チチアンの死

ホーフマンスタール Hugo von Hofmannsthal

木下杢太郎訳




 人

序曲をうたう者
フィリポ・ポンポオニオ・ヴェチェリオ。別称チチアネルロ(大匠の息)
ジョコンド
デジデリオ
ジヤニイノ(この人十六歳の青年、甚だ美し。)
バチスタ
アントオニオ
パリス
ラヴィニア(大匠の一女)
カッサンドラ
リザ

 時は千五百七十六年のこと。この年チチアンは九十九歳の高齢をもて歿せるなり。

ゴブランの幕下りている。プロセニウムにはボエックリンの半身像円柱の上に立つ。その基底には草花と花の小枝とを盛ったるかご
シンフォニイの最後の拍子に連れて、序曲プロロオグを唱う者登場する。そのうしろに炬火たいまつ小厮こものたち。
序曲を唱う者は一人の青年である。ヴェネチア風の装束、しかも黒の喪服。
序曲を唄う者 では音楽はおやめ下さい。これからわたくしの舞台です。わたくしにはむに已まれぬ訴えが胸にあるのです。この若い時代から一味の滋液が流れてわたくしの心に入ります。そして斯人このひと、今わたくしをみはっているこの立像のあるじは、かつて、わたくしのこの上もない心の友だったのです。陰惨事しげき今の時代には、そのなさけはまた是非わたくしに必要なものであったのです。かの水精ナイアスの水したたる白い御手おんてに滋味を吸うこうの鳥、水に浮くこの聖鳥の如くに、わたくしもまた暗い時のには、斯人の手にうち伏し、うちすがり、わが心の糧――深き夢をば求めました。ああ、わたくしにはあなたの像を、唯木の葉、花の枝で飾ることしか出来ないのですか? あなたは、わたくしの為に世のすがたを飾り、すべての花の枝の美しさをば限り知られぬ栄光に輝してくれたのですのに、わたくしは全く恍惚こうこつとして地上に身を投げ伏し、耀かがやかしい自然、そのころもの、わたくしに垂れかかるのに随喜したのです。友よ、お聴き下さい。わたくしは王者の崩御おかくれの時のように、使を遣わしてあなたの名を四風に叫ばしめようとするものではありません。王者はその名号みょうごうを遺し、その陵墓にその名の響を止めます。――あなたはそれに反して、大魔術者だったのです。あなたの形骸は無くなりました。だがあなたの面影はなおもそこここに残ってはいないでしょうか。それ等は神秘じんぴな強い生命の力で、黒い目をして夜のしおから出て岸に上り――または毛深い耳を立てて、つたにかくれて身を伸してはいないでしょうか。ですからわたくしは、何処どこに往っても、樹の有る処、花の有る処、乃至ないしは黙々と口噤くちつぐむ石、空を一抹いちまつの雲の有るところでは、決して自分がたった独りでいるのだとは思いはしないのです。つねに必ずかのアリエルの如く、玲瓏れいろうとして澄明なる一物が軽くわたしの背をゆすぶるのです。即ち知る、あなたと凡ての造物との間には、不思議な連鎖がつながっているのです。そうです。それで春の野原、御覧なさい、それはちょうど可憐な女の、よる、その身を任せる人に笑いかけるように、にっとあなたに笑いかけているではありませんか。
  ああ、わたくしはあなたに物を訴えようとしたのでした。それだのにわたくしの口は喜び酔いしれた言葉でうちふくらみます。もうあまり長くはここに立っていない方が好いでしょう。この杖を以て三たびゆかをば叩きましょう。そしてこの天幕のうちを、夢の姿を以て満しましょう。みんなに重い悲哀をかつがせて、よろよろと行き悩ませてやりましょう。泣きたい人をば泣かせてやり、そしてどんなに大きな憂愁が、この世の凡ての営みにうちまじっているかと云うことを、身にしみじみと感じさせてやりましょう。ここに演じまする一齣いっしゃくの劇曲は、暗い、苦しい一時いっときの鏡中のすがたをばお目にかけるのです。世にもおおいなる宗匠に対する深い哀悼の言葉をば、どうぞ、皆さん、影の人々の口から、とくと、お聴き取り下さいまし。
序曲を唱う者退く。炬火をる人々も亦その後より去る。プロセニウムはしばし暗きままに止る。
シンフォニイ再び始まる。立像消ゆ。
そのあとにて棒の三打聞える。ゴブランの幕あがり、舞台現じ来る。
場面はれヴェネチアに近き、チチアンが別荘の高台テラスの上である。この高台、うしろはところどころ打崩れたる石欄に仕切られてあり。それを越えて遠方の松樹白楊の梢が見られる。後方左側には庭にと下る階段がある(こなたよりは見難し)。その下り口、石欄の前に在って、両基の大理石水瓶により見分けられる。高台の左側は急峻に、庭の方へと下り行くのである。つた薔薇そうびつる欄にからまり、庭苑の高きくさむら、垂れかかる樹枝などと共に、ぎっしりと深き茂陰を成す。
右側には、階段扇形に後方なるかどを充し、一つの望楼にと通じている。そこから帷幔たれまくの掛った扉を通じて家の裡に入るようになっている。家の壁は葡萄ぶどう、薔薇の蔓にまとわれ、半身像を以て飾られ、※(「片+總のつくり」、第3水準1-87-68)まどけたには瓶を並べ、纏絡てんらく植物それより生え出でる。舞台の右方はこの壁にて仕切られるなり。
晩夏の午時ひるどき。石欄より登り来る階段の上にはデジデリオ、アントオニオ、バチスタ、パリスの四人茵絨毯しとねの上に寝そべりている。
皆沈黙。風静かに扉の帷幔を動かす。しばらくあってチチアネルロ、ジヤニイノ二人右手の戸口より入り来る。デジデリオ、アントオニオ、バチスタ及びパリス、気づかわしげに、また物聞きたげに、二人の方に進み寄り話しかける。少時の間の後に――。
パリス いけない?
ジヤニイノ (声を詰らせて)だいぶいけない。(涙にかきくれたるチチアネルロに)君、気の毒だな。ピッポオ。
バチスタ 眠っておいでか?
ジヤニイノ いや、起きておいでだ。しきりと空想していらっしゃる。画架を持って来いとおっしゃった。
アントオニオ だが、それを差上げるわけには行くまい。ねえ、いけないんだろう。
ジヤニイノ 医者はいいと言った。もう何もいやなおもいをおせ申すことはない。欲しいものは差上げるがいいんだ。
チチアネルロ (歔欷きょきす。)今日か明日あすかだ。それでおしまいだ。
ジヤニイノ もういつまでもあなた方にお隠しすることもありませんと医者が言った。
パリス いやいや、先生がおかくれになる筈はないんだ。医者はうそを言っているんだ。自分にも分らない好い加減の事を言っているんだ。
デジデリオ 生命を創造したチチアノ[#「チチアノ」はママ]が死ぬと云うのか。誰がそれなら生命に力、位を与えよう。
バチスタ だが御自分の容体がどんなか知ってはおいでにならないのかい。
チチアネルロ 熱のうちに、息もつかず、いつになく荒々しく、新しい画をおかき始めになった。むすめたちに傍に来て立っていろとおっしゃった。われわれには出て行けとおっしゃった。
アントオニオ 画をおかきになることは出来るのか。そんな力がお有りになるのか。
チチアネルロ まるで謎のような情熱だ。今までだって、画をおかきになる時、あんな風なことはなかった。まるで殉教者の狂熱に駆られておいでになる。
一侍僮右手の扉より出で来る。その後ろより下僕たち。人々驚く。
チチアネルロ ┐
ジヤニイノ  ├どうしたんだ。
パリス    ┘
侍僮 いんえ、何でもございません。何でもございませんのです。先生が庭の離れから画を持って来いとおせになりましたので。
チチアネルロ どうなさろうと云うんだろう。
侍僮 画を御覧になりたいとおっしゃるのです。「無慙むざんにも色の褪せたふるいのと、今かいている新しいのと較べて見たい。もとたいへんむずかしいと思ったことが今でははっきりと分って来た。今まで思いも寄らなかったさとりがやって来た。実際今までは仕様のないぼんくらだったわい。」こうおっしゃいますので。お吩咐いいつけ通りにして差支ございませんでしょうか。
チチアネルロ ああ好い、往け、構わない、早く往け。お前たちがぐずぐずしていれば、その刻々お苦しみになるんだ。
その間に小厮こものたちは舞台を行き過ぎてしまう。階段のところで侍僮、小厮たちに追いつく。チチアネルロは足を爪立てて歩み寄り、そっと幕を掲げて後方に入る。あとの人々は心安からぬ様にあちこちと歩んでいる。
アントオニオ (小声で。)恐ろしいものだな。臨終。言いようもない……。神に近いもの、先生……どもり吃り……何か訴えるように……。
チチアネルロ (戻って来ながら。)今はまた少し落ち着いて来られた。あおいお顔から、後光がさしている。いやお画きになる、お画きになる。目付も穏かだ。むすめたちと何時いつものように話しておいでになる。
アントオニオ じゃ、僕たち、しばらく石段の上で横になっていよう。また容体がお変りになるまで、そうしていよう。
人々いしだんの上にうずくまる。チチアネルロはジヤニイノの髪をもてあそぶ。その目半ば閉ず。
バチスタ (半ばは自分に言うが如く。)段々悪く……それからいよいよいけなく……いやいや。そんな事はない。段々悪くなると云う容体。そんな容体がまるで終ってしまった後でなければ、いよいよいけないって時にはならない。ああ、この先の、生のない、声のない、落莫らくばくたる世間……いや、今日はまだそんな事は考えられない……だが明日あすは、明日はそうなるだろう。
間。
ジヤニイノ 僕はもうすっかりつかれた。
パリス 蒸し暑い風のせいだ。南風のせいだ。
チチアネルロ (笑いながら。)こいつ、昨夜ゆうべ一晩中起きていやがった。
ジヤニイノ (腕にもたれて。)うむ。そりゃ全く初めてのことだ、僕が一晩中起きていたなどは。だが君、どうして知っている。
チチアネルロ そりゃ分る。はじめのうちは、僕のそばで、まだ君の静かな息がして居った。そのうち君は立ち上った。そして石段へ腰をかけたじゃないか……。
ジヤニイノ そうだ。蒼い――呼吸いきをしているよる、何か謎のような叫喚が絶えず聞えるような気がしたんだ。「自然」のうちにねむりなんていうものは、どこを捜したってなかったんだ。深い息づかい、れたくちびる、「自然」はまっ暗闇の中にいつくばって、一心に、秘密の物のけはいを偵察していたのだ。ぽたぽたと、ざわざわと、星のひらめきが柔かな、不眠の広野の上に落ち散る。重く血を満した凡ての果実が、黄いろい月、そのふくよかな光のうちに膨らむ。月が動き、凡ての泉が輝き、荘厳そうごんの大諧調立所たちどころに目をさます。その時雲が急に行き過ぎて、柔い素足の残す跫音あしおとかと思われた……で、僕はそっと起き上った――それまでは君にもたれていたのだった――。
かく話しつつ立上る。チチアネルロの方に身を屈げて。
  夜をめて気持のよいもののがたゆたい、まっ黒な月桂の樹陰こかげに、暗香それと知られたるヘスペリスの花壇に沿うて立つファウンの大理石の手にもてあそばるる笛の、ゆるやかな歎息ためいきかなぞ聴いてでもいるようだったぜ。そいつ、大理石の色に光って、静かにそこに立っていたが、そのまわりには銀碧ぎんぺきの色湿うるおう茂みに、柘榴ざくろの花は口を開いてゆすぶれてい、沢山の蜂のそこに飛んでいるのがありありと見えた。その鮮紅の裡に潜んで、ひたぶるに吸いに吸い、夜の香、また熟したる露に酔いしれているようであった。暗闇の静かな息づかいが庭の物の香を僕のひたいに吹き寄せ、僕は、おや、なんか柔いなよなよとした衣裳のかすれて行ったのかな、温い手の手触りかなと思ったんだ。白絹のように白い月の光には、恋に狂うの群が舞踊していた。池の面にはかすかな閃光せんこうが浮び、ぴたぴたとを立てて、上下うえしたに浮き沈みした。だが今でも分らないんだ。たしか白鵠はくちょうであったろうか、それとも水浴するナイアスの白い素肌であったのかしら。女の髪の毛の甘い匂のように、更にまた蘆薈ろかいが雑った……ところがそんな一切の有像うぞうたちまち一つに融合してしまったんだ。強靱無比な、堅牢な一大荘厳――思想も言葉も絶したんだ。
アントオニオ 君はうらやましい人間だな。そんな事を観て来たのか。暗闇の裡で起るそんないろいろな事象を。
ジヤニイノ 僕は半分夢の中にいたんだ。それで、ふらふらと歩いて、まちの見下せる処まで往った。市は脚下にやすらって居り、月と河とで取巻く光輝のころものうちに身を埋め、ひそひそとささやいた。そのさざめきをば、ともすると、さらりと夜風が伝えて来た。物のか幽霊のような、あやしくひそやかなその響を。異様に、恐ろしく、ひいやりと、薄気味わるく。物の音を耳には聴いたが、なんにも考えることは出来なくなったんだ。それでもその時忽然こつぜんとして、万事が会得せられたのだね。あの市街の石のような沈黙のうちに、僕は見たんだ、蒼涼そうりょうたるよるの流に包まれて紅き血汐の暴いバッカントの踊るのを。その屋根屋根をめぐって燐光の燃え、怪しい物かげのゆらゆらと反映するのを。僕はその時はっと思いついた。ああまちは眠っている。だが狂酔と苦患くげんとは目を覚ましている。憎悪、精霊せいれい、熱血、生命、みんな目を覚ましている。生命、いのちあるもの、最も力あるもの――人はそれを持っていながら往々忘れていることがあるね。
一瞬時瞑目する。
  いろんなことで僕はすっかり疲れてしまったんだ。その一夜ひとよに見たことは実際多過ぎるくらいだったんだ。
デジデリオ (欄干にりかかっているジヤニイノに。)だがこの市が、今下でどんな様子だか見てごらんよ。夕もや金色こんじきの残照に包まれ、薔薇ばら色した黄、明るいねずみ、そのすそは黒い陰の青、うるおいのある清らかさ、ほれぼれとする美しさだ。だがその暗示を満した靄の裡には、実はいやな事、つまらない事が一ぱいなんだ。そこの動物たちには唯狂暴があるばかりだ。遠見とおみにはうまく隠してあるが、そこへ往って見ると、美などと云うものをば少しも知らない奴どもがうようよ、ごたごたと、味もそっけもなく充満しているんだ。彼等はその世界をわれわれの使うと同じ言葉で形容してはいるが、それは唯言葉の響だけで、われわれの歓喜、われわれの苦悩とはまるで似もつかぬものなんだ。われわれは深い眠に陥っているが、彼等の眠というものは全くの別物なんだ。あすこで眠っているものは猩紅しょうこうの血、黄金の蛇だ。巨人チイタンつちを振う山が眠っているばかりだ。そして牡蠣かき※(「りっしんべん+(「夢」の「夕」に代えて「目」)」、第4水準2-12-81)ぼうぜんたるが如くに、彼等はそこに眠るんだ。
アントオニオ (半ば立上って。)だから先生は庭に高い柵を廻らされたんだ。外界は唯さまざまの花の垣の透き間から――そうだ、視るのではなくて――想像すべきなんだ。
パリス (同じく。)それは紆余曲折の道の教だ。
バチスタ (同じく。)それこそ大きな「背景の芸術」と称せらるべきものだ。定かならぬ光の秘密だ。
チチアネルロ (目を閉して。)消えかけた物の。死せる詩人の明かならざる言葉、凡ての諦め去った事がらの美しく見えるのはそれだ。
パリス 過ぎし日の魅力ある所以ゆえんだ。限り知れぬ美しさの源はそれだ。慣れ切った事は、実際われわれを窒息せしめる。
みな沈黙す。間。チチアネルロひそかにく。
ジヤニイノ (機嫌を取る。)君、そんなにがっかりしてしまってはいけない。何時いつまでも一つ事ばかり考えていてはいけないよ。
チチアネルロ (傷ましく笑いながら。)君は、痛恨というものが、永久に一事を思いわずらうこと――結局色も香もなく空虚になってしまうまで――と、まるで、別物でもあるかのように考えているようだね。だが僕には思い煩うことを許してくれたまえ。実際僕はもううに、悩みからも、楽しみからも、色々の小袖はぎ捨ててしまったんだ。まだ苦労を知らない人は、それをいろいろの幻想で飾るね。ところが僕はもう、そんなものは感ずることが出来なくなっちゃったんだ。
間。ジヤニイノはかたえの階段に至り、頭を腕に埋めて居睡いねむりする。
パリス だがジョコンドはどこにいるだろう。
チチアネルロ うに、夜明前に――その時君等はまだていたが――そっと門の外へ出て往った。青いひたいへ愛の接吻、その脣へ悋気りんきの言葉……。
侍僮等、二幀の画図を携え、舞台を横ぎり過ぐ。一の画はウェヌスと花と、一の画は酒神祭。弟子たち皆起き出で、画図の行き過ぎるまで額を垂れ、帽子を手にして立ち尽す。
しばしの間の後に、人々は皆立ちてあり。
デジデリオ 誰かよく生きる、かれのちに。芸術家にして真にいのちを有するもの、その精神は高らかにく万象を馴致し、単純にしてつ賢きこと童子の如きもの、果して有るを得るか。
アントオニオ 誰か能く彼の天稟てんぴんに参通し得る者ぞ。
バチスタ 誰かよく彼の知識の前に悚然しょうぜんたらざるを得るか。
パリス 誰か能くわれわれの芸術家でありや否やを断じ得る者ぞ。
チチアネルロ 生のない森をば彼は生かした。褐色の池のぴたぴたとを立てる処、蔦の葉の山毛欅ぶなの幹にまとわる処、その空寂の裡に彼は能く神々をらつきたった。サチロスはその笛を以てシリンクスを喚び起し、あらゆる物をして欲望に膨れしめた。そして牧人は牧女に伍して……。
バチスタ 引いて行く、実質もない雲には彼は心を賦与した。被衣かつぎのような、淡い、白いひろがりをば、淡く甘美なる※(「りっしんべん+淌のつくり」、第3水準1-84-54)※(「りっしんべん+兄」、第3水準1-84-45)しょうこうの心と解いた。金の覆輪を置いた黒い物々しい雲の洶湧きょうよう、笑いながら膨れ上る円い灰色の雲、宵々に棚引く銀紅の雲、それ等は皆魂を持っている。彼に由って心を獲来えきたったのだ。はだかの薄青い岩から、緑の波のたぎり飛ぶ白い飛沫しぶきから、黒い広野の微動だにしない夢想から、雷にたれた※(「木+解」、第3水準1-86-22)かしわの樹の悲哀から、凡てそれ等のものから我々の理解し得る人間的のものを作り来り、又われわれによるの物のを見ることを教えてくれた。
パリス 彼はわれわれを半夜より起し、われわれの心を明るくしつ豊富にしてくれた。日々にちにちの流れ、差す潮引く潮を戯曲として味い、あらゆる形の美を理解し、又われわれの内心を凝視する術を教えてくれた。女、花、波、絹、黄金、また色まだらなる石の光、高き橋、春の渓谷、その水晶なす泉のほとりには金髪のニンフの群れる――また人の唯夢にのみ見るを得るもの、またわれわれを取囲むめた現実、それ等は凡て彼の心中に浸透して後、初めてその美を得来えきたったのだ。
アントオニオ 丈高く美しい人には歌謡の舞蹈ぶとう、色斑らなる仮面には炬火たいまつの光、臥し眠る心にはさゆらぎの律動を鳴らす音楽、わかき女には鏡、花には明るい温い太陽の光、即ち一つのまなこ――美が初めて自己を認める調和の源……それ等のものをば、自然は彼の内心の光のうちに発見したのだ。「われ等を喚び起したまえ、われ等よりバッコスの祭を作りたまえ。」凡そ生きとし生けるものは彼を慕い、言葉は出さねども、彼の眼差まなざしをうち見つめつつ、かくは叫んだのだ。
アントオニオがかく話しているうちに、三人の少女たちは静かに戸より離れ、立ち止ってそっとその話を聴く。唯チチアネルロのみはややものうげに、且つ気乗りせぬげに右手の方に群を離れて立ち、少女たちを眺めている様子。ラヴィニアは金髪を黄金の綱にて留め、ヴェネチア貴族として豪華のいでたちをしている。カッサンドラ及びリザは年の頃十九歳、十七歳ばかりにして、しなやかに身に附き、ひらしゃらとなびく白き地質の衣を着ている。腕はあらわにて、その上膊には蛇形の黄金の環をはめ、サンダアルを穿うがち、黄金の細工の帯を締めている。カッサンドラは灰がかりたる金髪。リザは黄いろき薔薇のつぼみを黒髪にかざしている。どことなくわかき男のようなる処あること、あたかもジヤニイノに処女むすめ処女したる処あるに似ている。彼等の後方には一侍僮戸口から出て来る。手に打ち出し模様の銀の酒杯を携えている。
アントオニオ 夢みるように、夕風のうちに立つ遠い樹の茂りのおもしろさ……。
パリス 青い入江を行き過ぐる倏忽しゅっこつの白帆のかげに美を覚り……。
チチアネルロ (軽く首を下げて少女たちに会揖かいゆうしながら。――少女たち皆その方を向く。)あなたがたの髪のにおいを、そのつやを、またあなたがたの形の象牙の白さを、柔かに巻く黄金の帯を、音楽として、幸福として感ずるのは――畢竟ひっきょう、先生が僕たちに、物を見ることを教えてくだすったからなんですよ。(苦渋の調子にて。)だがあの下の町の人々にはそんな事は一切分らないでしょう。
デジデリオ (少女たちに。)先生はおひとりなのですか。誰も往ってはいけないのですか。
ラヴィニア ここにいろとおっしゃりました。今は誰も来てはいけないのですって。
チチアネルロ ああ、死よ、今静かに身を屈め、この美しき酔のうちに、この沈黙のうちに来れ。
凡ての人々沈黙する。
ジヤニイノ目を覚ます。いま人の語りたる言葉の最後の句を聴きながら身を起す。顔色はなはだ蒼白である。
気づかわしげに人々の顔を見較べる。
凡ての人々沈黙している。
ジヤニイノ一歩チチアネルロに近づく。そこに立ち止り身をふるわす。突然前方に独り立てるラヴィニアの前に身を投げてそのひざに己が頭をしつける。
ジヤニイノ 死。ラヴィニア、恐怖が僕をつかむ。僕は死にこんなに近寄ったことはかつてない。我等は凡て死す。この言葉は今後決して念頭を離れないでしょう。他の人々が笑っている処でも、いつも僕は黙って死のそばに立っているでしょう。そしてわれ等は凡て死なねばならぬ、とそう考えるでしょう。僕はいつか見たことがあった。人が大勢で歌を唱って一人の人を送っていた。そしてその人は死ぬべき運命に在る人だったのです。その人はよろめきながら歩を運んだ。そして廻りの人々を見た。そよ風に陰深いさ枝を動かす樹々を眺めた。ラヴィニア、僕たちも同じ道を行かなけりゃならないのですね。ラヴィニア、僕ちょっとの間、眠ってたのです、あの階段のところで。そしてふと目を覚まして、耳に入れた第一の言葉は死というのでしたよ。
身を顫わす。
  ああ、あんな暗闇がそらから下りて来る。
ラヴィニア背を伸して立つ。眼差まなざしは明るい空の方に向けている。ジヤニイノ髪を繊手にてでる。
ラヴィニア 暗闇なんぞ見えないわ。蝶々の舞っているのが見えるばかりよ。星が光って来た。家の内では一人の老人が休息に行く。その最後の歩みにも少しの疲労がない。高らかに足音が響くわ。
ラヴィニアかく言いて、家の入口の扉に背を向けていると、或る目に見えぬ手、帷幔を音無く、しかし力烈しくかたえに引く。皆々チチアネルロを先頭にして、音を立てず、息をこらして、階段を登りて、その方へ駆け入る。
ラヴィニア (静かに語り続ける。声段々に高くなる。)祝うべきかな生。実在の網に捕われ、いかなる時もいき深くして思い煩わず、美しき流れにたくましき手足を任す人こそめでたけれ。流れはその人の美しき岸に打ち寄する……。
ラヴィニア突然語を止む。あたりを見廻す。何事の起りしかを感知して、また他の人々の後に続いて行く。
ジヤニイノ (尚ひざまずいてあり。身を顫わしつつ独りごつ。)ああ事は過ぎた。
ジヤニイノ立ち上り、また他の人々に続く。
(幕)





底本:「書物の王国13 芸術家」国書刊行会
   1998(平成10)年10月25日初版第1刷発行
底本の親本:「木下杢太郎全集19」岩波書店
   1982(昭和57)年3月
※複数行にかかる中括弧には、けい線素片をあてました。
入力:川山隆
校正:noriko saito
2007年8月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について