千本木川

土田耕平




 裏の山から出て、わたしの村の中ほどをよこぎつて、湖水へ流れこむ川を、千ぼんがはといひました。千本木川――どうして、そんな名まへがついたのでせう。私の幼いころの記憶では、川ぶちに目立つほどの木もなかつたと思ひましたが――
 この千本木川の岸に沿つて、ほそい一すぢ道が湖水の岸までつづいてゐました。私はその道づたひに、歩いて行くのが好きでした。
 川はよしの茂つた中にかくれてゐて、水の音ばかりが、どう/\ときこえました。幅一間ばかりの小川でしたが、瀬の早い荒川でした。湖水岸へ出る二町ばかり手前に、葭のきれめから水の流がのぞかれるところがあつて、そこは、早瀬が岩にせかれて、ふちになつてゐました。
 ある夏のあつい日のこと、私は、いつものとほり、川づたひのみちを、行きました。青くすんだ淵のいろを見ましたら、何だか水にひたつてみたくなつて、葭のあひだを分けて、下りて行きました。岩の上へ着物をぬいでおいて、水の中へ、一足ふみこみますと、水晶のやうなつめたい水が、ぞつとしみて、からだぢゆうの毛穴がひきしまるやうに、おもはれました。私は、こは/″\二足三足とふみこんで、丁度乳のあたりまで水がとどいたとき、淵のまん中に立ちました。あたりを見まはすと、高く葭が取りかこんで、頭の上に、ぢり/\焼きつけるやうな、お日さまがくるめいてゐました。
 私は、ほんの二三分の間、淵の中に立つてゐたのでせうが、それはとても長い時間のやうに思はれました。きふに、逃げるやうにして、川岸へあがつてしまひました。
 それから、私は毎日、淵へ行つては、ひたりました。はじめのこはさから、だん/\なれて、じぶんの一人あそびをたのしむやうになりました。
 さうしていく日かたちました。ある日、はげしい雷雨のあつたつぎの日のこと、川づたひに行つてみますと、途中、葭の中からきこえる水の音が、恐ろしく地ひびきしてゐました。いつものところへ行つて、淵をのぞいて見ましたら――どうでせう、あの清らかにすんだ淵は、あとかたもなく、赤にごりした水が、大きな岩にかみつくやうにしてぶつかつてゐました。私はとても水に入る気にはなれず、ぼんやり立つたまゝ見てゐました。
 それから、二日三日とたつうちに、水のかさも減り、赤にごりした色も落ちつきました。前よりも一そうすんで、きよらかな水になりました。
 秋になつたのです。川岸の葭が穂に出て、涼しい風が、そよそよとしてゐました。もう水あそびする気にはなりませんでした。





底本:「日本児童文学大系 第九巻」ほるぷ出版
   1977(昭和52)年11月20日初刷発行
底本の親本:「夕焼」古今書院
   1932(昭和7)年5月
入力:菅野朋子
校正:noriko saito
2011年7月14日作成
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