日本の美

中井正一




一 西洋の美と東洋の美



 これからいろいろ「日本の美」について、お話をいたしますにあたって、まず、この章は、西洋の美と東洋の美の関係について、のべさせていただきます。
 いろいろの世界の学者の議論の中に、一つの間違ったと思われる考えかたがあり、また日本人もそう思っているらしい思い違いがありますので、そのことをいっとうはじめに申しあげておきます。
 それは、東洋の芸術は野蛮な民族の芸術である、という考えであります。そのことは、東洋の芸術が西洋の芸術にくらべて、発達の程度が低く、また遅かった芸術であると考える考えかたであります。
 この考えかたは戦いに負けた日本人が、何となく日本を軽蔑しているこころにまじって、日本人にとって、とんでもない悪い影響をあたえて、みながいっているアプレ・ゲールという言葉の中にある、やりきれないこころもちを引き起す危険があるのであります。
 今から十五年前、今の中国を予言した有名な著書『万里の長城はくずれる』という本を書いた、グロヴァー・クラーク氏は、その本の中で次のような意味のことをいっています。
「中国はなるほどたびたびの戦争はあったが、領土が広く、交通が貧弱であったから、大きな地区は破壊から取り残され、印刷術、陶器すなわち焼きもの、ブロンズすなわち青銅、宝玉たまの彫刻、または中国における銀行の組織、官吏登庸の試験制度など、ヨーロッパにさきんじて、はるかに発達していた」
 さらにつづけて、
「西洋は人間の便利のために用うるように、いかに自然力を支配すべきか、生活を愉快にするために事物をいかに作るべきかを多く知っている。しかし、いくら機械に役に立つ多くのものをもったからといって、またそれを知っているからといって、人間を文明人たらしめ、国を文明国たらしめることはできない。ほんとうの文明の社会とは、人が他人を抑えつけたり、人の意志や信仰を強制したりすることなく、おたがいに、正しく、敬いあい、ゆるしあうことによって、人間が共にとけあって生きる社会のことである。中国の社会は、ほんとうに、この意味の文明社会であったから、永くつづいたのである。中国人は彼らの日常生活の上に、儒教の格言であるところの『自分の欲せざるところを、人にしてはならない』ということを、一貫して、徹底して、実行している。彼らは現実主義者であるから、四民平等という到達しがたい観念的な理論は打ち立てない。長い長い実践の上に、彼らの文化、彼らの哲学、彼らの宗教があり、しかもそれを、他人に決して、強制しようとはしない」
 というのである、彼は、家族を中心とする、また村落を中心とする、または職業を中心とするギルド、すなわち協同体は、世界に比類のないかたちで発展をとげていることを指すのであります。そして結論として、
「事物を支配する技術については、西洋は中国よりもはるかに多くを知っている。しかし、人間が文明人として、共同に生活するという、最も困難な技術にいたっては、西洋の知るところは中国よりもはるかに僅かである」
 といっております。彼のいわんとするところは、東洋は、機械文化と個人を主張する世界においては、立ちおくれているが、人間が集団的に集まって、いかに傷つけあわずに社会を保ち、ほどほどの便利の世界でいかに楽しむかという世界では、一貫した二千年の文化が、封建の限界内にもがきにもがきつつ、独特な、高度な、鍛練を経た爛熟をとげていることを指しているのであります。
 中国に一九二〇年から在住し、北京大学の教授までしたグロヴァー・クラーク氏のこの言は、まことに東洋を愛して、これを見た人というべきでありましょう。私たちには、このギルド、すなわち協同体自体が、封建制度のもがきの姿でありますが、このもがいている精神が、世界にとって貴重であり大切であります。
 このもがき、抵抗、レジスタンスが芸術でどうあらわれるか、これに注意すべきであります。このクラーク氏の言葉のごとき生活を、文明、すなわちシヴィリゼーションというならば、東洋は、ただこれを野蛮といい、ニューギニアの土人に用いうる savage または native という英語にふさわしいもの、すなわち野蛮なものと考えるわけにはいかぬのであります。
 いろいろの理由で、機械文化に共に入ることを拒んだところの地球の半分の住民、インド、中国、日本その他の十億の民族が、機械文化をただ拒んだという理由で、野蛮とはいいがたいのであります。
 日本民族は、機械文化に追いつけといわれれば、封建性の圧迫さえなくなり、そして少しでも自由を与えるならば、僅か八十年の年月にして追いつけることを、東洋の諸民族にさきだって示したのでした。それがしかし、はたして幸福であったかどうかは、いまだ実験中ともいえましょう。
 このたびの第二次世界大戦は、大いなる警告を私たちに与えたともいえましょう。すなわち、中途半端な、封建的な殻を尻っぽにつけた機械文化を、いい加減な思い上がりをもって使うことが、いかに危険であるかということであります。
 私たちは、深くひるがえって、グロヴァー・クラーク氏のいう長い伝統の中に、共同生活するという、絶望の中にもがき抵抗し、鍛練されたる独特な文明を顧み、それが生みだしたその芸術をもう一度、確かめてみなければなりません。
 東洋の美を、もう一度、ふりかえってみなければなりません。ソローキン、ノースロップなどという、最も新しい欧米の有名な批評家なども、機械文化のゆきづまりから東洋に目を向けているのであります。それどころか百年前に、すでに十九世紀の印象派の人々すらもが日本の浮世絵の光の扱いかたに非常な驚きの目を見はっています。そして印象派の人々の光は、浮世絵の影響といわれているのであります。またかの近代絵画を切り開いためざましい一人の画家、ヴァン・ゴッホも手紙の中でアルルの光を「日本にいったようだ」といって、浮世絵の光を通して愛する日本をあこがれ、その光の取り扱いかたから彼の画法の一部をひきだしています。また音楽の世界でも古い作曲法を破って、近代音楽を導きだしたドビュッシイは、日本画の金色の鯉より思いついて、「金の魚」というテーマの音楽をつくっています。そしてさらに、ジャバのガメラン音楽をパリーの万国博覧会で聞いて、すっかり驚き、次のようにいっています。「こんな音楽を聞いていると、私たちの音楽は曲馬団の野蛮な騒音にすぎないということを、いやおうなしにみとめざるをえない。ジャバの音楽は、一種の対位法であり、これにくらべると、パレストリーナの対位法は子どもらしくて聞くことができない」。
 というようなことばを、ドビュッシイはもらしていますが、これを聞くと、私たちは、東洋がむしろドビュッシイのような二十世紀の音楽を引きだす役目をしたといえることを教えられるのであります。
 文学の世界でも、詩人イエーツが、東洋、ことにインドの思想から多くのものを受け取っていることは有名であり、またかのロレンスもインドのヴェダ、またはリグヴェダから多くのものを導きだしているのであります。それは、彼が西洋の中にみずから脱すべきものを感じ、東洋にその救いをもとめて、彼のいろいろの普通でない行動となり、文学ともなっていったといわれているのであります。
 かように考えていきますと、あまり思いあがってはいけないことでありますが、しかし、東洋には、まだ研究されつくしていない、大切な何物かがかくされていることを、深く顧みなくてはならないことに、気がつかれるのであります。
 東洋の芸術の中には、もがきにもがいた痕があります。絶望の中に立ちあがらんとして、深い息をはいたあとがあります。決してそれは、単に野蛮なものでなく、むしろ、人類にとって大切なものであり、それがこの東洋の芸術の中に残っている。全世界が、まさに失わんとしているものが残されている。――現に危うくもいまだ残されていることに、深い注意をはらわなくてはなりません。
 欧州の批評家が、「ルネッサンスは、キリスト教精神と、ギリシャ精神との結婚であった。第三のルネッサンスは、キリスト教精神と東洋精神との結婚でなければならない」といっております。
 このたびの戦いは不幸な戦いでありましたが、講和によって、西洋と東洋が、その手をかわすことによって、世界を支える新しいルネッサンスの機会が、ここに生まれるとすれば、まことに不幸がもたらした幸いであります。
 そして、この結合の中で占めるべき、日本の芸術の位置が、どこにあるかを、私たちは見きわめるべきであります。それは謙遜に、しかもまた、卑屈でなく、正しくそれを顧みるべきであると思うのであります。
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二 中国と日本の美



 前章は、西洋の美と、東洋の美について考えてみたのでした。今度は、この東洋の美の中で、大きく見て、中国と、日本の美の二つのものを、どう異なっているか比較し、くらべてみたいと思うのであります。
 西洋の人々が、東洋の美を美しいなあと思い、それに驚くのに二つの種類の人々があります。
 第一の人々は、東洋の美の中の、極彩色の、その色の豊富さ、あるいは、その技術の手の込んでいること、人間の労働として考えられないほどの辛抱づよさ、その緻密さ、巧妙さ、または、その大がかりな巨大さなどに驚くのであります。
 例えば日光廟の手の込んだ極彩色、大仏の巨大さ、「ねづけ」や刀のつばに凝りに凝った彫刻したもの、それらをまことにめずらしいと驚くのであります。それが大多数であり、普通であります。
 しかし、かかる美しさは、それが西洋に絶対にないからといって驚いているのではありません。日光廟におとらぬヴェルサイユ宮殿があり、細かい細工だって向うにもあります。ただその努力と技巧が、極度にまで用いられているから、驚いてワンダフルと、驚嘆の声を出すのであります。
 ところが、東洋の美しさの中で、西洋の人々に驚かれる第二の種類のものがあります。それは、その極彩色がなくなって、むしろ反対にただ黒一色になり、しかもそれが、だんだん筆数が少なくなっていき、ついにそのすみのほうにちょっと絵が描かれているほかは、ただ白い紙が、黙々として、空虚を占めており、その淡々たる淡さ、その虚ろさ、しかも、それがもっているキーンとした感情の緊張、といったような画風は、ほんとうに西洋人を驚かすらしいのであります。それは、前の驚きとは違って、西洋では、まことに稀な美しさであるからであります。
 西洋人で、かかる画風がわかり、ほんとうにこころの底から驚く人は、しかし、きわめて稀であります。日光の美を愛する西洋人は多くても、桂離宮を愛する人は割合い少ないのであります。しかし、かかる美の要素が決してないのではない。最近のピカソの陶器・焼きものなどを見ていると、いかにも筆を減らして、単純からいよいよ単純なものになっていき、東洋の焼きものかと思えるほどのものになっていますが、かかる画風を理解する人々は最近まできわめて稀であったのであります。むしろ日本人がこれを騒いでいるのは、日本人のこころに、こんな下地が、何百年もまえからあるからかもわかりません。
 第一の種類の美、いいかえれば、極彩色の、格の張った、どっしりと重い美しさは、中国でもいわゆる、北方、あるいは官僚国家機構のもとにできたところの絵画、工芸に多いのであります。
 その原因はいろいろありますが、芸術家も、北方形式の世界では、一つの試験制度があり、試験官の出した題目、つまり今の国家公務員試験のような試験場でうける試験問題でもって、競争しながら作品をつくるのであります。そして、一等、二等が定められ、ついにそれが最優等になると、宮廷で「金の帯」をしめることができるということになるのであります。これが無上の光栄ということとなるのであります。こんな芸術は国家奴隷の芸術でありまして、非常に大きいもの、非常に手の込んだものを作るのには役に立ちますが、ほんとうの、人間の魂をゆすぶる、ぞっとするような気品をもったものを描くところの、ほんとうの天才はとうていこんな世界に生きられるものではありません。ただ、食うため、立身するために技術を磨く画工、人にほめられることだけを追い求める芸人、いいかえれば「アルティザン」をつくることとなるのであります。しかし芸術的天才をもつ幾十万の芸術家は、この制度の中にいかにもがいたことでありましょう。このもがきの火花がその中にひらめいています。中国の芸術は、この北画、あるいは院体派という、その巨大なる北方国家構造の中から生まれた独特なものをもっているのであります。
 彼らの芸術は、確かに今も世界を驚かし、かつてまた、日本の芸術を指導したのであります。
 しかし、幸いに、日本の国家構造は、中国の北方国家ほどの大きいスケールのものでもなければ、一本の大いなる河、大黄河のような、やっかいなものもなく、国家が小じんまりとしたり、または戦国時代のようにばらばらになり、もっとのんきに、芸術家は、少しスケールは小さいが、芸術そのものの求める真実に引きずられて、自由な空気のもとに、天才のおもむくままに芸術がのびていけたのであります。中国でいえば、文人、すなわち南方の自由人が描き、切り開いた、自由に描いていく方向をたどっていったのであります。
 そこで、日本の絵画は、北方中国から技巧をうけついだにもかかわらず、重いものを嫌い、軽く、自由で、変化と流動を求めるのであります。
 例えば『源氏物語絵巻』または『鳥獣戯画巻』にあるごとき、筆の数の減らされ、しかも、あくまで軽いものが、中国の南画の影響をうけるまえに生まれているのであります。
 かくして、中国でいうならば、いわゆる南方の様式に近いものが日本では発達したのであります。ここで、中国の絵画を評価する場合でも、中国よりも正しく、南方的なものを評価し、それをひきつごうとする動きがみられるのであります。
 例えば、これは八代博士の指摘されたことでありますが、南宋の牧谿という人の作品などは、日本の作家は、最高の作品として評価したのでありました。しかるに、中国の批判家は、代々これを、「麁悪無比」とか、「※(「鹿/(鹿+鹿)」、第3水準1-94-76)悪無古法、誠非雅玩」といって相手にしない。いわば、南画の真髄は、日本に渡ってまず、その光を放っているともいえるのであります。
 そして、それと反対なのは、中国の康熙・雍正・乾隆の極彩色の陶器は、中国の最高の芸術として西洋の最も高く買うところのものですが、日本の茶席では、それが、「わび」のこころに合わず、それほどの評価となってこないのであります。もっと軽い柿右衛門か、むしろ朝鮮の李朝のもの、あるいは唐津にいたって初めてそれを高く買うのであります。
 その最も対照的なものは、顔真卿の「書有風格」という字と、『中務集』の「仮名書」をくらべてみられるならばわかるように、中国の字、すなわち漢字が、四角な空間を厳然と占めて凛と張った格の中に、キチンと静止しているのにくらべて、日本の仮名書きは、もともとそれから出発したにもかかわらず、水手書き、葦手書きと名が示すごとく、流動してやまぬ水の流れのごとく、さらさらと跡かたもなく流れ去っていくのである。
 清新を求め、清く新しく、とどこおるものを嫌うこころ、軽く、柔らかく、浅い川を流るる、水のごときものが、日本のこころとして、日本の芸術の中に独特なかたちをもって、できあがってきたのであります。
 これまで、欧米の美術批評家は、東洋の美を論ずる場合、主として、大国家機構の生んだ芸術の中国を論じて、日本の芸術はその不完全な一部のごとく論じているのであります。日本の中国美術史家の多くの人々も、それを愛するのあまり、日本を軽んずる傾向があるのであります。
 しかし、もし、その人々が日本を軽んずる時、必ずや、中国の南方に発達した、あの自由なる文人の精神、天才の縦横な気品、中国の巨大な官僚国家の重圧にもがき、それから吐かれる吐息のような緊張より生まれたる芸術、中国で最も大切にすべき南方的要素を見失い、それを高く評価した日本をも見失うこととなるのであります。
 中国で王室の試験制度の芸術標準にかなわざるもので、しかも立派なものを、「逸」なるもの、すなわち試験制度からはみだして飛びだしてしまうものを、「逸品」といっております。
 これは時の中国の政府のおしきせの芸術官僚に対立して、魂の清らかさ、高さ、清々しさを追い求める人々、すなわち封建制の愚劣さに抵抗するレジスタンスの人々によって作られるところの、自由へのもがきの芸術であったのであります。
 世界の美術史家が、また日本人自身が、東洋の美の中で、この自由の精神を顧みることをおこたり、その伝統をうけつがんとした名誉をもつ日本の美のすがたを見おとす危険があることは、まことにおそろしきことであります。おたがいに深く反省すべきことであると存ずる次第であります。
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三 日本のこころと日本の美



 日本の神話で、いちばん印象の深いものは、あの天の岩戸の巌の扉が、静かに開いて、さやけさをきわめた清らかな光が、闇をきり裂いていくあの瞬間である。暗いもの、ただよう重くるしいものが、人々の笑声の中に、きりさかれて、清い清々しい光の中によみがえっていく瞬間はまことに美しいかぎりであります。
 日本語では、「ああきれいだ」とよくいいます。
 この「きれい」ということばは、さっぱりとしたすがすがしいもの、とどこおったもの、重くるしいもの、暗いきたないもの、何か殻のようにこびりついたものが、何にもなく、「蛇の目をあくで洗ったような」ということわざがありますが、清くけろりとしたもののことをいうのであります。
 あの人のやりかたが「きれいだ」というのも、そんな歯切れのよいやりかたのことをいうのであります。これ見よがしの、もったいぶったひねくったものが、ほんに匂いのようにあっても、人々はそれを「きれい」だとはいわないのであります。
 日本の神殿の中心である伊勢神宮が、二十一年ごとに建てかえられつづけながら、ここに一千年もの間、しかも滅びることもなく、その様式方法も変えられることもなく、ここにいたっていることも、まことに注意すべきことであります。
 北京の紫禁城のように、または遠く、あのエジプトの宮殿のように、大きく、いかめしく、滅びることがないことを誇りとして、造ることを嫌い通すことが、むしろ日本では千年つづいたといえましょう。
 アテネのアクロポリスも崩れ去り、エジプトのティスの宮殿も消え去り、インダス、インカの神殿も原型をただ想像にまかせるのにすぎないのに反して、この二十一年目ごとにみずから滅すことを堅くまもりつづけた日本の神殿のみ、木の香もあやに、今まさに、千年の時の中に、その原型を保ちつづけているのであります。
 清純であることは、新しく生きていることであります。この清純を求めることを千年の間変えなかったということを、私たちは、今さらのごとく、もう一度みつめてみねばならないのであります。
 二十一年の僅かの歳月も、もし、それがシラ木で作られているならば、それは、古くなずむものとなるのであります。汚れることとなるのであります。
 だからあえて、シラ木を用いて造る時、すでに脱出の用意をしながら、そのうつりゆく清純な生成感、生きているという「なまな香り」を神殿の本質と考えようとしたことは、世界に類例のない、民族の「こころ」であります。
 死んだものは汚れたるものであり、生きているという「しるし」、香り高い、みずみずしい、さかんなるもの、ひきしまったもの、とどこおらないもの、常に自分自身からぬけだして発展していくものを、彼らは、「うるわしきもの」とよんだのであった。
 かくして「うるわしきもの」であるためには、刻々、古めかしく、なずむものをたたきつぶすということ、かたくなり殻のようなひからびたものをぬけだすということ、じっとよどむものから、サラサラと流れ、動きはじめるということ、つまりはたらきそのもの、すなわち行動が美しいことの条件となってくるのであります。
 たたきつぶすこと、打破すること、ぬけだすこと、脱出すること、流れ新しくなること、流動するということ、この行動の中に美が生まれいでることとなるのであります。
 だから、巨大なもの例えば大仏のようなもの、いかめしきもの例えば曼陀羅の絵のようなものは、中国の北方文化、すなわち巨大なる官僚国家の影響のもとにあるものであって、日本に入ってくると、やがてそれは、いつもそれを新たに変形し、新しく解釈し、新しく創造していったのであります。
 中宮寺の観音のあの流れしたたるような美しさは、中国の北魏の仏像の固定したものからは、はるかに異なったものであります。
 かの有名な鳥羽僧正は、いつも朝廷でいかめしい服をきて絵をかかされるのが大きらいでありました。彼が朝廷から自分の寺へ帰ると、野暮ったいいろいろのころもをすっかり脱いでしまって、真裸になって第一にお風呂に飛び込んだといわれています。いつもそんなことをするので、悪い友だちが、いじわるに、そのお風呂の水をなくして、わらや竹を入れておいたので、僧正は何も知らずにそれに飛び込んでお尻をうって気絶してしまった、ということさえ伝えられています。
 いかめしい官僚的な絵を描かされたその絵は残らずして、うさぎや鹿が水の流れの中で遊びたわむれているあの『鳥獣戯画巻』の絵巻物が、彼の傑作として伝えられて残っているのであります。
 彼が衣を脱いで風呂の中に飛び込んだこころは、今もなお、生き生きと生きている日本人のこころであります。よくわかり、人々の手をたたいてこころよしとするところであります。しかも、そのこころが縦横に描かれてあますところなく、形式としても日本独特の流れ形式を導きだしている絵が、あの『鳥獣戯画巻』として、日本人が愛好してやまぬものとなっているのであります。
 そこには世間には自由がないが、それぞれもとめ、もがいているこころ、そのこころが、この一巻きの絵巻きものの中だけでは、その自由をほしいままにし、その自由を得て、うさぎや鹿や猿と共に嬉々としてたわむれている。こころゆくまで楽しんでいるのであります。
 この絵の中には多分に、その当時の世の中を諷刺したものがあります。その世間を一歩ぬけだしたところのものがあります。中国の『詩経』もそういうところがありまして、鄭玄という東洋最古の美学者は、この詩を批評しています。中国の『詩経』の精神が豊かにみなぎり、この次に申すような文学のこころとなってまいります。
 大陸から仏教が伝わった時、多くの仏教の教えを題材とした工芸模様としてあらわれた、玉虫厨子の絵には、『金光明経』のなかの、飢えた虎に自分の身をなげすてて、それを救う題目を選んでいるのであります。日本人が多くの物語のなかから最初にめぐりあった驚きが、そこに描かれています。
 ころもを脱いで、木にかけ、断崖よりとんで飢えたものを救うために身を放つ精神は、巌を用いて、闇を裂いていく天の岩戸のすがすがしさを、新しいこころでもっていでいるのであります。
 日本の禅も、感覚的にこの断崖に、手を放って身を放擲することを説いてやみません。日本化した浄土教もまた、こころを虚しくして、おのれをなげすてることを、窮極の教えとして捉えるのであります。
 要するに、常に生きているというしるしのさわやかなるものをとどめ、くさり、汚れるものを脱ぎすてて、清く新しく、生き生きしたところのものに、身をひるがえして飛び込んでいくところのものを、いさぎよしとするのであります。
『万葉集』の美しさ、「さやけさ」といい、『古今集』の「わび」、または世阿弥のいう「幽玄」といい、中世のいう「すき」といい、さらに江戸時代が好むところの「いき」の美しさといい、それを貫いているものは、すべて前にいったようなこころぐみを、時代時代が、その時その時の表現でもっていい表わしたかと思われるのであります。
 すべてこれ、きれいで、さっぱりとし、軽く、柔らかく、流れ動き、清く新しく、常に濁りと汚れと、重さから脱出せんとするところの、脱出の精神と行動がみとめられるのであります。その一々について次章から顧みてみたいと存じます。
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四 文学――さやけさ・もののあわれ



 今日は、日本の歌の世界で二つの精神といわれている『万葉集』と『古今集』が、日本の美として、いかなる位置を占めているかを考えてみたいのであります。
『万葉集』は、一般にいわれるように、「人となりまことにまかせ、なほく、飾るところなし」というようなこころもちでうたっているのであります。すでにうたうこころがまえが、そのこころの真実を一すじに通し、唐竹を割ったように、まっすぐにいいたいことをいい、うたいはなつのであります。それをいいつくろったり、かざったりするのがもどかしく、めんどうでそんなものをかなぐりすてて、こころのありたけをいいのけてしまうのであります。
 そこで、『万葉集』には、ずいぶん多くの歌がありますが、全体にかかる自由な精神が、みちあふれています。その飾り気のなさ、明かるさ、すがすがしさ、つまり、一言にしていうならば、まつわりつく暗いもの、ややこしいものを、一刀に切って捨てるような率直なもの、これを、清明の精神と人々はいうのであります。
 しかし、多くの歌の中には言、いいのもあれば、悪いのもあります。また幼いと思えるのもあれば、言葉の足りないのもあります。しかし、その歌の美しさは、文字の技巧ではなくして、その歌から立ちのぼる、焔のもつ清らかさが、人々の魂をうつのであります。

稲つけば かがる吾が手を 今宵もか とののが とりて嘆かむ
おのがじし 人死にすらし いもに恋ひ 日にけに痩せぬ 人に知らえず
今はは 死なむよわが背恋すれば 一夜一日も 安けくもなし

 かかる歌は、ひたすらにその情熱の輝きをうたいつくしているのでありますが、かかる純情が、その切実なこころの集中を、自然に目をむける時、やがてそこには、澄み透った自然が裸のままの姿を現わすのであります。

足曳の山のしづくに妹まつと われ立ちぬれぬ 山のしづくに
一つ松いく世か経ぬる吹く風の おとの清きは年深みかも
あかときと夜鴉なけどこの山下をかの 木末こぬれの上はいまだ静けし

 かかる歌を味わってみますと、澄み透ったすがすがしいこころを通してのみ、見ることのできる自然が、そこに描かれているのであります。
 こころが集中して、こころのかざりがなくなり、ただすなおな虚ろな静けさをもって、自然に相対する時、そこにあらわれる深い沈潜が、何か人生の寂しいまでの奥底を見せてくれるかのように思われるのであります。
 常に芸術は、それが自由な道をたどると、人々に真実を見る目を養うのであります。はやくも日本の文学は、その道をたどっていったことを、われわれは、深く顧みて、われわれの誇りといたしたいのであります。
 私たちは、山上憶良の「貧窮問答歌」を読むことによって、万葉の歌が、どうしてできたかを跡づけてみたいのであります。

まじへ 雨降る夜の 雨雑へ 雪降る夜は
すべもなく 寒くしあれば
堅塩を、とりつづしろひ
糟湯酒 うちすすろひて
しはぶかひ 鼻びしびしに
しかとあらぬ ひげかきなでて
あれをおきて 人はあらじと 誇ろへど
寒くしあれば 麻ぶすま 引きかがふり
布肩衣ぬのかたぎぬ ありのことごと きそへども
寒き夜すらを
われよりも 貧しき人の
父母は 飢ゑこごゆらむ
妻子めこどもは によび泣くらむ
この時は いかにしつつか 汝が世は渡る

天地は 広しといへど
が為は くやなりぬる
日月は 明かしと云へど
が為は 照りや給はぬ
人皆か あれのみやしかる
わくらばに 人とはあるを
人なみに あれも作るを
綿もなき 布肩衣の 海松みるの如
わわけさがれる 襤褸かかふのみ
肩に打ちかけ
伏廬ふせいほの 曲廬まげいほの内に
直土ひたつちに わら解きしきて
父母は 枕のかたに
妻子どもは あとのかたに
かくみゐて 憂へさまよ
かまどには 火気ほけふき立てず
こしきには くもの巣かきて
いひかしぐ 事も忘れて
ぬえどりの のどよひをるに
いとのきて 短きものを 端切ると いへるが如く
しもと取る 里長さとをさが声は
寝屋戸ねやどまで 来立ち呼ばひぬ
かくばかり 術なきものか 世間よのなかの道

世の中を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

 この歌に見えるごとく、「世の中を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」この句ができる背後には、人生の真実を見る目が、かくのごとく冷たく、澄み透って、横たわっていたのであります。
 山上憶良は、唐の都長安まで、いったことのある人であって、深い学問と、芸術による真実を見る目が、かかる歌の精神を導きだしたといえるのであります。かかる精神はすでに、後の『源氏物語』『古今集』に現われる「もののあわれ」とでもいうべき精神につながっていると、私は思うのであります。
 源氏の須磨の絵日記でいうように、芸術への態度は、いわば、深いせつなさをもって、物に対決しているのであります。「かかる上手の心の限り、おもひすまして静かにかき給へるは……」という、沈潜する態度を「もののあわれ」というのであります。
「かかるさまの人は、もののあはれもしらぬものとこそききしを」といって、物に対決するこころの切実さが、こころ凝って哀感とも、吐息にも似たものとなってくるのであります。
 やがてそれが、『古今集』のこころになってくるのでありますが、しかし悲しいかな、この歌のできあがりかたは、日本民族の全体の歌を、人々の記憶から集めた『万葉集』の形ではなくして、朝廷に仕える、高位高官の人々、たまに歌にたん能な、位低き人を加えて、少数の貴族官僚の中から、選ばれたのでありますから、すでに材料の量において、まことにかぎられているのであります。したがって、『万葉集』にくらぶるべくもなく、特殊の歌だけが、集められていることになるのであります。しかし、この人々は、世界に稀な形式をもって、政治をも忘れるほど、その宮廷は、歌の世界、詩の世界に浸っていたともいえるのであります。そこで、言葉の調子の美しい歌としては、その爛熟のきわみにまでいたったともいうべきでありましょう。

久方の ひかりのどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ

 この歌に見えるごとく、久方、ひかり、春の日、花の散る、の文字における、Hの音のいかにも軽い、いかにも明るい言葉の調子が、歌の内容の中に解け込んで、比類なき美しいものとして、ハーモニー、すなわち和音をかなでております。これは日本人だけにひびく、夢のような美しさであります。
 深い切なさをもって、物に対決するこころのみが、かかる美しさを導きだしてくれるともいえるでありましょう。
 ここにも、流るる水のごとくとどこおることなき清らかさと、軽さの美しさが、淡い哀感の中に、滲みでているのであります。
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五 文学――幽玄・わび



『新古今集』の精神において、歌をよみいでる態度を見ますのに、藤原定家は次のようにいっています。
「亡父卿(俊成)のよみ給ひしこそ誠に秀逸も出ぬべけれ、深更にとの油ほそく、有かなきかのにむかひ、なほしのすすけたるうちかけ、ふるきゑぼし耳までひき入れたまひ、脇息により、桐火桶をいだき、詠吟のこゑ忍びやかにして、夜たけ入しづまりぬるにつけて、うちかたぶき、よごとなきたまへるとなん。まことに恩入たまへる姿有難くこそ侍れ」と、申しておりますが、彼が生きている現実は、源平の戦いによって、眼前に、多くの人が死に、兵乱の中に、多くのものが焼けていったのであります。これが現実のほんとうの姿かと思えるほどの、手触りの荒い現実が彼らの前に聳え立っていたのであります。渺茫びょうぼうたる戦争の廃墟の中に立った者のみの知る、絶望を味わっているのであります。この絶望の中から、芸術を守ろうとするもがきが、かかる幽玄の世界を形づくっていくのであります。
 かかる幽玄の世界に彼らはいかにして到達したでありましょうか。
「ただ寝食も忘れ、万事を忘却して、朝夕の風のこゑに心をすまし、いつも胸中に大疑団のあるごとくにあかしくらせば」……自然にその世界に入ると、『耕雲口伝』にいっています。
 定家も「稽古だに入候へば、自然によみいださる事にて候」、すなわち訓練、ただ訓練のみによっていつか、かかる詩をよみうる境地に達するというのであります。また定家は、次のようにいっております。
「ねこじたる入ほがのおほく侍るは、第一の難事なり」、すなわち、ひねくった、もったいぶった、これでどうだどうだという、いばり顔の多いのには、一番へこたれるというのであります。またつづけて彼はいっています。
「このふり力なきことなり。これ一人がする所にあらず、深き浅きこそあれ、誰もこれを離るること有難し」(こんなことをしてもなんにもならないのである。これは、一人や二人がするということではない。深いか浅いかのちがいはあっても、誰でもこの傾向を離れることはむつかしい。自分の中にすら、それはあるのである)というのであります。
 多くの場合、自分の詩、歌の姿は、何となく、一癖も二癖もついて、これみよがしにする態度、自分が自分でよいと思い、人にほめられた自分をまたしても自分がまねをし、そのまねをする態度にとどこおること、すなわちマニエールを、彼は極度に嫌っているのであります。
 定家は、この嫌うこころを、「万機もぬけ物にとどこほらぬ」といっています。すなわち、自分自身をありとあらゆる角度から、突っかい棒しているあらゆる「からくり」を、はらはらと取り崩して、中空に身を投げだすことであります。その物にとどこおらぬ、さわやかな世界を、彼はねらっているのであります。
 その世界は、余情ふかく、捉えんとして捉えられず、味わいつくせざるものがあり、すずろに胸にせまりて、姿さびしく感嘆にたえざるものがみなぎると彼はいうのであります。かかる世界が、俊成、定家のいたらんとした世界であります。

人住まぬ 不破の関やの板びさし 荒れにし後はただ秋の風

「ただこの二字 かの御胸にありけることよ。あなおそろしや」と正徹はいっております。人の住まない不破の関の、荒れた板びさし、ただそこにげき然として声なく、ひそかな余情が、あらわれているのであります。もはやそこには、『古今集』のただ浮わついた美しさでなく、絶望に耐えたるもののみが見うる世界であります。

年たけて 又こゆべしと思ひきや 命なりけりさよの中山

 この西行の言葉も、老いさらばえて、ただ一人、このさよの中山の道を、もう一度通ると、誰が思いえたであろう。宇宙の中に、今しも生きている自分が、このさよの中山に、今ここにあることよ、という叫びは、人生への絶望のはてにたたずんでいる巨大なる現実というべきでありましょう。もはやここでは、決して言葉の戯れではなく、戦いと焔を貫いた、あるいは生きる道の苦しさに喘いだものの魂が、万葉の中にあった切実さをも捉え、またいわば『無名抄』にいうごとく、「されば如何にも、この体を心得ることは、骨法ある人との境に入り、峠を越えて後あるべきことなりけり」
 すなわちかかる世界に入るということは、一応歌の訓練を受け、それが自在にうたえる境地に入った後に、その訓練の坂の登りから、今度は、一気に万事を忘れて下っていく、逆の方向となっていくというのであります、ここでは、もはやうたいあげんとする一つの目的、対象とうたう方法のあらゆる技術というものも、やがてさもあらばあれということになるのであります。むしろ、責めるべきことは、人生の中にひそむ、また人間の中にひそむ、あるいはまた自分の中にひそむ、愚劣さに驚嘆し、ある意味においては、ほとほと笑いだし、握る力も、わざも抜け去った世界から、出発するという、絶望のこころが、うたいだす芸術ともいえるのであります。この中世の日本の芸術は、かかる意味における、脱落よりさらに脱落を志す魂がみなぎっているのでありますけれども、あまりにも、時代自身が愚劣であり、歌を選ぶ方法も、貴族官僚の中にとじこめられていましたから、輝かしき歌は実に僅かであり、星のごとく稀にその中に輝いてはいるけれど、しかしそれは決して亡びることのない光であり、永遠に人の心を鼓舞するところの光茫を放っております。
 能の世界でいうところの「幽玄」あるいは「わび」も、世阿弥が導きだしたところのものであり、彼の「み氷りて、静かに美しく」といっている世界は、やはりかかるきびしい精神をいうのであります。彼が、将軍から勘当されて、ただ一人、佐渡の島に流され、佐渡の島に起った多くの戦乱と戦火を逃れつつ、転々と、そのいおりをかえながら、そのいおりでただ一人、扇をかざして、舞の工夫をしていたというのであります。かかる芸術家の現実にこそ、初めて、技術のきわみから、技術を超えて帰ってくる幽玄の世界が現われるのであります。彼はいいます。
「上手の、極め到りて、けたる心位にて、時々異風を見する事のあるを、初心の人これを学ぶことあり、このけてなすところの達風、さうなく学ぶべからず」
 この世阿弥の「ける」という言葉「けかへる」という言葉は、さきの「峠を越える」という言葉と同じく重大なものであります。日本の中世の芸術が初めて到達した文化遺産というべきでありましょう。つまり、天才が、訓練をきわめた後に、ある意味において、安らかに、ある意味で、そのフォームを崩すまでにいたることがあるのであります。この、ちょっと変わった自由な芸術を、練習中の人が、うっかり、これをまねしたら、とんでもない誤りをなすことを、世阿弥は忠告しているのであります。近代の芸術にも、よくディフォルメイション、形を崩すということがありますが、これを練習中のものがすると、大変なことになることを、われわれは深く知るべきでありましょう。日本の中世の芸術は、はやくもこの危ない瀬戸際、芸術の心髄にのみある美しい危険な機微な箇所にまで、あえて身を挺して、到達したといえるでありましょう。
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六 文学――軽み・いき



 これまで万葉より、古今、新古今の精神が、文学の中にいかにあらわれたかを顧みたのであります。
 今度は、徳川時代、江戸の文学の精神について考えてみたいと思います。
 江戸の人々の好みの中で、一般に「いき」という好みがあります。これはついに江戸、東京のみならず、徳川時代の日本全体にゆきわたった一つの趣味であります。いわば、美の一つのかたちであります。江戸時代の文学者の代表というべき芭蕉は次のようにいっております。
「西行の和歌に於ける、宗祇の連歌に於ける、雪舟の絵に於ける、利休が茶に於けるその貫道するものは一なり」
 ……中世の和歌の第一人者の西行法師のたどった道も、連歌の第一人者である宗祇という天才のいきついたところも、画家である雪舟がきわめつくした絵の極意も、お茶の利休が、立ちいたった芸道のはても、いろいろその芸は異なり、人も違っているが、それを貫いている美の精神は、ただ一つであるに相異ない、と彼はいっているのであります。
 そのただ一つのものは、しかし、ポケットからいつでも出せる「物指し」のように簡単でもなければ、単純なものでもないのであります。それは、間断なき用心のもとに、それを追求し、追い求め、探り求めることによって、いよいよそれが同一のものであり、いよいよ遠く高く求めていかなければならないものであることが、わかるのであります。
 芭蕉は申します。「古へより風雅に情ある人々は、後に笈をかけ、草鞋に足をかため、破笠に霜露をいとふて、おのが心をせめて、物の実を知ることをよろこべり」……すなわち昔から美を追求し、探り求める人々は、わらじをはき、旅笠をかむり、背中に笈(リュックサック)をせおい、先人がうたった歌枕をたずねて、それらの作品の奥底をたずねることによって、自分のなかになまぬるくたまっているマンネリズムや、見てくれのマニエールを、きびしく批判し、切ってすてて、真にリアルな物の根底にまで追い求めることを、こころがけていたと芭蕉は考えたのであります。
 西行が命をかけて旅をし、芭蕉もまたそれにならった歌枕の旅は、日本にのみある芸術の鍛練のしかたであります。
 その詩の精神の奥底をさぐるべく、その作者がそれを作ったと伝えられるその場所に旅して、その場所に立ちつくして、その詩の精神の深さを探り求めるのであります。
 日本の美を形づくっていくにあたって、民族は、かかる世界に類例のない巡礼の旅、ピルグリムをしつづけたのであります。
 そして、時代が三百年、五百年と異なっているにかかわらず、その場所に立って、その詩を作った三百年、五百年前の人のこころをじかにふれて、日本の美の奥底を、次から次に伝えてきたのであります。
 芭蕉は、この旅の中から、何をうけつぎ、何を後のものにバトンのごとく手渡したでありましょう。
 芭蕉も一生のうちにいろいろのさまよいをいたしました。江戸の豪華の中にも住みました。吉原の爛熟と無縁でもありませんでした。しかし、彼が、この旅路の中のはてに見つけだしたのは、「軽み」という日本の美の世界でありました。これは、そのまま、江戸の「いき」にも深く貫き透るものなのでした。
「翁今思ふ体は、浅き砂川を見るごとく、句の形、付心ともに軽きなり、其処に至りて、意味ありと侍る」
「当時の教、軽(かるみ)を専にするは、往時の重みを破らんが為也。軽(かるみ)にあらずんばいかでか旧染(昔からある)の重を破らんや。」と去来もいっています。
 芭蕉が、この軽みを大切にするのは、これまでの芸術が、西行、宗祇、雪舟、利休の根底に横たわっているものにくらべて、何か、くだらぬ重くるしいものが、つきまとっていたから、それからぬけだすために、この「軽み」なる世界を切り展いたのであります。武士の世界も、もはや立ちあがりの時の生き生きとしたその昔の精神を失って、から威張りの重っぽいものになっている。それから脱出せんとしたのであります。
「此道は、心、辞、ともに新しみをもって命とす。是流行の句の行はるる所以なり、よく流行するときは(流れ動くときは)、活々然として(いきいきとして)、万歳を終へて(永遠に)新なり。久しく留まるときは、これ濁ておもく、今の軽(かるみ)を用ふるは当時の(今の)流行にして、往時の変風なり(むかしではめずらしいものであった)、此を察したまへ。翁日、俳諧は暫も住すべからず、住するときはおもし」。すなわち芭蕉はいうのです。俳諧は、ちょっとのすきの間も、これでよい、どうだどうだと、腰をおろして、みてくれの芸風マンネリズムの中に安んじてはいけない。すべての芸術は、しばらくもちょっとでも一度ほめられた自分のまねをしていると、野暮ったく、重くるしく濁ったものになってしまう。美は、いつも、浅い川を水が自由に、自在に、みずからの道を流れ去るように、あくまで軽く、あくまでいさぎよく、新しくあざやかであるべきであるというのであります。
 これは江戸の新しい精神「いき」の根底を流れるものであったのです。
 この軽みは、それですから、決して、浅薄なことではなく、すでに重たいものとなっている武士の気分を「野暮」として、それをぬけだし、脱出せんとする「いさぎよさ」とでもいうべきものであります。
 武士がかみしもを着、長袴をはいてガバガバと音をたてて歩いている野暮ったさからぬけだして、サラッとした浴衣着をして、肌もあらわな町人の意気を「いき」といい、「すい」といったのであります。この「いさぎよさ」が軽みの美しさにほかならないものであります。
 たとえ極彩色でも光琳、宗達、一蝶の芸風は、この洒脱、洒落、もったいぶったものからほうりおちる、いさぎよさの美しさがそこにみなぎっているといえましょう。
 このいさぎよさ、この果敢さは、裸一貫、かのフィリッピン呂宋ルソンの島に押し渡った呂宋ルソン助左衛門たちのつら魂から生まれいでたものであります。うつぼつたる町人根性から生まれいでたものであります。武士のこころが左右をかえりみ、前後をうかがって、命令系統をたどって身の安全を守っているようなしみたれたものになり下っていった時、かの大海に向ってやむにやまれず、小さな舟に身をたくし、大浪を乗り切って、商業の機構のもとに新しい社会を切り開いていった人々のつら魂から生まれてきた、新しい美への態度といえましょう。
 この「いさぎよさ」、果敢なるものがなくして、あの太平洋をおし渡ることはできなかったし、またそれこそ、徳川三〇〇年の封建国家は、怖れて鎖国として、国を鎖でしばり閉ざしたのでもありました。この「いさぎよさ」を、この島の中に閉じ込め、閉じ込めたるがゆえに、それに反発するものとして、「意気」の美しさの世界、「軽み」の美しさの世界が、この武家の支配の国家の中に、生まれいでたのでもあります。
 幡随院長兵衛が、丸裸で、水野家の槍ぶすまの中に突っ込んでいく「いさぎよさ」、これが、当時の劇作家が描かんとした町人芸術の、新しい人間像であったのであります。
 大きく、ふとく、果敢である「いき」の美しさの一つの類型となったのであります。
 かくして、江戸町人は、ついに万葉、古今、西行、世阿弥、雪舟、利休のもつ美の伝統を、かかる「いき」のかたちでうけつぎ、流動してやまざる清く新しいもの、浅き川の水の流れのごとき「いさぎよさ」、その「軽み」として再発見し、再成し、日本の根底を流れる美のすがたに一つの華をそえ、発展していったというべきでありましょう。
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七 美術(その一)



 これまで私は、文学にあらわれた、日本の美を考えてみたのですが、これから三章ばかり美術にあらわれた日本の美について、顧みてみたいのであります。
 文学で顧みましたところは、古代から中世、近世にいたるまで、いろいろ美のすがたは異なっていました。万葉の「さやけさ」の美しさ、古今の「物のあわれ」の美しさ、中世における「わび」「すき」の美しさ、江戸の「いき」の美しさ、その美のあらわれかたはいろいろありましたが、しかしその根底に流れているものをつきつめてみれば、さっぱりとした、きれいなもの、切実であるがゆえに、こころのかざりなく、ただすなおな、ただ何もない虚ろかと思われるほどの、深い緊張といったようなものが、うかがわれるのでありました。かかる芸術の生まれいでるこころを、いずれの時代の芸術家も、「無所住心」(住みつく所なきこころ、何らかの一つ所に住みつかぬすがすがしい軽いこころ、無限なる自由の魂)といっていました。
 江戸の俳人支考も、連句のつけかたを、「はしり」「ひびき」「におい」といって、さらにつけ加え、「無所住心のところより付きたらば、百年の後無心の道人あって、誠によしといはむ、いとうれしからずや」といっています。前の句を、このすみつくところなき、無限なる自由のこころをもって受けとる時、みずからいでくる付句を軽くつける時、もし百年の後に、その付句を読んでくれた人が、やはり無限の自由のこころでもってこそ理解して、まことによしといってくれたなら、どんなにうれしいことであろうというのであります。
 この無限なる自由なこころ、一つのところに住みつかぬ、流動してやまぬ生きたはずみのきいているこころ、これを日本民族は、美しい魂といっていたのであります。
 このこころから美が生まれいでるといっていたのであります。
 このことを、美術の世界で顧みてみたいのであります。
 ブルーノ・タウトは、日本にまいりまして、伊勢神宮の建築に、まったくうちのめされたといってよいくらい、美しいものとして感激したのでありました。彼は彼の著書で次のようにいっています。
「伊勢神宮は、人間の理性を反発するような気紛れな要素を一つも含んでいない。その構造は単純であるが、しかし、それ自体論理である。……殊更に技巧を凝らしたところは一つもない。しら木は清楚であり、飽くまで浄らかである」
 そして彼は、この伊勢神宮は世界の建築がその根拠を求めるべき総本山、元締めともいうべきメッカであるというのであります。
 そして、彼はつづけて、西洋の人たちが「日本から学びとったところのものは、清楚(きよらかさ)、明澄(さやけきもの)、単純、明朗、自然の与える素材に対する忠実」であるというのであります。
 そして、特に彼が注意したところのものは、日本の茶の形式の「部屋」「室」は、平常はいつもなんにも置いてなく、「虚」(うつろ)のままにしてあることであります。それは西洋の部屋のように、いかなる過去の追憶も、記念品も置いていないことに、深く感動をこめて書いているのであります。
 西洋の部屋は、これまで、いっぱいに家具、カーテン、置物、飾物でかざりたててあるのであります。
 これに反して、日本の本格式の建築物は、何にもない「虚ろさ」、このきびしい空虚が、その本質となっているのであります。これは案外日本人自身が気がついていないことであり、日本人の根本のこころがまえの自然のあらわれとも考えられるのであります。
 日本人のこころの姿勢の中に、さきの無所住心、すみつくところなきこころといいますか、無一物中無尽蔵とでも申しますか、悠々たる空虚、無限の変化に、機に応じて適するところの柔軟きわみなきこころの構えがあるのであります。このこころが建築の精神の中に、つまり住むこころの中にもあることを、教えてくれるのであります。
 さきに申したごとく、日本人のこころの構えは、文学の世界では、無所住心、すみつくところなきこころ、染着の習性をはらって、日に新たに、日に日に新たに見てくれのすみつくこころを去り、これ見よがしのマニエールを去ってきたのでありました。
 ところが、日本人の自分の住む家は、ブルーノ・タウトのいうごとく「室全体は開放されて、通気が自在である」。すなわち、障子、ふすまをはらえば、自然の中に解き放たれるごとく、自由といい、自在といい、それは東洋のいうところの無所住心の爽やかさが、その根底に横たわっているのであります。
 このことは、建築の内部のみならず、その柱のもつ意味においてもあらわれているのであります。
 かのギリシャの建築におきましては、柱はギリシャ建築特有のエンタシスという形式をもっております。あたかも、すべての重さを支えてついに支えきれなくて、じっとふくらんでいるように、柱の中ほどがこころもちポーッとふくらんでいるのであります。これはギリシャ人特有の「運命をたえる」あの強い魂をよくあらわしているのであります。あのラオコーンの彫刻の像が、じっとたえて吐いている吐息のような強いあきらめのこころが、このギリシャのエンタシスの柱によくあらわれているのであります。
 それに反して、あのヘブライの建築、後のすべての教会の建築の柱がそうでありますが、この教会の柱と塔の様子は、このギリシャ建築とおよそ異なったものなのであります。
 教会の建築は皆さまがごらんのように、それらの柱は、全部いっせいに空に向って立ち向っているのであります。天に登るためにつくった「バベルの塔」のように、一つ一つの柱、一つ一つの塔のさきは、天に登らんとして登りきれなかったかのように、空に向ってとがり、つきささり消えていくのであります。それは魂としては「あこがれの魂」であります。
 ギリシャが「あきらめの魂」とすれば、何か遠くあこがれ、憧憬し、やまぬこころがこの建築の様式にあらわされています。ギリシャが過去の民族の栄光をうたい、現在のかなしみにたえているとすれば、ヘブライ建築は、遠い未来をあこがれて、現在をのがれているのであります。
 ところが、日本の茶室形式は、その室が、すでに空虚そのものであるように、その柱も、そこに何の重さを感ぜず、また何も天を貫かんともしないのであります。中国の影響の強い法隆寺などではエンタシスが残り、また、五重塔のような空への方向を残していますが、純粋の日本的なものとなってくると、金閣寺の建築に見るごとく、その建築全体に重さというものを感ぜしめないのであります。この建築の全体が、そのいただきにいただくと共に、まさに空に飛び立つかもしれないほど、この建物には重さの感覚がありません。世界の建築で、これほど、軽い感覚の建築はあるまいと思えるのであります。といって天へ向っての方向もないのであります。飛行機の翼を思わせるようなきれた鋭いカーブをすらもって「軽さ」だけを指し示しているのであります。柱は、すぐそばの松の木とよく調和して、ふすまをはらえば、さわやかな松の林とも思えるたたずまいであります。
 しかしこの建築はよく見る時、大自然の大きないとなみの中に、「今と、ここに」みごとにとけ入り、調和し、身をゆだね、じっと現実の論理の中にところを得て、静かにしずまっているのであります。ここには、何の目的もなく主張もない「無所住心」、軽く美しいこころがみなぎっているのであります。
 これは、コルビュジエ、ブルーノ・タウトが追求した、近代建築の精神でありますが、それをはやくも二千年前より文化遺産としてつぎについでいる日本の美の精神を、私たちは今さらのごとく、ここに深い誇りといたしてもよいのではないかと思うのであります。
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八 美術(その二)



 法隆寺の金堂に置かれてあった、かの『玉虫厨子』はご存知でしょうが、玉虫の羽根で飾られてあったと伝えられている実に美しい厨子なのであります。
 この厨子の壁に描かれている絵の題材は、仏教の『金光明経』というお経の中にある、ある物語なのであります。
 谷間に飢えている虎が、まさに死なんとしている。と、菩薩の修業をしている修道者は、自分の身を投じて、その虎に与え、それを救わんとするのであります。衣をしずかに脱いでいる場面と、まさに断崖に手をって、中空にまっさかさまに身をおどらせている姿がそこに描かれているのであります。
 真裸になり、身を飢ゆるものに投ずるという、みずから身を脱し、放ち、投げすてて、群生、もろもろの生きとし生けるものに捧げるという菩薩の道、今ごろ、アメリカでとなえられているアルトルゥイズム、「愛に身を殉ずる」というこころ、これは、日本の飛鳥時代の人々が仏教の入った時に、その中に盛られている精神の新しさ、壮大さに目をみはったところのものであったのです。
 思えば、インドにはじまり、中国にひろがり、アジア一体の人々のこころを愕然と驚かしたこの神話は、日本民族の最初の工芸の中に、かかる絵の姿で捉えられたのであります。それは、日本のこころに深く根ざしていたものが、より深いかたちでここに「めざめた」ともいえるのです。この菩薩は、身を断崖に放つことで、この絶望的な自分の滅亡で、身を大衆に殉ずることで、初めて、新しい自分のいのちに向って飛び込み、よみがえるのであります。禅宗でいう「断崖に手を撒って、絶後によみがえる」というこころなのであります。
 これまで、わが民族が、清く新たなるものを、清新なるものを愛するというのは、決して単に昨日が今日にうつりかわるという新しさを愛したのではないことを、教えるかのようであります。
 この新しさというこころの底には、自分から自分が脱出する、脱皮する、自分が自分を切ってすてることで、初めて、自分がすっかり新しいいのちとして生まれかわる、光にみちた他の世界を切り開くともいう「いさぎよさ」があるのであります。いろいろ、自分を保ち守りたいこころを、潔よく脱ぎすてて、絶望的に断崖より手を撒って、飢ゆるものにその身を投げすてるこの厳しいこころ、これが、この新しさ、壮大きわみない「新しさ」を切り開いていくのであります。死にきってのみよみがえる、蘇生のいのちほど、あざやかな新しさはありますまい。その表現がここに企てられているのです。
 中宮寺の思惟像(如意輪観音像)、そこに見られるこの時代特有の、流れるような美しさ、この美しさの中に動いている流動してやまないものが、何かきびしいものをもっています。裸の肩から、腕にあるすらっとすべるといいますか、切りさると申しますか、白い刃がひらめいたあとのような線の美しさがあります。
 それはまた法隆寺の百済観音にも、光背の輪の頂きから、流れる衣紋のはしまで、ズーンと貫き透るものがあります。
 私たちのこころのすみずみに、もやもやと、とどこおりなずみ、自分が自分のカスともつれあっているものを、きびしく、切ってすてるものが、それらの彫刻の僅かな、ひきしまった線の中にひそんでいるのであります。
 東大寺法華堂の執金剛神は、大きな声で大喝一声、それらのもやもやしたものをふきとばす表情をもっているのでありますが、中宮寺の思惟像は、ただ、静かにほほえんでいるのに、この執金剛神よりもはるかにきびしく、私たちのはらわたの中を切りはらい、清めすすぎ、ふきはらってくれるのであります。
 ただ、一本の線、腕から手を流れる線の中から、かかるきびしいものが、今の私たちに、じかに伝わってくるのであります。
 あごに手をあてて、しずかに考えこんでいる思惟仏は、弥勒菩薩と普通いわれております。弥勒という仏は、実は、人類を救わなければならないと誓った仏たち、五十三の多くを数える仏たちの最後の仏である阿弥陀如来すらが、ついに救えない人類がおるかもしれない……それを救おうとします。万能の仏ですら、その万人を救うという誓いがついに不可能であって、その救いにさえもれる人間、この絶望のなかにある人間のために、弥勒は、それを救わんとして、悲願を立てたにもかかわらず、いまだその救いを完成することができず、仏になることができずして、五十六億七千万年の永い永い修業をしているのであります。それは、世界に比類のない絶望の神話でありましょう。その人類を救いつくすことの不可能の悲しみ、その深い淵のような闇の中にのぞきこんでいる仏、その解きがたいほほえみに似た表情、それが、中宮寺の弥勒像なのであります。
 アジアの民族は、西方の民族にくらべまして、その生きるための努力の中のそのあやまち、その愚劣の深さに一度正面から絶望しているところがあります。今後西方の人たちが直面するかもしれない人類の絶望に、まっすぐにすでに対決を終っています。しかし、それは単なる絶望にとどまってもいません。この絶望の中から、この現実が、しかしやはり論理的なものをもっていることを、果敢にも厳然と確認せんとします。あるいは平たくいえば、この現実の中に、いまだ論理的なものが、人間の営みをのぞいてはみちみちており、人間の営みの中にもそれが残っており、それが必ず芽生えることを信じ、それに大きな賭博にかけるようにかけるのであります。アジアの大乗仏教のこころには、かかる不敵なる賭けがあります。快い全身をふるわす戦慄に似た賭けをしています。
 絶望の中から立ちあがる強靭な願い、悲しみの中から立ちあがる願い、悲願の貫く決して曲がらない鋼のような強靭さと、その僅かなたわみが、あの中宮寺の思惟像に見られる線なのであります。よく線の美、線の美といいますが、線こそは、美術の無限なる言葉の基本的な文法であります。そして日本の芸術家は、世界の芸術家が、この千年の間に、一度も達したことのない深さでのみ「かたる言葉」を、これらの線の中にものがたろうとしているのであります。
 一度絶望の中に立ちつくしたる仏の願いを、裸の人間像の中に彫りだす時、この絶望と、「願い」のこういうかたちの組み合わせでもって、それを理解せんとしたということ、私たちが「新しい」という言葉、「いさぎよさ」という言葉を、ほんとうの深さで理解する最もすばらしい試みであるといえましょう。
 あの「天の岩戸」の暗闇を開いて、大衆の絶望の中に一すじの光が、大空をよこぎりそめる時の美しさ、あれもまた世界に比類なき「新しさ」「いさぎよさ」の一つの表現のしかたであります。それは、人類を救うことの絶望から、深い願いをうちたてる弥勒の思惟の手の美しさに、まっすぐにそのこころをさし貫いています。
 さらにさらにそれは、飢えたるもののために、衣を脱いでいる菩薩の決意と、その身を断崖にひるがえす放下の行為、それで表現する強い筆の線もまた、この新しさ、といいますか、いさぎよさといいますか、身が寒くなるような新鮮さがそこにあるのです。それらのものが線として、百済観音のすべての線に流れてゆき、やがて藤原朝の線、『鳥獣戯画巻』の水の流れ、仮名書きの日本の書道のすべての字の線にまで、それらは、つながっているのであります。浅い川で流れる水のもつ「いさぎよさ」「軽さ」は、決して軽薄なものではなく、みずからの否定、みずからよりの脱落、そこには大いなる現実への絶望から生まれる、深い強靭きわみない願い、そこには、息をのむような深い行動と、鋭いものがかくれていたのです。今まで自分を支えていたもの、その断崖から手を放ったものが、刻一刻の落下、落ちていく速度、速度から生まれる、新しい自分の速度に驚くとでもいえましょうか。この戦慄、身をふるわすものの中に、初めて、この「新しさ」「すがすがしさ」といえるものがあらわれてくるのです。
 自分の中にまといついてくるものをかなぐりすてる、この脱落と脱皮の中に、ほんとうの新しさがかくれています。
 この美しさを日本人が捉え、それをかかるかたちで表現せんとした、一連の努力の試みの群れ、ジャンルが、そこにあるのであります。
 日本民族がかかる美を、かかるかたちで切り開いていることを、この大いなる出発のときに、再び深く顧みるべきであると思うのであります。
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九 美術(その三)



 私はこの前の話で、アジアの民族は、西方の民族に比して、その生きるあやまちの深さに、一度正面から絶望しているところがあると申しました。しかも、その絶望のなかから、不可能のなかから、壮麗な願いを再びたてるのであります。人類のあやまちをとりかこむすべての現実の中に、論理的なものが厳としてある。そして、人類の動きの中にも論理的なものがまだ残っている。このことを果敢にも再びしっかり確認せんとする。ここにアジアにひろがっている大乗仏教のこころがあることを申しました。
 そして、日本の美の中にある清新なるもの、清く新しきものの中には、一度絶望的な死の中をくぐって、死にきっての後に、蘇生したものが初めて、天地を見た時に感ずる新鮮さがあることを顧みたのであります。
 かかる大乗仏教のこころは、大きな神話でもあります。壮大をきわめたスケールをもっております。それは大同の石仏のような巨大な彫刻に発展しました。中国の影響をうけた時代には、わが国にも奈良の大仏のような巨大な仏像をつくって、人間が、初めて、この宇宙に厳存する秩序の巨大なスケールに驚いたその驚きを表現いたしました。
 中国では、あの巨大な封建官僚国家が、芸術家を、その国家奴隷の機構の中にひきしめておける間は、もっぱらこの方向をたどっていきました。日本でも、その影響をうけていました。
 しかし、中国におきましても、芸術家は、かかる官僚的な奴隷機構に生きてはいけません。南方の自由な気風の国家構造が生まれはじめ、さらに、自由人が、芸術を、人間として描きはじめるにしたがって、新しいかたちでこの現実への信頼として大乗仏教の精神が、その姿をあらわしてくるのです。仏教も、北方に対して、南方仏教が生まれてくるのです。仏教宗団からさえものがれでる人々の中には、長安の乞食より生まれる布袋ほていのごときものが、新しい精神となり、それは中国では、弥勒仏(ミルフォー)として逸脱した仏として、禅宗の本尊となるのであります。しかし、それは、さきに申した中宮寺の思惟仏が、同じ弥勒仏であるように、同じ精神が貫いているのであります。あの山の中に住んで岩に詩を題した、寒山や拾得のあらわれてくるのもこの世界であります。それは、水墨の絵の題材に常にあらわれますが、寒山、拾得のこころには常に重いものから逸脱し、脱落し、脱出せんとする精神が、かかるかたちであらわれているのであります。
 かかる方向をたどって中国であらわれた牧谿という画家でありますが、この牧谿は、中国の画の批評家の仲間では、まことに評判が悪いのであります。前に申しましたように、「麁悪無比」とさえいわれているのであります。ところが日本では、この牧谿を、最高の画家として取りあげ、この伝統の中に新しい美の世界を探求していったのであります。
 藤原朝以後のわが国の機構は、南方中国の自由に似かよい、中国の南方精神を自分のものとして、自由に独自のものとして切り開いていけたことから、かかる精神が生まれたと思われるのであります。
 かの雪舟が「筆かるに馬遠夏珪などの筆の跡をもととして、御学び候が第一の稽古に候」といい、光起が「気運とは(気を運ぶということは)まづ描かんと思ふとき、気を身体に充満し、天地に至る心として(天地いっぱいにひろがるようなこころもちになって、そして)何心なく書出すをいふ」といっております。「夫画の要は(一番大切なことは)、軽の一字に止まるのみ」(軽みといふことにせんじつまるのである)「たとへば、真の極彩色をも軽の字を忘るべからず」、つまり、あの極彩色の赤青けんらんたる絵でも、この軽みの一字を忘れてはいけないと光起はいっているのであります。
 例えば『源氏物語』の絵巻物の絵をごらんになりましても、そこには、ある軽みがただよっています。白描、彫り画、薄かけの大和絵のすべてに、軽の一字、自由な速度ある、変化ある、とどこおることなき清新の運びのこころがけが、常にみなぎっておるのであります。
 狩野章信も、「行、真と修業つみ、種々工夫付執し得たる上は、又始めの草のかるきにもどる。画の要は筆画に止る。神妙二品は軽の一字たり」といっていますが、このいったん、行真ぎょうしんとつまり本格的な重いものに力を込めた後に、再び軽い草の世界に帰りくることが、日本の芸術では、常に語られるところであります。
『無名抄』で、
「されば如何にも、この体を心得ることは、骨法ある人との境に入り、峠を越えて後あるべきことなりけり」といっているのであります。峠を越えたならば、それは、百尺竿頭一歩を進めて……つまり百尺の竿をのぼりつめて、さらに進める時には落ちるほかありません。それは、下に落下し、放下することであります。
 芭蕉はこれを、「格に入り(本格的な練習をつんで)、格を出でざる時は狭く(その練習を忘れて自由なこころにならないと固くなる)、又格に入らざるときは邪詠にはしる(オッチョコチョイのうたいかたになる)。格に入り格を出て、はじめて自在を得べし」といっています。
 世阿弥は、この世界を「けかえる」といっています。色彩をきわめ、変化を奢ったものが、やがて淡々と、草々たる減筆をもって空虚と、静寂を愛するにいたるところの、方向の転換があるのであります。この世界が、東洋の特徴であり、ことに日本で発達した注目すべき一つの姿であります。
『源氏物語』の絵、――または、中古の絵巻物の絵をごらんになれば感じられることでしょうが、顔は「ひき目」「かぎ鼻」といって、眼は一本の線が引かれているにしかすぎません、鼻も一様な淡いかぎの線にしかすぎません。しかし、それは色彩をきわめているにかかわらず、その色の配合は、近代の高度な洗練されたカンヴァスに決しておとらない高雅な気品と、一言にしていえば、非常に敏感であるがゆえに、その調子が軽くひかえ目になっている感じであります。
 中国の絵に対して、大和絵といわれるジャンルは、すべてかかる高雅な軽みをたたえています。その線はそして、常に鋭いもの、繊細なものをかくしもっています。
 これがやがて浮世絵にのびていって、歌麿のあの女の絵になってまいります。あの大きな髪の一すじ一すじと、流れるような着物のしま模様は、流麗な彼特有な顔の線、肌の線と、ちょうど音楽のハーモニーのように融けあって、日本独特な美しさを描きだしております。
 この流れるような線と、『鳥獣戯画巻』の水の流れの線とをくらべてみると、決して、それが無縁のものでないことに気がつくことと思います。そして、それは『中務集』その他の仮名書きの流れるような字の動きと、まことによく似通っているのであります。
 この線が流れの衣紋として百済観音の衣紋の流れとなり、光背の頂きへもえあがり、きわみなくやさしい指のさきにまで、それはゆきひろがって快い階調をかなでているのであります。
 かく顧みながら、中宮寺の観音の簡単をきわめた髪の線、腕より掌、指にいたる目のさめるようなすらっとした光をごらんになるならば、日本にみなぎっている美の中の底にひそんでいる「軽み」がいかに深いものであるか、いかに高い調子のものであるかがわかると思うのであります。
 かかる日本の美を貫いたものを、私たちは、この現代において見失わないようにこころがけたいと存ずるのであります。
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一〇 音楽



 昔々、藤原朝時代のことでありますが、ある男と女が夜の物語りをいたし、男が夜中にフト目をさまして、女に「今何時であろう」とたずねるのであります。女はやがて、枕元に置いてあった琵琶を手に取りまして、静かにいろいろの音階で、それを弾きはじめるのであります。
 そして、「今何々の刻であります」。今でいえば「今ちょうど二時ごろです」とでも返事をするのです。
 そこで男は「あ、そうか」といってまた寝るという話が書かれています。そのころは、いろいろの音階が、いろいろの時刻にあてられているのであります。真夜中の刻は、何の音階と思い込んでいたのであり、うし三つのころには、うし三つの頃のしずけさをきわめた調子があたっていたのでした。女は、その琵琶を弾じて、その音の調子が、その時間が特にもつ深いしずけさにピタリと音が通うのを探っていたわけであります。
 そして、一つの音階が、その時刻にふさわしいしずかなトーンと相通うことを確信をもって探り当て、男に「今は何々の刻であります」とこともなげに語り、男もまたそれを当然として、それを信じ再び寝たのであります。
 私は、小夜中の、夜のしずけさの深さを琵琶の絃の音階をもって探り求めて、耳をすましている女の神経を容易ならざる感覚として、ある感動をおぼえるのであります。
「音を取る」「時の音を取る」というかかる音への態度は、日本だけに見られるものでありますが、よほど、音の感覚に対する敏感さと、訓練のはてにのみもちうる確固たる信念がそこになくてはなりません。
 日本人の音への感覚は、私は、決して、他の民族より劣るものでなく、むしろ、はるかに長い高い伝統をもっているのではないかと思うのであります。
 この伝統があればこそ、僅か五十年にして、西欧の音楽をかくも広汎な人々をもって理解し、音楽レコードの購買力をして、世界有数のものたらしめているとも考えられるのであります。
 日本民族が、みずからの音楽を再編成して、世界音楽に新しい主張をもちうるのは、おそらく、今後の問題でありましょう。
 しかし、ここに一つの問題があるのでありますが、日本民族は、外国の音楽は、ほとんどその大部分を理解し、評価するのでありますが、外国人は、日本の「かっぽれ」のようなリズムのはっきりしたものは理解しますが、歌沢、清元のしずけさをきわめたものになると、理解しにくくなるのであります。
 いわば、日本人の音の理解は、ある意味において、より広いところがあるのであります。それは美術において、外国人は、東洋の極彩色のもの、陶器、焼きものでも、あの金色さんぜんたる金襴のもの、すなわち中国北方官僚国家の系統のものは理解されるが、南方国家の自由人より発生した、簡単と空虚の中に見いだす水墨の画、渋い茶好みの日本の唐津の陶器、平蜘蛛の釜のようなものは外国人は理解できないこととよく似ているのであります。
 音においても、絵においても、外国人の理解できるところのものは、その鍛練の一つ面、いわば一つの昇り坂のようなものでありまして、『無名抄』でいうところの「峠を越えて後」は、「けかえる」と申しますか、世阿弥のいうように、下り坂ともいうべき、筆少なく、音少なく空虚と、静寂の部分が多くなっていくのであります。この下り坂はなかなか外国人にわかってもらえないところなのであります。これは、中国に萌し、日本でそのきわみにまで立ちいたったところの芸風とも考えられるのであります。
 ことに音の世界では、端唄に『メリヤス』というのがありますが、音の構成が、特殊なメロディーによっていますので、メリヤスが伸び縮みできるように、リズムがそのときそのときで、伸びたり縮んだりするのであります。これは外国人には一番の鬼門なのであります。
 リズムのかかる特有な構造は、日本音楽における「」の問題に最もよくあらわれているのであります。
 日本語で、芸術家が用いるところの、「」「にはまる」「がのびる」「がぬける」という「」は、決して、時計ではかる時間でもなく、また音の時間をはかる機械、メトロノームではかられるものでもないのであります。
 ことにお能で用いる太鼓などにあります「」は、その感を深くするものがあります。
 あの太鼓が「ポーン」と切り込む時、あの音を聞いていますと、それまでの一切の時間が、切ってすてられたような感じであります。それは決して、オーケストラのリズムのように、次から次に続くものの一つを、聞いているような太鼓ではありません。
 前にも、後にもない、鋼鉄はがねのようにしまりきった時間を、ポーンと凝集しきった形できめつけるような太鼓なのであります。頭の中のものを切り裂かれたような快い気持にされて、何か、モヤモヤしたものが、全部一度に切っておとされるような感じであります。
 これこそ、日本の芸術全体にみなぎっている「生きている時間」なのであります。「時計の時間」に対立している「芸術的時間」なのであります。これまで普通は、時間は糸のように連続して、流れていると思っていたのに、ここでは、むしろ、切断され、切りはなされてしまって、ほんとうの自分が生まれかわったような新しさの中に、自分の生きていることを確かめているのであります。
 前の時間が、そのままつながって流れているのは、とどこおっているのであります。切ってすて、ぬけかわって新しく生まれるからこそ生きているのであります。
 あの能の太鼓などが一打ちでつくりだす時間、「」はこの生きていることを確かめる時間の区切り、切断、その響きなのであります。
 しかも、この「」は時計やメトロノームではかることを、日本音楽では極度に嫌うのであります。それがわかるのはただ訓練だけであるというのであります。
 なぜなら、この「」は、ただ覚えたり、意識してやったのでは、いつでも「のび」してしまうのであります。ほんとうは「にはまる」にはただ訓練、一にも二にも練習がいるのであります。
 この訓練・練習を学ぶことの根底には、一つの主張がかくれています。それは頭で考えたよりも、もっと自然なもの、もっと大きいものが、人間の肉体の中にあるということへの信頼であります。大いなる合理が、このはかりしれない自分の中にもひそんでいるという、物質というか、存在というか、このいのちの中に確かにあるんだということへの信頼があります。
 いろいろな理屈をこねるよりも、困難をきわめた訓練の中に飛び込んでみると、「ハハア、これか」と初めてわかるものが突然あらわれてくる。もう耐えきれないと思われる訓練のはてで、ほかにありえようもない一つの秩序、「にはまる」「が合う」という、身をまかせて初めて味わえる、やわらいだ快さが、肉体でもって伝わってくるのであります。
 この訓練と行動の中に掴む「」の感覚は、大きく反省するならば、現実への深い信頼感にもつながっているのであります。
 現実の中に「論理的なもの」「正しいもの」が必ずひそんでいることを、信頼しきっている感覚が、この「にあう」というこころ、「」の感覚の底にひそんでいるのであります。
 音の美を探るために、かかるこころの深さにまでたどりたどって、「」なる特有なるリズムにまで到達した日本の音楽を、私たちは、決してゆるがせに見のがしてはならないと思うのであります。
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一一 舞台



 このごろ、舞台芸術の世界ではスタニスラフスキーの理論がやかましく論ぜられていますが、この理論はせんじつめて申すならば、私たちが、平常自分だと思い、自由に行動していると思っている自分が、案外、必要でない間違ったこころがまえでゆがんでいるものである。いわばゆがんだ癖がついているものであるというのです。官僚はいつのまにかいばる癖がつき、商人は、また不必要にもみ手をする癖がついている。
 それが舞台の上に上がって、大衆の眼の前に出ると、なおさらそれがひどいものになっていく、間違った方法をたどると、この癖をいっそうひろげてその癖を芸術のほんとうの型、形式と思いあやまることすらある。
 例えば、普通の人を、舞台の上にあげて人の眼にさらすとか、何か面はゆい人の前に出しますと何となく落ちつかなくなって、ポケットに手をつっこんだり出したりするとか、頭をかくとか、ほしくもないのにタバコを吸うとかというようなことをはじめるものであります。
 舞台の上で、静かに、腰かけに何となく坐ることが、なかなかむずかしいものなのであります。意識過剰といいますか、いらぬつまらぬこころが、私たちのこころを、自分にもわからない方角から、自分をつつきまわしているのです。
 仏教でいう「百八の煩悩」とでもいうところの、とるにたりないこだわりや、卑下するこころとか、それに反発するこころとこころのたたかいが、ほんとうにあるべきこころの周辺で、大騒動をしている。それで、つまらぬひきつるような、不細工な、不必要な行動が、そこに起ってくるわけです。
 そこには、長年の人まねの習慣の誤りや、その人の生活の周囲の影響やなどが、無駄な邪魔物となって、ちょうどラグビーで走るものにむらがってタックルしたり、つまずかせたりするように、障害となるのであります。スタニスラフスキーは、この過剰な意識、こころの障害からいかにしてぬけだして、ほんとうの人間、ほんとうの戯曲中の人物に、自分が、その時その時の舞台で、無理がなく、スラリとなっていくために、平常のかぎりない練習を要求するのであります。
 この理論を発展させるためには、最近の心理学のきわめるところの意識下、すなわちこころの底に横たわっている、ほんとうの自分を求める問題にまで立ちいたるのでありますが、日本の舞台芸術を追い求める長い伝統においても、この考えかたが、今より六百年前、世阿弥の理論の中にはっきりあらわれ、その伝統を、能の世界はもちろん、歌舞伎の世界でも、がんとして努力したことを、私たちはあとづけることができるのであります。
 芸術が容易ならざるものであることを、人々に説き、その理論の前に、いずれの時代もが襟を正さずにいられない、「ああ、そこだ」といわしめるところの、現実の上にピタリと根を下ろしていると申しますか、ゆるがすことのできぬリアルなものが、そこにくりひろげられているのであります。
 世阿弥は、その芸を守ったために、時の将軍から勘当をうけ、佐渡ガ島に流されるにいたるのであります。あの佐渡ガ島で、孤独の彼が、一人淋しく扇をかざして舞っていたというのであります。かかる芸の底から、吐かれた舞台芸術の理論は、今もなお、新しく、私たちの胸をうち、世界の美学史上に、酌んでもつきぬ新しい理論を、示唆するところのものがあるのであります。
 スタニスラフスキーの理論が、すでに訓練を前提としている理論でありますが、世阿弥の理論も訓練の方法論ともいうべきでありましょう。
 訓練を尚ぶということはすでに、私たちの意識の根底に、まず肉体が優先していることを認めなければなりません。しかもこの肉体の中に、私たちが、知らない深い秩序がかくれている。練習することは、この肉体の中の秩序を自由にさせ、これまでのつまらぬ抑圧や、ゆがみから解放してやることであることを認めることであります。
 世阿弥は、「老後に至るまで(老いはてるまで)其時分/\の芸曲の(その時その時の芸術の)似合ひたる風ていをたしなみしは(練習をするということは)、時々の初心なり」。
「老後の初心を忘るべからずとは(老いてのちなお、稽古を忘れてはいけないというわけは)、命には終りあり、能には果てあるべからず」
 この命には終りがあるが、能には果てがないという言葉は、人は死ぬが、芸術は残るという簡単なことではなくして、人間の命は練習しつくして、その限界はあろう。しかし、芸術は、その練習によって切り開く境地は、無限の深さがあることを説いているのであります。その長さを比較しているのではないのであります。芸術には無限の新しい創造の世界があることをいっているのであります。
 世阿弥は、これを芸の「劫」といっております。間断なき練習をいたしておきますにしたがって、自分ではどうすることもできぬ秩序が、自分の中に成長していくというのであります。
 世阿弥は自分自身の練習過程を『花伝書』の「年来稽古条々」にくわしくのべております。今後舞台に立つ人はぜひ読まれることをおすすめしたいのでありますが、七歳のころは芸への興味を導きだすようにすべきを説いています。そして十二・三歳にいたって、基礎的訓練を徹底的にすべきで、その長所をのびのびと発達させる。十七・八歳は声のかわるときなので、自信を失わぬように支える時である。そして二十四・五歳はついに生涯の分岐点であって、ついつい、一時のできばえに驕る気分の出る時であるので、それをいましめつつ、ひたすら成長しつつある芸術的教養を専念しなければならぬ。その容色の盛んなる時であるから、ついつい慢心のできる時であることをいましめている。そして三十四・五歳のころが芸術のさかりのきわめの時である。四十以後はむしろ、芸道は下るというべきである。この三十四・五歳の時に、いたれるかぎりの研究をするべきである。四十歳から五十歳には、自分の肉体にふさわしい芸をえらび、そこからさらにけかえるところの芸風が生まれいでるというのである。
 この発展の中で彼は、安位、闌位、無風(安い位、けたる位、風のない位)の芸の位を説くのであります。すなわち芸術は、世阿弥のいうところの、次のようなところがあるのであります。
「無心の位にて、我がこころをわれにもかくす安心にて、せぬひまの前後をつなぐべし。是則、万能を一心にてつなぐ感力かんりきなり」
 練習に練習をかさねると、いつのまにか、自分の肉体の中に、自分が信頼している深い秩序ができてくる。この生きた秩序に、自分が、快くまかせ、つまらぬゆがんだ、こせこせした過剰な意識をむしろ切りすて、おさえて、自由に邪魔することなく、すなおに、サラリと行動する時、そこにある、無心というか、最も敏活なおだやかなたのしさを芸術の筋金として、まもり育てることを要求しているのであります。九代目団十郎が長十郎時代に、朝はやくから踊り、長唄、三味線、囃子、琴、茶をならうために終日を費やし、ほっと心を休める暇は、便所にいく時と、お灸をすえる時とだけであったといわれています。
 文楽なども、一人前の人形使いになるには、九年の稽古がいるといわれています。
 高安友之進に津田三益が、「明日の初日が大事だ」と忠告した時、友之進は、
「初日は大事のものにあらず、大事は常の稽古にあり、稽古の時、魂を入れよく覚え込み、初日は忘れて出るなり。初日を大事と思へば我が芸にあらず」と答えています。
 これは『耳蘆集』に藤十郎がやはり、
「狂言は常を手本と思ふ故、稽古にはすぐ覚え、初日には忘れて出る」と申しております。
 肉体と申しますか、物質と申しますか、その中にそれの秩序と自由を探しだし、その自由にまかせ、信頼しうるところまで立ちいたることは、すべての芸術の到達するはてであり、舞台もまた、それの外に出づるものではありません。方法論さえ正しければ、二、三カ月の練習で、新劇を一人前できるということ自体が、現実と、肉体と、物質を軽蔑しているともいえるでありましょう。
 日本の舞台芸術の伝統の中にある、現実への深い信頼を、私たちは、今さら、ここに深く顧みるべきでありましょう。
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一二 世界における日本の美の位置



 これはおそらく伝説でありましょうが、光琳の時代に、京都の嵐山で、その頃はやっていた、豪華くらべ、すなわち衣装や持物の美しさのくらべあいをしたということがありました。
 光琳の他の対手は、金色燦然たる綺羅をきそった衣装や弁当箱、引出物でもって、目もあやないでたちであったということが書かれています。
 ところが、光琳はその日、何の変哲もない普通の衣装を着て、その上質素な竹の皮の弁当包みをもってきたのです。人々は、彼こそ最も美しいものを着、最も美しいものをもってくるであろう、と期待していたのですが、その案外ないでたちに、彼らは希望をこわされすっかり驚かされてしまったのです。
 そして、その遊びの行事が進んでいき、いよいよ弁当を食べおわった時に、光琳はその竹の皮を、サラリと嵐山の大堰川になにげなく流したのであります。
 ふと人々がそれを見ますと、普通の竹の皮と思ったそのうちがわには、光琳のこころをこめた蒔絵の絵がみごとにも描かれており、深いみどりの色をたたえた大堰川の水のただ中に、金の色もあざやかに、人々の讃嘆の目を集めながら、静かに流れ去ったのであります。
 その日の人々の最も驚き、最もその美しさにうたれたのは、もちろんこの光琳の弁当の竹の皮の蒔絵であったのであります。
 この物語が生まれてくるところに、それが事実であったか否かは別として、日本の美を考えるのにまことに深い意味をもっているようにおもわれるのであります。
 豪華をきわめ燦爛をきわめ、目もあやな第一の美しさも、確かに日本人が競争した美しさであります。ところがもう一歩進むことによって身を翻えして、すっかり反対の、滋味と申しますか、自然に帰ると申しますか、まったく目だたない、しかし何となく人をうつ、深い第二の美しさをもとめることになるのであります。
 いわば豪華をきわめる美しさは、いくら進んでも、そのかぎりがありませんが、しかしそればかりでは、飽きてくる場合があります。
 ところがこの第二の渋い美しさは、見れば見るほど、考えれば考えるほど味が出てきて、酌めどもつきぬような性質の美しさとなってくるのであります。
 光琳が、大堰川に流し放った蒔絵は、その美しきものがその流れ失われていくところに、豪華というにまことにふさわしく、その美を輝かしてくれるのであります。
 これでどうだ、これでどうだ、これは自分のものだぞ、と見せびらかしている野暮ったい美しさに対して、サラリと竹の皮の裏にかかれた蒔絵が、あの嵐山の流れの中を、輝きながら、ゆうゆうと人人の驚きを後にして、永遠に流れ去り、流れ失われていくところに、この美しさの光は幾倍にもなって、人々の口の端にのぼって残っていくのであります。
 第一の美、燦爛の美も日本の美の輝かしいものの一つであります。第二の美、滋味の美も、また、日本の美の深い一つのすがたであります。ところがこの第一の美、燦爛の美は、世界各国いろいろのすがたであらわれております。様式が変わっているだけで、おなじジャンルとして考えうるかとも思えるのであります。
 しかし、第二の美、滋味の美は、そう簡単でもなければ、そうザラにある美しさでもありません。その民族の文化が爛熟してのち、初めてあらわれる美しさともいえるのであります。この方向に向った美の世界は、私はひそかに思うのでありますが、日本で最も爛熟し、最も探求され、最も発達していったところのものではあるまいかというのであります。
 これについて、次のようなもう一つの物語を思いだすのであります。
 ある茶人が、庭を造り、尊敬する友人に見てもらったのであります。友人は、あるみごとな石の据えかたを見て、「あの石はまことによろしい」といったのであります。
 すると、その茶人は、その後ただちに、その石を掘り起し、庭からのぞいてしまったというのであります。おそらく、人の眼に、「これは」と目につくような美しさをさけて、ただ何となき美の世界を作ろうとしたのでありましょう。人が目をそばだたせる美しさ、燦爛の美の世界をすりぬけて、第二の滋味の美の世界にわけ入るには、自然の美の世界をぬすみ見、ぬすみ取るといいますか、人間の意識、こころで、ひねくりまわしたり、やりとりできるものを一山越えて向うに出てしまわなければなりません。
 自然が何となく、水の流れるままに、草木が生えるままに、木の葉が朽ちるままになりながらその隅々に、しみじみと心に沁みわたる美しさをひそませている、この美しさをぬすみとろうとする時、この第二の滋味の美が生まれてくるともいえましょう。
 人のこころをうつ石を捨て去って、その庭を再び築き直すこころがまえの、美の探求者としての日本人は、いわば、美の構成者としては容易ならざる高度な世界にわけ入った、美の冒険者ともいうべきでありましょう。
 この第二の美の探求の精神は、日本のあらゆる芸術の世界にもゆきわたっています。かの世界的建築家としてのブルーノ・タウト氏が、桂離宮に対して放った感嘆は、この日本の第二の美、滋味の美に向って放った感嘆であったのであります。
 彼は、日本の建築で、金色燦然たる日光の建築と、まことに滋味な桂離宮を対立せしめて、日光の建築は、世界にザラにある美であり、むしろそれは俗悪である。桂離宮こそ、世界の近代的建築のまさに模範とすべき新しき美であると申すのであります。この日本の第二の美、滋味の美が、一九三〇年代の近代美としての最も新しい美しさの模範として、世界の美の探求者の前に突如として登場したことは、私たちはまことに注目すべきことと思うのであります。
 日本人の間でさえ、忘れがちな美しさ、……ジャズと、ストリップの洪水の中で、まさに見失わんとしているこの第二の美が、あの国連の建築をつくった人々、フランスの未来の建築として問題となっている、コルビュジエのジャンルの人々にとって、世界の近代美の新しい指針、めざす方向の先端として、驚きの目をもって見られているのであります。
 コルビュジエはアメリカ旅行をした時、あの単純をきわめた、エントツのような穀物倉のもつ、簡明な美にうたれ、アメリカ人みずから発見したよりも、もっと深い意味で、それを近代美を掘り起す一つの先駆と考えたのでありました。
 コルビュジエはその後日本へ来て、タウトよりももっとはやく、桂離宮の美しさにうたれて、それをその著書でのべています。
 機械の美しさ、その意味でインターナショナル建築といわれるところの、ドイツのフランクフルトで唱えられ、ソヴィエートの建築界をも風靡した大いなるジャンルが、この桂離宮の美しさの根底に横たわるものであり、これこそ、日本の美の探求者が、三〇〇年前にわけ入り、到達し、掴んでいた美にほかならないのであります。
 ブルーノ・タウトは、世界が、この日本の建築から学びとるところのものを、次のようにのべております。
「彼らが(つまり世界の建築家が)日本から学びとったところのものは、清楚(すがすがしさ)、明澄(澄み透った明かるさ)、単純、明朗、自然の与える素材に対する忠実などの理想化されたるこころである」と。
 この二十世紀に世界が発見した、近代美の最も代表的な近代建築家たちが、日本の第二の美としての滋味の美から、実に多くのものを学びとっていることは、私たちとして深く考えるべきであります。
 しかも、これまで、十二章にわたって申しましたところの日本の美は、文学・美術・舞台のすべてにおいて、この第二の美、滋味の美を特に注意しつつお話したところでありました。
 しかも、この美が、敗戦の日本で、若い世代の人々から、無視され、忘れ去られる危険すらありますので、特に、ここに顧みた次第であります。
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一三 日本の美を貫くもの



 私たちはこれまで、日本の美を顧みたのでありますが、まず『万葉』の精神におきましては、一心の集中にありまして、こころの中のかざりや、まざりけが、ほうり落ちていって、やがて、魂の奥底のほんとうの裸の肌でもって、人生のすがたにじかにふれるこころ、を見たのでありました。
『古今集』におきましては、この澄み凝ったこころは、そのころの淋しい人生について、せつないまでの切実さをもって、物事に対決することを見たのでありました。
 さらに『新古今』では、俊成、定家におきまして、この澄み凝り透るこころは、彼らのいうところの「万機もぬけて物にとどこほらぬこころ」という表現にうつりかわっていくのであります。彼らのいう「ねこじたる入ほが」、すなわちしたりがおに、入りくんだ、これ見よがしの重たいこころからいかに脱落すべきかが、彼らの芸術への苦しみ、精進への態度となってくるのであります。そのためには、いつも、胸の中に大いなる不安、胸中の大疑団があるような、緊張した、芸術への専念が必要であると彼らは考えたのでありました。
 かかる芸術的態度におきましては、すでに、中国の官僚国家の国家命令で、人に見せるための芸術をつくるアルティザン、すなわち芸人としての芸術的態度から脱しているのであります。
 むしろ、芸術創造の態度の中に、これでどうだ、どうだという、「ねこじたる入ほが」が入ることを深くおそれているのであります。人にほめられて得意となり、そのほめられたる時の自分の芸を自分で真似をする。いわゆるマニエールがそこにできてくる。すなわちほんとうの本格式の風格ではなくして、一つのいつでも用意している癖があらわれてくる。それをいかに脱出するかが、芸術家の第二の苦労となってくるのであります。芸術家が芸をみがくことは一つの苦労であります。しかし、これだけでは、ある場合はただ芸達者の芸人に終ってしまうのであります。
 こんな芸術だけをもっている民族は、不幸というべきでありましょう。いわば、かかる芸術だけをしか理解できなかったとしたら、その民族は、どんなにすばらしい武器をもっていて、どんなに長く世界を征服していても、その民族は必ずしもほんとうの幸福を知っているとはいえますまい。
 かかる芸術的態度から、一歩さきんじて、芸をみがく態度の中で、人にいばり、ごまかし、場あたりをすることをねらう、そのこころの下にじっと目を据えて、それを思いきってほうりすてること、これを、定家は、「万機もぬけて物にとどこほらぬこころ」といい、「ねこじたる入ほがのおほく侍るは、第一の難事なり、このふり力なきことなり(この傾向は実に恐ろしい力をもっていて、なかなかこれに抵抗できないものである)。これ一人がする所にあらず(決してこれは一人や二人がそうだというのではない)、深き浅きこそあれ、誰もこれを離るること有難し」といっているのであります。
 かかる芸術的態度の世界では、自分自身が、ただ自分自身の対手であります。芸術的対象は、自分自身ということになるのであります。日本の、あるいは東洋の絵画で、画中の人物あるいは動物の眼がうすら寒く、自分自身をジーッと見つめるのがあります。これは、多く、自分が、自分を対手に激しく闘った人のこころと喘ぎを伝えています。
 中には、画中の動物、例えば竜と虎が、ジーッと睨みあっている構図があります。狩野永徳の画などがそうでありますが、そこには、永徳が、大徳寺で授けられている禅宗の公案によって苦闘している彼が、自分自身を睨み据えているその激しい喘ぎが、その竜と虎の眼と眼の視線の中に感じうるかのようでありました。
 彼らにとって、呼吸は一息一息が自分自身の中のつまらぬまつわりつくもの、かれた「つた」や「かずら」のようなものを、きりはらい、ぬけだし、それから解放される、一区切り一区切り、一つの機会一つの機会なのであります。出づる息、入る息、この阿吽あうんの二字は、まことに重大な一つ一つ重大をきわめる芸術的時間なのであります。
 宗教でいうならば、それは、道元のいう「脱落の心身、心身の脱落」の無限に自由なる自在なるこころ、柔らかなこころ、柔軟なこころなのであります。あるいは、親鸞のいう、「含口唱名常懺悔」、一声一声の念仏は、すべてこれ、ばかげた自分、あほうな自分へのかぎりない嘲笑、それを自認し、認めての上の大いなる仏のこころへの信頼と安心にほかならないのであります。
 生きているこの現実の一息一息の呼吸が、ほんとうの生きた時間であることがわかった時、日本人は「イキ」がわかる、「イキ」が合うとかいうのであります。
 芸術の描かんとする対象、その相手に流れ入るためには、自分自身が、まず自分自身の中のみだりがわしいまぎれものから脱落しなければならない。これから脱するために、一息一息の呼吸の関門をのりこえんとする激しい闘いがあるのであります。
 この闘い、この練習、この訓練を経て、苦闘の時間をつむ時、初めて、私たちは、芸術の対象に対して、一心の集中ができ、切実な対決ができるのであります。
『万葉』においては「さやけきこころ」、『古今』では「物のあはれを知るこころ」、『新古今』では「わび」であり「さび」であり「幽玄」であり、「すきをしりたへたるこころ」であります。
 江戸では、芭蕉は浅い砂川を流るる水のもつ軽さとして表現し、人々はこのこころを「意気」といったのであります。
 かく考える時、日本人は、芸術の対象に直面し、対決するのに、まずかぎりない抑圧があったにもかかわらず、しかもなお無限に自由なる、自在なる自我を責めたのであります。
 これが、中国の南方自由人のこころをぐこころとなり、一六〇〇年代以後の西欧の芸術的態度に比して、独特な、しかも、重い圧力の中に形成される岩盤の特殊な巌脈のように、一つの日本的様式を形成したのであります。
 かくて、日本の美の根底を流れるものが、一言にして、流動してやまざるもの、変化し清新なる清く新しいもの、あくまでとどこおることを嫌い、重さを嫌う軽いものと申しますけれども、その新しいというもの、軽いというものは、決して、新しがり、軽薄なるものの意味が、片鱗だもあってはならないのであります。
 新しいとは、吐く息の一つ一つが、命をつぐために、あるいは新しいいのちを生み出づるために、一つ一つの自分の中の死んだものを吐きだすことなのでありますが、その呼吸のいずれかの一つで、断然過去の自分をぬけだすのであります。そのぬけだした、脱落し、脱走して自然を見えた証拠に、彼らは歌をよみ、俳句を吐き、彼らの描いた虎、または竜の眼にその眼睛を点じ、瞳を入れるのであります。
 かかる句を吐き、瞳を入れて初めて、「責むる者はその地に足をすゑがたく、一歩自然に進む理なり」といい、その世界で初めて、「しずかに見れば、物皆自得す」。みんなすべてのものがおのずからみずから安んじていると見えてくるのであります。
 常にこころを虚ろにし、柔らかく流動してやまざるもの、変化し、清新なるもの、あくまでとどこおることを嫌い、重さをのがれ、軽く軽く、浅川を流れる水のごとく、あくまで自由に、自在にあきらかなるものを求める日本のこころは、世界の最も新しい芸術的態度に対決して、決して恥ずかしいものでなく、むしろ、世界の芸術に一つのものを加えることであることを、私は深く信じてやみません。
 この時、この世紀の半ばの新しい出発に際し、日本の美をみなさんとともにここに顧みることを得ましたことを深く感謝いたしまして、私のこの講座を終ることといたします。





底本:「日本の美」中公文庫、中央公論新社
   2019(令和元)年11月25日初版発行
底本の親本:「美学入門」朝日新聞社
   1975(昭和50)年2月
初出:「NHK教養大学」
   1951(昭和26)年10月〜12月
※「人々」と「人人」の混在は、底本通りです。
入力:kompass
校正:染川隆俊
2023年4月4日作成
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