永遠の感覚

高村光太郎




 芸術上でわれわれが常に思考する永遠という観念は何であろう。永遠性とか、悠久性とかいうのは一体何の事であろう。
 仮に類似の言葉を求めてみると、永遠、永久、悠久、永続、無限、無終、不断、不朽、不死、不滅というようなものがあり、どれを見てもその根本の観念として時間性を持たぬものはない。

 永遠とは元来絶対に属する性質で、無始無終であり、無限の時間的表現と見るべきであろう。本来これは神とか、物質自体とかいう観念以外には用いられない言葉であるはずで、もともと人間の創作に成る芸術圏内にこれを使うのは言葉の転用に過ぎない。る一つの芸術作品が永遠性を持つというのは、既に作られたものが、或る個人的観念を離れてしまって、まるで無始の太元から存在していて今後無限に存在するとしか思えないような特質を持っている事を意味する。夢殿の観世音像は誰かが作ったという感じを失ってしまって、まるで天地と共に既に在ったような感じがする。そして天地と共に悠久であるように思われる。恐らく芸術の究極の境はこの処に存するのであろう。われわれ芸術にたずさわるものがこの永遠性を日月のように尊崇し、今日あって明日は無いような芸術的生命から脱却したいと思うのは、あながちただ※(「竹かんむり/悄のつくり」、第3水準1-89-66)としょうの徒たるがゆえばかりではなく、至極当然なことである。

 ところで其処そこへニヒルが頭を出す。永遠などという事があてになるだろうか。不朽、不滅などというのはあわれな形容詞に過ぎなくはないか。法隆寺金堂の壁画は毎日毎夜崩壊をつづけている。エジプトの古彫刻とて高が五十世紀の年月を経たに過ぎず、ギリシャ、ローマの古美術も大半は残欠であり、天地の悠久に比べてかくの如きものを永遠と称するのはおおいに甘い気休めではないか。天地といえども壊滅は予約されているし、第一、自己が死んでこの世に消滅した後の作品の不朽と否とを心にかけるという事自身が既に卑しいかんがえではないか。そういう関心事一切が一種の虚栄であり、空の空なるものを欲する弱さではないか。芸術に関して永遠性というようなことを口にするのがそもそも迂愚うぐであり、荒唐の言をろうするにほかならないではないか。芸術は製作時にける作者内面の要求を措いて他に考える余地を持たないのが本当ではないか。
 そこで又考える。芸術の求める永遠性そのものが単に時間の問題にとどまるならばこの疑問も至当である。そしてただ時間をしのごうという慾望に駆られることが芸術家の焦心事であるならば、それは確かに卑俗の心であるに相違ない。永遠性とは果して時間の問題か。しかし、どうも違う。芸術の実際を思い合せると、どこかこの推考には間違がある。
 芸術に於ける永遠とは感覚であって、時間ではない。これが根本である。

 一つの芸術作品の持つ永遠性とは、(むろん価値の持続性を含むが、)その作品の力が内具する永遠的なるものの即刻即時に於ける被享受性であって、決して永遠時への予約や予期ではない。その不滅とは不滅を感ぜしめる力であって、決して不滅という事実の予定認識ではない。持続デュレエを瞬間に煮つめた、言わば、無の時間に於ける無限持続の感覚なのである。明日焼き棄てられる事の決定している作品にもわれわれは永遠を感ずることが出来るであろうし、有ると思えばあり無いと思えば無いような、あるかなきかの感動をうたった詩歌にもわれわれは永遠を感ずる。前者は物質上、後者は内容上に永遠を拒否している場合である。それ故、芸術が永遠を欲するのは長命を欲するのでなくして、性格を欲するのである。芸術は美を求めて進むものであり、その美の奥にはおのずから永遠を思わせるものが存在する。美は常に或る原型へと人を誘導する性質を持っているからである。
 永遠の時間性は又空間性に変貌して高度な普遍性につながる。この普遍性は所謂いわゆる通俗性とは峻別せらるべきもので、人間精神の地下水的意味に於ける遍漫疏通の強力な照応であって、これなくしては芸術の人類性が成立しない。およそ芸術上の大きさとはこれを意味する。真に独自の大きさを持つ芸術作品はただちに人にうけ入れられない。必ず執拗な抵抗をうける。不可解のためである事もあり、解り過ぎるためである事もある。しかも太陽が霜を溶かすようにいつの間にか人心の内部にしみ渡る。真に大なるものは一個人的の領域から脱出してほとんど無所属的公共物となる。有りがたさが有りがたくなくなるほど万人のものとなる。「ベトオフェンは死んだ」と言われる頃、ベトオフェンは人類の心に隈なく住むに至る。芸術上の大を持たない作品は特殊の美として存在するが斯の如き悠久にして普遍の感を持たない。偏倚へんきの美乃至ないしパテチックの美は斯の如き形而上的の永遠を持たない。しかも世界に星の真砂まさごの如く、恒河沙ごうがしゃ数の如くきらめくそういう明滅の美こそ真に大なるものを生ましめる豊饒の場となるのである。
 芸術上のこの永遠性が何処から来るか。こればかりは如何いかに論議を重ねても人間の揣摩しまの及ぶところでない。精神力、しかり。叡智、然り。大愛、然り。熱情、然り。純無垢、然り。技能、然り。結局人間精神と技術芸能との超人的な境に於ける結合から来るのであろうと今のところ平凡に考える外はない。





底本:「日本近代随筆選 1出会いの時〔全3冊〕」岩波文庫、岩波書店
   2016(平成28)年4月15日第1刷発行
   2016(平成28)年6月15日第2刷発行
底本の親本:「高村光太郎全集第五卷」筑摩書房
   1995(平成7)年2月20日増補版第1刷発行
初出:「知性 第四巻第一号」
   1941(昭和16)年1月1日発行
入力:岡村和彦
校正:ニオブ
2020年2月21日作成
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