一
清い艶やかな蓮華草は、矢張り野の面に咲き蔽ふてこそ美しいのである。谷間に咲ける白百合の花は、塵埃の都市に移し植うべく、余りに勿体なくはないか。
二
支那太古の民、
自然は美しい。山下林間の静寂地に心の塵を洗ひ、水辺緑蔭の幽閑境に養神の快を貪るといふ様な事は、誰しも好ましく思ふ処である。然るに今日の農民は、美しい自然の中に生活しながら、其れを享楽することが出来ない。山紫水明の勝地は傷ましくも悉く都会のブルジヨア、金持達の蹂躙する処となつて、万人の共楽を許さない。資産ある者は、文明の利益をも、美しい自然をも、悉く独占して、その製造と耕作とに従事する労働者や農夫等は、却て其文明の為に、自然の為に、又資産家、地主の為に、徒らに労働の切売をして居る。之に於て、農夫も一箇の商人となつた。右手に鍬を持ち左手に算盤を弾く商人となつた。殊に其精神に於て全然商人と化して了つた。如何に能く地を耕やし、如何に善き収穫を得んか、といふことが問題ではなくて、唯だ如何に多くの利益(金銭)を得やうか、といふことのみが重大なのである。農夫の心は既に土地其ものから離れたのである。土地への愛着を喪つて、
三
素町人の商人と区別せられた昔の農民は、今日は既に存在の跡を絶つて了つた。「
それは、その通り、時代錯誤に相違ない。今日の問題は、農民の自治といふことでは無くて、商を転じて真農と化するにある。然るに、同じく商と称するも、鍬鋤を顧みない純商人と、未だ鍬鋤を棄て得ない商人、即ち現在の農夫とは些か其境遇に差異がある。其心は兎に角として、其境遇が土着して居る吾等農夫は、尚ほ祖先の地を去り難く、一種の覊絆に繋がれて居る。吾等は生存競争、金力万能の風潮に溺るゝことを怖れつゝ、尚ほ吾等を生んだ土地を耕やして、美しい墳墓までも用意しやうと執着して居る。此執着心深き吾等をして、吾等の父母たる天地の恵みを充分に享楽せしめよ。他人の懐と他人の生産との間に介在して自己の利益をのみ貪る我利商人たることを避けて、吾等をして直ちに天地の創造に参与する農産業に没頭せしめよ。是が吾等農民の真の希願である。
四
然らば此希願は如何にして成就し得るか。其第一要件は即ち自治である。自治は万物自然の生活法則で、此法則は人間にも実現されねばならぬ筈である。鳥は飛び、魚は泳ぎ、地球は自転して昼夜をなし、太陽の周囲を廻つて春夏秋冬をなし、禽獣草木、風雨、山河、互に連帯関係を保つて互に自治し、
世界は今や生存競争主義の都会文化、商業精神に依つて暗黒になつて居る。自然から善いものを恵まれやう、世の為に善き物を生産しやう、自分の技術の為に全生命を打ち込まう、といふ様な精神は今の商業時代には存在し得ない。宗教も、教育も、産業も、芸術も、悉く一種の商売と化して世の中は陰欝暗憺たる修羅の街となつた。そして此暗い世の中を明るくし得るの第一の方法は、先づ吾等農民が自ら眼覚めて真に土の民衆たる本来の自己に立ち還へることである。自ら土の民衆となつて、世界の農作と工業と生産と交換とを自分自身の掌中に回復することである。蜜蜂の如く、蟻群の如く。
五
生存競争、金力万能の幻影的近代思想が築き上げたるバベルの塔は、即ち今の商業主義の都会文化である。何物をも生産することなしに、他人の懐を当にして生活する寄生虫の文化である。吾等は最早此バベルの塔に惑はされてはならぬ。吾等は野を蔽へる蓮華草の如く平等、平和の協同生活に立ち帰り、谷間に咲ける百合の如く、自然の芸術の芳烈なる生活を自ら誇るべきである。
新しい春の陽光は、今当に山深き谷間をも照して来た。清浄無垢なる可憐な小鶯が伝へる喜びの福音をして、断じて都会の塵風に汚さしむる勿れ。