言語は生きている

中井正一




 フンボルトは、言葉はエルゴン(創られたるもの)ではなくして、エネルゲイヤ(創るちから)であると云う。
 ほんとうに言葉は生きているように思われる。と云うか、同じ言葉を十年くらいで、もう、ほかの意味に取違えてしまう。それほど言葉は生きて動いている。
 例えば、外国語の subject なる言葉を、人々は「主観」と訳していた。ところが昭和七、八年頃から、それは「主体」と訳されはじめたのである。もはや主観ではもり切れないものが、subject なる言葉の周辺にまつわりつきはじめたのである。ことに世代が違うと、何の迷いもなしに新しく読み違えて出発する。
 かくして、新たな言葉が、更にこの言葉の周辺に生れて来る。例えば、「あの人は誰々のだ」等と云う言葉が最近流行する。おそらく誰々の属しているフロント、その戦線の一列の人々の意味であろうが、すでにそこでは、その人を昔のような一つの「主観」と取扱っていないで、「主体」とでも云う新たなるものの周辺で取扱われているのである。
 こんな言葉の読み違えられる、断層のようなもののある時代、この雰囲気から「段階」なる言葉、「角度」などの言葉が新しく用いられ、やがて「原子力時代アトミックエージ」「機械時代マシーンエージ」の「エージ」の意味も又意味をもって来るかのようである。
 私はこの不思議なとも思える現象を追求して見たくなって、subject なる言葉と、「気」なる言葉の変化の跡を辿って見たことがある。

   Subject
 subject, Subjekt, sujet なる言葉は、明治以来「主観」と訳されていたが、この言葉を辿って見ると、この言葉の原語自身が、とんでもなく、すでに読み違えられて来ているらしいのである。
 もともと、この言葉はギリシア語の υποκειμενον[#υは帯気の気息記号(‘の上下が逆さまになったような記号)付き、ιはアキュートアクセント(´)付き] が語源であるが、プラトンでは「下に置かれている」というくらいの意味に使われて、哲学的なものでは未だないのである。アリストテレスが初めて、『形而上学』で、「根柢に置かれてある論理的基体」「変化多い現象の根柢に、不変なるものとして横たわるもの」と云ったような意味をもって使いはじめたのである。
 それをラテン語に訳す時、アプレウスとか、ポエチウスが、subiectum と、「下に」(sub)「置かれている」(iectum)とあてはめたらしい。しかし、もともと、この言葉はキケロの使った例でも、そんなに重大な哲学用語ではなく、「目の前に横たわっている明瞭なもの」くらいの意味に通ずるものであったらしく、ポエチウスでも訳語でない場合には「……に類属する」(subject to)くらいの意味で用いられているところもあるらしいのである。
 どうも、アリストテレスの訳文として、初めてこの言葉は、何か丸天井の建築の尖塔の先のような、有用と云うよりも威厳を導き出すところの「基本体的主体」の意味をもったらしい。
 十六世紀までの中世紀を通じて、封建諸侯は、この言葉を支柱として、巨大なるピラミッド型の、身分が上になるほど偉いと云う態型を構成したのであった。
 その場合 subiectum は、後の主観とはおよそ反対の、主観的なものどもを抑える、ゆるがざる権威の基本的主体となったのであった。奴隷のエピクテートスも、帝王のマーカス・アウレリウスも、この subiectum にしばりつけられ、同じようにそれはすがりつくこと、即ち諦観することによって耐えていたのである。
 九世紀のスコツス・エリウゲナでも、感覚的主観的なものとは反対の、法則的理性的なものとして、神の側のものとしているのである。
 ブルックハルトが、最初の近代人的王と呼んだ十三世紀のフリードリッヒ二世の臣下であるトーマス・アクィナスでは、ようやく意味が読み違えられはじめて、subiectum はそれ自体に内在する固有の受け身の(機)(passio)原因となる。この理性の受動性である感覚にそれが関係しはじめると、それは、ただの受身ではなくなり、真直ぐに現代に通じはじめるのである。同時代のイギリスのドン・スコトゥスの弟子オッカムで、更にホッブスで感覚が精神の中に主観的であるとして、今の主観の訳語にあたるものとして出現するのである。そして、デカルトが遂に立派にこれを、「思考の中に、感覚の中に、心の中に、われわれの知覚の中に」見出し、現代のものとして読み違えを定着するのである。
 更に本格的にこれを完成するのが、世界の観察者としての Subjekt「主観」を確立したカントなのである。主体が天の上にあるのではなくして、地球は回っており、天はばらばらとなり、その全体系を構成するのは、寧ろこの見ている自分自身なのであると云うのである。この自分が世界の根柢となってしまったのである。
 アリストテレスのヒュポケイメノンとは、見事に反対のものとして、コペルニカス的読み違いがここに起って来るのである。
 そして今や、更に世代の断層は「主観」から「主体」に、如何にして読み違えるかを、その主題として来たのである。
 そのもともとの読み違いはヘーゲルのフェノメノロギーで、「真実は実体(Substanz)としてではなく、寧ろ主体(Subjekt)として把握され又表現されたのである」と考えられた時からはじまっている。即ちそれはピストルの弾のように個体として飛んでゆくものでなく、ロケット弾のように常に自分自身が分裂しながら発展するものとして、Subjekt を新しく読み違えた時からはじまったのである。今後もいろいろ議論されることであろうし、読み違えそのものが、又無限の分裂でもって違って来ることだろう。もともと、「下に」「置かれる」、「下に」「投げる」ということが、[#ここから横組み]“sub”“ject”[#ここで横組み終わり]なのだから、無限に読み違えられて、投げ捨てられることが、subject の言葉のもつ運命とも云えないこともない。

   気
 以上のようなことを考えていて私は、フト日本の文化史の上で、自分が自分の意識を自覚したのを確かめる言葉があるだろうかと興味をもちはじめた。
 そして、「気をつかう」と云う言葉が、何時頃から用いられたか、目ぼしい文献で統計を取って見た。今のところ、室町時代の『秋月物語』に一つあるきりで、天正十五年の秀吉の手紙の外は見あたらない。
 それまでは「け」「けしき」「けしきばむ」「けはい」等で、天地の中に拡がっている精霊のようなもの、ぼんやりした喜怒哀楽であって、直接心理の反省の対象とは、なかなかなって来ないのである。
 武士で「気色」となると、人前で威容をいかめしく正して、やや怒気をふくんだ、気張ったものである。
 梶原景季が名馬磨墨を貰って、「気色してこそ引せたれ」等肩をいからせて、鼻息あらく出てゆくところ、目に見えるようだが、これを源氏の「院より御気色あらむを」(澪標)などと云う用法とは見事に異ったものである。
 殊に面白いのは、太平記で「気」なる言葉と、「機」(仏教でに対して、受身の自分を意味する)なる言葉が、交流してどちらともなく、一つのものとして読み違えられて来るのである。
 例えば、
「気をつめて」(用例一)「機をつめて」(用例三)
「気を直して」(用例一)「機を直して」(用例一)
「気疲れ」(用例一四)「機疲れ」(用例四)
「気を失い」(用例一〇)「機を失い」(用例五)
「気に乗り」(用例六)「機に乗り」(用例五)
「気を呑まれ」(用例四)「機を呑まれ」(用例四)
「敵に気を附け」(用例三)「敵に機を附け」(用例二)
「気を屈し」(用例一〇)「機を屈し」(用例一)
「気の早い」(用例三)「機の早い」(用例一)
「気分」(用例三)「機分」(用例四)(有朋堂文庫本)
 これは写本でも幾らかの差があろうが、その用い方は幾分か気の方が心理的であり、機の方が時間の潮時と云った用い方をするのではあるが、ほとんど同一の意味に融合して用いられている。後に西鶴が「機の利いたる」と用い、頼山陽がこの両者を実に混用するのも、遠く淵源はここにあるかと云われる。
 これが、室町になって、軍事的なものから庶民的な用い方になり、『秋月物語』で初めて、「たひのようしん、きつかひはあるまし」の言葉にぶつかるのである。最早はっきりと個人の意識を反省し、その意識が自分であることを疑ってはいない。
 そして、秀吉の北政所への手紙に、「きづかひ候まじく」と出て来るのである。そしてこの庶民から上った秀吉の周辺には、実に多く用いられ、浪華文化では極めて大量に用いられてはいたものであろう。方言の記録さえ残っておれば、未だ未だ、さかのぼってその記録を辿ることが出来るであろう。
 近松の語彙にあっては、「気遣」は、その数に於て、用例二七一と云う余りにも文献的に爆発的となって来るのである。この爆発の背後に如何なる庶民の動きがあったか、和寇のような自由通商に如何なる関係があるか、ほんとうに、無限の言葉の読み違いの宝庫がありそうで、暇があれば、研究して見たいテーマである。
 又中国語としての「気」を日本語の「き」「け」が、如何に読み違えたかは、又、東洋精神史の記録として面白いし、又言葉が如何に生きているかの好材料となるに違いないと思われる。

   た・は・よ
 私はこの「気」のカードを取扱っているうち、一つの奇妙な、学問に特有な病気に、憑かれて来た。
 今から読んでいただくものは、、その病気の一つの報告である。秋夜閑語のつもりで、笑っていただきたい。
 日本語としての「き」「け」を文字にする時に、中国語の「気」「家」等の漢字にあてるにあたって、「き」でも「け」でもない、中間音のようなものがあることを学んだのである。まさしく言葉の「音」そのものが生きて、その姿態をかえながら成長しているらしいのである。
 一体、私達の云っている「き」「け」乃至ウムラウトのついたような「きえ」と云ったような言葉は、何なのか。それ自体が生きて、何か一つの意味をもってはいはしないのか。
 爾来、日本の言語論は、「言霊音義解」式の、一つ一つの音に、言霊があって、それぞれ一つ一つの意味をもっていると云うのである。言霊さきはっているから、文字や符牒がいらぬのだと云うのかも知れない。
 誰だって、こんなに云われると、暇を見つけて、恐る恐る、その冒険に出かけて見たくなるのである。以下富士の人穴探険の秋の読物めいて二、三記して見よう。
 実は漢字渡来前の語彙の表をつくって、その組合せを五十音図表につくって、暇を見ては、パズルを解くように改めてゆくのである。
 五十音の中から三つばかりここに例を挙げて見よう。
」「一つの方向に直線に走っている力感」としての語感をもつものとして考えて見る。
「方」「手」(方向を指ししめす)「違」(方交う)「副」(手交う)「滝、激」(タギチ)「猛、高、焼〔驍?〕、嶽、丈、竹、感〔威?〕(タケル)」これらのものをじっと見ていると、同じ本質をいろいろの意味に展開しているかのようである。更に「たた」と重なった場合、「正、直、但、唯、徒」となるが、直線感が直線感に重なると、単調の意味を表わすものとなって来るのは、実に病をして篤からしむる所以である。「立、館、縦、楯」「起、発」は又、「裁、絶、断、太刀」と無関係ではなく、皆直線に走る力感に関係が深い。ドイツ語 durch の意味と語感を同じくする。この直線が振れると、「狂言(タフル)、戯、狂、倒」となるのである。こんなに辿ってゆけば、きりもなくそう信ぜられて来るのである。秋夜の独りを淋しくさせないものを用意している。更に方面をかえて、
」これを、「限界にまで外に向う拡汎感」をもつ語感の言葉と考えて見るとどうだろう。「羽、葉、匁、端」「放」「散(ハフル)」「元、初、始」「走」「延(ハフリ)」「這」「浜」等に、更に面白いのは、「ハル」の語群である。拡汎して表面が張力をもって漲っている場合、「張、腫、張流(水をはる)、晴、萌(芽出)、春、原、墾、腹、散之(ハラシ)」は、一つのハルの本質に種々の意味群がまつわっているかのようである。この「は」に「た」(直線に走る力感)が加わると、「涯」(ハタテ)、それから「徴」(ハタラ)、「さと長ら我課役(エズキ)徴ばいましもなかむ」と云ったように、「遠くにポーンと徴発されて行ってしまったら悲しいことだ」と慨く、このハタラから、働くは出たんだろうが。「果つ、泊つ、竟、極、尽(ハテ)」等にも又無関係ではあるまい。
 もう一つおまけに、「」という言葉を考えて見たい。これを「進行過程に於けるその切断的節標」の語感の語と見るとどうだろう。伸びゆく竹の節を目に描いて、その横の節を頭に描いてもらえば、その感じが出るのである。
「節、辨、化、世、夜」の意味群がその何れもが進行している時間、その他の、一つ一つの区切りなのである。進行を止めると、「淀む」「緯、横」となる。それに副って進むと「攀ず」「齢(よ延い)」、それを一つ一つ数えると、「数む」それを音を出すと、「詠む、読む、宣む、喚」この進行が節標にもつれると、「縒る」それが因果的にもつれると、「因る」それが前の「た」と共になり進行の道すじと関係すると、「頼る」となって来るので、ますます病篤からざるを得なくなって来る所以である。





底本:「増補 美学的空間」叢書名著の復興14、新泉社
   1977(昭和52)年11月16日増補第1刷発行
底本の親本:「美学的空間」弘文堂
   1959(昭和34)年11月
初出:「中央公論」
   1950(昭和25)年12月
入力:鈴木厚司
校正:染川隆俊
2009年4月21日作成
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