エジプト彫刻最高期の作であるこの像はさすがに堂々たる大彫刻の美をもつている。後期王朝時代のもののように巨大ではないが、彫刻からうける感銘はかえつてそれよりも大きい。ギイザにある大スフインクス建造時代のこの王が遺憾なく造型美をあたえられている。材質も重剛な閃緑岩が用いられ、その堅さと光澤とが巧に彫刻美の基礎を作り上げ、寫眞と樣式化とが破綻なく融合し、形態の單純性が像に高雅の趣をあたえ、頭部の背後に太陽神の象徴たる鷹をひそませて王者の特權を示すというような意匠も加えられている。像の部分的手法も洗練された作家の神經をおもわせるものがあり、大まかな肉づけの緊密性、細部の適當な處理、頭部をつつむ王樣頭巾の樣式化、顏面の氣品などに意を用いていることがわかる。ただその藝術理念と感覺とにおいてギリシアとは對蹠的であり、東洋といつても極東方面の美の意識とは根本的に相違のあることが見のがせない。
この上層者夫妻の坐像はエジプト彫刻の一つの典型で、同じような構圖の石彫がたくさん殘つている。こういう姿勢で輩下に君臨するのが當時上層者の常態であつたのであろう。いかにもデスポチツクである。暴力と機略と威嚴とによつて自己の存在を主張していた者の全貌がここにある。いわゆるカー(靈)の肉體同一的信仰はここでも寫實の追及に力を致さしめている。製作者はこの人物にも意地わるいほどの描寫をおこない、その力強い容貌風姿のかげのある深い暗さを見のがさなかつた。女性の方にはさすがに豐滿な東洋的の美が強調され、薄布を被つた肉體は、そのためにかえつて肉感的なものを感じさせ、またそのために彫刻的資質を多分にもつ。この二つの像はおよそ等身大のものであるが、製作動機にむしろ人形意識がつよくはたらき、ただその傳統的形式のために彫刻としての諸性質が備わるにいたつた觀がある。これらの像の着色は日本の佛像などの着色とは理念がちがう。
製作家の側からいうと、ものを大きく見る力のあるということは一つの重要な
末期的なものは多く神經がこまかく、末梢への關心がつよい。煩瑣に落ち、氣むずかしくなり、その結果として、造型は必然的にいじけてくる。
ものを大きく見る力の重要さは、時代と樣式とのいかんを問わず、古代、近代、現代にわたつて明瞭に感ずることができる。エジプトにおいても、ギリシアにおいても、十四、五世紀においても、飛んで現代の抽象藝術においても同じである。
エジプト藝術最善の時代におけるこの一木彫成像の質としての大きさはわれわれに強くこのことを教える。この一事を見るだけでもこの像の意味は深い。(「シエイク エル バラド」とは村長または村の有力者の意。)
エジプト藝術の寫實はこの像あたりでその極點に達した。ギリシア人はかかるものを好まなかつた。ギリシア人は
この像のもつパーソナリテイ表現の技術は藝術としてやや行きすぎの觀があるが、しかしかかる彫刻が存在したことは人間能力の一つの證左として貴重である。
この書記坐像の的確さは不氣味である。ある權威に從屬する者の小心さ、忠實さ、卑屈さ、狡猾さ、冷酷さというような内面の諸性質が、形態を通して實にいきいきと表現されていて、見る者が思わずひやりとするほどである。全體のがつしりした安定感はこの男のもつ職務意識の強さを物語り、顏面骨相の品格に乏しい鋭い小人物的個性は迫眞を通り越し、横向はことに暴露的である。