水と砂

神西清




一 山荘の夜


「此処から足許があぶなくなりますから、みなさんご用心よ。」
 彼等が、小流の畔に出ると、一ばん先に進んでゐた光代がかう言ひ棄てていきなり右へ折れた。驟雨に洗はれて空気の澄みきつた七月の初夜である。見あげれば少なからぬ星影は青く燦めいてゐるのであるが、此あたり一帯にすぐ背後に山を背負つてゐるために、闇は一しほに濃い。然し幸ひなことに砂みちであるので、その仄白さと、踏めばサラサラと微かに音を立てるのとで、さう歩きにくい方ではない。よそ目には不機嫌と見えようまで黙りこくつた妹娘の真弓が姉のあとから歩いてゆく。真弓のあとに宏がついて行くのである。
 ――そのまがり角で、
「お先にいらつしやらない。」
と、真弓は無造作に振かへつた。
「いや、僕は一ばんあとがゆっくりしてゐていいな。」
「そオ。」
 そのまま彼女の姿は右手の小径に消える。宏はわざと二三間おくれた。
 小径は右に沿ふてはかなりの別荘の垣根つづきであるけれど、左手には薄が一めんにはびこつて、それでなくても狭い此道を更に三分の一ほども蔽ひかくしてゐる。その薄の叢を越えて二三尺も低く、細い流が闇にまぎれて、時たま思ひ出した様な鈍ひ水音を立ててゐる。これは如何にも、あの一風かはつた光代の選びさうな道である。
 三人はそのまま暫く黙つて歩いた。ともすると、突き出た薄が彼等の足を切りさうにするので、うつかり冗談も言へないのである。此小径に折れるまでは、真弓だけは滅多に口を出さなかつたにせよ、光代と宏とは殆どしきり無しに声高に話をしてゐた。そしてその合ひ間には、殊に光代が、甲高い笑声をひびかせるのであつた。さう言ふ風に笑ふことが此晩の光代には快よかつた。あまり健康さに恵まれてゐないため、もう二十三にもなりながら、みすみす婚期の過ぎてゆくのを見送らなければならない彼女であるのに、それに、仮令たとえそれがふとした気紛れであつたとはいへ、つい此間の或る男性との失敗した関係、それらの事情を、怜悧れいりな眼でとつくに見抜いてゐて、決して表面にはあらはさないものの、内心には笑や憫れみやを抑へてゐるらしい妹の真弓の前で、ともかくも立派な青年である宏を相手に、こんなに愉快に笑声を立ててみせることが光代には快よかつたのである。そのうへ、彼女が愉快らしく振舞へば振舞ふだけますます沈黙に落ちてゆく真弓の今晩の様子が、光代には一種の征服感に似た気持をもたらすのであつた。折に触れて、座敷か茶の間かで、光代の話声や笑が高すぎたりすると、自分の指がコンサイス・オクスフォードの頁を繰つてゐる時でもポンピヤン・クリームの瓶をいぢつてゐる時でも同じ様に、
「うるさいのねえ、姉さんは。」
と、わざと誇張した顰め面をする我まま娘の真弓なのである。その真弓が、今晩はまだ親しみの淡い宏がゐるために、あの傑作な「うるさいのねえ」や顰め面を、一生懸命になつて我まんしてゐるにちがひないことを思ふと、光代は可笑しくてならなかつた。
「あれでも、すこしは気取るやうになつたのかしら。……子供のくせに。」
 光代は、さつき鏡台のまへで初めてみた、妹の嬌羞きょうしゅうをもう一ぺん思ひ出さずにはゐられなかつた。彼女は振かへつてまともに妹の顔を覗いてやりたいと願つた。十九歳の真弓は時折さも分別あり気な顰め面をしてみせたりするけれど、その実まだほんの我ままなお嬢さんとしか、姉の光代の眼にはうつらなかつたのである。――あの時までは。
 暫らくすると、道らしい道に出た。そこまで左手に沿つて来た小流を粗末な木の橋で渡ると、道は爪先上りにたかくなる。その坂を登りつめれば、彼等が訪れようとしてゐる扇ヶ谷の川瀬の家はすぐである。川瀬禎子は光代や真弓にとつては叔母で、夫が横須賀の鎮守府に勤めてめつたに帰つて来ないため、扇ヶ谷のかなり広い家はふだんは叔母とそれからその娘、つまり光代たちには従姉妹である英子との二人ずまゐである。尤も英子が東京のF女学校の寄宿にはいつてゐた頃は叔母ひとりであつたが、気楽な彼女はいつそそれをいい事にして、好きな三味線の稽古にありあまる時をつぶしてゐた。夏休になると長男の五郎が京都から帰つて来るので、川瀬の家も兎に角にぎやかになるのであつた。
 今日も昼すぎに、濡れた海水着をタヲルできゆつとゆわへて片手にぶら下げた英子が、雪の下の下山(光代たちの姓)の家に寄つて、毎晩三人きりで退屈してゐるから、夕御飯でもおすみになつたら涼みがてら扇ヶ谷までお出掛けになつては、それから帰りは遅くなつたら兄がお送りしますから、と伝へて行つたのであつたが、その四時ごろ、逗子に滞在してゐる宏が驟雨に逢つて蒼惶そうこうとして門をくぐつたので、丁度いいといふ事になり、三人で扇ヶ谷遠征となつたのである。宏といふのは、下山の家の長男で今は紐育の正金に勤めてゐる愛彦が新たに迎へた妻の従弟で、此夏になつて初めて雪の下の家に姿をみせた青年であつた。
 しかし、夕食後にちよつとした喜劇がおこつた。一ばん先にお湯を済ましてしまつた宏は、回縁の角のところに籐椅子を持ち出して、先刻から大ぶ長いあひだぢつと動かずに、松の雫が一滴ごとに庭の砂地の表面に吸ひこまれてゆく跡をみつめてゐた。真弓は大柄な麻の葉の浴衣をだらしなく着た湯上り姿で、これは茶の間の敷居ぎはに据え直した鏡台のまへにべつたり坐つて、上気した顔に淡く白粉を刷いてゐた。庭さきの松の梢にはもう夕風が立つ頃であつた。光代は風呂場へ行かうとして浴衣をかかへて立ち上つた次手ついでに、茶の間の電気をパチリとひねつたが、ふと此若い二人の取あはせを見ると、片頬にいたづららしい微笑をうかべた。
「ねえ真アちやん、宏さんさつきから大ぶご退屈の様だから、あなたお化粧が済んだら一足さきに扇ヶ谷にお連れしたらどう。私これからお湯をつかふのだから、待つてゐると遅くなつてよ。」
と言ひさしてぢつと真弓に眼をつけたとき、彼女は思ひもかけず鏡の中に、あかくなつた妹の顔を見出したのだつた。そのうへ、光代がはじめて妹のうへに見る女らしいしなを肩でかすかに作ると、真弓は、
「いいの、待つてゐるわよ。」
と、半ば宏の方に気を兼ねるやうに、不機嫌らしく言つたのであつた。
 自分の境遇から、知らず知らず若い女性に或る病的な冷たい観察の眼をそそぐ年頃になつてゐた光代は、妹の此瞬間を見逃しはしなかつた。此時なのである。彼女が今まではほとんど女性として見たことのない妹の真弓に、その種の眼を向けはじめたのは。――こんな真弓の意地つ張りのために、彼等がそろつて雪の下の家を出たのは、驟雨のあとの夕ばえがながい夏の透きとほつた薄明にかはり、更にそれが次第に宵やみに融けこみはじめた頃であつた。むつつりと黙りこんだ真弓を中にはさんで。……
「今夜は月がないのかしら。」
 めづらしく、川沿ひの小径からしばらく保たれてゐた彼等の沈黙を破つて、真弓の声がしたのは、坂道をほとんど登りつめて川瀬の家にほど近くなつたときであつた。光代は妹が自分のすぐうしろに、おとなしくいて来るのに少し案外な気がして、おもはず眼眸をかへした。そして宏の姿が見えないので、闇の中をすかして見ると、十五六間も離れてそれらしい影がゆるゆると動いてゐる。
「あら、宏さんどうなすつたのかしら。」
 姉の言葉に、真弓はうしろの方をすかして見たが、そのままぢつと佇んだ。光代は妹の前をすり抜けて二三歩あゆみを返して、
「宏さん、どうなすつたの。お草臥れになつたのぢやない。もう直きですよ。早くいらつしやい。」
「さうぢやないんだけど、あんまり静かだものだから。……」
と、宏はすこし急ぎ足に近づいて来たが、
「此辺は実にいい所ですね。鎌倉にしては珍らしい。」
「そんなにお気に召して。」
 光代はあらためて松の樹の群をすかして見ながら、
「生憎月がなくてねえ。月の晩はそりやいいのですのよ。」
 こんな事を言ふうちに二人が並んで歩きだすと、真弓はもう一人でさつさと山門をはいつてしまつたあとらしく、その四辺あたりに姿は見えなかつた。川瀬の家はR寺の山門をはいつて、奥まつた右手の小さな丘の上にある。
「まあ、勝手なひとだこと。一人でずんずん行つてしまつたりして。」
 光代はいま更に妹を非難する様に言つたが、宏をうながし立てると、すぐあとから山門をくぐつた。R寺の境内がよほど高いことは、いま石畳を右にはづれて地続きの丘に出ようとする二人の足もとに、扇ヶ谷一帯の松籟しょうらいが黒くひろがつてゐることでも解るのである。その崖の上に、背面から迫つてゐる巌山が埋め残した百五六十坪ほどのひろさを我が物として、川瀬の家はその庭とともに手際よく配置されてゐる。宏が一目みて此家を山荘といふ二字に如何にもふさはしいと感じたのも無理ではなかつた。
 光代が柴折戸しおりどめいた小さな門をはいらうとすると、そこには英子が顔いつぱい微笑みながら立つてゐた。
「今晩は。」
「あら、いらつしやい。――随分ごゆつくりなのね。あんまりお遅いものだからあたし、そこ迄お迎ひに出ようと思つてゐたのよ。」
 英子は快活に話しかけたが、光代のうしろに見なれないひとの姿を認めると、急に口をつぐんでしまつた。それと知つて光代が、
「このかた、宏さん。あの、東京の……」
「まあ。――お噂は兼々うかがつてをります。よく……」
 言ひかけたものの、自分乍らませた口調が可笑しくなつて、こみ上げて来る笑をやつとのことで忍びかくすと、袂を前に重ねて丁寧に会釈をした英子の肩に、房々したお下げの髪がみだれかかつた。そのまま軽やかに小柄な身をひるがへして、英子は飛石づたひに二人を奥にみちびいた。
 鍵形に母家から突き出てゐる離房はなれめいた八畳の縁側に真弓は腰かけて両足をぶらぶらさせながら、先刻さっきとは打つて変つた賑やかな様子で、五郎を相手に笑ひ興じてゐた。英子は茶の間の踏石に駈け寄ると、
「お母さま、光代さんいらしつてよ。それから宏さんも。」
と、別荘地の生活に特有な人懐こい口調で母親に報告した。お得意の三味線の音締めに掛らうとしてゐたらしい禎子は、楽器を傍に置くとその肥つた体躯からだを起して、人の好い笑みを湛えながら、縁さきにあらはれて、
「光代さん、今晩は。――宏さんも、よくいらして下すつてね。」
 宏は禎子の人の好い笑顔には東京で二度ばかり接したことがあつた。
「家のなかは暑くるしいから、お庭でいいでせう。ね、光代さん。」
 叔母の提議に光代は肯いて、さつぱりとした調子で、
「さうですわ。――私たち勝手に騒ぎますから、叔母さまどうぞお構ひなく。」
「ええ、ええ。お婆さんは引つ込んでゐた方がねえ。お若い同志で思ふ存分お騒ぎなさいよ。――宏さん、此処にいらしたら遠慮しちや損ですよ。みんな不良がそろつてゐますからね。」
 愛想よく言ひながら、禎子は室内に戻つて行つたが、やがて低い音締めがピーンと響いた。
「負けどほしさ。」
 五郎はその時庭さきの籐椅子に歩み寄つた光代の方に顔をしかめて見せたが、
「宏さん、いらつしやい。」
と、世なれた調子で挨拶した。宏と五郎とは此夏になつて初めて雪の下の家で知り合つた間である。
「また、ペエシエンスなの。」
 光代はポンと吐き出す様に言ふとその儘、くるりと身を転じて籐椅子に沈んだ。五郎と真弓との間には、トラムプの札が乱雑に散らばつてゐる。先刻さっきから二た勝負ぐらゐ済んだ所らしい。真面目になると頭のはたらきが非常に正確になる真弓は、ペエシエンスでは決して五郎などに負けなかつた。
「僕はもう退却するぜ。宏さん、かたきを取つて下さいな。」
 五郎がそろそろ立ちかけると、いつの間にか眼を庭さきの闇にそらしてゐた真弓が、
「卑怯よ、卑怯よ。」
と向き直る瞬間に、すばやい、そしてどことなく羊の眼のやうな臆病さを含んだ視線を宏の顔にはしらせた。そのとき彼女の瞳を、たとへば水面の星かげのやうに幽かで捉へにくくはあつたが、不思議に奥ぶかい光が、ちらと流れた。――
「宏さんみたいな秀才はいやよ。こわくつてとても敵やしないわ。」
「おや、おや。そいぢや僕は一たいどうなるんだい。悲惨だね。」
 今度は本当に立ち上つて、五郎は違ひ棚の方へギターを取りに行き乍ら、
「英子、こつちへ来ないか。真弓さんがお前とペエシエンスをしたいんだとさ。」
「いま、お茶を入れてるのよ。」
と、奥の方から英子の声がした。
「あいつ、なかなか此頃は話せるやうになつたな。」
 五郎は楽器をぶら下げて帰つて来ると、真弓に、
「弾いたげようか。」
「さうね。あんまり有難くないけど。――だけど五郎さんのギターも久し振りね。少しはうまくなつた。」
「どうして、どうして、素晴しく御上達さ。」
 五郎は上機嫌で楽器の調子を合せはじめた。そこへ英子がお茶を持つて出て来て、
「サイダアがまだ冷えないものですから。」
と言ひ乍ら三人にすすめて、
「光代さん、こつちへいらつしやる。」
「私、動きたくなくなつてしまつたの。何だか。……」
 光代は例の自分の気まぐれな癖が出たとは気附いてゐたけれど、何となく此処へ来た頃からこぢれて来た自分の気持を強ひて振りうごかすことの危険をおぼろげに感じてゐたので、そのまま動かうとはしなかつた。
「いいわ、いま其処へ持つて行きますわ。そして二人で仲よくお話しませうね。だつて、ここに居ると、ねむくなり相なんですもの。」
 従順な英子は、お茶盆をささげて庭に下りて、光代の傍に席を占めた。
「セヴァストポール。」
 五郎は勿体ぶつて題を宣告して置いて、さてすつかり澄まし込んで、彼の取つて置きの此秘曲を弾きはじめた。曲は露土戦争の悲壮な結末を表はしてゐるらしく、その沈痛に徹した弾音がときにややたかまつて、暗い七月の夜の空気を静かにふるはせるのであつた。それに、五郎はそうした効果を生かす術を心得てゐたのである。つまり彼は自ら澄まし込むことによつて、一座の気持を巧みに捉へてしまふ、社交的な一種の芝居気の所有者であつたのである。で、音楽は、平生から五郎の芸術をけして尊敬してゐない真弓のうちにもそのなごやかな哀音を忍びこませた。向ふむきに籐椅子にうづまつてゐる光代の波立つた胸にまで、或る殉情的な調をつたへるのであつた。一座はしんとした。……
「ざつと、こんなものさ。」
 五郎はニヤリと笑つて、悠容とギターを傍に置いた。一座は再びたくみに転換されようとした。
「すごいわね。五郎さん。」
 真弓がお世辞つ気のない褒め方をした。五郎は瞬間の仮面を手際よく脱ぐために、敷島に火を点じたが、すかさず庭さきの光代に話を向けた。
「ね、光代さん。うまくなつたでせう。」
 所が案外にもすなをに、
「よかつたわ。」
と答へられたので、いささか虚を衝かれた形だつたが、英子がそばから、
「兄さんはあれつきりなのよ。朝から晩までセヴァストポールなの。」
とまぜつ返したのを機会しおに、一座は華やかに笑ひ崩れた。糸は見事元の通りにほぐされてしまつた。
 光代と英子とは同窓なので、学校の噂でも始めたらしく、小声で話しあつてゐるので、やがて離房はなれの三人でツウ・テン・ジャックがはじまつた。逗子の親類の家に毎年の夏を送ることにしてゐるものの、殆ど孤独の圏外に出たことのなかつた宏は、かうした一群にはそぐはない自分を感じはしてゐたけれど、次第にさうした空気にも慣れて来たので、勧められるままにおとなしく競戯に加はつた。しかし余りトラムプを弄んだことのない宏は勿論、寧ろおつき合ひにいい加減にお茶を濁してゐる五郎も、熱心むきになつて相手の札を記憶してゐる真弓の敵ではなかつた。真弓はずつと勝ちつづけた。勝負が第四ラウンドのハートに来たとき、五郎はあんまり札を切らされたので指が痛くなつたと不平らしく顔をしかめた。さうかと思ふと、響のたかい声で、庭の英子に呼びかけた。
「おい。サイダアはどうしたんだい。」
「ああ、さうさう。すつかり忘れてゐたわ。」
「江戸のかたきを長崎ね。」
 真弓は斜めに五郎をにらめて、庭に下りると、低声に何か英語の歌を口ずさみ乍ら、崖に近い植込の萩の叢に下半身をかくした。
 サイダアが運ばれると、禎子も下りて来て宏にいろいろと話しかけた。此庭の四季の眺のとりどりに佳いことや、裏山に登ると由井の曲浦が一望のうちに収められることやを、唐詩選あたりの文句を引合に出して長々と話すのであつた。そして今度の秋には、向ひの峰の紅葉を眺めに是非いらつしやいと附け加へた。しかし腕時計を見るともう九時半であつた。宏は帰らなければならなかつた。
「さうですわね。鎌倉にいらつしやるのなら幾ら遅くなつてもいいけれど、逗子ではね。」
と、禎子が立ち上り乍ら宏に同意した時、団扇を片手にくるくる廻して退屈さうに庭を歩いてゐた真弓が小さな声でつぶやいた。
「それぢや、私も帰らうかしら。」
「真弓さんはいいぢやないの。姉さんもまだいらつしやるのだし、遅くなつたら五郎に送らせますよ。」
 母の言葉のあとから、光代の傍でギターをいぢつてゐた五郎も、
「本当に僕が送つたげるぜ。一日ぢうこんなところに籠城ぢややりきれない。浜へでも行つて見ようと思つてるのだから。」
と引きとめたが、真弓は聴かずに、
「やつぱり、帰るわ。」
と言つた。
「相変らず我ままやさんねえ、真弓さんは。」
 禎子は微笑んだ。真弓は宏よりも先に、柴折戸しおりどの方へずんずん歩いて行つたが、そこで思ひ出したやうに振返つた。
「五郎さん。いつか讓さんとこへレコードを聴きに行かない。新しいのが大ぶ輸入はいつたのですつて。」
「ああ、行つてもいいな。でも何時にする。」
「さうね。――明後日あさってにしない。」
 そのまま、五郎の返事も待たずに、真弓は柴折戸からすうつと出てしまつた。……
 籐椅子に身をうづめた光代はこれ等の会話を聴きながら黙つて深い瞳をぢつと山あいの闇に凝らしてゐた。彼女は身動きもしなかつた。いや、さう言ふのは適当ではない。彼女は自分の意志にもかかはらず、身動きすることが出来なかつたのである。彼女は自分の意地があべこべに自身を締めつけて離さないことを感じた。彼女は出来るだけ心を落着けて、今晩のともするとこぢれ勝ちの自分の気持を凝視してみようと試みた。しかし、結局それがはつきりとしない、狭霧のように取りとめのない、いつもの気まぐれに過ぎないらしいことが解ると、彼女は悲しかつた。彼女には自分が何となく哀れな者に思へるのであつた。自分の気持が、しっかりした対象に向つてこぢれてゆくことが、せめて彼女自身の心だけにでも信じられたならば、恐らく光代は満足だつたにちがひないのである。
 はじめは、帰つてゆく若い二人へのぼんやりした嫉妬に似たものかとも考へてみた。しかしそれは直ぐに否定してしまへた。何故ならば、彼女は宏に男性としての関心を有つてゐなかつたからだ。それならば、――と考へた瞬間に彼女はハッとした。それは、妹の美はしい生長に対する自分の不安な心づかひではあるまいか、と考へたのである。
 これとても決してきつぱりと断定してしまへるほど確かな姿を有つたものではなかつたけれど、それにしてもこれは光代に取つては想像するだけでも致命的な思想であつた。光代のこれからの生活に大きな不幸の予兆を投げかける思想であつた。真弓のなかに日毎にやすらかに眼覚めてゆく女性、その反対に自分のなかに日毎に容赦もなく涸渇してゆく女性、此対立を今程はつきりと認識したことはないと彼女は思つた。智識、愛、そして幸福な果てしなく拡がつてゆくであらう生活の波、――妹の前途に微笑んでゐるありとある美しい幻像が、彼女には怖しかつた。光代は思ひもかけない苦しさを自分のすぐ行くさきに見出して、かすかに身を顫はせた。彼女はぎゆつと両手を握りしめたまま、いつ迄もいつ迄も闇の中をみつめてゐた。……

 真弓と宏はならんで山門を出た。二人の間には殆ど完全な沈黙が保たれてゐた。はにかみと言ふよりはもつと別の或るものが、二人を沈黙に置いたのである。次第に女性の芽ぐむ年頃になつてゐ乍ら、それでゐて人一倍つよい少女らしい衿持きょうじを有つて、周囲のほとんど総ての男性を冷視してゐた真弓は、いま眼の前にあらはれた青年に対する自然な新しい興味に誘はれる前に、その澄み切つた理智の眼で宏を凝視しようとしてゐたし、宏の方では、此沈黙ずきな不思議な少女、その裡に何か特異なエスプリをかくしてゐるらしい真弓を、彼らしい浪曼的な考へかたで少からず偶像化しながら、彼女の魂の窓へと静かな聴耳を立ててゐたのであつた。
 二人は黙つたまま、ゆるゆると扇ヶ谷の坂道を鎌倉の町へと下りて行つた。

二 下山真弓


 海松みる色の海水帽できりりと髪を装ひ、日射しの眩しさを避けるやうに眼眸をおとして、右手に黒い水着を弄びながら、真弓は女学校の前の松並木を海の方へと歩いて行つた。やうやく近まつて来た午後の潮騒にまぢつて、まだ若い蝉の鳴声が、両側にならんだ別荘の庭からまばらに響いてゐた。浜はいま人の出さかりらしく、此砂道には真弓のうしろに、道の長さに平行してくつきりと彫まれてゐる彼女自身の影のほかに、人影もなかつた。これは、都会の華麗さも遠く及ぶ所ではない真夏の海辺の壮大な交響楽のさ中に全身をうち任せる前の、不気味なまでに明るい静寂のひと時であつた。
 真弓は此短い期待の幾分かの孤独を愛した。彼女にとつてはいはば祭典にもひとしい真夏の海辺である。何となれば、そこには、生れたままの姿態になつて自分の伸々と生長した健康な四肢を亨楽することの出来る、白沙のうへの明るい時があるのだ。また、※(「りっしんべん+淌のつくり」、第3水準1-84-54)※(「りっしんべん+兄」、第3水準1-84-45)しょうこうのはげしい羽摶きとともに、彼女の澄みかがやく双つの瞳がそらの藍に深く吸ひこまれてゆく、美しい忘我の時があるのである。そんな彼女が愛してゐる海辺に出るまへの此数分間の外光にみちた孤独の時は、彼女のために意味のふかい贈物であつた。
 しかし並木道が海岸通と交叉する四辻に来たとき、真弓は微かにその瞳を曇らせて、何ものかを忌み憚るやうな様子で、四辺に眼をくばつた。
 その男の姿をはじめて此四辻に見出したのは丁度一週間まへであつた。その男は真夏であるのに垢ぢみた紺がすりの袷を着、帽子もかぶらず、無精に伸ばした赫ちやけた頭髪を砂丘を越えて来る潮風になぶらせてゐた。若しも手にバラバラになつた仮綴の洋書を持つてゐなかつたなら、彼は容易く浮浪人と見られたにちがひない。その男がつき立つたまま凝然と、窩んだ眼で真弓をみつめてゐたのである。――第一日は何の気なしに、唯きたならしい人だぐらゐに思つて通り過ぎた。然しその男の姿は、次の日も同じ場所に見出された。そして此一週間のあひだにその姿の見えなかつたのは二日位だつたと彼女は記憶してゐる。その男はべつに彼女の跡をつけて来るのではない。砂浜に出てその澄んだ瞳がはじめて碧碧と海の色をやどすと同時に、そんな陰影は真弓の記憶から跡形もなく消えて行つてしまふのが常であつたが、それでも時たまふと心に浮ぶまま視線を四辺に配つてみることもあつたけれど、其男の影は砂丘にも渚にも決して再び見出されないのであつた。とはいへ、此男の存在は彼女にとつて厭はしいものだつた。出会の度を重ねれば重ねるほど、厭悪えんおは益々強くなつて行くのであつた。それに、彼女の方でこそ一週間前にはじめて現はれたと思つてゐるけれど、それ以前にも既に其の男は彼女の目に触れることなしに幾度、その暗い瞳を彼女のどんな姿態の上に凝らしてゐたかも知れないのである。此並木道で、また長谷の通で、停車場で。……こんな事を思ふと彼女は堪らなかつた。彼女は、其の男の影が鎌倉から消えてしまつて呉れればいい、と願つた。……
 十歳になる迄の記憶は彼女の回想の圏外にあつた。山の麓の赫土の洞の前で、兄や姉と土いぢりをして遊んだことや其の他の記憶は勿論消え失せてはゐなかつたけれども、真弓はそれを回想することを好まなかつた。自分の生活の第一頁は、下山一家がいまの雪の下の家に移つて来た日、つまり彼女の十歳の夏の一日から始まるものと彼女は信じてゐた。その日から今日までの彼女の生活の日めくりは、どの夏を覗いてみても愉しい微笑でいつぱいだつた。短い髪の毛を二つに編んで肩から胸に垂らした此小さなお嬢さんは海が好きだつた。朝から夕方まで海岸で遊ぶことが好きだつた。死んだ彼女の父親がよく、そんなに海ばかり見てゐると眼の色が西洋人のやうに碧くなる、と心配したほどに、真弓は大そう海を好んだ。
 女学校の二年生の冬、彼女は兄が贈つて呉れた希臘ギリシア神話を読んだが、そのなかでアフロデイテが海の泡から生れたといふ話が大そう彼女の気に入つてしまつた。真弓はそのときから後一層海を好むやうになつた。白い砂のうへに坐つて、深い瞳をぢつと海の藍色に凝らしてゐるとき彼女は、その渚の真白な泡の中からもしや美の女神が立ち上りはしないかしらなどと想像してみることがあつた。そんな時にはきつと、その本の挿絵にあつたボッチチェルリの画が、彼女の心像に描かれるのであつた。
 たしかにその翌年の夏のこと、その二三ヶ月にあざやかな生長を見せた肢体を海水着につつんで、彼女は砂浜に腹ばひながら、相変らず海の泡の話を思ひつづけてゐたが、ふと、自分を水と砂から生れた娘と呼んでみた。そして此空想がひどく彼女をよろこばせた。
 その日からといふもの、此空想は日ましに強まり、次第に完全な形態をとつて彼女の裡にあらはれる様になつた。少し誇張した言ひ方が許されるならば、此空想は長い日の旅を経て、信仰にまで進んだと言ふことも出来る。ともあれ此「水と砂から生れた娘」といふ空想は、一方に肉体的の生長とともに高まつて来た少女風の矜持きょうじと合体して、真弓の裡に或る気品に富んだ、とはいへ少しは我ままに失した所もないではない人生観を育てるに役立つたのであつた。水と砂から生れた娘として、真弓は陸の土と埃とをさげすんだ。自尊心のつよい少女として、真弓はあらゆる近代的生活様式に依つてきざまれ彩られた仮面の青年たちを冷視した。彼女は自分の純白な生活史を、敏感な自尊の刀で切りひらいてゆく、そんな少女であつた。
 かう言つた気質の彼女であつたから、暗い陰影をうしろに引きずつてゐるらしいその見知らぬ男の不安な存在は、彼女を厭悪えんおさせるに充分であつた。空には雲もない夏の朝の微風に、ホテルの寝台の上のやすらかな睡眠からめざめて、さてボオイが運んで来ておいて呉れたミルクの壺を手に取り上げたとき、純白な乳の表面に醜く浮いてゐる死んだ蠅を見出したとしたなら、此黒い一点はどのやうな感想を人にもたらすであらうか。……
 真弓の瞳のかすかな曇は、しかし瞬間にして澄んだ。彼女はその男の姿を今日は其処に見出さなかつたのである。彼女は自分の徒らな杞憂を振り払ふやうに、明るい微笑を眼にかげらせたかと思ふと、そのまま視線を真つすぐに保つて、由井ヶ浜に出る砂丘を登りかけた。がそのとき、傍の赤松の太い幹に倚りかかつて、ぢつとこちらを凝視めてゐる一人の若い西洋人が真弓の眼に入つた。
 彼は先刻から其処に佇んでゐたにちがひないのであるが、四辻から五六間の距離はあつたし、すつかり真白な服装をしてゐるため、黒い姿をばかり求めてゐた真弓の眼にとまらなかつたのにちがひない。此瀟洒しょうしゃな西洋人は、今自分のまへを通りすぎて行く、日本の女にしてはめずらしいまでに肢体の調つた少女の上に、はじめは寧ろ驚異に近い眼を注いでゐたが、やがて瞳は好奇と欲望の光を帯びて来て、その眼眸は薄い夏衣なつぎの下に、真弓の美しく発達した腰や脚の形をふらしかつた。
 真弓は彼の視線が自分のあとを少し執拗に趁つてゐることを感じてはゐたけれど、そんなことに眉も動かす彼女ではなかつた。彼女は寧ろ、黒い影のかはりに偶然見出された此真白な幻像に、瞬間的な対照の可笑味を感じたに過ぎなかつた。……砂丘を登り切つたとき、果てしのない海風が吹いて来る豊かな幸福を呼吸して、真弓の胸は張り切るばかりにふくらむのであつた。今こそ自分を生み自分を育てて呉れた水と砂に抱かれる時であつた。午後二時の太陽が海面にしぶきを散らす金色の燦めきに、晴れやかな沈黙の笑を投げ乍ら、真弓は砂丘を下りて行つた。
 彼女はいつも自分の着物を脱ぐ場所にきめてゐる、海浜ホテルのテラスの下にある更衣所の方へと歩いた。真夏の壮麗な白日のうちに揺れてゐる海の響が、彼女の精神を裸体にし、彼女の気息を大胆にしてゆくのを感じながら、真弓の瞳はむさぼる様に海の藍を吸ひこむのであつた。海と空とに瞳も魂もとられてしまつてゐた彼女は、傍に人魚が背を乾してゐるやうなだらし無い姿態をして腹ばひになつてゐる、一群の海水着の娘たちに気づかずに行き過ぎようとした。華やかな笑声が足許から涌きおこつた。
「真弓さん、真弓さん。……」
「大そうお見かぎりね。ここへいらつしやいよ。」
「駄目、そんなこと言つちや。ほら、あの夢中になつて何か探してらつしやる眼がわからないの。」
「さう、さう。だからこそ、われわれ親愛なるインディヤン・クラブの仲間にも気がおつきにならなかつたわけね。まあ素敵。まあ素敵。」
「でも、誰方、誰方。」
「およしなさいよ。そんな事いふの。真弓さん、いつか又遠泳をやらないこと。」
「真弓さん、真弓さん。……」
 しかし真弓は、振返つて親しげな微笑で此おきやんな人魚たちに点頭いてみせると、そのまま行き過ぎた。うしろの方でどつと涌き起つた新しい一団の笑声を聞き流して、彼女は更衣所にはいつて行つた。
 三分ののち、海水服に着かへた下山真弓はけた白砂のうへに細い靴の爪尖をそろへ、その上に彼女の全身をまつ直ぐに伸ばしきつた姿勢で立つた。ぴつたりと、肢体の線によく合つた黒い海水着は、細つそりした彼女の五尺三寸の体躯を幾分か小形に見せてはゐたが、それが却つてその四肢の均整を美しく発揮させるのであつた。おそらく身長の限度にまで充分に発達した少女らしい肢体は、まだ脂肪質の生成にいささかも禍ひされてゐないため、つつましやかなふくらみを有つてゐる胸のあたりの線も、此年頃の大抵の日本の女に見られるやうな醜い欠点とはならなかつた。寧ろそれは、少し緊りすぎたとも思はれないではない彼女の肢体全体の線に、優しさとやはらか味とを与へるのであつた。真弓の肢体は、すでに成熟の前の或る完成期に達してゐたのである。で、彼女の肢体はまだ決して、彼女の大好きなボッチチェルリのアフロデイテではなかつたけれど、それは行く行くはその豊麗な完成にまで約束されてゐる、ごく稀な型に属してゐたのである。
 左手を腰に置き、右手を額にかざして彼女は、霊泉ヶ崎の真下から材木座までの波打際の曲線に沿ふて愉しげな眼眸をゆつくりと移しはじめた。その時、正面のやや遥かな波のあひだから、
「おおイ。」
と太い男の声がきこえた。真弓は呼声のした波の方へと手をかざしたが、その男の首の下に胸があらはれ、それに胴体がつき、やがて渚に、真黒に日に燬けた厳丈な体躯が立つた。真弓はそれが従兄の五郎であることがわかつたとき、少し首をかしげる様にし乍ら、右手をたかく挙げて親しみの合図をした。
 五郎は大跨にずんずん近づいて来たが、やがて従妹の傍に毛だらけの足を投げ出して坐ると、響のいい声で、
「真アちやん、坐らないか。ぼんやり立つてたつて始まらない。――それに、今日はとても水がきたないぜ。はいらない方がましだ。何しろ真黒な人だかりだからなあ。まるでペンギン鳥の引越みたいな騒だ。」
と、寧ろ上機嫌にいつもの毒舌をやりだした。真弓は従兄と並んで坐ると、自分の膝のあたりに砂を掛けながら、長谷寄りの磯を中心にして醜くうごめいてゐる群衆の方へと眼眸を投げてゐた。五郎はまだ何か毒舌の種を探してゐたらしかつたが、やがて従妹の肩先に無遠慮な視線を注ぎながら、
「何だ、真アちやんはちつとも燬けてないんだね。毎日、海へはいるつていふから、感心だと思つてゐたら、何だいその色は。真白ぢやないか。」
「いやよ。そんなにぢろぢろ見るものぢやなくつてよ。」
「だつて、可笑しいからさ。」
「なぜ。何も可笑しいことなんか無いよ。いくら燬けたつてちつとも黒くならないんだもの、仕方がないわ。――それに、女が五郎さんみたいに黒光りがしたら、みつともないよ。」
 五郎は闊々と胸を張つて哄笑した。
 真弓が心置きなく話をすることの出来る男性は此従兄の五郎を措いて他に無かつた。五郎にだけは心が許せた。五郎にだけは遠慮なしに我ままが言へた。不二家のお菓子が食べたい、と真弓が言へば、その時の彼の気分と真弓の頼みかたとに依つて、仮令たとえ雨がひどくても気もちよく横浜まで(その時分まだ長谷の通には不二家の支店はなかつた。)行つて呉れる五郎だつた。それも殆ど総ての男性に共通な追従めいた態度は微塵もなかつた。途中で気が変ると、あづかつた金をみんな飲んでしまつて、菓子も買はずに帰つて来る様なことを平気でやつた。然し真面目な時はごく真面目に、真弓の空想半分の「相談」の相手におとなしくなつて呉れた。五郎は京都の大学にもう五年はゐる。それが彼のあまりよくない身持の結果であることは川瀬の家でも承知してゐる。真弓も知つてゐる。実際、彼は真弓の前でも何でも構はずに女の話を平気な顔でやつた。時には随分露骨なことを言ふこともあつたが、それが従兄の口から出たことだと平気で聞ける真弓だつた。此男は何でもすつかり知り抜いてゐる、さういふ気持が、従兄といふ心易さと一緒になつて、決して尊敬ではなかつたが、親しい信頼の心を彼女のうちに培つた。……
「五郎さんは、法科なんだつてね。」
「うン。」
「何だか似合はないわね。――やめてしまひなさいよ。」
「で、どうするんだい。」
「農科をやるといいわ。きつと似合つてよ。どうしてもお百姓をやる体質からだだわ。五郎さんのは。……」
「……」
「第一そんな体質をして遊ぶなんて間違つてるわ。そういふ人は、もつと色が白くつて、気障で、……」
 真弓は自分の無邪気な解釈をもつと続けようとしてゐたが、忽ち材料に困つてしまつた。彼女は従兄の横顔に行き場に迷つた眼眸をやつた。五郎はニヤニヤ笑つてゐた。真弓は黙つてしまつた。和やかな沈黙が来た。
「宏さんて人、どう思つて。」
 暫くしてから真弓が訊いた。
「どう思ふつて。……さあね。」
「すごい人だと思つて。」
「さあね。――真アちやんは。」
「私、――どうも思やしないけど。」
 真弓はぢつと眼を白い砂に伏せた。
「何だい。ぢや、いいぢやないか。」
 五郎はからかふ様な口調で言つたが、それつきり何も言はなかつた。で、無意味な此会話は意味のないままで終らなければならなかつた。右手寄りの沖合に、いつの間にか白い断雲の一塊が浮び出てゐた。
「どれ、帰るとしやうか。――いい天気だなあ。」
 五郎は立ち上つて水着の砂をはらつた。
「そおオ、ぢや私も水につかつて来よう。」
「光代さんによろしく。」
「英ちやんにお遊びにいらつしやいつてね。」
 二人は別れた。真弓はしばらくぢつとしてゐたが、やがて元気よく立ち上ると、その小さな恰好のいい靴のあとを、波打際の滑らかな砂の鏡にのこして、直直じきじきに波の中にはいつて行つた。


 その晩かれこれ一時ちかくになつてやつと真弓は寝床にはいつた。青蚊帳を透してくる薄暗い電灯の光では、枕もとの婦人雑誌の頁を飜す気にもなれないし、それと言つてますます冴えてくる眼の遣り場に困つて、天井に映る光と影のぼんやりした模様に当てもなく眸をさ迷はせてゐるうちに、階下の柱時計が一時を打ち、そしてもう一ぺん一時半を打つのを聞いた。その晩の疲労と興奮が真弓をなかなか寝つかせなかつたのだ。姉と従兄の三人で夜更けまでひどく騒いでしまつた。それに冷たい紅茶も飲みすぎた。……
 寝間の蒸暑さに真弓は眼が覚めた。匂やかな朝が来てゐた。もう九時に近いらしく、廊下の欄間らんかんから射し入る白い光が部屋のなかを流れてゐた。蛍に似た幽かな匂ひのする青蚊帳は、朝の自分の不調和な姿を羞ぢてゐるやうに力なく垂れてゐた。真弓は自分の襟すぢにぐつしより汗をかいた感触が不快だつたけれど、昨夜の疲れや眠りやは綺麗に瞼の細胞から洗ひ去られてゐることを感じた。ふつと気づいて、いつものやうに仄かな夢の記憶をまさぐらうと試みたけれど、昨夜は何の夢も見なかつたらしく、思ひに浮んでは来なかつた。それとも夢は真弓のめざめと一緒に、朝の渚の泡沫のやうに彼女の記憶から跡形もなく消えて行つてしまつたのかも知れなかつた。けれど、若しさうでないとすると――暫くの間寝床を離れようともせずに、もう眠の翼がとつくに飛び去つてしまつてゐる瞳を大きくみひらいて真弓は訝しさうに瞬きながら、自分が昨夜何の夢も見なかつたことの不思議さを追求してゐた。
 それにつづいて、自分にも不可解な昨夜の動揺した気持が今さらに思ひ返されるのであつた。――何ものとも知れない力が、真弓の気持を縦横に綾吊り牽いてゐたかのやうであつた。彼女はひどく浮々とハシャいでゐた。と言つても、それは或る悩ましい影をひきづつた、いはばすこし投げ遣りな気持でさへもあつた。眼にも止まらない素早さで断片的な意志が彼女の心臓のなかに生れて、それがまるで突き飛ばしでもする様に真弓の眼や手やを働かせるのであつた。従兄のシガレット・ケエスのなかから無理やりに金口を奪ひとつて、はじめての烟草の匂と味とを知つたのも昨夜だつた。それ位の度外れな行為なら、いくら昨夜のうちにやつたか彼女は一々記憶してゐなかつた。
 真弓は自分の昨夜の気持について朧ろげな輪廓を描いてゐたが、やがて微かに眉を顰めると、今日もやはり自分の思想の全容を占めないではゐないあの午後の出来ごとに思ひをめぐらしはじめた。今日といふ日がここに来てしまつてゐる事は取り返しのつかない過失だつた。しかし、真弓が手を束ねて遠くから眺めてゐてはならない時がもう遠慮なしに来てゐるのは事実だつた。何にしても、手を動かさなければならない。が、どういふ風に。……結局は、今日もあのいまはしい二つの狂ほしさが相変らずどつち附かずのままで、彼女の内部に争ひつづけるだらうことは否まれなかつた。そして此予想は真弓の床を離れやうとする気持を鈍らせるのであつた。
 窓のすき間から日の光は縞目をして射し入り、部屋のなかの澱んだ空気はいよいよ蒸して来た。汗がしつとりと額や胸を湿しめすのであつた。真弓はふと指先で自分の頬に触れたが、その燃えるやうな熱さにびつくりした。意識してみると、昨夜続けさまに三本も吸つた匂ひたかい西洋烟草の饐えた臭ひが、まだ口のなかに粘り着いてゐた。……
 けれど、窓をあけて、九時すぎとはいへ爽やかな午前の微風を双頬に感じたとき、真弓は再び健康な気分にかへつた。彼女はその賢しげな眼眸をうつとりと遠くに投げて新鮮な呼吸を楽しんだ。松林や家々や小径や、そしてさらに遥かに松林とそれに続く砂丘――それらの上を越えて、海辺からはよほど隔たつた此二階の窓にも、朝の凪いだ海の気配は感じられるのであつた。
「今日も暑くなるだらう。」
 が、暫くしてから、彼女は何故かこんな風に考へた。
 階下はシンとして何の音も聞えて来なかつた。五郎は昨夜階下の座敷に泊つた筈なのだが、いくら耳を澄してもそれらしい声はしなかつた。姉の寝室になつてゐる隣座敷の襖を開けてみると、キチンと片附けられてゐて、姉の姿は見えなかつた。真弓は何とは無しに一人だけ後に取り残されたやうなひけ目を感じて、手ばやく着物を着かへはじめた。
 階下に下りてみたが、どの部屋にも人影はなかつた。それにどうやらいつもよりは念入りに掃除が行届いてゐる様にさへ、寝すごした真弓には思へるのであつた。家具といふ家具がみんな一様に冷たく澄しこんでゐて、その底に刺笑に似た薄笑をかくしてゐる様に思はれた。――
 真弓は顔を洗はうと思つて湯殿にはいつた。すると開けはなした披戸ひらきから、裏庭の小さな畠をいぢつてゐる母親の後ろ姿が見えた。
「お早やう。お嬢さん。やつとお目ざめだね。そんなに寝て、眼のたまが融けてはしまはなかつたの。……五郎さんは東京に用があるつて今朝八時の汽車で立ちなすつたよ。姉さんは横浜に洋服地を買ひに行くつて言つて、同んなじ汽車で出掛けて行つたの。みんな、真弓さんは寝坊だなアつて、笑つてゐなすつたよ。……」
 いつ迄も真弓をほんの子供だと思つてゐる母親は、彼女の水を汲む音に振返つて、からかふ様な調子で話しかけたが、真弓は不機嫌に黙り込んで、わざと水を乱暴に四辺にはねかえした。姉と従兄がきつと二人でしめし合はせて自分を置いてきぼりにしたのだ、と、そんな風な考へが真弓の機嫌を悪くしたのであつた。それは口惜しいといふよりは、何だか情ない気持だつた。洗面を済ましても、そのまま髪も調へなかつた。
 茶の間の食卓に頬杖をついて一わたり新聞に眼を通してしまつてから、面倒くささうに蠅帳を取りのけて朝食をはじめた。けれど、ちつとも食欲がなかつた。で、すぐに箸を置いた。
 さてさうなると、それつきりもう何もする事は見当らなかつた。よし見当つたにせよ、どうせ手に附かない事はわかつてゐた。――が、ふと思ひついて、重さうに身を起すと、真弓は玄関の三畳の方へと立つて行つた。先刻、起きしなに階段を下りて来たとき、そこの卓子の上に従兄が忘れて行つたらしい西洋烟草の小型な函があるのを、横目で睨んで置いたのであつた。
 その美しい小函は果してそのまま卓子の上にあつた。ロンドン・ライフといふ横文字が上品な赤地に鮮かに浮出してゐた。真弓は手を伸して小函を取上げると、そつと蓋を開いた。が、中にはきれいな錫箔の上に僅かな褐色の粉がこぼれてゐるだけで、烟草は一本も残つてはゐなかつた。彼女はいきなり小函をポンと卓上に投げ返した。そして急いで自分の十本の指を眼の前に揃へて眺めはじめた。にわかに自分の手が汚れてしまつた様な不安に駆られたのであつた。真弓はけはしく眉を顰めて足早にその部屋を去つた。
 此ささやかな裏切は彼女には今日一日の予兆のやうな気がしてならなかつた。今日の占ひにとめくつたカアドはスペエドだつた、とそんな風に思はれた。そればかりではない。なぜ自分はあの卓子の上に無造作に投げ出されてあつた小さな烟草の函に、あれ程までに容易く誘惑されてしまつたのだつたか。確かにそこには、何もする事の無い退屈なあまりの気紛れだとばかり一概に言ひ切れない何物かが潜んでゐたのだ。それに若し裏切られずに、仮にあの函のなかに一本なり二本なりの烟草が残されてゐたならば、自分は一体どうしただらうか。自分はそれを唇にくわへて、慣れない手つきでマッチをつただらうか。さう、おそらくさうしただらう。しかも大した躊躇もなく。……こんな風に自分が想像できるのが彼女には空恐ろしかつた。
 自分へと向つてきた嫌悪の気持が、彼女の肉体を一そうだるくした。で、午前の新鮮な色彩の配合で自分のいらいらした気分を和ませようといふ最後の願ひにやつと取縋つて、真弓は庭下駄をつつ掛けて裏の花畠へ出て見た。叢立つて咲き誇つた赤い百合の園であつた。彼女が近づいて行くと、百合たちは歓ばしげにその匂やかな午前の気息を女主人の方へと送るのだつた。もう朝の露はすつかり乾いてしまつてゐたけれど、遥かな海から吹いて来る微風に百合の叢は新鮮に揺らめいてゐた。固く結んだ百合の蕾の清爽さを彼女は愛した。が、大きな赤い花片を惜しげもなく拡げて、その上に黒褐色の斑点をこぼしてゐる抒ききつた花も彼女は憎めなかつた。真弓はやつと慰められた心の愉しさに、満足さうな眼眸を花から花へと移しはじめた。
 しかし、やはり彼女は不幸だつた。ふと眼をとめた一ばん見事な花の心から、雌蕊めしべをつたはつて、彼女には蜘蛛ほどの大きさにも感じられた醜い一匹の黒蟻が這ひ出して来た。やがて黒蟻は巧みに花弁の上に飛び下りると、今はその胴のくびれた黒い形を、花弁の豪奢な赤い敷物の上にはつきりと印しづけた。
 真弓は眼を蔽ひかくすばかりにして百合の叢を離れた。いそいで縁に上ると、そこの籐椅子に身を沈めて、暫らくは眼を閉ぢてヂツとしてゐた。
 どうにもならない焦燥のうちに午前は過ぎて行つた。……
 午後になると暑気は近頃にない厳しいものになつた。風は落ちてしまつて、ヒソともしない残暑の空気を裂いて、ただ油蝉が鳴きしきつた。こういふ日にはいつもより早目に約束されてゐる夕立も一向にやつて来さうにもなかつた。訪問客もなかつたし、彼女自分も何処へも出掛ける気にはなれなかつた。ヘンリイと仲直りをしに長谷に行く筈にはなつてゐた。この事は何べんも何べんも心の中で繰返しては見たけれど、只そのまはりを空廻りするだけで、一歩も決意へと近寄ることが出来なかつた。何となく今日は昨日の一ときのやうにそれが愉しい気持で考へられなかつたのである。いはば、すつかりうまく行くといふ予想に甘へてゆくだけのほんのちよつとの自信さへも持てなかつた。今朝は色々な気持のつまずきで大へんに臆病になつてゐたし、それにどうやら、ぐすぐずしてゐるうちに、ヘンリイに対する憎悪がまたしても熱病のやうに彼女の心のなかにひろがりはじめたかの様でもあつた。……それで、かれこれ三時を打つ頃までのかなりの時を彼女は、身悶えではないが、只無為に蛇のやうに身をくねらせ乍ら過してしまつた。それは、東京の五郎に手紙を書いてみようといふ決心がやつとついた時まで。
 寧ろこの考へは偶然茶の間の片隅に姉の書簡箋とペンを見出したことから逆にやつて来たものだつた。彼女は畳の上に紙をひろげると、そのまま腹這ひになつて、ペンで自分の額を軽く支へて眼をつぶつた。思ひのほか早く手紙の想念がまとまつたので、真弓はペンを動かしはじめた。――
「ご一緒に東京につれて行つて頂かうと思つてをりましたのに、黙つて帰つておしまひになつたのね。お蔭さまで真弓は今日ぼんやりして何にも出来ませんの。本当にひどい方。
 実はわたくし丸善にちよつと買ひ物がありますの。何だかお解りになつて。……レタアペエパアや香水なんかぢゃありませんのよ。二階の方に用がありますの。びつくりなさるでせう。でもわたくしもう子供ぢゃありませんもの。ただね、二階にひとりで上つて行つて探すのが何となく心細いだけですのよ。……でもやつぱり子供ですわね。ですから兄様に一緒に行つて頂かうと思つてをります。
 このごろステイヴンスンを読んでをりますのよ。わたくしこの人の小説が大好きになつてしまひました。いま読んでゐるのは“The frovidens and the guitar”といふ小説ですけれど、この人にはそのほかにも面白い旅行記や感想なんかがたくさんあるといふ話をきいて、急にそれがほしくなつてしまひましたの。ある方のお話ですと、きつと丸善には来てゐるだらうとのこと。ですから、どうぞあの二階に連れて行つて下さいまし。二三日うちにきつと参ります。午前中なら大がい家にいらつしやるでせう。
 それから帰りに銀座を歩きませうね。ほら、覚えていらつしやる。資生堂のアイスクリイム。去年おねだりして兄さまにおごつて頂いた。……でも今度は決してあんなおねだりは致しませんわ。あたくし去年よりはずつとお行儀がよくなつてをりますの。
 それからおば様や露ちゃんにお目にかかれるのも楽しみにしてをります。武ちゃんはまだ北條からお帰りにならない?
 ではきつと二三日うちに参ります。……」
 すらすらとペンが運んで行つて、却つて想念があとに取のこされた。で、もう一ど読み返さなければならなかつた。読み返してみて彼女は微笑んだ。
 別に出さなくつてもいい、ぐらゐの気持で書きはじめた手紙だつた。いはば一つのロマンスを空想してみて、それについてペンを動かしてゆくほどの無責任さしかなかつたのだ。だが何故ステイヴンスンを買ひに行くことにしてしまつたのだらう。ステイヴンスンに旅行記や感想集があることを教へて呉れたのはヘンリイだつた。その仄かな記憶がついうかうかとペンの先から零れてしまつたのだ。でもまあいい。此手紙は出さなくてもいいのだ。このまま破いてしまつたつて構はないのだ。……
 しかし次の瞬間には真弓は此手紙を出してみようかしらと思ひはじめた。それも面白いにちがひないと思はれた。さういへば銀座もしばらく歩いて見ない。……そして彼女の眼の前を色々な美しい店先の光景がぐるぐるとめぐりはじめた。そしてそのうちに、いつの間にか真弓は重くるしい眠りの大きな翼の下敷になつてゐた。苦しい睡みだつた。白昼の悪夢が彼女を誘つたのである。――
 ……ふと眼が覚めてみると彼女の顔は自分の左の手首に圧しつけられてゐた。胸が窮屈なせゐかひどく息苦しかつた。顔を動かしてみるとベットリ手首に汗が出てゐた。何か不自然な力で無理にめを覚された時のやうに頭と首がヅキヅキと痛んだ。彼女は顔を挙げてホッと軽い息を吐いた。
 が、そのとき真弓は、縁先の庭の上に天使の顔を見たと思つた。ラファエルの天使だ、と彼女は思つた。これは如何にも不思議だつた。真弓はヂッとその天使の顔に眸を凝らした。すると活動の大映しのやうにその顔はすうつと拡がり乍ら迫つて来た。その表情もはつきりして来た。天使の顔のやや当惑げな表情の曇りが消えて、それは無邪気に崩れた――清らかに笑つた。
 真弓はその笑ひにつり込まれて微笑んだが、何だか自分が夢の中で笑つてゐるやうな変な気持だつた。夢にしても美し過ぎると思つた。それと同時に、この美しい平和な夢にいつまでも甘へてゐたい様な気持もした。――
 しかし次の瞬間に、やつとはつきり解つた。それは姉のところに英語の手ほどきを受けに来る少年であつた。真弓は急いで起き上るとキチンと坐つた。気まりの悪さうな笑ひで彼女の顔はぼオつと紅くなつた。
「光代さんいらつしやらないの。」
 十二歳の少年は女のやうな優しい声の抑揚を有つてゐた。
「今朝横浜へ行つてしまつてよ。若しかすると東京へ廻るかも知れないわ。」
「さう、僕、困つたなあ。」
「だけど、もう帰つて来るかも知れないわ。上つて待つてらしたら。」
「ええ。……」
と言つて、少年は縁先で躊躇してゐた。
「ね、上つて遊んでらつしやるうちに、きつと帰つて来てよ。」
 真弓はもう一どこう言つた。そしてぢつと少年の横顔に注いだ眸を動かさなかつた。彼女の眼のなかを不思議な炎が燃えた。ちらちらとその炎は燃えながら揺めいた。見るうちに彼女の唇はグッと噛みしめられた。――真弓は乾ききつた唾をグッと咽喉に呑み込んだ。そして自分の心臓の響を高らかに身うちに聞き澄した。
 次の瞬間、彼女はハッとして気を取り直した。しかし此怖ろしい瞬間の羽搏きはもう彼方に過ぎてゐた。そして真弓はそのあとに、情感の引き潮の淋しい水沫の音を聞くのであつた。


 夏と秋の落ちつかない混淆こんこうのうちに物情く[#「物情く」はママ]身を任せて、然しあわただしい晩夏の日日を無為に送つてゐるうち真弓は、そののちのヘンリイの生活についての消息や、また彼の意味ぶかい小さな贈物である小説集やを、パアカア夫人から受取る機会を永遠に失ふことになつてしまつた。といふのは、真弓が鎌倉に帰つて来た日から数へて丁度十日目にあたる九月の朔日は、あのグロテスクな地震の禍が約束された日であつたから。そして此日に、パアカア夫人は突然その美しい生涯の歴史を絶つてしまはれたから。……
 それにしても、パアカア夫人の突然の死は真弓の年頃の娘の心には、暗いといふよりは寧ろ清らかなとでも言ふべき情感をそそり勝ちであつた。
「生きていらしても、何の楽しみも無いかた。」
 たしかに夫人は、日本の女性たちがよく声をひそめて語りあふこの様な表現にふさはしい境遇に置かれた人の一人ではなかつたらうか。そしてそれは、夫人がまだ若ければ若いだけに、美貌であれば美貌であるだけに、そのうへ、一向仕甲斐もない町の慈善事業についての計画をさも幸福さうに、絶えず明るい柔しげな微笑を堪へながらひとりで楽しんで居られた夫人だつたからまたそれだけに、一層さうなのでは無かつたらうか。
「どこか、おからだでもお悪いのぢやないのかしら。」
 姉の光代は何時か、夫人の独身がふと彼等の晩食の折の話題に上つたとき、自分が病身なだけに、暗に胸の疾患をほのめかしながらこんな事を口に出したことがあつたけれど、真弓はその意見にはけして賛成できなかつた。とは言へ、或る秘せられた深い事情があるにはちがひない事だけは朧ろげながら想像できるのであつた。それは果して何だらう、――そんな推察をもつと奥ぶかく進めてゆくことは何故とも無く真弓には畏れられた。ただ、折々に夫人が摘んだばかりのまがきの小花を凝視めたり、静かに話しをしてゐるうちに、ふと深い眸を真弓の健やかな光に充ちた両の瞳にぢいつと注いだりされる時など、真弓は娘らしい直感で素早く、夫人の過去への傷心と哀惜の影を捉へるだけに過ぎなかつた。その様な時には、平生は柔しげな微笑の下に巧みにかくされてゐるこまかい幾条かの皺が、思ひがけなくはつきりと夫人の額に浮び出ることさへあつた。その皺は眼にとまるかとまらないうちに、再び滑らかな微笑の下に沈みこんでしまふのではあつたけれど、此瞬間的の傷ましい不調和は真弓を悲しませるのであつた。
 然し、こんなわずかな現はれからかなりはつきりと想見出来る様に、仮令たとえ夫人がその過去にどんな不幸な影を曳きづつて居られようとも、それはもう静かな祈祷と諦念とのうちに慰められ和らげられてゐたにちがひないのだし、それに、その人の死後に親しかつた人々の眼から見て清らかに美しく見えるやうな死は、つまり幸福な死なのではないだらうか。……こんな風に真弓は思つて見るのであつた。尤もそれは、あの禍の日からもうかれ是一と月ほどもたつて、ただ狂ほしい嗚咽や歔欷きょきやが鎮まりはじめ、周囲の夥しい出来ごとに比較的冷静な思ひをめぐらすことが出来る頃になつてであつた。
 その頃はもう交通機関も殆ど復活してゐたし、人心も漸く以前の落着きを取戻しかけてゐた。真弓の一家は――母と二人の娘――みぢめに破壊された家を棄てて、鎌倉のうちではまづ影響の少なかつた扇ヶ谷の知人の家に身を寄せてゐた。彼等の起居のために離房はなれの二間があたへられた。その家は山峡の松藪にとり囲まれて閑静な棲居であつたし、地質の関係で不思議なほど震災の手に禍されずに済んで、たとへば壁にひび一つはいつてゐないといふ程だつたので、此処ではあの惨ましい禍の思出から逃れることが出来るのであつた。けれども、激しい恐怖とそれに伴ふ精神的な疲労とから一週間ほども高熱と悪夢に苦しんだ真弓は、まだその後を引いてゐる間歇かんけつ的な発熱のために、ものうい臥床のうへで暮らす日が多かつた。
 その臥床の上に停臥ていがしたまま、夥しい涙にひたされた熱のある眼を大きく見開いて真弓は、或ひは手紙で或ひは口伝にもたらされるさまざまの悩ましい消息を受取るのであつた。パアカア夫人の訃報もその一つだつた。横浜のセミナリイの恩師の悲壮な献身的な最后もその一つだつた。そのほか、此町やあるいは横浜の友人たちのうへに起つてまだ彼女に知られない、色々の不幸も数多いはづであつた。それらの人々はみな彼女の生活の歴史の中にさまざまな役を演じて、ある時は彼女を幸福にし、ある時は彼女を不愉快にし、ある時は彼女に大切な経験を与へて呉れたりしたのであつた。そして今、それらの親しい面影を思ひ浮べて見ると、その曳いてゐる強いまた微かな憎みの陰影までが、ひと色の優しい回想の愛撫のうちに微笑してゐる様に感じられるのであつた。真弓はこの様な物思ひの中に、自分の弱められた性格の姿を見逃さなかつた。……
 出来るだけ避けようとはしてゐたけれど、自分みづからの経験した恐怖に充ちた情景も、折りにふれて厭はしい迄にはつきりした視像となつて彼女の心に浮ぶこともあつた。あの家が傾くといふ意識も与へないで急に倒壊した一瞬間の記憶は、不思議なことには一つづきの悲しいグロテスクな音響として思ひ起された。その轟音が過ぎ去つたのち、彼等三人が負傷もせずに、ただ茫然として木片の堆積の中にお互いを見出したといふ奇蹟に就ては、真弓は忘れた様に何にも考へなかつた。――この様な畸形な心の状態が、その当時は殆ど総ての人々に珍らしくはなかつた。
 しかし、その翌朝はやく、無事に残つた品々を見出すために、彼等が再び自分の家の廃墟を訪れたときの印象は、不気味なまでにまざまざと描かれるのであつた。倒れた柴の垣根を踏み越えて庭の一隅に立つたとき、まづ真弓の眼に映つたのは、二階の自分の部屋の少なからぬ調度が一つの塊になつて庭の隅の松の樹の下に乱れた姿をして投げ出された情景であつた。それは砕けた柘榴ざくろの果実にも似た色彩を有つて彼女の眼を衝いた。それは無残な姿であつた。彼女はそのなかに、自分にとつてあらゆる懐しい生活の記念品が含まれてゐることを知つてゐた。その品々のなかには、彼女が精神的な愛着ばかりでなく、それを過ぎて強い肉体的な愛執を感じてゐるものも少くはないのだ。そればかりではない。現に昨日まで、自分の身に着けてゐた着物や装身具などもあるのであつた。形を止めない迄にバラバラになつた衣裳箪笥の破片の間に、それらの雜色の布地が乱れ散つてゐた。彼女にとつて、それは肉体の一部にひとしいものであつた。それらの物が、他人の残酷な手によつて――実際その乱雑な有様は或る手によつて故意になされたものと感じられる程であつた。そして屡々しばしば自然の手は人間のそれよりももつと悪意的になることがあるのではないか。――無遠慮に掻き乱されてゐるのであつた。
 此堪えられない情景を認めた瞬間、真弓は真蒼な顔になつて立ちすくんでしまつた。彼女の瞳は忽ちのうちに凍りついた様な鈍い無表情の膜で覆はれたのであつた。傍に寄りそつてそれとなしに妹の様子を注意してゐた光代は、此時思はず小さな叫声を上げた。そしてゾッとした様に両手を握りしめたが、やがて妹の指先をはげしく揺すぶりはじめた。……
 その晩から、真弓は発熱して床についた。幼児に似た譫言うわごとが母と姉の眉をひそめさせるのであつた。――
 この様な戦慄的な回想のほかに、それを越え彼方に海のやうに眩ゆく光つてゐる、まだあの禍を知らなかつた自分の生活に就ての断想も、ときに彼女の熱を有つた思ひを過るのであつた。それは彼女の心にとつて、よく夢のなかに現はれて来る、音もなく崩れる沖の波鼓のやうに遥かで、捉へがたい姿であつた。その世界はただきららかな外光に充ちてゐた。真弓は、その様な生活の主人公であるあの快闊な容姿の娘が、いま臥床のうへで熱のために重くなつた思想に悩んでゐる此自分なのだといふ判断に、かなり執拗に反抗しようとした。その間には信じられない程大きな距離がある様であつた。
 実際、あの丈高い印度杉の斜めに落す黒い影と、夏の午後の陽の光が何ものにも遮られずに降り注ぐ面とが、眩しい迄にくつきりと対照したあの山手公園のコートで、想念のやうに澄みきつた瞳を輝かせ鳩のやうに胸をふくらませて、力いつぱいにラケツトを振つたあの日本娘は、またそのとき、組んでゐるアメリカの娘や青年たちと、微笑で明るい想ひを投げあひ、球を打ちながら調子のたかい英語の響を叫びあつたあの日本娘は、果して此自分なのだつたらうか。また、薄暮の馬車道の四辻に佇んで、古めいた横浜の風俗画を懐しみ、N――屋の年老いた女主人の物語を空想の俘になつた心の優しさでぢつと聴澄してゐたあの日本娘は、あるひは山手の丘の学校の後庭に立つて、友達と戯れあひ乍ら、大岡川の流れをセエヌと呼び、吉田橋の姿を花市の日の両替橋ポン・トオ・シヤンジユになぞらへた、あの情感ぶかい日本娘は、それから、つい此間まで、長谷のパアカア夫人の家の二階で、「摂理と方弦琴ギター」の幸福な課業を楽しんだあの日本娘は、そして、あの善良な英国の若い紳士に、あの様な侮辱を投げつけることを躊躇しなかつたあの愚かな気の強い日本娘は、果して此自分なのだつたらうか。いま、彼女はそう言つたどの要素のどんな小さな破片でも、自分の裡に発見できないことを感じた。それはあまりに遠い世界の出来事であり、あまりに遥かな自分の姿であつた。
 こういつた遥かな自分の生活への回想の一刻ののちには、真弓はいまの自分の存在が、幽霊のやうに実は影だけであるやうに思はれて来るのであつた。彼方の生活があまりに光度がつよく、そのうへ深い健康な幸福に充ちてゐるために、現在の自分がそれの果敢ない反映に過ぎないものの様に思ひなされるのだつた。あるひは、自分の存在といふものが、実際は失はれてしまつてゐて、ただ、その思出だけが、つまり昔かつて在つた光なり熱なりが時の推移といふ妖しい靄の層を透して屈折したり輻射ふくしゃしたりして此方に達した幻影だけが、生きてゐるのではないかしらと考えて見ることがあつた。真夜中など、こんな想像が彼女を恐怖させた。その様な時に、掌をそつと自分の額に当てがつて見ると、悩ましいまでに熱いのであつた。
 然し日を追つて真弓は次第に恢復して行つた。肉体的な健康はなかなか戻つては来なかつたけれど、先づ精神的な恢復が眼に見えて良好な経過を示すのであつた。その扇ヶ谷の家は、年若い海軍士官の夫婦の棲居であつた。それに彼等の三人を加へた、ごく物静かな安らかな生活が、何よりも真弓の心を落着かせたのである。

 或る日、五郎は久々で見る従妹のやつれた顔容にぢつと感じの深い眸を注ぎながら、真弓の枕許に坐つた。叔母や従姉の思つたよりも元気のある様子が彼をよろこばせたかはりに、従妹の意外な状態が彼を一そう憂いさせたのだつた。彼は叔母よりも光代よりも、真弓の快活さを予想してゐたのであつた。それに、実はあの明るい健やかな性格が、どこまで此不幸な一ヶ月あまりの影に曇つてゐるだらうか、仮令たとえ多少の曇りはやむをえないにしても、彼女がどこ迄周囲の人々の暗い顔に光明を投げかける役割を演じてゐるだらうかといつた様な密かな楽しい予想をさへ描いてゐた五郎の眼の前に、それは余りに意外な傷ましい真弓の姿であつた。五郎は坐つたままぢつと従妹の悲しげな寝顔をみつめたまま動かなかつた。
 よく彼が「我儘やさん」といつてからかつたその真弓の顔であつた。今から考へれば、その「我ままやさん」の特徴は一ばんよく彼女の艶やかな紅い唇に出てゐたのだつた。その小さな唇はどつちかといふと鋭い曲線で少しく完成され過ぎた形を有つてゐた。それは情感といふよりは寧ろ理智に近い表情を浮べてゐた。それだけにその唇は敏感であつた。それは彼女の顔のうちできれいな瞳よりもよく調つた鼻よりも、何よりも一ばんよく活動する部分であつた。といつて饒舌なのではない。いはば無言の饒舌なのである。例へば真弓が一つの林檎を食べるときでも、その小さな唇の繊細な活動を見つめてゐると、ひとりでにその果実の新鮮な匂ひと味ひがこちらの舌の根に感じられて来るのであつた。その様な無技巧の技をその唇は有つてゐた。そして、その唇は利かん気であつた。何か気に入らない様な時には、その上唇はスーッと無邪気に反り返つた。それに瞳のいたづらさうな光が瞬間的に手伝つて、所謂「我がままやさん」の表情を完成させるのであつた。
 然しその唇はもとの表情とは似もつかないものをあらはしてゐた。あの鋭さはどこかに失はれた様に見えた。透きとほる様だつたその鮮美な紅色は、今は色褪せてどことなく黒ずんだ紅色に変つてゐた。そして鈍い曲線の波がいやしがたい疲労を漂はしてゐる様に見えた。もうそれはフレッシュな理智ではなくて、肉体的の苦痛によつてにわかに、そして不自然に生長したほのかな情感の吐息を波立たせてゐるかの様にさへ見えるのであつた。唇のこの様な変貌が、彼女の顔全体に大きな変化を与へてゐた。蒼ざめた双頬の色艶とともにその急に成人してしまつた唇は、彼女の表情からあの明るい快活さを奪ひ去つた。その顔は寧ろ物懶げな一人の「女」の顔に近かつた。
 五郎はその悩ましい顔を驚異に近い感情で眺めてゐた。とそのとき、その唇がグツとしぼめられた。それからゴクリと咽喉が動いて上唇はそつと下唇から離れた。その微かな運動の表面を、もとの明るく快活な唇の表情に似たものがちらと影を落した様に五郎には思はれた。
 そして真弓は大きく眼を見ひらいた。お箸を持つてはいつて来た光代の気はひに彼女は目が覚めたのであつた。彼女は枕の上に首を真上に向けてぢつと従兄の顔を見上げた。一瞬間もとの真弓のあの明るい生々した光が、その瞳の底に羽搏たいた様であつた。がすぐにそれは消えて、再び鈍い力無い光にかへつた。それなり彼女は懐しげな色を湛えてかすかに微笑んで見せた。

「私、すつかり草疲れてしまつたのよ。」
 真弓は半ば自分に言つてきかせるやう、弱々しくかうつぶやいた。
 枕許で静かに話してゐる従兄と姉の会話にしばらく耳を傾けてゐた真弓は、間もなく再びまどろむらしかつた。それはけれど、安らかな眠りであるらしかつた。規則的な寝息がかすかに聞きとれるのであつた。親しい二人を枕もとに見出したため、幸福な睡眠が彼女を訪れたのだつた。その笑顔には珍らしくわづかな紅が極めて仄かながら浮んでゐた。それは発熱のためではなくて、遠からぬ恢復のよろこばしい予兆であることは、彼女の静かな寝顔を見て明かであつた。光代にはその紅は静かな湖のうへに影を映す曙の色のやうにも思はれるのであつた。
「ね、あんなにいい色が差して来てよ。」
と姉は妹の顔から眼をはなして従兄の方にすばやい視線を反し乍ら言つた。それはとてもおさへられないで思はず声に出してしまつたと言つた風だつた。寧ろ子供つぽいよろこびが生々と光代の心に燃えた。――

 その日から一週間ののち、真弓の健康が恢復するとともに、彼女は牛込の家に移つたのであつた。





底本:「雪の宿り 神西清小説セレクション」港の人
   2008(平成20)年10月5日初版第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:kompass
校正:門田裕志、小林繁雄
2012年1月3日作成
青空文庫作成ファイル:
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