美学入門

中井正一




第1部
  ――美学とは――


1 美とは何であるか


自然の中に
 美学とは何を学ぶ学問であろうか。大体人々は価値のあるものとして、真実であること、善良であること、美しくきれいであることの三つを好み、尊敬し、愛するのではないだろうか。その真実について学ぶのが、哲学、論理学であり、善良であることについて学ぶのが倫理学であり、美しいこととは何であるか、芸術とは何であるかを考え、たずねていくことが美学なのである。
 それでは美しいということは、どんな意味をもっているのだろう。景色が美しいという場合と、建築物が美しいという場合と、絵画が美しいという場合は一応意味が異なるように思われるのである。その一つ一つについて、これから考えてみよう。
 第一に自然の美しさとは何であろう。空、海、山河、あの大自然の美しさ、鳥や花、あるいは人の体の美しさでもやはり自然の美しさなのである。それらのものがなぜ美しいのであろう。この問題はまだ解けきれてはいない。実に数千年の間、人々はこのむずかしい問題の前にわからぬままに頭をたれているのである。しかし、いろいろの疑問を抛げかけている、この疑問の数々が、美学の歴史にほかならないともいえるのである。
 人々がよく知っていると自分で思っていることで、案外わかっていないものが多い。例えば自分の体の構造や働きを知りつくしているだろうか。自分の体が自分の自由になっているだろうか。手があるとか、足があるとかということではなくて、もっと内部で、刻々いかに血がめぐり、いかに血管が縮んだり伸びたりしているか、わかっているだろうか。否、自分が自分を自由にすることすらできるだろうか。冷静であろうと努めているのに、顔が真赤になることはないだろうか。あるフランスの批評家のいったように、自分の体もまた一つの大自然であり、山あり川あり、無限の喜びと悲しみをもっている大きな天地ではないだろうか。それについて自分がわかっていることは実に僅かであって、星の世界についてわかっていないことの多いと同じように、自分の体の中の働きについて知っていることも少ないし、また自由にもなっていないのである。実に自分の体自身が考えようもない複雑な、緻密な、微妙な、精巧をきわめた秩序の結集体ではないだろうか。つまり宇宙にくらべるべき容易ならざる大切なものが、自分自身の中にもあるのである。それらのものについて私たちは何を知っているであろう。実は何も知ってはいないのである。
 私たちが、日常のことで思い悩み、腹を立てたり、悲しんだりして疲れはてた時、ふと、自然を見て、「ああ、こんな美しい世界があるのを、すっかり忘れていた。どうして、これを忘れていたのだろう。」と何だか恥ずかしくなり、やがて、悲しみや、怒りを忘れてしまい、自然の景色の中につつまれ、「ああいいな」とうっとりとその中に吸い込まれていくことがある。この時私たちは、宇宙の秩序の中につつまれることで、その中に引き込まれて、自分の肉体もが自分は意識しないけれども、じかに、直接に響きあっているのである。美にうたれるというこころもちはこんなことではあるまいか。自然の大きな秩序につかまれ、抱かれて、私たちは自分の肉体をも、その中にそれにふさわしくゆだね、まかせていっているのである。しかもそれは無理にそうなっていくのではなしに、そうすることで初めて、自分が何を求めていたかがはっきりわかり、「ああそうだったのか」と、みずから安らけさを感じ、びのびと、気が開けていくこころもちになるのである。こんなこころもちの時、それを美しいこころとか、美の意識とかいうのである。
 一言にしてみれば、これまでの不自由なこころもちが、その自然を見ることで、意外にも自分自身けほぐれて自由になり、解放されたようなこころもちになることなのである。シルレルというドイツの詩人が次の意味のようなことをいっている。「人間が、自然の中に、自分の自由なこころもちを感じる時、それを美というのである」と。
 歴史の中の、不自由きわみない時代にも、人間は、自然に面して、それに面している時だけでも、自然に戯れ、健康な自由を感じて、それによって、世の中のこの不自由がどこからきたかをかぎつけたのであった。シルレルはこの自由なこころを「美しい魂」Sch※(ダイエレシス付きO小文字)ne Seele と名づけている。彼の作品中の、人間の不正に正しく憤ったウイリアム・テルのもつ魂もこの「美しい魂」の一つである。また美しい魂は、だから、強い魂でもあるのである。考えてみれば、自然も、何の無理もなく本分をたどっているものもあるし、あるいは、毅然として、その秩序を守っているものもあるのである。あるいは何万年の水の流れの中に耐えに耐えて、その肌を円く円くしている岩のように、容易でない闘いのはての姿、自分たちにはかり知れない秩序を私たちに示しているものもある。
 それをじっと見ている時、私たちは言葉でいいようもない深い深いこころの奥底で、または肉体でじかに、ああ自分のあるべき境地はこれであったのか、これがほんとうのあるべき私の姿だったのかと、自分自身にめぐりあったようなこころもちになることがあるのである。
 自然にふれることで、自分のほんとうのあるべき、守るべき姿にぶっつかり、ほんとうの自由な自分、いとおしむべき、健康な、大切にすべき自分に気がつくことは、大変なことである。死んでも守らなければならない自分を、発見することでもあるのである。
 芭蕉が、「しづかに観ずれば、物、皆自得す。」といっているように、この時、物、みなの姿が、しみじみと芭蕉に伝わり、それを追求するために、年老いた彼をして、死を賭して旅に出しむるほど、美は強い力をもっているのである。
 例えば、ライオンの子が、子どもの時、人間に捕えられて、羊の群れの中に飼われていたところ、ある日、森の中に、ふとライオンの雄々しい叫びを聞いて、勃然として、自分の血の中にライオンを感じて、かたわらの羊の子を喰い殺したという物語があるように、自然の中に、自分の自由のありかたをかぎつけた時、人間は、また柔らかい、柔軟きわみなきこころと、強い、強靭きわみないこころの二つのものを同時にもつことができるともいえるのである。

技術の中に
 人間の創った道具、建築、あるいはスポーツなどというような、人間の技術がつくりあげたものに、私たちがぶっつかった時、美しいなと思うことは、どんな意味をもっているのであろう。
 例えば、水泳の時、クロールの練習をするために、写真でフォームの型を何百枚見てもわかりっこないのである。長い練習のうちに、ある日、何か、水に身をまかしたような、楽に浮いているようなこころもちで、力を抜いたこころもちで、泳いでいることに気づくのである。その調子で泳いでいきながら、だんだん楽な快い、すらっとしたこころもちが湧いてきた時、フォームがわかったのである。初めて、グッタリと水に身をまかせたようなこころもち、何ともいえない楽な、楽しいこころもちになった時、それが、美しいこころもち、美感にほかならない。自分の肉体が、一つのあるべき法則、一つの形式、フォーム、型を探りあてたのである。自分のあるべきほんとうの姿にめぐりあったのである。このめぐりあったただ一つの証拠は、それが楽しいということである。しかもそれが、事実、泳いで速いことにもなるのである。無駄な力みや見てくれや小理屈を捨て去って、水と人間が、なまでぶっつかって、微妙な、ゆるがすことのできない、法則にまで、探りあてた時に、肉体は、じかに、小理屈ぬきに、その法則のもつ隅々までの数学を、一瞬間で計算しつくして、その法則のもつ構成のすばらしさを、筋肉や血や呼吸でもってはかり、築きあげ、そのもつ調和、ハーモニー、響きあいを、肉体全体で味わうのである。音楽は耳を通して、肉体に伝えるのであるが、この場合は、指さきから足までの全体の動きで、全身が響きあっているのである。これがわかった時、これまでの自分は、他人みたいなものなのである。自分がほんとうの自分にめぐりあうと、そうなってくるのである。
 このように考えると、クロールまでが、美学にも関係をもってくるのである。楽しいことは、常に容易ならないものを、その背中に担っているはずである。ボートのフォームなどは、あの八人のスライディングの近代機械のような、艇の構造に、八人の肉体が、融け込んで、しかも、八人が同時に感じる調和、ハーモニー、「いき」があったこころもちが、わかってこないと「型」がわかったとはいえないのである。しかも、それがわかった時は、水の中に融け込んだような、忘れようもない美しいこころもちなのである。よく「水ごころ」とか「ゲフュール」などと、ボートマンがその恍惚とした我を忘れるこころもちを呼んで楽しむのである。それはまた他の人が見ても、近代的な、美しいフォームなのである。この気分が八人の乗りてに一様に流れてくる時、ひとりでにフォームは揃ってき、ゆるがすことのできぬもの、一つの鉄のような、法則にまで、それは高まってくるのである。
 ところが、この法則は、自然の法則のように、宇宙の中にあった法則であろうか。これは人間と水との間に、人間の創りだした新たな法則であって、自然の法則ではない。人間がこの宇宙の中に、自然と適応しながら、自分で創造し、発見し、それを固め、そしてさらに発展させていく法則である。これを「技術」というのである。これは大きい意味の技術をさすのではあるが、どんなつまらない技術も、みな、この大宇宙に対決するにたりる、大創造物でないものはない。たとえ、破れ靴のきれっぱしでも、人間の創造物なのである。
 例えばこの大東京の一角に立ってみて、見えるかぎりの家、バラック、その中にうごめいているどんな人間の、ぼろぼろの着物だって、持ち物だって、電車だって、自動車だって、長い長い二十万年の人間の歴史が創りあげたものでないものは、一つもないのである。たとえ、どんなあやまりを、たがいに犯していても、みな、この謬りをふみしめて、耐えに耐えて、さらに創りあげ、創造しようとしている技術でないものはないのである。
 このすべてのくだらないものの中に、美がどうして発見されるのであろう。それは、ちょうど、クロールのフォームを発見した時のように、かつては溺れ、苦しんだ水の中に、すがすがしく泳げたように、そのあたえられたいろいろの条件を、ほんとうに自分たちのものとし、自分たちの法則にまで、たどりついているのではあるまいか。つまりこれらのものの中から私たちが美しいものを発見するということは、その中にそれを探りあてた時の証拠ともいえるのである。
 しかし、歴史の永い伝統は、その証拠が、長い長いあやまりをふみしめ、あるいは、足をたびたびふみ滑らしながらも、より高く、より高く立ちあがってきていることを示しているのである。こう考えると二十万年という人間の長い長い歴史が、何かいじらしいような気持にさえなってくるのである。この感じが、一口でいえば、ヒューマニズムとでもいうべき感じなのである。
 人間が、言葉を発見したということは、手を自由にして、二つの足で立ったよりも、もっと根本的なことであった。このことから、人間は、この宇宙に、秩序があるらしいこと、法則があるらしいことに気づきはじめ、それを確かめたのである。宇宙が何も知らないのに、人間は、宇宙の秩序を、一人一人自分の中にうつしとることができるものとなったのである。生まれて、死ぬるまで、百年に充たない、取るにたらない、はかない存在であるのに、しかも、宇宙の秩序をいささかたりとも、探り求める存在として、みずからを創造したのである。そして、さらに物の中にだけ、法則があるのではなくして、第一に、人間と物との間にも、また第二に、人間と人間の間にも、秩序があるらしいことに気づき、それを、絶えず探し求めているのである。
 国家を築きあげる努力と試み、社会の関係、道徳、法律、経済、政治など、みんなこの試みにほかならない。
 大きくいって、人間の技術は、みんな、このはかない試みなのである。びょうたる宇宙に比して、小さな秩序ではあるが、しかし、宇宙のほかのどこにもありえない、創られつつある秩序である。
 それが創られたものであるかぎり、自然の星の軌道のように、寸分の狂いも謬りもないものではない。むしろ、常に謬りつつ、その謬りをふみしめることが、真実へのただ一つの道しるべとなるといえるであろう。
 この謬っては正され、謬っては正されるところの技術の秩序、この中に、人々が、やはり、自然に向って感じたと同じ、美の驚きにめぐりあうことがあるのである。クロールのフォーム、ボートのフォームもそうである。また道具の世界でもそれを飾ろうとしたのではなくて、人間の道具に必要な条件を充たしたのに過ぎないのに、あっという驚きをもって、人々をうち、しかも、人々のこころのありかたを教えさとすことがある。
 例えば、刀、ことに日本刀を見る時、その緊まった、しずけさは、人のこころを寒くするほどである。それはただ、その切るという機能が、純粋になりきった時、その秩序は、自然の美しさをしのぐほどのものにまで立ちいたっている。飛行機の美しさ、すべての機械の美しさ、機能美の近代建築もまたそうである。
 飾りがないことは、嘘がないことである。率直にその働きにいているのである。桂の離宮の建築は、日本の美の伝統にあるところの、素直さによって、この美しさに到達しているともいえるのである。しかも、この美しさこそ、日本の美の伝統的な純粋なものともいえるのである。技術の美が、自然の美の、ふところの中に飛び込んで、それと見まごうものとさえなっているところの、素晴らしいものといえるのである。

芸術の中に
 人の創りだした、食べる道具、住居、着物その他いろいろの用途をもったものの中に、その用いかたとは別に、その目的のためには、一定の深い秩序をもたなければならない。その秩序、精密な構造を見ているうちに、人間にあるこころもちが湧いてくることになるのである。秩序のもつ美しさにうたれることなのである。それは、考えてみれば皮肉ででもある。例えば人を殺すことの目的でできた刀の中に、いつの間にか、いらだったり、血迷った心をしずめるような感じをもつ秩序と線が、現われたりするのである。つまり、めったに人を切ってはならないという反対のこころを、人間に教えていることになるのである。
 やがて、さらに、もう一歩進めて、何に用うるかという用途を離れて、人間が、ただ美しさそのもののみを求めて、新しい秩序を創造してみたいと考えはじめた時、ここに芸術の世界が創られてくるのである。
 例えば、弓を射る狩人が、獲物のない渓谷で、絃そのものを弾じて、その音に聞きほれた時、彼は、やがていろいろの弓を何本も集めて弾いてみることを考えつき、やがて、ハープのようなもの、琴に似たものを創りだしたと想像されるのである。そして、それはついに音階の機械としてのピアノにまで到達するのである。音の数学とでもいってよい近代の音楽が、完全に道具の世界から自由になっているのを見る時、もはや、弓絃との関連が考えられないぐらい、自由なものになっている。
 原始的な労働につながる盆踊りのような輪舞で、うたった歌は、言葉の芸術の最初のものであるが、これが現今の戯曲、小説、映画にまで発展し、文学の世界を形づくってくるのである。また、明日の日の獲物を瞼に描き、洞穴にりつけた動物の絵が、宗教時代の偶像に、さらに近代の美術にまで移るにあたって、それらのものは、ひたすらに芸術のための芸術へと発展、分化してきたともいえるのである。
 しかし、発展し、純粋化したといっても、それがほんとうの自由であるとはかぎらない。確かに、指を動かせることの自由、音の範囲を選ぶことの自由は、実にひろく大きく、自由になった。しかし、山の中で昔の人が、一本の弓絃に聞き入って、いろいろの音色をしらべているしずかな渓谷を想像して、その楽しみの自由さについては、昔と今と、どちらが自由かは、ちょっと考えものなのである。
 昔、ある能の名人が、将軍の前で、能をすることとなり、控えの部屋で待っていた。いよいよ将軍の前に出ることになり、呼びだしがきたのである。ところが、その芸術家は、「少し待っていただきたい。今日はこころいっぱい表わしてみたい松風の音の気分が、自分の中に湧いてこないのです」というのである。ところが、なかなかその松を吹くあの美しい風の音が彼の胸中に湧いてこない。そしてついに将軍の機嫌をすっかり損ってしまったのであった。
 この芸術家は、二つの意味で、可哀そうである。二つの意味で、自由を求めているのである。一つは、自分の中に、いつも自信まんまんとやれる「あの自分」が、自分の中でめぐりあえないのである。探しても、呼んでも、現われてくれないのである。その意味で可哀そうな、自由を失った人なのである。
 第二の意味では、彼は、その自分を、思ういっぱい探し求める自由な社会に生きていないのである。自分が食べるためには、また自分の舞に、鼓をうったり、太鼓をうったりしてくれる多くの人々と、その家族を食べさせるには、芸術としては、忍ぶべからざる恥をも、忍ばなければならないようなことが起るのである。馬鹿馬鹿しいと思うようなこともしなければならない。ここに第二の不自由と、気の毒さがあるのである。
 せんだって、ある音楽家に、国会図書館で、ヴァイオリンを弾いてもらった時「ちょうど、出演する十分前に館に着くように車を寄こしてくれないか」と、その音楽家のお母さんがいわれるのである。二十分も緊張して待っていては固くなるし、またいってすぐでは、心構えが整わないという意味なのであろう。これを聞いて、深い芸への真剣さにうたれたのであるが、自分の日常を顧みて、この真剣さなくしては、生きているとはいえない、ほんとうの生きている自分を探し求めて、生きているとはいえないと深い感動をうけたのである。
 この探し求めることの自由、そして探しえた時の「ああこれだ」といえる充ちたりたこころ、これがみんな、芸術家のもつ、自由へのもがきから生まれるのである。ほんとうの自分にめぐりあったという自由への闘いなのである。
 この境地を、芸術の美しさを求める苦しみというのである。人々は、その芸を見、聞いて、その芸術家をうったものが自分に伝わり、また、芸にうたれるのである。
 だから、能の芸術家にせよ、誰にせよ、まず自分の肉体、神経と闘っている。そしていつも、あのこころもちになってしまえば、あとは、あの自分にまかせて演奏すればよいのだという自分を、自分の中にもっているのである。しかし、その自分は、いつでも、人々の前に「カバン」から出すように、容易には見つかりはしない。時には、自分を自分の中に捕えようもなく、見失ってしまうこともあるのである。
 それは、練習に練習を重ねることで、鍛練に鍛練をつみ重ねることでのみ、初めて宇宙の中に、ほんとうの自分にめぐりあうことができるのである。多くの人々は一度もほんとうの自分にめぐりあわずに死んでいっているのである。芸術家だけは、それも、ほんとうの、いい加減でない真の芸術家だけが、どんなに貧乏しても、ほんとうの自分にめぐりあって死んでいっているともいえるのである。
 その意味では、芸術家は幸福だともいえるようだが、芸術の歴史の示すところでは、売れっ子でない、貧乏して苦しんだ芸術家が、このようなほんとうの自分にめぐりあっているらしいのである。さきにいった、第一の自由、すなわち鍛練に鍛練を重ねて、自分が自分を自由にできた人が、必ずしも、社会生活で成功しない。社会が悪い場合、食うためには失敗し、あるいは不法な弾圧を受け、批評家にいじめられ、不自由に満ちた生活をしているのである。社会を変えないかぎり、必ずしも、芸術家は幸福とはいえないのである。
 しかし、真に生きる域にいたるには、容易ならざる訓練が必要である。たいてい素人が芸を習いはじめておもしろくてたまらない、自慢したくてしようがないという三年ぐらいがある。これが入門時代である。たいていの旦那芸はこれである。アマチュア芸術である。尺八の首ふり三年というようなのんきな気持の楽しみぐらいでは十年やっても同じである。この基本訓練がすんで、むしろこれはむずかしいものだということがわかる時があって、おもて芸に入るのである。しかし、これもたいてい、マニエール、一つの自分癖のようなものを再現することに終るのである。ちょっと評判のよかった自分を、またしても自分がまね、自分がそんなにほめられるものをもたなければ、自分の師匠の型をまねる。その型が立派だと、一生涯ぐらいは芸術家で通用するのである。ただしほかにもっとよいのがなければであるが、何しろ、このマニエールが、時には個性があるといってほめられることもあるのである。しかしそれではまだ、ほんとうの自分にめぐりあっているのではなくして、人がほめたことのある自分のポーズを、自分で繰り返しまねているのである。そんなものから離れて、自分が自分を責めて、真剣な命をかけた鍛練をした時、このマニエールが消えて、一つのスタイル、一つの風格に達するのである。万人が見て、仰いでいよいよ高く感ずる、何ともいえない芸道を感ずる、芸の鬼といった凄みを感ぜしむることになるのである。この世界がほんとうは、自分がほんとうの自分にめぐりあうかどうかを、定めることのできる世界なのである。ほんとうの幸福、芸術だけにあるところの「しびれるような喜び」は、ここから生まれるのである。芸術のいわゆる、醍醐味という世界である。
 自然の美しさ、技術の美しさにくらべて、一つの大きな飛躍した世界である。

2 芸術とは何であるか


 今まで、美が自然の中で、技術の中で、芸術の中でどんな姿で現われてくるかについて、考えたのであるが、これらはまた、一つであるともいえるのである。つまり、美というのは、いろいろの世界で、ほんとうの自分、あるべき自分、深い深い世界にかくれている自分に、めぐりあうことだということを考えてきたのであるが、ここで大切なことは、このほんとうの自分が、何か神秘的な、神がかりな、固定された自分ではないということなのである。芸術論の中には、後にのべる機会があるが、そのような自分を考える考えかたもある。そこでは、その固定した神秘なものを引きだす手引きが、芸術であるというのである。美はその神秘なものの象徴である。シンボルである、というのである。この考えかたを、象徴主義と呼んでいる。はるかな理想的なもの、ユートピア、理想境的なものを、芸術は夢見、それをこちらにおびきよせるものだと考えたのである。確かにそのような芸術があったし、また今もまだのこっている。プラトン、アリストテレスから近代まで、美は理想をうつすもの、模倣するものとする考えかたが、すなわちそれである。
 ところが、オスカー・ワイルドや、ニイチェの芸術論が、急先鋒となって「そうではない、芸術は、理想や、自然をうつすものではない。むしろ、自然を芸術がつくりだすのだ、理想もまた、芸術が創造するのである。」と提唱しはじめたのである。
 この考えかたまでくると、ほんとうの自分はもはや、固定された神秘なものにおさまっている自分ではないのである。人間の技術が発展するにつれて、さらにさらに発展していくところの自分、新しく発展していく自分を、発見していかなければならないのである。
 前に、ボートのことをのべたが、腰をすえているボートの腰板が、固定して動かない六人乗りのボートと、あの腰板が、レールの上で動く八人乗りのスライディングでは、そのぐフォームも違えば、味も違う。ちょうどそのように、時代が進み、その社会の活きかたが違って、機械化されていき、あるべき自分も広い広い生きかた、新しいフォームに発展していく。こうして、あるべき自分もが、刻々と発展していく時、ほんとうの自分にめぐりあうためには、まず自分を追い求めていかなければならない。そしてさらに追い求めるためには、第一に古い自分を脱けださなければならない。追いつ追われつする世界が現われてくるのである。こういう世界に、新しい芸術論は、なりたっていかなくてはならないのである。
 さきにいった象徴主義という世界は、寂かにすべてを眺める世界であるが、新しい芸術論の世界は、何か、陸上競技の走りっこの世界のような、ダイナミックな動いている感じの世界である。陸上競技場のトラックで先頭を走っている人を、次の人が抜いていく時、あの緊張しきった瞬間、人々は、黙って、息をのむ瞬間がある。ちょうどそれのように、芸術の世界では、自分が自分自身を追い抜こうとして走っているような、引き緊まったちょっと普通でない世界が生まれてくるのである。ダンテの『神曲』の中に、自分が、切られた自分の首を、提灯にして、足もとを照らして歩いている首のない人間の、うすきみ悪い場面があるが、あれも、この新しい芸術観に、一つの道を切り開いてくれているのである。
 あのダンテの時代は、中世紀の、今から思えば、政治的に実にばかばかしいことばかりおこなわれていた時代である。ダンテもその愚劣を驚嘆し、嘆いていたであろうが、どうもできず、どうすることもできない自分の愚劣さにも驚嘆し、嘆いたであろう。
 一体人間は、二つの魂の誕生をもっているといえよう。世界がこんなに美しく、世の中がこんなに面白いものかと驚嘆する時がある。これが第一の誕生である。そしていつか、それとまったく反対に、人間がこんなに愚劣であったのか、また自分も、こんなに下らないものだったのかと驚嘆し、驚きはてる時がある。これが第二の、魂の誕生なのである。しかし、この時、人々は、ほんとうの人生を知ったというべきであろう。またほんとうの芸術家は、この人生を知る時から、その作風がしっかりしたものとなるのである。
 ダンテもこの愚劣きわみなき人生と、愚劣きわみなき自分に驚いて、こんな場面を着想したのではあるまいか。切られた自分の首を提灯にして歩いている、ゾッとするような地獄を書いたのであろう。人々は、この場合を見て、ぞっとするほどの、ほんとうの自分によって切り捨てられたる自分、その首によってのみ、ほんとうの命にふれる自分の運命に面して、戦慄するのである。事実、自分がどうしようもない愚劣の中でのたうっている切実な自分自身にめぐりあうのである。
 そんなに人生も自分も愚劣なのであろうか。気をつけて見ると、愚劣以外の何物でもない瞬間があると思うのである。
 私の友だちが、大学の時兵隊にとられて、三年ばかりして帰ってきたのである。京都の下賀茂神社のただすの森だった。二町もあるまっすぐな森の参道を歩いていると、向うから同じ大学に生徒として通っている中尉がやってきたのである。すると友人が、他の道を通ろうという。なぜかと聞くと、あの中尉の軍服を見ていると、このポケットの中の自分の手が、どうしても敬礼するためにあがってくる、それを制しきれなくなるのだというのである。
 今さっきまで自分であんなに軍隊の罪悪を罵倒しながら、それを軽蔑しきっていた哲学の学生が、僅か三年間の習慣であるにもかかわらず、彼自身の手は、彼のこころを裏切って、その中尉に向って敬礼がしたくてたまらなくなってくるこの愚劣を、どうしようもないのである。実に現に、今でも優秀な人が、今も徳川三百年の鎖国の中に、習慣づけられた封建性の「見てくれ根性」「抜け馳け根性」の中でのたうっているのを見るのである。
 さきの話は、笑い話のような一つの例であるが、何かにつけて私たちは、常に自分の愚劣に驚愕し、自分から脱出しなければならない。この世界を描くにあたって、ダンテは切ってすてた自分の首、その首の光をたよりに歩む世界を見たのである。この現実の世界にありっこない悪夢のような風景を描いたのであろう。
 しかし、世の中が驚きはててしまうほど、愚劣が巨大である時、自分の愚劣があまりにばかばかしい時、人々は、このダンテの地獄を思いだす。そしてほんとうの自分の姿にめぐりあったように思うのである。ここに芸術の世界があるのである。ありっこないかもしれぬ世界であるが、しかし、今ある世界よりも、もっとほんとうに身近かな世界とも思われる世界がそこに描かれているのである。「訣別する時に、初めてほんとうにえたのだ」というような世界が芸術にはある。近代の文学の人物はみな、こんな世界で描かれているのである。
 私も、戦争に反対したというので、特高に引っ張られて、なぐられたり、なぐられるよりもっとひどい目にあった時、この世界に、論理の通らない世界のあること、この人民を守る国家機関の中に、論理がなく、かつ人民を苦しめることが、公然とゆるされていることに直面した時、突然、私には、この現実が巨大というか「現実とはそんなものだったのか」そうだったのかと、自分の前にそそりたったのを憶えている。それは巨大な現実とでもいうべき世界が、眼前に現われた思いであった。そして突然、古代の微笑の数々が、例えば、中宮寺の観音のような、古代の彫刻によく彫られているほほえみが、自分の眼の前を横切ったように思ったのであった。
 中国のあの平原を前にして、数十尺の姿をして、ほほえんでいる、大同の石仏だって、幾万の人間が、数十年かかって、あの巨大なものを彫らねばならなかったのは、やはりこんな気持ではなかったであろうか。あれが、何十尺の巨大な岩壁に彫ったということ、それが巨大でなければならなかった理由は、おそらく、彼らにとって、その現実の愚劣さもまた、巨大であったからかもしれない。
『資治通鑑』を読んでみると、まったくそう思える。実に何ともいえない愚劣さが、千年の歴史の中に綴られている。そして、実によい人が、次々にその中で、それと闘って倒れている。この巨大な愚劣に、ほほえみ、生き耐えるためには、あの岩壁を幾万の人が、幾十年を費やしても彫らねばならないものがあったのかもしれない。中国の良心ある大衆が、一緒にうたった、大きな詩ともいえる。あんな大きな人間があるはずがない。しかし、芸術の世界では何も不可思議はなく、不可能をも、可能にするのである。こんなに表現して初めて、ほんとうの中国の嘆きが、表現できるのである。そして、中国の長い長い歴史を、この芸術品はその人々のこころ、嘆きを伝えつつ、じっと見まもり、ほほえんでいるのである。
 私たちはかくして、これまで三つの美について顧みた。ただ自然としての中国の風景を、美しいと思ってたたずむ人、それは、自然の美しさにうたれているのである。自然の存在としての中国に感動しているのである。
 しかし、次に中国のいろいろの家、畑、橋などが、三千年の伝統の中に造られ、いろいろの歴史を背景にして、遠く霞の中に沈んでいる。この風景は、中国の村落のもつ特有の美をもっている。それを人々が見まもっているのである。これまでいった技術美としての中国を見ているのである。
 しかし、大同の平原の岩壁に黙々とそびえている仏たちに面する時、私たちは、自然の岩の中に、「のみ」を入れることで、自然の世界にもまだかつてなかった、そして、技術の世界で造らせようとした意図をも乗り越して、巨大きわみない夢を、ここに描いて、技術の世界への嘆きと、願いを表現したのかもしれない。これが、芸術の世界なのである。

3 芸術のすがた


歴史の流れの中に
 さきに、だんだん発展していく自分を、自分が追い求め、追い抜いていく時、追っている自分と、追われている自分が、ピタリと一つになるような瞬間、そこに新しい美が生まれるというふうに考えるべきであるといったのであるが、その新しい美が生まれはじめる時が、あのルネッサンスである。ルネッサンスの偉大な芸術家たち、ミケランゼロ、ダンテなどが切り開いた、あの新しい美の世界なのである。
 シェークスピアは、大西洋の波の上に、自由を得たイギリスから、この新しい美しさを世界の文学の上に、まき散らしたのである。あのハムレットの性格の中に、初めて性格悲劇といわれるべき、新しい嘆き、自分が自分と闘う嘆きが、生まれてくるのである。あのハムレットの戯曲の中で、モノローグ(独り言)に、彼自身が、彼自身の中に、闘うべき睨みあうべきものを発見してしまったのである。そこに、美を形づくる、新しい大きな世界、あるいは、空間ともいってもよい、組みたての世界が生まれてくるのである。
 また、狩野永徳の絵にしても、竜と虎が、激しく睨みあっている。あれは、京都の大徳寺で自分を睨み据えるべき、新しい精神生活を学んだ彼が、竜と虎の眼と眼の発する、闘いの火花の中に、彼のほんとうの自分を発見することで、さらに磨きあげていったのである。自分を追い抜こうとする、シーンと、緊まるような気迫というか、このごろよくいう、行動的なものが、そこに現われている。つまらないばかさわぎの映画よりも、もっと動いているのである。風の音、波の音すらも、聞こえてくるのである。ここに、古代の美から、近代の美が、新たに生まれてくる、世界の一つのくぎり一六〇〇年代があるのである。ただ、日本だけが、まもなく鎖国で三百年の長い間、日本の国を、封建的な鎖でしばりつけて、八、九十年前まで、身動きもさせなかった。まだ、日本は、鎖でしばられた手足のしびれが取れていないともいえるのである。
 しかし、古代の世界も、決して一様なものではなかった。ヴォーリンガーという美学者は、エジプトの芸術を見て、それを空間に対するおそれであるといった。
 例えば、あのピラミッドのことを考えてみれば、ただ一人の帝王の墓場と、その周囲の装飾をつくるために、数万人の奴隷が、その一生を費やし、やはり奴隷である芸術家が、その王朝のもつ、巨大な力の中に生き、その物語を描くにあたって、一つ違えば、自分の上に落ちてくる鞭の音への畏れを表現したにちがいない。ちょうど、一生を、穴倉のような巨船のオールを漕ぐ部屋で、鞭と刑罰の中に、過ごす人たちの、唯一の生きる楽しみは、歌とリズムであったのである。あの船が、マルタ島に近づいた時、橈の音よりも、歌声のほうが、さきに聞こえてきたとユーゴーが『レ・ミゼラブル』の中でいっている。
 このヴォーリンガーの先生である、リーグルという学者は、ギリシャで初めて「内面的な寂しさが現われはじめる」といっている。獲物を共に狩り共に食った共同体から、奴隷制に移った時、人々が自分たちは一人一人なのか、と自分の周囲を見回したであろう。なぜともわからない不幸と寂しさが周囲に、みなぎったのである。かつて、共に分けて食った楽しかった「モイラ」これは分け前という意味だったのであるが、いつの間にか「運命」という意味の、悲しいかげを盛ってきたのである。エスキロスの戯曲のどれもが、運命悲劇といわれたのもこのゆえである。
 この奴隷制、封建制の時代は、このわけのわからない不幸への嘆き、正しいものが、苦しむことを描き、それと共に泣くことが、芸術の一つの流れとなっているのである。悲しい時に泣くことも、一つの救いである。美学者はこれを「カタルシス」と呼んだのであるが、プラトンの美学、アリストテレスの美学はこんな芸術の世界を、頭に描いているのである。
 封建制から、ルネッサンスの時代を経て、人間が、個人の自覚によみがえる時、ここには大いなる変革が起ってきたのである。つまり、自分が、自然や社会を、自分の眼で見ているのだということを、自分でとっくりわかる時があるのである。光を、太陽の光で見、言葉を俗語世界で取り扱うことを試みる時代なのである。それまでは、光は、神の光というか、ボーと上のほうから、落ちている画ばかり描いているのである。
 しかし、やがて、自分が、逃れようもない自分自身の、探るような目つきによって、睨み据えられる時代がやってくるのである。
 今さきいったハムレットを描いた、シェークスピア以後の悲劇が、運命悲劇に対立して、性格悲劇であるといわれるゆえんは、この自分が、自分と闘いはじめる、苦しい性格の内面の始まりを意味するのである。ハムレットの悲しみは、近代の悲しみの始まりなのである。
 ホッブスが、「人間はおたがいに狼である」といった言葉は、人間が、封建国王の獅子に喰われて文句のいえない羊ではなくて、おたがいに海の上では剣でわたりあう男一匹、腕一本で戦いあえる対等の対立物であるといいきったのである。その自由の空気を自分のものとした時、すでに、人間は、自我の内面に、正しい理性の命ずるものを守るための、鋭い視線を、切りさいなむ剣として、ひそかにのみ込んでいるのである。ちょうど鬼が、一寸法師と一緒に針をのみ込んだように、その針が、すなわち、自分自身の批判精神が、チクリチクリと自分を刺しはじめるのである。自分を発見することは、自由を求めるのであるが、それはまた、自分をみつめ、その批判の前にさらされることともなって、寂しさが生まれてくるのである。
 太陽の光をふんだんにつかったという、十八、十九世紀の絵画も、ゴッホ、ゴーガンをもって区切りとし、燃えきってしまって、やがて、一九〇〇年代、ムンクより始まって、キリコにいたる線は、寂しい空虚が、芸術を支配しはじめるのである。キリコの絵の、あの道のひろがりにみなぎっている寂しさがそれである。こころの中にひろがっている「空虚」が画面を支配し、近代的都会、機械時代、集団主義的意識に対して、個人と個性を守らんとする意識が、はるかに時代にさきんじて、空虚と畏れをもって脅えているのである。
 十八世紀のなかばから、経済が、大工業機構に移るにいたって、いわゆる、機械時代への恐怖が、きざしはじめるのである。世紀末の文学および絵画を経て、一九一四年、第一次世界大戦が始まるまで、これが、カント美学より、ニイチェ美学、さらにリップスの美学までの美学がたどってきた時代である。
 そして、この第一次、第二次大戦を経て、一九五〇年までの時代が、存在論美学、ハイデッガーよりルカッチ、さらに起りつつある唯物論、およびアメリカのプラグマチズムの美学の時代となってくるのである。そしてみな共に、カントにおけるように、個人および主観の確立の上に立ったものでなくて、その崩壊と再編成をその課題としているのである。また芸術の世界でも、映画が活動写真時代から、本格式な新しい芸術となってきて、個人が作る芸術から、集団人が、すなわち多数の人々の組織でもって作る芸術となってくるのである。
 しかし、オウエルの『一九八四年』にせよ、ゲオルギュの『二十五時』にせよ、文学の中には、この機械時代、集団単位の新しい時代への怖れが、今、世界を支配している観がある。これが今、芸術の世界の最も大きな課題となっているといえるのである。

地理のひろがりの中に
 同じ奴隷制が現われるにしても、いろいろの土地、いろいろの民族でその悲しみの味わい、またその悲しみを耐える耐えかたが、またいろいろの姿をもつものであることを考えてみよう。
 例えば、ギリシャ民族は、自分たちの悲しみを表わすのに、後にいわれるところの、運命悲劇のように、その運命を耐えきる、その忍耐の男らしさ、その強さなどのものが、だんだんギリシャ悲劇の特徴となってきたのである。例えば、エスキロスのプロメシウスの物語のように、人類に火を与えたがゆえに、自分はジュピターの怒りにふれて、大きな岩に自分の体を鎖でしばりつけられ、日ごとに、大きな鷲に自分の心臓をくちばしでみとられるというのである。この悲劇にもせよ、人類のために自分にふりかかる苦しみを耐えきっていくあえぎ、しかも、声を出さずにそれを耐えきっている姿、これが、ギリシャの芸術の一つの姿を形づくっているのである。
 また、ギリシャ彫刻の、ラオコーンの像を、二人の子どもと共に、蛇に巻きつかれながら、全身の力をこめて耐えているあのすばらしい彫刻を見よう。あのラオコーンの、口をかすかにあけて、耐えきっている姿、その肉体の堂々たる美しさ。これは有名な、古今を貫いての傑作といわれているのであるが、あのかすかに開いている口が、うめき声をあげているか、いないかについて、ドイツのレッシングと、ウィンケルマンは、いろいろと論争しているのである。しかし、そのうめき声を出しているか否か、いずれにもせよ、その運命を耐えている溜息ためいきが、今なお聞こえるほど、この芸術は、その耐えきるという男らしさ、心構えの苦しさが、そのまま人の魂をうっている。ギリシャ民族は、そうした魂の姿勢で、奴隷制という悲しい時代を、耐えきり、その中に歌をうたい、それを飾って生き耐えてきたのである。
 このことは、建築にも、同じ型で現われている。例えばギリシャのアクロポリスの神殿の柱を見てみよう。あの真中の辺が、少しふくらんでいる柱、あれをエンタシスというのであるが、ジッと見ていると、あの重い屋根をささえかねて、石の柱が、じっと撓んでふくれているかのような感じさえしてくるのである。何十本も立っている柱は、民族の上にふりかかる何かしら重いものを、耐えに耐えている、烈しい精神、それが、ギリシャの数々の神殿、神の宮居を形づくっているともいえるのである。何かあらゆる重さに向って、立ち向う精神の表現とでもいえるかと思うのである。それは、宗教というか、あるいは、ギリシャ人全体の、魂の奥に叫びつづけていた姿の、この上もない立派な表現であったともいえるのである。
 ところが、これをヘブライ人の建築に目を転じてみると、彼らの神殿、建築を考える時、後のキリスト教建築が全部そうなのであるが、すっかり様子が異なっている。ゴシックふうの寺院の建築を見ると、空に向って、尖った塔が何本も何本も立ちあがっている。日本の教会も同じように、屋根が空に向って尖り、そのさきは、針のように、空の中に消えていっている。あれは、中央アジヤの物語にある、バベルの塔のように、天にあがろうという憧れ、そして天にのぼりきれなかった嘆き、その魂の姿をこれほどみごとに現わした現わしかたはないのである。ヘブライの民族が、奴隷制の中に悩み、しかも彼らがほかの民族におさえられている時、その絶望的な悲しみは、かかるあこがれの魂、遠い神のすくいの、メシヤの国の出現に対する、遠い願いとして、彼らの願いは、その形式を整えたのである。その願いの姿は、空間に形づくるとすれば、あの教会にあるような柱の姿、天にのぼりきらんとして、空に消え去っているような、鋭い屋根の姿を形づくっているのである。
 つまり、魂が、その悲しみを取り扱う姿が、ギリシャにおけるように、それを耐えきるという姿をもつ場合と、ヘブライ民族のように、遠いものにあこがれることによってその悲しみを処理していくという姿との二つの姿が、彼らをして、空間を形づくり、空間を取り扱う二つの型をもたしめるのである。このように、空間は、生きているものである。空間の中に、人が生きているのではなくて、生きていることが、空間なるものをいろいろの姿にひずめたり、ゆがめたりするのである。それが、民族のいろいろの芸術の姿となって現われてくるのである。
 東洋では、この空間を、どう取り扱っているだろう。インドの仏教を、いろいろの姿で取り入れてきた、中国、日本の建築を見ると、ある共通性がないとはいえない。
 例えば、インドの浄土教に現われている、如来の願い、五十三の仏たちもが、人類のために願ったという願いを考えてみる時、あの五重の塔のように、幾つもの屋根を貫いて、天に向って願いを貫いている、仏教建築のように、やはり願いの姿勢を、そこに現わしているともいえる。
 しかしまた、法隆寺の柱に見られるところの、ギリシャ建築と、同じエンタシス(柱のふくらみ)を考えると、重さを深く耐える、深いあきらめの魂の思想もまた、その影響を見のがせないのである。
 日本の建築は、仏教建築というよりも、むしろ、伊勢神宮に見られるような、あの建築、桂の離宮に見られる茶室の建築が、最もそのほんとうの姿勢を現わしているともいえるのである。あの焼いてしまって惜しいことをした金閣寺の建築なども、その姿を伝えているともいえる。あの建築を、ギリシャ建築や、キリスト教の教会堂などとくらべて、どう異なるだろう。軽く軽く、何の重みも感じられないような、あっさりしたものが感じられる。
 日本人の美の理想は、芭蕉にいわしむれば、浅い川を流れる水のように、あくまですがすがしく、清らかで軽くて、とどこおりなく、明かるくて、さやけさとでもいうようなものが、美しいとされるのである。もったいぶったものは、それがちょっとであっても、臭みとか、重みとかいって嫌うのである。万葉の「さやけさ」、中世の「数奇」あるいは「わび」あるいは「物のあわれ」、さらには江戸にいたっていう、「いき」にしても、みな、滞るもの、もったいぶるもの、野暮なものから脱けだして、さらさら流れる水のような美しさが、喜ばれるのである。中国の美しさから、日本の美しさに移る時、ちょうど、いかめしい、重たい漢字の美しさから、さらさらと流れる「仮名書き」の字の美しさに移ったような、そんな軽みが日本特有の美しさとして現われるように思われる。
 茶室の柱や屋根は、ギリシャ建築の柱のように、いかめしくもなければ、教会建築のように、天を貫いてもいない。実にしずかに、軽く、宇宙の今と、ここに静まりかえっているといった感じでそこにあるのである。

4 生きていることと芸術


 さきに、空間が生きもののように、いろいろの形をもってひずんだり、ゆがんだりして、それぞれの民族の心を表わしていることを考えてみたが、それは空間ばかりが生きて、いろいろにひずんでいるのではなくて、時間もそうなのである。
 マルクスという音楽批評家が、リズムには、ドイツ語でいう「hin」と「aus」との二つのリズム、すなわちそこが、到着点としてのリズムと、そこが出発点となるリズムと二つのものがあるというのである。つまりポンとうつ太鼓だって、そのリズムの調子が、そこまでで止まってしまい、それを受けとめるために、ポーンとうつリズムと、同じポーンでも、そのリズムから始まって出発するために、ポーンとうつリズムとがあるというのである。生命の調子が、やっとそこまでたどりついた、じっと、これまでの時間をふりかえるこころの調子のものと、おさえられたものをふりきってでも、立ちあがり、うめきたち「さあ出発だ」と遠い憧れに燃えたっている魂の調子のものとがあるわけである。
 前章でのべたギリシャ人のこころがまえは、この考えかたでは、一瞬一瞬が、重いものをささえきって耐えてきたこころもちを表わしている。それに反して、ヘブライ人のこころもちは、どの一瞬もが遠い憧れに向って、はやりたち、燃えあがらんとしているともいえる。
「今」と簡単にいっているこの「今」が、こころの調子次第で、後に向って待ちうけるような「今」と、前のほうに向って出発点となるような「今」と、二つの感じをもっているのである。ちょうど陸上競走でリレーをする時、バトンを渡す人のこころもち、つまり、たどりきたった苦しみを、最後までもちこたえているこころもちの人と、そのバトンを受けとって、今まさにレースコースにつっ走ろうとする人のこころもちでは、同じ白いラインもゴールとしてのラインと、スタートとしてのラインと、二つの意味をもっている。人のこころの姿勢で、同じ一瞬間、すなわちこの「今」でも、二つの調子、リズムとなるわけである。民族の精神の調子が違ってしまうと、その取り扱いかたが違ってくる。
 同じ地平線も、重さを耐えて、耐えきったはての最後の線、ゴールラインとして、ギリシャ人は考えているし、ヘブライ人は、出発の水平、スタートラインとして取り扱っているわけである。立っている自分がもどかしく、建築と共に、あの天の中にのぼりたいと、憧れの魂の調子の中にいるのである。概して、歴史が、進歩するものだと考えている考えかたは後者の魂の調子の太鼓をうっているこころのリズムをもつものである。
 こう考えてくると「今」という時間と、眼前にひろがっている地平線の空間が、いわば一つに融けあっていることになってくる。生きているということ、この地上に立っているということが、この世界のいろいろのものを勝手に感じとり、勝手に解釈して、力みかえっている、このことが、実にみごとな証拠だといえる。別にそれをそう考えない民族は、すっかり違ってそれを取り扱うことともなるのである。
 日本人は、これをどう取り扱っているだろう。茶室の柱など、重さをささえているとか、空を貫くという考えかたをつとめて避けて、軽く、きわめて軽く、この空間に浮いているようなこころもちを現わしているようである。しかしその軽さは、きわめて、緊張したものなのである。前にも、後にも、動かしようもない、そのほかにはありえようもない、宇宙間の秩序の中に、その処を、しっかりと把握しようとしているようなこころもちなのである。
 日本語の、芸術家のよく用いるあの「」は、「あい」「があう」「がぬける」「にはまる」「がのびる、ちぢむ。」というあのは、時間にも用い、空間にも使うのであるが、これなどは、まったく日本的なものなので、英語に訳しにくい言葉である。テンポでもなく、スペースでもない。
 お能で、あの太鼓がポーンと切り込むが、あれなどは、それまでの一切の時間を、切って捨てたような感じのものであって、決して、オーケストラのリズムのように、次から次に続くものの、その一つをうっているような太鼓ではない。前にも、後にもない、鋼鉄のようにしまりきった時間を、ポーンと、凝集しきった形できめつけるような太鼓なのである。頭の中のものを裂かれるような快さである。モヤモヤした何ものもが、脱落しきった感じなのである。
 これが、日本の「」という日本の芸術の時間なのである。時間が、糸のように連続して流れていると思っていたのに、むしろ、切断されてしまって、ほんとうの自分が流れ動き、新しいものになっているのを感ずるのである。
 前の時間が、そのまま流れているのは、滞っているのである。切って捨てて脱落して新しく生まれるからこそ生きているのである。
」というのは、この生きていることを確かめる時間の区切り、切断、響きなのである。
 すべての音楽、舞、演劇、美術のすべてに、この緊まった、軽い「」なるものが、あるわけである。そして、この「」がわかるのは、ただ、訓練だけであると、東洋の芸術、および日本の芸術は教えているのである。
 なぜなら、この「」は、ただ覚えたり、意識してやったのでは、常に「のび」するものなのである。ほんとうに「にはまる」には、ただ訓練、一にも二にも練習がいるというのである。これは外国でも同じはずである。またスポーツでも同じである。
 この練習というのは、頭で考えたよりも、もっと自然なもの、もっと大きなものが、肉体の中から出てくるのを合理的に訓練するのである。力みから脱出する。ちょっとほめると、それを力みまねる。ボートでいえば、水を漕ぐのを忘れて、コーチャーの前に、ポーズでミーティングをやっている。これを叱りつけて、ただひたすらに水に身をゆだねまかすことでオールのコツを覚えるのである。ここで初めて、訓練の中で大いなるもの、自然なるものにまかすことが、ほんとうの合理的なものに到達することがわかってくる。
 浄土教で「他力」といい、如来にまかすというが、ちょっとやそっとでの訓練でここには、いたれないのである。
 誰がどういった、こういったと理屈こねるよりも、この困難な訓練の中に飛び込んでみると、それらのもののいったことの中の、一番ほんとうのことが「ハハア、これか」と初めてわかってくるのである。行動と実践が大切だというのはこのことである。この実践の中で、もう耐えきれないと思われるような訓練のはてで、コーチャーから「それだ、その調子」といわれた時、その行動の中にみなぎってくる、ほかにありえようもない一つの秩序、一つの安らけさ、ここに「があう」という「いきがあう」という、何か身をまかせた愉快な、やわらいだ、こころよさ、その美感が、ほのぼのと生まれてくるのである。
 この訓練と行動を尊ぶこころは、実は、大きな現実への信頼があって初めてできることである。現実の中に「論理的なもの」「正しいもの」が必ずひそんでいることを、信頼しきっている証拠なのである。
 これは大変なことなのである。自分の肉体を信じ、この世界を信じ、歴史を信じ、人類全体を信ずることなのである。
 歴史を信ずるというか、人類の歴史をよくしなければならないことに、全身を賭ける魂、その清らかな魂、強い魂の、果敢な態度が、その底に大きく深く横たわっている。仏教でいう、「大乗」というか、大いなるものに乗りきって、安んずるというものが、東洋の伝統の中に生きている。それは実に大胆な、宇宙にも挑戦しかねまじい、不敵な、フテブテしい一つの主張なのである。
 日本の芸術は、こんなに大きな主張の上に乗って、明治以前までにやってきているのである。私たちは今、もう一度これを振り返ってみる必要があるともいえるのである。

芸術とその媒介
 人は、それぞれの生きかたによって、すべてのものを勝手気儘に形づくっているのであるが、それは音の世界では、リズム、メロディー、ハーモニーとして現わされ、光の世界では絵画彫刻または、建築の柱や屋根に、生命の調子がいろいろの形式で現わされているのである。
 だから芸術は、時間だろうが、空間だろうが、光だろうが、音、言葉など、何でも媒介として、人々の感覚にうったえるもの全部を、生きているいろいろの調子で、どんなにでも変えてくるのである。しかし、これらのものを、自由に変える奔放自在な欲望が生まれ、またそれらのものを変える権利をもったものは、それを生みだすものが、つまり自分が、「今」と「ここ」にほんとうに生き、「あっ」と叫び声をあげるような生命にめぐりあった時だけなのである。それがどんなに悲しい時であれ、それがどんなに怒りに満ちたものであれ、ひしひしと「生きている」「生きている」と、自分が自分の生命に驚きの声をあげる時のみ、人々は、時間に、空間に、光に、音に、言葉に「これをこんなに自由に、使いまくれるんだ」「命令しうるんだ」といいきれるのである。ある時は、自分の生命に向って、この生命を亡くしてもいいのだ、「この命よ、これで亡んでくれ」と、自分にいいきかすことができる時こそ、人間は、光に向って「かく光よあれ」、言葉に向って、「かく言葉よあれ」と、命令できるのである。
 そんなたかぶった命、高揚した自分を、いつつかめるだろう。
 昔の本の『耕雲口伝』にいっていることであるが、「唯、寝食を忘れ、万事を忘却して朝夕の風に耳をすまし、何時も胸中に、大疑団、大いなる疑のある如くに暮し明かせば」いつか、かかる自分にめぐりあうといっているが、この生きていることに大いなる不安、大いなる憤り、大いなる疑いと畏れを持ちつづける、まじめな態度が、このめぐりあうことの前提となるのである。むしろ、ほんとうに、眼を見開き「何ものかが宇宙にあるにちがいない、何ものかが人生にあるにちがいない」と、問い求めていく、容易ならざる命の一瞬一瞬を手離さない時、私たちはいつの日にか、この自分自身に、この動きゆく自分に追いつきそして追い抜き、自分自身にめぐりあう時がある。
 フランスの平和のために闘った闘士であり、またロマン・ローランの友だちであり、しかもその真剣な闘いのために暗殺されて命を終ったジャン・ジョレースは、次のようにいっている。
「時々私たちは、大地を踏んでいると、その大地を踏んでいることが、大地そのもののように静かな深い喜びを感ずることがある。私はよく小道をよぎったり、野原をよぎって歩んでいると、自分が踏んでいるのが大いなる大地である、ということ、しかも私がその大地そのものであり、大地であるということを、愕然と気づく時があった。そして思わずしらず私は歩みをゆるめた。大地のこの大いなる表面を歩むのに、別にコセコセするにはおよばない。一足ごとに私は大地を感じており、大地をすっかり把握しているのだから。また私の魂は、いわば、最も奥の深いところへと探りすすんでいたのだから。だから私は、私の歩みをゆるめたのである。また私はよく溝の辺に臥して、日が沈んでいく時柔らかな深い深い青色の東方に向って、大地が大いなる旅をしつつあること、また一日の疲れと、日の沈んでしまった地平線の彼方に、彼女はめざましい飛躍をもって、静かな夜と、無限の地平に向って飛び去っていること、そして、大地が私をも、その地平線の彼方へ連れていってくれることを思ったのでした。私は、私の問いの中に、私の魂の中と同じように大地そのもののわななき、進んでいく大地の飛び去りゆくわななきを感じた。そして私は、私たちのまえにただ一つのしわも、ただ一つのひだも、ただ一つのささやきもなしに開いている、しずかな寂かなこの青空に、不思議な和やかさを見いだした。おお、私たちの肉体と大地との、この友情は、私たちのまなざしや、星の輝く大空の中にさまよう、漠然とした友情よりもいかばかり深く、いかばかり強烈なものであろう。もし私たちがこの大地に結ばれていることを、こんなに深く感じなかったら、この星の散らばっている夜の美しさは、こんなにみごとな美しさとはならなかったであろう。」
 こんな言葉を読んでいると、彼が一瞬一瞬、実に生き生きと、ほんとうに生きているのだと思わずにいられない。こんな生きかたにくらべたら、私たちの一日一日は、あたかも、一日一日、いたずらに酔生夢死しているようであるともいえる。ジョレースはこんな立派な生きかたをしたから、だからこそ、暗殺されることを何とも思わずに、平和のために政治家として闘えたのだと思わずにいられない。そして、その信念のためなら、「自分に死ね」と命令することがみずからにできたのである。ほんとうに生きるには「これで自分に死ね」といえなくてはほんものではない。こんなすばらしい生きかた、また世の中を見る目を考える時、ぐずぐずと人の悪口をいったり、それに腹を立てたりして生きている自分たちの日常の生活、そして人生を見る目は、何だか死んだ魚のうるんだようなまなざしでしか、私たちは世の中を見ることができないのかと思えてくるのである。自分自身をすら、うす汚れた、うるんだ眼で見ているのである。ジョレースが見ている目のように、「今」と「ここ」に生きていることを生き生きと自分にいいきかせうる自由な魂が、自分の中に姿を現わす時、初めて私たちは自然を見、人生を見、自分を見ることができるのである。そしてその時初めて、自分自身にめぐりあったともいえるのである。
 かかる生きた眼によって見る光が、初めて明かるい光、暗い光、燃える紅、しみ入る大空の自由の青さを見ることができるのである、その生きている喜びを、光に託して、音に託して表現し、またせずにはいられなくて表現するものとなるのである。
 それを見るものは、その光を通して、その音を通して、その生きたいのちのいぶきにふれて、自分もが自分の生命にめぐりあうきっかけを得るのである。それが芸術というか、美の世界なのである。俳句でいう、季という言葉がある。季節のことであるがつまり、春夏秋冬が、俳句の中に必ずなければならないということである。しかし、蝶を春、霧を秋などときめてしまうのは、まったくばかばかしいことで、もし今いったように「今」と「ここ」に生きている喜びをうたう時、必ずその時、季節ある場合は、その「歴史」すらが必ずにじみださずにはいられないのである。俳句でいう季もこんなことをいおうとしているのだと思う。この「今」と「ここ」に生きている、この「永遠の今」という感じが、ほんとうに、日に新しく、日々に新しい世界ともいえるのである。
 この生きかたで光の中に呼吸する時、明かるさ、暗さ、つまり明暗ということはただ光線だけのことでなくて、芸術の世界に明かるいもの暗いものという本質の世界があってそれをいっとうよく表現するのに便利な世界が、目に見る光の世界となってくるのである。
 音でも高い音、低い音と一般にいうけれども、別に音の世界に空間的なはしごがあるわけではない。何か高いもの、心の中に何か高い高いものがあって、それが音とか、空間に、高い低いの意味を盛ってくるのである。そして命は、高くけだかいものに連なって、あるいは高くひるがえり、あるいは深く地の底までも沈みいくのである。こんなに考えてくると、私たちの身体は全身これらの感覚のうつしあう鏡の、いっぱいにある宮殿のようなものなのである。いろいろの感覚がまざりあって、一つのハーモニー、和音を形づくるのである。一つの波が、光の世界、音の世界、言葉の世界にと、次から次へ響きあって、無限のハーモニー、和音をかなでているともいえるのである。だから芸術の世界での媒介は、空気や、エーテルのような媒体、メディウムではなくて、例えば私たちの肉体のようにその全体が凛とした響きでもって、響きあっている生きた大交響楽ともいえるのである。
 仏教の華厳経の中にあるように、この肉体が実に宇宙にも比すべき、燦爛たる浄土となってくるのである。これをただ、汚いみじめな悪魔的なものにする人こそ、みずから地獄に落ちているともいえるのである。

生きていることの美しさ
 美とは、自分にまだわからなかった自分、自分の予期しなかった、もっと深いというか、もっと突っ込んだというか、打ちよせる波のように、前のめったというか、自分が考えている自分よりも、もっと新しい人間像としての自分にめぐりあうことであることを、繰り返し繰り返して考えてきたのである。自然を見て、美を感ずるにしても自分が自分の中に安んずるというような、解放されたこころもちを感ずることと自分はいったのであるが、しかし、安んずるといっても、すっかり手足を伸ばしてグーグー寝込んでしまったのでは駄目である。自分が自分自身の無理なもの、無駄な飾り、いらない重たいものから抜けだして、日に新しく、日に日に新しく自由な、ほんとうのものになるということの中には、常にまといつく古いもの、進みいこうとする足もとに群がってやってくるタックルのようなものを鋭くはらい捨て、脱落し、脱走するある切実なものがあるわけである。万葉時代から中世にかけての自然に対決するこころも、いわば「さやけさ」、「清明」きよくすがすがしきものも、やはりかかるすべてを脱した虚なるものである。わび、すきというけれども、そのすべてが、重くるしいもの、無理なものをふり捨てて、みな深く切実な一心の集中によって、心の飾りをふり捨て、深い沈潜となり、人生の寂しいまでの奥底を見せることなのである。しかしやがてこれが、だんだん言葉の遊びとなり、マニエールとなるのである。つまり深く切実なせつなさをもって物に対決するこころが、公卿の階級から失われていった場合、すでに武士の世界では、命と命との真剣勝負の食うか食われるかのせっぱつまった世界が現われている。そしてその人たちがその時代の文化をささえはじめるのである。この時代において、自分がより新しく自分から脱出するということは、切って捨てるような感じでもって、自分自身を捨て去ることが、この生活の基準となり、また芸術の調子ともなるのである。さきにのべた能の太鼓の調子のように、時間や空間を切って捨てる「」の中にある美しさが実にそれである。つまりそれは、おたがいに切り結びあうことをもってのみ、存在しうるという時代の、一つの大きな特徴となってくるのである。新しくなるということは、この時代の人々にとっては自分が、自分を切り捨てることであって、この切断する感じ、これがこの時代の美の、大きな要素となるのである。
 能の世界で、おしつめたような声の出しかた、それを切って捨てる太鼓、その緊張のすべてが、世阿弥の創りだした能の世界である。武士の趣味にかなうように、限りない哀感をもってひえびえとした美しさを編みだしているのは、次から次に切り捨てていく時間の構造を実に立派に、弁証法的美の構造につくりあげているのである。
 つまり武家の美しさは、あの藤原時代の、万物のもつ物哀しい哀感に身をゆだねるあの生きかたを、切って捨てる一つの脱出だったのである。新たな人間像をそこに創造したのである。しかしこの創造された人間像も、やがて再びいき過ぎたり、または崩れて、その立場が失われていくと、ただ武骨なもの、野暮なものとなってくるのである。
 もはや江戸時代においては、町人が時代全体をにないつつあったのである。彼らはすでに、肉体の存在の無限に豊かな世界の発見、その自由を獲得しようとする反抗、つまりここに、町人としての新しい人間像が生まれはじめるのである。またしても、一つの大いなる脱走、脱落なのである。この世界こそ町人のいきの世界である。これは武家に対する「意気地」から出発したのであるが、これはやがて江戸の「いきこのみ」というか「粋」になっていくのである。「粋」とは、米へんの、精とか粋とかいう言葉があるように、米がその「もみ」をとり「かわ」をとり、青光りするほどその「ぬか」をとって、真裸かのもの、裸々堂々と、すべての飾りを脱ぎ去ることなのである。武家の着こんだかみしも、長袴をみごとに「野暮」と捨て去って、幡随院長兵衛のように鎗のふすまの中に、裸一貫でとび込んでいくあの意気、あれが新しき町人の人間像、一つの美の類型となっていくのである。それは赤裸々であるがゆえに、新しく生まれる巨大な、不敵な太さが、そこに現われようとしている。団十郎が、初代から何代も何代もかかって描きに描き次第に大きくしていったあの「太さ」の芸術なのである。あの江戸前の声色の大きさ美しさは、能楽の節廻しにはみられない。町人が武士の前に、あくまで抵抗しぶっつかっていった新しい人間像なのである。ここにも過去の重いものを抜け去り、捨て去る「イキ」として、立派に弁証法的な、ダイナミックな「契機の美」の構造が「意気の美」として現わされているのである。
 町人の美、市民のもつ美は、批判の精神、ハムレットの自己に対する批判、ローマン主義のアイロニー(皮肉)やがて、オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』などのように、自分と自分の肖像の戦いとなって現われてくるのである。やがてそれはアプレゲールのシュール・リアリズム、あるいはもはや全然肯定のない単なる否定の連続に陥るダダイズムにまでいたるのである。
 では、現代は、例えば意気の歌舞伎からダダイズムまではどんな方向をもって脱出しようとしているのであろう。
 これは実に今、人類全体の課題なのである。人類は今、その問題の前にたたずんでいる、ともいえる。私はこの問題の前に立ちながら、一つの思い出がある。あのツェッペリンの飛行船が、ドイツから東京の上空にくる時、シベリヤの空で七時間ほど全世界から消息を絶ったことがある。シベリヤの空であのツェッペリンの船体の表面に氷が張ってきたのである。そしてその重さのために、だんだん高度が落ちてきたのである。そして刻々と絶望的条件に陥っていったのである。全世界の無線電話の電波は、この苦しんでいる白銀色のグラーフ・Zに向って、無電の網の目を投げかけていったのである。しかしやがて破綻の寸前、地殻のかなたから、太陽がその船体に光を投げかけはじめた、そして重い氷はその船体から一塊り、一塊りと落ちはじめたのである。
 ツェッペリンは一メートル、一メートルとその高度を上げだしたのである。私はこの報道をラジオで聞き新聞紙上で読んで、まことにそれは美しい、実に新しい詩であると思わずにいられなかった。私はこの時、古い中国の物語を思いだした。昔中国の物語に次のようなところがあった。徹宵夜の守りについた将軍が、じっとその任務に従っていたために、その甲冑、そのくさずりに、氷がいっぱいはりついてきた。夜が明けて彼が初めて立ちあがる時「鏘然そうぜんとして声あり」シャラランとその甲冑の上を氷が滑り落ちていく、というのである。
 この一節を読んで、実に美しいと思った。自分の心の中の滞っているもの、古いものが、落ちていく音を、今、聞いた思いをしたのであるが、今またツェッペリンの巨大な船体から大空の中に、落ちいく氷の、一片一片の音のない脱落の音は私の心を実にゆすぶったのだった。ここに新しい機械時代の詩が生まれでようとしているのに気づかずにいられない。まさにアメリカ映画の『Sealing o』は[#「『Sealing o』」はママ]それらに似たテーマを題材にしようとしていたことがあった。
 美は常に、無限に変りつつあるといえる。しかも、それは新しい人間像を、新しい人間像を、と追い求めているともいえる。しかしそのすべての美が、脱落のもつ美しさが、滞るものからみずから逃れようという、そのきっかけにおいて、たとえ自分についている薄い氷のようなものが、甲冑の上をさらさらと流れ落ちるのであれ、ツェッペリンの上を流れ落ちるのであれ、鏘然と流れ落ちていることに変わりないのである。万葉の「さやけさ」という美のすがたでも、藤原朝の「わび」という美のすがたでも、中世の「すき」という美のすがたでも、町人文化の「いき」という美のすがたでも、そのすべてが、無理なもの、無駄な力んだもの、醜い重いものを、ほんとうのものからさらさらとほうり落して、自然さながらなるもの、鍛錬を貫いての裸のものになっていくことの美しさにおいてみな一つなのである。流動してやまないにもかかわらず、常に一貫した日本民族の「美の類型」には、変わらざるものがあるかのようである。芭蕉のいう「不易流行」流れ動くものの中に変わらざるものがあるという考えかたはここにあるかと思われる。

5 描くということ


 対象を人間が描くにあたっていろいろの立場がある。
 一つは物を描くというのは、外界のものを自分が見てそれをできるだけ向うに似せて描く、すなわち写実するというふうに考える立場である。いわばこれまでみんなが考えている考えかたはそれである。この考えかたには外界ではものに色が着いて、そんな形をしてあるものだともともと考えているのである。それを自分が鏡のように見て、それをカンヴァスの上に再現するという考えかた、いわゆるほんとうのように描いてあるといって驚き、かつ喜ぶ世界である。肖像画などを見てよく似ているといって喜ぶ世界である。これは絵画を最も簡単に、最もプリミティヴに取り扱う立場であり、しかもそれは十人中八、九までがそういうふうに考えている考えかたである。
 第二の立場。ところがほんとうは外にものがあって、それに色が着いているのではないのである。色は実は自分が着けて見ているのである。自然そのものには色もなければ、それ自体厳密にいうならば分子構造の運動体の集合にしか過ぎない。青いと感じ、赤いと感ずるのは自分以外の何ものでもないのである。厳密にいうならば右の目と左の目でも同じ白いものも少し青みがかったり、赤みがかって違って自分には感じられているのである。自分の右の目と左の目が違うくらいであるから、他人と自分とはまったく違った色を同じ色といっているかもしれない。おたがいにまことに空恐ろしいほど、現実の真実は普通に考えているよりも違った姿をもっているかもしれないのである。いわんやましてこれまでの人々がいうように、ある画家が生きて初めて日本の山がその姿を現わしたともいえる。「大雅出でて日本の大山名嶽その命を得たり」という言葉があるくらいなのである。つまり芸術はほんとうは、自然に対する人間の深い憧れ、あるいは感動、それをカンヴァスの中に再現あるいは表現するのであって、実は線、光、色、ニュアンス、そのすべてが自分のもの以外の何ものでもなく、またその表現の美しさを除いてただ写実であるならば、われわれは写真ができた以上絵画の任務は終っているはずである。むしろすべての絵画は自分の語らんとするこころを表現するものであるという立場がここに新たに現われてくるのである。表現主義はその主張の最も大いなるものと考えられなければならない。すなわちこれは東洋においては胸中の叡嶽、つまり胸の中にある常に現われるところの美しい山、この胸のうちに聳えている山を表わすのが東洋における山の描きかたである。この意味において東洋の芸術観には写実というよりは、むしろ表現主義の立場がより多いのである。例えば木米の化けもの山水といわれているがごときもの、これは胸のうちに激しい激情をもって聳えたっている山を表現したがゆえにかく名づけられているのである。
 さらに第三の立場は、これは近代の哲学、例えばベルグソンの哲学のごとき、生命は常に脈動し、飛躍しているものであるにもかかわらず、われわれがそれを捕えてみる時、あるいは考えてみる時、それはすでに止まれるもの、いわゆる過去のものとして捕えられるのである。すなわち切断されたる時間に過ぎない。この時間を乗り越えて時間は無限の流動を持っているわけである。かくして描くということは真のその現在を捕えることはできないという考えかたがある時代を支配したのである。ここでいわゆるジェリコの馬という事件が起ってくるのである。これはすなわち競馬場における激しい競走の瞬間の馬の画をジェリコが描いた時、その足は、すべての馬の足が伸びきって描かれているのである。しかもそのことによって競馬の澄みきった、息の詰まるような瞬間が描かれているのである。ところが人々は馬がかかる姿勢で、走る瞬間があるかを疑ったのである。このことは画家の間で大問題となり、馬のどの瞬間をも映画で写してみて、かかる瞬間があるかないかを賭けをすることとなったのである。そうして事実は足を伸びきって走る時は馬にはほとんどないということが調べた結果わかったのである。にもかかわらずわれわれはこのジェリコの馬の、澄みわたった切迫した競馬の雰囲気を表わすこの絵画の価値を何びとも疑わず、それによってのみその真実の競馬の瞬間が表わされているとするのである。ここではわれわれはすでに人間の表現というべきか、あるいは絵画の写実というべきか、そのいずれの議論からもはずれた形でもってわれわれはこの絵画の真実と現実について新たなことを経験するのである。いわゆるシュール・リアリズムが起りくる原因はここにあるのである。真にリアルであるためには、われわれはリアルを越えなければならない時もあるのである。
 このシュール・リアリズムにいたる途として一つのまた興味のある考えかたがある。これはすなわち印象派、あるいは点描派の立場であるが、この考えかたは、太陽は実は七色である。その七つの色が目の中でいろいろの形の色としてまざって現われてくるのである。例えば赤い色のそばには陰として緑色の縁取りが現われてくる。これをプールキンエの法則といっているが、実はそれは現実の色の世界にある現象ではないのである。われわれの目が赤の色に対しては緑をその対応した色として補って目の中でその現象が現われてくるのである。このことを捕えていわゆる点描派は色をまぜあわさずにカンヴァスの上に原色を二つ並べてぬりつけるのである。そうして遠くから見るとその二つの色が見る人の目でまざって、色をまぜあわしたよりも生き生きとした色をもって現われてくるのである。これなども、それを現実に活かすためには現実であるよりも、外の在りかたをもって描かなければほんとうの現実が現われないとする立場である。ここにも軽い意味において超現実派の芽ばえがあるといえるのである。ピサロなどがこの立場である。
 第四は、いわゆる存在論的立場とでもいうべき立場であるが、カンヴァスをなぜ外界と自分の間へ立てなければならんかという問題の時に、かかる立場では存在自体が自分にとってすでに「問い」である。また自分自身が自分にとって「問い」である。この「問い」が真に切実なる存在感にまで到達する時、いわば寂しさにまで澄み透った存在の哀感、あるいは不安にまでそれがつきつめられた時、彼は存在とは何ぞやといって、この存在自身に向って問いを投げかけるのである。すなわちカンヴァスの白い布はこの「疑問の記号」である。そうしてこの物狂おしきまでに澄み透った存在への疑問の激情が一筆一筆、あたかも一つの「問い」二つの「問い」三つの「問い」の形で投げかけられる時、その一タッチ一タッチ、存在に対する「問い」の形においてその存在論的時間が流れることとなるのである。だからすでにここではカンヴァスは二次元の空間ではなくして、過去の自分を一タッチ一タッチ向うに押しのけていく、動いていく時間の壁となってくるのである。あたかもボート・マンが一漕ぎ一漕ぎ固定した座の上で漕いでいるけれども、実はそれは無限に自分を脱落し、無限に自分を自分のうしろに投げだしているかのように、一漕ぎ一漕ぎは自分を抜けだしているのである。ちょうどそれのように絵画は、一タッチ一タッチ自分の習気、つまらないみえ坊、あるいは滞った、腐った自分、それから抜けだすために一筆一筆が自分から脱落していく、こんなふうに考える考えかたもあるのである。東洋における絵画が悟りの道であるといったような考えかたなどは、かかる考えかたにあたかも似ている。それは画竜点睛などという言葉があるように、竜の目を入れる日のためにあらゆる竜は描かれており、自分の生命の存在への「問い」が答えられた、高まった瞬間にこの竜の目を入れて、彼は自在の世界に移入しているのである。存在の最も高揚したその瞬間のためにこの絵画は用意されているのである。かかる瞬間は実に人間に何度訪れるかわからないような永遠の一瞬であって、いわゆる「シン来ってこれを助く」と、あるいは「そのシン去ることいよいよ速かにして、そのシンいよいよ全し」というような、あたかも飛ぶ鳥が目を過ぐるがごときはかなさをもって人を訪れ、しかも捕えがたい翳をもって去っていくような瞬間なのである。竜を描いてその眼を描く、いわゆる睛を点ずるということはかかる瞬間をもったしるしであり、また容易ならざる瞬間でもあるのである。

光の中に
 昔、人々は暗い顔とか明かるい顔とかいったけれども、これは実はほんとうの光のことをいっているのではない。何か光とでもいうべきものということを考えているのであって、実は太陽の光と影に気がついてこれを画の上に展開していくのはよほど近代の世界である。
 古代においてはこれにはほんとうに気がついていないのである。何となく明かるきもの、何となく暗きもの、これはむしろ幸いと不幸、いいことと悪いことといったような対立であって、光線としては捕えられていないのである。現代までの水墨画、すなわち陰影のない絵画は常にそういう人々の考え、これはいわゆる原始的形態における光に対する考えかたである。
 第二には中世の欧州の絵画のごとく、神の光とでもいうべき光の下に絵画がひたされているのである。これをムーテルはソースの中を漂っている絵画という、これもまったく太陽の光の下で描いているのではないのである。十六世紀までの宗教画は常にこういう茶褐色の光、これは神に照らされたもののみが明かるく、神より遠ざかったものは暗の中にいるという宗教的感覚が絵画をかくのごとく描いて、当り前だと常に思いきたったのである。
 ところがルネッサンス、すなわち自分がこの世界を見ているのだという新たな驚きにふれた人々は、初めて太陽の光を描いているのだということに気がついたのである。ルネッサンスの絵画はこの太陽の光を描きはじめたのをもって最も大きな展開期とするのである。やがてこれが十九世紀の末にいたって、ゴッホ、ゴーガンのあの太陽の光の洪水、あの太陽の光の賛美によって頂点に達するのである。いわゆる絵画がかくのごとき形における脱落をしたのは、まことに十七世紀の人間が自我を自覚し、太陽の光に気がついた時にその端を発しているのである。またこのことはすべての光が自分を中心に集まっているということも人々に気がつかれることとなるのである。いわゆる遠近法、すなわち人がこの宇宙の中に立って見ている時に、実は自分が向っている目の方向の無限のはてに向ってしかも自分一人のため全世界は集まっており、そばに立っている誰にもがこれを強要することもできなければ、わからすこともできない。自分の見ている目の永遠の焦点のはてに向って、その一点に向って全世界が集められて大体系をなしているということに気がついたのである。これは実は自我が宇宙に向って対決するにあたって、愕然と驚いた、あるいは正しく驚くべき認識論的大原則なのである。これを絵画の世界で現わしたのが西洋でいうならばルネッサンス、日本ではこれは実に徳川末期の非常に新たな浮世絵の取り扱った手法であって、これこそはいわゆるブルジョアジイ、町人が捕ええた自我の確立のめざましい証拠なのである。
 ところが太陽の洪水ともいうべきあの光の氾濫、光が一八〇〇年代をもって終りをつげ、ムンクあるいはその他の人々の画のさきぶれしたように、太陽の光が人類の眼前で凋落しはじめたのである。ちょうどこれは映画が電気によって新たな光の世界を支配する段階にも似て、カンヴァスの中に太陽とも電気とも、何の光とも知れない青白い光がみなぎりはじめるのである。
 かつて中世の神の栄華を飾ったものでもなく、また燦爛たる外光でもないものが短時間のうちに入り込んでくる世界、これが現代のシュール・リアリズムの流れにまでつながっているところのものであり、この光がわれわれにとって新たな課題となりつつある。しかし思うに彼らがピンゼルを取るにあたって頭の中を支配した新たな光、心の中に発する火花、いわゆる感激に満ちた人間的光の下に絵画が描かれはじめていることに間違いはないのである。

音の中に
 前に少しふれたことではあるが、おそらく人類が、人類としての生活を始めるにあたって、彼らは生活手段としての労働、いわば狩、あるいは農業その他のことによって生命を繋いでいたのであるが、いつのまにか、その弓絃の音を、生活の手段としてではなく、音そのものの感情、すなわち美しさ、あるいは喜び、悲しみを表わすものとして感じ、そのことが、彼らの音楽への新たな美の創造に誘ったとも思えるのである。絃楽器の多くが、弓絃の形をもっているのも、このことを意味するのであろう。
 さらに、打楽器としては、米麦をく臼など、それのもっているリズムが、太鼓、鼓の原始的な出発となったであろうことは、その形によっても人々が認めている。また、物をつくる時、石でうつ動作が、自然にリズムとなっていくことが、打楽器の起る基礎となったものと思われる。
 あるいは植物や、石などの空洞が発する音から、管楽器も生まれてきたのであろうが、やがてそれらの音自身のもつ感情への影響から、みずから歩くテンポにあわせて自分の咽喉から発する歌の世界などが生まれてきたと思われる。
 さらに人々が、語り伝えたい物語を、何度も何度もものがたっているうちに、やがて歌の形式となり、物語ふうの音楽が生まれてくるのである。ホーマーの詩におけるごとく、平家物語におけるごとく、激しい戦いや、人々が何度も聞きたい物語などのように。
 このような意味で音楽の発生は、生活手段としてのあらゆる労働、あるいは食事など、生活と切り離すことのできない出発点をもっているのである。この出発から、やがてその数十万年の人類の原始生活を経て、やっと歴史のある時代となるのである。この最初の時代が、奴隷制時代である。
 この時代においては、音楽をかなでるものは奴隷であり、鑑賞するものは奴隷所有者であったのである。
 この次の時代、いわゆる、封建時代になってからは、鑑賞する者は、その封建諸侯であり、演ずるものは、封建的隷従者であった。これらの時代の音楽は、宗教的な雰囲気をもちはじめるのである。そして宗教の援助者として用いられることになってくる。
 これらはすでに、かつて、狩の場でみずからの弓絃に耳を傾け、あるいは臼で麦をきながらみずからのリズムの中に労働の歌を生みだした時代とは違って、一つの目的のために音楽が独立して一つの世界をもちはじめているのである。
 教会の音楽もこれである。宗教学校には、声楽の級があって、ここにキリスト教音楽として特別な訓練を受けた合唱隊が現われてくるのである。いわゆる合唱におけるハーモニーをもつ集団的音楽は、この時代にその姿を現わしてくるのである。
 東洋においても梵唄のように、お経としてのハーモニーが、宗教的感情を導きだすのである。こうして梵唄は東洋におけるハーモニーの出現のもととなったのである。
 宗教が、言葉でいえないものを、音の世界でその雰囲気の中に、一つの特殊の感情を表現しようとする芸術形式を持ってきたのである。これは、生活と労働から、音楽が遊離していく第一歩であった。やがてこの宗教音楽がみずから封建領主によって宗教的要素がなくなり、むしろ宴会や、大きな集まりをもった時の余興としての音楽が始まり、いわゆる宮廷音楽という形で新たな面をもつのである。この道を切り開くにあたって音楽は、宗教的雰囲気を残しながら、しかも宮廷の建物にふさわしい、その雰囲気にふさわしい甘いきらびやかな音楽形式をもっていくのである。これがバッハからハイドンへ流れていく、宮廷的雰囲気の中にあって、しかも宗教的形式がその影を深く後引いている音楽の形式なのである。モーツァルトもその例の中にあるともいえる。
 このような推移の中に、ルネッサンス以後の人々が、創りあげる芸術の中では、その対象すなわち描くべき何ものかを形としてもたない芸術としては最も自由な表現力をもつこととなるのである。こうして音楽はベートーヴェンの切り開いたように、主題をもつのである。一つの表現せんとするテーマをもつ主題音楽として、非常に大きな芸術分野となってくる。そしてもはや生活とは遠くはなれて、ただ音の約束の世界で無限な表現主題をもつ自由の芸術としてその姿を現わしたのである。
 しかし、私たちが深く顧みなければならないことは、これらの作曲には犯すべからざる約束があり、拍子も、二拍子、三拍子四拍子などと固定された厳格な規定が成立し、作曲の主題の配列の仕方も自由ではなくなっているのである。そしてあたかも音楽は、数学の構造のように、リーマンがその理論をうちたてたように、音の函数としての抽象音楽となってきたのである。いわゆる、古典的音楽ともいうべき一群の欧州の音楽、いわばパリーにおいて、あるいはウィーンにおいて、世界の音楽家が集まって創造した一つの雰囲気は、あたかも国際的ともいうべきであろう。ショパンはポーランドを離れ、あらゆる楽団の人々は、パリーにウィーンに集まって一つの音楽形式を創りだしたのである。
 しかし、ここに問題があるのである。それはもはやどこの国民のものでもない音楽といってもよいのである。ことごとくの古典音楽、主題音楽は、どの国民にとってもある意味において貴族的であり、高度のものであり、特定の感情領域として捕えられてくるのである。しかもそれは、そのリズムにおいて一定の制約があり、メロディーにおいて一定の構造をもち、ハーモニーにおいて動かすべからざる約束をもっている音楽の世界である。
 これが十九世紀まで築きあげられたルネッサンス以後の欧州の音楽の姿である。ところが、二十世紀にいたって、ある一定の約束をもった古典的な音楽様式が、いろいろの形において崩れはじめたのである。いわばこれは、この特定の音楽のほかに、例えば東洋の音楽が、東洋の三千年の歴史と共に、その人々とはまったく別の発展の形をもって発展していたのである。これは二十世紀の音楽家に大きな驚きをもたらしたのである。
 例えば、ドビュッシイが、かつてパリーの万国博覧会で、ジャバのガメランの音楽を聞いた時、彼は根底的に驚いたのである。彼はいっている。「もし、ヨーロッパ人にありがちな偏見を捨てて、われわれがこのジャバの音楽、音楽家たちの、打楽器の魅力に注意を払うならば、われわれはいやおうなしに、われわれの楽器がこれにくらべると曲馬団の野蛮な騒音に過ぎないということを承認せざるをえない。ジャバの音楽は、一種の対位法であり、これにくらべると、パレストリーナの対位法は児戯に過ぎない」と。
 ドビュッシイは、日本の浮世絵にもくわしく、金色の鯉を見て、彼は、「金の魚」というテーマの音楽を作っている。彼の音楽は二十世紀の音楽であって、彼の作品は、十九世紀のあらゆる作曲法をも打ち破る新たなる形式を繰りひろげてきたのである。すなわち、近代音楽とは、この十九世紀までに形づくられた音の世界の約束を、ことごとく打ち破ろうとして、新しい音楽をめざしているのである。
 例えばチャイコフスキーは『悲愴、パセチック』の曲において、第二楽章に五拍子という、新しい拍子を創っている。人々は非常に驚き、しかもその自由な拍子の中に新たな感覚、新鮮さを発見したのである。
 このように、東洋において、別個に発達していた音楽が、十九世紀の音楽を動揺させたように、またアメリカにおいて、黒人に関係があると思われるジャズの、新たなリズムの構成、ハーモニーの組替えのように、まったく新しい音楽の世界も現われたのである。そして、オネガーの『ピアノ協奏曲』のように、またはガーシュインの『ラプソデー・イン・ブルー』のように、音楽の世界には、あけぼのがそこにその姿を現わそうとしているかのようである。これはあたかもハワイの人に、スペイン人がギターを与えた時、彼らはそれを膝の中に置いて独自の弾きかたを、すなわちハワイアン・ギターの様式を創造したように。
 こんな意味で二十世紀の音楽は、教会音楽から主題音楽にまで発展したといった、あの欧州の一角の音楽に対して、あらゆる民族がみずからの民族にふさわしい形で、あるいは東洋において、あるいは黒人によって、あるいは南洋の世界にと、散らばっていたリズム、ハーモニーをらっしきたって、新たなリズム、メロディーを創り、近代の感情にふさわしい表現をとろうとしたといえるのである。
 このことは、もう一つの見かたでいえば、民族化するということのほかに、実は音楽をことごとくの民衆がみずからのものにする運動の一つであるともいえるのである。単に高度な主題音楽の根底に、二十世紀のいろいろの作曲家は、みずからの民族の民謡を盛り込もうとしたのである。すなわち私たちは、音楽のはじまりの姿、労働と生活の中に音楽を発見した昔に、地球上全体の民衆が帰ろうとしているともいえるのである。かつて、深い山の上で弓絃の音に耳をすましたように、今やコンクリートの舗道の上で、自分の生活の中に新たな弓絃の音を聞こうとしているともいえるのである。
 軽音楽の世界もここにあるのである。実にこの十年の間に、新しい出発をしているともいえる。それはかつて奴隷が演奏家であり、また封建隷従者が演ずるものであった時代とはまったく異なった意味で、レコードが生まれ、販売される音楽として新しい音楽の位置を築きつつある。
 それは利潤を求めて製作され、利潤を求めるために頒布される。音楽の新しい運命であるともいえる。なるほどそれは大衆化されてはいるが、利潤対象としての大衆が、そこに運命づけられて生まれているかもしれないのである。音楽が、この利潤の隷従者となりつつあるということもいえるのである。しかし、とにかく音楽が、今や大衆のものとして、その形を整えようとしてもがいていることに、われわれは大きな歴史的反省をしなければならないのである。
 これが、映画のトーキーの発達と共に、またラジオの出現と共に、電気の構造の中に、音楽がその表現力をもって現われていることは、大きな革命を、音楽の世界で人類はなし遂げつつあるのである。マイクロフォンの遠近、方向とその増幅、その他のことでこれまでの音楽の発声法とは、およそ異なった訓練が、人類に要求されはじめているのである。それと共に、夢ではなく、近く地球の人類が同時に、合唱しうる手段も、技術も、今現われようとしているともいえるのである。ゆえに音楽の巨大な課題は、今現在、与えられつつあるともいえるのである。

6 映画の時間


物質的視覚
 映画が物質的視覚から構成されているということは、案外人々が見のがしているところの条件である。
 レンズの光学的作用と、フィルムの化学的印象が、映画の立っている基盤であり、それらのものが、人間が見ている世界と同一のものであると思っているのは、ほんとに、人間的短期間の習慣に過ぎないことは、むしろ驚くべきことである。
 しかし、もっと驚くべきことは、この物質的視覚が、その率直さにおいて、さらに、その正直さにおいて、人類全体の信用を獲得したことである。
 人類は、いま、百号のカンヴァスに描かれたる悲壮な戦場の光景よりも、ライカの一コマによってスナップされた一情景のほうが、何か清新であり、凄壮なる事実感にうたれるのである。
 なぜならば、人々は、レンズとフィルムが、現像に対している関係は、厳密に対応的に、函数的な関係をもって、一点も一線もゆるがせにせず構成されていることを知っているからである。
 宇宙的関係の中に、一回しか起らない時間の瞬間が、現像とフィルム面の上に、対応関係を構成していることを知っているからである。
 換言すれば、フィルムが写される時の画面は、射影手続きの群関係であるが、まだ物質的自然現象なのである。

聖なる一回性
 人間はこれまで、あまりにも、嘘言をいわれすぎている。教師が、裁判官が、またついに国家自体すらが、嘘言の根源となっていることを知っている時、人々は、「歴史そのもの」が、「真実そのもの」が孤独であることを感ずる瞬間すら経験したのである。
 嘘言にうずまった人間が、レンズと、フィルムのもつ現象との物質的射影関係にとりすがったこころもちはわかるのである。しかも、歴史的現実の正確さを求めるにあたっては、さらにそのとりすがるこころもちがわかるのである。
 私は学生時代、十字街に弾丸にうち散らばらされている群衆を俯瞰した十月革命の一スナップに、刺し貫かれるような感動を覚えた経験をもっている。あれが何十号かの絵画の大作で描かれていても、その感動は性質を異にしたであろう。
 物質が無表情に自分の前に、一自然現象と同じように、革命の高潮した瞬間を、そこに投げだしているところの事実感に私はうたれたのである。
 歴史的事実は、常に「聖なる一回性」としての厳粛性を帯びているのである。なぜならば、いかなる泡沫のような現象でも、常に歴史的な本質の表現であるからである。歴史の厳粛性は決して、神に帰する必要はない。それよりも、何びとの胸の中にもひそむところの、「この世の中がはたしてよくなっていくのであろうか。やっぱり駄目なのであろうか。」この断崖に立つ時の苦しい人間の嘆息のゆえに、歴史は厳粛性をもっているのである。神々もこの嘆息を吐く時にのみ美しいのである。

歴史への連続
 物質が自然現象として、歴史的瞬間を把えた時、それが、人間を深くうつゆえんは、掘りさげてみるならば、人間が物質より堕落しているかもしれないという、新しい哲学の懐疑を用意している。
 フランスの一批評家をして「物になりきりたい」といわしめる言葉の背後にも、率直と、正直が、人間を離れていくノスタルジヤを表現したかと思われる。
 フィルムが撮った一画面の中の、群衆の斃れている一人を私たちが見ている時、私が見ている一黒点は、そのはてをたどるならば現像、撮影、すなわち物質的手続きを貫いて、実はじかにその横たわっている一人の人間の肉体に、私の眼は連続しているのである。
 それは歴史的な聖なる一回性に、私は時間を隔てて、再び連続していることを示すのである。物質の正直さゆえに、私たちは物質的手続きによって歴史感を撃発されるのである。
 映画の連続せるコマは、この連続せる時間の再現である。「時間の再現」そのことが、時間概念とは自己矛盾しているのである。なぜならば再現できない流動しているものが時間なのであるからである。しかも再現されなければ歴史的時間の意識は生じないのである。
 映画の偉力は、物質的手続きを貫いて、この「時間の再現」に向って、おのおのの個人の時間をダブラせうることである。そして歴史的主体性を人間的時間の中にバラまくのである。人間の技術の発展史上では、この時間の再現可能の問題は、人が意識しているよりも、画期的ともいうべきであろう。

主体性の撃発
 映画が時間の流れの中に「時間再現」の機能をもっていること、すなわち歴史の中に歴史をダブラせることで、その落差の中に歴史感情、願い、否定の媒介を貫いての主体性を撃発することを捉えて、その働きを全面的に活用しているのは、ニュース映画である。歴史がシナリオであり、太陽がカメラであり、人類が俳優であるところの、この大いなる悲劇にもまして、劇的なるものはあるまい。
 それが事実であるという信頼感を、レンズおよびフィルムの物質的手続きの描写がもっている時、このフィルムの切断と連続によって、歴史を縦に貫いている人間の願い、すなわち主体性を撃発せしめる時、ニュース・カメラマンが捉えたるところの一つ一つのカットは、実に、新しい世紀の芸術の素材となってくるのである。物質が捉えたる時間を自由に繋ぎあわせることで、人間の根底に横たわっている欠乏、願い、獣から成長した、人間の成長と、その成果より生まるる香気と尊厳を、撃発することは、実に新しい試みといわざるをえない。
 二十年昔に私たちが見た『トルクシィヴ』『欧州大戦は語る』などのものは、すでにニュース・フラッシュを越えて、計画と歴史を太陽の下にドラマとして取り扱った初めてのものである。
 人間が集団大衆となることで、また物質の光学的科学機構の中に沈み込むことで、物質的影像である一コマ一コマを、民衆は歴史的意欲の撃発者として捉えたのである。いかなるレポルタージュも、このフィルムのもつ率直なる報告には嫉妬を感ぜざるをえない。
 ニュース映画はまだ利潤ニュースであるかぎり企画に多くの不自由をもっている。これはまだ未来の芸術素材であろう。

カットの文法
 フィルムがその回転数を撮影と映写において変じうるということは、コマ落し、高速度、逆回転、二重写しなどの技術によって、多彩な時間的変化をもたらしている。文化映画における植物を写す場合のコマ落し、または弾丸の高速度撮影のごとき、人間が植物の時間の中に歩み入り、また弾丸の時間を追うことすらできることを示すのである。電子顕微鏡、望遠レンズの進歩と共に、映画眼(キノキイ)は実に広汎な視野を獲得するにいたったのである。
 かく考える時、レンズとフィルム、すなわち「映画眼」の、そのもつ最も大いなる偉力は、それが、一回しか繰り返さない歴史的事実を、捉えて、それを再現できるというところにある。そして、その捉えかた、再現のしかたに広汎な自由をもっていることである。
 映画が演劇においてのみその資本力を投じられ、発展成長しつつあるのは、演劇の実写、すなわち時間再現可能を単に利用したに過ぎないのである。缶の中に詰めて送られる演劇として、その便利重宝さを利用されたからである。演劇映画はそれ自身長足の進歩をして、芸術分野に確固たる地歩を占めたけれど、しかし、レンズとフィルムそのもののもつ偉力は、まだほかに大いなる未来をもっていることに注意すべきである。
 演劇映画としても、カットで連続できることは、演劇よりもなお容易に、多数の時間同一ともいうべき、同時場面に出入りできる可能性を提供する。裏町生活の集団的描写のもたらす芸術的雰囲気は、この同一時間の切断面の呈出である。
 この切断の断面を連続するのは、観客である大衆の歴史的意欲である。映画が、演劇および文学のごとく「である」「でない」の説明の繋辞(コプラ)をもっていないことは、この「である」「でない」の判断を、大衆の意欲、歴史的主体性に手渡すこととなるのである。多数の場所に流れている同一の今を、閃光のごとく貫くものは、万人の中にある歴史的な願望である。歴史的主体性である。繋辞のないカット、それは進行を止めた歴史の瞬間である。前のめった歴史である、多くの前のめった歴史的瞬間を、一筋に貫くものは、原始時代より、歴史の未来にまでも、一もって貫いている人間の歴史的嘆息である。「この人間生活がはたして正しく導かれうるのか、あるいはついに正しくは導かれないのか」この実践の苦悩のはてに面する切断の空間、深淵が、暗黒が、映画のカットの周囲を取り巻いている。この深淵に向って、暗黒に向って、深く嘯き、殷々たる反響を測るがごときカットを、私たちはいかに待ち望んでいることか。「今」「ここに」大衆と共に、歴史をぎつつあるという満ちたりたる感激の中に立ちつくすがごときカットに、私たちはいかに永く飢えていることか。

7 映画の空間


畏れの空間
「認識は自己の生活の中に含まれていないような連関を作りだすことができぬ」と哲学者はいっている。
 空間の認識でもそうである。自分が社会の中に生活として在る在りかた、社会への姿勢、生活への腰のすえかた、これが、空間の感じかたを導いて決定していくのである。
 生活のたてかた、何かオドオド畏れに満ちているものにとっては、空間は一つの畏れとしての構造をもって人々に押し迫ってくる。またあるいは、何を見ても、物はみな自分の欲望の自由な対象であると見えるものにとっては、空間はひろがり延びるところの延長の連続として感ぜられはじめるのである。
 空間が畏ろしいものであると感じているものにとって、この空間は自分を中心として自由な延長であると、いくらいって聞かせても理解できないのである。なぜなら、彼は生活の自由を知らず、世界への自分の関係がびのびしたひろがりであることを生きた意味として理解できないからである。
 一芸術批評家は、エジプトの造型意識は「空間への畏れ」であると指摘している。あのひろい沙漠の中にポックリと築かれているピラミッドを考えてみる時、それは盛りあがったと感ずるよりも、人間の営みを取り巻く、無限の時間と空間の空漠たる圧迫の中に、僅かに、これだけの限界をもって堪えていることの徴しとして、空間を区切っているかのようである。この一批評家の言葉に全世界は「あ、そうか」と目をみはったのである。
 ナイルの氾濫と炎熱の中で沙漠に取り巻かれた峡谷に生きるには、数百万の人々はただ一人の帝王の意志に従わねば生きられない巨大なる国家奴隷の集団として屈服せしめられたのである。四千年もの間、彼らはかかる生活をなして、かかる空間意識を決定したのである。深く巨大な諦観とでもいうべき畏れの空間の意識を決定したのである。
 世界の隅々に、いろいろな形で存在した奴隷制の意識、それを彼らは空間の中に、一つの徴しとして、画然と地上に置いて去ったのである。われわれは、この造型を通して、彼らの生活への嘆息にじかにふれることができるのである。
 私たちはこれを「虚なる空間への畏れ」とでも呼んで置きたい。

身分の空間
 原始共産体崩壊より奴隷制に推移したギリシャ人は、異なった形で空間を意識しはじめている。奴隷制の類型がエジプトとは異なっていたからである。リーグルは、ギリシャの彫刻において初めて内面的寂寥が出現すると述べている。獲てきた食物をみんなで分けあって食っていたわけ前(モイラ)――後にはそれが運命という言葉の意味をもってきたのであるが――がもはや協同のものではなくして、自分一人のものとなる時、人々は、生活の外側を包んでいる無限なる空虚あることへの驚きがギリシャの彫刻の歴史の意味となってくる。エジプトおよびアッシリヤの外なる世界、虚なる空間に力づよく反発する彫刻と対比して考える時、その感を新たにせしめられるのである。ギリシャの運命悲劇と称せられる悲劇の構造とも離つべからざる関連を見いだすのである。
 パルメニデスにおいては、外側に無際涯にひろがる空虚な空間を認むるよりも、むしろその内側の空間に隙間があるか否かを問うているのである。アナクサゴラスは外なる空虚が実は空気で充たされているのであって、真の空虚は存在しないことを証明するのであるが、その空虚の存在が要請さるる動機となるものは、物と物を分かち区別する間隙の可能がここでも問題となるのであった。この孤立と間隙を与えるところの渾沌が、「場所」(トポス)と呼ばるる空間意識なのである。論理の世界でも、その議論の交わさる未整理の疎開跡のような荒れたる場所、それがトポスである。トピック、話題なる言葉はそれからやはりきているのである。ギリシャを征圧したマケドニヤの王アレキサンダーの家庭教師であるアリストテレスでは、この孤々分離の渾沌トポスはやがて、秩序の一鞭をもって上と下の位置順序をもつ「形態の幾何学」とでもいうべき、後の三位一体のごときヒエラルキー身分空間を構成するのである。人類の大いなる禍であるところの封建制度はこの身分空間をみずからの生活をもって、嘗め味わい、アリストテレスの哲学は近世の初頭まで多くのアレキサンダーすなわち封建領主たちの城門を固める鉄鋲となったのである。

遠近法の空間
 ガリレオ以後の科学の黎明、近代空間の出現は、このアリストテレスの身分空間の崩壊より始まるのである。人々は「人は人に対して狼である」という奔放な喜びをおたがいにぶっつけあって、もはや上と下、獅子と羊の身分はもはやなくなったんだと、確かめあうのである。かくして上と下の身分空間はついえ去るのである。それは大いなる哄笑である。租税にあえぐ土地から放たれた海の上で、びのびと何物をも疑うことができる自由を自分がもっていることに驚嘆し、自分の理性と判断が星をも軽侮するにたるだけの精緻さをもっていることに胸をふくらました自由通商の人々が達した一つの態度なのである。
 それは王笏をもった帝王たちを哄笑しはじめる商人たちのつら魂がまず掴んだ感覚である。自己を発見した多くのコロンブスたちの描きはじめる地図である。
 自己を発見した人間の空間とは何であるか。それはすなわち「遠近法の空間」の出現である。「今」「ここに」自分が立っていることを意識し自分が物を考えているんだということを意識しはじめたということは、容易ならざることであったのである。愚劣な「身分空間」の底敷となって、その愚劣の重さがいかに重かったかに、いかに彼らは驚嘆したかわからないのである。
 自分が立っているところからながめやるところの永遠の一点に向って、全世界が遠くなるほど小さくなり集中されているところの遠近のある視野の体系の世界があることを今や初めて発見したのである。
 これは世界をまとめることのできる中心がおのおのの個人にその基底をもっていることを意識することなのである。これは人々にとっては信ぜられぬほどの魂の変革を要したのである。日本で司馬江漢が絵画に導入し、近世浮世絵で人々が試みるまで、日本人にとっては、かかる画法は一つのバテレンの奇妙さの一種でしかなかったのである。
 この新たなる空間の出現は一美術批評家の言葉を借りれば「体系空間」の出現である。一人の人間の視点が確立して、その視点を軸として全世界の体系が構成されるのである。すなわち人間が全世界の観察者として、すなわち「主観」を確立したのである。
 絵画はこの世界への体系にとって、最もふさわしい表現態度として、それを完成したのである。絵画が真のみずからの威力を発揮したのは、この観察者としての描写の空間の体系を構成する立場においてである。スペインの帝王の艦隊をうち破ったオランダの商人たちの海賊船隊の中から生えいでたレンブラントの絵画以後、絵画は人間と太陽の中に、その体系空間の確立を光の洪水をもって高らかにうたったのである。
 ここではデカルトが確立したように空間は延長なのである。人間の意志のひろがりが権利であるように、自由の感覚も、またこの延長の空間的感覚の生活的理解であったのである。
 もはやここでは空間は畏れではない。また身分の重圧の集合ヒエラルキーの空間でもない。自由な個性と欲望の豊かな氾濫、光と線による自分のかたの構成の体系の誇示なのである。それは、しかし永遠の体系ではありえなかった。ゴーガン、ゴッホで、その個性の豊かさは最高の点にまで達し、ようやくそのカタストローフ、その空間の破壊が支配しはじめたのである。つまり人間がその人格の存在をみずからの生活の中に崩壊しはじめたのである。
 近代資本主義はアダム・スミスの自由論の段階にはふみとどまってはいなかったのである。すでに資本主義の根底にある手形的取引の中には、もはや、人格と人格の契約といったところの、主観と主観の二つの体系が組みあって構成する秩序を砕き去るところのはるかに次元を異にした体系機構を用意しているのである。金融経済のもつ国際的体系はもはや人格と人格の相互の信用といった個人的構造をはるかに越えて、人間が一片の砕片となって、その巨大なる空間の中でキリリキリリと分子のブラウン運動のように回転しはじめるのである。
 巨大なるブロック資本の重工業の機械生産の中で、人間は新たなる貧窮の意味を知りはじめ、個性の喪失を味わって慄然としはじめるのである。ムンクの寂寥からはじめて、表現派より、シュープレマティズム、シュール・リアリズムにいたるまで、彼らはもはや確固としたみずからの観点を失ったのである。利潤という機能は利潤追求の方向に向ってのみ走って、人間そのものを無方向たらしめる。方向の体系を失わしめる。すなわち自分の個性そのものを喪失しつつあるのである。それはすでに方向をもつ体系ではない。単なる無方向なる図式である。絵画の危機と呼ばるるものはそれであり、またそれを描かずにいられないのは人間の生活の危機そのものの嗟嘆が、その、根底に横たわっていることを見のがすことができないのである。

図式空間
 絵画の危機の始まる時から、皮肉にも映画はその神を恐れざるものの表情をもって、芸術の世界に歩み入るのである。
 レンズの見る見かたを人間の見かたであるといつとはなしにけいれた人間の同意は、どんな国際委員会もかなわない専断的説得力をもっていた。
 人間の眼の焦点は、二ミリ平方くらいにしかあわないのである。その二ミリの焦点をもって、人間は世界をぜまわして、世界を観察し、世界像をつくるのである。写真の見かたが人間の見かたであるというのは一つの申しあわせのようなものである。レンズの角度は何度が最も妥当であるかはまったく疑問の中にあるのである。
 しかし、世の写真機製造業者はこのレンズという非人間的世界観察者を人間が見るものとして、人類の中に提出しているのである。そして、人間は逆に、レンズの見かたにしたがって世界をそう思い込もうとしているのである。この見かたは実に、人間が付託したところの物質の見かたである。自己がその観点を意識する個性を奔騰させる自由人間の築きあげる体系の空間ではない。
 世界に単に対応関係をもっているところの徹底した「図式空間」なのである。人間集団の構成する物質の見かたなのである。
 この徹底した物質的視覚としての「図式空間」から映画は出発するのである。
 しかし、問題は、この固定された「図式空間」であるフィルムのおのおののコマが連続して、人間の残像の中に一つの時間構成をすることから、さらに展開してくるのである。
 二次元的な「図式空間」が時間の中に連続することから、カメラは同一地点で連続して回転視することが、また同一物の周囲を回転することが、さらにまた移動しながらの視覚が可能となる。そこで映写幕は二次元であるが、映画は彫刻の三次元性をも超えてさらに四次元空間の芸術となって現われるのである。しかし、真の問題は、それがその物理的時間性をも乗り越えて歴史的時間を確立するところにむしろあるのである。映画の非人間的「図式空間」が、かかる歴史的連続の一連続体となることで、人間性を巨大なる展開をもって回復するところに深い注意がはらわれなくてはならない。人間性を奔騰せしめる主観を確立した「体系空間」よりも、もっと高度に、人間の歴史的感覚を呼びさますものとして、「図式的空間」がその役割をはたすことを忘れてはいけない。すなわち「主体性」の出現がそれである。

切断空間
 フィルムをはさみで切り、アセトンで継ぐことができることは、普通考えられているよりも重大な変革を芸術の世界にもたらしているのである。
 一つの場面と、一つの場面がカットで連続している時、おのおのの場面はおのおのの表象を人間に提出している。しかし、その表象の連続にあたって、文法でいうところの、「である」「でない」の繋辞が欠けているのである。非人情の「図式空間」と「図式空間」は繋辞なしの「切断」をもって連続しているのである。
 製作者がその「切断」をなんらかの意味をもって連続したつもりでいても、戯曲、小説におけるように繋辞による説明展開を観客に要請するわけにはいかないのである。
 この「図式空間」と「図式空間」の「切断」を連続するのは観客大衆のみずからの「感情」なのである。
 ここで私は感情なる言葉の定義を厳密にするを要するのである。クルト・レヴィンは、空腹の「知覚」を感情たらしめるのは、生きているという根源的方向への力学的動きが、空腹の知覚を飢えの感情として力学性をもたらしめるのであるという。すべての知覚が、方向をもった力の関係に置かれること、この知覚のひずみが「感情」であるということは私たちに示唆深いものがある。
 今映画で知覚表象としての「図式空間」の切断面を連続せしめるものは、人間大衆の歴史的意欲の方向すなわち大衆の社会的生活より生まれる矛盾の欠乏感なのである。これは、また同時に歴史を鋼のように縦に貫いている歴史的主体性にほかならぬのである。
 また逆にいえば、この非人情な「図式空間」と「図式空間」とのカットの切断面が大衆の歴史的主体的意欲を撃発するともいえるのである。
 人間は、自分が見失っていたみずからの方向を、カットとカットの切断の隙虚げききょの中に撃発し復活するのである。社会的矛盾と欠乏を媒介として、みずからの本質を明かるみにもたらすのである。
 この社会的矛盾と欠乏に面する切断空間、この断崖、この断崖に面するこころ、これが実は歴史を嗣いできた人間の根本的歴史的パトスである。この世の中をはたして善くならしめることができるのか、とても善くしていくことは不可能なことなのか、実践の苦悩のはてに面する人類の嘆声、これが、歴史に面する「切断空間」である。この断崖に立った人の叫び、これが神話の基底である。日本民族の最初の大衆の集会の言葉「この岩の扉よ開け」との叫び、あるいはモーゼのごとく「この海よ開け」の叫びとなるのである。
 人々は、いずれの生きる瞬間も、この叫びをひそかにその胸三寸に秘めている。それが実に、歴史を嗣ぐこころであり、歴史的主体的精神である。中国の最古の芸術批評家は『詩経』の批評にあたって「詩は志なり」「詩は刺なり」といっている。善くしていけるか善くしていけないかという切実な歴史的現実へのやむにやまれざる願いと、憤りが、歴史をささえる歴史的主体性を構成していくのである。
 この社会矛盾の否定を媒介契機として、みずからを連続せしめる歴史的意欲、すなわち歴史的主体性が実に、映画においては、カメラが描く、図式空間の切断面の連続にあたって、ほかの芸術部門よりもより重要な契機となるのである。このことは映画芸術の将来において、深く重要視さるべき条件となるのである。
 私は映画の空間を論ずるにあたって、あまりにも遠く展望をひらいたかのようであった。しかし、今立っているこの現実地盤のどの一粒の砂も、原始よりの歴史のなごりでないものがないかぎり、私は遠い歴史の迂回を余儀なくせられたのである。そして、現今の映画のカットを一本の鋼鉄が貫くような、歴史的主体的感覚が、大衆の歴史的意欲の線にそうて、刺し貫かれんことを要望したい念、切なるものがあるがゆえである。

第2部
  ―美学の歴史―


1 古い芸術観と新しい芸術観


 これまで、美が何であるかについて考えてきた。しかし、ここまで考えがたどりつくまで、芸術の学問は、いかなる考えかたから始まり、いかに変化してきたか、まことに永い歴史をもっているのである。紆余曲折の後ここまでたどりきたったのである。
 まず私たちは、ギリシャから顧みなくてはならない。

プラトン
 美学の大きい源はどの哲学もそうであるように、やはりプラトンから顧みなくてはならない。
 プラトンは、まず、芸術否定論者といってもさしつかえないのである。プラトンは、芸術家、ことに劇作家は、彼の理想の国からは、一切追放しなければならないと考えた。彼らは有害無益であるというのである。プラトンの芸術非難論のよってきたるその根本は何であるかというと、第一の理由は絵を描くことを例に引いていうとすれば、ここに一つの寝台を描くとする。ところが、プラトンの考えかたによれば、最もよい完全な寝台の理念は、現実にあるどの寝台よりも立派で、人類の理想とすべきただ一つのものであるはずである。そこで、眼前にあるところの現実の寝台は、その理想に近づこうとはしているが、その不完全なところの、いわば、その理想の「影」のような未完成の一つの試みである。
 ところが絵画は、この「影」をさらに模写ミメジスするところのものである。現実の寝台がすでに、理想の影であるのに、この現実を模倣してうつすものは、真実を二重に遠ざかるものである。だから、それは、価値のまことに低いものであると考えるのである。
 この考えかたは、いわば、哲学的理由をもって反対しているのである。
 第二の理由は、道徳的理由である。プラトンは、芸術は理知によって観照するのではなくして、感覚に訴えるのであるから、それは、下等なる部分の身体の作用を引き起すからいけないというのである。これは後にものべる機会があるが、すでにギリシャ芸術の衰微期に生まれ、しかも、敗退しつつある氏族貴族出の彼の考えかたにもとづくのである。それは今のストリップを見るのを嘆く、道学者と大して異なるものでなく、また、遠くその代表者となっているのである。
 第三の理由は心理的理由であるが、それは、例えば、劇でたびたび悲しんだり、たびたび怒ったりしていると、道徳的中庸を守るべき修養から、だんだん遠ざかってくることとなる。感情に動かされやすい人間になることは君子人のくみするところでないと考えるのである。
 かかるいろいろの理由から、プラトンは芸術を理想の国に入れることは、まかりならぬということとなるのである。

アリストテレス
 かくプラトンはいろいろの点から論ずるけれど、彼の弟子であるところのアリストテレスは、これに対してどういうかということを顧みてみよう。日本の偉大なる美学者である深田博士は次のようにプラトンとアリストテレスの比較をされている。(『芸術に就いて』)
 第一に芸術が、模倣ミメジスであるからいかん、影を真似して写すのであるからいかんとプラトンがいうのに対して、(一)アリストテレスは、模倣という働きは人間の本能の一つである。だから、決して、軽蔑すべきことではないことを証明したのである。さらに、(二)芸術は、決してただ個々のものの影を写すのではなくして、ある普遍的なものを写すのである。彼はいう、「劇というものは、もしくは詩というものは、歴史よりもより哲学的である。」小説というものは、歴史がやるように、一人の何某がやったと書くのではなくして、何某の名をりて、人間一般の運命を現わしたものであるとアリストテレスは考えたのである。さらに(三)彼は詩と実際生活は、その取り扱うところの標準がすっかり違うから、普通いうところの警察が使う似顔というような取り扱いかたとはまったく異なった取り扱いをするべきだというのである。
 第二に、プラトンは、不道徳なものをうつすからいかんというのであるが、(一)アリストテレスは、決して、芸術というものは、不道徳なる人物、不道徳なる事件を写すのではないという。むしろその性格の上においては、その性質の上において、善き人を描くのである。その人間が、いろいろの過誤、あるいはその欠点によって不幸に陥ることを写すのである。そこで、写されているのは、罪や過誤であるが、貫くものは道徳への意志であるというのである。(二)アリストテレスは、この罪や誤りをみることで、その苦しみを貫いて味わうところの固有の快感があって、ほかのものと異なるものがある。(三)それは、悲劇などをみて、ああかわいそうだなあと思うこころ、涙を流し、身ぶるいをすることで、感情が浄化される。いわばつかえたものをきだしたり、下痢してしまったような、サッパリとしたこころもちになる。医者でいうカタルシス(陶瀉)を起して、こころが、純化され、浄化されると考えるのである。

古代的なるもの
 こんなに考えると、プラトン、アリストテレスの考えかたは、いろいろ違ってはいるが、共通な点は、芸術は、それが「模倣ミメジス」の「技術テクネ」であることである。そして、それが必ず「普遍的」なものに、直接にもせよ、間接にもせよ、必ず関係をもち、またもたなければならないと考えている点である。
 これらのことは、後にのべるごとく、プラトン、アリストテレスの生きたギリシャ社会の崩壊期の奴隷制度に、深い関係をもち、その社会構成を表現すると共に、後につづいて起った封建国家は、この理論を自分の都合のよいように、みごとに利用もしたのである。中世期の宗教的封建国家は、プラトンで構成されたところの、上に動かざるエイドス、理想的な象徴があり、その下に無限のフェノメナ、現象が、その影のごとく、その映像をわけもちながら、不完全な形で、生まれ変わり、死に変わりするという世界像を、まことに重宝としたのである。そして、さらに、アリストテレスが、みごとに、その世界像を、上の動かざるもの、第一の原因から、それから生ずる万般の群象を、無限階段の大体系(ヒエラルキア)に組みたてたのである。
 多くの封建君主は、この一番上の形相ウシヤの位置に、楽々と坐れるように、それはしくまれたのであった。
 この芸術観は、今でも、なお、支配的である。象徴主義の芸術は、まだ多かれ、少なかれ、この神の宮居をあこがれて、その中にまぎれ込むところのシンデレラ姫のように、この宮殿の中に、いやしい下婢が入り込むには、まことに、もったいない魔術が入り用なのである。芸術はその役割りをはたすものと考えているのである。この考えかたは、今も、なお古典主義の芸術の中に生きている。

近代的なるもの
 かかる考えかたに対して、近代的芸術論はどんな特徴を示しているであろうか。以下、深田博士の意見にしたがえば、最も極端な一つのすがたは、かのドリアン・グレーを書いたオスカー・ワイルドである。遊蕩児であり、風俗壊乱を何とも思わない耽美主義者であり、いわばこの考えかたの殉教者であるかもしれないと博士はいわれている。
 彼の小説、『ドリアン・グレイの画像』の序文に次のごときものがある。
 第一に、「芸術家とは美しきものの創作者である。」そして第二に道徳的であるとか、不道徳的であるとかいうことは、芸術では絶対に問題にならない。ただ、それが、立派に書かれた小説であるか、下手に書かれた小説であるかが問題になるだけである。すなわち芸術の世界に向って発禁などの問題が起るのはもってのほかであるという意味のことが書かれてある。
 第三に、「あらゆる芸術は、人生に無用である、すべての芸術というものはまったく効用のない役に立たないものである」というのである。つまり、芸術は、人生に役に立てようと片鱗だも思うことは芸術の恥である。ただ芸術は芸術にだけ奉仕し、芸術のための芸術であるというのである。
 以上は『ドリアン・グレイの画像』にある言葉であるが、彼の評論集『インテンションズ』の中にある言葉であるが、その中に「芸術は決して自然の模倣でない。むしろ自然が芸術の模倣である。一体自然とは何であるか、自然はわれわれを生んだところの大いなる母親ではない、自然はわれわれの創ったものである。」というような言葉がある。
 ワイルドがいうには、ロンドンは実に霧が深い、電車も止まり、馬車も止まる、この霧は、近代画家、例えばターナーのような画家がこれを描いて、初めて、この霧は風景として、人間の前にあらわれたのである。それまでは、霧の美を人々は見なかった、ただ困ったもんだと思っていた。ところが、画家に描かれて初めて、美しい霧として、ロンドンの霧が人間の前にあらわれたのである、だから、自然が、芸術を模倣して、初めて自然の美というものになったのであると考えるのである。これは、日本では徳川時代に、「大雅出でて、初めて、日本の大山高嶽、その面目を新たにす」という意味のことをいった人があるようなもので、一面の真を語っているのである。
 ゲーテの『若きウェルテルの悲しみ』がでて、多くのドイツの若人が自殺して、ドイツ青年が、ウェルテルの死を模倣したそうであるが、これは、あるいは、自然が、芸術を模倣するということにあたるともいえるであろう。
 ともあれ、オスカー・ワイルドの言葉のはしばしをひろってみても、第一に確かに、「ギリシャ美学」で、芸術が「模倣ミメジス」であるというのに対しては、真っ向から、そうではない「創造」であると反対しているのである。
 第二に、芸術が、奴隷的な「技術テクネ」であると考えているのに対しては、芸術は「天才」によって創造されるのであって、それは、芸術的絶対的自由をもっているものであって、道徳的な制約を決して受けないと主張するのである。
 第三には、それがただ美のみを追求するかぎり、人生に対して何も役だてようとしないし、また誰にわかってもらおうとも思わない、真実とか、普遍というものをすらも問題にしない。以上のようなところまで、この考えかたはつき進んでいくのである。
 これが、古代の芸術観に対して、近代の芸術観の最も代表的なものである。明治、大正の日本の芸術観もまたその線をたどって発展したのである。

そのたどりし道のはて
 勃興期の市民主義が、封建制を打破するにあたっては「独創」「天才」「唯美」は自由の三色旗の役割りをはたしていたかもしれない。
 しかし、今「独創」ということは、今までの人のやらなかったところのものを創る、人と違ったものを創るということが、もし、万一、極端にまでいたれば、もはや流派を考えることが無理となり、危くするならば、おたがいにわかりあえない恐るべき「孤独」に転化するかもしれないのである。
「天才」の概念も、何ものにも犯されない、束縛されない、ついには自然にも束縛されない天才の考えかたは、危くすれば、放恣となり、狂人と、あい隣りするのである。しかも、みずからが、もし、天才と自負して、しかもそれに価しない場合、そこには常に繰り返される一つの近代的悲劇が、その理論のはてにある悲しい事実としてかくれているともいえよう。
 かくして、「天才」「独創」が、極端にまで立ちいたる時、ワイルドの私生活もそうであるが、ニイチェの超人もまたそうであるが、他人と異なることを極端にまで押しつめていくと、まったく他の人間と異なることによって、ついにはそれは人間でなくなることになってしまうということとなって、弁証法的にいうならばまったく他のものに変化するのである。かくて、かかる個性の特異性を強調しすぎると、人間一般に妥当するところの普遍性から追放されることになってしまうのである。
 現代の芸術家の行動の無力、意識の過剰による道徳的綱紀のなくなってしまったこと、自分の信じていることへの深い不安などは、まったく、この近代的芸術観が、悪魔のごとくいろいろ形を変えているともいえるのである。
 これに対して、ギリシャの「技術」「模倣」「普遍的実在」の美学論の関心は、ギリシャ時代とは、すっかり異なった意味で、再び、私たちの反省しなければならないこととなっているかと思われるのである。

2 知・情・意の三分説の歴史


 さきにのべたような「天才」と「独創」と「唯美」、「放恣」と「孤立」と「非真実」に陥るにいたる理論のよってもって立つのは、それが「感情のアプリオリ」の世界であり、知識と、道徳から独立するという考えかたを前提としているのである。
 一般に精神現象は三分されて、知情意の三つのものと近代哲学は考えた。この分類が、一応正しいものと認められることによって、芸術の領域は「感情」の自律の国であって、理論および道徳の世界とは別の王国であると考えること、すなわち近代的芸術論も正しいとされるのである。しかし、もしこの分類が正当さを欠きはじめると、精神の分析に大きな混乱を起してくる。ことに、感情および芸術の立場は、知識および道徳の二つの中間者として、二つのものを連結する結紐として、その体系を完成していた。もしこの三分説が動揺するとするならば、芸術学そのものの体系は根底から動揺するということになるのである。
 すでに、現代の心理学は、意識のない心理学とよばれるほど、意識はその根底をゆるがしている。ことに「感情」が知覚の中に没すると論じている学者も現われている。このように、精神科学の全体的基礎は、この意識の問題を中心にして無気味な危機に襲われているのである。
 この意識の三分説のたどった歴史を顧み、そして意識が解体した後、人々はいかに三分説を組みあわせたかを考えてみよう。

高等なものと下等なもの
 まず意識の三分を最もはやく試みたのはプラトンである。彼は精神現象を三つの基礎的なものに分けている。「意欲的」なもの、「激情的」なもの、「理性的」なもの、この三つである。しかもこの三分は、社会階級の三つの階級のそれぞれの世界観の反映であったのである。第一の、「意欲的」なものとは、牧畜民、農民、職人、商人などの生産的な働きをしている人々の世界観で、彼らは奴隷であり、おもに南方の民族、フェニキア、エジプト人のもつ心情である。第二の「激情的」なものは、武士階級で、北方野蛮人のもつ世界観である。第三の「理性的」なものこれが支配階級としてのギリシャ人の世界観である。この三つの精神層はたがいに闘争しているのである。理性と感性的な衝動、また理性と享楽的な意欲との間にも争いがある。
「理性的」な部門は頭脳に「激情的」な部門は心臓に「意欲的」な部分は下半身にと位置していると仮想しているのである。この三分説で注意しなければならないのは、すでにここでは、意識は一人一人の自分の意識ではなくて、階級と階級の対立の媒介として、契機、はずみとして現わされていることである。こうして知情意の三つの生まれる萠芽に、興味深い取り扱いがなされている。
 プラトンが、失敗した氏族の貴族として、亡びゆくギリシャ精神、危機にある理性的なもの、闘いつつある世界観の反映としてあらわした分類であろう。彼が敗れたとはいえ、また身分的にみたとはいいながら、闘争というすがたで捉えたところに、弁証法的見かたにふれているともいえる。
 マケドニヤ人で、若き王、アレキサンダーの家庭教師であったアリストテレスは、また別の方法で、師のプラトンの三分法をうけついでいる。ここでは、闘争は許されず、ただ動かされない身分的な組織があるのである。ヒエラルキーとして、後の封建的な身分を形づくるのに役だった分類方法が、ここで完成されたのである。彼においては、精神的な現象は、非物質的な絶対的な不死的なものと、活動する機関としての可死的なものとの二つに分かれる。彼は、霊的なプシケを広い意味として捉えて「植物的な部分」、「感覚的な部分」、「叡知的な部分」の三つに分け、栄養と生成と生産の現象のみをもつものを「植物的な部分」と考え、さらに感覚と想像、すなわち感情をもつものを、第二のものとしての「感情的な部分」、すなわち動物であるとしたのである。最後に意欲と思惟をもつ第三のものは「叡知的なる部分」すなわち人間のみである、と考えた。ここで考えねばならないのは、それぞれが独立した争いの主体ではなくて、動くことのないランキングの定まった組織としての型で取り扱われていることである。それは、プラトンの弁証法的な、媒介「ミッテル」における三つの契機「モメント」という意味は失われて、科学的な媒体、メディウムの上に、三つの要素エレメントとなってしまったのである。ここでは、不動のヒエラルキーが、いいかえれば、要素としての「身分」が決定的であることである。そして、高級な心的なエレメントと、下級な心的なエレメントがすでにあり、これが現代までつづいてきているのである。この身分的な層を結ぶのは、後のスコラ哲学で、さらに、後の現象学者によって、うけつがれた志向的な内在性の概念である。
 アリストテレスによる、この分類は、いわば、大きな範囲を支配している能力の高い権力をもっているのである。小諸侯、さらに絶対者である法王、というように身分的な考えかたが、精神の中も支配して、合理的な思惟の能力は、もはや意欲的な人間としてのものから離れて、二つの相対する独立したものをもってくるのである。このように、アリストテレスの形而上学においても、また国家論においても、今ある種々の矛盾を、抽象的な権力で統一しようとするところの基体、ヒュポケイメノンが横たわっている。この基体的主体ヒュポケイメノンが、後にローマで subjectum となり、後のサブジェクト Subjekt, subject, すなわち主観、主体の語源の源となるのであるが、知情意の三分は、このような身分的な絶対性がきめられているのである。そして中世の法王は、これを武器として、そのオーソドックスを固めたのである。

認識能力として
 ルネッサンスの哲学も、この影響から脱けだすことがなかなかむずかしかった。十六世紀にいたってのウォルフの哲学でも、精神能力を分けるのにはまず、高級なものと、低級なもの、すなわち「認識能力」と「意欲能力」としたのである。ヒュームも同じように分けたのである。十八世紀にいたって、初めて三つの同じ格の群という型に分類されたのである。身分としてでなく、能力的なものを基礎として分けられたのである。テーテンスが精神能力として「感情」、「悟性」、「活動力(意志)」と名づけたのが最初で、メンデルスゾーンは、これを「認識能力」、「感覚」あるいは「同意能力(快不快の感情)」「意欲能力」として分けている。
 カントは、この三分を基礎として、彼の体系を完成している。それは「身分」ではなく、「能力」として、ことに「認識能力」として確立するのである。ちょうど太陽が地球の上を廻るのではなくて、地球が太陽の周囲を廻っているのだといったコペルニクスのように、ここでは世界観の転回が起っているのである。そこでは主体ではなくて、観測するものとしての主観が現われるのである。この主観の能力が「知」、「情」、「意」と分かれるのである。
 スコラ哲学では「主体に対する客体」としての「叡知と現象」、「霊と肉」の世界であったものが、今や愕然と崩壊して、カントにおいては、同じ格の三つの見かたとなってくるのである。この考えかたこそはやくもベーコンが一五〇〇年に切り開いた、新たなる自由通商主義のもつ世界観の体系化にほかならない。
 このベーコンからカントへの一五〇〇年から一八〇〇年の時代というのは、欧州はローマ法王の巨大な権利からのがれて、それぞれの民族によって分化された帝王の手に、または商業化された主権の手に属した時代であった。英国が、百五十年さきんじ、フランスが五十年さきんじて、ドイツを北海と地中海に残して大西洋の利潤を享楽したのである。
 ドイツは、一七五〇年ごろを転機として、一八三〇年から一八四八年、ついに七〇年の普仏戦の勝利から一躍してこの立ちおくれを回復したのである。ドイツがこのように最初には立ちおくれて、後に急に追いついたこの経済情勢は、思想界にどんな影響をもたらしたであろうか。
 ドイツ人は厳しい重苦しい北方の自然の中で生活してきたので、南方的なローマ的信仰よりも、原始的な森のオーダン神の住むゲルマンの森の暗い信仰を愛し、プロチヌスの新プラトン主義をよく理解した、ヤコブ・ベーメの思想、また三十年戦争の成果であるピエチスムスの中に中世の古ドイツ神秘主義と原始キリスト教が、織りまざっている。ここには、ゲルマンの血が、発出的な創造、湧きたつ激情、無から有が突然生まれいでるような、矛盾のもつ悲劇的快さというようなものが、ドイツの土地貴族としてのユンカートゥムと、土地にしばりつけられた農民の中に深く喰い入っている。そこには、深い非合理なものが爆発薬のように寝ている。
 ショーペンハウエルは「我」という言葉は「意欲の主体」と「認識する主体」を一つにしたものであるが、この二つのものの合一は宇宙の中の秘密で説明できない……自分はこれを不可思議 Wunder といっておこう、といっている。ドイツでは、この自我という言葉は、特別な現象として神秘の影の濃いものとなっている。このようなドイツへ、一七五〇年ごろから百五十年もさきに商業的体制をととのえたイギリスからヒュームの懐疑論が、フランスから百科全書が、すなわちヴォルテールの精神が流れ込んできたのである。そしてドイツそのものが動揺しはじめるのである。
 カントの時代は、この「ドイツの血」と「ヒューム=ヴォルテール的なもの」の二つのものがすでに社会的な矛盾として現われはじめているのである。ドイツの土地貴族制ユンカートゥムは、もはやイギリスの産業的体制のために、その足場を洗われはじめたのである。一七六〇年のドイツでは、生きた闘争の姿で、「ヒューム=ヴォルテール的」な「知的経験的実験主義」と「プロチヌス=ベーメ的」な「意志的実践的非合理主義」は共存しながら相剋していたのである。そしてこの二つは、スコラ的な合理主義に対して、共にある意味では無神論的非合理主義としてまたは新しい合理主義として、対立したのである。
 カントのいう「物自体」をこのような型で捉えてみると、美の体系も少しはっきりしてくるのである。「物自体」は、カントの体系の中で、『純粋理性批判』では「経験の素材」として、また『実践理性批判』では「実践の主体」としての意味をもっている。一方では「知識および悟性の対象」となり、他方では「意志および理性の形式の原理」となる。一方では「自然と現象」の要請者となり、また他方では「自由と理念」の要請者となるのである。「感情」はその二つの「中間者」で「媒介者」で「連続者」となるのである。
 ここで注意しなければならないのは「知情意」という三つの分類が、アリストテレス的なものから離れて、身分的な階級的体系ヒエラルキーによって分けられた意識の区分も、ヒエラルキーの分解により、ばらばらになり、認識能力として、位置をもっていることである。この「知情意」の三つに分けるヒントを、カントが、メンデルスゾーンからうけついだにもせよ、この役割りは大きかったのである。
 感情論の取り扱いが、かくて三つの段階の線にそって、すなわち奴隷制危機の第一期では、知情意は身分的な、(プラトンでは階級的な)分類に置かれていた。「霊的」な知的なものと「肉的」な感情的なものは、闘争の構造をもって関係している。だからプロチノスのように、高いところにある、ある「一者」からの分け前として、低いところにあるもの、不完全なものとして、美は現象の世界の中に潜み、そこに美は「自然」と「神」との間をつなぐものとして、三位一体とでもいうような「自然」と「神」との媒介者となっていたのである。
 それがルネッサンスの時代では、趣味の名によって天才の名によって、その肉的な感情的なものの中に、知的なものを越えた正しい「繊細な知恵」(デリカテス)が潜んでいることをいろいろの角度から検討しはじめたのである。ローマの枢密顧問官よりナポリの舟乗りのほうが物のわかることが、機構的に気づかれはじめたのであった。
 ヴォルテールによって、バウムガルテンによって、カントによって、感覚が一つの認識能力の代表者として悟性と理性に並立したことは、身分的な上院と代表的な下院が政治的に両立する革命よりも、画期的であった。
 しかし、やがて、かくして確立されたところの現代の美学は、この知情意の認識能力としての代表制が、ようやくさらに動揺しはじめたところに現代的特徴をもってくるのである。
 巨大な動揺は「意識の崩壊分裂」から生まれはじめたともいえよう。すなわち知情意のもとである「自己の意識」が不確実になってきたのである。これは一九一八年、第一次大戦の後の特異な現象である。「意識のない心理学」が、心理学の人々の中に論じられはじめた。そして、感情がこの意識のない心理学の中にどんな役割りをもつかは、すでにクルト・レヴィンあたりで論じられはじめ、かくて感情の独裁にたよるところの芸術のための芸術、または美の自律性の概念もここに大きな危機の試練を経ずにはいられなくなったのである。この意識の失踪の上に、集団的な社会機構と、機械技術の高度な進展は、アカデミー的な文献的研究にまごつく旧美学を目眩いさせている。
 それは学説的な意味ではなくて、思想的に衝動的に「自分」というものが分裂して、ばらばらになっていきつつある。戦後のダダイズムとか、シュール・リアリズムにあるようなサンジコアナルキズムなどと同じ線にそっているものがそれである。彼らはクレミュウのいうところの原理である「否定のない現実の拒否」ただ何でもかんでも「いやだ、いやだ」といっている感情の上に立って戦っているのである。
 ここでは時間が歴史から遊離して、単なる流動として取り扱われているので、論理的な基礎のないただ単に「拒否の感情」として、主観は客観を前にして、こなごなに分裂するのである。ただ存在するものへの否定、狂える対抗意識としてあらわれるのである。ダダの宣言書を顧みよう。「われわれは何よりも保守主義を嫌って、およそレヴォルウションというレヴォルウションの味方を標榜するものであるが、われわれは、またもちろん、何らの社会改良の可能を信じるものではない。」この考えかたは永久革命説にも遠い血縁をもつ思想で、クレミュウのいうように「平和時におけるダダの合言葉が『万事を賭して戦争を』であるように『万事を賭して平和を』が戦争時におけるダダの合言葉である。」
 分裂した意識、意識の過剰、それが感情のむしろ実体となってきたのである。

3 感情のもつ役割り


上と下との媒介者
 これまでいってきたように「感情」といっても、いろいろの時代で、その時代の姿に似あうようにその装いを変えてきたのである。芸術もそれにしたがって、その時代とその世界観にしたがって新しくより新しく変わってきている。
 プラトン、アリストテレスの時代では、感情の世界は理想(アレティア)の影像であり、第二、第三のものである影像(ファンタスマ)の国であって、一つの動かないものの、はかない影であり、部分であった。その関係があたかも、一つの絶対的な不動のものの権威、力の下に隷属している奴隷のように、物と物との関係が、そのころの人の生きかたを反映し、また真とか美とかを考える時にもそれが影響したのである。
 一つの動かないもの、根底に横たわるものヒュポケイメノン〔ヒュポ(下に)ケイメノン(置かれたるもの)〕があって、あらゆるものはそれとヒエラルキアすなわち上から下に、定まった段階のような関係を保ち隅々までそれに属して離れない大体系をなすのである。しまいには、アリストテレスのヒエラルキアとして人々が信じはじめた一つの型は、後のすべての人の考えかたの鋳型いがたのような役割りをなしてきたのである。それは、あらゆるものの関係は身分的に不動で、階級があり、秩序があり、どのような関係の組み替えもゆるされないのである。そして美も、後のプロチノス(三世紀)のいったようなものと考えられたのである。「自然それ自身がロゴスを模倣する。だから、人が自然を模倣するのはただ見るものを模倣するのではなく、自然が引きだされた源たるロゴスにさかのぼるのである。だから、芸術は自然に属さず、自然に欠けた美をそれに付加するのである。」(『エネアッド』八巻)
 この考えかたをダンテの『神曲』の中で「老いたる自然の手が震えているから、若い人間がその手を貸してやるのである」という句とくらべてみて、どこか通じあうもののあるのに気づくのである。つまり絶対的な「理想」と、それに隷属する「自然」、その中間の「人間」そこにこの人間の世界に、芸術の世界があるという考えかたが、奴隷制から宗教封建の千年の間、人々の解釈した美の世界であり感情の世界の役割りであったのである。

繊細な知恵としての趣味
 ルネッサンスは、それをいろいろの方面から崩しはじめる。宗教封建の根底を黄金の威力、金の利子の力、交換や金融の力が、足下から腐らせはじめる。法王ボルジア家の腐敗は、宗教の権力の中枢が、大衆の眼前において、金銭的であると共に、みごとに感覚的にもなってくるのである。この感覚というか、常識的な勘が、屁理屈でかたまったいわゆる理性に対して、そろそろと優越をもちはじめることは、この学問的な窮屈なヒエラルキアを、自由な感覚的な常識でもってブッ壊してしまったのである。支配しているはずのものが支配されはじめるというこの危機に現われたのが、趣味(グストゥ)才知(ウィット)勘(サンチマン)優雅(グラチエ)などという言葉である。それはトレヴサノがいっているように「時としては一見相反しているようにみえて、そのきわどい和解、あるいは時としてかすかに見分けらるる類似をかぎつける」才能である。それは理性が、かたくなにもてあましているものを、ひそかに結びつけ、または引き離す、より深い巧妙な力なのである。
 フランチェスコ・パトリッチ(十六世紀)がいっているものの実現である。すなわち「詩歌がすべて模倣であるという説には何らの真理がない。また模倣であるにせよそれは詩人の手のみに属するものではない。それはアリストテレスのいうようなものではなくて、いまだかつて何びとも指摘せず、いまだかつて人間の心の中に思い浮かべられたことのない、模倣以外の何ものかである。その発見は時間の問題である。何びとかが真理を掘りあてて、明かるみにもたらすであろう」といっている。まさしくその予言通りに下からの権利を主張する一つの旗印のように感覚がその頭をのしてくるのである。
 民衆戦線の最初の号令者であるヴォルテールは、はやくも「味覚の感覚が反省に先行するがごとく……」とのべて、感覚を中世の三位一体の隷従から解き放ち、そしてその上に置こうと試みるのである。ド・クルーザ(一七一五年)は「理性が正しい観念をもって判断するために、じゅうぶんな時間を与えられて承認するものを、よい趣味は正しいイデーをもってする。」といい、バウムガルテンはついに感情をもって「まさにあるべき完全なる感覚的認識」というのである。こうして、前にいったカントのように「認識能力」としての感情が発見されて、悟性と理性に、認識能力として並立するのである。カントの体系で「自然的認識」が感覚と悟性からなりたち「叡知界」が理性によって支配されると考うるのは、あたかも、衆議院と参議院があるようなものである。かつての貴族と昔の平民が、奇妙な組みあわせをしているのである。

認識能力として
 前の節でいったように、カントの「悟性」の背景にはヴォルテール=ヒューム的な英国の産業革命の精神がじゅうぶんに反映しているし、カントの「理性」の背景にはドイツの経済制度の立ちおくれによって起るユンカートゥム、田舎騎士的精神がほかの国にくらべて多くのこされている。歴史はそれをみごとに証明するかのように、一八〇六年のナポレオンの行動がドイツ・ユンカートゥムの再編成の必要を起してくると、フィヒテ、シェリング、またヘーゲルさえもが、この理性の再編成をもってカントから脱落していくのである。ローマン派の精神がもうすでに、全体的に、フリードリッヒ大王のポツダムの宮殿の礎石にしかすぎなくなるのが、歴史の展開と共に明きらかになってくる。
 形而上学的といわれるすべての理性的なものは、多かれ少なかれ政治情勢の反映であり、すべて一八七〇年のワイマール憲法に向って旗をかかげて行進しているのである。この行進の中で最もあざやかな旗手はゼーレン・キルケゴールであろう。
 この一八七〇年、すなわち普仏戦争が終って、ワイマール憲法でドイツが統一されて五十億の償金が入り、すべてのユンケル(土地貴族)が慣れない投機事業にまき込まれて、七二―三年の大失業時代を経、ドイツが汚れた金融体制と変わり、ユンケルは株主になり、サーベルを算盤にもちかえるこの転換を、かのニイチェは激しく批判したのである。そして一八八〇年ドイツがさらに資本国家として植民地に眼を転じようとする時、彼は生ける屍のように狂える人となってしまったのである。
 しかし、この一八七〇年という年代は、すでにドイツが、あらゆる形而上学、ユンカートゥムを棄て去る年であって、新たなロッチェの心理主義を、シグワルトの論理学を、ヒルバートの数学論理学を自分の新たな興味とする年でもある。
 心理学的なヴント的な感情論が、芸術の中に入るのもこの転換期を乗り越えて後のことである。そして、ドイツはガスの膨脹率よりも大きな率でその経済力をふくれあがらせていく。新世紀の「すべての上に栄あるドイツ」(ドイチェラント・ユーバー・アーレス)という大ドイツ帝国のこの合言葉はこの金融体制のドイツの最も誇らしい思い出である。思想の世界でも、新カント派は心理主義を脱して、ドイツの帝国主義の線にそってドイツのすぐれていることを説き、日本にも多くの影響を与えた。この哲学も一応巨大な膨脹計画の爆発点、かの一九一四年、第一次大戦のために大きなショックを受けた。一九一八年以後、哲学は新カント派よりも、現象学に重点が移っていくのである。ハイデッガーの一九二八年の『存在と時間』は、いわば彼の大戦中過ごした塹壕の臭いのようなものが感じられ、生きていることのはかなさ、鋭い不安がみなぎっている。

時間構造の中に
 ベルグソンの哲学とハイデッガーの哲学との学説的な近さは、カントとハイデッガーのそれよりも近い。ベルグソンも、ハイデッガーでも、すでに意識というものはあまり問題とならず、それは、時間の中の一つのすがたとなる。直観は「現在」で、思惟反省は記憶すなわち「過去」である。ほんとうの存在は、生きた生命、流動している生きた現在、すなわち純粋な直観というようなものになってくる。
 すみやかに流動するところの時間の流れの中で、感情とは、この「過去」と「未来」の二つのもの、いわば「現実の存在」と「可能の存在」の媒介者となるのである。
 しかし、第一次大戦、一九一八年後、機関銃の音と負傷者のうめき声が耳にのこっている参加者たちが年老いて、これを知らない子どもたちが成年となった一九三二年までの文化は、傷ついた集団機構と傷ついた個人の絶えまない闘いであった。目に見えない芸術の戦いがひろがった。表現派は人間性の回復を叫びつづけ、ダダは常にいやだいやだとわめきつづけた。人民の戦線は戦いに反対しつづけたにもかかわらず、夢魔のごとく第二次大戦は起ったのであった。
 やがてそれが終り、煙が地の上を低くって、すべてのものがその新しい傷口を吸う時になってみると個人は巨大な機構、機械時代の大組織の中に、冷たくその肌を密着していたのである。
 こうしてすべての哲学は自分の無力を感じはじめ、すべての美学はあまりにも多い、自分の方向をもてあまし、芸術家もが、そのよって立つあまりにも多い自分の中に自分自身を見失ってきたのである。それはどんな展開をもって未来に臨むだろうか。

4 時間論の中に解体された感情


自我の分裂
 もし、哲学が、奴隷制から封建制に移るにしたがって、一つの考えかたを生み、また封建制から自由通商主義制に移るにあたって、その次の考えかたを生みだしつつあるとしたならば、知情意の三つのものが、霊肉とか、上級感覚と下級感覚とか、何か上と下との、いわば、上品なものと下品なものといったような分類のしかたで、物を考えた場合は、あたかもそれは、封建制度を、その考えかたでかためたようなものである。
 ところが、この知情意の三つのものが、おたがいに、上級のものでもなければ下級のものでもなく、同等な位置をもつところの認識能力と考えられた場合、ちょうどそれは、万人がおたがいに平等であるという自由通商主義の時代のものの考えかたをもってかためたようなものである。さらに、この自由通商主義がようやく大工業主義、あるいは、ブロック資本主義に移っていくにしたがって、いわゆる機械時代が出現し、集団主義の時代がはじまろうとするにあたって、個人の個性がだんだんその自由をせばめられ、だんだん個人が分解し、集団の圧力の下でうめきはじめ、もだえはじめ、自我分裂が起りはじめたのである。
 この線にそって、生まれてきたのがベルグソンの哲学、あるいは、ハイデッガーの哲学となってきたともいえるのである。
 この時代の知識人は、多かれ少なかれ、ダダイズムのいうところの、ただ自分に向って、「いやだ、いやだ。」と駄々ッ子のように、かぶりをふりつづけるところのものがある。それがいやならば、では、どうしたらよいのかという積極的な結論はまだもっていないのである。しかし、それがそうであってはならないことだけがわかっている。それは切実であり、ほんとうにまじめでもある。にもかかわらず否定のない、ただ現実の拒否だけに終るところの悲しい魂がそこには残るだけである。
 自分から抜けだしたい自分の弱さにあきあきしていながら、しかも、脱出しきることのできない嘆き、これが現代の自我のほんとうの姿ともいえるのである。そこには、一刻一刻と流れ去りつつある自分があるだけであって、ほんとうの自分というものにめぐりあえないでいる。こんなこころもちがいうにいえない現代の「不安のこころ」である。シュール・リアリズムの芸術の底を流れる寂しさも、かかるものがその底を流れている。
 プルーストがいつもいうところの「認識の達しない深みにおいて、自分自身にめぐりあう」という言葉は、こんな寂しい魂が、今こそ、ほんとうに生きているという時間をもちたいという願いのあらわれである。彼が「時間から解放された一瞬間は、汝のこころのうちに、時間界から解放された人間を創造した」といっているのもそれである。こういう時間をもちたいというのが現代人の切実な願いとなってきているのである。

二つの時間
 ハイデッガーの時間論における「通俗的時間」(それは時計の針できざまれているつまらない時間のことである)に対する「本質的時間」(ほんとうに生きているといえるような時間、すばらしい永遠の時間のことである)という時間の分けかたからいうならば、プルーストのいう時間は、いうまでもなく、この「本質的時間」かあるいはそれに近い時間のことをいおうとしているのである。
 ベルグソンでも、「真実の時間」と「分量の時間」とが分かれていて、「分量の時間」というのが、時計の時間であり、「真実の時間」というのは、生きた純粋に持続している、生命の飛躍(エランヴィタル)の時間のことである。このハイデッガーの「本質的時間」と、ベルグソンの「真実の時間」の考えかたは、プルーストや、サルトルなどに、大きな影響を与えてきたのである。
 芸術とは、かかる時間の中に生きようとする動きとも考えられてくるのである。
 ハイデッガーの弟子のオスカー・ベッカーは、芸術の時間の流れている世界をパラエグジステンツと名づけて、普通の存在とは、ちょっと違ったもっと深い生きかた、そういう瞬間にふれたら死んでもよいと思われるような、常ならざる生命の瞬間を捉えて、芸術の時間と考えようとしている。
 ハイデッガーの説を取り入れたルカッチもこんな時間に浸っている時の人間の姿を「完全人」(ガンツ・メンシュ)と名づけている。
 フッサールも現象学的時間の中に、宇宙的時間がその影をうつす時に、ちょうど、ライプニッツのいうところの「宇宙の生ける鏡」といったような世界が生まれると考えている。フォルケルトもまた、こういう時間を、時間の根源的姿 Zeit-Urschau というような言葉であらわしている。
 少し話がむずかしくなったが、要するに、もはや、知情意といったような自分の中に三つの玉のような、「魂」がごろごろところがっているというような考えかたは、もはや、私たちに用のないものとなってしまったのである。むしろ「知識」とは、流れている時間を、ふりかえって、記憶として、固定してみる立場であって、もはや、死んだ時間である、ちょうど、人間をばらばらにして解剖する時に、もはや、それは屍体を取り扱う(ポスト・モルテム)ように、味気ないものであり、こわばった影の世界にしかすぎないと、考えられるのである。それに反して、「意志」の世界は、丸い玉のような魂でなく、時間でいうならば、未来のような世界である。存在でいうならば、これから可能な世界である。つまり、丸い玉(魂)ではなくして、それは、時間の中に、ばらばらにときほぐされてしまっていると考えらるべきである。

永遠の一瞬
 日本の芸術論の中に、「人のシンを見ること飛鳥の目を過ぐるが如し、その去ること速かなれば速かなるほどそのシンいよいよ全し」というような言葉があるように、「はっ」と思うような美しい瞬間、それをむしろ、現代では、芸術的時間とか、「永遠の一瞬」とかいって、特別の芸術の世界と考えるのである。ここでも、感情は、もはや、「魂」ではなくして、時間の中に、ときほぐされて、とけ込んでしまっているのである。
 かく考えてくると、もはや、知情意は、認識能力としての、「魂」の力ではなくして、時間の三つの姿と変わってしまっている。したがって、三つの「魂」を握りしめている自我は、分裂してしまって、時間の中にばらばらになり、宇宙の中にいろいろな角度で関係をする時間の在りかたの中にとけ込んでしまうのである。芸術論も、その線にしたがって、その姿を変えてきたわけである。
「造化にしたがい、造化にかえる」とか、「竹のことは竹にならえ」など芭蕉がいっているが、何か造化に、今しも随順した、うちのめされた、「ああ、お前もそうだったのか」と手をさしのばしたくなる造化にふれた時、人々は、一つの長い息を吐くのではあるまいか。「寂かに観ずれば、物皆自得す」というこころもちもそれではあるまいか。これは深浅もあり、大小もあろうが、多かれ少なかれこんなこころもちのある時、人々は大いなる時間が、宇宙と共に流れており、それは時計で、はかりようもないと思わざるをえないのではあるまいか。こんなこころもちを、ハイデッガーは「生きた時間」といっているのであろう。
 もし、ハイデッガーのいうところのものが、そうでなくても、それはそうでよい。彼の考えかたは、今、東洋の美について実によい示唆をあたえてくれていることとなるのである。
 山本安英さんの『鶴によせる日々』を読んでいると、次の文章にであった。
「しんとした空気の中に、さらさらという流れの音にまじって、何やら非常に微かな無数のさざめきが、たとえばたくさんの蚕が一勢に桑の葉を食べるようなさざめきが、いつの間にかどこからともなく聞えています。
 知らないうちに流れのふちにしゃがみこんでいた私たちが、ふと気がついてみると、そのさざめきは、無数の細いつららの尖からしたたる水滴が、流れの上に落ちて立てる音だったのです。そう思ってそこを見ると、その小さい水玉たちは、僅か三、四寸の空間をきらめいて落ちて行きながら、流れている水面にまた無数の微かな波紋を作って、この美しい光の交響楽は、ますますせんさいに捉えがたいせんりつを織り出しているのでした。そうしてその、きらめきわたる光りの帯をとおして、澄み切った水の底に、若い小さい芹の芽の浅緑が驚くほどの鮮かさでつつましく見えていました」
 山本さんは、いつ思いだしても、夢ではないかと思われる美しい童話の世界だったと思いかえしている。そして、それをいかに演劇の世界に生かすべきか、または、この世界を知ったものが、いかに演劇の中で「生きていく」べきかを思い悩んでいる。
 まことに、ワイルドの言葉のように、
「今、見ていることが、いっとう神秘だ」
 と思われる瞬間がある。神秘と思えるほどあざやかな現実が突如眼前にあらわれることがある。山本さんの場合も自然を通して認識の達しない深みにおいて、自分自身にめぐりあっているのではあるまいか。
 それは、逆説的にいえば、また同時に、そのめぐりあったとは、その自分に袂別し、自分と手をわかち、新しい未来の中に、または永遠の中によろけ込む自分の中に見いだす新鮮さに身ぶるいを感触したことなのかもしれない。
 自然はときどき、自分に、そんな飛躍をあたえてくれるスプリング・ボードとなってくれることがある。
「袂別する時に、初めて、ほんとうにえたのだ。」といえるような弁証法的な自分への対決を、自分に強いる時がある。
「美のもろさ」はそれである。美は、飛んでいく鳥が、目をかすめるほど、たまゆらを閃くものであるというのはそれである。そこに初めて、ほんとうの「今」があるのではあるまいか。
 逆にいうならば、この「今」がなければ、美はないのではあるまいか。私は俳句で、「季」が大切にされるのは、この「今」を大切にすることであると信じている。

5 射影としての意識


 さきにのべたように、文化形式の変遷にしたがって、芸術論もがその姿を変えてきているのである。この最後の段階では、すでに、意識が、例えば、「魂」のような実体ではないのである。そこで、例えば、記憶といったようなものも、その「魂」にくっついて残るというようなものではないのである。むしろ、いろいろの物事が目にうつり、耳に聞こえたのが、ちょうど、ガラスの部屋に光が陰をおとすように「射影」の陰を残すともいうべきであろう。かかる場合、身体とは、光、音、言葉、のいろいろのものを、無限にうつしあう鏡のいっぱいにある宮殿のようなものと考えられるのである。そこで、意識といわれているものは、そのうつしあう、模写しあういろいろな光の交錯と考えられるのである。最近の心理学で、いうところの、例えば、「下意識」などという言葉は、いわば無意識の世界のことをいうのであるが、むしろ、この無意識の世界が、一番敏活に、一番正確に、全身をあげて、フルに動いている時のことをいうのである。例えば、野球の練習をしている投手は、その練習をすることによって「下意識」の底に次から次に、多くの反射運動をたたきこんでいるのである。かく考えると、われわれが普通「意識」といっているのは、記憶の中に残っているところの反省できる僅かなる残っている影である。心理学では、その量は、水に浮かんでいる氷山の頭のようなものであって、見えない水の中の部分は、はるかに多く、はるかに深いものがあるというのである。芸術の世界でも、フロイドの影響を受けた人たちは、これを意識的に問題にしたけれども、私たちは、フロイドのごとく、「下意識」の全部を、性の問題でもって解釈するのは、ゆきすぎであるとするも、意識を反映(アップグランツ、アップビルト)の立場から、これを考えなおすことは、まことに、重要な意味をもつものと考えるのである。
 ギリシャの美学が、「模倣」(ミメジス)をその根底に置いておったが、私たちは、今や新たに近代的な意味において「模写」「反映」の考えかたをもって、この問題を取り扱う段階にきているかのようである。
 かかる考えかたをもって、意識の構造を顧みるならば、わかりやすく、これを分類してみるとすれば、次の三つのものに分かれるかと思う。
1 直接射影(反射)
2 上部射影(反映)
3 基礎射影(正射影)
 第一の「直接射影」とは、いわゆる、反射運動ともいうべき、生理的な反射運動でもって、普通おこなっている行動が全部それである。普通、歩いている身体の平均を保つ運動は、この反射運動であり、手が自由になり、人類の最初の自由への芽ばえも、この反射運動の上に成立しているのである。
 第二の「上部射影」とは、自分が意識して行動をしていると思っているところの普通一般の意識作用である。しかし、人々は、自分がよく判断していると思っているにもかかわらず、過去の習慣、あるいは、数十年の文化構造の習慣によって、抜き去ることのできない反射作用のようなものが残っているともいえるのである。この割りきることのできない姿が、ほんとうの人間のありのままの姿である。
 われわれの現在の生活において、おたがいに協力しなければならず、そうしなければ、はっきり損害が起るということがわかっているにもかかわらず、過去の面子だとか、縄張り根性とか、封建的な抜け駈けの根性によって、どうしても協力ができないということが起ってくるのである。われわれは、それを、封建残渣といっているが、これも、いかんともしがたい生活条件のもたらすところの「反映」の一つの姿である。
 それは、個性というよりも、学者が本のかびくさく、軍人が硝煙くさく、僧侶が抹香くさく、商人が銅臭を帯びるというのがすなわちこのことなのである。さきにのべたことのあるあの中尉の軍服を着た大学生に、兵隊帰りの大学生が、敬礼の衝動をどうしても抑えることができなかったのも笑い話のような一つの例である。
 第三の「基礎射影」とは、自分が知っている考えているものよりもっと深部で、自分にもわからない自分が、深く横たわっている。ある場合は、その自分の瞳が自分を、じっと、のがれようもなく見つめているというような、不安をおぼえる。その瞳は、誰もがまともに見かえされないような深い瞳、そんな瞳に映っている射影像がこの正射影の世界である。プルーストのいう、時間から解放された瞬間に、新しい人間を創造するという「認識の達しない深みにおいて自分自身にめぐりあう」という世界もこうした世界を指すともいえるのである。
 この世界に移された場合、歪んだ世界が、写真のように写されるのではなくして、その歪みそのものが、歪みとして正さなければならない形において、「深い否定の姿をもって」それは、写されていくのである。この方法において捉えられるところに、いわゆる、リアリズムの問題が横たわってくるのである。スタニスラフスキーの訓練のはての世界もここにあると思える。
 それは、アトラスのように、世界をささえているものが深い憤りをもって、歴史の歪んだ間違った世界を、じっと見つめている、ちょうど、それのように、自分たちの意識の底に、一つの鍛練を貫いて、あらゆる世界の現象を残るくまなく正しく見つめている明らかな瞳が生まれるにちがいないということ、これを信ずることは、大いなる自分に自分自身をゆだねることである。
 自分自身にあえて安心するという、この大いなる冒険を、東洋では「大乗」といって、断崖を手を撒って、身を投ずるような行動と考えているのである。中国の山東の農民である善導のたとえ、火の河と、水の河の中に、あえて足をふみだすと、僅かではあるが、四、五寸の幅の、「白い道」が展けていくといういわゆる「二河譬」のような、戦慄をともなう行動への安心というか、捨身の爽やかさというようなものが、この世界との交渉の秘密をものがたっている。

6 芸術的存在


 普通、存在といって簡単に片づけているけれども、いろいろ、分けてみなければ、頭の中がこんがらかってしまうものである。一応、簡単に、整理するつもりで、これを分けてみよう。

1 自然の存在
 a 可能としての存在
 これは、たとえてみれば、数学の数字などのように、あるいは、幾何学の場合にいう三角形、あるいは正方形、などというように、頭の中で、ただ考えられるだけの存在である。例えば、幾何学の線のように、幅のない直線というようなものは、頭で考えられるだけであって、どんなに細く線を引いてみても、現実の直線は顕微鏡で見たら必ず幅のあるものである。幅のないただ直線というものは、頭の中で考えうるただ可能であるというだけのものにしかすぎない。書いている線はただ便宜的にその代理をさせているだけである。数学の一とか二とか三とかという数字も同じように、頭で考えうる存在であって、数字はそれを代表しているだけである。アインシュタインの数学もそれが物理学でない意味で数学の世界であれば、数字的に可能であればそれは可能存在として何の議論もないはずなのである。この世界は、それが可能であるか、不可能であるかだけを疑問とすればよい世界である。
 b 現実としての存在
 これは、数学的存在に対しては、物理学的存在であるともいえるであろう。例えば、アインシュタインの学説が、物理学であるためには、それが現実であるか否かを実験によって証明しなければならないのである。現実に光線が引力によって作用されるか否かによって、初めてアインシュタインの学説が、物理学的存在として意味をもってくるのである。湯川博士の数学的可能性も、国際的な実験によって、物理的対象としての理論となってくるのである。ここでは、それが現実であるか否かを問うところの世界なのである。
 c 生物としての存在
 生きる現象という根元的偶然の存在が、宇宙の中に現われて、ここに新しい世界が生まれたのである。成長と新陳代謝という物理学的存在にはなかった動きが、ここでは問題となる。それらの現象がすべてとどまる時、すなわち、死滅ということがある時、この存在は、その限界にきているのである。生きているか、死んでいるかが、この世界では問題となる。それが、死滅して生物でなくなっても、それが現実であるかぎりは、現実としての存在ではある。しかしもはや、生物としての存在ではないのである。それは、生きているか否かだけが問題となる世界である。

2 技術の存在
 自然の世界では、それが可能か不可能か、現実か非現実か、偶然か必然かを問うのであるが、ここに、それとはすっかり違った世界が現われてきたのである。人間が二つの足で立ち、手を自由にし、道具を用い、この自然の世界にあるものを自分たちの生きるために、変形し、特別の目的にこれを用いはじめたのである。この時、人間の驚きの最も大きなるものは、この宇宙の中に秩序があるらしいということに気がついた時であろう。宇宙の秩序を自分の中に写しとることができるということは、この大宇宙の中に、全然新たに人類が創りだしたることなのである。人類は、この秩序が自然の世界のみならず、人間と自然の間にも、また、人間と人間の間にも、あるらしいということを発見したのである。
 人間の世界では、自然の世界において、可能であることを不可能にし、不可能であることを可能にする。あるいは、現実を非現実にし、非現実を現実にする。あるいは、偶然を必然に変え、必然をまた、偶然に変えることもあえてするのである。今、食べている米は、非現実であったけれども、次から次に現われる遺伝の偶然を工作して、食用米なる現実を創りだしたのである。空を飛ぶ人間は非現実であったにもかかわらず、この半世紀は、それを現実にしたのである。ペストは、現実にあったにもかかわらず、今やそれをほとんど非現実にしてしまったのである。こんなふうにダイナミックに可能と不可能、現実と非現実、偶然と必然のいろいろの存在を転換せしめるところに人間の技術的存在の意味があるのである。
 この創造の自由の歴史を人々は文化と名づけているのである。
 この創造の自由が、宇宙の中に、出現したことは、まことに、驚異であるけれども、そのことはまた、宇宙の中にあやまちを犯すという「原罪」ともいうべき新しい歴史が生まれたともいうべきであろう。
 この常に謬ちを踏みしめることによって、真実に近よるという新しい真実の在りかたは、この技術の存在において、最もそのはっきりした姿を現わしてくれるのである。
 この世界では、謬ちを踏みしめながら、いいかえれば、実験によって、あるいは、実践によって、一年、一年と、歴史の歩みと共に、可能不可能、現実非現実、偶然必然の存在に新しい世界を切り開いていくのである。

3 芸術の存在
 技術の世界では、西暦一八〇〇年には、空を飛ぶ人間は、非現実であった。ところが、芸術の世界では、空飛ぶ人間は、ギリシャの時代から、その姿を現わしているのである。否、死なない人間すらが、その神話の世界では何の不思議もなく、自由に動きまわっているのである。
 技術の世界では、非現実が現実になるには、例えば、飛行機ができるのは、二十世紀という動かすことのできぬ世紀がそれを記念するのである。苦心の末、やっとそこに到達するのである。しかるに、芸術の存在では、何の苦もなく、一挙に、そこに到達するのである。そこは、自由の上にもさらに自由な世界なのである。これが芸術の世界の最も大きな特徴なのである。
 だから、そこで困ったことは、もしこれを作る人間がそれを謬ったならば、技術の世界が謬るよりも、数十倍の大きな謬ちを犯すことができるのである。
 もし万一、これを謬るどころか、悪意をもっている技術家、政治家に利用せしめたならば、これが人類におよぼす影響は計り知れない惨害となって、人類の上に降りかかることとなるのである。かくて、善意の、芸術家と、悪意の、もしくは、誘惑に破れた芸術家たちとの間には、激しい戦いが交わされることとなるのである。
 人間の歴史の中には、この深い嘆き、戦いが、この芸術の存在の世界で戦われつづけているのである。芸術の歴史は、この惨憺たる焼跡にほかならない。

7 機械時代にのぞんで


主観の崩壊
 一五〇〇年―一九〇〇年の時代とは、欧州の各国民がローマ法王の権力からのがれて、それぞれの民族がそれぞれの特有の生きかたで民族化していき、商業が封建的な習慣をゆり動かし、さらに金融的な体制をととのえていった時代である。あらゆる機構が商品化された時代である。この商品化された巨大な流れの中に、ローマ法王からのがれて、新大陸にメイフラワー号で上陸した人々から生まれでたアメリカが一九五〇年代にいたって、世紀の新しい担い手となってくるということを、幾人の人が予見しえたであろう。
 これまでの世界の支配には、何か固有名詞、すなわち一ないし数名の英雄の名前がしるされていたのであるが、一九五〇年のこの変革にはめだつ固有名詞がないのである。むしろ、大いなる機構が、その変革をおこないつつある。そこに機械時代とでもいわれるものの本質があるのである。人間が機構を支配するか、機構が人間を支配するかという不安を感じるところまで、時代が移り変わっているのである。
 このような機構そのものの推移に、理論がどのように歩調をあわせてきたかを顧みる時、まず個人としての世界の観察者、また契約の主体としての主観の発見者、カントを思い起さずにはいられない。
 さきにものべたように、ドイツは英国の商業体制に対しては一七四〇年ごろから追いつく姿勢をとり、一八三〇年から四八年、七〇年と躍進して、普仏戦争を境としてやっと欧州の水準に達したのであるが、カントの体系にも、この歴史的条件がみごとにあらわれている。彼の第一批判の経験の素材の上に知識と悟性を重視する考えかたは正しく、英国の商業的精神がベーコンからバークレイ、ヒュームの伝統を貫いて、大陸に移入し確立したのである。
 第二批判としての実践理性の考えかたは、遅れたドイツ・ユンカートゥムの残存であり、ドイツ・プロテスタンティズムとしての遅れた禁欲的な立身主義の影響をうけているのである。
 一八七〇年、普仏戦争を機として、ドイツはイギリス、フランスの二国の文化水準にまで達し、五十億もの償金と、その時起った経済恐慌のために、ユンケル的なドイツから、高度な重工業的なドイツに変わっていった。そのころから、ドイツには「カントに帰れ」の言葉が起ってきた。新カント派の動きがそれで、高度な数学の発展と共に、哲学そのものが、もっと体系的に、数学的にならねばならなかったのである。私はこれを、大陸における哲学の機械時代への適応の最初の一つの著しい例と考えたい。
 一八七一年ドイツの統一のなった年、コーヘンは『カントの経験の理説』を著し、デデキントの『連続と無理数』がでたのはその翌年である。一八七七年にコーヘンは『カントの倫理学の基礎づけ』を著し、このころマックスウェルの『物質と運動』が発表されている。八三年にコーヘンは『微分法の原理とその歴史』を著し、カントールの『一般集合論(複素数論)の基礎』も同時に出版されている。そして八九年には、コーヘンの『カントの美学の基礎づけ』が発表されるのである。
 カントにおいては、イギリス的な、商業的知的なものと、ドイツ的なユンケル的意志的なものが一つの対立をなして、この二つのものの媒介をするものとして美的なもの、感情的なものがあるとされているのである。カントでは個人の知情意の三つのものはそれぞれ独立した体系であったのであるが、コーヘンになると、全体系が微分的な連続した概念で、美も全秩序の連続として意味をもつのである。これはカッシラーにまで一貫する方法である。カントで、主観に対立する客観的な素材であったものが、コーヘンでは微分的な極小として取り扱われ、数学的な体系の極限概念となってくるのである。今までの人格としての知情意という三枢軸の体系が、非人格的な、単一な数学的な原理によって一様化されるのである。感情の原理は力学的な「切断を連続する」意味で、微積分的な媒介となるのである。コーヘンはその晩年『純粋意志の倫理学』を著し、この終り(S. 642)で予言したように、全体系を大プシコロギスムスをもって完成しようとして、ついにはたしえずして死んでいった。それを弟子であるカッシラーが、『象徴的諸形式の哲学』でその意志をついだのである。
 このような象徴的な数学的な考えかたは、カルナップ、ヒルバート、アッケルマンなどにもある考えかたで、論理が、すでに、記号的に函数の構造となってきている。これはアメリカに学者が移動することによって、シカゴを中心とした機械文明の機能主義的な考えかたに歩調をあわせていくのである。
 この「象徴」の考えかたは、一つの共通した点をもっている。私たちの生活の、すべての部門が横の見透しにおいて、一つの秩序に関連しているとみるのである。そして、この数学的な形式のすべてが、宇宙的な現象にまで共通しているゆえに、それらすべてのものの相似的な見透し、符号、めぐりあいを宇宙的「象徴」としてみるのである。
 ここにカントから遠く去った芸術論は、一つの大きな特徴として、主観を解体させてしまったのである。したがって、客観もが、今までの、物自身としての実体性を失ったのである。商業機構で一つの人格が、一つの人格に契約で貸借関係をもっていた機構から、手形のように信用金融の機構に移った時、主観がもっと大きな関係の構造の中にのみ込まれてしまうように、もはや何の威厳もない、冷たい為替関係のような「普遍の機構」が、ここに立ちあがってくるのである。象徴という言葉のはてには、このような宇宙的な冷たさをもってくるのである。機械時代の出現が新しくこんな意味をもたせ、人類がその深さ、うつろさ、冷たさ、自由のもっている戦慄とでもいうようなものを感じる時、そのうめき、叫び、あるいはそれへの陶酔と驚嘆が、いろいろの芸術となってあらわれてくるのである。

集団の形成――アメリカにおいて
 旧い大陸で理論が機械時代に適応しながらこのような発展をしている時、アメリカでは、また別な成長をとげている。
 一八九〇年、ドイツが世界の商業水準にわり込もうとして、若いカイゼルが新しい植民地政策に転じようと決心し、ビスマークがついに議会を去ったころ、アメリカは工業機構が成熟したしるしとして、世界にさきんじてメーデーのおこなわれることになるのである。そしてこの年、学界では記念すべき本が出ている。ウィリアム・ジェームズの The Principles of Psychology『心理学原論』がそれである。
 それはコーヘンの『カントの美学の基礎づけ』が出たころであるが、ジェームズはこれらカントおよびヘーゲル、すなわち哲学一般を徹底的に批判して、それを道化芝居であるといいはなち、いおうとすることを Psychology(心理学)とはいうけれども、それはかえって新しい哲学を切り開いたのである。彼もまた、実体という概念を、ことごとく排除し、それを意識の流れ、あるいは方向として解体して、流れの止まった状態を「実体的部分」と呼び、飛び去る状態を「過渡的部分」と呼んで、それより六年後でた友人ベルグソンの『物質と記憶』のテーマを、彼独得のやりかたで体系づけて展開したのである。
 この考えかたは、二十年後にカッシラーによって『実体概念と機能概念』によってはっきりさせられたものを、他の形でさきに試みたものである。また現象学派および存在論で四十年後、ハイデッガーの『存在と時間』で「方向」という言葉を哲学に導き入れるよりも、ずっとはやく、彼は捉えているのである。
 言葉の哲学としても、彼は大陸をはるかにさきんじてその創見を打ち立てているのである。「人間の言葉は、概して思惟における方向の記号 signs of direction にしかすぎない。」といっていることは、十年後にフッサールが『論理的研究』で論じているものと同じであり、しかもより広汎な視野をもっているのである。彼のヘーゲルに対する考えかたは、いかにもアメリカ的であって、その体系を、道化芝居をみる時のこころの状態と一つであるといい、そこではありふれたものが普通ではありえないようなふうに現われてき、例えば家の内と外があべこべになったり、老婆が若い男になったり、すべてがはやく巧みに「正反対のもの」になってしまうように、こんなに目もあやな舞台からみるならば、自分の学問はまことに淋しい雨のふる街頭のもののようでしかないといって、
じめじめした雨の中に青ざめて
裸の道に虚ろな日が
 このジェームズの今から六十年前の歎きは、ちょうど、また世界の思想界が、今まさに感じている寂寥感なのである。
 もはや、どの国の哲学も、昔の威厳ときらびやかさをもっていない。ちょうどどの国の軍人もがあの美しい軍服を捨てて、その目的に適するために灰色の制服の一様な単調な淋しいものとなってしまっているのと同様である。そして、それが機械時代のよってきたる兆候でもあったのである。しかも、さらに重要なことはジェームズは、フロイドが、二十年後にその精神分析学で用いる方法を用いて、はやくも主観としての人間の自我を解体して、社会的条件の中の抑圧された不満の下意識的作用を論じている。あたかも、それはせせらぐ美しい光にみちたあの小川をいつのまにか、街頭の水道管に流し入れたように、科学的ではあるが味気ないものとしてしまい、彼が意識していたよりももっと、灰色のものへ哲学を分解していたのである。
 しかし、彼が「自我」を説くにあたって、それは広い平原に散らばる羊に、押しつけられた焼鏝やきごての烙印のようなものであるといっているあたり、彼の前にはまだパイオニアの行動のもつイメージ、テキサスの西部の高い草の香りが残っている。
 それは、シカゴの哲学者ジョン・デュウイに受けつがれて初めて、大都会の高層建築のような、ジュラルミン金属の輝きすらが感じられるものとなってくるのである。そこでは主観および客観 subject と object は、有機組織とその環境、organism と environment となってあらわれている。そしてハイデッガーにおいて欠乏を表示すること(zeigen)が Zeug(道具)となるというふうに考えられた実存論的な構成は、デュウイではもっと集団人的な組織のしかたとなって Instrumentalism(道具主義)となって、はるかにさきのほうを進んでいくのである。
 デュウイの芸術論は、素材経験の中の行動がみずからあるべき調子に均衡を保っている時、予期しない無意識の中にその完全な充ちたりたものを感ずることがある。この時、諸関係の有機的な共通な媒介(medium......organic means of communication)の上に新しい経験があらわれでる。これがすなわち芸術的経験であると考えるのである。この場合、常に媒介は人と物、人と人、集団と組織としての関係構造において同質のものとしての融合であるという考えかたの上になりたっている。
 ハイデッガーの立場では、僅かに一方からはルカッチが集団人的な実存の世界に入ろうとし、また道具の問題ではシュピーゲルベルグが今ごろよく建てられているような類型家屋 Typenhaus というような技術的な面へまで考えをおよぼそうと試みたが、しかしこれらの考えかたは、ついにまだ個人の存在の実存を乗り越えてしまうにはいたらなかった。集団と共にあるということは、共にあること(f※(ダイエレシス付きU小文字)r Sein)であって、それらのものと共に同一の道を歩くのは、軌道の上の存在(auf der Spur Sein)であって、井戸端騒ぎ(f※(ダイエレシス付きU小文字)r Sorge)にしかすぎないこととなるのである。真の存在は自分一人の現存在(Da Sein)の中にのみあるのである。
 アメリカの現実の存在はジェームズの時からこのような個人的なものではない。デュウイの哲学が、やがて教育に向っていった(一九一六年)のは、この哲学は大衆がそれを社会的生活 community の中にマスターすることによって初めて完結されるからである。
 プラグマティズムも、インストリュメンタリズム(道具主義)もその意味では、現実の存在の最後の拠点を、多数人の生活がそれを是とする生活そのものの中に置くのである。
 エグジステンチアを通して、エッセンチアをはかるという存在論の方法は、ラディカルに集団人的にここでは適用されているのである。
 そしてそのはてをたどっていけば、すべての委員会の選挙、ついで政治的選挙にまで、その真実をもとめる方法論的根拠がもたらせられてくるのである。まだアメリカの哲学は、正面きってこの問題を提出していないが、きっとここまできた時、アメリカの「認識論」は委員会の構造の論理的な分析、また研究機構、インフォーメイション・センターの組織、やがては、図書館、博物館の国家的機関、否、世界的機関としての構造そのものの検討にまで、何の不思議もなく入っていけるのではないかと思われる。これまでの哲学であれば、とうてい哲学とは考えなかったもの、社会学や心理学や経済学、政治学の中にバラバラにキリ込まれていたものが、一つに集められて巨大な精霊のように、立ちあがってくるのであるまいか。
 すでに、人間が subject なる言葉を主観的なものから、主体的なものに読み違えはじめている現段階において、カントの主観の確立につぐ新しい認識論が、今、待たれているのである。それはあるいは集団、おそらく、学術会議の決議の形式によっておこなわれるかもしれない。
 私たちの論理は、まだ、決心と決議を同じ命題として取り扱っているのであるが、若くして死んだ現象学者ライナッハが、『民法のアプリオリ的基礎』の中で、この「決心」と「決議」についてはっきりした区別をつけねばならないことを抗議しているのである。確かに、時代を記録する国際的な背景をもった学術会議で、一人の人が提案し、それが討議され、発展していく論理のプロセスは、もはや歴史の中で融合している個人と個人のより高い論争であって、一個の魂の中の「思惟」という段階の言葉のやりとりとはまったく異なったものなのである。歴史的におたがいに規定された個人が、マックス・ウエーバーの悩みを乗り越えて、おたがいの否定の媒介の上に、歴史的事実として学説そのものを投げだすのである。この形の会議は、今まで封建の社会でもおこなわれてきたが、真に自由人として討議に参加するという国際機構の下でのみ(もし完全にできるのであるなら)哲学的な対象としての問題になるのである。かつてわが国でも、情報局は、文部省その他の機構を結集して、一つの認識の主体を構成しようとした。各国の情報網もあらゆる図書館網を通じて、研究の機関を通じて、一つの認識主体をつくりあげようと努力した。そこでは、国家の全機構が一つの認識の主体であった。ラジオはその耳であり、写真は一センチ平方の中に数頁の本を写す技術まで獲得していた。電信、電話の全組織、映画、新聞ももちろんその全機構を最も動く機能としているのである。それらの集団的機構を動かすにあたって、そのあたかも個人の思惟機構にあたるものは、すなわち各種の委員会なのである。集団組織が物を考えるすがたが委員会なのである。ここではもはや一人の個人の影はその障碍でしかなく、その組みあわせの精密さと明かるさのみが、明哲にして澄徹な巨大な思惟の標準となるのである。
 このような組織に対応して、巨大な記憶の作用を受けもつのが、新しい意味の図書館なのである。アーチボルド・マックリーシュが、米国国会図書館を再組織して、戦時中、国家の情報網として完全なものとした時のように、一つ一つのカードの構成、その操作の委員会が、世界のどの地点の地図でもが、数分間で注文者の手もとに空気伝送管を通して送られる状態をめざしているのである。それはあたかも、記憶をたどる人が、目をつむって首をかしげているように、そして時間もそれにまけてはいないのである。しかも、それはどんなに記憶の確かな人よりも、正確で、精密で、強靭でなければならない。全国の図書館の本のカードを一つのところにあつめるところのユニオン・カタローグ(綜合目録)を通して、全米の図書館の本の存在が一目でわかることが可能であることによって、国家全組織を一丸とした知識網であり、インフォーメイション・センターとなることができたのである。
 こうして、すべての研究が国家的なスケールでもって、部署的な組織でもって、構成されようとしているのである。ここに新しく機械時代の認識論の基礎が生まれでようとしているともいえる。何びともが、その組織に属することによってのみ、その対象の感覚的素材も初めて的確に把握しうるという段階の文化が出現しようとしているのである。そして道具主義の哲学も、この時代の出現に適応していこうとしてあらわれてきたというべきである。
 事態はここまできているのであるが、この事態をちょうど、証明しようとするかのようにあらわれたものが二つある。その一つは、国際連合会議の一環としてあらわれたユネスコであり、もう一つは国境を越えて十万人の人間が、一つの研究に、または一つの現象の認識に、精密な組織でひそかに従事した原子力管理委員会組織である。この委員会においては、人間認識の集団的な組織という現実のほうが、原子爆弾のいわば偶然的な成功よりも、もっと驚異に価する実験である。
 それは機械時代がはたす、または機械的な組織がなしうる最も神話的な苦悩にみちた巨人「プロメシウス」よりももっと悲劇的な巨人となってくるのである。世界のどんなドラマよりも、その示した現実はもっとドラマティックであって、世界の芸術はまだその爆発以来、その感銘にふさわしいほどの印象を人類に投げかえしてはいない。機械のほうが人類よりもはるかに童話的であったといえるであろう。ビキニ島の原子爆弾爆発の写真を見ていて、ギリシャ神話以来、どんな想像力もが達しなかった水量が、空に舞っているのを見たと思わずにはいられない。「目に見えているものが、いっとう神秘である」という言葉は、機械時代には二重の意味をもって、私たちに真実なのである。
 それにくらべるとユネスコの構成はその発展において多難であることを予想されるが、構想そのものは、世界の学術会議を統一するという構想のもとに、世界の新たな認識論の構成を実存的方法によって、集団的な形式によって構成しようとしているのである。機械時代は、その模型モデルビルトをもとうとしてその実験にとりかかったのである。全ユネスコの図書館部門において、世界の図書目録改良委員会として、統一された目録記号のプランを打ち立て、全世界に問いかけ「クェスチョネール」を投げている事実は、容易ではない未来に対して戦いを挑んでいると思わずにいられない。そして、それがぶっつかっている苦しみも、そのスケールにおいて神話的であるといえるであろう。アトラスが世界の重量を担ったほどの重さが、この前途にはかけられている。それが破壊するならば、それは現実に見るアトラスの悲劇にほかならない。

白夜の哀愁
 今まで顧みたヨーロッパ大陸やアメリカにおける機械時代への、哲学と美学の適応のしかたには、一つの大きな特徴がある。それはカントにおいて芸術の領域は、知識と意志の媒介者としての感情であったのに反して、すでに個人としての主観は崩壊してしまっている。知識と意志の媒介の連続の意味は失われて、全体が、函数的な働きとしての関係に解体されている。力学的な連続に解体されるか、もっと具体的に環境への有機的な適応として、流動的に解体されるかの別はあっても、もう意識のない関係構造の中に解け込んでいくのである。すなわち、そこでの媒介は、メディウムとしての宇宙的な象徴主義が、一つの特徴となっている。この考えかたは、デュウイの芸術論もイエーツの芸術論に深い共調をもっていることがあらわれている。そしてまた、今、アメリカに強い影響を与えつつある批評家ソローキンあるいはノースロップのインド的な愛他主義 altruism にまで関係があるのである。宇宙的な関係としての抽象的な媒介性が、あらわれているのである。
 そしてそこには、一様にこの機械時代への不安がある。エゴイズムを基礎とする関係機構への不安を覆いかくしがたいのである。アーノルド・トゥインビーにおいて(Civilization on trial. 1948)ハリーエルマー・バーンズにおいて(Society in transition. 1939〜1947)さらにマンフォードにおいて(The condition of man. 1944)すべて、白夜の哀愁のようなものがまつわっている。

抵抗するもの
 これまでは機械時代に適応していった理論の群れであるが、この機械時代が現われることに対抗し、これが現われることを否定し、警告を発した理論の群れがあった。大きい意味でまだ解ききれない問題を残しているが、東洋の機械文化への発展が停滞しているのもこの一つであり、また、マルクスの機械文化への批判、シュペングラーの機械文化の崩壊の予言など、さらに技術哲学者にみられる一様の警告がそれである。
 十九世紀のはじめ執政官ボナパルトは、フランスの国民に一つの布告を発している。「平和を命ずることは汝らの手にある。そのためには貨幣が必要である。鉄と兵士が必要である。」
 このみごとなパラドックスは、また実に、立派なリアリストの言葉ででもある。ナポレオンがドーヴァーを越えることができなかったのはネルソンのためではない。優秀なイギリスの石炭と鉄鉱の支配であり、一八一〇年には、フランスで二百たらずの蒸気機関がやっと活動していたのに対して、イギリスでは五千もの蒸気機関が動いていたのである。
 この機械文化のもつ秘密に対して、ヘーゲルの論理をその先端として立ち向ったのがマルクスにほかならない。彼は、一八三八年のイギリスの手工毛織物業者の没落と滅亡に対して目をみはったのであった。実際一八三四―五年の印度総督の報告は「毛織物業者の骨は、インドの平原を白くしている」とのべている。イギリス人による機械的な織機の発明は、手工業機構とその商業的機構を世界的に破壊したのである。
 ウルリッヒ・ヴェントのいうように「近世のいかなる将軍、いかなる政治家も、技術家のようにこのような打撃を国民の運命に与えてはいない。巧妙なる統制が移行を緩和しない時には、技術の道も、また新たな、より高い生活をもたらす前に、死人の野原を越えていくことも起るのである。」
 このような技術の無制限な発展のもつ秘密の摘出がマルキシズムのもつ基礎テーマであり、ソヴィエートにおける技術そのものとの人類的格闘となってあらわれているのである。機械時代についての理論と実践において、巨大な実験のレトルトとして世界の見まもるところである。しかもそれが、世界の眼と耳の外でおこなわれているところに時代の運命があるのである。今から十余年前、全ソヴィエート作家が集まって、弁証法的創作方法について討論して、その結論に達しないで、散会してから以来の理論の発展についても、私たちはまだ確かな報告をしらない。
 ただここで注意しなければならないのは、この考えかたを導いている論理が、弁証法であって、そこでの媒介は、さきの宇宙的象徴の場のメディウム medium としての媒介ではなくて、無媒介の媒介とでもいうべき、ミッテル Mittel としての媒介であることである。機械文化は、それ自身をブルジョア的技術として、否定の媒介において概念を構成しているところに、理論の適応の姿が、カント派およびアメリカ的考えかたと全然異なっていることに注意しなければならない。さらにここでも、個人の意識を越えて集団の行動が優位していることは忘れてはならない条件である。
 ドイツで第一次大戦の後、あたかもヒットラーの出現と、ドイツ民族の崩壊を暗示するかのように、シュペングラーの機械文化への否定が叫ばれ、西ヨーロッパ全体を戦慄させた。しかし、これはもはや弁証法的な論理などによってではなく、体系的な論理によってである。これは第二次大戦の後のアメリカに入ってもそのまま生きていける考えかたである。事実ルウィス・マンフォードは、彼の『人間の条件』で「シュペングラーの黒い鳥は今もなお世界の空を飛んでいる」とのべている。これは後の技術哲学者の一様の立場でもあり、またそれは漠然とした不安でもある。

機械美に酔う人々
 今までのべてきたように、機械時代の出現にあたって、基礎的な世界のできごとは、個人的主観が、十九世紀にあったような自由の姿ではなく、何かほかのものになってきたことである。その自由は、機械の出現によってより高く飛翔するものなのであろうか、または、イカルスのように、恐ろしい墜落に直面するものなのであろうか、芸術はこの疑問の前に、直感によっていろいろの適応をみせたのである。
 アメリカの穀物倉をアメリカ人は気がつかぬにもかかわらず、それのもつ機械の美しさを把えて、新しい建築美論を打ち立てたコルビュジエ、またその周囲のジャンヌレ、グロピウスたちは徹底した機械の美しさに酔う人々であり、これらの人々の群れから今度の国際連合の建築は生まれいでたのである。
 建築は、住む機械である。そして機械の美しさは、その中にある数学的秩序が、見ゆる音楽として、その均整と秩序を、感覚の中に伝えてくれるのである。それは宇宙の秩序にまで関連をもつところの「精神の数学的作品」なのである。飛行機の美しさは、誰も飾っているのではない。その機能の函数的な数学的な秩序の美しさなのである。この考えかたは、シュープレマチズム、無対象性の芸術にまでそれはひろがっていくのである。レジエ、グルーメル、ロージェ、アラモール、モンドリアン、デスブルグ、モホリ・ナギーの系統のものがそれである。この線にそって文学では、技術者の報告文学があらわれ、ピエール・アンプ、ケラーマンの始めたもの、ソヴィエートの一九二〇年代のコーガンのいう「機械のロマンチシズムの時代」としてのクーズニツァの人々は、まことに素直にまず機械の美しさに驚いた文学者の群れである。鋼鉄と熔鉱炉の火花に見入る若々しい魂なのである。

おびゆる人々
 一九一四年、ドイツでは、ヘルマンバールは、次のように叫んでいる。「……現代は人間を単なる道具にする。……機械は人間から霊魂を奪ってしまった。……われわれは何の自由もない。……このような恐怖、このような死の恐怖に揺り動かされた時代は一度もなかった。世界がこんなに沈黙していることは一度もなかった。……芸術もまた深い暗黙に向って共に叫ぶのである。芸術は救助を求めて叫ぶのである。それが表現主義である。」
 芸術家は、小鳥のように嵐の近づくのを、羽根を通して知っているのである。第一次大戦につづくつぎつぎの戦いの前の静けさ、その本質に向って不安を叫びつづけるのである。ホドラー、ムンク、キリコ、初期のピカソ、また文学ではゲーリング、トルレル、カイゼルの中に、このような機械によって隔てられる人間の距離の感覚を把えていたのである。
 彼らはいかなる意味で機械を憎むのであろうか。それは利潤機構がもつ価値の貨幣化によってきたるところの人間の規格化、価値の平面化、教養の一様化、人格の就職化などを「機械」として象徴して憎悪しているのである。その意味では、アメリカで、シンクレア・ルウィス、アプトン・シンクレア、ドライザー、カルヴァートンなどが抗議を申し込んでいるものでもある。しかしこの問題を、一九三〇年代から今日まで、正面きって抗議しているのは、ジョルジュ・デュアメルを陣頭に立て、ジードらを背後にひかえて、方陣をつくっている文学者たちである。バンジャマン・クレミュウは、一九三一年、次のように宣言している。「機械主義を支配し、もしくは凌駕すること、それを完うすべき一つの精神的教養を鍛えあげること、おそらく個人と社会との間に存する背離を凌駕すること。これが現在、すべての学者、哲学者、芸術家に課せられている仕事である。アメリカ主義と服膺ふくよう主義(ソヴィエートを指す)とに対する抗争は、一九三〇年の一特徴であって、ジョルジュ・デュアメルの『未来生活の諸情景』と、ジュウル・ロマンの『ムュッス』とはその顕著な見本を提供しているが、これは身替りの山羊を索めていることであり、機械主義の省察から生じる新しい疑問、新しい方程式、新しい神話の序曲である。おそらくまた、新しい古典人を定義する序曲ででもあろう。」「個人は孤立にも苦しむ、一方、外部から課せられる服膺主義にも苦しむ。……個人主義はおそらく教義としては用をなさなくなったであろう。しかし、個人主義は無視することのできない一つの事実である。個人は身を委ねるべき一つの普遍的な法則を請求している。」
 この二十年前の言葉は、第二次大戦のすんだ今も、壁に描かれた言葉のように、少し色あせてはいるが、なお、人々の前にいろいろの言葉にまざって、はっきり残っている。

機械の創造しつつある芸術
 この五十年の間に、しかし機械が自分みずからで芸術を創造しつつあることを、私たちは案外驚いていないのである。
 映画は今から二十年前までは芸術であるということを人々は躊躇していたにもかかわらず、しかし、今や、それは一つの立派な芸術として人間を納得させはじめた。色彩を獲得した一九五〇年では、まことに多くの面をもった芸術であることをはっきり示している。
 それはレンズをもって見、フィルムをもって描くところの物質的な感覚である。それは高速度、コマ落し、逆回転、二重うつしで植物の時間の中にも入っていければ、また時間逆行の視野をも捉えることができ、また弾丸と一緒に飛ぶことも、宇宙線のあとをトレースすることもできるのである。また電子顕微鏡、望遠レンズの出現で「映画眼キノキイ」は電子の内部、星雲の中にまでその眼をさし入れることができるのである。
 またそのことは、歴史の聖なる一回性を、物質のもつ率直性でもって把えることができ、ニュースの領域で、大きな信用を人類に与えつつあるのである。おそらく、この機械の発見した芸術は、ラジオ、テレヴィジョン、印刷、機械美の出現と共に、これまでの芸術理論を根底からくつがえし、人々に個人主義の終結を説明する大きな発言をすることとなるかもしれない。これは理論の適応の集団化にまさに対応して、この世紀の後半部の課題となるであろう。





底本:「中井正一評論集」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年6月16日第1刷発行
底本の親本:「美学入門」河出市民文庫、河出書房
   1951(昭和26)年刊
初出:「美学入門」河出市民文庫、河出書房
   1951(昭和26)年刊
※「鍛練」と「鍛錬」、「憧れ」と「憬れ」の混在は、底本通りです。
入力:文子
校正:Juki
2015年3月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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