私の生活がどんなに苦しい時でも、私は「私が生まれなかつたら……」といふやうなことを考へたことは余りない。私自身の生活に対して、どれほど疑惑や失望を抱いてゐる際にでも、私は生まれたことを後悔するやうなことはない。少くとも生命を信愛しようとする心だけは失はずにゐる。
私が惑ふ時、私が悲しむ時、私は一層生命を劬はり、生命を信愛する心を覚える。もし私が自分で自分の生命を断つことがあるとしても、それは私が自分の生命を疎んじた結果ではなく、余りに生命に執着し、余りに生命を信愛せんとした心からであるにちがひない。私は私が自殺するほど真剣に私の生を想ひ、私の生命を突きつめて信愛することのできないことをもどかしく思ふ。生を信愛する心と、生命を断つ心とは、全然矛盾してゐるやうに見られるが、私にとつては矛盾してゐるとは考へられぬ。生を熱愛する私の感情と、生そのものゝ真実を攫まうとする私の理智とが絶えず相剋して、二つの間に溶けがたい隔りができる時、私は盲目的に生命を愛して行くか、或ひは自ら生命を断たなければならぬ境に入る。私は余りに愚かな私の理智を悲しむ。私の理智の眼が余りに力弱きものであることを悲しむ。しかも私は生命信愛の情に乏しいことを余り経験しない。殆んど生の信愛そのものが私の生命であり、生活であるやうにすら考へる。生きて行く現実から信愛の心を削つたならばその刹那に私の生活は滅びてしまふであらう。生命信愛――不断永劫の――はやがていのちの流れそのものではないか。私は何故に自己の生命を愛すべきかを知らない。しかし私は生命の信愛なしには一日も生きて居れない。智慧の実を食はなかつた時のアダムにも生命信愛の念はあつた。否な、かれは生命信愛そのものゝちからに動かされてのみ生存してゐたであらう。
生命信愛の念は人類にあたへられた本然的の意欲である。さらに押し拡げていへば、あらゆるいのちの表現の本然性である。栗の花はいのちの表現のために、微風に揺られつゝ生の信愛に顫いてゐる。庭前の梧桐も、百合も、アカシヤも一様に同じいのちの懐しさに顫いてゐる。
油のやうな大河の流れに六月の碧空が映る時、燕は軽やかな翅を羽叩いていのちの
草原のなかに突つ立つてゐる一本の樹に対して私は幾度か「友よ!」と声をかけて見たいと思つた。今も私は、時々森に入つては眠れるが如き立ち樹に対して、かれのたましひと物語つて見たいやうな気がする。眠れる銀杏樹のなかに、沈黙せる老樫のなかに、人間と人間との言葉が言ひ表はすことのできぬ不可思議な大きな力や、理智や、思ひやりがかくされてあるやうに想ふ。宇宙が造り出された劫初から、樹と樹とは物言ひ、鳥と鳥とは物語つてゐるであらう。それは人間の知らない、また人間の眼に見ることのできぬ世界の言葉であるにちがひない。私の貧しい室のなかにも、私の古ぼけた机の上にも、どんなにか美しい、どんなにか光りに満ちた世界が表現されてあるのかも知れない。その世界が、蜜蜂や蟻の眼には感じられ、或ひは見られるのであるかも知れない。森のなかにはいのちの
森といふ森、曠野といふ曠野は悉く眼に見えざる不可思議なものによつてつゝまれてゐる。私たちは紅い花弁を発見した。白い翅の羽叩きを聴いた。しかしそれが何であらう。限りないいのちの表現としてそれはあまりに貧しい表現ではないか。かぎりもない美しさ、かぎりもない明るさ、かぎりもない幸福が自然といふ自然のなかに湛へられてゐるであらう。私たちは少かに自然の窓を透して、かすかに洩れて来る法悦のさゝやきや、静かに漂ふて来る久遠の楽の音を聴くのみである。私たちが見る自然――いのちの表現としての――は、たゞ少かにその窓口から覗いてゐる一輪の花弁に過ぎない。殿堂の奥から流れて来る楽の余韻に過ぎない。私たちから永遠に鎖された殿堂、そこに私たちのいのちの交響楽がある。私たちは扉の前に立つて内殿の光明や華麗さやを想像してゐる。
生けるものは悉くその鎖されたる扉の前に立たされてゐる。或る者は喇叭を吹き鳴らしながら扉を叩いてゐる。しかしかれの耳には内殿の楽の音の余韻すらも聞えない。かれはたゞ、かれ自身の卑しい燥音の反響を聴くのみである。かれはその反響を以て、内殿の楽の音であると想ひなしてゐる。かれは街の人々の前に立つてその反響を繰り返す。かれは角笛を吹いて「我れ天啓に触れたり、内殿の光明を見たり、内殿の楽の音を聴けり」といふにちがひない。
騒々しき街頭の予言者よ!
私は幾度かこのあはれなる街頭の予言者であつたことを恥づる。ともすれば驕慢な私の心は、幾度か扉の前に立ちて内殿の楽音を聴き得たりと思つた。プロメシウスのごとく天火を偸み得たと思つた。私の炬火は何物の影をも照らすことはできなかつた。
また或る人々は最初から扉を背にして立つた。そして街を往来する馬車や自動車や都会の喧騒に対して話しかけてゐた。やがてそれ等の人々は何時の間にか巷の塵のなかに隠れてしまつた。
賢き都会人よ! 力強き勇者達よ!
扉の前に立ちて瞑黙してゐた私は、たび/\怯惰なる偸安者と想はれることもあつた。また私自身ともすれば争闘の気力なき自分を顧みてあはれに思ふこともある。しかし私は夢を夢みてゐるのではない。自然の殿堂の扉に立つ時私はたゞかすかなる内殿の光りと、楽音を感ずるだけであるが、私はそれだけでも充分である。私が二年立つてゐようと、或ひは十年立つてゐようとも、その扉は永遠に鎖されてゐるかも知れぬ。人間はしかく運命づけられてゐる。しかしながら私はそのかすかなる光りのなかに、内殿のなかをこむる光明の本質と同じいのちのあらはれが流れてゐることを感ずる。縷のやうな繊音のなかに、永遠のいのちから流れて来るちからの漂ふてゐることを感ずる。私たちは天空の星にまで翔ることはできぬ。しかしながら少かに吾々の世界に投げかけられた天空の星光を分析して、星そのものゝ本質を知ることができる。私たちは一滴の雫は万滴の湖水に通ひ、一条の入江は万項の海原に連なつてゐることを知つてゐる。
鎖されたる扉の前に立ちて、私の胸は内殿から流れ来るいさゝかなる楽の余韻につれてうごめく。霊しき殿堂のなかに鎖されたる神秘の力、うごめくいのちの高波は、やがて扉の外に立てる私の胸の高波となつて揺らぐ。内殿に溢れたる光明はやがて私の小ひさな胸底の暗を照らして、さゝやかなる光明の世界を私の心奥に形作る。
勇敢な人々が街頭に立ちて争闘を宣言してゐる時、私は何といふ意気地なしであらう。私は驚異につゝまれたる殿堂の扉の前を離れることはできない。
私が眼をつむつて扉によりかゝる時、潮のやうに打ち寄せて来る内殿の驚異は、私の全身の血といふ血を同じ驚異のちからに波打たせる。私は沈黙しつゝ、瞑想しつゝ、そして静かに内殿の神秘の楽の音に聴く。
勇敢なる人々は、人と人との争闘にかれ等の生命をかけて戦つてゐる。生の争闘を争闘せる人々の剣戟の音を聴きつゝ、私は遥かなる森の廃寺の前に立つて、老木の梢に梟の声を聴き、またはかげらふ
しかしながら静寂なる森のなかの沈黙! 沈眠せるが如き廃寺の前の瞑想! そこに言ひ知れぬちからの歓喜を聴くことのできる私たちの心霊を想へ!
人々が街頭に馳駆する時、それは人々にとりて真実の生活であり、真実の争闘であらう。しかしながら私が廃寺の前に立つ時、それは私にとりて真実の生活であり得ないだらうか。そこに生のための争闘がないだらうか。
私は争闘といふ文字を余り使ひたくない。争闘といふ言葉は私をしてむしろ消極的な、または強者に対する被征服者の弱味を聯想せしめる。私たちの内なるいのちが真実に充たされる時私たちは争闘なしに勝利者たり得る。私たちの生命が争闘また争闘によりて創造せられ、伸展せられるといふことよりも、私たちの生命が内から自然に湧き出づることによりて、或ひは新たにたえず湧き出づることによりて伸展するといふことが、より多く真実性を帯びてゐはしないか。
私たちは到底一種の宿命から免るゝことはできない。生命の発現、生命の創造、生命の伸展すらも動かすべからざる宿命の軛につながれてゐるのではないか。いのちは伸展することが自然である、運命である。そして伸展するがままに伸展せしむるところに生命の実感が湧く。静黙の扉前に立てる私の心は、街を駆けつゝある勇ましい戦士のそれよりも深刻な、痛切な、徹底的な争闘を争闘しつゝあることを信ずる。
欺かれても宜い、それが迷ひであるならば迷ひであつても宜い。よしそれが夢であらうと、幻であらうと私は静黙の扉に立つて、私の内心に共鳴する驚異の世界のいのちの楽の音を聴かう。もしそのいのちが私のいのちを鼓舞するならば、もしその幻が私の生活の基調となつて、私の生活を根柢から動かして行くものであるならば、それは私にとつて真実である。現実である。私の個性が静黙の扉前に立つことによりて、真実の自己を見出すことを得、真実の生命を実感することができるならば、それこそ私にとつて絶対無二の現実でなくて何であらう。
自然! それがつゝめるあらゆる驚異! 私は汝の永久に鎖されたる扉前に立ちて汝を崇拝する。汝の慟哭は私の慟哭であり、汝の生長は私の生長である。汝が私語く時私は聴き、私が祈る時汝は私に聴く!
私は永久に汝に面し、汝と語らう。沈黙せよ、沈静せよ、そこに始めて汝と私との心と心とが共鳴の楽を奏づる。
森よ眠れ、白き翅の鳩よ眠れ、天空に眠れ、流れよ暗のなかに沈め!
沈黙と暗黒と寂滅! そこに始めて真実の生命が動き、真実のちからが伸展する。
野よ日暮れよ。高原よ凩を止めよ。空と水と市街と悉く滅びよ。黝暗と死静とがすべての世界を支配せよ。そこに始めていのちの潮が高鳴りの響きを伝へる。そこに始めて内なる世界のうごめきが始まる。
私は最後に一言附け加へて置かなければならぬ。それは沈黙なる言葉の内容に就いてゞある。沈黙とは必ずしも無意識無争闘といふ意味ではない。私が強ひて沈黙を主張する所以は、ともすれば外に向つてのみ、いのちの伸展を索めようとする現代の私たちの心は、やゝもすれば内なる生命の空虚を忘れんとする傾向を多く持つことを恐るゝからである。
沈黙は内に向つての争闘である。沈黙は霊の世界に於ける戦ひである。沈黙は我れ自身に向つての争闘である。
社会、他我に向つて戦はれる争闘は時として絶ゆることがある。けれども我自身に向つての闘ひは永遠に絶ゆることはない。真に生きる者は常に我自身の内に闘ふことを忘れない。
沈黙は内なる世界の覚醒である。内なるいのちのうごめきである。真に永遠なるいのちの伸展である。
此の半世界が日暮るゝ時、他の半世界が光明の世界を現すやうに、私達の心が外から内に向けらるゝ時、私達の真実の世界が私達の内に現じて来る。
沈黙は内なる世界の光被である。