実践について

――馬になった話――

中井正一




 山口県の「光」に鉄道の講演会に行った帰途であった。柳井の駅で駅員が、「中井先生はいませんか。中井先生はいませんか」と叫んでいる。フト私の事かも知れんと思って、顔を出すと、「真直ぐに尾道に帰らずに広島に降りて下さい。労働者が待っていますから。鉄道電話の連絡です。」と言う。変だなとは思ったが、その頃広島県の中立委員として地方労働委員長をしていた私は、ともかくも広島で降りてみた。
 駅では鉄道局の委員長が待っていて、笑いながら、「先生黙って私について来て下さい」と言う。いよいよ変だとは思ったが、よく知っている仲なので、「何だい」と言いながら、従わないわけにはゆかなかった。
 電産ビルの地下室に入って見ると、意外にも五十名ばかりの人々がギッシリつまっている。委員長はいよいよ目をしょぼつかせながら「先生、今から人民裁判ですわ」と言いながら、「実は今広島県の労働組合の代表者五十名余と、社会党、農民組合の代表者が、先生を知事選挙の民主陣営の候補者として推す決議をしました。そこで先生のこれまでの履歴と抱負を話して下さい」と、お互いにあぐらを組んでの強談判といった工合である。それは選挙資格審査請求書提出期限の二日前のギリギリの日であり、現知事が今のところ一人舞台として無競争選挙かといわれているときのことであった。
「突然無茶な事を言ったもんだなあ」と私がいい出すと、みんなが「わーッ」と笑ってしまった。
 私は言葉をつくして、自分は、文化運動ではいささか期するところがあるが、政治運動からは引かしていてくれと訴えた。しかし、彼等は頑としてきかない。一人の青年はしんみりと「先生、私達は永いこと苦しんで来ました。今度あ、先生、一つ犠牲になって下さい」と言った。この「犠牲」という言葉が妙に私の胸につき刺さった。
 これまで、人々は政治は一つの栄誉と考えたがっていたのに、この青年は政治を犠牲と呼んでいるのである。新しい民主選挙が、青年の労働者に、具体的事実として教え込んでいるその正しさに、私はギョッとする程、打たれたのである。
 しかし、私は断わりつづける理由と論理をもったが故に断わった。しかし、彼等は戦術を心得ていた。「では立候補の了承を得なくてもよいから、審査請求を出すという承諾を戴こうではないか」「異議なし」
 かなり長い拍手が消えようとはしなかった。私は頭を垂れてそれをきいていた。
 個人の決意の力にのしかかる集団の決議の力は、かくも断層の差をもって押しかかるかと思われるほどであった。また心の隅には戦いが初まって以来、かかる意味の大衆の拍手の嵐の中に、生きていつの日にか面し得ると、乾きに乾いたものがあって、今、それが、スポンジがぬれてゆくようにふくれ上ってゆくものがあった。
 私はとうとう黙ってしまった。そして、私もとうとう笑ってしまった。「あはははーっ」と、多くのつぶらな眼も笑ってしまった。彼等は審査請求書を書きあげて、期限の日の夜の十一時四十五分、ちょうど時間一杯というときに県庁にもち込んだのだそうである。
 中立で立つのか、社会党から立つのか、もみにもんだ。凡てを推せん団体に委ねている私は案外暢気であった。しかし四囲の事情は引くにひけぬ情勢となって行った。社会党の人々は費用二十万円は最低要るといっていた。私は代表者の会合で、民主陣営から立候補する場合、三万円以上の金で立っては必ず不純な要素が加わって来るから、この限界内で戦う旨を宣した。そして友人に私のこれまでのかいたものを集めて、二冊の本にすること、そしてその費用の前借をはがきで頼んだ。早速本屋から三千円の前渡金が来た。
 ついに告示のあった翌日、森戸辰男氏の入党要請の電報を契機に社会党公認候補として知事戦に乗入れることとなったのであった。実践的という言葉はいろいろの意味をもっているが、選挙運動なるものは、そのゆうなるものである。
 私をろくに知らない人が、私をほめちぎっている時、私は公衆の前に裸にされて立たされながら、ジーンと、公衆の視線で打たれていなければならない。意識の過剰なる知識人の到底耐え得るものではない。
 しかし、実践なるものはそれを強いて、かつその手を決してゆるめるものではない。三原、尾道、福山、府中と、自動車をもつことのできない私はトボトボとスケジュールを辿って行った。広島県の分水嶺である上下じょうげに行く途中の汽車の中に二人の青年があらわれた。その一人が「先生に犠牲になって下さいといった青年が私です。先生があの言葉で立上ったとラジオで言われたのを聞いて、矢もたてもたまらず後を追って来たんです」と言う。ちょうど連絡が切れて一人ぼっちになっていた時で、二時間ばかりしみじみと身の上ばなしを語り合った。
 駅に着くと、もう選挙本部からの連絡は何かの妨害で断ち切られて、ビラは駅の机の上にまるめられてころがっていた。宿をとって、小筆を三本買って来て、それをくくってビラを書いた。演説届もそれからしなければならない始末であった。折から春の山の雪が濃く降って来た。二人の青年の叫びつづけるメガフォンの声はすぐにかき消されて行った。女学校のガランとした十三、四人しかいない空虚な電燈の光、寂として雪を聴くかのような重い外の空気、青年と共に在ったあの広島県の山の夜を、私はいいようもないノスタルジアをもって、今まさに東京の塵炎の中から恋いしく思わずにいられない。
 翌る日は吉舎町、現知事一行は五台の自動車で乗込んでいたのに遭遇した。青年達は凄愴に緊まりはじめた。この山中に入っている日、突然電報が入った。
「タチアイエンゼツアルヒロシマニスグカヘレ」
 今広島に出ては、三郡ばかりを犠牲にしなければならない。しかし本部の予定は絶対である。帰って演説会場に走せつけた。しかしそれは何かの策謀であったのか、相手もいなければ、広告を出していた新聞社も来てはいなかった。私は数人の人に二時間の会心の演説をして、再びスケジュールの山間部に入って行った。或る時は五里の雨の道を走るように可部町に入って、ビラを見て会場を知り、メガフォンを治しながら辿りついたこともあり、二十日市では会場が無断で変っていて豪雨の申をジリジリしながら立ちつくした。本部は本部で米が切れてパンでしのいだ。男世帯なので副食物は徹頭徹尾イカの塩辛であった。かくて、すべては惨タンたる苦しみにみちていた。ところが新聞の誤植で私が八四歳となっていたのを敵は見のがさなかった。山間部で私が行かなかった郡では私を八四歳の老翁だと演説してまわっているし、またそう信じているとの情報を得たのであった。その対策として、私達は五日市の競馬場に突込まなければならないはめに落ちたのである。
 烈風の吹く日であった。
 競馬場には幾万の農民が山間部といわず、海岸部といわず方々から集まっていた。その前に四八歳である正味の私の顔を見せなければならないのである。馬がまさに集合せんとする時、私は競馬場のコースに入ったのである。そしてこの大衆に向って叫ばなくてはならなかった。馬のかわりに、人間が、レース・コースの中にあらわれたのである。そして馬がスタート切るや、馬券表の高台に上って、また民主選挙が何であるかを説かなければならなかった。
 京都から、知己である坂東蓑助氏が競馬場に応援に来てくれて、あの美貌の鼻の先を赤く日に焦がしていたのは、今も尚、胸にしんで来る姿であった。
 あのレース・コースに立った自分を、今思いなおしみて深い感慨がある。実践なるものには、過剰の意識を乗越えて、自分自身を追い抜くもの、自分自身を止めて見ているものを追い抜くものがなくてはならない。批判は補うもののない場合、単なる批判である場合、実践を止めてしまうものである。
 自分のフォームが気にかかっているボートの選手を「岸が気にかかる」といってボートマンは嫌う。フォーム倒れになるからである。気をつけるべき事である。
 くよくよ考えていてどうして自分は馬になれたろう。多くの青年が、芸術家が、知識人が美しくもあの行動の中に巻き込まれて行って、馬のコースの中に立つに至ったことを思いみて、私は感慨にうたれるのである。そして、青年達は僅か三万円余りの費用で、私のために二十九万千九百二十四票をかき集めてくれたのであった。敗れたりとはいえ、人々の予想を美事にくつがえして、四対三の比率で現知事を相手の戦いをたたかったのであった。
 選挙のうわさがぼつぼつ起って来たシーズン、鹿を逐って、自分が馬になったという消夏閑話の一くさりなのである。





底本:「論理とその実践――組織論から図書館像へ――」てんびん社
   1972(昭和47)年11月20日第1刷発行
   1976(昭和51)年3月20日第2刷発行
初出:「青年文化」
   1948(昭和23)年9月
入力:鈴木厚司
校正:染川隆俊
2007年2月13日作成
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