一月一日の時事新報に瘠我慢の説を公にするや、同十三日の国民新聞にこれに対する評論を掲げたり。先生その大意を人より聞き余に謂て曰く、兼てより幕末外交の顛末を記載せんとして志を果さず、今評論の誤謬を正す為めその一端を語る可しとて、当時の事情を説くこと頗る詳なり。余すなわちその事実に拠り一文を草し、碩果生の名を以てこれを同二十五日の時事新報に掲載せり。実に先生発病の当日なり。本文と関係あるを以て茲に附記す。
石河幹明記
瘠我慢の説に対する評論について
碩果生
去る十三日の
国民新聞に「瘠我慢の説を読む」と
題する一篇の
評論を
掲げたり。これを一読するに
惜むべし論者は
幕末外交の
真相を
詳にせざるがために、
折角の評論も全く事実に
適せずして
徒に一篇の
空文字を
成したるに過ぎず。
「
勝伯が徳川方の大将となり官軍を
迎え戦いたりとせよ、その
結果はいかなるべきぞ。人を
殺し
財を
散ずるがごときは眼前の
禍に
過ぎず。もしそれ
真の禍は外国の
干渉にあり。これ勝伯の当時においてもっとも
憂慮したる点にして、吾人はこれを当時の
記録に
徴して
実にその憂慮の
然るべき
道理を見るなり
云々。
当時幕府の進歩派
小栗上野介の
輩のごときは
仏蘭西に結びその力を
仮りて以て幕府統一の
政をなさんと
欲し、
薩長は英国に
倚りてこれに
抗し
互に
掎角の
勢をなせり。
而して露国またその
虚に
乗ぜんとす。その
危機実に
一髪と
謂わざるべからず。
若し幕府にして
戦端を開かば、その
底止するところ
何の
辺に在るべき。これ勝伯が一
身を以て
万死の途に
馳駆し、その
危局を
拾収し、維新の大業を
完成せしむるに余力を
剰さざりし
所以にあらずや
云々」とは評論全篇の
骨子にして、論者がかかる
推定より当時もっとも恐るべきの
禍は外国の
干渉に在りとなし、東西
開戦せば日本国の
存亡も
図るべからざるごとくに認め、以て勝氏の
行為を
弁護したるは、
畢竟するに全く事実を知らざるに
坐するものなり。
今
当時における外交の
事情を述べんとするに当り、
先ず
小栗上野介の人と
為りより
説かんに、小栗は
家康公以来
有名なる
家柄に生れ
旗下中の
鏘々たる武士にして幕末の事、すでに
為すべからざるを知るといえども、
我が
事うるところの
存せん
限りは一日も政府の任を
尽くさざるべからずとて
極力計画したるところ少なからず、そのもっとも力を致したるは
勘定奉行在職中にして一身を以て各方面に
当り、
彼の
横須賀造船所の
設立のごとき、この人の
発意に
出でたるものなり。
小栗はかくのごとく
自から内外の
局に
当りて時の
幕吏中にては割合に外国の
事情にも通じたる人なれども、
平生の
言に西洋の
技術はすべて日本に
優るといえども
医術だけは
漢方に及ばず、ただ
洋法に取るべきものは
熱病の
治療法のみなりとて、
彼の
浅田宗伯を信ずること
深かりしという。すなわちその
思想は純然たる
古流にして、
三河武士一片の
精神、ただ徳川
累世の
恩義に
報ゆるの外
他志あることなし。
小栗の
人物は右のごとしとして、さて当時の外国人は日本国をいかに見たるやというに、そもそも
彼の米国の
使節ペルリが
渡来して
開国を
促したる
最初の目的は、単に
薪水食料を求むるの
便宜を得んとするに過ぎざりしは、その
要求の
個条を見るも
明白にして、その後タオンセント・ハリスが
全権を帯びて来るに及び、始めて
通商条約を結び、
次で英露仏等の諸国も来りて新条約の
仲間入したれども、その目的は他に非ず、日本との
交際は
恰も当時の
流行にして、ただその流行に
連れて条約を結びたるのみ。
通商貿易の
利益など最初より期するところに非ざりしに、おいおい日本の
様子を見れば
案外開けたる国にして
生糸その他の
物産に
乏しからず、
随て案外にも外国品を
需用するの力あるにぞ、外国人も貿易の一点に
注意することと
為りたれども、彼等の
見るところはただこれ一個の
貿易国として単にその
利益を利せんとしたるに
過ぎず。
素より今日のごとき
国交際の
関係あるに非ざれば、
大抵のことは
出先きの公使に一任し、本国政府においてはただ
報告を聞くに
止まりたるその
趣は、
彼の国々が従来
未開国に対するの
筆法に
徴して
想像するに
足るべし。
されば各国公使等の
挙動を
窺えば、国際の
礼儀法式のごとき
固より
眼中に
置かず、
動もすれば
脅嚇手段を用い
些細のことにも声を
大にして兵力を
訴えて
目的を達すべしと公言するなど、その
乱暴狼籍驚くべきものあり。外国の
事情に通ぜざる日本人はこれを見て、本国政府の
意向も
云々ならんと
漫に
推測して
恐怖を
懐きたるものありしかども、その
挙動は公使一個の
考にして政府の
意志を
代表したるものと見るべからず。すなわち彼等の
目的は
時機に投じて
恩威並び
施し、
飽くまでも自国の
利益を
張らんとしたるその中には、公使始めこれに
附随する
一類の
輩にも種々の
人物ありて、この
機会に乗じて
自から
利し
自家の
懐を
肥やさんと
謀りたるものも少なからず。
その事実を
記さんに、外国公使中にて
最初日本人に
親しかりしは米公使タオンセント・ハリスにして、ハリスは真実
好意を以て
我国に対したりしも、
後任のブライン氏は前任者に
引換え
甚だ
不親切の人なりとて
評判宜しからず。
小栗上野介が
全盛の当時、常に政府に
近づきたるは仏国公使レオン・ロセツにして、小栗及び
栗本鋤雲等とも
親しく
交際し政府のために種々の
策を建てたる中にも、ロセツが
彼の
横須賀造船所設立の
計画に
関係したるがごとき、その
謀計頗る
奇なる者あり。
当時外国公使はいずれも横浜に
駐剳せしに、ロセツは各国人
環視の中にては事を
謀るに
不便なるを認めたることならん、
病と称し
飄然熱海に去りて
容易に帰らず、使を以て小栗に申出ずるよう江戸に
浅田宗伯という
名医ありと聞く、ぜひその診察を
乞いたしとの請求に、
此方にては仏公使が浅田の
診察を
乞うは日本の
名誉なりとの考にて、
早速これを
許し宗伯を熱海に
遣わすこととなり、
爾来浅田はしばしば熱海に
往復して公使を
診察せり。浅田が
大医の名を
博して
大に流行したるはこの
評判高かりしが
為なりという。
さてロセツが
何故に浅田を指名して
診察を
求めたるやというに、診察とは
口実のみ、公使はかねて浅田が小栗に信用あるを
探知し、
治療に託してこれに
親しみ、浅田を
介して小栗との間に、
交通を開き事を
謀りたる者にて、
流石は外交家の
手腕を見るべし。かくて事の
漸く進むや
外国奉行等は
近海巡視など称し幕府の小軍艦に
乗じて
頻々公使の
許に
往復し、他の外国人の
知ぬ間に
約束成立して
発表したるは、すなわち
横須賀造船所の設立にして、日本政府は二百四十万
弗を
支出し、四年間
継続の工事としてこれを
経営し、技師職工は仏人を
雇い、
随て
器械材料の買入までも仏人に
任せたり。
小栗等の
目的は
一意軍備の
基を
固うするがために幕末
財政窮迫の
最中にもかかわらず
奮てこの
計画を
企てたるに外ならずといえども、日本人がかかる事には全く
不案内なる時に際し、これを
引受けたる仏人の
利益は
想い見るべし。ロセツはこれがために
非常に利したりという。
かくて一方には造船所の
計画成ると同時に、一方において
更にロセツより
申出でたるその言に
曰く、日本国中には
将軍殿下の
御領地も少からざることならん、その土地の内に
産する
生糸は一切
他に
出さずして政府の手より仏国人に
売渡さるるよう
致し
度し、
御承知にてもあらんが仏国は世界第一の
織物国にして生糸の
需用甚だ
盛なれば、他国の
相場より幾割の
高価にて引受け申すべしとの事なり。一見他に
意味なきがごとくなれども、ロセツの
真意は政府が
造船所の
経営を
企てしその費用の
出処に苦しみつつある内情を
洞見し、かくして日本政府に一種の
財源を
与うるときは、
生糸専売の利益を
占むるの
目的を達し得べしと
考えたることならん。
すなわち実際には造船所の
計画と
聯関したるものなれども、これを
別問題としてさり
気なく
申出したるは、たといこの事が行われざるも造船所
計画の
進行に
故障を及ぼさしむべからずとの
用意に外ならず。
掛引の
妙を得たるものなれども、政府にてはかかる
企みと知るや知らずや、財政
窮迫の
折柄、この
申出に逢うて
恰も
渡りに
舟の
思をなし、
直にこれを
承諾したるに、かかる
事柄は
固より行わるべきに非ず。その事の
知れ
渡るや各国公使は
異口同音に異議を申込みたるその中にも、
和蘭公使のごときもっとも
強硬にして、現に
瓜哇には
蘭王の
料地ありて
物産を出せども、これを政府の手にて
売捌くことなし、外国と
通商条約を取結びながら、
或る
産物を或る一国に
専売するがごとき
万国公法に
違反したる
挙動ならずやとの
口調を以て
厳しく
談じ
込まれたるが
故に、政府においては
一言もなく、ロセツの申出はついに
行われざりしかども、彼が日本人に信ぜられたるその
信用を利用して利を
謀るに
抜目なかりしは
凡そこの
類なり。
単に公使のみならず仏国の
訳官にメルメデ・カションという者あり。本来
宣教師にして久しく
函館に
在り、ほぼ日本語にも
通じたるを以て仏公使館の訳官となりたるが、これまた政府に
近づきて利したること
尠なからず。その一例を申せば、幕府にて
下ノ
関償金の一部分を払うに際し、かねて
貯うるところの
文銭(一文銅銭)二十何万円を売り
金に
換えんとするに、文銭は
銅質善良なるを以てその
実価の高きにかかわらず、政府より売出すにはやはり
法定の価格に
由るの外なくしてみすみす大損を招かざるを得ざるより、その
処置につき
勘考中、カションこれを聞き込み、その
銭を一手に
引受け海外の市場に輸出し
大に
儲けんとして
香港に送りしに、
陸揚の際に
銭を
積みたる
端船覆没してかえって大に
損したることあり。その後カションはいかなる
病気に
罹りけん、
盲目となりたりしを見てこれ等の内情を知れる人々は、
因果覿面、
好き
気味なりと
竊に
語り合いしという。
またその
反対の例を
記せば、
彼の
生麦事件につき英人の
挙動は
如何というに、
損害要求のためとて軍艦を品川に
乗入れ、時間を
限りて幕府に
決答を
促したるその時の
意気込みは
非常のものにして、彼等の言を聞けば、政府にて決答を
躊躇するときは軍艦より
先ず
高輪の
薩州邸を
砲撃し、
更らに
浜御殿を
占領して
此処より大城に向て
砲火を開き、江戸市街を
焼打にすべし
云々とて、その
戦略さえ
公言して
憚からざるは、以て
虚喝に外ならざるを知るべし。
されば米国人などは、一個人の
殺害せられたるために三十五万
弗の金額を要求するごとき
不法の
沙汰は
未だかつて聞かざるところなり、
砲撃云々は全く
虚喝に
過ぎざれば断じてその要求を
拒絶すべし、たといこれを
拒絶するも
真実国と国との
開戦に
至らざるは
請合いなりとて
頻りに
拒絶論を
唱えたれども、幕府の当局者は彼の
権幕に
恐怖して
直に
償金を
払い
渡したり。
この時、
更らに
奇怪なりしは仏国公使の
挙動にして
本来その事件には全く
関係なきにかかわらず、公然書面を政府に
差出し、政府もし英国の要求を
聞入れざるにおいては仏国は英と同盟して
直に
開戦に
及ぶべしと
迫りたるがごとき、
孰も公使一個の
考にして決して本国政府の
命令に出でたるものと見るべからず。
彼の下ノ関
砲撃事件のごときも、各公使が
臨機の
計いにして、深き考ありしに非ず。
現に後日、彼の砲撃に
与りたる
或る米国士官の
実話に、彼の時は他国の軍艦が
行かんとするゆえ
強いて同行したるまでにて、
恰も
銃猟にても
誘われたる
積りなりしと語りたることあり。以てその事情を知るべし。
右のごとき
始末にして、外国政府が日本の内乱に
乗じ
兵力を用いて
大に
干渉を試みんとするの
意志を
懐きたるなど
到底思いも寄らざるところなれども、
当時外国人にも
自から種々の説を
唱えたるものなきにあらずというその
次第は、たとえば幕府にて始めに
使節を米国に
遣わしたるとき、彼の軍艦
咸臨丸に
便乗したるが、米国のカピテン・ブルックは帰国の後、たまたま南北戦争の起るに
遇うて南軍に属し、一種の
弾丸を
発明しこれを使用してしばしば戦功を
現わせしが、戦後その身の
閑なるがために
所謂脾肉の
嘆に
堪えず、
折柄渡来したる日本人に対し、もしも日本政府にて
余を
雇入れ
彼の
若年寄の
屋敷のごとき
邸宅に居るを得せしめなば
別に
金は望まず、日本に
行て政府のために
尽力したしと
真面目に語りたることあり。
また維新の際にも
或る米人のごとき、もしも政府において五十万
弗を
支出せんには三
隻の船を
造りこれに水雷を
装置して
敵に当るべし、西国大名のごときこれを
粉韲[#ルビの「ふんさい」は底本では「ふんせい」]する
容易のみとて
頻りに
勧説したるものあり。
蓋し当時南北戦争
漸く
止み、その
戦争に従事したる
壮年血気の
輩は
無聊に苦しみたる
折柄なれば、米人には
自からこの
種の
輩多かりしといえども、
或はその他の外国人にも
同様の者ありしならん。この輩のごときは、かかる
多事紛雑の際に何か
一と
仕事して
恰も一杯の酒を
贏ち
得れば
自からこれを
愉快とするものにして、ただ当人
銘々の
好事心より出でたるに過ぎず。五十万
円を以て三隻の
水雷船を造り、以て敵を
鏖にすべしなど真に一
場の
戯言に
似たれども、
何れの時代にもかくのごとき
奇談は珍らしからず。
現に
日清戦争の時にも、種々の
計を
献じて支那政府の
採用を求めたる外国人ありしは、その頃の
新聞紙に見えて世人の
記憶するところならん。当時或る洋学者の家などにはこの種の外国人が
頻りに
来訪して、前記のごとき
計画を説き政府に
取次を求めたるもの一にして
足らざりしかども、ただこれを
聞流して
取合わざりしという。もしもかかる
事実を以て外国人に
云々の
企ありなど認むるものもあらんには大なる
間違にして、
干渉の危険のごとき、いやしくも時の事情を
知るものの
何人も認めざりしところなり。
されば
王政維新の後、新政府にては各国公使を大阪に
召集し政府
革命の事を告げて各国の
承認を求めたるに、
素より
異議あるべきにあらず、いずれも同意を
表したる中に、仏国公使の答は徳川政府に対しては陸軍の
編制その他の事に関し少なからざる
債権あり、新政府にてこれを引受けらるることなれば、
毛頭差支なしとてその
挨拶甚だ
淡泊なりしという。仏国が
殊に幕府を
庇護するの意なかりし一
証として見るべし。
ついでながら仏公使の
云々したる陸軍の事を
記さんに、徳川の海軍は
蘭人より
伝習したれども、陸軍は仏人に
依頼し一切
仏式を用いていわゆる
三兵なるものを
組織したり。これも
小栗上野介等の
尽力に出でたるものにて、例の
財政困難の場合とて費用の
支出については当局者の
苦心尋常ならざりしにもかかわらず、陸軍の
隊長等は仏国教師の言を
聞き、これも必要なり
彼れも入用なりとて兵器は
勿論、
被服帽子の類に至るまで仏国品を
取寄するの
約束を結びながら、その
都度小栗には
謀らずして
直に
老中の
調印を求めたるに、老中等は事の
要不要を問わず、
乞わるるまま一々
調印したるにぞ、小栗もほとんど
当惑せりという。仏公使が幕府に対するの
債権とはこれ等の
代価を
指したる者なり。
かかる
次第にして小栗等が仏人を
延いて種々
計画したるは
事実なれども、その計画は造船所の設立、陸軍編制等の事にして、
専ら
軍備を整うるの
目的に外ならず。すなわち明治政府において外国の
金を借り、またその人を
雇うて鉄道海軍の事を
計画したると
毫も
異なるところなし。小栗は幕末に生れたりといえども、その
精神気魄純然たる当年の
三河武士なり。徳川の
存する限りは一日にてもその
事うるところに忠ならんことを
勉め、
鞠躬尽瘁、
終に身を以てこれに
殉じたるものなり。外国の力を
仮りて政府を
保存せんと
謀りたりとの
評の
如きは、
決して
甘受せざるところならん。
今
仮りに一歩を
譲り、幕末に
際して
外国干渉の
憂ありしとせんか、その
機会は
官軍東下、徳川
顛覆の場合にあらずして、むしろ
長州征伐の時にありしならん。長州征伐は幕府
創立以来の
大騒動にして、前後数年の
久しきにわたり
目的を達するを得ず、徳川三百年の
積威はこれがために
失墜し、大名中にもこれより
幕命を聞かざるものあるに至りし
始末なれば、
果して外国人に
干渉の意あらんにはこの
機会こそ
逸すべからざるはずなるに、
然るに当時外人の
挙動を見れば、別に
異なりたる
様子もなく、長州
騒動の
沙汰のごとき、一般にこれを
馬耳東風に付し去るの
有様なりき。
すなわち彼等は長州が
勝つも徳川が
負くるも
毫も心に
関せず、心に関するところはただ
利益の一点にして、
或は商人のごときは
兵乱のために
兵器を
売付くるの道を得てひそかに
喜びたるものありしならんといえども、その
隙に
乗じて政治的
干渉を
試みるなど
企てたるものはあるべからず。右のごとく長州の
騒動に対して
痛痒相関せざりしに反し、官軍の東下に
引続き奥羽の
戦争に付き横浜外人中に一方ならぬ
恐惶を起したるその
次第は、中国辺にいかなる
騒乱あるも、ただ
農作を
妨ぐるのみにして、米の
収穫如何は貿易上に関係なしといえども、東北地方は我国の
養蚕地にして、もしもその地方が戦争のために
荒らされて生糸の
輸出断絶する時は、横浜の貿易に非常の
影響を
蒙らざるを得ず、すなわち外人の
恐惶を
催したる
所以にして、彼等の利害上、
内乱に
干渉してますますその騒動を大ならしむるがごとき
思いも
寄らず、ただ一日も
平和回復の
早からんことを望みたるならんのみ。
また
更らに一歩を
進めて
考うれば、日本の内乱に際し外国
干渉の
憂ありとせんには、
王政維新の後に至りてもまた
機会なきにあらず。その機会はすなわち明治十年の
西南戦争なり。当時
薩兵の
勢、
猛烈なりしは
幕末における長州の
比にあらず。政府はほとんど全国の兵を
挙げ、
加うるに文明
精巧の
兵器を以てして
尚お
容易にこれを
鎮圧するを得ず、
攻城野戦凡そ八箇月、わずかに
平定の
功を
奏したれども、戦争中国内の
有様を
察すれば
所在の
不平士族は日夜、
剣を
撫して官軍の
勢、利ならずと見るときは
蹶起直に政府に
抗せんとし、すでにその
用意に
着手したるものもあり。
また
百姓の
輩は
地租改正のために
竹槍席旗の
暴動を
醸したるその
余炎未だ
収まらず、
況んや現に政府の
顕官中にも
竊に不平士族と
気脈を通じて、
蕭牆の
辺に
乱を
企てたる者さえなきに非ず。
形勢の
急なるは、幕末の時に
比して
更らに急なるその
内乱危急の場合に際し、外国人の
挙動は如何というに、
甚だ
平気にして
干渉などの
様子なきのみならず、日本人においても
敵味方共に実際
干渉を
掛念したるものはあるべからず。
或は西南の
騒動は、一個の
臣民たる西郷が
正統の政府に対して
叛乱を
企てたるものに過ぎざれども、
戊辰の
変は京都の政府と江戸の政府と
対立して
恰も両政府の
争なれば、外国人はおのおのその
認むるところの政府に
左袒して
干渉の
端を開くの
恐れありしといわんか。外人の眼を以て
見るときは、
戊辰における
薩長人の
挙動と十年における西郷の挙動と何の
選むところあらんや。
等しく時の政府に
反抗したるものにして、
若しも西郷が
志を得て
実際に新政府を
組織したらんには、これを認むることなお
維新政府を認めたると同様なりしならんのみ。内乱の
性質如何は以て干渉の
有無を
判断するの
標準とするに
足らざるなり。
そもそも幕末の時に当りて
上方の辺に
出没したるいわゆる
勤王有志家の挙動を見れば、家を
焼くものあり人を
殺すものあり、或は
足利三代の
木像の首を
斬りこれを
梟するなど、
乱暴狼籍名状すべからず。その中には多少
時勢に通じたるものもあらんなれども、多数に
無勢、一般の挙動はかくのごとくにして、局外より
眺むるときは、ただこれ
攘夷一偏の
壮士輩と認めざるを得ず。
然らば幕府の内情は
如何というに
攘夷論の
盛なるは当時の
諸藩に
譲らず、
否な徳川を一藩として見れば諸藩中のもっとも
強硬なる
攘夷藩というも可なる
程なれども、ただ
責任の局に
在るが
故に、
止むを得ず外国人に接して
表面に
和親を表したるのみ。内実は
飽くまでも
鎖攘主義にして、ひたすら外人を
遠ざけんとしたるその一例をいえば、
品川に
無益の
砲台など
築きたるその上に、
更らに
兵庫の
和田岬に新砲台の
建築を命じたるその命を受けて
築造に従事せしはすなわち
勝氏にして、その
目的は
固より
攘夷に外ならず。勝氏は
真実の攘夷論者に非ざるべしといえども、
当時の
勢、
止むを得ずして攘夷論を
装いたるものならん。その
事情以て知るべし。
されば
鳥羽伏見の戦争、
次で官軍の東下のごとき、あたかも
攘夷藩と攘夷藩との
衝突にして、たとい徳川が
倒れて薩長がこれに代わるも、
更らに第二の徳川政府を見るに
過ぎざるべしと一般に
予想したるも
無理なき
次第にして、
維新後の
変化は
或は当局者においては
自から
意外に思うところならんに、
然るに勝氏は一身の
働を以て
強いて幕府を
解散し、薩長の
徒に天下を
引渡したるはいかなる
考より出でたるか、今日に至りこれを
弁護するものは、勝氏は当時
外国干渉すなわち国家の
危機に際して、対世界の
見地より
経綸を定めたりなど
云々するも、
果して
当人の
心事を
穿ち得たるや
否や。
もしも勝氏が当時において、
真実外国干渉の
患あるを恐れてかかる
処置に及びたりとすれば、
独り
自から
架空の
想像を
逞うしてこれがために
無益の
挙動を演じたるものというの外なけれども、勝氏は決してかかる
迂濶の人物にあらず。思うに当時
人心激昂の際、敵軍を城下に
引受けながら一戦にも及ばず、徳川三百年の政府を
穏に
解散せんとするは武士道の
変則古今の
珍事にして、これを
断行するには非常の
勇気を要すると共に、
人心を
籠絡してその
激昂を
鎮撫するに
足るの
口実なかるべからず。これすなわち勝氏が特に外交の
危機云々を
絶叫して、その声を大にし以て人の
視聴を
聳動せんと
勉めたる
所以に非ざるか、
竊に
測量するところなれども、人々の
所見は
自から
異にして
漫に他より
断定するを得ず。
当人の
心事如何は知るに
由なしとするも、
左るにても
惜しむべきは勝氏の
晩節なり。江戸の
開城その事
甚だ
奇にして当局者の
心事は
解すべからずといえども、
兎に
角その
出来上りたる
結果を見れば
大成功と認めざるを得ず。およそ古今の
革命には必ず非常の
惨毒を流すの常にして、
豊臣氏の
末路のごとき人をして
酸鼻に
堪えざらしむるものあり。
然るに幕府の
始末はこれに反し、
穏に政府を
解散して
流血の
禍を
避け、
無辜の人を殺さず、
無用の
財を散ぜず、一方には徳川家の
祀を存し、一方には維新政府の
成立を
容易ならしめたるは、
時勢の
然らしむるところとは申しながら、そもそも勝氏が一身を以て東西の間に
奔走周旋し、内外の
困難に
当り
円滑に事を
纒めたるがためにして、その
苦心の
尋常ならざると、その
功徳の
大なるとは、これを
争う者あるべからず、
明に
認むるところなれども、日本の
武士道を以てすれば
如何にしても
忍ぶべからざるの場合を忍んで、あえてその
奇功を
収めたる以上は、
我事すでに
了れりとし主家の結末と共に
進退を決し、たとい身に
墨染の
衣を
纒わざるも心は全く
浮世の
栄辱を
外にして
片山里に
引籠り静に
余生を送るの
決断に出でたらば、世間においても真実、天下の
為めに一身を
犠牲にしたるその
苦衷苦節を
諒して、一点の
非難を
挟むものなかるべし。
すなわち徳川家が七十万石の
新封を得て
纔にその
祀を存したるの日は勝氏が
断然処決すべきの
時機なりしに、
然るにその決断ここに出でず、あたかも主家を
解散したるその功を
持参金にして、新政府に
嫁し、維新功臣の
末班に列して
爵位の高きに
居り、
俸禄の
豊なるに
安んじ、
得々として
貴顕栄華の
新地位を占めたるは、
独り
三河武士の末流として徳川
累世の
恩義に対し
相済まざるのみならず、
苟も一個の士人たる
徳義操行において天下後世に
申訳あるべからず。
瘠我慢一篇の
精神も
専らここに
疑を存しあえてこれを後世の
輿論に
質さんとしたるものにして、この一点については
論者輩がいかに
千言万語を
重ぬるも
到底弁護の
効はなかるべし。
返す
返すも勝氏のために
惜しまざるを得ざるなり。
蓋し論者のごとき当時の
事情を
詳かにせず、
軽々他人の言に
依て事を
論断したるが
故にその論の全く事実に
反するも
無理ならず。あえて
咎むるに
足らずといえども、これを文字に
記して新聞紙上に
公にするに至りては、
伝えまた伝えて或は世人を
誤るの
掛念なきにあらず。いささか筆を
労して当時の事実を
明にするの
止むべからざる
所以なり。