先日、カサリン・マンスフィールドの短篇集を読む機会があって大変たのしかった。
崎山正毅氏の訳も立派だと思った。中でも『園遊会』などは三度くりかえして読んだが、やはり面白さに変りはなかった。これに反し、『幸福』など、繰りかえして読むのはどうかと思われるような作品もある。何かしら匂いが強すぎるのである。それは
寧ろ
緩やかな忘却作用のなかで
愉しんでいたいような作品だった。
がとにかく、この人がチェーホフの唯一の
後裔のように言われるのは
予て耳にしていたものの、こうまでチェーホフ的なものを吾が物にしていようとは夢にも思わなかった。チェーホフ的? 人は恐らくそう言う場合には、あの『
可愛い
女』や『唄うたい』や『
睡い』や、まずそうした作品を子守歌のように思い浮べるのであろう。そしてそれもよいのだ。しかしまた、そうした気分的なものの実体の捉えがたさもまた格別である。
ここに唯一つたしかなことは、よく人の言う「チェーホフ的」な感じというものが、既に時の波に洗われきった聖チェーホフの雰囲気であることだ。それはエーテルのように私達の身のほとりに
漂う。それは捕えがたい。……このニュアンスを、まんまと捕えて自家薬籠中のものとしたマンスフィールドの心には、非常に
聡明な女性が住んでいたのに違いない。チェーホフの亜流が誘われがちの湿っぽい感傷から、彼女が全く
免かれているのは、
強ち緯度の違いや、ましてや時代の違いからばかりではあるまい。
何故ならそこに見られるものは単なる
醇化作用ではなく、いわば強い昇華作用が働いているからだ。これが影響の最も望ましい形であることは言うまでもない。マンスフィールドには何か私録のようなもの(たしか日記だったと思うが)があって、それが発表されているように聞いているが、これはそのうち
是非読んでみたいと思う。
だが差当りチェーホフのことに帰ろう。彼の思想的動向の要約という問題から一応離れて、問題を彼の短篇様式の発展ということに限るにしても、一体この隔離そのものが困難なのと同じ程度に、その発展の道にはっきりした道標を置くことは難かしい。仮りにあり来たりの仕方で、彼の作品を初期と後期に分け、そのあいだに隔ての網を張る。しかし魚はこの網をくぐって自由に交通するのだ。
ひと
先ずこれを承知の上で、彼の初期の作品、
略一八八六、七年ごろまでの作品を眺めることは
勿論可能であるが、そこには大して取り立てて言うほどのこともない。よく知られている
如く彼は純然たる衣食のために、完全に商業主義的に文を売ることから出発した。あらゆる他の大作家のデビューに見られるものが彼にはなく、逆に彼等に見られないものが彼にはあったということは悲惨な話である。哀しい近代性だ。彼は自己表白の欲望、つまりは青春をすっかり窒息させて置かなければならなかった。その一方商業的要求は、彼に専らユーモアの錬磨や、新鮮な修辞学やを強要した。
この約束の下で書かれた彼の作品は、
僅少のフウイトンをも含めて、一八八二年には三十二篇だったものが翌年には百二十篇、その翌々年には百二十九篇にのぼり、ついに二度目の、そして今度は結核性の
喀血を
齎らすことになったのである。
それらの作品を通じて技法的に最も眼につくことは、彼がやり遂げた修辞学上の革新だ。彼はツルゲーネフの修辞学を見んごと
覆したのである。ここにはチェーホフの警敏さが見られる。それは最初は強制により次第に体得されて行った独自の簡潔主義から、必然的に生み出されたもので、著しい例は主として叙景の際に用いられる唐突な「
嵌入法」である。それは時として
突飛な擬人法の挿入、時として客観的叙述の中へ作者の主観的抒情の挿入、また時として複雑な情景を簡明な一句で
截断する形をとる。二、三の例。――
「星のきらめきは今までよりも弱まって、まるで月におびえでもしたように、その
小やかな光線を引っ込めてしまった。」(『奥様』第一章。一八八二年)
「大気は澄みきって、一ばん高い
鐘楼にとまっている
鴉の
嘴が見えるほどだった。」(『
晩花』第二章。同年)
後者は、晩秋の晴れわたった白昼を描いたものである。下って一八八六年の兄への手紙で彼は、「水車場の土手にはガラス
瓶の
破片が星のようにきらめき、犬だか狼だかの
真黒な影が転がるように
駈け抜けた」と書けば、月夜が出来あがるでしょうと言っている。
全く同様の発明として擬音の唐突な挿入があるが、重要な点は彼がこうした手法の使い方を実によく心得ていたことである。彼はそれを極めて
稀に、必須の場合に限って、使用したのである。彼の簡潔主義は一面このような節制を伴っていたのであり、これが彼を
奇矯さや、奇矯さから来る退屈さから防いでいたことは
明かだ。
しかしそれらは、後年のチェーホフがより磨かれた形で愛用した形式のプリミチヴな
萌芽にしか過ぎず、初期の諸作を貫く定まった形式というものはまず見当らぬと言って差支えない。それは
屡パロディであり、時に稚い模倣ですらあった(例えば一八八五年の『猟手』をツルゲーネフの『あいびき』と比較して見たまえ)。そういう彼をやがて危機が見舞った。そして彼の内心の目覚めに応じて、非常な混沌が形式の上にも来た。大体八〇年代末の数年のことである。
この模索時代の悲痛は、その時期の作品にも手紙にもはっきりと
痕を残している。彼が自国の古典を
貪るように渉猟したのも、そしてゴーゴリに心酔したのもこの時代のことである。
荒浪のような内的要求がともすれば彼を長篇へ誘おうとしたのもこの時代のことである。「小説を書こうとすると、先ず額縁のことで心を労さなければならない。で大勢の主人公や半主人公の中から、
唯一人――妻なり夫なりを選んで、専らその一人だけを描き、彼を強調さえする一方では、他の人達はまるで小銭のように画面にばら
撒き散らす。すると
天の
穹窿のようなものが出来あがる。一つの大きな月と、それを取り巻いている
沢山の小さな星たちと。ところがこの月は成功しない。他の星たちも理解されてこそ初めて月は理解されるのに、星の方は仕上げがしてないのだから」(大意)とは、一八八八年『祝宴』を書いた直後に彼が自分に加えた批判であった。またその翌年には、『オブローモフ』にむかっ
腹を立てて、あんな「別に複雑でも何でもない、ダース幾らの小っぽけな性格を、社会的タイプにまで引上げてやるのは
勿体なさすぎる」とさえ言い放っている。
月も星たちも丹念に仕上げをされていなければならず、そして月も星たちもともに社会的タイプにまで引上げてやるだけの価値のあるものでなくてはならない。――この要求をみたすに最も
適わしい形式が、ツルゲーネフこのかた半世紀を洋々として流れて来ているロシヤ的インテリ小説の伝統の中に見出されることは、
更めて言うまでもなかろう。彼の作中で一番長篇小説的な風格を帯びている『決闘』(一八九一年)などは、彼が事実この野心につよく惹かされていたことを物語っている。
だがチェーホフはこうした借着的な形式に永く満足することは出来なかった。彼は独創した。それは先ず大胆に小説的な額縁や構成をかなぐり棄てるところから始まった。その第一歩が、言うまでもなくあの有名な『わびしい話』(一八八九年)なのである。
ここで、話を進める前に是非とも触れて置かなければならないと思うのは、彼の抱いていた
頗る独得なリアリズム観である。彼が自ら唯物論者と称していたことは周知の如くであるが、これは彼が文学上の医者であったことを意味するものに他ならない。何も人はパンのみで生きると考えていたわけではない。医者といっても彼の信じたのは純正医学の立場であって、医療の方面は寧ろ軽蔑していた。彼がトルストイの『クロイツェル・ソナータ』に
反撥したり、ツルゲーネフでは『父と子』など一、二篇をしか認めず、ブールジェの『弟子』を排斥したりしたのは、彼等が科学者の態度を逸脱して天上のことに
容喙し、
謂わば錬金術師の所業に堕したからなのである。チェーホフは「自分の顕微鏡や探針やメスなどが使える場所でなければ、真理を求めることは出来ない」と言っているが、これはそのまま、「その手に
釘の痕を見、わが指を釘の痕にさし入れ」て見なければ
基督の復活は信じないと言い張った、不信者トマスの言葉に
飜訳することが出来るであろう。
それでは彼は、ゾラ流の実験文学の袋小路に陥ったであろうか。飛んでもないことだ。何よりも忘れてならないことは、彼が真正の科学者だったことである。その心の厳しさと広さをもって、彼は人性の
醜悪を解するとともに、人性の高貴さをも逸しなかった。彼がいわゆる実験小説に対蹠していたことは、丁度わが国で最も深く正しく科学精神をつかんでいた
鴎外の芸術が、自然主義一派の文学と鋭く対立した事情に酷似していはしまいか。科学上の知識は「常に私を用心深くさせた」とは、チェーホフの心からなる告白である。
彼は、婦人科の医者の醜悪な一面のみを強調して描いた或る作家志望の女性を戒めて、婦人科医はみんな、夢のなかの女性に
憧がれる理想家です、と注意している。ノアの天才と救世的な事業を忘れて、酔漢をしか彼のうちに見なかったハムの
真似をするな、と言っている。またジフィリスというものの意義を誇大視して、変質や精神病を描いた同じ婦人を戒めて、それらの病因をなすものはジフィリスだけではなくて、幾多の事実――ヴォトカ、
煙草、知識階級の暴食、
唾棄すべき教育、筋肉労働の不足、都会生活の条件などの集合である、と指摘している。深い科学的教養は彼を錬金術に
赴かせなかったと同時に、あらゆる
固陋からも解放したのである。
そこで、或る病患に加えられる一つのタッチは、例えばジフィリスのような直接的な誘因に触れるのみならず、その他様々の複雑な文化的要因にも触れ、したがっては時代の特質に触れるのでなければならない。つまり、或る現実断片を描こうとする一振りのタッチは、その内部に潜みかくれている遠近、強弱、高低、濃淡、数かぎりない因子たちを
呼び
醒まし、それを通じてそれらの因子を共有する他の無数の現実断片に交感し呼応するものでなければならない。作家は材料を研究室の中に閉じ籠めてはならない。それをあるがままの環境に置き、その環境との自然的な有機的な交流に
於いて、その生態を捉えなければならない。――彼の抱いていたリアリズム観とは、大体このようなものであったと想像することが出来るであろう。
時に一種の博愛主義に見あやまられがちのチェーホフの温かさとか、しみじみとした情愛とかいうものは、実は深い知から生まれたものであることを忘れてはならない。彼は何も人間が可愛かったのではない。真実が可愛かったのである。彼は、
曾て長篇の枠どりに幻滅したときから既に、純粋に虚無の人ではなかったであろうか。主義の上のことを言うのではない。彼の内なる
否応ない生命の営みのことを指すのである。
このような人間にとって、感受とは、表現とは、
所詮音楽の形式を離れることが出来ないのではあるまいか。人の世のくさぐさは音楽の波として享受され、その享受は再び音楽の波として放出されるのではあるまいか。事実、チェーホフにあってはそうであった。このような契機から生まれたのが、彼独得の雰囲気の芸術、気分の芸術だったのである。
少数の例外を除いて、彼の円熟期の作品はことごとく、右のような約束を果しているものと見なければならない。それらを完全に理解するためには別の眼が要るのである。つまり、すぐれた演出による『桜の園』なり『三人姉妹』なりの舞台面によって養われた眼を、そのまま何の修正も加えずに、彼の短篇小説の上にも転じることが、よし心構えだけにせよ要求されるのである。読者が演出者たることを強いられる極端な場合の一例である。片言や点景が、筋の運びのためにあるのではなく、もっと奥深い調和のためにあり、遥か野末から弦の
断れたような物音が何ごとかを暗示し、そのまま何の解決もなしに永遠の流れに
融けて入る――といったことを、彼は何も戯曲の中だけでやったのではないのである。
彼の行文は
明晰で平明だ。言語学者の眼から見ると、
殆んどスラヴ語のニュアンスを欠いているとさえ言われている。しかしその底には
怖るべき漠然さがある。彼は非常に多くの隠微なものを読者の演出にまで残している。恐らく彼は、音楽に於ける漠然さの価値を信じたポオと同様に、散文芸術に於ける漠然さを尊んだのでもあろうか。
そういう彼の短篇技法を、要約して述べることは恐らく大変に困難なことに違いない。彼は実に豊富なあれこれの手法を駆使して、巧みにこの要求をみたしているからである。既に『わびしい話』にしてからが、物語的要素のムーヴマンとしては寧ろ冗漫さを
歎かせるに過ぎず、一種の情感的ムーヴマンとして受用する場合にはじめて美しい調和を露わにすることは、多分周知のことであろうが、こうしたいわば音楽的構成がとる形の頗る変幻自在なことも
亦いなみがたい事実に相違ない。
試みに、彼の円熟期の諸作のなかでも最も完成した形式をもつ『中二階のある家』を取り上げてみよう。これは『画家の話』という傍題のある、そしてチェーホフの抒情はついにここに凝ったのではないかと疑われるほどに甘美な作品である。なかでも夏の
宵の別れの場面などは、遠い昔に読んだ
荷風の『六月の夜の夢』を思わず想い起させるほどの情趣に富んだものだが、まあそれはそうとして、僕の解するかぎりこの作品は次のようなムーヴマンを追っているのである。
第一楽章。平明な緩徐調。――画家が道に迷ってヴォルチャーニノフの家に近づく。その姉娘と知り合う。招待、訪問。ヴォルチャーニノフ家の教養ある空気。
第二楽章。軽快調から漸次急調子に。――画家が自分の遊民的生活に感じる不満。しかも社会事業家型の姉娘よりも、純な妹娘の方に牽かれる心の矛盾。妹娘との親しみの急速な深まり。会話。幸福感。ふと思い出したように生活への衝動が来る。それと、友人の抱く悲観説との対照。
第三楽章。躁急調。――画家のユートピア的な夢想と姉娘のトルストイ的な実行主義との正面衝突。この章は激論に終始する。
第四楽章。軽快調から漸次緩徐調に。――その夜更け。妹娘が野道を送って来る。晩夏の星月夜。接吻。……その翌日。既に妹娘はいない。画家が曾ての道を逆にその家から遠ざかって行く。
エピローグ。
音楽的素養のある人ならもっと周密な分析をすることが出来るであろうが、とにかく右に現われただけでも、ソナータの構成を思い起すのは何も僕一人だけではあるまいと思う。もちろん各楽章の
排列は転倒し、また変形しているとはいえ、二つの主題が
交る
交るに起伏出没していることまで、何とソナータの形式に似通っていることであろう。二つの主題とは、言うまでもなく、画家が妹娘によせる淡い恋心、および画家の内心に巣くう世紀末インテリ的な焦燥である。
もう一つ
序でに、『犬を連れた奥さん』を分析してみても、全く同じ結果に到達することを発見するであろう。すなわち、
第一楽章。平明な緩徐調。――南ロシヤの別荘地での二人の出会。男の恋愛遊戯的な気持。
第二楽章。軽快調から漸次急調子に。――行きずりの恋の成立。重なる逢引。ふと断ち切られたような別離。秋の夜の停車場。
第三楽章。躁急調。――別離後の男を苛む空虚感。焦燥。男がとうとう女に逢いに行く。劇場でのメロドラマティックな出会。狂おしい接吻。
第四楽章。軽快調から漸次緩徐調に。――永遠の愛、精神の愛による二人の結びつき。この深いよろこびの瞬間にふと訪れる老年の気配。永遠の時に流される「どうしたら?」という悲しい疑問。
ここでは、主題は二つに分裂したものとは見ずに、曾てミールスキイの指摘したように、主人公の遊戯的な恋愛観(直線的主題、すなわち直線として発展すべきものとしての期待を読者に抱かせつつ最初にあらわれた主題)が、漸次真剣な深い愛情に移り変ってゆく(すなわち曲線への偏向)と解するのが至当であろう。『イオーヌィチ』も全く同様の構成を有する一例である。
チェーホフの短篇小説を読んでいると、特に後期の作品について、このような分析が多かれ少なかれ可能でもあり適切でもある場合に屡
行きあたるのである。してみるとこの一種のソナータ的とも言うべき構成は、チェーホフの愛用した形式のうちの
少くとも一つをなすものと
看做してよいであろうか。とはいえ、彼の素直な創造精神があらゆるマナリズム、あらゆる公式主義の敵であったことを思えば、右のような分析法を彼の作品表の全面に及ぼすことは、当然つつしまなければならないであろう。それのみならず、右のような分析の適用し得る範囲についてすら、チェーホフがあからさまな意識をもって例えばソナータ形式を採択したなどと想像することは、恐らく心ない
穿鑿沙汰に過ぎないであろう。様式論の興味はそのようなところにあってはならない。私達にとって何よりも興味ぶかいのは、右のような分析が、この文章の冒頭に述べた「聖チェーホフの雰囲気」を時として押しひらいて、
冥々のうちに作家チェーホフを支え導いていた
端倪すべからざる芸術的
叡知の存在を明かすとともに、この叡智の発動形式の一端に私達を触れさせて
呉れることである。もしもチェーホフの不滅が約束されているとすれば、それはこの叡智の力と形式のほかのどんな場所でもあり得ない。
蓋し一たん
縹渺たる音楽の世界へ放たれて
揺蕩する彼のリアリズム精神は、再び地上に定着されるや、ほかならぬその形式のもとに安固たる不滅の像をむすんでいるからである。
(一九三六年九月「新潮」、加筆して『八杉先生記念論文集「ロシヤの文化について」』)