玄冬の候、
富士山巓の光景は、果して
如何なるものなるべきや。
吾人の想像以上なるべきか、これを探
して
以て世に紹介せんことは、
強ち無益の挙にあらざるべし、よって予はここに寒中の
登岳を勧誘せんと欲するに
臨み、
先ず予が先年寒中滞岳中の状況を叙述して、いささか参考に供する所あらんとす、既に人の知る如く、富士山巓は
木の
葉一枚だになき、極めて
磽なる土地なれば、越年八
月間の準備は、すこぶる
多端なりし、しかも平地に於ける準備と異なり、
音信不通の場所なれば、もし必要品の一だも欠くることあらんか、
到底これを
需むるに道なし、故に事物によりては
直ちに生命に関するものあり、しかも滞在半年余の
長日月を要する
胸算なりしがゆえに、すこぶる注意周到なる準備を
為すにあらざれば、
能く
堪え
得べきに
非ず、予は
冬籠り
後の困難はむしろ苦とは思わざりしが、諸準備の経費の
遣り
繰りには、かなり頭を痛めたり、加うるに観測所の構造、材料運搬の方法、
採暖の装置、食料もしくは
被服の撰択等、多くは相談相手となるべき、経験者なき事柄のみなれば、大抵自ら考慮を
回らさざるべからず、
殊に測器の装置、荷物の搬上する道筋の撰択等自ら踏査を要するが如き、
古えより二度登るものは馬鹿とさえ言伝えられたるにもかかわらず、十数回の昇降をなし、また山頂は快晴なるも五、六合辺にて風雨に
遮られ、建築材料延着のため、山頂に滞在せる
大工石工人夫ら二十余名が手を
空しくして徒食せるにもかかわらず、予約の賃金は払わざるべからず、しかもその風雨は
何時晴るべき
見極めも付かず、あるいは日光のために、
眩暈と激烈なる頭痛とに悩まされて、石工らの倒るるあり、また
程なく落成せんと
楽める前日に、暴風雨の襲来に
遇い、数十日の
日子と労力とを費して
搬び
上げたる木材を噴火坑内に吹き飛ばされ、
剰さえ人夫らの
中に、寒気と風雨とに恐れ、ために物議を生じて、四面
朦朧咫尺を
弁ぜざるに乗じて、
何時の
間にか下山せしものありたるため、翌日落成すべき建築もなお
竣工を
告ぐる
能わざる
等、故障続出して、心痛常に絶ゆることなかりし、かかる
有様なれば残余の人夫に対しては、あるいは
呵責し、あるいは
慰撫し、
随て勢い賃金を増すにあらざれば、
同盟罷工を
為し
兼ねまじき
有様に至りたるが
如き、かかる場合に於て、予も
幾分か頭痛を感ずることあるも、何ともなきを
仮粧したり、また土用中なるにもかかわらず寒気
凜冽にして、歯の根も合わぬほどなるも、風雨の中を縦横奔走して、指揮監督し、
或る時は自ら
鍬を
揮い、または自ら
衣を
剥で人夫に与え、
力めて平気の
顔色を粧い
居たりしも、予も
均しく人間なれば、その実
甚だ難義なりしなり、特に最終の登山前は、気象台との打合せ、または東京より廻送すべき荷物(東京に於て特に注意して
搗かしめたる白米または家財等)さては祖父の墓参を
為すなど、およそ一週日ばかりは、殆んど昼夜忙殺の有様なりし、さていよいよ最後の荷物を負いたる十数名の
剛力、及び有志者と共に、強風を
冒して登るや、その
夜九時観測所に着し、まもなく夜半十二時、即ち十月一日より隔時観測を始めたり、
折節天候不穏の
兆ありしを以て、翌日剛力ら一同を下山せしめしため、予はいよいよ俊寛も
宜しくという境遇となり、全く孤独の身となれり、これより
先き
小厠を一
人使用するの必要は無論感ずる所なりしといえども、
強てこれを
伴わんとすれば、非常に高き賃金を要し、また
偶ま自ら進んで、越年を
倶にせんことを言い
出でたる者なきに
非ずといえども、これらは平素単に強壮と称するのみにして、衛生上何の
心懸けもなく、終日原野に
出でて労働に慣れし身を以て、
俄かに
山巓の観測所に閉居するに至らば、あるいは予よりも
先きに倒るることなきを
保せず、
殊に幾分測器の
取扱位は、心得あるを要するがゆえに、
遂にこれを伴わざるに決したり。
然るに荷物の整理いまだその
緒に
就かざるを以て、観測所の
傍らの
狭屋に立場もなきほど散乱したる荷物を解き、整理を急ぐといえども、
炊事を
為す暇だになければ、気象学会より寄贈せられたる鑵詰を
噬りて
飢を
凌ぎ、また寒気次第に
凜冽を加うるといえども、器具散乱して寝具を伸ぶべき余地なく、かつ隔時観測を為しつつあるを以て、睡眠の
隙を得ず、加うるに意外の
寸隙より凜冽なる寒気と吹雪との侵入
烈しきを以て、これを防ぐに
忙わしく到底睡眠せんと欲するも
能くすべからず、予は時なお十月初めなれば、かくまでにあるべしとは
想わざりしに、実に意想外の事のみなれば、この前途
如何にあるべきかといささか心痛せしが、ここぞ勇を奮うべき時ぞと奮発し、幸い近所合壁はなし、ただ一人故障をいう者もなければ、それより昼夜の
嫌いなく、鼻歌など
謡いつつ、夜を日に継ぎて、ガチガチコツコツと、あるいは棚を釣り、
薪を割り、
殆んど十二、三日間、
征衣のまま昼夜
草鞋を解かず、またその間にはしばしば降雪に
遇い、ために風力計
凝結して廻転を
止むるや、真夜中に
斫るが如き寒冽なる強風を
侵して
暗黒裡に
屋後の氷山に
攀じ登り、
鉄槌を以て器械に附着したる氷雪を
打毀わす等、その他千種
万態なる困難辛苦を以て造化の試験を受けてやや整頓の
緒に就かんとせし所に、
図らずも
妻登山し
来りたり、それより飲料に供すべき氷雪の収拾、室内の掃除、防寒具の調製、その他
炊事一切の事を同人に一任し、予は
専ら観測に従事し、やや骨を休むることを得て、
先ずこれまでの造化の試験を
恙なく、及第することを得たりしなり。
然るに造化は更らに鋭利なる武器を以て、短刀直入し来りたり、そは他にあらず、寒気と強風これなり、寒気は日々厳烈を加え、風力また強大になり、岩角に触れて怒号する音
轟々として、一月中僅かに二、三日を除くの
外昼夜止むことなし、
従て飲料に
充つべき氷雪の収拾等の外出容易ならず、加うるに
門口の戸氷結して、
容易く開くこと能わず、折節十月三十日頃なりしかと覚ゆ、
彼の有名なる報効義会員二人にて、剛力を
伴い、
郡司氏の厚意を
齎らし来訪せられし時の如き、前日は風力猛烈なりしため、八合目より
一旦七合に引返したりといえり、二人は山頂の光景を見て、
如何に感じけん、予に向いて、
焉んぞこれ
千島の
比いならんや、
君は如何にして越年を遂げんとするか、前途憂慮に堪えずと
曰われたり、十月末の光景を見て、既にこの言あり、進んで十二月に入りては、実に平地に
在りて想像の及ばざるものあり、かくの如き有様なるを以て、重要の外は外出を
為さずこれかえって健康を害するの恐れあればなり、(外出の
難かるべきは予期せる所なりしを以て、運動に供せんため自ら室内
操櫓器と
名くる者を携え行きたりしが室内狭くしてしばしばこれを用ゆること能わざりし)故に僅かに狭少なる
によりて下界を
瞰下し、常に山頂の風力の強暴なるに似ず、日光の
朗らかなるを見て、時として
妻などはもし空気が目に見ゆるものならば、この
烈しき風を
世人に見せたし、下界の人は山頂も均しく
長閑ならんと思うなるべし、
彼の三保の松原に
羽衣を落して
飛行の術を失いし
天人は、空行く
雁を見て天上を
羨みしに
引かえ、我に飛行の術あらば、
暫しなりとも下界に
下りて暖かそうな日の光に浴したしなど
戯むれをいいしことありたり、実に山頂は風常に強くして、
殆んど
寧日なかりしなり、
然れども
諸般の
事やや整理して、幾分
安堵の
思いをなし、室内に
閑居するに
至るや、予が意気豪ならざる故といわんか、
将た人情の免れざる所ならんか、今までは
暇なくて絶えて心に浮ばざりし事も、夜半観測の
間合などには暖炉に向いながら、
旧里に
預け置きたる三歳の
小児が事など始めて想い起せし事もありたり。
かくの如くにして、やや
堵に安んぜんとするを、造化はなお
生意気なりと思いしか、
将たまた
更に予を
試みんとてか、今回は趣向を変えて、極めて陰険なる手段を用いジリジリ静かに攻め来りたり、そは他に
非ず、気圧の薄弱これなり、人の知る如く、平地の気圧は、大抵七百六十
耗前後なるに、山頂は四百六十耗前後にして、実に三百耗の差あり勿論夏期とてもなお同様なりといえども、寒気増進するに及びては、ますます低落の傾きあり、故に静座するもなお胸部の圧迫を覚え、思わず
溜息を
吐くことあり、いわんや労働するに於ては、呼吸ますます
逼迫するを覚ゆ、しかも先きの攻め道具たりし寒気と風力とは、ますます猛烈を加うるのみにして、更にその
勢を減ずることなし、
剰さえ強猛なる寒気は絶えず山腹の積雪を
遠慮会釈なく
逆しまに吹上げ来り、いわゆる吹雪なるものにして、観測所の光景はあたかも火事場に焼け残りたる土蔵の、白煙の
中に包まれたるに似たり故に一
天拭うが如く快晴なるも、雪は常に降れるに異ならず、実に
平壌の
清兵も
宜しくという有様にて、四面包囲を受けしなり、ために運動意の如くならず、随て消化力減少して食気更に振わざるを以て、食物総て
不味にして口に入らず、およそ食事の如きは普通かかる場所に於ける娯楽の一とする所なるに、今は殆んどこれをしも奪い去られたれば、あます所は観測時に測器に示す所の諸般の現象を
して、以て無上の
楽みとするの一事あるのみ、実に造化の作戦計画は、あたかも真綿を以て首を締むるが如き手段なりしなり、しかも予らは屈せずして、これに堪えつつありしに、ここにまた二個の憂うべき事併発し来りたり、他にあらず、電池の破壊と、風力計の破損のために、
爾来風力を
測る
能わざるに至りし事、及び
妻の
浮腫病これなり、しこうしてこの
病や、実にこれ味方敗北の主因となるに至りしこと、後に至り
大に思い当りたるなり。
湿球寒暖計は、
夙に測る能わざるに至り、大に楽みを
殺がれし心地せしが、今また暖炉の
傍に、置ける電池
凝結して破壊し、ために発電するに
由なく、また風雨計の要部を
蔽う所の
硝子板紛砕して、内部に氷雪
填充し全くその用を
為さざるに至りしかば、更に大に楽みを殺がれたり。
初め予が種々の事情により、単身越年を
為さんと決するや、
妻これを
憂い
独り
密かに急行、小児を郷里の父母に托して登山し来るに就きては、幾分心を労することもあるなるべし、その結果妻は十一月上旬に至り、
甚く逆上し、ために平素往々
患うる所の、
扁桃腺炎を
[#「扁桃腺炎を」は底本では「扁桃腺災を」]誘起し、体温上昇し
咽喉腫れ
塞がりて、
湯水も通ずること能わず、
病褥に
呻吟すること旬余日、僅かに
手療治位にて幸に
平癒せんとしつつありしが、造化は今の
体の弱みに乗じたるものならんか、いわゆる富士山頂の特有とも称すべき、
浮腫に
冒され、全身次第に
腫れて殆んど別人を見るが如き形相となりたり、この
浮腫ということは、山頂に於て多少
免るる能わざるものなることを、
後にこそ知るを得たるなれ、当時は初めてにして、特に医業の門外漢たる予らには、なおさらその原因を極むるに由なく、
少からず心を痛めたり、もとよりその辺の用意は一と通り
為したりしも、かかる病魔に襲われんとは、全く思い寄らざることなれば、僅かに下剤を用いなどして、
一向ら恢復を祈りしも、浮腫容易に減退するに至らず、然るに
如何せん、これを平地に報ずる道なく、さればとて猛烈なる吹雪の中を下らんことは、到底一、二人の力を以て為し得べきにあらず、またこれを下山せしめんことは無論当人の本意に非ざるべしなど、これを患者に語ることの、
病に
障りあらんを思い、
独り自ら憂慮に沈みたりしが、もとこれ
無人の境、あるいは
斯計りのことあらんは、予め期したることなるにと思い返し、よしよし万一
運拙くして
斃れなば飲料用の
氷桶になりと
死骸を
入れ
置くべしなど、今よりこれを
顧えば笑止に
堪えずといえども、当時はかかる事も心に期したることありき、然るに如何なる幸運にか、十一月下旬に至り、浮腫日を追うて減退し、十二月の初には、不思議にも全く常体に復し、前日の如く忠実に
彼れが負担の業務を
執り
得るに至りたり、ここに於て室内も、自ら陽気となり、始めて愁眉を開くことを
得、予が看護中の
心事など、
打語りつつありしこと、僅かに二、三日にして又々大に憂うべきこと
出で
来りたり、他にあらず予もまた浮腫に冒されたることこれなり。
予が
漸次浮腫を
来すや、均しく体温上昇し、十二月は実に
病の花盛りなりしが如し、然れども足を
引摺りながらも、隔時の観測だけは欠くことなかりしが、予の浮腫も全く妻のと同質なりと推定したれば、
已に幾分経験あるを以て、今回は敢て驚くことなかりしといえども、漸次病勢を増すに及びては、妻もまた予が彼れを看護せし時と、同様の心事を繰り返しつつありたるものの如し、折節図らずも山麓有志者の、寒中数回登山を企て、しかも一行数人の内、
倔強なるもの僅かに二人のみ
万艱を排して始めてその目的を達して来訪せられしに
遇いしかば、予はその当時の病状を決して他に告ぐるなからんことを
誓いおきしに、
何時しかその筋の耳にまでも入る所となりしなり、けだし予の浮腫は登山前より、多少の疲労に乗じて妻のよりも幾分重かりしならん、来訪者の一行中には予が舎弟も加わりし由なれども、他二、三人と共に猛烈なる吹雪に
遮られあるいは依頼品を吹飛ばさるる等、僅かに必要の文書類を、
倔強なる二人に依頼して持ち行かしめ、他は
皆な八合目の
石室に止まりたりしも如何にも残念なりとて、一人を
追躡して
銀明水の
側まで来りしに、吹雪一層烈しく、大に悩み居る折柄、二人は予らに面会を
了りて下るに
遇い、
切りに危険なる由を
手真似して引返すべきことを
促せしかば、遂に望みを達し得ざるのみならず、舎弟は
四肢凍傷に
罹り、
爪皆剥落して久しくこれに悩み、
後ち大学の通学に、車に
頼りたるほどなりしという。
それより程なく、予が実に忘るる能わざる明治二十八年十二月二十一日は来りぬ、和田中央気象台技師、
筑紫警部、平岡巡査らは
倔強の剛力を引率し、一行十二人注意周到なる準備を
為して、登山し来られたり、そもそも下山は予に於て実に重大の関係あるが故に、
差当りこの病を医すべき適切なる
薬餌を得、なお引続き
滞岳して加養せんことを
懇請したれども、
聴かれざりしかば、再挙の保証として大に
冀望する所あり、かつこの事業の遠大を期するものなることを
慮い、遂に一旦下山に決したり、ここに於て予は遂に造化の陰険なる手段に敵すること能わずして、全く失敗に帰したるなり、これに就きても予はこれまでの実験上、ますます気象の
人世に最大関係あることを確認するを得たり、内地に於ける各種の企業者にして、しかも平地に於てすら、往々
身体の健康を
傷いて失敗するものあり、いわんや海の内外土地の
開未開を問わず、その故郷を離れて遠く移住せんと欲するもの、もしくは大に業を海外に営まんと欲するものの如きは、先ずその地の気象を調査すること最大要務なりとす、従て平素より気象なるものに注意し、これが観念を養うを要す、
然らざればあるいは失敗に帰するに至るべきなり、あに
戒めざるべけんや。
予はここに於て終に十年来の
素志を達する能わずして、下山の
止むべからざるに至りたれば、
腑甲斐なくも一行に
扶けられて、吹雪の中を下山せり、
胸突を過ぎし頃
日は既に
西山に傾きしかば寒気一層甚しく、性来
壮健なりとはいえ、従来身心を労し、特に病体を氷点下二十余度に及べる寒風の中に
曝せしことなれば、
如何でかこれに
堪ゆるを得んや、
最早寒風に抵抗して呼吸するの力なく、特に浮腫せる胸部を剛力の背に圧迫せし故、呼吸ますます苦しく、
空を
攫みて
煩悶するに至れり、今は刻一刻、気力次第に
弱わり、両眼自ら見えずなりたれば我今これまでと思いて、自ら
眼を
閉じなばあるいはこれ
限なるべし、力の続かんまではと心励まし、
歯がみをなし、一生懸命吹雪に向いて
見張りしため、両眼殆んど凍傷に
罹りたるか、色朱の
如く、また足は氷雪の上を
引摺りしため、全く凍傷に罹る等実に散々の
体に打ち悩まされ、ここに気力全く
尽き
果てて、終に
何時となく、人事不省に
陥りたり、かくの如き際に、普通起るべき感情は、予も
強ち世捨人ならねば、大は世界及び国家の事より、小は一家及び我が子の事までもむらむらと思い起さざるにはあらねども、男子の本領として
屑よく放棄したり。
既に夜半過ぎなりしかと覚えし頃、漸く
人心地に立ち
還りぬ、聞けば予が苦しさの余りに、
仙台萩の
殿様が
御膳を恋しく思いしよりも、なお待ち
焦れし八合目の
石室の炉辺に
舁き
据えられ、一行は種々の手段を施こし、夜を徹して予が
病躯を
暖ためつつある真最中なりしなり、さて予は我に還るや、
俄かにまた呼吸の
逼迫、
凍傷の
難み、眼球の
激痛等を覚えたり、
勿論いまだ
眼を開くこと
能わざるのみならず、痛みに堪えかねて、眼球を転ずることさえ叶わず、実に四苦八苦の
責めに
遇いしも、もと捨てたりし命を図らずも拾いしに、予に於て
毫も憂うるに足らず。ただただ以上述ぶる所の場合に、終始一行の
骨折心配は、如何ばかりなりしぞ、実に予が
禿筆の書き尽し得べき所に非ず、
願くは有志の士は自ら寒中登岳してその労を察せられんことを。
予は実にこの経験によりて、造化の
執拗にしてますます気象の
畏るべきものなることを知ると共に、山頂と
山下との総ての気候は、いわゆる
霄壌の差異あることを認め得たり、下山の途中既に五合目辺に下れば、胸部自ら
透きて、心神爽快を覚え、浮腫知らず
識らず、減退して殆んど常体に復し、全く山麓に達するに及びては、いわゆる形容
枯槁の人となり、余人は寒気耐え難しといい合えるにもかかわらず、予らはさほどに寒気を感ぜず、また今まで食気更に振わざりしに引かえ
忽ち食慾を奮起し、滞岳中に比すれば無論多食せしといえども、更に胃を
傷うことなかりし、これによりて見るに、滞岳中食気振わざりしは、
強ち直接に胃の衰弱せしためのみに
非ずして、山頂と寒気さほど差違なき五合目辺に於て、已に爽快を覚ゆるを以て考うれば、その身体に異常を感ずるものは、ただ気圧の点あるのみ、勿論運動または
沐浴の
不如意等も、大に
媒助する所ありしには相違なきも主として気圧薄弱の
然らしむる所ならんか、
暫く
疑を存す、もし予にして
羸弱にして、体育の素養なからんには、人事不省に
陥りたる後ち、再び起つこと能わざりしならんにと、下山後医師の言を耳にしたることもありたれども、要するに予が幸に今日あるを得たるは、
偏えに有志者の特別の援助を与えられたるに
依る。
予はかくの如く、しばしば思わざる逆境に
臨みし代りに、再挙の計画に就きては、経験を得たること鮮少ならず。特に先ず
須要にして急務となすものは、観測所改造の挙に
在り、これをして完全ならしめざれば常に天候に妨げられ、到底力を目的の業務に
専らにすること能わず、随て満足なる観測の結果を得んこと望むべからず、故に完全なる家屋改造のことは、実にこの事業の根底なりとす、然るに先年は諸事完備を欠くこと多かりしにもかかわらず、寒中殆んどその半ば滞在し得たるのみならず、図らずも婦女子の弱体すらなおこれに
堪え得たる有様なるを以て、
今もし前途の施設を完備せんには、常住観測の決して至難の業にあらざるは予の確信する所なり、しこうして、その家屋構造の如きは、予大に経験し得たる所あり、依てここに新たに計画を立て、在来の観測所に比すれば総てその規摸を拡張し、先ず室内に運動所を設け、かつ経験上得たる所により、寒中出入の便を図り、総て構造を精密にして、固く寒風と氷雪との浸入を防ぎ、浴室を設け、また採暖法を攻究し、通信の道を開き、また少なくとも三名以上の技手滞在し、山麓及び七合目に寒中これら技手を交代させ、時の避難所を設け、あるいは夏期中より引続き滞岳して身体を山頂の風土に
馴らし、以て病を未然に防ぎて、身体の
安固を図り、あるいは測器の故障を防ぐの法を立つる等、その他経験し得たる所により、それぞれ
防禦の策を講じ、以て安全の道を図らんと欲し、下山後苦心経営すること一日に非ずといえども、在来の観測所に比すれば、規摸
迥かに宏大を要するが故に、その改築費及び将来の維持費の如き、一
私の資力を以てせんこと容易に非ず、
則ち前に掲げたるが如く今回富士観象会なるものを組織して弘く天下に向て賛助を乞うに至れり、富士観象会の目的
並にその事務の大要は
載せて前段の主趣
并に規則書等に
詳かなり。