはあてになりませんけれどね、まあ、これで、しんなんですよ」
[#改ページ]

小さなボヘミヤン


 村の食料品屋から、びんげて出て来た彼は、羊飼いに連れられて農家に帰って行く羊の群れを追って走った。彼は、自分よりも首から上だけ大きいその羊飼いに、ひと口も話しかけなかった。話しかけてもおそらく返事をしてくれなかったろう。が、彼は羊の群れについて歩いた。そして、遠くからなにかと世話を焼いた、第二の羊飼いという格で。
 牝羊が一匹、後に残っていると、それは彼の責任である。背中をさすったり、毛の間へ指をとおしたり、犬が来て追い立てるまで、彼はその羊に向かって主人然たる口を利くことができた。
 羊小屋の戸口へ来ると、この小さなボヘミヤンはいよいよ必要になる。
 生れたての仔羊こひつじが、一日じゅう母親を見なかったので、おもてへとび出して、母親の腹にすがりつく。彼はそれらの仔羊に、それぞれ母親を見つけ出してくる。同じ腹へ頭をぶつけようともがいている二匹を引きはなしてやる。そうかと思うと、自由を得たうれしさに、乳を吸うのも忘れて、水溜りのほうへ夢中になってとんで行くやつをつかまえる。
 それがすむと、小さなボヘミヤンは、褒美ほうびとして羊小屋の中に入れてもらおうと思った。自分のうちのような気がした。ところが、羊飼いは自分だけ中にはいると、二つに仕切ってある戸の下のほうを、彼の鼻先きでぴっしゃりと締め切った。小さなボヘミヤンは、罎を地べたの上に置いて、低い戸にぶらさがるようにして中をのぞき込んだ。彼の眼は闇をかそうと努力をした。
 手頸てくびが疲れるひまもなかった。羊飼いは、用事をすまして再び姿を現わした。今度は戸を全部、上も下もかんぬきを締めた。そして、犬と一緒に、夕食を食いに行ってしまう。
 小さなボヘミヤンは、またその後について行ったが、羊飼いは家の中にはいって、ほかの傭い人とともに一つの食卓に着いた。彼は、たった一人、中庭の真中にたたずんだ。
 誰一人、彼の存在を意に介するものがない。お神さんも、わざわざ彼を追い立てようとはしない。
 彼は大きく鼻をすすった。そして、再び羊小屋に戻って戸に耳を押しあてた。仔羊はもう落ち着いて、一匹一匹、声を立てなくなった。彼は外の閂がしっかりはまっていることを確かめた上、万一の用心に、大きな石を探して来て戸のつっかいにした。そうして置いて、もう何もすることがないと思ったらしく、彼は罎を取り上げて、この百姓家を去ることを決心した。
 ちょうどその時である、彼は路上に一人のおじさんを見かけた。彼は木靴を脱いで、それを両手にはめ、跣足はだしで、あたふたとこのおじさんに追いついた。
 彼はわたしに「今日は」とも言わない。
 彼の手は木靴を足に返した。そして、黙って、わたしと並んで歩いた――それは小さな乞食のようにでなく、小さな道連れのように。ただ彼はわたしと同じぐらい大股で歩くことを努めていた。彼はわたしの行くところへ来た。
 わたしが初めに口を切った。
「なんだ、その罎の中の黄色いのは?」
「油と酢、そこの食料品屋で買ったんだ」
「サラダへ入れるのか」
「あたりまえよ、スープんなかじゃねえ」
「なんだって、そんなに振るんだい、罎をさ」
「油と酢とがよく混ざるようによ」
「どこへ持って行くんだい」
「うちの車へさ」
「車へ?」
「そうよ、あすこの、運河の橋んとこにいるんだ。今朝着いたんだよ、おれたちゃ。そして、今夜たつんだ」
「面白いかい、そうして、ほうぼうの道を通るのは」
「うんにゃ、そりゃ働いたほうがいいや」
「その年でか、生意気だなあ」
「九つだよ、おりゃもう」
「九つで、何ができると思う」
「人のうちへ傭ってもらうんだ」
「小さ過ぎるよ、お前じゃ」
「だって、おれより小さい、七つのやつが牛車を引っ張ってたぜ」
「うそつけ」
「ほんとだよ、おじさん、刺棒さしぼうを持ってだよ。だから、言ってやったんだ――ひっくり返すなよ――って。そしたら――心配するない、おやじ――って言やがった。とうとうひっくり返さなかったよ、それで」
「どうかなあ、ほんとか、そりゃ」
「うそだったら、神さまのそばへ行けなくってもいいや」
「お前、それで牛が引っ張れると思うかい」
「でなきゃ、羊か豚の番ならできら」
「おっつぁんが許さないだろう。夜、川の中へ釣針を沈める手伝いをしたほうがいいって言うだろう」
「できることなら、おれに仕事を見つけてくれたいんだよ。きっとよろこぶよ。おっあだってそうだ」
「お前はあんまり小さいって言ってるじゃないか」
「うそだい、おじさん、うそだい」――小さなボヘミヤンは、こう言ってじだんだをふんだ。
「そんなら、そんなに威張るなら、この村の百姓家に置いてもらったらいいじゃないか」
「今、行って来たんだよ。きっと置いてくれるんだけどなあ。もうちゃんと手が揃ってるからだめだ」
 こうして、わたしたちは一緒にいくらかの道を歩いた。
 小さなボヘミヤンは、ある時は走った。またある時はわたしと同じように歩いた。
 彼は古い自転車帽をかぶっていた。この帽子は、当時、一番かぶるものが多く、したがって一番余計てられる帽子である。だから、漂浪者が多くかぶっている。
 彼は継布つぎの当たった、その継布つぎがまた破れた着物を着ていた。膝から頭までけたような形をしている。着けている襤褸ぼろがちょうど灌木の枝にひるがえる葉のように、風に吹かれて、彼自身がふるえているとしか思われない。
「女の姉妹きょうだいが三人、だけど、一人はもう歌わなくなっちゃった」
「ははあ、風邪かぜを引いたな」
「そうじゃない、死んじゃったんだよ」
「お前は、おれに何かくれって言わないね。銭を持ってることがあるか」
「ない」
「欲しいか」
「うん」
「どうするんだ」
「パンを買うんだ」
「パン、どうして。おれがよろこぶと思ってるのか。そんな……。なんだってかまうもんか。それよりあめを買え、飴を」
「おじさんの買えって言うものを買わあ」
「いいか」――わたしは、与えた金が有利に使われることを望む寛大な人間、とでもいうふうな厳かな調子で――「いいか、おれはお前に一スウやる、綺麗きれいな一スウ銅貨をやる。それでボンボンを買え、いいか、パンを買うんじゃない。わかったか、パンじゃない、ボンボン」
「ああ、じゃ、そうすらあ」
「うちの人に見せるんじゃないぞ」
「ああ」
「お前が、ああって言ったって、見つけられるだろう、そうしたら取り上げられるばかりだ」
「隠しとくよ」
「どこへ」
「ここ」――彼は、ポケット代用のほころびの口をけて見せた。
 わたしは、自分のポケットから、五スウだけつかみ出した。が、どう気がとがめたものか、一スウだけまた中へ入れて、小さなボヘミヤンに四スウ与えた。
「や、四スウだ」――彼は言う。
「そうだ、四スウだ。一スウ、ニスウ、三スウ、四スウ」
 彼の眼はたちまち花のように輝き、悪戯いたずら小僧の尖った声が、少年らしいあどけない声に変っていた。
「ありがとう、ほんとうにありがとう、おじさん、ありがとう。さよなら、おじさん、御機嫌よう」
 これが一生の別れであろう。彼はすでにわたしから離れていた、が、何か忘れものでもしたように、また帰って来て、わたしのほうに手をさし出した。その手を、わたしは、人通りのない道ばたで、それとなく、しかし力を籠めて握った。
[#改ページ]

オノリイヌ




 彼女はもう自分の年を知らない。人があまりたびたび尋ねるので、返事をする時に自分で何がなんだかわからなくなってしまうのである。彼女の言うことはほんとなので、全く自分がいくつになるのか、もうわからなくなっていた。彼女のことを一番よく知っている者は、八十六歳より若くはないと言っている。
 この月、一つの大きな不幸が彼女を見舞った。孫娘の一人が間違いをしでかしたのである。
「はじめて、今度という今度は、あたしは頭があがらない」
 それで、彼女はしょげきって、頭を下げている。彼女は総てを忍んで来た――骨の折れる仕事、赤貧、心痛、それから骨肉の死。彼女はいたるところで子供をくした。あるものは車にかれ、あるものは水に溺れ、その他のものは悪性の熱病であっという間にさらわれて行った。なお一人の息子は戦争で殺された。その戦争が、どの戦争であったかさえ彼女はもう忘れているだろう。彼女はそれでもぐち一つこぼさずに総てをうけいれた。しかし汚名だけはうけいれることをがえんじない。どうしてだろう。あんなに気力が衰え、色香がせ、死に目にもう遠くない彼女を見ると、孫娘の不始末ぐらい、ほかのことと同じようにどうでもよさそうなものを、と、人は驚くのである。彼女は恥かしさのあまり病気にまでなった。彼女は床に就かなければならなかった。頭がぼんやりして、誰が誰だかわからなくなっていた。もういよいよおしまいだと思った。聖体を拝領しようと思った。神様は来るには来たが、彼女をほうって帰って行ってしまった。そこでまた初めからやりなおさなければならない。彼女は床を離れたが、何もできなくなっていた。それに、彼女が洗濯をしに行く家では、彼女の病気を幸い、洗濯女をかえてしまった。本来なら、もう貯金の利子で暮らして行く時期である。が、不都合なことには、世の中の誰よりも余計に働いておきながら、一銭の蓄えもない。彼女は、自分でも言っているように、その日その日のパンと薪とを求めて歩かなければならなかった。
 彼女は、薪を探して歩くことは平気だった。なぜなら、それはほかの仕事とほとんど変りのない仕事であり、かつ、その仕事は彼女より富裕な婆さんたちを侮辱することにはならないからである。天気のい日は毎日、薪を拾って歩いた。背負籠しょいかごの中に、洗濯物を入れるかわりに薪を入れればいいのである。しかし、乾いた木ぎれは濡れた襦袢じゅばんより重たく感じられた。籠が麻の背負紐で彼女の背中にくっついている。婆さんは、地べたに鼻がつくほど前にかがまなければならない。籠をおろしても腰はほとんどのびない――そういうくせがついてしまってる。時として、彼女は真直ぐに歩けない。背中の籠が右へ行ったり左へ行ったりするからである。また時としては、いやでも応でも道ばたに積んである石の上に腰をおろす。しかし、この悪戦苦闘も、常に婆さんが最後の勝利をしめる。彼女は今年の冬も薪に不自由はしないであろう。
 あとは、その日その日のパンを探せばいいのである。あからさまに言うなら、乞食でもしなければならない。それは何よりも苦しいことである。苦しいことには違いないが、それもいずれはなれっこになる。現に、誰かが彼女の前掛けのポケットに何かを入れようとすると、彼女はまず後ずさりをして「いいえ、いいえ」と大きな声で言う。それからすぐに、低い声で「ありがとう、ありがとう」と言うのである。つまり、一方の手が、機械的に、ポケットをひろげるのである――施物ほどこしものが、わきへ落ちないように。


 彼女を観察していると、わたしは疲れるということがない。わたしの驚きは増すばかりである。彼女はもとよりそれを知るはずはない。話の筋を運ぶのはいつもわたしの役目で、彼女は根気よくそれに答え、決して問を発しない。で、もしわたしが話を途切らすと、彼女も口をつぐんでしまう。一句から一句までの間に、われわれは、めいめい勝手に好きなことを考える暇があるのである。
 彼女が時として自分の「性」を忘れることがあるのも、老衰を語る一つの徴候である。彼女は自分が女性に属しているということを、もう考えなくなっている。で、彼女は自分のことを言うのに平気で男性の形容詞を使う。
 Jeune, je ne suis pas gros, j'etais petit, mais sain et fort de temp※(アキュートアクセント付きE小文字)rament
 わたしはそれをとがめる気にならない。なおすのはもう遅い。
「いくつの年にお嫁に行ったの?」
「二十四のとき。もっと早く行けたんだけれどね。綺麗じゃない、そりゃとびきり綺麗というほうじゃなかったけれど、人が見て逃げて行くようなことはなかったんですよ。これでも、なかなか望み手はあったもんです。ただ、おれが延ばせるだけ延ばそうと思って」
「なんだって延ばすの?」
「ただ、そんな気がしただけさ」
「すぐに子供ができたかね」
「いいえ、嫁入ってから、二年間はずっと娘さ。ところが、一番上の男の子ができてからというもの……」
「そうそう、そりゃ知ってる」
 ここへ来るとオノリイヌの言葉をさえぎる必要がある。なぜなら、彼女は際限なく子供を生んだ。そしてその子供はみんな死んでしまった。彼女は、それを一人一人蘇らせ、かぞえ上げ、混ぜこぜにし、涙をそそぐのである。聞いているとなんのことやらわからなくなる。話が長すぎる。それに、陰気くさい。
「ずっとみさおを立て通したの?」
「そりゃむろん」
「お嫁に行ってる間だけね」
「行ってる間も、その後も」
「その後は、ぜひそうしなけりゃならないこともなかったろう」
「いつまでも夫婦は夫婦だからね」――オノリイヌは言う。
「そう言うけれど、田舎にも、だらしのない女がいるにはいるね」
「四人はいる」
「そういう女を軽蔑しますか」
「それはおれに関係のないこった」
「誰か嫌いな人間がいるかな」
「誰かって?」
「誰か、まあ、あんたのかたきっていうようなもの、あんたを悲しい目にわせたり、あんたに迷惑をかけたりした人間」
「誰もいないね、おれに迷惑をかけたような人間は」
「じゃ、あんたは誰かに迷惑をかけたことがありますか」
「お蔭様でそんなこたあありません。そんなことでもあったらそれこそ大変だ」
 自慢らしくこういったわけでもないが、彼女はすぐに気になって、返答をしなおした。
「それはそうと、年を取って意地が悪くなりはしないか、それが心配でね」
「心配はいらないよ」
「いいえ、いいえ、おりゃ、時々、そのへんの酔っ払いやのらくら者を見ると、腹の立つことがあるように思えてね」
「そのへんとは?」
「ええ、お互いさまだって、そのへんの人さね。ところが、そんな時、よっぽど我慢をしないと、つい馬鹿なことを言ってしまいそうでね」
「あんたにそんなことができるものか」
「これで、どうして、油断がならないよ」
「とんだ間違いさ。それがあんたの夢の見納めだろう」
「なるほど、そうかも知れない」――オノリイヌはこうつぶやいた。そして、彼女が常にわたしを待ち受けている沈黙の底に、再び首をうなだれた。
「ずいぶん苦しいことがあったろう」
「授かった苦しみです」
「あんたのような働き手はいまどきないね」
「まあね」
「あんたは死ぬのがこわい?」
「めったにそんなことは考えないよ」
「あんたは死なないかもわからないね」
 この冗談じょうだんは、彼女の赤く縁取られた眼をほのかに明るくする。彼女はそうあって欲しいと思っているのかも知れない。が、その明るさはすぐに消える。
「あんたぐらいの年になれば、もう死ぬわけがないじゃありませんか」
「年を取った、それだけでも死にますよ」
「百年は生きられるだろう」
「若いものにそういってやるんだよ。すると怒るよ」
「だが、全くのところ、もうしみじみ不幸な目に遭うのがいやになったでしょう。百年も生きていたかないね」
「少しぐらい、多かろうが、少なかろうが……」――彼女はなにか思案にふけるらしくこう言う。
 わたしは、彼女がどういうつもりでそんなことを言ったのか、はっきりわからない。年のことを言っているのか、苦しい目に遭ったことを言ってるのかわからない。彼女は夢を見ている。いつも動かしている頭の不規則な運動が、ちょうど反芻はんすうしているように見える。
「目をお覚ましなさい」
「でもね、笑うこたあずいぶん笑ったんですよ」
「あんたが? どんな場合に?」
「土地の祭や、村の婚礼、それから川で洗濯女と一緒に」
「どんなことで?」
「いろんなことで。うれしいから笑ったんですよ。それに笑ったり踊ったりすることが好きでしたからね。こう見えても、裳の下に棒杭ばかり入れていたわけじゃないんですよ。とっぴょうしもない声で笑いながら踊ったもんですよ」
「まだ踊ろうと思えば踊れるかね」
「孫のピエエルが死んでなくって、あした、嫁でももらうっていうんなら、おりゃ、一番に踊るね」
「せめて、笑うことだけはできるね」
心底しんそこからね、いざとなりゃ。人もうんと笑わせてやるよ」
「ちょっと笑ってごらん」
「笑いたかないもの」
「ただ、どんなふうにして笑うか見たいからさ」
「本気にならなきゃ、だめですよ。なんといったって違いますよ」
「いいんだよ、わたしを悦ばせると思って。さあ、笑ってごらん」
「じゃ、よござんす、あなたのことだから」
 彼女は立ち上る。提げ籠を椅子の上に置く。一方の足をあげる。手をたたく。三べんずつ馬のいななくような声を立てる。
「もうたくさん、もうたくさん」
 大きな黒い口、その中にわたしは、沼のほとりにころがっている石のような、一本の長い歯を見た。わたしはぎょっとした。彼女の手は骨の音がした。
「それごらんなさい、無理に笑うんじゃだめですよ。息子の婚礼で、うんと笑いましたよ。そりゃ、よく笑ったもんだ、まったくよく笑った」
「そんなに笑ったの?、変だなあ」
「まったくですよ」――再び座に着いて彼女はいう――「おれぐらい泣いたものもないでしょうけれど、またおれほど一生のうちに笑ったものもありますまい」
「そういう一生を、もう一度繰り返してみたいと思うかね」
「苦も楽もひっくるめてなら、神様さえお許しになれば、もう一度繰り返してみてもいいね」
「お願いしてみたら?」
「どうもお祈りの仕方が悪いんでね、おれは。晩、寝床の中で、お祈りをしている最中に眠ってしまうんだもの。朝は、急いで仕事に出掛けるもんだから、みちみちお祈りをする。ところが、誰かに遇うと、ついおしゃべりをしてしまって、お祈りは半分どころでおしまいさ」
「正直な話、神様っていうものはあると思う?」
「あるにゃあるんだろうけれどね。あなたは?」
「わたし? わたしはどうだか、そんなことは知らないよ。じゃ、あんたは、若い時分と同じように神様を信じていますか」
「ああ、だけど、以前の方が神様は好きだったね」
「へえ、じゃ、どんなところが気に入らないの、神様の?」
「あんまりだと思うことが二つあるね、おれにはどうしてもそれがわからない。あとのことはまあいいとしてさ。第一、どうして悪い天気があって、作物に害をするんだね? どうして、前の日に下すったものを、翌日取り上げておしまいになるんだね? 裏の畑の桜実さくらんぼも、おりゃ取り上げられた。が照りすぎてしなびてしまったんだよ。慈悲深い神様なら、なんだって人を困らせておよろこびになるんだね?」
「神様なんていうものはきっとないんだろう」
「まったく、そう言いたくなるね」
「じゃ疑ってるんだね」
「疑っちゃいません。桜実が惜しいんだよ。それから、なぜ若いものを先に死なせ、年寄りを後に残すんです。ピエエル、おれの末の孫っ子ね、この冬死んじまった。それに、なんにも役に立たないばばおれが、まだこうしてるじゃないかね」
「泣くのはよしなさい。天国でピエエル君のそばへ行けるよ。天国があることを信じてるでしょう」
「それも時と場合でね、日によるんですよ。おりゃなんだかもうわからない」
 わたしは彼女に泣くなと言った。しかし、彼女の涙は声のなかだけにしかない。彼女の眼はピエエルの死このかた乾ききってしまった。ただ声を出すだけである。涙がなにになろう。彼女はすでに椅子の上にうずくまっている。尖ったひじと枯木にひとしい手をすぼめている。くびきの下に押さえられているように垂れた頭の上から、彼女の背中が見える。髪の毛一本動かない。老婆オノリイヌのからだは、住むもののない空家のようだ。


 最初、人はこの離れに何も変った様子を見かけなかった。しばらくの間、平常通りの日が続いた。
 煖爐の薪が消えると、第一に、姿の見えない蟋蟀こおろぎが声をひそめた。
 ついで、中庭を歩きまわっていた、たった一羽の雌鶏めんどりが階段を昇って行って、くちばしで、まっている扉をつついた。窓のほうにくびを伸ばした。いつもの野菜屑が落ちて来ないので、出て行ってしまう。
 猫は、背中を丸くして、自分のよくっているひからびた手が、毛を撫でてくれるのを待っているが、それも待ちくたびれて、地べたのにおいを嗅ぎ出す。腹立たしそうにく。椅子を爪でひっかく。いよいよここはもうだめと知ってか、どこかほかのうちを見つけに、納屋を通って行ってしまう。
 一夜、鼠どもが、手箱の最後のかけらをかじりつくし、砂糖入れのふたけて見たが、からなので、もうやって来なくなる。
 蜘蛛くもはからだを縮めて、巣をかけるためにいっさいの沈黙を待つばかりである。一つの規則正しい響きが、まだ彼の安心を許さない。
 と、にわかに時計が止まった。それはしだいに遅くなって止まったのではない。こつこつという音が、最後の一瞬間までじりじりと消えて行ったのではない。それは立ちながら撃ちのめされた人間のように、ばったりと歩みを止めたのである。今まで、自分が病気だということさえ知らなかった人間のように。
 家の心臓は、もう鼓動をめた。
 村の人々は戸を押しけて、老婆オノリイヌを土間から抱き上げた。彼女は、一言の前触れもなく、たった一人で、うつむけに倒れていた。
[#改丁]

エロアの控え帳




散歩


 路の上で、わたしがまずれちがったのは、肩と肩とを並べてあるいている男の子と女の子とであった。二人は腕を組んではいなかった。なぜなら、女の子が身振りをするために両手が必要だったからである。彼女は威勢よく話した。まず上手に話すと言っていい。ただ、アという音のかわりに、やたらにオという音を入れる、それだけがきずである。
「そりョ、うるソいの、オトしのおっコソん。日曜日に、オトしがオんトとおどるのをいヨゴるのよ。もう、オコんぼじョノいのに、オトし、ねえ、オんト」
 つぎに、二人の女が通った。一方は若く、一方は年を取っている。新しい黒地の着物を着て、二人ともふくれた袋を手に提げている。急いでいた。話をするのに、めいめいが、かわる交る相手の意見に賛成することしか考えていない。
「それもね」――年を取ったほうの女が言う――「それもね、なにかあの人たちのためになるならいいんだけれど、そうじゃないんだから、あっちじゃ、なんでもないことを、わざわざ、おもしろがってぶつくさ言うんだろう」
「そうよ」――と若いほうが答える――「ああいうふうなのよ、あの人たちは。何もかもいやだ嫌だって言い張るのよ。だからしようがないでしょう。まあ、いいの、公証人のとこで話をつけるから」
 二人の女が姿を消したと思うと、今度は、二人の紳士に出遇であった。相当の年配である。裕福らしい身なりをして、熱のない歩き方をしている。絶えず右側を通ることを忘れない。しかつめらしい顔をしたほうが立ち止まって、手を挙げた。そして、音綴を句切ってこう言葉をかける。
「ねえ、君、わかるだろう、吾輩わがはいが黙っているのは、あいつにいっさいの罪を負わせてやろうと思うからさ。まあ待ち給え、今にわかるよ」
 彼は努めて笑おうとした。すると、連れの男は、まだまだ生きていられるんだから、今にわかるのはあたりまえだという顔つきをして、頭をゆすぶった。
 なるほどね、こうわたしは心の中で言った。今まで路で出遇った人間という人間は、みんな苦労をさせられている人間だ。みんなお互いに苦労をさせ合い、そして、人に苦労をさせている人間だ。苦労はあまねく行きわたっている。おればかりがもっているんではない。
[#改ページ]

無益な慈善


 今度は戸口でつかまった。わたしが出ようとすると彼がはいって来た。で、二人は鼻と鼻を突き合わせた。
 すぐに、彼は妹の話をしだす。どうも容態がはかばかしくないというのである。
 どこでっても、またどんなに長く会わなかった後でも、彼は、わたしの顔を見さえすれば、いつでもおなじ悪い便りを伝えるのである。もう何年も前から彼女は病気なのである。
 彼は低い声で訴える。わたしにだけなんでも打明ける。彼の眼には、わたしが親切に見えるというのである。
 わたしはできるだけのことはする。彼のいうことはいていない。なぜなら、この世の中に、自分の利益に関する問題がある。わたしにはわたしの病人がある。が、しかし、わたしは彼のいうことに耳をしているようなまねをしている。
 わたしは頭を振ったり、口を開いたりする。彼が歎息したり、薬屋の勘定がかさばったりすると、自分も眼をつぶるのである。時として、わたしの鼻の穴は「芥子膏からしあぶらきゅう」などという言葉ですぼみ、時としては、相手のいうことを聞き直したりする。
 たしかに、こういう偽善者の態度はわたしを疲れさす。彼をだますためには、かなり骨が折れる。で、もしこっちが返答しなければならないという段にでもなれば、それこそ万事休すである。
 しかし、彼は、わたしの督促を待たずに、どんどんしゃべる。自分の苦労を、ぶつぶつ語り続けるのである。同じことをなんべんでも繰り返す。ちょっとしたことを言い忘れたというので、また初めからやり直すかも知れない。それもそのはず、彼の生涯はもう生涯という名さえつかない。
 べそをかくならかくがいい、そして自分で自分を慰めるがいい。これも慈善だ、人のために尽くすという行為に自ら誇りを感じながら、わたしは彼の言葉をさえぎろうとしない。この風の吹き通すところで、突っ立ったまま凍えるぐらい覚悟の上だ。
 そこで、わたしは、にわかに木からでも落ちたようにわれにかえる。わたしはなにやら口の中でつぶやく。というのは、かわいそうな兄が、私に向かってやるせなさそうにこう言ったからである――「すみません、エロアさん、妹のことで、わたしがこんなことをいうのが、さぞうるさいでしょう」
[#改ページ]

肖像


 自然なポーズをとるために、わたしはまず平生通り腰をかける。右の足を伸ばし、左の足を曲げたままにして置く。一方の手をひろげ、もう一方の手を握って膝の上に置く。わたしはからだじゅうに力を入れ、七分三分に構えて一点を見つめ、そして笑顔を作る。
「どうしてお笑いになるんです」――写真師がいう。
「あんまり早過ぎるかね、笑うのが」
「誰が笑って下さいといいました」
「言われない先にやってあげたんだ。わたしは習慣を心得ている。初めて写真をるんではないんだ。わたしはもう子供じゃない。子供なら、――さ、こっちをごらん、可愛いコッコが出るよ――こういうところだ。わたしは自分一人で笑っているんだ、予めね。こうして長い時間、笑顔を作っておれる。別段、疲れもしない」
「それはそうですが」――写真師はいう――「あなたがお望みになるのは、ほんとうの写真なんでしょう。特徴のない、ぼんやりした姿ではないんでしょう。それを見て、口の上手な手合いが、お世辞のつもりで、――なるほど、どこか似ている――などとしか言わないような写真じゃないんでしょう」
「わたしは、総てが現われている、つまり、よく似ていて、き活きした、ひと目見てこれはと思うような、今にも話し出しそうな、叫び出しそうな、ふちから抜け出しそうな、まあそういったような写真が欲しいんだ」
「あなたがまあどういう方であろうと」――写真師は言う――「笑うことはお止めなさい。最も幸福な人間は、好んでしかつらをします。苦しいと顔を顰める。退屈すると顔を顰める。それから仕事にかかると顔を顰めます。愛するものに向かっても、嫌っているものに向かうと同様顰め面をします。そして嬉しいとまた顔を顰めるのです。なるほど、あなたは時として他人に笑顔をお見せになることがあるでしょう。また、その辺に誰もいないことがたしかであれば、鏡に顔をうつして笑ってみるようなこともあるでしょう。しかし、あなたの身内の方々、それから、近しいお友達は、あなたが仏頂面ぶっちょうづらをしている時しか、あなたを見たことがないのです。で、もし、あなたが、わたくしの保証する肖像を、そういう方々にお上げになりたければ、わるいことはいいません、顰め面をなさい」
[#改ページ]


 海を眺める時、海というもののどんなところが、まずわれわれの心をうつかと言えば、それは彼女がなんら驚くに足るべきものをもっていないことである。(敷衍ふえんするを要す)

 海を観賞する方法は人によって違う。あるものはひとり離れた一隅を選び、あるものは腹這はらばいになる。またあるものは立ったまま、くっきりと上体を水平線から現わし、身動きもせず、もの思わしげに、やがて見えなくなるまで海を見つめる。
 水浴びする人々の間を行き来して、こういうこともできる。
「この海は大洋を思い起こさせる」と。
 もし子供を腕に抱いているなら、そしてその子が泣き出したら、こういってやるといい――「こわくはない、しっかりつかまえていてあげる」
 もし犬を連れていたら、その犬を撫でてやるがいい、静かにせよと命じながら。
 馬に乗っているなら、試みにその気高い動物を波に向かってり入れ、おそろしさに足掻あがくのを見るもよかろう。
 わたしは、わたしの癖がある。軽い装束しょうぞくで、巻煙草たばこをくわえ、両手を背に組んで、庭の中にいるように、静かに海の方に進んで行く。すると海が向こうから近づいて来る。

「潮の満干みちひを司るのはあの月だとすれば……」――毎日こういう。さておもむろに空を見上げて、まだ出ない月を探す。そして、そのへんと思うあたり、微笑ほほえみを月におくる。
 そねみを買わないように、またこうもいう――「美しい夕陽だ」――。しかし、突然あたまを振って、つまり自分はだまされてはいない、寝に行く太陽――寝に行くざまとはどんなものか、それくらいのことは知っている、そこを見せて置く。

 その婦人は波にからだを浮かせている。からだのどの部分も水平の上に出ていない。
 その婦人は笑っている。あまり笑って、一滴の水を海の中に落とす。
「や、海の上に美しい珊瑚さんごが」
「あたしの口よ、それは。指をどけてちょうだい」
 もう一人はからだをに乾している。びんに一杯塩が取れる。
「海を見てると眼が痛くなるわ」――一方が言う――「じっと見ていられないの。新婚旅行で瑠璃が浜コオトダジュウルを通る時は、ずっと海に背中を向けてたのよ」
「あたしはね、もうきまってるの」――もう一方のが言う――「壮大な海の眺めにぶつかると、一週間あれが早くなるの」

 ところで、これはまた犬儒学派の哲学者である。厳かな手つきで、あくまで荘重に、粗大な衣布のひだを掻き上げ、胸へとって肩からうしろへ投げかける。素足で歩く練習をする。その指は曲りくねった木の根を思わせる。みすぼらしい頭髪がまばらにひょろひょろと渦を巻いている。彼らは人間の情熱の内海をこの海にたとえ、海底の砂粒を以て永遠を計るのである。
 黒衣をまとった若い女が、ただ一人、岩の上で夢想にふけっている。
 おそらくは、この世をはかなんで、再生の日を送るべき一つの星を選んでいるのであろう。彼女はすでにこれと思う星を探しあてて、その世界に住み込んだ。彼女は運がわるい。その星はたちまち飛んで行く。
「しかし……」
「そうさ、わかってるとも、星が飛ぶもんか」

 海月くらげに用心しなければならない。古代の伝説がわれわれに教えるそれには及ばずとも、また、第二のペルセエがすでに無くなっている頭を斬ることはできないにしても、彼女らはその妹分たる陸の蕁麻いらぐさと同様とげをもっている。それにまた、ねばりねばりとねばりつく。水浴する男は、彼女に抱きつかれると、浜辺を指して逃げて来る。罎詰めの糊をくっつけて逃げて来る。

 わたしはいろいろの型の船に乗って海へ出歩いた。船暈ふなよいの研究をするためである。
 食事をせずに行くと、一回目にはいた。二回目は嘔かなかった。しかし三回目には嘔いた。
 わざわざ食ったシャンパンづきの御馳走を三度嘔いた。二度は納まった。
 船首にいて嘔いた。船尾にいては嘔かなかった。しかし、真中で嘔いた。しかもフランネルの腹巻きをしていた。もっともあまり締め過ぎたかも知れない。ともかく、海へ出る時には、からだの軽い、気分の爽やかな日を選ぶ。そして、描いたような水平線を見つめながら、健全な、雄壮な思索によって心を紛らそうと努めるのである。それで、ある時は、平気であるが、ある時は、何もかも戻してしまう。

 今朝着いたボルネ夫妻は、もう海岸を歩き、小さな港を一周し、小石を拾い、風に鼻をすすった。
 昼食をする。食堂の窓から海が見える。
「あなた、おなかがすいてらしたの、もう大丈夫?」――細君が尋ねる。
「いくらかなおった」――ボルネ氏は言う――「とても治るまいと思った。ひどいもんだね、腹をえぐるよ、海の空気ってやつは」
 彼はハンケチを畳んで、消化を助ける準備をする。その時、船頭の神さんが、魚を売りに来る。
 彼女はみじめななりをしている。ことに色のせた靴下が、焦げた靴の上にだらしなく下っているので、なおさらその感が深い。
「かわいそうな女」――ボルネ夫人は言う――「なんていう生涯だろう。ありゃ、どうかすると、たしかに、魚の骨をしゃぶってるわね。それも人に売った魚の骨が路に捨ててあるのを拾って来るんだわ。あの女を見ると、あたし変になるの。自分の境遇と比べて見るの。で、あたしたちがよくぐちをこぼしたりなんかすることを考えるの。あの女の持ってるものったら何があるでしょう。それに、あたしたちは、ないものったらない。あたし、なんでもないことに涙を流してみたりする人間は嫌いよ。だけど、物事があんまり不公平なので、つい腹が立つの。自分が絶えず幸福だということが、なんだかおそろしいわ」
「なるほど、あの女を見て一種の感動を受けることは、わたしもお前と変りはない」――ボルネ氏は言う――「しかしながら、考え直してみよう。昼食をすまして、襦袢じゅばん一つになると、乱れた胸の底から、溜め息がうっかり出て来るものだ。あの女の欲望はお前の欲望とはまた違うと、わたしは思う。あの憐れっぽい身なりだけで、心の苦しみを判断しようとするお前はだまされている。ああいう女は、単純で、理想などというものはなくってもいいんだ。ところが、お前にはいつでもそれが一つはなくっちゃならない。お前は、暇さえあれば空想を描いている。あの女は、そうじゃない、食うことしか考えていないんだ。生きているから食う。それがあの女だ。この海岸に生れ、そこで死ぬときまっている船頭の妻だ。食べものは僅かでいい。そうだろう、ひどいもんだからね、腹をふくらすよ、海の空気ってやつは」
[#改ページ]

ニイスの旅


「僕の案内記を持って行きたまえ。そうしてホテルの番頭に、コンチ氏の紹介で来たと言いたまえ」
「それより、こう言ったほうがいい」――エロアは言う――「おれはひと息にこうどなってやる――コンチ君とジョアンヌ君とベデカア君の紹介で来た――って」
「どうぞおはいり下さい」――ホテルの主人は頭を地べたへつけるようにかがんで、おれに言う。――「おうちにおいでになるつもりで、どうぞ。万事家族的にお願い致します。ようこそいらして下さいました、お金をお忘れにならずに」
「礼儀正しいということがどれだけこっちの役に立つんだ」――イギリス人は考える――「フランス人の馬鹿は、お互い二人ぶんだけそれをやってくれている。どうかすると、おれの荷物を置くじゃまにならないように、片方の尻で腰を掛けるかも知れん」

 ヴァランスにて。――もうすでにがっかりした。蜜柑みかんが一つもない、楽しみにしていた蜜柑が。

 アルルにて。――おや、はえが一匹。
 ラ・ブリュイエエルの百姓はもう同族のものを見分けることができないだろう。
 誰が、邪念なく、進歩を否認することができよう。
 彼は歩む。彼は歩む、百姓は。
 野を通ると、まだ、黒く日にやけた獰猛どうもうな獣を見ることは見る。祖先と同じように、彼は終日執念深く、耕された畑の上に腰を屈めている。
 しかし、少くとも彼は、汽車が通ると頭をもちあげる。

 翼がほしいという欲望をもっているにかかわらず、われわれは遂に空を飛ぶことはできないであろう。結局仕合せだ。さもなければ、空気はやがて吸うに堪えなくなるだろう。

 君たちは考える。――エロアは自由なからだで、ああして旅行ができるとは仕合せだ。行くさきざきで風景を賞し、美しい幻象イメージの貯えができると。
 どうしてどうして。おれは、今まで与えたチップ、これから与えようとするチップのことを考えている。あの給仕は、おれの外套がいとうを頭の上からせかけた。とんでもないところへ袖を通させる。彼は満足していない。今晩、チップはハンケチの下へ隠して置こう。
 それに、おれをシナ船に乗せたあの船頭、あれで十分だったろうか。たくさんだろう。おれならあれでたくさんだ。
 それから、あの男、物を尋ねたのに、言うことが、こっちに一語も通じない、それでも「は、は、ありがとう、ありがとう」と言ってやった、あの男、あいつはのどかわかしていた。聞いて見なくってもわかる。
 なお、あのマンドリンきに窓から銭を投げてやった。弾くのをぱったりやめて、丸めた紙を拾い取る。中をあけて見て、何かどこかへ転がり落ちたのではないかと思って探す。あてがはずれてまた弾き始める。なかなかそれくらいのことで黙りはしない。
 なんだ、あの冷やかな、横柄な、がむしゃらな御者ぎょしゃは。貴様がおれを乗せて歩いている間、おれはのべつに計算をしている。とても貴様に金を払う気はしない。もう降りないでいたほうがましだ。一生貴様の馬車に乗っていてやる。世界の果てまで行け。
 貴様はなんだ、貴様は。自分のつらでも殴れ。うるさい奴だ、しょっちゅううしろから、戸に頭をぶつけてまで、「あのう、なみの食卓で召し上りますか、それとも、別にお一人分の食卓に致しましょうか」――黙れ、さもなけりゃ、おれは餓え死をしたほうがいいんだ。「あのう、何週間もこちらに御逗留とうりゅうでございますか」――いいや、もうつ。勘定を持って来い。貴様の分もそれで払ってやる。さ、行け、行け、おれの毛布を分捕品のようにして下へ持って行け。いくらでもお辞儀をしろ。いくらでも世辞笑いをしろ。そんなことで、おれがへこたれるものか。もっと穿うがったことをやってやる、堂々とな。玄関の蹈段ふみだんの上に突っ立って、貴様がもう冷たくなった面をさらしながら、眼の色をくしている間に、おれは、ポケットの中へ手を差し込み、蟇口がまぐちを探す。そしてからっぽの手を引き出して見せるんだ。
 よく見ているがいい、事務所の法官。おれは天国の元首然たる落ち着きを以て馬車に乗り込む。扉を邪慳じゃけんに締めるなら締めろ。そんなことは平気だ。窓ガラスを透して、頬髯ほほひげやした貴様の支配人づらが、唇をもぐもぐさせているのを一瞥いちべつする。もちろん、貴様が「しみったれの駱駝らくだ野郎」と言う声は、おれの耳にはいる。口惜くやしがってくたばれ。勝った嬉しさで、こっちもくたばりそうだ。

 マルセイユにて。――わたしが学校にいるころはフランス第三の都会。それからずいぶんわたしは大きくなったものだ。

 一人のふとった婦人が、彼女の印象と、わたしの印象とを一緒にして約言する。
「プラド、プラドって、人を馬鹿にしてる。ただ聞いていると、まるでオベリスクみたいだわ」

 新しく部屋を取るごとに、わたしは面倒でもアルメニヤの紙を焼きてる。後から来る人もそうなさい。

 ツウロンにて。――ほばしら、檣の森。そして、もう飾りをつけたのが一本もない。来かたが遅かった。お祭は済んでいた。
 赤銅色しゃくどういろの大きなふねが、海上に焔を投げている。
 あれは、噴水だ。
 また噴水か。
 おや、銅像がある。誰の像だ? 誰が作ったんだ。

 サン・ラファエルにて。――私が夜中に着く時刻を電報で知らせたので、皇族か公爵が変名で旅行をしているとでも思ったのだろう、ホテルはありったけの明りをける。一番いい馬が二頭、停車場へ出迎えをするためにき出される。総員出揃いでわたしを待ち受けている。一人の先生が馬車の扉をける。もう一人が荷物を受け取るために腕をひろげる。すると御者ぎょしゃがわたしの手提てさげを投げる。
 わたしは、一番ふとったのに、部屋が明いているかを尋ねる。彼は、サロン付きの部屋が準備してあると答え、ろうそくを高々と掲げて、こちらへという合図をする。百九十八号へ連れて行く。
「何か召し上りますか」
「湯たんぽを一つ頼む……」
 わたしが半長靴を戸口に出すと、明りが消える。わたしの用を弁じるためにさきを争うどころでなく、給仕どもはみんな寝てしまう。
 わたしは独りぼっちになる。この屋根の下、ひっそりした部屋の中、空虚な響きを伝える二つの部屋に挾まれて、わたしは独りぼっちになる。

 ホテルの部屋で眠るためにはあまりに疲れきっている旅行者こそ仕合せである。彼は、鞄を開き、刷毛や上履うわばきを包んでいる紙が、欠伸あくびをしながら、こそこそ話をするのをいていることができる。
 二つの赤い岩が見える。一つは「海の獅子」と呼ばれている。なぜなら、アルフォンス・カアルの言うところに従えば、その岩は獅子が寝ている形を現わしているからである。もう一つは「おかの獅子」と呼ばれている。魚の形をしている。

 カンヌ(料理店ラ・クロアゼット)にて――エロアはそしらぬ顔で、彼の封筒を一枚机の下に落とした。あとで、給仕どもが、よそから来た人たちにこう言えるようにである。
「エロアがここで食事をした」と。

 おお、月を見てなんの感じも起こさない地中海よ、お前は決して動かない。そして、蒼白あおじろい唇で、人間の粉がまじった無味乾燥な砂を永久に吸っている。

 それから、お前、帆立貝の猿股さるまた穿いた象の脚、剃刀かみそり入れ、元禄袖、模範煙突えんとつ羽根箒はねぼうき、これは棕櫚しゅろの木、失敬。

 これら庭園の緑樹は刃物屋の店先きのごとくわたしの眼を楽しませる。尖った梢に、一つ一つを投げかけて見たい。

 贋金にせきんの果実をつけて得々たる南部地方ミディイの蜜柑の樹、お前は降誕祭の飾り樹に似ている。ただお前はそれよりも貧弱だ。あの枝の中には小さなリキュウルのびん[#「罐が」はママ]ある。

「ああ、ここへ来てせいせいした」
「そうだろう、ここの気候は腺病患者にもってこいだ」

 今宵、夕陽は薄ぎたない黄色を呈している。卵を食ったんだと言うかも知れない。

 アンチイブにて。――新聞フィガロの創立者ヴィルメッサン氏は、宏壮雄大なヴィラ「太陽荘」を築かせた。氏の考えでは、これを文学者の隠退所にあてるつもりであった。しかし、実際は、下宿屋になっている。
 とはいえ、文学者が泊るのは差し支えない。

 ニイスにて。――夕方はあれほど雑沓ざっとうする英人遊歩道路プロムナアド・デ・ザングレエに、人影がない。
 たった一台の車、乳屋の車。

 これらの綺麗きれい驢馬ろばの腹を足でやぶれ。ボンボンが飛び出るにきまっている。

 それに、いつものあの黒い服のれる音、暴利の白粉おしろいで白くなったように、そこかしこ光っている黒い服。
 宿のあるじが、われわれの眼の前で注文のえびを釣り上げる。しかし、それをわれわれのうしろへ投げすてる。彼が客に出したのは、きのう死んだので、もう煮えている。

「ニイスをどう思います」と、フランス人が国際的微笑をもって問いかける。
「あんまりフランス人が多すぎる」と、イギリス人が答える。

本物ほんものの」青年が一人、小川のほとりに横たわって、「青銅の」かけひから流れ落ちる泉にのどをうるおしている。
 思いつきは結構、眼を欺くに十分。毎日曜日の午後三時、青年にそれをやらせることにする。

 やれやれ、なんという暑さだ。おれの額の上に蜥蜴とかげがいるんではないか。

 ペストのように避けて通る――ローマ浴場の廃址、「若干のいい画を蔵する」博物館、珍無類の彫刻、ファサアドが、何百何年とやらに造られ、大祭壇がなんとやらの教会堂。

「顔を海の方に向けて、右へ進むのです。そうして市役所を左へやっておしまいなさい」
「大丈夫です」

 ガリバルジの銅像の前で、もし、あなたが馬車に乗っているなら、一度降りて見なければなりません。
 ――いやいや。

 なるほど穏やかな天気だ。窓をけ放って顔を洗う。
 しかし、わたしは絶えず、パリでは雨が降っている、氷が張る、こう言っていなければならない。ところが、今朝、フィガロを読むとこう書いてある――昨日はとびきりの上天気。張り合いが抜ける。
 この皮のむけた土地が緑色になるのはいつのことだ。
 軽いいでたちで、わたしの田舎いなか、自分の田舎を散歩するころは、麦が芽をふく。
 ここは、冬の煖炉と鉢植えの木を入れた温室だ。

 モナコにて。――汽車中。あの品のい外国人は、長い袋から何を引っぱり出すのだろう。切符なしで連れて来た家族の一人か。

 宿料を聞き忘れた。なんという部屋だ。一晩に千フラン取られるかも知れない。眠れない。

 毎日、二時から四時までの間に、アルベエル一世が、男らしい気持のいい頭の上に太公の冠と学者の冠とを戴いて、古いやかたの十字窓をけ――ボオル・ボカアジュは言う――そして、税を払わないでいい幸福なモナコ公国民の頭越しに、自分の領土外につばを吐きかけるのを見ることができる。

 モンテ・カルロにて。――わたしは、ほんとうの勝負好きだろうか、狡猾こうかつ搏打ばくちうちだろうか、済度し難い賭博狂(見ただけでぞっとする手合)だろうか。

 後に言うが、わたしはモンテ・カルロで博打を打つ。モンテ・カルロでさえ、勝負には強い。で、賭け金と一緒にもうけを掻き集めるとき、番台の男に笑いかける。しかし、無表情な秣掻まぐさかきはわたしの笑顔に応えてもくれない。で、わたしが、嬉しさのあまり、ピストルで脳天をいたところで、彼はびくともしないだろう。

 鳩猟。――一つの箱がく。一羽の鳩が飛び立つ。そして、ばったりと落ちる。その鳩は、よく神話を知らないと見えて「希望」のように、じっとしていない。犬が走って行って、上手に口でくわえる。しかるに、鳩を殺した男は、決して姿を見せない。隠れている。そうしないわけに行くまい。なんと言う撃ち方をする奴だ。酔いどれが拳を振り挙げて、子供の小さな口をなぐるように立派だ。

 ラ・コルニシュにて。――ごらんなさい、海の上の二そうの小舟を。誰だ、海で古靴をくしたのは。

 路ばたで物乞いをしているあの老婆は、へりくだった口の利き方をしない。
「どうぞ、お慈悲を」
 彼女は恐ろしい剣幕で呪いの文句を浴せかける。それだのに人は、石をぶつけるかわりに、銭を投げる。

 元気を出して、ずんずん登った! ここでは何も見えないだろう。その斜面をじ登るんだ。そら、もうお前の鼻の先と水平線との間に、少くとも広大無辺な眼界が開けている。
 もうひと息、最後の一歩。
 止まれ! 早く、額の汗が乾かないうちに、眼を空に転じ、胃のから眩暈めまいがやってくる前に、崇高な思念をび起こすことを努めろ。
 その後で、息をつけ。

 マントンにて。――五分間停車。わたしのステッキを地に插す時間。帰りに抜き取って行こう。それはそうと、さぞびっくり仰天することだろう、わたしのステッキが小さな樹になっていて、葉のついた若い枝に覆われ、なお、もしかして、その枝の一本に、旅のかわきをいやすため、ステファアヌ・マラルメがでた果実、「理想のにがみに味つけられた黄金色こがねいろのシトロン」をちぎる悦びをもつとしたら。
 土地の娘たちはシトロンをたべない。しかし彼女らは、それを籠いっぱいに積み上げ、頭へせて運ぶ練習をする。シトロンが決して落ちないようにするには、常に行儀よくしていればいい。
 彼女らのからだつきとその身持ちとは、そこから来る。

 ヴァンチミルにて。――そこまでちゃんと合っていたわたしの時計が、そこから四十七分遅れていることになる。じゃけんな風と三角同盟に買収された土地の子供らとが、わたしの後から吹いたりどなったりする。われわれの美しいフランス、その郵便局でなら十スウも払えばすむ電報を、ここでは六十スウも払わされる。これ以上は言うまい。わたしはイタリアがどんなところか知っている。千古不滅の雪に最後の一瞥いちべつを与え、疲れ果てて、そこここの温泉町を眼にうかべながら、帰路に着く。
[#改ページ]

第一歩


 わたしは、それでも、ある偉人とある名士とに連れ立って、大通りを散歩する光栄をになった。
 偉人は顔をあげて、漠然たる様子で、規則正しく歩みを運んだ。その渇仰者は、彼を注視するために立ちどまった。あるものは、ほとんど親しげに通路を擁し、あるものはうやうやしく過ぎ去った後を見送った。
 彼は誰一人に眼をくれないように見えた。時として樹木の枝に笑いかけた。おそらく、いっさい無関心で、歩道の真中を歩くということしか考えていなかったろう、群集がひとりで道を開くままに。
 しかるに、彼の右側には、名士が、入魂じっこんのものに挨拶をし、差し出される手を握り、一口二口、機智に富んだ、または情をめた言葉を投げかけていた。彼は、わざわざ人に道を譲らないにしても、ひじをぶつけて、すぐに断わりを言えば、べつだん腹を立てない。彼は偉人と陳列棚との間を行ったり来たりした。時には、自由な若々しい気持から、ただパリにいる、その住人たちと一緒にその建物に取り囲まれているという幸福を味わっていた。時としてはまた、しかつめらしく、栄達の夢を繰り返し、いつかこの偉人さえも足下に見下し得るような力を、ひそかに自分のうちに感じていた。
 わたしは、未来ある少年、溝の縁を伝っていた。一言も口を利かなかった。何も聞こえない。それもそのはず、群集にもまれて、絶えず前に出過ぎるか、後へ退さがりすぎるかした。のべつに新聞の売店や、街燈の柱や、花売り小屋にぶつかって廻り路をした。なんべんとなく、二人の先輩を見失おうとするので、息をきらして、一方の足は歩道の上に、一方の足は木を敷いた車道の上に、からだの中心をとるひまもなく、びっこをひきひきその後について歩いた。
[#改ページ]

朗読


 夕食は簡単に片付けた。というのが、エロアは、二人の客、詩人ウイレムとその細君に予めそう言って置いたのである。
「簡単な食事を用意させたのだ。いかにも、君たちの胃袋にお礼を言ってもらうのを当てにしてるようでいけないから」
「じゃ、始めてくれたまえ」――ウイレムが言う。
「ほんとうに、あたくし、楽しみにしていたんですのよ」――ウイレム夫人は言う。
「いや、あなた方がなんておっしゃるか、もうわかっています。あなた方は、ほんとうのことをおっしゃるには、あまりに御親切です」
「われわれはほんとうのことを言うよ」――ウイレムがきっぱり言う――「お互いに同年輩だ。君に向かって手心を加える必要はない。もし君の脚本がまずければ、こりゃもうなんともいたしかたがない」
「うまいにも、まずいにも、誇張しないでくれ」
かせてもらおう」
 エロアは急がない。彼はまず聴衆にしっかり用意をさせようとする。彼は、自作の脚本を読む前に、短い、気の利いた序文というようなもので、その解説をして置こうと思うのだが、まあ、二三思いついた、それも月並みな予告をする。
「わたしはこの劇の価値が、どれほどのものかということは知っています。これはわたしの手始めです。いわば、開幕劇に等しいものです。たいした問題にはならないのです」
 そして、彼はついに余計なことまでしゃべる。詩人ウイレムは書物のページを繰っているようなふりをし、ウイレム夫人は、鏡を出して、髪の毛をあちこち押えてみたりする、この様子だと、彼らはその瞬間、朗読のあることを忘れているとしか思えない。
 エロアの細君はどうしているかというと、彼女は一言もしゃべらない。避け難い危急が切迫しているかのように心をおののかせながら、珈琲コーヒーを注いでまわる。小さい丸い水溜りが光を反射し、そして、茶碗の中で湯気を立てる。
 突然、独りで、エロアが決心をする。
「席に着いてくれたまえ。始めるよ」
 相手はまだぐずぐずしている。ウイレム夫人は、自由で真直ぐなただの椅子いすよりも、肱掛ひじかけ椅子の底に埋っていたほうが楽ではないかと考えている。
「後へ退さがって下さい」――エロアはいう――「近くでは工合いがわるい」
 詩人ウイレムは華奢きゃしゃな脚を組み合わせ、肱をつき、指を口髭くちひげにあて、やがて、のべつにそれをひねるのである。顔を影に向けて眼をつぶる。
「もう一言ひとこと」――ウイレム夫人が言う――「黙っていなくっちゃいけないんですか。それとも、朗読の間、感じたことを申し上げてもようござんしょうか」
「黙っていて戴いたほうが結構です」
 エロアは、こういって、なお、意気地なくつけたす。
「もっとも、どうにも我慢がおできにならないというような場合は、こりゃ別ですがね」
「黙っていましょう。さあ、どうぞ」――ウイレム夫人は言う。
 エロアの細君は見えない。彼女は戸棚の横に隠れている。彼女は両手を胸に当てて、息苦しさに悩んでいる。
 エロアはウイレム夫妻の顔を見て、卑怯にも微笑を送る。ランプの傘を下げる。呟払せきばらいを[#「呟払いを」はママ]する。それから、つぶれたような、どこから出るともわからない、子供が読本の拾い読みをするような声で、弔辞を読むような声で、彼は原稿を読み始める。
 まず作者の名、その住所、それから標題、それから人物の名、背景、こう読んで行く。それだけでもう息が切れそうになる。誰かが一言励ましてくれればいいと思うほど、ぐったりする。
 彼は陰険な敵の前で最初の数句を読み上げる。しばらくの間、彼の声は、乞食女のように、ぎょうから行をたどる。
 が、やがて、彼は耳をそばだてる。
 ひとしきり座が動揺した。そうだ、ウイレム夫人が動いた。そして溜め息をつく。彼女の口から、ひと声れる。どんな意味だったろう。エロアはそれが好ましいものであることを望むばかりである。彼は読み続ける。半分は原稿に、半分は聴衆に気を取られながら読み続ける。間もなく、さらに感歎の叫びが聞こえる。ウイレム夫人の唇からそれが漏れる。今度こそは、もう疑う余地はない。彼女の気に入ったのだ。彼女ははっきり、こう言う。
「こりゃどうして、たいしたもんだわ」
 直ちにエロアは、力を得て、調子を変える。細かい味をみせる。声という声は残らず出す。ウイレム夫人にさえ気に入れば、それでいいではないか。彼はもう恐れるところはない。で、彼は、彼女のほうに向き直り、これからは、彼女のために、この優しい頼みがいのある婦人のために読むのである。彼女はしきりに感興の抑え難きを示し、「おお」とか「ああ」とか「まあ、いい」とか「申し分なし」とかを連発する。
 それは嬉々として舞い上る放鳥の群れである。
 エロアの一言一句はことごとく効果を生む。二人は戦う。彼の一撃また一撃に、彼女は讃歎の叫びを以て応ずるのである。
 しかるに、ほかのものはどうか。もう一人は、詩人は、批判者は、彼はどう考えているか。
 エロアは朗読を中止する。そして言う。
「ちょっとひと息つかしてくれたまえ。一杯水を飲ましてくれたまえ。喉が渇いた」
 そして、ウイレムに、眼で問いかける。
 詩人は口髭を捻りまわしている。ぶらりと下った一方の脚で拍子を取っている。わからない、まるでわからない。彼は眠っているように見える。
「どうだね」――エロアは言う。
「親愛なるエロア君」――詩人はようやく重々しい口調で言う――「僕が詩人で、君が散文家であることは、僕にとって仕合せだ。さもないと、僕は非常に苦しい立場にあるわけだ。君は散文を書く。僕は韻文を作る。われわれは、だから競争者ではない。で、僕は少しも嫉妬を感じないで、こう言うことができる――しんしんまで使い古された言葉を使わなければならないが、今いているのは、確かに傑作だ」
 彼は口をつぐむ。エロアは、そう言う場合の常として、抗議を申し立てない。彼は草稿を卓上に置く。彼の手はふるえているからである。かれの細君は隠れ場所から出て来て、尼さんのような足取りで彼に近づき、彼の額に唇をあてる。
 一同の生命は極度に緊張する。おそらく、他の人々の命が、ここで吸収されて、外では縮められているかもしれない。
 エロアは綴った紙を取り上げる。
 公園の柵の真中にいた山羊やぎが、見物人の合図に、何事かと物珍らしそうに柵の方に走って来る、ちょうどそれのように、一同の顔が彼に近づく。その顔はエロアのにおいをいでいる。彼はそれを見て顔が火のようにほてる。
 彼は、安らかな気持で、地の底から湧くような、そして熱情に満ちた声で、終りまで読む。彼は一同の満足に身をゆだねる。ここぞと思う科白せりふそらで言って見る。ウイレム夫人の輝かしい顔に絶えず感謝の微笑を送る。彼女はまぶたで聴いている。その口と、すっきりした鼻のあなで聴いている。遠くのほうにある耳は、この場合なんの役にも立たない。エロアの眼に、彼女はあらゆる詩的表現を超越した美しさをもっているように見える。彼は、無限に開ける眼界を前にして、何人なんぴとも、沈思黙考、形容の辞を求めようとしてしかも求め得ない、ある山の頂上に登りつめた、そういう気持で、意気揚々と朗読を終った。
 一同はち上った。
「いじってごらんなさい。あたくしの手、こんなに汗」――ウイレム夫人は言う――「何度、大きな声が出そうになったかわかりませんわ。いだの、非常に好いだの、そんなことじゃないの。すてき! ただそれだけ」
 詩人ウイレムは書斎の中を行ったり来たりしている。彼はそわそわしている。そして、誰にともなく話しかける。
「そこには、才能以上のものがある。そこにはほとんど……。想像していたよりもずっといいものだ。先生が下らないものを書くとは思ってはいなかった。陽気な、機智に富んだ、気の利いたものだぐらいに思っていた。胸をえぐるような感動、そういう特質があるとは、夢にも知らなかった。それにさ、読み方も手に入ったものだ。ほかのものなら、もっと頭で行くところだ。もっと派手に行くところだ。山気を出すところだ。先生は、魂全体で読んでいる。自然だ。人間の言葉だ」
「偉大な人間の」――ウイレム夫人が言う。
「批評にうつろう」――エロアが言う。
「批評すべき何ものも認めない」――詩人ウイレムは言う――「一つ留保をして置こう。それも、はっきりそうだとは言えない。僕は標題が内容をうまく伝えていないと思う。少し言い表わす範囲が狭いと思う。用心し過ぎていると思う。いじけていると思う。もっとそれが、旗印のように広く、堂々としているほうがいいと思う。つまりそれは、これからの模倣者に路をさえぎることにもなり、君が決定的に実現したものを、再び繰り返そうという無法な欲望を頓挫させることにもなるのだ。が、それは僕が間違っているかもわからない、約束は小さく実行は大きいほうがいいかもわからない。そのほうが目覚ましい驚歎をび起こすかもわからない」
「考え直してみよう」――エロアは言う――「や、どうもありがとう。それだけ友情を示してくれれば、あとのことは甘んじてうけいれる。僕は君たちを信じている。君たちは、そういう調子で、僕をなぶるようなことはしないと思う。僕は疑わない。僕は夢を見ているのだとは思わない。僕はこういう自分を滑稽だとも思わない。心の底から、満足しきった男の心の底から、君たちに感謝する」
「もう一度、どこか一番面白いところを読んで下さればいいのに」――ウイレム夫人は言う。
「いや、それではせっかくの興がめます」
 彼はもう足が地につかない。彼は宙に舞い上る。空を飛ぶ、満身に日光を浴びながら。それでも、いくらかさびしい気がする。なぜなら、また地上に降りて来なければならない。忘れ難き瞬間の後に、暗い瞬間が来ることを考えたからである。そして、一つの傑作は、次の傑作を呼び、求め、遂に際限がないことを考えたからである。
「あたし、どんなに肩身が広いでしょう」――細君は彼に言う――「そんな偉い方のそばについていて、恥かしくないようにするには、あたし、どうしたらいいかしら」
「お前か、可愛いお前か、そうさな、まず第一に、そんなに泣かないこった。馬鹿だな、さあ、そんなに泣かないこった」
[#改ページ]

はしばみのうつろの実


 みんな、わたしのようだろうか。わたしは一人の女と悶着が起こると、その女が死んでしまえばいいと思う。

 時として人を窓から突き落としたい。また時として、自分自身を投げ出したい。

 今日は何曜だろう。写真の種板たねいたにも感光しないような人物を見る。ガラスの眼玉でものを読む。舌を垂れて、一語一語の間に草がえるような文句をしゃべる。嵌木はめきゆかでもこするように自分の額をさする。くしゃみをする。鼻をすする。咳をする。……

 一生涯われわれが、めいめい、二人の幸福に身を委ねたなら、われわれは、めいめい、二倍だけ幸福なわけだ。つまり一倍だけ多過ぎるわけだ。

 予め見越しをつけたことで、それのあたったためしがない。愉快な不意打ちばかりくおうと思えば、いやな計画をいくつも立てておけばいい。

 わたしは生活とその煩累はんるいのがれ、人の言う、夢の世界に隠れ家を求めようとする。わたしは、終夜、帽子を根気よく探す夢を見た。

 友情は、二人の気分が長短相助け合う間しか続かないものだ。

 しゃくにさわらない雷というものをわたしは知らない。

 いやなものがいやなほど、好きなものが好きではない。

 うらむことはできるが、わたしはどうしても復讐することができない。だから、怨んでもなんにもならない。おとなしくしているほうがましだ。

 フランス語こそ情けない言葉―― Tournure という語は、同時に、女の尻と男の頭に使われる。

 奥さん、わたくしはあなたにこの社交界風俗研究をおすすめします。著者は、まぎれもない貴公子文学者、手袋をはめ、ブウロオニュの森で、馬に乗って書いたのです。

 あなたは、本棚の中で、書物が自分で位置をえ、ドオデが一冊、ゾラの上へじ登ったりなにかするのにお気づきですか。

 わたしは、自然によらなければ書かない。わたしは、生きた尨犬むくいぬの背中でペンを拭う。

 日が暮れた、地球はまた一転した。夜の隧道トンネルの下を、ゆるやかに、物事が通って行こうとする。

 なんだ、なんというあやふやなかっこうをしただ。嘘をつく女の鼻のように、葉が北風に揺れている。

 樹の生茂おいしげった中を歩いていたら、わたしの長靴は泥の塊りで重くなった。私はそれを取りのけようと思った。わたしは、森の中でひとかけの木片きぎれ見出みいだすことが、どんなにむつかしいかを知った。

 乗合馬車で、わたしは奥のほうに腰をかけた。最初のうち、席を譲るまいとして、馬のしりにらんでいた。一人の若い女が車掌台に昇る。可愛らしい、健康そうな女。彼女は立っていて差し支えない。ついで、年を取った婦人、上品で金持らしい。どうして馬車を傭わないんだ。その先に、子供と籠を抱えた貧しげな仕事女がいる。善行を行なおうという考えがわたしを誘惑する。しかし、あの籠をどこへ置くか。それに馬車の中にはわたしより若い男子諸君がいくらもいる。いきなり、別に理由もなく(というのは、この最後に乗り込んで来た女は、年寄りでもなく若くもない、くもなくわるくもない。まして、わたしに何も請求したわけではない。人の顔を穴のあくほど見据みすえる、例の図々ずうずうしい女でもない。彼女は中をのぞいても見ない)わたしはち上る。足と膝との二重の障害を押し分ける。そして、厳かな調子で言う――「お神さん、さ、わたしの席をお譲りしましょう」――。すると、この婦人は「いいえ、ありがとう」と、丁寧な潤いのない返事をする。そうだ、断わられたのだ。それは彼女の権利だ。返す言葉もない。わたしは、敵意をもった膝の間へ、しょんぼりとまた腰をおろすより仕方がない。だが、降りたほうがましだ。

 今日は、わたしに取って、人道的気まぐれの日と見える。またしても、哀れな老人が歩道から歩道へ車道を横ぎるのを助けてみたくなる。ところで、この老人は、わたしにしがみついて、「すみません」と「ありがとう」と濫発し、わたしに彼の祝福を与え、なお神の祝福を約束し、それが、人を鼻でわらってるような群集の視線を浴びながらである。わたしは、中途で、通りの真中へ彼を置き去りにした。

 おれが二スウもっていれば、二人で分けよう。十スウあれば五スウはお前にやる。だが、兄弟、こんなふうにして、十万フランまでは、半分わけにするんだと思ったら間違いだ。われわれの共有財産は懐金ふところがねに限るんだ。それはそうと、おれはまだなんにもない。みんなお前が取ってもいい。

 もし、婚礼の日、指輪を新婦の指にめるかわりに、その輪を鼻へ通すのであったら、離婚は無用になるだろう。

 ××さん、あなたがわたしをほんとうに愛して下さる時、わたしははかってみました。その時、あなたの眼の輝きは、四十燭光でした。

 女というよりも花、花のようにしなやかで、花のようにかぐわしいあなたは、花の言葉で話をなさった――もし花が方言を使うなら。

 一人の女を愛している時――君は言う――その女に贈物をする日は、決して予め選んだ日ではない。その前日に渡さないではおられない。

 わたしは、わたしの愛する女に言う――「おれは、よく、自分はどういう気持なのかわからないことがある。馬鹿になるんじゃないかと思うことがある」
「なによ、あんた、つまらない、お馬鹿さんね」と、彼女が言う。

 わたしの好きな好きな××さん、あなたはもうわたしを愛してはいませんね。ずっと以前には、わたしが長くあっちにいると、あなたはそっと戸をたたきに来る。そして、心配そうに、わたしに尋ねたものです――「おかげんがおわるいんじゃないの、あなた」
 今では、わたしがあっちで死のうとしていても知らん顔をしているでしょう。

 今夜、寝る前に、わたしは空の星をかぞえる。星はことごとくそこにる。それで、わたしは、人生について、自分でもに落ちないと思われるほど、きわめて下らない考察をめぐらす。
 それから、習慣に従って、子供の時のように、自分の行ないを反省して見る。夜具の中で十字を切る勇気はない。で、情けなく思う。自分を軽蔑する。うんと自分を叱って見る。自分で自分がなぐりたくなる。
 まあ、まあ、気を落ちつけろ。いびきをかけ。徳操はお前の鼻と関係はない。

 自分も人間でありながら、その人間がわたしを人間嫌いにする。
[#改ページ]

エロア対エロア


 ――お前は、今日も、昨日言ったことを残らず言った。
 ――お前は、最初の男に言った、「君の秘密を守る」と。お前は次の男に言った、「固く秘密を守る約束で、君にだけこのことを打明ける」と。そして、お前はそれと同じことを誰彼になく言った。
 ――お前は、接吻さえしたいと思うものに邪慳じゃけんなことを、憎みおそれているものに優しいことを言った。
 ――お前は、一般論として言った――「女という女はすべて、間抜けだ」と。そして、それらの一人一人に向かっては、特別に、彼女はほかの女よりも勝れていると言った。
 ――お前は、ある婦人に不躾ぶしつけなことを言った――「これは、あなたに言うのではありません」
 そういう予防線を張りながら。
 ――お前は、お前の女の誕生日に、女に言った、「お前にあげるものを買うんだから一緒においで。お前がいれば、おれに無闇なこともさせまいから」
 ――お前は、平生避けている人間に、偶然出遇であってこう言った、「やあ、これはお珍らしい、いところでお目にかかりました。世の中は全く変なものですね、いいかげんな交際つきあいはうるさいほどあるのに、最も親しい友達には決して会えないものです」
 ――お前は、人が話をしていると、それを途中でさえぎり、それから一句一句の接ぎ目でこう言った、「そうでしょう、そこでこうです、わたしは、まあ早い話が……」と。
 ――お前は、こう言った、「人非人だよ、政治家なんて奴は」――。そうしてお前はさも得意らしく一人の元老院議員を識っていると言った。
 ――お前は言った、「フランスは事業家の掌中にある」と。そう言ったかと思うと、その口で、「事業がうまく行くわけはないじゃないか」と言った。
 ――お前は言った、「おれは塩をひとつまみうしろへ投げる……冗談じょうだんに」と。「おれはこぼれたぶどう酒で頭をこする……冗談に」と。「おれは司祭を見て剣を鳴らす……冗談に」と。「おれに庖丁をくれるものがあったら一スウやる……冗談に」と。お前はひわのように陽気だ。
 ――お前はいった、「わたしは新聞なんか読まない」と。そう言うしりから、「それは新聞に出ていた」と。
 ――お前は批評壇の明星プランス・デ・クリチックは馬鹿じじいだといった。それでお前は、彼の批評が出る新聞を買いに、はやばやと新聞の売店へ出掛けた。
 ――お前は、お前の敬愛する先生に、若い時代の原稿をみんな焼いてしまったと言った。それでもまだトランクに一杯残っていると言った。幸いに、お前の先生はお前の言うことをいていなかった。
 ――お前は流派に囚われないことをしめすために、お前が感心している作家の悪口を言った。
 ――お前はなにくわぬ顔をして作者に言った、「あなたの最近の作については何も言いますまい。なにしろ、わたしがあなたをどう思っているかは、前から御承知のはずです」
 ――お前はいった、「こう言うと生意気なようですが……」そして、お前はやっぱりそう言った。
 ――お前は、気前よくお前の抽斗ひきだしけながら、こう言った、「さ、持って行きたまえ」。ところが、お前はびっくりした。抽斗はからだった。
 ――お前は、借りた金を返しに来た男に、「なあに、ちっとも急ぎゃせん」と言った。それに、その金を貸した後は眠れなかった。
 ――お前は、弁済する能力のない債務者について、こう言った、「貸したことを悔むんじゃない。金が惜しいだけだ」。それが、うっかり口を滑らしてあべこべを言ったわけではない。
 ――お前は、芸術家に向かって言った、「われわれは干李ほしすももを売るんではない」。ところで、お前は、一緒に馬車に乗って国道を散歩したブウルジュアに言った、「そりゃなんですよ、ここだけの話だけれど、わたしもこう見えて、底を割ればブウルジュアなんですよ」
 ――お前は、芸術家は貧しい暮らしをし、俗界を離れて一生を送らなければならないと言った。それに、お前は、大根畑の縁で、「ああ、この大根の数ぐらい、おれに千フランの紙幣さつがあるとなあ」こう言った。
 ――お前は言った、「田舎いなかへ来ないとせいせいしない」。それは、お前か、お前の魂で、町の中の宮殿を買うことができないからだ。
 ――お前は、さもそれがなにげなく口から出たように、「理想をもっていなければならない」と言った。
 ――お前は滑稽にも、むきになってこう言った、「義務を尽くすこと、正しい人間としての単純な義務を尽くすこと、われわれが※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみの辺にもっている小さな虫が、満足してわれわれを安眠させるように努めること、そして、そのほかのことはいっさいかえりみない、それだけのことができればまあいい」
 ――お前は言った、「危険を冒さないで打克うちかつ、それは名誉の伴なわない勝利だ。だからさ、冗談じゃない、それだけはよしたまえ」と。
 ――お前は言った、「家族とは名ばかりのものだ」と。そしてまた、「母親はやっぱり母親だ」と。
 ――お前は、老人が「工合いが悪い、もういけません」と言うのに、うっかり、「それはまあ結構」といった。
 ――お前は、ユダヤの漂浪者に、きっとこう言うだろう、「歩くのは薬だよ」と。
 ――お前は葉巻を口にくわえて、こう言った、「全く君は考えてるよ、煙草をわないなんて」
 ――お前はお前の妻に言った、「この世で、お前のつとめは、子供を一人こしらえることだ」。そしてまた、言った、「一人ぐらい子供があったって、無いと同じことだ」
 ――お前は、犬と猫とを比較してこう言った、「猫のほうが気位が高い。犬のほうが忠実だ。猫は人の御機嫌を取らない。犬は誰の手でもめる。猫は清潔だ。犬にはのみがいる。それからまた、猫はこう、犬はこう……」と。
 ――お前は、出版業者は自分の職をわきまえていないと言い、医者は医者の心得をみ込んでいないと言い、人は値打ちだけのものしか得られないと言い、自分は宿命論者だと言い、今はい時機だと言い、シナ人はもうこっちの茶を飲んだと言い、英国人は旅行中座席を独りで占領すると言った。
 ――お前はみちばたの見知らぬ乞食に、ほんとかどうかわからないという口実のもとに「ノン」と言った。そして、お前は、慈善会の事務所で、寄付を募っている尼さんや、後援者たる貴婦人や、修道院の院長に、こう言った、「わたしは、自分で施しをしている貧乏人があります」。いったい、その貧乏人はどこにいるのだ。
 ――お前は言った、「戦争をやるならやれ。おれは、そんなことは知らん。おれの行李こうりはちゃんとできている。長靴は磨いてある」と。それというのは、今朝けさ、ちょっと面白くないことがあったからだ。恋のいざござ、さもなければ、素気すげない便りでもあったからだ。心持のうえか、懐のかげんかで、アメリカへでもつっ走らなければならないわけがあったからだ。
 ――お前は言った、「おれはこわくない。ただいらいらするだけだ。胸がどきどきするだけだ」と。
 ――お前は、死去の報知を受け取って、こう言った、「気の毒なのは死んで行くものではない。生き残ったものだ」と。それはそうと、自分は、生き残ったほうがいいのだ。
 ――お前は言った、「わたしが、君たちより先に死んだら、死体はからすに食わせてくれ」と。間もなく、お前は言った、「死者を尊べ」と。間もなくまた、お前は言った、「もっとも、君たちみんなの葬式はわたしが引き受ける」と。

 ――お前は、屋根の上で、大声に否定した神に向かって、秘かに言った、「神よ、わたくしは冗談じょうだんに言ったのです。わたくしの心底を見届けておいでになるあなたは、わたくしがあなたを信じていることは御存じのはずです。わたくしがどんなにあなたの地位を高く見、どんな恐怖からわたくしの信仰が作られているかを、あなたは御存じのはずです」

 ――お前は、今日一日で、お前が昨日すでに言ったことを残らず言った。お前はそれを、明日もまた言うだろう。
[#改ページ]

文学者


友――おれをダシに使っていろんなことを書きちらすのは、もういいかげんにしないか。
エロア――それよりまず、自分でわらわれないようにしろ。
友――君に秘密を明かすと、おれが背中を向けるが否や、すぐに、そいつを手帳に書きつけるんだ。
エロア――秘密というやつは、どうも記憶に残らない。
友――すると、やがて、その話が、エロアと署名した小話の中に出て来るんだ。
エロア――君の協力は感謝する。
友――おれを裸にして、君のうちの窓口へさらすんだ。
エロア――また、どこかへ行ってシャツを着替えて来い。
友――もう君に用はない。君の友達はことごとく君に愛想をつかしている。
エロア――おれにはまだ本がうんとある。君たちは十人足らずだ。おれの最も盛んな時代にそうだ。おれの忠実な書物は、もう三千になっている。
友――おれも文学者だ。だが、おれは触れてはならないものに触れないことを誇りとしている。
エロア――もし君がほんとうの文学者なら、おれのように、向こう見ずに、なんでもやるはずだ。
友の群れの合声――あいつは自分にさえ手心を加えない。
エロア――予防だ。おれは、おれの魂に、ただ気まぐれから泥を塗ろうとするやつ、そう言うやつらの先手せんてを打つんだ。不孝な子、邪慳じゃけんな夫、薄情な兄弟、それから何、それから何、それがおれの魂だ。まあ聴け……。
母親――いいから。あたしはお前が、自分の母親の名誉を傷けるようなことを書いたあの本の中で、これがあたしだということはすぐわかった。
エロア――それはあなたが先に始めたんだ。お父さんにおきなさい。
父親――こいつの前では何も言えない。お母さんは尊敬しないとしても、せめて、お父さんは尊敬しろ。正しい道によって一家の財産を作ろうとしているお父さんを。
エロア――わたしの前では、何ひとつ盗むことができないでしょう。
父親と母親――お前には財産を譲らない。
エロア――わたしは家族の罪悪をもう一つ知っているわけだ。大した金になる。
父親と母親――お前をのろってやる。
エロア――どうぞ……。あんなに急がないで。わたしのペンはあなた方の罵詈ばりの流れについて行けません。
兄弟――黙らないと横面をひっぱたくよ。
エロア――おれはなんでもうけいれる。さ、ひっぱたけ。それでまた喧嘩小説でもこさえよう。
姉妹――どうしてあたしたちを悲しい目にわせるの。こんなに優しく、親切で、あんたを心から愛してるあたしたちを。
エロア――どうしてって……おれは、感じのいい人間を求めているからさ。
老僕――あの人はわしを食わしてくれてるんだ。
エロア――おれはお前を家族の一人と見なしている。
親類の人々――あれの小さい時のことを知っているわれわれを、今では馬鹿にしている。
エロア――わたしが、いつまでもそんなに小さいことを望んでおいでなのですか。
隣家の人々――この猫かぶりめ、あいつはよく家へ夜なべをしに来た。麻を切る手伝いをしに来た。黙って、ほかのものに話をさせていた。あいつのことを、みんなこう言っていた、「律義りちぎな男だ、無邪気なもんだ。意地の悪いことはしそうもない……」
エロア――つまり、お人好ひとよしというわけだ。よろしい。だからその仕返しをしてやる。
エロアの同郷人――医者、公証人、郵便電信局の女局長、あいつが本に書いたそういう連中は、腹を立てている。訴訟を起こすと言っている。
エロア――しめた。すてきな広告だ。
薬剤師――わたしのことなら、エロアさん、いくらでも本の中へお書き下さって差し支えありません。わたしはいっこうかまいません。
エロア――遺憾ながら、ホメエ君、君はわたしの専門じゃない。もっと上の、フロオベエルのところへ行きたまえ。
放浪者――おれは、夜中に、墓地で誰かが墓をあばいているのを見た。
エロア――おれだ。死骸と一緒に埋めてある手紙の束を掘り出していたんだ。本に書こうと思っているんだ。
妻女――親類だとか、近所の人だとかは、いわば他人です。だけど、あたしは、神聖な妻ですよ。そのあたしが、迷惑するようなことをなさるのね、今度は。あたしは、あなたを抱いて可愛がってあげることもできませんわ。あたしの愛の言葉が、またそのまま原稿になるんですもの。
エロア――得難い原稿だ。お前は、それでも、暮らしが立ち行くようにしなければならないと、いつも言うではないか。
妻女――あたしは、明りを消して、寝台の幕を引くと、自分が町の広場にいるような気がするんです。翌日、通りの真中で、人に指をさされるにきまっている。恥かしくて死んでしまうかも知れませんわ。
エロア――心配することはない。そうなったら、おれがよみがえらせてやる。お前を不滅なものにしてやる。
子供――父ちゃん、あたい、父ちゃんのそばにいてもいい? いたずらはしないから。
エロア――坊や、しゃべれ、おれはそれを書きつける。泣け、お前の涙を受けてやる。病気になれ、お前の苦しみもがく様子をおれは描こう。もしおれが、お前を失う苦痛を知ったら、おれに委せて置け、おれはすばらしい冒涜ぼうとくの言葉を神に叫ぼう――おとなしく引っ込んでいるように。
一の読者――厚顔無恥、唾棄だきすべき奴だ。
二の読者――あいつは病気だ。
三の読者――愉快な奴だ。
四の読者――あれでどこか面白いところがあるんですか。
五の読者――自分を、少し悪者にしすぎる。
六の読者――おれの頭はどうしたんだ。何を言ってるんだろう?
批評家の一人――吾輩わがはいにはよくわかる。
エロア――ありがたく思え。
いきどおった情の厚い男――君、君、僕の言うことをひとつ聴いてくれたまえ。君は、元来、誰も愛してはいないんだ。
エロア――おれは、おれ自身を愛している。
自然――それに、自然を愛している。樹を愛している……。
エロア――なんというせ方だ、今年の冬、あの樹は。
自然――それから、わたしの牧場を、わたしの小川を愛している……。
エロア――おれの手が水の上で字が書けるように軽いといいんだがなあ。
自然――それからまた、わたしのはかないもやを……。
エロア――靄、彼女は日が暮れて生れる。夜の間生きている。そして朝がた死んでしまう、おれの夢のように。
自然――けれど、どうしてわたしの泥をこねかえし、わたしの肥料ごえをひっくりかえすんだ……。
エロア――その積み肥料は、梶棒を離れた馬のように、畑で煙を立てている。
自然――お前は、あまり深く掘り過ぎる。地の女神シベエルの御機嫌を損じ、自然の神バンの怒りを買う。
エロア――そんなものは知らない。
生活のために必死に闘っている老人――何を言うのだ。世の中へは生きるために来たのだ。他人の生き方を見に来たのではない。お前さんは人生を眺めているに過ぎないんだ。生きているんじゃない。
エロア――それなら、おれは生れてからこのかた、何をしているんだ。
一人の婦人――あの人はお酒を飲まないわ。
エロア――飲みたくないからだ。
一人の婦人――あの人は煙草たばこわないわ。
エロア――煙がうるさい。
一人の婦人――あの人は勝負事をしないわ。
エロア――あなたはずるいことをするだろう。
一人の婦人――あの人にはなにひとつ慰みがないのよ。
エロア――どういたしまして。ときどき、一人で踊ります。
美しい女――あの人は女を作らないのね。
エロア――わたしは結婚している。
美しい女――あたしがなんとか言ったら?
エロア――お気の毒さま。あなたはひどい目にうだろう。わたしは髪の根でだけものを感じる男だ。
美しい女――あれは男じゃないわ。
エロア――文学をやる男だ。文学者だ。
一同――文学者! 文学者! 文学者!
エロア――そうだ。文学者だ。まぎれもない文学者だ。おれは死ぬまで文学者だ……。文学で死ねば本望だ。万一、おれの生命が永遠であるなら、おれは永遠に文学をやる。決して疲れるようなことはない。どこまでも、おれは文学をやる、ほかのことはどうでもいい、日光と酒のに酔いながら、律義者の渋面と嘲罵ちょうばをよそに、ぶどう酒桶の中で跳ね踊るぶどう作りのように……。おれが文学に夢中になればなるほど、おれは水平線の上で頭を持ち上げるのだ。
遠い声――文学者! 文学者! 文学者!
エロア(独りになる)――しっかりしろ、エロア。お前は一番幸福な人間だ。
[#改丁]

ぶどう畑のぶどう作り




力持ち


 誰もその男の言うことを信じようとはしなかった。が、彼が、腰掛けを離れ、足をみ鳴らし、昂然こうぜんと頭を上げて棒切れの積んであるところへ行く、その落ち着き払った様子で、強そうな男だとは、誰も見て取ったのである。
 彼は一本の長い、丸い薪を取り上げた。それは一番軽そうなのではなく、その中で、一番重いやつに違いなかった。その棒には、おまけに、節くれや、苔や、古い雄鶏おんどりのように蹴爪けづめまでついていた。
 まず、その男は、その棒ぎれを振り廻して、そしてどなった。
「見たまえ、諸君、こいつは鉄の棒よりも堅い。ところが、吾輩わがはいは、かく申す吾輩は、それを膝で二つに折ってお目にかける。マッチ棒のように折ってお目にかける」
 この言葉に、男も女も、教会堂でのように、いっせいに伸び上った。新婚のバルジェ、半つんぼのベロオ、それから嘘をつかせることのできないラミエなどが、そこにいた。そうそう、パプウもいた。カステルもいたようだ。これは本人にけばわかる。――平生、夜の集りなどで、めいめい力自慢の話をし合って、次から次へ人を驚かした評判の連中はことごとくそこにいた。
 その晩は、彼らは笑わなかった。それはたしかだ。彼らはすでに、身動きもせず、口をつぐんだまま、その力持ちを感心して見ているのである。彼らのうしろでは、寝ている子供のいびきが聞こえていた。
 その男は、彼らを全く威圧したと見て取った。ここぞとばかり、彼は傲然ごうぜんと身構えた。膝を曲げた。そして、ゆうゆうと薪を振り上げた。
 しばらくの間、それを、力瘤ちからこぶを入れた両腕の先に握っていた――多くの眼が輝いていた。人々の口が息づまるように開いていた。――彼は薪を膝にあてた。えい! やッ! 掛け声もろとも、脚が折れた。
[#改ページ]

七面鳥になった男


 七面鳥の飛ぶのを仕事のように見ていたジャック・フェイは、ある日、独りでこう言った。
「おれだって飛べないわけはない。翼さえありゃなんでもない。なに、おれが頼めば、おれの七面鳥が、どれか翼を貸してくれるだろう」
 ところで、まず彼は、腕で空気をうつ練習をした。彼のまわりに、風とほこりとが起こるほど早く、腕で空気をうつのである。
 足のほうはどうかというと、足はひとりでに歩いている。これも泳ぐ時のように使えばいいわけである。
 そこで彼は、死にかけていた一羽の七面鳥をつかまえて、その翼を引き抜いた。それから、それをしっかりひじにくくりつけて、いよいよ一大飛躍を試みようとした。
 彼は草原の中で、自分の七面鳥が逃げ狂う間を、走り廻り、跳ね上りした。翼を抜かれた七面鳥は、血で真っ赤になって、渦を巻いていた。ときどき彼は尻餅をついた……試しにである。
「これでよし」――彼は言った――「どれ、ひとつやってみるか」
 彼は川岸の一本の古柳を選んだ。幹の節くれを伝ってらくに登ることができる。枝を払った頭が、ちょうど自然の小さなプラットフォームになっていた。
 下には、濁った川が深い眠りを眠っているように見えた。そして、寄ってはすぐ消える軽いしわは、夢を見て笑っているのかと思われた。
「もしおれが、最初一回飛び損なっても」――ジャックは言った――「水浴びをするだけのことだ。痛かったところで知れたもの、上等な寝台ベッドの上に落ちるのと違いはない」
 準備ができた。
 七面鳥の群れは、ゴロゴロきながら、彼のほうに首を伸ばしていた。そして、翼を抜かれた七面鳥は、草叢くさむらの中で息を引き取ろうとしていた。
「いイち!」と、ジャックは柳の木の上に立ち上って、ひじを拡げ、かかとをそろえ、眼を、やがて舞い上ろうとする雲の彼方かなたに注いで言った。
「にイッ!」と、また彼は、長く息を吸い込んで言った。
「さん!」は言わないで、決然として空中にからだを投げ出した。空と水との間に飛び込んだ。七面鳥の番をしていたジャック・フェイの姿を、それから見たものはなかった。
[#改ページ]

水甕みずがめ


 ジェロオムは八十になった。
 彼は食うだけの貯えはあるので、空気を吸うためにしか外へは出ない。日に一時間か二時間、病みついてなおらないあしを外にきずって行くのである。彼が役に立つことといっては、裏庭の井の水がれた時に、森の泉まで行くことだけであった。
 彼は水甕みずがめを綱でくくって、それを手でげて行く。サマリイの女のように肩に乗せることはしない。
 泉まで来ると、彼はまず自分ののどを潤す。彼は冷えたところをその日の分だけ飲む。水甕にいっぱいを、うちで待っているほかのものが飲めるように、そうするのである。彼は水甕を満たす。そして家に戻る。彼はゆっくり歩く。その歩き方の遅さは、杖を突いているからでもあるが、水甕の水が少しもこぼれないほどである。
 彼が、喉を渇かして待っているうちのものにそれを渡すとき、一滴もこぼさなかったと言って威張ることができるのである。
 ただ、その水甕の水は、泉がそれほど遠くないのに、道で少し微温ぬるくなっていた。
[#改ページ]

青い木綿の雨傘あまがさ


 彼らは、路を離れるといきなり、原っぱをつっ切って、茂った木立ちのほうへ走って行こうとした。ところが、その木立ちは、あんまり遠すぎてなかなか行き着けそうにない。ポオリイヌとピエエルはもうこれ以上行くことはできない。恋心に頭がくらんで、草原のまんなかに、赤ちゃけた草とせた花の中へ、からだを投げ出した。ポオリイヌが大きく拡げた雨傘の蔭に二人はからだを投げ出した。
 路に人影が見えないと、青い木綿の雨傘は動かないでいる。
 ところで、誰かが一人やって来た。
 ポオリイヌは、いきなり指の先で傘のをまわし出す。その間、ピエエルは何もせずにいる。
 雨傘は、風車のように、おとなしく、柄を水平に、骨の先だけがぐるぐる廻るのである。その廻り方は、いかにも相手を脅迫するように、何事かと眼を丸くしている旅行者の足取りに合わせて、それが遅ければ遅く、歩を早めれば早く廻るのである。
 傘は二人の恋人をかくし、保護し、そのすかし入りの影で二人をおおっている。というのは、太陽の白い針が、そこかしこ、穴を明けているのである。
 やがて、止まる。
 旅行者は、いっ時はっとしたが、気を取り直して道を急ぐ。焼けつくような熱さに、しらずしらず腰を屈めると、組み合わされた四つの足だけが、傘からはみ出していた。
[#改ページ]

犬の散歩


 日曜日ごとに、昼食をすますと、バルジェは彼の妻に言った。
「どれ、ひとまわりして来よう。お前は子供らを連れて、どこかへ行くがいい。おれは、おれのほうで、犬を連れて行くから」
「だって」と、妻は言う。「なんなら、みんな一緒に行きましょうよ」
「犬はむやみに走るからなあ」――バルジェは答える。「お前たちはとてもおれたちについてれまい。まあ、しっかり遊んで来い。さあ、ピラム」
 ピラムが、外の空気が吸える嬉しさに、敷石の上で雀躍こおどりをしていると、バルジェは、
「しっ! こら、こら、息が切れるぞ。時間は十分ある」
 まず彼は角の宿屋兼カフェエの店にはいる。そして、ピラムをテーブルの脚にしっかり結びつける。それから、自分は、一人の老友の前に座を占める。ゲームを始めるために彼の来るのを待っていたのである。
 主人が骨牌かるたをやっている間、ピラムはじっとしている。脚をめる。人が通って、その脚を踏もうとすると引っ込める。あぶを噛み殺す。くしゃみをする。そうして、誰も恨まずに、かまうものもなく眠ってしまう。
 時間がたつ。夕方の七時が鳴ろうとする。と、バルジェは熱に浮かされたように時計を見上げる。彼の妻と子供たちはもう帰っているだろう。夕食の膳ごしらえができているに違いない。
「もうあと二度っきり」――彼は言う。
 それがすむと、
「決戦、それで帰るとしよう」
 それがすむと、
弔合戦とむらいがっせん、これでやめ」
 それから、中腰になり、始める前から指に汗をかいて、彼はまた言う。
「さ、早く、これでいよいよおしまい」
 今度はおしまいである。バルジェはピラムをほどいてやる。そして、少し汗をかくために、家まで飛んだり跳ねたりして行く。それが、犬を散歩させて帰って来たのである。
[#改ページ]

商売上手の女


 マリイ・マドレエヌは白木のテーブルのうしろで貧乏ゆすりをしている。そして、相手をそらさない笑顔を作りながら、熱心に手真似てまね身振りをしてしゃべり続ける。彼女は、人参、大根、ねぎ、トマトをすすめ、それからさやをむきたての豌豆えんどうをハンケチへ入れて見せ、それからまた、籠に入れた鳥類を見せる。
 値切るものがあると、彼女は、おとなしく、それで、しつこく頑張るのである。機敏に眼を働かして、品物をる指の怪しげな働き方を監視し、いざとなれば、素早く、意地のきたないはえを追うように、その指を退けようと身構えている。
 すると、彼女の裳の中で、時にはしゃがれた叫び声、時にはまた激しい羽ばたきが聞こえる。マリイ・マドレエヌは一方の脚にからだの重みをかけるように、からだを屈めるのである。
「あばれているんですよ」――彼女は言う。「まだ時間があります。ひどくしちゃいけませんからね、そうすると血が出てしまうんです。ですから、そっと踏んでいるんです。それで羽ばたきをしなくなったらやめるんです。あんまりはやく殺してしまっちゃいけませんからね。頭に傷をつけると、買手がないでしょう。だから、木靴を脱いでするんです。こら」
 マリイ・マドレエヌはちょっと裳をまくって見せる。そして、今、相手が買ったばかりの家鴨あひるくちばしを見せる。両手は品物を売るために明けて置かなければならないので、彼女は足でそれを絞め殺しているのである。
[#改ページ]

税金


「条文がちゃんとあります」――収税官吏はノワルミエに言った。
『一八八九年七月十七日付法令、第三条、第三項、嫡子タルト庶子タルトヲ問ハス、生存セル七子ヲ有スル父及母ハ人頭並ニ動産ニ対スル課税ヲ免セラルルモノトス』
「いいか」――家に帰って、ノワルミエは妻に向かって言った。「われわれはもう六人子供がある。七人目をこしらえよう。税金を払わなくってもいい」
 確かなことが二人に勇気を与えた。すでに彼らは他の多くのものよりも不仕合せでないような気がした。ノワルミエはほとんど毎日働いた。彼は乞食もした。それだけではない、どうかすると肉や馬鈴薯を盗んで来た。それでも彼の律義者りちぎものであることに変りはなかった。
 またふくれ出した彼の妻は、がらんどの家にいても、からだを休める暇がなかった。それで子供は一人も死ななかった。彼らの惨めな生活が、最も激しい状態に陥ったころ、七番目の子供が救いの手のようにやって来た。ノワルミエは、ほっとして、悠然とこう繰り返した。
「まあいい、税を払わんのだから」
 ところが、翌年の課税として金九フラン五十サンチーム納入すべしという新しい白箋を受け取った。
「条文がちゃんとあります」――また収税官吏は言った。
『一八九〇年八月八日付法令、第三十一条。一八八九年七月十七日付大蔵省令、第三条。第三項ハ次ノ如ク改正ス。嫡子タルト庶子タルトヲ問ハス、生存セル丁年未満ノ七子ヲ有スル父及母ニシテ十フラン以下ノ人頭動産税ヲ課セラルルモノハ、此ノ課税ヲ免除セラルルモノトス』
「そらね、なるほど、九フラン五十サンチームの税金を納めるので、つまり十フラン以下だ。それから、なるほどお前さんは、嫡子として生存せる七人の実父には違いないが、その七人はみんな丁年未満ではない。長男のシャルルは二十一歳になった、すなわち丁年に達したわけです。そういうわけだから、なんにもなりません」
 ノワルミエはこの言葉を、死んだ馬のように、どんよりした顔付きをして聞いていた。
「な、おい」――彼は妻に言った。「おれはわかったよ。やつらの考えが変ったのさ。ただそれだけさ」
 どうして、彼女は、あんまりびっくりして、わかるどころの騒ぎではなかった。彼のほうも、収税官吏の言い分を妻に説明して聞かせるにつれて、だんだん、わかり方がぼんやりして来た。
「なんだって」――妻は叫んだ。「七人いて、それが、こんだ六人と同じことだって。じゃ、毎年、死ぬまで九フラン五十サンチーム出すのかい。そんなことがあるものかね。第一、子供の年がふえたからって、あたしたちのせいじゃないじゃないか」
 長い間、ノワルミエは考え込んでいた。
「どうだ、おい」――彼はやっと口を開いた。「おりゃいいことを考えた。勘定にはいらない子供の代りをこしらえたらどうだ。税金のほうじゃ丁年未満ってやつがるんだから、そいつをすぐ一人こしらえてやろうじゃないか」
[#改ページ]

姉妹敵きょうだいがたき


 彼女らは、牛乳入りの珈琲コーヒーを、ちびちびと、急がずに飲んでいた。その時、マリイはアンリエットに言った。
「あんたは行儀よく飲むってことができないのね」
 アンリエットは、むっとして、下を向いた。と、あごがすぐに三重になる。それほど彼女はふとっていた。下を向くと、胴着の上に汚点しみがついている。なかなか言い返そうとしない。テーブルの上に空の茶椀を置いて、いっ時、庭のを眺めている。凋落ちょうらくきざしを眺めている。
「おっしゃいよ、意地わるね」――やがて彼女は言った。「あんたには、こんな粗相はできっこないのね。珈琲をこぼしても、みんな、じかにゆかの上に落ちてしまうから」
「あたしの胸が平べったいって、ちゃんと言ったらどう」
「そうじゃないのよ、マリイ、でも、あんたの胸は、あたしのみたいに邪魔にならないって言うの。あたしそう思うわ」
 アンリエットは、それを証明しなければならない。
「マリイ、じゃ、較べて見ればわかるわ」
 そう言ったかと思うと、二人は、ひじと臂とをすれすれに、くっついて並んだ。二人とも息を吸い込む。そして、横眼で、どちらがよけい張り出しているかを見てみるのである。
「降参した?」――アンリエットが言いかける。
「第一、あんたはかかとの高い靴をはいてるんですもの」――マリイが言う。「そうだ、いいことを考えた。そのお茶椀をもって、こっちへ来てごらんなさい」
 アンリエットは、言われるままに、マリイの後について行く。彼女らは二人の寝室にはいって、戸のかんぬきをおろす。
 着物にしわの寄る音、ボタンが飛んで転がる音、ひもがこすれる音が聞こえる。長い間、彼女らは笑わないで、こそこそ話をしている。やがて、はっきりした声で、
「そらね、あたしの、ふちまでいっぱいよ」――マリイが言う。
「じゃ、あたしのは、はいりもしない。お茶椀がはじけちゃうわ」
 鍵の穴にが照っているかと思われるほど、くっきりと白いくびをあらわにき出して、二人の姉妹敵は、たれはばからず、牛乳入り珈琲の茶椀で、乳の大きさを測っている。
[#改ページ]

宝石


 フランシイヌは散歩をしている。何も考えていない。その時、突然、彼女の右足が左足を追い越すことを拒む。
 そこで彼女は、植えつけられたように、深く根をおろしたように、飾り窓の前を動かない。
「彼女は窓ガラスに姿を映したり、または、髪の毛を直したりするために止まったのではない。彼女の眼は一つの宝石に注がれているのである。彼女は執念深く、その宝石を見つめている。それで、もし、その宝石に翼が生えていたら、ひとりでに、蛇に見込まれた蛙のように、それが指環ならフランシイヌの指に、襟留えりどめなら胴着の胸に、またそれが耳飾りなら、彼女の耳たぶに、そっととびついて来るだろう。
 それがもっとよく見えるように、彼女は眼を半分つぶって見るのである。また、せめてそれがまぶたの下にぶらさがるように、彼女は、眼をすっかりつぶるのである。彼女は眠っているように見える。
 しかるに、窓ガラスのうしろに、店の奥から来た一本の手が現われる。袖口から出ているその手は、白く、華奢きゃしゃな手である。それは、巧みに鳥籠の中にはいる手のように思われた。その手は慣れている。ダイヤモンドの※(「火+稻のつくり」、第4水準2-79-88)火傷やけどもせず、坐睡いねむりをしている様々な石が目を覚さないように、その間を抜けて通る。そして、胸をおどらせながらそれを見つめているフランシイヌに、あなたの好きなかたをちょっと失礼しますと言わんばかりに、すばしこく指の先でくだんの宝石をさらって行く。
[#改ページ]

ふとった子供とせた子供


 公園の同じ並木道、鳩とつぐみが親しげに入りみだれている、その中に、二人の婦人が隣り合って腰をおろしていた。お互いにらない同士であった。が、二人とも、一人の子供を連れていた。薔薇色ばらいろの着物を着た婦人は、ふとった子供を、黒い着物を着た婦人はせた子供を連れている。
 始めのうち、彼女らは、口を利かないで、互いに見合わせていた。そのうちに、それとなく双方から軽く話をもちかけた。
「坊や、赤ちゃんにぶつかるよ」
「坊や、赤ちゃんに砂掬すなすくいを貸しておあげ、お兄さんみたいに」
 突然、黒衣の婦人は、たえかねて、薔薇色の婦人に声をかけた。
「まあお立派な赤ちゃんですこと、奥さま」
「ありがとうございます、奥さま。みなさんがよくそうおっしゃって下さいますんですよ。いくらそうおっしゃられても、こればかりは聞ききませんの。でも、母親の眼で見ますと、自分の子ですもの、どうしてもひいき目っていうものがございましてね」
「そんな、あなた、いくら御自慢なすったってようございますわ。綺麗きれいでまぶしいようですもの。見ているだけでもい心持になりますわ。あのしっかり締った肉付き、なまでたべてもようございますわね。どうでしょう、えくぼがいっぱい、どこにもかしこにも。おてて、あんよ、おそろしいようですわ。百年は大丈夫ですわね。まあ、あのかんかんの総々ふさふさして軽そうですこと。失礼ですけれど、なんじゃございませんか、やっぱりこてをおかけになるんでしょうね、そうでしょう、奥さま」
「いいえ、奥さま、そんな、わたくし、子供の頭にかけて誓いますわ、そんなもったいない、けがらわしい、こてなんか、髪の毛に対して申しわけがあるものですか。生れたときから、あれなんでございますよ」
「そうでしょうとも、奥様、ほんとにね、おしあわせですわね、お母さまが。心の底からお羨しく存じますわ」
 二人の婦人は互いに近づいて行った。そして、瘠せた子供が、かろうじて呼吸いきをしながら、地上に投げ出されている間、黒衣の婦人は肥った子供を抱き上げて、重さを測ったり、あやしたり、眺め入ったり、そして、眼を見張って「まあ、なんて重いんでしょう、ほんとに、なんてまあ重いんでしょう」を繰り返していた。
めて頂いてよろこんでますわ」――薔薇色の婦人は言った。「でも、あなたの赤ちゃんはおとなしくっていらっしゃるようですわね」
 黒衣の婦人は、がっかりして、さびしく笑った。自分がこうまで一生懸命になっているのに、その報酬なら、もっとなんとかした挨拶が聞きたかった。真面目な平凡なお愛想より、気の利いた空世辞からせじのほうがましだとさえ思った。もう諦めてはいるものの、彼女は、また何かを乞い求めるように見えた。
 薔薇色の婦人はそれと見てとった。機転の利かなかったことが恥かしく、それに心底しんそこはやさしい彼女は、瘠せた子供を膝の上に抱き取り、唇の先を押しあて、もったいらしくこう言った。
「奥さま、こんなこと、あなたがお母さまだから申すんじゃございませんよ。でも、わたくし、あなたの赤ちゃんも、たいへんお立派だと思いますわ、こういうふうなたちの赤ちゃんとしてはね」
[#改ページ]

留針ピン


 彼女の許婚いいなずけが戦争に出掛ける時、ブランシュは、彼に留針ピンを一本贈った。彼はそれを大事に取っておくと誓った。
「あなたが、これを僕に下さるのは、きっと、僕があなたを忘れないようにでしょう」と、ピエエルが言う。
「いいえ」――彼女は言う。「あなたがあたしを忘れないっていうことは、もうちゃんとわかってるんですもの」
「それなら、この留針ピンを持っていると、僕に運が向くって言うんでしょう」
「いいえ、あたし、そんな御幣ごへいかつぎじゃないの」
「まあ、よござんす、それはどうでも」――ピエエルは言う。「これがあなたからの贈物であり、あなたが僕を愛して下さる、ただそれだけで僕は満足です」
「あたし、あなたを愛しててよ」――ブランシュは言う。「でも、あたしの留針ピンは、何かあなたのお役に立つことがあるわ」
 それはそうと、戦場で、ピエエルは、左の腕に弾丸たまを受けて、その腕を切断しなければならなかった。
「ブランシュはああいう女だから」――彼は言った。「きっと、気を利かして、早く結婚したいと言うだろう」
 彼は後送された。彼の最初の訪問は、ブランシュの家であった。彼は、生き残ったことに誇りを感じながら、いそいそと路の上を歩いていると、ふと、自分のからの袖に気がついた。彼はそれをじっと見つめていた。
 袖は平たくなってぶらりと下っている。でなければ、だらしなく右左へゆれている。そうかと思うと、獣の尻尾しっぽのように跳ね返っている。
「いくらかまわないと言っても、この扮装なりではちょっと滑稽だ」――ピエエルは言った。
 残っているほうの手で、彼はその袖をつまみ上げ、二つに折って、きちんと肩のところへ留針ピンで留めた。
[#改ページ]

雄鶏おんどり




 毎朝、泊り木から飛び降りると、雄鶏おんどりは「もう一つの」がやっぱりあそこにいるかどうかを見た――「もう一つの」はやっぱりそこにいる。


 雄鶏は地上のあらゆる競争者を征服したといって鼻をたかくしてもいい――が、「もう一つの」それは手の届かないところにいる、あれこそ勝ち難き競争者である。


 雄鶏は叫びに叫ぶ。呼びかけ、いどみかけ、おどしつける――しかし「もう一つの」は、きまった時間にでなければこたえない。で、それも答えるのではない。


 雄鶏はみえを切る。羽根をふくらす。その羽根は見苦しくない、あるものは青く、あるものは銀色――しかし、「もう一つの」は、蒼空あおぞらのただなかに、まばゆいばかりの金色。


 雄鶏は自分の雌鶏めんどりをみんな呼び集める。そして、その先頭に立って歩く。見よ、彼女らは残らず彼のもの。どれもこれも彼を愛し、彼をおそれている――が、「もう一つの」は、燕どもがあこがれの主。


 雄鶏はわが身知らずである。彼は、ところきらわず、恋の句点を打ちまわる。そして、金切声を張り上げて、ちょっとしたことに凱歌がいかを奏する――しかし、「もう一つの」は、折りも折り、新妻を迎える。空高く、村の婚礼を告げ知らす。


 雄鶏はねたましげに蹴爪けづめの上に伸び上って、最後の決戦を試みようとする。その尾は、剣がね上げるマントのひだそのままである。彼は、鶏冠とさかに血を注いで戦いを挑む。空の雄鶏は残らず来いと身構える――しかし、嵐におもてさらすことさえおそれない「もう一つの」は、この時、微風に戯れながら相手にならない。


 そこで、雄鶏は、日の暮れるまで躍起やっきとなる。彼の雌鶏は一羽一羽帰って行く。彼は独り、声をらし、へとへとになって、すでに暗くなった中庭に残っている――が、「もう一つの」は、太陽の最後の焔を浴びて輝き渡り、澄み切った声で、平和なゆうべのアンジェリュスを歌っている。
[#改ページ]

牝牛


 これがいい、あれがいいと、とうとう探しあぐんで、彼女には名前を付けないでしまった。彼女はただ「牝牛」と呼ばれる。そして、それが一番彼女にふさわしい名前であった。
 それに、そんなことはどうでもいい、彼女は食うだけのものは食うのだから――青草でござれ、乾草ほしぐさでござれ、野菜でござれ、穀物でござれ、パンや塩にいたるまで、なんでも欲しいだけ食った。なんに限らず、いつでも彼女は二度ずつ食った。吐き出してまた食うのだから。
 彼女がわたしを見つけると、軽い細やかな足取りで、割れた木靴をひっかけ、肌の皮を、白靴下のように脚のあたりに張り切らせて走って来るのである。彼女は、わたしが何か食いものをくれると思い込んでやって来るのである。彼女の姿を見ていると、わたしは、そのたびごとに、「さ、おあがり」と言わないではおられない。
 しかし、彼女がみ込むものは、脂肪にはならないで、みんな乳になる。一定の時刻に、乳房がいっぱいになり、真四角になる。彼女は乳を永く溜めて置くということができない――永く溜めて置く牝牛もあるが――ゴムのような四つの乳首から、ちょっとおさえただけで、気前よくありったけの乳を出してしまう。彼女は足も動かさなければ、尻尾も振らない。が、その大きな柔らかな舌で、乳をしぼる女の背中をめて遊んでいる。
 独り暮らしであるにもかかわらず、盛んな食慾が彼女の退屈を忘れさせる。最近に生み落としたこうしのことをぼんやり思い出して、わが子恋しさにくようなこともれである。ただ、彼女は人の訪問を悦ぶ。額の上ににゅっと生えたつのと、ひと筋のよだれと一本の草とを垂らした甘ったれた唇とで、愛想よく迎えるのである。
 こわいものなしという男たちは、そのはち切れそうな腹を撫でる。と、女どもは、こんな大きなけものがこんなにおとなしいのを見て意外に思う。それで、まだ用心をしなければならないのは、例の愛撫だけということになる。そして彼女らは幸福の夢を描くのである。
[#改ページ]

豚と真珠


 草原に放すがいなや、豚は食いはじめる。その鼻は決して地べたを離れない。
 彼は柔らかい草を選ぶわけではない。一番近くにあるのにぶつかって行く。鋤鍬すきぐわのように、または盲の土竜もぐらのように、行き当たりばったりに、その不撓不屈ふとうふくつの鼻を前へ押し出す。
 それでなくても漬け樽のような形をした腹を、もっと、丸くすることより考えていない。天気がどうであろうと、そんなことはいっこうおかまいなしである。
 肌の生毛うぶげが、正午のざしに燃えようとしたことも平気なら、今また、あられを含んだあの重い雲が、草原の上に拡がりかぶさろうとしていても、そんなことには頓着しない。
 かささぎは、それでも、弾機ばね仕掛けのような飛び方をして逃げて行く。七面鳥は生籬いけがきの中に隠れている。そして、弱々しい仔馬こうまが、柏の木蔭に身を寄せている。
 しかし、豚は食いかけたもののあるところを動かない。
 後は、ひと口も残すまいとする。
 彼は、いくらか大儀たいぎになったらしく、尻尾しっぽを振らない。
 ひょうがからだにパラパラと当たると、ようやく、それも不承不承うなる――
「うるせえやつだな、また真珠をぶつけやがる」
[#改ページ]

ひわの巣


 庭の桜の叉になった枝の上に、ひわの巣があった。見たところ、それは綺麗きれいな、まん丸によくできた巣で、外側は、一面に毛で固め、内側はまんべんなく生毛うぶげで包んである。その中で、四つのひなが卵から出た。わたしは父にこう言った。
「あれを捕って来て、自分で育てたいんだけれどなあ」
 わたしの父は、これまでたびたび、鳥を籠に入れて置くことは罪悪だと説いたことがある。が、今度は、たぶん同じことを繰り返すのがうるさかったのだろう。わたしに向かってひと口も返事をしなかった。数日後、わたしは彼に言った。
「しようと思やわけないよ。はじめ、巣を籠の中に入れて置くの。その籠を桜の木にくくりつけて置くだろう。そうすると、親鳥が籠の目から食物をやるよ。そのうちに親鳥の必要がなくなるから」
 わたしの父は、この方法について、自分の考えを述べようとしなかった。
 そういうわけで、わたしは籠の中に巣を入れて、それを桜の木に取り付けた。わたしの想像ははずれなかった。年を取った鶸は、青虫をくちばしにいっぱいくわえて来ては、わるびれる様子もなく、雛に食わせた。すると、わたしの父は、遠くのほうから、わたしと同じように面白がって、彼らの華やかな、血のような赤い、また硫黄いおうのように黄色い色の飛びかう様を眺めていた。
 ある日の夕方、わたしは彼に言った。
「雛はもうかなりしっかりして来たよ。放しといたら飛んで行ってしまうぜ。親子揃って過ごすのは今夜っきりだ。あしたは、家の中へ持って来よう。僕の窓へ吊しとくよ。世の中に、これ以上大事にされる鶸はきっとないから、お父さん、そう思っていておくれ」
 わたしの父は、この言葉に逆おうとしなかった。
 翌日になって、わたしは、籠が空になっているのを発見した。わたしの父も、そこにいた。わたしがびっくりしたのを見て知っている。
「物好きで言うんじゃないが」――わたしはいった。「どこの馬鹿野郎が、この籠の戸をけたのか、そいつが知りたいもんだ」
[#改ページ]

あり鷓鴣しゃこ


 一匹のありが、雨上りのわだちの中に落ち込んで、溺れようとしていた。その時、一羽の鷓鴣しゃこが、ちょうど水を飲んでいた、それを見ると、くちばしで拾い上げ、命を助けた。
「この御恩はきっと返します」と、蟻が言った。
「わたしたちはもうラ・フォンテエヌの時代にいるのではありません」と、懐疑主義者の鷓鴣が言う。「もちろんあなたが恩知らずだと言うのではありません。が、わたしを撃ち殺そうとしている猟師のかかとに、あなたはどうして食いつくことができます。いまどきの猟師は素足で歩きませんよ」
 蟻は、よけいな議論はしなかった。そして、急いで、仲間の群れに加わった。仲間は、一列に並べた黒い真珠のように、同じ道をぞろぞろと歩いていた。
 ところが、猟師は遠くにいなかった。一本のの蔭に、横向きになって寝ていた。彼は、くだんの鷓鴣が、刈りたてのまぐさの間で、ちょこちょこ、餌を拾っているのを見つけた。彼は立ち上って、撃とうとした。すると、右の腕がしびれて(蟻がっているように)むずむずする。鉄砲を構えることができない。腕が、ぐったり垂れる。鷓鴣は猟師の痺れがなおるのを待っていない。
[#改ページ]


 それは、若いダニエルが象の見まわりをする時刻である。
 いつもの見物が彼を待っていた――労働者、兵卒、娘、放浪者、それから外国人。
「さ、ちんちんだ」――ダニエルは、指を挙げて言う。
 象は、一度ではうまく行かなかった。重くるしいからだを、やっと起こしたかと思うと、前に倒れる。そして鼻を鳴らす。
「もっと上手に」――ダニエルはつっけんどんに言う。すると、象は、おりよりも高く立ち上る。そしておそろしく、どえらい、太古時代そのままの姿で、彼はひと声うなりを発する。あたりの空気は水晶のようにひびがはいる。
「そうだ」――ダニエルが言う。
 象はもう四本の脚で立ってもいいのである。鼻を真直ぐに挙げて、口をけてもいいのである。ダニエルは、その中に、遠くからパンのかけらを投げ入れる。狙いがうまいと、パンのへたが、黒いただれた口の奥で音を立てる。つぎに、手のひらへのせて、一つ一つ野菜の切り屑を与える。ざらざらした、しかし鋭敏なその鼻が柵の間を行ったり来たりする。そして、ちょうど、象が、その中で息を吐いたり吸ったりしているように、曲ったり伸びたりする。
 糸で引っ張ってあるような薄い耳が、満足げにひるがえる。しかし、小さな眼は、相変らずどんよりしている。
 最後にダニエルは、紙で包んだ美味うまいものを口の中へ投げ込む。その紙包みは、納屋の抜け穴を猫が通るようにはいって行く。

 象はたったひとりになると、家の留守番をしている村の老いぼれじじいのようなものである。彼は戸の前で、からだを曲げ、ぼんやり鼻をぶらさげて、靴をひきずっている。上の方へはきすぎた股引ももひきの中にほとんどからだが隠れ、そして、うしろから、ひものはしがだらりと垂れている。
[#改ページ]

ささや


すき――サクサクサク……稼ぐに追いつく貧乏なし。
鶴嘴つるはし――お前はいつでもそう言うが、おれだってそれくらいのことは言ってる。

花――今日は日が照るかしら。
向日葵ひまわり――ええ、あたしさえその気になれば。
如露じょうろ――そうは行くめえ。おいらの料簡りょうけんひとつで、雨が降るんだ。

薔薇ばらの木――まあ、なんてひどい風。
添え木――わしがついている。

野苺――なぜ薔薇にはとげがあるんだろう。薔薇の花なんて食べられやしないわ。
生簀いけすの鯉――うまいことを言うぞ。だからさ、おれも、人が食やがるから、骨を立ててやるんだ。
あざみ――そうねえ、だけど、それじゃもう遅すぎるわ。

薔薇の花――あんた、あたしを綺麗きれいだと思って?
黄蜂くまばち――下の方を見せなくっちゃ。
薔薇の花――おはいりよ。

かわらひわ――燕ってやつは馬鹿だなあ。煙突を木だと思ってやがる。
蝙蝠こうもり――いくら人がなんと言ったって、あいつとあたしじゃ、あいつのほうが飛ぶのはまずいよ。昼の日なか、しょっちゅう道を間違えてるんだもの。あたしのように、夜にでも飛んでごらん。ひっきりなしに死ぬような目にあうから。

壁――なんだろう、背中がぞくぞくするのは?
蜥蜴とかげ――おれだい。

蜜蜂――さ、元気を出そう。あたしがよく働くって誰でも言ってくれる。今月の末には、売場の取締りになれるといいけれどなあ。

すみれ――おや、あたしたちはみんなアカデミイの徽章きしょうをつけてるのね。
白い菫――だからさ、なおさら、控え目にしなくっちゃならないのよ、あんたたちは。
ねぎ――おれを見ろ、おれが威張ったりするか。

アスパラガス――あたしの小指は、あたしになんでも言うの。

菠薐草ほうれんそう――酸摸すかんぽっていうのはわたくしのことです。
酸摸すかんぽ――うそよ、あたしが酸摸よ。

馬鈴薯――あたし、子供が生れたようだわ。

林檎りんごの木(向かい側の木に)――お前さんのなしさ、その梨、その梨、……お前さんのその梨だよ、わたしがこさえたいのは。

樫鳥かしどり――のべつ黒装束で、見苦しい奴だ、黒つぐみって。
黒つぐみ――知事閣下、わたしはこれしか着るものがないのです。

分葱わけぎ――くせえなあ。
にら――きっと、また石竹せきちくのやつだ。

かささぎ――カカカカカ……。
ひきがえる――なにを言ってやがるんだ、あのあまは。
かささぎ――歌をうたってるのよ。
蟇――グワグワ。

三羽の鳩――おいで、ポッポ……おいで、ポッポ……おいで、ポッポ。

土竜もぐら――静かにしろ、やい、上のやつ。仕事をしているのが聞こえやしねえ。

蜘蛛くも――法律の名によって、封印を貼りつけます。

羊――メエ……メエ……メエ……。(訳者注。メエは mais に通じ「しかし」の意)
牧犬――しかしもくそもない。
[#改ページ]

岩燕いわつばめ


 その日の夕方は、魚がいっこうかからなかった。しかしわたしは、近来まれな興奮をもって帰った。
 わたしが釣竿を垂れていると、一羽の岩燕いわつばめがその上に止まった。
 これくらい派手な鳥はない。
 それは、大きな青い花が長い茎の先に咲いているようだった。竿は重みでしなった。わたしは、岩燕に木と間違えられた、それが大いに得意で、息を殺した。
 こわがって飛んで行ったのでないことはうけ合いである。一本の枝から別の枝に飛びうつるつもりでいたにちがいない。
[#改ページ]


 わたしのは鼠を食わない。そんなものを食う気にはならないらしい。つかまえても、それを玩具おもちゃにするだけである。
 遊びきると、命を助けてやる。それから、どこかへ行って、尻尾の輪の中にすわると、罪の無さそうな顔をして、空想にふける。
 しかし、爪疵つめきずがもとで、鼠は死んでしまう。
[#改ページ]

ほたる


 いったい、なにごとがあるんだろう。もう夜の九時、それに、あそこのうちでは、まだ明りがついている。
[#改ページ]

天牛虫かみきりむし


 この虫の触角はばかに長い。この本の中に挾んで置こうと思うと、それを胴のほうに曲げなければならない。
[#改ページ]

蜚虫あぶらむし


 鍵の穴のように、黒く、ぺしゃんこだ。
[#改ページ]

蝸牛かたつむり


 精いっぱい歩きまわる。それでも、舌で歩くだけのことだ。
[#改ページ]

ぶどう畑


 どの株も、添え木を杖に、武器携帯者。
 何をぐずぐずしているんだ。ぶどうの実は、今年はまだらない。ぶどうの葉は、もう裸体像にしか使われない。
[#改ページ]

いたち


 貧乏な、しかしさっぱりした、品のいたち先生。ちょこちょこと、道の上をったり来たり、溝から溝へ、また穴から穴へ、時間ぎめの出張教授。
[#改ページ]


 さては、いよいよ、かからないな。おおかた、今日が漁の解禁日だということを御存じないと見える。
[#改ページ]

ひなげし


 彼らは麦の中で、小さな兵隊のように気取っている。しかし、もっともっと綺麗きれいな赤い色。それに、物騒ぶっそうでない。
 彼らの剣はのげである。
 風が吹くと飛んで行く。そして、めいめいに、気が向けば、うねのへりで、同郷出身の女、矢車草の花と、つい話が長くなる。
[#改ページ]

鶺鴒せきれい


 よく飛びもするが、よく走ることも走る。いつもわれわれの脚の間で、れ馴れしくするかと思うと、なかなかつかまらない。それも尻尾しっぽを踏まれないように、小さな叫び声を立てて、合図をするのである。
[#改ページ]

七面鳥


 道の上に、またも七面鳥学校の寄宿生たち。
 毎日、天気がどうであろうと、彼女らは散歩に出かける。
 彼女らは雨をおそれない。どんな女も七面鳥ほど上手にすそはまくれまい。また、日光もおそれない。七面鳥は日傘ひがさを持たずに出掛けるなんていうことはない。
[#改ページ]


 ながすぎる。
[#改ページ]

鷓鴣しゃこ


 鷓鴣しゃこと農夫とは、一方は鋤車すきぐるまのうしろに、一方は近所の苜蓿うまごやしのなかに、お互いの邪魔にならないくらいの距離をへだてて、平和に暮らしている。鷓鴣は農夫の声をっている。どなったりわめいたりしてもこわがらない。
 鋤車がきしっても、牛がせきをしても、または驢馬ろばいても、それがなんでもないということを知っている。
 で、この平和は、わたしが行ってそれを乱すまで続くのである。
 ところが、わたしがそこへ行くと、鷓鴣は飛んでしまう。農夫も落ちつかぬ様子である。牛も驢馬もその通りである。わたしは発砲する。すると、この狼藉者ろうぜきものの放った爆音によって、いっさいの自然は調子が狂う。
 これらの鷓鴣を、わたしはまず切株の間から追い立てる。つぎに苜蓿の中から追い立てる。それから、草原のなか、それから生籬いけがきに添って追い立てる。ついでなお、林の出っ張りから追い立てる。それからあそこ、それからここ……。
 それで、とつぜん、わたしは、汗をびっしょりかいて立ち止まる。そしてどなる。
「ああ、畜生、可愛げのない奴だ、人をさんざん走らせやがる」

 遠くから、草原のまんなかの一本のの根に、何か見えた。
 わたしは生籬に近づいて、その上からよく見てみる。
 どうも、樹の蔭に、鳥がくびを立てているように見える。すると、心臓の鼓動がはげしくなる。この草の中に鷓鴣がいなくって何がいよう。わたしの足音を聞きつけて、親鳥が、お互いに慣れた合図で、子供たちを腹這いに寝させたのだ。自分もからだを低くしている。頭だけがまっすぐに立っている、それは見張りをしているのだ。が、わたしは躊躇ちゅうちょした。なぜなら、その首が動かないのである。間違えて、木の根を撃ってもばかばかしい。
 あっちこっち、樹のまわりには、黄色い斑点が、鷓鴣のようでもあり、また土くれのようでもあり、わたしの眼はすっかり迷ってしまう。
 もし鷓鴣を追い立てたら、樹の枝が空中射撃の邪魔をするだろう。で、わたしは、地上にいるのを撃つ。つまり一人前の猟師のいわゆる「人殺し」をやったほうがいいと思った。
 ところが、鷓鴣の首だと思っているものが、いつまでたっても動かない。
 長い間、わたしはすきをねらっている。
 はたしてそれが鷓鴣であるとすれば、その動かないこと、警戒の周密なことは全く驚くべきものである。そして、ほかのが、どれもこれも、よく言うことをくといったらない。この親鳥にしてこの子ありである。一つとして動かない。
 わたしは、そこで駆け引きをして見るのである。わたしは、からだぐるみ、生籬の後にかくれて、見ていないふりをする。というのは、こっちで見ているうちは向こうでも見ているわけだからである。
 こうすると、お互いに見えない。死の沈黙が続く。
 やがて、わたしは顔を上げて見た。
 今度こそはたしかである。鷓鴣はわたしがいなくなったと思ったに違いない。首が以前より高くなっている、そして、それをまた低くする運動が、もう疑いの余地を与えない。
 わたしは、おもむろに銃尾を肩にあてる……。

 夕方、からだは疲れている。腹はふくれてる。すると、わたしは、猟師にふさわしい深い眠りにつく前に、その日一日追いまわした鷓鴣のことを考える。そして、彼らがどんなにして今夜を過ごすだろうかということを想像して見る。
 彼らは気狂きちがいのようになって騒いでいるに違いない。
 どうしてみんな揃わないのだろう。呼んでも来ないのだろう。
 どうして、苦しんでいるもの、疵口きずぐちくちばしで押さえているもの、じっと立っておられないものなどがあるのだろう。
 どうして、あんなに、みんなをこわがらせるようなことをしでかすんだろう。
 やっと、休み場所に落ちついたと思うと、すぐもう見張り役の一羽が警報を伝える。また飛んで行かなければならない。草なり株なりを離れなければならない。
 彼らは逃げてばかりいるのである。聞き慣れた音にさえおどろくのである。
 彼らはもう遊んではおられない。食うものも食っておられない。眠ってもおられない。
 彼らは、何がなんだかわからない。

 傷いた鷓鴣の羽根が落ちて来て、ひとりでに、この自惚うぬぼれの強い猟師の帽子にささったとしても、わたしは、それがあんまりだとは思わない。
 雨が降り過ぎたり、ひでりが続き過ぎたりして、犬の鼻が利かなくなり、わたしの銃先が狂うようになり、鷓鴣がそばへも寄りつけなくなると、わたしは、正当防御の権利を与えられたように思う。
 鳥の中でも、かささぎとか、かけすとか、つぐみとか、まちょうとか、腕に覚えのある猟師なら相手にしない鳥がある。わたしは腕に覚えがある。
 わたしは、鷓鴣以外に好敵手を見出みいださない。
 彼らは、実に小ざかしい。
 その小ざかしさは、遠くから逃げることである。しかし、人はそれをまた見つけ出し、そして今度は思い知らせるのである。
 それはまた猟師が行き過ぎるのを待っていることである。が、うしろから、ちっとばかり早く飛び出し過ぎて、うしろを振り返るのである。
 それは、深い苜蓿うまごやしの中に隠れることである。しかし、そこへまっすぐに飛んで行くのである。
 それは、飛ぶ時に、急に方向を変えることである、しかし、それがために間隔がつまるのである。
 それは、飛ぶかわりに走るのである。人間より早く走るのである。しかし、犬がいるのである。
 それは、人が中にはいって道をさえぎると、両方から呼び合うのである。それが猟師を呼ぶことになるのである。猟師に取って彼らの歌を聞くほど気持のいいものはない。
 その若い一組が、もう親鳥から離れて、別に新しい生活をし始めた。わたしは、夕方、畑のそばで、それを見つけたのである。彼らは、ぴったりと寄り添って、いわば翼と翼とを重ね合って舞い上った。そこで一方を殺した弾丸たまが、結局、もう一方を引き放したわけだ。
 一方は何も見なかった。何も感じなかった。しかし、もう一方は、自分の連れ合いが死んでいるのを見、そのそばで自分も死ぬような気がした。それだけのひまがあった。
 この二羽の鷓鴣は、地上の同じ場所に、少しの愛と、少しの血と、それから、いくらかの羽根とを残したのである。
 猟師よ、お前は一発で、見事に二羽を撃ち止めた。早くかえってうちのものにその話をしろ。

 あの年を取った去年の鳥、かえしたばかりの雛を殺された親鳥、彼らも若いのに劣らず愛し合っていた。わたしは、彼らがいつも一緒にいるのを見た。彼らは逃げることが上手であった。わたしは、強いてその後を追いかけようとはしなかった。その一方を殺したのも全く偶然であった。それで、わたしは、もう一方を探した。かわいそうだから殺してやろうと思って探した。
 あるものは、折れた片脚をぶらさげて、ちょうどわたしが、糸でくくってつかまえてでもいるような形をしていた。
 あるものは、最初ほかのものの後について行くが、とうとう翼が利かなくなる。地上に落ちる。ちょこちょこ走りをする。犬に追われながら、身軽に、半ばうねを離れて、走れるだけ走るのである。
 あるものは、頭の中に鉛の弾丸たまを撃ち込まれる。ほかのものから離れる。狂おしく、空のほうに舞い上る。樹よりも高く、鐘楼の雄鶏おんどりよりも高く、太陽を目がけて舞い上るのである。すると猟師は、気が気ではない。しまいにそれを見失ってしまう。そのうちに、鳥は重い頭の目方を支えることができなくなる。翼を閉じる。遙か向こうへ、くちばしを地に向けて、矢のように落ちて来る。
 あるものは、犬を仕込むために、その口へ投げつける切れ屑のように、ぎゅっとも言わず落ちる。
 あるものは、弾丸があたると、小舟のようにぐらつく。そして、ひっくり返る。
 また、あるものは、どうして死んだのかわからないほど、きずが羽の中に、深くひそんでいる。
 あるものは、急いでポケットの中に押し込む。自分が見られるのがこわいように、自分を見るのがこわいように。
 あるものはなかなか死なない。そういうのは絞め殺す必要がある。わたしの指の間で、くうをつかむ。嘴を開く、細い舌がぴりぴりっと動く。すると、その眼差まなざしの中に、ホオマアのいわゆる、死の影が下りて来る。

 向こうで、百姓がわたしの鉄砲の音を聞きつけて、頭を上げる。そして、わたしのほうを見る。
 それは審判者である。……この働いている男は……。彼はわたしに話しかけるかもわからない。厳かな声で、わたしを恥じ入らせるかもわからない。
 ところがそうではない。それは時としては、わたしのように猟ができないので業をにやしている百姓である。時としては、わたしのやることを面白がって見ているばかりでなく、鷓鴣がどっちへ行ったかを教えてくれるお人好ひとよしの百姓である。
 決して、それが義憤に燃えた自然の代弁者であったためしはない。

 わたしは、今朝、五時間も歩きまわったあげく、空のサックを提げ、頭をうなだれ、重い鉄砲をかついで帰って来た。嵐の暑さである。わたしの犬は、疲れきって、小走りにわたしの前を行く。生籬いけがきに添って行く。そして、何度となく、木蔭にすわって、わたしの追いつくのを待っている。
 すると、ちょうど、わたしが生き生きした苜蓿の中を通っていると、とつぜん、彼は飛びついた。というよりは、止まると同時に腹這いになった。ぴったり止まった。そして、植物のように動かない。ただ、尻尾の端の毛だけがふるえている。わたしは、てっきり、彼の鼻先に、鷓鴣が何羽かいるなと思った。そこにいるのだ。互いにからだをすりつけて、風ととをけているのだ。犬を見る。わたしを見る。わたしをたぶん見識っているかも知れない。こわくって飛べない。
 麻痺まひの状態からわれに返って、わたしは準備をした。そして機を待った。
 犬もわたしも、決して向こうよりさきに動かない。
 と、にわかに、前後して、鷓鴣は飛び出した。どこまでも寄り添って、ひとかたまりになっている。わたしは、そのかたまりの中へ、拳骨でなぐるように、弾丸を打ち込んだ。そのうちの一羽が、やられて、宙に舞う。犬が飛びつく、血だらけの襤褸ぼろみたいなもの、半分になった鷓鴣を持って来る。拳骨が、残りの半分をふっ飛ばしてしまったのである。
 さあ、行こう。これで空手からてで帰ることにはならない。犬が雀躍こおどりする。わたしも、得々としてからだをゆすぶった。

 ああ、このしりっぺたに、一発、弾丸たまを打ち込んでやってもいい。






底本:「ぶどう畑のぶどう作り」岩波文庫、岩波書店
   1938(昭和13)年4月15日第1刷発行
   1973(昭和48)年7月16日第10刷改版発行
   2009(平成21)年7月16日第20刷発行
※「搏打」と「博打」、「焔」と「※(「火+稻のつくり」、第4水準2-79-88)」、「わたし」と「あたし」の混在は、底本の通りです。
入力:門田裕志
校正:岡村和彦
2019年1月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。





●表記について


●図書カード