國民の人格向上と科學技術

仁科芳雄




 わが國はポツダム宣言受諾の結果,民主主義の平和國家として更生することとなつた.このことは今度の新憲法に具象化せられて居つて,人民のために人民が行ふ政體をとるのである.從つて人民各自の人格の高低はとりも直さず,我國の浮沈を決定するものに他ならない.ここに人格といふのは,道義心,性格,教養等を含めた全體の屬性を指すのである.
 然らばわが國民の人格の水準は今日どうであらうか.それは犯罪の詳しい統計を調べればすぐわかることであるが,それを俟つまでもなく毎日の各人の體驗が最も雄辯にこれを物語つてゐるであらう.少しでも油斷するとすぐ物がなくなることは今日誰もが味はつてゐるのである.これは敗戰國の常であつて敢て怪しむに當らないことかも知れない.前歐洲大戰後のドイツに於て自分は同じやうなことを經驗した.大陸に渡る前にイギリスのケンブリツヂに於ては,講義を聽きに來る學生の乘り捨てた自轉車が,カレツヂの門前に一ぱい置いてあつても,それがなくなつたといふことを聞いたことがなかつた.これに比べたのでドイツの社會状態は殊に目立つて見えたのかも知れない.その時ドイツはインフレの波に襲はれてゐたのである.
 以上は犯罪を構成するやうな極端な問題であつて,これで一國の消長を判斷するのは早計だといふ人があるかも知れない.それでは今日わが國民の性格は,戰災の國土から奮然として立ち上り,産業を再建し國家を復興させるだけの氣概と根氣とを備へてゐるのであらうか.自分の目には遺憾ながらどうもさうは見えない.終戰後既に1年2個月を經たのであるが,まだ虚脱状態を脱してゐない人も多い.自ら進んで難に赴くといふ犧牲心の發露を見ることは極めて稀であつて,利己的行爲が澎湃として世を蔽つてゐる感がある.これでは國の復興,民生の安定といふことはいつのことか解らない.
 これはどこに原因があるのであらうか.勿論あれだけの無茶な戰爭をしたといふことが今日の結果を齎したのである.そのために人は皆衣食住に事を缺くこととなつた.犯罪の増加は當然といはねばならぬ.又食料の不足は體位の低下を來し氣力の消失を招くのも無理からぬことである.その結果として生産は低下し益※(二の字点、1-2-22)國民生活を困難にしてゐる.即ち原因は結果を生み,結果は又原因となつてヂリ貧状態を現出する可能性がある.
 これを救ふ道は如何にすべきであらうか.多くの人はすぐ國の政治にその罪を歸し,社會組織の改善を叫ぶであらう.それは恐らく正しい見方かも知れない.然しその方はその道の人に任せて置いて,自分がここに強調したいことは科學者,技術者としてこの危機を脱するためには如何にその義務を果すべきかといふことである.
 勿論われわれは國民としての道義の昂揚,品性の陶冶,教養の向上に努力すべきは當然である.これが凡ての基礎となるのであるが,科學者,技術者としてはその本務として産業の復興といふことに渾身の努力を拂はねばならぬ.これがためには國として一つの組織が必要かも知れない.然し組織倒れでは何にもならないから,先づ實行である.われわれは各自の專門的智識能力を,生産技術の創造と發展とに應用して,新しい方法による新しい物を造らねばならぬ.これによつて産業の復興が上昇線を辿れば,國民は生活に餘裕を生じて禮節を知ることになり,益※(二の字点、1-2-22)生産は増大し,それが又科學技術の進歩を促すことになるであらう.(1946. ※(ローマ数字10、1-13-30). 20)





底本:「自然 300号記念増刊 総収録 仁科芳雄・湯川秀樹・朝永振一郎・坂田昌一」中央公論社
   1971(昭和46)年3月20日発行
※底本は横組みです。
入力:山崎雅人
校正:小林 徹
2005年11月4日作成
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