村のうしろに、雑木山が二つ向きあつてゐる間から、
前の雑木山へは、近所の子供といつしよにつれだつて、
たしか小学校へあがつた春の、日曜日だつたとおぼえてゐます。朝の御飯をいただいてゐると、お父さんが、「けふはいゝところへ連れて行つてやる。」といひますので、
「どこへ?」
ときくと、八の字だといふ返事、わたしは、
「お父さん八の字の道を知つてゐるの?」
「知つてゐるとも。」
「のぼつたことがあるの?」
「あるとも。」
「いつ?」
「さうさ、いつだつたかな。おまへがまだ生れない
といつてお父さんは笑ひました。
お母さんに、おにぎりをこしらへてもらつて、遠足に行くときのやうな身支度をして、出かけました。
やはらかく春の草が
「お父さん、こつちだろ。」
「ウム、さうだ。」
「まだ、とても遠いの?」
「ウム。」
水晶のやうに透きとほつた水が、ざん/\音をたててゐる谷川に沿つて、山と山のあひだを登つて行きますと、
お父さんは、吸ひかけの
「おべんたうが重たいだらう。お父さんによこしな。」
おにぎりの包と、お父さんのステツキと、取りかへつこしました。
川の水は、だん/\ほそくなつて、
「お父さん、この水ぬくいよ。」
「さうか。
山風が、さつとふきおろしてきて、うぐひすのこゑが、しばらくとぎれます。しんと、しばらく何の音もきこえません。
「さあ、行くぞ。」
立ち上つて、お父さんに手をひいてもらつて、急な坂みちをのぼつて行く。背の高い枯草の間に、地べたへはひつくやうにして、青い冷たい小草が、一ぱい頭をもたげてゐます。
「春だ。春だ。」
歌ふやうにいふお父さんのこゑをきいて、わたしも、何だかうれしくてなりませんでした。
「やれ/\、骨が折れるな。」
お父さんが足をとめるたびに、私も立ちどまつて、上の方を見あげる。八の字ゴウロはどこにあるのか、まるで見当がつきません。山の腹が大きくふくれて、落ちかかるやうに見えるだけです。ハアハア息をつきながら、また登つて行きます。
山の向が変つて、お日さまの光が、背中一ぱいにあたつてきました。
「そら、来たぞ。」
お父さんに
「八の字ゴウロだ。」
「さう、これが?」
「八の字の右の棒の、一ばん
角のとがつた、おそろしさうな岩でしたが、うしろへまはりましたら、わけなく、よぢのぼることができました。そして山の上の方へかけて、同じやうな形の黒い岩が、いくつも/\、ころがつてゐます。
お父さんは、指ざして、
「これが八の字の右の棒だ。」
「左の棒は?」
「左の棒は、ここでは見えんな。どうだ。大きな八の字だらう。むかし、
「八万八千つて何?」
「
「さう。」
私は、お父さんと並んで、岩の上へ腰をかけました。いつもあそびにゆく前山の峰の草つぱらが、踏台かなどのやうに、目の下に小さく見えました。ずつと下の方に、村の草ぶき屋根がかたまつて見えました。
「やあ、おれの
私は、声をあげました。お父さんは、うまさうに
「おべんたう、たべないか。」
「こゝで?」
「ウム。」
「もつと上へ行かないの?」
「ぢや、ゴウロのはしまで行くか。」
岩からとびおりて、つぎの岩、つぎの岩とよぢのぼつてゆきました。やがて、岩がなくなりましたので、これでおしまひかとおもつたら、向うにまた、大きなのがころがつてゐました。そして、またいくつもいくつも数知れぬほどつづいてゐました。
たうとう、八の字のはしへ来ました。山はまだ上の方へのびて、枯草が
お父さんは、岩の上へあふむきに寝て、目をつぶつてゐる。私は、うつぶしになつて、村の方を
「お父さん、きこえる?」
「ウム。きこえる。」
「何が?」
「何がつて、川の音だろ。」
「さうだ。」
「…………」
「お父さん、ねぶたい?」
「ウム。」
「おれ、ねむたくない。」
「…………」
お日さまは、お昼すぎになつて、ほか/\とあたたかくなりました。何か知らない鳥が頭の上をかすめてとびました。
「お父さん、かへらうか。」
「ウム。かへらう。」
「こんどは、向うの方を――」
「よし/\。」
お父さんの後について、
家へかへつたのは、まだ夕日ののこつてゐるころ。庭へ立つてふりかへりますと、八の字山の八の字の形が、いつもと同じやうに、うつくしくよめます。しかし、私は、その同じ八の字の形が、山にのぼる前に見たのとは、何だか違ふ字のやうに見えてなりませんでした。目に見えぬ底力が、字の裏に感じられました。