新しいランドセルを
「ただいまア!」
「はい、お帰りなさい。早かつたわねえ。」
さう
「ママ、今日、ほんとに何も買はなかつた? ほんとに、夕御飯のおこしらへ、なんにもしてない? お野菜なんか、ほんとに買つてないかア?」
お母様は、進ちやんの帽子と草履袋とを取上げて、ニコニコしておつしやいました。
「ええ、ほんとに、なんにも買はなかつたわ。だつて、今朝みんなにお約束したんですもの。」
「あツ、うれしい、助かつた! 僕、お使ひに行くのがうれしくつてね、走つて帰つたの。ねえママ、ランドセルや筆入も、僕の脊中でね、一ツ二ツ・ガッチャガチャ、左ツ右ツ・ガッチャガチャつて、さわぐんだよ。きつと、うれしいんだね、ママ。」
「ホホウ、さうかしら?」
「さうだよ、ほんとにさうなんだよ、ママ。今日はうちの『ママの日』なんだもの。ねえ、まだ姉ちやんも兄ちやんも帰つて来ない?」
「ええ。まだお
「ぢや、僕、ひとりで先にお使ひに行つて来ようかな。ねママ、僕ねえ、いいもの買つて来てあげるのよ。あててごらん。ママの大好きなもの。あてたら、えらい。」
「さあ、なんでせうね?」
「あてたら、えらい!」
「さあ、なんですかねえ?」
そんなことを云ひながら、進ちやんとお母様は、子供部屋に入つて来ました。
「ねえ、わかんない、ママ。」
「わかんないわ。ほんとに、なんでせう?」
「僕の買つて来るものねえ――云つちやをか――ねえ、三ツ葉を五銭と、にんじんを二三本。それだけ。」
「あら、あんた、そんなもの、ひとりで買つて来られるの?」
「買つて来られるさア!
「あら、あら。ないしよを聞いちやつて。いいの? ママ、困るわ。」
「いいんだよ、いいんだつて、ママ。だまつててね。だけど、僕、困つちやつたなア。」
するとお母様が、笑つて云はれました。
「いいのよ、進ちやん。ママ、なんにも聞かないことにして置くわ。ね、それでいいでしよ。」
「ぢや、指切りしてよ。」
さう云つて進ちやんは、すぐお母様の細長い小指に、自分のちつちやい可愛いい小指を巻きつけて、面白さうにゆすりながら、指切りをしました。
ほどなく、尋常三年生の純子ちやんが、やはりランドセルを脊負つて、
「ただいまア! ママ、進ちやんもう帰つた? わたし、お掃除で、おくれちやつた。すぐお使ひに行くの。さあ、風呂敷出して。」
純子ちやんは玄関に入るが早いか、もうそんなことを云つて、学校のお道具をお部屋にしまふと、すぐ進ちやんを誘つて、めいめいのお小遣をもつて、外へとび出しました。
「気をつけるんですよ。ね、進ちやん、純子ちやん。」
お母様は二人を見送ると、茶ノ間の長火鉢の横に
「……あの子供たちを育てるためには、
午後二時ごろ、尋常六年生の
「見られては
「手品の種明しはごめんね。ね、お母さん。あとで、とつても
そして二人とも、まだ帰つて来ない純子ちやんと進ちやんのことを心配しました。
「また、紙芝居でも見てるんかな?」
「さうぢやないわ。きつと、市場の横に出来たパン屋の売出しを見てるのよ。ゴム風船や、紙のお面をくれてたわ。それが、とても子供が大勢で大変なの。」
耕一君と蓉子さんがさう云ふと、お母様は退屈さうに
「ぢや、わたし、ちよつとそこまで出て見ませう。もう三時が来るから、そろ/\お夕飯のこしらへをして頂かないと、おそくなりますから。」
「ぢや、やらう、姉さん。」
「さ、ぢや、手伝つて。だけどねお母さん、今日はお台所を来て見てはだめよ、さあお上りなさいと云ふまでは、お行儀よく、こちらで待つててね。ぢや、耕ちやんと手伝つて。」
さう云つて蓉子さんはお台所にいつて、お母様の
耕一君の風呂敷包からは、新聞紙にくるんだ緑色の
「ほら、これ、ホヤ/\よ。コロッケなの。チキン・コロッケよ。お母さんの好物でしよ。だから、わたし、買つて来たの。」
「いつたい、姉さん、どんな献立をするつもりなんだい? 効能ばかり云つてて。ちやんと、お
「ええ、大丈夫よ。それよりあんた、
その時、
すぐ二人とも、お台所へ入つて来ました。そしてお母様が、その後についていらつしやると、進ちやんは両手をひろげて飛び出し、お母様のお
「だめ/\、ママ。お行儀がわるい。あつちに行つてらつしやい。あつちに行つてらつしやい。本読みでもしてらつしやい。」
五時半には、お父様がお勤めから帰つていらつしやいました。六時から六時半までにはお夕飯なのですが、今日は七時になつても、まだお夕飯が出来ないのです。
「おい、まだかい? あんまり
お父様が、からかふやうに台所に向つておつしやると、台所からは四人の子供たちが、口々にこんなことを云ひました。
「なんだパパ、お行儀がわるいぞ。」
「パパ、待つてらつしやい。」
「もういいかツたら、もういいかア? まアだだよツたら、まアだだよウ!」
「お父さん、おとなしく待つてる子がいいの。タバコでも吸つて、ママと遊んでらつしやい。」
そして、みんなクス/\笑ひました。
中ノ間のお父様もお母様も、顔を見合はしてニツと笑はれました。
「……タバコでも吸つて、ママと遊んでらつしやいだつて……ハハア、弱つたな。」
「でも、あなただつて、とてもうれしいでしよ。子供たちが、みんなで、あんなにしてくれるやうになつたんですもの。」
「ふうん、悪くはないさ。」
お父様もお母様も、三十前後では、とても苦労をなさいました。それは、お父様が長いあひだ病気されて、会社をやめさせられてからでした。お父様は青白い顔をして、
今、お父様もお母様も、ふと、そんな時のことを思ひ出して、子供たちがみんな大きくなつてくれたことを、どんなにうれしく思はれたかわかりません。
七時半が来た時、一ばん小さい
「さ、ママ、パパ、いらつしやい。ごちそうが出来たんだよ。僕もつくつたんだよ。」
そこへ、純子ちやんと耕一君とが、また迎へに来ました。
「早く来て。とつても御馳走が出来たんだから。さ、パパもママも立つの。」
「どうぞ、腹ペコのお客さん、食べて下さい。今日はお母さんの方が、先に行くんだよ。さ、おみこしを上げて。ほら行け。お
「あら、困るわ。よしてよ。」
お母様は笑ひながら、でも遠慮なく先に立つて、お茶ノ間に入つて来られました。その後へ、お父様がニコ/\しながら、進ちやんに負ぶさつた
「まあ、大へん、大へん。よく出来たわねえ。」
「よう、えらい御馳走だな。」
お母様もお父様も、びつくりなさいました。広い
丸い洋食皿には、コロッケと、きれいに切つたトマトと
「ママは、ここ! 早く
進ちやんは、正面の席へお母様を坐らせました。純子ちやんは、その左へお父様を坐らせました。そして二人は、その
「えらい御馳走だな。早速いただかうかな。それとも、何か
お父様がさうおつしやると、耕一君が立上つて、「エヘン」と一つ
「今日は、五月の第二土曜日で、ほんたうは明日の第二日曜が『母の日』です。母の日といふのは、僕たち子供が、赤ん坊の時から面倒を見て育てていただいたお母様に、いや世界中のお母様方に、心からお礼を云つてお祝ひをしてあげる、一年に一日しかない目出度い日です。これは、アメリカから始められて、今では世界中にひろまつてゐるのださうですが、日本では、まだあまり行はれてゐません。僕たちは、蓉子姉さんが女学校から聞いて来たので、早速、
さう云つて坐ると、みんな笑つてパチパチと手を
「ぢや、もう食べてもいいね。おあづけは、もうすんだんだらう?」
お父様がニコニコしておつしやると、お母様も初めてニコニコ笑つておつしやいました。
「皆さん、どうも有難う。ママは、とてもうれしくつて、胸がつまつちやつてね、なんにも云へなくなつちやつたのよ。ごめんね。ほんとに有難う。では、いただきますよ。」
すると、もう
「いただきまアす!」と、おつしやつたので、みんな噴き出してしまひました。
「パパ、ママ、
「おいしいわ。とつてもおいしいわよ。」
「パパは?」
「うん、おいしい/\。だけど、『ママの日』はあつても、『パパの日』はないんかねえ? ねえ蓉子。なんとかして、『パパの日』もつくつてくれんかな?」
すると、蓉子さんが答へました。
「さうねえ、なんだか、ないのはへんね。気の毒みたいだわ。みんな、どうする?」
そこで、みんな、はしやいで御飯を食べながら相談しました。そして結局、お父様が夜学の工手学校を出て、初めてお勤めをされた四月五日を「パパの日」、つまり「父の日」と決めることにして、やがてこの日の楽しい夕御飯を終りました。
―昭和一二年四月二四日作―