三年前のことであった。
戦い敗れ、青年の魂の表皮には、まだ生ま生ましい傷痕が赤い肌をあらわにしているときであった。
広島県の田島の青年が、突然、私の家にやって来た。リュックサックから、数十冊の本をものもいわずに引き出して、
「先生、今、大阪から、こんな良い本を、これだけ買ってきました」
昂然と、私に一つ一つの本を示しつつ、その表紙を、撫ぜんばかりに示すのであった。
その一つ一つの本を、何人の青年が、そのきらめく瞳で、驚きと、疑問の表情で取り組むかを想像しながら、私は、何となく、頭を下げる思いであった。
彼は、また一つ一つの本を大切にリュックサックにしまって、再び、昂然と、田島に向かって、という足どりで、私の家を去った。
私は、何かやるせないような心持ちで、ひとり残ったのである。
実に、終戦直後の田舎の街では、良書は、いわば、貨幣のかわりをしていた。肉にも変われば、酒にも変わった。岩波書店の本は、地方書店には出なかった。先ず、菓子屋か、肉屋かの息子の手に渡ったのであった。図書館のように、一冊の本を買うのに稟議の印が三ヵ月もかかるところでは、良書はまわってこなかったのであった。
苦々しいこころで、図書館長である私は、このありうべからざる現実を凝視していた。自分の金のプールをつくって、かろうじて良書を図書館に確保していたのであった。
大阪へリュックサックを背負っていった、この田島の一青年は、私の図書館が集めえたよりも、もっと良書を、私の眼前に、そのリュックサックの中から取り出して見せたではないか。
私の腹の底には、消せない憤りが、沸りたつのをどうすることもできなかった。
いくら、私が怒ってみても、そこには、どうすることもできぬ、機構の幾重にも張りめぐらされた、謬りが、蜘蛛の巣のように横たわっているのであった。
その謬りの果、辿り辿ってゆけば、やがては、それは政治の、法律の欠陥にまでたちいたるのである。
地方の涯で、どうすることもできぬ謬りに直面しているものの歯ぎしり、これは、世界のどこにも漲っているかも知れない、凡人の悲しみである。
しかし、私は、それを、何人のこころにもある、巨大な悲しみとして、胸の底にしまいこんだ。
私は、ひそかに、悪いことをするもののように、いつの日にか、良い本が出たら、一千冊を直ぐ、買うことのできる、また売ることのできる、大手を振って注文できる組織を、大衆の名において、つくって見せる日に近づこうと誓った。
このこころを、この三寸の胸に、ひそめていた私は、図書館法通過の責任を担った去年七月、一つの熱情として、私をとらえていた。
この法案は、日本の村々の涯に、あのつぶらな瞳をした、少年達に、青年たちに本を読ます図書館をつくってやるという法案である。
こんなに簡単な、こんな明るい法案が、最近の国会の中にあったであろうか。
しかもこの法案は、人々からいえば、隅のゴミゴミした屑法案の一つでしかなかったかも知れない。ちょうど、義務教育法案が、日清宣戦布告の議案よりも遙かに軽い法案であったように。
しかし、今から思えば、明治法案中、地方文化にとって、義務教育法案ほど、巨大な意義をもつ法案は、今後の歴史の上においても見出せまい。
目に見えない法案こそ、巨大な意味をもつことがある。
図書館法案も、また、地方文化にとっては未来に向かって、巨大な断層をもつ法案である。
二十六年度、国庫よりの補助金(八千万円ないしそれ以上)を闘いとることは、全図書館界、出版界の文化運動によって、決するのである。
中央でのこの戦に勝ち、七月から効力を発する図書館法案を、地方文化の、万人のものとするために生かすこと、これは出版界一九五〇年度の大いなるキャンペーンというべきであろう。
*『出版ニュース』一九五〇年五月上旬号