瘠我慢の
説は、福沢先生が明治二十四年の冬頃に執筆せられ、これを
勝安芳、
榎本武揚の二氏に寄せてその意見を
徴められしものなり。先生の
本旨は、右二氏の
進退に関し
多年来心に
釈然たらざるものを記して
輿論に
質すため、
時節を
見計らい世に
公にするの考なりしも、
爾来今日に至るまで深く
筐底に
秘して人に示さざりしに、世間には
往々これを伝うるものありと見え、現に
客冬刊行の或る雑誌にも
掲載したるよし(
栗本鋤雲翁は
自から旧幕の
遺臣を以て
居り、
終始その節を変ぜざりし人にして、福沢先生と
相識れり。つねに勝氏の
行為に不平を
懐き、先生と会談の
語次、ほとんどその事に及ばざることなかりしという。この篇の稿
成るや、先生一本を写し、これを
懐にして翁を
本所の宅に
訪いしに、翁は老病の
余、視力も
衰え物を
視るにすこぶる困難の様子なりしかば、先生はかくかくの
趣意にて一篇の文を
草したるが、当分は世に
公にせざる考にて人に示さず、これを示すはただ貴君と
木村芥舟翁とのみとて、その大意を語られしに、翁は非常に喜び、
善くも書かれたり、ゆるゆる
熟読したきにつき
暫時拝借を
請うとありければ、その
稿本を翁の
許に
留めて帰られしという。木村氏といい栗本氏といい、
固よりこれを他人に示すがごとき人に非ず。
而して先生は二人の
外何人にも示さざれば決して他に
漏るるはずなきに、往々これを
伝写して本論は栗本氏等の間に伝えられたるものなりなどの説あるを見れば、或は翁の死後に至りその家より出でたるものにてもあらんか)。
依て思うに、この論文はあえて世人に示すを
憚かるべきものにあらず、
殊にすでに世間に伝わりて
転々伝写の間には多少字句の
誤なきを期せざれば
寧ろその本文を公にするに
若かざるべしとて、これを先生に
乞うて時事新報の紙上に
掲載することとなし、なお先生がこの文を勝、榎本二氏に与えたる後、明治二十五年の二月、
更らに二氏の答書を
促したる
手簡ならびに二氏のこれに答えたる返書を後に附記して、読者の参考に供す。
明治三十四年一月一日
石河幹明 記