個人主義文化が、封建主義文化を引きはなすために、戦った歴史の跡は決して容易なものではなかった。幾千の人が火であぶられ幾万の人が鎖でつながれたかわからない。一六〇〇年代は、大きなその闘いの記念すべき世紀であった。一九〇〇年代もまた、今後の歴史家がその研究の対象とするであろうと思われる記念すべき世紀となるであろう。今や、個人主義文化そのものがその危機にのぞんでいる。私達は、その大いなる世紀の正に只中に立っている。
封建主義的文化に於ては、一つの特徴がある。即ち地上的なるものは天上的なるものから造られたるもの(ens creatum)である。天上的なるものは完全なる理念であり、支配するものであり、これに反して地上的なもの(つまり凡ての現実)は不完全なもの、暗黒であり、支配されるものであることとなるのである。そして芸術は、この地上的なものが天上的なものを夢見、仮にわけもち、あこがれることで現実を遊離して象徴の中に没入することとなるのである。そこで芸術はプラトン、アリストテレスの学説の如く、理念の模倣(mimsis)となったのである。美は常に、何か賤しいものが宮殿にまぎれ込む夢のようなもの、シンデレラ姫のようなものとなった。
個人主義文化では、実はこれと正に反対となった。この地上的なものを作った天上のものとしての主体(subjectum)は崩れ去って、否、崩し去って、否、闘うことで読み違えて、主観(subject)なる意味を歴史的に新たに創造した。
天の下に地があって、地は卑しいものとして、天をあこがれていたものが、愕然たる覚醒をもって、地球が円いものだと云うことを発見した。天体の回転体系を測定し定めることが出来るのは、人間だけであり、しかも人間の主観の中の理性がそれを知ることが出来るのである。宇宙の中心は自分であり、機械的法則の宇宙よりも、それを測定出来る自分がはるかに尊厳であることを考えぬいたカントは、まさに思想のコペルニクス的転回をやってのけたのである。
これは大いなる発見であり、美の世界をもでんぐりかえした。彼は、自然よりも人間の自由がより高いものであり、美とは、自然の中に人間の自由を感得することであると考えたのである。自然の中に理性的なるものを発見し、創造するものと考えたのである。
あたりまえの事を考えついたのであるが、封建時代の考え方をたち切ってここまで来るのには、鎖の様なものを頭の中で切って捨てなければならなかったに違いない。
そして芸術は、個人の主観が創造するものと初めてなったのであった。
やがてかかる考え方が徹底してあらわれたのが、オスカー・ワイルドの言葉、「芸術は決して自然の模倣ではない、寧ろ自然が芸術の模倣である。一体自然とは何であるか、自然は我々を生んだところの大いなる母親ではない、自然こそ我々の創ったものである」となって来るのである。
ワイルドこそ、一六〇〇年に個人主義文化をいち早くうち立てた英国の文化史上において、一八〇〇年代の世紀末をかざる一つのモニュメントである。そして三百年の文化がうち立てた諸芸術概念、天才の概念が放恣と狂気の概念に、独創の概念が孤独と遊離の概念に転化していったことを人々の前に浮彫りして見せた。一九〇〇年彼の死の年に続いたこの二十世紀はすでに、ただならざる意味に於て個人主義文化を熟せしめていったのである。
「猟奇、旅行、遠き国への憧れ、畸形的なものの描写、異常なアブノルマルな事件の偏好、脱けることのできない陶酔を見つけようとする試み――これらすべてのものは、読者はそうでないとしても、とにかく作家たちの基本的動向が自己からの逃避にあると思える世界を、我々にしめす」と云うシヨーメの言葉は、はるかに戦前の言葉ではあるが、個人主義が個人の内面に於て分裂し破綻していることを物語っている。これが封建主義文化に闘いをいどんだ自由の旗であったかと人々が眼を疑うほど、それは色あせたものとなってしまった。
株式会社がすでに個人主義機構と矛盾しているとミルが指摘するように、現代様式の社会機構ははるかに個人をおしつぶす機械文明の底に沈湎していった。一九一八―一九三〇年をクレミュウは個人的主観的諸価値に集団的客観的価値が交替する期間だと述べているが、一九一八年の第一次精神崩壊はまさに、個人主義が集団主義に抗争する段階である。ジョルジュ・デュアメル、ジュール・ロマンが一九三〇年のこの精神を代表している。
しかもデュアメルが抗争する集団主義とは、アメリカのもつ機械主義とソヴィエートの委員会機構を対象としているからである。
一九四五年の第二次精神崩壊では、もはや、集団主義の前に示す個人主義の抗争のムーヴメントは一九三〇年の残余であり、ゲリラ的な散発の抵抗で漸次その線をおさめつつある。
一九五〇年は、人類が、集団主義文化への適応に於て、如何なるフォームをもって、自分達をととのえるか、如何にそのペースを発見するか、その苦悩と不安の年となるであろう。
カントからリップス(一九一四年に死んだ)までの美学は、個人主義美学の発見と、その完成の限界の記録である。
フッサール、ハイデッガー学説の美学への示唆は、すでに時間の中に寸断され細片化された自我が、宇宙的本質の中で如何なる現象としてあるかを記述し解釈しようとするのである。ハイデッガーは数年間の塹壕生活の前後十年間沈黙し、前著『ドン・スコトス論』とほとんど関係のない『存在と時間』で突如として、不安の哲学を投出したのである。彼の哲学の中には一九一八年の痛みが深くきざまれており、塹壕の中の単調の存在 auf der Spur sein からの呻くような脱出の願望が味わわれるのである。
アラン、ブルトン、アラゴン、ジイド、プルースト、サルトルの線は、凡て同時代者であり、それらはやはり、ハイデッガーと同じように「抵抗線における個人主義者」なのである。
カントの段階では、感情は、悟性と理性の中間者として、体系的秩序の中に構成され、自我の人格の秩序と関連して自らの綱紀をもっていた。
しかし、今や、プルースト、ピランデルロが示すように、「人格」なるものは、時々刻々に継起する「自我群」に分割されて、他人にも伝えられず、自分にも捉えられない自我が、バラバラとなり自己の微粒子となって、寸断されつつ流れ蠢いてゆく。
自分が自分を綱紀をもって支配することに失敗したのみならず、自分を見究めるのにも、研究対象として、記憶の仲介として、屍体状態 post mortem としてでなければ、自分を究めることが出来ないこととなったのである。かく人格が分解してしまうと、感情なるものは、いくつかの方向に向って歪められている力学的反射(例えばリビドー・アンビヴァラン)と云ったようなものとなって来るのである。
かくて、伝統の美学は自我の崩壊と共に崩壊して、一つの伝統的空白時代が出現しつつあるのである。
理論は空白である。しかし、決して常に現実は空白ではあり得ない。かえってそれは、さかまきどよもす土用波のように、波の穂を走らせながら、理論の前にそびえ立っている。ただ、理論が、それを貫いて、そのうねりの中に出る力がないだけである。この土用波のうねりの一つが映画芸術であることを、私はあらためてここにみなさんと顧みて見たいと思う。
一九三〇年までの映画美学は、最初の十年間は非芸術であるとされ、つぎの十年間は半芸術とされ、最後の十年間にやっと芸術の仲間にいれて貰ったのである。そして、トーキーの出現によって、もはやそれは個人企業の軽工業ではあり得なくなり大企業機構となると共に、今度は一九五〇年の段階では、これを非芸術とした美学論そのものを転覆せしめるほどに成長してしまったのである。
これを非芸術とした大きな原因を顧みるに三つの要素をもっているであろう。
第一、それがこれまで徹底した利潤手段性であることである。それが一牧野省三の企業であれ、大パラマウントであれ、それが利潤の複式簿記によって分解されつくす性質をもっていることである。芸術が天才の独創であることをもって結論とした美学論にとっては、とんでもない非芸術に違いないのである。
第二、それが集団的製作物であることである。これまでの美学論では、芸術は一人の主観の観照したものを一人の人が制作するものであり、天才がその個性を駆馳し発揮するものである。そこでのみ感情移入、物我合一というような過程で芸術が出来あがるのである。
しかるに、最初に重役会議があり、企画委員会があり、かくて限りのない会議と会議、監督陣、カメラマン陣、美術部メンバー、……メンバー等々から出来てゆく映画は、はるかにカントの美学の世界からはみ出ているのである。かかるものが芸術であり得ようがないのである。
第三、それが物質的素材によって見られ、物質的素材によって製作され表現されることである。ピンゼルで描くのではなくして、それを見て描くものはレンズであり、フィルムである。そこではもはや描くものの主観がなくなっている。主観の崩壊は、美学論の立脚地を失っているのである。
しかし、この世紀の初頭にあたって映画が非芸術とされたこれらの三点は、今また、ようやく絶えまなく成長しつづけたが故に、美学論をかえってくつがえすテコの三支点ともなりつつあるかのようである。
第一点の、映画がこれまでもった利潤性は、美学論をして講壇からおろし、政治経済、はては株式機構にまで関連をもたしめることとなってきたのである。世界恐慌が如何にその製作に関係するかを、それは研究の対象としなければならない。ファシズムが如何に映画を利用したか、金融機構が新聞と蓄音機とラジオと映画の関連に於て、流行に如何なる構成をもつか。やがてそれが如何なる手持の理論家をもつに至るか。そしてそれがやがて興行資本と関係するギャングシステムと如何に組み合うものとなるか。
そしてその結果は、あやうく成功すれば人間を「利潤対象としての大衆」いわゆるミーチャン、ハーチャン型として鋳直すことが出来るかもしれない危機的現象が内在することを注意すべきである。そして、戦慄すべきことはそれが無方向であることである。豚の鼻先に肉片をぶらさげたように、ある場合は人類を如何なる断崖に導かないとも限らないこと等々にまで日を注がなければならない。
かかる巨大なる複雑な製作主体は、美術史上の大いなる転換となるであろう。そして、美学の上にイニシャティヴをもつに至ったのは、大衆がそれを芸術として取扱うパーセンテージを高めきったことによるのである。その意味で利潤性は、徹底して大衆の意欲を無視することが出来ず、またそれに矛盾したいろいろの企ても、ついにその矛盾をかくすものでないことは、注目さるべきである。これが、三百年の理論をおしつぶす三十年の歴史の優先性なのである。
第二点の集団性は、この製作が、人間と人間の仲間、カメラードの感覚のイキのあった上でなければならないと云うことを注意すべきである。それは音楽の大合唱の集団性とは異ってすでに何らか生産性に関連した集団感である。やがてそれは歴史的組織体へ高まるものである。よい監督とはよい組織者のことである。芸術家のエスプリにあたるものが、ここでは集団意識の盛上りに外ならない。そこで、対象を「見るもの」の調子とはレンズのみならず、構成委員会の決定意識の調子のしまり方にあるのである。このメンバー相互の把握の仕方が芸術製作の要素であることは重大である。かかる芸術創作行動がその本格的試練期に入ろうとするこの世紀の後半は、歴史的な意味をもつこととなるであろう。そして、このことが個人主義的段階の実学をみごとに引離してゆく重大なる要素となるのである。
第三点の、映画が物質的視覚から構成されていることは、最も重要なことである。レンズとフィルムが構成している画面が、人間が見ている世界と同一であると考えるのは短期間の人間の習慣であり、商業機構が戦い取った一般性である。
しかも、最も驚くべきことは、その物質的な見方が、その率直さと正直さにおいて、人間の信用を得たことである。
百号のカンヴァスよりも、ライカの一コマのほうが人間の信用を博したことは何故だろうか。レンズが対象に関係する仕方には厳密な数学的対応関係があって、戦場の場面の兵士の姿としての一点の黒色は、物質の手続としてはジカにはるかに実戦場の兵士の身体に連続しているのである。歴史の「聖なる一回性」に連続している。
教師が、新聞が嘘言を吐きつづけた時、人々は「歴史そのもの」が「真実そのもの」が孤独であることを感ずる瞬間すら経験した。
この嘘言にうずまった人間がレンズとフィルムのもつ率直性に取りすがった心持は判るのである。歴史的正確を求めるものにとってなおさらである。
フィルムが歴史の「聖なる一回性」を再現できることは、歴史の中にあって、同一の今をここにダブラせることで人々の歴史意識を撃発するのである。
このことが映画の美学上にもつ意義はまことに重大である。一九三〇年の文学が自分を把える時それが屍体解剖 post mortem となることの嘆きは、かかる把え方によって一つの生面を開き、そのことは、文学の表現に於て、新しい手法を与えるとも云えるのである。
また、このフィルムが回転数をかえることが出来ること、コマ落し、高速度、逆回転、二重写しが出来ることは、多彩な時間の創造を意味するのである。人間の創造する時間がこの物質的手続で現われてくるのである。コマ落しで植物の時間の中に入ることも出来、電子顕微鏡、望遠レンズ等の参加をもって、「映画眼」は電子の内面、星座の機構にまでその眼をさし入れることすら出来るのである。
最後に、この物質性のもつ一つの特徴は、その表現にあたって、カットのモンタージュによることである。文学では、表象と表象をつなぐ「である」「でない」の
カットとカットを連続するのは、見る大衆のこころなのである。大衆の嘆き、憤りが、ジカにそのカットを連続するのである。
製作者も勿論このことを意識してカットをつないでいる。即ち製作する時すでに、歴史のもつ大衆性に、カットカットの連続をゆだねて製作されている。
芸術が、その繋辞を歴史の中にゆだねて製作されていることは、まことに重大である。投げつけられているのは単なる図式ではなく、歴史の実践的否定性にそれが寸断されるままに開放されながら構成されていることは、まことに美学にとって新しい課題を与えているのである。
モーゼが「この水よ開け」と叫んだ神話は、歴史の連続のどの瞬間をも貫いている太い力線である。
映画のカットをつないでいる大衆の願いと欠乏感も、決して、その叫びと無縁のものではない。ただ演劇映画が、かかる映画の偉力に無関心に、安価な利潤を追って、何度もとれる演劇を実写して、罐につめては売出していることで、この半世紀を浪費しやすかったことは怖ろしいことである。
おそらく、この後半世紀は、新しい試みが映画界に起るであろう。イギリス、イタリア映画がセミドキュメンタル映画として、新生面を切開きつつあることは、巨大な覚醒の前ぶれであろうか。かく考える時、この世紀の前半は、個人主義文化の後退と集団主義文化の前進によって、美学そのものが一つの危機に面したのであった。
この動きにつれて、映画は、その偉力を漸く発揮することで、芸術としての新天地を切りひらくことで、寧ろ、美学に対して、新たなる方向づけをなし、課題を与えることで、それらを新生面に導かんとしつつあるかのようである。
この半世紀はこの意味で歴史的に大いなる世紀となるであろう。