森の生活――ウォールデン――

WALDEN, OR LIFE IN THE WOODS

ソーロー Henry David Thoreau

神吉三郎訳




訳者のことば


 ソーロー Thoreau の『ウォールデン―森の生活』(Walden, or Life in the Woods)はアメリカの代表的古典の一つである。そのうちに盛られた精神は今日われわれの耳目にふれてつくられるアメリカという概念からはだいぶ懸けはなれているように見えるが、実はその基盤によこたわる大きな要素の一つであって、こういう要素を見落としてはわれわれのアメリカという概念には重大な欠陥がのこされるであろう。この書物はまた人類共通の古典である。このように自然と人事とを見、感じ、考え、生きた人の誠実で刻銘な記録は世界の人間の絶えざる反省と刺戟しげきと慰めとの源であらねばならない。現代人は追いたてられるような足どりで、思いつめた眼つきでどこにくつもりであろうか。われわれは「簡素な生活、高き想い」の実践者ソーローとともに sober(しらふ)になり、単純に考え、大地に足をつけた生き方をする必要がありはしないか。もちろん、彼の時代と環境とはわれわれのそれではなく、そのままの形で学ぶことはできないが。
 ソーローは一八四五年七月四日(米国独立祭の日)に自分の住んでいたコンコードの町から南方一マイル半のウォールデン池のほとりの森のなかの、自分の手で建てた小屋に移って二年と二カ月間独り暮しをした。『ウォールデン』はその生活報告である。内容は、その動機、どうしてその小屋を建てたか、畠作り、湖水と森の四季のうつりかわり、そのあたりの植物や動物の生態の描写、そこを訪れる、あるいはそこからソーローが出かけていった隣人たちの叙述、そういう静かな環境における読書と思索、その他、である。
 ソーローはこの二年あまりの独居のあいだに、先年兄のジョンとともに舟遊びしたときの記録『コンコード河とメリマック河の一週間』の原稿をまとめ――これは一八四九年に自費出版されたが、大部分しょい込みとなった――『ウォールデン』の原稿の大部分を書き、森を出てのちさらに筆を加えて一八五四年に世に問うたが、この方は相当よく売れた、そして著者の死後も年を逐うて真価をみとめられ、今ではアメリカ文学の古典の一つとしての地位を確立した。
 著者ソーローは禁欲的な求道者であるとともにたくましい享楽家である。彼の禁欲的な簡素な生活は十二分の享受のための前提であり準備である。彼が朝の清澄な気分をコーヒーや茶で不純にすることを欲せず、もちろん飲酒喫煙せず、肉食をさけて米や粗末なパンや木の実を好んで食べ、恋愛せず、家庭的覊絆きはんをもたず、最小限の生活をささえる以上の肉体労働をしなかったのは、曇りのない眼と清純な感覚とをもって自然と人生の真趣を心ゆくばかり味わわんがためであった。が、彼は消極的に花鳥風月をたのしむ風流人ではなく、魚を釣り、水鳥を追いまわし、兎やリスに餌をやるまめな人間である。また湖水に測鉛を投じ、氷の厚さに物指しをあて、携帯望遠鏡で動物の瞬間的生態をとらえんとする科学者でもある。特に珍重すべきは彼が風景や動植物についてもつ異常に鋭敏な詩的感受性と表現力である。それによって彼はあるいは青空に溶けこむほどうつくしく霊妙な、あるいはずっしりと重みのある変に生ま生ましい、幾つかの、否、幾十かの不朽な心象を創造した。やや注意ぶかくこの書を読む人は、しばしばそれに行きあたり、長くとどまる感銘を心に投ぜられるであろう。ただし彼は効果を考えて過不足のないタッチを按配する器用な芸術家ではない。また彼の着想とその展開とは必ずしも作家が普通に持ちあわせ、読者が待ちもうける溝に沿うては流れない。彼は独断と誇張と飛躍とをはばからず、独りよがりや野狐禅的やこぜんてき口吻こうふんと受けとられがちなものをも挙揚する。そこにある程度まで晦渋かいじゅうと抵抗とがまぬがれがたく、甘脆かんぜい軽快な読物にのみ慣れた読者には取りつきにくい点がなくもない。けれども小さな完成を必ずしもこいねがわず、かりそめの成敗を多く意に介せず、正直と真面目さから来る独創を珍重する読者はこの書物から多くの示唆と収穫とをうるにちがいない。
 彼の友であり彼の伝記を書いた詩人チャニングが評したように、彼は「詩人博物学者」である。自然は彼にとっては冷やかな非情物ではなく、人生と二にして一である。彼にあってはウォールデンの湖水や森が有情うじょうであるばかりでなく、そこに住むいろいろな小動物や植物も人間のさまざまな性格と運命とを反映する。それは人間の本質を、いわば芸術的デフォルマシオンによって一層立体的に一層自由に、時には怪奇とおもわれるまで生き生きと表現する。「彼は人事に向けて自然という鏡を掲げた」と評される所以ゆえんである。逆に、人事に対する切実な関心を背景として森の花は最もうるわしく匂い、月光は一段と清く湖底に澄みとおる。「喜びと悲しみは自然を最も美しく照らし出す光である」と彼自身がいっているとおり。
 けれどもソーローの同感の振幅は、すべての天才のそれも免れないごとく、限られている。彼はあまりに健全すぎ正気すぎ弱味がなさすぎる。この書もまた、一つの告白文学にちがいないのだが、ここには人生の荊棘けいきょくに血を流しうめく声のかわりに、ハックルベリーのの饗宴に充ち足り、想いをガンジスの悠久な流れにはせる、自信にみちた独白がある。あるのは涙ではなくせいぜいほのかな詠嘆である。けれども多くの文学が繊弱なもの病的なものの強調に偏しているほどにはソーローはその逆の方向に偏してはいまい。訳者は特に、文学に親しむ若い人々が人生について思いちがいをしないために、ソーローの好んで吹く笛の、別な調べに耳を傾けることを勧めたい。

 次に、読者の参考のために彼の生涯を一瞥いちべつしてみよう。ヘンリー・デーヴィッド・ソーロー Henry David Thoreau は一八一七年七月十二日アメリカ合衆国の東北部、マサチュセッツ州のコンコード(ボストンの西北二十マイル)の町で生まれた。コンコードの町がエマスンを中心に哲学者オールコット(『四人の少女』を書いたルイザ・メーの父)、小説家ホーソーン、詩人エレリー・チャニング、女流文学者マーガレット・フラー等によってアメリカで最も文学的連想に富む土地となったことはいうまでもないが、ソーローはそういう仲間のうちにあってこの土地をその著作によって不朽ならしめるに最も有力な人物となったのである。父ジョンはフランス人系統であったがむしろ遅鈍なほど実直なたちで鉛筆製造に精を出し、母シンシアは快活でおしゃべりであった。二人の間には男二人女二人の子が生まれた。次男のヘンリーはコンコードの学校を終えて一八三三年にボストン郊外のハーヴァード大学(当時のケムブリッジ大学)に入学し、四年の課程をふんで卒業した。ギリシャ・ラテンの古典にすぐれ、英国の詩人をよく読んでいたが、与えられた課目をまんべんなく勉強する気がなかったので卒業の成績は優秀とはいかなかった。幼少時代の環境からして自然についての知識に富み、その方面の書物も好んで読んでいた。一方東洋思想に強く引かれるようになり、インドの経典や古詩、孔子や孟子などの言説も翻訳によって読み、そこからの引用や言及は彼の著書にしばしば見られる。
 大学を出てから十年ばかりのあいだに、一時、コンコードの学校の教師をしたが、生徒に体罰を加えることに反対し、当局者と意見が合わず辞職した。世間の眼から見ればいわゆるぶらぶらしていたその頃の彼についてエマスンはこういっている、「彼は決して怠惰でも放縦でもなく、長期の職業にしばられるかわりに、金が入用になると、小舟やさくをつくること、植樹、接ぎ木、測量のような何か短期の肉体労働の仕事でそれをた。剛健な習慣と簡素な欲望、森に明るい知識、たくましい算数能力をもっている彼は世界のどこに行っても困ることはなかった。」
 こういう簡素な生活をしながら読書と思索によって自分を成長させることに専念し、その副産物として良書を書いて後世にのこすことを目的とした。一八三七年頃からけはじめた尨大ぼうだいな量にのぼる彼の日記はその素材であり習作でもあった。詩作も試みたが、この方は大成しなかった。一八三九年には自分たちの手で作った小舟によって兄のジョンとともにコンコード河からメリマック河にいたる一週間の舟遊びをし、後に『コンコード河とメリマック河の一週間』という題で出版した。二歳年長のこの兄を彼はたいへん敬愛し、それが破傷風のために一八四二年に若くして死んだのちも追慕の情は永く彼の心にのこった。ヘンリーがある少女に心をかれたとき、兄もまた彼女を愛しているのに気がついてだまって断念したという挿話もある。一八四一年にエマスンの家に二年間ばかり寄寓した。エマスンから受けた感化はさすがに大きく、「鼻までエマスンに似てきた」という悪口をいった者もあるが、ソーローにはやはり曲げがたい個性があり、またエマスンには見られない天賦もあったことはいうまでもない。その頃はエマスンを助けて超絶主義者 Transcendentalists(エマスン一派の理想主義的傾向の人々)の機関誌『ダイアル』Dial の編集に従事し自分もそれに寄稿した。
 一八四三年にはエマスンの家を辞してニューヨークに出て、家庭教師をし、また出版者との交渉などをした。個人を没却する大都会の生活は彼の心に染まなかったが、見聞をひろめるには役だった。
 一八四五年から二年二カ月ウォールデンの森に隠棲したことは前に述べた。
 一八四七年に彼がハーヴァードの同級生会の書記に送った、多少おどけた身上報告はその頃の境遇と心境とをかたっている――
「未婚。わたしのは職業だか商売だかわかりません。まだそれに通暁しておらず、どれもこれも研究する前におっぱじめたのです。そのうちの商業的なものはわたしが独力ではじめたのです。一つではなく無数にあります。その怪物の頭のいくつかを挙げてみましょう。わたしは学校教師であり、家庭教師であり、測量士であり、植木職であり、農夫であり、ペンキ屋であり、大工であり、左官であり、日雇い人夫であり、鉛筆製造人であり、紙やすり製造人であり、文筆家であり、時にはへぼ詩人であります。貴君がイオラスの役目を買って出てこれらの怪物の頭のいくつかに熱鉄をあてて焼き落としてくださるならありがたいしあわせです。わたしの現在の仕事は、右のような何でも屋の広告から生じてきそうな註文に応じることです。ただし、当方の気が向いたら、の話です。わたしは、好ましいまたは好ましくない、普通に仕事ないし勤労と呼ばれているものをせずに生きる道を発見したので、必ずしもそれに飛びつかないのです。実のところ、わたしの主な仕事――それが仕事といえるなら――はわたし自身をわたしの諸条件の上にえて、天地間に起こるあらゆる事態に即応できるように常にしておくことです。この二、三年、わたしはコンコードの森のなかで、どの隣人からも一マイル以上離れて、全く独力で作った家で独り暮しをしました。
 二伸――クラスの諸兄がわたしを慈善の対象とお考えにならないようにねがいます。また、どなたかが何か金銭的援助を必要とし、事情をお知らせになるならば、わたしはその方に金銭以上の価値のある助言を進呈することをお約束します。」
 一八四六年以後数回彼はメーン州の森林地方に遊び、その収穫は死後『メーンの森』の一巻となった。一八四九年には大西洋に突き出た砂の多いコッド岬をおとずれ、一八五〇年には詩人チャニングとともに一週間をカナダで過ごしたが、雑誌に寄稿されたその折々の紀行は死後にまとめられてそれぞれ『コッド岬』と『カナダにおけるヤンキー』の二巻となった。
 一八五四年に出版された『ウォールデン』の成功は彼に経済的余裕と名声とをあたえ、講演の依頼も多くなり、肉体労働の必要もほとんどなくなった。またそのおかげで幾人かの友人も獲たが英国人トマス・チャムリーもその一人であった。
 一八五六年にはオールコットとともにブルックリンに出かけウォールト・ホイットマンに会った。ホイットマンは最大の民主主義者であると思う、と感服し、その詩集『草の葉』は近来にない、ためになる本であった、といったが、そのうちに見られる肉欲主義には少々当惑の口吻をもらしている。エマスンはソーローに感銘をあたえた三人の人物としてトム・ブラウン大尉とメーン旅行におけるインディアンの案内者ジョー・ポリスとホイットマンを挙げている。
 彼は頑健であったが登山・野営等の無理がたたったせいもあり、一八五五年頃から不健康になり、六〇年十二月にひどい感冒にかかり、ついに肺病になった。翌年には保養の意味でミシシッピ河地方に旅行したが、効果ははかばかしくなかった。
 彼は一八六二年五月六日に死んだ。南北戦争(一八六一―六四年)の二年目であり、「自分は国のため心も病み、」「戦争がつづくかぎり快くならないだろう」といった。
 オールコットは死期に近い彼の病床について書いている、「彼は日一日と弱り、明らかに、われわれの眼から消えかかっている。少しは眠れ、食欲もあり、時々本を読み、読んだことの書き込みをし、友だちに会うことを好むが、衰弱のために声までれ、会話がしにくい。……森も野も黒ではなく雪白の憂いの服をまとっている。それらが長いこと知ってきた、そしてまもなく失うにちがいない敬虔と誠実の人のためにこの装いはふさわしいものであった。」生の彼岸のことを問うた訪問者に彼は「一度には一つの世界」と答え、「神と和解したか」との問に対しては「彼とけんかしたことはない」と答えた。死期の近いのを悟って彼はいった、「わたしは喜んで土をいだくことができるだろう。わたしはそのなかに埋められることを喜ぶだろう。そのときにわたしは、口ではそれといわないがわたしが愛していることを思い知るであろう人々のことを考えるのだ。」

 ソーローの時代においては汽車・汽船・電話などが実用に供せられ、アメリカは西部にむかって大発展の途上にあり、物質文明は栄えたが一方、都市・農村における生活難も深刻なものがあった。ソーローの平和なウォールデン生活中にも奴隷問題にからんでメキシコとの戦争があり(一八四六―四七年)、彼の死んだのは南北戦争の最中であった。誠実な魂をもった彼が時代のうごきに無関心でいられなかったのはいうまでもない。
 戦争と奴隷とを支持する政府のために税金を出すことをこばみ、また、奴隷解放のために殉じたトム・ブラウン大尉の弁護のために熱弁をふるったソーローの一面は本文庫の富田彬氏訳『市民としての反抗』について知られたい。

 本書にはすでに明治年間に水島耕一郎氏の『森林生活』という訳があり、その後三種ぐらいの訳もあるが、なお新訳を試みる余地があると考えて訳してみた。「英文学叢書」中の篠田錦策氏の註によって益するところが多かった。翻訳原本には Houghton Mifflin 出版の全集 The Concord Edition を用いた。
一九五一年五月
訳者
[#改丁]


経済


 以下のページの大部分を書いたのは、わたしがマサチュセッツ州のコンコードの森のなかで、いちばん近い隣人が一マイルもはなれているウォールデンの池のほとりに自分で建てた家に住み、自分の手による労働だけにたよって生活のしろをえていた時のことであった。わたしはそこで二年と二カ月くらした。現在はふたたび文明社会にもどっている。
 もしわたしの生活ぶりについて町の人たちが御念の入った詮索だてをしなかったならば、わたしは自分一個のことを読者諸君の注意に押しつけるようなことはしないだろう。一部の人はわたしのしたことをことさら奇をこのむものであるというかもしれないが、わたしとしては当時の事情に照らして極めて自然であり、素直なことであったと思えるのである。ある人は、何を食っていたのか、とか、淋しくはなかったか、とか、こわくはなかったか、とか、いうようなことをいた。ある人は、わたしが収入の幾割を慈善のためにささげたかを知りたがった。大きな家族をかかえている人は、幾人のあわれな子どもをわたしが養ったかを聞きたがった。こういうわけで、わたしはわたし自身について格別の関心をもたない読者も、わたしがこの本のなかでこれらの質問の若干を答えようとするのを寛恕かんじょしていただきたい。たいがいの書物では※(始め二重山括弧、1-1-52)わたし※(終わり二重山括弧、1-1-53)という第一人称は抜きにされている。ところがこの本ではそれがあくまで維持される。自我に関するその点が、大いに異なっているのである。われわれはふつう、話をするものは結局第一人称であることを忘れている。もしわたしがわたし自身とおなじぐらい善く知っている人間が世の中にいたならば、わたしはこれほどまでわたし自身のことを語りはしないだろう。不幸にしてわたしは経験がせまいためにこの主題にのみ限られてしまうのである。のみならず、わたし自身もすべて物を書く人間に、第一に、そして結局、彼自身の生活の単純で正直な叙述を求め、単に彼が他人の生活について聞いたことを求めないのである。たとえていえば、彼が遠方の土地から親類に書き送る消息のようなものを求めるのである。もし彼が誠実に生活したのならばそれはかならずやわたしにとって遠方の土地のように珍しいものになったにちがいないからである。多分わたしがここに書くものは特に貧乏な学徒に呼びかけたものが多いであろう。そうでない読者は自分たちにあてはまる部分を受けいれてくれるだろう。だれだって上衣を無理に引っぱってわが身に合わせるようなことはしないことと信じる――それが合う人間には十分役にたつのだから。
 わたしは中国人やサンドウィッチ島人ではなく、主としてニューイングランド〔メーン、ニュー・ハンプシア、ヴァーモント、マサチュセッツ、ロード・アイランド、コネティカットの合衆国東北部の六州〕に住んでいると聞く、わたしの書くものを読む諸君に関して、何事かを語りたい。諸君の現状について、特に諸君の外的状態、すなわちこの世界、この町における事情について――それが何であるか、それが現実にあるごとくみじめである必要があるのかどうか、もっと改善できないものなのかどうかを。わたしはコンコードをずいぶん歩きまわったが、店にしろ事務所にしろ畠にしろ、いたるところで、住民は百千の著しいやり方で苦行をしているように思えた。バラモン教徒について聞いた話で、四方に火を燃やしたなかにすわって太陽とにらみっこするとか、炎の上に頭を下にしてわが身をつるすとか、首をあおむけて天をじっと見つめ「ついには元の自然の姿勢にもどることができなくなり、首がよじれたために液体のほかはのどを通らなくなってしまう」とか、生涯、一本の樹の下にゆわえつけられてすごすとか、芋虫のように広い王国を這ってあるくとか、柱の頂きに一本脚で立っているとか、いう――そういった我からすすんでする苦行の姿でさえ、わたしが日々に目にする光景ほど信じがたく、驚くべきものではほとんどありえない。ヘラクレスの十二の仕事は、わたしの隣人たちがくわだてているそれらにくらべると易々やすやすたるものである。前者は十二だけであって、やがて終わりになる。しかし、わたしはこれらの人々が怪物を退治するとか生けどりにするとか、どれかの仕事をしとげるとかいうのを見ることができなかった。かれらには九つの首をもったヒドラの首の根を熱した鉄棒で焼き落としてくれるイオラスのような味方がおらず、一つの首をたたきつぶすと、たちまち二つの首がえてくるのである。
 わたしは不幸にも畠だの家だの納屋だの家畜だの農具だのを相続したこの町の若い人々を見る。そういうものは実は、手に入れるよりも、それから免れる方がむずかしいのである。彼がそこで働くべくどのような原に呼びいれられたのかを、もっと曇りのない眼で見ることができるように、かれらは広い牧草地の真ん中で生まれ狼の乳でやしなわれた方がよかったのに。誰がかれらを土の農奴としたのか? 人間は誰もかれも一斗の塵を食う苦しみをしのばなければならぬという諺はあるが、なぜ六十エーカー〔一エーカーは約四千平方メートル〕の土地をかかえこんで食わねばならないのか? なぜ生まれるとから、早速自分の墓掘りに取りかからねばならないのか? 彼等はこういうものをうんうん押しながら人間の生活をし、何とかやっていかなければならないのだ。その重荷の下でほとんど圧しつぶされ息がつまってしまった、いくつのあわれな永遠の魂にわたしは出会ったことか!――たて七十五フィート、よこ四十フィートの納屋――そのオージーアスの牛小屋の掃除〔ヘラクレスの十二の仕事の一つ〕はいつまでたっても片づかない――と、耕地・牧草地・森林地をこめて百エーカーの土地をうんうん押しながら、人生の道をとぼとぼたどりつつ。そんな不必要な世襲の荷厄介にわずらわされない、何の分け前もあたえられない人間でも幾立方フィートかのこの肉体を治め、耕やすだけにずいぶん骨が折れるのに。
 が、人間は思いちがいをして苦しんでいるのだ。人間の肉体の大部分はそのうちに土のなかにきこまれ、それを肥やすだけである。通常、必然と呼ばれる、運命と見えるものによってかれらは、古い書物にあるとおり、蠧魚しみ喰いびくさり盗人ぬすびとうがちてもち去る財宝をたくわえることに従事しているのである。それは最後まで到達してみれば――その前にではないにしても――わかるとおり愚か者の生涯である。デウカリオンとピュラは頭ごしに石ころをうしろに投げることによって人間を造りだしたといわれる――

“Inde genus durum sumus, experiensque laborum,
Et documenta damus qu※(サーカムフレックスアクセント付きA小文字) simus origine nati.”(Ovid: Metamorphoses

 ローレイ〔サー・ウォルター・ローレイ、一五五二―一六一八年、英国の軍人で政治家で詩人〕はこれを彼の調べ高い韻文でこう訳している――

「それゆえにわれらのうからは苦しみとなやみとに堪える堅き心をもつ
われらの肉体が石の質なることをあかししつつ。」

 頭ごしにうしろに石を投げて、それがどこに落ちるかを見ようとしない、あやまれる託宣への盲目的な服従についてはこれ以上述べまい。
 たいがいの人間は、比較的自由なこの国においてさえ、単なる無知と誤解とからして、人生の人為的な苦労とよけいな原始的な労働とに忙殺されて、その最もうつくしい果実をもぐことができないのである。かれらの指は過度の労働のため、それをするにはあまりに無骨にあまりにふるえるのである。じっさい労働する人間は毎日真の独立のための閑暇をもたない、彼は他人に対して最も男らしい関係を維持する余裕がない、そんなことをしていては彼の労働は市場で価値が下落するであろう。しょっちゅう、なけなしの知慧をしぼっていなければならない人間が、どうして自分の無知をしかと覚えていること――それが彼の成長のために必要なのだが――ができようか? 彼は機械以外の何物かになる時をもたない。われわれは彼を裁くまえに、時には無償で食と衣とをあたえ、われわれの強壮剤によって彼を元気づけなくてはいけない。われわれの天性のいちばんみごとな果実は、くだものの表面に生じるのように、最も入念なあつかいによってのみ保存できるのである。しかしわれわれは自身をもお互いをもそれほどのおもいやりをもってあつかわない。
 諸君のある者は――われわれはよく知っている――貧乏であり、生活になやみ、時としてはいわばふうふうあえいでいる。この書物を読む諸君のある者は――わたしはうたがわない――諸君が実際食ったすべての食事、または急速にすり切れていく、あるいは既にすり切れた上衣や靴の代価を支払うことができず、諸君の債権者からひと時を不当にうばって、借り、もしくは盗んだ時間をすごすためにこのページまでやってきたのであろう。わたしの眼は経験によって鋭くなったので、諸君の多くがいかに賤しい、こそこそした生活をしているかがはっきりわかる。仕事にもぐりこもうとあせっているとか、借金からぬけ出そうともがいているとか、しょっちゅうきわどいところに立っている。借金はずいぶん昔からの泥沼で、ラテン人たちはこれを aes alienum「他人の真鍮しんちゅう」という。かれらの貨幣のあるものは真鍮でできていたからである。つまり、この他人の真鍮によって常に生き、死に、葬られるのである。常に借金を返す約束をしつつ――明日は返すことを約束しつつ、今日支払不能のまま死んでいくのである。他人の歓心を買おうと、愛顧を獲ようと、あらゆる手段をつくし、ただ国法にふれることだけまぬがれているのである。嘘をつき、おべっかをいい、投票をし、自分をいんぎんのかたまりにちぢめ、薄い、霞のような人の良さにまで稀薄にし、それによって他人にその靴なり帽子なり、上衣なり、馬車なりを作らせてもらい、あるいはその雑貨を輸入させてもらおうとする。病気の日にそなえてなにがしかを貯えようがために病気になる、古い箪笥たんすに、壁のうらの靴下の中に、またもっと安全な場所として煉瓦建ての銀行に、――場所はどこにもせよ、額は多かれ少なかれ、何かしらを貯えようとして。
 わたしは時々、われわれが黒人奴隷と呼ばれる野蛮だが幾分縁どおい形の隷従制度に気をつかうなんて、酔興といっていいほどなことがよくできるといぶかしく思うことがある。北部と南部と両方ともを奴隷にする、するどく辣腕らつわんな親方がそんなに多くいるのに。南部の親方をいただくことはつらいことであるが、北部のそれをもつことは一層わるい。しかし諸君自身が諸君を奴隷に追いつかうのは最もわるい。人間のなかの神性を語るなかれ! 昼間または夜、市場におもむく街道の家畜馭者を見てみたまえ、どんな神性が彼のうちにうごいているか? 彼の最高の義務は自分の馬にまぐさをあたえ水を飲ますことだ! 海運業の景気のよしあしにくらべると自分の運命などは物の数でなくなるのだ。彼は花形殿どののために馬車を駆っているのではないか? どれだけ神のごとく、どれだけ不朽で彼はあるのか? 不朽でもなく神のごとくでもなく、自分に対する自分自身の評価、自分自身の行為によって獲られた評判の奴隷であり囚人であるにすぎず、いかに彼がちぢこまりこそこそあるくかを、いかに終日何ともつかずびくびくしているかを見たまえ。世間の評判はわれわれ自身のひそかな評価にくらべればまだしも弱い暴君である。人が自分自身を何と考えるか――彼の運命を決する、いや、むしろ、示すものはそれである。空想と想像上の西インド地方においてさえ自己解放は容易でない――それを実現するどのようなウィルバーフォース〔ウィリアム・ウィルバーフォース、一七五九―一八三三年、英国の奴隷解放主義者〕がそこにおるか? また、自分たちの運命に対するあまりに生々なまなましい関心を人にかくそうと、最後の審判の日をひかえて背掛けクッションを織っている地主の婦人たちのことを考えて見たまえ! 彼女たちは永遠を傷つけることなしに時間を空費することができるとでも思っているのか。
 大衆は静かな絶望の生活をおくっている。いわゆるあきらめと確かめられた絶望である。絶望した町から諸君は絶望した田舎に行く、そしてミンク麝香鼠マスクラットとの勇気をもって自ら慰めなければならない。型にはまった、無意識の絶望は人類の遊技とか娯楽とかいわれているものの下にさえ隠されている。それらのうちには真のたのしさはない、たのしさは仕事の後に来るものだから。だが、絶望的な事をしないのが知慧の特色の一つである。
 われわれが、宗教問答の言葉を借りていえば、何が人間の主要目的であるか、何が生活の真の必要物と手段とであるかを考えてみれば、人間は熟慮の上で、かれらが他のものよりはそれを好んだから、今日普通の生活方式をえらんだもののごとく思われる。ところが彼は正直のところ他に選択の余地がのこっていないと考えている。しかし慧敏けいびんで健康な資質の人間は太陽が明らかにのぼったことを忘れない。われらの偏見をすてるにはおそすぎるということはない。いかに古くからあるものでもすべての思考と行為との方式は証拠なしには信頼できない。今日万人が口真似し黙って通用させるところのことが明日は誤りであることがわかり、ある人々が自分たちの畠をうるおす雲だとばかり信じていたものが単なる煙のような意見であることもある。昔の人ができないといったことを諸君がやってみて、できるのを発見することもある。昔の人には昔の仕事、新しい人には新しい仕事があるべきだ。昔の人はおそらくかつては火を燃やすため燃料をもってくることを知らなかったろう。今の人は釜の下に少しばかりの乾いた炭を置いて、いわゆる昔者のきもをつぶさすようなやり方で飛ぶ鳥のようなスピードで地球のまわりを馳せまわる。教師として老人は青年より一層適格ではなく、それと同じ程度にも達しがたい。かれらは失ったものだけ獲得していないからである。人は、最も賢明な人間でも生きることによって絶対的価値のある何事かを果して学んだかどうかほとんど疑ってよろしい。実際的には老人は若いものにあたえるべき何の極めて重要な助言ももっていない。かれら自身の経験はそんなに局部的であり、かれらの生涯は、それぞれ内輪の理由があって(かれらはそう思いこんでいるのである)惨澹たる失敗であったのである。そしてそれは彼がその経験を非とするいくぶんかの誠実を残しもっており、昔ほど若くはないというだけのことなのかもしれない。わたしはこの地上に三十年ばかり生きているが、先輩から価値のある助言、いや真剣さをもっているだけの助言さえ、まだひとことも聞いたことがない。かれらは役にたつ何事かを告げてくれたことがなく、たぶんそうすることができないのであろう。ここに人生がある――それは大部分わたしにとってこころみられたことのない実験である。しかしかれらがそれをこころみたということはわたしには何の益にもならないのだ。もしわたしが自分で価値があると思う経験をするとしても、必ずわたしはわたしの助言者たちがそれについて何にも語ってくれなかったと思いあたることだろう。
 ある農夫はわたしにいう、「人間は植物性の食物だけでは生きていけませんよ、それでは骨を作る土台をあたえてくれませんからね。」そこで彼は自分のからだに骨の原料を供給するために一日の一部分を後生大事ごしょうだいじにささげる。しかも現にそうしゃべりながら自分の牡牛のあとを追って歩いているのだが、その牡牛は植物でできあがったその骨で、彼と彼のガタガタする犁車すきぐるまを、あらゆる邪魔物をおしのけて引っぱっていくことができるのである。ごく無気力なある社会ではある種の物が真に生活の必需品であるが、それはほかの社会では単に贅沢品ぜいたくひんであり、また別の社会ではまるっきり知られてさえいないのだ。
 人間の生活の全領域はすでに先人によってその峯も谷もきわめられ、何から何まで手当てずみであるかのように思う人もある。イーヴリンの述べているところによれば、「賢いソロモン王は木と木との距離までさだめる勅令を出した。ローマの奉行は、人は何回まで隣人の土地に立ち入ってそこにおちているドングリを拾ってさしつかえないか、そのうち幾割がその隣人のものとなるべきかを規定した。」ヒポクラテスは爪の切りかたについての指図までのこしている。指のはじっこまで長すぎても短かすぎてもいけないのである。人生の変化とよろこびとをつかいつくしてしまったと考える退屈と倦怠そのものはうたがいもなくアダム以来の古いものである。しかし人間の能力は決して計算ずみではない。またわれわれはどれかの前例によってそれの能力を判断すべきではない。まだ試みられた部分はいかにも少ないのである。今までの失敗がどれほどのものであろうと、「おそるるなかれ、わが子よ、何となればなんじがなさずのこすものを何ぴとがさだめ得ん」である。
 われわれはわれわれの生活を百千の簡単な試みによってためすことができる。たとえば、わたしの豆をれさせるその同じ太陽は同時にこの地球に似た一団の遊星を照らす。もしこのことを忘れずにいたら、幾つかの誤りをふせぐことができたであろう。この日の光りはわたしがその畠の草取りをしたときの光りではない。星は何というすばらしい三角形の頂点であることか! 宇宙のいくつもの宮居みやいの、何という遠い、そして相異なる者が同じ瞬間に同じものを眺めていることだろう! 自然と人間の生活とはわれわれの体質が異なっているとおり相異なっている。人生が他人にどんな展望を提供するかを誰が語ることができよう? われわれが一瞬たりとお互いの眼をとおして見抜くというほど大きな奇蹟がありえようか? われわれは一時間のうちに世界のすべての時代のうちに生きなければならない。そうだ、各時代のすべての世界のうちに。歴史、詩、神話!――これほどおどろくべくそして教訓ゆたかな他人の経験を読む方法があろうか。
 わたしの隣人たちが善であると称する大部分のものを、わたしは魂の奥で悪であると信じる。そしてもしわたしが何事かを悔いるとすればおそらくそれはわたしの善行である。あんなに善くふるまうとは何という悪魔がわたしに取りついたのだろう! お爺さん、君は――七十年この世に生き多少の名誉もかち獲た君は――精いっぱいの賢いことをいおうとも、わたしはすべてのそんなものから逃げだすようにさそう抵抗しがたい声を聞く。一つの世代は他の世代を坐礁した船のように見棄てるものだ。
 わたしは、われわれは現にやっているよりずっと多くのことを信頼して天にまかせてさしつかえないと思う。われわれはわれわれ自身に対する心づかいの一部を止めにして、それだけを誠意をもって他のことにそそいでよろしい。自然はわれわれの強みに適応していると同じ程度に弱みに対しても適応しているものだ。ある人々のように絶えまなく心配し緊張しているのは一つのほとんど不治の病気である。われわれはわれわれのしている仕事の重要性を誇張するようにされている。だが、いかに多くのことがわれわれによってなされないでいることか! あるいは、もしわれわれが病気になったとしたらどうなるのか? われわれはいかに見張っていることよ! そうせずにすむならば信頼によって生きるのはよそうというほどの決心だ。一日じゅう警戒をつづけ、夜になると不承不承ふしょうぶしょうお祈りをしてわれわれ自身を不確かさにゆだねる。そんなに徹底的に忠実にわれわれは生きてゆかねばならぬ、――われわれの生活をあがめつつ、変化のおこりうることを否定しつつ。これが唯一のやり方なのだ、とわれわれはいう。ところが実は一つの中心からいくらでも半径が書きうると同様にいくらでも生き方はあるのだ。すべての変化は観じてみれば一つの奇蹟である。しかしそれは各瞬間におこりつつある奇蹟なのだ。孔子はいった、「これを知るを之を知るとなし、知らざるを知らずとなす、これ知れるなり」と。一人の人が想像上の事実を彼の悟性上の事実となしえたとすれば、すべての人間もついにはその生活をこの基礎の上に打ち建てるであろうとわたしは期待する。

 しばらく、われわれは今のべた面倒や心配の大部分が何についてであるか、どれだけわれわれが心を悩ます――少なくとも心づかいをする、必要があるのか考えてみようではないか。外面的文明のただなかにおいてでさえ、原始的な辺疆へんきょう地的な生活をしてみることは多少とも利益のあることである。生活のどんづまりの必要物は何であるか、それをうるためにどんな方法が用いられたかを知るためにだけでも。また昔の商人の売上げ帳をしらべてみることだってためになる。人々が最も普通に店で買ったのは何であるか、かれらが貯えたものは何であるか、――すなわち、どういうものがぎりぎりの日用必需品であるかを知るために。なぜならば、すべての時代を通じての開化も人間の生存の根本的法則にはほとんど影響をおよぼしていないのだから。ちょうど、われわれの骨骼がおそらくわれわれの先祖のそれと区別できないであろうように。
 ※(始め二重山括弧、1-1-52)生活の必要物※(終わり二重山括弧、1-1-53)という言葉によってわたしは、人間がその努力によって獲得するすべての物のうちで、最初から、あるいは長くそれを使用したことから、人間にとって非常に重要となり、野蛮や貧乏や哲理からしてそれなしですまそうとする者が絶無でないまでも極めて少なくなってしまったような、あらゆる物を意味するのだ。多くの動物にとってはこの意味では生活の必要物はただ一つ――食物――だけしかない。それは草原地の野牛バイスンにあっては、口あたりのよい草の幾インチかと飲み水だけである。森のかくれがや山の日蔭を求める場合をのぞいては。動物はすべて食物とかくれが以上のものを要求しない。われわれの気候における人間にとっての生活必要物は、正確にいって、食物・住居・衣服・燃料の各項目にふくめることができる。われわれがそれらを確保しないうちは生活の真の問題に自由と成功の見込みとをもって対処する準備がありえないからである。人間は家だけでなく衣服と料理した食物とを発明した。そしておそらく火のあたたかさを偶然発見したことから、そして同時にそれを使用すること(最初は贅沢として)を知ってから、火のそばに坐るという、現今の必要が生じた。猫や犬でもこれと同じの第二の天性を身につけたのが見られる。適当な住居と衣服とによってわれわれはわれわれの体内の熱を適当に保持する。しかしその程度を越して、燃料をつかうことによって――すなわち、われわれの体内の熱より大きな外部の熱からして料理というものがはじまったのだといえないだろうか? 博物学者のダーウィンはティエラ・デル・フエゴの住民についてこういうことを語っている――彼の一行いっこうは十分に着物を着て火のそばに坐りこんでいてちっともあったかすぎるということはないのに、それらの裸の野蛮人はもっと火から遠くはなれているにかかわらず、「そんなにあぶられるのでたらたら汗を流している」のを見て、自分は大いにおどろいた、と。同様に、ニュー・ホランド人は、ヨーロッパ人が着物を着てふるえているのに裸でいてちっとも困らないそうである。これらの野蛮人の頑丈さと文明人の知性とを兼ねそなえることは不可能なことだろうか? リーベッグの言によると、人間のからだはストーヴで、食物は肺のなかの内部燃焼をつづけるための燃料であるそうだ。われわれは寒いときにはより多く食い、暑いときにはより少なく食う。動物としての熱は緩徐な燃焼の結果であり、病気と死はそれがあまりに急速になったときにおこる。あるいは、燃料の欠乏または通風における何かの故障から火が消えたときにおこる。もちろん生命の熱は火と混同されてはならぬ、類推はこれにとどめておこう。すなわち、上に挙げた事項から動物の生命という言葉は、動物の熱という言葉とほとんど同意語であることがわかる。なぜならば、食物はわれわれの体内の火を保持するための燃料と見なされうる――そして燃料はその食物を調理するため、もしくは外部から加えることによってわれわれのからだの熱を増す役をするだけである――が、住居と衣服もこうして発生させられ吸収されたを保持する役をするだけであるからである。
 すなわち、われわれのからだの最大の必要は、あたたかさを保つこと、われわれの内の生命の熱を保つことである。したがってわれわれは食・衣・住ばかりでなく、われわれの寝床についていかに多く苦心することか! 寝床はわれわれの夜着であり、われわれはモグラがその穴のはじに草や木の葉でつくった寝床をもつように、鳥の巣や胸の羽をうばって、この住の内部に在る住をつくるのである。貧しい者はつねに、この世界はつめたい、となげく。そして社会的の意味だけでなく物理的のつめたさにわれわれはわれわれの悩みの大部分を直接に帰するのである。ある気候においては夏は一種の楽園のような生活を人間に可能ならしめる。食物を調理する以外には燃料は不要になるのである。太陽が火の代りをし、多くの果物はその光線によって十分に料理されたと同然になる。食物が一般に一層多種類となり、一層獲やすくなるばかりか、衣と住も全然、あるいは半ば不要となる。今日、この国においては、わたし自身の経験にてらして、二、三の道具・小刀・おの・鋤・手車・その他、それから、勉強する人間には燈火、文房具、二、三の書物を手許てもとにおくことが必要に近くなるが、それらはすべて些細な代価で獲られる。しかるに、ある賢くない人々は、生きんがために――すなわち快適にあたたかくあらんがために――そして最後にニューイングランドで死なんがために、地球の他の側の、野蛮で不健康な地方に出かけていき、十年も二十年も商売のために身をささげる。贅沢に富んでいる人間は、単に快適にあたたかになっているだけではなく、不自然に熱くなっているのだ。前にちょっとほのめかしたようにかれらは料理されているのだ――もちろん当世風に。
 大部分の贅沢は、そして多くのいわゆる人生の慰安物は、人類の向上にとって不可欠でないばかりでなく、積極的な妨害物である。贅沢と慰安に関しては、最も賢い人々はつねに貧乏人よりもっと簡素で乏しい生き方をしてきた。中国人、インド人、ペルシャ人、ギリシャ人などの古代の哲人たちは外的の富においてはこれより貧しい者はなく、内的のそれにおいてはこれより富んだ者はいない階級であった。われわれはかれらについて多くを知らない。今のわれわれがそれだけでも知っていることが不思議なくらいなのである。もっと近代の、人類にとっての改善者・恩恵者たちについても同じことが真実である。われわれが自発的貧乏とよぶべきである有利の地点からして以外には、何ぴとも人間の生活の公平もしくは賢明な観察者であることはできない。贅沢な生活の果実は贅沢である、農業においても商業においても文学においても芸術においても。今日この頃では哲学の教授はいるけれども哲人はいない。しかし、かつては哲学を生きることが敬服すべきことであったが故に、それを教授することも敬服すべきことである。哲人たることは単に精妙な思想をもつことだけでなく、また一派をはじめることでさえなく、知慧を愛するあまりに、その指示にしたがって単純と独立と寛大と信頼との生活を生きることである。それは人生の問題のいくつかを、理論的だけではなく実践的にも解決することである。いわゆるえらい学者や思想家の成功はたいがい宮廷人的の成功であって王者的でもなければ男らしいそれでもない。かれらは単に妥協によってどうにか生きていくのでかれらの先祖たちと実際的にはかわりなく、いかなる意味においても人類のよりけだかい種族の生みの親ではない。ところで、人類は一体どうして堕落していくのだろうか? もろもろの家族を断絶させるものは何であろうか? もろもろの国民を無力にし破壊する贅沢の性質は何であろうか? われわれはわれわれ自身の生活のうちにそれが少しも存在しないと確信できるか? 哲人はその生活の外面的形式においてさえおのが時代より一歩進んでいる。彼はその同時代者と同じようには、食い、住み、着、煖をとらない。哲人であってしかも他人よりまさった方法で彼の生命の熱を保持しないということがありえようか?
 わたしが今述べたようないろいろな方法で人間があたためられたうえで、彼は次に何を欲するか? たしかにそれは同じ種類の一層多くのあたたかさではあるまい。もっと多くのそしてもっとこってりした食物とか、もっと大きなもっとすばらしい家とか、もっときれいな、もっとたくさんの着物とか、もっと多くの、絶えまのない、もっと熱い火とか、いうようなものではあるまい。彼が生活に必要な、そういったものを手に入れたのちには、余分なものをもつこととは別の一方法があるのである。そしてそれは、彼の賤しい労働からの休暇がはじまったのだから、今や人生に対して冒険することである。どうやら土壌は種子に適したものらしい、それは根を下の方におろしたから。そして、それは今や自信をもってその芽を上にのばしてもよさそうだ。なぜ人はそんなにしっかりと地中に根をおろしたのか、それに比例してうえなる天に立ちあがらんがためにほかならないではないか。高等な植物はやがて地上から遠く空気と光りとのなかで、むすぶ果実のゆえにたっとばれ、下級の食用植物が、たとえ二年生のものにもせよ、それらが根を完成してしまうまでしか栽培されず、またしばしばこの目的のために上の方を刈りとられたいていの者がその開花期に見ても見わけがつかない始末であるのとは別なあつかいをうけるものである。
 天国にもせよ地獄にもせよ、自分の事を自分で処理し、自分がいかに生きているかを意識しないで、最も富んでいる者よりもさらにすばらしい家を打ち建て、さらに惜しげなく金をつかって、しかも決して貧乏にならない人間――もしかつて夢想されたようにそういう人間がはたしているものならば――そういう強くたくましい性質の者にわたしは規矩を押しつけようとする気はない。また現在まさにあるがままの事態のうちに鼓舞と霊感とを見出し、恋する人の溺愛と熱中とでそれをいとおしむ人間――そしてわたしはある程度まで自分をその種の一人であるとかんがえている――にもそうする気はない。わたしは、いかなる境遇にもせよ、善い仕事をもっている人々――かれらはそれをもっているかいないかを心得ている――に話しかけるのではない。そうではなくて主として、何とか改善できるのに、ただ不平不満にみち、いたずらに自分の運命または時世の不如意ふにょいをのろっている大多数の人々に話しかけるのである。世には、自分たちは自分たちの義務をつくしていると称して、それ故に、あらゆる不如意に対していかにもやかましく、決して人の慰めをうけつけないで不平をいう者がいる。わたしはまた、あくたがねをあつめてはみたもののその使いみちを知らず、あるいはそれからのがれることも知らず、つまりは自分をつなぐ金銀の鎖を鍛えあげた、あの、一見富んではいるがすべての者のうちで最もはなはだしく貧困な階級も眼中においているのである。
 もしわたしが過去幾年かにわたってわたしがどういうふうにわたしの人生をついやそうとのぞんでいたかを語るとしたら、それはたぶん、わたしの実際の経歴を多少知っている人々をおどろかすであろう。それはたしかに、それをまるで知らない人々を驚倒するであろう。わたしはただわたしが胸にいだいていた企画のいくつかをほのめかすにとどめよう。
 どんな天候においても、夜昼のどの時刻においても、わたしは刹那刹那を改善しようと熱中し、またそれをわたしの心おぼえのための棒切れに刻みつけようとした。わたしは過去と未来という、二つの永遠の出あうところ――それが正に現在の瞬間である――に立とうと、その線を爪さきで踏もうとした。諸君はいくらかのあいまいさをゆるしてくださるだろう。わたしの仕事には世間並みの人のそれよりはより多くの秘密があるのだから。だが、それは故意に隠しだてするのではなくその本質上引きはなして示すことができないのだ。わたしはそれについて知っていることを喜んでのこらず語りたいので、わたしの門に「入るべからず」と書きつける気持は毛頭ないのである。
 むかしわたしは一匹の猟犬と一頭の栗毛の馬と一羽の雉鳩とをうしない、今でもその行方ゆくえをさがしている。ずいぶん多くの旅びとにわたしはその話をし、その足跡と、どう呼んだら答えるかを説明した。わたしはその犬の吠え声を聞き、その馬のひづめの音を聞き、その鳩が雲のかげに消えるのを見さえしたという、一、二の人に出会った。かれらは自分がそれらを失ったかのように、しきりにそれらを取りもどしたがった。
 日の出や夜明けをだけでなく、できることなら、自然そのものをさえ先廻りする! 夏また冬、どんなに多くの朝を、隣人が誰ひとりとしてその仕事に取りかからないうちに、わたしは自分の仕事にかかったことか! たしかに、多くのわたしの町の人――朝まだきにボストンにむかう農夫や仕事に出かける木伐きこり――はわたしがこの仕事から帰ってくるのに出会った。いかにも、太陽がのぼるのをわたしは決して大して手だすけしなかったのは事実であるが、うたがいもなく、ただそれに立ち会うということがこの上なく重要なのであった。
 何と多くの秋の日、そしてまた冬の日が、町のそとでついやされたことだろう――風のうちに何があるかを聞くために、聞いてそれをいそいではこぶために! わたしはすべてのわたしの資本をほとんどつぎこんだ、そしておまけに風にさからって走ることによって息を切らした。もしそれがどっちかの政党に関する事件だったなら、きっとそれは『ガゼット紙』に載せられて最新のニュースをもたらしたことだろう。また時には、崖や木のうえの展望台から見張っていて何か新しいものがやってくるといち早く打電しようとした。あるいは、夕方丘のいただきに立って空が落ちてくるのを待っていた――それをいくらか拾いあげようとして。わたしは一度もたっぷりとは拾いあげず、拾ったものとても神の食物マナのように日にあたってふたたび融けさったのではあるが。
 長いあいだわたしは新聞の報道員であった。その新聞は発行部数も大して多くなく、その編集長はわたしの寄稿の大部分を掲載するに適していると決して認めず、わたしは文筆家にとってあまりに普通であるとおり、わたしの骨折りに対してただ労苦を得ただけであった。けれども、この場合においてはわたしの骨折りがそれ自身の報酬であったのだ。
 長年のあいだ、わたしは吹雪や暴風雨の自ら任じた予報者をつとめ、わたしの職務を忠実につくした。そして街道はともかく、森の小路やすべての間道の番人であり、一般人の足あとがその便利さを示しているところはそれらがいつ何時なんどきでも通れるよう、谷間には橋がかかっていて渡れるようにしておいた。
 わたしは柵をとび越えて忠実な牧夫に少なからぬ迷惑をかける町の野生の獣の世話をやいた。そして畠の、めったに人の行かぬ隅やかくれ場所にまで目をくばった。今日はどこどこの畠にソロモンなりジョーナスなりが働きに出ているかどうかはかならずしも知らなかったが。――そんなことはわたしの関係したことではない。わたしは赤コケモモ、サンド・チェリー、ネットル・トリー、赤マツ、黒トネリコ、白ブドウ、黄スミレに水をやった。それらはわたしがそうしなかったら日照りつづきには枯れてしまったであろう。
 要するにわたしは、自慢でいうのではないが、忠実にわたしの仕事にうちこんで長いあいだこういうことをしつづけたが、やがて、わたしの町の人はわたしを町の役人の列に加えないだろうということ、またわたしの地位をつつましやかな手当のついた閑職にしてくれないだろうということがますます明白になってきた。わたしの計算書――わたしはそれを忠実に記入したことを誓うことができる――は実に一度も監査されたことがなく、まして承認されたことはなく、まして支払われ決算されたことはなかった。とはいえ、わたしはそんなことに拘泥はしなかった。
 さほど前のことではないが、旅のインディアンが近所の有名な弁護士の家に籠を売りにった。「どれか籠をお買いになりませんか?」と彼はいた。「いや、うちでは籠はいらない」という答であった。「なんだ!」とインディアンは門を出ながらいった、「おれたちをひぼしにするつもりか?」じつは、彼の勤勉な白人の隣人たちがそんなに裕福であるのを見て――弁護士はただ弁護を編んでさえいれば、何かの魔術によって富と地位とが自然とついてくるのを見て――彼は心のうちでこうかんがえたのだ。――※(始め二重山括弧、1-1-52)おれは商売をしよう。籠を編もう。おれのできるのはこれだ。※(終わり二重山括弧、1-1-53)籠さえ作ってしまえば自分のやるべきことはすんだので、あとは――それを買うのは白人のやるべきことだと考えつつ。彼は籠を買うことが相手にとってやりがいのあるようにしむけることが、あるいは少なくとも相手にそう思いこませることが、あるいは相手に買う甲斐のある何か他のものを作ることが必要であるのに思いいたらなかったのだ。ところで、わたしもまた、精巧に編んだ一種の籠を作ったのだが、それを買うことが誰にとってもやりがいのあることにしなかったのだ。ただしこの場合、わたしはそれを編むことが私にとってやりがいの少ないことだとは決して思わず、わたしの籠を買うことがやりがいのあることだと他人に思いこませる手段を研究する代りに、わたしはむしろそれを売る必要をどうして避けたものかと研究した。人がめそやし成功であると見なす生活はただ一つの種類であるにすぎない。われわれは他の種類を無視してどれか一種類だけを誇大に考えてよいものだろうか?
 わたしの仲間の市民が、裁判所の位地も、副牧師の職も、どこか他のところでのたつきも提供してくれそうもなく、自力で何とかやっていかなければならないのを見て、わたしは前より増してひたむきに、わたしがよく見知られている森の方にわたしの顔を向けた。わたしは世間並みの資本を手に入れることを待たず、わたしがすでに手もとにもっているだけのわずかな資力を用いて早速に仕事にかかろうと決心した。ウォールデンポンドにわたしがおもむいた目的は、そこで安く暮らそうとか高く暮らそうとかいうのではなく、ある自分だけの仕事を最小の妨害をもってやろうというのにあった。少しばかりの常識と少しばかりの才覚と少しばかりの実務的才能とが欠けているばかりにそれを実行できないということは、悪くはないにしても愚かなことと思えた。
 わたしはつねに厳格な実務的習慣を獲得しようとこころみた。それはどんな人にも欠くべからざるものである。もし諸君の商売が中国との取引であるならばどこかセイラム港の海岸ばたの商館が十分な根城となるであろう。諸君はつねにわが国が産するような品物、純国産品、多くの氷と松材と少しばかりの大理石とを、いつも自国の船で輸出するであろう。これらは良い思惑おもわくであろう。諸君はすべての細部は自分で監督すべきである。水先案内となり船長となり、所有主となり、保険業者となる。売り、買い、帳簿をつける。受けとったすべての手紙を読み、送られるすべての手紙を書きまたは読む。夜昼となく輸入品の荷揚げを監督する。ほとんど同時的に海岸の多くの場所に出かける。――しばしば最も高価な積荷がジャーシーの海岸に荷揚げされるであろうから。油断なく水平線上に眼をくばって海岸方面に行くすべての航行中の船に話しかけて諸君自身の電信の役をする。そんなに遠く法外な相場の市場に供給するために物品を後から後から輸送しつづける。各市場の景況や、あらゆる国の戦争と平和との予想の情報にいつも通じていて、貿易と文明の傾向を予測する。すべての探険遠征の結果を利用し、新しい航路と、航海におけるすべての改良を用いる――海図を研究し、暗礁や新しい燈台や浮標の位置を確かめ、絶えまなく対数表の誤謬を訂正しなければならぬ――計算者の誤謬からして安全な波止場に到着するはずだった船が岩のうえにのりあげてこわれることがしばしばある――ラ・ペルーズ〔フランスの有名な探険家で一七八八年に出航したまま行方不明となる〕の悲運の例は無数にある。全般的の科学におきざりにされないように気をつけ、すべての偉大な発見者や航海者、偉大な冒険家や商人、古くはカルタゴの航海家ハンノーやフェニキア人たちから現今にいたるまでの人々の生涯を研究する。最後に、諸君の現在の立場を知るために在貨の調べを時々する。これは人間の諸能力をつくさせる大仕事である――損益、利息、風袋と減損見積り添量、そのすべての種類の測定など、百般の知識を要求する問題である。
 わたしはウォールデン池は仕事のために良い場所だと考えた――なにも鉄道や氷取引のためばかりではなく。それは口外するのが利口でないかもしれない種々な有利さをあたえる、良い足場であり土台である。自分でいたるところに杭を打ちこんでその上に家を建てなければならないけれどもネヴァ河の沼地のように埋立てする必要はない。西風をともなう高潮たかしおとネヴァ河の氷とは聖ペテルスブルグを地球の表面から押し流してしまうだろうとわたしは聞いている。
 この仕事は世間並みの資本なしではじめられることになっているので、すべてこういう企画にはやはり欠くことのできない資材がどこから捻出されたものか人は想像にくるしむことであろう。問題の実際的な部分にただちにはいることとして、衣類についていえば、われわれはそれを買うさいに、たぶん真の有用性よりは、もっとしばしば目新しさを好むこと、他人の意見を顧慮することによって左右されるものである。仕事をしなければならない人は、衣服の目的は第一、生命の熱を保持することであり、第二に、社会の現状においては裸を蔽うことであることを想い起こすがよい、そうすれば彼の衣裳戸棚に加えることなしに何でもあれ必要または重要な仕事のいかに多くがなしとげられるか判断できるであろう。一着の服を一度しか着ない国王や女王は、両陛下御用の裁縫師によって仕立てられたものにもせよ、からだになじんだ着物を着るという快適感をあじわうことはできない。かれらはあかづかない着物をかける木製の馬以上のものではない。日一日とわれわれの着物は着る者の性格の印銘をうけてわれわれ自身に同化し、ついにわれわれはちょうどわれわれの肉体を棄てる時でもあるかのようにちゅうちょと医療手当となにがしかの儀式なしにはそれを脱ぎ去ることをしぶるのである。誰でもその着物に継ぎがあるという理由でわたしの評価において低くされた者はかつていない。けれどもわたしは世間には、健全な良心をもとうということよりは流行の、あるいは少なくともこざっぱりして継ぎはぎのない着物をもとうという切なる願いの方が一層多いと確信する。だが、ほころびがたとえつくろわれていないとしても、それによってさらけ出された最大の悪徳は不用意に過ぎない。わたしは時々わたしの知り合いを次のようなこころみによって試験して見ることがある――誰が膝がしらに一つの継ぎとかまたはただ二つばかり余分の縫い目のあるものを着ていることができるだろうか? たいていの人間はそんなものを身につけたら生涯うかぶ瀬がなくなると考えているかのようにふるまう。かれらにとってはやぶけたズボンをはいていくよりは、脚をくじきびっこを引いて町に出る方がむしろ楽なのであろう。それはしばしばこういうわけである――もし一人の紳士の脚に事故が起こるとしてもそれは治癒されうる、けれども彼のズボンの脚に同じような事故があったとしたら、そこには収拾のしようがないのである。彼は真に尊敬にあたいするものを考えないで、ただ世間で尊敬されているものを考えているからだ。われわれは上衣やズボンはたくさん知っているが、人間そのものは少数しか知らない。君の最後の工面をして案山子かかしに着物を着せ、君自身はしょんぼりそのそばに立っていて見たまえ、誰だって案山子の方にまず挨拶しない者があろうか? 先日トウモロコシ畠を通っていると杭のうえに帽子と上衣がかかっているすぐそばに畠の主人がいるのが眼にはいったが、彼はその前に会ったときより日焼けが少しばかり増しただけであった。人に聞いた話だが主人の構え内に着物を着て近づくすべての見知らない人間には吠えつくが、裸の泥棒には手もなく丸められた犬があったそうである。人間が着物をはぎ取られたらどの程度までかれらの相対的階級をのこすであろうかは興味ある問題である。そんな場合、諸君は文明人のいちばん尊敬される階級に属する仲間を確実に指摘できますか? マダム・プァイフェル〔一七九七―一八五六年、オーストリアの旅行家〕が東から西にかけて彼女の冒険的な世界周遊をした際、アジア領ロシアまで彼女の故国に近づいたときに、当局者に会いに行く段になって彼女はいつもの旅行着でないものを着る必要を感じた、といっている。なぜならば彼女は「もう、人間が、着ているもので判断される文明国にはいったのだから」である。われわれの民主的なニューイングランドの町々でさえ偶然的な富の所有と、それを衣服と身の廻り品に表わし示していることとが、それだけでほとんど一般的尊敬を所有者に獲させる。しかしそんな尊敬をささげる人間は――そういう人間が多数を占めてはいるが――その点で異教徒的なのだから宣教師をさしむけられる必要がある。おまけに衣服は裁縫を伴うがこれがまた一種、はてしがないといってよいほどの仕事である。少なくとも婦人服はこれでおしまいというきりがない。
 何かすべき仕事をとうとう見出した人は、それをするために着る新しい服を手に入れることを必要としないだろう。いつからともなく屋根裏でほこりにうもれていた古いやつで結構である。古靴は英傑にとってそれが彼の従僕――英傑が従僕をもつことがあるなら――のにあったよりもっと長く間にあうだろう。はだしは靴よりも古いし、彼はそれで間にあわせることもできる。夜会だの、公けの会議だのに出る人間だけは新しい服をもたなければならぬ――それを着ている人間が変わるのと同じくしばしば変わる服を。しかし、わたしのジャケツとズボン、わたしの帽子と靴が、それをつけて神をあがめるのに適しているならば、それで結構だ、――そうではないか。自分の古着、自分の古上衣が実際にぼろぼろになり原始的要素に分解して、誰かあわれな少年にあたえ、それがさらに貧しい――より少ないものでやっていけるのだからこの方が富んでいるかもしれないが――少年にあたえてももはやそれが慈善にならない、というような場合を見た者がどこにあろう。わたしは敢えていう、新しい服を要し、服を着ている新しい人間の方はどうでもよいようなすべての仕事を警戒せよ、と。新しい人間がいないならばどうして新しい服が合うようになりえようか? もし諸君が眼の前に何か新しい仕事をもっているなら、古い服でそれをこころみてみたまえ。すべての人はそれをもってなすべき何物かではなく、なすべき何物かを、あるいはむしろ、それであるべき何物かを欲しているのだ。多分われわれは、われわれがどれかの道でふるまい、企て、乗りだした結果、古い衣を着た新しい人間だと自ら感じるようになるまでは、そしてそれを着つづけることは古い瓶に新しい酒を入れておくようだと感じるまでは、古い服がいかほどぼろぼろになりよごれていても、新しい服を買いこむべきではないであろう。鳥と同様、われわれの羽毛の脱けかわる時期は、われわれの生活の危機でなければならない。カイツブリはその危機をすごすために淋しい池に引きこもる。同様にまた、内的の勤勉と拡大とによって蛇はその殻をぬぎ芋虫は虫としての衣を投げすてる。衣服はわれわれの最外部の表皮であり生の煩累にすぎないからである。もしこの態度をとらないならばわれわれは偽りの旗をかかげて航行していることがわかり、ついには世間人類のばかりでなくわれわれ自身の意見によって見はなされるであろう。
 われわれは外長茎植物のように外側から加えることによって育つかのごとく衣の上に衣をかさねる。われわれの外側の、そしてしばしば薄く、趣向をこらしてある着物は表皮もしくは擬皮であって、われわれの生命とは関わりがなく、ところどころぎとっても致命的な損傷はない。われわれがしじゅう着ている、もっと厚い着物は細胞質皮膚または厚皮である。だが、われわれのシャツはわれわれの内皮または真皮であってこれをはぎとれば樹皮をはがして枯らすことになり生命をそこなう。すべての種族はある時期には何かシャツに相当するものを着るものらしい。人はごく簡単な服装にして暗中でも自分のものが手さぐりできるようにし、また、あらゆる点でまとまりよく用意よく生活して、もし敵が自分の住所を占領したらば、昔の哲学者がそうしたという話のとおりに、手ぶらで悠々と城門から歩いて出る、というふうにありたい。一着の厚い上衣はたいがいの目的のためには三着のうすい上衣の用をし、やすい着物はまったく購買者に適した値段で買いえられる。五ドルで五年ぐらいはもつ厚い上衣が買えるし、ズボンは二ドル、牛皮の靴は一足一ドル半、夏帽子は四分の一ドル、冬帽子は六十二セント半(あるいは、もっと良い品がほんのおしるしの値段で家庭で作れる)、でととのうわけだから、自分でかせいだそのようなひとそろいを着て、自分に敬意を表する物のわかった人々を見出だしえないような、貧しい人間がどこにいようか?
 わたしがこれこれの形の服をつくってくれと注文するとわたしの女裁縫師はむずかしい顔をして、「世間では今はそういうのはつくりません」と、※(始め二重山括弧、1-1-52)世間※(終わり二重山括弧、1-1-53)というところを、あだかも※(始め二重山括弧、1-1-52)運命※(終わり二重山括弧、1-1-53)とおなじぐらい超人格的な権威を引きあいに出しているかのように、極まりきったことのようにいう。そしてわたしが本気であり、そんなに無てっぽうであることを彼女が信じることができない、ただそれだけのために、わたしは自分のほしいものを作ってもらうことが容易にできないのだ。このお託宣のような文句を聞くと、わたしは少々考えこんでしまう。わたしは、その意味を理解しようと、どういう程度の血縁によって※(始め二重山括弧、1-1-52)世間※(終わり二重山括弧、1-1-53)※(始め二重山括弧、1-1-52)わたし※(終わり二重山括弧、1-1-53)と関係しているか、それがわたしにそんなに密接にかかわりのある問題のうえにどんな権威をもちうるのだろうか、を発見しようと、その言葉の一語一語ずつわたし自身に念を押してみる。そしてそのあげく、わたしは彼女と同様の神秘さをもってそして※(始め二重山括弧、1-1-52)世間※(終わり二重山括弧、1-1-53)のところを同様に極まりきったことのようにいって彼女に答える気になるのである――「なるほど、たしかに先頃までは世間ではそう作らなかったが、今では世間ではそう作るのだよ」と。こんなにわたしの寸法を計ったって、もし彼女がわたしの人格を計らず、ただわたしの肩幅ばかりを上衣をひっかける釘でもあるかのように計るのでは何の役に立とうか? われわれはグラティアたち〔美・優雅・喜びの象徴である姉妹の三女神〕をもパルカたち〔運命をつかさどる三女神〕をも信仰するのではなく流行ファッションを崇拝するのだ。彼女が絶対の権威をもってつむぎ、織り、つのである。
 パリの頭猿かしらざるが旅びとの売物の赤帽子をかぶるとアメリカじゅうの猿がみんなそのまねをするのだ。わたしは折々、他人の援助によってこの世界で何事にもせよまったく単純で正直なことをしとげようということに絶望することがある。それには、かれらをまず強力な圧搾機にかけ、かれらの古い観念をすっかり吐き出させて、それらが当分は立ち直れないようにしなければならない。それでもなお、かれらの仲間のうちには、いつのまにやら誰も知らないうちに産みつけられた卵からかえったうじのような気まぐれな考えを頭に宿したのが出てくる。そういうものは火で焼いても死なないもので、結局はわれわれの骨折り損ということになるだろう。だが、エジプトの小麦つぶがミイラによってわれわれの時代までつたわったのだから無理もないことだろう。
 大体からいって、服装はわが国でもどこの国でも芸術といえる品格にまで高められたとはいえないと思う。現在、人々は手にはいる物を何とかしてまとっているだけである。難船した水夫のように、そこの浜辺で、空間的にも時間的にも手近かにありあわせた物を身につけ、おたがいの風変りな風体ふうていをあざ笑っている。各世代は昔の流行をわらうが、新しいそれには宗教的にかしこまって従う。われわれはヘンリー八世やエリザベス女王の衣裳を見てそれが喰人島の王様や女王のそれであるかのごとくおもしろがる。人間から切りはなされたすべての衣裳はみじめであるかグロテスクであるか、どちらかである。笑いを控えさせ、人の衣裳を神聖化するものはそこから見つめる真剣な眼とそのうちで過ごされた誠実な生活のみである。道化役者が疝気せんきの発作におそわれればその派手な衣裳もその病苦をあらわすにちがいないし、兵士が砲弾にちあてられればぼろも紫衣のけだかさをもつであろう。
 新しい型をもとめる男女の子供っぽく野蛮な趣味は、いかに多くの人間に、今の世代が要求する特定の模様を発見しようとしてのぞ眼鏡めがねをゆすり、やぶにらみでのぞきこませることだろう。製造業者はこの趣味が単に気まぐれであることを心得ている。一つの色の二、三本の糸が多いか少ないかという点だけがちがっている二つの模様のうち、一方はたちまち売り切れ、他方は棚ざらしになる――ひと季節がすぎると後者の方がはやり出すということがしばしば起きるのだが。それとくらべれば文身は世間でいわれているほどまわしい習慣ではない。皮膚だけの深さで彫りつけ、変更することができないという理由だけで野蛮とはいえない。
 わたしにはわが国の工場制度が、人が衣類を手に入れる最善の方法であるとは信じられない。職人の条件は日一日とイギリスのそれに似てきている。そして、わたしの聞きまたは観察したかぎりにおいては、その主な目的は人間を善くそしてまっとうに装うということではなく、疑いもなく会社を肥らせるということであるから、それもあたりまえの話である。とどのつまりは人間は狙ったもののみを射あてるものだ。それ故、さしあたりは失敗するにもせよ、何か高いものを狙った方がよい。

 住についていえば、わたしはこれが今では生活の必要物であることを否定はしない。わが国よりもっと寒い国々で長い期間それなしですませた人々の実例はあるにはあるが。サミュエル・レイングはいっている、「ラプランド人は皮の着物を着、頭から肩にかけて皮の頭巾をかぶって幾晩も雪のうえで寝る――どんな毛織物を着こんでもそれにさらされた者の命を絶やすほどの寒気のなかで。」彼はかれらがそうして眠っているのを見た。しかも「かれらは他の種族より頑丈なわけではない」とつけ加えている。しかしたぶん人間は地上に住んで久しくないうちに家というもののもつ便利、住居的安楽ドメスティック・カムフォト――それは本来は家庭の安楽というよりは家屋の安楽を意味したのかもしれない――を発見したのであろう。けれどもそれは、家を考えると主として冬や雨の日が連想され、一年の三分の二は日傘がいるだけでそれは不必要な気候の土地ではきわめて局部的で一時的であるにちがいないが。われわれの気候においては夏には家はむかしはほとんどもっぱら夜の覆いであった。インディアンの書いたものにおいてはウィッグワム(家)は一日の行進の象徴であって、木の皮のうえに刻まれたり描かれたりした一列のウィッグワムはそれだけの回数だけかれらがキャムプしたことを意味しているのだ。人は躯幹長大で頑強に作られていても自分の世界をせばめ、彼に適しただけの空間に壁をめぐらすことを求めなければやまない。人は最初は裸で戸外にいた。しかし、おだやかな、あたたかい気候の昼のうちはそれで十分快適だったが、焼けつくような太陽はもとよりのこと、雨季や冬は、もし彼がいそいで家という覆いを自分自身に着せなかったら、たぶん人間という種族を二葉のうちに枯らしてしまったであろう。伝説によるとアダムとイヴは他の衣がないうちから木のしげみを衣代りにしていた。人間は家という暖かさもしくは安楽の場所――最初は肉体的の暖かさの、次には情愛の暖かさの――をほしがった。
 人類の幼稚時代のあるとき、一人の気ばたらきのある人間が岩の中のくぼみにいこんで身をかばったと想像できるであろう。子供というものはみんな、ある程度まで、世界をふたたび始めから生きる。かれらは雨が降ろうが寒かろうが戸外に出ていることを好む。またそういう本能をもっているので、馬ごっこもするが、おうちごっこもする。小さい頃、棚のような格好をした岩や、洞穴の入口を見たときのわくわくした気持を誰がおぼえていないだろうか? それはわれわれの最も原始の祖先の、今なおわれわれのうちに生きのこっている部分の自然のあこがれであった。洞穴からわれわれは、シュロの葉の屋根、木の皮や枝のそれ、布きれを織ってひろげたもののそれ、草やワラのそれ、板やコケラ板のそれ、石や瓦のそれへと進んだ。今となっては大気の中で生きるということはどんなものだか、われわれはわからなくなってしまい、われわれの生活は想像もつかぬほど多くの意味で家庭的ドメスティックになってしまった。いろりから畠までは大きな距離ができた。もし、われわれが夜と昼とのもっと多くを、われわれと天の星とのあいだに何の隔てるものもなくすごすとしたら善いだろうに――もし詩人が屋根の下でそんなに喋々ちょうちょうし、聖者がそんなにいつまでもそこに住みつかなかったら善かろうに。鳥は洞穴のなかでは歌わないし、鳩も鳩小舎はとごやの中ではその純潔を大切にしない。
 だが、もし人が住宅を建てようというのならば、すこしばかりヤンキーらしい賢さを発揮して、いつのまにか自分が家ではなくて工場とか、手がかりのない迷宮とか、博物館とか、養育院とか、監獄とか、堂々たる霊廟とかにはいりこむことにならないように気をつけるべきだ。まず第一、雨露をしのぐために絶対に必要なものはいかにわずかであるかを考えてみたまえ。わたしはこの町でペノブスコット・インディアンたちが薄い木綿のテントのなかに住んでおり、周囲にはほとんど一フィートばかり雪がつもっているのを見たことがある。わたしは雪がもっとつもって風を防いでくれたらかれらがよろこぶだろうと考えた。先年、わたしの本来の仕事をする自由をのこしつついかにして、正直に生計を立てるべきかが今日よりもっとわたしの心をなやました問題であった頃、――不幸にしてわたしはいくぶん不熱心になってしまったが――わたしは鉄道線路のかたわらに、工夫こうふが夜、道具を入れて保管しておく縦六フィート横三フィートばかりの大きな箱をよく見かけた。それを見てわたしは考えた――誰でも大いに困った人はこんな箱を一ドルで買い、ともかくも空気を流通させるために大錐でいくつか穴を開け、雨がふるときと夜にはそのなかにはいり、蓋を下ろしたなら、思うがままの自由が得られ、彼の魂は自由であろうと。これも最悪でもなく、また決して軽蔑すべきでもない、一つの方法であると思えた。夜は好きなだけよいっぱりしていられるし、いつ起きようと、家賃を催促する下宿の主人とか家主とかにつきまとわれずに出あるける。こんな箱でも凍え死はせずにすむのに、多くの人間はもっと大きくもっと贅沢な箱の家賃をはらおうと死ぬほど苦しめられる。わたしは決して冗談をいっているのではない。経済というものは口ではかるがるしく片づけられる主題ではあるが、実際はそう簡単に片づかない。戸外でたいがいくらしている粗野で頑健な種族のために住みごこちのよい家が、むかしこの土地で建てられたのだが、それはほとんど全部、自然がかれらの手にそのまま提供するような材料だけでできたものであった。マサチュセッツ植民地に従属するインディアンの監督者であったグッキンが一六七四年に書いたもののなかにはこうある、「かれらの家の最高級のものは木の皮で、しっかりと暖かく、非常にさっぱりと屋根ができている。その樹皮は樹液がのぼり切った季節に幹から剥ぎとられ、まだ緑色のうちに、重い材木でしをして大きな断片にしたのである……それほど上等でないのはかれらががまでつくったむしろで蔽ってあって、これまたある程度までしっかりしており暖かくもあるが前者ほど良くはない。……わたしの見た家のうちには長さ六十フィートないし百フィート、幅三十フィートぐらいのも幾軒かあった。」……彼はかれらのウィッグワムに泊まったことがしばしばあったが、「それはいちばんよい英国の家ぐらい暖かであった。」それらの家は通常、巧みに作られ縫い取りされた筵が敷いてあり、内側の壁が張られてあり、各種の家具もそなわっていた、と彼は附言している。インディアンは屋根にうがった穴の上にかけられひもで動かすことのできる筵によって風の具合を調節する程度まで進歩していた。そういう宿舎がはじめはせいぜい一、二日で建築され二、三時間で取りこわし片づけられた。そして各家族はその一つをもっているなり、その家のなかの一室をもっているなりした。
 野蛮状態においてはすべての家族が、その最善のものにくらべても大して見劣りせず、またその原始的で単純な要求をみたすに十分な住居をもっている。ところが、空の鳥はその巣をもち、狐はその穴をもち、野蛮人はその小舎ウィッグワムをもっているにかかわらず、近代文明社会においてはすべての家族のうち住宅をもっているのはその半数以上にはのぼらないといっても、いい過ぎではあるまいと思う。文明が特に発達している大きな都会や町においては住宅をもっている者の数は全体のごく一部分にすぎない。残りの者は夏も冬もこれなくしてはすまされないものになった、このいちばん上の衣のために年々家賃をはらっている。その額はインディアンの村じゅうの小舎ウィッグワムを買うに十分なものであるが、今ではそれがかれらが生きているかぎり貧乏しつづける原因の一つになっている。わたしはここで住宅を所有することに比較して借家ずまいの不利益を力説するつもりはない。しかし野蛮人はそれが非常に安価であるから彼の住宅を所有しており、文明人は普通、それを所有するだけの資力がないから借りているのだということは明白である。そして結局彼は借り家のくらしも一向楽にならないのである。だが、と人は答える、単にこの家賃をはらうことだけで文明人は、野蛮人のにくらべたら宮殿のような住居が得られるのだ、と。一年に二十五ドルから百ドルまではらえば――この辺が全国の相場である――何世紀もかかった改良の結果である、ひろびろした部屋、清潔なペンキと紙、ラムフォード式煖炉、裏塗り、簾形日除すだれがたひよけ、銅製ポンプ、発条錠ばねじょう、便利な地下室、その他の多くのものの利益をける権利が彼にあたえられる、というのである。だが、これらのものを享受するといわれる人間がたいがいどれもこれも貧乏な文明人であるのに、そんなものをもっていない野蛮人が、野蛮人として富んでいるのは、いったいどうしたわけなのだろうか? もし文明とは人間の生活状態における真の進歩であると主張するならば――そしてわたしもそう思う、ただし賢明な者のみが彼等の福利を善用するのである――文明は一層良い住宅を一層高価でなく作り出したということを示さなければならない。そして物の価格とは、それと取換えっこに直接または究極において、要求される、わたしが生命と呼びたいところのものの量である。この近所の普通の家は多分八百ドルぐらいするだろう。そしてこの金額を積みたてるためには、かりに家族の係累がないとしても――各人の労働の金銭的価値を一日一ドルと見て(これより多いのも少ないのもあるから)――労働者の生涯の十年から十五年を要するであろう。したがって彼が彼の小舎ウィッグワムをかせぎうるまでには普通半生以上をつかい尽くしていなければならぬ。彼がそれをせずに家賃をはらいつづけるとしても、これも二つの悪いことのうち比較的よい方を選んだといえるかどうか、はなはだ疑問である。野蛮人がこういう条件で彼の小舎ウィッグワムを宮殿と交換したとしたら賢いといえようか?
 わたしは、このあらずもがなの財産を所有することの、将来にそなえるための資力としてのほとんど全利益が、個人の関するかぎりにおいては主として葬式の費用を支払うことに帰することを主張するのだとも考えられるであろう。しかしたぶん人は自分自身を葬る必要がないのだ。とはいえ、これは文明人と野蛮人との重要な区別をあらわすものである。そして疑いもなく、社会が文明人の生活を一つの組織にし、種族の生命を維持し完成するために個人の生命をその中に大部分没入させるようにすることのうちには、われわれの利益になるようにというはからいが存するのだ。だがわたしは、この利益が現在どんな犠牲をはらって獲られているかを示し、われわれはそういう不利益を少しもこうむらずにすべての利益を確保するような生き方をすることが可能であることを示唆したいのだ。「貧しき者はつねになんじらとともにあり」とか、「父たちきブドウを食いたれば子等の歯うく」とかいうのは、果して何の意味であろうか。
「主エホバいう、※(始め二重山括弧、1-1-52)われは生く、汝等ふたたびイスラエルにおいて、この諺を用うることなかるべし。※(終わり二重山括弧、1-1-53)
れ、すべての魂は我に属す、父の魂も子の魂も我に属するなり、罪を犯せる魂は死ぬべし。」
 わたしがわたしの隣人たちであるコンコードの農夫たち(かれらは少なくとも他の階級と同じぐらい裕福である)のことを考えてみると、大部分のかれらは、通常、抵当にはいっているものを相続したとか、さもなければ借金して買い取ったかしたかれらの畠の真の所有者にならんがために二十年、三十年、四十年はたらいてきているのだ――そしてその労苦の三分の一は家の費用だと見なしてよい――しかも通常かれらはまだ支払いをすましていない。負担額が畠の価値より多く、そのために畠そのものが一つの大きな厄介物となることが時々あるのは事実であるが、しかも人は、それもよく承知の上だと自分でいいながら、それを相続することがある。税金査定人にあたってみると、自分の畠を自由に何のかかずらいもなく所有している人間を町中で十二人と挙げることはなかなかできないのを知ってわたしは一驚を喫した。もしこれらの地所の歴史を知りたいならば銀行にってそれらがどこに抵当にはいっているかいてみればよい。彼のその畠で労働しそれを現実に支払ってしまった人ははなはだ少数で近所の人は誰でもその人間を指し示すことができる。わたしはコンコードにそれが三人といるかどうかと思う。商人について、その最大多数が――百人中九十七人までも――必ず失敗するということがいわれているが、それは農夫についても同様に真実である。しかし商人については、その一人が、かれらの失敗の大部分は純粋な金銭的失敗ではなくて、そうすると都合がわるいので契約どおりを実行しないのだと――すなわち、失墜するのはかれらの道徳的人格なのであると、適切なことをいっている。しかし、そうしてみると事情ははるかに一層わるく、おまけに残りの三人も多分自分たちの魂を救うことには成功していず、ことによると正直に失敗する人間よりは一層悪い意味で破産しているのではあるまいかと思われる。破産と支払拒絶とは、そこからわれわれの文明の多くがとんぼ返りをうつ跳躍台である。しかるに野蛮人は饑饉という弾力のない板の上に立っている。けれどもミッドルセックスの家畜展覧会は年々当地ではなやかに催される、あだかも農業という機械のすべての関節がなめらかにうごいているかのように。
 農夫は生計の問題を、問題それ自身より一層複雑な公式によって解こうとこころみている。靴の紐を手に入れるために彼は牛の群について相場をする。申し分のない巧妙さで、彼は安楽と独立とを捕えるために毛係蹄けわなをかけ、かけ終わってそこから立ち去ろうとするとき片足をそれにはさまれてしまう。これが彼が貧しい理由なのである。そして同じ理由からして、われわれはすべて贅沢に囲まれていながら無数の原始的な慰楽という点では貧乏している。それはチャップマンが歌っているとおりである――

「いつわりの人の世よ――
此の世の豪奢おごりのために
すべての天上のたのしみはうすれ行く。」

 そして農夫がいよいよ自分の家を手に入れたとしても、彼はそのために富まずかえって貧しくなることもある、家の方が彼を取っつかまえたという形である。わたしの理解するところでは、それが、ミネルヴァの神が建てた家に対して非難の神モモスが主張した一理ある難癖であると思う。モモスは「いやな隣人たちを避けるために移動できるように作られていない」と非難したのである。これはなお一段とつよく主張できる、われわれの家はすこぶる荷厄介なしろものでわれわれはしばしばそこに住んでいるというよりは閉じこめられているといった方が適切であり、またそれを避けたい、いやな隣人たちとは、とりもなおさず、あさましいわれわれ自身であるからだ。わたしはこの町において少なくとも一、二の家族が、ほとんど一世代にわたって、町はずれにある自分たちの家を売りはらって村に移ろうと念願しながらはたさず、死のみがかれらをはじめて自由にするであろうという状態にあるのを知っている。
 かりに大多数の者がすべての改善をそなえた近代的な家を所有なり賃借なりすることができるようにやっとなったとしたまえ。文明はわれわれの家を改善してきたが、その中に住むべき人間の方は同じ程度に改善しておかなかった。それは宮殿をつくった、しかし貴族と王とを作り出すのはそれほど容易ではなかった。もし文明人のしていることが野蛮人のそれにくらべて少しもまさるところがなくその生涯の大部分を単に低級な必要物と安楽とを獲ることに汲々としているのならば彼が野蛮人より上等な家に住むべき理由がどこにあろうか
 ところで、あわれな少数者の運命はどうであろうか? たぶん若干の人間が外面的境遇において野蛮人よりましな位地におかれたとちょうど比例して、他の者は野蛮人以下にちてしまったといえよう。一つの階級の奢侈は他の階級の窮乏によって釣合いがとられた。一方には宮殿があり、他方には救貧院と「黙々たる貧しき者」がある。エジプトの王であるファラオたちの墓にとピラミッドを築いた幾万の人間はニンニクを食とし、おそらくかれら自身は死んでもろくろく葬られなかったかと思われる。宮殿の蛇腹をしあげる石工は夜になると小舎ウィッグワムにも劣るあばら家に帰るのであろう。文明の通常のあらわれが存在している国では住民の大部分の状態が野蛮人のそれほどわるくはないと想像するのはあやまりである。わたしの今いっているのは堕落した富める者たちのことでなく、窮迫した貧民たちのことである。それが判るためにわたしはわれわれの鉄道――文明におけるあの最近の進歩である――の線路の両側の到るところにある掘立小舎ほったてごやを見ればそれでたくさんであろう。わたしはふだんその辺を歩いてみると、人間が豚小舎に住んでおり、冬中あかりを取るために戸を開けはなし、薪の山は見あたらず、またありそうにも思われず、年寄りも若い者も寒さと惨めさでちぢかむ長い習慣からからだの格好が永久的に収縮しており、すべての手足と能力との発達が停止している有様である。その労働によってこの世代の特色をなす仕事が達成された、この階級を考えてみることはたしかに当然なさるべきことである。同様な状態が多かれ少なかれ英国の各種の工員のそれであって、英国は世界の大救貧院である。わたしはまた、地図の上の白い――あるいは文化のある地点の一つとして印しづけられているアイルランドを引合いに出しうるだろう。アイルランド人の物質的状態を北米インディアン、もしくは南洋諸島人、もしくは、文明人との接触によって堕落しない前のどの他の未開種族のそれとでも比較してみたまえ。しかしわたしはあの民族の統治者たちが文明国の統治者の普通程度のものに劣らず賢明であることを疑わない。かれらの状態はどのような不潔が文明と共存しうるかを証明するにすぎない。わたしはわが国の主要物産を産する、そしてかれら自身が「南部」の主要物産である、わが南部諸州の労働者たちを改めてもちだすにも及ぶまい。わたしはただ「さほどわるくもない」境遇にあるといわれている人間たちに話をかぎることにする。
 たいていの人間は家とは何であるかを一度も考えたことがないらしく、自分も隣人たちがもっているようなやつをもたなければならないと考えるがゆえに生涯、そうする必要がないのに、現実に貧乏しているのである。あだかも裁縫師が彼のために裁縫するどんな種類の着物でも着なくてはならないかのごとくであり、あるいは、シュロ葉の帽子やヤマネズミ皮の帽子をかぶるのを次第にやめて、どうも王冠を買うだけの金がないといって生活難をかこつようなものだ。現在あるのよりもっと便利でもっと贅沢であるがそれを支払う金はありえないと万人が認めるような家を発明することは可能である。われわれは時にはもっと簡単なもので満足することを知らず、しょっちゅうこういったものをもっとたくさん手に入れようと汲々としなければならないのか? また、立派な市民たちは教訓と垂範とでもって若い者たちに死ぬまでには、いくつかの要りもしないてかてか靴だの、雨傘だの、からっぽなお客のための空っぽな客間だのを用意する必要があることをまじめくさって教えこまなければならないのか? なぜわれわれの家具はアラビア人やインド人のように単純であってはならないのか? われわれが天からの使者、人間への神々しい賜物の将来者のように神格化した、人類の恩人たちのことを考えてみても、かれらのうしろに何の供廻ともまわりも流行家具の車につんだ荷もわたしの眼にうかびはしない。が、たとえわたしが、われわれが道徳的および知力的にアラビア人より優越しているに比例してわれわれの家具がかれらのそれより一層複雑であるべきだと仮定するとしても――それはずいぶん奇妙な仮定ではないだろうか?――どれほどのことになるだろう! 現在われわれの家はそういうものでいっぱいであり、よい主婦はさっそくその大部分を掃き出してごみ溜めにたたきこみ、彼女の朝の仕事を片づけてしまうであろう。朝の仕事? 曙の女神アウロラの薄くれないとメムノンの暁の歌とともに、人間のこの世界における朝の仕事は何であるべきだろうか? わたしはかつて三個の石灰岩を机の上に置いておいたが、わたしの心の家具はまだすっかり埃りをかぶったままなのに、それらは毎日はたきをかけなければならないのを発見しておどろき、嫌気がさしてそれらを窓からほうり出した。そういうわけで、わたしは家具のそろった家に納まることがどうしてできようか? わたしはむしろ野に坐したい。人間が地面をとりくずしたところ以外では草のうえには一点の塵もやどらないから。
 俗衆がそんなにせっせと追いもとめる流行をつくり出すのは贅沢で放蕩な人間である。いわゆる最高級の旅館にとまる旅行者はじきにそれを発見するであろう。なぜならば宿屋の人間は彼をサルダナパロスのような柔弱児と見立て、もし彼が相手のいうままに任せようものならじきに完全に骨抜きにされてしまうであろうから。わたしの見るところでは、鉄道の客車においてもわれわれは安全と便利のためよりは贅沢のために一層金をつかっている傾きがあり、安全と便利とを達成せずに近代的な応接間にひとしいものになるおそれがある。そこには長椅子だの背中あわせの大椅子だの日除ひよけだの、そのほかたくさんの東洋的なしろ物がそなえられているが、それらは、婦人部屋ハーレムの女たちやシナ帝国の柔弱な国人のために発明され、われわれが西洋につたえたもので、米国人ジョナサンはその名を知ることだけでも恥じるべきものなのである。わたしはビロードのクッションのうえにごたごたと詰めあうよりは南瓜かぼちゃのうえに独り占めで坐っていた方がましだ。回遊列車の装飾車に乗って途中有毒な空気を吸い吸い天国にいくよりは、自由に空気の流通する牛車で地上を乗りまわす方がねがわしい。
 原始の時代における人間の生活の単純と赤裸そのものは、少なくとも、それが彼をまだ自然における仮寓者にしておいたという、この利点をもっている。食物と眠りとによって元気を恢復すると彼はふたたび彼の旅路を考える。彼は此の世にいわば幕屋まくやに住めるごとく宿り、あるときは谷間をたどり、あるときは広野をよこぎり、あるときは山の頂きをよじつつあった。ところが、見よ! 人はその道具の道具になってしまった。独り立ちで、餓えた時には木の実をもいでいた人間が農夫となった。身をかばうために木の下に立った者が家持ちとなった。われわれはもはや一夜をあかすための野営をせず、地上に住みついて天を忘れた。われわれは心地しんちの開墾ではなくて単に進歩した地上開墾の一方法としてキリスト教を採用した。われわれは今の世界のために家族の住宅を作り、次の世界のために家族の墓地をきずいた。最高の芸術作品はこの状態から自分自身を自由にしようとする闘いの表現であるが、われわれの芸術の効果は単にこの低調な状態を安楽にし、かのより高い状態を忘れさせるだけであった。この村には、美術作品がわれわれにまでつたわってきたとしてもそれが立つべき場所が実際ない。何となればわれわれの生活、われわれの家と街路とはそのために適当な台座を提供しないからである。画をかけるべき釘もなければ英雄や聖徒の胸像を安置すべき棚もない。われわれの家がいかに作られ、いかに支払われているか――あるいは支払われないでいるか――、いかにその内側の経済が処理され維持されているかを考えてみると、その訪問者が炉棚の上の安ぴか物を褒めそやしている最中に足元の床が落ちて地下室へ彼をころがりおとし、土ではあるが堅くて真っとうな土台までとどかしめないのが不思議なくらいである。わたしには、このいわゆる裕福で洗練された生活が跳びついて掴まえられたものであることが見えすいて、とかくその跳躍の方に気がとられて、飾り物の美術品をおちおち鑑賞できないのである。わたしは記録にのこる、人間の筋力のみにたよる純粋の最大跳躍は、平地において二十五フィートを跳び越えたといわれる、ある放浪のアラビア人のそれであることを思い起こすのである。その距離以上は、人工的な支持のないかぎり、人間はふたたび地に落ちるにきまっている。このようなえらいまやかし物の御主人にわたしが問いただしたくなる第一の質問は、誰があなたの突っかい棒になっているのか、ということである。あなたは失敗する九十七人の一人なのか、成功する三人なのか? こういった質問にまず答えてもらいたい、そうすればわたしは、安ぴか物を拝見してそれを結構だとも思えるかもしれない。荷車を馬の前につけた本末顛倒の格好は美しくもなければ有用でもない。美術品でわれわれの家を飾る前に、壁がはだかにされなければならず、われわれの生活がはだかにされなければならず、そして美しい家政と美しい生活とが土台として据えられなければならない。ところで、美しきものに対する趣味は、戸外で、家もなければ家の経営者もいないところで、最もよくつちかわれるのである。
 ジョンスン翁〔エドワード・ジョンスン、一五九八―一六七二年、ニューイングランドの開拓者の一人〕は彼の『奇蹟をおこなう摂理』のなかで、彼の同時代者であった、この町の最初の植民者たちについてこう語っている、「かれらは最初の住まいとして、丘の下で土中に穴を掘ってはいりこみ、材木の上に土を投げあげて、いちばん高くなっている側で、くすぶる火を土のなかでいた。」彼はさらにいっている、「かれらは神のみめぐみによって大地がかれらをやしなうべきパンをつくり出すまでは家をつくらなかった。」そして最初の年の収穫はいかにもささやかなものだったので「かれらは長いあいだそのパンをたいへん薄く切らなければならなかった。」ニュー・ネザーランド地方の書記長は、そこで土地を占めようと欲する人々の心得のために、一六五〇年にオランダ語で、一層委しくこう書いている、「ニュー・ネザーランド、特にニューイングランドの人たちは最初望みどおりの農家を建てる資力がなく、地上に六、七フィートの深さ、縦横は各自適宜と思うだけの四角い穴を地下室のように掘り、内側をすっかり木材でかこい、土が落ちこんでくるのをふせぐために、木の皮またはその他の物で木材の上を張った。この地下室に板で床を張り、頭上には天井として羽目板を張り、円材の屋根を高く立て、その円材を樹皮または芝土でおおい、かくしてかれらはこれらの家に、かれらの全家族とともに二年、三年、そして四年を湿気なく暖かくくらすことができるようにした。なお家族の大きさに応じてこれらの地下室には仕切りの壁がめぐらしてあった。ニューイングランドの富んで、主だった人々も植民の当初には二つの理由からしてかれらの最初の住居をこういう式ではじめた。第一の理由は、建築のために時間を浪費せず、次の季節に食料不足にならないためである。第二には、かれらが祖国から多数連れてきた貧しい労働者たちを失望させないためである。三年四年とたって、土地が農業に適するようになったところで、かれらは数千金を投じて立派な家を建てた。」
 われわれの先祖が採ったこの方針には、緊急な必要を第一にみたすのがかれらの主義であるらしく、少なくとも慎重の観がある。けれども、今日では緊急な必要は充たされているだろうか? わたしは自分もこのごろの贅沢な住宅を一つ手に入れようかと考えてみてもその気になれない。なぜならば、この国は、いわば、まだ、人間的耕作に適しておらず、われわれはわれわれの精神的パンを、われわれの先祖がその小麦のそれを切ったより、はるかにより薄く切らなければならないからである。わたしは最も粗笨そほんな時期においてさえ、すべての建築上の装飾を閑却せよというのではない。ただ、貝の家のように、われわれの生活に直接触れるところから先ずわれわれの家を美で張りめぐらすべきであって、美を上っかわにかぶせるべきではないのである。しかるに、なげかわしいことに、わたしは一つ二つの家の中にはいったが、その中が何で張りめぐらしてあるかが見え透いた。
 われわれは今日洞穴や小舎ウィッグワムに住み、皮の着物を着て暮らすことができないほど弱体化したわけではないが、人類の発明と産業とが提供する便宜――それは大きな代償と引きかえに獲られたものだが――はこれを受け入れた方がたしかに得策である。この町の近辺のごときでは板や屋根板、石灰や煉瓦などは、格好な洞穴、そっくりそのままの丸太、十分な量の樹皮、また良質の粘土や平石などよりさえ安価であり手にはいりやすい。わたしはこの問題について心得顔で物をいう、わたしはそれについて理論的にも実際的にも事情を知っているからである。ちょっと頭をはたらかせさえすれば、われわれは現今見られる最も富んでいる者より富み、われわれの文明を祝福とすることができるようにこれらの材料を用いうるはずだ。文明人とは、より多い経験をもち、より賢い野蛮人である。――だが、さっそくわたし自身の実験を語ることにしよう。

 一八四五年三月末つかた、わたしは一挺の斧を借り、ウォールデンポンドのそばの森――わたしが自分の家を建てようと思った場所のすぐ近くの――に往き、矢のようにすくすく伸びた、まだ若い白松ホワイト・パインを材木にするために伐りたおしはじめた。物を借りずに仕事に着手するのはむずかしくもあり、一面から考えればそれによって友人たちに自分の企画に対して興味をもたせてやるのはたいへん深切な仕打ちでもある。斧の持主〔オールコット、“Little Women”の著者の父である哲学者〕はそれをわたしに手渡しするとき、これはぼくの眼の玉のような秘蔵品だ、といった。だが、わたしはそれを受けとったときより、もっと鋭利にして返した。わたしが働いたのは心地よい丘の中腹で、松林におおわれ、木の間ごしに池と、松やヒッコリーが生え出ている、森の中に開けた小さな原が見わたされた。池の氷はところどころ解けたところもあるが、まだ大部分張っており、一面に黒ずんだ色をし、水にひたっていた。わたしがそこで働いた日にはすこしばかりの雪がハラハラと降りかかったが、わたしが帰途、鉄道線路に出たときには概して、その黄色い砂の堤は霞んだ大気の中で光りをおびてはるばると延び、レールは春の日に照りかがやき、われわれとともにまたこの年を生き始めようとするヒバリやオオルリやその他の鳥の歌が聞えた。それはのどかな春の日々であった。人間の不満の冬は大地とともに融けつつあり、冬眠していた生命は手足をのばしはじめた。ある日、わたしの斧が柄から抜けたのでくさびにするために緑のヒッコリーを切り取って石でそれを打ちこみ、木を膨脹させるためにそれをそっくり池のくぼみに漬けたときに、わたしは一匹の縞蛇しまへびが水の中に走り入るのを見た。それはわたしがそこにいた間じゅう、すなわち十五分以上も、別に苦にする様子もなく穴の底に寝ていた。多分それは冬眠状態からまだすっかり抜け切らないためだったのだろう。わたしは同様な理由で人間も現在の低調で原始的な状態にとどまっているのだろうと思いついた。もし人間が「春のうちの春」の力が自分たちを呼び醒ますのを感じたならば、かれらはかならずや立ちあがってもっと高くもっと霊的な生き方をはじめないわけにはいかないだろう。わたしはこれよりさき、霜氷る朝に、道ばたに蛇がからだの一部はまだ無感覚で硬ばったまま日の光りがそれを融かすのを待っているのを何度か見うけた。四月一日には雨が降って氷を解かしたが、ひどく霧の濃かった朝のうちに、わたしはさまよい出た一羽の鵞鳥がちょうが池の上をまさぐり歩き、迷い児のように、あるいは霧の精のようにクックッとくのを聞いた。
 こうしてわたしは何日か材木や間柱まばしらや垂木を切り、削っていた。いつもわたしの小さな斧をふるいつつ、あまり人に聞いてもらうような、学者めいた思想も浮かべずに、ただ自分ひとりで歌いながら――

「人々はいう、自分たちは多くのことを知っていると、
しかし、見よ! それらは飛んで往ってしまった――
もろもろの芸術と科学
そして百千の応用は。
人が知っている全部は
ただ吹く風ばかり。」

 わたしは主な材木は六インチ角に削り、間柱の多くは二方だけ、垂木と床材は一方だけ削ってあとは樹皮を残しておいたので、それらはのこぎりで引いたものにくらべて、同じように真っすぐであり、それよりずっと丈夫であった。それぞれの木は元のところで丁寧に※(「木+吶のつくり」、第3水準1-85-54)ほぞつぎにされた――その頃には他の道具も借り入れたのである。毎日森の中で過ごした時間はさほど長くはなかったが、わたしはたいがいバタつきパンの昼の弁当をもって往き、昼には切りおとした松の枝のなかに坐って包み紙の新聞を読んだ。わたしの手には松脂まつやにがべっとりついていたのでパンには松の香がほのかにうつった。仕事が終わるまでにはわたしは松の木の敵というよりは友だちとなった。何本かを伐り倒しはしたが、それと一層お馴染になったから。時々、森をぶらぶらする人間がわたしの斧の音にさそわれて来、われわれはわたしの切り飛ばすっぱとともに愉快なおしゃべりをした。
 四月の中頃になって――わたしは仕事を急がず、できるだけ入念にしたから――わたしの家は骨組ができ棟上げができるばかりになった。わたしはこれより先、板がほしいのでフィッチバーグ鉄道ではたらいていたアイルランド人のジェームス・コリンスの小屋を買い取っておいた。ジェームス・コリンスの小屋はめずらしく立派なものであるという話であった。わたしがそれを見に往ったとき彼は留守であった。わたしは外側を歩きまわっていたが、窓が高くて引込んでいるのではじめは家の中から姿を見られなかった。それは小さな家で、頂きのせり上がった屋根をもっており、塵芥が周囲に堆肥のように五フィートも積んであって、他にはこれといって目だつものもなかった。だいぶ日にさらされてりかえり、もろくはなっていたが、屋根がいちばんしっかりした部分であった。ドアの敷居はなく、そこは年がら年中鶏が出はいりする通路になっていた。コリンスのおかみさんは入口にあらわれて、わたしに中にはいって見てくれ、といった。わたしが近づいたので鶏が追いこまれた。なかは暗くて大部分は土間で湿っぽく、ぬるぬるとし、悪寒おかんをもよおさせるようで、動かしたらぼろぼろになりそうな板がここに一枚、かしこに一枚と敷いてあった。彼女はランプをつけてわたしに屋根と壁との内側、それからまた板の床がベッドの下に張ってあることを見せたが、その際地下室に落ちこまないように注意した。――それは深さ二フィートの塵捨て穴のようなものであった。彼女自身の言葉を借りていえば、「頭の上の板もいいし、ぐるりの板もいいし、窓もちゃんとしている。」その窓はもともと二枚のちゃんとしたガラスが張ってあったのだが、つい先だって猫がそこから出て往ったのだそうだ。そこにはストーヴ、ベッド、坐る場所、そこで生まれた家の赤んぼ、絹のパラソル、金めっきのふちのついた鏡、樫若木に釘づけにした新しい特許コーヒー挽き――全部でそれだけであった。売買はじきに成立した――ジェームスはそのうちに帰ってきたので。わたしは今晩四ドル二十五セントを支払い、彼はその間に他人に売りはらわぬことにして明朝五時に立ち退き、わたしは六時にそれを引取ることになった。早くきて、地代だの燃料代だのを理由とする、あるはっきりしない、しかし全然不当な請求権の機先を制した方がよろしいと彼はいった。それが唯一のもので他には「わく」はないと確言した。翌朝六時に、わたしは、道の途中で彼とその家族に行き会った。一からげの大きな荷がかれらの持物全部を含んでいた――ベッド、コーヒー挽き器、鏡、鶏――猫だけがそれにはいっていなかった。猫は森に飛びこんで野良猫になり、後で聞くところによると、ヤマネズミを捕えるためのワナにかかり、ついにお陀仏となってしまったそうである。
 わたしはその同じ朝のうちに、釘を引き抜いてこの家を取りこわし、車に少しずつ積んで池のそばにもって来、板をそこの草の上にひろげて日にあてて反りを反対側にもどらせた。森のなかの道を車をひいて行くと、早いツグミがひと声ふた声啼いた。一人の若いアイルランド人がわたしに告げぐちしたところによると、これもアイルランド人の隣人シーリーは、わたしが車ではこんでいる留守に、まだちゃんとしていて、真っすぐで、打ち込むことのできる釘やツボ釘や大釘をポケットにしまいこんだそうだが、わたしがもどったときは、何くわぬ顔で、お早ようをいい、のどかそうに取こわしの跡をあらためて眺めまわした。する仕事がないので、と彼はいっていた。彼は見物人を代表してそこにあった、ともいえる。そしてこの一見、とるに足らない事件をトロイの神々のお引越しにも比すべきものにする助けをした。
 わたしはわたしの地下室として、南さがりになっている丘の斜面で、ヤマネズミが彼の穴を掘っておいたところをウルシと黒イチゴの根もとを植物ののもはや達しない深みまで掘り、どんな冬でもジャガイモが凍らない、細かい砂地を底にした、方六フィート深さ七フィートの穴をつくった。側面は傾斜のままにのこし石を積まなかった。しかしいつも日があたらないので砂はもとの位置のままでくずれなかった。この仕事はわずかに二時間ですんだ。わたしはこの土掘りを特に面白くおもった。地球上どこでも人は平均した温度を得るためには穴を掘るからである。都会の最も壮麗な家屋の下にも、昔ながらにかれらがその根菜を貯えておく地下室がいつも見出され、上層の建造物が消えてしまって久しい後までも、後世の人間は地上におけるそのくぼみを認める。家そのものはやはり穴の入口にある一種の玄関にすぎない。
 とうとう、五月のはじめごろ、その必要があるからというよりはむしろ、隣人愛のこんなによい機会を活用するために、わたしは何人かの知人の助けによってわたしの家の棟上げをおこなった。棟上げ人たちの人物においてはわたしほど自慢のできる者は未だかつてなかったろう。この人々は他日もっとけだかい建物を打ち立てるときの助けをする運命をもっているとわたしは信じる。わたしは七月四日、板張りがすんで屋根ができたばかりのところでこの家に住みはじめた。板はていねいに薄刃縁うすばべりにして重ねあわせたので、雨は完全に漏らなかったから。しかし板張りをする前にわたしは、ふた車ばかりの石を両腕にかかえて池から丘にもってきて、一隅に煙突の土台をつくった。わたしは秋に草刈りをすませたのち、煖を取ることが必要になる前になって、炉をつくった。それまでは朝早く、家のそとの地面で炊事をした。その方がある点では普通のやりかたより便利なことがあると、わたしは今でも考えている。パンが焼ける前に雨風がくると、わたしは二、三枚の板を火の上にさしかけ、その下にはいこんで坐りながら、パンの具合をながめたりなにかしてたのしい数時間をすごした。しなければならないことがたくさんあったその頃はわたしは少ししか読書しなかった。しかし地面に敷いた、わたしの入れ物もしくはテーブルクロスとなったわずかの紙切れは、本式の読書におとらぬたのしさをあたえた。実際、『イリアス』と同じぐらいの役をしたのであった。

 わたしがやったよりも、なお一段と念入りな態度で家を建てたら、確かにそれだけの利益はあったことであろう。たとえば、ドアだの窓だの地下室だの屋根裏だのは人間性のうちにどんな根拠をもっているのだろうかと考え、場合によっては、われわれの一時的必要だけ以上の、もっともな理由を見出すまでは地面の上の構造物を決してつくらないというような具合に。人間が自分の家をつくるということには、鳥がその巣をつくるのと同じ適合性がある程度まで存在する。人間が自分の手で自分の住居をつくり、ほんとうに単純に正直に自分と家族とのために食物を支給したらば、ちょうど鳥がそういう仕事をするときにいつも歌うのと同様に、詩的才能が一般に発揮される、ということにもなろう。しかるに、残念にもわれわれは、他の鳥がつくった巣の中に自分の卵を産み、そのおしゃべりと非音楽的な調べで旅びとにすこしもよろこびをあたえないムクドリのごとくカッコウのごとくふるまう。われわれは、いつまでも家を建てるよろこびを大工の手にまかせておくべきだろうか? 人間の大多数の経験において、建築はどれだけのものになっているだろうか? わたしは方々を歩きまわっても一度も人が自分の家を建てるという、そんなに簡単で自然な仕事に従事しているのに出くわしたことがない。われわれは社会に従属する。九人の裁縫師で一人前の人間になる、という諺があるが、裁縫師だけが九ぶんの一人前の人間だというわけではなく、説教師だって商人だって農夫だって同じことだ。この労働の分割はどこまで往ったら止めになるのかしら? それは結局どんな目的にかなうのか? たしかに他人もわたしのことを考えてさしつかえはない、しかし、それだからといって、わたしがわたし自身のことを考えることを排除して、彼がそうするのは望ましくない。
 わが国にはいわゆる建築家たちがいるのは事実である。そして少なくとも、建築的装飾に真実の核心と必然と、従って美とをもたせるという意想を、あだかもそれが自分への天啓でもあるかのごとく、抱いている人間のいることもわたしは聞きおよんでいる。彼の観点からすればそれもたいへん結構であろうが、やはり普通のディレッタンティズムを多く出ていない。感傷的な建築改革家である彼は蛇腹じゃばらからはじめて、土台からはじめなかった。それはただ、すべての砂糖づけプラムがアモンドまたはカラウェイのしんをもつように――わたしはアモンドは砂糖なんか加えない方が衛生によいと思うのだが――装飾のなかに真実の芯をどうして入れようかというのであって、居住者、中の住人が真実に内部的にも外部的にも建築して、装飾は自然の成行きにまかせる、というのではなかった。どの理性ある人間が、装飾とは何か外面的なものであり、単に表皮のうちにある、と想像したことがあろうか、亀がそのまだらの甲を、貝がその真珠母の色あいを、ブロードウェーの住民がそのトリニティ教会を手に入れた請負契約のごときもので、獲たと誰が思おう? ところが人間は自分の家の建築様式には、亀がその甲の模様と没交渉であるのと同様に何の関わりもない。また武人も自己の長所をあらわし示すを自分の軍旗に塗ることを試みるような閑なまねをするを要しない。敵がそれを見出すであろう。試煉の時がきたとき彼は色を失うかもしれない。先ほどのべた、この人物は蛇腹によりかかって、おずおずと彼の中途半端な真理を、実は彼よりもそれをよく心得ている粗野な居住者にむかってささやいているようにわたしにはおもえた。今日見られる建築的の美は、真の意味での唯一の建築家である居住者の必要と性格とにしたがって、内から外へと、徐々に生まれ出たものであることをわたしは知っている――それは外見などは顧慮しない、ある無意識な真実と高雅さとから生じたものである。そして将来加えられるであろうこの種の美は、同様な無意識な生活の美に附随するものであろう。わが国の最も趣味ふかき住宅は、画家の知っているとおり、通常、貧しい人々の控え目で素朴な丸太小舎や田舎家である。そういう家を画のように見えしめるものは、それを自分たちの殻としている居住者の生活であって、単にその外面の何かの特徴ではないのだ。都会人の郊外の小住宅でも、もしその住人の生活が同様に素朴であり人の想像に快感をあたえ、またその住宅の様式が無理に外観の効果を求めないようになれば、同じく趣味ゆたかなものになりうるであろう。建築上の装飾の大部分は文字通り空虚なものであり、九月の嵐は借り物の飾り羽毛のようにそれを吹きとばし、その実質は何の損害も受けずにのこるであろう。地下室にオリーヴもブドウ酒ももっていない人間は建築などなくてもかまわない。文学において文体の装飾に同じくらいのうき身がやつされ、われわれの聖書の建築者が、われわれの教会の建築家がするのと同じに、聖書の蛇腹について同じぐらいの時間をついやしたとしたらばどうなったろう? そのでんで美文とか、美術品とか、それらの教授プロフェッサーとかができたのである。実際、二、三本の棒がいかに彼の上で、または下で、はすかいに置かれるかが、そして彼の住む箱にどんな色がなすられるかが大問題なのだ。それでも、もし、いくらかでも真剣な意味で、彼がそれをはすかいに置き、それを塗ったのなら多少の意義があるであろう。しかし内なる住人から魂が抜け出しているのだから、それは彼自身の棺をつくるのと――墓の建築と一般であり、「大工」は「棺桶製作人」の別名にほかならない。ある男は人生に対する絶望から――あるいは冷淡さから――こういった。――足もとの土をひとにぎりすくいあげ、その色でお前の家を塗れ、と。彼は彼の最後の狭い家である墓のことをかんがえているのだろうか? 銅貨をほうり投げてその裏、表、によってそれを決めるのもよい。何という莫大な時間がはぶけることか! だが、何もひとにぎりの土をすくうこともない。君の家を君の顔の色で塗った方がよい、それを君にかわって青ざめさせたり、赤面させたりしたらよい。田舎家建築の様式を改良する企てだって! 諸君がわたしの装飾をととのえてくれたら、わたしはそれを身につけようさ。
 冬になる前にわたしは煙突をきずき、すでに雨が透らないようになっていた家の側面をこけら板で張った。その板は丸太の外側を削ったものでできた不完全な生々なまなました板で、わたしはそのはじをかんなで真っすぐにしなければならなかった。
 こうしてしっかりした、こけら葺きで漆喰塗りの家ができあがった。間口十フィート、奥行き十五フィート、柱の高さ八フィート、屋根裏部屋と押入れ、両側に一つずつ大きな窓があり、二つの落し戸、一方のはじに一つの扉、その反対側に煉瓦の炉があった。わたしの家の建築費の明細――わたしの使用した材料に対して普通の値段を支払い、全部わたしが自分でした手間代は抜きにして――は次のとおりである。ごく少数の人しか自分の家の値段はいくらであるか正確なところをいうことができず、それを構成する各種の資材のそれぞれの値段をいえる者は、もしあるとしてもなおさら少ないから、わたしは細目にわたることにする――

板            八ドル・〇三五   大部分は仮小屋の板
屋根と側面との屑こけら板 四・〇〇
木舞           一・二五
古物窓二個、ガラスとも  二・四三
古煉瓦一千個       四・〇〇
石灰二樽         二・四〇    これは高かった
毛            〇・三一    必要量以上であった
煖炉※(「木+眉」、第3水準1-85-86)鉄材        〇・一五
釘            三・九〇
蝶ツガイとネジ      〇・一四
カケガネ         〇・一〇
白堊           〇・〇一
輸送費          一・四〇    自分で背中にしょってはこんだのも多い
      合計    二八ドル・一二五

 右が、居据り人の権利としてわたしが勝手に使用した材木、石、砂をのぞいての、すべての材料であった。わたしはまたすぐそばに小さな木小屋を建てたが、それは家を建てたあとに残った材料で主にできている。
 わたしは今の家と同じぐらいわたしを喜ばせ、それ以上に金のかからないものができるのなら早速、その宏壮と豪奢においてコンコードの主要道路に立っているどれをも凌ぐような家を建てるつもりでいる。
 こうしてわたしは、雨露をしのぐ場所をのぞむ学徒は、彼が現在年々払っている家賃を越えない入費で生涯住める家をもつことができるということがわかった。わたしが法外に自慢するように思えるとしたら、それに対するわたしの弁解は、わたしは自分一個のために大言壮語するのではなく人類一般のためにそうするのである、ということである。そしてわたしの欠点や矛盾はわたしの言の真実性に影響をあたえるものではない。多くのお体裁と偽善――それはわたしの小麦から引きはなすことがなかなかできない籾殻であり、それに対してはわたしも人並みに遺憾に思っているのだが――とにかかわらず、この点にかけてはわたしは自由に息をつき、存分に手足をのばすつもりだ。それは道徳的組織にも肉体的組織にも非常なくつろぎである。そしてわたしは謙遜であらんがために悪魔の代弁人となるようなことはしないことに極めた。わたしは真実のために、善い言葉を発しようと試みるつもりだ。ケムブリッジ大学(今のハーヴァード大学)では、わたしのにくらべてほんの少々広いだけの学生の部屋の間代だけが年に三十ドルである。大学当局は三十二室をならべて一つ屋根の下につくるという有利さをもっているのに、そしてその居住者は多くのそしてさわがしい隣人をもち、また多分四階にすむという不便をしのばなければならないのに。わたしは、もしこれらの点についてわれわれが一層多くの真の知慧をもっていたとしたらば、教育はもっと少なくてたぶん事足りる(なぜならば、ほんとのところ、それまでにもっとたくさんが獲られているだろうから)ばかりでなく、教育を受けるための金銭的費用も大半消えるだろうと思わざるをえない。ケムブリッジまたはその他の場所で学生が必要とする便宜は、学生当人および周囲の誰かの両方側において適当な処置が講ぜられたとした場合よりも十倍も多くの人生の犠牲をかれらにはらわせているのである。そのために最大の金銭が要求されている事物は決して学生が最も欲している事物ではない。例えば授業料は学期の支払い中の重要な項目であるが、彼の同時代者中のもっとも教養のふかい人々と接することによって獲られる、はるかに一層価値のある教育に対しては何の料金も課されない。大学を創設する方法は通常、何ドル何セントという寄附を催し、それから労働の分割の原則――これは十分慎重な用意をもってでなくてはおこなってならない原則である――を盲目的に極端にまで押しすすめ、それを投機の道具とする請負人をび入れ、その請負人は基礎工事をするためにアイルランド人その他の職人を実地に使用する、というやり方である。その間これから学生となるべき者たちは学校に自分たち自身を適応させつつあるといわれる。こういった手落ちのためにつぎつぎの世代がつぐないをしなければならないのだ。学生、もしくはそれによって利益をうけようと欲する人々にとって、基礎工事を自分たち自身でやるとしても、このやり方よりはまさるであろうとわたしは考える。人間にとって必要ないかなる労働をも全面的に避けることによって、ほしくてたまらない閑暇と静かさとをかち獲た学生は、それのみが閑暇を有効なものにすることのできる経験を自分自身からあざむきうばうのであって、不名誉な無益な閑暇を手に入れるにすぎない。「しかし」と人は問う、「あなたは、学生がその頭でなくてその手で働くべきだと主張なさるつもりではないでしょう?」わたしは正にその通りを意味するのではないが、彼がだいぶそれに似かよっていると考えるかもしれないことを意味するのだ。わたしは、社会がかれらをこの入費の多い仕事において支持しているあいだに、かれらが人生をあそんだり、あるいは単にそれをまなんだりしているべきではなく、真剣にはじめから終りまでそれを生きるべきであると主張するのだ。青年は、ただちに生きることの実験をこころみることによるよりも生きることをどうして一層よく学びえようか? そうすることは数学と同様にかれらの心を練磨するだろうと思われる。例えば、もしわたしが少年に学芸や科学について何事かを知らせようと思えば、わたしは彼を単にどれかの教授の手許におくるというありきたりの道をふみたくない。そこでは生きることの技術以外のいろいろのことが教授され練習される。世界を望遠鏡や顕微鏡をとおしてながめるが、しかし彼の自然の眼をとおして眺めない。化学をまなんで、彼のパンがどうして作られるかを知らず、機械学をまなんで、どうしてそれが獲られるかを知らない。海王星の新しい衛星を発見しても、自分の眼のうちの塵が見つけられず、あるいは自分自身がどんな浮浪者の衛星になっているかに気がつかない。あるいは、酢の一滴の中にいる怪物を観察しながら、彼の身のまわりにむらがり寄る怪物にむさぼりくらわれてしまう。そうするために必要なだけの読書をしつつ、自分で掘り出して溶かした鉱石から自分自身のジャックナイフを作った少年と、その間に研究所における鉱物学の講義に出席し、父親からロッジャーの懐中ナイフをもらった少年と、一カ月ののちにどっちが一層進歩をとげるであろうか? どっちが自分の指を切る可能性が多いだろうか?……驚いたことに大学を出るときわたしは航海学を修了したと告げられた!――何たることだ、もしわたしが港からひと乗り出しをしたなら、わたしはそれについて一層多くを知ったであろうに。貧しい学生すら学問をし、政治経済学だけを教えられるが、哲学と同意語である、あの生活の経済学はわれわれの諸大学では誠実に教授されさえしない。その結果として彼はアダム・スミスやリカードーやセーを読みながら、自分の父を抜け出られないほどの借金におとしいれる。
 われわれの大学の実状と同様なことが百の「近代的改善」についてもいえる。それらについて世人は幻想をいだいている。そこには常に確乎たる進歩があるわけではない。悪魔は彼の最初の出資とその後の何回も引つづいての投資に対して最後まで複利をしぼりつづける。われわれの発明は、われわれの注意を真面目な事物かららす、うつくしい玩具であるのを常とする。それらは改善されない目的を達するための改善された手段にすぎず、鉄道がボストンまたはニューヨークにみちびくように、到達するのに既にあまりに容易になってしまった目的を達する手段である。われわれはメーン州からテクサス州に電信を架設しようと大いに急いでいる。けれどもメーンとテクサスとは通信すべき何の重要事をもたないかもしれない。両者は、地位ある、耳の不自由な婦人に紹介されることをしきりに望んでいたが、いよいよ引き合わされて、彼女の聴音器の一端が自分の手にわたされると、何にもいうことがなかったという男のような境遇にある。主要な目的は速く語ることであって、物のわかった語りぶりをすることではないかのようである。われわれは大西洋の底をうがって旧世界を数週間だけ新世界に近づけようと躍気になっている。しかし、幅の広いぺらぺらしているアメリカの耳に最初に洩れ聞こえてくるニュースはことによるとアデレード王女が百日咳にかかったということかもしれない。結局、一分間に一マイルを早駆けする馬に乗った男が、最も重大な報知をもたらすわけではない。彼は福音をつたえる者ではなくイナゴと野蜜を食いながらやってくる予言者ではない。有名な競走馬フライイング・チルダースは一ペック〔約九リットル〕の穀物でも粉挽き場にはこんだことはあるまい。
 わたしにこういうことをいう人もある、「君はどうして金を溜めないのだね、君は旅行が好きなのだろう? 君は今日にも汽車に乗ってフィッチバーグに行き、あの土地を見物できるのに。」だが、わたしはもっと利口なのだ。わたしはいちばん速い旅行者は徒歩で行く人間だということを知っている。わたしはわたしの友人にいう、「君と僕とどっちが先にそこに往けるか考えてみよう。あそこまでの距離は三十マイルで、汽車賃は九十セントだ。これはほとんど一日分の賃銀だ。わたしはこの同じ道路で仕事をした労働者の賃銀が一日六十セントだった頃をおぼえている。さて、僕は徒歩で今出発し、夜にならないうちにそこに着いてしまう。わたしはまる一週間ぐらい、その割合で旅行したことがある。君はその間に君の賃銀をかせぎ、明日の何時かにそこに到着するだろう。もし君が運よく早めに仕事にありつけたら今晩中にそこに着けるかもしれない。いずれにしても君は一日の大部分をフィッチバーグに行くかわりにここで働いていることだろう。こうして、鉄道が世界をぐるりと廻って延びてもわたしはいつまでも君よりは先にいることだろう。知らない土地を見、そういう種類の経験をつむことについては君とお付き合いしてはいられない。」
 これが普遍的法則であって何ぴともそれを出し抜くことはできない。鉄道についてもわれわれは、つまりは同じことであるということができる。世界を一周する鉄道を人類全体が利用できるものにすることは、地球の表面全体を道ならしをするのと同等なことになる。人は漠然と、もしかれらがこの株式組織と工夫こうふの鋤との活動を長くつづけてさえいけば、いつかは誰も彼も、またたくまに、無料で、どこかに乗って往けるようになるだろう、などと考えている。しかし、群集が停車場に殺到し、車掌が「皆さん、御乗車ください!」とさけんでも、煙が吹きはらわれ、蒸気が水滴にこごってしまうときになって見ると、乗って往った者はわずかで、あとはこぼれ落ちてきころされている。そしてそれは「悲しむべき事故」とよばれるであろうし、また正にそうでもある。乗車賃をかせぎためた人間はたしかに結局は乗ることができよう、ただし、かれらがそれまで生きのびていられたとしての話だ。だが、かれらはその時分にはおそらく旅行するだけの弾力と欲望とを失っていることだろう。こんなふうに、人生のいちばん価値の少ない時期において疑わしい自由を享受しようがためにその最大部分を金もうけのためについやすことは、わたしに、あるイギリス人が、後日英国に帰って詩人としての生活をしようがために、まずひと財産をつくるためにインドに往った話を思い出させる。彼はただちに屋根裏部屋にあがるべきであった。「何だ!」と百万のアイルランド人がその土地のすべての仮小屋から飛び出してさけぶ、「われわれの作ったこの鉄道は結構なものではないのか。」「さよう」とわたしは答える、「比較的結構です。――諸君はもっとろくでもないことをしたかもしれなかった、という意味です。だが、諸君はわたしの兄弟だからいうが、わたしは諸君がこんな土ほじくりをするよりはもっとましな時間のついやしようがあったろうにと思うのです。」

 わたしは家を作りおわる前に、わたしの臨時の出費にあてるために何か正直で愉快な方法で十ドルか十二ドルもうけたいと思ったので、家の近くの軽く砂の多い土の二エーカー半ばかりの大地に主としてソラ豆を播き、他に少しばかりジャガイモ、トウモロコシ、エンドウ豆、かぶを作った。地所全体は十一エーカーあり、大部分は松かヒッコリーが生えており、前の季節にはそれが一エーカーについて八ドル八セントで売れた。ある農夫はこの土地を「どうにもならない土地で、ただキイキイくリスがのさばるだけだ」といった。わたしは所有者ではなくただ占拠者だったからそこに肥料は全然ほどこさず、またふたたびそんなに広くは耕すつもりがなかったので、一度も全体にわたって草取りをしたことがなかった。耕す際に切株を幾山か掘りおこしたが、それは長いあいだ燃料として役だち、またそのあとの新土あらつちの円い小さな輪は、夏じゅうそこだけ一層よく豆が茂ったのではっきり見わけがついた。家のうしろにある、大部分売り物にならない枯木と、池から引きあげた流木とはわたしの燃料のおぎないとなった。土おこしにはひと組の家畜と一人の人を雇わなければならなかったが鋤は自分でもった。わたしの畠の第一期の支出は農具、種子、手間代、その他で、十四ドル七十二セント半であった。トウモロコシの種は人からもらった。これは、必要以上作るのでなかったら値段はいうに足らない。ソラ豆は十二ブッシェル〔一ブッシェルは約二十七キログラム〕、ジャガイモは十八ブッシェル、他に少々のエンドウと甘トウモロコシとを収穫した。黄トウモロコシと蕪は季節おくれだったので物にならなかった。わたしの畠の全収入は左のとおりであった。

      二三ドル四四セント
支出    一四ドル七二セント半
差引残高   八ドル七一セント半

 他に、この見積りがなされた時までに消費したぶんと手もちの作物四ドル五十セントにあたるものがあった――これでわたしが自分で作らなかった少しばかりの草の代金をまかなって十分にあまりがあった。あらゆる点を計算してみると――すなわち、人間の魂と今日の時の重要さを考えてみると、わたしの実験が短い時日であったにもかかわらず、否、ある点までかえってその一時的な性質の故に、これはこの年にコンコードにおけるどの農夫が挙げたよりもまさった成績だったと思う。
 次の年はわたしは一段とうまくやった。わたしはわたしの必要としたすべての土地――一エーカーの約三分の一――を鋤き起こした。そしてわたしは、アーサー・ヤングをも含めて多くの農業上の有名な著作によって少しも恐れ入ることなく、二年間の経験からしてこういうことを悟った。もし人が単純な生活をして、自分の作ったものだけを食べ、自分が食べるだけしか作らず、わずかばかりの贅沢で高価な品物とそれを交換しようとしないならば、わずかに数ロッド〔一ロッドは約五メートル〕の地をたがやせば足りること、そしてそれをたがやすのに牛を使用するより自分で鋤を入れたほうが、古い畠に肥料をほどこすよりは時々新しい土地をえらんだ方が、安くつき、すべての必要な仕事を、いわば自分の左手で夏の間の片手間にすることができ、現在のように牡牛か馬か牝牛か豚かに追い使われずにすむということ、を悟ったのである。わたしはこの点については公平に、現今の経済的および社会的組織の成功もしくは失敗に関与しない者として語りたいと思う。わたしはコンコードにおけるどの農夫よりも独立的であった。わたしは家または畠にしばりつけられず、そのときどきにわたしのたいへん風変りな性向のおもむくままにしたがうことができたから。すでにかれらより暮しむきがよいばかりでなく、もしわたしの家が火事になり、わたしの収穫が不作におわっても、その以前とほとんど変りがないほど平気だったろう。
 わたしはいつも、人間が家畜のもちぬしであるよりも家畜の方が人間の主人であり、家畜の方がずっとより自由であると考えている。人間と牡牛は仕事を交換する。けれども必要な仕事だけを考えてみれば、牡牛の方がずっと有利な立場にあり、かれらの畠ははるかに一層大きいことがわかるであろう。人は交換仕事の自分の部分を六週間の乾草つくりという形でするがそれはなまやさしい仕事ではない。たしかに、すべての点において単純な生活をする国民――哲学者たちである国民は、動物の労働を使用するなどという大きなあやまちを犯さないであろう。なるほど哲学者たちの国というのはいまだかつてなかったし、近いうちにありそうもなく、わたしもそれがあらわれるのが望ましいかどうか確かではない。しかしわたしは何かわたしの仕事をさせるために馬や牛をらし、それを下宿させておくようなことはしない。わたしが単なる馬方うまかたまたは牛飼いになることを恐れるからである。また社会はそうすることによって得をするように見えるにしても、一人の人間の得がも一人の損になることもあるし、厩番うまやばんの少年も主人と同じく満足させられるべき平等の理由をもっているかもしれない。ある種の公共的事業はこういう援助がなくては建設できなかったろうということは認め、人間をして牛や馬とともにその仕事の光栄をわかたしめるとしても、人間はその場合もっと人間たるに値いする仕事を達成できなかったのだとはいえまい。人間がかれらの助力をもって、不必要または技巧的であるばかりでなく贅沢で無益な仕事をしはじめると、少数の人間が牡牛との交換仕事の全部をすること、換言すれば、最強者の奴隷となることが避けられなくなる。かくして人間は彼の内なる動物のために働くばかりでなく、この事実の象徴として彼の外なる動物のために働くようになる。われわれは多くの煉瓦や石造のしっかりした家屋をもっているが、農夫の繁栄は今なお作物納屋が住宅を蔭らす程度によって計られている。この町はこの近辺で牡牛牝牛や馬の最も大きな家をもっているといわれているが、公共の建物においても他におくれを取ってはいない。しかもこの郡には自由な礼拝と自由な言論のための会堂ははなはだ少ないのである。もろもろの国民が後世に自らを記念しようという努力はその建物によってであってはならない。彼等の抽象的思索の力によってだって良かろうではないか。東洋のすべての廃墟よりも『バガヴァット・ギーター』〔紀元前一世紀頃につくられたサンスクリットの詩〕ははるかに一層讃嘆に値いするではないか! 塔や神殿は王侯のおごりである。簡素独立の心は王侯のさしずによって立ちはたらくのではない。天才は皇帝の臣下ではなく、その材料はごく少量をのぞいては金・銀・大理石ではない。どんな目的でいったい、あんなに多くの大理石が打ちたたかれるのか? わたしが※(始め二重山括弧、1-1-52)アルカディア※(終わり二重山括弧、1-1-53)〔古代ギリシャの地名で理想郷〕に往ったときには、大理石を打ちたたいているのを見たことがない。各国民はかれらがのこす打ちたたかれた大理石の量によって自分たちの記憶を永久にしようという狂気じみた野心に取りつかれている。同量の労力が自己の態度をととのえ磨くことにそそがれたらどんなものだろうか。一片の賢さは月にとどく記念碑よりも長く人の心にとどまるであろう。わたしは所をえた石を見る方をこのむ。エジプトのテーベの町の宏壮は低俗な宏壮であった。正直な人間の畠をかぎる数フィートの石垣は人生の真の目的からはみ出した百の門をもったテーベよりっとうなものである。異国的な異教的な宗教と文明とは壮大な殿宇をきずくが、キリスト教とよばれうるものはそんなことをしない。国民が打ちたたく石は多くはただその墓にもっていかれる。国民は生きながら自らを埋める。ピラミッドにいたっては、ナイル河に漬けて溺らし死骸は犬にやってしまった方が賢くもあり男らしくもありそうな誰かつまらぬ野心家の墓をきずくために、そんなに多くの人間がその生涯をついやすほど賤しくありうるという事実以外にはさして驚嘆すべき何物もそこに存しない。わたしはかれらとその男のために何かの弁解を考えだすことができるかと思うが、そんな暇をもっていない。建築者の宗教と芸術愛にいたっては、それがエジプトの神殿の建築だろうと合衆国銀行のそれであろうと世界じゅうどこでも大して変りはない。それは費えは多く、得るところはその割りにすくない。大根おおねは虚栄心であり、それがニンニクとパンとバターとの愛によってささえられているのである。前途有望な若い建築家バルカム君が彼のヴィトルヴィウス〔古代ローマの建築家〕の建築書の裏に鉛筆と定規で設計図を引き、石工のドブスン・アンド・サンズに仕事が請負わされる。三千年の歳月がそれを見おろしはじめると、人間はそれを見あげはじめる。かの高い塔や記念碑についていえば、かつてこの町にシナまで穴を掘ることをくわだてた気狂いがいたが、そのいうところによると彼はシナの鍋や釜がカチャカチャ鳴るのが聞こえるとこまで往ったそうである。だが、わたしは彼が掘った穴を見にわざわざ出かける気はしない。多くの人間は西洋や東洋の記念物を気にして誰がそれを作ったのか知りたがっている。わたしとしてはその当時誰がそんなものを作らなかったかが知りたいのだ――誰がそんなものを超越していたかを。――だが、わたしの統計のはなしをすすめよう。
 一方においてわたしは測量や大工やその他いろいろな、村の日雇い仕事によって――わたしは両手の指の数ほど職業をもっている――十三ドル三十四セントをもうけた。八カ月間――すなわちこの出納表をつくった七月四日から三月一日までのあいだ(わたしは二カ年以上そこに住んだのだが)――の食費は次のとおりであった。(自作のジャガイモ、すこしばかりの青トウモロコシ、エンドウ豆は勘定に入れず、また最後に手許にのこったぶんの価格は考慮してない。)

米         一ドル・七三半
糖蜜        一・七三    いちばんやすい甘味料である
ライ麦碾割ひきわり     一・〇四※(4分の3、1-9-21)
トウモロコシ碾割  〇ドル・九九※(4分の3、1-9-21)   ライ麦より廉い
豚肉        〇・二二
小麦粉       〇・八八    (金からいっても手数からいってもトウモロコシ碾割より高くつく)
砂糖        〇・八〇                │
ラード       〇・六五                │
林檎りんご        〇・二五                │
乾林檎       〇・二二                ├すべて失敗に終わったこころみであった
甘藷        〇・一〇                │
南瓜かぼちゃ一個      〇・〇六                │
西瓜すいか一個      〇・〇二                │
塩         〇・〇三                ┘

 左様、わたしは全部で八ドル七十四セント食った。だが、もしわたしが読者諸君の多くもわたしと同罪であることを、諸君の行ないも活字にしてみれば似たようなものであることを知らなかったら、わたしはこんなに恥知らずにわたしの罪を公開しなかったろう。次の年にはわたしは時々食膳にのぼせるためにひとすくいの魚を取った。一度はわたしの豆畠を荒らしたヤマネズミをぶち殺すことまでやった――韃靼人だったんじんの言葉を借りていえば彼の転生輪廻てんせいりんねを実施し――半ば実験的な気持で彼をむさぼり喰らった。それは麝香めいたにおいにかかわらず、一時的味覚をたのしませたが、常用するのは善い習慣ではないと判った。村の肉屋にそのヤマネズミをちゃんとりょうらせたらどんなものだか知らぬが。
 同じ期間内の衣料費および臨時的出費は八ドル四十セント四分の三になっているが、この項目からは特に得るところもないであろう。
油、および諸道具     二ドル
 洗濯とつくろいはたいがい外に出したが勘定書きがまだ来ないから除くとして、結局わたしの金銭支出は全部で次のとおりであった――これは世界のこの地点で金銭の支出が必要である筋の全部、いや全部以上である。

住居           二八ドル・一二※(2分の1、1-9-20)
畠(一年分)       一四・七二※(2分の1、1-9-20)
食費(八カ月分)      八・七四
衣類、その他(八カ月分)  八・四〇※(4分の3、1-9-21)
油、その他(八カ月分)   二・〇〇
       合計    六一・九九※(4分の3、1-9-21)

 さて、わたしはここで読者諸君のうちで自活しなければならない人々に呼びかけるが、これに対処するためにわたしは畠の作物として、
二三・四四ドル
を売り、
日雇い労働の賃銀、
一三・三四ドル
合計
三六・七八ドル
を獲た。
 これを支出額から差引くと、一方においては二十五ドル二十一セント四分の三の差額があり――これはわたしが当初もっていた資金にほぼ等しく、また将来要すべき出費の程度でもある――他方においては、かくして確保された閑暇と独立と健康との他に、わたしが住んでいたいだけ住んで居られる気持のよい家があるのである。
 これらの統計は、偶然的なものであり、したがって教えるところが少ないと思われるかもしれないが、ともかくある完全さをもっているのだから、やはりある価値はもっている。わたしは貰ったものに対してはすべて何らかの差引計算をしておいた。右の計算書から見ると、わたしの食物だけが一週間に金にしておよそ二十七セントになるらしい。それは、このとき以後ほとんど二年間は、イーストなしのライ麦とトウモロコシの碾割ひきわり、ジャガイモ、米、ごく少量の塩豚、糖蜜、塩であり、わたしの飲料は水であった。インドの哲学を熱愛したわたしが米を主食にするのはふさわしいことであった。執拗なあら探し屋たちの非難に対抗するために、わたしは時々よそで食事をした――わたしはしょっちゅうそうしたし、これからもそうする機会をもつであろうが――としても、それはしばしばかえってわたしの家計に不利をおよぼしたということを附言しておいた方がよかろう。が、よそで食事することは前述のとおり恒常的要素であるから、このような比較的な陳述にはすこしも影響をおよぼさないのだ。
 わたしは二年間の経験から、この北寄りの緯度においても自己に必要な食物をうることが信じがたいほどわずかな労力で事足ることを、また、人間は動物と同じような簡単な食事をしてしかも健康と活力とをたもつことができることをまなんだ。わたしはわたしのトウモロコシ畠で摘んだスベリヒユ(Portulaca oleracea)を煮て塩をくわえた料理だけで満足な――いろいろな点で満足な――食事をした。わたしはしゅの名の oleracea(料理用の、という意味)が食欲をそそるのでラテン語の学名を挙げたのだ。そしていったい、物のわかった人間が平和の時代、あたりまえの日の正午に、青い甘味トウモロコシの煮たのに塩をふりまいたのを何本か十分なだけ食べる以上の何を望もうか? わたしが用いた少しばかりの変化でさえ、健康の要求ではなくて食欲のそれに妥協したのである。しかも人はしばしば必要物の欠乏からではなく贅沢品の欠乏から死ぬような境涯におちいっている。わたしは、自分の息子は飲み物として水ばかり飲んでいたので死んでしまったと考えている、ちゃんとした婦人を知っている。
 読者はわたしがこの問題を食養的観点よりは経済的なそれから扱っているとみとめるであろう。そして彼は豊富にたくわえられた食料品室をもたないかぎりはわたしの粗食を敢えて実験しようとしないだろう。
 パンははじめ純粋なトウモロコシ粉と塩とで作った――正にホーケーキ〔綿畠用の鍬のひらで焼いたことにちなむ〕であった。それをわたしは戸外で、屋根板か、わたしの家を作ったとき挽きおとした材木切れのはしに載せてわたしの火の前で焼いたのだから。しかしそれは煙でいぶされ松脂くさい香りがつくのを常とした。小麦もこころみたが、結局ライ麦粉とトウモロコシ粉とをまぜたのがいちばん便利で口あたりもよいのを発見した。寒い季節にこのパンの幾個かを順々に焼きながら、エジプト人が卵のかえるのを見まもるように注意ぶかく、気をつけ、ひっくり返すのはなかなかのたのしみであった。それらはまさにわたしが熟させた穀物の果実であった。そしてそれらはわたしが布にくるんで、できるだけ長く保存しておいた他の立派な果物のそれに似た香気をわたしの感覚にあたえた。わたしは古くからあって必要欠くべからざるパン製造の技術を研究してみた。手に入るかぎりの権威を参考し、木の実や肉の野蛮さから人がはじめてこの食物の温和と洗練とに達した原始の時代と最初の酵母なしのパンに遡り、徐々にくだってわたしの研究を近代にむけ、あの偶然に捏粉ねりこが酸くなって醗酵の方法を教えたものと考えられる段階を経、その後の各種の醗酵法を経て、生命の糧たる「良い、うまい、からだのためになるパン」にいたるまでをたどった。ある人々がパンの魂であり、その細胞組織をみたす精であると見なし、カマドの神ウェスタの火のように敬虔に保存される酵母を――メイフラワー号ではじめてもたらされた尊いその幾瓶かがアメリカのためにその仕事をなしとげ、その影響は今なおこの国土でケレス〔穀物の女神〕の祭りの大波をなしてあふれ、高まり、みなぎっているのだとわたしは考える――このパン種をわたしは定期的に忠実に村から買っていたが、ところがある朝とうとうわたしは規則をわすれてイーストを焼いてしまった。この事故によってわたしはこれさえも不可欠のものではないことを発見した――わたしの発見は綜合的方法によるものではなく分析的のそれによるものだったから――そしてわたしはそれ以来よろこんでそれなしですませた。たいがいの主婦は、イーストなしの安全で滋養のあるパンはありえない、と熱心にわたしに説き、年輩の人々は活力がたちまち衰えるだろうと予言したけれども。だが、わたしは、それが必要欠くべからざる要素でないことを見出し、一年間それなしですごした今なお、生きた人間の国にいる。そしてわたしは、ポケットに入れてひと瓶をはこぶわずらわしさをまぬがれて喜んでいる。それは時としては飛び出して中味がこぼれてしまい、わたしをしょげさせることがあったのだ。それなしですます方が簡単でもあり立派でもある。人間は他のどの動物よりも、すべての気候や境遇に自らを適応させることのできるものである。わたしはまた、塩もソーダも、その他の酸もアルカリもわたしのパンのなかに入れなかった。わたしはマルクス・ポルキウス・カトーが紀元前約二世紀にあたえた処方にしたがってそれを作ったと思われるかもしれない――“Panem depsticium sic facito. Manus mortariumque bene lavato. Farinam in mortarium indito, aquae paulatim addito, subigitoque pulchre. Ubi bene subegeris, defingito, coquitoque sub testu.”これをわたしはこう解する――「捏粉ねりこのパンをこう作れ――手と桶とをよく洗え。粉を桶に入れ、徐々に水を入れ、それを完全にねよ。よく捏ねおわったら形をつくり、蓋をして(すなわち、焼き釜に入れて)焼け。」酵母についてはひと言もない。けれどもわたしはこの生命の糧のパンをしょっちゅう用いたわけではなかった。一時は財布が空っぽになったため、ひと月以上もこれを口にしなかった。
 すべてのニューイングランド人はこのライ麦とトウモロコシの土地で自分自身のパン材料を全部わけなく作ることができ、そのためには遠方で、変動のある市場に依存する必要はない。しかるにわれわれは単純と独立とをはなはだ多く失っていて、コンコードにおいては新鮮で美味な碾割粉はめったに店で売っておらず、もっと粗い形の碾割トウモロコシとトウモロコシ粒とはほとんど誰も用いない。大部分の農夫は自分で作った穀物を牛や豚にやり、少なくとも一層滋養に富んでいない小麦粉をより高い値段で店から買っている。わたしは自分用のライ麦とトウモロコシとの一、二ブッシェルを雑作なくつくれることがわかった。前者はいちばん貧弱な土地でも育つし、後者だって良い土地が必要ではないから。そしてそれを手臼で挽けば、米だの豚肉だのはなくてすませる。そして是非濃厚な甘味がほしければ南瓜かぼちゃ甜菜てんさいから良い糖蜜がつくれることを実験して発見した。それからさらに一層容易にそれをうるためには数本の砂糖楓を植えつけさえすればよく、それがそだつあいだのつなぎには今あげた品のほかのいろいろな代用品を用いることができるのを知った。なぜならば、われわれの先祖が歌ったとおり、

「われらは南瓜、オランダ防風、胡桃くるみの木のはしにて
われらの口を甘くする液をつくりうる。」

 最後にあの日用品中でもいちばん卑近な塩にいたっては、これを手に入れようとすることは海岸をおとずれて見るよい機会でありうる。もし全然それなしですますときには、わたしは多分水をのむ量を少なくするであろう。わたしはインディアンがわざわざそれをもとめた話を聞いたことがない。
 かくてわたしは食物が関するかぎりではすべて商売や交換を避けることができたし、住居はすでにあったので、あとは衣服と燃料とを手に入れればよいわけである。わたしが今はいているズボンは農家で織られたものである――人間にまだそれだけの能があるのはありがたいことである。わたしは百姓から職工への堕落は人間から百姓への堕落とおなじぐらい大きくそして記憶すべき事件であると考えるものである。それから、燃料はむしろ新しい土地においては邪魔物である。居住地については、もしわたしが居据わりつづけることを許されないのなら、わたしが耕した土地が売られたのと同値、すなわち、八ドル八セントで一エーカーを買ってもかまわない。しかし、実のところ、わたしは居据わることによってこの土地の価値を引き上げたと考えている。
 世には懐疑的な種類の人々がいて時々わたしに、野菜食ばかりで生きていけると思うのか、というような質問をする。わたしは問題の核心をくために――なぜならば核心は信念であるから――わたしはそういうやからに対して、大釘を食ったって生きていけると答えてやるのを常とした。かれらがそれを理解できないなら、かれらはわたしの言おうとすることを概して理解できないのだ。わたし自身はこの種の実験がこころみられるのを聞くのをよろこぶ。――ある若い男がすべての臼の代りに自分の歯をもちいて、穂のままの硬いなまのトウモロコシを食って二週間生きることをこころみた話の類を。リスの一族は同じことをこころみて成功している。人類もこれらの実験に興味をもつ、ただし、そういう芸当のできない、あるいは、亡夫の遺産の三分の一を製粉工場の形でもっている、少数のおばあさん連はびっくりするかもしれないが。
 わたしの家具――その一部は自分でつくったものであり、残りはわたしが計算書に記入した以外には一文の出費もかからなかった――それはベッド、テーブル、机、椅子三脚、直径三インチの鏡、火箸と炉の薪架まきうま、湯わかし、鍋、フライパン、柄杓ひしゃく、洗い鉢、ふた組のナイフとフォーク、三枚の皿、コップ、スプーン、油瓶、糖蜜瓶、漆ぬりのランプ、から成っていた。誰だって南瓜のうえに坐らなければならないほど貧乏ではない。そんなのは能なしというものだ。村の屋根裏部屋にはわたしが持っていくならわたしのものになる、十分わたしの気に入りそうな椅子がたくさんある。家具! ありがたいことにわたしは家具の倉庫の助けをかりなくても坐ることができ立つことができる。自分の家具が荷造りされて車にのせられ、日の目と人目にさらされて田舎に出ていく、乞食めいたていたらくの空っぽの箱を見ては哲学者ででもなくては誰だって恥ずかしくなってしまう。それはスポールディングの家具だ。わたしはああいう荷を見て、それがいわゆる金持ちのものか貧乏人のものか決して区別ができないであろう。その持主はどれもこれもひどく貧乏に見える。じっさい、そういう物を多くもっていればいるほど一層、人は貧乏なのだ。一つ一つの荷は十二軒の掘立小舎ほったてごやの中味をもっているかのように見える。もし一つの掘立小舎が貧しいのなら、これは十二倍だけ貧しいのだ。いったい、われわれはわれわれの家具――われわれの抜け殻――をまぬがれるため以外の何のために移転するのか、やっとこの世界からも一つの、新しい家具をそなえた世界にうつり、焼け棄てられるこの世を後にするのではないか? すべてこれらの家財道具が自分の帯にむすびつけられていて、それをひきずってでなくてはわれわれの住む運命になっている荒々しい土地の上を動いていくことができないのと異ならない――自分の罠を引きずっていくようなものだ。尻っ尾を罠にのこして逃げた狐はさいわいである。麝香鼠は自由になるために自分の第三の脚を噛み切るであろう。人間がその弾力性を失ったのもうべなるかなである。いかにしばしば彼は動きのとれぬ状態にあることか! 「あえておうかがいしてよろしければ、身動きがとれぬとはどういう意味ですか?」諸君が目の利く人間ならば、人に会ったとき、その人が彼の背後に所有しているすべての物――左様、彼が自分のものでないような顔をする多くの物まで――台所道具や彼がとっておいて焼きすてようとしない安ぴか物にいたるまでを見、そして彼はそれにくびきをかけられ何とかして前に進もうともがいているように見えるであろう。自分は節穴をくぐり抜け門を出ても家具を載せた橇がつづいて出られない、その人をわたしは動きがとれない人だと思う。ちゃんとした、抜け目なく見える人間で、一見自由で油断なく心得ているようなのが、自分の「家具」についてそれが保険につけてあるとかないとか話しているのを聞くと同情をもよおさずにはいられない。「でも、わたしの家具をどうしたものでしょう?」わが華やかな蝶はそこで蜘蛛くもの網目に引っかかってしまう。長いあいだ何にももったことのないように見える人々でさえ、よくよくしらべてみると、誰かの納屋にいくらかを貯えているのを見出すであろう。わたしは今日の英国を、莫大な荷物――長いあいだ世帯を張っているうちに積みあつめ、それを焼きすてる勇気をもっていない、がらくた物を大トランク、小トランク、薄板箱、包み荷につめて旅行をしている老紳士だと考える。せめて最初の三つを投げすてよ。ベッドをかついで歩くのは今日健康な人の力にもあまるだろう。たしかにわたしは病人にはベッドを置いて走るように忠告するだろう。わたしは一人の移民が彼の持物全部を入れた荷物――それは彼のうなじにできた大きな瘤のように見えた――をしょってよろめいているのに出会ったとき彼をあわれと思った――それが彼の全部であるからではなく、彼が、はこばなければならぬそれほどをもっていたがゆえにであった。わたしは自分の罠を引きずらなければならないのなら、それが軽いものであり、わたしの急所を挾まないものであるように気をつけるつもりだ。だが、はじめからそれに手を出さない方がいちばんかしこいだろう。
 ついでにわたしは、カーテンの費用は全然いらないことをいっておこう。わたしはのぞきこまれるものとしては太陽と月とよりほかなく、かれらが覗きこむのはむしろわたしが歓迎したからである。月はわたしのミルクを酸くせず肉を腐らせもしないし、太陽はわたしの家具をいためもせず敷物をせさせもしない――もし彼が時に少々暑すぎる友人ならば、自然が供給する何かのカーテンのうしろに引っこむ方が、家計簿にひと項目だけでも加えるよりずっと経済であることをわたしは知っている。ある婦人がかつてわたしにマットをくれようとしたが、わたしには家のなかに特別にしておく部屋もないし、精神的にも外形的にもそれをはたいている時間もないから、わたしはそれをことわった、戸口の前の芝土で足をぬぐった方がましだと思って。禍のはじまりを避けるのがいちばんである。
 近ごろ、わたしはある教会の執事の家財の競売に出てみた。彼は生きているときなかなか働きものであったのだ――

「人々のなす悪はかれらの死後まで生きのこる。」

 例によって大部分は安ぴか物で彼の父の代からあつまりはじまったものであった。そのなかには乾したサナダムシまであった。そして今、彼の屋根裏部屋やそのほかのごみためのなかに半世紀もよこたわったのち、そこにはそれらをきよめほろぼす焚き火の代りに、それをさらに増大する競売がおこなわれるのであった。近所の人たちはそれらを見るために熱心にあつまり、のこらず買いこんで丁寧にそれらを自分たちの屋根裏部屋やごみためにはこび、かれらの分限がさだまってあの世に旅だつときまでそこに寝かせておく。人が死ぬとき彼はごみを蹴とばす。
 ある野蛮な民族の慣習はわれわれが真似て多分利益があるであろう。少なくともかれらは年々その脱け殻をふり棄てるに類したことをするのだ。かれらが現実にそれをおこなうかどうかはしばらく問わず、その理念だけはもっている。われわれもバートラムがマックラス・インディアンの慣習として記述している、あのような「収穫祭バスク」もしくは「最初の実りのうたげ」を祝うとしたら面白かろうではないか? 彼はいう、「町がバスクを祝うときには、前もって新しい衣服や新しい鍋、壺、その他の家庭用具や家具を用意したうえ、着古した着物やそのほかのがらくたをあつめ、各自の家や町辻や町全体から不浄を掃き浄め、残っている穀物その他の手持ち食料とともに一つの大きな山に積み、火をかけて焼いてしまう。それから、かれらは薬を飲み、三日間断食をし、町じゅうの火を消してしまう。断食中はすべて食欲その他の欲情の満足をいっさい禁じる。大赦令が発せられ、すべての罪人は町にかえるのをゆるされる。」
「四日目の朝に、高位の僧が広場において乾いた木をこすり合わせて新しい火をおこし、町じゅうの家々はそこから新しい清浄な火を持ちかえる。」
 それからかれらは新しい穀物と果実とで三日間の宴会を開き踊ったり歌ったりする。「そのあとの四日間は、自分たちと同様に潔斎をすませて準備のできた近隣の町々からの友人たちの訪問をうけ、ともにたのしむ。」
 メキシコ人も、五十二年目ごとに、世界が終わりになったと信じて似たような浄めの行動をしてきた。
 わたしはこれ以上真実な聖なる儀式――辞書が「内面的な精神的な神の恩寵の、外面的で目に見える表現」と定義するもの――をほとんど聞いたことがない、そしてわたしはかれらがそういう啓示を聖書の記録としてはもっていないにしても、それをおこなうように、初めは直接、天から霊感をうけたものだと信じてうたがわない。

 わたしは五年以上にわたってこのようにわたしの手の労働によってのみ自らを支持してきた。そして一年に約六週間はたらくことによって生活のすべての費用を弁ずることができるのを発見した。わたしの冬じゅうとそして夏の大部分をわたしは勉学のために自由にそっくりもっていた。わたしは学校をひらくことはずいぶん試みてみたが、出費が収入に比例して、あるいはそれ以上にかかることを発見した。先生らしく考え、信じるということはしばらくくとしても、それらしく服装をととのえ準備をしなければならず、おまけに時間が食われたからだ。わたしは同胞のためになるようにと教えたのではなく単に活計として教えたので、これは失敗であった。わたしは商売もこころみた。しかしそれで眼鼻がつくまでには十年はかかり、そしてその頃にはたぶんわたしはめちゃくちゃになりかかっているだろうとわかった。わたしはじっさい、その頃にはいわゆる結構な商売をやっているということになるのを恐れた。むかしわたしが、自分は世わたりのために何ができるかと思案したとき、その前に友人たちの希望に添おうとしてうけたあるつらい経験がまだなまなましく心にあってわたしの才覚をなやましたので、わたしはコケモモを摘んで暮らそうかとたびたび、そして真面目にかんがえた。それならたしかにわたしにできるし、そのささやかな利得でことは足り――わたしの最大の得意は物欲がすくないことであったから――資本はごくわずかですむし、平生の気分をさまたげられることもめったにあるまいし、とおろかしくわたしはかんがえた。わたしの知り合いがてきぱきと商売や各種の職業にはいっていくのを見つつ、わたしはこの職業をかれらのそれに最も近いものとしてかんがえた――夏じゅう山のなかを歩きまわって、見あたったコケモモを摘み、それからいい加減にそれをさばいてしまう、こうしてアポロンがアドメトス王の羊を飼ったまねをする、というわけだ。わたしはまた、野草を摘み常磐木ときわぎをはこんで森のことを思いだすのが好きな村びとたちのところに、あるいは都会にまで、乾草車に積んで持っていこうかとも夢みた。しかし、わたしはやがて商売はそれがあつかうすべてのものを呪うことを知った。たとえ君が天国からのおとずれをあつかうにしても商売の呪いはそっくりとその仕事にふりかかる。
 わたしにはわたしの好みがあり、また特にわたしの自由を大切にしたので、また切りつめた生活をしてしかも悠々とした気持でいられたので、わたしはさしあたり、豪華な敷物やそのほかの立派な家具だの、美味な料理だの、ギリシャ式またはゴシック式の家だのを手に入れるためにわたしの時間をついやしたくなかった。もしこれらのものを手に入れることがさまたげにならず、手に入れたのちの使い方を知っている人があるのなら、わたしはそういう人々にその追求をゆだねる。ある人々は「勤勉」であり、働くことを、それ自身のゆえに、あるいはたぶん、それがもっと悪いことからかれらをふせぐがゆえに、愛するようである。そういう人々にもわたしはさしあたり何にもいうことはない。今もっているよりもっと多くの閑暇ができたらどうしたらよいかわからないというような人々には今の二倍もはたらいたらよいと忠告したい――かれらが自らの代金しろきんを支払い自由の証書を手に入れるまで。わたし自身としては日雇い労働者の仕事がいちばん独立的なものであるということを知った。ことに口すぎをするのに一年わずか三、四十日でことが足りるからには。労働者の一日は日の入りとともに終わる、それからあとは彼の労働とははなれた自分の好きなことに自由に没頭できる。しかるに彼の雇い主は何カ月にもわたって思案をめぐらし一年のはじめからおわりにいたるまで息を抜くひまがない。
 要するに、信念からいっても経験からいってもわたしは、もしわれわれが単純に賢明に生きるならば、この地上でわが身をすごすのは苦労ではなく楽しみであると信じるのである。より単純な民族の仕事は今日でもまだやや手のこんだ娯楽であるように。人は、彼がわたし以上に汗っかきでないかぎりは、そのひたいに汗してパンをうるということは必要ではない。わたしの知っている、幾エーカーかの土地をゆずり受けた、ある若い男は、自分ももし資力があったらわたしのように暮らして見たいものだとわたしにいった。わたしは決して他人にわたしの生活方法を採用させたいのではない。彼がそれを相当程度にのみこむ前にわたしはわたしで別な生活方法を見出しているかもしれないばかりではなく、わたしは世の中にできるだけ多くの趣きのちがった人間がいることをのぞむからである。わたしは各人が十分心を用いて彼の父のでもなく母のでもなく隣人のでもなく、彼自身の道を見出しそれを踏んでいってもらいたいのだ。若い人は家を立てるもよく植物を植えるもよく海を航海するもよい、ただ彼が自分でしたいとわたしに告げることからさまたげられることのないようにしたい。われわれは数学的な点によってのみ賢明でありうる。水夫や逃亡奴隷が北極星から眼をはなさないように。が、それはすべてのわれわれの生活のためにも十分な指導となる。われわれは計算できる期限内にわれわれの港に到着できないかもしれないが、しかし正しい針路からははずれないだろう。
 この場合においてはうたがいもなく、一人にとって真実であることは千人にとってもさらに一段と真実である。ちょうど大きな家が、一つの屋根が上を覆い、一つの地下室が下にあり、一つの壁がいくつもの部屋を区切るので、小さな家に比して比例的には高くつかないのと同様である。だが、わたし自身としては離れた住まいの方がよかった。のみならず、共通の壁が有利であることを他人に説き伏せるより自分でそっくり家を建ててしまう方が通常安くつくだろう。他人を説得できたところで、共通の隔壁を格安にしようとすれば必然的に薄くなり、その他人は隣人として迷惑な人間かもしれず、壁のむこう側をこわれるにまかせるかもしれない。通常ありうる協力ははなはだ部分的かつ皮相的なもののみである。世の中にあるわずかばかりの真の協力は人々の耳に聞こえない協和音であってなきにひとしいものである。人に信念があれば、彼はどこにあっても同様の信念をもって協力するであろう。彼に信念がなければ、どんな仲間とむすびついても世間の誰彼と御同様な生き方をつづけるであろう。協力することは――最も高い意味においても最も低い意味においても、われわれの生計を共にすることを意味する。わたしは近ごろ、二人の青年がいっしょに世界を旅行しようという相談をした話を聞いた。一方は金がないので旅をしながら水夫となり農夫となって旅費をかせごうというわけであり、他方はポケットに為替手形を入れてあるくわけであった。かれらが長く仲間であること、協力することができないのは見易いことであった。一方は全然かないのだから。かれらはその冒険の最初の肝心な危機において別れてしまうだろう。とりわけ、わたしが前にほのめかしたとおり、ひとりで行く者は今日にも出発することができるが、他人と旅行する者は相手が準備できるまで待たねばならず、いよいよ二人が出発するまでには長いことかかるであろう。

 しかし、それではあまり自分勝手だ、とわたしの町の人間のある者がいうのをわたしは聞いた。わたしは今までに博愛的な仕事に身を入れたことがはなはだ少なかったのを告白する。わたしは義務の観念の前にいくらかの犠牲を供したが、その一つとしてこの楽しみをも犠牲にしたのである。町の困っている家族を助ける企てをするようにわたしを説くためにあらゆる手段をつくした人々がいる。そしてもしわたしが何にもすることがなかったら――ぶらぶら遊んでいる人間には悪魔が仕事を見つけ出してくれるものだから――わたしもそういった閑つぶしをこころみるかもしれない。しかし、わたしがこのたのしみをほしいままにし、ある貧しい人々をあらゆる点でわたし自身とおなじぐらい不自由なく暮らせるようにしてやることによってかれらの気随気儘な生活に対して恩を押しつけようとかんがえ、あえてそういう申し出までしたところが、かれらは申しあわせたように一も二もなく元通り貧乏でいる方がよいといった。この町の男女がこんなにいろいろな方法で同胞の幸福のためにつくしているのだから、たった一人ぐらいは他の、もっと慈善的でない仕事をするにまかせておかれてもよいとわたしは信じる。他のどんな事でもそうだが慈善にも天才を必要とする。善をおこなうことに到ってはそれだけでたっぷり精力を要する仕事である。のみならず、わたしはそれを相当にこころみたのだが、奇妙に思えるかもしれないが、それがわたしの体質に適しないという結論に達したのだ。たぶん、宇宙を破滅からすくうためにでも、社会がわたしに要求する善をするために、わたしはわたしの特殊の職分をそれと知りつつ棄てるようなことはしないだろう。そしてわたしは、それと同様な、しかしそれより無限に偉大な不抜な精神がどこかに厳存しているので宇宙は今日維持されているのだと信じている。けれどもわたしはなんぴとの天才の邪魔もしたくはない。わたしは自分ではする気のないこの仕事に全心全霊全生命をうちこんでする人に告げたい、――飽くまでやりぬきなさい、たとえ世間が、たぶんそうするであろうように、それを悪いことをしているのだと呼ぼうとも。
 わたしはわたしのような立場が特殊なものだとは決して思わない。読者の多くも必ずや似たような弁明をしようと欲するであろう。何かをなすこと――わたしの隣人たちは必ずしもそれを善いことだとはいわないかもしれない――にかけては、わたしは雇われるのに持ってこいの人間であるということはちゅうちょなくいえる。しかしどんな仕事をするかは雇う方で考えなくてはならない。その言葉の普通の意味において、どんなをわたしがおこなうかはわたしの主要な関心事ではなく、大部分はまったく意図しないところである。人々は結局こういうようなことをいう――あなたの今の立場で今のままで、もっと価値ある者になろうなどと特別に心がけることなく、はじめなさい、そしてあらかじめ考えた深切心しんせつしんをもって善をおこないなさい、と。その調子でわたしが説くとしたら、わたしはむしろ、善くあるようにつとめなさい、といいたいのだ。かれらは、太陽がその火を月の――いや六等星の光りまで燃やしたらそこでとまって、おせっかいな妖精ロビン・グッドフェローのようにはたらき出して、軒なみに窓からのぞきこんで気狂いを浮かれさせたり肉を腐らせたり夜の闇を見えるようにすべきであるとでも考えているらしく、太陽はますます自分のなごやかな光りといつくしみとのかがやきを増し、なんぴともまともにそれを仰げないほど照りかがやき、そのうえで、またそこに到る途上で、世界に功徳をほどこしつつ自分自身の軌道を行く――あるいはむしろ、より真実な学問が発見したように、世界がそこから功徳を獲つつその周囲をまわるべきであるとは気づかないのである。自分の善行によって天の子であることを示そうと欲した太陽の子パエトンは一日だけ父の戦車を借りたが、いつもの道筋から車を駆りはずしたとき、彼は天の下町街幾ブロックかを火事にして、地球の表面を焦がし、あらゆる泉の水を干あがらせ、サハラの大砂漠をつくったので、ジュピター大神はとうとう彼を雷電でまっさかさまに大地に投げおとし、太陽は息子の死を悲しんで一年間照らすことをやめた。
 腐敗した善から発散する臭いほど鼻もちのならぬものはない。それは人間的な、神性的な腐肉である。誰かがわたしに善をほどこそうという、意識的なもくろみをもってわたしの家に来ようということが確実にわかったら、わたしは、あの、口や鼻や耳や眼を砂でみたして窒息にいたらすシムーンと呼ばれるアフリカの沙漠の乾いた熱風からのがれるようにいっしょけんめいに逃げだすであろう。彼の善のいくらかをほどこされ――その毒素の幾分かがわたしの血に混ざるのを恐れるからである。いや、わたしはこんな場合にはむしろ自然に害悪をこうむった方がいいのだ。わたしが餓えたときに食物をあたえ、凍えたら温めてくれ、溝におちたらそこから引きあげてくれるからといって、その人はわたしにとって善いであるわけではない。ニューファウンドランド犬だってそんなことをしてくれることもある。博愛は最も普遍的な意味における同胞愛ではない。ハワード〔一七二六―一七九〇年、英国の監獄改良家〕は彼自身のやり方においてうたがいもなく非常に深切しんせつで立派な人間であり、またその報いをえた。だが、比較的にいって、もしかれらの博愛がわれわれの最善の状態にある、最も援助される価値のあるわれわれを援助しないならば百人のハワードもわれわれにとって何であろうか? わたしは、わたしまたはわたしに類する者に何かの善をなそうということが真剣に提議された博愛的集まりを聞いたことがない。
 ジェズイット派の僧侶たちは、火刑柱にかけられて焼きころされながらかれらの迫害者たちに新しい拷問方法を教えたインディアンたちによって全くあてがはずれさせられた。かれらは肉体的苦痛を超越していたので、時として宣教師たちがあたえ得たいかなる慰藉をも超越することがあった。他人によってなされたいようになせ、という法則は、かれら自身、他人によってどうなされようと意に介せず、また新しいやりかたでかれらの敵を愛し、敵のなしたすべてのことを心おきなくゆるすことに非常に近づいた人々の耳には、さほどの説得力をもってひびかなかったのである。
 貧乏人にはかならずかれらが最も欠乏している援助をあたえるようにせよ――それがかれらのとても手にとどかない諸君の模範であったにしても。かれらに金をあたえるのならば、それとともに諸君自身の金をつかうようにし、いたずらにそれをかれらにやってしまうな。われわれは時折り奇妙なまちがいをしでかす。往々にして、貧しい者は汚なくぼろをぶらさげ野蛮に見えるほどには寒いのでもなく餓えているのでもないのだ。それはある程度まで彼の趣味であって、単なる不幸ではないのだ。もし彼に金をあたえれば彼はおそらくそれでもっと多くのぼろを買うだろう。わたしは自分ではもっとこざっぱりとし、幾らかもっと当世風な着物を着こんでふるえていながら、粗野なアイルランドの労働者が、そんな賤しくぼろぼろの着物を着て池のうえで氷を切り出しているのをあわれに思っていたが、あるひどく寒い日にあやまって水にはまった一人の男がわたしの家にやってきて煖をとった。ところが、わたしは彼がはだかになる前に、なるほどずいぶんよごれてぼろではあったが、三枚のズボンと二足の靴下とを脱ぎ、わたしが貸してやろうとした余分の着物をことわるだけの余裕があるのを見た。彼はそれほど下に着こんでいたのだ。この水漬かりこそ正に彼の必要としたものであった。そこでわたしは自分自身をあわれみはじめ、彼に古着店そっくりを買いあたえるよりは自分にフランネルのシャツ一枚をあたえる方がより大きな慈善だろうと気がついた。一人の、悪の根本に打撃をあたえる者に対して一千の人間がその枝に斬りつけている有様であり、乏しい者に最大限の時と金とをあたえる人間は、彼の生活ぶりによって、彼が無駄に救おうとつとめている不幸をつくり出す最も大きなはたらきをしているのかもしれない。それは十人のうちの一人の奴隷の儲けを、他の九人のために毎日曜日の自由を買ってやるためにささげる敬虔な奴隷飼育者である。ある人々は貧者を自分の台所に雇ってやることによってかれらに対する深切を示す。もし自分たち自身をそこで雇ったなら、その方が一層深切ではなかろうか? 諸君は諸君の収入の十分の一を慈善についやすことを自慢にする。たぶん諸君は十分の九をそういうふうについやし、それで事ずみにすべきであろう。社会はその際その財産の十分の一を取りもどすにすぎない。それはたまたまそれを所有する人間の寛大さのゆえだろうか、それとも正義をつかさどる役人の怠慢のゆえだろうか?
 博愛は人類によって十分に認識されているほとんど唯一の善徳である。いや、それはいちじるしく過大評価されている。そしてそれを過大評価するのはわれわれのわがままである。一人の屈強な貧しい男が、ある天気のよい日にここコンコードにおいて、その人が貧民――というのは彼自身を意味したのである――に深切であるといってわたしにむかって同じ一人の町民をほめた。人類の深切な伯父伯母はその真の精神的な父母よりも尊敬される。わたしはかつて学問と知性ある僧職の人が英国についての講演中で、かの国の科学的・文学的・政治的の偉人たるシェークスピア、ベーコン、クロムウェル、ミルトン、ニュートン、その他を数えあげたのち、次いでその国のキリスト教的偉人を語り、自分の職業上そうしなければならないかのごとく、かれらを偉人中の最偉大なる者としてすべての他の者よりはるかに上の地位に据えるのを聞いたことがある。それらはペンであり、ハワードでありフライ夫人であった。誰しもこの説のあやまりと偽善的口吻を感ぜずにはいられない。この後者の人々は英国の最上等の人々ではなく、ただ、たぶん最上の博愛家たちであるだけだ。
 わたしは博愛が当然受くべき賞讃から何物をも差引こうと欲するものではなく、ただすべてかれらの生涯と仕事とによって人類の祝福である人々に対して正当なあつかいを要求するだけである。わたしは、いわばその人の茎であり葉である、人間の正しさと善意とを主として珍重するものではない。その枯れた緑でわれわれが病人のためのお茶をつくるような植物はつまらない役に立つだけで、主として山師医者によって使用される。わたしは人間の花と果実とを欲する。何らかの芳香が彼からわたしに送られ、何らかの成熟がわれわれの交わりに味をあたえることを欲する。彼の善は部分的な一時的なはたらきではなく、彼にとって何の損にもならず、それについて彼が意識しないところの常住の余剰物でなければならない。これは無数の罪をおおいかくす慈善である。博愛家はあまりにしばしば、雰囲気として彼自身の脱ぎすてた悲しみの記憶をもって人類を取囲む。そしてそれを同情と呼ぶ。われわれはわれわれの絶望ではなくて勇気を、われわれの疾病ではなくて健康と安楽とをあたえるべきであり、絶望や疾病が伝染によってひろがらないように心がけるべきである。どの南部の平野からなげきの声が来るのか? どこの緯度の下にわれわれが光りを送らんとする異教徒が住んでいるのか? われわれが済度さいどせんとするその放縦兇暴な人間は誰であるか? もし何か人間に故障があり、彼の正常な機能を果たしえないときには、彼の腸に痛みがあるときでさえ――それは同情の念の根ざす場所なのだから――彼はただちに改革に取りかかる――この世界を。彼自身小宇宙であるがゆえに彼は、世界が青い林檎りんごを食べたのだということを発見する――それは真実な発見であり、彼こそその発見をなすべき人である。彼の眼から見ればじっさい、地球そのものが大きな青い林檎で、それが熟する前に人の子たちがそれをかじるという、考えるだにおそろしい危険があるしろものである。かくて時をうつさず彼の手きびしい博愛はエスキモー人やパタゴニア人をさがし出し、人口の多いインド人やシナ人を抱擁する。そしてこのようにして二、三年の博愛的活動によって――その間神々はうたがいもなくそれ自身の目的のために彼を使用しているのである――彼は彼の消化不良をなおし、地球はあだかもそれが熟しはじめたかのごとくその頬の一方、または両頬にほのかな赤みを獲、人生はその生硬さをなくしてふたたび生きるためにふさわしく甘く健康的になるのである。わたしは決してわたしが犯した以上に大きな非道を夢にも見たことがない。わたしはわたし以上に悪い人間を決して知らないし、これからも決して知ることがないだろう。
 社会改良家をそんなに悲しますものは不幸にある自分の仲間に対する同情ではなく――たとえ彼が神の最も敬虔な子であるにしても――彼の個人的な悩みである、とわたしは信じる。これが取除かれたら、春が彼におとずれたら、朝が彼の寝床に明けたら、彼はひと言の挨拶もなく彼の善良な仲間を置きざりにするであろう。煙草の使用の害に対して説教しないことについてのわたしの言い訳は、わたしが決してそれを噛んだことがないということだ。そうすることは改悛した煙草噛み前科者がはらわなければならない罰金である。もっとも、わたしは、その害悪に対して説教することのできる多くのものを噛んだことのある身ではあるが。もし諸君がこれらの博愛のどれかをやらざるをえない破目になったら、諸君の右手のなすことを左手に知らせるな――それは知るにあたいしないことだから。溺れる者を助けたら、素知らぬ顔で靴の紐をむすべ。ゆるゆると何か自由な仕事に取りかかれ。
 われわれの習俗は聖徒たちとの交わりによってそこなわれた。われわれの讃美歌集は調べある神ののろいと神に対する永遠の我慢とをもって鳴りひびいている。予言者たちや救済者たちさえも人間の希望をつよめるよりはその恐れを慰めたものであるといえよう。どこにも人生のたまものに対する単純でつつむにあまる満足や、神に対する記憶にあたいする讃めたたえは記録されていない。いかほどはるかにへだたり遠ざかっているように見えようとも、すべての健康と成功とはわたしに益をあたえる。いかほど多くの同情をそれがわたしにもち、あるいはわたしがそれにもとうとも、すべての疾病と失敗とはわたしを悲しませるよすがとなり、わたしに害をあたえる。それゆえ、もしわれわれが真にインド的、植物的、磁気的、もしくは自然的な手段によって人類を復興しようと欲するならば、まずわれわれ自身が自然とおなじく単純に健康になり、われわれ自身のまゆにかかっている雲をふりはらい、われわれの毛孔にすこしばかりの生命を吸いこもうではないか。貧窮者のお守り役たるにとどまることなく、世界の価値ある人々の一人になろうとくわだてたまえ。
 わたしはシラズのシェーク・サーディ〔十三世紀のペルシャの詩人〕の『グリスタン(花ぞの)』でこれを読んだことがある――「人々は賢人に問うた――いとも尊き神が、高く蔭多くそだてたもうた多くの名だたる木のうち何の実もつけない糸杉サイプレスをのぞいてはどれも azad すなわち、自由なもの、といわれるものは一つもない。これにはどういう神秘なわけがあるのか? と。賢人は答えた――それぞれの木はその独得の花実と定まった時期とをもっており、それがつづくあいだはみずみずしく咲きほこり、それが終われば乾いてしぼむ。糸杉はそのいずれの状態にもさらされず、つねに栄えるのである。azad たち、すなわち宗教的な独立者たちはこういう本質をもつのである。――つかのまのものに心をとどめるな。ディジラ、すなわちティグリスの河はハリハ〔回教国王〕の一族がほろびたのちもバグダッドをつらぬいて流れるであろう。もしお前の手がゆたかにもっているのならなつめ椰子やしの木のように惜しげなくあるがよい。けれども何にもあたえるものがないなら、糸杉のごとくアザッド、すなわち、自由なる者、となれ。」

あいさつの詩

   貧しき思いあがり
貧しく乏しき者よ、お前はあまりに思いあがっている――
お前のいぶせき小舎が、桶のような住まいが
安価な日光のなかで、または蔭った泉のそばで
根菜と野菜とで、何かの物ぐさな、衒学的げんがくてきな徳をはぐくむからとて
天上に位置をしめる資格を要求するとは。
そこでお前の右の手は、うるわしい諸徳が
その元木のうえに咲きほこるべきあの人間的感情を
心からむしりすて、自然をおとしめ、感覚をにぶらせ
ゴルゴンの恐ろしい顔を見たときのように、
進取の心をもつ人々を石に化してしまう。
われわれはお前のしょうことなしの節制や
喜びも悲しみも知らぬ、あの不自然な頑愚の
おぞましい交わりを要しない
また、お前が強いて進取的なものよりもすぐれたりとする
受動的な堅忍も欲しない。
凡庸のなかに根をすえて坐りこんだ、これらの低俗なともがらは
お前の隷従的な心にふさわしい。けれどもわれわれのたっとぶのは、
過度をもいとわぬ諸徳、雄々しく気前のよい行為、王者のような豪壮、
すべてを見る深慮、局限を知らない気宇、
そして古代がそれを名づける言葉をもたず
ただヘラクレス、アキレス、テセウスのような型だけをのこしている、
あの英雄的な徳、ばかりである。お前のいとわしい庵に帰れ
そしてお前が新しい、光りあふれた天界を見るとき
それらの価値ある者がどんなものであったかを考えてみよ。
トマス・ケアリ〔一五九八?―一六三九年? イギリスの詩人〕
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住んだ場所と住んだ目的


 われわれの生涯のある時期には、あらゆる地点を、家を建てるありうべき敷地として考える癖がつくことがある。わたしはいま住んでいる場所から十二マイル以内のあらゆる方向にある土地をしらべたものだ。わたしは想像のなかで、すべての農地を次々に買いこんだ。どれだって買えたし、その値段も判っていた。わたしはそれぞれの農夫の地所内を歩きまわり、彼の野生の林檎を味わい、彼と耕作の話をし、値段かまわず、相手のいい値で買いとり、それを心のうちで彼に抵当に入れた。言い値より高い値段をつけさえした。――ただしその地券だけはうけ取らず、相手の言葉を地券代りにした――わたしはたいへん話好きだったから。その土地を耕し――同時に相手の心もある程度まで耕してやったと信じるのだが――十分それを楽しんだのちに引きさがって、あとは元どおり彼がなすままにまかせた。この経験はわたしが友人たちから一種の不動産ブローカーと見なされる資格をわたしにあたえた。どこにわたしが腰をすえるにしてもそこでわたしは住むことができ、それに応じて風景はわたしから展開した。家とは sedes(坐席)にほかならないではないか。――田舎の坐席だったら一層よい。わたしは急にはひらけそうにも見えない多くの家の敷地を発見したが、ある人々はそれが村からあんまり遠すぎると考えたかも知れない。しかしわたしの眼から見れば村の方がそれから遠すぎるのであった。よろしい、ここで住める、とわたしはいった。そしてわたしはじっさいに、そこで一時間ばかり夏の生活、冬の生活をした。どうやって一年をすごせるか、どういうふうに冬をしのぎ、春を迎えるかを心にえがいてみた。この地方で将来住む人々は、どこに家を建てようとも、かならずすでにわたしによって先廻りされているのを見いだすだろう。午後の半日だけで、その土地を果樹園や植林地や牧場に設計し、どの立派なかしまたは松を戸口の前に残しておくべきか、どこから見たら枯れた木が最も見ばえするか、を決定するに十分であった。それがすむとわたしはそれをそのままに――あるいは休閑地として――残しておいた。人間は手をつけずにのこしておけるものの数に比例して富んでいるのだから。わたしの想像は、わたしがいくつかの農場の買入れ優先権をもっている、という点にまでおよんだ――優先権さえあればそれでよいのだ――が、わたしは現実に所有することによって手を焼くような目にはあわなかった。わたしが現実に所有するのにいちばん近くまでったのは、わたしがホローエル農場を買おうとしたときで、わたしはわたしの種子を選り別け、またその農場をつづけ、もしくはできたものをはこび去るための一輪車をつくるための材料をあつめにかかった。ところが持主がわたしに地券をくれる前に彼の妻――誰でもこういう妻をもっている――の気が変わって手離すのをしぶったので、彼は十ドルで解約を申し込んだ。実をいうと、わたしはこの世に十セントだけしかもっていなかったので、わたしは自分が十セントをもった男だか、畠、あるいは十ドル、あるいはそれら全部をもった男だか、わたしの算術ではわからなくなってしまった。だが、わたしは彼に十ドルも畠もとっておかせた――そこまででわたしの気がすんだからである。あるいは、わたしは気前を見せて、その畠をわたしがそれに払ったとちょうど同値で彼に売りわたし、相手が金持ちでなかったから十ドルの贈り物をし、それでもまだ自分はくだんの十セントと種子と一輪車の材料とを手許にのこしたともいえる。こうしてわたしは自分の貧乏さに何の損害もあたえないで金持ちであったことを見いだした。ただしわたしは風景は手許にのこしておき、その後は毎年それが産んだものを一輪車なしではこび去った。風景についていえば

「わたしはわたしの見わたすかぎり〔測量する、という意味もある〕の土地の王である
わたしの権利をあらがう者は一人もこの世にいない。」〔ウィリアム・クーパーの詩句〕

 わたしはしばしば、詩人が農場の最も価値ある部分をたのしんだのちに立ち去るのを見たことがある――頑固な農夫は彼が二つ三つの野生の林檎を取ったのだとばかり思いこんでいるが。所有者は長年のあいだそれと知らないでいるが、詩人は彼の農場を、最も立派な種類の、眼に見えない柵である韻律という柵のうちに取り込み、それをそっくりかこい込み、その乳をしぼり、うわ澄みをすくってすべてのクリームを取り、農夫にはあとのかすだけをのこしたのである。
 ホローエル農場のわたしに対する真の魅力は次のことであった。――村からは約二マイル、最も近い隣家からは半マイルあり、街道からは広い畠によってへだてられていて、それが完全に世離れしていること。それが川に沿うていること――所有者の話ではその川霧のため春の霜からこの農場は護られているそうだが、わたしにはそんなことはどうでもよい。家屋と納屋が灰色で、荒れはて、垣根がやぶれていて、わたしと以前の居住者とのあいだに大きな隔たりをつくっていること。空洞うつろで苔が生えた林檎の木に兎の噛み痕が見られ、どんな種類の隣人をわたしがもつことになるかを示していること。が、とりわけては、ずっとむかし、わたしが川を舟でさかのぼってここに遊んだときの記憶で、そのときはこの家は赤カエデの茂った林のうしろに隠れ、それをとおして飼犬の吠え声が聞こえてきたのであった。わたしは所有者が岩を掘りのぞいたり、空洞の林檎の木を切り倒したり、牧場に生え出た若い樺の木を掘りかえしたり、つまり、彼が改良をこれ以上すこしも加えないうちにそれを買い取ってしまおうといそいだ。これらの有利さをたのしむためにわたしはそれを受け継ぐ覚悟をした。アトラスのように地球を肩にかつぐつもりで――わたしは彼がそのためにどんな報酬をえたか聞いたことがないが――そして、わたしがその支払いをすませて誰はばからずそれを所有しようということ以外には何の動機も口実もないすべてのことをしようがために。わたしははじめから、もしわたしがそれをそっくりそのままにしておくことさえできれば、わたしが欲する種類の最も豊富な収穫をそれが産むことを承知していたからである。だが、さっき述べたとおりの始末となったのである。
 そこで、わたしが大がかりな農耕(菜園はしょっちゅう作っていたが)についていえることは、わたしが種子を用意しておいたということだけである。多くの人は、種子は年数がたつほど良くなるとかんがえている。時が良い種子と悪いのとの区別を明らかにすることだけは確かだ。そしてわたしがいよいよくときがきたら失望に終わるようなことはまずなかろう。だがわたしは、わたしの同胞に、できるだけ長く自由な、しばられない生活をしなさい、と念のために一度だけいいたい。農場にしばられるのも郡の監獄にしばられるのも大したちがいはない。
 老カトー〔紀元前二三四―一四九年、ローマの政治家兼文人〕――彼の『農業論』はわたしにとっては農業雑誌の『耕作者カルティヴェーター』の代りをつとめた――には次の一節があるが、わたしの眼にふれた唯一の翻訳はそこをはなはだしく誤訳している――「農場を求めようとするときにはこういうことを、よくよく思いめぐらすがよい――欲ばって買わないこと、それを見分するのに骨惜しみをせず、一遍だけ見まわってそれで十分だと思わないこと。それが善いものならば、往けば往くほど気に入るはずである。」わたしは欲ばって買いこみはしないが、生きているかぎり何回も何回もそれを見まわり、まず自分が死んでそこに埋められ、ついにそれが一層わたしを喜ばすということになるだろうと思う。

 今回のはこの種のわたしの第二回の試みで、それをここに、よりくわしく述べようと思うのである。便宜上、二年間の経験をひとまとめにする。前述べたとおり、わたしは「落胆への賦」を書くつもりではなく、止り木のうえに立った朝の雄鶏のように昂然こうぜんと誇らかに歌うのだ――たとえわたしの隣人たちを目醒ますだけであろうとも。
 わたしが森のなかではじめて住居をさだめ――昼まばかりでなく夜もそこですごすようになったとき(それはたまたま一八四五年の独立記念日、七月四日であったが)、わたしの家はまだ冬の準備はできてなく、ただ雨をしのぐだけのもので、漆喰もなく煙突もなく、四壁は荒けずりの風雨にさらされた板で、大きな隙間さえあり夜は風通しが良かった。真っすぐな白く削られた間柱まばしらや新しくかんなをかけられた扉や窓框まどわくは、特に朝、木材が露にうるおっているときには、清潔で風通しが良さそうな外観をあたえ、昼ごろには香りのたかい樹脂がそこからにじみ出そうな気がした。わたしの想像にとってはこの家は終日この曙の精気を多かれ少なかれもちつづけ、わたしが前の年におとずれたある山の家を思い出させた。これは旅の神をもてなすに適し、そこで女神が裳裾もすそを引きずることもありうる、風通しのよい、壁塗りされていない小舎であった。わたしの住まいのうえをすぎる風は山々の背を吹きわたる風のようで、地上の音楽のちぎれちぎれの調べ、あるいはそのうちの天上的な部分のみをはこんだ。朝の風は永久に吹き、創造の詩は絶えることがない。けれどもそれを聞く耳は世にすくないのである。オリンポスの神山は俗世をわずかに離れていたるところにあるのだ。
 わたしが以前所有した唯一の家は、ボートを除外するとすれば、わたしが時折り夏遠足するときに用いたテントだけである。これは今でも屋根裏部屋に巻いておいてある。ボートの方は順々に人手にわたり、時の流れに流れ去ってしまった。今この、より実質的な住みかを身のまわりにてわたしは世の中に腰をすえることにおいて幾分の進歩をした。身にまとうこのささやかな構造物はわたしのまわりにできた一種の結晶体であり、それをつくったわたしに逆に作用をおよぼした。それは幾らか輪郭だけの画のように暗示的であった。わたしは新しい空気を吸うために戸外に出る必要はなかった。戸内の空気もすこしも新鮮さをうしなっていなかったから。最も雨のひどく降る天気でも、戸内にいるというよりはのうしろ――そこにわたしは坐ったのだが――にいる、という方があたっていた。『ハリヴァンサ』〔サンスクリットの詩〕には「鳥のいない住まいは味つけのない肉のようなもの」とある。わたしの住まいはそんなものではなかった。わたしはたちまち小鳥たちの隣人になったことを知ったのである。小鳥を籠にとじこめることによってではなく、わたし自身が小鳥たちのそばの籠にはいったのだ。わたしは普通庭や果樹園にしげしげ通う種類のものばかりでなく、村びとたちに歌を聞かせることがない――あっても稀な――もっと野性的でもっとはげしい感動をあたえる森の歌鳥たち――森ツグミ、黄褐ツグミ、紅ウソ、野スズメ、ヨタカその他の多くの小鳥にも、より近くなった。
 わたしは小さな池の岸に坐りこんだ。池はコンコードの町から南へおよそ一マイル半で、そこよりやや高く、この町とリンカンとのあいだにひろがる大きな森のただなかにあり、われわれの唯一の有名な古戦場であるコンコード古戦場の南およそ二マイルの地点にあった。だが、森のなかのわたしの位地は低かったので、約半マイルはなれた、ほかの部分とおなじく森におおわれている対岸が、わたしのいちばん遠い地平線をなしていた。最初の一週間は池を見わたすたびにそれが山の中腹の高いところにある山上湖で、その底はほかの湖水の表面よりずっと上のところにあるような印象をあたえた。日がのぼるにつれて池は夜霧の衣をぬぎすて、そこここにはようやく柔らかなさざ波やなめらかに光りを反射している水面があらわれはじめた。霧は夜の秘密なつどいが今散会したところのように、幽霊のようにこそこそと思い思いの方向を森のなかへ引きこむのであった。露さえ、山ふところでもあるように他の場所より朝おそくまで木々にのこっているようであった。
 この小さな湖は、八月のしずかなひと雨の合間に、最も趣きのふかい友となる。そのときは、空気も水もしずまりかえって空だけが雲でおおわれ、日ざかりの時刻が夕方のようなおちつきをもち、ツグミがあたりに鳴き、また岸から岸へと聞こえてくるのであった。このような湖水はこういう場合にいちばん鏡のようである。その上の空気の澄んだ部分は狭く、暗い雲がせまっているので、光りと反映とにみちている水面そのものが、ひとしお尊げに見える地上の天となる。近ごろりひらかれた丘のいただきからは、池を越えて南の方に、その辺の岸をなしている丘の広いくぼみを通して気持のよい見はらしがあった。そこでは対立している丘がお互いにむかって傾斜し、木のしげった谷間をその方向に一つの川が――実際にはなかったが――流れ出ているように思わせた。わたしはその方向に、近くの緑の丘のあいだから、またそれを越して、地平線をなす青みがかった遠い、より高い山々をながめた。じっさい、爪先立って見れば西北にあるもっと遠くもっと青い山脈の峯のいくつか――天の鋳造所でられた真っさおな貨幣――を、それから村の一部をも瞥見することができるのであった。しかし、この地点からでさえ、ほかの方角では、わたしをめぐる森の上をまたはその向う側を見ることができなかった。近所に水をもっていることは土地に弾力をあたえ、それを浮かばす意味で良いものである。ごく小さな泉でさえ、その一つの値打ちは、それをながめていると大地は陸つづきではなくて島であることがわかることである。それは、そこでバターを冷やしておけることにおとらず重要なことである。この高い所から池を越してサッドベリー牧場の方をながめると――大水が出たとき、わたしはたぶん蜃気楼作用によって、その沸きかえる谷間のなかに、たらいのなかの貨幣のようにそれがもち上がっているのを見つけた――中をへだてている、このささやかな水面によってさえ、池の向う側のすべての陸地が島にされ、浮かび上がらされている薄い地殻のように見え、わたしはわたしの住んでいるこの大地がただ水のついていない陸地にすぎないことを思わされた。
 わたしの戸口からのながめはもっと狭いものだったが、わたしはちっともせせこましくも窮屈にも感じなかった。わたしの想像にとっては自由にさまよう牧草地が十分にあったのだ。向う岸がもり上がって、低い灌木の樫のしげった台地になっている所は西部の大草原プレーリーにも韃靼だったんのステップ草原にもつづくかと思われ、放浪するすべての人間の家族にとってたっぷりした余地をあたえているとかんがえられた。「ひろびろした地平線を自由にたのしむ者以外には世の中に幸福な者はいない」と、ダモダラは彼の家畜が新しい、より大きな牧場を要求したときにいった。
 所も時もともに一変し、わたしは最もわたしをきつけた、宇宙のうちのある部分、歴史のうちのある時代に、より近く住むようになった。わたしの住んだ所は夜ごとに天文学者がながめる多くの場所とおなじぐらい遠いところであった。われわれはたぐい稀なよろこばしい場所を、音と物さわがしさとから遠い、カシオペイアの椅子の星座のかなた、宇宙のはてにある天上的な片隅にあるように想像するのをつねとする。わたしはわたしの家が、宇宙のそのような引っ込んだ、しかし永久に新しく、けがされない部分に現実にあることを発見した。もしプレイアデスの七つの星、ヒヤデスの五つの星、アルデバランの星、アルタイルの星に近いところに住むことがありがたいことならばわたしは実にそこに住んだのだ、あるいはわたしが後にのこしたこの世界からそれとおなじぐらい遠くへだたり、わたしのいちばん近い隣人からさえ、遠く小さく、かすかな光りでまたたき、月のない夜だけ見わけられる程度であったのだ。わたしが腰をすえたのはこの世界のそういう一角であった――

「羊飼いが生きていた
そして彼の想いを高くかかげた
かたわらの彼の羊のむれが
時々に草をむ、丘のごとく高く。」

 彼の羊の方がつねに彼の想いよりも高い牧場まきばにさまようような羊飼いの生活のみじめさは何といったらよいものやら。
 朝な朝なは自然そのものと同じく単純で、そしておそらく無垢むくである、わたしの生活をはじめる愉快な招待であった。わたしはギリシャ人とおなじく心からの曙の女神アウロラの崇拝者であった。わたしは朝早く起きて池で水浴したが、それは一つの宗教的行事であり、わたしのした最も善いことの一つであった。湯王の沐浴盤の銘には「毎日なんじを完全に新たにせよ、それを再び、さらに再び、永久にくりかえせ(マコトニ日新、日々新、又日新)」という意味の字がきざんであったそうである。わたしはそのこころがわかる。朝は英雄たちの時代をよみがえらせる。夜の白々あけに戸や窓を開けはなしてすわっているとき、わたしは部屋を通りぬける、眼に見えず姿も想像できない一匹の蚊のかすかなうなりによって、名誉をうたう、いかなるラッパにもおとらず心をうごかされた。それはホメロスの鎮魂歌レクイエムであった。その蚊は空をかける『イリアス』であり『オデュッセイア』であり、それ自身の怒りと放浪とを歌っているのであった。そこには何か宇宙的なものがあり、世界のつきることのない活力と豊饒ほうじょうとを、そうすることを禁じられるまではいつまでも宣べ伝えているのであった。一日のうち最も記憶すべき時である朝は目ざめの時である。このとき、われわれのうちに眠気は最もすくない。少なくとも一時間は、そのほかの時は夜昼眠っているわれわれのうちのある部分も目ざめる。だれか召使などの器械的なゆり動かしによってでなく、われわれの守護神によって目ざまされ、工場のベルではなく天体のかなでる音楽の波動と大気をみたす香りとによって伴なわれて、われわれ自身の新たに獲られた活力と内からの志望とによって、前の晩にそれから眼をとじたより一層高い生活へと目ざまされる――そうあってこそ夜の闇は成果をむすび光りにおとらず善いものであることがわかるのである――そういうのでない一日(それが一日というにあたいするとして)からは多くは期待できない。来る日来る日は自分が今までにけがしてしまったものよりも、より早く、より神聖な、アウロラ的の時間をもっていると信じない人間は、人生に絶望した者であり、降り坂の、ますます暗くなる道をたどる者である。彼の感覚的生活の部分的休止のあとで人間の魂は、――いや、その諸器官は――毎日ふたたび活力をよみがえらせ、彼の守護神はそれがどんなけだかい生活をなしうるかをふたたびためすのである。すべての記念すべき出来事は朝の時刻にそして朝の雰囲気にあらわれるとわたしはいいたい。ヴェーダの経典はいう、「すべての知慧は朝とともに目ざめる。」詩と芸術、人間の行為のうち最もうるわしく最も記念すべきものはこの時刻にはじまる。すべての詩人と英雄とはメムノンとおなじく曙の女神アウロラの子であり、日の出にその音楽をかなで出すのである。その弾力のある力づよい想いが太陽と歩調をともにする者にとっては一日はいつまでも朝である。時計が何といおうと人々の態度と労作とがどうあろうと問題ではない。わたしが目ざめているときは朝であり、わたしのうちに曙があるのだ。道徳的向上とは眠りをふりはらう努力である。眠りこけているのでなかったら、どうして人々はかれらの一日をかくも腑甲斐ふがいないものにするのだろうか? かれらはそれほどへまな打算家ではないはずだ。かれらは眠気に打負かされなかったら、何事かをなしとげたはずだ。からだをはたらかす点では何百万の人間が目ざめている。しかし効果ある知的な努力のためには百万人に一人のみが、詩的なもしくは神聖な生活のためには一億人に一人のみが十分に目ざめているだけだ。目ざめていることは生きていることだ。わたしはまだ目ざめきっている人間に会ったことがない。どうしたらじかにその人に見参できるだろうか?
 われわれはふたたび目ざめ、いつまでも目ざめてあることをまなばねばならぬ。器械的な手段によってではなく、どんなにぐっすり寝入っているときでもわれわれを見捨てない曙を無限に期待することによって。人間が意識的の努力によって自分の生活を高めることができるという疑う余地のない能力ほど心づよい事実をわたしは知らない。ある画を描き、一つの彫像をきざみ、かくして二、三の美しい作品をつくることができるというのは何事かである。しかしわれわれがそれを通じて物を見る雰囲気そのもの、媒介体そのものを刻みそして描くことはそれよりはるかに光栄あることであり、それはわれわれが道徳的に能くすることである。一日の本質に作用を加えること――それは最高の芸術である。すべての人は自分の生活をその細部にいたるまで、彼の最も高まり緊張したときの観照に値いするものにする任務を負うている。もしわれわれが出来合いの低俗な知識をしりぞけるならば、いや、それを用いつくすならば、神託がいかにしてこれがなされうるかを明らかに告げるであろう。
 わたしが森に往ったわけは、わたしが慎重に生きようと欲し、人生の根本的な事実にのみ対面し、それが教えようと持っているものをわたしがまなぶことができないものかどうかを知ろうと欲し、わたしがいよいよ死ぬときに、自分は生きなかったということを発見することがないように欲したからである。わたしは人生でないものを生きることを欲しなかった。生きることはそれほど大切だったから。さりとてわたしは万やむをえないかぎりは諦めをもちいることを欲しなかった。わたしは深く生き、人生のすべての精髄を吸い出し、人生でないすべてのものを追いちらすに足るほどたくましくスパルタ人のように生き、草を刈り幅ひろく、また根もとまで刈取り、人生を追いつめて、それをぎりぎりの本質に煎じつめ、そしてもしそれがつまらないものであるとわかったら、その全体のありのままのつまらなさをつきとめ、そのつまらなさを世の人にひろく知らせよう――また、もしそれがけだかいものなら、それを身をもってあじわい、次の世でそれを真実に報告できるようにしたい、と欲したのだ。なぜならば、たいていの人はそれが悪魔のものか神のものか、それについて不思議な不安定な状態にあり、しかも、いくらか取急いで「神をあがめ、とこしえに彼をよろこぶ」ことがこの世における人間の主な目的であると結論しているようにわたしには見えるからである。
 われわれはつねに卑屈に蟻のように生きる。譬話たとえばなしによればわれわれはずっと昔に人間に変わったはずだのに。小びとのようにわれわれは鶴と戦う。それは過ちの上に重ねられた過ち、つぎの上にはられたつぎであり、われわれの最善の善徳は余計な、避け得られる不幸に由来する。われわれの生は些末事によって徒消される。正直な人間はその十本の指をかぞえる以上の必要はほとんどない。特別の場合には十本の足指をくわえるぐらいで、あとはひとからげにすればよい。単純、単純、単純! わたしはいう、諸君の問題を二つか三つにしておきなさい、百とか千とかではなく。百万のかわりに半ダースをかぞえ、あなたの親指の爪に勘定書きをつけておきなさい。この文明生活という荒れくるう海のただなかでは、考慮しなければならない雲と嵐と流砂と百千の条件があって、船が浸水して海底にしずみ思う港に着けずじまいにならないためには推量測定で生きていかねばならず、よほどたくみな打算家でなければ成功はおぼつかない。単純にしたまえ、単純に。一日に三回の食事のかわりに、必要ならば一度だけ食いたまえ、百皿の料理のかわりに五皿にしたまえ。ほかのこともこれに比例して少なくしたまえ。われわれの生活は、ちっぽけないくつもの州からなりたっており、その境界がドイツ人でさえ今どういうことになっているのかいうことができないほど、しょっちゅう変動しているドイツ連邦に似ている。国家そのものも、いろいろないわゆる国内改善にもかかわらず――ついでにいうがそれはすべて外面的皮相的なものである――国内の百万の家庭とまさに同様、計算と価値ある目的とを欠いていたので、家具を取りちらしそれ自身の罠で足をすくわれ、贅沢と不注意な出費とで破産してしまった、収拾しようがない、はだかりすぎた施設にすぎない。それに対する唯一の救済法は、各家庭のそれと同じく、厳格な節約、きびしいスパルタ式以上の生活の簡素と志操の高揚とにある。それはあまりに浪費的に、せわしなく生きている。人々は、国家が商業をもち、氷を輸出し、電話で話をし、一時間に三十マイル馳せることが必要であると考える――かれらがそれをしているのかどうかにはうたがいをもたずに。しかし、われわれが狒々ひひのごとくに生きるべきか人間らしく生きるべきかは少々不確かである。もしわれわれが枕木を伐り出さず、レールを鍛造せず、夜昼その仕事にうちこまず、われわれの生活などを改善するためにそれをいじりまわしていたら、誰が鉄道をつくるのか? そしてもし鉄道ができなかったら、どうしてしかるべき時に結構な天国に行くことができようか? だが、もしわれわれが自分のうちに居て自分の仕事をまもっていたら、誰が鉄道を入り用とするだろうか? われわれが鉄道に乗るのではない、鉄道がわれわれのうえに乗るのだ。君は鉄道の下に敷かれたあの枕木はどういうものであるか考えたことがあるか? 一本一本の枕木は人間であり、アイルランド人またはアメリカ人である。レールはかれらのうえに置かれ、かれらは砂をかけられ、汽車がそのうえをなめらかに走っているのである。かれらはたしかに立派な枕木サウンド・スリーパー〔ぐっすり眠りこんだ人、の意味もある〕だ。そして数年ごとに新しい大勢が敷かれ、そのうえを走られるきころされる、の意味もある〕。すなわち、ある人々がレールのうえを走る楽しみをもてば、他の人々はうえを乗りこされる憂き目を見るのだ。そして人々が夢遊状態で歩いている男――まちがって置かれた余分の枕木〔眠っている人、の意味もある〕――をいて彼を目ざませば、かれらは急に汽車を停めて、例外的椿事でもあるかのように大騒ぎをする。枕木(眠っている人々)を常のとおりその床に平らに寝かせておくためには五マイルごとに相当の人数を配置する必要があると聞いてわたしは嬉しく思う――それはかれらがいつか起きあがる徴候であるから。
 どうしてわれわれはこうもせわしなく人生のむだづかいをして生きなければならないのか。われわれは空腹にならない前に餓え死にすることに心を極めている。前もってのひと針は九針ここのはりを節約する、というが、人々は明日の九針を節約するために今日千針を縫う。仕事仕事というが、われわれは大切な仕事なんかしてはいない。われわれは舞踏病にかかっているので頭をしずかにしておくことができないのだ。もしわたしが教区の鐘のひもを火事だといって――すなわち、はげしくガランガランと――二、三度引っぱるとすれば、今朝けさほどはあんなに何度も何度も仕事がかさなっているからと言い訳していた男でもコンコードの町はずれの彼の畠から出てくるし、それから子供でも女でも一人のこらずといってよいほど、何もかもなげすてて、その鐘の音にさそわれて飛び出してくる。それも火のなかから家財道具をはこび出すというのが主な目的ではなく、正直なところを白状すれば、むしろそれが燃えるのが見たいからである。それは是非燃えてもらわなければならないし、それに、火をつけたのは――皆さんどうぞ御承知下さい――わたしたちではないのだから。あるいは、それが消されるところが見たいのだ。そして、自分もひと手つだいしたいのだ――それが同様に派手にできることなら。そうだ、それが教区の教会そのものであったとしても、そうなのだ。人は食後の三十分の昼寝から目がさめるとほとんど申しあわせたように頭をもたげて「何か変わったことはないかね?」とく。ほかの人間は彼が眠っているあいだ見張り番に立っていたかのように。ある人々は半時間ごとに起こしてくれ、と申しつけるが、どうもほかに目的があるとは受けとれないのだ。そして返礼として、かれらが見た夢をはなしてくれる。夜眠ったあとではニュースは朝めしと同様に欠くことができないのだ。「ねえ君、この地球のどこででもいい、人間に起こった何か目あたらしい話を知らせてくれたまえ。」――というわけで人はコーヒーと巻きパンをやりながら、一人の男が今朝ワチト河で眼の玉をえぐられた〔ペテンにかけられた、の意味もある〕という記事を読む。自分自身がこの世の暗黒な奥底の知れない巨大な洞窟のなかに住んでいて、発育不全の片目しかもっていないのだとは夢にも知らずに。
 わたし自身についていえば、わたしは郵便局などなくても一向にこまらない。それによってなされる重要な通信ははなはだ少ないと思っているのだ。批判的にいえば、郵税をはらう値打ちのある手紙は生まれおちてから一、二通しか受けとったことがない――そのことは数年前に書いておいた。よく、人がぼんやり考えこんでいるとき「君の考えてることをおしえてくれたら一ペニー進上」というが、概して一ペニーの郵便制度は、それに対して何度でも冗談に一ペニーをやれる相手の思想のために本気に一ペニー支払う制度である。それから、たしかにわたしは新聞で記憶すべき記事を読んだことはない。一人の男が盗賊にあうなり惨殺されるなり事故で死ぬなりし、一軒の家が焼け、一隻の船が難船し、一隻の蒸気船が爆発し、一頭の牛が西部鉄道で轢きころされ、一匹の狂犬が撲殺され、冬期に一群のイナゴがあらわれた記事を読めば、そのうえ似たようなことを読む必要はない。一つでたくさんだ。原則をのみこんだうえは、何万の実例だの応用だのは不用ではないか。考える人にとってはすべてのいわゆるニュースは噂話うわさばなしであり、それを編集しそれを読むのはお婆さん連の茶飲みばなしにほかならない。ところがこの噂話がほしくてたまらぬ人間が少なくないのだ。先日、ある事務所で最近着の外国ニュースを知ろうと大勢がえらくひしめいたので、そこの大きなガラスが幾枚か押されてこわれたという話だ――あんなニュースは気の利いた才人なら十二カ月または十二カ年前に相当な正確さをもって書きえたろうと、わたしは真面目にかんがえているのだ。たとえば、スペインのことなら、もし諸君がドン・カルロス家とか内親王インファンタとかを、またドン・ペドロやセヴィラやグラナダ――わたしが新聞を読まなくなってから、出てくる名前は多少変わってきているかもしれないが――をところどころ適当にあしらう術を心得ているならば、そしてほかに娯楽がなかったら闘牛をもち出せば、それは文字どおり真実で、新聞の標題の下の最も簡約で要領をえた報道におとらず、スペインの正確な事態、もしくは乱脈状態をわれわれに彷彿ほうふつさせるであろう。英国についていえば、この方面からのほとんど最後の目ぼしいニュースは一六四九年の革命である。そしてこの国の平均の年の収穫の歴史を知っていれば、純然たる金銭的な性質の思惑をやっているのでなかったら、あらためてそれに気を留める必要は全然ない。めったに新聞をのぞかぬ人間が判断するとすれば、外国方面では、フランスの革命も例外ではなく、何にも新しいことは起こらない。
 どんなニュース! 決して古くなることのないものは何であるかを知ることの方がどんなにずっと大切であることか! 「衛の大夫の※(「くさかんむり/遽」、第4水準2-87-18)伯玉きょはくぎょくは人を孔子につかわして近況を問うた。孔子は使者をそば近く坐らせて、こう訊いた――御主君はこのごろ何をしておられるか? 使者はうやうやしく答えた――主人は自分の過ちを少なくしようと努めておりますが、なかなか思うにまかせません。使者が去ったのち聖人はいった、――何という立派な使者だ! 何という立派な使者だ!」説教師は、一週のおわりの休息の日に――日曜日はわるく過ごされた一週間の適切な結末であって新しい週の新鮮な、勢のよい始まりではないのだから――またしてもだらだら引きずられたお説教で眠ったい百姓の耳をなやますかわりに、大音あげてこうさけぶがよい――「待て! 止まれ! 何んで見かけはそんなに早く、実はおそろしくぐずぐずしているのか?」
 見せかけとまやかしは最も健全な真実としてたっとばれ、真実はつくりごととされる。もし人があくまでただ真実を見、自らあざむかれることをがえんじないならば、人生は、われわれが知っているものを取ってこれをたとえるならば、お伽噺とぎばなしのごとく、『アラビア夜話』に似たものとなるであろう。もしわれわれが必然的なもの、存在する権利のあるもののみを尊重するとしたならば、音楽と詩とが路に鳴りひびくことであろう。われわれがあわてずせかず賢明であるときには、われわれはただ偉大で真価あるもののみが恒久的な絶対的な存在をもつことを――つまらぬ怖れとつまらぬたのしみは真実の影にすぎないことをさとる。これはいかなるときでも愉快で崇高なことである。眼をとじて眠りこけ、あまんじて見かけにだまされることによって、人々は、純然たるまぼろしの基礎の上につねに打ち立てられている、自分たちの因襲と習慣との日常生活を到るところに確立し固定するのである。人生をあそぶ子供たちはその真の法則と関係とをおとなよりは一層明らかに見わける。自分たちは経験――というのは失敗のことだ――によってより賢くなったと思いこんでいるおとなは、人生を価値あるように生きることができないのだ。わたしはインドの書物でこういうことを読んだことがある――「むかし王子があったが、幼い頃に生まれた町から追いやられ、森の木伐きこりにやしなわれていたが、そういう境遇で成人したために、自分は周囲の蛮族仲間の一人なのだとばかり思っていた。ところが、彼の父の大臣の一人が彼を発見し、彼に彼が何者であるかを教えた。そこで自分の素性に対する思いちがいは除かれ、彼は自分が王子であることをさとった。同様に人の魂は」とインドの哲人はつづける、「それが置かれた周囲の環境からして自己の本来の素性を誤解する。そして、だれか聖なる師によって真実が啓示されるにおよんで、それは自らが神格ブラーメであることをさとる。」わたしは、われわれニューイングランドの住民は、われわれの洞察が事物の皮相をつらぬかないがゆえに、現在のような腑甲斐ない生活をしているのだと認める。われわれは、あるように見えるものがあるものだと思いこむ。もし人がこの町を歩きまわって真実のみを見るとしたら、諸君は目抜き通りのミル=ダムがどこにふっ飛んでいってしまうことと思うか。彼が町で見た真実の報告をわれわれにするとすれば、われわれは彼の話のなかでこの場所に出くわさないであろう。集会所、裁判所、監獄、商店、もしくは住宅を見たまえ、そして真の凝視のもとにそれがほんとうに何であるかをいってみたまえ、しからばそれらは君の叙述のなかでうたかたのように消えてなくなるであろう。人々は真理を遠方に、太陽系のはてに、最も遠い星のうしろに、アダムの以前に、最後の人の以後にあるものと考える。永遠というものにはたしかに真実な崇高な何物かがある。しかしすべてのこれらの時と所と機会とは、そしてここにあるのだ。神彼自身も現在のこの瞬間に絶頂に達し、過ぎゆくすべての時代を通じてこれ以上に神々しくあることは決してないであろう。そしてわれわれはわれわれを囲む真実を絶えず染みこまされ、それにうるおされることによってのみ、はじめて崇高なもの高貴なものを把握することができるのである。宇宙は不断にそして従順にわれわれの思索に答える。われわれが早く旅するにもせよ遅く旅するにもせよ軌道はわれわれのために敷かれている。されば、われわれは思索することに生涯をついやそう。詩人もしくは芸術家がいかほどうるわしく気高けだかい構図をえがいたにもせよ、少なくとも後世子孫の誰かがそれを実現しえなかったということは未だかつてない。
 われわれをして一日を自然と同じく慎重にすごさしめよ。そしてクルミの殻や蚊のつばさが線路に落ちるごとに脱線するようなことをなからしめよ。われわれをして朝早くすみやかに起き、心しずかに悠々と朝めしを喫せしめよ。客をして、来り、去るにまかせ、鐘がなり子供がさけぶにまかせよ――断乎としてわが一日をおくる覚悟で。何ゆえわれわれはかぶとを脱いで流れに押しながされなければならないのか? われわれは正午の浅瀬に待ちかまえた、昼食と呼ばれるおそろしい早瀬と渦巻とに落ちこみ圧倒されないようにしよう。この危険をさえしのげばあとは降り坂だから安全である。神経をだらけさせず朝の元気を維持して、別の方向に目をそそいで、セイレンの誘惑をさけるユリシーズのようにマストに身をくくってそれを通りぬけよ。汽笛が鳴るなら咽喉がれて痛くなるまで鳴らしておけ。鐘が鳴ったって何もわれわれが駈けだすことはあるまい。そういうものがいったいどういう種類の音楽に似ているのか考えるとしよう。われわれをして腰をすえて意見、偏見、伝統、欺瞞、外見のぬかるみと泥水、パリからロンドンへと、ニューヨークからボストンからコンコードへと、教会から国会へと、詩から哲学から宗教へと、地球をおおうて打ちつづくあの波の打ちあげた上土うわつちをとおしてしっかり足を踏みしめて、われわれが真実とよぶところの堅い底と根のすわった岩まで達し、これはたしかに存在する、といわしめよ。しかるのちに、出水と霜と火との下にたよりになる根拠を獲得したうえで、安全に壁なり国家なり、あるいは街燈の柱なりを打ち建てる場所を拓くとしよう。それからたぶん、ニロメター〔ナイル河の水深を測る装置、また、ニル「無」を測る、意がある〕ならぬリアロメター〔真実測定器、の意〕の測定器を設けて、その時々に、見せかけと外見との出水がどのくらい深かったかを後世に知らせることにしよう。もし諸君がじかに真っ正面に事実とむきあえば、アラビアの偃月刀シミターのごとく、日がその両面に照るのを見、そのいみじき刃がわが心臓と骨髄とを断ちわるのを感じ、めでたく往生をとげるということにもなろう。生か死か、それは問わず、われわれはただ真実を求める。もしわれわれが死にかかっているのなら、わが咽喉のどが鳴るのを聞き、手足の先が冷たくなっていくのを感じよう。生きているのなら、なすべきことに取りかかろう。
 はわたしが釣りに行く小流れにすぎない。わたしはそこで水を飲む。しかし飲みながら、砂地の底を見、いかにそれが浅いかを見いだす。そのわずかな流れは滑り去る、しかし、永遠は残る。わたしは深く飲みたい、星を真砂まさごとした大空で釣りをしたい。わたしは「一つ」をも算えることができない。わたしはアルファベットの最初の一字も知らない。わたしは自分が生まれた日にあったほど賢くないことをいつも残念に思っているのだ。知力は大庖丁である。それは事物の秘密を洞察しその中に切り入る。わたしは必要である以上に手先をいそがしくうごかしたくない。わたしの頭は手であり足である。わたしのすべての最善の能力はそのなかに集中しているのをわたしは感じる。わたしの本能は、わたしの頭が、ある種の動物が鼻づらと前肢とをもちいてそうするように、穴を掘りすすめるための器官であることをわたしに告げている。それを用いてわたしはこの山々を掘りすすんで見たいのだ。わたしはどこかここらあたりにいちばん豊富な鉱脈があるような気がする。索鉱杖とかすかに立ちのぼる蒸気とによってわたしはそうと判断する。で、これからわたしは掘りはじめる……。
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読書


 自分たちの追求することをもう少し慎重に選ぶとすれば、すべての人は本質的に研究者観察者となることだろう。かれらの性質と運命とは、たしかに誰にも同じように興味あるものだからである。自分たち自身または自分たちの子孫のために財産をつむこと、一家をあるいは一国家をはじめること、名声を獲得することにおいてさえ、われわれはやがて亡びるものである。しかし真実をあつかうことにおいてはわれわれは不死であり、変化も偶然もおそれる必要はない。太古のエジプトあるいはインドの哲人は神の像からヴェールの片すみを持ちあげた。そして今なお打ちふるう衣はかかげられ、わたしは彼が見たときとおなじく新しい栄光をながめる。むかし、そのように勇敢であったのは彼のうちのわたしであり、今そのすがたをふたたび見ているのはわたしのうちなる彼であるから。その衣のうえには一つの塵もつもっていない――この神が姿をあらわしてから時は少しも経過していない。われわれが真に善用する、あるいは善用しうるは過去でもなく現在でもなく未来でもない。
 わたしの住居は思索のためだけではなく真面目な読書のためにも大学より好都合であった。わたしは普通の巡回図書館のくる範囲外にあったけれども、その文章がはじめは樹の皮に書かれ、今ではただ時折り亜麻布紙に写されている、世界じゅうを巡回するあの書物どもの影響を今までになかったほどつよく受けた。詩人ミル・カマル・ウディン・マストはいう、「坐してたましいの世界をかけめぐる――この利益をわたしは書籍において獲た。ただ一盞いっさんの酒に酔う――このたのしみをわたしは密教の奥儀の酒をのんで味わった。」わたしはホメロスの『イリアス』を夏じゅうテーブルの上に置いておいた。たまにそのページを見るだけだったが。わたしは家を完成し同時に豆畑の手入れをしなければならなかったので、はじめのうちは絶えまのない手先仕事のためにそれ以上勉強ができなかった。しかしわたしは今にそういう読書ができるという望みで張合いをつづけた。仕事のあいまに一、二冊浅薄な旅行記を読んだこともあったが、やがてそんなことをする自分が恥ずかしくなり、いったいおれが住んでいるのはどこなのだ、と自問したのであった。
 学徒は道楽や贅沢という危険をともなわずにホメロスやアイスキュロスをギリシャ原文で読むことができる。それは彼がある程度まで書中の英雄たちと競い、朝の時間をそのページに献げることを意味するからである。英雄時代の書物はわれわれの母国語で印刷された場合でさえ堕落した時代に対しては常に不可解の国語であろう。そしてわれわれは、日常の用法がわれわれのもつ程度の知慧、勇気、寛大から引き出しうるよりもっと大きな意味を推量しつつ、各語各行の意義を骨を折ってもとめなければならない。近代の廉価で多産な印刷はあらゆる翻訳を産んでいるにもかかわらず、われわれを古代の英雄に関する作家たちにほとんど一歩もより近づけていない。かれらは相かわらず孤独で、かれらが印刷されている文字は相かわらず珍しく奇妙に見える。古代語のただ幾つかの単語をまなぶだけのことでも、それらは街上の俗塵をぬけだして不断の示唆と策励になるものだから、青春の日と高価な時間とをついやす値うちがある。百姓が、聞いたことのある二、三のラテン語の言葉をおぼえていてそれを繰りかえすのは無駄なことではない。世人はときどき、古典の研究がもっと近代的な実際的な学問に位をゆずるだろうというようなことをいう。しかし気概のある学徒は、どんな言葉でそれが書かれていようと、いかほど古くあろうと、つねに古典をまなぶであろう。なぜならば古典とは人間の最もけだかい記録された思想にほかならないからである。それらはまだほろびないでのこっている唯一の神託であり、そのうちには最も近代的な問いかけに対して、デルポイのアポロンの神託もドドナのゼウスの神託も決してあたえなかったような解答があるからである。それをやめるくらいならば、自然は古いからといってそれをまなぶのを止めてよいわけだ。善く読むこと――ほんとうの書物をほんとうの精神で読むこと――はけだかい仕事であり、今日の慣習がたっとぶいかなる課業よりも読者の骨折りを要求するものである。それは運動家が受けるような訓練を、この目的のためにほとんど生涯にわたるたゆみない集中を必要とする。書物はそれが書かれたとおなじくじっくりと慎しみぶかく読まれなければならない。それが書かれた国の言葉をしゃべれるというのでさえ十分ではない。話される言葉と書かれる言葉、聞かれる言葉と読まれる言葉、のあいだには記憶すべき間隔があるからである。一方は通常、一時的のものである――音であり、舌であり、単に地方語であり、ほとんど動物的であって、われわれはそれを動物のように母親から無意識にまなぶ。他方はそれの成熟したものであり経験を経たものである。彼が母の言葉であるとすれば、これは父の言葉であり、耳で聞かれるにはあまりに意義ふかく、それを話さんがためにはわれわれが生まれかわってこなければならない、取っておきの選ばれた表現である。中世においてギリシャ語やラテン語を単に話した大衆は、誕生の偶然によってそれらの言葉で書かれた天才の作品を読む権利をもってはいなかった。それらはかれらの知っているギリシャ語・ラテン語で書かれているのではなく選ばれた文学の言葉で書かれたのであるから。かれらはギリシャとローマとのよりけだかい地方語をまなんでいず、それらが記されている材料そのものもかれらにとっては紙屑であり、かれらはその代りに安価な同時代の文学をもてはやした。ところがヨーロッパの各国が、それぞれの新興の文学の必要のために十分な、粗野ながらそれぞれ別個の自分たちだけの書かれた言葉を獲得したとき、はじめて学問は復興し、学者たちははるかな時間をへだてて古代の宝を識別することができるようになった。ローマやギリシャの大衆が聞くことができなかったものを、幾時代も経過したのちに少数の学者たちが読み、今なお少数の学者たちだけが読みつつあるのである。
 たまさか聞かれる演説家の雄弁のほとばしりをいかほどわれわれが讃嘆するにもせよ、最もけだかい書かれた言葉は通常、星をちりばめた大空が雲からかけはなれている程度の遠さで一時的の話し言葉のかなたに、あるいはそれを越えてある。かなたに星々はある、――そしてそれができる者どもはそれを読みうるのである。天文学者は絶えまなくそれを説明しそれを観察する。それらはわれわれの日常の会話や蒸発して消える息のような発散物ではない。公開の場所の雄弁と称されるものはたいがい書斎の修辞にすぎないことが見いだされる。雄弁家はその時々の局面の感動に身をまかせ、彼の前の群衆に、彼を聞くことのできる者どもに話しかける。しかし、もっと腰のすわった生活を動機とし、雄弁家に感動をあたえる出来事や群衆によって心をかきみだされることを欲しない作家は、人類の頭脳と心臓とに、彼を理解することのできるすべての時代のすべての人々に話しかける。
 アレキサンダーが遠征にあたって宝の小函こばこの中に入れて『イリアス』をたずさえたのは故あるかなである。書かれた言葉は遺品のうちで最もたっといものである。それはすべてのほかの芸術品にましてわれわれにより親しみぶかく同時により普遍的なものである。それは人生そのものに最も近い芸術品である。それはあらゆる言葉に翻訳されることができ、読まれることができるばかりでなく現実にすべての人間の唇から発せられることができる。――画布のうえや大理石をもって表現されるだけでなく、生命の息そのもので刻みだされることができる。古代の人の想いのシムボルが近代の人の口にする言葉となる。二千年の夏はギリシャの文学の記念碑に、その大理石に対してとおなじく、より成熟した黄金の秋の色を添えただけである。それらはみずからの晴れやかな天上的な雰囲気をすべての国にもたらし時の侵蝕からそれらを救っているのだから。書物は世界の宝たる富であり、各世代と各国民のこのうえない遺産である。最も古く最も善い書物は自然にそして正当にすべての家々の棚にのせられる。それらは訴えるべき自らの主張をもたないが、読者を啓発し支持するので読者の常識はそれらをこばもうとしないのだ。それらの著者はあらゆる社会における自然にして抵抗すべからざる貴族であり、王や皇帝にもまして人類に影響をおよぼす。無学でおそらく学問などを軽蔑する商売人が、企画と勤勉とによってあこがれていた閑暇と独立とをかち獲て富と流行との社会に入るのをゆるされたとき、彼はやがて不可避的に知慧と天才との、あのより高く、しかも到達しがたい社会に眼を向け、自分の教養の不完全とすべての彼の富の空しさと不十分さとをのみ感じ、自分の子供たちのために自分がその不足を痛感しているあの知的教養を獲させるために進んで骨を折ることによって良識を示すのである。そして彼が一家の創建者となるのはこういった次第によるのである。
 むかしの古典をそれが書かれた国語で読むことをまなばなかった人々は人類の歴史のきわめて不完全な知識をもつにすぎない。何となれば、それらは、われわれの文明そのものがそういうものの翻訳と見なされうる程度以上には、いかなる近代語にも翻訳されていないということは歴然たる事実だからである。ホメロスはかつて英語で印刷されたことはなく、アイスキュロスも、ヴェルギリウスさえもない――それらはほとんど朝そのもののように、洗練され、がっしりと作られ、うつくしい諸作品である。後世の作家はわれわれがその天才をいかにはやしたてようとも、古代の作家の精妙な美と完成と、生涯をうちこんだ英雄的な文学的労作とに匹敵しうることは、ありとするもきわめて稀だからである。それらを知らない者のみがそれらを忘れることを云々する。われわれをしてそれらに心をかたむけて鑑賞することを得しめる学問と天才とをわれわれがもったうえで、それらを忘れることにしても遅くはないわけだ。われわれが古典とよんでいる遺物、それよりも古くそれよりも古典的であるがそれほどにも知られていない各国のもろもろの経典が一層ひろく蒐集され、ヴァティカンのような宮殿がヴェーダやアヴェスタやバイブル、さてはホメロスやダンテやシェークスピアの類の諸作で充たされ、今後の幾世紀かが相次いでその獲物を世界の広場にあつめ積みえたときはまことに富んだ時代といえよう。そのような集積によってわれわれははじめて天上によじることをのぞみうるであろう。
 偉大な詩人の作品は人類によって未だかつて読まれたことがない。偉大な詩人のみがそれを読むことができるからである。それらは大衆が星を読みとるごとくに――天文学的にでなく、せいぜい星占術的に――読まれただけである。たいていの人は、帳面をつけ商売でごまかされないために算術をまなんだように、卑俗な便利に役だたせるために読むことをまなんだ。しかしけだかい知的なはたらきとしての読書についてはほとんど、あるいは全く知らない。しかし、贅沢としてわれわれをなだめあやし、より高尚な能力をそのあいだ眠りこませるものではなく、それを読むためにはわれわれが爪さき立ちをし、われわれの最も油断なく眼を見開いた時間をそれにささげなければならないもの――これのみが高い意味での読書である。
 わたしは、われわれの文字をまなんだのちにはわれわれは文学のうちの最上なものを読むべきであって、いつまでも、四年生や五年生になっても※(始め二重山括弧、1-1-52)エービーabアブ※(終わり二重山括弧、1-1-53)や、ひと綴りの言葉を繰りかえし、一生涯いちばん低いいちばん前列の机に坐りこんでいるべきではないと思う。たいていの人は一つの善い書物――聖書を読むなり、それが読まれるのを聞くなり、あるいはことによるとそのうちの叡知によって罪を問われれば、それで満足し、あとの生涯はいわゆる軽い読み物をむさぼってそれに自分の能力をむだについやしてしまう。われわれの巡回図書館に『小さい読み物リットル・リーディング』という標題の数巻からなる作品があるが、わたしはそれを、まだわたしは往ったことがないがその名前の町のことが書いてあるのだと思っていた。世には何でも捨てることができず、鵜だの駝鳥だののように肉や野菜のたっぷりした食事をしたあとでさえ、こういった種類のものを何でも消化できる人間がいる。もし書く側がこのまぐさを供給する器械ならば、かれらはそれを読む器械である。かれらはゼビュロンとセフローニアについての第九千番目の物語りを読む――いかに二人が誰も未だかつて愛しあわなかったように愛し、しかもかれらの「真実の恋が決してなめらかにすすまず」――ともかく、いかに恋がすすんで、つまずき、また立ちあがって先にすすむかを! いかにあるあわれな不幸な男が、鐘楼までも行かなければよいのに、尖塔までのぼっていったか、ということを、それから用もないのに彼をそこにのせて、よい気になった小説家は鐘をならして世界じゅうの人間をあつまらせて、おお大変! いかに彼がふたたび降りてきたかを聞かせる! わたし自身としては、かれらは普遍的な小説界のすべてのそういった、やたらに上にのぼりたがる主人公たちを、むかしかれらがよく英雄たちを星座のあいだにおいたように、人間の風見車に転身させて錆つくまでそこでぐるぐる廻らせ、ふたたび降りてきてその悪ふざけで正直な人々を悩ませないようにした方がよかろうと思うのだ。この次に小説家が鐘をならしたらわたしは教会堂が焼けおちても腰をあげまいと思っている。「有名な『ティットル・トル・タン』の作者の著作、中世のロマンス『ティップ・トー・ホップの跳躍』毎月にわけて刊行、売れゆき激甚、一時には注文に応じがたし。」すべてこういったものをかれらは目を皿のようにし、のびあがった原始的な好奇心をもって、まだその溝に目立てをする必要のない、つかれを知らない砂嚢さのうで呑みこむように読む――正にベンチに腰かけた満四歳の子供が二セントの金ぴか表紙の『シンデレラ物語り』を読むのにことならない――子供たちは発音もアクセントも強調も少しも改善せず、教訓を引き出したり挿しはさんだりする技術も少しも進歩しないのはわかり切っている。その結果は視力の減退、血液循環の停滞、すべての知的能力の全般的萎靡いびと脱落とである。この種の菓子パンはほとんどすべての竈で毎日、そして純粋な小麦粉やライ麦とトウモロコシ粉のパンよりもせっせと焼かれ、一層確実にさばけていく。
 最良の書物は善い読者と呼ばれる人々によってさえ読まれない。わがコンコードの教養は結局どの程度のものだろうか! この町では、ごくわずかな例外をのぞき、誰でも読み、綴ることのできる言葉をもった英文学においてさえ、最良の、あるいは非常に良い書物に対する趣味は見られない。当地またはよその土地の大学出のまたはいわゆる教養教育をうけたと称する人々も英語の古典にはまことにわずかしか、あるいは全く通じていない。それから人類の記録された叡知、古代の古典や聖書類にいたっては、それについて知ろうとする志があれば誰にでも手にはいるのにそれに親しもうとする努力はどこにおいてもはなはだ微弱である。わたしはフランス語の新聞を取っている中年の木伐りを知っているが、彼のいうところによると、それはニュースのためではなく、そんなことは超越しているのだが、自分は生まれがカナダだからフランス語を「忘れないため」であるそうだ。わたしが彼に、彼がこの世でできるいちばん良いことは何だとくと、そのほかには、彼の英語をわすれずにその知識を増すことだと答える。これは大学出の人間が普通、なしまたはなそうと志すほぼ最大限であり、かれらはその目的のために英語の新聞を取る。たぶん最良の英語の本の一つを読みおわって外に出た人間はそれについて話しあうことのできる幾人を見いだすことができようか? あるいは、それについての称讃がいわゆる無学な者にとってさえ耳なじみなギリシャまたはラテンの古典を、原語で読みおわったところだとする。彼は話しかけるべき何ぴとも見いださず、それについて沈黙をまもるほかないのである。じっさい、われわれの大学には、一人のギリシャの詩人の、言語の困難は克服したにもせよ、その機智と詩との困難をそれに相応して克服し、熱烈な英雄的な読者にわかつべき何らかの同情をもっている教授はほとんど見あたらないのである。神聖な諸経典、人類の聖書のたぐいにいたっては、この町の誰がわたしにその標題をさえおしえることができるか? たいていの人はヘブライ人以外にどれかの国民が経典をもっていたということを知らない。一ドル銀貨をひろうためなら人は誰だってかなり脇道にそれることを辞さない。しかるにここに黄金の言葉があり、それはむかしの最も賢い人々が発したものであり、その価値は次々の時代の最も賢い人々がわれわれに保証するものなのだ。しかるにわれわれはただ軽い読み物、入門書、教科書までしか読むことをまなばず、学校を出ると子供向き初心者向きの『小さい読み物』であり、物語本なのである。かくてわれわれの読書と会話と思索とはおしなべて小びと島の住人にのみふさわしい、はなはだ低いレベルにとどまるのである。
 わたしはその名がここらあたりではほとんど知られていない、このコンコードの土が生んだのよりもっと賢い人々と近づきになりたいのだ。あるいは、わたしはプラトンの名を聞いて、その書物は読まずじまいにしておこうか? あだかもプラトンが同じ町の住人であって一度も会わずじまいにするごとく――お隣りの主人でありながら彼が話すのを聞かず、彼の言葉の叡知に耳をかたむけることをしないように。しかし現実はどうなのか? 彼のもつ不朽なものをふくむ彼の『対話篇』は次の棚のうえにあるのだが、しかもわたしは決してそれを読まない。われわれは発育不全で生活低調で無学である。この点ではわたしは、まるっきり読めない町の人間の無学さと、子供向き、薄弱な知力向きのものばかりを読むことをまなんだ人間の無学さとのあいだに別にはっきりした区別を立てていないことを告白する。われわれは古代の立派な人々と同じく善くあるべきであるが、ある程度まではまずいかに善くかれらがあったかを知ることからはじめねばならぬ。われわれはちっぽけな人種である、そしてわれわれの知的飛翔においては日刊新聞の欄からいくらもより高く飛びかけらないのである。
 すべての書物がその読者とおなじくつまらないものなのではない。そこにはわれわれの事情に適切に呼びかけられた言葉がおそらくあるにちがいない。それをわれわれが真に聞いて理解することができたなら、われわれの生活にとって朝よりも春よりも活力をあたえ、われわれのために事物の相貌を一変せしめることもありうる。いかに多くの人が書物を読んでその生活における新しい時期を画したことだろう。われわれの奇蹟を説明し、新しい奇蹟を啓示する書物がおそらくわれわれのために存在していることだろう。現在いうにいわれぬ事がどこかでいいあらわされているのをわれわれは発見するかもしれない。われわれの心をみだしくるしめ困惑させる、この同じ問題が、かつてはすべての賢い人々に起こったのだ――どれひとつとして例外なく。そしてそれぞれの人がその力量に応じて、彼の言葉彼の生活をもってそれに解答をあたえた。しかのみならず、われわれは叡知とともに寛大な心をまなぶであろう。コンコードの郊外の畠で雇われていた孤独の男で、生まれ変りと特殊な宗教的体験とをもち、そして彼の考えによると、彼の信仰によって沈黙の厳粛と孤独とに駆りたてられた、あの男は、ほんとにしないかもしれないが、すでに数千年前にゾロアスター(ツァラツストラ)が同じ道をあゆみ同じ経験をもったのだ。しかしこの方は賢かったから、そういう経験が普遍的なものであることを知り、彼の周囲の人々をそのように扱ったし、人々の間に信仰を発明し確立したとさえいわれている。それだからその男をして謙遜にゾロアスターと心を通わせ、すべての価値ある人々の、人をして寛大ならしめる影響によって――イエス・キリストその人とも心を通わせ、「われわれの教会」などというものを打倒せしめよ。
 われわれは自分たちが第十九世紀に属し、どの国にもまさって急速な進歩をしていることを自慢する。しかしこの村が自己の文化のためにいかにわずかしかしていないかを考えてみたまえ。わたしはわたしの村びとにびようとは思わず、また村びとによって媚びられようとは思わない。それはどちらをも進歩させないだろうから。われわれは挑発されることを必要とする――われわれは牛だから牛のように棒で責めて走らせられなければならぬ。われわれは小学校、ただ子供のためだけの学校、という方面では比較的ちゃんとした制度をもっている。しかし冬期の、半分凍え死にしそうな講習会と、近ごろ州の勧奨によるちっぽけな図書館のできかかり以外にはわれわれ成人のための学校はないのである。われわれは肉体のための食物――もしくは毒物――のほとんどいかなるものに対しても、精神のための食物以上の金をついやす。いつまでも普通学校ばかりでなく、もう普通以上の学校ができてよい時節で、われわれが一人前の男または女となりかかるときに教育をやめにしてしまうことがないようにすべきである。村々は大学となり、年輩の住民は――もしかれらが真に裕福なのならば――余生を教養的研学にいそしむ閑暇をもつ、大学の校友となって然るべきである。世界はただ一つのパリ大学、ただ一つのオックスフォード大学にかぎられるべきだろうか。学徒をここに寄宿させコンコードの空の下で教養教育をさずけることはできない相談なのだろうか。われわれはアベラールのような学者を得て講義をしてもらうことができないだろうか。悲しむべし、牛に草をやり、店番をするために、われわれはあまりに長く学校から遠ざかり、われわれの教育はなげかわしくなおざりにされている。わが国においては村が、ある点において欧洲の貴族の代りをすべきである。それは芸術のパトロンたるべきである。それはそれをするに十分富んでいる。ただそうするだけの高邁さと洗練とを欠いているだけだ。それは百姓や商人が値打ちをみとめるような事物にはずいぶん金をかけることができるが、もっと知的な人間がはるかに一層値打ちがあると知っている事物に金をかけようという提議は夢想的ユートピアンだと思われてしまう。この町は好運のおかげか政治のおかげか知らないが、一万七千ドルをかけて公会堂をたてたが、この殻のなかに入れるべき真の肉である生きた才智のためには百年間にもそれだけの金をおそらくかけないだろう。冬期の講習学校のために年々寄せられた百二十ドルは町でつのられた、どのほかの同額の金よりもまさってつかわれている。われわれは十九世紀に生きているからには十九世紀が提供する便利をけてよいではないか。なぜわれわれの生活はどれかの点で地方的でなければならないのか。もしわれわれが新聞を読もうというのならばボストンの噂ばなしはぬきにしてただちに世界でいちばん善い新聞を取らないのか?――このニューイングランドで「中立的な家庭的な」新聞の牛乳粥ぎゅうにゅうがゆをねぶり、『オリーヴの枝』新聞をむさぼり食ってばかりいずに。すべての学会の報告をわれわれの手許に取りよせ、かれらが何ごとかを知っているかどうか見ようではないか。なぜハーパー・アンド・ブラザーズやレッディング会社にわれわれの読み物の選択をまかせておくのか。洗練された趣味をもつ貴族が自分の教養に寄与するあらゆるもの――天才―学問―機智―書籍―絵画―彫刻―音楽―理学器械―その他、で身辺をめぐらすように、この村もそうするがよい。何もそのむかし、われわれの先祖ピルグリム・ファーザース〔一六二〇年メイフラワー号で米国にわたった清教徒の一団〕がそれだけで荒涼たる岩のうえで寒いひと冬をすごしたからといって、いつまでも一人の訓導くんどうと一人の牧師、一人の寺男、一つの教区図書館、三人の委員でいつまでもとどまっていないでもよかろうではないか。集団的に行動することはわれわれの制度の精神にかなっていることである。わたしはまた、われわれの境遇は貴族のそれよりもめぐまれており、われわれの財力はより大きいと信じている。ニューイングランドは世界中の賢人をやとって教えにきてもらい、そのあいだ順々にかれらの宿をし、地方的であることから脱却できるのだ。これがわれわれの欲している普通以上の学校なのだ。貴族の代りに、人々の高貴な村をつくろうではないか。もし必要なら河にかける橋を一つだけ倹約してすこし廻り道をすることにし、われわれをかこむ無知の暗い深淵を越えてせめて一つのアーチを投げ架けようではないか。
[#改ページ]


 けれども、よりすぐった上等なものでも書物ばかりに没頭し、それら自身地方語であり局地的なものである、なにか書かれた国語のみを読んでいるあいだは、われわれは、すべての物や事が比喩を用いることなく直接に語る、そしてそれのみが豊富で標準的なものである言葉を忘れてしまう危険がある。発表されるものは多いが印刷されるものはすくないのである。鎧戸よろいどのすきまを洩れる光線は、鎧戸そのものが全然とりのけられればもはや記憶されないであろう。いかなる方法も修練も常住に見張っていることの必要をなくすることはできない。見るべきものをつねに見るという修練にくらべれば、どれほど善くえらばれた歴史または哲学または詩の課程も、あるいは最もよい交友、あるいは最も立派な生活の規矩も何であろうか? 君は単なる読書人、学究たらんとするのか、それとも物を見る人たらんとするのか? 君の運命を読みたまえ、君の眼前にあるものを見たまえ、そして未来に足をふみ入れたまえ。
 最初の夏は本を読まなかった。わたしは豆畠の草とりをしていた。いや、わたしはしばしばもっとよいことをしていた。現在のこの咲き匂う花のような瞬間を手の仕事にもせよ頭の仕事にもせよささげてしまうのはどうにも惜しくてできないことであった。わたしはわたしの人生に幅のひろい余白をもつことを愛した。時々、夏の朝、いつもの水浴をすませたあと、日の出から正午にいたるまで、わたしは日あたりのよい戸口で想いにひたって坐りこんでいた。松やサワグルミやウルシのただなかで邪魔するもののない孤独と静寂とのなかで。鳥はあたりでうたい、あるいは音もなく家を通りぬけて飛びかけった。ついに西の窓にさし入る日影とか、遠方の街道を通る旅行者の荷車のひびきとかがわたしに時がたったのを気づかせるのであった。そのようなとき、わたしは夜のまにトウモロコシがすくすく育つように成長した。それはどんな手仕事をしたよりもはるかにまさっていた。それはわたしの人生から差引かれた時間ではなく、それだけはわたしへのあたりまえの割あて以上の余分のものであった。わたしは東洋人が瞑想と仕事の放擲ほうてきということによって何を意味するかをさとった。おおむね、わたしは時間がどうたっていくか心にとめなかった。一日はわたしのしている仕事を照らすかのように進んだ。それは朝であった、そして見よ、今はもう夕方である、そして何にも記憶すべきほどのことはなしとげられなかった。鳥のように歌うかわりにわたしはわたしの絶えまのない幸運にだまってほほえんでいた。雀がわたしの戸口の前のサワグルミにとまって喉を鳴らすように、わたしは、彼がわたしの巣のなかから聞くかもしれないわたしの含みわらいとそとにもらさぬさえずりとをもったのである。わたしの日々は異教の神々の名がついている一週のうちの何曜日とかいうのではなく、二十四時間に細分され、時計の刻みでせきたてられるものではなかった。わたしはピューリ・インディアンのように生きていたのだ――かれらは「昨日、今日、明日、に対してたった一つの言葉しかもっていず、昨日に対してはあとの方、明日に対しては前方、今日に対しては頭上を指さして意味の相違をあらわす」のだそうである。これはうたがいもなくわたしの同じ町民にとっては全くの怠惰であった。しかし、もし鳥や花がかれらの標準にてらしてわたしを吟味するとすれば、わたしはどの点でも失格者とみとめられないであろう。人はまことに自分の動機を自分自身のうちに見いださねばならない。自然のままの日はすこぶる鷹揚おうようで、彼の怠惰をおそらくとがめないであろう。
 わたしはわたし流の生活法において、社交とか劇場とかいうふうに娯楽を外にもとめなければならない人々にくらべて、わたしの生活そのものがわたしの娯楽になっていて、いつも新鮮さをうしなわないという、すくなくともこの強味をもっていた。それは多くの場景をもち、決して終幕とならない劇であった。もしわれわれがつねにわれわれの生計をもとめつつあるなら、そしてわれわれの生活をわれわれのまなんだ最近のそして最善の方法にしたがって調整しつつあるならば、われわれは決して倦怠になやむことはないだろう。おのれの守護神にあくまで忠実にしたがいたまえ、そうすればそれは刻々にあたらしい展望を示すことをやめないであろう。家事は愉快な娯楽であった。ゆかがきたなくなるとわたしは朝早く起きて、寝具も寝台もひとからげのまま、家具を全部戸外の草のうえにもちだし、床に水をうち、池の白い砂をまき、それからほうきをとってそれをごしごしきれいに白くこすった。こうして村びとが朝めしをすます頃までには、朝日がわたしの家をすっかり乾かして、わたしがふたたび家のなかにはいれるようにしてくれた。そしてそれからはわたしの瞑想はほとんどさまたげられないのであった。わたしの家具そっくりがジプシーの荷物のように草のうえに小さなかたまりになり、本やペンやインクをのせたままのわたしの三本脚のテーブルが松やサワグルミのあいだに立っているところはなかなか風情があった。そういうものも戸外に出ているのをよろこんでおり、家のなかにもどされるのをいやがっているように見えた。わたしは時々、それらの上に日よけを張り、そこに坐りこもうという気持がおこった。日がこれらのものを照らしているのを見、自由な風がそのうえを吹きわたるのを聞くのはたのしかった。ごく平凡なものでも、家のなかでなく戸外においてはずっとおもしろく見えるものだ。小鳥がすぐとなりの枝にとまっており、ハハコグサがテーブルの下にはえており、クロイチゴのつるがその脚のまわりをっている。松かさ、栗のいが、いちごの葉があたりにちらばっている。われわれの家具――テーブルや椅子や寝台のうえに、これらの物の姿が模様として移されるようになったのはこういう次第――かつて家具がそういうものの唯中に立っていたという――からであるのかと思われた。
 わたしの家は丘のかたわら、大きな森のはじにすぐ接した、やにの多い松やサワグルミの若い林のまんなかにあり、池からは六ロッド〔一ロッドは約五メートル〕で、そこまでほそい小路がだらだらと下りていった。前庭にはイチゴ、クロイチゴ、ハハコグサ、オトギリソウ、アキノキリンソウ、樫の灌木、サンドチェリー(Cerasus Pumila)、アオイチゴ、ジマメが生えていた。五月の末になるとサンドチェリーはそのみじかい茎のまわりに円筒形の繖形花序さんけいかじょにならんだその繊細な花で路の両側をかざった。その茎は秋になると大きくふくらんだ見事な桜んぼの重みで垂れさがり花環の形で放射線状にいたるところにたおれかかった。その実はうまいとはいえなかったが、わたしは自然に対するお愛想のつもりで味わってみた。ウルシ(Rhus glabra)は家のまわりにいきおいよく生え、わたしの造った土堤を越えて押しよせ最初の年に五、六フィートにもそだった。その幅のひろい、羽状の熱帯的な葉は見た目に奇異ではあるがこころよかった。春おそく、枯れてしまったような乾いた枝先から押しだした大きな芽は、魔法でもあるかのように優美な、緑色をしたやわらかい、直径一インチの枝となってのびひろがった。それはあまりに向う見ずにそだってその弱い付け根に負担をかけたので、わたしが窓べに坐っていると、そよとの風も吹かないのに、新しいやわらかい枝が自分の重みにたえかねて突然扇のように地面に倒れる音がするのを聞くこともあった。八月には、花時には多くの野生の蜜蜂を牽きよせたいちごの大きなかたまりが、次第にそのかがやくビロードのような真紅の色を帯び、これもその重みで倒れてやわらかい茎を折った。

 今日、この夏の昼さがり、わたしが窓に寄っていると、鷹がわたしの伐採地のあたりに輪をえがいている。わたしの視野をかすめて二羽、三羽と飛んだり、家のうしろのシロ松の枝にせわしなくとまったりする野鳩の飛びかけりは大気を鳴りとよもす。ミサゴは池の鏡のような水面にくぼみをつくって魚を吊りあげる。てんは戸口の前の沼池からしのび出て岸の蛙をつかまえる。ハマスゲはあちこち飛びかわす食米鳥の重みでたわむ。しかもわたしは一時間ほど前から、ボストンから田舎へ旅客をはこぶ汽車のひびきがシャコの羽ばたきのように消え去り、しばらくするとまた新たに起こるのを聞いているのだ。ある少年は町の東のほうの農家にやられたが、家恋しさにまもなくそこを逃げだし、てひどい姿で自分の家に帰ってきたという話だが、わたしの住んでいるところはそれほど世間ばなれがしてはいなかったのだ。この少年はこんな退屈な辺鄙へんぴな所を見たことがなかったのだ。人々はみんなどこかに往ってしまう。汽笛の音さえきこえないのだ! 今ではマサチュセッツ州じゅうにこんな土地があるかどうか。

「ほんとうに、われわれの村は
あの飛ぶような汽車の矢の往きつくまととなり
われわれの平和な野のうえになつかしくひびくその名は――コンコード。」

 フィッチバーグ鉄道はわたしの住まいの南百ロッドのところで湖水のほとりに出る。わたしはたいていその土堤をつたって村に出るので、いわばこのかんによって世間とむすびつけられているのである。全線を走る、貨車に乗った男たちは古なじみのようにわたしにむかっておじぎをする。かれらはそんなに何度もわたしに行き会い、わたしを鉄道の従業員だと思っているらしい。いや、考えようによってはわたしはそのとおりなのだ。わたしも地球の軌道のどこかで保線夫をしたい気があるのだ。
 機関車の汽笛は夏に冬に、どこかの農家の庭の上を飛んでいる鷹のさけびのような音をたてて、わたしの森にこだまする。わたしはそれで、多くのせわしい大都市の商人が、そして反対側からはひともうけしようという田舎の商売人がこの町の界隈にはいりこんでくるのがわかる。同じ地平線内にくると、かれらはおたがいに相手に線路をよけろと警告してさけぶが、その声は時々二つの町の圏内にわたって聞こえる。さあ、お前たちの食料雑貨がきた、田舎よ。さあ、お前たちへの割当てだ、田舎者よ! それに対して、自分の農場に立って、そんなものは不要だといいうるほど独立的な男はいない。そして、ここにお前たちへの支払いが来るぞ! と田舎の人間の汽笛がさけぶ。都会の城壁を突くために一時間二十マイルの速力ですすむ長い破城槌はじょうつちのような材木、それからそのなかに住む、すべての疲れそして重荷を負った人間を坐らせるに足る数の椅子。そのような、えらく大きなそしてゴロゴロ音をたてる愛想よさで田舎は都会に椅子をすすめる。すべてのインディアンのコケモモの山はもぎとられ、ツルコケモモの野はかき寄せられて都会にもち出される。綿がはいって来、織物がつみ出される。絹がはいってきて、羊毛製品が出される。書物がはいってくるが、それを書いた才智は出て往ってしまう。
 いくつもの車台をあとにつらねた機関車が、遊星の運行のように――あるいはむしろ、彗星のように、(といった方がよいかもしれない、その軌道は循環する曲線とは見えないし、あの速力とあの方向ではふたたびこの太陽系にもどってくるかどうかていておぼつかないから)その蒸気の雲を、金銀の花環の形をなしてうしろにたなびく旗と見せつつ、また、わたしの見たことのある多くの綿毛の雲にも似て天上たかく、そのかたまりを日の光りに繰りひろげつつ――この飛びかける半神デミゴッド、この雲を切りしたがえる者はやがて日没の空をおのが供奉ぐぶの仕着せにすることだろうと思わせつつ、はせり往くのに出あうとき、あるいは、この鉄の馬が雷のようないななきで山々をこだまさせ、その足で大地をふるわせ、火と煙とを鼻のあなから吹き出す(世人は、新しい神話のなかにどんな種類の翼ある馬、火を吹く竜を汽車の象徴として加えようとしているのか知らないが。)のを聞くとき、わたしはこの地球が今やはじめてそれに住む値打ちのある種族をもったのだという気がする。もし万事が見受けられるとおりであり、人間がけだかい目的のために自然をその下僕としたのならばうれしいのだが! もし機関車のうえにただよう雲が英雄的行動の汗であり、あるいは農夫の畠のうえにうかぶそれのように慈雨を下すものだったら、四大しだいも自然の女神自身もよろこんで人間たちの用向きに同伴し、その護衛となることだろう。
 わたしは朝の列車の通過を、時刻の正確さは似たようなものである日の出を見るのと同じような気持でながめる。後方はるかにのび、ますます高くのぼる雲のつらなりは、汽車がボストンへすすむとき天上に向かうものであって、しばらくは日を隠し、遠くにあるわたしの畠を蔭らす。それは天を往く列車であり、それにくらべれば地上を這いつくばうちっぽけな列車は槍の穂ののぎにすぎない。鉄の馬の厩番うまやばんはこの冬の朝もはやく、山のあいだの星の光りによって起きでて、彼の馬にまぐさをやり馬装をととのえた。火もまたこの馬に生命の熱を吹きこんで飛びださせるためにこのように早く起こされたのだ。この仕事が早いとともに純真なものだったら! 雪がふかいときは人々は鉄の馬に雪沓ゆきぐつをはかせ、巨大なすきで山から海沿いにかけてうねをつくり、列車はあとにつづく種蒔器械のようにそのなかに種子として多くのいそがしい人間や浮動する商品を蒔きちらす。ひねもすこの火の馬は国土の上を走りまわり、主人を休息させるためにのみ休息する。真夜中わたしは彼の蹄音と勇ましい鼻息とによって目をさまされる。そのとき彼は遠い森のなかの谷あいで、氷雪によろった自然に立ち向かっているのである。彼は夜明けの明星とともにやっと彼のうまやに帰るが、そのまま休みも眠りもしないでふたたび旅立つ。時とすると夕方、わたしは彼が厩のなかでその日の残ったエネルギーを吐きすてているのを聞くこともある。神経をしずめ肝臓と脳とを冷やして二、三時間鉄の眠りにつこうというところである。その仕事が長きにわたり疲れを知らないものであるとともに英雄的で支配的なものであったら! むかしは猟師が昼間踏みこむだけだった、遠く町と町との境目にある人跡まれな森をとおして、黒暗々たる夜をいてこれらの明るい客間はなかの住人のそれと知らぬうちに駆けぬける。色とりどりの群衆の集まる町か都市かの明るい停車場に今とまったかと思うと、次にはふくろうや狐をおどろかせつつ陰気な沼地に停車する。列車の発着は今では村の一日の時刻を告げる。それは規則的に正確に往来し、その汽笛は遠くまで聞こえるので、農夫はそれで自分たちの時計を合わせ、かくて一つの整然とおこなわれた制度が全地域を規正する。鉄道が発明されて以後、人々は時刻をまもることにおいて多少とも向上しなかったろうか? 人々は停車場においては駅馬車の立て場においてよりは一層早く語り、そして考えはしないだろうか? 前者の空気には何か人に電撃を感じさせるものがある。わたしはそれがなした奇蹟におどろいた。わたしの近所の人間で、こんなに早い乗物にのってボストンに出かけることなど決してあるまいとわたしが決定的に予言しそうな人間が、発車のベルが鳴るころになるとそこに姿を見せている。「鉄道的」に物事をする、ということは今やはやり言葉になった。何の権力によってにもせよ、その通り路からよけよ、とそんなにしばしば、そしてそんなに誠実に警告されるのは相当悪くないことである。この場合は騒擾取締令を読み上げるために止まったり、暴徒の頭上に発砲したりしない。われわれは決して脇にそれることをしない一つの運命――アトロポス〔三人姉妹の運命の女神の一人〕をつくったのだ(これをわれわれの機関車の名前にしようではないか)。人々は何時何分にこれらの太矢が一定の方角にむかって発射されるだろうということを告げ知らされている。しかし、それは何ぴとの仕事のさまたげもしないし、子供たちは別の通路で学校に往く。それがあるためにわれわれは一層確乎とした生活をする。かくて、われわれはウィリアム・テルの息子たるべく教育される。空中には目に見えない矢がいたるところに飛んでいる。われわれ自身の道以外のすべての道は運命の道である。さらば、なんじ自身の道をひたすら歩め。
 わたしにとって商業の取柄と見るべきものはその企業的精神と勇気とである。それは手を合わせてジュピターに祈ることをしない。わたしはこれらの人々が毎日、多かれ少なかれの勇気と満足とをもってかれらの仕事にあたり、かれら自身考えている以上のことをし、そしておそらく自分たちが意識的に企図できる以上の善い事をしているのを見る。わたしはブエナ・ヴィスタ〔一八四九年のメキシコ戦争中の一激戦地〕の前線に半時間踏みとまった人々の勇気よりは、除雪機関車を冬の根城とする人々の長つづきのする快活な勇敢さに打たれる。かれらはナポレオン・ボナパルトが最も稀だとする午前三時の勇気を持ちあわせているばかりでなく、かれらの勇気はそんなに早くは休息につかず、また吹雪がやみ、あるいはかれらの鉄の駒がてついてうごかなくなるときにのみ眠るのである。まだふりしきって人の血をこごらせているこの大雪の今朝、わたしはかれらの凍った息の霧がたなびくなかからかれらの機関車のベルの、内にこもったひびきを聞く。それはニューイングランドの東北の吹雪の拒否にもかかわらず、大しておくれもせずに列車が来ることをつげるものである。そしてわたしは雪と霜だらけになったこの耕作者が、ヒナギクではなく野ネズミでもないものを、地球の遠いはてにつらなるシエラ・ネヴァダの山々のごろた石のように掘りおこす雪掻き板のうえから、彼の頭をのぞかせているのを見とめる。
 商業というものは思いのほか、信念あり、明朗で、敏活で冒険的で疲れを知らないものである。それはまた、その方法において非常に自然なものである。多くの空想的な企画や感情的な実験などよりはるかに自然であり、したがってそれが格別な成功を示すのである。貨車が轟々ごうごうと音をたててわたしを通りすぎ、わたしがロング・ウォーフからレーク・チャムプレーまでの道のりにわたってそのにおいをまきちらす貨物を嗅ぐとき、わたしの心はさわやかになり拡大される。わたしは外国の土地、珊瑚礁、インドの海、熱帯の風土、地球のひろさを思い知らされるのである。次の夏にニューイングランドの亜麻色の頭髪をおおう帽子につくられるシュロの葉や、マニラ麻や椰子の実の殻、古づな、麻袋、屑鉄、錆釘などを見るとわたしは一段と世界の市民のように感じる。車に積まれた、このやぶれた帆布は、それが紙に再生されて印刷された書物になったときより、今のままのほうが一層読むに足り、おもしろくもある。これらの布切れほどに自分たちがしのいだ嵐のてんまつをまざまざとえがくことを誰がなしえよう。それらは訂正を要しない校正刷である。そこにメーン州の森からの木材が行く――それはこないだの出水で海に流れてしまわなかったもので、流れたものやまきにされたものがあったから千について四ドルかた値があがっている。マツ、エゾマツ、スギ――一等品から二、三、四等品まである、ついこないだまでは何の差別もなく熊やオオジカやトナカイの上に揺れうごいていたのに。次には最上品のトマストン石灰が音をたてて往く。それが消和するまでには山のなかにだいぶ深くはいっているだろう。これらの束ねられた、あらゆる色合と地質のぼろ――木綿と麻とのどん底の境遇、衣服のなれのはて、――イギリス、フランス、またはアメリカ製の更紗さらさ縞木綿しまもめん、モスリンその他のようなあのすばらしい品ほどには、ミルウォーキーででもなければ、今ではもてはやされない模様ものなど――が上流下流の階級から取あつめられて、ただ一つの色の、またはわずか二つ三つの色あいの紙とされて、その上には高級なまたは下等な、そして事実にもとづいたほんとうの話が書かれるために往くのだ! この閉めた車は塩づけの魚の匂い、グランド・バンクスとその漁場とを思い出させる、強いニューイングランド的な商業的なにおいがする。この世の中のために完全に貯蔵され、もはや何ものも腐敗させることができぬ、聖徒たちの信心堅固さも顔負けさせるほどの塩ざかなを見たことのない者があろうか。それで人は道路を掃くこともできるしいしにすることもできるし、焚きつけを割ることもできるしろものであり、馭者はそれをたてにしてわが身と積荷とを太陽と風と雨とからかばい、商人はそれを(コンコードの一商人がかつてそうしたように)商売をはじめるときに看板として戸口にかかげる――ついには彼の最もふるいお得意もそれが動物か植物か鉱物か確かなことはいえなくなる始末だが、しかもそれ自身は雪片のように清浄で、鍋に入れられて煮られれば土曜日の晩の御馳走に結構な塩ざかなとなるであろう。次はスペイン種の牛皮で、そのはそれを着ていた牡牛がスパニッシュ・メーン〔南米の東北海岸地方〕の大草原を走りまわっていたときにもっていたよじれと押っ立った角度とを今なお維持している――それはすべて頑迷さの象徴であり、すべて体質的な悪徳がいかにほとんど絶望的であり矯正しがたいものであるかを示している。わたしは白状するが、実際上、ある人の真の性質を知ったうえは、わたしはこの世ではそれを善い方にも悪い方にも変えるのぞみはもってないのだ。東洋人がいうとおり、「犬の尻っ尾を煖め、圧さえ、括り糸で丸め、十二年も手だてをつくしても、それはやはり生まれつきの格好を変えないであろう。」これらの尻っ尾が示すような頑強さに対する唯一の有効な対策は、たしか実際によくやっていることだと思うが、それをにかわにしてしまうことで、そうすればそれはよくくっついて長もちがする。こんどはヴァーモント州カッティングスヴィルのジョン・スミス宛の糖蜜またはブランデーの大樽が来る。彼はグリーン・マウンテンズのあたりの商人で彼の開墾地の近くの百姓たちに仕入れをしているのであって、彼は今ごろ自分の張り出し店を見わたして立ちながら、最近海岸に到着した荷が自分の品物の値段にどうひびくかを考え考え、次の汽車便で飛び切りの品がはいるはずですと、今朝ほどまでに二十ぺんも繰りかえしたことをこの瞬間もお客に吹聴ふいちょうしているかもしれない。それは『カッティングスヴィル・タイムス』の広告に出ているのである。
 こういう品が出ていく一方、別の品物がはいってくる。空気をつんざく音におどろかされてわたしは本を読んでいる眼をあげて、遠い北の山々で切り出され、グリーン・マウンテンズ地方やコネティカット州を飛び越えて来た大きな松材が、十ぷんとかからないうちに矢のようにこの町を飛びすぎるのを見たが、二度目に見たときにはもうほとんど見えなくなってしまった。

おおきな船の
マストになるために往ったのだ。」

 そして、聞け! こんどは一千の丘の家畜をはこんでいる家畜列車がくる。羊小舎、厩、戸外の牛飼場、棒をもった家畜追い、自分の羊の群のまんなかに立った羊飼いの少年――山の牧場地だけはのぞいてそのほかのすべてが九月の嵐によって山から吹きとばされる木の葉のように運ばれていく。空気は子牛や羊の鳴き声、牡牛どものひしめきにみたされて、さながら谷間の牧場が進んでいくかのようである。先頭に立つ鈴をつけた老いた去勢牛がベルをならしたてると、山々は牡羊のように、小さな丘は子羊のように躍りはねる。車にあふれた家畜追いも今は家畜のただなかで、それと同じ平面に立ち、今までの職務はなくなったがかれらの手にした用のない棒を役目の印しとしてまだ棄てかねている。しかし、かれらの犬は――どこにいるやら? それは犬にとっては家畜の大逃走である。かれらは全くおき去りにされた。においの跡づけが失われた。わたしは犬どもがピーターバラ・ヒルのうしろで吠えているのが、グリーン・マウンテンズの西の斜面であえあえぎのぼっているのが、聞こえるような気がする。かれらは家畜の死目を見とどけ得ないだろう。かれらの職務もなくなった。かれらの忠実さ利口さも値うちがさがった。かれらは面目をつぶされてこそこそと犬小舎にもどるか、ことによったら気が荒くなって狼や狐の仲間入りをすることだろう。かくて牧場の生活をのせた列車は走りすぎ走り去ってしまう。が、ベルは鳴り、わたしは線路を避けて汽車を通さなければならない――

「汽車はわたしにとってなんだろう?
いつそれがおしまいになるか
わたしはそれを見に出かけない。
それは二、三の凹地くぼちをうずめ
燕のために土堤をつくる
それは砂ほこりを立たせ
そして木いちごをそだたせる。」

 しかし、わたしはそれを森のなかの荷車道のように横ぎる。わたしはその煙や蒸気や汽笛で目玉を飛び出さされたり耳をそこなわれたりしたくない。

 もう汽車はすべてのせわしい世界とともに往ってしまい、池のなかの魚ももはやそのとどろきを感じなくなったので、わたしは前よりも一段と独りぼっちになった。のこった長い午後はたぶんわたしの黙想をさまたげるものは遠方の街道を行く馬車か連畜のかすかな物音以外にはないであろう。
 日曜日にはときどき、風の向きがよいと、リンカン、アクトン、ベッドフォードまたはコンコードの鐘が聞こえてくる。かすかな、あまい、いわば自然の旋律で閑寂な世界にもちこまれるに足るひびきである。森を越えて十分な距離をおくとこの音は一種ふるえる唸りを帯びて、あだかも地平線をなす松の針葉がかなでられる竪琴の弦であるかのようである。中をへだてる大気が遠くの山なみに青い色を帯びさせて見る眼にたのしいものにするのとちょうど同様に、最大限の距離をへだてて聞かれるすべての音は宇宙の琴の振動ともいうべき、ただ一つの同じ効果を生じる。この場合、大気がして通し、森のすべての葉と針と交流した旋律――鐘の音のうちで自然が採りあげ変化を加え、谷から谷へとこだまさせた、その部分がわたしの耳につたわったのである。反響はある意味で独自の音であってその点にその魔術と魅力とが存するのである。それは鐘の音のうちで繰り返すに足るものを繰り返しただけのものではなく、ある部分は森の声である。森の仙女ニンフの口ずさむのと同じかりそめの言葉と調べである。
 夕方、森のかなたの地平線上の遠い牛の啼き声はあまく調子よくひびいて、わたしははじめのうちは、時々わたしがそのセレネードを聞かされる、丘を越え谷を越えて放浪する歌びとの声かと思いちがいをするのであった。が、じきにわたしはその声が長く引かれて、牝牛の安価で自然な音楽だとわかるとあてがはずれるとともに愉快でないこともなかった。わたしは彼の歌声が牝牛の音楽に親縁があり、結局両方とも同じく自然の、声としてのあらわれであることをさとった――と申しても、わたしは皮肉をいうつもりではなく、かえってそういう若者たちの歌の真価をわたしが認めていることをいいたいのだ。
 夏のいつ頃か、夕刻の列車が通ったあと、七時半になると極まったように、何羽かヨタカがわたしの戸口の切株か家の棟木にとまって半時間ばかり夕ぐれの聖歌をうたうのであった。かれらは毎晩、日没から計ったある時刻に五分とずれずにほとんど時計のような正確さをもって歌いはじめる。わたしはかれらの習性をつまびらかにするめずらしい好機会を得た。時には四、五羽が森のあなたこなたで一度に啼き、たまたま一羽が他の一羽より一小節ずつおくれることもあり、非常に間近かなので各節のあとの「クックッ」という音ばかりでなく、蜘蛛くもの巣にとらえられた蠅に似て、ただ大きさに比例して声高いあの特殊な「ブンブン」いう音をもたびたび聞きわけた。時には森のなかで一羽がまるで紐でつながれているように、二、三フィートはなれてわたしのまわりをぐるぐる飛びまわることもあったが、それはおそらくわたしがその卵の近くにいたからであろう。それらは夜中じゅう時折り歌い、また夜明けのちょっと前と夜明けごろに同様音楽的になった。
 ほかの鳥がしずまっているとき、鳴き梟は声をあげ、悲嘆する女たちのように、ウールール、と昔ながらの音で啼く。その凄味のあるさけびはまったくベン・ジョンスン的である。賢い真夜中の妖婆! それは詩人たちのいう、あからさまな、ぶっきらぼうなトゥーウィット、トゥーフーではなく、冗談でなく最もおごそかな墓場の小歌であり、地獄の林において、世の常ならぬ恋の痛みと歓びとを想いおこす自殺した恋人たちのお互いの慰めである。が、わたしはかれらのなげき、かれらの愁いにみちた受け答えが森のあたりにふるえるのを聞くのを好む。それは時にはわたしに音楽と歌い鳥とを思いださせる。それは音楽の暗い、涙にみちた半面であるかのように、歌われることを欲する悔いとため息であるかのように思われる。それらは霊である――かつて人間の形で夜毎に地上をあるき闇の行ないをなし、今ではかれらの過ちの場所でかれらのなげきの聖歌、あるいは哀歌をうたってかれらの罪障の消滅をねがっているちた人間たちの霊であり陰鬱な予言である。かれらはわれわれの日常の住まいであるこの「自然」の変化と可能性とについてわたしに新しい観念をあたえる。Oh-o-o-o-o that I never had been bor-r-r-r-n!(おお、わたしが決して生まれなかったらよかったのに!)池のこっち側の一羽がため息をし、絶望の落ちつきなさで飛びまわって暗い樫の木の新しい枝にとまる。すると―― That I never had been bor-r-r-r-n! と、向うがわの一羽がふるえる真剣さで返す、そして―― bor-r-r-r-n! とリンカンの森からかすかに聞こえてくる。
 わたしはまた、ほうほう梟の夜曲を聞く。近くで聞くとそれは自然のうちで最も憂鬱な音とも考えられる。あだかも自然がこれによって人間の死際しにぎわのうめきを定型化して彼女の唱歌隊において永久的にしようとしたかのようである。希望を置きざりにした人間のあわれな残骸が暗い谷にはいりながら、動物のように、しかし人間のむせび泣きで泣きたてているようであり、一種の咽喉音ガーグルの調べで一段のすご味を添えている――わたしはその声を真似しようとするとき「グル」という音ではじめたくなるのだ――そしてそれはすべての健康な勇気のある思念の禁圧の結果、膠のようにぶよぶよし、かびの生えた状態におちいった心を表現している。それは死屍しかばねを食う鬼と白痴とを、気の狂ったわめきを思わせる。けれども、今、遠方の森で一羽が、距離をへだてているためにほんとうに美しく聞かれる調べでそれに答えている――フーフーフー、フラーフー、と。じっさいそれを聞くと、夜でも昼でも夏でも冬でも概して愉快な連想のみをかき立てられるのであった。
 わたしは梟がいるのをよろこぶ。それをして人間のために白痴的な気狂いじみたホーホー声で啼かせるがよい。それは昼の影のささない湿地やたそがれの森にこのうえなくふさわしい音で、人間がまだ認めえない広大な未開拓の自然を暗示するものである。それはすべての者がいだく濃い夕闇と満たされない想いとを表わす。ひねもす、日はただサルオガセのまといついた一本のエゾ松が立っている荒れた沼地の表面を照らし、小さな鷹が頭上を舞い、シジュウカラが常磐木ときわぎの葉がくれにさえずり、シャコと兎がその下にこそこそやっている。けれども今や、もっとすご味のある、この場所にふさわしい(夜という)日が明けそめるのだ。そして別の種類の生き物がそこで自然の意味を説き明かすために目ざめるのである。
 夜おそくなると、わたしは橋をわたる荷車の遠い音を聞いた――それは夜はほとんどどのほかの物音よりも遠くまで聞こえた――また犬の吠え声、時には遠方の納屋庭で何か怏々おうおうとしている牝牛の啼きごえも聞いた。そうこうしているうちに池の岸全体にわたって食用蛙の鳴きごえがわいてきた。かれらはむかしの大酒呑みと酒盛り連中の強情な精霊であり、性懲しょうこりもなくかれらの冥土の湖で――、そこには水草はほとんどないけれども蛙は生きているのだが、ウォールデンの水の精がこんな比喩をゆるしてくれるなら――小唄のひと節をうたおうとしているわけだ。かれらはむかしのうたげのテーブルの愉快なしきたりを守ろうと欲するが、その声はしゃがれ、沈んだおごそかなものになって、はしゃぐ気分をそこない、酒も味をうしなって、いたずらに腹をふくらませる飲物となり、決してたのしい陶酔が過去の記憶を忘れさせるためにおとずれず、そこにはただ水びたし水づけ水ぶくれがあるのみである。だらしのない口許をまもるナプキン代りになる丸形の葉にあごをのせて、いちばん長老格の蛙が、この北側の岸の下でむかしは馬鹿にしていた水をぐいとあおり、トルルルンク、トルルルンク、トルルルンク! とさけびながら杯を順に廻す。と、たちまち、どこか離れたみぎわから同じ合言葉がくり返されるのが水面をつたわって聞こえてくる。第二位の年齢と腰まわりとをもったのが杯の自分の目盛りまで飲み乾したわけだ。この儀式が岸を一巡し終わると司会者は満足してトルルルンク! をさけび、またおのおの、いちばん身幅のない、水のもれそうな、皮のたるんだ腹をしたのに至るまで、型のごとく同じ合言葉を繰りかえすのである。かくして杯は何度も何度も廻されるが、やがて朝日が霧を追いはらう頃には長老のみが池の上にふみとどまり、時折りトルンクと鳴きながら、返辞をむなしく待つのである。
 わたしはわたしの開墾地から雄鶏の声を聞いたことがあったかどうか、しかとはおぼえない。そこで、わたしは若い雄鶏を、鳴く鳥としてただその歌のために飼って見るのもわるくあるまいと考えた。この、かつては野生のインドのきじだったものの歌声はどの鳥にくらべても異彩をはなつものであり、もし人がそれを家禽にすることなくして自然のまま生かすことができたとしたら、それは鵞鳥のガーガーごえや梟のホーホーより立ちまさって、たちまちわれわれの森の最大の呼びものとなるだろう。それから夫君のときがやんだとき、その絶えまをみたすために雌鶏がクワックワッと呼ぶところを想像して見たまえ! 人間がこの鳥を家畜のうちに加えたことは不思議はない――卵だのドラムスティック〔鶏の脚の下部〕はさておいても。冬の朝、こういう鳥がたくさんいる森――かれらの古里の森――を歩いて、木のうえで野生の若い雄鶏が澄んだするどい声で鳴き、それが幾マイルも地上にひびきわたってほかの鳥のかぼそい歌をかき消してしまうのを聞くとしたら――考えてもみたまえ! それは各国の人を緊張させるであろう。誰だって朝早く起き、自分の生涯の一日一日をますます一層早く起き、ついにはいうにいわれぬほど健康になり、富み、そして賢くならないものがあろうか。この外国の鳥の歌声は、すべての国の詩人によって、その国生まれの歌鳥の調べとともに褒めそやされている。雄々しい雄鶏はいかなる気候にも合う。彼はその土地生まれの者よりかえって土着的である。彼の健康はつねにすぐれ、その肺臓は健全で、精神は決してひるまない。太平洋、大西洋上の水夫さえ彼の声で目ざまされる。けれどもそのするどい声はわたしを決してわたしの熟睡からゆりおこしたことはない。わたしは犬も猫も牝牛も豚も雌鶏も飼わなかったのだ。だから家庭的の音が欠乏している、と人にいわれたかもしれない。攪乳器も糸車も、薬罐やかんのたぎる音も急須きゅうすのシュンシュンいう音も子供たちのさけびもわたしをあやさない。昔ふうの人なら今までに感覚がぼんやりしてしまい退屈で死んでしまったかもしれない。壁のなかに鼠さえいない――かれらは餓死してしまったから、いや、食べ物で家のなかにさそわれることがなかったからである。ただ屋根の上、床の下の栗鼠、棟木のヨタカと窓の下でさけぶ青カケスと、家の下の兎かヤマネズミ、家のうしろの鳴き梟かネコ梟、池の上の野生の鵞鳥か笑うカイツブリの群、夜啼く狐がいるだけである。ヒバリとかヨシキリとかの、おだやかな開墾地の鳥さえわたしの伐採地にはついぞおとずれなかった。庭には今しもときをつくる若い雄鶏もなく、クックッという雌鶏もいない。庭すらないのだ! 垣をへだてられない自然が閾ぎわまで押しよせて来ているのだ。窓の下には若い林が伸びつつあり、地下室には野生のウルシとキイチゴのつるとが闖入ちんにゅうしつつある。頑丈なヤニマツが場所の狭さに屋根板にこすれてキーキー音を立て、その根は全く家の下まで這いこんでいる。大風が吹けば窓蓋いや鎧戸が飛ぶかわりに、家のうしろに折れて落ち、または根こそぎになった松の木が燃料となる。大雪には前庭の門への道がなくなるなどということはなく――元来、門がなく――前庭がなく――文明の世界への道がないのだ!
[#改ページ]

孤独


 こころよい夕方だ――からだ全体が一つの感じになり、すべての毛孔が歓びを吸っている。わたしは不思議な自在さで自然のうちを往き来し、その一部となっている。涼しく、曇っていて風もあったが、そして、これといって特別に注意を惹くものはなかったが、シャツだけになって石の多い池の岸を歩いていると、すべての風物が常とかわって親しみぶかい。ひきがえるは鳴きたてて夜を招き入れ、ヨタカの歌は水のうえをさざなみ立てる風に乗ってつたわる。風にさわぐハンノキやポプラの葉に共感してほとんどわたしの息はつまるようだ。しかし湖面のようにわたしの清澄な心はさざなみは立つがみだされはしない。夕風によって立ったこれらの小さな波は、滑かな、物を反映する水面と同じように嵐からは遠いのだ。もう暗くなったが風はまだ森で吹きえており、波はまだ打ちよせ、どれかの生き物はその調べでのこりの者をなだめすかしている。休息は決して完全ではありえない。最も野性的な動物は休息せずに今しも餌食をもとめる。狐、スカンク、兎は今や恐れることなく原や森をとびまわる。かれらは自然の夜番である――活きて動く生活の日と日とをむすぶ鎖である。
 わたしが家に帰ると訪問者があって名刺を置いていったのを見いだす――それは花束のこともあり、常磐木の花環のこともあり、黄色のクルミの葉または木切れに鉛筆で書いた名前であることもある。めったに森に来たことのない人間は、森のなかの何かちょっとしたものを手に取ってあるく道々もてあそび、わざと、あるいは何ごころなく残していくものだ。ある人は柳の枝の皮をむいてそれを環に編み、わたしのテーブルのうえに置いていった。わたしはいつも、たわめられた小枝や草、靴の足あと、によって留守中に訪問者があったかどうかを、そしてたいがい、のこされた何かわずかな手がかりで、男女の別、年齢、どういう性質の人間であるかをつげることができた。その手がかりには落とされた花、むしってすてられたひとつかみの草(それは半マイルもはなれた鉄道線路にすててあることもある)、葉巻やパイプのただよう残り香、などがある。いや、わたしはそのパイプの匂いで六十ロッドはなれた街道を旅行者が往くのを知ったことがしばしばある。
 われわれの周囲には通常、十分な空間がある。われわれの眼界は決して鼻がつかえるほどではない。深い森は戸口のすぐ前にせまっているわけではなく、池もそうではない。つねに幾分かは切り開かれ、なじみぶかく、使いふるされ、何らかの方法で占有され囲われ、自然から人間界へ取り込まれている。どういう訳でわたしは、この広大な範囲と地域、人影稀な幾平方マイルかの森を、ほかの人々からわたしだけにまかせられた私有物のようにもっているのだろうか。わたしのいちばん近い隣人は一マイルもはなれており、丘の頂きからでなければ、わたしの家の半マイル以内には一軒の家も見あたらない。わたしは森で画されたわたしの眼界をひとり占めしている。一方には鉄道が池に接するあたりの遠いながめがあり、他方には林道をめぐらす柵が遠く見える。しかし概していえばわたしの住んでいるところは大草原のうえのように寂莫せきばくとしている。それはニューイングランドであるにおとらずアジアでありアフリカである。わたしはいわばわたし自身の日、月、星をもち、わたしだけの小さな世界をもっている。夜は、わたしが地球上の最初の、あるいは最後の人間でもあるかのように一人の旅びともわたしの家のそばを通らず、わたしの家の戸をたたかなかった。ただし春だけは別でその季節にはたまさかにパウトたらを釣りに村から誰かやってきた――かれらは明らかにかれら自身の天性のウォールデン池で釣りすることの方がずっと多く、暗黒をもってその釣針に餌をつけるのだ――しかし、かれらはじきに、たいがい軽いびくをさげて退却し、「世界を闇とわたしとだけにのこした。」そして夜の黒いしんはいかなる人間の近づきによってもけがされることはなかった。わたしは人々は一般にまだいくらか暗黒を恐れていると思う、妖婆はすべて絞刑に処され、キリスト教と蝋燭とはもたらされたけれども。
 しかしわたしは、あわれな人間嫌いや極めて憂鬱な人間でさえも、最もうるわしくやさしく、最も無邪気で元気づける交わりを、どんな自然物のなかにも見出しうることをときどき経験した。「自然」のただなかに住み、まだ感覚をうしなっていない人間にとっては非常に暗い憂鬱症はありえない。どんな嵐でも健康で無邪気な耳にとってはアイオロス風神の音楽でないものはない。何物も純真で勇気のある人間を低俗な悲哀に強いて引き入れる権利はもちえない。うつり変わる季節のつき合いをたのしんでいるとき、わたしは何物も人生をわたしにとって重荷と感じさせることはできないと信じる。今日わたしの豆畠をうるおし家のなかにわたしをとじこめるおだやかな雨はわびしく憂鬱ではなく、わたしにとっても善いものなのだ。雨はわたしが豆畠にくわを入れるのをさまたげはするが、それは豆畠の手入れよりはるかに一層値打ちのあるものなのだ。雨がながくつづいて土中の種をくさらし低い土地のジャガイモを台なしにすることがあっても、それは高い土地の草には善いし、草に善ければわたしのためにも善いわけだ。ときどきわが身をほかの人とくらべて見ると、わたしはみずからたのむ真価を越えてほかの人たちよりも神々によってめぐまれているように思われる――あだかも神々の手から、他の人の受けていない免許状、保証状をもらっていて特別な指導と保護とにあずかっているような気がする。わたしは自らおもねって得意がりはしないが、そういうことがありうるとすれば、神々がわたしにおもねっているような気がする。わたしは決してさびしく感ぜず、また孤独感で少しでも圧迫されたことはなかった。一度だけ――森に住むようになってから数週間たったころ――人間が近所にいるということは晴れやかな健康な生活にとって必要なのではないか、と一時間ばかり思い迷ったことはあったが。そのとき、ひとりぼっちでいることは何か不愉快であった。しかし同時にわたしはわたしの気分に幾分の異状があるのを自覚し、今に恢復することを予見したようであった。これらの想いがわたしをとらえていたとき、おだやかな雨のただなかで、わたしはたちまち、自然のうちに、――雨だれのパタパタする音にも、家のまわりの物音や眼にうつる景色にも――いかにもうつくしく慈しみぶかい友だち附き合いがあり、限りないそして説明しがたい親しみが、わたしを支持している周囲の空気のようにあり、近所に人間が住んでいる場合に考えられるあれこれの有利さなどは取るに足らぬものになってしまったのを忽然こつぜんとしてさとり、それからはふっつりとそんな感じは念頭になくなった。すべての小さな松の葉の針は共感をもってひろがりふくらみ、わたしに味方した。わたしは、通常人々が荒涼としていると呼びならわしている情景のうちにもわたしに親しみぶかい何物かがあるのを、またわたしにとっていちばん血のつながりが近く、いちばん人間的なものは人間でも村人でもないということを、まざまざとさとり、もはやどんな場所でも二度とわたしにとって無縁なものではありえないと思った。

「トスカーのうつくしき息女よ、
いたみは悲しむ者のいのちを時ならぬにうばい
この世におけるかれらの日は長からず。」

 わたしの最もたのしい時のあるものは春と秋の長い風雨の時期で、そういうときにはわたしは朝から午後へと一日じゅう外に出られず、小止みない風の音と打ちつける雨の音になぐさめられるのである。そして早い夕ぐれが長い夜をみちびき入れると、いろいろな思いがゆるゆると根をおろしそれからそれへとひろがっていく。例の東北から吹きつける雨は村の家々にはなかなか難儀なもので若い女たちは正面の入口に手桶ておけと長柄雑巾とをもって立ちはだかり侵入する水をふせぐのであるが、そういうとき、わたしはわたしの小さな家の唯一の入口である扉のうしろに坐り、十分にその保護にたんのうした。あるはげしい雷雨の際には池の向うの大きなヤニマツに落雷し、頂上から根もとにいたるまで深さは一インチかあるいはそれ以上、幅四、五インチの非常にあざやかで完全に規則的な螺旋形の溝を、まるでステッキに溝でも彫るようにきざみつけた。わたしは先日またそのそばを通ったが、八年前に何の害心もない空から恐るべく抵抗しがたい雷電が落ちてきた、あの痕跡がむかしよりもっとまざまざとしているのを仰ぎ見て畏れにうたれた。人々はしばしばわたしにいう、「あんなところにいてはお淋しくて人間のそばにきたいとお思いになるでしょう――ことに雨や雪のふる日や夜などは。」そういう人にわたしはこう答えたくなる――われわれの住んでいるこの地球全体は空間のなかのただの一点です。われわれの望遠鏡の力ではその円盤の幅が認められないようなかなたの星に住んでいる、二人のいちばん遠くへだたっている人間はどれだけ離れていると、お思いなのですか? なぜわたしは淋しく感じるべきなのでしょう? われわれの遊星は銀河のなかにあるではありませんか? あなたが発したこの質問はいちばん重要な質問とは思えませんね。人をその仲間からへだてて孤独にさせるのはどういう種類の空間でしょうか? わたしはいくら脚をはこんでも二つの心をおたがいにあまりより近く寄せることはできないことを知りました。あなたはいちばん何に近く住みたいとお思いですか? たしかにそれは、多くの人の近くに、――停車場とか郵便局とか酒場とか集会場とか学校とか食料品店とか、ビーコン・ヒルやファイヴ・ポインツとか、人がいちばん雑踏するところに近くではなく、柳が水のそばに立ち、その方向に根をのばすように、われわれのすべての経験によってそこからそれが発することを知った、われわれの生命の永遠の源泉に近く、でしょう。これは人々の性質によってちがうでしょう。しかし、これこそ賢い人がその地下室を掘る場所です……ある夕方、わたしはウォールデン街道で、「立派な財産」と称されるもの――ただしわたしはそれをとっくりと拝見したことはないが――をつくりあげた、わが町民の一人が一ついの牛を市場にっていくのに追いついたが、その人はわたしに、どうしてあなたは世の中のたのしみのそんなに多くを棄てる気になれたのか、と訊いた。わたしはそれに対して、わたしは世の中が相当好きだと信じています、と答えた。わたしは冗談でいったのではなかった。こうしてわたしは家に帰って寝床にはいった――そして彼が闇とぬかるみとを衝いて道をたどり、ブライトンだか明るい町ブライト・タウンだかに行くにまかせた――そこへ彼は翌朝の何時かに到着したことだろう。
 死んだ人間にとっては覚醒もしくは復活のあらゆる望みは、すべての時と場所とを問題でなくする。それが起こりうる場所はつねに同じであってわれわれのあらゆる感覚にとってたとえようもないほど快いものである。たいがいの場合われわれは末梢的な、その場かぎりの事情のみがわれわれを忙殺することを許す。それらは実にわれわれの心のみだれの原因である。しかるに、すべてのものにいちばん近くあるものはそのものを作ったあの力である。われわれのすぐそばには最も偉大な法則が不断におこなわれつつある。われわれのすぐそばにあるものは、われわれがそれと話しこむことが大好きな、われわれが雇った働き手ではなく、その作品がわれわれである、その働き手である。
「天地の微妙な力の影響はいかに広大で深遠なものだろう!」
「われわれはそれを認めようと欲するが、われわれはそれを見ない。それを聞こうと欲するが聞かない。事物の本質と合体していてそれと離すことはできない。」
「この力は、人をして宇宙のうちにあってその心を浄めて神聖化し、晴れ着にあらためてその祖先に犠牲と供え物とをささげしめる。それは微妙な智慧の大海である。それらは到るところに、われわれの上に左に右にある。それらはあらゆる側においてわれわれを取りかこむ。」
 われわれ人間は、わたしにとってすくなからず興味のある実験の主題である。われわれはこういう境遇にあって、しばらくわれわれの雑談の交わりなしに済ますことはできないものだろうか――われわれ自身の想いだけでわれわれをなぐさめることは? 孔子は真実をもっていった、「徳はいつまでも棄てられた孤児のごとくあるものではない。それはかならずや隣人をもつにちがいない」と。
 思念によってわれわれは、正気な意味でわれわれ自身から抜け出ることができる。心の意識的努力によってわれわれは行動とその結果とから超然と立つことができる。そしてすべての事物は善も悪も流れのごとくわれわれを過ぎて行く。われわれは全面的に自然のなかに巻きこまれはしない。わたしは流れのうちの流木でもありうるし、天にあってそれを見おろしている因陀羅インドラでもありうる。わたしは劇場の出し物で感動されるかもしれないが、一方において、わたしともっとずっと関係が深そうな現実の事件によっても感動されないかもしれぬ。わたしはわたし自身を人間的存在としてのみ知っている。思念と感動とのいわば舞台として。そしてわたしは、それによってわたし自身から他人と同じように遠くはなれて立ちうる一種の二重性を自覚している。わたしの経験がいかほど強烈なものであろうと、わたしは、わたしの一部でありながら、わたしの一部ではないごとく、わたしの経験にはあずからない見物人となり、ただその経験に注目するところの、あなたである以上にはわたし自身ではないところのものが、存在し批評しつつあることを自覚する。人生の劇――それは悲劇であるかもしれない――が終わると見物人は往ってしまう。それは彼の関するかぎりでは、一種のこしらえ事であり、単に想像の作品にすぎない。この二重性はわれわれをたよりない隣人、および友人にすることが往々ありうる。
 わたしは、大部分のときを孤独ですごすのが健全なことであるということを知っている。最も善い人とでもいっしょにいるとやがて退屈になり散漫になる。わたしは独りでいることを愛する。わたしは孤独ほどつき合いよい仲間をもったことがない。われわれはたいがい、自分の部屋にとじこもっているときより、そとに出て人なかに立ちまじわったときの方が一層孤独になる。考えつつあり、あるいは働きつつある人間は、どこにいようとつねに孤独である。孤独は人とその仲間とのあいだをへだてる空間のマイル数によって計量されるものではない。ケムブリッジ大学の密集した部屋の一つにいるほんとうに勤勉な一学生は沙漠の修道僧におとらず孤独である。農夫は畠か森で、耕したり木をったりして終日ひとりで働きしかも孤独を感じないですむ。それは彼が仕事をしているからである。しかし夜、家に帰ってからは、じっとひとりで部屋に坐りこみいろいろな物思いにもてあそばれることにはえきれず、「世間の人間に会い、」気ばらしをし、昼間の孤独に対して取返しをつける(彼の考えによると、)ことのできるところに往かなくては気がすまない。それだから彼は、学徒が倦怠も気のふさぎも感じないでひと晩じゅう、そして日中の大部分も自分の部屋にどうしてひとりぼっちで坐りこんでいられるのか不思議がるのである。しかし彼には、学徒が家にいながら、農夫がするのと同じことで、彼の畠でなおも仕事をしており、彼の森で木を伐っているということ、そしてその代りに農夫がもとめるのと同様な――それはもっと圧縮された形のものかもしれないが――気散じと交際とを求めているのだということが解らないのである。
 社交は通常あまりに安価である。われわれはあまりしげしげと会い、その間にお互いにとって何かの新しい価値のあるものを獲得する時間をもたないで会う。われわれは一日に三回食事時に会い、お互いに、われわれがそれであるところの古いかびくさいチーズの味をあらためて相手に味わわさせる。われわれはこの頻繁な会合をがまんできるものにするために、そして公然たる戦争をひらかずにすむように、礼儀作法とよばれる、あるひと組の規則を取りきめなければならなかったのだ。われわれは郵便局で会い、懇親会で会い、毎晩炉辺で会う。われわれはごたごたと生き、お互いの邪魔になり、お互いにつまずきあう。こうしてわれわれはお互いに対して多少とも敬意を失うのだとわたしは思う。すべて重要で心からの交際のためには、たしかにこれほどしげしげとしなくても事足りるであろう。工場の若い女たちを考えてみたまえ――決して、夢のなかにおいてさえ、独りでいることはほとんどない。わたしの住んでいるところのように一平方マイルにたった一人の住民だったらもっと善いだろうに。人間の価値が皮膚にあってそれを手で触れて見なければならぬわけではあるまいに。
 わたしは、ある人が森のなかで道に迷い、とある木の根もとで餓えと疲れとのために死にかかったが、肉体的の困憊こんぱいのため病的になった想像力が彼の周囲にあらわした怪奇な幻像――それを彼は現実であると信じたのだ――によって孤独感をまぬがれた、という話を聞いたことがある。同様に、肉体的および精神的の健全さと力とによって、われわれはこれと似た、しかしもっと正常で自然なつき合いによって絶えずなぐさめられ、自分が決して孤独でないことを知るようになれるのである。
 わたしはわたしの家のなかに実にたくさんの仲間をもっている。特に誰もおとずれる者のない朝のうちに。わたしは、そのうちのどれかがわたしの境遇を彷彿させるかもしれないから二、三の比喩をこころみてみよう。わたしは声高に笑うカイツブリ、あるいはウォールデン池そのもの以上に孤独ではない。この池はいったいどんな仲間をもっているというのだろう? しかもそれはその紺碧こんぺきの水の色のうちに、青い憂鬱魔ではなく青衣の天使をもっているのだ。太陽はひとりである。妙に曇った日には時としては二つあるように見えることもあるが、一方は贋ものである。神は独りである――しかし悪魔は――独りどころではなくおそろしく大勢の仲間をもち、正に無数である。わたしは牧場のひともとのモウズイカかタンポポ、または豆の葉かスイバ、またはウマバエかクマバチ以上に孤独ではない。わたしはミルブルックの小川、風見車、北極星、南風、四月のにわか雨、一月の雪どけ、あるいは新しい家の最初の蜘蛛以上には孤独でない。
 時折り長い冬の夜など、雪がしきりにふり、風が森にほえるとき、わたしは、ウォールデン池を掘り、石でかため、そのふちに松の林をめぐらしたとつたえられる、あるむかしの入植者で最初の所有者であった人物の訪問をうけることがある。彼はわたしに古い時代の、そして、新しい永遠の物語りをする。林檎りんごも林檎酒もなくても、気の合ったたのしさとよもやまのおもしろい意見の開陳とで二人だけで結構愉快なひと晩がすごされるのである。たいへん賢くユーモアのある友人で、わたしは大好きであり、ゴフ〔一六〇五―七九年、クロムウェルの仲間でチャールス一世の処刑にあずかり、王政復古後義父のホワリーとアメリカに行方をくらましいろいろの伝説をうんだ〕やホワリーよりもその胸のうちに一層多くの秘密をたたみこんでいる人物である。彼は死んだと思われているがどこに彼が葬られているか誰も知らない。別に、いいとしをした老婦人も近所に住んでいるが、たいがいの人の眼にはすがたが見えない。わたしは彼女の香りたかい薬草園をときどき散歩し、薬草をつみ、彼女の寓話に耳をかたむけることをこのむ。彼女は比類なく豊富な天才をもち、その記憶は神話時代以前にさかのぼる。彼女はすべての寓話の起原を、そしてどういう事実のうえにそれぞれがきずかれているのかを語ることができる。そういう出来事は彼女が若いころにおこったことだからである。血色のよい元気のあふれた老婦人で、どんな天気でも時候でも好み、すべての彼女の子供たちより長生きしそうである。
 自然のいいあらわしがたい無邪気さと恩恵――太陽、風、雨、夏、冬のそれ。かれらはあのような健康、あのようなよろこびを永遠にあたえてくれる! そしてかれらはわれわれ人類に対してかぎりない同情をつねに寄せていて、だれか一人がもっともな理由のために愁うるならば、すべての自然はそれに感動して、太陽のかがやきは消え、風は同情の溜息をし、雲は涙を雨ふらせ、森は真夏にも葉を落として喪服をつけるであろう。わたしは大地と交通しないでいられようか? そしてわたし自身もある程度まで木の葉であり腐蝕土ではなかろうか?
 われわれを健康に明朗に満ち足りてたもつ丸薬がんやくは何であろうか? わたしの、あるいはあなたの曾祖父ひじいさんのそれではなくて、われわれの曾祖母ひばあさんである自然の宇宙的・植物的・植物学的薬剤である。それによって彼女は自分をつねに若々しくたもち、今までにパー老人のような長寿者を幾人も生き越し、かれらの朽ちいく血肉で自分の健康をやしなったのである。わたしの万能薬としては、時々びんの運搬用に作られたのを見かける、あの長くて浅い黒馬車ふうの荷車から出される、死の国のアケロン河と死海の水とをしたたらして作ったいかさま薬の壜の代りに、生一本きいっぽんの朝の空気を飲みたい。朝の空気! もし人々がそれを一日の源の時刻に飲もうとしないならば、われわれはそれを壜詰びんづめにして、この世界の朝の時刻への入場券をなくしてしまった人々のために店で売ってやらねばなるまい。しかし、それはどんなつめたい地下室に置いても正午まではもたず、それよりずっと前に栓を押し出して曙の女神アウロラのあとを追って西に飛んでいってしまうことを忘れないように。わたしは、あの年老いた薬草医であるアスクレピオス〔医薬の神〕の娘で、彫像では一方の手に蛇をもち、他方の手にその蛇がときどきそれから飲む杯をもった姿であらわされているヒュギエイア〔健康の女神〕の信者ではない。むしろユノと野のチシャとのあいだにうまれた娘であり、神々と人間とを青春の活力によみがえらす力をもった、ジュピターの杯に酌をする青春の女神ヘベの信者である。彼女はおそらくかつて地上をあゆんだ唯一の完全に健康で健全で強壮な若い女であった。そして彼女が来るときいつでもそこに春があった。
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訪問者


 わたしは自分がたいがいの人におとらず社交を愛し、わたしと行きあうどんな血気さかんな人間を向うにまわしてもその場はひるのようにねばることを辞しない者だと考えている。わたしは元来隠遁者ではなく、そっちの方に用さえあれば、酒場の最も剛の者の御常連をも降参させるほど根を据えることもありうる。
 わたしはわたしの家に三つの椅子をもっている。その一つは孤独のため、その二は友情のため、その三は社交のためのものである。訪問者が思いがけず大勢押しかけてきたときはそれらの全部に対しても第三の椅子しかなかったが、かれらはたいがい、立っていることによって空間を倹約した。どんなに多くの立派な男女を小さな家が収容できるかはおどろくほどである。わたしは一度に二十五人ないし三十人の魂をその肉体もろともわたしの屋根の下にもったこともあるが、しかもわれわれはお互いに非常に近くに寄ったということを感ぜずに別れてしまうことがしばしばあった。公私を問わず、無数の部屋や、大きな広間、酒その他の平和的軍需品をたくわえるための地下室をもったわれわれの家の多くは、その住人とくらべてみて法外に大きすぎるように思われる。それらはあまりに宏壮でその住人はそこに巣くう害虫にすぎぬ感がある。トレモント、アスター、ミッドルハウスのごとき大建築物の前で先触れが合図のラッパを吹きならすとき、すべての住民のための大玄関口にちっぽけな鼠が一匹ちょこちょこ這いだしてきて、それもやがて舗道のどこかの穴にもぐりこんでしまうのを見てわたしはおどろくのである。
 こんな小さな家でわたしが時に経験する一つの不便は、さかんな言葉でさかんな思想を開陳しはじめると相手の客とのあいだに十分な間隔がとれないことである。われわれの思想が思う港に着くまえには、その船がちゃんと航海できる姿勢になりひと廻りふた廻りしてみる空間が入り用である。われわれの思想の弾丸は聴き手の耳にとどくまえにその左右と上下のゆれを克服し、最後的に落ちついた弾道におさまる必要がある。そうでないとその弾は相手の頭の脇から再びはみ出てしまうかもしれない。またわれわれの文章は前もって展開し隊形をととのえる空間を要する。国家とおなじに個人も、お互いのあいだに適当な、ひろくて自然的な境界を――相当な中立地帯をさえ――もたなければならない。わたしは向う岸にいる仲間に池を越して話しかけるのが特別な贅沢のように感じたことがある。わたしの家のなかではわれわれはあまり近くて聴く準備ができない――静かな水面に二つの小石を接近して投げるときにお互いの波動がかきこわされるように、われわれは聴き取られることができるほど低く話せないのだ。われわれが単なるおしゃべりの声高の話し手であるなら、頬と頬とを寄せ、お互いの息を感じるほどごく接近して立ってもかまわない。しかし控え目に思慮ふかく話そうというのならば、もっと遠くはなれて、すべての動物的熱気と湿気とが発散してなくなってしまう余裕がほしい。もしわれわれがお互いのうちにおける、話しかけられうる以外の、あるいはそれを超越したあるものとの最も深い交わりをたのしもうと欲するならば、われわれは沈黙を守らなければならないばかりでなく、通常、どうしてもお互いに声が聞こえないほど肉体的にもへだたっていなければならない。この標準にてらしてみると、言葉は聴くことをくしない者の方便のためにあるのである。しかし世にはそれを叫ばなければならないとなるといいあらわすことができない多くの微妙なことがあるのである。会話がより高く、より壮大な調子をおびてくるにつれて、われわれはだんだんと椅子を後じさりさせてついにはむかいあった隅の壁に行きあたり、かくてたいがい空間に行きづまることになった。
 しかしわたしの「取っておき」の部屋――わたしの引っこみ場所ウィズドローイング・ルーム〔応接間、の意味もある〕――いつでも客の通せる、そこの敷物の上には日はめったにさしこまないところは、家のうしろの松の林であった。夏の日、大切なお客が来るとわたしは彼をそこへしょうじ入れた。このうえない召使いが床をぬぐい、家具の塵をはらい、什器じゅうきを整頓した。
 客が一人きたときは彼はわたしのつましい食事をともにしたが、話しながら即席のプッディングをかきまぜたり、灰のなかでパンのかたまりがふくれて焼けていくのを見まもったりするのはすこしも会話のさまたげにはならなかった。しかし二十人もの客が押しかけて坐りこんだときは、二人分のパンはあるにしても、物を食うなどということはもうすたってしまった習慣であるかのように、食事のことはふっつり話頭にのぼらなかった。そしてわれわれはごく自然に禁欲を実施した。それは決して款待かんたいに対する違反ではなく最も適当で思慮あるやりかただと感じられた。そのような場合、そんなにしばしば補給を要する肉体的生命の消耗と衰弱とは奇蹟的に緩和され活力が維持された。こうしてわたしは二十人はおろか千人でももてなすことができた。そして誰かがわたしは在宅だのにわたしの家から失望を感じ空き腹をかかえて帰るとすれば、すくなくともわたしはかれらに同情はしているのだということを信じてもらいたい。多くの世帯もちはそれをうたがうが、古い習慣のかわりに新しい、そしてより良いそれを作ることはたいへん易しいことなのだ。諸君は諸君の評判を諸君の提供する食事に懸ける必要はないのだ。わたし自身としては、わたしに御馳走を出すためとてする忙しぶりほど、どんな種類の地獄の番犬にもまさって、わたしがその家に出はいりすることを有効にはばむものは他になかった。わたしはそれを、ふたたびこんな面倒をかけてもらいたくないという、非常にていねいで遠まわしの暗示であると解したのである。わたしはそのような場面をふたたびおとずれまいと思う。わたしは、一人のわたしの訪問者が名刺がわりに黄色いクルミの葉のうえに記しておいた、あのスペンサーの数行をわたしの小屋のモットーとしてもつのを誇りとするであろう――

「到り着きてかれらはそのささやかなる家をみたす
人ひとりあらぬところにては、もてなしをさがしもとめることもなし
休息はかれらのうたげ、すべては心のおもむくままなり
最もけだかき心は最も善き満足をもつ。」

 のちにプリマス植民地の総督になったウィンスローが一人の同伴者と森を通って徒歩でマッサソイトに儀礼訪問をこころみたとき、彼の宿に疲れて空腹になって到着するとその王はかれらを款待したが、その日は食事については何の話もなかった。夜になると、――彼自身の書いたものを引用すると、こうあった――「王はわれわれを彼自身とその妻とおなじとこに寝かせた。それは地面から一フィートの高さに置いた板張りで、その上に薄いむしろを敷いただけのもので、王夫婦は一方のはじにわれわれは他のはじに寝たのであった。別に二人のおもだった土人が場所がないのでわれわれにくっついて寝た。そのためわれわれは旅行よりは泊まることによって一層くたびれた。」翌る日の午後一時にマッサソイトは「射ちとった二尾の魚をもってきた。」それは鯉の三倍ぐらいの大きさがあったが「それが煮られると、少なくとも四十人が分け前をえたがった。そしてその大部分はお相伴にあずかった。ふた晩と一日とのあいだにわれわれのとった食事はこれだけであった。だから、われわれの一人が一羽のシャコを買わなかったら断食で旅行しなければならないところであった。」「蛮人たちの野蛮な歌(かれらには歌いながら眠りつく習慣があった)」のおかげで、食物ばかりでなく睡眠も不足であったので気が遠くなることをおそれ、また、旅行する余力のあるうちに帰宅したかったのでかれらはここを辞去した。宿泊についていえば、かれらのうけたもてなしはなるほど粗末ではあったが、かれらが窮屈と感じたものは敬意のつもりでなされたのである。が、食べ物の関するかぎりでは、わたしはインディアンたちはほかにしようもなかったのだと思う。かれら自身も食べる物がなかったのだ。そしてかれらはお客に対して言い訳が食い物の代りになると考えるほどの愚か者でなかったのだ。そこでかれらは空き腹の帯を引き締めてがまんし、それについて何にもいわなかったのだ。次にウィンスローがかれらをおとずれた時には、かれらにとって食物がゆたかな時節であったからこの点では何の不足もなかった。
 人間にいたっては、どこでもそれが不足するということはほとんどない。森に住んでいたときわたしはわたしの生涯のどの時期よりも一層多くの訪問客をもった。といっても若干の訪問者があったという程度だ。わたしはそこで幾人かの人と、ほかのいかなる場所でもえられないほど都合のよい環境において会った。しかしつまらない用事で会いにくる人間は少なくなった。その点ではわたしの交友は単に町からのわたしの距離によってふるいわけられた。そこに社交の河が流れこむ、孤独の大洋のそんなに遠くにわたしは引っ込んでいたので、概していえば、わたしの必要の関するかぎりでは、最も上質の沈澱物のみがわたしの周囲に積み寄せられた。そのほかに、別の側にあるまだ探険され耕作されない大陸の証拠物件がわたしの手もとに打ち寄せられた。
 この朝、わたしの宿にやって来たのは、誰あろう、正真正銘のホメロス詩篇中の人物、もしくはパプラゴニア人〔ホメロスの『イリアス』に出てくる原始的な民族〕であった――彼はいかにも、ふさわしく、詩的な名前をもっているのでわたしはそれをここに印刷することができないのを残念におもう――彼はカナダ人で木伐きこりであり、杭つくりであり、一日に五十本の杭に穴をあけることができ、彼の犬がつかまえたヤマネズミで夕飯をすましたばかりの人物であった。彼もまたホメロスのことは聞きかじっており、「本がなかったら雨の日には何をしたらよいか、身をもてあます」といっているが、たぶん、いつも雨季がすぎても一冊の本を読みとおしはしなかったことだろう。遠くはなれた彼の教区で、ギリシャ語さえ発音できるある牧師が彼に聖書の聖句を読むことを教えた。そして今わたしは彼に本を持たせて、パトロクロスの愁い顔をとがめるアキレスの言葉を彼に翻訳して聞かせなければならない。「パトロクロスよ、若いむすめのように何で君は涙にくれているのか?」――

「君ひとりプティアから何かのたよりを受けたのか?
アクトルの子、メノイティオス〔パトロクロスの父〕はまだ存命だという、
アイアコスの子ペレウス〔アキレスの父〕もミュルミドン人のうちで生きながらえている、
二人のうちのどれかが死んだのだったらわれわれは大いに悲しんでしかるべきだが……。」

 彼は「これは善い」という。彼はこの日曜日の朝、病人のためにあつめた白樫の樹皮の大きなたばをかかえている。「今日はこんなことをしているのも悪くはあるまいと思う」と彼はいう。彼にとってホメロスは偉大な作家であった――その書いたものが何についてであるかは知らないのだが。これほど単純で自然な男を見いだすのはむずかしいであろう。この世にそんなに陰鬱な道徳的色あいを投げる悪徳と疾病とは彼にとってはほとんど存在しないようにおもわれた。彼は約二十八歳で、十二年前にカナダと父の家とを離れ、いつかは農場を――たぶん彼の故郷で――買うための金をもうけようと合衆国ではたらいているのであった。彼は最も荒けずりの型でできていた。肥った、のろのろした体躯であったが、身のこなしは優雅で、太い日焼けのしたくびをもち、髪はぼさぼさとし、にぶいねむたそうな青い目が時折り表情にとんでかがやいた。平べったい灰色の布の帽子をかぶり、すすけた羊毛色の外套を着、牛皮の長靴をはいていた。彼はだいの肉食家であり、いつも錫の弁当箱をもってわたしの家のまえをとおって仕事場まで――夏じゅう木を伐っていたのだ――二マイルをかよった。弁当は冷肉で、ときどきヤマネズミの冷肉であり、帯から紐でぶらさげた石の瓶にコーヒーを入れていた――それをわたしに飲めとすすめることもあった。彼は朝早くわたしの豆畠をよこぎってやって来たが、ヤンキーのように仕事をはじめようといそいでやきもきするふうは見えなかった。彼はわが身をそこなう気はなかったのだ。下宿代だけかせげれば、あとはどうでもよかった。彼の犬が途中でヤマネズミをつかまえると、彼は弁当をくさむらにほうっておいて一マイル半も後もどりし、それを料理して下宿している家の地下室に置いてくることもたびたびあった。その前に、そのヤマネズミを夕方まで池のなかに漬けておいてはあぶないかしらと半時間も考えたうえで。――そんな問題を長々と考えこむのが好きなたちであった。朝など通りがかりに彼はよくこんなことをいった、「今日はハトがたくさんいるなあ! もし毎日はたらかなければならない商売でなかったら、猟をすればほしいだけ肉が取れるんだが――ハトだの、ヤマネズミだの、兎だの、シャコだの――ほんとうに! たった一日で一週間分とれるのだがナ。」
 彼は巧妙な木伐りであり、その技術にわざわざいくらかの見せびらかしと飾りとをもちいた。彼は木をるとき平らに地面すれすれに伐った。あとから出てくる芽が元気よくそだつように、また、そりがそのうえを滑れるように、というわけであった。そして繩でくくりわけた薪をささえる木を原形のままにしておかず、それを削って、ついには手でも折れるほどの細い棒、あるいは木切れにするのであった。
 彼はそんなに物しずかで孤独であり、しかもそんなに幸福であるのでわたしは彼に興味を感じた。上機嫌と満足との泉がその眼にあふれていた。彼のよろこびにはまざり物がなかった。ときどきわたしは森のなかの仕事場で彼が木を伐りたおしているのを見たが、彼はいいあらわしがたい満足とカナダ式のフランス語(英語も同様によく話せたのだが)の挨拶とでわたしをむかえた。わたしが近づくと彼は仕事をやめて、よろこびをつつみかねた様子で自分が伐りたおした松の幹に身をよこたえ、内皮をむしりとって球にまるめ、話したり笑ったりしながらそれを噛んでいた。動物的元気が彼の身内にあふれていたので、ときどき何か考えて可笑おかしくなるとたまらなくなってころげ落ち地面をごろごろまろびながら笑った。あたりの木立ちを見まわしながらよく彼はさけんだ、――「まったくだ! おれはここで木を伐っていれば結構おもしろい。このうえのなぐさみはいらねえだ。」ときどき閑なときには、ポケット入りのピストルをもって終日森のなかを歩きまわりながら一定の間隔をおいてわれとわが祝砲をはなってひとりでおもしろがっていた。冬になると焚火をし、昼にはそこで自分のコーヒーを鍋であたためた。彼が丸太のうえに坐って弁当をたべているとヤマガラがやってきて腕にとまり、つまんだジャガイモをくちばしでつっつく。「ちっちゃい奴がそばにくるのは可愛いもんだ」といった。
 彼の内部では動物的人間が主として発達していた。肉体的耐久と満足とにおいては彼は松や岩の従兄弟であった。わたしは時に、一日はたらいて夜になると疲れやしないか、とたずねたこともあったが、彼は正直なまじめな表情でこたえた、「なんの、おれは今までにまだ疲れたことなんかない。」しかし彼の内なる知的な、そしていわゆる精神的な人間は、幼児の内においてと同様ねむっていた。彼はカトリックの僧侶が原住民を教える、あの無邪気な、効果的でないやり方においてのみ教育されていた。そのやり方では教え子は自覚の域にまでは教育されず、ただやっと信頼と尊敬を知る程度で、子供は成人とはならずいつまでも子供のままにされているのである。自然が彼をつくったとき、彼女は彼に強い肉体と満足とを彼の取り前としてあたえ、あらゆる面における尊敬と信頼とをもって彼をささえ、かくして定命七十年を子供のまま生きさせるようにした。彼はいかにも純真で素朴であり、ヤマネズミをわれわれの隣人に紹介する以上には、いかなる紹介も彼を他人に紹介する役にたたなかった。隣人もわれわれがしたと同様に彼を自分で見いださねばならない。彼はどんな役割をも演じようとしなかった。人々は彼の仕事に対して給料をあたえ、それが彼に衣食をあたえる助けをした。しかし彼は人々と意見を交換するということは決してなかった。彼は生まれつきそして自然に、はなはだ謙遜――決して高望みをしないのを謙遜というならば――だったので、謙遜は彼の目立った特質とはならず、彼はそれを理解もできなかった。自分より賢い人々は彼にとって半神のごときものであった。もしわれわれが彼に、そういう者がくるというと、彼は、そんなにえらい人間は自分になんか用はないはずで、万事御当人の勝手になさって自分のことなどは少しも念頭におかないはずだと考えているようにふるまった。彼は称賛の声を聞いたことがなかった。彼は物を書く人間と説教者とを特に尊敬した。かれらのなすことは奇蹟に見えた。わたしが自分はずいぶん書き物をするのだというと、彼は長いことただ手習いのことだと思いこんでいた。彼自身なかなか見事に字が書けたからである。わたしはときに街道のそばの雪のうえに彼の故郷の教区の名がちゃんとフランス語のアクサンをつけて見事に書いてあるのを見つけて、彼が通ったのだな、とわかった。わたしは彼に、君は自分の考えを書いて見たいと思ったことがあるか、といたことがある。彼は、そうすることができない人間のために手紙を書いたり読んだりしてやったことはあるが、思ったことを書こうとしたことはない――いや、とてもできない、どこから手をつけたらよいか見当もつかず、死ぬほど困ってしまうだろう。おまけに綴り字にも気をくばらなけりゃならないのだから! といった。
 ある有名な賢人で社会改良家が彼にむかって、君はこの世界の改革をのぞまないか、と訊いたことがあるそうだ。ところが彼は、そんなことが問題になっているとは思いもかけず、びっくりしてクックッと笑いながら、例のカナダなまりで、「なんの、これで結構だよ」と答えた。彼と交渉をもつことは物を考える人間に多くのことを示唆したかもしれない。あかの他人には、彼は世事一般をかいもく知っていないように見えた。しかしわたしは時として彼の内に、今までに見たことのない人間を見た。そしてわたしは彼がシェークスピアのように賢いのか、子供のように単純に無知なのか、――彼のうちに精妙な詩的な意識があるのではないか、それとも痴愚なのか、判じかねるのであった。ある町の人は、彼がその小さな、きっちり合った帽子をかぶり、口笛をふきふき村をぶらぶらしているのに出あったとき、何か微行の王侯のおもかげがあった、とわたしに語った。
 彼のもっているただ二つの本は暦と算術書とで、算術は相当の達者であった。暦は彼にとっては一種の百科全書であり、そのなかには人間の知識の要約がふくまれていると信じていた――じっさいかなりの程度までその通りであるが。わたしは現代の各種の改革について彼の考えを打診することを好んだが、彼はそれらを最も単純かつ実際的な見方でながめなかったことはなかった。彼は今までにこんな問題を耳にしたことはなかったのだが。君は工場なしですませるか? とわたしは訊いた。彼は、自分は手織りのヴァーモント灰色の服を着ているが、これはよい、といった。茶だのコーヒーだのはなくてかまわないか? 答え、この国には水のほかに何か飲料が出るかね? 自分は水にドクニンジンの葉をひたして飲んだことがあるが、これは暑いときにはただの水よりよいと思った、と。わたしが、君は金銭なしでやっていけると思うか、と訊いたとき、彼はこの制度の起原についての最も深遠な解釈と、pecunia〔金銭、財産、の意のラテン語、語原は pecus「牛」〕という言葉の語原そのものとを示唆し、それと符合するようなやり方で金銭の利便を説明した。――もし自分が一頭の牡牛を所有しているとし、針と糸とを店から買いたいと思ったばあい、その都度その金額ぶんだけこの動物のある部分を抵当にいれていくということは不便であり、じきに不可能になるだろう、というのだ。彼は多くの制度をいかなる哲学者よりも適切に弁護することができた。何となれば彼はそれらを自分に即して説明することによってそれらがひろくおこなわれる真の理由を示し、思索がそれ以外の何ものをも示唆しなかったからである。別のばあい、彼はプラトンの「人間」の定義――羽毛のない二足動物という――と、ある男が羽をむしった雄鶏おんどりを示してプラトンの「人間」だといったという話を聞いて、彼はがちがった方向にまがっているのが重要な相違だと思うといった。彼はときどきさけんだ、「おれは何と話しずきなんだろう! ほんとうに、おれは一日じゅうだって話していられる!」幾月も会わなかったあげく、わたしは彼に、この夏は何か新しいことを考えついたか、と問うてみた。「とんでもない!」と彼はいった、「おれのように、はたらかなければならない人間は、今までの考えを忘れないだけで大出来なのだ。お前さんといっしょに草取りをする男が競争をする気になるとするね、そしたら、どうしたってそっちに心が飛んでいってしまわあ、あんたも雑草のことばかり考えることになる。」そのようなばあい、時には彼の方が先手をうって、わたしがいくらか進歩したか、と問いかけた。ある冬の日、わたしは彼に、君は今の自分にいつも満足しているのかと訊いてみた。外形的には僧侶に相当する、彼の内なるものを、そして生きるための何か、より高い動機を、示唆しようと欲したので。「満足してるとも!」と彼はいった、「人によって、これに満足し、あれに満足するというふうにいろいろだがね。ある男は、たぶん物に不足さえなければ、背なかは火であたたまり、腹の方はテーブルに向けて一日じゅうでも坐りこんで満足してるだろうよ、ほんとうに!」が、どうこころみてみても、彼に物事の精神的な見方をさせることはできなかった。彼が理解すると思われる最高のものは簡単な便利という概念で、動物でもわかりそうなそれであった。しかし、実際上これはたいがいの人間にとってそうなのだ。わたしが彼に、彼の生活法における何かの改善について示唆しても、彼は別に後悔の色もなく、もう遅すぎる、と答えるだけであった。ただし彼は正直とか、その種の善徳は全面的に信じていた。
 彼の内には、いかにささやかなものにもせよ、ある確乎たる独創性が看守できた。そしてわたしは彼が独自に考え、彼自身の見解をのべるのを時折り観察した――これははなはだ稀な現象で、それを観察するためならわたしは何時なんどきでも十マイルの道を行くことをいとわぬものである。そしてそれは結局社会の多くの制度の再発足にほかならなかった。彼はためらい、またたぶん自分をはっきりとは表現できなかったが、いつもその背後に呈出しうる思想をもっていた。が、彼の思索はあまりに原始的で彼の動物的生活にひたっていたので、それは単なる物識りのそれより有望なものではあったが、人に伝えるに足るほど成熟することは稀であった。彼は、人生の最下層にも、いかほど常住に卑賤で無学であろうとも、つねに独自の見解をもち、あるいは全然わかったような顔つきをしない――暗く泥ぶかいかもしれないが、あだかもウォールデン池がそうであると思われているとおり、底知れない天才的人物が存在するかもしれないことを暗示した。
 多くの旅行者がわたしとわたしの家とを見に寄り道をした。そして訪問の口実として一杯の水を所望しょもうした。わたしは、自分は池で水を飲んでいる、と答え、その方を指さし、柄杓ひしゃくを貸してあげようといった。遠くはなれて住んでいても、四月一日ごろにはじまると思われる、誰でもが動きまわる、あの毎年の訪問からわたしもまぬがれることはできなかった。そして、わたしの訪問客のなかにはだいぶ変り種もあったが、相当な幸運の分け前も獲られた。養育院その他からやってきた、少し足りない人間もわたしをおとずれた。しかし、わたしはかれらにもっているだけの知慧をはたらかせ、打明けばなしをするようにし向けた。そういうばあい、知慧ということをわれわれの会話の題目として。そうして埋めあわせはついたのである。じっさい、わたしはかれらのある者があわれな者たちのいわゆる監督者や町の方面委員などより賢いのを見いだし、主客を入れ換えるべき時であると感じた。知慧の点についていえば、半人前と一人前とでは大して相違がないことをさとった。特にある日のこと、ごくおとなしくて単純な心をもった窮民で、しばしばほかの仲間とともに、家畜と彼自身とを迷い出ることからふせぐために、畠のなかで一ブッシェル桶〔一ブッシェルは約二十七キログラム〕のうえに立ったり坐ったりして垣根がわりに使われているのを見かけたことのある男がわたしをおとずれ、わたしのような生活をしてみたいという希望をもらした。彼は、いわゆる謙遜さなどは超越した――あるいはむしろそこまでに到らない、極度の単純さと真実さとをもって、自分は「知慧が欠けている」ということをいった。それが彼のいったとおりの言葉であった。神がそうお作りになった、だが神はほかの人間とおなじように自分をかまってくださると思う、と彼はいった、「わたしは子供のときからこうだったのです。わたしはいつだってあまり知慧があったことはありません。わたしはほかの子供とは別っこでした。あたしは頭がわるいのです。それは神様のおぼしめしだと思っています。」そして彼の言葉の真実を証明するためにそこに彼がいるのであった。彼はわたしにとって形而上学的の謎であった。わたしはこれほど有望な立場のうえで同胞と会ったことはめったにない――彼の話すすべてのことはそんなに単純でそんなに真実であった。そしてほんとうのところ、彼がへりくだればへりくだるだけ、それに比例して彼は高められた。わたしははじめはわからなかったが、それは賢い方針の結果であった。このあわれな頭のわるい窮民が置いたような真実と正直との基礎からは、われわれの交際は賢者たちの交際よりまさった何物かに進みうるかもしれないと思われた。
 わたしは普通、町の窮民とはかぞえられないが、そうあつかわれるべき者からの来訪――ともかく世界のあわれな者のうちにはいる――われわれの款待ホスピタリティではなく救護ホスピタラリティにうったえる来客をうけた。かれらは熱心に助けをもとめるが、かれらのうったえの前置きとして、決して自ら助ける気がないという一個条をわたしに知らせる。わたしは訪問客に現に飢え死しかかってはいないことを要求する。どうして彼がそれを得たかは問わず世界じゅうで一番の食欲をもっていてもかまわないけれども。慈善の対象になるものは訪問客とはいえない。訪問が終わったことに気がつかず、わたしがふたたびわたしの仕事にとりかかり、ますます遠くよそよそしく答えても、それが通じない人々もある。人のあちこち移動する季節にはほとんどあらゆる程度の頭をもった人々がわたしをおとずれた。自分でどう処置していいかもてあますほどの頭をもった人々もいる――農園風な癖の見える逃亡奴隷で、寓話のなかに出てくる狐が、跡をつけて吠える猟犬に聞耳をたてるように、そして

「おお、クリスチャンよ、お前はわたしを追い帰すつもりか?」

といわんばかりに、すがるようにわたしを見るのもあった。そういう者どものうちの一人の本物の逃亡奴隷で、わたしが北極星の方角に送り出す手だすけをしてやったのもあった。たった一羽のひなをもっていて、しかもそれがアヒルの子であったという雌鶏めんどりのように、ただ一つの思想をいだいている人々。百羽の雛――それがみんなでたった一匹の虫を追いかけ、毎朝の露のなかで迷い子になり、結局ちぢくれて疥癬かいせんかきになる――をあずかっている雌鶏のような、一千の思想とぼさぼさの頭とをもった人々。脚の代りに思想をもった、一種の知的百足むかでで見ているとむずがゆくなるような人々。ある人はホワイト・マウンテンでよくやるように、訪問客がその名を書きつけるための名簿をそなえたらとわたしに提議したが、残念ながら、わたしはそれを必要とするにはあまりに良い記憶力をもっている。
 わたしはわたしの訪問客の癖のいくつかを見のがすわけにいかなかった。少年少女や若い女は一般に森のなかにはいることをよろこぶようであった。かれらは池をのぞき花を見、時間を善くもちいた。ところが実務家は――農夫でさえ――ただ孤独と仕事のことばかり、そしてわたしが何かしらから離れて住んでいる大きな距離のことばかりかんがえた。そして、時折り森のなかをさまようのは好きだとはいっているが、そうでないことは明らかであった。生計をかせぐのに、あるいはそれを保持するのに時間の全部をうばわれている、せわしない、余裕のない人々。あだかも自分たちはこの問題の専売権をもっているかのように神を語り、あらゆる種類の意見を容れることのできない牧師たち。医者たち。法律家たち。わたしの留守にわたしの戸棚やベッドにちょっかいするおちつきのない世帯もち――どうして××夫人はわたしの敷布が彼女のそれほどはきれいでないことを知ったのかしら?――もはや若くあることをやめて、職業の踏みらされた路を行くのがいちばん安心だと極めてしまった若い人々。――すべてこういう人々は一般にわたしのような境遇においてはあんまり善いことはできないといった。ああ! そこが困るところだ。年齢と性との差別なく、老いこんだ病弱な臆病な人々は病気や不慮の事故や死のことばかりかんがえた。かれらにとっては人生は危険にみちていた――そんなことをかんがえなければどんな危険があろうか――そしてかれらは、用心ぶかい人間は、ドクトル某氏がたちまち飛んで来られる、いちばん安全な場所を注意ぶかくえらぼうとかんがえた。かれらにとっては、村は文字どおりの Community〔「社会」の意、com は「共に」munire は「防ぐ」のラテン語、後者はこの語の本来の要素ではない〕、“共同防禦”の同盟であり、かれらは薬箱をもたなければコケモモ採りにもでかけないほど大事とりである。つづまるところ人間が生きているからには死ぬかもしれない危険はつねにある。ただし彼がはじめから半分死んでいるように不活発なら、それに比例してその危険はより少ないということは認めなければならぬ。危険をおかして走るのとおなじく、じっと坐っていても危険はまぬがれないが。最後に、最もうるさい自称社会改良家があるが、かれらはわたしが

「これはわたしが作った家、
これはわたしがつくった家にすむ男です。」

といつもいつも歌っていると考えるのであった。しかしかれらは次のぎょうがこうであるのを知らなかった――

「この人たちは、わたしのつくった家に住む
男をなやませる連中です。」

 わたしは鶏を飼っていなかったから、鶏荒らしはおそれなかったが、人間荒らしの方はおそろしかった。
 こういう連中より愉快な訪問者がわたしをおとずれた。キイチゴ取りに来る子供たち、新しいシャツに着かえて日曜の朝の散歩をする鉄道関係の人たち、漁夫と猟師、詩人と哲学者、つまり、自由を味わうために森に出てき、村をすっぽりと抜け出してきたすべての正直な巡礼者――わたしはかれらによろこんで挨拶する、「よく来たね、同胞の諸君! よく来たね、諸君!」――なぜならば、わたしはこれらのともがらとかねて心を通わせてきたからである。
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豆畠


 そうこうしているうちにわたしの豆畠は――そのうねはつなぎ合わすとすでに七マイルも植わっている――草取りされるのを今か今かと待っていた。なにしろ最初に蒔いたのは最近のものがまだ土のなかにあるうちから、ずいぶん伸びているのだから。じっさい、このうえ延ばすのは困難であった。そんなにしっかりとして自尊心のある、この小さなヘラクレスの仕事は、何を意味するのかわたしにはわからなかった。わたしはわたしの畝とわたしの豆とを愛するようになった、――そんなにたくさんはいらないのだったが。それらはわたしを大地にむすびつけた、それゆえ、わたしは大地を母とする巨人アンタイオスのような力をえた。が、なぜわたしはそれらをそだてなければならないのか? ただ天のみが知っている。夏じゅう、これがわたしの奇妙な仕事であった――それは地球の表面のこの部分、そこにはただ五弁草シンクフォイ、キイチゴ、オトギリ草、その他の香ぐわしい野生の果実やうつくしい花が生えていたところに、その代りにこの豆類を産み出させることであった。わたしは豆から何を学び、豆はわたしから何を学ぶべきだろうか? わたしはそれをかわいがり、それの除草をしてやり、朝夕に様子を見てやる。これがわたしの仕事だ。それは見る眼にりっぱな広い葉である。わたしの部下はこの乾いた土をうるおす露と雨、それから、概してせて力のないこの土地そのものにそなわっただけの肥沃さ、である。わたしの敵は虫と冷たい日と、なかんずくヤマネズミである。ヤマネズミは四分の一エーカー〔一エーカーは約四千平方メートル〕をきれいにかじってしまった。が、わたし自身もオトギリ草その他を追いのけて、かれらの古い雑草園を破壊するどんな権利をもっていたろうか? けれどもまもなく残った豆はヤマネズミにとってあまりに硬くなり、また別な新しい敵にであうべく育つであろう。
 今でもよくおぼえているが、わたしが四歳のとき、わたしはボストンからこのわたしの出生の町につれてこられ、これらの森とこの原を通って池に出たことがあった。それはわたしの記憶にきざまれた最も古い情景の一つである。そして今宵こよいわたしの笛はその同じ水のうえにこだまを呼びさましているのである。わたしよりも年を経ている松はまだここに立っている。何本か伐りたおされたのもあるが、わたしがその切株でわたしの夕食をたいたのである。そして新しい茂みがあたり一面にそだち、新しい幼児のための別のながめを準備しつつある。この牧場の宿根からはほとんど昔とかわらないオトギリ草が生えだし、このわたしもとうとうわたしの幼時の夢のおとぎばなしめいた風景に衣をまとわす手つだいをし、わたしの存在と影響とのあらわれの一つはこれらの豆の葉、トウモロコシの葉、ジャガイモの株に見られるようになった。
 わたしは高地を二エーカー半ばかり耕した。この土地が伐りひらかれてからはわずか十五年ぐらいしかたたず、わたし自身で切株の二、三コード〔一コードは約三・六立方メートル〕を掘り出したから、わたしは別に何の肥料もほどこさなかった。しかし、夏のあいだわたしが草取りをしていたときに掘り出した矢尻からして、今は絶滅した一種族が、この土地を開くために白人がやってきた以前の遠いむかしにこの辺に住み、トウモロコシや豆を植え、したがってある程度までわたしのこの収穫のための地力をへらしていたことがあきらかになった。
 わたしは、どのヤマネズミやリスも道をよこぎって走らない前に、そして太陽が灌木樫のうえに出ないうちに、露が一面に置いているあいだに(農夫たちはそうしてはいけないとわたしに警告したが)――わたしは諸君に、もしできるなら露があるうちにすべての諸君の仕事をするように忠告したい――わたしの畠の高慢な雑草の列を切りたおし、その頭に砂を投げかける仕事にかかった。朝早いうちははだしではたらき、彫刻家のように、露の多い、ぼろぼろこぼれる砂をねかした。しかし時刻がうつるにつれて日はわたしの足を焼いた。かしこの太陽は、わたしが、あの黄色い砂利まじりの高地で、一方のはじはそこの木蔭でわたしが休むことのできる灌木樫の茂みで終わり、他のはじはわたしがもうひと仕事してしまうまでにはその緑の実の色を深めるキイチゴの野に接する、十五ロッドの長い緑の列のあいだを、のろのろと往きつもどりつして草取りをするのを照らした。雑草をのぞき、豆の茎に新しい土をかけ、自分がいたこの雑草をはびこらせること、黄色い土をして、その夏の想いをヨモギやコショウやキビ草ではなく豆の葉と花とに表現させること、大地をして、草ではなく豆といわせること――これがわたしの日々の仕事であった。馬や牛、作男さくおとこや少年、あるいは改良された耕作器具からの援助をほとんどもたなかったから、わたしは人並みはずれて仕事がおそく、したがって並々ならずわたしの豆と親しくなった。しかしたぶん、手の労働は苦役にちかいものでさえ決して最悪の形の怠惰ではないだろう。それは不断のそして不滅の道徳をもち、学者にとっては最高級の結果をもたらす。リンカンとウェーランドを過ぎてどこかしらに往く西に向かってすすむ旅行者たちの目にはわたしは agricola laboriosus ――水呑百姓みずのみびゃくしょうそのものに映った。かれらは二輪馬車にゆったり坐りこみ、膝に肘をつっかえ、手綱は花づな形にたるませている――わたしは家にへばりついて働いてばかりいる土の子である。が、たちまちわたしの宅地はかれらの視界と思索とから去ってしまう。それはずいぶん長い距離にわたっての道の両側にある唯一の開けた耕やされた所であるから、自然かれらはいちばん関心をあつめる。そして畠の男はときどき、彼の耳に入れるつもりでなかった旅行者たちのとりとめない話や批評まで聞いてしまうのであった。「こんなに遅くソラ豆を作っている! 今頃エンドウを作ってる!」――わたしは他人がもう中耕をしてる時分にも蒔きつづけていたのだ――牧師流の農夫には思いもよらぬことであった。「トウモロコシだよ、お前、まぐさにするトウモロコシだよ。」「あの人はあそこに住んでいるんでしょうかね?」と黒い女帽子が灰色の上着うわぎに訊く。そしていかめしい目鼻だちをした農夫は、休めるので有がたがる輓馬を停めて、畝間に肥料も見あたらないのにお前さんは何をしているのか、と訊き、すこしばかり切り屑か、何でもよい少量のごみ芥類、あるいは灰や漆喰でもよいからほどこせ、とすすめる。だが、ここには二エーカー半の畝があるのに、手車用の除草器とそれを引っぱる二つの手があるだけであり――ほかの車と馬とは毛嫌いされたので――切り屑は近所ではえられない。同乗の旅行者たちは馬車がゴロゴロ往くあいだ、この畠を今までに通りすぎた畠と声だかに比較した。だから、わたしは農耕界においてわたしがどんな立場にあるかを知るにいたった。これはコールマン氏〔一七八五―一八四九年、農業にくわしい牧師〕の報告書に出てこない一つの畠である。ところで、人間の手によって改善を加えられない、もっと野生のままの原野に自然が作り出す収穫の価値は誰が計るのだろうか? 英国乾草の収穫は克明に量られ、水分も珪酸塩も加里カリも計算される。しかし森や牧草地や沼沢のすべての谷あいや池の隈にゆたかでとりどりな実りがあるのだが、ただ人が取入れしないだけなのだ。わたしの畠はいわば自然の畠と人為のそれとの中間的存在だ。ある国々が文明であり、他の国々が半開化であり、また他の国々が野蛮未開であるように、わたしの畠は悪い意味ではないが半開化の畠であった。わたしのそだてたのはよろこんで野生原始の状態にもどろうとしつつある豆であり、わたしの除草器はかれらを引きもどすために「牝牛を呼ぶ唄ラン・デ・ヴァーシュ」をかなでたわけである。
 近くのカバの樹のこずえの枝さきにブラウン・スラッシャー――赤ツグミと呼ぶのをこのむ人もある――が朝じゅう鳴いている。彼はわたしのような人間とともにいることをよろこんでいるので、もしわたしの畠がここになかったらほかの農夫の畠を見つけ出したろう。種を蒔いていると彼はさけぶ、「こぼせ、こぼせ、――かぶせろ、かぶせろ、――ひきぬけ、ひきぬけ。」しかしこれはトウモロコシではなかったから彼のような敵からは安全であった。彼のたわごと――一つの絃あるいは二十絃をならす彼の素人のパガニーニ〔イタリアの音楽家、一七八二―一八四〇年〕式演奏が、われわれの栽培と何の関係があるのかと思われるかもしれないが、それは溶かした灰や漆喰肥料などよりありがたいのである。それはわたしが全面的に信仰している安価な、うわかけ肥料である。
 わたしがわたしの除草器で畝にすこしばかりの更に新しい土をかけてやったとき、わたしは太古この空のもとに住んでいた、記録にのこっていない民族の遺骨の灰を掻きおこし、かれらの戦争や狩猟の小さな道具はこの近代の日の光りに照らされた。それらはほかの自然石――そのあるものはインディアンの焚火に、あるものは太陽に焼かれた痕跡をおびていた――それから、後世のこの土地の耕作者によってここにもってこられた陶器やガラスのかけらとまじっていた。わたしの除草器が石にあたって鳴ると、その音楽は森と空にこだまし、即座にそして無量の収穫をもたらすわたしの労働に対する伴奏をなした。もはやわたしの草取りをしているのは豆ではなく、豆の草をっているのはわたしではなかった。そしてわたしはオラトリオを聴きに都に出かけたわたしの知合いを気の毒さと同じぐらいの誇りをもって思いだした――思い出すことがあるとすれば。蚊母鳥ナイト・ホークはよく晴れた午後――わたしはときどき一日じゅうはたらくこともあった――頭上で輪をえがいた。眼のなかの、または大空の眼のなかの塵のように。そしてときどき、天がとうとうずたずたに裂けてしまったのかと思うような羽音でさっと舞いおりてくる。しかし無縫の天は元のままである。これは空をとびまわる小さないたずら者で、地上のはだかの砂地や丘の頂きの岩のうえにその卵を産みおとすが、なかなか人目にはつかない。池のおもてからすくわれたさざなみのように、風に吹かれた葉が空にただようかのように、優雅で繊細である。そのような類似が自然のうちには見られる。この鳥は、そのうえをとびかけりながめまわす波の、空の兄弟であり、空気をはらんだ完全な形のそのつばさは、海の上の育ち切らない、幼い水のつばさに相応するものである。あるときは雌の二羽が空高く円をえがいているのを見まもったこともあった。かわるがわる舞いあがったり降りてきたり、おたがいに近よったりはなれたりするさまはわたし自身の想いの表象のように思われた。また野鳩がこの森からあの森へわたるのに目を惹かれることもあった。かすかにふるえる羽ばたきと伝令のような急がしさをもって。時にはわたしの除草器は、朽ちた木の株の下から、のろく、気味がわるく、異国的な斑点のある火トカゲを掘り出した――エジプトとナイル河のかたみであり、しかもわれわれの同時代者である。手をやめて除草器にもたれていると、畝間のどこからも、この土地が提供する無尽蔵のたのしみの一部である、これらの音とすがたとが見え聞こえした。
 祭日には町は祝砲をはなつが、それはこのへんの森に豆鉄砲のようにこだまし、軍楽隊のとぎれとぎれのがときどきこの辺まできこえてくる。町の反対側のはずれにある豆畠に出ているわたしには大砲もホコリたけがはじけたようにひびいた。わたしが知らないでいた軍事教練があったときには、わたしは時とすると終日地平線に、やがてそこに何かふきでもの――猩紅熱しょうこうねつとか潰瘍とかのような――でもするような、むずがゆさと病的症状の漠然とした感じをうけていたが、ついに風向きの具合で、畠をこえウェーランド街道をこえていそいできた風の伝令が市民兵トレーナーの訓練であることをわたしに報告した。遠いどよめきを聞いていると、どこかの蜜蜂がむらがり出たのを、近所の人々がヴェルギリウス〔紀元前七〇年―同一九年、ローマの詩人でその『農業詩』中で蜜蜂についてうたっている〕の忠告にしたがって、かれらの家庭道具でいちばんよく鳴るものを、チリリンチリリンとかすかに鳴らして蜂を元の巣箱のなかにふたたび呼びもどそうとしているかのようである。その音がまったくやみ、どよめきがおさまり、いちばん良い風向きでも何の音さたもきこえなくなると、わたしは人々が最後の雄蜂にいたるまで全部をとどこおりなくミッドルセックスの巣箱におさめてしまい、かれらの心は巣箱になすりつけられた蜜のことをかんがえはじめている、とわかったのである。
 わたしはマサチュセッツ州の、そしてわが祖国の自由がこのように安全に保管されているのを知って誇りを感じた。そしてふたたびわたしの除草器にむかったときわたしはいいあらわしがたい自信にみたされ、未来に対する安心した信頼をもっていそいそとわたしの労働をつづけた。
 いくつかの音楽の演奏があったときは村じゅうが一つの大きなふいごで、すべての建物が音をたててかわるがわるふくれあがったりひしゃげたりするようであった。しかし時にはこの森にきこえてくるのがほんとうに気高けだかく心をゆりうごかす調べであり、ほまれをうたうラッパと聞きなされ、さかんな食欲をもってメキシコ人を串刺しにできるような気がした――なぜならば、いったい何だってわれわれは小事にこせこせしていなければならないのか?――そしてわたしの武者ぶりを発揮すべきヤマイタチかスカンクは出てこないかとあたりを見まわした。これらの軍楽は遠くパレスチナからきこえてくるようで、村にかぶさるにれこずえのかすかに見える疾駆と揺れうごきは地平線上に十字軍が進軍していくように思われた。これは偉大な日の一つであった。わたしの伐採地から見たところ空は平日とおなじく永遠に大らかなながめにすぎなかったが。
 植えて、草取りをし、取入れ、打穀し、えりわけ、売り――これがいちばん難物だった――、そして――わたしは十分味わったのだからつけ加えてよかろう――食べることによってわたしが豆とむすんだ、あの親交はめずらしい経験であった。わたしは飽くまで豆を知ろうとした。それがそだっているあいだ、わたしは朝の五時から正午まで草取りをし、のこりの一日は普通ほかの仕事ですごした。いろいろな種類の雑草とのあいだにできる親しいそして奇妙な関係をかんがえてみたまえ――この記述は若干の重複になるかもしれない。もともとこの労働にはすくなからざる重複があるのだから――除草器でかれらの繊細な組織をそんなに手荒くかきみだし、そんなに腹黒いわけへだてをして一方の種族の全隊列をなぎたおし他の一方を丹精してそだてるのだ。それはニガヨモギだ――それはアカザだ――それはスカンポだ――それはコショウだ――それ、やっつけろ、ぶった切れ、根っこを日にさらし、ひとすじでも日蔭におくな――そうすればたちまち起き直って二日もすればニラのように生き生きとするぞ。鶴とではなく〔ギリシャ神話中の小びとは鶴とたたかった〕雑草との、日と雨と露とを味方にしたトロイ人との長期戦だ。毎日豆の側は除草器で武装してわたしが救援にくるのを見る、そしてかれらの敵勢をなぎ仆し、雑草の死骸で塹壕をうずめてくれるのだ。むらがる軍勢より一フィートもぬきんでているたくましい、兜の頂き飾りをなびかした多くのトロイ方の勇将ヘクトルはわたしの武器のもとに仆れた。
 わたしの同時代者のある者がボストンもしくはローマの美術に、他の者がインドにおける観照に、また他の者はロンドンまたはニューヨークにおける商売にささげたそれらの夏の日々をわたしはこうしてニューイングランドのほかの農夫たちとともに耕作にささげたのである。わたしは食うために豆が入用なのではない。豆の関するかぎり、わたしはスープにもせよ投票用にもせよ元来ピタゴラス流の豆ぎらいで、それを米と交換してしまったのである。だが、たぶん、いつか寓話作家のお役に立つように、比喩や表現のために誰かが畠ではたらいていなければなるまいからだ。それは概していえばなかなか獲られない娯楽であった。しかしあまり長くやりすぎると一つの放蕩となったかもしれない。わたしは肥料をやらず、一度に全部の草取りをしたこともないが、わたしはわたしなりにめずらしく善く草取りをし、結局その報酬をえた。イーヴリン〔ジョン・イーヴリン。一六二〇―一七〇六年、有名な日記作家で畠作りについて書いた〕がいっているとおり「まったく、どんな混合肥料でも施肥でも、この、鋤で絶えず耕し、掘りかえし、土をひっくりかえすということとは比べものにならない」からであった。彼はほかの個所で附言している、「土は――特にそれが新しい場合には――一種の磁気をふくんでいて、それが自らに生命を附与する塩、力、もしくは効能(名称はどうでもあれ)を吸収する、それゆえにこそわれわれは自らを維持するために大いに骨を折って絶えずそれをたがやすのである。糞肥やその他の下等な調合肥料はこの良法に対する代用手段にすぎない。」のみならず、わたしの畠は「安息をたのしんでいる、疲れた、力のつきた等外品の畠」の一つであったから、たぶん、サー・ケネルム・ディッグビーがありうることと考えたように、空気中から「活きる霊力」を吸収したかもしれない。わたしはソラ豆十二ブッシェル〔一ブッシェルは約二十七キログラム〕を収穫した。
 もっとくわしくいうと――コールマン氏は主として紳士農業家の入費の多いこころみを報告しているという苦情もあるので――わたしの支出は左のとおりである。

除草器一                  〇ドル・五四
耕作、まぐわ入れ、うね立て           七・五〇(高すぎる)
種ソラ豆                  三・一二半
種ジャガイモ                一・三三
種エンドウ                 〇・四〇
カブラ種                  〇・〇六
鳥おどし用の白線              〇・〇二
馬使用耕作者と少年(三時間)        一・〇〇
収穫のための馬と車             〇・七五
                  ――――――――
         合計          一四・七二半

 わたしの収穫は(家長ハ売ルベキデアリ、買ウコトハフサワシクナイ)

ソラ豆九ブッシェル十二クォート売上代金  一六ドル・九四
ジャガイモ(大)五ブッシェル同       二・五〇
ジャガイモ(小)九ブッシェル同       二・二五
草                     一・〇〇
豆稈まめがら                    〇・七五
                  ――――――――
         合計          二三・四四

差引いて金銭的の利得は前にのべたとおり   八・七一半
 これがわたしの豆作りの経験の結果である。普通の小さな白いブッシュ豆を六月一日ごろ、新しく丸くてまざりのない粒をていねいにえらんで、横縦三フィートと十八インチの間隔の列に蒔く。はじめは虫に注意して隙間ができたら新たに植えておぎなう。次にはヤマネズミを警戒する。かれらは開放された畠だと手あたり次第、出たばかりのやわらかい葉をほとんどきれいにかじってしまうであろう。それからまた、若いつるがあらわれると、たちまちかぎつけて、リスのようにまっすぐ立ってつぼみと若いさやぐるみ食いとってしまう。しかし、もし霜をまぬがれ立派な、売物になるような収穫がほしいなら、何よりも、早く取り入れることだ。それによって多くの損耗がふせげるのである。
 さらにわたしは次の経験をもえた。わたしは独言ひとりごとをいった――こんどの夏はこんなにいっしょけんめいに豆だのトウモロコシだのを植えまい、そのかわりに、その種がまだ失われていないならば誠実、真理、単純、信仰、無垢、その他を蒔き、それらがもっと少ない骨折りと肥料をほどこしてもこの土地にそだってわたしのいのちを支えないものかどうかをみよう――この土地はたしかにそういう収穫をあげる力をのこしているはずだから。ああ! わたしは今年自ら独言した、しかも今や今年の夏も去った、そしてもう一つの夏が、それからもう一つが。そして読者よ――わたしは告白せざるをえない――わたしの蒔いた種はほんとうにこういう諸徳の種であったとしても虫喰いであり、活きる力をなくしたものであって、とうとう生えてこなかったと。通常人間はその先祖が勇敢でありもしくは怯懦きょうだであった程度にのみ勇敢なものである。今の世代は幾世紀もまえにインディアンがなし、そして最初の植民者たちにそうするように教えた正にそのとおりに、あだかもそこに宿命があるかのように、毎年毎年トウモロコシと豆をかならず植える。わたしは先日ある爺さんが鍬を手にして少なくとも第七十回目の穴を掘りつつあり、それが自分自身を埋めるための穴ではないのを見ておどろいた! だが、なぜニューイングランド人はあらたな企てをこころみて穀物、ジャガイモ、牧草の収穫、果樹園にそんなに丹精をこめずに――そういったものとは別な収穫をあげようとしないのか? なぜわれわれの種豆にそんなに憂き身をやつし、人間の新しい世代は少しも念頭におかないのだろうか? われわれが人に出会うと、われわれすべてが今いった作物などより珍重し、しかも大部分は空中にばらまかれてただよっているだけの右にあげた諸徳のいくつかがその人のうちに根をおろし成長したのをかならず認められるようならば、われわれはほんとうに養われ元気づくであろうに。たとえば真実もしくは正義というような微妙な、いいあらわしがたい性質が、たとえその極く少量でも新しい種類のものでも、道をやってくるとする。われわれの大使はこのような種子を自国に送るように訓令されるべきであり、議会は全国にそれを配布する助力をいたすべきである。われわれは誠実に対して決して他人行儀であってはならぬ。そこに価値と友情との核が存在するならば、われわれは決してわれわれの卑劣さによってお互いにあざむいたり侮辱したり排斥したりすべきでない。われわれはこんなにあわただしく会うべきでない。わたしはたいがいの人に会わないといってよい――かれらは時間をもっていないようだから――かれらはかれらの豆に気を取られている。われわれはそんなふうに、しょっちゅうあくせく働いてばかりいる人間とつきあいたくない。仕事のあいまの杖には鍬か鋤によりかかり、きのこのようにではなくて、地面から半分しか起きあがらず、真っすぐに立っているのではなく、地面にちょっと降りて歩いている燕のようである――

「かれが語るときその翼はときどき
飛びたつつもりのようにひろがり、またしぼまるのであった。」

 これでは天使とでも話しているような気がしておちつけない。パンはかならずしも常にわれらを養わないかもしれないが、人間または自然のうちに何かの寛大さを認めること、何かのまじりのない英雄的な喜びにあずかることは、つねにわれわれに益をあたえ、どことも知れず気分が悪いときに、われわれの関節の凝りを取りさり、われわれをしなやかにはずみをもったものにさえする。
 古代の詩と神話とはすくなくとも農耕がかつて神聖なわざであったことを示している。しかるにそれはわれわれによって不似合ふにあいの性急さと不注意とをもっておこなわれている。われわれの目的は単に大きな農場と大きな収穫とをもつことだからである。われわれは農夫がそれによって自分の職業の神聖さの自覚を表現し、もしくはその神聖な起原を思いおこすところの祭典ももたず、行列ももたず、儀式ももたない――われわれの家畜共進会やいわゆる収穫感謝祭も例外とはならない。彼を誘惑するものは利得と悦楽とである。彼は穀物の神ケレスと大地のジュピター神にではなくむしろ地獄的な富の神プルトスに供え物するのである。貪欲と利己、そして土地を財産、もしくは主として財産を獲得する手段、と見なすという、われわれの誰もがそれをまぬがれない、地に這いつくばった習慣からして、風景はいびつにされ、農耕はわれわれの手で堕落し、農夫は最も卑しい生活をおくっている。彼は盗賊としてのみ自然を知っている。カトーは、農業の利得は特別に敬虔で正しい(maximeque pius qu※(リガチャAE小文字)stus)といい、ヴァルローによれば、古ローマ人は「同じ大地を母および穀物の女神ケレスと呼び、それを耕す者どもは敬虔で有益な生活をおくるものであると、そしてかれらのみがサトゥルヌス王〔ローマ神話の農神〕の子孫のうちで残された者であると考えた。」
 われわれは太陽が、われわれの耕された土地にも原野にも森林にも分けへだてなく見おろしていることをわすれがちである。これらはすべて同じように彼の光線を反映し吸収する。最初のものは彼が日々の行程においてながめるすばらしい光景のごく一部分をなしているにすぎない。彼から見れば地球は全体が同じようによく耕された庭のように見えるのだ。それゆえわれわれは彼の光りと熱とのめぐみをそれに相応する信頼と心のひろさをもって受けるべきである。わたしがこれらの豆の畠を大切に思い、秋になってそれを収穫したからとてそれは問題とするに足らない。わたしがこんなに久しく見慣れたこの広い原はわたしを主要な耕作者と見込んでいるわけではなく、わたしなどは見すごして、それに水をあたえそれを緑ならしめる、より自分に親しい自然の諸力に目を向けるのである。これらの豆はわたしによって収穫されなかった実りをもっている。それらは一部分はヤマネズミのために育っているのではないか? 小麦の穂(ラテン語では spica であり、それは昔は speca で、希望を意味する spe から出ている)は耕す者の唯一の希望であるべきではない。その核または粒 grain(granum 実ることを意味する gerendo から出た)はそれが実らすすべてではない。しからばどうしてわれわれの収穫が不作でありえようか? わたしは、その種子が鳥どもの穀物倉である雑草の豊富さも、これまたよろこばないだろうか? 畠が農夫の納屋をみたすかどうかは比較的大した問題ではない。真の農夫は思いわずらうことをやめるであろう――リスが今年は森で栗が実ろうが実るまいが知らん顔をしており、一日一日でその労働を終わり、彼の畠の産物に対するすべての権利を捨て、その心のなかで彼の最初の実りばかりでなく最後の実りをも犠牲にしているごとく。
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 草取り、ことによると読書と執筆、のあとで、午後にはたいがい池で入浴し、きまった仕事のように入江の一つをよこぎって泳ぎ、からだから労働のほこりをあらいおとし、もしくは勉学がつくった最後のしわをのばして、午後はまったく自由な身となった。毎日または隔日に、わたしはぶらっと村に出ていき絶えまなくそこにおこなわれている噂話うわさばなしを聴いた。それは口から口へと、または新聞から新聞へと流布するもので、同種療法ホミオパシー〔健康体に用いると患者のそれと類似の症状をおこす薬物を少量ずつ患者に適用する療法〕的な少量ずつ服用すればそれはそれで、木の葉のさやぎや蛙ののぞき見のように実にさわやかなものであった。わたしは鳥やリスを見るために森を歩くような気持でおとなや少年を見に村をぶらついた。松風のかわりにわたしは荷車の音を聞いた。家から、ある方向にあたる川沿いの牧場にはジャコウネズミの聚落があった。他の方角にはニレとボタンノキとの下にいそがしい人間の部落があった。かれらは、それぞれ自分の穴の入口に坐ったり、となりの家に噂話をしに走りこむプレーリー・ドッグのように好奇心いっぱいに見えた。わたしはかれらの習性を観察するためにしばしば出かけた。村は一つの大きなニュースの部屋のように見えた。一方の側には、それを維持するために、かつてステート街のレッディング商会でそうしたように、クルミと乾ブドウ、もしくは塩と粉、その他の食料品をならべていた。ある人々は前者――すなわちニュース――に対してたくましい食欲と非常に強健な消化器とをもっていて、いつまでもじっと人の往来する通路に坐りこんで、ニュースが西北の季節風のようにつぶやきささやきつつ自分たちを吹きぬいていくにまかせることができる。あるいはエーテルを吸っているようで、それは意識には影響せずに、ただしびれと苦痛への無感覚――さもなかったらそれを聞くことは苦痛をあたえたことだろう――のみを生じるのである。わたしが村を散歩すると、このようなお歴々が列をつくっているのを見ないことはほとんどない。はしごの上に坐って日なたぼっこをしながら、からだを前にかがめてみだらな表情で時々眼で列のあなたこなたを見やっていたり、納屋にもたれて、あだかもそれを支えるためのように、列柱婦人像カリアティッドよろしくのていで、手をポケットに入れていたりする。かれらはたいてい戸外にいたので、何でも風のたよりを聞いてしまう。これらはすべての噂話がまず大ざっぱにこなされつぶされる荒びきの粉ひき場であり、その後でそれは家のなかでより入念で精密な漏斗ろうとにあけられるのである。わたしは村の急所は食料品店、バー、郵便局、および銀行であることを観察した。そして器械の必要部分としてかれらはベル、大砲、蒸気ポンプを便宜の場所にそなえた。そして家々は人間を最大限にいじくることができるように通路をかたちづくりお互いに向かいあって排列されてあり、したがってすべての旅行者はゴントレット〔二列にならんだ人々の間を走る罪人を各人が笞うつ刑罰〕を受けなければならず、すべての男、女、子供が彼をひっぱたけるようにできている。もちろん、最も多く見、そして見られ、彼に最初の一撃をくだしうる、列のあたまに最も近く陣どった人々はその場所に対して最高価を支払った。そして列のあいだに長い間隙ができはじめ、旅行者が塀をのりこえ、または牛の通路に曲がって逃げ失せられるような町はずれに住む少数のちらばった住民はごくわずかな地租または窓税を支払った。看板は彼を誘惑すべくいたるところに懸けられてあった。居酒屋や食べ物屋のごとくで彼を釣ろうとするのもあるし、呉服屋や宝石屋のごとく洒落気しゃれけでとらえようとするのもあるし、理髪店、靴店、裁縫店のごとく毛髪またはスカートでつかまえようとするのもあった、かてて加えて、これらの家の一軒一軒に訪問しようという、そして今時分いそうな仲間という、一段とおそろしい不断の誘惑があった。概してわたしは、ゴントレットを受ける人が勧告されるとおりに、終点にむかってただちに勇敢にそしてあれこれ思案しないで進むことによってか、あるいは、「竪琴にあわせて神々の讃め歌を声たかく歌ってセイレンの声を掻き消して危難からまぬがれた」オルフェウスのように、わたしの思いを高いものに寄せることによってかして、これらの危険から見事に切り抜けた。時としては突然わたしは飛び出すこともあった。そして誰もわたしがどこに出かけたのか見当がつかなかった。わたしは体裁などあまり顧慮せず、柵に隙間があれば少しもちゅうちょしなかったから。わたしは自分が善くもてなされるどこかの家に勝手にはいりこむ習慣さえあって、ニュースの核心と最後的なふるいにかけられた粒選りの部分、落ちつくところに落ちついたもの、戦争と平和との見透し、この世界はまだ長もちがしそうかどうか、を聞いた上で、裏口から出してもらい、やっと森に帰るのであった。
 町におそくまでいたとき、ことに暗く嵐模様ならなおのこと、夜のなかに乗り出し、明るい町の客間または講演会場から、ライ麦かトウモロコシ粉の袋を肩にしょって、森のなかのわたしの安らかな港に航海するのはたいへん愉しかった。外部はすっかり安全にとざし、かじ取りはわたしの外部的な部分にのみまかせ、わかり切った航路なら梶は全然しばったまま、わたしは「思想」の愉快な仲間とともに下の船室にとじこもるのである。「航海しながら」わたしは船室の火のそばで多くの快い想いにふけった。ひどい嵐にあったこともあるが、わたしはどんな天候でも決して難船したり進退きわまったりすることはなかった。普通の夜でも森はたいていの人が想像するより暗かった。わたしはしばしば自分の行く手をたしかめるために路のうえの樹と樹の合い間を見あげねばならず、荷車道がないところでは、自分が踏みならしたおぼつかない路を足でさぐり、またはたとえば森の真ん中で、しかも極まっていちばん暗い夜に、十八インチとは離れていない二本の松の樹のあいだをすり抜けるというように、手で覚えのある樹にさわってみて方角をかんがえて進路をきめなければならなかった。時には、そういうふうに暗くうっとうしい夜遅く、眼で見えない路を足でさぐり、はじめから終わりまで夢想に心をうばわれた状態で、掛金かけがねをはずすために手をあげる段になってはじめて我に返るような場合には、帰宅したあとでわたしはわたしの歩いたひと足も思い出すことができず、この調子では、手が自然と口まで持っていかれるように、わたしのからだは主人公に見すてられてもどうやら自宅に帰ってこられるだろうと思ったのであった。何度か客がどうかして夜まで長居し、たまたま暗い晩なので、わたしが彼を家の裏手の荷車道まで道案内をしたうえ、彼がそれをつたって眼をたよるよりも足でさぐっていくべき方角を教えてやらなければならなかったこともあった。ある非常に暗い晩、わたしは池で釣りをしていた二人の青年にそのでんで道を教えてやった。二人は森を抜けて一マイルばかりのところに住んでおり、道は十分慣れていた。一両日たってその一人がわたしにこう語った――あの晩二人は自分たちの家の界隈まで来ながらほとんど夜通しさまよい歩き、夜明けがたになってやっと家に帰れた。それまでに何度かひどいにわか雨があり、木の葉がすっかり濡れていたので二人ともずぶぬれになってしまった、と。夜の闇が非常に濃くて、よくいう、「ナイフで切れるぐらい」のときには村道でさえ多くの人間がふみ迷うという話を聞いた。村はずれに住んでいる人々で、自分たちの荷車に乗って町に買物に出たのが、ひと晩泊まらなければならなくなったこともある。訪問をした紳士淑女たちが人道をただ足だよりでさぐり、いつ曲がったのか気がつかずに半マイルも自分たちの道かられたこともある。森のなかで道に迷うのはいつでも、驚くべき、記憶すべき、そして価値のある経験である。吹雪のときは日中でさえ、善く知っている道に出ながら、どっちにったら村に出られるやら見当がつかないことがしばしばある。自分がそれを一千遍も歩いたことを承知しながら、人はその道の見覚えが一つもなくなり、シベリアの道のように見慣れないものに思えるのである。もちろん、夜なら当惑ははるかに一層はなはだしい。われわれはかりそめに歩くときにも、無意識にではあるがつねに、どれか善く知っている標識または岬角によって水先案内のようにかじをとっているのであり、いつもの航路からはみ出るときにも心のなかではどこか近所の岬の位置をかんがえているのである。そしてわれわれが全く迷ってしまい、ぐるりと廻らされるまでは――なぜならば、人は迷い子になるにはこの世の中で眼かくしをされてひと廻りさせられればそれでよいのである――われわれは自然の広大さと奇異さとがわからないのである。すべての人は眠りからにもせよ瞑想からにもせよ、目ざめるたびごとにあらためて羅針盤の方角を知らなければならない。迷ってはじめて――換言すればわれわれが世界を見失ってはじめて――われわれはわれわれ自身を見出しはじめ、自分たちがどこにいるのかを、そしてわれわれの関係の無限の拡がりを、悟るのである。
 最初の夏の終わりに近い頃のある午後、靴屋から靴を受取るために村に出かけたとき、わたしは逮捕されて牢獄に投ぜられた。その理由は、よそで述べたとおり、男や女や子供を家畜でもあるかのように議事堂の真ん前で買ったり売ったりする国家に税金を払わず、その権威を認めなかったためであった。わたしはほかの目的のために森にはいったのだ。しかしどこにのがれても人々はその忌まわしい制度をもって追いかけて引っつかみ、もしできるならばその者をかれらの乱暴な結社の仲間に否応いやおういわせず加わらせてしまう。実はわたしは力ずくで抵抗したら多少の効果はあり、社会に対して「死にものぐるい」になることもできたのだ。しかし、社会の方ががむしゃらな仲間なのだから、わたしはそれがわたしに対して「死にものぐるい」になる方をえらんだ。しかしわたしは翌日釈放され、修繕できた靴を受取り、フェア・ヘーヴンヒルでコケモモを満喫する時期に間にあうように森に帰った。わたしは国家を代表する者ども以外の誰からもわずらわされることはなかった。わたしの書類を入れてある机以外には錠もかんぬきももたず、掛金または窓にさす釘一本ももっていなかった。わたしは夜も昼も、数日にわたって留守にするときでも入口の戸じまりをしなかった。次の年の夏メーン州の森で二週間をすごしたときにさえそれをしなかった。それでもわたしの家は一隊の兵士でかこまれていたよりも善く尊重された。つかれた散歩者はわたしの炉ばたで休み煖まることができ、書物好きはわたしのテーブルのうえのわずかな書物をたのしみ読み、物ずきな人間はわたしの戸棚を開けて見てどんな昼飯の食べのこしがあるか、晩飯にはどんなものがあらわれそうかを見ることができた。けれども、あらゆる階級の多くの人間がこの池の方にやってきたにかかわらず、この方面からはわたしはすこしも重大な迷惑はこうむらず、一冊の小さな本以外には何にもなくならなかった。それはホメロスの一巻で、どうも金ぶちの出来が不似合であったが、今時分はわが兵営の一兵士もそれに気がついたことと思う。わたしはもしすべての人があの時分のわたしのように単純な生活をするなら、こそ泥や強盗はありえないと信じている。そういうものは、ある人々が十分以上をもち、他の人々が事足るほどもたぬ社会においてのみ起こるのである。ポープの訳したホメロスはやがて適当に行きわたるようになるだろう――

“Nec bella fuerunt,
Faginus astabat dum scyphus ante dapes.”
「ブナの椀のみが求められし時には
戦いが人をなやますことなかりき。」

「政治をあずかる人々よ、何で刑罰をもちいる必要があろうか? 徳を愛せよ、しからば人民は有徳となるであろう。上に立つ人の徳は風のごとく、大衆の徳は草のごとしである。風がその上を吹けば草は伏す。」〔上有好者下必有甚焉者矣。君子之徳風也。小人之徳艸也。艸尚之風必偃。――孟子〕
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 時としては人間社会と噂話とに飽き、村の友人たちもこのうえ訪れる気がなくなると、わたしはふだん住んでいるよりさらに西の、この土地の一段と人跡稀な部分――「新しき森、新たなる牧場まきば」にさまよったり、あるいは夕日がしずむころ、フェア・ヘーヴンヒルでコケモモや青莓ブルーベリーをつんで夕食とし、また幾日分かの貯えにもした。このくだものはそれを買う人間や、市場に出すつもりでそれを栽培する人間にはその真の味わいをあたえない。そこにはたった一つの味わい方があるのだが、それによる人は少ない。コケモモの真の味が知りたかったら牛童カウボーイかシャコに聞くがよい。自ら摘まずにコケモモを味わったと思うのは一般的なあやまりである。コケモモはとてもボストンにはとどかない。それがボストンの三つの丘でそだった昔以後、その真の味はかつて知られたことがない。このくだものの天来の美味と本質とは、ほんのり吹き出たが、市場に出す車のなかでりとれてしまうとともにうしなわれ、単なる腹ふさげとなる。永遠の正義がつかさどるかぎり、ただ一つの罪なきコケモモも田舎の丘からそこに移されることはありえない。
 時としては、わたしの一日の草取り仕事が終わったのち、わたしは朝から池で釣りをしながら待ちかねている仲間といっしょになった。彼はカモのように、水にただよう木の葉のように、黙ってじっとしたまま、心のなかではいろいろな種類の哲理をこねくり、通常、わたしが帰ってくる頃には、自分は昔の修道僧の一派に属するものだという結論に達していた。一人、相当の年輩で釣りの名人であり、あらゆる森の知識のつうである男がいたが、彼はわたしの家を釣師の便宜のために立っている家だと思いこんでくれた。そしてわたしも彼がわたしの戸口に坐りこんで釣糸を整えるのを同じくよろこんだ。たまにはわれわれは一つボートに、一人はこちらのはじ、一人はあちらのはじというふうに乗りこんで池にうかんだ。彼は老来ろうらい耳が遠くなっていたので二人のあいだではあまり話は換わされなかったが、彼はときどき讃美歌を小声で口ずさんだ。それはわたしの黙想と善く調和した。こうしてわれわれの交渉は中断されない調和のそれであった。それには言葉を通じておこなわれるものよりはるかに愉快なあと味があった。誰も相手がないときは――たいがいそうだったが――わたしはかいで舟ばたをたたいて反響をおこし、円をなして外へひろがる音波を、周囲の森にみたした。ちょうど野獣のおりの番人が野獣を挑発するように森の空気をかきたて、ついにすべての谷の茂みや丘の中腹からうなり声を引き出したのであった。
 あたたかい晩にはたびたびボートに坐りこんで笛を吹いた。わたしの笛ので魅せられたようにスズキの類のパーチはあたりをさまよい、森の残骸が肋骨のようにばらまかれた水底を月はわたった。以前はときどき、暗い夏の夜に一人の友人とわざわざこの池まで出かけ、みぎわのちかくで、魚を誘うと思われる焚火をして、糸にとおしたひとつかみの虫でタラに似たパウトをつかまえた。夜がふけて、それがすむと燃えているたきぎを狼火のろしのように空中高く投げつけた。それは池に落ちてジュウジュウ音をたてて消え、われわれは不意に真の闇につつまれて手さぐりするのであった。そのなかを口笛を吹き吹きあるいて、二人は人里にもどったのである。しかし、わたしは今はこの岸辺に家をつくったのである。
 時には、村の客間で家族がみんな引っこむまで居のこったあとで、森にかえり、翌日の食事にしようという気もあって、月明かりの深夜の数時間をボートで魚釣りをすることにすごした。フクロウや狐の夜曲にあやされ、時折り間近に名も知らぬ鳥のキイキイごえを聞きながら。そういう経験はわたしにとってたいへん記憶すべきそして価値あるものであった。――岸から二、三十ロッドばかりはなれて四十フィートの水にいかりをおろし、時には月光のただよう水面をその尾でくぼませる、幾千の小さなパーチ(スズキの類)やシャイナー(銀色の小魚)にかこまれ、長い麻糸で四十フィートの底に住んでいる神秘な夜の魚とわたりをつけ、時にはかすかな夜風にただよわされつつ、六十フィートの糸を池のおもてに曳き、時たま、その糸をつたって先端あたりにうごめく生きもの、――そこにあるにぶい、あやふやで粗忽そこつな決心がつきかねたような欲望を示すわずかな震えを感じる。ついにわたしは両手でたぐって頭につののあるパウトをおもむろに引きあげる――それはキュウというようなをたてて、うごめきつつ水をはなれるのである。暗い晩は特に、思索がこの世界をはなれて広大な、宇宙創成的な問題に馳せたときに、夢想をやぶってわたしをふたたび自然とむすびつけるこのささやかな衝撃を感じるのははなはだ奇妙であった。わたしは今度は糸を、この空気より濃いとはおもわれない水におろすかわりに空中に投げ上げてもよいような気がした。こういうぐあいで、いわば、わたしは一本の釣針で二匹のさかなをつかまえたようなものであった。

 ウォールデンの風景はひかえ目な規模のもので、たいへん美しくはあったが雄大というには遠く、また長いあいだおとずれるなり、その岸辺に住むなりした者でなければ深い関心はもてない。しかしこの池の深いこと、水の澄んでいることは格別でその点特筆にあたいする。それは長さ半マイル、周囲一マイル四分の三の澄んだ深い緑の泉で面積は六十一エーカー半に及んでいる。松と樫の真ん中にある永久の泉で、雲と蒸発とによるほか入口も出口も見あたらない。周囲の丘は水からじかに四十フィートから八十フィートの高さにそばだっていたが、東南と東とでは、四分の一マイルと三分の一マイル以内にわたってそれぞれおおよそ百フィートと百五十フィートの高さに達した。それらは一帯に森林地であった。一般にわがコンコードの水は少なくとも二つの色をもっているが、一つは遠方から見た場合であり、他の一つはもっと固有のもので間近で見たときの色である。前者はより多く光線に左右されるもので空の色のいかんによる。晴れた天気のとき、夏には、ちょっと離れて見ると――特に水面が波だっているときには――青く見え、ずっと遠方から見るとすべて一色である。嵐模様の天候には時としては濃い瓦色をしている。しかるに海は、大気にも格別相異がみとめられなくても、ある日には青く別の日には緑に見えるそうである。わたしはわれわれの河が、あたりの風景が雪でおおわれたなかで、水も氷も草のような緑をしているのを見たことがある。ある人は、青が「液体にもせよ凍った形のものにもせよ、純粋な水色」であると考えている。しかしボートから水を真下に見おろすといくつかの非常にちがった色をもっているように見える。ウォールデンは同じ地点からながめても、あるときは青く、あるときは緑である。地と天とのあいだにさしはさまれて、それは両方の色を帯びる。丘のいただきからながめわたすとそれは空の色を映すが、近よると、それは砂地が見える岸からすぐのところでは黄色味がかった色あいで、それから淡い緑となり、それが次第に深まって池の中心部をなす一面の濃緑となるのである。ある光線の場合には丘の頂きからながめても岸からすぐのところが鮮かな緑になっている。ある人々はそれを草木の緑とむすびつけてかんがえた。ところが鉄道の砂の土堤沿いでも、春、葉がひろがらない前でも、同じくそこが緑なのだから、それは単に、全般的な青が砂の黄色とまざった結果なのかもしれない。この池の虹彩の部分の色はそういうものである。これはまた、春、水底から反射されまた地をつたって伝達される日光の熱であたためられて氷がはじめて解け、半ば凍ったままの中央部をめぐって狭い運河を形づくる、あの部分なのである。われわれの他の河や湖と同じく、天気のよいときに大いに水面がさわぐと波の表面が空を直角に反映するため、あるいは一層多くの光りがそれとまざりあうために、それにちょっと離れて見ると空そのものよりも濃い青に見える。そういうときに、水面にのり出して、反映を見るために、別々の視力をもちいてながめると、たぐいない、いいあらわしがたい淡青色が見わけられた。それは波模様の、色がわりのする絹、または剣の刃を思わせるものであって、空そのものより微妙なみどりで、波の反対側の本来の濃緑と代わる代わるあらわれたが、後者の方は比較すると濁ったものにしか見えなかった。記憶によるとそれは、日没前に西の空の雲の通景のはてにのぞいたあの冬空の断片のようなビードロようの緑がかった青である。しかしその水のコップ一杯を光りにあてて見れば同量の空気と同じく無色である。大きいガラス板は、製造者がいうところの「実体ボデー」があるために緑がかって見えるが、同じものでも小さければ無色であることは人の善く知っていることである。ウォールデンの水のどのくらいの大きさの実体が緑色を呈するために必要であるかは、わたしはまだ明らかにしえない。われわれの河の水はまっすぐに見おろす人間には黒またはたいへん暗い鳶色とびいろであり、たいがいの池の水と同じくそのなかにつかっている人間のからだには黄色がかった色をおびさせる。しかるにここの水は水晶のように澄んでいて、水浴者のからだはもっと不自然な雪花石膏の白さに見え、拡大され、ゆがんだ四肢と相まって奇怪な効果を生じ、ミケランジェロ流の画の好素材になる。
 水ははなはだ透明で二十五フィートから三十フィートの深さでも底がよく見える。櫂をボチャボチャやりながら、水面下幾フィートもの深いところに、たぶん一インチぐらいしかないパーチやシャイナーの群――前者は横にはいった条目すじめでたやすく見わけがつく――を見ることがある。かれらはこういう池に生存をつづけているのだから禁欲的な魚なのだろうと思える。あるとき、何年もむかしの冬のことであったが、コガマスを捕ろうと氷のなかにいくつかの穴を掘っていたとき、わたしは岸にわたろうとして斧を氷のうえに投げかえしたところが、何かの小悪魔の仕わざのように、それは四、五ロッドもまっすぐにすべって穴の一つに落ちてしまった。そこは水深二十五フィートのところであった。好奇心にかられてわたしは氷のうえに腹ばいになり、穴をのぞいて見ると、やがてその斧がやや一方に片よって、先端は下に柄は上にもちあがって、池の鼓動とともにしずかに左右にゆれているのが見えた。わたしが手だしさえしなかったら、それは、やがて時が経ってその柄が腐れおちるまでそこに立ってゆれていたことであろう。わたしは、持ちあわせた氷用のたがねでその真上にもう一つ穴を掘り、小刀で近所に見あたったいちばん長い樺の木を切りたおし、また、引き輪索わなわをつくってそのはじに取付け、注意ぶかくそれをおろして斧の柄のにぎりにかぶせ、樺の木に沿うたひもでそれを引っぱり、かくしてふたたび斧を引きあげたのであった。
 岸は、一、二個所のみじかい砂浜をのぞいては、なめらかな丸っこい白い石の帯で敷石のようになっていた。そして非常に急に傾斜していて、岸からたったひと飛びで頭も見えなくなるほどの深みにはまるような所が多かった。もし水がおどろくほど透明でなかったとしたら、その辺が眼のとどく最後の水底で、それから先は対岸ちかくなって浅くなるまで底は見えなかったことだろう。ある人々はそれは底がないのだとかんがえている。それはどこも濁っているところはなく、かりそめの観察者は、水草は少しもないというかもしれない。本来は湖水でなく牧場だったのを近頃水がひたした部分をのぞいては、目に立つ植物としては、善く注意して見てもイチハツ類やがまはみとめられず、黄または白のスイレンさえなく、ただわずかなハート草とポタモゲトンと、たぶん一、二本のウォーター・ターゲットがあるのみである。しかし、水浴者にはそういうものが見えないかもしれない。これらの植物はそのなかでかれらが生い立っている水そのもののように清くかがやいている。砂利は一、二ロッド水のなかにつき出ているが、それから先は全くの砂の底になる。ただし最も深い部分には通常すこしばかりの沈澱物があるが、これは長いあいだ年々の秋に、落ち葉がそこまでただよってたまったものだろう。そこではあざやかな緑の草が真冬でもいかりにくっついて引き上げられることがある。
 ちょうどこれに似た池がも一つある――ここから二マイル半ばかり西にあるナイン・エーカー・コーナーにあるホワイトポンドがそれだ。わたしはここを中心として十二マイルの範囲内の池はたいがい知っているが、その二つのほかにはこれほど清らかで泉のような性質をもった池を知らない。代々の民族はこの水を飲み、それを讃めたたえ、その深さを測り、そして過ぎ去ったことだろう。しかもその水は昔ながらに緑で透明である。これは断続する泉ではない! ことによると、アダムとイヴとが楽園を逐われたあの春の朝に、ウォールデン池はすでにあって、ちょうどそのとき霧と南風とにともなわれたやさしい春の雨のなかで解けはじめ、水面には、まだこのような清浄な池で満足していた幾万の鴨や鵞鳥が人間の堕落も知らずにむらがっていたのかもしれない。そのときすでにそれは水嵩みずかさをはじめており、その水を浄めて今見るような色あいを帯び、地上における唯一のウォールデン池たること、そして天上的な露の蒸溜所たることの特許を天から獲ていたのである。どれだけの記憶されざる民族の文学において、この池が詩神の飲むカスタリアの泉となったか、そして理想の黄金時代にどのような水の妖精ニンフたちがそれを支配したか、誰が知っていようか? それはコンコードがそのかんむりにつけた、最上質の宝石である。
 けれどもたぶん、この泉に来た最初の人間はその足跡のいくらかを残していた。わたしは池をめぐる岸の、茂った林がついこの頃りたおされた個所においてさえ、けわしい丘の脇腹に狭い棚のような路が水ぎわに近づいたり遠ざかったりして、かつ登りかつ下りしているのを見つけておどろいたことがある。それはおそらくこの地にあらわれたはじめての人間以来の古いもので、原始人の狩猟者の足で踏みかためられ、そして今なお時々、それと知らずに現在のこの土地の住人によってたどられているのであろう。このことは冬、ささやかな雪が降った直後に、池の中心に立ってみると特にはっきりとみとめられる――夏、間近ではほとんど見分けられない多くの個所においても、雑草や枝先によってさまたげられることなく、そして四分の一マイルをへだてると歴然として、それは一つのまぎれもない白いうねった線としてあらわれているのである。いわば、雪がはっきりした白い高浮彫たかうきぼりに写し出すわけである。この痕跡は、将来この地に建てられる別荘の美しい庭にもいくらか残るかもしれない。
 池は満ち干する、しかしそれが規則的であるかどうか、どういう期間内におこなわれるのかは誰にもわからない――例によってわかったような顔をする者は多いけれども。それは通常冬は水かさがのぼり夏は落ちるが、一般的降雨の多少とは合致はしない。わたしは、わたしがそこに住んでいた時よりも、一、二フィート落ちたことがあり、また少なくとも五フィートのぼったことがあるのを思いだすことができる。一方の側が非常に深くなっている、狭い砂洲さすが突き出たところがあるが、わたしは一八二四年ごろ、この上の、ほんとの岸からは六ロッドばかり出たところで寄せ鍋チャウダーを煮たてる手つだいをしたことがあるが、その後は二十五年のあいだそれが不可能であった。反対に、わたしの友だちは、その二、三年後にわたしは、かれらが知っている唯一の岸から十五ロッドばかりはいった森のなかの引っこんだ入江で――そこはもうずっと前から牧場に化している――ボートから釣りをしたものだ、という話をすると、信じられない顔で聞くのであった。しかし水面はこの二年間着々とのぼり、今、この一八五二年の夏にはわたしがそこに住んでいたときより正に五フィートたかく、すなわち、三十年前と同じ高さになり、また牧場で魚釣りがおこなわれているのである。これは外側で六、七フィートの水位の相違を意味する。しかも周囲の丘から流れ入る水の量はいうに足りないものであるから、この増水は深いところにある源泉に起因するものとかんがえるほかはない。同じくこの夏に池の水はまた落ちはじめた。この変動が、定期的のものかどうかはさてき、こういうふうに長年にわたってようやく認められるということは注目にあたいする。わたしは一回の増水と、二回の落水の一部とを観察したのであるが、今から十二年ないし十五年後にはふたたび水はかつてわたしが見たときぐらいまで低くなるだろうと思っている。一マイル東にあるフリントポンド――その流入口や排出口によって起こされる変動を勘定に入れて――および中間にあるもっと小さいいくつかの池はウォールデンと呼応して、最近時を同じくして最高の水位に達した。わたしの観察したかぎりではホワイトポンドについても同じことがいえる。
 このウォールデンの長期にわたっての満ち干は少なくとも次の役に立っている――一年またはそれ以上このくらい高く水が張っていると、その周囲が歩けないという不便もあるが、前回の満水の時以来そのふちに生じた灌木や木――ヤニマツだの、樺だの、カワラハンノキだの、ハコヤナギだの――を殺し、水が落ちるとあとには邪魔物がなくなったひろびろした岸辺がのこる。一日のうちに満ち干のある多くの池やすべての水とはちがって、ここの岸は水がいちばん低いときに最もきれいなのであるから。わたしの家のそばの池のほとりでは十五フィートばかりあるヤニマツの一列が枯らされて、さながらてこを用いたように引き倒され、かくてそのはびこりにとどめを刺されている。その木の大きさは、前回にこの高さまで水がのぼって以来何年が経過したかを物がたっている。この干満によって池は岸に対する自分の権利を主張し、かくてショーアはショーン(刈り取られる、の意)され、樹木は占有の権利をもってそれを維持することができない。この湖水の唇はそのうえにひげを生じないわけである。それは時々口のまわりを舌なめずりするのである。水が高いときには、カワラハンノキ、ヤナギ、カエデは自身を保持しようという努力からして、水中の幹のぐるり全体から幾フィートもある繊維のような赤い根をたくさんに発生する。それは地面から三、四フィートの高さにまで及ぶのである。わたしは岸辺に生えた、普通は実をむすばない、たけの高いブルーベリーの茂みがこういう状態のもとでたくさん実をつけたのを見たことがある。
 どうしてこの岸がそんなに整然と石を敷かれているのか説明にくるしむ者が多い。この町の人々はみんな次のような伝説を聞かされている――いちばんの年寄りたちも自分たちは若い頃それを聞いたのだとわたしにいう――その昔、インディアンたちは、いま池が地中にふかく沈んでいるだけの高さで天に向かってここにそびえていた山のうえで会議をひらいていたが、たいへん神をけがすような言葉を弄したので(――という話になっているが、実はインディアンは決してこの悪徳を犯すことはない)、かれらの話の最中に山が揺れだして突如として沈み、ただ一人ウォールデンという名の老婆スコーだけが助かった、そして池はそれにちなんで名づけられたのである、と。山が揺れたときにこれらの石が山腹をころげ落ちて現在の岸辺になったのだと想像されている。いずれにしても、かつてはここに池がなかったが、今はある、ということは確実である。そしてこのインディアンの伝説は、わたしが前に述べた、あの昔の移住者の話といかなる点においても矛盾するものではない。彼は彼がはじめて卜杖を手にもってこの地に来たときのことをそんなに善く記憶しているが、彼は芝土からかすかな蒸気が立ちのぼり、ハシバミのその杖がしっかりと下の方を指し示すのを見て、ここに泉を掘ることに心をきめたというのである。石については、多くの人々は今なおこれらの山のうえの波の作用によってはどうも説明がつかないとかんがえている。しかしわたしは、この周囲の山々に同じ種類の石がはなはだ多くて、池のごく近くに切りひらかれた鉄道線路の両側ではそれらを積みあげて土堤にしなければならなかったことを観察している。おまけに石は岸がいちばん急なところにいちばん多くある。すなわち、不幸にして、わたしにとってはそれはもはや神秘ではない。わたしは石を敷いた者を見つけた。この池の名前はどこか英国の地名――例えばサフロン・ウォールデン――から由来したのでなかったら、人はそれが本来はウォールド・イン〔壁をめぐらされた、の意〕された池、と呼ばれたのだと想像できるわけである。
 池はわたしの出来合いの井戸であった。一年のうち四カ月は、その水は、いつもそれが清らかであると同程度につめたかった。その時期にはそれは町のうちの最も良い井戸であるかどうかは知らないが、どれにもべつに劣らないものであると思う。冬には外気にさらされたすべての水は、それから保護されている泉や井戸よりもつめたい。一八四六年三月六日の午後五時から翌日の正午まで――その間寒暖計は屋根に日があたっていたせいもあって時に六十五度ないし七十度に昇った――わたしが坐っていた部屋に置かれたこの池の水の温度は、四十二度であった。これは汲みたての村じゅうでいちばんつめたい井戸の一つの水より一度だけ低いのであった。同じ日のボイリング・スプリングの水の温度は四十五度で、わたしが計ったどの水より暖かかった。しかるにそれは夏は、浅い、たまった表面の水がまざりあわなければ、わたしの知っているかぎりではいちばんつめたいのであった。さらにウォールデンは、深いがために夏期も、日光にさらされた多くの水ほどには決してあたたかくならない。ごく暑いときにはわたしはたいがいひと桶を地下室に汲んでおいたが、それはそこで夜のうちに冷え、日中もそのままであった。ただし近所の泉を利用することもあった。一週間ぐらいとっておいても汲んだ当日と変りなく、ポンプの匂いがないだけましであった。誰でも夏、池のそばで一週間ぐらいキャムプする人は天幕のかげに地上から二、三フィート深くひと桶の水を埋めておけば、贅沢ぜいたくな氷など考える必要がない。
 ウォールデンでは七ポンドのコガマスが獲れた。そのほかにおそろしい速さで糸巻きを引きずりこんでしまったのがあるが、その釣り手はそれを見なかったので安心して八ポンドと踏んでいる。そういうコガマスと、スズキの類のパーチとタラの類のパウト(それぞれ二ポンドぐらいのがあった)、銀色のシャイナー、ウグイ(Leuciscus pulchellus)、ごくわずかなコイの類、二匹のウナギ(四ポンドのがあった――わたしはわざわざこんなことを書くが、魚にとっては目方が唯一の自慢のたねであり、ウナギはここではほかに獲れた話をきかないからである)が獲れた。わたしはまた、五インチばかりの小魚で銀色の脇腹と緑がかった背をもち、ややウグイに類した魚をおぼろげに記憶しているが、主としてわたしの事実とおとぎばなしとを結びつける意味でここに書いておく。にもかかわらず、この池はあまり魚にめぐまれてはいない。コガマスが、たくさんいるとはいえないけれども、その随一の自慢である。わたしは氷のうえに横になって、一度に少なくとも三種類のコガマスを見たことがある。一つは鋼鉄色で長くて幅がせまく、河で取れるのによく似ており、一つは明るい金色の種類で銀色に反映し、たいへん幅があるが、これがここではいちばん多い。もう一つは、これまた金色で前のと形も似ているが、脇腹にはマスに非常によく似て、小さな濃い鳶色又は黒の斑点とそれにまじってすこしばかりのかすかな血紅色の斑点とがばらまかれている。reticulatus(網状の)という種名はこれにあてはまらないらしく、むしろ guttatus(斑点ある)にちかいであろう。それはたいへん身の緊まった魚で、見かけの大きさよりは目方がある。水がきれいなため、この池にすむシャイナーやパウトやパーチ、いや、すべての魚は、河やたいがいのほかの池の魚よりもずっと清らかで美しく、身が緊まっていて、容易にそれらとは見わけがつく。たぶん、多くの魚類学者はそのうちのあるもののために新しい種類を立てることだろう。そこにはまた、蛙や亀の清らかな種族があり、貽貝いがいも少々ある。ジャコウネズミやてんは池のほとりに跡をのこし、時には旅の泥亀もおとずれることがある。ある朝、わたしがわたしのボートを押し出したとき、夜のうちにボートの下にもぐりこんだ大きな泥亀をおどろかしたこともある。カモとガチョウとは春秋にしげしげとおとずれ、白い腹のツバメ(Hirundo bicolor)はその上をかすめ飛び、オオルリ(Totanus macularius)は夏じゅうその石の多い岸にそうてさえずる。わたしは時々、水の上につき出ているシロマツのうえにとまっているミサゴをおどろかしたことがある。が、それが、フェア・ヘーヴンのようにカモメのつばさで神聖をけがされたことがあるかどうか、わたしはうたがうものである。それはやっと年に一羽のカイツブリを許すだけである。以上は近年ここをおとずれる目ぼしい動物のすべてである。
 静かな日に、砂地の多い東岸の水深八ないし十フィートのところで、また池の他の部分でもところどころ、ボートからのぞくと、周囲が全部何もない砂地のところに、大きさが鶏卵より小さい石ころからできている、直径六フィートそして高さ一フィートの円形の山が見えることがある。最初は、インディアンが何かの目的のために氷のうえにそれを造ったのが氷がとけたときに底にしずんだのではないかと考えたのだが、それにしてはあまりに規則的な形をしており、そのうちのいくつかは明らかにあまりに新しかった。それらは河で見いだされるものに似ていたが、ここには吸い口を有する魚類やヤツメウナギはいないから、どんな魚がそれをつくったものか見当がつかない。たぶんウグイの巣でもあろうか。こういうものは水底におもしろい神秘な趣きをそえる。
 岸は単調をまぬがれるに十分なほど不規則にできている。わたしはいくつかの深い湾の切りこまれた西岸、もっと大胆な線をえがく北岸、美しい扇形をした南岸――そこではつづいて突き出た岬がお互いにかさなりあって、その間にまだ人に知られない入江がひそんでいるのを思わせる――を心の眼に浮かばせることができる。森は、小さな湖の真ん中から、水際からそびえ立つ丘のあいだに見られたときほど良い枠をもちえないし、またそのときほど際立って美しいことはない。なぜならばその影を映している水は、その場合最上の前景をなすばかりでなく、その曲りくねった岸で最も自然で快いその境界をつくるからである。そこには、斧が一部分を伐り開いたところや、耕された畠が食いこんでいるところに見られるようなはじにおける生硬さ、不完全さがない。木立ちは水際にはみ出す十分な空間をもち、それぞれその方向にいちばん勢のよい枝をさし出している。そこで自然はすこしも無理のない織耳を織り、人の眼は正しい段階を追うて岸辺の低い灌木からいちばん高い木まで見上げる。そこには人間の手を加えたあとはわずかしか見あたらない。水は一千年前とおなじに岸をあらっている。
 湖水は風景のうちでいちばん美しく表現に富む部分である。それは大地の眼であり、観る者はそれをのぞきこんで自分自身の心の深さを測る。岸に沿う水辺樹木はそれをふちどるほそい睫毛まつげであり、周囲の樹の茂った丘や崖はその垂れさがるまゆである。
 おだやかな九月の午後、わずかなもやが対岸の岸の線をかすませているとき、池の東のはじのなめらかな砂浜に立って、わたしは「湖の鏡のようなおもて」という表現がどこからきたのか解った。頭をさかさまにして見れば、それは谷間をよこぎって張られた細い細いクモの巣の糸が遠方の松林を背景に光って、一つの大気の層をもう一つの水という層から分かっているように見える。その下を少しも濡れずに対岸の丘まで歩いて往けそうであり、またその上をかすめ飛ぶツバメはそこにとまれそうである。じっさい、かれらは時としては、まちがえたようにその線以下にくぐり、おどろいて気がついたというふうに見えた。池のおもてを西の方に見わたすと、ほんとの太陽ばかりでなく、水に映った太陽に対して自分の眼をふせぐために両手を用いなければならない。両方とも同じぐらい輝いているからである。そして両方のあいだにある水面も入念にながめれば文字どおり鏡のようになめらかであり、ただところどころ、一面におなじ間隔でちらばっているアメンボが日光の中でうごいてそのうえに極めてかすかなひらめきをつくり、あるいは、ことによるとカモが羽づくろいをし、あるいは今いったとおりツバメが低くりてそれにふれるだけである。魚が遠くの空中で三、四フィートの弧をえがくこともある。水をとび出たところに一つのきらめきがあり、水に落ちるところにもう一つのきらめきがおこる。時には銀色の弧がそっくり見えることもある。水面にアザミの綿毛がそこここに浮いていることもあり、魚がそれにとびつき、また水面をくぼませる。それは冷却はしたが凝固しない溶かされたガラスのようで、そのなかのすこしばかりのごみはガラスの不純分子のように清らかで美しい。また水面に、水の妖精ニンフの休らい場所のように、目に見えないクモの巣が張ってあるかのように他の部分とは区別された、一段となめらかで色濃い水がたたえられているのを見つけることがしばしばある。丘の頂きに立つとほとんどどの部分においても魚がはねれば見つけられる。コガマスかシャイナーがなめらかな水面の虫に喰いつくと湖水全体の平衡をはっきりとかきみださないわけにはいかないからである。この些細な事実がどんなに入念に周知されるかはおどろくべきものがある――この魚の殺害は露見する――遠くから見ているとわたしには輪をえがく波紋が直径六ロッドになると見分けがつくのである。ミズスマシ(Gyrinus)が四分の一マイルも離れたなめらかな水面をすいすいと進んでいくのを見つけることさえできる。かれらは水にわずかな溝をつくり、二つの分岐する線でかぎられた目に立つさざなみをたてるからである。しかしアメンボの方は目だつほどのさざなみはたてずに滑っていく。水面がだいぶ波だっているとアメンボもミズスマシも出てこないが、おだやかな日にはかれらはその港を出て岸から冒険的な滑走をはじめ、短い推進をかさねてついに湖面をよこぎるものとみえる。太陽のあたたかさがしみじみと味わわれる秋晴れのひと日に、このような高い場所の切株に腰をおろして、池を見わたし、それがなかったら目にとまらない水面の、映った空や木立ちのあいだに絶えまなくえがかれる波紋を観察しているのは心なごむなぐさみである。この大きなひろがりの上では、かめの水がゆるがされて打ちふるえる水の輪がふちに寄ってやがて静まるとおなじように、すべての乱れはこういうふうにたちまちやわらかに熨斗のしをかけられたようにおさまってしまうのである。池のうえでは魚が一尾はねても、虫が一匹落ちても、その源の泉の絶えまないわきたちのように、その命のしずかな脈打ちのように、その胸の高まりのように、ひろがる水の輪で、美しい線で、それが知れわたってしまうのである。よろこびの戦慄は苦痛の戦慄と区別がつかないものである。湖のもろもろの現象は何と平和にみちていることだろう! ふたたび人間の仕事は春においてのようにかがやく――そうだ、すべての葉、そして小枝、そして石、そしてクモの巣は今、午後の中ほどにおいて、春の朝の露にぬれているように光っている。かいの一つ一つの動きも虫のそれも光りのひらめきをつくる、そしてもし櫂が水に取り落とされると、ああ、何という美しい反響!
 九月または十月のそのような日にはウォールデン池は、わたしの眼には獲がたい宝石のようにも見える小石でぐるりをちりばめた完全な森の鏡である。湖水ほどうるわしく、きよらかで、同時に大きいものはおそらくほかに地の表面によこたわっていないだろう。そらの水。それは柵を要しない。民族は来りそして去って、それをけがさない。それはどんな石も割ることのできない、その水銀は決してげず、自然が絶えまなく鍍金めっきをかけている鏡である。どんな嵐もどんな塵もいつも新しいその表面をくもらすことはできない――それに加えられるすべての不浄は沈んでしまい、太陽の打ち霞むブラッシで払いのけられてしまう鏡――太陽は光りのつや布巾である――そのうえに吐きかけられる息はあとをとどめず、かえってそれ自身の息が雲となって高くそのうえにただよい、その静かなふところに影を映すのである。
 水のひろがりはそらの霊を顕わし示す。それは上から絶えず新しいいのちと運動とを受けとっている。それは大地と空との中間的性質をもつ。地上では草と木のみがなびくが、水は風によってみずからさざなみ立つ。わたしは光りのすじまたはかけらによって、風がどこをわたっているのか、わかる。われわれがその表面をのぞきこむことができるのは意味ふかいことである。われわれはおそらくいつの日か空気の表面をこのように上から見おろし、その上をさらに精妙な霊がわたるのを見わけることだろう。
 アメンボとミズスマシはきびしい霜がむすぶ十月の終わりになるととうとう消えうせる。その頃、そして十一月にはたいがい、おだやかな日には水面を波だたせる何物もない。ある十一月の午後、数日つづいた吹降ふきぶりの後のしずもりに、空はまだ全く雲でおおわれ大気に霧がみちているとき、わたしは池がおどろくほど澄んで、その水面を見わけることがむずかしいほどなのを見た。それはぐるりの丘の、十月の華やかな色ではなく十一月の沈んだ色を映していたが。わたしはできるだけ静かにそのうえを渡っていたのだが、わたしのボートがたてるかすかな波動はほとんど目のとどくかぎりにおよび、反映に肋立あばらだった姿をあたえた。けれども、わたしが見わたしていると、ちょっと離れたあそこここにかすかなきらめきが見えて、霜をまぬがれたアメンボが寄りあつまっているのか、それともことによると、水面があまりに澄んでいるので池の底から水が湧いているところを顕わし示しているのか、とも思われた。そういう場所の一つに櫂をしずかにうごかして近よって見ると、おどろいたことに、わたしはおよそ五インチばかりの何万という小さなパーチにとりまかれ、緑色の水のなかには濃い青銅色のそれらの魚がむれ遊び、絶えまなく表面にうかんで水をくぼませ、時にはそのうえに泡をのこしているのであった。そのように透明で、底がないような、雲を映している水のなかで、わたしは風船に乗って空中をただよっているような気持になり、それらの魚のおよいでいるのが空を飛びさまよっているような感じがした。それらはわたしより低い位置で右や左に飛んでいる密集した鳥のむれのようであり、そのひれはからだのぐるりに張られた帆とも見えるのであった。池にはそういう種類の魚群がたくさんあって、かれらは冬がその氷の戸をかれらの広い明り窓のうえにとざす前の短い季節をたのしんでいるかのようで、時折り、湖面にかすかな風があたったのか、それともいくつかの雨のしずくが落ちたのか、と思わせるうごきを見せるのであった。わたしが何気なく近よってかれらをおどろかすと、かれらは誰かがぼさぼさした木の枝で水をたたきでもしたように、急にかれらの尾をぴちぴちさせてさざなみを立て、たちまち底の方に引っこんでしまった。そうこうしているうちに風が立ってきて霧は濃くなり、波が寄せはじめ、パーチは前よりずっと高くはねた。三インチの長さをもつ百の黒い点が一度に水面を出て半身を水の外にあらわした。ある年おそく、すでに十二月五日のことであった――わたしは水面にいくつかの波紋を見たが、折から霧が濃くなり今にもひどい降りになりそうなので、早く家にもどろうと大いそぎでオールに手をかけた。顔にはまだ一滴もかからないのにすでに雨は降りしきりはじめたようで、わたしはずぶ濡れを覚悟した。ところが突然に波紋はやんだ。――それは実はパーチがつくっていたもので、かれらはわたしのオールの音におどろかされて底の方にかくれ、その消えていく姿がかすかにわたしの眼にとまっただけであった。かくて結局その午後は雨はふらなかった。
 もう六十年にもなる昔、この池が周囲の森でうすぐらかった頃に折々ここにきた老人がわたしに語ったところによると、その時分彼はときどきそこにカモやその他の水鳥が一面にむらがっているのを見たことがあり、ワシもそのあたりにたくさんいたという話である。彼は魚を釣りにここに来、岸で見つけた古い丸太のカヌーを用いた。それは二本のシロマツの丸太をえぐったものを継ぎ合わせたもので両端は四角く切り落としてあった。それはずいぶん不細工なものであったが長年もったすえついに水びたしになり、たぶん水底に沈んだことだろう。彼はそれが誰のものだか知らなかった。それは池に属していた。彼はいかりのためにヒッコリーの樹の皮をより合わせた綱を作ってもちいた。革命前から池のそばに住んでいた瀬戸物つくりの老人から彼がかつて聞いた話だそうだが、ここの水底には鉄のはこがあり、自分もそれを見たそうである。時折りそれは岸辺にただよってきたが、人が近よると、また水底ふかく消えて見えなくなるのだそうだ。わたしは、同じ材料だがもっと器用にできているインディアンのそれの代用となった、その古い丸太カヌーの話を聞いてよろこんだ。それはたぶん、はじめは岸に生えていた木だったのが水の中に倒れ落ちるかして、一世代のあいだただよったものらしくこの湖水には最もふさわしい舟であった。わたしははじめてここの水の深みをのぞいたとき、底にたくさんの大きな樹の幹がよこたわっているのがぼんやり見えたのを記憶しているが、それはむかし風で吹き倒されたものか、以前伐採されたのが、木材が安価な時分のこととて、そのまま氷の上に置きわすれられたものだったろう。だが、今ではそれらは大部分見えなくなった。
 わたしがはじめてウォールデンでボートをいだころは、それは高く茂ったマツやカシの森で全部囲まれていて、その入江のあるものには、ブドウのつるが水にさし出た木にいまとい、その下を舟が行くことのできる四阿あずまやの観があるものがあった。岸を形づくる山々はそんなにけわしく、そのうえの森は当時はそんなに高くしげっていたので、湖の西のはじから見わたすと、何か森のなかの観物のための円形劇場の趣きがあった。わたしがもっと若かった頃は、夏の午前など、池の中ほどまで漕ぎ出たところで、舟の座席にあおむけによこたわり、そよ風のはこぶにまかせて湖面をただよいながら、目醒めたままの夢を追いつつ多くの時間を過ごしたことがある。ついにボートが砂地にぶつかって我に返り、立ちあがっていったいどこの岸に運命が自分を引っぱってきたのか眺めまわすのであった――無為が最も好もしく最ものある仕事であった年頃のことだ。いくつもの午前をわたしはこっそり抜けだして、一日の最も価値ある部分をこうして過ごすことをえらんだ。なぜならば、わたしは金銭においてではないが、うららかな時間と夏の日において富んでおり、それを惜しげなくつかったからである。そしてわたしはそれらのもっと多くを工場のなかや教師の机のうえで徒費したかったのを悔いはしない。だが、わたしがあの岸を去って以来、木伐きこりはさらに一段とそこを切り荒らし、ここのところ長年のあいだは、ところどころ水を垣間見かいまみしつつ森の廻廊を逍遙することはないであろう。わたしの詩神ミューズはその後沈黙をつづけているにしても致し方あるまい。森が切り仆されたのに、どうして小鳥が歌うのを期待できようか?
 今では水底の樹の幹も、古い丸太カヌーも、周囲の暗くしげった森もなくなった。そして、池がどこにあるのかもほとんど知らない村びとたちは、池まで出かけてゆあみし、飲むかわりに、少なくともガンジス河のごとく神聖であるべきその水をパイプで村まで引き、それで自分たちの皿を洗おうともくろんでいる!――栓をひねり、呑み口を抜くことによってウォールデンをわが手に入れようとするのだ! 耳をつんざくそのいななき声が町じゅうに聞える、鉄道という、あの悪魔的な鉄の馬が、そのひづめでボイリング・スプリングの水をにごしたのであり、またウォールデンの岸辺の森を食いつくしたのも彼である。あの商人根性のギリシャ人に持ちこまれた、その腹に一千人をひそませているトロイの馬! ディープ・カットの踏切りで迎え撃ってこの思いあがった悪獣のあばらに復讐の槍を投げつける、この国の選手たるモーア・ホールのモーアはどこにいるのか?
 にもかかわらず、わたしの知っているすべての人物のうちで、たぶんウォールデンはいちばん昔のおもかげを失わず、いちばんその純粋さを維持しているものである。多くの人がそれにたとえられたが、その名誉にあたいする者はすくない。木伐きこりはまずこの岸、次にあの岸と裸にし、アイルランド人はかれらの豚小舎をそのそばに建て、鉄道はその境を侵し、そして氷業者はそれを一度すくい取ったが、それ自身は少しも変わらず、わたしの若い頃の眼がそそがれたのと同じ水をたたえている。すべての変化はわたしにあるのだ。すべてのそのおもてのさざなみにもかかわらず、それはただ一本の永久的な皺ももっていない。それは永遠に若く、わたしは立ちどまって、昔どおりにツバメがたぶんその表面から一匹の虫をついばむために水につかるのを見ることができる。今宵こよいふたたび、まるで二十余年間ほとんど毎日のようにそれを見ていなかったかのように、わたしはあらためて心を打たれるのであった――ああ、ここにウォールデンがある、幾年も前にわたしが見出したままの森のなかの湖水だ、去年の冬一つの森が伐りはらわれた跡には前と同じように勢よくもう一つの森がその岸辺に生い立ちつつある、あのときと同じ想いがそのおもてに湧きあがりつつある、それはそれ自身とその造り主にとって、同じ水の形をとった歓びであり幸いである、そうだ、そしてそれはわたしにとってもそうありうるのだ。それはたしかに、何の悪だくらみもない立派な人の造ったものにちがいない! 彼はこの水を彼の手で円くし、彼の想いのうちでそれを深めて浄らかにし、彼の遺言でそれをコンコードにのこしたのだ。わたしはそのおもてによってそれが同じ省察におとなわれているのがわかる。そしてわたしはほとんどこういうことができる――ウォールデン、やあ、君だったのか?

「一つの線をかざることも
わたしが夢にも思わぬことだ、
わたしはウォールデンのそばに住んでいるより
より近く神と天国に近づくことはできない。
わたしはその岸の石の河原、
そこをわたるそよ風だ
わたしの手のひらのくぼみには
そこの水とそこの砂がある
そのいちばん深いかくれがは
わたしの想いのうちに高く懸かる。」

 汽車はそれをながめるために停まらない。けれどもわたしは機関手や火夫や制動手、それから定期切符をもっていてしばしばそれを見ることのある旅客は、この池を見ることによってより善い人間になっていると想像する。機関手は――あるいは彼の本性は、自分が一日にすくなくとも一回はこの明朗清澄な光景をながめたことを夜のあいだ忘れない。一回だけ見たのでもそれはステートストリートと機関車のすすを洗いおとすに足りる。わたしはそれを「神のしずく」と名づけようと提議する。
 わたしは前にウォールデンが眼に見える入口も出口ももっていないといったが、それは一方においては、その方向から来る一連の小さな池によって、もっと高いところにあるフリントポンドと遠くそして間接に連繋しており、他方においては似たような一連の池によって、より低いコンコード河と直接にそして明瞭に連絡している。遠い昔のどれかの地質学的時代にはこの池の水はそれらの池をとおして流れていたのかもしれず、すこしばかり掘り開けば――そんなことがないように神かけて祈るが――ふたたび水をそっちの方に流れさすことができる。もし森のなかの隠者のようにそんなに長くこのように引きこんで禁欲的に生きたことによってそれがそんなにおどろくべき清らかさを獲たのだとしたら、フリントポンドの比較的清らかでない水がそれにまざり、もしくはそれ自身が大洋の波浪にその美しさをむだについやすために流れ出るようなことがあったら、誰が残念に思わないだろうか?

 リンカンの、フリントまたはサンディポンドはわれわれの最大の湖であり内海であって、ウォールデンの東約一マイルにある。それはずっと大きく百九十七エーカーの面積があるといわれ、魚類にも富んでいるが、比較的浅く、非常に澄んではいない。そこの森を散歩することはわたしのたのしみであった。頬に風が自由に吹くのを感じ、波が立つのを見て、水夫の生活を思いだすだけでもやり甲斐のあることだった。秋、風が吹くとわたしはそこに栗拾いにった。栗は水に落ち、わたしの足もとに打寄せられた。ある日、さわやかな水しぶきを顔に吹きつけられながら、スゲの多い岸を這っていると、ボートのくずれた残骸に行きあたった。側面はとれてしまい、藺草いぐさのあいだに平べったい底が形ばかり残っていた。しかしその原型は、血管まで見える、何かのけだものの朽ちた大きなあしうらのように、輪郭がはっきりしていた。それは海岸にでも想像できそうな難破船におとらず印象的で、また同じように善い教訓をもっていた。それは今では単なる植物性の形で、見別けのつかない池の岸をなし、それをとおして藺草や蒲が伸び出ている。わたしはまた、この池の北の岸の、水圧のために徒渉者の足に堅くこたえてさわるようになった砂の底に印された波の条目すじめと、これらの条目に沿うて、あだかも波によって植えられたように、波型の一列縦隊をいくつも重ねた形で生えている藺草とを感嘆の眼で見たものであった。そこにはまた、たぶんパイプワートのだろうが、こまかい草または根のかたまりでできているらしい奇妙なまりが、たくさん見あたった。直径半インチから四インチぐらいあり完全な球をなしている。それらは砂の底の浅い水のなかで前後にゆられ、時々は岸に投げあげられる。それらは全部草のかたまりのこともあるし、中心に少し砂をもっていることもある。ちょっと見には小石のように波の作用でできたものとも考えられるが、いちばん小さいものも半インチの長さの同じあらい材料からできており、一年のうちの一つの時期にだけ作られる。のみならず、波はすでに組織された物体を一定の形にととのえるよりは、むしろその形をりへらすものではないかとわたしは思う。それらは乾かしておくといつまでもそのままの形をたもつ。
 フリントポンドだって! なんとわれわれの命名法は貧弱なことだろう。このそらの水に彼の畠が突き出し、その岸辺を容赦なく裸にした不潔で愚かな農夫がどんな権利があって彼の名をこの池にあたえたのだろうか? どこかのスキン・フリント〔爪に火をともすしわんぼう〕――自分の厚皮の顔を映すことのできる、ぴかぴかした一ドル銀貨またはかがやいた銅貨の方を一層愛し、その池に住みついた野鴨をさえ邪魔物と見なし、ハルピュイア〔ギリシャ神話中の女面女身で鳥の翼と爪をもった怪物〕のように貪欲に物をひっつかむ長いあいだの習慣で、その指がひんまがって角質の猛禽の爪のようになってしまったあの男――どうしてもその名はわたしには気に入らない。わたしは彼に会いに、彼のうわさを聞きにそこに往くのではない。彼は決してそれを見なかった、そしてそこでゆあみしたこともなく、それを愛したこともなく、それを保護したこともなく、それについて善い評判をしたこともなく、神がそれを造ったことを感謝したこともない。むしろその水におよぐ魚の名を、そこをおとずれる野鳥か四足動物の名を、その岸に咲く野の花の名を、またはその生涯の物語りの糸がこの池のそれと織りまざっている野人または子供の名をとった方がいい。同じ穴のむじなである隣人または法律が彼にあたえた地券以外には何の権利も示すことができない彼――その金銭的価値のみをかんがえ、その出現がおそらく岸全体を呪った彼、その周囲の土地を絞りとり、そのなかの水面をも絞りとりたがった彼、それが英国牧草またはクランベリーの実のなる原でなかったのをただ残念がった彼――彼の眼から見るとじっさいこの池には取柄とりえがなかったのだ――そして水をさらって底の泥を売りとばしかねなかった彼。それは彼の水車を廻さなかったし、それを眺めることは彼には特権と思えなかった。わたしは彼の労働を、何から何まで値段のついている彼の農場を尊敬しない。もし幾らかになるならば景色でも彼の神様でも市場に持ち出したい彼、彼は彼らしい神を仕入れに市場に出かける。彼の農場では何物も無代価では生長せず、ドル以外にはその畠には何の実りもなく、その牧場には何の花も咲かず、その樹は何のもならさない。彼は彼の果実の美しさを愛さず、彼の果実はドルに換えられないうちは彼のためには熟さないのだ。わたしは真の富をたのしむことのできる貧しさがほしい。わたしにとっては、農夫はかれらが貧しいのに――貧しい農夫であるのに比例して関心もふかく尊敬すべきものでもある。模範農場! 家が堆肥のうえに生えた菌のように立っており、人間、馬、牛、豚のための部屋が、掃除されたのと掃除されないのとがすべて隣りあっているところ! 人間が飼われているところ! 肥料とバタミルクの臭う油ぎったところ! 人間の心臓と脳髄とを肥料とした高度に耕作された場所! 墓場でジャガイモを作ろうとでもするようだ! そんなのが模範農場だ。
 いや、いや、最もうるわしい風景を人間の名をとって名づけようというならば、ただ最もけだかく最も価値ある人々の名だけを採るべきだ。われわれの湖水にはせめて、そこでは「今なお岸辺はいさましい試みを鳴りひびかしている」イカリア海〔人工のつばさを蝋でつけて天まで飛ぼうとしたが太陽の熱で蝋がとけて海に落ちて死んだギリシャ神話のイカロスにちなんだ名〕のように真にふさわしい名をあたえたい。
 狭いグースポンドはわたしがフリントに行く途中にある。約七十エーカーあるといわれている、コンコード河のひろがったフェア・ヘーヴンは西南一マイルのところにあり、約四十エーカーのホワイトポンドはフェア・ヘーヴンのさらに一マイル半先にある。これがわたしの湖水地方である。これらとコンコード河とはわたしが使用権をもっている水域である。そして夜も昼も、今年も来年も、それらはわたしがはこぶだけの穀物を粉にしてくれる。木伐りや鉄道やわたし自身がウォールデンを傷つけた以後は、すべてのわれわれの湖水のうちで最も美しいといわないまでもたぶん最も人をきつける、森のなかの宝石はホワイトポンドである。――その水の稀に見る清さから名づけられたか、その砂の色から名づけられたか知らないが平凡で貧弱な名前である。しかし、そういう点、またそのほかの点からいって、これはウォールデンと双児ふたごで、一層小さな方である。この二つは非常によく似ていて、きっと地下ではつながっているにちがいないといいたいほどである。それは同じく石の多い岸をもち、その水は同じ色あいである。ウォールデンと同様、むし暑い土用の日には、あまり深くなくて水底からの反映が色を添えている入江の一つを森のなかから見おろすと、その水はかすんだ青緑色または海緑色を呈する。むかし、わたしはそれでやすり紙をつくるために車につんでそこの砂をはこびにかよったことがあったが、それ以来わたしは引きつづいてそこをおとずれた。この池にかよい馴れた人はそれを「緑が池ヴィリッド・レーク」と呼ぼうと提議している。たぶんそれは次の事情からして「黄松が池イエローパイン・レーク」と呼んでもよいかもしれない。約十五年前、岸からはだいぶ何ロッドもはなれた深いところに、特別な種類をなしてはいないがこの辺で黄松とよばれているたちのヤニマツの梢が水面から突き出ているのが見られた。この池は地面が陥落してできたもので、この木はむかしここにあった原始林の一本であると想像する人さえある。すでに一七九二年のむかしから、「マサチュセッツ歴史協会文庫」中にある、その市民の一人の手になる『コンコード町地勢誌』のなかで、著者はウォールデン池とホワイト池とについて語ったあとでこうつけ加えている、「ホワイト池の中ほどに、水がたいへん低いときには、いま立っている場所に生えそだったと思える木(根は水面から五十フィートも下にあるが)が見える。この木の頂きはちぎれていて、そこは直径十四インチの太さである。」わたしは一八四九年の春、池に最寄りのサッドベリーに住んでいるある人と語ったが、彼は十年だか十五年だか前にこの木を掘り出したのは自分であるといった。彼が記憶しているかぎりでは、それは岸から三十間ばかり離れた水深三十ないし四十フィートのところに立っていた。冬のことで、彼は午前中は、氷を切り出していたが、午後には近所の人の加勢をえて古い黄松を引き抜こうと決心した。彼は岸の方にむかって氷のなかに鋸で引いて溝をつくり、牝牛どもに牽かせて引きたおし、引きずり、氷の上に引っぱりのせた。しかし仕事の途中でその木がさかさまになっており、枝も下を向いており、細い枝先きは地面につっこんでいるのを発見してびっくりした。太いはじは直径約一フィートで、はじめはよい挽材ひきざいがとれることと思っていたが、ひどく腐っていて、せいぜい燃料になるだけであった。彼は現にその一部を物置きにもっていた。根元には斧の痕やキツツキの突っついたしるしがあった。彼はそれは岸によこたわっていた枯れた木がいつか池のなかに吹きこまれて、梢の方は水びたしになったが根元の方は乾いて軽いので、だんだん遠くただよってさかさまに沈んだのではないかと考えた。彼の父は八十歳であるが、それが見あたらなかった以前をおぼえていなかった。水底にはまだいくつかかなり大きい材木がよこたわっているのが見えるが、それらは水面の波動につれて、大きな水中の蛇がうごめいているように見える。
 この池は舟によってけがされることはめったになかった。漁師を誘惑するほどのものはないからである。泥を必要とする白水蓮や普通の菖蒲の代りに、青菖蒲(Iris versicolor)が岸辺全体にわたって、石の多い底から澄んだ水にまばらに生い立って、六月になると蜂鳥ハミング・バードがおとずれる。その青みの勝った葉とその花は――特にそれが水に映ったすがたは――海緑色の水と何ともいえない調和を示す。
 ホワイトポンドとウォールデンは地上の大きな鏡であり、光りの湖である。これが永久的に凝固し、手でつかめるほど小さかったら、ことによると宝石のように奴隷たちの手によってはこばれ皇帝のひたいを飾ることになったろう。しかし液体であり、あまりに大きく、われわれとわれわれの子孫にどこまでもつながれているので、人々はそれを顧みずにコイヌールのダイヤモンド〔一八四九年以来英国皇室の所蔵〕を追いかける。この二つの湖水は市価をもつにはあまりに清浄である。それらは何の不浄をもふくまない。それらはわれわれの生活よりいかにはるかに美しく、われわれの人格よりいかにはるかに澄明であることよ! われわれはそれらから何の卑しさをもまなばない。農家の門さきにある、彼の家鴨のおよいでいる池よりどんなにずっと美しいことだろう! ここへは清らかな野鴨が来る。自然はそれを理解する人間の住民をもたない。その羽毛と歌とをもった小鳥らは野の花と調和をたもっているが、どの若者や乙女が自然の野趣あふれる美と手を組んでいるだろうか? かれらの住む町からは遠く、自然はひとりで最もよく栄える。天国を語るのか! 諸君は地をはずかしめる。
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ベーカー農場


 時には松の林に散歩する。それは神殿のように、あるいはうねる枝をもち、光りでさざなみたつ、十分に艤装をととのえた海上の船隊のように、そんなにやわらかく、緑に、影多く、立つ。むかしのドルーイッド〔ケルト族の僧侶たち〕はかれらの樫の木をすててここで神に祈ったことであろう。時にはフリントポンドの先の杉の林にいく。そこでは白っぽい青い実におおわれた木立がヴァルハラの宮殿の前に立つにふさわしく、地に這う杜松ジューニパーは実の多い花環で地面をおおう。あるいは沼地にゆく。そこではウスニア苔がその花づなを白エゾマツから垂らし、沼の神々の円卓である茸は地面にみち、もっときれいな菌類が蝶のようにまた貝のように――植物であるメクラ貝だ――切り株をかざる。沼ナデシコと山グミが生えており、赤いハンノキの実は小鬼の眼のようにかがやき、ツルウメモドキはどんな堅い木にでもからみついて溝をつくりそれをくだいてしまい、野ヒイラギの実はそのうつくしさで見る人に家を忘れさせ、また彼は人間が味わうにはあまりに美しい、そのほかの名もない禁断の野の木の実で眩惑され誘惑される。学者をおとずれる代りにわたしはよく、どれかの木を訪問したものだ。それらは牧草地のまんなかとか、森や沼地の奥とか、丘の頂きとかに立っている。黒カバノキとか――われわれは直径二フィートぐらいある立派な種類のものをもっている――その従兄弟で、それと同じ香りをもった、ゆるやかな黄金色の肌着をもった黄カバノキとか、小ざっぱりした幹をもち、うつくしい苔をまとい、どこからどこまで申し分のないブナの木――はなればなれのものは別として、わたしはこの村では相当の大きさの木の小さな林が一つだけのこされているのを知っている。それはむかし近くのブナの実に釣られてやってきた鳩が植えたものだと考える人もある。この木を裂いて銀色の木目がかがやくのを見るのは、やりがいのあることだ。シナノキがあり、ツノギがある。Celtis occidentalis あるいはにせもののニレで一本だけよく育ったものがある。マストのように高く秀でたマツ、shingle の木、並すぐれて完全な形をしたツガ、が森のただなかに塔のように立つ。そのほかにも挙げるべきものが多くある。これらはわたしが夏に冬におとずれたやしろであった。
 あるとき、たまたまわたしは虹の弓形の付け根に立った。それは大気の下の層をみたし、あたりの草や木の葉をいろどり、わたしは色ある水晶を透して見るような眩惑を感じた。それは虹の光りの湖であり、わたしは、つかのま、イルカのようにそのなかで生きた。もしもっとつづいたならば、それはわたしの仕事と生活とを染めたであろう。鉄道の土堤をあるいているとき、わたしは自分の影のまわりの光りのくましく思い、自分が選ばれた者の一人であるかのように想像したくなることがよくあった。わたしをおとずれた男がいったことだが、彼の前を行くアイルランド人たちの影には光りの隈がなく、その光栄をもつのは土地生まれの人間だけであるそうだ。ベンヴェヌート・チェリーニ〔一五〇〇―七一年、イタリアの彫刻家でその『獄中記』で知られている〕はその覚え書きのなかでこう語っている――彼が聖アンビェロの城にとらわれていたあいだに見た、あるおそろしい夢もしくはまぼろしの後では、イタリアにおいてもフランスにおいても彼の頭の影のうえに、かがやく光りが朝夕にあらわれ、草が露でぬれているときは特にいちじるしかった、と。これは今わたしがのべた現象とたぶん同じものだったらしく、それは特に朝によく見られたが、ほかのときにも、月夜にさえも見られた。これは常にあるのだが、ふだんは注意されず、チェリーニのようなはげしい想像力をもつ人の場合にはずいぶん迷信の元にもなりうる。おまけに彼はそれをごく少数の人にしか示さなかったといっている。しかし、とにもかくにも自分が尊敬されていることを自覚している人々は光栄あるものではあるまいか?
 ある日の午後、わたしは乏しい野菜食の足しにしようと思って、森を通ってフェア・ヘーヴンに魚釣りに出かけた。道はプレザント牧草地メドーを通りぬけた。これはベーカー農場の附属地で、その後、ある詩人が次の一節ではじまる詩をそれについて書いた静かな場所である――

「おまえの入口はたのしい原、
その一部を苔むす果樹は
かがやく小流れにゆずる
その流れの住人は滑りはしるジャコウネズミと
矢のようにおよぎまわるすばやいマス。」
〔著者の友人エレリー・チャニング(一八一八―一九〇一年)の詩『ベーカー農場』の引用〕

 ウォールデンにはいる前、わたしはここに住むことをかんがえたことがあった。わたしは林檎りんごを失敬し、小川をおどりこえ、ジャコウネズミとマスとをおどろかした。それはそのうちでいろいろな出来事が――われわれの自然的の生活の大きな部分が――起こりそうな、いつはてるともおもえない、あの長い午後の一つであった。もっともわたしが出かけたときにはすでにその半分が過ぎていたが。途中でにわか雨があり、そのためわたしは半時間ばかり松の木の下に立って、頭の上に枝をいただき、ハンケチで雨よけをしなければならなかった。そしてやっと水のなかに半身を漬けてコガマス草の上に釣糸をひと投げしたところで、突然雲の蔭がわたしをつつみ、雷がえらい勢で鳴りはじめたので、わたしはただその音に気を取られてしまった。あわれな武装のない一釣人を敗亡させるのに、こんな幾叉いくまたにもなった稲妻をもっている神々はずいぶんいい気持になっているにちがいないとわたしはおもった。そこでわたしは大いそぎで最寄りの小さい家に避難した。それはどの道からも半マイルもへだたっているが、それだけに池にはいちばん近く、久しいあいだ空き家になっていた――

「ここに詩人は家を建てた
今はむかしの年に。
そして破滅におもむく
ささやかな家を見よ。」

 詩神はそういう伝説をつたえる。けれどもわたしが見出したところでは、今はジョン・フィールドというアイルランド人とその妻と幾人かの子供とがそこに住んでいた。父の仕事の手つだいをし、今も雨を避けて沼地から父といっしょに走って帰ってきた大きな顔をした上の男の子から、王侯の宮殿でもあるかのように父親の膝のうえに坐って、湿気と饑餓のただなかのその家から幼児の特権をもって見知らない男を不審そうにながめている、しわのよった巫女みこのようなとんがり頭の赤んぼまでいる。赤んぼは自分がジョン・フィールドのあわれなせこけた餓鬼ではなくて、貴い家柄のすえであり世界の希望であり嘆賞の的であるのに、それを知らないでいるといったふうである。われわれはそとで雨が降りしぶき雷が鳴っているあいだ、いちばん屋根の雨漏りの少ない部分の下でいっしょに坐っていた。わたしはむかし、この一家をアメリカにはこんできた船がまだ造られない前に何度となくそこに坐ったことがあるのだ。ジョン・フィールドは明らかに正直で勤勉だが気ばたらきのない男であった。彼の妻は――彼女もまたあの高いストーヴの隅で何百回となくいさましく食事を料理した。円い脂ぎった額をし、胸を露わしながら、いつか暮しむきを立て直そうとかんがえているのだ。いつ見ても、かたわらには長柄の雑巾ぞうきんを置き、しかもそれが使われた痕はどこにも見あたらないのだ。ひなは、これも雨をさけてここにはいっていたが、家族の員数のように部屋をあるきまわり、これではあまりに人間じみてきて焼いてもうまくあるまいと思われた。かれらは立ちどまり、わたしの眼をのぞき仔細ありげにわたしの靴を突っついた。そのあいだ、主人はわたしにむかって身のうえばなしをした――彼が近所の農家のためにいかに精を出して開墾の仕事をしているかということ、牧草地を鋤または開墾用のまぐわで掘り起こして一エーカーにつき十ドルをもらい、また一年間肥料つきでその土地を使わせてもらっていること、彼の顔の大きい男の子は父親がどんなに割りのわるい仕事をしているのかなどということは一向知らずにそのそばで元気よくいっしょにはたらいていること、を話した。わたしは、自分が彼の最も近い隣人たちの一人であり、こんなところに釣りなどにきて浮浪人のように見えるかもしれないが、やっぱり彼と同様に働いて食っている者だと告げ、参考のためにわたしの経験を話して聞かせた。わたしが、彼の家のようなあばらの普通の一年間の家賃の総計と大してかわりがないぐらいの入費で建てた、しっかりした、明るい、清潔な家に住んでいること、そして彼もその気になりさえすれば、一、二カ月で自分の宮殿をつくりうること、わたしはお茶もコーヒーものまず、バターやミルクや新しい肉もらないので、そういう物の代金を稼ぐためにはたらかなくてもすむこと、そして、わたしはあんまりたくさんはたらかないから、たくさん食わずにすみ、食費はごくわずかで足りることを話した。彼は初めにお茶だのコーヒーだのバターだのミルクだの牛肉だのというから、そういうものの代のためにはげしくはたらかなければならず、はげしくはたらいてしまうとからだの消耗をおぎなうためにまたたくさん食わなければならないことになる。つまりは同じことだ――いやかえって損だ、なぜなら、始終不満足だし、おまけに命をすり減らすから。――ところが彼はお茶だのコーヒーだの肉だのを毎日えられるのはアメリカに移住してきたおかげだとかんがえている。しかし唯一の真のアメリカは、そんなものなんかなしですませるような生活法を人々が自由に採用することができ、そんなものを用いることから直接間接に結果する奴隷制度とか戦争とかそのほかそれに類した無駄な出費を人々が支持するように国家が強制しようとしない国なのだ。――わたしはわざと、彼が哲人であるかのように、もしくはそれになりたがっているかのように語ったのだ。世界じゅうの牧草地が荒地のままにのこされるとしても、またそれが、人間が自らを救済しようとしはじめることの結果であったとしても、わたしはむしろよろこぶであろう。人間は自己の教化のために何が最善であるかを見出すために歴史を学ぶことを要しないであろう。しかし、悲しいかな! アイルランド人の教化は一種の道徳的開墾用まぐわをもってくわだてらるべき手ごわい事業だ。わたしは彼に、君はそんなにはげしい開墾の仕事をしているから厚い長靴と丈夫な着物が入り用になり、しかもそれはじきにひどくなりれてしまう。君はわたしのことを紳士のような服装をしている(実はそうではないのだが)と思うかもしれないが、わたしは軽い靴と薄い着物とを着ていて、君の服装の半分値にもつかないのだ。そして一、二時間で、それも労働ではなくて気ばらしとして、その気になれば二日分に入用なだけの魚を、あるいは一週間命をつなぐだけの金をもうけることができるのだ、といった。それを聞くとジョンは溜息をもらし、彼の妻は両手を腰にあてひじを張った姿勢をつくって眼をみはった。二人とも、自分たちがそういう方法をはじめるだけの資力をもっているかどうか、それをやりとげるだけの計算能力をもっているかどうか、心もとないていであった。それは盲目航海にひとしいもので、どうして思う港に着けるものか見当がつかないらしかった。で、かれらは今でもなお、相変わらず、自己流に人生と向かいあってがむしゃらに、勇敢にわたりあっていることと思う。その巨大な縦隊にたくみに喰い込むくさびを打ちこんでそれを裂き、小さく分けてそれを打敗る才覚がなく――あざみをもみつぶすように手荒くあつかおうとばかり考えているのである。しかし圧倒的な不利で戦うことになるのだ、――ジョン・フィールドは気の毒にも計算を立てず生活し、かくて失敗におちいるのだ。「あんたは釣りをするかね?」とわたしはいた。「はい、しますよ。ぶらぶらしているときは、ときどきひと漁しますさ。いいパーチがとれますよ。」「餌はなんだね?」「ごかいでシャイナーを釣りそれでパーチをとるんでさ。」「ジョン、いま往ったらどう?」希望にかがやく顔で妻君はいった。けれどもジョンは決しかねていた。
 にわか雨はやみ、東の森のうえの虹は晴れた夕べを約束していた。わたしは暇をつげた。外に出たとき、この住まいの最後の調査として井戸の底を一見しようと思い、皿を一つ貸してくれといった。ところが、そこには浅瀬があり流砂があり、綱も切れていて桶は沈んでしまったというていたらくであった。そのうちに適当な台所道具がえらばれ、水は沸かされたものらしく、長いあいだこそこそ相談があったのち、のどを乾かしているわたしに手わたされた。まるで冷えるひまも、澄むひまもないままで。ここではこういうおかゆめいた水を飲んで生きているのだ、とわたしは思った。で、わたしは目をつむり、たくみに底流をうごかしてごみを片寄せて、まじりのない款待に対して思い切り飲みほした。わたしはこういう、相手に対する礼儀が問題になっている場合には気むずかしいことはいわない性分であった。
 雨があがってアイルランド人の家を辞し、池の方にむかって歩いて往ったとき、引っこんだ牧草地や沼地や沢の窪み、人気ひとけのない荒れた場所をわたり歩きコガマスを捕ろうと意気ごむ自分が、中学校から大学にまでやってもらっていながらと、ふと馬鹿馬鹿しく思えた。けれども入日で赤みがかった西にむかって丘を走り降り、肩ごしに虹を見、どこからとも知れず、かすかな鐘の音が清く澄んだ大気をつたわって聞こえてきたとき、わたしの善い守護神はこういうように思えた――毎日、できるだけ遠くひろく魚をとり猟をするがよい――もっと遠くもっとひろく――そして悪びれずに多くの小川のふちや炉のわきで休息するがよい。若き日に汝の造り主をおぼえよ。夜明けにはもはや物思いをさらりとすてて起き、冒険をもとめよ。昼には新しい湖のほとりにあれ、そして夕べにはいたるところをわが家としてくつろげ。この世にはここの野ほど広い野はなく、ここでの遊びほど価値ある遊びはない。お前の天性にしたがって、とてもイギリス牧草にはなれない、すげ羊歯しだのごとく思いのままに生い茂れ。雷をして鳴りとどろかしめよ。それが農夫らの収穫をほろぼす惧れがあろうと何であろう? それはお前には別なことを意味するのだ。かれらが車や小舎ににげるとき、お前は雲の下に雨やどりをせよ。生計をうることをお前の職業とせず、遊びとせよ。大地をたのしめ、けれどもそれを所有するな。甲斐性かいしょうと信念との不足から、人々は売ったり買ったりし、自分たちの生涯を農奴のようについやしつつ、現今の位置にとどまっているのだ――

おお、ベーカー農場!
「風景――そこの最も貴い要素は
けがれを知らぬ、ささやかな日のひかり。」……

「お前の横木の垣をめぐらした草原には
酒宴におもむく者もない。」……

「お前は何ぴとともいいあらそいをもたず
問題にわずらわされることも絶えてなく
初めて見たときも今も同じようにおとなしく
そのじみな赤味がかったゆるやかな外套にくるまっている。」……

「愛する人たちよ来れ
そして憎む人たちも、
神聖な鳩の子たちも
ガイ・ホーク流の逆賊も、
そして陰謀を、木々の丈夫なたるきから首をくくってぶら下げよ!」
〔著者の友人エレリー・チャニングの詩を引用したもの〕

 人々は夕方、かれらの家庭の物音の反響がつきまとう、すぐとなりの畠または町からおとなしくもどってくる。そしてかれらの生活は自分たちの吐いた同じ息をくりかえし呼吸することによってえていく。朝夕のかれらの影はかれらの日中の足取りよりも長くとどく。しかるに、われわれは毎日、新しい経験と性格とをもって、遠くから、冒険と危険と、発見とから帰宅すべきなのだ。
 わたしが池に着く前に、何か新しい衝動が彼をうながしたと見えてジョン・フィールドは気が変わって、この日没前に沼地を掘りかえすことをやめてやってきた。ところが気の毒にも、わたしは相当の漁があったのにわずか二、三尾を追いまわしている始末だった。彼はそれが自分の運なのだといった。ところがボートのなかの二人の位置を取換えて見たが、運の方も位置を取換えてしまった。気の毒なジョン・フィールド!――(わたしは彼がこの記事をまさか読むまいと思っている、読むのならそれによって啓発されるがよい)――彼はこの原始的な新しい国で何か昔ながらの古い国のやり方で生きようと思っている――シャイナーでパーチをつかまえるつもりで。それは時としては善い餌になることはわたしも認めるが。彼の眼界は彼独特のものだが、しかし彼は気の毒な男で、気の毒であるべく生まれ、彼の伝来のアイルランドの貧困または貧しい生活をもち、彼のアダムのお祖母ばあさん流のへまなやり方をもって、彼自身と彼の子孫とはこの世ではうだつがあがらないようにできている。――かれらの徒歩かちわたりをし、みずかきでもありそうな、沼地をよちよち走りまわる足のかかとにマーキュリーのつばさでもはえないかぎりは。
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より高い法則


 捕れた魚を糸に通し、暗いので竿さおをひきずりながら森のなかを家路にむかったとき、わたしはヤマネズミがこそこそ道をよこぎるのを、ふと見つけて野性的なよろこびの不思議な戦慄を感じ、それをつかまえてなまのまま食べたいという誘惑をつよく感じた。そのとき空腹であったというわけではなく、ただ彼があらわしている野性に惹かれたのであった。が、一、二度、池に住んでいたころ、わたしは、半ば餓えかかった犬のように、不思議に投げやりな心になって、何か無性に野生の鳥獣肉が食いたくなり、どんなに野蛮な肉でもかまわない気持になって森をかけずりまわったことがあった。どういうものか、最も野蛮な情景が自分になじみぶかく感じられた。わたしは自分のうちに、多くの人に見るとおり、より高い、あるいはいうところの精神的生活に対する本能と、もう一つ、原始的な野蛮なそれとを見出したことがあり、今でも見出すが、その両方ともをわたしは尊重する。わたしは善におとらず野性的なものを愛するのだ。魚釣りに見られる野性と冒険とは今もわたしにうれしいものなのである。わたしは時としては人生を野蛮にとらえ、日々を動物のように過ごしたいと思うことがある。わたしが年少のころ、自然とごく親しみぶかくなったのは、たぶんこの魚釣りと猟とのおかげだったであろう。この二つは、その年頃に、それでなかったら縁がなさそうな情景に早くからわたしたちをみちびき入れ、惹きよせる。漁夫や猟師や木伐きこりやその他、野や森で生涯をすごし、特殊な意味でみずから自然の一部をなしている者どもは、成心をもって自然に近づく思想家――詩人すらそうである――よりも、自然をかれらの仕事の合いまに観察するのに、しばしば一層有利な気分にあるものである。自然はかれらに対して自分をさらけ出すことをおそれない。大草原プレーリーの旅行者はしぜんと猟師になり、ミズーリ河とコロンビア河との上流では罠をかけ、セント・メアリーの滝では釣りびととなる。ただ旅行だけをしている者は物事をただ人づてに、半かじりに知るもので権威とするに足りない。われわれは右の人々がすでに実地に、あるいは本能的に知っていることを科学が報告するのに大いに興味をもつ。なぜならば、そういうもののみが、人間の経験という意味で、真に人間的なものであるからだ。
 ヤンキーが多くの公共的祝日をもたず、おとなや少年が英国におけるほど多くの遊技をやらないという理由で、娯楽にとぼしいと主張する者はあやまっている。なぜならばこの国では猟とか魚釣りとか、またはそれに類した、最も原始的で、仲間をはなれたたのしみが、各種の遊技に取って代わられていないからである。わたしの同時代者のあいだでは、ほとんどすべてのニューイングランドの少年たちは十歳から十四歳までの年頃に猟銃を肩にかついだ。そしてかれらの猟場または魚釣り場は英国の貴族たちの、専用猟区や生簀いけすなどのように局限されたものではなく、野蛮人のそれ以上に境界を越えたものであった。だから、かれらがあまり村にとどまって、共有地で競技しないのは不思議がるにあたらない。しかし、すでに変化が起こりつつあるが、それは人道の進歩のせいではなく獲物の減少の進行のせいである。なぜならば猟師はたぶん、人道協会をも含めて、狩られる動物の最大の友人だからである。
 さらに、池のほとりにいた頃わたしは時として食事の変化のために魚を添えたい気持になった。わたしは実際に、最初の釣りびとと同じような必要からして魚をとった。それを非とするためにわたしがでっちあげうるすべての人道主義は、すべて作為的なもので、わたしの感情よりは理論に関したものであった。わたしは今ただ魚釣りについていっているので、鳥打ちについてはすでに久しくこれとはちがった気持を抱いており、森にはいる以前に猟銃は売りはらってしまった。わたしがほかの人間より慈悲心にとぼしいわけではないらしく、ただわたしの感情が大してうごかされるのを認めなかったからだ。わたしは魚や虫をあわれと思わなかった。これは習慣である。鳥打ちにいたっては、わたしが銃を持ちあるいた最後の数年間、わたしの言い訳は鳥類学の研究であり、ただ新しい、もしくは稀な鳥のみを求めた。けれども今のわたしは、そういうやりかたよりも鳥類学を研究するにはもっとよい方法があるという考えにかたむいていることを告白する。それは鳥の習慣に対してもっとずっと綿密な注意を要するもので、ただその理由だけからでも、わたしはすすんで銃をすてる気になれた。しかし人道の見地からの抗議にもかかわらず、これと同じぐらい価値ある遊技がかつてそれに取って代わったかどうかをわたしは疑わざるをえない。そしてわたしの友人たちのある者が、その子供たちに狩猟をゆるしたものかどうか、心配げにいたときに、わたしはこう答えたものだ――やらせたまえ――(それがわたし自身の教育の最もよい一部であったことを思いだしつつ)――かれらを狩猟家にしたてたまえ――最初はただ遊猟家にとどまるかもしれないが、できたら、ついには偉大な狩猟家にしたて、この辺の、あるいは、どこの植物的荒野においてもかれらにとって十分大きな獲物が見あたらないというほどにしたまえ――人をすなどる者であるとともにそれを狩る人にならせたまえ。この点はわたしはチョーサーの『カンタベリー物語』中の尼の意見にくみするものだ。

「彼は、狩うどは信心ぶかい人間ではないという、聖句などは歯牙しがにかけなかった。」

 アルゴンクィン族は狩うどを「いちばん善い人」と称しているが、人類の歴史のうちにそういう時代があったと同様に、個人の生涯にもそういう時代がある。われわれは銃を発射したことのない少年をあわれまざるをえない。彼は一層情けぶかくはなく、一方、彼の教育は悲しむべくなおざりにされたものである。以上が、銃猟に心をかたむけている少年たちについてのわたしの答えであった――かれらがじきにそれを卒業することと信じつつ。無思慮な少年時代をとおり越した、情けごころのある人間は、自分と同じ境遇でいのちをつないでいるどんな生物をもむやみに殺害することはないだろう。せっぱつまった兎は子供のようにく。わたしは母親たちに警告する。わたしの同情は世間普通の人間愛的差別を必ずしも立てないのだ、と。
 そういうのが、たいていのばあい、若い人の森にしたしむ径路であり、彼の生活の最も独創的な部分でもある。彼はまず狩うどまたは釣りびととしてそこにおもむき、結局は――もし彼が自らのうちに一層善い人間の種子をもっているならば――詩人とか自然学者とかとしての彼独自の目的を見つけ出して、銃と釣竿とをすてるようになる。大多数の人間はこの点では今なお、そして常に、若い。ある国々においては狩りをする僧は別にめずらしい見ものではない。そういう人間はよい羊飼いの犬にはなるかもしれないが「善き牧羊者」たることからは遠い。わたしは、木伐りとか氷の切り出しとか、その種の商売は別として、わたしの知っているかぎりではたった一つの例外のほか、わたしと同じ市民である父親たちや子供たちを丸半日とウォールデンポンドに引きとめた仕事らしい仕事は魚釣りであったことをかんがえると意外の感にうたれる。ずうっと池をながめる機会はえられたわけなのだが、もしたっぷりと魚を数珠つなぎにできなかったとしたら、かれらはたいがい幸運であったと思わず、来たかいがあったとも思わない。魚釣りのおりが水底に沈んで純粋な目的だけがのこるようになるには一千回もここに通わなければなるまい。だが、そういう浄化の作用は絶えずおこなわれているのであろう。州知事と州会の面々は池をかすかにおぼえている。かれらは少年の頃そこに魚釣りに出かけたのだから。だが今では釣りに出かけるには年をとりすぎ威厳がありすぎているので、もはや永久にそれについて何にも知らない。だが、かれらとても、ついには天国に行けるつもりでいるのだ。もし州議会が池をかえりみるとすれば、それは主としてそこで用いられる釣針の数を調節するためである。しかしかれらは、州議会を餌として串刺しにして池そのものを釣るべき釣針中の釣針については何の知るところもない。こういうわけで文明社会においてさえ、未発達の人間は人間の進化における狩猟人時代を通過しつつあるのである。
 近年になってわたしは、いくらか自分の自尊心をおとすことなしには魚釣りができないことを繰り返し感じた。わたしは何回となく魚釣りをこころみた。わたしはそれについての熟練を有し、また多くの仲間とおなじくそれに対する一種の本能をもってそれが時々頭をもたげる。けれども釣ってしまうと釣らなければよかったのにといつも感じる。わたしはこの気持にまちがいはないと思う。これはかすかな知らせであるが、朝の最初の光りの縞だってそうだ。うたがいもなく、わたしのうちには、より低級な被造物に属するこの本能が存在しているのだ。けれども年々にわたしはすこしずつ釣師ではなくなりつつある――情けぶかさや、知慧さえも増さないのだが。現在ではわたしは全然釣師でない。けれどもわたしは荒野に住むことになったらまた本気に猟師になり釣師になりたい気持になるだろうと思う。のみならず、われわれの食事とすべて肉類には何か本質的に不潔なものがある。そしてわたしはどこで家事がはじまるか、どこから毎日きちんとした体裁のよい外見をつくるという、家をすべての悪臭やきたなさからさっぱりと自由にたもつという非常に高価につく企てがはじまるかが解りかけた。わたし自身の肉屋ともなり皿洗いともなり料理番ともなり、同時にそういう料理を給仕される紳士ともなっていたので、わたしはめったにない完全な経験から物をいうことができるのだ。わたしの場合、動物食の困る点はその不潔なことである。おまけにわたしの魚をつかまえ、それを清めて料理し、それを食ったところでそれがほんとうに身の養いになったとは思えなかった。それは些細なものであり不必要であり、そのとくよりも代価の方が高くついた。少量のパンと二、三のジャガイモでも結構まに合ったはずであり、手数と不潔とはすくなくて済んだ。同時代の多くの人々と同様わたしは長年のあいだ動物食、茶、コーヒーその他をめったに用いなかった。それらのものに害をみとめたというよりは、ただ気持に不快だったからである。動物食の嫌悪は経験の結果ではなく一つの本能である。低い生活をし粗食をすることは多くの点において一層美しいように思えた。わたしは決してそうしたわけではなかったが、わたしの気持を満足させるに十分な程度までのことはした。すべて真剣に自分の高級な、あるいは詩的な機能を最善の状態にたもとうとした人々は特に動物食、そしてすべての過食を避ける傾向があったとわたしは信じる。昆虫学者たちがのべている――わたしはそれをカービーおよびスペンス共著の『昆虫学入門』で見た――「ある昆虫はその完全な状態においては、摂食の器官はそなえているがそれを使用しない」ということは意味深い事実である。かれらはまた、「通則として、この状態にあるほとんどすべての昆虫は幼虫状態のときよりもはるかに少ししか食わない」としている。「貪食の芋虫が蝶に変わったとき、……大食のうじが蠅となったとき」は一、二滴の蜜または何かほかの甘い液体で満足する。蝶のつばさの下の腹はまだ幼虫を代表しているものである。そしてこれが食虫的な運命の手を誘惑する美味な部分なのである。貪食漢は幼虫状態にある人間である。そして世には全国民としてそういう状態にある国々があるがそれらは空想もしくは想像をもたない国民で、その巨大な下腹部がそのことをさらけ出している。
 想像を反発させないほど単純で清潔な食事を提供し料理することはむずかしいことである。しかし、われわれが肉体に給食するときにはこの想像にも給食すべきであるとわたしはかんがえる。この二つは同じ食卓に坐るべきである。だが、このことはたぶん可能である。果実が適度に食われたときわれわれは自分の食欲を恥じる必要がなく、最も高尚な仕事も中断されない。けれども皿のうえに余分な調味料を加えればそれはわれわれを毒するだろう。上等な料理を食う生活は無益なものだ。たいていの人間は、動物食にもせよ植物食にもせよ、毎日他人によってかれらのために調理されるのと全くおなじような食事を自分の手で調理しているところを人に見られたらはずかしく感じるだろう。けれどもこのやり方が変わらないかぎりはわれわれは文明にはならず、われわれは紳士淑女ではあるかもしれないが、真の男または女ではありえない。このことはたしかにどういう変更がなされるべきであるかを暗示している。何ゆえ人間の想像が肉や脂肪と調和できないのか問うのは無駄であろう。わたしは調和できないということを確信している。人間が肉食動物であるということは一つの非難ではないか? なるほど人間は主として他の動物を餌食にすることによって生きることができるし、生きてもいるけれどもこれはみじめなやり方だ――誰でも兎をわなにかけ子羊を屠殺する者が思い知ることができるとおり。そして、もっと罪のない、滋養になる食事のみをとるように人間に教える者は人類の恩人と見なされるであろう。わたし自身の実際はともあれ、野蛮人がより文明のすすんだ人間と接触するようになったときにお互いに食うことを止めたとおなじようにたしかに、動物を食うことをやめることは、人類の運命がその徐々たる進歩において当然なすべき一事であることをわたしは信じてうたがわない。
 もし人がその守護神の最もかすかな、しかし絶えまない示唆(それはたしかに真実なものである)に耳をかたむけるならば、彼はそれがどんな極端に――狂気にさえ――みちびくか見当がつかないであろう。けれども、彼がもっと決意かたく忠実になるにつれて、その方向に彼の道はよこたわるのである。一人の健全な人間が感じる最もかすかながら、確信ある抗議は結局においては人類の理論と慣習とに打ち勝つであろう。何ぴともそれが彼をあやまつところまで彼の守護神にいてった者はかつていない。その結果がかりに肉体的虚弱であったとしても、たぶん何ぴともその成りゆきが遺憾であるとはいえないだろう。それはより高い法則に随順した生活であったのだから。もし昼と夜とが歓びをもって迎えられるようなものであり、生活が花や匂いのよい草のように香りをはなち、よりはずみがあり、より星のごとく、より不朽なものであったら――それが君の成功なのだ。すべての自然は君に対する祝賀であり、君は自らを祝福すべき理由を刻々にもつ。最大の利得と価値とはそれと認められることから最も遠い。ともすればわれわれはそういうものが存在するかどうかをうたがう。われわれはたちまちそれらを忘れてしまう。それらは最高の現実である。たぶん、最もおどろくべく最も現実的な事実は決して人から人へとつたえられない。わたしの毎日の生活の真の収穫は朝と夕べの色どりにいくらか似たもので、手で触れがたく名状しがたい。それはとらえられた小さな星くずであり、わたしがつかまえた虹のひとかけである。
 しかし、わたし自身としては、わたしは決して人並はずれて神経質ではなかった。わたしは必要があれば鼠の揚げ物に舌つづみをうつこともできた。わたしはわたしが長いあいだ水を飲んでいたことを、アヘン吸飲者の天よりは自然のままの空の方がありがたいのと同じ理由で、さいわいだったと思う。わたしはいつも酒に酔わずにいたいと思う。泥酔には無限の段階がある。わたしは水こそ賢者の唯一の飲みものであると信じる。酒はそんなけだかい飲料ではない。そして朝の希望を一杯のあついコーヒーで台なしにし、夕べのそれを一椀の茶でそうすることをかんがえて見たまえ! それらで誘惑されるときいかにわたしは堕落することか! 音楽でさえ人を酔わせることがある。そのような一見些細な原因がギリシャやローマをほろぼした、そしてイギリスやアメリカをほろぼすかもしれない。すべての酩酊のうち、自分の呼吸する空気で酔うことをいちばん愛しない者があろうか? 長くつづけられた荒々しい労働に対するいちばん重大な難点は、それがわたしをまた荒々しく食いそして飲むように強いたことであるのをわたしは見出した。だが、実をいうと、現在ではわたしはこういう点についていくらか前ほどやかましくなくなっている。わたしは食卓に宗教をもちこむことがよりすくなくなり、祝福を乞うことをしなくなった。むかしよりも賢くなったというわけではなく、いかにそれが遺憾なことであろうとも、年とともにより荒っぽく投げやりになったからであることを告白しなければならぬ。たぶん、こういう問題は青年時代にだけいだかれるのであろう――たいていの人が詩についてもそうであると考えるように。わたしの実行は「問題にならない」が、わたしの意見はこうである。とはいえ、わたしは自分を、ヴェーダ経典が、「宇宙に遍満する至高の存在に対する真の信仰を有する者はあらゆる存在するものを食してよろしい、」すなわち、わが食物が何であるか、あるいは誰がそれを調理するか、を問う必要はない、といっている、そういう特権をもった人々の一人に相当するものであると見なす気持は毛頭ない。そして、かれらの場合でさえ、あるインド人の註釈者が述べているとおり、ヴェーダ教はこの特権を「不幸な時代」にだけに限っていることは注目すべきである。
 食欲が少しも関与しなかった食事からいうにいわれない満足をときとして感じた経験のない人がいるだろうか? わたしは通常は低級な味覚というもののおかげで精神的な感得をえたことがあること、食味を通じて霊感を獲たこと、丘の中腹で味わったがわたしの心霊を養ったこと、をかんがえてよろこびの戦慄をおぼえたものだ。曾子そうしはいっている、「心ここに在らざれば見れども見えず、聞けども聞かず、食えどもその味を知らず。」自分の食物の真の味を弁別する者は決して貪食漢ではありえないし、それをしない者はそれであらざるをえない。清教徒は、市の助役がそのスッポン料理におもむくのと同じぐらいがつがつした食欲でその黒パンの皮に取りつくのかもしれない。人を堕落させるものはその口中にはいる食物ではなく、それを食うときの欲心いかんである。堕落は質でも量でもなく肉欲的な食味への献身である。食われる物がわれわれの生身なまみを支持し、もしくはわれわれの精神生活を鼓舞する糧となるのでなくて、われわれのうちに巣くう蛆虫の食い物となる場合である。猟師が泥亀やジャコウネズミその他の野蛮な食べものをたしなむとすれば、立派な婦人は子牛の足でつくったジェリーとか、海外から取寄せたイワシとかいったものを好むわけで、双方甲乙はない。彼は水車場の池に行き、彼女は砂糖づけの壺におもむくだけの話である。不思議なことは彼が――諸君やわたしが――飲み食いしつつ、このぬるぬるした獣的な生活をどうしてつづけていられるのかということである。
 われわれの全体の生活はおどろくほど道徳的である。徳と悪とのあいだに一瞬の休戦もない。善は決してまちがいのない唯一の投資である。世界をめぐってふるえる竪琴ハープの調べのなかでわれわれに戦慄をあたえるものはその強調である。竪琴は「宇宙保険会社」の外交員で、そこの規約を宣伝しているのであり、われわれの些細の善はわれわれの支払うすべての払込み金である。青年はいつかは無関心になるが、宇宙の法則の方は無関心でなく、永久に最も敏感な者たちのかたわらにある。吹くそよ風のうちの心の咎めを聴け、――それはたしかにそこにある、それが聞こえないものは不幸である。われわれが絃に触れ音栓をうごかすごとに、人を魅する道徳はわれわれをつらぬく。遠くはなれて聞けば、多くのわずらわしい騒音も音楽と聞こえる――それはわれわれの生活の卑賤に対する誇らしい、うつくしい諷刺である。
 われわれは自分のなかの動物を意識している。それはわれわれのより高い天性が眠っているに比例して目ざめているのである。それは爬虫類的で肉欲的であり、おそらく全面的には掃蕩できないものであろう。われわれが健康に生きているあいだにもわれわれの肉体に巣くっている蛆虫のように。われわれはそれから退却することはことによるとできるかもしれないが、決してその性質を変えることはできない。わたしはそれはあるそれ独得の健康さをけうるのではないかとあやぶむ者である。すなわち、われわれはたっしゃであって、しかも清らかでないということもありうるのだ、と。先日わたしは白い健全な歯と牙とをそなえた猪の下顎を拾ったが、それは精神的なそれとは別な、動物的な健康と力とがあるものだということを暗示していた。この動物は節制とか清潔とかいうのとは別の手段で成功したのだ。孟子はいった、「人が禽獣と異なる所以ゆえんのものはほとんど稀である。庶民は之を去り君子は之を存する。」もしわれわれが清浄に達したならばその結果どのような種類の生活があらわれるか誰が知っていよう? わたしに清浄を教えてくれるような賢人がいると判ったらわたしはただちに彼に会いに行くだろう。「われわれの欲情と、肉体の外的な感覚とを統御すること、および善行は、心が神に近づくために不可欠であるとヴェーダは宣言している。」けれども精神はしばらく肉体のあらゆる部分と機能とをつらぬいてそれを統御し、形においては最も肉感的なものを清浄と敬虔とに変えることができる。われわれが放恣ほうしであるときにはわれわれをだらしなくし不潔にならしめる生殖精力も、われわれが節制するときには元気をあたえ霊感をあたえる。貞潔は人間の花である。そして天才とか英雄的行為とか篤信とかいわれるものは、それにつづくいろいろな果実にほかならない。時にはわれわれの清浄がわれわれに霊感をあたえ、また時にはわれわれの不浄がわれわれを投げ出すのである。自分のうちの動物が日々に死につつあり、神聖なる存在が確立されつつあることを信じることのできる人は幸いである。自分がそれと結託している下等な動物的な性質の故に恥を感ずべき理由をもっていない人間はたぶんいないであろう。われわれは半羊神フォーン半獣神サテイルのような神々もしくは半神たち、獣類と結びついた神性、肉欲の動物に過ぎず、われわれの生活そのものも、多かれ少なかれわれわれの恥辱ではないかとわたしはおそれるものである――

「自分のうちのけものに適当な場所をわりあて
自分の心の叢林をりひらいた人は何と幸福であろう!
…………………………
自分の馬、山羊、狼、そしてすべてのけだものを使いこなし
すべてそれらに対して自分自身が驢馬にならない人!
さもなければ人は豚をう者であるばかりでなく
またかれらを向う見ずにたけらせてさらに悪におもむかしめた
あの悪魔たちにひとしいものだろう。」〔ジョン・ダン(一五七三―一六三一年)の詩〕

 すべての肉欲はその形はいろいろあるけれども一つであり、すべての清浄は一つである。肉欲的に食うのも飲むのも同棲するのも眠るのも同じことである。それらはただ一つの欲情であって、人がどの程度の肉欲家であるかを知るには、彼がこれらのうちのどれか一つだけをするのを見ればこと足りる。不浄な人間は清らかに立つことも坐ることもできない。爬虫類はその穴の一方の口から攻めたてられると別の口にすがたをあらわす。もし人が貞潔であろうとするならば彼は節制であらねばならぬ。貞潔とは何であろうか? 人は自分が貞潔であるかどうか、どうしたらわかるだろうか? 彼はそれがわからないであろう。われわれはこの善徳のことは聞いているが、それがいったい何であるかは知らない。われわれはわれわれの聞いた噂に準拠して語るだけだ。努力から知慧と清浄とが来たり、怠惰から無知と肉欲とがきたる。学徒においては肉欲は心の怠惰な習慣である。不潔な人間は一般に怠惰な人間であり、ストーヴのそばに坐りこみ、太陽がその寝姿を照らし、つかれもしないのに休息する者である。もし不潔とすべての罪とを避けようと思うならば熱心に働け、それがうまや掃除であろうとも。自然は克服するに困難なものではあるが、克服されなければならぬ。もし君が異教徒よりも清らかでなく、もし君がもはや自己を否定しないならば、もはや宗教的でないならば、君がクリスチャンであるということは何の役に立とうか? わたしは、異教的であると見なされてはいるが、その教えが読者を恥をもって充たし、たとえ単に儀式の執行にもせよ、新しい企図に挑発するところの多くの宗教体系があるのを知っている。
 わたしはこういうことを語るのを躊躇する。しかしそれは問題が問題だからではない――わたしは自分の言葉がどんなに卑猥であろうと意に介しはしない――ただわたしは自分の不浄を暴露することなしにそれについて語ることができないからである。われわれは肉欲の一つの形式を恥じることなく自由に論じるが、他の形式のものについては沈黙する。われわれは人間性の必要な機能について単純に語ることができないほど堕落しているのである。古代においてはある国々においてはすべての機能はうやうやしく語られおきてによって調節された。インドの立法者にとっては何物もあまりに卑俗にすぎることはなかった――それが近代の趣味にとってはいかほどいかがわしく思えようとも。彼はいかに食い、飲み、同棲し、糞尿を排泄すべきか、その他のことを、卑しいものを高めつつ教え、これらのことを卑俗であるとして虚偽的な回避をしない。
 すべての人間は純粋に自分自身の様式にしたがって、彼の帰依する神に対し、彼の肉体と呼ばれる神殿を建築する者であり、その代りに大理石を築いてまぬがれるわけにはいかないのである。われわれはすべて彫刻家であり画家であって、その材料はわれわれ自身の肉と血と骨とである。いかなるけだかさもただちに人間の相貌を浄化しはじめ、いかなる卑しさまたは肉欲もそれを動物化しはじめるものである。
 ジョン・ファーマーは、ある九月の夕方、一日のはげしい労働のあとで自分の戸口に坐っており、その心はまだ多かれ少なかれ彼の労働のうえにさまよっている。すでに入浴をおわり彼は自分のうちの知性的な人間を保養するために坐りこんでいる。それはやや冷やかな夕べで、隣人たちのある者は霜をおそれていた。彼が想念の糸をたぐっていると間もなく、誰かが笛を吹くのがきこえてきたが、そのは彼の気分にしっくり調和した。彼はまだ自分の仕事のことを考えていた。けれども彼の思いの折り返しは、この仕事が彼の頭のなかで廻転し、そうするつもりもないのにそれを計画し工夫くふうしている自分を見出しつつも、一方においてはそんなことは自分にとってほとんどどうでもよいことだということであった。それは絶えずこぼれおちる彼の皮膚のふけにすぎないものであった。しかるに笛の音は彼がそのうちで働いている世界とはちがった世界から彼の耳に達して深く心にしみ入り、彼のうちに眠っているあるいくつかの機能のために仕事を示唆した。それらはしずかに彼の住んでいる街と村と国とを没却した。一つの声が彼に告げた――なぜお前はここにとどまって、この卑しい辛い生活をつづけるのか、光栄ある生活がお前に開かれているのに? あれらの同じ星がこことはちがった野のうえにかがやいているのだ。しかし、どうして現在の状態から抜け出してほんとにかしこに移り住んだものだろうか? 彼の考えうることは何か新しい忍苦をおこなうこと、彼の心を彼の肉体にまで下っていかせてそれを救済させ、彼自身をつねにいやます尊敬をもってあつかうこと以外にはなかった。
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動物の隣人たち


 時としてはわたしは魚釣りの仲間をもった。彼は町の反対のはずれから村を通ってわたしの家にやってき、御馳走を捕えることがそれを食べることと同じぐらい社交的な仕事となった。
 隠者。――わたしは今、世の中がどうしているか知らない。この三時間というものは羊歯しだのうえのイナゴのうごきも聞こえないのである。鳩はみんなそのとまのうえで眠っている――何の羽ばたきもない。たったいま森のむこうから聞こえたのは農夫の昼をつげる角笛だったのだろうか? 働き手たちは煮た塩牛肉とサイダーとインディアン・パンを食うために戻ってきたのだろうか? どうしてみんなはあんなに気忙きぜわしいのか? 食わない男は働く必要はない。かれらはいったいどのくらい取入れたろうか? 犬が吠えたてておちおち物も考えられない所に誰が住むものか? それから、おお、あの家の仕事! このかがやかしい日にドアの把手をみがきたて、桶をごしごし洗うなんて! 家なんかもたぬに越したことはない。樹の空洞うつろはどんなものだろうか。それから朝の訪問や晩餐会! キツツキがたたくばかりだ。ほんとにかれらは群がりすぎる。太陽はあそこでは暑すぎる。かれらはあまりに世の中にはまりこんでいてわたしには向かない。わたしには泉からの水があり棚のうえには黒パンのひとかけがある。聞きたまえ! 木の葉のさやぎがする。あれは食い物のたりない村の猟犬が狩猟本能に駆りたてられているのだろうか? それとも、雨あがりにわたしがその足あとを見た、このへんの森で迷児まいごになったという豚だろうか? それはいそいでやってくる。わたしのウルシとイバラが揺れる。おや、詩人君、君だったのか。今日は世の中はどうだね?
 詩人。――あの雲を見たまえ、あの垂れぐあいを! 今日見たいちばんのものはあれだ。ああいうのはむかしの画にもない、外国にもない――スペイン海岸の沖で見ただけだ。あれはほんとの地中海の空だ。ぼくはりょうをかせがなければならないのに今日は食っていないから、ひとつ釣りをしようと思いたったのだ。それは詩人のほんとのかせぎだ。ぼくがまなんだ唯一の商売だ。さあ、出かけようじゃないか。
 隠者。――いや、とはいえないね。ぼくの黒パンもじきになくなる。すぐに、よろこんでおともするが、今ぼくは一つ大切な思索の結論にさしかかっているのだ。もう少しでけりがつくと思う。だから、ちょっとのあいだ、ほうっておいてくれたまえ。だが、あとで手間を取らないように、君はそのあいだに餌を掘っていたらいいよ。ミミズは土にやしがまるでやってないこの辺ではなかなか見つからないよ。ほとんど根だやしだ。腹がへりすぎていないときは餌を掘るのも魚をつかまえるのとおなじぐらいおもしろいよ。今日はそっちの方は全部君におまかせする。ほら、むこうにジョンスワート草がなびいている、あすこのジマメの生えているなかに鋤を打ちこんで見るんだね。三度掘りかえすごとに一匹は受けあえると思うね。雑草とりをするように草の根もとをよくしらべて見ればね。君がもっと遠くに行く気があるのならそれもわるくないよ、ぼくは良い餌の増加はほぼ距離の自乗にひとしいことを発見したからね。
 隠者(ひとりになって)。――ええと、どこだったかナ? わたしはだいたいこういう気分にあったらしい――世界はおよそこの方角にあった、と。――わたしは天に行こうか、それとも釣りに行こうか? もしわたしが、この瞑想をおしまいにしてしまえば、これほどうつくしい機会がまたとやってくるだろうか? わたしは生涯にかつてなかったほど事物の本質に融けこむことに近づいた。どうもわたしの思想は帰ってきそうもない。もしそうするかいがあるのなら口笛を吹いて呼びもどしたいものだ。考えがむこうからきてくれるものを、ひとつ考えて見よう、なんていうのは賢いことだろうか? わたしの思想は足跡をのこさなかったので、わたしはその道をさがし出すことができない。わたしが考えていたのは何だったっけ? 今日はたいへん霞んだ日だ。わたしは孔夫子こうふうしのこの三つの文章をちょっとかんがえてみよう。それらはさっきの状態をふたたび呼びもどすかもしれない。わたしはそれが憂鬱だったのか湧きかかった恍惚だったのかおぼえていない。一つの種類には一つの機会だけしかない。
 詩人。――どうしたね、隠者君、まだかね? ぼくはちょうど十三匹の完全なやつをとったよ、ほかに不完全なのや小さすぎるのが幾匹かあるがね。そういうのも小さな魚ならまにあうよ。そういうのははりにかぶさりすぎなくていいんだ。村のミミズはあんまり大きすぎる。銀魚シャイナーなんか鉤までとどかないうちにそこからひと御馳走いただいてしまうからね。
 隠者。――そうか、では出かけるとしよう。コンコード河に行こうか。水が張りすぎていなければ有望だよ。

 なぜ、われわれが見るちょうどこれらの物が世界を形づくっているのだろうか? なぜ人間はちょうどこれらの種類の動物を隣人にもっているのだろうか? あだかもこの隙間をみたすものは鼠以外にはありえないように。わたしは、ピルパイとその仲間〔インドの古いおとぎばなしの作家たち〕は動物たちを極限まで利用したのではないかと思う。それらはみんなある意味で荷物をつけた獣であって、われわれの思想のどれかの部分を担わされているから。
 わたしの家に巣くっている鼠は、この国に輸入されたものとされている普通の種類ではなくて村には見られない野生の土着のものであった。わたしはそれを一匹ある高名な博物学者に送ったが彼はたいへんそれに興味をいだいた。わたしが家を建てたとき、それらの一匹は家の下に巣をもっていて、わたしが二度目の床を張り鉋屑かんなくずらいだす前には、昼飯どきにはきまって這いだしてきてわたしの足もとのパン屑をひろった。それはたぶんまだ人間を見たことがなかったらしかったが、やがてすっかり馴れてわたしの靴のうえを走り着物に這いあがってきた。動作はリスに似て、それと同じようにみじかい衝動的動作で部屋のかべを苦もなくのぼることができた。とうとう、ある日わたしがベンチに肱をもたせかけていたとき、それは着物に這いあがり袖をつたって、わたしの食事がのっている紙のまわりをぐるぐる走りまわった。わたしは食事をかくし、相手をよけて、それと「居ない居ないばあ」をしてあそんだ。そして最後にわたしが親指と人差指のあいだにひと切れのチーズをつまんでじっとさし出すと、それはやってきて、わたしの手のなかに坐ってかじり、そのあとで、蠅がするようにその顔と前肢をぬぐい退散した。
 京燕はまもなくわたしの物置に巣をつくり、駒鳥は家にさしかけた松の樹に宿りを求めた。六月にはシャコ(Tetrao umbellus)――これはたいへん人見知りをする鳥だが――が子供たちをつれてうしろの林からわたしの家の正面へと窓の前を、雌鶏のようにコッコッといって子供たちを呼びながら通りすぎた。彼女のすべての動作は彼女が森のなかの雌鶏であることを証拠立てていた。人が近づくと子供らは母鳥からの信号をうけてつむじ風にさらわれるように急に飛びたってちらばる。かれらは乾いた葉っぱや小枝に非常によく似ているので多くの旅びとたちはかれらのただなかに足を踏み入れて、母鳥の飛びたつ羽音とその心配そうな呼び声と啼き音とを聞き、彼女が彼の注意を惹くために翼を垂れるのを見ながら、近くに子鳥たちがいるとは気がつかないことがよくある。親鳥はときどき人の前でおそろしくしどけなくころげまわり、きりきり舞いをするので人はちょっとのあいだ、それがどういう動物なのか見さだめがつかないことがある。子鳥たちはじっと平たくなってうずくまり、首を葉の下に差しこむこともよくあり、遠くからあたえられる母鳥の指図だけを待っており、人が近よってもふたたび走って居場所をさとられるようなことをしない。人はそのうえを踏むことさえあり、またしばらくそのうえに眼をそそいでいてもそれと見わけられないこともある。そういうときにわたしはわたしの開いた手のなかにかれらをのせたことがあったが、それでもなおかれらの唯一の関心は母鳥と自分の本能とにしたがって、恐れたり震えたりせずにうずくまっていることであった。この本能はおそろしく完全なもので、かつてわたしがかれらをふたたび葉のうえにのせてやったとき、その一羽が偶然横に落ちたが、それは十分間後にも前と同じ姿勢のままで他のものといっしょにいるのが見いだされた。かれらはたいていの鳥の雛のように幼なびていず、もっと完全に発達していて鶏の雛よりもっと早熟である。その見ひらいた澄んだ眼のひどく大人びていてしかもあどけない表情はいかにも忘れがたいものである。すべての知慧はそこに反映しているようであった。それは幼年の清らかさだけでなく経験によってみがかれた叡智を暗示した。そのような眼はこの鳥が生まれたときにできたのではなく、それが映す空とともに存在していたのである。森はこのような宝石をほかには産しない。旅びとはこんなに澄みとおった泉に眺め入ることはめったにない。事情を知らない向う見ずな銃猟家はこんな時期に親鳥を打ち落とし、これらの無邪気な者たちをうろつきまわる獣や鳥の餌食におとしいれたり、かれらにそっくりな枯れ葉にまざって徐々に朽ちるにまかせたりする。にわとりかえさせると、かれらは何かにおどろくとたちまち飛び散ってそのまま行きがた知れずになってしまうそうである。かれらは自分たちをふたたび呼びあつめてくれる母の呼び声を決して聞かないからである。かれらはわたしの鶏であり雛っ子である。森のなかにいかに多くの動物が人知れず野生のまま自由にみ、しかも狩うどにうかがわれるだけで、都会の近所で命をつないでいるかはおどろくほどである。カワウソはここで何とひっそりと生きていくことだろう! 彼は身長四フィートぐらい、小さな少年ぐらいの大きさにそだち、おそらく人間の眼にふれない。わたしはかつてわたしの家の建てられたうしろの森のなかでアライグマを見たことがあるが、この頃でも夜かれらの啼き声らしいものを聞いたように思う。わたしはたいがい正午には種蒔きのあとで一、二時間木蔭でやすみ、そのあいだに昼めしをたべ、すこしばかり本を読んだ。そこはわたしの畠から半マイルはなれたブリスターズヒルの下から湧き出て、沼地と小流れの源となっている泉のそばであった。そこに往くには若いヤニマツのたくさん生えている草の茂った窪地をいくつかつづけて下り、沼地のほとりのより大きな林に出るのであった。そこには枝をひろげたシロマツの下の、たいへん奥まった日蔭になったところに、坐るに格好かっこうなきれいな堅い芝土がまだあった。わたしは泉を掘り出し、澄んだ灰色の水の井戸をつくり、水を揺らさないでもひと桶汲みあげることができるようにした。わたしはその目的のため夏のさかりの、池が最もあったかいときにほとんど毎日そこへ往った。そこへ山シギも子鳥をつれて泥のなかの虫をさがしにやってきた。子鳥たちの頭上わずか一フィートのところを飛びながら土堤を降りると、子鳥たちは一隊をなしてその下を走っていく。けれども母鳥はついにわたしを発見して子供たちをはなれ、わたしのまわりをぐるぐると舞いながらだんだんと近よりついに四、五フィートのところまでせまり、わたしの注意を惹くためにあだかも翼や脚を傷めたような格好をして見せ、その隙に子供たちをのがれさせようとするのだ。子供たちはすでに、母の合図にしたがって、かすかな細いピーピー声をあげながら一列縦隊で沼地を通って行進をはじめているのであった。母鳥の姿は見えないで子供たちだけのピーピー声を聞くこともあった。ヤマバトもまたそこへやってきて泉のふちにとまり、あるいはわたしの頭のうえにさしかけたやわらかいシロマツの枝から枝へと羽ばたくこともあった。手近の枝をつたって走り降りてくる赤リスは特別に人なつこく、せんさく好きであった。森のなかのどこか格好な場所にじっとしばらく坐ってさえいれば森じゅうのリスはかわるがわる見参におよぶであろう。
 わたしはもっと平和でない性質の出来事に立ち合ったこともあった。ある日わたしのまきの山――いや、むしろ掘りおこした切株の山に往ったとき、わたしは二匹の大きな蟻――一方は赤く、他方はもっとずっと大きくてほとんど半インチもある黒蟻であった――が猛烈にたたかっているのを見た。いったん取っ組むとかれらは決してはなれず、木切れのうえで絶えまなくたたかい、組み打ち、ころげまわった。さらに見わたしてみると、おどろいたことに、木切れの上はそういう格闘者でいっぱいで、正に決闘 duellum ではなくて戦争 bellum であった。蟻の二民族のあいだの戦争で、赤蟻はつねに黒蟻と取っ組み、二匹の赤が一匹の黒にかかっているのもちょいちょいあった。これらのミュルミドン〔トロイ戦争のときギリシャ方に味方した好戦的な種族〕の軍勢はわたしの薪置き場のすべての丘と谷とをおおい、地面はすでに赤黒双方のたおれたもの仆れつつあるものできちらされていた。これはわたしが目撃した唯一の会戦であり、戦いたけなわの際におとずれた唯一の戦場であった。必死の戦争だ。一方は赤の共和主義者であり他方は黒の帝国主義者である。どこを見ても、物音は少しも聞えないが死闘がつづけられており、これほどの決意をもって人間は決してたたかったことはないと思われた。わたしは木切れのあいだの日のあたっている小さな谷でおたがいに抱きあって堅くはなれないひと組を見まもった。この真昼の今から日が没するまで、あるいは生命が果てるまでたたかう覚悟と見えた。小さい方の赤蟻戦士は相手の胸元に万力まんりきのように喰いつき、この戦場における幾まろびのあいだも相手の一方の触角の根元あたりにかじりついて一瞬たりともはなさなかった。もう一方の触角はすでにみ切って打ち仆したのである。一方、もっと強い黒蟻は相手を左右に投げたおしていたが、わたしがなお近々と見たところによると、すでに敵の手足のいくつかをもぎ取っている。かれらはブルドッグよりも執念ぶかくたたかった。どっちも引き退く気配は毛頭なかった。かれらの合言葉が「勝利か死か」であることは明らかであった。とかくするうちに、この谷の斜面をただ一匹の赤蟻が気負いたったていでやってきた。すでに彼の敵をほふったのか、まだ戦闘に加わらなかったのか、手足がちゃんと揃っているところを見るとおそらく後者であろう。彼の母は「たてを持ってお帰り、でなかったら楯にのせられて」と彼をはげましたのであった。それとも彼は、ひとりはなれて憤りの念をもやしていたが、今や親友パトロクロスのあだを報じ、またはそれを助けるために打って出たアキレスなのかもしれない。彼は遠方からこの力の差のはなはだしい格闘を望み見た――黒側は何しろ赤の二倍の大きさであった――彼は急ぎ足で近より、格闘者たちから半インチ以内のところで立ちどまって身構えした。それから、機をうかがって黒の戦士にとびかかり、その右前脚の根元あたりめがけて攻撃を開始した。相手には自分のどの脚でもいいようにしろと任せて。かくてそこには三匹が命をかけてのからみあいがあった。組んではなれないことは、あだかもすべての他の錠前とか接着剤とかを顔負けさせる新種の接合物が発明されたかのようであった。この時にあたって、どこか見通しのきく高い木片の上に両軍それぞれの軍楽隊が配置されて、にぶる心を掻き立て、死闘をつづける戦士を鼓舞するためにそれぞれの国歌を奏していたとしてもわたしは別に不思議に思わなかったろう。わたし自身もあだかもかれらが人間であったかのように、いくらか興奮してきた。考えてみればみるほど両者の差違はだんだんすくなくなる。参戦人員の数からいっても、そこで示された愛国心や武勇からいっても、ちょっとでもこれと比較されるにえる戦闘は、アメリカの歴史はともかくとしても、少なくともコンコードの歴史にはたしかに記録されていない。数からいって殺戮さつりくからいってそれは一つのアウステルリッツもしくはドレスデンであった。コンコード戦闘! 愛国者側で二名が仆れ、ルーサー・ブランチャードが負傷しただけだ! ところがここではすべての蟻はバトリック少佐のごとく発砲を命じた――「射て! かまわぬ、射て!」――そして幾千がデーヴィスおよびホスマーと運命をともにして死んだ。そこにはただ一名の雇い兵もいなかった。かれらがたたかったのは、われわれの先祖と同じく主義のためにであって、自分たちのお茶に三ペニーの税金を課せられることをきらったためではないことをわたしは疑わない。そしてこの会戦の結果は、関係者にとっては、少なくともバンカー・ヒル会戦のそれとひとしく重要であり記憶すべきものであるだろう。
 わたしはわたしが特に記述した三匹がそのうえでたたかっている木片を取りあげ、家のなかにはこんで窓敷のうえにのせてコップをかぶせ成行きを見ようとした。拡大鏡を最初の赤蟻に当ててみると、彼は敵の一つ残った触角を噛み落としたうえで手近のその前脚に必死にかじりついていたが、自分の胸はすっかり喰いさかれ、なかの内臓は黒い戦士のあぎとに暴露されていた――その方の胸板はあまりに厚くてどうにも喰いやぶるすべがないらしかった――そして手負いの彼の眼の暗紅のザクロ石は戦いのみが燃やすことのできる兇暴さに燃えているのが見られた。かれらはコップの下で半時間たたかった。そしてわたしがふたたび見たときには黒戦士は二匹の敵の首を胴体から切りはなしてしまっており、そのまだ生きている二つの首は鞍の前輪につけた恐ろしい分捕り物のように、彼の両脇にぶらさがっていた。それらはそうなっても前と同じようにしっかりしがみついているらしく、黒蟻は二つの触角はおとされ一本の脚の一部のみがわずかにのこり、そのほかにどれだけの手を負うたか見当もつかないていたらくで、その二つの首をふりおとそうと弱々しい努力をしていた。もう半時間ばかりしてやっと彼はそれをなしとげた。わたしがコップをもちあげてやると彼はびっこをひきひき窓敷を越えて立ち去った。彼がこの合戦に結局生きのこって、余生をどこかのオテル・デ・ザンヴァリード〔ナポレオンの墓所になっているパリの癈兵院〕でおくったかどうかはわからない。しかし彼はその後はろくに働けなかったろうと思う。わたしはどっちの側に勝利が帰したかをついに知らず、この戦争の原因も知らない。しかしわたしはその日は一日じゅうわが家の前で人間が戦争するもがきと兇暴と殺戮とを目撃したことによって感情を刺戟しげきされさいなまれたように感じた。
 カービーおよびスペンスによると、蟻の合戦はむかしから有名であり、その年時の記録もあるが、近世の作家でそれを目撃したらしいのはフーバー〔一七五〇―一八三一年、スイスの博物学者〕だけだそうである。かれらの書物によるとこうある、「アエネアス・シルヴィウス〔一四〇五―六四年、法王ピウス二世のこと〕は、梨の木の幹のうえで大きいのと小さいのとの二種類の蟻によってはなはだ頑強にたたかわれた合戦の委しい叙述をしたあとで、こうつけ加えている――『この合戦はエウゲニウス四世法王時代に、有名な法律学者ニコラス・ピストリエンシスの面前でたたかわれ、彼は会戦の全体の顛末てんまつを最も忠実に記述した。』似たような大小の蟻の交戦がオラウス・マグヌス〔一四九〇―一五五八年、スエーデンの宗教家〕によって記されているが、そこでは小さい側が勝って味方の戦死者の死体を埋葬したが、巨きい敵方のそれらはそのまま鳥の餌じきとなるにまかせたそうである。この出来事はスエーデンから暴君クリスティエルン二世が追放される前に起こったことである。」わたしの目撃したのは、ポークの大統領時代、ウェブスターの逃亡奴隷法案の通過前五年におこったわけだ。
 食料貯蔵の地下室で泥亀でも追っかけまわすがせいぜいの多くの駄犬が、主人に内緒で森にでかけてその重たい四つ脚をひけらかし、古い狐の穴やヤマネズミの穴を無駄に嗅ぎまわった。かれらを率いる者はたぶん取るに足らない犬ころだが、森のなかをすばやく縫いまわり、それでもそこの住民に自然な恐怖を吹きこむに足るのであった。かれらは、時には、先導よりはるかに遅れて、難を避けて木に駆けのぼった小さなリスにむかって、犬である牡牛のように咆え、時には、兎族のはぐれた一員の跡を追っ駆けているものと自分を空想しながら、からだの重みで茂みをたわませながら飛び去るのであった。一度わたしは石の多い池のほとりを猫があるいているのを見てびっくりしたことがあった。猫が人家からこんな遠くさまよい出ることはめったにないからである。むこうもおどろいた。だが、一日じゅう敷物のうえに寝そべっているような最も家庭的な猫でも森のなかにきて結構おちつきすまし、その抜け目のない、こそこそした動作によって、森の定住者たちよりかえって場馴れがした観があった。あるときわたしは木の実を摘みに往ったところ、森のなかで、全く野生になった一匹の猫とその子たちとに行き会った。子猫たちは母親もろとも背中を立ててわたしにむかって猛々しく唾を吐いた。わたしが森に住むようになった数年前、池に最も近いリンカンの農家の一つであるギリアン・ベーカー方に、いわゆる「翼のある猫」なるものがいた。一八四二年六月、わたしが彼女――牡だか牝だか知らないのだが普通使われている代名詞を用いておく――を訪れたときには、彼女はいつもするとおり森に狩りにでかけていた。彼女の女主人は、こういう話をしてくれた――この猫は一年あまり前の四月にこのへんにやってきて結局この家に飼われることになった。色は濃い鳶色とびいろがかった灰色で、のどには白い斑点があり、脚も白く、狐のように大きなふさふさした尾をもっていた。冬になるとその毛皮が厚くなり両脚に沿うて長さ十インチないし十二インチ、幅二インチ半の帯になってはみ出し、あごの下も手ぬくめマッフのようになり、その上側はばらばらの毛であるが下の方はフェルトのようにかがり合っている。春になるとそれは落ちてなくなる。家の人はこのいわゆる「つばさ」を一対わたしにくれ、わたしは今でもそれを保存している。それには膜は見あたらない。これは飛びリス(ムササビのような)か、それに似た他の動物の血の交わったものだろうと考える者もあるが、ありうることである。博物学者によるとてんと家猫の交合によっていろいろなあいができているそうだから。わたしが猫を飼うのだったら正にこういう猫を飼うべきだろう。詩神のつばさある馬ペガサスのように、詩人の猫もつばさをもっていて良かろうではないか。
 秋になるとカイツブリ(Colymbus glacialis)がいつもやってきて池で羽毛の脱け換りをし、水を浴び、朝わたしがまだ起きないうちからその野性の笑いで森をひびかす。彼がやってきたうわさがつたわるとミル=ダムのすべての狩猟家は緊張し、一頭馬車や徒歩で、二人づれ三人づれで、特許銃と円錐弾と望遠鏡とをもって打って出る。かれらは少なくとも一羽のカイツブリに十人の割合で、秋の木の葉のように森じゅうをガサガサ音を立ててやってくる。ある者は池のこっち側、ある者はそっち側へと陣どる。このあわれな鳥は同時にあらゆるところにいるわけにはいかないから。もしここで水をくぐればかしこに姿をあらわさざるをえない。けれども今や心ある十月の風が吹きおこり、木の葉を鳴りさやがせ水のおもてにさざなみを立て、彼の敵どもが望遠鏡で池を見まわし、発砲して森を鳴りひびかしても、カイツブリは見えもせず聞かれもしない。波は深切にわきたち、怒るがごとく打ちつけてすべての水禽みずとりの味方をし、わが銃猟家どもは退却のやむなきにいたり、町に店に、やりかけの仕事にと帰るのである。しかしかれらが成功することもあまりに多いのである。朝早くわたしが桶に水を一杯汲みにいくと、しばしばこの堂々たる鳥が数ロッドのところをわたしの入江から泳ぎ出ていくのを見ることがあった。どうするかと思って、ボートで追っかけると、彼は水にもぐってまったく姿をかくし、時には夕方近くまでふたたびあらわれないこともあった。しかし水の表面ではこっちのものであった。雨が降ると彼はどこかに往ってしまった。
 ある十月のたいへんおだやかな午後、――そういう日には特にカイツブリはヤマニンジンの綿毛のようなすがたで湖水に下りているものであるが――わたしが北の岸あたりをいでいるとき、あたりを見まわしても一羽も見あたらなかったのに、突然わたしの前数ロッドのところを一羽が岸から湖心にむかって泳ぎながらその野性の笑い声をたて、わたしに発見されてしまった。わたしがかいをふるって追跡するとそれは水にもぐったが、ふたたび水面にあらわれたときには前よりもっとわたしのそばに出てしまった。彼はまたもぐった。わたしは彼の取る方角の見当をあやまったので、こんど水面に出たときは、わたしが間隔をひろげる助けをしたのもあって五十ロッドあまりへだたってしまった。彼はふたたび長く声高く笑ったが、こんどはもっともな理由があったわけだ。彼は非常に巧みに行動したのでわたしは十二ロッド以内には近づけなかった。水面にあらわれるごとに彼は首をあちこちに向けて、水と陸地とを冷静に測量し、最も大きい水のひろがりとボートから最大の距離があるところに出ようと進路をえらんだようであった。どんなに速かに彼が決心をきめ、その決心を実行にうつしたかはおどろくべきものがあった。彼はたちまちわたしを池のいちばん広いところにおびき出し、わたしはどうしてもそこから彼を追い出すことができなくなった。彼がその頭のなかで何かをかんがえていると、わたしの方はその考えを推測しようと試みるのであった。それは池のなめらかな表面でおこなわれる人間対カイツブリのおもしろいゲームであった。たちまち相手の駒は盤面の下に消える――問題は自分の駒をそれがふたたびあらわれるところに最も近く置くことであった。時には、どうもボートのちょうど下をくぐったらしくわたしの反対側にひょっこり現われることもあった。彼は息がよくつづきつかれることを知らず、ずっと遠くまで泳いで往ったにもかかわらず、そのままもぐってしまうことがある。そうなるとしずかな水面のどの深いところで彼が魚のように泳ぎ進んでいるのか、何としても判断がつかない。彼は池のいちばん深い底までもぐっていく時間と能力とをもっているのだから。ニューヨークの湖水では水面下八十フィートのところでマスのために仕掛けられた釣鉤つりばりでカイツブリがつかまえられたそうだが、ウォールデンはもっと深いのである。魚は自分たちの群のなかに別の世界からこの不細工な訪問者が突進してくるのを見てはさぞおどろくことだろう。が、彼は水のなかでも水面上とおなじによく進路がわかるらしく、またその方がずっと速くおよげた。一、二度わたしは彼が水面に近づいたところにさざ波がおこるのを見たが、彼はちょっと首を出してあたりの形勢をうかがい、ただちにまたもぐってしまった。わたしは、彼がどこにあらわれるか予測をこころみるよりは、櫂をとめて出てくるのを待った方がましなのを悟った。なぜならば、わたしが眼を凝らして水面の一部をにらんでいるときに、突然うしろに彼の気味のわるい笑い声を聞いてびっくりすることが何回となくあったからである。けれどもそんな巧妙さを示しながら、水面に出るたびごとになぜ彼はあの高笑いでいつも自分のいることを暴露しなければならないのだろうか? 彼の白い胸がすでに十分自分を暴露しているではないか。じっさい馬鹿なカイツブリだとわたしは思った。彼は水面に出るときにはたいがい、パシャッと水音をたてたのでそれによっても彼がいるのがわかった。しかし一時間後にも彼は相かわらずはつらつとしていて元気よくもぐり、最初のときよりもっと遠くまで泳いだ。水面に出るとすべての働きは水面下の水掻きのついた足にまかせて、胸元はすこしの乱れも見せずに悠々と泳ぎ去るのを見るのはおどろきにあたいする。彼の普通の鳴き声はこの悪魔的な笑いであったがそれでもいくらか水禽みずとりらしいところがあった。しかし時々、彼がわたしを最もうまくまき、ずっと遠くの水面にあらわれたときには、禽というよりはおそらく狼のそれに似た長く引かれた薄気味わるいえごえをたてた。ちょうど獣が鼻づらを地面にあてて本腰に咆え立てるときのように。これが彼のカイツブリ鳴きであった――それは遠く広く森に鳴りひびき、たぶんここで聞かれるいちばん野性的な音である。彼は自分の実力に自信があってわたしの努力をあざけって笑ったものだとわたしは結論した。空はこのときすでにすっかり曇ってきたが、池のおもては非常に澄んでいて、その鳴き声は聞こえなかったが彼が水面をやぶって姿をあらわすのが見えた。その白い胸、大気のしずかさ、水面のなめらかさ、はすべて彼に不利であった。ついに、五十ロッドあまりのところまで迫ると、彼はカイツブリの神に救いをもとめるように、あの長く引いた咆えごえをあげたが、たちまち東の風が起こって水面が波だち、あたりの空気は煙るような雨にみたされ、カイツブリの祈りが答えられ、彼の神はわたしに対して怒っているのだという感銘をうけて、わたしはついに立ちさわぐ池のおもてを彼が遠く消え去るのを手をつかねて見おくった。
 秋の日にわたしは、鴨が銃猟者を遠く避けて巧みに上手廻うわてまわしをし下手廻したてまわしをして中心部をはなれないのを何時間も眺めた――そういう才覚をはたらかすことはルイジアナの緩流バイウーではさほど必要がないのだろうが。飛び立たざるをえない場合に、かれらは時々かなりの高さでぐるぐる池の上を、空のなかの黒いごみのようにとびまわったが、そこからは容易にほかの池やコンコード河が見えるはずであった。そして、とっくにそっちの方に飛んで往ってしまったと思う頃に、かれらは四分の一マイルの斜め飛びをして、安全にのこされた遠い部分に舞いもどってくるのであった。けれどもウォールデンの真ん中を泳ぎまわることによって、安全のほかに何が獲られたのかわたしは知らない。かれらがわたしと同様の理由でここの水を愛するという以外には。
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煖房


 十月になるとわたしは川の牧草地にブドウ採りに出かけ、りょうというよりはその美しさと香りの点で珍重すべきふさをしょってきた。そこでわたしは、牧草の吊し飾りである真珠色や赤の小さな蝋のような宝石をつづるクランベリーの実をも、摘みはせずにただ眺めてたのしんだ。農夫はそれを殺風景な熊手でなめらかな牧草をかきみだしてもぎとり無雑作にただ何ブッシェルとか何ドルとか計り、かくしてボストンやニューヨークに牧草地の獲物を売り出す。それはジャムにつぶされ、そこの自然愛好者の味覚を満足させる運命にあるのである。同様に肉屋は草原プレーリーの草から野牛バイスンの舌を掻き取り、折られてしぼむ植物をかえり見ない。バーベリーのかがやく実も単にわたしの眼だけをやしなう食物であった。けれども土地の所有者や旅びとが見のがしている野生のリンゴは料理用のために少々摘みあつめて貯えた。栗が熟するとわたしは冬にそなえて半ブッシェルだけ貯えた。その季節に、際限のないあの頃のリンカンの栗林――それらは今は鉄道の枕木となって永遠のねむりについている――をさまよい歩くのはたいへん愉快であった。肩に袋をかけ、手にはイガをむくための杖を持って――わたしは必ずしも霜の時節まで待たなかったから――かさこそ鳴る木の葉と赤リスやカケスの声だかい咎め立てのただなかを行くのである。わたしはときどきかれらの半分喰いのこした実をぬすんだ――かれらのえらんだイガのなかにはきっとすこやかなのがのこっていたから。時には木のうえにのぼってゆすることもあった。栗はわたしの家の裏にもはえており、その一本の大木はほとんど家をおおっていたが、花時になるとそれはあたり一面を香らす花束となった。ただし実の方はリスとカケスに大部分してやられた。カケスは朝早く群をなしてやってきてイガから実が落ちる前にそれをついばんだ。こっちの方はかれらにまかせておいて、わたしは全部栗ばかりの遠方の林をおとずれたのである。これらの実はある程度までパンの良い代用となった。このほかにも多くの代用品がたぶん捜しえられたろう。ある日釣りの餌の虫を掘っていたときわたしはつるについたグラウンドナット(Apios tuberosa)を発見した。これは原住民のポテトであり、一種の伝説的果実であって、前にいったとおり、わたしはそれを子供のときに掘ってたべたことがあるのに、ほんとにそんなことがあったかしらと思うほどすっかり忘れていたのである。わたしはそれと気づかずに、その後、その縮んだ赤いビロードのような花がほかの植物の茎にささえられているのをたびたび見たことがある。開墾はほとんどそれを根絶やしにした。それは霜にあたったジャガイモによく似た甘みのある味がし、わたしの経験では焼くよりゆでた方が良いようだ。この塊茎は自然がいつか遠い将来に彼女自身の子たちをここで質素にやしない育てる、かすかな約束のように思われた。今日のような肥えた牛と波うつ穀物畠の時代では、かつてはインディアン族のトーテム〔世襲的に礼拝し、徽章とする自然物〕であった、このつつましやかな塊茎はまったく忘れられるか、あるいはただその花の咲いている蔓によってのみ知られている。しかし、野生の自然がふたたびこの土地を支配するとせよ、そうすればやわらかい、贅沢なニューイングランドの穀物はおそらく幾万の敵の前に消えてなくなり、人間の保護を受けなければカラスはトウモロコシの最後のひと粒をも、彼がそれをそこからもってきたといわれている南西部のインディアンの神の広大なトウモロコシ畠に運び返してしまうことだろう。そして今はほとんど根絶やし状態にあるグラウンドナットがおそらく霜と荒地とにもめげずに息を吹き返してそだち栄え、生えぬきの土地っ子であることを示し、狩猟種族の食物としてその重要さと品位とを恢復するであろう。インディアンの穀物神ケレスまたはミネルヴァがこの植物の発明者であり贈与者であったにちがいない。そしてここに詩の支配がはじまったときには、その葉と、つながった実とがわれわれの芸術作品のうえに表わされることにもなろう。
 すでに九月一日以前に、池の向う岸で、岬の鼻の水際、三本のハコヤナギの白い幹が分れ分れになっている場所の下で、二、三本の小さなカエデが真紅に染まったのを見た。ああ、その色は多くの物語りを語っていた! そして一週間一週間と次第にそれぞれの木の性格はあらわれてき、湖水のなめらかな鏡のなかに映った自分の姿に見惚れた。毎朝この画廊の世話人は壁のうえの古い画をはずし、一層かがやかしく、もしくは一層調和に富んだ色彩をもった新しい画を代りに懸けたのである。
 十月になると何千匹の地蜂が冬営をするためのようにわたしの宿に押しよせ、窓の内側や頭のうえの壁あたりに落ちつき、時には訪問者がはいってくるのをさまたげた。毎朝、かれらが寒さのため麻痺するとわたしはその幾匹かを掃き出したが、ことさらにかれらを追い出そうとはしなかった。かえってかれらがわたしの家を望ましい隠れ家と見なしてくれたのが悪くない気持にさえなった。かれらはわたしとベッドをともにさえしたが、一度もほんとにわたしを悩ましたことはなかった。かれらは冬ときびしい寒さとを避けて次第にどことも知れない隙間へと姿を消してしまった。
 地蜂と同様に、いよいよ十一月になって冬ごもりをする前に、わたしはウォールデンの北東側に何度となく往きつけるのであった。太陽はそこをヤニマツの林と石の多い岸からの反射によってこの池の煖炉としたのであった。人工の火によるより、それができるあいだは、太陽によってあたたまる方がずっと愉快でもあり健康的でもあった。わたしはこうして夏が、立ち去った狩うどのようにのこしておいた、燃えのこりのおきで煖まったのである。
 いよいよ炉をつくることになってわたしは石工の術をまなんだ。わたしの煉瓦は古物なのでこてで掃除する必要があり、そのためにわたしは煉瓦やこてというものの性質に並々ならず通じるようになった。あいだをつないでいる漆喰しっくいは五十年もたったもので、今でももっと固くなりつつあるといわれていた。しかしそういうことは人がとかく真偽をたしかめずにただいい触らしたがる口上の一つである。そういう口上そのものが年を経るとともに一層固くなりつよく膠着こうちゃくするものであって、物識り顔からそういう謬見びゅうけんをこそぎおとすにはよっぽど鏝でごしごしやらなければならない。メソポタミアの多くの村々は、バビロンの廃墟からえられた非常に良質の、昔使われた煉瓦でできており、そのセメントはより古く、またたぶん一層堅い。それはともあれ、わたしはそんなに多くのはげしい打撃に堪えて少しも磨滅しない鋼鉄というものの特別な強さに心をうたれた。そのうえにバビロン王ネブカドネザルの名こそ刻まれていないが、わたしの煉瓦は以前は炉につかわれていたものだから、わたしは焚き口用の煉瓦をできるだけ多く拾い出して手間と無駄とをはぶくことにし、焚き口のあたりの煉瓦と煉瓦との空間は池の岸の石でふさぎ、また同じ場所から取った白い砂で漆喰をつくった。わたしは家の最も肝腎な部分として炉に最も多く手間をかけた。非常に慎重に仕事をしたので朝地面からはじめたのが夜になって床からわずか数インチ高まった一層の煉瓦が枕の役に立ったのであった。だが、わたしはそれがために首がこわばった記憶はない。わたしの首が硬いのは昔からのことだ。ちょうどその頃わたしは一人の詩人を二週間ばかり同居させたが、そのため手狭てぜまでこまったのであった。彼は自分のナイフを持ってき、わたしも二挺もっていたので、二人はそれを地面に突っこんでぐのをつねとした。彼は炊事の労をわたしと分担した。わたしはわたしの仕事が徐々にそんなに四角にそして頑丈に高まっていくのを見てうれしくなり、その進捗が遅いだけに長くもつはずだというふうに考えてみた。炉は地面のうえに立ち家を抜けて天にむかって立つ、ある程度まで独立した構築である。家が焼けてしまっても往々にして立ちのこるし、その重要さと独立性とは明白である。以上は夏の終わりのことで、今は十一月である。

 北風はすでに池を冷やしはじめた。しかし、それをすっかりしおわせるまでには幾週間も吹きつづけなければならなかった。池が深いからである。晩に火を入れはじめたとき、まだ家の壁塗りをすまさなかった前は、板張りのあいだの隙間が多かったので炉から煙の出ぐあいがことに良かった。しかしわたしは、節だらけの荒けずりの樺色の板や、頭上高くにある樹皮のついたままのはりにかこまれて、この涼しく風通しのよい部屋でたのしい幾夜かをすごした。壁塗りがすんだあとは、さすがに一層居ごこちがよいと告白しなければならないが、見た眼には前ほどおもしろくなくなった。人間の住むすべての部屋は十分高くて頭のうえに幾らかの暗がりをのこし、そこのはりのあたりに夜はゆらめく火の影が映りゆらぐべきではないだろうか? そういう物の形の方が壁画とかそのほかのたいへん高価な家具より人の空想や想像力をこころよくそそるものである。雨露をしのぐだけでなく煖を取るようになって、わたしは今こそはじめて自分の家に住むようになったのだともいいうる。わたしは薪を焚き口からへだてる古い一対の薪架まきうまを手に入れた。自分でつくった炉の奥にすすがたまるのを見るのは気持のよいものであり、わたしは平生以上の権利と満足とを感じて火を突っついた。わたしの住宅は小さいもので、物音の反響などができる余地はほとんどなかった。しかし、部屋がたった一つであり隣家からも遠かったので割に大きく感じられた。家というもののすべての魅力はただ一つの部屋に集約されていた。それは台所であり、寝間であり、客間であり、居間であった。親なり子なり主人なり召使いなりが家に住まいすることから引き出しうるあらゆる満足をことごとくわたしは味わった。カトーは、一家の主人 Patremfamilias はその田舎の別荘において「油と酒との穴蔵、多くの樽をもたねばならぬ。そうすれば困ったときがきても心づよいものである。それは彼の利益にもなり力にもなり、名誉にもなるであろう。」“Cellam oleariam, vinariam, dolia multa, uti lubeat caritatem expectare, et rei, et virtuti, et gloriae erit.”といった。わたしは穴蔵にジャガイモの小さいひと樽と、コクゾウ虫のまじったエンドウ豆二クォーツ〔一クォーツは約一リットル〕ばかりとをもち、棚には少量の米、糖蜜ひとびん、ライ麦とトウモロコシとの粉をおのおの一ペックあまりをもっていた。
 わたしは時々、人類の黄金時代にたてられた、もっと大きく、住み手も多い、見かけを飾ってはないが耐久力のある材料でできていて、しかもやはり唯一室から成っている家を空想することがある。大きな、荒けずりの、がっしりした原始的な広間で、天井も塗り壁もなく裸の垂木たるきと横木とが、いわば、より低い天を頭上にささえており、それが雨や雪をふせぐ役をしているのである。敷居をまたいで、古い王朝の、這いつくばったサトゥルヌス神の像の前でおがむことがすむと、そこの王垂木キング・ポースト女王垂木クイーン・ポーストとはあなたの敬礼を待ちうけて立っている。洞窟のような家で、屋根を見るためには竿の先のたいまつをさし上げなければならない。この部屋では、人は炉のなかに巣くうこともできるし窓の隅や長椅子のうえにうずくまることもできるし、広間の一方の隅、他方の隅に陣どることもできるし、お好みなら高い垂木のところで蜘蛛と同居してもよい。そと側のドアを開けばもう部屋のなかには入っているので、それ以上の儀礼はいらない家である。疲れた旅びとはそれ以上足をはこばないで、手足をあらい、物を食べ、語りあい、眠ることができるのだ。嵐の夜にたどりついて真実うれしいと思える避難所で、家として必要なものはすべてそなわり、しかも家政のための道具は一つもない。家の宝は何から何までひと眼で見わたせ、人が使うべきあらゆるものはちゃんと釘にかけてある。台所、食料室、客間、居間、倉庫、屋根裏、すべて一つで兼帯している。大樽とか梯子とかいう、ごく必要な品、戸棚のような便利なものもちゃんと見えているし、薬罐やかんが煮たつのも聞こえ、晩めしを料理してくれる火、パンを焼いてくれるオヴンに敬意を表することもでき、必要な家具と道具とが主な飾りとなっている。洗濯物も火も女主人もみな部屋のなかにあり、時には、料理番が地下室に降りていくので、揚げぶたのところからどいてくれと要求されることもあろう。それで足を踏んで見なくても地面がそのままか、くり抜いてあるかがわかってしまうのだ。内側は鳥の巣のように開けっぱなしで見とおしの家で、表戸から裏戸にくぐり抜ければその住み手たちが見えてしまう。そこの客になることはその家の自由を提供されることで、どれか一つの部屋にとじこめられ、家の八分の七から注意ぶかく隔離されて孤独の幽閉において、どうぞ御自由に、といわれることではない。当今では主人はあなたを彼の炉ばたに請じない、彼の裏どおりのどこかにあなたのために一つの炉を石工につくらせておくのであって、客あしらいというのは客を最大の距離にとおざけておく技術となった。主人は客を毒殺しようとたくらんでいるのかと思われるほど、料理は秘密にされている。わたしは多くの人間の所有地内に立ち入り、法律上退去を命じられるかもしれない立場にあったことは記憶しているが、ほんとに人の家にはいったことはあまり思い出せない。わたしはもしそっちの方についでがあったら、わたしが右にのべたような家で単純にくらしている王と女王とを着古したふだん着で訪れる気になるかもしれないが、もし近代の王宮におしこめられたとしたら、ただそこから抜け出す工夫くふうのみを知りたがることであろう。
 どうも、われわれの客間パーラーの言葉そのものがすべてのその活力をうしなってまったくお愛想パーレーヴァーに堕落してしまうのではないかと思われ、われわれの生活はその象徴シムボルからそんなに遠方を通り去り、その隠喩や譬喩ひゆはいわば食堂への料理運搬機を通じて必然的にはなはだ遠まわしになり、こじつけになっている。いい換えれば、客間は台所や仕事場からそんなに遠ざかっているのである。食事さえも普通は食事の譬話たとえばなしにすぎない。そこから譬喩を借りきたることができるほど自然と真実とに十分近く住んでいるのはただ野蛮人だけであるかのようだ。遠く北西地方だのマン島だのに住んでいる学徒がどうして台所の議会で何が問題になっているかわかろうか?
 しかしわたしのところに長居して即席のプッディングを食うほど勇敢だったのは一、二の客にすぎなかった。かれらはその危機が近づきつつあると知るとあわてて退却におよんだ。あだかもそれが家の土台までゆすり立てるかのように。だが、この家は今までに何度となくくり返された即席プッディングにえているのである。
 わたしは陽気が凍るようになってはじめて壁塗りをした。わたしはこの目的のために池の対岸から舟にのせて白い、きれいな砂をはこんできた。この輸送方法は、必要ならばもっとずっと遠方まで行ってもかまわない気持になるほどおもしろいものであった。そのあいだにわたしの家は四面とも地面まで板張りができた。木舞こまいをつける際には金槌かなづちのひと打ちで釘をすっかり打ちこむことができるのをおもしろく思った。その次には、壁土をこね板から壁にきれいに速く移すのが、わたしの野心となった。わたしは、立派な着物を着こんで村を押しあるき、職人に助言をあたえる癖があった、ある自惚家うぬぼれやのはなしを思いだした。彼はある日、口先きだけでなく実地に模範を示そうとくわだて、袖をまくりあげ、左官屋のこね板を引ったくって、難なくこてに土をのせて、自信たっぷりの顔つきで頭上の木舞を見さだめ、それをめがけて大胆な動作におよんだ。たちまち中味はそっくり彼の襞飾りをした胸におちかかって、完全に味噌をつけてしまったのである。わたしはそんなに有効に寒さを閉め出し、いかにも立派な仕上げとなる漆喰塗りの効率と便益とをあらためて感服し、また左官屋がおちいりやすい各種の失敗がどんなものであるかを知った。煉瓦というものがたいへん乾いていて、まだ平らにらさないうちから漆喰の水分を吸いつくしてしまい、新しく炉を築くには手桶に何杯もの水が入用なのを知っておどろいた。わたしは前年の冬に一つの実験のつもりで、そのへんの川に産する Unio fluviatilis の貝を焼いて少しばかりの石灰を作ったことがあった。だからわたしはどこからわたしの原料がきているのか見当がついた。わたしはそうする気があったら一、二マイルの近在で立派な石灰石を入手して自分で焼くこともできたのである。

 そのうちに池が一面に氷ってしまう数日前、いや数週間も前から、そのいちばん日蔭になった、そしていちばん浅い入江ではうわ氷が張りつめた。最初の氷は特に興味あり、完全なもので、堅く黒っぽく透明で、水の底の浅いところをしらべて見るのに絶好な機会をあたえた。わずか一インチ厚さの氷のうえに、水面のミズスマシのように長々と寝そべり、ゆっくりとわずか二、三インチ先の底をガラス越しの画のようにながめることができる。その際水はもちろんいつも静かである。砂地には何かの動物が歩きまわったり、その辿った道を引き返したりした跡の多くの溝ができている。残骸としては白い石英のこまかい粒でできているトビケラの幼虫の殻がばらまかれている。かれらの殻が溝のなかにいくつか見出だされるから、たぶんかれらがこのしわをつくったのであろう。それにしてはずいぶん深くて幅もひろいのであるが。しかし氷そのものは最も興味のある対象である。ただし、それを研究するには最初の機会をのがさず利用しなければならない。氷が張った翌日の朝それを仔細にしらべて見ると、はじめはその内部にあるように見えた泡の大部分は下の表面にくっついていること、そして別の泡が絶えず底からのぼっていることがわかる。そのとき氷はまだ比較的実質的で暗色をおびている、すなわち、それを透して水が見えるのである。これらの泡は直径は一インチの八十分の一から八分の一まであり、たいへん澄んで美しく、氷を透して人の顔が映る。そういうのが一平方インチに三、四十個もあろう。氷の内部にも長さ約八インチで尖端を上にした鋭い円錐形をなした細長い垂直な泡がすでにできている。氷が新しいならば、こかい球形の泡が数珠玉じゅずだまのように上下に積みかさなっている場合の方が多い。しかしこれらの氷の内部にあるものはその下にあるものほど数が多くなく、またそれほど目だちはしない。わたしはときどき氷の強さをためして見るために石を投げつけたことがあったが、氷を突き抜いた石はそれとともに空気をはこびこみ、それが非常に大きく、目だった白い泡となって氷の下にくっついた。ある日、四十八時間後におなじ場所に往ってみると、それらの大きな泡はまだ完全な形でのこっていた。氷のかたまりのはじに見える条目すじめによってさらに厚さ一インチの氷が新たにできたのがはっきりわかったが。しかし最近の二日間が小春日和こはるびよりのようにたいへん暖かかったので氷は水の暗緑色と底とを示した透明さをうしなって不透明な白味がかった灰色となり、厚さは二倍になったが前より強さは増したように思えなかった。それは空気の泡が温気のために大いに膨脹し、いっしょにくっつきその規則正しさを失ったからである。泡はもはやちゃんと積みかさなっていず、袋からあふれだした銀貨のようにななめにずれてかさなり、あるいはわずかな隙間を占めているような薄い剥片になっていた。氷の美しさはもはやなく、水底をしらべる時期もすでに去った。例の大きな泡はこの新しい氷のなかでどんな位地を占めているかと好奇心をおこして、わたしは中ぐらいの泡をふくんでいる氷塊をくだいて取り出し、裏がえしてみた。泡のまわりと下に新しく氷が張ったのでそれは二つの氷のあいだにはさみこめられていた。それはそっくり下の方の氷のなかにはまりこんでいたが上のにぴったりついており、やや平たく、あるいは幾分扁豆形であるというべきかもしれず、はじは丸っこく、厚さは四分の一インチ、直径は四インチあった。おどろいたことに泡の直下では氷が非常に規則的に敷皿を伏せた形に解けていた。それは中央部では八分の五インチの高さがあり、泡と水との間には八分の一インチとはない薄い隔壁がのこされていた。この隔壁の多くの場所においては小さな泡が下方にはじけ出していた。直径一フィートもある、いちばん大きい泡の下ではたぶん氷が全然なくなっているのだろう。わたしが最初に見た氷の裏側にくっついていた無数の小さな泡は今では同様に氷で封じこめられ、各自それぞれの程度に、天日取りレンズのように下の氷を解かし、むしばむはたらきをしたことと推測される。それらは氷を割れはじけさせるに役だつ小さな空気銃である。

 とうとうわたしがちょうど漆喰塗りを終わった頃、冬が本式におとずれ、風は待ちかまえていたように家のまわりで咆えはじめた。夜ごとに――地面が雪でおおわれた後まで――鵞鳥は闇のなかを鳴きながら翼で鋭い音をたてて渡ってき、メキシコへの途上、あるものはウォールデンに降りたち、あるものは森を低くかすめてフェア・ヘーヴンに向かった。夜十時か十一時ころ村から帰ってきたとき、わたしは何度か家のうしろの小さな池のそばの森の中の枯葉を踏む、餌をあさりにきた鵞鳥――ことによると鴨かもしれない――の群の足音と、いそいで立ちさる先頭の一羽のかすかな鳴き声とを聞いた。一八四五年にはウォールデンは十二月二十二日の夜にはじめて全面的に氷った。フリント池やその他もっと浅い池や河は、十日もそれ以上も前に氷っていた。四六年には十六日に氷った。四九年には三十一日頃に、五〇年には十二月二十七日頃に、五二年には一月五日に、五三年には十二月三十一日に氷った。雪はすでに十一月の二十五日から地をおおい、たちまち冬景色でわたしをかこんでしまった。わたしはわたしの殻のさらに奥に引っこみ、家のなかにも胸のなかにも赤い火を絶やすまいとつとめた。わたしの戸外の仕事はさしあたり森のなかの枯木をあつめ、手にもち肩にかつぎ、時には両脇に枯れた松の木を引きずってわたしの小舎までもってくることであった。むかしは歴としていた古い木柵は大きな獲物であった。それはもう境界の神テルミヌスの役に立たなくなったからわたしはそれを火の神ウルカヌスにささげた。自分の晩めしを料理するための燃料をあさる――いや、盗むといってもよい――ために雪のなかに出て往くような男の晩めしはいかにも興味あるものであろう。彼のパンと肉はうまい。われわれのたいていの村の森には多くの家の火を燃やすに十分なほど、いろいろな種類の薪や屑木があるが、現在は誰をもあたためず、かえって若木の成長をさまたげていると考える人もある。そのほかに池の流木がある。夏のあいだにわたしは、鉄道が敷かれたころアイルランド人によってゆわえつけられた、樹皮のままのヤニマツ材の筏を発見した。わたしはそれを岸に半分引き上げた。二年間水に漬かり、それから六カ月間陸にあげられていたそれは、どうしても乾かないほど水がみこんではいたが、全くしっかりしていた。ある冬の日、わたしはこれを一本ずつにしてほとんど半マイルのあいだ、池を横切ってすべらせておもしろがった。わたしは後から十五フィートある材木の一端を肩にあて、他端を氷につけて滑っていったのである。あるいは幾つかの材木を樺の小枝でいっしょにくくり、それからはじにかぎをつけた長めの樺またはカワラハンノキをつかってそれを引きずった。すっかり水が泌みこんで、ほとんど鉛のように重かったがそれは火もちが良かったばかりでなく、たいへん火力もつよかった。わたしは水が泌みこんでいるから良く燃えるのではないかと思った。ちょうどヤニが水のなかにとじこめられて、ランプの中でのように長燃えするらしく。
 ギルピンはイングランドの森林境いに住む人々についての記述中で、「侵入者の蚕食さんしょくと、そうして建てられた森林境いの家や柵は、昔の森林取締法によって非常な妨害とかんがえられ、鳥獣をおびえさせ、森林を害する傾きのあるもの、として不法森林占拠 purprestures の名の下に厳重に罰された」といっている。しかしわたしは自分が領主殿彼自身であるかのように、猟師や木伐きこり以上に鳥獣や樹木の保存に関心をもち、もしその一部が焼けでもしたら、わたしがあやまって焼いた場合でさえも、その森林の所有者よりももっとくよくよと長いあいだそれを哀惜した。いや、所有者自身によってたおされたときにも悲しんだ。わたしはわが国の農夫が林を伐り開くときには、むかしのローマ人が「聖なる森」(Lucum conlucare)に斧を入れるときのように、それが何かの神にとって神聖であるのだとおもって恐懼の念をもってすることをのぞむのである。ローマ人は贖罪しょくざいのささげ物をし、「この森にこもります男神または女神は、どなた様かは存じませんが、わたくしとわたくしの家族、子供たちをおめぐみくださいませ、云々」との祈りをささげた。
 今の時代、この新しい国においてさえ、どれほどの価値が――黄金のそれよりも恒久的で普遍的な価値が――まだ薪に附せられているかはおどろくべきものがある。すべてのわれわれの発見発明にもかかわらず誰も一束の薪のそばをそ知らぬ顔で通りすぎはしないであろう。それはわれわれのサクソン民族やノルマン民族の先祖にとってあったとおなじようにわれわれにとって貴重なのである。かれらが木で弓を作ったとすればわれわれはそれで銃床を作っている。ミショー〔一七四六―一八〇二年。フランスの植物学者〕は三十年以上前に、「ニューヨークやフィラデルフィアにおける燃料としての薪の値段はパリの最上等品の値とほとんど同じで、時にはそれより高い。この広大な首都は年々三十万コード〔一コードは約三・六立方メートル〕以上の薪を必要としており、しかも三百マイルにわたって耕作地にかこまれている地勢なのだが。」われわれのこの町では薪の値段はほとんど上がる一方であり、問題はほとんど今年は昨年よりどれだけ上がるかということだけである。他に用向きがあるわけでもないのに自身で森にやってくる工員や商人は、かならず森の競売に顔を出し、木伐りの伐り屑を拾いあつめる権利に対してさえ高い代価をはらう。人間が燃料や、さまざまな工作の材料を森にあおぐようになってから長い年月になる。ニューイングランド人やニューオランダ人、パリの市民やケルト種族、農夫もロビン・フッドも、グッディ・ブレークもハリー・ジルも、世界の大部分における王侯も土百姓も、学者も野蛮人もひとしく今なお、煖をとり食物の調理をするために森から取ってきたひとかかえの薪を必要とする。わたしとてもそれなしではすごされない。
 だれでも自分の薪の山を一種の愛情をもって見る。わたしは好んでそれをわたしの窓の下に置いておいたが、木切れが多ければ多いほどそれはわたしに愉快な仕事を思い出させるに一層役だった。わたしは誰のものともわからない古い斧をもっていたが、それをふるって冬の日にしばらくの時間ずつ家の日あたりのよい所で、わたしが豆畠から掘りだした根株とたわむれた。わたしが耕していたときに例の馭者が予言したとおり、それはわたしを二度煖めた。割っているときと燃やしているときで、つまりこれ以上熱をあたえる燃料はないわけだ。斧の方は、村の鍛冶屋にそれをすげさせジャンプたらよかろうという助言もあったが、わたしは彼を飛ばしてジャンプ自分で森から取ってきたヒッコリーの柄をつけて間にあわせた。切れあじはともかく、柄はしっかりしたものだ。
 あぶら松のすこしばかしは大した宝物であった。地面の内部にこの火のたきつけがまだどれだけかくされているか考えてみるのは興味あることだ。先年わたしはヤニマツが以前生えていた、今は裸になっている丘をたびたび「見てまわり」、あぶら松の根を掘りだしたことがあった。それはほとんど腐らないものであった。すくなくとも三、四十年たっている株でも外側部はほとんど腐植土になってしまっていても芯はちゃんとしていた。そのことは、中心から四、五インチの距離に地面と同じ高さの輪をなしている厚い樹皮のさやによって判る。斧とシャベルで探って、金の鉱脈をさぐりあてたかのように、地中深く、牛肉の脂のように黄色いその芯の部分を掘り出すのである。けれどもふだんはわたしは、雪がふる前に物置にたくわえておいた森の枯葉で火をたきつけた。木伐りは森で野営するときにはほそく割った緑のヒッコリーをたきつけにした。たまにはわたしもそれをすこし用いた。地平線のかなたで村の人々が火をたきつける頃はわたしも、わたしの煙突からほそい煙りを吹きなびかせてウォールデンの谷間のいろいろな野生の住民にわたしが起きていることをつげ知らせた――

「軽いつばさの煙りよ、
のぼりいくにつれておのがつばさを溶かすイカロスにも似た鳥よ、
おのが巣である村々のうえをめぐる
歌わぬひばり、あかつきの使者よ、
あるいは、去りゆく夢か、真夜中のまぼろしの
影のすがたがもすそをかかげるのか。
夜は星をおおい、ひるは
光りをくらくし日をかくす
この炉よりたちあがるわが香煙よ、のぼり往け、
そして神々にこの明るいほのおを許したまえとねがえ。」

 あんまり用いなかったが、切ったばかりの堅い生木なまきはどのほかのものにも増してわたしの目的にかなった。わたしはときどき冬の午後、ひとあるきするときにたっぷり火を起こしておいた。三、四時間後に帰ってきてみるとまだ燃え火がのこっていた。わたしがいなくてもわたしの家は留守番がいるのだ。気持のよい家政婦がいるようなものだ。ここに住んでいるのはわたしと火とであった。そしてたいがいのばあい、わがハウスキーパーは信用がおけた。しかし、ある日、わたしが薪を割っていたとき、わたしは、ふと家が燃えていやしないかと窓からのぞいてみる気になった。これは火の用心が気にかかった唯一のばあいであった。見ると火花がわたしの寝床に飛んでいるので、はいっていって、手のひらの大きさぐらい焼けこげたところで消しとめた。しかしわたしの家は日あたりがよく風のあたらない所を占めており、屋根も低いので冬の日でもほとんどいつも昼日なかは火を絶やしておけた。
 モグラはわたしの地下室に巣をつくり、ジャガイモを三つに一つの割でかじり、壁塗りの際にのこった毛と鳶色とびいろの紙とでそこに寝ごこちのよさそうな寝床をつくりさえした。最も野生的な動物だって人間とおなじように居ごこちのよさとあたたかさを愛するものなので、それをうるために十分気をつかうからこそ冬がしのげるのである。わたしの友人のある者どもは、わたしがわざわざ凍え死にをするために森にやってきたかのような口ぶりを洩らした。動物はただ寝床をつくるだけで、それをかくまわれた場所で自分の体温であたためるのだ。しかし人間は火を発見したので広い部屋でその空気を囲い、自らの体温をうばうかわりにそれをあたため、それを自分の寝床にしてそのなかではかさばった着物を着ずにうごきまわることができ、真冬のさなかに一種の夏をたもち、窓によって明かりさえ通し、ランプによって一日を継ぎ足す。かくて彼は本能の範囲からひと足ふた足を踏み出し、すこしばかりは芸術のための時間をひねりだす。長い時間ひどい寒風にさらされたときは全身が無感覚になりはじめるが、わたしの家のあたたかい空気にとびこみさえすれば、じきに人ごこちを取りもどし命に別条ないのである。しかしこの点では最も贅沢な住居をかまえている者も大して自慢すべきものをもっておらず、また人類がどうしたらついに絶滅されるかについて頭をひねる造作もいらない。北からもうすこしばかり身にこたえる風が吹きさえすればいつでもかれらの生命の糸を断ち切ることはたやすいことだ。われわれは「寒い金曜日」や「大雪の日」から日を数えつづけるが、もうちょっとばかり「寒い金曜日」が、もうちょっとひどい「大雪」がありさえすれば、地球における人間の存在に終止符がつけられるであろう。
 翌年の冬は、わたしは森を所有していないので、倹約のために小さな料理用ストーヴを用いた。しかしそれは開いた炉ほどは火もちがよくなかった。それに料理は概してもはや詩的ではなく単に化学的な操作になってしまった。この頃のようにストーヴの時代になっては、われわれがインディアンの流儀で灰のなかでジャガイモを焼いたことなどはじきに忘れられてしまうだろう。ストーヴは場所をふさぎ家を臭くするだけでなく、火が見えなくなるので、わたしは相棒を失ったような感じがした。火には常に顔が見える。労働者は夜それを見つめて、一日のうちに自分の身にこびりついたかすと土臭さからわが思いを清めるのである。しかしわたしはもはや坐って火にながめ入ることができなくなり、ある詩人の適切な言葉が新しい力をもってわたしによみがえってくるのであった――

「あかるい炎よ、お前のなつかしい、人生を映す、身ぢかな同情は
わたしに拒まれてはならない、
わたしの希望のほかの何がそんなに燃えさかったであろうか、
わたしの運命以外の何がそんなに夜、消えしずんだであろうか
なぜお前はわれわれの炉と広間から追いはらわれたのか
みんなに歓迎され愛されたお前が?
かくも単調なわれわれの生活の平凡な光りには
お前の存在はあまりに空想をそそるものだった、
お前のあかるいかがやきはわれわれ気の合った魂たちと
神秘な交わりを、あまりに大胆な秘密を、取りかわしたのか?

まあ、よい、われわれは新式の炉のそばで安全かつ健在だから。
ここではうす暗いかげがかすめず
何物も心を浮き立たせたり沈ませたりせず
火があって手足をあたためるだけ――それ以上にのぞみをせることもない。
この炉のまとまりのよい実用的なかたまりのそばで
今の者は坐りこみ、眠りにつくことができる――
うす暗い過去から立ちあらわれ、昔風の薪のちらちらする光りのそばで
われわれと語らった幽霊どもをおそれることもなく。」
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先住者――および、冬の訪問者


 わたしは何度かたのしい吹雪をしのぎ、戸外では雪がすさまじくうずまいて、ふくろうのホーホー声も途絶えたのに炉のそばで愉快な冬の幾さをすごした。幾週間もわたしは、ときおり薪を切りだしそりで村にはこぶためにきた人間のほかには道で逢うことがなかった。しかし自然はわたしをそそのかし森のごく深い雪のなかに道をつくらせた。なぜならばわたしがそこを一度通ったとき、風がわたしの足跡に樫の葉を吹きつけたところ、その葉はそこに溜まり、日光を吸収して雪をとかし、わたしが踏む乾いた地面をつくったばかりでなく、夜はその暗い一線が道しるべとなったから。人間の仲間としては、わたしはこのあたりの森の以前の住民を思いうかべるほかなかった。わたしの町の多くの人が記憶している範囲内でも、この家が立っている近くの道は、住民の笑いとおしゃべりでさざめき、両側の森はかれらのささやかな庭や住居によって刻み目をつけられ点々を入れられていたことがあったのである。ただしその道は当時は今よりはるかに森でたてこめられていた。わたし自身の記憶しているところでも、所によっては松が馬車の両側に同時にこすれることがあり、この道をひとりで徒歩でリンカンに行かねばならない女や子供はこわがりながら歩き、その相当部分をけぬけることもよくあった。主として、近所の村にかようため、または森の住人の連畜のための小規模な通路であったが、むかしは変化に富んでいたので今よりは旅びとをよろこばせ、その記憶にもっと長くとどまった。今、村から森にかけてちゃんと開けた畠になっているところに、当時はカエデの生えている沢地をとおして丸太を敷いたうえに道が通じていた。その丸太の残りはまだ、ストラットン(今のアームズハウス)ファームから、ブリスターズ・ヒルに至る現在の埃っぽい公道の下に横たわっているにちがいない。
 わたしの豆畠の東、道の向う側にはコンコード村の紳士ダンカン・イングラハム氏の奴隷ケートー・イングラハムが住んでいた。氏は自分の奴隷に家を作ってやりウォールデン森に住む許可をあたえたのである。ローマのそのむかしのウティカの住人ケートー〔カトー〕ではなくコンコードの住人のケートーである。彼はギニアのネグロであったという人もある。クルミの樹のあいだにあった彼の小さな畠をおぼえている人も少数ながらいる。彼はその樹を年寄りになってそれが入用になるときにと茂らせておいた。けれども彼より若く、もっと皮膚の白いやま師がついにそれを手に入れてしまった。その男も今では同じように狭い所にはいっている。ケートーの半分埋もれた地下室の穴は今でも残っている。松がへりに生い茂って旅びとの眼から隠しているので知っている者はすくないが。それは今では滑かなヌルデ(Rhus glabra)ですっかりおおわれ、最も早生わせのアキノキリン草(Solidago stricta)がそこで見事にそだつ。
 もっと町に近く、わたしの畠のすぐ角のところに黒人の女のジルファが彼女の小屋をもっていた。そこで彼女は町の人のためにリンネルを紡ぎながら、ウォールデン森をその鋭い歌声でこだまさせた。彼女は甲高かんだかい特色のある声をもっていた。のち、一八一二年の戦争に彼女の家は宣誓を立てて解放された捕虜の英国兵によって彼女の留守のまに放火され、彼女の猫も犬も雌鶏もみんないっしょに焼けてしまった。彼女はつらい、そしていくぶん人間ばなれのした生活をしていた。このあたりの森によく出はいりしたある男は、ある昼、彼女の家のそばを通ったとき、彼女が音を立てて煮たっている鍋を前にして、「お前たちはみんな骨だ、骨だ!」とつぶやくのを聞いたことをおぼえている。わたしはそこの樫の矮林わいりんのなかに煉瓦がのこっているのを見た。
 さらに行くと右手のブリスターズヒルのうえにかつてカミングス氏の奴隷であった「重宝なネグロ」であるブリスター・フリーマンが住んでいた。そこにはブリスターが植え、そだてた林檎の樹がまだ生えている。今では大きな古木になっているが、わたしが味わってみるとその実はまだ野生的な、サイダーめいた味がする。つい先頃、わたしは古いリンカンの墓地の一方に片寄った、コンコードからの退却中仆れた幾人かの英国の擲弾兵てきだんへいの無銘の墓のそばで、彼の墓碑銘を読んだ。「シッピオ・ブリスター」とあり――彼は「スキピオ・アフリカーヌス」と呼ばれる資格がいくぶんありそうだ――「黒人なる――」とわざわざことわってある。それはまた、ものものしく彼の死んだ年月日を告げていたが、わたしにとってはそれは彼が生きていたことを間接に知らせるだけのものであった。彼とともに愛想のよい妻のフェンダがくらしていた。彼女は運命占いをやったが陽気にそれをした。彼女は大きく、円く、黒く――黒い夜の子たちのうちの誰よりも黒く、前にも後にもコンコードにこれほど黒い星はのぼったことはなかった。
 さらに丘を下ると左手の、森のなかの古い道ばたにストラットン一家の家の跡がのこっている。彼の果樹園はかつてはブリスターズヒルの全体をおおうていたが、すでにずっと前からヤニマツに圧倒されてしまい、わずかにいくつかの根株があるだけで、その古根は今でも村で接ぎ木の野生の台木に倹約につかわれ、栄えている。
 さらに町に近く、道の反対側、森のすぐはじにブリードの家跡がある。そこは、古い神話にはっきりと出ていないが、わがニューイングランドの生活には顕著で目を見はらせるほどの役割を演じ、どの神話的人物にも劣らず、いつかはその伝記を書かれる価値のある悪魔のいたずらの現場として有名である。その悪魔は最初は友人または雇われ男をよそおってはいりこむがやがて一家全体を奪い、殺害する――ニューイングランド・ラム(酒)である。しかし歴史はまだこの場所で演ぜられた悲劇を語るべきではない。それらの悲劇をある程度までやわらげ、それに霞んだ色をあたえる、時の経過を待ってからのことにすべきだ。最も漠とした、うたがわしい言い伝えによると、ここにかつて宿屋が立っていたそうである。井戸はそのまま残っていて、むかしは旅行者の酒を割る水となり、彼の馬の渇をいやしたわけだ。しからばここで人々はおたがいに挨拶し、世間ばなしを聞いたり聞かせたりし、ふたたび道中したものであろう。
 ブリードの小屋はその前から長いあいだ空き家にはなっていたが、つい十二年ばかり前まで立っていた。わたしの家と同じぐらいの大きさだった。わたしの記憶がまちがいなければ、それはある選挙の夜にいたずらな少年たちによって放火された。わたしは当時村のはずれに住んでいて、ダヴィナントの『ゴンディバート』を夢中になって読んでいた。――わたしが嗜眠病しみんびょうになやんでいた、あの冬のことであった。ついでだが、それは家系的な病気と見なすべきものか(わたしにはひげを剃りながら眠ってしまい、起きていて安息日を守るために日曜日には地下室でジャガイモの芽を摘んでいなければならなかった伯父がいた)、それともチャーマーの『英詩集』の大冊を飛ばさずに読もうとくわだてた結果だか、どうも見当がつかないのだ。この大冊はほとんどわたしを降参させた。わたしがちょうどその本の上に頭を垂れたときに火事を知らせる鐘が鳴り、蒸気ポンプはそっちの方にけたたましく飛んで行った。おとなや少年のばらばらの一団がその前を走り、わたしは小川を跳び越したので最も先頭にあった。わたしたちは火事ははるか南の森の向うであると考えた――わたしたちは前にも火事の現場に何度もはせつけたものだ――納屋なやか店か住宅か、あるいはそれらの全部か。「ベーカー納屋だ」と一人がいう。「コッドマン・プレースだ」と他の者が主張する。そのうちに、屋根でも落ちたらしく、新しい火花が森のうえにあがった、われわれはみんな「コンコードが応援にきたぞ!」と叫んだ。幾台かの車がものすごいスピードと積荷をもって矢のように飛んで往った。あのうちにはことによると、どんなに遠くても出かけなければならない保険会社の社員も乗っているのだろう。そして時々消防馬車の鈴が、よりのろのろとしかし確実にうしろで鳴っていた。最もおくれて――後日うわさされたことだが――その放火をして警報を発した者どももやってきた。かくてわたしたちはわれわれの五官の証明をしりぞけつつ、いかにも真の理想主義者らしく進んだが、ついに道を曲がったところで、火がパチパチ燃える音を聞き、塀越しに火の熱を現実に感じ、残念なるかな、とうとう現場にきてしまったことを悟った。火事が近いことそのことがわれわれの熱をさました。最初はわれわれは蛙のいる池をそっくりそれにぶちまけるつもりでいたが、結局焼けるにまかせることに決めた。それはもう手おくれだし、値打ちもない建物だったのだ。そこでわれわれは消防車のまわりでひしめきながら手でラッパをつくって感想をのべたり、あるいは低い声で史上にかつてあった火災――バスコムの店の火事もこめて――に言及し、またおたがいのあいだで、もしわれわれが、間にあうようにバケツをもって馳せつけ、また近所にたっぷりとした蛙の池さえあるなら、この世の終わりに起きるという、あの最後の、世界全体の大火災だってノアの洪水の二の舞にして見せるだろうと感じたのであった。われわれは結局何も悪いことはしないで引取った――眠りにまたは『ゴンディバート』の詩に。が、『ゴンディバート』についていえばついでに出てくる、才智は魂の火薬である、云々というくだりは、省きたいものだ――「しかし人間の多くは才智に縁がない――インディアンが火薬を知らないように。」
 わたしはたまたま次の夜およそ同じ時刻に原を横ぎってその辺を歩き、この地点で低いうめき声がするので闇のなかを近寄ってみると、この一家のわたしの知っている唯一の生存者で、その美徳と悪徳の両方面の相続者であり、この火事に関心をもった唯一の男が、腹んばいになって地下室の壁ごしに、未だくすぶっている下の焼けのこりをのぞきながら、いつもの癖で独言ひとりごとをいっているのを発見した。彼は終日遠方の河の牧場に働きに出ていたが、からだがあくと早速自分の先祖何代かが住まい自分も幼時をすごしたこの家をおとずれたのであった。彼は腹んばいのまま順々にすべての側から、そしてあらゆる角度から地下室をのぞきこんで、煉瓦のかたまりと灰のほかには全然何もないのに、何かの宝物が石のあいだに隠してあるのを知っているかのように見つめた。家が焼けてしまったので、せめて残った物を見ているのだ。彼はわたしがそばにいるというだけが意味する同情によってなぐさめられ、闇のなかで見わけられるかぎり、井戸が埋まっているところをわたしに示した。井戸だけはありがたいことに燃えないものだ。彼はむかし父親が切って、取付けたはねつるべのさおあてに壁のあたりを長いこと手さぐりし、重い方のはじに結びつけた重しをつるす鉄のかぎ――今ではこれが彼がすがりつくことのできる唯一のものであった――をまさぐり、それがありきたりのはねつるべではないことをわたしに示そうとした。わたしもそれに手をふれ、今でも散歩の途中ほとんど毎日それに目を留める。ともかく一家の歴史がそれに懸っているのだから。
 さらに、左手に、今は開けた畠のなかの、塀のそばに井戸とライラックの茂みとが見えるところにはナッティングとル・グロッスが住んでいた。だが、こんどはリンカンの方にもどることにしよう――
 これらの家のどれよりも森の奥で、道路が池に最も近寄っているところに瀬戸物焼きのワイマンが居を占め、町の人間に瀬戸物を供給し、家業を継ぐ子孫をのこした。かれらも現世的な富には恵まれず、住んでいる間だけ地主のお情けで置いてもらっていたのである。郡長は税金徴収にたびたびここに無駄足をはこび、ほかに差押えるべき何物もないので形式的に「差押えの札をうった」ことはわたしが彼の控え帳で読んで知っている。真夏のある日、わたしが草取りをしていると、市場に瀬戸物ひと車をはこんでいく男がわたしの畠にさしかかって馬をとめ、息子の方のワイマンについて尋ねた。彼はずっと前にそれから陶器製造用のロクロを買ったのだが、いま彼がどうしているか知りたかったのだ。わたしは聖書のなかで陶工の粘土とロクロについて読んだことがあるが、われわれがつかっている皿鉢が当時からそのままこわれずにつたわったものではなくヒョウタンのように木にったものでもないことには思いいたらなかった。そしてわたしはそんなに面白い陶工の術がわたしの近所でおこなわれたことを聞いてうれしかった。
 わたしがくる前、このあたりの森の最後の住人はワイマンの家作かさくを借りていたアイルランド人のヒュー・コイル Quoil(わたしはQの字その他を十分コイルをつくって綴ったつもりだ)――通称コイル大佐であった。うわさによると彼はワーテルローの勇士とのことであった。もし彼が生きていたならわたしは彼をしてもういっぺん戦わせてみせるところなのだが。当地における彼の商売は溝掘り人夫であった。ナポレオンはセント・ヘレナに往ったが、コイルはウォールデン森にきた。わたしの知っているかぎりの彼は悲劇的であった。彼は世の中を見てきただけあって作法正しい人であり、人々がもてあますほどいんぎんな辞令を用いることができた。震顫性譫妄症しんせんせいせんもうしょうかかっていたので真夏でも外套を着ており、洋紅色カーマインの顔色をしていた。彼はわたしが森に移住してからまもなくブリスターズ・ヒルのふもとの路上で死んでしまったので、わたしは隣人としては彼を知らなかった。彼の仲間は彼の家を「不吉なお城」として嫌ってそれを取りこわしたが、わたしはその前にそこを訪れたことがあった。彼の高くなっている板張りのベッドのうえには着古されてよれよれの着物がつくねてあるのが彼自身の寝姿のように見えた。持主が死んだことを示す泉のほとりのこわれた茶碗のかわりに、彼のパイプが炉のうえにこわれて横たわっていた。泉のそばの茶碗は彼の死のシムボルにはなりえない。何となれば彼は、ブリスターの泉は聞いたことはあるが見たことはない、とわたしに告白したことがあるのだから。ほかに床の上にはダイヤやスペードやハートの王など、よごれたトランプがちらばっていた。管財人がつかまえることのできなかった一羽の黒い雛鶏ひなどり――夜のように黒くそして沈黙で、のどもならさないのでただ狐の餌食になるのを待つばかりなのが、それでもまだ隣りの部屋にもぐりこんでいた。裏手にはかすかに菜園らしい輪郭をそなえたものがあって、植えてはあったが、一度も草取りをされていなかった。もう収穫時だのに例のおそろしい震えの発作のためにこの始末なのであった。そこにはニガヨモギやセンダングサがはびこっており、後者の実ばかりがわたしの着物にこびりついた。ヤマネズミの毛皮がま新しく家の裏手にひろげられていたが、これは彼の最後のワーテルローの戦利品であろう。けれども、あたたかい帽子や手袋も彼には入用がなくなった。
 今では地面のくぼみのみが、埋もれた地下室の石でもってこれらの住居の跡形をしるしづけている。そしてイチゴやラズベリーやシムブルベリーやハシバミの茂みやヌルデが日あたりのよいそこの芝土にしげっている。ヤニマツか節くれだったかしの木が炉ばただったところに生え、よく匂う黒ヤニマツが敷居石のあったところにそよいでいることだろう。時には井戸のくぼみが見えるが、かつては泉がにじみ出たところに今は涙の乾いた草のみがある。あるいは最後の住人が立ち去るときに芝草をかぶせた平石で深くおおわれたのもあって後日になってはじめて発見されることもある。それはなんという悲しい仕事であろう――井戸を閉ざすこと! しかも涙の井戸を開くのと時を同じくして、である。これらの地下室のくぼみは、棄てられた狐の穴や古い動物の穴と同様、かつて人間生活のすべてのうごきとざわめきとのあったところに残された全部である。そしてそこでは「運命と自由意志と絶対なる予知と」が何らかの形式と地方語とによって相ついで論ぜられたのであった。けれどもかれらの結論についてわたしの知りうるものは、「ケートーとブリスターがいさかった」という、このことだけに帰着するのだ。そしてそれはもっと著名な哲学の諸流派の歴史とほぼおなじぐらい教訓的なものである。
 ドアや鴨居や窓敷居がなくなってからすでに一世代になってもライラックはまだ生き生きとえていて春ごとに香りたかい花をひろげ、物思いにふけった旅びとに摘まれる。むかしは子供たちの手により前庭の地所に植えられ育てられたものだが――今は奥まった牧場の塀ぎわに立っていて新しくできる林に位をゆずろうとしている――この一族の最後の者であり、一家の唯一の残存者である。あの黒い子供たちは、自分たちが家の日蔭の地面に挿しこんで毎日水をやった、たった二葉の小さな小枝がこんなに根づき、自分たちよりも、うしろにあって日蔭をなした家そのものよりも生きのび、人間の菜園や果樹園より長くのこり、自分たちが一人前にそだって死んでしまった半世紀後の今、孤独な散歩者にかすかに自分たちの物語りを告げようとは夢にも思わなかったことだろう――そしてあの最初の春と変わらずにあざやかに咲き、かんばしく匂っているとは。わたしはそのまだやわらかく、つつましやかな、あかるい紫色に目をとめる。
 しかしこの小さな村、もっとそれ以上のものにそだつべき種子――なぜそれはだめになってしまい、コンコードのみがその地歩をきずいたのだろうか? そこには自然の有利な条件がなかったろうか――じっさい水利に欠けていたろうか? そうだ、深いウォールデン池とつめたいブリスターの泉――そこからたっぷりと健康な水を飲みほす特権。ここの人々はそれを自分たちの杯の酒を割るため以外には活用しなかったのだ。かれらは概して渇いた人々であった。かご厩箒うまやぼうきやマットの製造、トウモロコシ炒り、リンネル紡績、製陶がこの土地に栄えて、荒野をバラのごとく花咲かせ、たくさんの子孫が父祖の土地を受けつぐというふうにいかなかったものかしら? 地味が瘠せていることはすくなくとも低地的な頽敗をまぬがれしめたであろうに。ああ! ここの住民たちの記憶は風景の美を高めることが何とすくないことか! だが、たぶん、自然はわたしを最初の入植者とし昨年の春建てられたわたしの家を村の最古の家として、もういっぺん出直すことだろう。
 わたしは今自分が占めている地点に誰かが前に家を建てたということを知らない。古い都の跡に立てられた都会からは逃げだしたいものだ――そこの資材は廃物であり、そこの庭は墓場だから。そこでは土地は色褪いろあせて呪われており、破壊が必要となる前に土地そのものが破壊されてしまうだろう。――以上のような回想をもってわたしはふたたび森に住みこみ、自らを眠りにつかせたのである。

 この季節にはめったに訪問者はなかった。いちばん雪が深いときには一週間も二週間も引つづいて誰も出あるく人間がわたしの家に近づくことをあえてしなかった。だが、わたしは牧場の鼠のように、あるいは食物がなくても雪のなかに長いあいだうずもれたまま生きのびていたという家畜や家禽のように、平気でそこに住んでいたのだ。あるいはこの州のサットンの町のある初期の入植者の家族のように。――彼の小屋は彼の留守中一七一七年の大雪で全く埋まってしまい、一人のインディアンが積雪のなかに煙突の息が作った穴によってかろうじてそれを見いだし、やっと一家を救いだしたのだ。しかしわたしを構ってくれる深切なインディアンはいない、またその必要もない――主人はちゃんと在宅なのだから。「大雪!」何と愉快に、その言葉はひびくことだろう! そのときは農夫は連畜にかせて森や沼地に出かけることができず、自宅の前の風よけの木を切りたおさなければならなくなり、雪の外殻が硬いときには沼地の木を地上十フィートのところで切り、春になってそれと判るのである。
 雪のいちばん深いときには、本街道からわたしの家に行くのに用いられた約半マイルの道はうねうねした間隔のひろい点線で表わすことができたろう。おだやかな天気がつづく一週間にわたって、わたしは往復に同じ長さの、全く同じ数の歩みをはこんだ。慎重に足をすすめ、両脚器の正確さをもってわたし自身の深い足跡をつたうのである――冬はこのような鋳型いがたにわれわれをはめこめてしまう――しかしそれらはしばしば大空自身の青でみたされていることがあった。けれどもどんな天候でもわたしの散歩、ないしは外出を徹底的にさまたげることはなかった。わたしはブナまたは黄カバとの、あるいは松のうちの古い知り合いとの約束をはたすために最も深い雪のなかを八マイルも十マイルも出向くことがよくあったのだ。松は氷と雪のために手足を垂れさがらせ、そのこずえを鋭く尖らされたのでもみのようになっていた。雪が平地でほとんど二フィートの深さのときに、一歩ごとに頭上におちかかる別な雪なだれをふり落としつつ最も高い丘の頂きにのぼっていくのだ。猟師も冬籠りに去ってしまったときに、四つんばいになっていもがきながらそこへ進むこともあった。ある午後、わたしは縞フクロウ(Strix nebulosa)がシロマツの地面に近い枯枝の、幹に近いところに停まっているのを、一ロッドとはない距離に立っておもしろく見まもった。彼はわたしが身うごきをして足で雪音をたてればそれを聞くことができるのだが、わたしをはっきり見わけることはできないのだ。わたしが大きな物音をたてるとくびをさしのばし、頸の羽毛を立て、眼を大きく見ひらくのだが、じきにまたその目蓋まぶたが垂れてきてお辞儀をはじめるのだ。彼がこういうふうに猫のように――まさに猫のつばさある兄弟だ――半眼をひらいて坐っているのを三十分ばかり見まもっているうちにわたし自身もどうやら眠気をもよおしてきた。彼の目蓋のあいだにはわずかに細い裂れ目がのこされていてそれで彼はかろうじてわたしとの関係をつなげていた。こうして半眼で、夢の国から見やりつつ、彼の視界をさえぎる、ぼやけた物体またはごみとしてわたしを認めようとつとめているのであった。とうとう、一段と物音が高くなったり、わたしがさらに近よったりすると、彼は自分の夢をさまたげられるのが我慢ならんというふうに、不安になってその停まっている場所を物憂そうに飛びまわった。そして思いのほか広い翼をひろげて松の木立ちを縫って羽ばたいて飛び去ったが、わたしはその動作からすこしの音も聞くことができなかった。こうして松の大枝のあいだを、枝の接近を視力によってよりはむしろ鋭敏なかんによって知らされつつみちびかれ、いわば彼の感覚的な翼でたそがれの進路をさぐりながら、彼は新しい止まり木を見いだして、夜という、彼の日が明けるまで安全に待とうとするのであった。
 牧場のあいだの鉄道のために築かれた長い土堤のうえを歩いていると、吹きすさぶ身を切るような風がしきりにおそってきた。ここはどこよりも存分に吹きさらしになっているのだ。寒気が一方の頬を痛めつけると、信者ではないが、わたしはもう一方の頬をそれに向けた。ブリスターズ・ヒルからの馬車道によっても大して一層しのぎ良くはなかった。わたしは広くひらけた畠の雪がすっかりウォールデン路の壁のあいだに吹きためられ、半時間もすれば前の旅びとの足跡がすっかり消されてしまうようなときにも親密なインディアンのように欠かさず町に出かけたのである。帰り道には新しい積雪ができていることもよくあって、そこをわたしはあがき歩くのであった。そこでは絶えまなく吹く北西風が道路の急角度の曲り角に粉のような雪を吹き溜め、兎の足跡も野ネズミの小活字の足跡さえも一つとして見られないのであった。しかし、真冬といえども暖かい、泉の湧く沼地が見あたらないことはめったになく、そこでは草やスカンク・キャベツが常緑の色をのぞかせ、時折りは何か頑健な鳥が春の返ってくるのを待っていた。
 時には雪にもかかわらず、夕方の散歩からうちに帰ってくるとわたしの戸口から木伐りの深い足跡が出ているのに出会い、炉のうえには彼がけずった木切れの山があり、家じゅうに彼のパイプの匂いがこもっていることもあった。あるいは日曜の午後、わたしがたまたま在宅すると、ある頭のするどい農夫が雪を踏んでやってくる音を聞くこともあった。彼は遠くから森を通ってわたしの家に「世間ばなし」をしにやってきたのだ。彼はその職業にはめずらしい「自作農」であり、教授のガウンではなく、仕事着を着こみ、彼の納屋庭から肥料のひと山を引っぱり出すのにおとらず手っとりばやく、教会または国家から教訓を引き出す心がまえがあった。われわれは人々が、寒い身の締まる気候に、澄んだ頭をもって大きなさかんな火のまわりに坐りこんだ粗野で単純な時代の話をした。そしてほかに茶菓子がなくなったときには気の利いたリスがとっくのむかしに棄ててかえりみない多くのクルミに歯をあててみるのであった。最も厚い殻をもっているのはたいがいからであったのだ。
 いちばん深い雪をつき、いちばんひどい嵐をおかして、いちばん遠くからわたしの宿にやってきたのは一人の詩人〔チャニング。見出し「ベーカー農場」参照〕であった。農夫や猟師や兵士や通信員や、哲学者さえも恐れをなすかもしれないが、何物も詩人を引きとめることはできない。彼は純粋な愛によってうごくからである。誰が彼の往き来を予言できようか? 彼の仕事はどんな時刻にでも彼を外につれ出す――医者が寝ているときにでも。われわれはさわがしい歓声でこの小さな家を鳴りひびかせ、多くのまじめな談論の声でそれをみたしてウォールデンの森に長いあいだの沈黙の埋めあわせをした。これにくらべればブロードウェイはしずかでさびれた感があった。適宜な間隔を置いて規則的に笑いの礼砲が発せられたが、それはさっきの冗談でも、これからいわれる冗談でもどっちにあてはめても別にさしつかえはないのであった。われわれはかゆをすすりながら多くの斬新な人生理論をでっちあげたが、粥は浮かれ気分の有利さと哲学が要求する頭の良さとを兼ねそなえるものであった。
 わたしはわたしの池畔生活の最後の冬のあいだにもう一人うれしい来訪者があったのを忘れてはならない。彼はいっぺん、村を通りぬけ雪と雨と闇とをついて、ついに木立ちのあいだのわたしの灯を見、いくつかの長い冬の夜をともにしたのであった。彼は哲学者たちの最後の一人〔アモス・ブロンスン・オールコット(一七九九―一八八三年)を指す〕であり――コネティカット州は彼を世界にあたえた――最初はこの州の物産を行商していたが、後には、彼のいうところによると、自分の頭脳を行商した。彼はそれを今なお、神を刺戟しげきし人をはずかしめつつ売りあるく――クルミがその核を実らせるように、果実としては彼の頭脳のみを実らせつつ。わたしは彼を現存の誰彼のうちで最も信念の人であるとおもう。彼の言葉と態度とはほかの人が知っているよりももっと良い事態をつねに想像し、また彼は時代が変転するにあたって失望する最後の人であるだろう。彼は現在に対しては何にも賭していない。しかし、目下は比較的閑却されているが、彼の時機が到来したならば多くの人間が夢想しなかったような法則が発効し、家の主人らや支配者らが彼に助言を求めてくるであろう。――

「悠々たる心境がみとめられないとは何と盲目なことだろう!」

 人類の真の友――人間の進歩のほとんど唯一の友人。不屈の忍耐と信念とをもって、人間の肉体に刻まれた像――すなわち神(人間はそれのゆがみ傾いた記念碑にすぎない)を明らかにする、オールド・モータリティと渾名されたロバート・パタースン〔一七一五―一八〇一年、スコットランドの石工で国中の殉教者の墓を建てまたは修理することに一生をついやした〕のごとき人物である。いや、むしろ彼はモータリティ(死ぬべき物)ではなくイムモータリティ(死せざるもの)と呼ばるべきである。その人もてなしの良い知性をもって彼は子供たち、乞食、狂人、学者を抱擁し、その思想をもてなし、通常それにいくぶんかの幅と品位とを加える。わたしは彼が世界の街道において、すべての国の哲学者が泊まることのできる隊商宿をいとなむべきであり、その看板には「人間款待、ただし人間のうちの獣性はおことわり。正しい道を熱心にもとめる、閑暇と静かな心とをもっている方々はおはいり」とあるべきだと思う。彼はわたしがたまたま会った人のうちでいちばん正気しょうきで、いちばん気まぐれの少ない人物であろう。昨日も今日もおなじだ。むかし、われわれはともに散歩し、語り、首尾よく俗世界外にあそんだ。彼はこの世のいかなる制度にも束縛されず、自由に生まれ、自由の民であったから。どっちに向いても天と地とは合致するように見えた。彼は地上の風景の美を高めたから。青い衣の人であって、彼の清朗さを反映する頭上の天こそ彼の最適の屋根であった。彼が死ぬことがあろうなどとは考えられないことであった――自然は彼を手ばなせないのだから。
 よくお互いに思想の乾かされた板切れをいくつか持って坐りこみ、それぞれのナイフの切れ味を試みつつそれを削り、カボチャマツのはっきりした黄色がかった木目もくめを賞美した。また、われわれはそんなにしずかにうやうやしく水を徒渉し、あるいはそんなに滑らかにぎ合せたので、思想の魚は、流れからおびえて逃げることなく、また岸の釣りびとを恐れないで、西の空にただよう雲のように、そこでできあがりまた崩れ去ることのある真珠母の群のように、悠々と去来した。そこでわれわれは、神話を改訂したり、寓話のそこここを磨きあげたり、地上に格好かっこうな土台が見あたらない空中楼閣を建てたりしてはたらいた。偉大な観察者! 偉大な待望者! それと対談することは「新ニューイングランド夜話」であった。ああ! われわれ――隠者と哲学者、そして前にうわさした古くからの入植者――われわれ三人はそのような対談をもった。それはわたしの小さな家をふくらませ、引き裂いた。一平方インチにつき、気圧以上に幾ポンドの重さがかかったか、わたしは敢えていわない。それはわたしの家の接ぎ目を割ったので、そのための空気洩れをとめるためにその後多くの倦怠けんたいをもってめられなければならなかった。しかしわたしは前もってそういう種類の填絮まいはだは十分こしらえてあったのだ。
 もう一人、長く記憶されるべき「実質的な時間」を村における彼の家でわたしがともにした男がある。彼も時々わたしを訪れた。しかしそのほかにはわたしは交際をもたなかった。
 どこでもおなじことだが、わたしもここで決してこない「訪問客」を待ちもうけることがあった。インドの古い史話ヴィシュヌ・プラーナには、「世帯主は夕方、牝牛の乳をしぼるぐらいの時間だけ、あるいは気がむいたらもっと長く、客の到来を待つために彼の中庭にとどまるべきである」とある。わたしはしばしば、ひと群の牛の乳をすっかりしぼり終わるぐらい長く待ってこの款待の義務を履行したが、町からこっちに近づいてくるその人を見ることができなかった。
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冬の動物


 池が堅く凍ってしまうと方々の地点に行くのに新しい近い通路ができるばかりでなく、その表面から周囲の見慣れた風景の新しい眺望がえられた。雪におおわれた後にフリント池をよこぎったときには、わたしは今までにそこで舟を漕ぎ、氷滑りをしたことが何度もあったのだが、思いのほかに広々と眼あたらしく見えてどうしてもバッフィン湾そのままに思えた。以前にそこに立った記憶のない雪の平野のはてに立ったわたしの周囲には、リンカンの丘陵がそそり立っていた。氷のうえの、遠近が見定めにくいところに、狼に似たような犬をつれてのろのろうごいている漁師は海豹あざらし漁夫ともエスキモーとも受けとれた。霞んだ天気にはその姿が現実ばなれのした生き物のようにぼうと浮かんで巨人とも小びととも見当がつかなかった。わたしは夜分リンカンに講演に出かけるときにこの道を取ったが、わたしの小屋から講演室までほんとの道路は一つもふまず一軒の家の前も通りすぎなかった。途中にあるグース・ポンドにはジャコウネズミの集団がすまい、かれらの小舎こやを氷のうえ高く張っていたが、わたしが通りすぎたときには一匹も外に出ていなかった。ウォールデンはほかの池と同様、通常裸の氷か、浅い絶え絶えの積雪をもっているだけなので、よその平地では雪がほとんど二フィートもつもり村の人間は街路にだけとじこめられているときにも、自由に歩きまわれるわたしの庭のようなものであった。そこで村の道路から、そしてごくたまにしか聞こえないそりのベルの鳴る音から遠くはなれてわたしは滑りまわった。そこは雪でうなだれ、あるいは無数の氷柱をつけた樫の林やおごそかな松がおおいかぶさった、よく踏みならされた広々したオオジカの庭のようであった。
 冬の夜――昼であることもちょいちょいあった――音としては、どの辺から聞こえてくるのか見当がつかない、ホーホーフクロウのものさびしい、しかし旋律ゆたかな歌声があった。凍った大地が適当なばちで掻きならされたらこのような音を立てるだろうと思われる、まさしくウォールデン森の「地面のひびき」であり、やがてわたしは、この鳥が歌っているところはついぞ見たことがないのに、そのにはすっかりおなじみになった。冬の夜、戸を開くとそれが聞こえないことはめったになかった。ホーホーホー、ホーラーホー――よくとおる声で初めの三綴はハウ・ダー・ドゥー(御機嫌いかが)のアクセントにいくらか似ていた。時にはホーホーだけのこともあった。
 冬のはじめの、氷がまだすっかり張りわたらない頃の、ある晩九時頃、わたしは鵞鳥がちょうのけたたましいごえにおどろかされ、戸口に歩いて往って、かれらがわたしの家のうえ低く飛ぶ、森のなかの嵐のような羽音を聞いた。かれらはわたしの燈火を見てここに落ちつくのを思いとまったのか、フェア・ヘーヴンの方角に池をわたって往った。かれらの隊長はそのあいだじゅう一定の拍子で啼きつづけた。突然、まぎれもない猫フクロウがわたしのすぐ間近で、森の住人からわたしの聞いたことのある最も荒々しく物すごい声で一定の間隔で鵞鳥に応答した。それは土地っ子の声の、より大きな音域と声量とによってハドスン湾からこの闖入者ちんにゅうしゃをあばき、はずかしめ、コンコード界隈から彼をブーフーと叱って追っ立てる決心であるかのようであった。――夜の今時分、おれの神聖な本拠をおどろかすというのはどういう所存なのか? こんな時刻におれがうたたねをつけこまれるとでも思っているのか、いやさ、おれにはお前と同様な肺や咽喉がないとでも思っているのか? ブーフー、ブーフー、ブーフー! それはわたしが聞いた最もおそるべき不調和音の一つであった。しかも、もし諸君がよく聞きわける耳をもっていたなら、このあたりの平野がかつて見聞きしたことのないような諧調の要素がそのうちにこもっていた。
 わたしはまたコンコードのこの部分におけるわたしの大きな同寝者である、池の氷のぜいぜい声を聞いた。よく寝つかれず、寝返りがうちたいような――腹のもたれと悪夢とになやんでいるような声。あるいは寒気による地面の亀裂に起因する、何者かが連畜をわたしの戸口に打ちあてたような音で目醒まされることもあった。翌朝には長さ四分の一マイル幅三分の一インチの裂け目が地上に見いだされたのであった。
 時には月の夜、狐どもが森の犬のように、耳ざわりな悪魔的な声でえながらシャコその他の猟鳥をさがして雪の外殻のうえをうろつくのを聞いた。何か心配事になやんでいるような、また光りを求めてあがき、思い切って犬になって街路を自由に走りたがって衷情をうったえているふうに見えた。時代をかんがえてみれば、人間と同様動物のあいだにも文明がおこなわれつつあるのではなかろうか? かれらは原始的な穴居人で、つねに防勢に立ちつつ、転身の時機を待っているのだとも受けとられた。そのうちの一匹が灯にさそわれてわたしの窓近くまで寄ってきて、わたしにむかって狐の呪いを咆えつけて姿をかくしたこともあった。
 明けがたはたいがい、屋根のうえや家の側面を上がりさがりしてせまわる赤リス(Sciurus Hudsonius)によって目を醒まされた。彼はその目的のために森から派遣されたていであった。冬のあいだ、わたしはれ切れなかった甘トウモロコシの穂を半ブッシェルばかり戸口の雪の殻のうえに投げだし、それに釣られてやってくるいろいろな動物の所作を見て興じた。たそがれ時と夜には兎が規則的にあらわれてたらふく食った。赤リスは一日じゅうにわたって往き来し、その行動によって多くの気散じをわたしにあたえた。それは最初は慎重に灌木樫のあいだを抜けて近づいて来、風に吹かれる木の葉のように発作的挙動で雪の殻のうえを走るのであった。すばらしいスピードと精力のつぎこみ方で、賭け勝負でもあるかのように彼の足で想像もつかぬほど急速に一方にむかって幾フィートか走るかと思えば、今度は同じ距離だけ別の方向に駈けるが、決して一度に七、八フィート以上は進まない。それから突然停まって、世界のすべての眼が自分にそそがれているといったような、おどけた表情と意味のないとんぼ返りとをする。リスのすべての動作は森の奥のこのうえなくさびしい所においても人間の踊り子のそれほど観客を眼中においているのだ――全体の距離を歩いたとした場合――歩くのは見たことがない――に要する時間以上をちゅうちょし、あたりをうかがうことに徒費する。かと思うと、突然、あれあれ、というまに若いヤニマツのてっぺんに駈けのぼり、時計のゼンマイを巻きあげてすべての想像上の観客を※(「口+它」、第3水準1-14-88)しったし、独白すると同時に世界じゅうにむかって呼びかける――どういうわけがあるのかわたしは了解にくるしむのであるが、彼自身にも判っていないのではないかと思われる。ついに彼はトウモロコシのところまで達し、手頃な穂をえらんで、同じようなおちつかない三角法的なやり方で、わたしの窓の前の薪の山の頂上の一本までちょこちょこはせのぼり、そこでわたしの顔を見ながら何時間も坐りこみ、ときどき新しい穂を取ってきて、はじめはがつがつとかじって半分はだかの芯をほうり出す。やがてだんだん贅沢になって彼の食物をおもちゃにしだし、粒の内側だけを食べる。彼の一本のあしで薪の上に釣合いを取られていた穂は彼の不注意な支えを抜けて地面に落ちた。すると彼はそれが生きているのではないかと疑っているような、そわそわした滑稽な表情でそれを見おろす。もう一ぺんそれをひろい上げようか、新しいのをもってこようか、それとも立ち去ろうか、意を決しかねたていである。今トウモロコシのことを考えているかと思うと今度は風の物音に聴き耳をたてつつ。こういうぐあいにこの生意気なやっこは午前中に幾本もの穂をむだづかいする。ついに、自分のからだよりだいぶ大きい長くて太いやつをつかんで、たくみにそれを支えながら、水牛をひっさげた虎のように森にむかうのである。例によってジグザグの進路でたびたび途中でとまりながら、それをはこんであがきすすむ。穂は力にあまるほど重いらしくしょっちゅう落ちたが、それは垂線と水平線のあいだの対角線をなした。ともかくどうあっても運びおわせる決心と見えた。何しろ、類のない奇抜な気まぐれ男だ。――こうして彼はそれをもって自分の住みかに引上げる、たぶん四、五十ロッドはなれた松の樹のてっぺんにでもはこぶのだろう。後日わたしはトウモロコシの芯が森のなかのあなたこなたにちらかっているのを見いだすことがよくあった。
 とうとうカケスがやってきた。かれらの調子のととのわない叫びはずっと前から、八分の一マイルも先から用心ぶかく近寄ってくる際に聞こえていたのだ。こそこそと人目をしのぶようなやりかたで樹から樹へ飛びかすめながらだんだん近づいてきてリスがこぼしておいた粒を拾いあげる。そしてヤニマツの大枝に停まってひと粒を大いそぎで呑みこもうとするが、大きすぎてのどに通らず息がつまる。で、大骨を折ってそれを吐き出し、くちばしで何度も何度もくりかえし叩き、一時間もかかってそれを割ろうとする。かれらは明らかにどろぼうであり、わたしはあまり尊敬する気になれない。しかしリスの方は、最初こそおずおずしているが、自分の物を取るんだという気概で仕事にかかる。
 一方、ヤマガラも群をなしてきた。かれらはリスが落としたかけらを拾いあげ、最寄りの小枝に飛び、それを爪の下においてかれらの小さな嘴で、樹の皮のあいだにひそむ虫かなんかのようにたたきつづけ、自分たちのかぼそいのどに通るほどこまかにしてしまう。これらのヤマガラの小さな群は、草のなかの氷柱の鳴りさやぎのような、かすかな、軽やかな、舌たらずな調べで鳴きながら、毎日やってきて、わたしの薪の山から食事を、あるいはわたしの戸口で食べ物のかけらをひろう。また、デーデーデーと元気よく鳴くこともあり、たまに春めいた日には森の方から針金のような夏向きのフィービーというをたてる。かれらはたいへん人なつこく、とうとう一羽はわたしがはこびこんでいたひとかかえの薪のうえに停まり、恐れげもなく薪を突っついた。わたしは一ぺん村の菜園で除草をしていたとき、ちょっとのま、雀に肩に停まられた。わたしはそのことによって、わたしの帯びることのできるどんな肩章によってよりも一層名誉をあたえられたような気がした。リスも結局はすっかりなじみになって、時折り、それがいちばんの近道のときにはわたしの靴のうえを踏んであるいた。
 地面が雪でまったくおおわれない頃と、もう一ぺん、冬の終わりちかく雪がわたしの南向きの丘の斜面とわたしの薪の山あたりで溶ける頃に、シャコがそこで餌をあさるために朝夕に森からやってきた。森のなかのどっちに歩いて往ってもシャコがヒューと翼をならして飛び立ち、こずえの乾いた葉や小枝から雪をザラザラおとす。雪は日光をうけて金粉のように降りおちる。この勇敢な鳥は冬をおそれないのだ。それはしばしば積雪をかぶることがあり、「時には飛んでいたのが軟い雪のなかに突っこみ、そのまま一日ふつかそこに隠れている」こともあるという。わたしは開けた土地でかれらを飛び立たせることもよくあった。そこへかれらは日没ごろに野生の林檎の「芽をついばむ」ために森からやってきたのだ。かれらは夕方になると極まったように一定の樹にやって来、そのために森に沿うた遠隔の果樹園は少なからず被害がある。利口な銃猟家はそこで待ちかまえるわけである。それはともあれ、わたしはシャコが食物にありつくことをよろこぶのである。それは木の芽とわずかな水で生きている、自然そのものの鳥である。
 まだ暗い冬の朝がた、または短い冬の午後にわたしはひと組の猟犬が追跡の本能をおさえ切れないというふうに狩りたてる叫びと咆え声が森じゅうを縫うのを聞くことがあった。そして時たま起こる狩猟用の角笛の音は人間がその後にいることを証拠だてた。森はその声で鳴りわたったが、池の開いた平面には一匹も狐が飛びださず、その獲物を追っかけてついてくる猟犬の群もあらわれなかった。が、たぶん夕方わたしは、戦利品としてかれらの橇からたった一つのふさふさした尾をだらりと垂らしつつ宿屋をもとめて帰っていく狩猟家たちを見ることであろう。話によると、もし狐が凍った地面のふところにじっと動かずにいれば彼は安全であろうし、また一直線にどこまでも逃げればどんな狐狩りの犬も追いつくことができないだろうということだ。ところが追跡者をずっと後に追い抜いたとき彼は立ちどまって休み、聴き耳をたてているので追っつかれてしまうのであり、また走るときに彼は自分の古巣にぐるりと廻ってもどるので狩うどがそれを待ち伏せるのだそうだ。けれども彼は土堤のうえを何町も走り、それから跳びおりて一方の側に遠く走ることがあり、また水をわたると臭みが残らぬことを知っているように見える。ある狩猟家は、猟犬に追われた一匹の狐が氷のうえに浅い水たまりができているウォールデン池に飛びだし、中途まで走ったうえで同じ岸にもどるのを見たことがあるとわたしに話した。まもなく猟犬どもがやってきたが、ここでかれらは臭跡をうしなってしまったそうだ。時々獲物を追っているひと組の猟犬だけがわたしの戸口に通りかかり、家のまわりをまわって狂気に取りつかれて追跡以外には何にも心に留まらない態でわたしを見ても少しもかえりみずにえつづけた。こうして狐の最近の臭跡をさぐりあてるまでぐるぐるまわるのだ。賢い猟犬はそれを突きとめるためにはほかの事は全然念頭におかないのだ。ある日レクシントンからきた一人の男が、大追跡をして一週間も自分だけで追いまわしていた彼の猟犬をたずねてわたしの小屋にやってきた。だが、彼はわたしの話をいくら聞いてもちっとも参考にならなかったのではないかと思う。なぜなら、わたしが彼の質問に答えようとするたびごとに、彼はさえぎって「だが、あなたはここで何をしているのですか?」といたから。彼は犬を見失い、人間を見出したのだ。
 毎年一ぺん水がいちばん暖かいときにウォールデンに水浴びに来、そのときはわたしの家に立ち寄ることにしている、ぶっきらぼうな物言いをする老いた猟師はわたしにこういう話をした。――幾年もむかしのこと、ある日の午後に彼は銃をとってウォールデン森をひと廻りしに出かけた。彼がウェイランド路を歩いていると猟犬のさけびが近づくのが聞こえ、たちまち一匹の狐が土堤から路上に跳びおり、それから電光のような速さでもう一方の土堤を越して路から姿を消し、すばやく打った彼の弾丸もそれに及ばなかった。だいぶ隔たって一匹の老いた猟犬と彼女の三匹の子犬とが自分たちだけで全速力の追跡をしながらあらわれて、ふたたび森のなかに姿をかくした。午後おそくなって彼がウォールデンの南の茂った森のなかに休んでいると、遠くフェア・ヘーヴンの方向にまだ例の狐を追いかけている猟犬どもの声が聞こえた。かれらはだんだんこっちの方にやってきた。その狩りたてるさけびは森じゅうにひびきわたって、時にはウェル・メドウから時にはベーカー・ファームから聞こえつつ、だんだんまぢかに迫ってきた。彼は長いあいだ立ちどまって、猟師の耳には何ともいみじく聞こえるその音楽に耳をかたむけていたが、そこへ突然狐があらわれた。しんかんとした森なかの路を縫って楽な疾走の足どりで、地面について速くしかも静かに、追跡者をはるかにうしろにしてくる。その足音は同情的な木の葉のそよぎでかくされている。狐は森のただなかの岩のうえに飛びあがり、猟師に背をむけてまっすぐに坐り聴き耳をたてた。一瞬間は憐れみの情が彼の腕をおさえた。が、それは束のまの感情で、たちまち稲妻のすばやさで彼の銃は水平にかまえられた。ドン!――狐は岩からころげて地面に死んでたおれた。猟師は元の位置のまま猟犬に聴き耳をたてた。なおもかれらは近より迫って今や近所の森のすべての通路はそのかれたようなさけびで鳴りひびいた。とうとう老いた猟犬が地面に鼻面をむけ、狂ったようにくうを噛みながら、視界に跳びだし、一直線に岩の方に走って往った。が、死んだ狐を見つけると驚きのために突然おしになったように咆えやんだ。そしてだまったままそのまわりをぐるぐる歩きだした。一匹ずつ彼女の子犬もはせつけたが母親と同じくこの神秘に打たれて咆えやみ、しんとした。そこへこの猟師はすすみ出てかれらのまんなかに立ち、かくて神秘は解かれた。犬どもは猟師が狐の皮をはぐあいだだまって待ち、それから狐の尾についてしばらく追っていたが、やがてふたたび森のなかにはいってしまった。その晩ウェストンの一紳士が自分の犬のことをたずねてコンコードの猟師をおとずれ、犬どもがこの一週間自分たちだけでウェストンの森から狐を追いまわっている話をした。コンコードの猟師は知っているかぎりの話をし彼に毛皮をあたえようとした。が、彼はそれをことわって辞去した。彼はその晩はとうとう猟犬をさがすことができなかったが、翌日かれらが河を越して一軒の農家で夜を明かした由を聞きこんだ。そしてそこで十分に腹をつくったうえ一同朝早いうちに引あげたのであった。
 この話をわたしに聞かせた猟師は、フェア・ヘーヴン岩棚レッジで、熊狩りをしその毛皮をコンコードの村でラム酒と交換するのをつねとしたサム・ナッティングなる者を記憶していた。サムはそこでオオジカをさえ見たことがあると彼に語ったそうだ。ナッティングはバーゴインという名の――彼はそれをブーガインと発音した――有名な狐猟犬をもっており、わたしの語り手はそれをよく借りたものだそうである。ほかにキャプテンであり町の吏員であり議員であった、あるこの町の老商人の「当座附込帳」を見ると、次のような記入がある、――一七四二―三年、一月十八日「ジョン・メルヴン(貸方)、灰色狐一匹、二シル三ペンス。」そういうものは今ではこの辺では見あたらない。そして一七四三年二月七日の彼の元帳ではヒジーキア・ストラットンが「猫皮半枚、一シル四ペンス半」の貸方をもっている。これはもちろん山猫のことで、ストラットンはむかしの対フランス戦争の軍曹だから、それ以下の動物を狩って貸方をうるようなことはいさぎよしとしなかったはずだ。鹿皮に対しても貸方があたえられたので、それは毎日売れた。ある人はこの近所で殺された最後の鹿の角を保存しており、他の人は彼の伯父がおこなった狩りの詳細をわたしに語った。猟師はむかしはこの辺で数の多い愉快な仲間であった。わたしはある瘠せたニムロデ〔創世記に出ている猟師〕で、路ばたの木の葉をむしり取り、(わたしの記憶にあやまりがないならば、)どんな猟角笛よりも野趣があって諧調のうつくしいひとふしをそれで吹きならすのをつねとした男をよくおぼえている。
 月のある真夜中、わたしは時々わたしの道のうえで森をうろついている猟犬と出あうことがあった。かれらは恐れているかのようにわたしの道から尻ごみしわたしが通りすぎてしまうまで茂みのなかでだまって立っているのであった。
 リスと野ネズミはわたしのクルミの貯えをうばいあった。わたしの家のまわりには直径一インチから四インチまでのヤニマツが何十本とあったが前の年の冬にネズミに噛られていた。その冬はかれらにとってノールウェイの冬のようなもので、雪は長いあいだ深くつもっていて、かれらはほかの食物に松の樹皮をだいぶたくさん混ぜなければならなかった。これらの樹は真夏までも生きていて、見たところ元気がよいようであり、その多くはひとまわりすっかり噛られたにかかわらず、一フィートぐらいは成長した。しかしもうひとつ冬を越したときにはそんなのは例外なく枯れてしまった。ただ一匹のネズミがこういうふうにそっくり一本の松の木をその食事にゆるされ、上下に噛らずにまわりを噛るというのは注目にあたいすることだ。しかしこれは通常あまりに密にそだつ傾きのあるこれらの樹を間引くために必要なことでもあろう。
 ウサギ(Lepus Americanus)はごく普通に見られた。一匹はわたしからただゆか一つをへだててひと冬じゅうわたしの家の下にそのからだを隠していた。そして毎朝わたしが動きはじめると急いで逃げだしてわたしをおどろかせた。コツン、コツン、コツン――あまりあわてて頭を床板に打ちあてるのだ。うす暗くなるとウサギどもはわたしが投げだしておいたジャガイモのぎくずを噛りに戸口にやってきた。その色は地面のそれにあまりよく似ていて静かにしているとほとんど見わけられなかった。時折り、たそがれの光りのなかで窓の下にじっとうずくまっている一匹をわたしは見わけたり見失ったり代わる代わるした。夕方戸をひらくとかれらはキイキイ鳴いて跳びながら逃げるのであった。近々と見るとかれらはわたしの憐憫れんびんの情をのみかき立てた。ある夕方一匹がわたしから二歩ほど離れて戸口のそばに坐っていた。最初は恐れてふるえながら、しかも動くことを欲しなかった。あわれなちっぽけな動物――瘠せて骨だち、ぼさぼさした耳と尖った鼻、乏しい尻っ尾と細い肢をもっている。それを見ていると、あだかも自然がもはや高邁こうまいな血をもった種類をもっていず、衰えきってしまったという感があった。その大きな眼は若く不健康でほとんど水腫症をわずらっているように見えた。わたしは一歩近づいた、すると、見たまえ、それは弾力に富んだ跳躍で、そのからだとその身のたけを優美に伸ばし切って、雪の殻のうえを飛んでいき、たちまちわたしと彼自身とのあいだに森を置いてしまった。――野生の自由なけものが自らの活力と自然の品位とを証明したのである。それがほっそりしているのは理由がないことではない。すなわち、それが彼の本性であったのだ。(Lepus〔ラテン語で「兎」〕―― livipes〈軽き足〉よりず、と考える人もある。)
 ウサギとシャコとがなかったら田舎とは何だろう? かれらは最も単純で土地に固有な動物的産物である。古くからある尊むべき家柄で古代とともに近代にも知られている。自然そのものの色と実質とをもち、木の葉と大地とに最も密接にむすびついている。――そしてこの二つのものお互いにも。ただ翼をもっているか脚をもっているか、というだけの違いである。ウサギやシャコが飛びたつとき、それは野生の動物を見るというよりは、「自然」の姿で、風にそよぐ木の葉と同様にありふれたことなのだ。どのような革命がおころうとシャコとウサギとは、真の土の子らしくつねに栄えるにちがいない。もし森が伐りはらわれるとしても、あとからえ出す新芽と茂みとはかれらに隠れ場をあたえ、その数は前よりもふえる。ウサギを生かしておけないような田舎は実にあわれむべき田舎にちがいない。われわれの森はこの両方のものにみちており、すべての沼のまわりには、どこかの牛飼い少年の手になる、小枝のさくだの馬の毛のわなだのが仕掛けられた、シャコやウサギのかよが見られるのである。
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冬の池


 しずかな冬の夜のあとで、わたしは、何が――いかにして――いつ――どこで? といったような質問を自分が受けて、眠りのなかで何とか答えようとつとめたが答えられなかったという印象をもって目醒めた。しかし、あらゆる創られたものがそのうちに生きている「自然」はいま明けそめつつあり、ほがらかな満足した顔で、彼女の唇には何の質問ももたずにわたしの広い窓からのぞきこみつつあった。わたしは答えられた質問に――自然と白昼の光りとに目醒めた。若い松の点在する地面に深くつもった雪、それからわたしの家がそこに立っている丘の斜面までが、進め! といっているように思われた。自然は何とも質問を発しないし、われわれ人間が問いかけるどんな質問にも答えない。彼女はとっくに決心をきめているのだ。「おお、王よ、われわれの眼は讃嘆をもってこの宇宙のおどろくべくそして多様なる諸相を観じ、そしてそれは魂に移入される。夜はうたがいもなくこの栄光ある造化の一部分を蔽う。しかし昼は来たって、大地から精気のただよう天空にいたるまでにひろがるこの偉大な作品をわれわれに啓示する。」
 そこでわたしの朝の仕事がはじまる。まずわたしはおの手桶ておけとをもって――それが夢でないならば――水をさがしに往くのである。寒い、雪の降った翌朝には水を見出すのは鉱脈占いの杖を要する仕事である。あらゆるそよ風に対し敏感であり、すべての光りと影とを映した池の、ながれ、ふるえた表面は、冬ごとに一フィートまたは一フィート半の厚さに固まり、最も重い連畜をもささえることができ、また時としては雪が同じ厚さにそのうえを蔽い、どこの平野とも区別がつかなくなる。周囲の山に住むモルモットのようにそれは目蓋まぶたをとざして三カ月、またはそれ以上も冬眠に入るのである。丘陵のただなかの牧場でもあるかのごとく、雪に蔽われた平地に立って、わたしはまず一フィートの雪を切り開き、それから一フィートの氷を切り開いて、わたしの足の下に窓をうがつのである。そこで水を飲むためにわたしはひざまずき、魚どもの静かな客間をのぞく。それはすりガラスの窓を透してさすようなやわらげられた光りにみたされ、夏と同様なかがやく砂のゆかをもっている。そしてここに住む者の冷静でむらのない気質に相応した波だちのない永久的なおちつきが、琥珀色こはくいろの夕方の空におけるごとくそこを支配している。天はわれわれの頭上のみならず足下あしもとにもあるのだ。
 朝はやく、すべてのものが霜で凍りついているときに、釣糸巻と手軽な弁当とをもった人々がやってきて、コガマスやスズキをとるために雪の原のなかにその細い糸をおろす。かれらは本能的に町の人間のそれとは別なしきたりに倣い、別な権威を信じる野性的な人々である。そしてその往来によってかれらがいなかったら離れ離れになったであろうような地方の村々町々をむすびつける。かれらは丈夫な防水外套を着こんで岸辺の乾いた樫の葉のうえに坐りこみ、弁当をつかう。都会人が人為的な知識に通じているのと同様、自然の事情に通じている人々だ。かれらは書物をのぞいたことがなく、知っていること、人に話せることよりもはるかに多くのことをしている。かれらが実際におこなっていることはまだ十分にわかっていないというはなしだ。ここに、そだったパーチを餌にしてコガマスを釣っている男がいる。彼の桶をのぞいて見ると夏の池をのぞいたようなおどろきにうたれる。あだかも彼は夏を自分の家に閉じこめているのか、あるいは夏が引籠もっている場所をちゃんと知っているようである。いったい、どうして彼は真冬にこれらの魚を獲たのだろう? 地面が凍っているので彼は腐った丸太から虫をつかまえて、それで釣ったのだ。彼の生活そのものが博物学者の研究がとどくよりも深く自然のなかに浸透し、彼そのものが博物学者の主題となっているのだ。後者はそのナイフで苔や樹の皮をそっともちあげて虫をさがす。前者は斧をふるって丸太の芯までたたき割り、苔や樹の皮を八方に飛ばす。彼は樹の皮をはいで生計を獲ているのだ。こういう人間こそ魚取りをする権利をもっているので、わたしは彼において自然のいとなみが行なわれているのを見てよろこぶ。パーチは地虫を呑み、コガマスはパーチを呑み、そして漁師がコガマスを食う。こうして生物の階梯かいていのあいだのすべての隙間はうずめられるのである。
 もやのかかった日に池のまわりを歩いていると、素朴な漁師が採用している原始的な方法がわたしを興がらせることがある。彼は四、五ロッドぐらいの間隔を置いて岸から等距離の氷のうえに狭い穴をうがちそのうえにハンノキの枝をさしかける。糸が引き込まれるのをふせぐために先端を木切れにむすびつけ、たるんだ糸を氷のうえ一フィートあまりのハンノキの小枝のうえにわたし、それに樫の枯葉をむすびつける。枯葉がさがれば魚が喰いついたとわかるわけである。池を半廻りするとき、これらのハンノキの枝が一定の間隔をおいて靄のなかに浮かびあがって見える。
 ああ、ウォールデンのコガマス! それらが氷のうえに横たわり、または漁師が氷のうえに水がはいるようにつくった小さな穴の井戸のなかにいるのを見ると、わたしはいつもお伽噺とぎばなしの魚のようなそのたぐい稀なうつくしさにおどろかされる。かれらは町の巷とは――森とさえ――そんなに懸けはなれている、アラビヤがわがコンコードの生活から懸けはなれているほど。まばゆい超越的な美をもっていて、町でさかんにもてはやされている、屍体のような色をしたたらやハドックとはまるで段ちがいである。松の緑色でもなく、石の灰色でもなく、空の青でもなく、そういうものが世の中にありうるなら、もっと貴重な、花や宝石のような色をもっているようにわたしの眼には見える。まるで真珠であり、ウォールデンの水が動物化した結晶のようである。かれらはもちろん全面的に、底の底までウォールデンである。かれら自身動物界における小さなウォールデン池であり、ウォールデンシーズ Waldenses〔一一七九年頃、フランスのピエール・ヴァルドーがはじめた革新的なキリスト教の一派〕である。かれらがここにとらえられていること――ウォールデンの道をゴロゴロ音をたてて通る荷馬車や馬車や鈴を鳴らす橇のはるかに下の、この深いひろびろした泉のなかにこの大した金とエメラルドの魚が泳いでいるとはおどろくべきことだ。わたしはどこの市場にもついぞこの種類を見たことがない。もしそこに出れば衆目の嘆賞の的となるだろう。容易に、二つ三つ痙攣けいれん的にうごめくかと思うとかれらはその水の魂を死にゆだねる。時ならぬに天国の稀薄な空気に移される人間のように。

 わたしは長いこと見失われていたウォールデン池の底をさがし出そうと欲したので、一八四六年のはじめ、氷が解けないうちに磁石と鎖と測線とをもってていねいにそれを測量した。この池の底――あるいは、底のないこと――についてはいろいろな説が従来あったが、それらの説自身はたしかに根柢のないものであった。人々が測量の労をとりもせずに、底がない池をいつまでも信じていることはおどろくにあたいする。わたしはこの近辺のそういう底なしの池を一度に二つもおとずれたことがあった。多くの人はウォールデンが地球の向う側までずっと突きぬけていると信じている。氷のうえに長いことうつ俯して、水という見さだめにくい媒介物をとおし、そして、ことによるとおまけに水っぽくうるんだ眼をもってのぞき、あるいは胸から風邪をひくことを恐れて早計な結論にかりたてられたある人々は、「そのなかに車一台のくさを押し入れうる」――それを持って行ける人間がいるなら――ほどの大きな穴を見た、と称する。これはうたがいもなく冥府の河スティックスの源であり、このあたりから地獄の国に到る入口であろう。他の人々は村から「五十六ポンド」おもりと荷車一台分の一インチ繩の荷をもって出かけたが、とうとう底をつきとめえなかった。なぜならば「五十六ポンド」錘りが途中で休んでいるのに、かれらは繩をどんどん繰り出して自分たちの不可思議を受け入れうる真に無限な能力を空しく測りつつあったからである。しかしわたしは諸君に、ウォールデンは異常に深くはあるがありうべからざるほどではないところに相当しっかりした底をもっていることを保証することができる。わたしは鱈釣りの糸と一ポンド半の重さの石とでわけなくそれを測量してしまった。水が石の下にはいってわたしを助ける前に、今までより、ずっと強く引っぱらなければならなかったので、いつ石が底を離れたかをわたしは正確に告げえた。最大水深は百二フィートであった。それにその後の増水の五フィートを加えて百七フィートということになる。これは、こんなに狭い面積としてはおどろくべき深さだ。しかもそのうちの一インチをも想像は他に割愛できないのだ。もし池がみんな浅かったらどうだろう? それは人間の心に影響しないだろうか? わたしはこの池が、象徴として、深く清くできていることを感謝するものである。人が無限なものを信じるかぎり、ある池は底がないと考えられるであろう。
 ある工場の主人はわたしの測った深さを聞いてそれはほんとではありえないと考えた。なぜなら堰堤えんていについての彼の知識から判断するとそんなに急な角度には砂があるはずはない、というのであった。しかし、最も深い池でもその面積に比例して考えれば、多くの人が考えるほどは深くはなく、水を排除してみれば大した谷をなしはしないだろう。それは山の間のコップのような形ではない。面積にしては異常に深いこの池でも、中心を通しての縦断面においては浅い皿以上に深くはないのだ。たいがいの池は水をからにしてみれば、われわれがよく見るもの以上にはくぼんでいない牧草地をのこすことだろう。こと、風景に関するかぎりはなはだ嘆賞にあたいし、またたいがい正確であるウィリアム・ギルピンは、スコットランドのファイン湖――それを彼は「深さ六、七十ひろ〔一尋は六フィート〕、幅四マイルの塩水の湾」で長さはおよそ五十マイルあり、山々によって囲まれていると叙述している――の起点に立って、こう述べている、「もしわれわれが、洪積期の破壊、またはどんなものにもせよそれを惹き起こした自然の大変動の直後、水が奔入しない以前にそれを見ることができたとしたらば、どんなにおそるべき深淵にそれは見えたことであろう!

『高まる丘陵がそびえる高さだけそれだけ低く
くぼんだ底は沈んだ――広く、深く、
ひろびろした水をたたえる床――』」〔ミルトンの『失楽園』からの引用〕

 ところが、もしファイン湖の最も短い直径をもちいてその比例をウォールデン――それはすでに御承知のとおり縦断面においては浅い皿としか見えないのだ――にあてはめてみれば、四分の一の浅さになってしまうのだ。からにされたファイン湖の深淵の割増しづきの怖れについては話をこれだけにとどめよう。いうまでもなく、ひろびろしたトウモロコシ畠をもった多くのほほえむ谷は水の退いた、こういう「恐ろしい深淵」をなしているのだが、何にも知らない住民にこの事実を納得させるには地質学者の洞察と達見とを要するのである。探究ずきな眼はしばしば低い地平の丘のうちに原始的な湖水の岸を見いだすもので、その素性を隠すためには後日平野が盛りあがる必要はなかったのである。しかし、道路工夫が知っているとおり、くぼんだ場所はにわか雨のあとの水溜りによって最も簡単にわかる。要するに、想像はすこしでも手綱をゆるめられると、自然そのものよりも深く潜り高くかけるものなのだ。だから、たぶん大洋の深さもその広さの比例からするときわめて些々ささたるものであろう。
 わたしは氷を通して測量したので、凍らない港を測量する際に可能であるよりも一層正確に水底の形を決定することができたが、それが概して規則的であるのにおどろいた。最も深い部分には、太陽と風と鋤とにさらされているほとんどどの畠よりも平坦な幾エーカーかの土地があった。一例をとれば、任意にえらばれた一線において、三十ロッドにわたって深さが一フィート以上の変化を示さなかった。そして一般に中心ちかくでは、わたしはどっちの方向にでも百フィートごとの変化を予測して三、四インチ以上の誤差を出さなかった。ある人々はこのような静かな砂底の池においてさえ深くて危険な穴があるようなことをよくいうものだが、こういう状態の水の作用はすべての凹凸おうとつを平坦化するものである。水底が規則的であり、岸や近くの山並みと一致していることはたいへん徹底的で、遠くはなれた岬も対岸の浅瀬となってあらわれ、その方向は対岸を観察することによって決定できた。突角は洲となり、平野は浅瀬となり谷と峡谷とは深い水と水路とをなした。
 わたしは十ロッドが一インチの縮尺で池の地図をつくり、総計百以上の測深を記入したとき、次の著しい一致を見出した。最大水深を示す数字が見たところ池の中心にあるのに気がついてわたしは定規を縦にあて、それから横にあてて、最大縦線が、最大横線と正確に最大水深の点で交叉しているのを発見しておどろいた。――中央部はほとんど平坦にちかく、池の輪郭は決して規則的ではなく、かつまた、最大縦線も最大横線も入江までこめて計ったのにもかかわらず。そして、わたしはこのヒントは池や水溜りだけではなく大洋の最深部をもみちびき示すものではあるまいか、と独語したのである。これは谷の反対物として見られた山の高さに対する法則にもなっているのではあるまいか。われわれは山がその最も狭い部分においては最高になっていないことを知っている。
 五つの入江のうち三つは――三つだけをわたしは測深したのだ――その入口をずっと横ぎって水面下の洲をもちその内部に、より深い水をもっていることを観察した。つまり湾は、水平にだけでなく垂直にも陸地内への水の拡大をなし、内湾もしくは独立した池を形づくる傾きがあり、二つの突角の方向は水面下のを示しているのであった。海岸の港もすべてその入口に洲をもっている。入江の口がその長さに比例して広ければ広いほど、見えない洲のうえの水は、内湾のそれとの比例において、より深かった。だから、入江の縦と横、それから周囲の岸の形状さえ知ればすべての場合に対する算式をつくるにほとんど十分な諸要素がととのうことになる。
 この経験から推して、池の水面の輪廓とその岸の形状だけを観察することによって池の最深点をどの程度まで正確に計ることができるかを知るために、わたしはホワイト・ポンドの略図をつくった。およそ四十一エーカーの広さのこの池はウォールデンと同様、なかに島がなく流入口も流出口も見あたらない。そして最大横線は、そこで二つの相対する突角がお互いに接近し、二つの湾が引込んでいる最小横線のごく近くにきたので、わたしは試みに後の線から少しはなれておるがやはり最大縦線のうえにある一点を最深点として印しをつけた。実際の最深点はこの点から百フィート以内にあることがわかった。それはわたしが片寄った方向にさらに遠くあり、それよりたった一フィートだけ深く――すなわち六十フィートあった。もちろん川が流れこんでいたり、中に島があったりすれば、問題をさらに複雑にするだろう。
 もしわれわれがすべての自然の法則を知っているとすれば、その点におけるすべての特殊な結果を推測するにはただ一つの事実または一つの現実の現象の叙述を必要とするだけであろう。ところがわれわれはわずかに二、三の法則を知っているにとどまるので、われわれの結果は、自然の側の何らかの混乱または不規則によってではもちろんなく、われわれが計算における必要要素を知らないことによってそこなわれてしまうのである。われわれの法則または調和の概念は通常、われわれの発見しうる場合だけにかぎられている。しかしまだわれわれが発見していない、はるかによりたくさんある、一見矛盾しているが実は合致している法則から結果する調和はさらに一段と驚嘆すべきものである。個々の法則はわれわれの観点のようなものであり、山が絶対に一つだけの形をもっているのに、旅行者には一歩ごとにその輪郭が変り無数の横顔をもつようなものである。それを割ってみたり、穴をうがってみたりしても山の全容は把握できない。
 わたしが池について観察したことは倫理においても同様に真実であるといえる。それは平均の法則である。二つの直径の法則のごときものが、太陽系における太陽や人間における心臓にむかってわれわれをみちびくのみならず、人間のそれぞれの日常の行状や生活の波の全体の縦横に線を画してその湾や入江におよび、それらの線の交叉するところに彼の性格の高みと深みとが存するであろう。たぶんわれわれは彼の岸辺のまがりぐあい、近くの地形や環境を知りさえすれば、彼の心の深みや隠された心底を推測することができよう。もし彼が山岳重畳する環境、高くそばだつ岸辺にかこまれ、そのいただきがその胸におおいかぶさってそれに影を映すようならば、それらは彼の心にもそれに相応する深みがあることを暗示する。これに対して低く平らな岸辺は彼がその側において浅いことを証する。われわれの肉体においても、思い切って出ばったひたいは次第に引いてそれに釣合うほど深い心を示す。のみならず、われわれのすべての小湾、すなわち特殊な傾向の入口にはかくされた洲が横たわっている。それぞれはわれわれが、そのなかにしばらくのあいだ引留められ部分的に閉じこめられるわれわれの港である。これらの傾向はたいがい気まぐれなものではなく、その形と大きさと方向とは岸の岬、昔からの隆起の軸によって決定される。このかくれた洲が、嵐や干満や潮流によって次第に高まったり、水面が後退したりして表面に露われるようになると、最初はそのなかに思想が停泊していた岸辺の屈曲にすぎなかったものが、外洋とは独立した別個の湖水となり、そこに思想はおのが独自性をつなぎ、おそらく塩水から淡水に変じ、新鮮な、あるいはよどんだ海や沼となる。一つの個性がこの世にあらわれたときには、われわれはどこかでそのような洲が表面にまで高まったのだと考えてよくはないか。ただし、われわれは拙劣な航海者にすぎないので、たいがい港のない海岸を附いたり離れたりし、「詩」の湾の屈曲を知っているにとどまり、あるいは公けの輸入港にむかって舵をとり、そこではただこの俗世界のための改装をするだけで、自然な潮水がそれを個性化するために協調しない、科学という乾ドックにはいってしまう。
 ウォールデンの入口出口については、わたしは雨と雪と蒸発と以外には何も見いださなかった。しかし寒暖計とひもとをもってすればそういう場所が見いだされるかもしれない。なぜならば水が池のなかにそそぎこむところはたぶん夏はいちばん冷たく冬はいちばん暖かいであろうから。一八四六年から七年にかけての冬に氷切出し人夫がはたらいていた時、岸にはこばれる氷の断片を積みあげていた人間が、ある日他のものとうまくならばないほど薄いといってそれを拒絶したことがあった。そのために切出し人夫はほんの小部分の氷が他の場所よりも二、三インチ薄いことを発見して、そこに水の入口があるとかんがえた。かれらはまた別の場所においてかれらが「底穴そこあな」だとかんがえているものをわたしに示した。池の水がそこを通じて一つの丘の底をくぐって近所の牧場まで洩れているというのだ。そしてそれを見るようにとわたしを氷のうえに押し出した。それは水の下十フィートにある小さな穴であった。だが、それよりもひどい洩れ口が発見されるまではこの池はハンダづけの必要がないとわたしは保証できると思う。そういう底穴が発見されたら、それと牧場との連絡は、その穴の口に何か色のついた粉か鋸屑おがくずを持っていき、一方牧場の泉の上に濾過器を仕掛ければ、水の流れによってはこばれる粉粒がそれに引っかかるだろうからそれで判る、と提案した人があった。
 わたしが測量していたとき、十六インチの厚さの氷はわずかな風のもとで水のような波動をしめしていた。氷のうえでは水準器が用いられないことはよく人に知られていることである。岸から十五、六フィートのところにおけるその最大波動は、陸上の水準器から氷の上の目盛り竿に向けて観察したところによると、四分の三インチであった――氷は岸に密着しているように見えたのであったが。中央部においてはそれはたぶんより大であったろう。もしわれわれの計器が十分鋭敏であったら地殻における波動をも発見しえないものともかぎるまい。わたしの水準器の二脚が岸にあり、のこる一脚が氷のうえにあり、照準がその一脚を越えて向けられたとき、きわめて微小な氷の上下運動が対岸の木立ちに幾フィートかの視差をあらわした。わたしが測深のために穴を掘りはじめたとき、氷をそこまで沈めていた深い雪の下の氷の上には三、四インチの水があった。しかし水はたちまちこれらの穴に流れこみはじめ、深い流れをなして二日間流れつづけ、それが到るところの氷を溶かした。このことは池の表面を乾かすに主要ではないまでも重要な寄与をした。なぜならば、水が流れこむとき氷を持ち上げ、浮かせたからである。これは水を排除するために船の底に穴をうがつのに幾分似ていた。そのような穴が凍り、つづいて雨が降り、そしてついに新しい寒気がすべてのうえに新たな滑かな氷を張ると、各方向から中心にむかって流れた水のために溶かされた水路によってできた、氷の薔薇模様ともいうべき、いくらか蜘蛛の巣に似た、黒い物の形がその内部に美しくまだらをつくる。また、時折り、氷が浅い水溜りでおおわれると、一方が他のものの上に載せられた、わたし自身の二重像を見た。――一つは氷の上に、も一つは木立ちか丘の斜面の上に。
 一月のまだ寒いさいちゅう雪と氷が厚く堅いうちに、用意のよい地主は彼の夏の飲み物を冷やすための氷を取るために村からやってくる。一月の今、七月の暑さと渇きとを予想する、感銘すべく、悲壮でさえある賢明さをもって――厚い外套と手袋をして!――準備されていないそんなに多くのことがあるのに。彼は次の世で彼の夏の飲み物を冷やすべきいかなる宝をもこの世で積もうとしないだろう。彼は固まった池を切り、のこぎりで引き、魚の家の屋根を取はずし、まさしくかれらの要素であり空気であるものを車ではこんで往ってしまう。薪の束のように、鎖とくいとでしっかりと留め、都合のよい冬の空気のなかを、冬の穴蔵にまではこび、そこに横たわって夏までもたせるわけである。それが街を通って遠くはこばれていく様子は固体化された青空のように見える。これらの氷切り人夫は陽気な人種で冗談をとばしふざけていた。わたしがかれらのなかに往くとかれらはよくわたしを誘って、炭坑式にわたしを下に立たせて氷をいっしょに鋸引きさせてくれた。
 一七四六年から七年にかけての冬、百人の北極人がある朝われわれの池に突然あらわれた不細工な格好をした農具――そりや鍬や畦車あぜぐるまや、芝土ナイフや鋤や鋸や熊手やを何台も車に積んで、まためいめい『ニューイングランド農業家』にも『耕作者』にも載ってないような二つ尖ったところのある槍で武装していた。かれらは冬のライ麦をきにきたのか、それともアイスランドから近年持ち込まれた他の種類の穀物を蒔きにきたのか、わたしには見当がつかなかった。肥料は見あたらないから、かれらはこの辺の土壌が深く、そして十分長く休耕状態にあったと考えて、わたしがしたと同様、上側うわがわだけ浅く耕すつもりだろうと判断された。ところがかれらの話によると、背後には一人の紳士農業家がいて、彼はすでに五十万ドルにのぼる金を貯えたといううわさだがそれを二倍にしようと思い、彼のもっているおのおののドルの上にもう一つのドルをかぶせようと思い立って、寒い冬のさなかにウォールデン池のたった一枚の上着、いな、身の皮をいだのだ。かれらはただちに仕事にかかり、見事な順序で、耕し、まぐわをかけ、転子ころならし、うねをたてて、ここを模範農場にせずにはおかぬ意気ごみのようであった。しかし蒔き溝に何を蒔くのかとわたしが眼を皿のようにしていると、わたしのすぐそばのひと組の人間は、奇態な鍬の打ちかたで、砂、いや、水のところまで――それは非常に水っぽい土であったから――実際、そこにあった、しっかりした土地そっくりを――処女土壌を根こそぎ引っさらって橇に載せはじめた。そこでわたしはかれらが泥炭地で泥炭を掘っているのにちがいないと思った。こうしてかれらは毎日、機関車から特殊な叫びをあげて、どこか極地の一地点から、そしてそこへと――どうもそうらしく思えたのだ――一群の北極の雪の鳥のように往復した。だがウォールデン婆さんも時にはその復讐をして、荷馬車のうしろについて歩いていた雇われ人夫が地面の割れ目にすべりこんですんでのところで地獄の穴に落ちこみかかり、今までえらく元気だったのがたちまち悲鳴をあげ、生き物たる熱をほとんど失い、わたしの家にほうほうのていで這いこみ、ストーヴというものはなるほどありがたいものだということを認めた。あるいは時には凍った土が鍬からその刃をもぎ取り、または鋤が畝に喰いこんでうごかなくなり、それを切り起こさなければならぬ仕儀となった。
 即実的にいえば、ヤンキーの監督者たちにひきいられた百人のアイルランド人が氷を切り出しに毎日ケムブリッジからやってきたのだ。かれらの改めて説明を要しないほどよく知られている方法で、氷を四角に切りわけ、それらがそりで岸にはこばれ、氷置き場にどんどん引きずっていかれ、馬の力でうごかされる鉄鉤てつかぎと滑車と捲揚げ機とによってそれだけの粉のたるでもあるかのようにあぶなげなく山に積みあげられ、出はいりなく平らに、層一層と列をととのえ、雲までとどかせるつもりの方尖碑オベリスク巌畳がんじょういしずえでもあるかのような観を呈した。かれらの話によると、仕事がはかどる日には一千トン、すなわち約一エーカー分だけの氷を切り出すことができるそうだ。同じ道を何べんも通る橇によって、陸地と同様に氷の上にも深い轍跡やくぼみができ、馬どもはみんな氷の切石をバケツのようにりぬいたものからかれらの燕麦えんばくを喰った。人々はこうして氷の切石を側面は三十五フィートの高さをもつ六、七ロッド平方の塚をなして大気中に積みあげ、風がはいらないように外側の層の間にはわらをつめこんだ。どんなに冷たい風にもせよ、それを吹き抜けるとそこここにわずかな支えばしらをのこして大きな空洞をうがち、ついにはそのために全体が崩れ落ちてしまう。最初それは巨大な青い要塞か、オーディン神の住むヴァルハラ宮殿のように見えた。が、やがて人々が隙間に粗い牧草をはさみこみはじめ、それが霜や氷柱でおおわれると空色そらいろの大理石でつくった尊げに苔むした灰色の廃墟と見え、また「冬」の神――暦に画かれたあの老人――が住んでいる仮小屋とも見え、彼はそこでわれわれとともに夏まで過ごすつもりかと思われた。人々はこの氷の山のうち二十五パーセントまでは目的地に達しまい、また二、三パーセントは汽車中で消えてしまうだろうと見積った。ところがこの山のうちのもっと大きな割合が最初のもくろみとはちがった運命をたどった。いつもより一層多くの空気を含んでいたために氷が予想ほどもたないことが判ったからか、あるいは何か他の理由からか知らないが、それは結局市場へ持ち出されなかったのだ。一八四六年から七年にかけての冬につくられた、一万トンはあると見つもられたこの氷の山はとうとう乾草と板がこいでおおわれた。七月になって蔽いを取られて一部ははこび去られたが、残りは太陽にさらされたままでその夏と次の冬とを持ちこたえ、一八四八年の九月まではすっかり溶け切らなかった。かくして池はその大部分を取りもどしたわけである。
 ウォールデンの氷はその水と同様、近くで見ると緑色を呈していたが離れて見ると美しい青で、河の白い氷やほかの池の単に緑がかった氷とは四分の一マイルの距離で見てもたやすく区別ができた。時にはそれらの大きな四角い氷の一つが氷人夫の橇から村の道にすべりおちて大きなエメラルドのように一週間もそこに横たわり、通る人々をおもしろがらせた。わたしは、水の状態においては緑であったウォールデンの一部が、凍ったばあいにはしばしば同じ観点からしても青く見えることに気がついた。同様に、この池のまわりのくぼみで冬において時々、池のそれにほぼ似た緑がかった水でみたされていたのが翌日は青く凍っていることがあった。水や氷の青い色はそのうちにふくまれている光りと空気とに起因するものらしく、最も澄明なものが最も青かった。氷は興味ある観察の対象である。フレッシュ・ポンドの氷室には五年もたった氷があるが、それはすこしもはじめと変わらないという話である。バケツの水はじきに腐るのに、凍ればいつまでもちゃんとしているのはどういうわけだろう。これが愛情と理性との相違である、とはよくいわれることだ。
 こうして十六日間わたしは窓から、百人の人間が、連畜と馬と、それから見たところあらゆる農具とを持ちだした忙しい農夫のようにはたらいているのを見ていた。それは暦の最初のページに載っている画のようであった。わたしはそれを眺めやるごとに「雲雀ひばりと刈り入れびと」の寓話や「種蒔く人」の譬話たとえばなし、そのほかを思い出した。しかし今はかれらはすべて去ってしまった。そしてたぶんもう三十日もすれば、この同じ窓から、そこに澄んだ海緑色のウォールデンの水が雲や木立ちを映しつつ、そしてひっそりとその水蒸気をたちのぼらせつつあり、人間がそのうえに立ったなどという形跡はすこしものこしていないのを見ることだろう。たぶん、わたしはただ一羽のカイツブリが水にもぐり、羽づくろいをしながら笑うのを聞き、またはただよう木の葉のようなボートのなかの孤独な釣師が、つい先頃まで百人の人間が安全に働いていたところの浪のうえに自分の姿が映っているのを眺め入るのを見ることだろう。
 かくしてチャールストンやニューオーリンズの、それからマドラスやボムベイやカルカッタの、暑さにあえぐ住民がわたしの井戸の水を飲むことかと思われる。朝、わたしは、それが作られてから神々の幾年月が経過し、それにくらべればわれわれ近代の世界とその文学とは小びとのごとく取るに足らぬものに思われる、古インドの叙事詩『バガヴァッド・ギーター』の巨大にして宇宙的な哲理にわたしの知性をゆあみさせる。その崇高さがわれわれの観念からはそんなに懸けはなれているので、わたしはこの哲理は前の世にむすびつけて考えられるべきものではないかとの疑念をもっているのだ。わたしは書物を伏せ、水を飲みにわたしの井戸に行く。すると、見よ! わたしはそこでバラモンの召使いに出会うのだ。バラモンはブラフマとヴィシュヌとインドラとの僧であり、今なおガンジス河のほとりの彼の寺に坐ってヴェーダの経を読み、あるいは彼のパンの皮と水の壺とをもって樹の根がたに住む。わたしは彼の召使いが主人のために水を汲みにくるのに出会い、われわれのバケツはいわば同じ井戸でこすれあうのだ。清らかなウォールデンの水がガンジスの聖なる水とまざっている。追い風に乗ってこの池の水はアトランティスやヘスペリデスの昔語りの島の境をすぎ、カルタゴの航海者ハンノーの周航のあとをたどり、テルナテとティドルの島々とペルシャ湾口のほとりをただよい、インド洋の熱風に溶けてアレキサンダー大王がその名のみを聞いた諸港に上陸するのだ。
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 氷切出し人夫が広い面積を切りひらくとたいがい池はいつもより早く解氷期にはいる。なぜならば水は寒い季候においては風にゆるがされて周囲の氷をすり減らすからである。しかしその年はウォールデンはそうならなかった。彼女は古いのに代わる新しい厚い着物を早速にまとったからである。この池は深くもあり、氷を解かしすり減らす流れもはいりこまないために、この近辺の他の池のように早く解氷することは決してなかった。わたしはまだ冬のうちにそれが解氷したのを記憶しない。非常な試煉を方々の池にあたえた一八五二年から三年にかけての冬も例外ではなかった。それは通常、フリント・ポンドやフェア・ヘーヴンより一週間から十日おそく、四月一日ごろに解ける。結氷と同じく、北の岸と、より浅い部分とからはじまって解けだすのである。それは一時的な温度の変化に影響されることがより少ないので、この辺のどの水よりも季節の絶対的進行をよりよく示す。三月に数日間ひどい寒さがつづくと他の池の解氷をいちじるしく遅らすものだが、ウォールデンの温度はほとんど引つづいて上昇する。一八四七年三月六日にウォールデンの中央部に差しこんだ寒暖計は三十二度、すなわち氷点を示し、岸近くでは三十三度あった。同じ日にフリント・ポンドの中央部では三十二度半であり、岸から十二ロッドはなれた浅い水の、厚さ一フィートの氷の下では三十六度であった。後の池の深い水と浅い水との温度のあいだに示された、この三度半という差と、その大部分が比較的浅いという事実とは、なぜそれがウォールデンよりそんなに早く解氷するかを語っている。このとき、最も浅い部分の氷は中央部におけるよりも数インチも薄かった。真冬には中央部が最も暖かく氷はそこが最も薄かった。同様にまた、夏に池の岸のあたりを渡渉した人は誰でも、三、四インチの深さしかない岸の近くでは、少し外に出たところよりもずっと水が暖かいということ、また深いところで底近くよりも表面の方がずっと暖かいことを認めたにちがいない。春になると太陽は空気と大地との上昇した温度によって影響をおよぼすばかりでなく、その熱は一フィートまたはそれ以上の厚さの氷を通過し、浅い水のところでは底から反射して、それによってもまた水をあたため、直接上方から溶かすと同時に氷の裏側を溶かし、かくして氷を不平均にし、またそれがなかに含んでいた気泡が上に下にふくれ出てついには氷をすっかり蜂の巣のようにさせ、やがて氷はただ一回の春の雨にたちまち消えてなくなるのである。氷は木材と同様に木目をもっており、氷塊は崩れ、あるいはが入りはじめる――すなわち、蜂の巣のような外観を呈しだすときには、その位置がどうあろうとも空気のあなは水の表面だったものと直角になる。水面にちかく岩なり丸太なりがもちあがっているところではその上の氷はずっと薄く、しばしばこの輻射熱で全く解けていることがある。わたしはまた、ケムブリッジにおいて木製の浅い池で水を凍らせることを実験したところ、冷たい空気は下を流通して上下から冷やすことになったものの、底からの太陽の輻射熱がこの利益を相殺そうさいしてあまりがあったと聞いている。冬の中頃に降った暖かい雨がウォールデンから雪氷を溶かし去って、中央に堅くて暗い、または透明な氷をのこすときは、岸のあたりにこの輻射熱でつくられた一ロッドまたはそれ以上の幅の、より厚いけれどものはいった白い氷の帯ができる。なおまた、氷のなかの気泡そのものがその下の氷を溶かす天日取りレンズの役をすることは前にのべたとおりである。
 一年の現象は毎日池において小規模にあらわされる。毎朝、概していえば、浅い水は深い水より一層すみやかにあたためられ(結局あまり暖かくならないにしても)、毎夕それは朝まで一層すみやかに冷やされつつあるのだ。一日は一年の雛型ひながたである。夜は冬で、朝と夕とは春と秋とであり、昼は夏である。氷がピシピシと、そしてバリバリと音をたてるのは温度の変化を示すものである。一八五〇年二月二十四日、寒かった前夜のあとのさわやかな朝に、一日を過ごすためにフリント・ポンドに出かけたわたしは、氷を斧の頭でたたくと、それがドラのように、またぴんと張った太鼓の頂きを打ったように周囲何ロッドにわたって鳴りひびくのにおどろいた。池は日の出から一時間ばかりして、丘の上から斜めにさす日ざしの影響を感じたときに音をたてはじめる。それは目を醒ましかけた人間のようにのびをし欠伸あくびをして次第にさわがしくなり、それが三、四時間つづく。それは真昼にはみじかい昼寝をし、夕方かけて太陽がその勢力を収める頃にもう一度バリバリ音を立てた。気候の適当な時期においては池は非常に規則的に夕べの時砲を発射する。しかし日中には、バリバリいう音にみちており、空気も弾力性によりとぼしいのでそのひびきの良さは完全にうしなわれ、その上を打ちたたいても魚やジャコウネズミがおどろいて茫然となることはないだろう。釣師たちは「池のとどろき」は魚をおびえさせ、喰いつきを悪くするという。池は毎夕とどろくわけではなく、いつとどろくかを確かに予言することもわたしにはできない。気候には格別相違がなくてもとどろくことがある。こんなに大きく、冷たく、厚い皮をもったものがそんなに敏感であろうとは誰にも思いがけないことであろう。けれどもそれはつぼみが春になってふくらむように確実に、そうすべきときにそれに服従してとどろく己が法則をもっているのだ。大地はどこからどこまでも生きており、小乳頭状突起でおおわれている。最も大きな池でも大気の変化に対して、管のなかの小球状水銀とおなじぐらい敏感である。

 森にきて住むことの一つの魅力は、春がおとずれるのを見る閑暇と機会とがもてるだろうということであった。池の氷にはとうとう蜂の巣型の孔があきはじめ、歩きながらかかとをそのなかに踏みこむことができる。霧と雨と暖かくなった太陽とはおもむろに雪を溶かしつつある。日ははっきりわかるほど長くなった。もうさかんに火を起こす必要はないから、わたしの薪の山を補充しないでも冬が過ごせるという見込みがついた。わたしは春の最初のきざし――何かわたり鳥のゆくりない調べ、あるいはもう貯えがほとんど尽きたにちがいないしまリスのさえずりを聞こうと、あるいはヤマネズミがその冬ごもりから思い切って出てくるのを見のがすまいと待ちかまえる。三月十三日、わたしがすでにアオコマドリとウタスズメとアカバネを聞いたのちにも氷はほとんど一フィートの厚さがあった。気候はだんだん暖かくなっても、それは水のために眼に見えてはすり減らされず、河におけるように割れくだけてただよい去ることもなく、岸のあたり幅半ロッドばかりは完全に溶けてしまっても、中央は単に蜂の巣のような孔があいて水でひたされ、そのために六インチ厚さの氷でも踏み抜くことができるだけであった。しかし翌日の晩までにはたぶん暖かい雨とそれにつづく霧ののちに、それは全く消え、神隠しに会ったように霧とともになくなってしまうことだろう。ある年、わたしは氷が全体消えてしまうわずか五日前に中央部をよこぎったことがあった。一八四五年にはウォールデンは四月一日にはじめて完全に解氷した。四六年には三月二十五日、四七年には四月八日、五一年には三月二十八日、五二年には四月十八日、五三年には三月二十三日、五四年には四月七日前後であった。
 寒暑のそんなにはげしい気候に住むわれわれにとっては、河と池との解氷や季候の定まりと関係したあらゆる出来事は特に興味をそそる。暖かい日がくると、河の近くに住む人々は、氷のかせがはじからはじまで裂けたように、砲声ほど大きい、びっくりさせるような音をたてて、夜中に氷が割れるのを聞き、数日中にそれが急速に解けていくのを見る。わにはこういうふうに地面を揺がして泥のなかから出てくるのだ。長年、自然の精密な観察者であり、自然は彼の少年時代に造船台にのぼせられ彼は彼女の竜骨のくみ立ての手つだいをしたとでもいうほど、彼女のあらゆる作用について残るくまなく通じており――もう一人前に生長してしまって、たとえ彼が九百歳以上の齢をかさねたメトセラの年まで生きるとしても自然に関する知識をこのうえ加えることはできそうもない――といったような一人の老人が次の話をしたのだが、わたしは彼と自然との間柄にはもはや何の秘密もないのだとばかり思いこんでいたのだから、彼女の作用のどれかに対して彼が驚異を示すのを聞いてわたしは意外の感にうたれたのである。――彼はある春の日にボートと銃とを持ち出し鴨猟をきめこもうとした。牧草地にはまだ氷があったが、河からはすっかり消えうせていたので、彼の住んでいるサッドベリーからフェア・ヘーヴンの池までは何のさまたげもうけずに流れを下っていったが、そこについて見ると池は意外にも大部分堅い氷の原であった。それは暖かい日だったので、こんなに大きな氷のかたまりが残っているのを見るのはおどろくべきことであった。鴨は見あたらなかったので彼は池のなかの一つの島の北側、あるいは裏側に彼のボートをかくし、自身は南側の茂みのなかにかくれて鴨が来るのを待った。氷は岸から三、四ロッドまでは溶けていて、そこにはおだやかな、暖かい水をたたえ、鴨が好みそうな泥ぶかい底をひそめていた。彼はじきに何羽かやってくるにちがいないと思った。一時間もじっと横たわっていたころ、彼は、低くだいぶ遠くであるがまだ聞いたおぼえのないほど異様に大がかりでものものしい音が徐々にひろがり強まるのを聞いた。それは何か大々的な記憶すべき結果になりそうな気がした。その凄味をおびた襲来ととどろきとを聞いた彼はたちまち、それがここに下り立とうとしている鳥の大群の羽音らしいと気がつき、銃をおっ取って、あたふたと飛びだした。ところがおどろいたことに彼は自分が横たわっていたあいだに氷の全体のかたまりが動き出し、岸の方にただよってきたのを見いだした。彼の聞いたのはそのふちが岸にこすれる音であった。――はじめのうちは少しずつ噛みくだかれていたが、ついには盛りあがってかなりの高さまで岸に沿うてかけらをはねとばしたのちにようやく動かなくなったのであった。
 やがて太陽の光線は適当な角度に達し、暖かい風は霧と雨とを吹きはらい、土堤の雪を溶かし、日は霧を追いのけて小豆色あずきいろと白との交錯した、水蒸気の香煙のけぶる風景にほほえみかけ、旅びとはそのなかを島から島へと道をひろっていく――彼の耳は、その脈管にそれがはこび去りつつある冬の血がみちている、一千のせせらぐ小川と小流れの音楽によってよろこばされつつ。
 それによってわたしが村にかよった鉄道線路の深い切通しの崖を、雪溶けの砂や粘土が流れおちる際にあらわす姿ほどわたしをよろこばす現象はすくなかった。――鉄道が発明された以後、あつらえ向きな材料をもった、新たに曝露された土堤の数はぐっと多くなったにちがいないが、これほど大規模なのはざらにはない現象であった。材料はいろいろな程度の細かさと各種のゆたかな色彩をもった砂で、たいがい少しの粘土を混じている。春の日に霜がむすぶと――冬のあいだの氷がける日でもそうなることがあるが――砂は溶岩のように斜面を流れ落ちはじめる。時には雪のあいだからほとばしり出て、前には砂がちっとも見あたらなかったところにあふれだす。無数の小さな流れが重なり、編みあわされ、半ばは流れの法則にしたがい、半ばは植物の法則にしたがった一種のあいの産物の状態を呈する。流れるにしたがってそれは水気の多い葉や蔓の形となり、一フィートもしくはそれ以上の厚みのパルプ状の枝のかたまりをなし、上から見おろしたところ、何かの苔の、ぎざぎざな縁のある、弁状の、鱗型に重なりあった葉状体に似ている。あるいは、珊瑚さんごひょうあしか鳥の足、脳や肺臓や腸、それからあらゆる種類の排泄物を思わされる。それは真にグロテスクな植物で、その形と色とは青銅で模倣されているアカントス、チコリー、常春籐きづた葡萄ぶどう、そのほかいかなる植物の葉よりも古代的で典型的な建築用唐草模様の一種であって、次第によっては未来の地質学者の頭をなやます謎となるかもしれない。切通し全体は、その鐘乳石が[#「鐘乳石が」はママ]明るみにさらけだされた洞窟といった感じをわたしにあたえた。砂のとりどりな色彩は、いろいろな鉄の色――褐色、灰色、黄色がかったもの、赤みをおびたもの――をふくみ、いかにも豊富で快かった。流れおちるかたまりが土堤の裾の溝に達するとそれはより平たく拡がって砂丘をかたちづくり、各個の流れはその半円筒形をうしなってより平たく、より幅ひろくなり、より多く水気をふくむにつれていっしょにまざりあい、ついには、まださまざまな美しい色合いをもったまま、ほとんど平たい砂地になるが、そこには当初の繁茂の形態がまだ跡づけられる。最後にいよいよ水のなかにはいるとそれらは河口の先にできるような堆砂と変わって、繁茂の形態は水底にきざまれたさざ波模様に消されてしまう。
 二十フィートから四十フィートの高さのある堤防全体は、ただ一日の春の日の産物であるこの種の唐草模様のかたまり、または砂の噴出によって、片側または両側を四分の一マイルにわたっておおわれることがある。この砂の唐草模様を特にめずらしいものにするのはそれがこのように突然に湧き出ることである。一方の側には何の活気もみとめられない堤を見――太陽は最初は片側だけに作用するので――もう一方の側にはたった一時間で創りあげられたこの豊麗な木の葉模様を見るとき、わたしはある特殊な意味で、世界とわたしとを作った、あの「芸術家」の工房にはいったような――彼がまだ仕事をつづけ、この土堤をもてあそびつつ、精力がありあまって彼の新しい模様を撒きちらしているところにきあわせたような気持になる。わたしは地球の内臓により近くきたような感じがする。この砂のあふれいでは動物体の内臓にいくらか似た、木の葉のかたまりのようなものであったから。すなわち、われわれは砂そのもののなかに植物の葉の前駆を見いだすのだ。大地が外側においてみずからを葉の形で表現するのは少しも不思議ではない、それは内側においてそういうアイディアにみちてうずうずしているのだから。原子はすでにこの理法を知っており、それをはらんでいるのだ。垂れさがる葉はここにその原型をもっている。地球においても動物体においても、内部的には、それは湿しめった厚いローブ lobe ――この言葉は特に肝臓や肺や脂肪の葉にあてはまるものである(λε※[#鋭アクセント付きι、U+1F77、378-1]βω, labour, lapsus は、下に流れ、または滑ること、陥ること。λοβ※[#鋭アクセント付きο、U+1F79、378-2]※(ギリシア小文字ファイナルSIGMA、1-6-57), globus に対して lobe〈葉〉、globe〈地球〉があり、また lap〈重なりかかる〉、flap〈垂れさがる〉、そのほか多くの言葉がある。)――であり、外部的には、乾いた薄い葉 leaf である――ちょうど f や v は b を圧しつけて乾かしたものであるように。lobe の根基は lb であり、b の軟かいかたまりを(b は一葉で B は双葉である)流音の l が後から前に押し出している形である。globe においては根基は glb で喉音の g はその意味に咽喉のはたらきを加える。鳥の羽毛や翼はさらに乾いたさらに薄い葉である。同様にまた、ずんぐりした地中の蛆虫うじむしから空中にはばたく蝶に辿られるのである。地球そのものも絶えず自らを超越し変形しつつ、その軌道をかけるようになる。氷でさえ、水中の植物の葉が水という鏡のうえに印刻した型にながれこんだような、繊細な結晶的な葉からはじまるのだ。樹全体も一つの葉にすぎず、もろもろの河はより大きな葉であり、その葉肉は間にはさまれている陸地であり、都市は葉柄ようへいの附け根にひり出された昆虫の卵である。
 日が没すると砂も流れるのをやめるが、翌朝には流れはふたたびはじまり、枝から枝が出て幾万となく殖えていく。われわれはたぶんそこに、いかにして血管がつくられるかを見るであろう。よく気をつけてそれを見ると、溶けゆくかたまりから、まず第一に指の腹のような、水滴のような先端をもった軟かくなった砂の流れが押し出てくるのを見るであろう。それはのろのろと盲目的に下の方にさぐりすすみ、やがて日が高くなるにつれて、より多くの熱と湿り気を獲て、そのうちの最も流動的な部分は、最も遅鈍な部分もやがてはやはり服するところの法則にしたがおうと努力して後者から分離し、その内部で自らのために曲りうねる水路または動脈をつくる。そのうちにおいては小さな銀色の流れが、肉の多い葉または枝の一つの段階から他の段階へと電光のようにひらめいてつづき、それが時折り砂のうちに呑みこまれるのが見られる。砂が、その進路の尖った先端を形づくるのにおのがかたまりのうちから獲られる最適の材料を用いながら、どんなに速く、しかもどんなに完全に流れ、自らを組織していくかはおどろくほどである。河の源もそのようなものである。水が沈下する珪土性物質のなかにはたぶん骨質組織があるのであろうし、よりこまかな土と有機的物質のなかには肉質繊維または細胞組織があるのであろう。人間そのものとても溶けつつある粘土のかたまり以外の何であろう。人間の指の腹は水滴が凝固したものである。手の指、足の指は肉体の溶けつつあるかたまりからかれらの行くところまで流れるのである。もっと快適な空のもとにおいては人間のからだはどこまでふくらみ流れ出て、どういう形になるか誰も見当がつかない。手は葉片と葉脈とをもった、ひろげられたシュロの葉 palm〔たなごころ、の意味もある〕ではないか。耳は想像をたくましくすれば lobe(耳たぼ)またはたれさがったものをもっている、頭のわきにはえた蘚苔類 umbilicaria と見なすことができる。唇―― labium〔ラテン語で「唇」〕は labour〔骨を折って進む〕から出たもの(?)――は洞窟のような口のわきから重なり、または垂れる。鼻は明らかに凝固した水滴または鐘乳石で[#「鐘乳石で」はママ]ある。あごはより大きい垂れさがりで、顔の各部が合流してぶらさがったものである。頬はひたいから、顔の谷間にすべりおちたものが頬骨にあたってひろがったもの。植物の葉の丸味をおびた葉弁もそれぞれ、厚い、今は道草を喰っている大小のしずくである。葉弁は葉の指である。葉はその葉弁の数だけの方向にむかって流れる傾向をもち、温度があがるなり、あるいはそのほかの都合のよい影響のもとにおいてはもっと止めどもなく流れたはずである。
 すなわち、この一つの丘の斜面は自然のすべての作用の原則を例証しているように見える。この地球の製作者は一枚の葉の特許をもっているだけである。いかなるシャムポリオン〔一七九一―一八三二年。フランスのエジプト学者〕が、ここに表された象形文字をわれわれのために解読し、われわれに新生面をひらくを得しめてくれるだろうか? この現象はわたしにとっては葡萄ばたけの豊饒さよりもさらにたのしいものである。じっさい、それがいくぶん排泄物のような性格をもっているのは事実であり、肝臓、肺臓、腸が山のごとく無数にあり、地球が裏返しにされた観がある。しかしそのことは少なくとも自然が肺腑をもっていることを暗示するものであり、その点から見ても自然は人類の母である。これは地中から霜が這い出たものであり、これが春である。それは緑の、そして花の咲く春に先駆ける――神話が普通の詩に先立つように。冬の食いもたれと悪ガスを掃除するにはこれに越したものは考えられない。それは地球がまだその襁褓むつき時期にあり、その嬰児えいじの指をあらゆる方向にさし出していることをわたしに信ぜしめる。新しい捲き毛は恐れを知らない大胆なひたいから生えだす。そこには無機的なものは少しもない。これらの簇葉そうようのようなかたまりは炉のなかの鉱滓かなくそのように土堤にそうてよこたわり、自然がまだ内部においては「さかんに吹き分けられ」つつあることを示している。地球は、書物の紙葉のように層をなして重ねられ、主として地質学者と考古学者とによって研究されるべき単なる死んだ歴史の断片ではなく、花や果実に先がける木の葉のごとき、生きている詩である――化石した大地ではなく生きている大地であり、その偉大な中心の生命にくらべればすべての動物的および植物的の生命は単に寄生的なものにすぎない。その陣痛は人間の脱け殻をその墓場から立ちあがらせるであろう。人はその金属を熔かし彼ができるかぎりの最も美しい鋳型いがたに鋳こむかもしれないが、とてもこの熔けだした土が流れて形づくるものほどにはわたしを興奮させることはできない。大地のみでなく、そのうえにある諸制度も陶工の手のうちの粘土のように思いのままの形になしうるものである。

 まもなく、ここの土堤ばかりでなく、すべての丘や野原のうえ、すべてのくぼみのなかでも、霜は穴から這いだす冬眠していた四足獣のように地中を出て、音楽にともなわれて海におもむき、または雲のなかなる別の国土に移住する。そのおだやかな説得力をもった「霜解けソー」は大槌おおづちをもった雷神ソールより力づよい。前者は溶かしてしまうが後者はこなごなにくだくにとどまる。
 地面の雪がまだらに消え、暖かい日が二、三日つづいてその表面をいくぶん乾かしたとき、わずかにのぞきかけた幼い年の最初のやわらかな徴候を、冬に抵抗してきた枯れ木の堂々とした美とくらべて見るのはたのしい。そこには不死草、キリン草、ハリグサ、その他の、しばしば夏においてよりもかえって目だち、また趣きのある優雅な野草があり、その美はそのときになってはじめて円熟するかのごとくである。ワタグサ、ネコノオ、モウズイカ、ジョンスワート、ハードハック、メドースウィート、そのほかの丈夫な茎をもった植物――いちばん早い鳥をもてなす食べきれない穀倉――もある。それらは少なくともやもめの「自然」が身にまとう格好な服〔「雑草」の意もある〕である。わたしは特に羊毛草の、アーチ形の穀物の束のような頂きに心を惹かれる。それはわれわれの記憶に夏を呼びもどすものであり、芸術が模写することを好む形の一つであり、また、人間の心のうちにすでに存在する原型に対して天文学がもっているのと同じ関係を、植物界においてもっている。それはギリシャのよりもエジプトのよりももっと古い様式である。多くの冬の現象はたとえようもないやさしさともろいほどの繊細味をおびている。われわれはこの王が荒々しくやかましい暴君であるように聞き慣れているが、彼は愛する者のやさしさをもって夏の髪を飾ってやるのである。
 春が近づいたころ、わたしが坐って読んだり書いたりしているすぐ足もとの床下に二匹の赤リスが一度にはいりこんで、今まで聞いたことのないような不思議なしのび笑いとさえずりと声の旋舞と喉をならす音とをつづけた。わたしが足を踏みならすと、なおさら声だかく、チュッチュッと啼き、かれらの気ちがいじみた悪ふざけにすべての恐れと敬意とを忘れ、人間の止めだてを馬鹿にしているふうであった。こらっ。やめろ――チュッチュ――チュッチュ。かれらはわたしの抗議に全然耳をかさず、あるいはその力を認めず、とめどのない悪口雑言の調べにふけるのであった。
 春の最初のスズメ! 一年は前よりもさらに若い希望ではじまるのだ! 半ばあらわになった湿った野のうえに聞えるアオコマドリ、ウタスズメ、アカバネからのかすかな銀のさえずりは冬の最後の雪ひらがこぼれおちて鳴るかのよう! そのようなとき、歴史は、年代学は、伝統は、そしてすべての書かれた啓示は何であろうか。小川は春への讃歌と歓びを歌う。牧草地のうえを低くとんでいるヌマタカは、目醒めた最初のぬるぬるした生き物をすでにあさっている。溶ける雪のしたたりおちる音はすべての谷あいに聞かれ、氷は池で解けいそいでいる。草は丘の斜面で春の炎のように燃えたっている――「最初の雨にうながされて草ははじめてえそめる〔原文ラテン語〕」――あだかも帰りきたる太陽にあいさつするために大地が内部の熱を送り出したかのように。その炎の色は黄色ではなく緑である。永久の青春の象徴である草の葉は長い緑のリボンのように土から夏のなかに流れ入る。一時は霜のために抑えられるがやがてまた押し出し、去年の枯草の穂を下なる新たな生命で持ちあげる。それは地面から水の流れがにじみ出るようにどんどんそだつ。それはほとんど水の流れとおなじものである。なぜならば茂りそだつ六月の日々、水の流れがれたときには草の葉がその水路となり、来る年々に家畜群はこの常緑の流れで飲み、草刈りは時期を失せずかれらの冬の飼料をそこから汲みこむのである。同様にわれわれ人間のいのちも根ぎわまで死ぬだけで、いつまでも永遠にその緑の葉をさし出すのである。
 ウォールデンはすみやかに解けつつある。北側と西側とに沿うては二ロッド幅の水路ができ、東のはじではそれがもっと広くなっている。大きな氷のひろがりが主体から欠けおちた。わたしは岸辺の茂みからウタスズメが歌っているのを聞く――オリット、オリット、オリット――チップ、チップ、チップ、チーチャー、――チー、ウィス、ウィス、ウィス。彼も氷を割る手つだいをしているのである。氷のふちの大きくのびる曲線は何と見事なものだろう! それは岸のそれとある程度まで呼応しているが一層規則的である。それは先頃のきびしい、しかし一時的の寒さのために異常に堅く、宮殿の床のように一面に波紋状のつやを帯びている。しかし風はその不透明な表面のうえを東にむかってむなしく滑り、その先に出はずれてはじめて生きた水面に達する。この日の光りにひらめく水のリボン――内部の魚と岸の砂とのよろこびを語っているような愉しさと若さとにみちた池の素顔、ウグイのうろこのように銀色をおびて、全体が一つの生きた魚のような水のかがやきを見るのはすばらしい。これが冬と春との対照である。死んでいたウォールデンが生きかえったのだ。しかし今年の春は、前にいったとおり、それはいつもより着々と解けたのである。
 嵐と冬とから晴れやかでおだやかな気候への変化、暗くものい時間からかがやき、はずみのある時間への変化は、すべての物が宣告する記憶すべき危機である。それは結局は、見たところ瞬間的である。突然――夕方が近いのに、そして冬の雪がまだ垂れさがっているのに、そして軒にはみぞれのような雨がしたたりおちているのに――光りのみなぎりがわたしの家をみたした。わたしは窓の外を見た、――見たまえ! 昨日まで冷たい灰色の氷のあったところに今は澄んだ池があった――すでに夏の夕べのようにおだやかに希望にみちて、そのふところに夏の夕空を映して――それは頭上には見えないのだが、池がどこか遠い地平と消息を交したかのごとく。わたしは遠くにコマドリを聞いた。それは何千年ぶりで聞いたものであり、これから何千年ものあいだ忘れられないような気がした。むかしながらのうつくしく力づよい歌であった。おお、ニューイングランドの夏の日の終わる夕方のコマドリよ! 彼がとまっている小枝を見いだすことができたら! わたしはそのを、その小枝を意味するのだ。これは少なくとも単に Turdus migratorius の学名で代表される鳥ではないのだ。そんなに長いあいだうなだれていた、わたしの家のまわりのヤニマツや灌木カシは急にそれぞれの性格をとりもどし、雨によって十分にきよめられ元気づけられたように、より明るく、より緑に、そしてよりまっ直ぐに、より生き生きと見えた。わたしは雨がもうたしかにあがったことを知った。森のどの小枝を見ても、いや、薪の山を見てさえ、その冬が去ったかどうかがわかる。もっと暗くなってから、わたしは森のうえを低く飛びながら啼くガチョウの声におどろかされた。南の方の湖水から遅くたどりついた疲れた旅びとのように、そしてやっと心置きなく愚痴をこぼし、おたがいに慰めあうことができるといったていで。わたしは戸口に立ってかれらのせわしい羽ばたきを聞くことができた。かれらはわたしの家の方にむかって飛んできながら、突然わたしの灯を見つけると、抑えるような啼き声をたてて旋回し池に下り立った。わたしは家のなかにはいって戸を閉ざし、森のなかの最初の春の夜を過ごした。
 翌朝、わたしは戸口から霧をとおして、五十ロッド沖あいの池の中ほどにガチョウどもが泳いでいるのをながめた。そんなに大きく、そしてしきりにさわぎ立てるのでウォールデンはかれらの遊楽のための人工の池かとおもわれた。けれどもわたしが岸まで出ると、かれらはたちまち、指揮官の合図のもとにおそろしい羽ばたきで舞いあがり、やがて隊列がととのうと、総数二十九羽がわたしの頭のうえを旋回し、それから指揮官の一定の間隔をおいた啼き声のもとにまっ直ぐカナダを指して飛んで往ってしまった。もっと泥ぶかい池で朝めしにありつけることを信じつつ。一隊のカモも同時に飛び立って、かれらのさわがしい従兄弟たちの後を追いながら北への道を取った。
 それから一週間ばかり、霧のふかい朝々に、わたしは一羽の取のこされたガチョウが仲間をさがしもとめて輪をえがき、さぐりまわる啼き声で、自分のような大きな鳥はやしないきれない森につきまとっているのを聞いた。四月にはハトが小さな群をなしてすみやかに飛ぶのがふたたび見られ、そうこうするうちにイワツバメがわたしの伐採地のうえでさえずるのが聞かれた。村にはわたしのところにまで廻してよこすほどこの鳥がありあまっているようには見えなかったが。わたしは、これらの鳥は白人がこの地にやってくる前に木のうろに住んでいた特別な古い種族なのだと想像した。ほとんどこの土地でも亀と蛙はこの季節の先駆者であり伝令である。鳥は歌い羽をひらめかせて飛び、植物は芽ぐみ花咲き、風は吹いて、地軸のこの少しばかりの片寄りを訂正して自然の平衡を維持しようとつとめる。
 四季は順々にわれわれにとっていちばん善いものに思われるもので、春の到来は「混沌」から「宇宙」が創成されたように、また「黄金時代」が実現されたように思われる――

“Eurus ad Auroram, Nabathaeaque regna recessit,
Persidaque, et radiis juga subdita matutinis.”
東風エウルスは、東のくに、ナバテアとペルシャに、
朝の日ざしのもとの山なみにしりぞいた。
………………………………
人はうまれた。あらゆるものの造り主、
より善き世の大元おおもとが彼を神の種より造ったのか、
それとも、高い精気から近頃分たれた大地が
同種である天の種子をもどしたのであろうか。」
〔オヴィディウス『メタモルフォセス』よりの引用〕

 ただひと雨で草は幾段も緑を増す。そのように、よりよい思想が流れこむとわれわれの前途の見込みはかがやく。もし、われわれが常に現在に生き、わがうえに降るごくささやかな露の影響もそっくり示す草のように、われわれのうえにふりかかるあらゆる偶然事を活用するならば、そして過ぎ去った機会をなおざりにしたことのつぐないをするためにわれわれの時を過ごし、それが義務をはたすことだと呼ぶようなことをしないならば、われわれは祝福されるであろう。われわれはすでに春が来たのに冬のうちにさまよっている。こころよい春の朝のうちではすべての人の罪は赦される。このような日は悪徳に対する休戦である。そのような日がもえつづけるあいだは極重罪人も戻りうるのである。われわれ自身の恢復された無罪を通じてわれわれは隣人の無罪をも見わけることができる。われわれは昨日われわれの隣人を盗人として酔漢として肉欲者として知り、単に彼をあわれみさげすみ、世の中に絶望したかもしれない。しかしこの最初の春の朝、日は世界を再創造して明るく暖かく照り、われわれは彼が何かほがらかな仕事をしているのに出あい、いかに彼のつかれけがれた脈管がしずかなよろこびでふくらみ、新しい日を祝福し、幼年の無邪気さをもって春の影響を感じているかを見ては、すべての彼の罪科は忘れられてしまう。彼の身辺には善意の雰囲気がただよっているばかりでなく、たぶん新たにうまれた本能のように盲目的に非効果的にではあろうがかすかに神聖さの香りすら表現をもとめてまさぐりつつあり、しばらくのあいだは南の丘辺はいかなる野卑なざれごとをもこだまさせない。彼の節くれ立った外皮からは、無垢な、うるわしい新芽が、最も若い植物のようにやわらかく新鮮に萠えだして新たな一年の生活をこころみようと準備しているのが見られる。彼もまた彼の主なる神のよろこびに参入しているのである。なぜ牢番は彼の牢獄の戸を開けはなたないのか――なぜ判事は彼の事件を中止しないのか――なぜ説教師は彼の集いを解散しないのか! かれらは神がかれらにあたえる暗示にしたがわず、神がすべての者に惜しみなくさし出すゆるしを受け入れないからである。
「毎日、朝のおだやかなめぐみぶかい空気のなかではぐくまれる善への復帰は、人をして、善を愛し悪を憎む点においては、伐りたおされた森の木の新芽のように、人間の本性にいくらか近づかしめる。同じように一日のうちに人がなす悪は、ふたたび芽ぐみはじめた善の萠芽がそだつことをさまたげ、それをほろぼす。
「善の萠芽がこのように何日となくそだつのをさまたげられると夕べの恵みぶかい空気もやがてそれを維持することができなくなる。夕べの空気がもはやそれを維持するに足らなくなると人間の本性はたちまち畜生のそれと多く異なるところのないものになる。人々はこの者の本性が畜生のそれと異ならないのを見て、彼は固有の理性のはたらきをはじめからもたなかったとかんがえる。それが人間の真の、そして自然の情であろうか?」

「黄金時代ははじめに創られた、それは復讐者なくして、
自然に、掟なくして、忠実と端正とをはぐくんだ。
懲罰と恐怖とはなかった、そして人をおびえさせる言葉が、
吊るされた真鍮板に、読まれることはなかったし、れふす群衆が
判官の言葉を恐れることもなく、復讐者なくして世は安全であった。
未だ、山の上で伐りたおされた松が、見知らぬ世界を見るために
海の波まではこばれたこともなく、
人々はおのれの国の岸よりほかは知らなかった。
………………………………
そこにはとこしえの春があった、おだやかな西風ゼフュルスはあたたかいそよ風で
種なくしてうまれた花をなぐさめた。」〔オヴィディウス『メタモルフォセス』よりの引用〕

 四月二十九日、ナイン・エーカー・コーナー橋近くの河岸で、ジャコウネズミが潜んでいる、うごめく草と柳の根のうえに立って釣りをしていたとき、わたしは子供が指でもてあそぶ木片れのそれにいくらか似た、異様な音を聞いてふり仰ぐと、ヨタカに似た、非常にすらりとして優雅なタカが、さざ波のように飛ぶかと思うとまた一、二ロッドの距離を何度も何度もころげおち、日光のなかの繻子しゅすのリボンのように、あるいは貝殻の真珠色の内側のように光る翼の裏を示すのを見た。この光景はわたしに鷹狩りと、この遊びにむすびついたあらゆる高貴さと詩とを思いおこさせた。それは Merlin〔ハヤブサの類〕と呼んでよいものかと思われたが、名前は何でもかまわない。それはわたしが今までに見たことがないほど霊妙な飛びかたであった。蝶のように単に羽ばたくのではなく、さりとてもっと大きなタカのように飛びかけるのでもなく、空気の原のなかで誇らかな自信をもってたわむれるのである。その不思議な含み笑いとともにそれは何度も舞いあがり、そこから自由で美しい落下をくり返し、たこのように何回もまろびおち、それから、大地にはその足を一度も触れたことがないかのように、その大きな落下から舞いあがるのであった。それは宇宙間に仲間をもっていないように見えた――ただひとりそこであそんでいるようで――それがたわむれている朝とその精気とのほかには仲間はいらないようであった。それはさびしくはなく、かえってその下のすべての大地をさびしげに見せた。それをかえらせた親は、その身寄りは、天なるその父はどこにいるのだろうか? 空の居住人であるこの鳥は、いつか岩の割れ目において孵った卵によってのみ地とつながっているようである。あるいは、その生まれた巣は雲の一角に作られ、虹のふち飾りと夕焼けの空とで織られ、地上からすくいあげられたやわらかい真夏のもやで裏うちされたものであろうか? そのタカの巣は今どこかの雲の断崖である。
 そのほかにわたしはひとさしの宝玉のように見える金色と銀色とかがやいた銅色との魚の、得がたいひと漁を獲た。ああ! わたしは多くの最初の春の日の朝、あの牧草地に踏みこみ、高みから高みに、柳の根から柳の根へと跳びわたった。そのとき自然のままの河谷と森とは、もし死者がある人々の想像するようにその墓場で眠っているのだったら、それを目醒ましたであろうほど浄らかで明るい光りをあびていた。これより強い、不死の証拠は不必要である。このような光りのなかではすべての物は生きているにちがいない。おお、死よ、なんじのとげはいずこにありしや? おお、墓場よ、しからば、なんじの勝利はいずこにありしや?
 われわれの村における生活は、それを囲む、人の踏みこまぬ森や草原がなかったならば沈滞することであろう。われわれは荒野の強壮薬を必要とする――時にゴイサギとバンとがひそむ沼をかちわたって、シギの太い啼き声を聞き、もっと野生的で孤独な鳥だけが巣をかけ、黒イタチが地面に腹をすり寄せて這うところで、そよぐすげの香をかがなければならぬ。すべてのものを探索し学び知ろうと熱心になると同時に、われわれは、すべてのものが神秘であり、探索しがたいことを、陸地と海とが無限に野性的で、未踏査で、測り知れないが故に、われわれによって測量されずにあることを要求する。われわれは決して自然をこれで十分というほどもつことはできない。われわれは無限の活力のすがた、巨大な超人的な光景――難破船のうちあげられた海岸、生きている木、朽ちかかった木をもつ荒野、雷雲、三週間つづいて洪水を起こす雨――によって元気づけられねばならぬ。われわれはわれわれ自身の限界が超えられるのを、われわれが決してふみ入らないところで何かの生き物が悠々と草をはむのを見る必要がある。われわれはわれわれを嫌悪させ落胆させる死屍しかばねをハゲタカがついばんで、この食事から健康と力とを引き出すのを見て元気づけられる。わたしの家に往く道に馬の死んだのがあってわたしは時々廻り道をさせられたが、自然の強い食欲とやぶることのできない健康との保証をそれによって示されてわたしは埋め合せがされたのを感じた。わたしは自然がそんなに生き物にみたされていて、何万でも犠牲にされ、おたがいに取食うままにされる余裕があるのを見るのが好きだ――軟かい組織物が果肉のように平然と押しつぶされてほろぼされ――オタマジャクシがアオサギに呑みこまれ、カメだのヒキガエルだのが道路できころされ、時には肉と血が降る! 事故はとかく起こりやすいものであることをかんがえて、われわれはいかにそれを軽くあしらうかを悟らねばならない。賢い人にあたえられた感銘は全般的の無罪である。毒は結局有毒でなく、いかなる傷も致命傷ではない。同情はきわめて支持しがたい拠点である。それはその場その場のものでなければならない。その訴えは定型化されるにえないであろう。
 五月のはじめには、カシ、ヒッコリー、カエデ、その他の木が池のまわりの松林のなかで芽ぐみはじめて風景に日の光りのような明るさをあたえ、特に曇った日には太陽が霧をとおして洩れて丘の斜面のそこここにかすかに照っているようであった。五月三日か四日かにわたしは池のなかにカイツブリを見、この月の第一週にはヨタカ、トビイロツグミ、ヴィーリ、モリオオルリ、チウインク、その他の小鳥を聞いた。モリツグミはずっと前に聞いた。フィービーはすでにふたたびやってきて、わたしの家が、自分がすむのに十分洞穴のようだかどうかを見るために戸口や窓からのぞきこんだ。爪をまげ、つばさをはためかせて身をささえ、宙にういているようにしてあたりの様子を見わたしたのである。まもなくヤニマツの硫黄のような花粉が、池や岸にそうた小石や朽ち木をおおい、ひと樽もひろいあつめられそうであった。これらは話に聞く「硫黄の雨」である。かくして、だんだん高くのびる草のあいだにはいりこむように季節はめぐって夏に入るのであった。
 こうして森の中のわたしの最初の年の生活は終わった。第二年も似たようなものであった。わたしは一八四七年九月六日にウォールデンを引きはらった。
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むすび


 医者は病人には賢明にも空気と場所とを換えることを勧める。ありがたいことにこの土地ばかりが世界ではない。トチノキはニューイングランドには生えず、モノマネドリはここではめったに聞かれない。野生のガチョウはわれわれより世界人であって、彼はカナダで朝食をし、オハイオ河で昼食をとり、南部の大河の緩流バイユーで羽づくろいをして寝につく。野牛バイスンさえ、ある程度まで季節と歩調を合わせ、コロラド河の牧草地の草をはむのは、イェローストーン河畔の草が緑を増し甘さを増して彼を待つときまでである。だが、われわれはわれわれの農場の木柵が引き抜かれ、石の塀が立てられると、その後はわれわれの生活に限界が立てられ運命が決定されたと考える。じっさい、もし君が町の書記に選ばれると、君はこの夏はティエラ・デル・フエゴ〔南米の南端の島〕には往かれない。ただし、それにもかかわらず地獄の火の国には往くことになるかもしれない。宇宙はわれわれの視野よりも広大である。
 けれどもわれわれは好奇心のある船客のようにわれわれの船の欄干からもっとしばしば眼をはなち、まいはだをむしってばかりいる愚かな水夫のように航海すべきではない。地球の他の半分はわれわれの通信者の住居であるにすぎない。われわれの航海はただ大きな円をえがく航海にすぎず、医者はただ皮膚病の処方をしてくれるだけである。人はキリンを猟するために南アフリカにいそぐが、たしかにそれは彼が心から追いたい獣ではない。じっさい、人はそうすることができても、いつまでキリンを追っかけていたいだろうか? シギやヤマシギも良い獲物でもあろうが、自分自身を射あてることはもっと高尚なあそびであろうとわたしは信じる――

「君の眼を内に向けよ、しからば君の心のなかに
まだ発見されなかった一千の地域を見出すであろう。
そこを旅したまえ、
そして自家の宇宙誌の大家となれ。」

 アフリカは――西部はいったい何を意味するのか? われわれ自身の内部は海図のうえで白いままになっているではないか? もっとも、発見して見れば海岸地方のように、黒い、ということがわかるかもしれないが、われわれが発見せんとするものはナイル河の、ニジェール河の、ミシシッピ河の水源、あるいはこの大陸の北西航路であるのか? これらは人類にとって最も重大な問題なのだろうか? フランクリン〔サー・ジョン・フランクリン。北西航路を発見するために一八四五年に探険に出かけ行方不明となる〕は行方不明となった唯一の人で、その妻のみがそんなにやっきになって彼を見いだそうとしているべきなのだろうか? グリネル氏〔フランクリン捜索をした人〕は自分自身がどこにいるのか知っているだろうか? むしろ諸君自身の流れと大洋とのためのマンゴー・パークたり、ルーイスおよびクラークたり、フロビッシャー〔以上はみな探険家〕でありたまえ。諸君自身のもっと高い緯度の地帯を探険したまえ――もし必要なら、食いつなぐべき保存食肉を船につんで、そして目印しに空罐あきかんを山と積みたまえ。保存食肉は単に食肉を保存するために発明されたのだろうか? いや、諸君の内なるすべての新大陸と新世界とのためのコロンブスとなり、貿易のではなく思想の新しい航路をひらきたまえ。すべての人は、それにくらべればロシア皇帝の地上の帝国も氷によってのこされた塚のようなちっぽけな国にすぎない王国の主人である。しかし自己に対する尊敬をもたない、小さいもののために大きいものを犠牲にする愛国者もいくらかはありうる。かれらはかれらの墓場になる土地を愛するが、今かれらの肉体に活力を与えうる精神に対しては何の同情ももたない。愛国心はかれらの頭のなかの蛆虫である。あのように仰々ぎょうぎょうしさと費用とをもってした南洋探険隊〔英国のサー・ジェームス・ローズが率いた一八三九―四三年の遠征〕の意味したことは結局、精神世界には、それに対して各人は自ら探険していない地峡であり入江であるところのいくつもの大陸と海とがあるという事実、しかしただひとり各個人の海、自己の実体の大西洋と太平洋とをさぐるよりは、五百人の成年と少年とともに政府の船に乗って寒気と嵐と喰人種とのあいだを幾千マイルも航海する方がやさしいという事実を間接に認めたことにすぎなかった――

“Erret, et extremos alter scrutetur Iberos.
Plus habet hic vitae, plus habet ille vitae.”
「かれらをしてさまよい、遠きはてなるオーストラリア人を観察せしめよ、
われは神をより多くもち、かれらは路をより多くもつ。」

 ザンジバルの猫の数をかぞえるために世界を周航するのはやり甲斐のないことだ。しかし、他にもっと善いことができうるまではそれでさえやった方がよく、たぶん諸君はついに地球の内部に降りていくべき「シムスの穴」〔ジョン・シムス(一七八〇―一八二九年)は地球が中空で両極に穴があるという説を立てた〕を発見するかもしれない。イギリスとフランス、スペインとポルトガル、黄金海岸と奴隷海岸――すべてはこの各個人の海に接している。しかしそこからはいかなる船も陸地の見えないところまではあえて出航しない――それはうたがいもなくインドへの直通路であるのに。もし君がすべての国語を話しすべての国の慣習に倣うことをまなぼうと欲するなら、もしすべての旅行家よりも遠く旅し、すべての風土に住み馴れ、スフィンクスの謎を解いて彼女をして岩でその頭をくだかしめようと欲するなら、まさにいにしえの哲学者の教えにしたがって、「君自身を探りたまえ。」ここにおいては明らかな眼と強い勇気とが必要とされる。敗れた者、逃亡した者のみが戦争におもむく、脱走して兵籍に身を投じる臆病者たちだ。今ただちに最も遠い西の道に出発せよ。その道はミシシッピ河でも太平洋岸でもとどまらず、また陳腐になったシナまたは日本にむかってもみちびかず、この地球と直接の切線をなしてはてなくつづくのだ。夏も冬も、昼も夜も、日が落ち、月が落ち、ついには地球そのものが落ちてなくなるまで。
 ミラボーは「社会の最も神聖な掟にわが身を公然たる反抗におくためにはどの程度の決意が必要かをたしかめるために」追いはぎを事とした。彼は「隊伍のなかで戦う兵士は追いはぎの半分の勇気も要しない」と、また「名誉と宗教とは十分考えた牢固たる決心の邪魔には決してならなかった」と公言した。これは世間なみにいえば男らしい言葉であるが、しかも、やけでないまでも無益なえらがりである。もっと健全正常な人間は、さらに神聖な法則にしたがうことによって、「最も神聖な社会の法則」と見なされているものに対し「公然たる反抗」にわが身が十分にしばしばおかれるのを見いだし、そうすることにより己れの道をれることなくして自分の決心を試みることになったであろう。それは社会に対してそのような態度を取ることではなくして、彼の本性の法則に随順することによって見いだされる態度を、それがいかなるものにもせよ、堅持することである。それは正しい政府――もし彼がたまたまそういう政府に出あうならば――に対しては決して反抗の態度とはならないであろう。
 わたしは森にはいったのと同じぐらいもっともな理由があってそこを去った。どうも、わたしには生きるべき幾つかの別の生活があって、そこの生活にはこれ以上時間をさくことができないような気がしたからであろう。われわれが一つの特殊な筋道にどんなに容易に、そして知らず知らずのうちにはまりこみ、自らのために踏みならされた道をつくるかはおどろくほどである。わたしがそこに住んで一週間とはたたないうちにわたしの足は戸口から池のへりまで小道をつくった。そしてわたしがそれを踏んであるいた頃から五、六年にもなるがまだそれははっきり見わけられる。じっさい、他人もその道におちこみ、それもあって、今までその道がつづいたのではないかともわたしは恐れるのである。土地の表面はやわらかくて人の足によって印しがつけられる。心が旅する路もまた同様である。しからば、世界の公道はいかに踏みへらされほこりっぽくなっていることだろう――伝統と妥協との轍あとはいかにも深くなっているにちがいない! わたしは船室におさまって航行することを好まず、人生のマストの前、甲板の上にあることを欲した――そこでは山々のあいだの月光を最もよく見ることができたから。わたしは現在、下に降りていくことをのぞまない。
 わたしはわたしの実験によって少なくともこういうことをまなんだ――もし人が自分の夢の方向に自信をもって進み、そして自分が想像した生活を生きようとつとめるならば、彼は平生には予想できなかったほどの成功に出あうであろう。彼は何物かを置去りにし、眼に見えない境界線を越えるであろう。新しい、普遍的な、より自由な法則が、彼の周囲と彼の内に確立されはじめるであろう。あるいは古い法則が拡大され、より自由な意味において彼の有利に解釈され、彼は存在のより高い秩序の認可をもって生きるであろう。彼が生活を単純化するにつれて、宇宙の法則はより少なく複雑に見え、孤独は孤独でなく、貧困は貧困でなく、弱さは弱さでなくなるであろう。もし君が空中の楼閣を築いたとしても、君の仕事は失敗するとはかぎらない。楼閣はそこにあるべきものなのだ。こんどは土台をその下に挿しこめばよい。
 君のいうことを人が理解できるように君が話すことをイギリスなりアメリカなりが要求するのは馬鹿げたことだ。人間だってきのこだってそう簡単にそだつものではない。いかにもそれが重要なことであるかのごとく、かれらのほかには君を理解する者が十分ないかのごとき態度だ。あだかも自然はただ一つの理解の秩序しか支持できないかのごとく、四足獣と同時に鳥を、這う物とともに飛ぶものを容れえないかのごとく、ブライトが解しうる「しずかに!」と「誰?」とがいちばん良い英語であるかのごとくだ。安全は痴愚のうちにのみあるかのごとくだ。わたしはわたしの表現が十分に法外でないこと――わたしが確信する真理に相当するほど、わたしの日常的経験の狭い限界から十分に遠くさまよい出ないことを主としておそれているのである。法外! それはいかに人が囲われているかによって決する。別の緯度にある新しい牧草地をもとめて移住する野牛は、乳をしぼられるときに桶をたおし、牛置き場の柵をとび越え、自分の子牛のあとを追う牝牛ほどは法外ではない。わたしはどこかで限界なしに語りたいと思う――目醒めつつある人間が、目醒めつつある人々にするごとく。なぜならばわたしはわたしが真実な表現の基礎を置くためにさえ十分誇張できないことを信じているからである。ひとふしの音楽を聞いた人間は誰が、その以後永久に自分が法外に語りはしないかということをおそれたろうか? 未来、またはありうべきことを眼中において、われわれは前面においては全く放漫に漫然と生きるべきであり、われわれの輪郭はその側においてはぼんやり霞んだものにしておくべきである。ちょうどわれわれの影が日に向かってはとらえがたい蒸発を示すように。われわれの言葉の揮発性の真実は、残滓ざんしのような陳述の不備を絶えず曝露すべきである。真実はたちまちに転移して、字義だけの記念碑のみがあとに残る。われわれの信仰と敬虔を表現する言葉は明確ではない。しかしそれらは高級な性情にとっては意義ふかく乳香のように馨しいのである。
 なぜいつもわれわれの最も鈍い知覚にまでさがっていって、それを常識としてほめたたえるのだろうか? 最も卑近な常識は眠っている人間の意識であり、かれらがいびきによって表現するものである。われわれはときどき、一倍半の知慧のあるものを半分の知慧しかない者ときめる傾きがあるが、それはわれわれがそういう人間の三分の一の知慧しか理解しないからである。ある人々はめずらしく早く起きると朝焼けの茜色あかねいろ難癖なんくせをつけるかもしれない。「カビール〔十五世紀のインドの神秘家〕の韻文は四つの相異なる意義――幻想・精神・知性・およびヴェーダの表向きの教義――をもっていると人々は称する」とわたしは聞いたが、世界のこの部分では人の書いたものが一つ以上の解釈をゆるすとなると苦情の理由になりうると考えられている。イギリスではジャガイモの腐れをふせごうとさわいでいるが、誰か、それよりももっとずっと広くそして致命的にはびこっている頭の腐れをなおす工夫くふうをする者はいないかしら?
 わたしはあいまいにまで到達しえたとは思わない。しかしこの点においてはウォールデンの氷についてそうされた以上に致命的な欠陥がわたしの書いたものに見出されないならば、わたしはそれを誇りとするであろう。南部の顧客はそれの純粋であることの証拠である青い色をにごっているとでも思って嫌い、白いが草の味がするケムブリッジの氷の方をえらんだ。人間がこのむ純粋さは地上をつつむ霧のようなもので、そのうえの蒼空の精気のようなものではない。
 ある人々はわれわれアメリカ人、そして一般に近代人は、古代人――エリザベス時代人にくらべてさえ、知性的な小びとであるということをやかましくわれわれの耳にがなりたてる。が、それがどうだというのだろう。生きている犬は死んだライオンより良い。自分が小びとの種族に属するからといって、自分がなりうる最大の小びとになろうとしないで、首をくくるべきであろうか? 各人をして自分の仕事に意をそそぎ、彼が作られたものになろうとつとめしめよ。
 なにゆえわれわれはむやみに成功をいそぎ、またそのように死にものぐるいな企てをしなくてはならないのか? 人が彼の仲間と歩調をともにしないとすれば、それはたぶんかれらとちがった太鼓手を聴いているからだ。人は、いかに遠くとも、またどんな調子のものであっても、自分の耳で聞く音楽に合わせて足をはこぶことだ。彼は林檎の木や樫の木と同じように早く成熟しなければならないということはない。彼は自分の春を夏にしなければならん、ということはない。われわれがそうあるように作られた諸条件がそなわらなければ、われわれが代用しうる現実が何の役に立とうか? われわれはむなしい現実の海で難船したくはない。われわれは骨を折って頭上に青ガラスの天を作るべきだろうか――それができあがったら、あだかもそんなものはないかのように、相かわらずはるかにその上のほんとうの、精気にみちた天を見つめるにちがいないのに。
 クールーの町に完全を志した工匠がいた。ある日彼は杖をつくろうと思いたった。不完全な仕事においては一つの成分であるが完全な仕事のなかにはははいりこまないことをかんがえて、彼は、それをあらゆる点で完全なものにしよう――たとえ生涯、他には何にもしないにしても、と心にちかった。不適当な材料でつくってはならないと決心したので、彼はさっそく材木をもとめるために森におもむいた。彼が一本一本さがしもとめてそれをしりぞけているあいだに、彼の友だちはそれぞれの仕事に老い死んで、しだいに彼から欠けおちたが、彼は少しも年寄りにならなかった。彼の目的と決心との純一さ、彼の高い敬虔は知らないうちに彼に永久の青春をあたえた。彼はと妥協しなかったので、は彼の道に差出ることをはばかり、彼を屈服することができないのでただ遠方でため息しているだけであった。彼があらゆる点から見て適当な材木を見つけだした前にクールーの町は白い廃墟となり、彼は塚の一つに坐って杖をけずりにかかった。彼がそれに適当な形をあたえた前にカンダハルの王朝は終りをつげ、彼はその杖の尖端で砂のうえにその一族の最後の者の名を書き、また仕事にとりかかった。彼が杖をけずってなめらかにし、みがきあげた時にはカルパ〔ブラフマの一日で人間の四十三億三千万年にあたる〕はもはや規準ではなかった。そして彼が石突きと宝石で飾られた杖の頭とをとりつけた前に、ブラフマ神は何度も眠りかつ目醒めた。だが、なぜわたしはこんなことをくどくどのべるのか? 彼の作品に仕上げのひと触れがあたえられると、それは忽然こつぜんとして、おどろく工匠の眼前にブラフマ神のすべての創造物中の最もうるわしいものとしてひろがった。彼は杖をつくることにおいて新しい天地、充実した、うるわしい均斉をもった世界を作り出したのだ。そしてそのうちにおいては、あとかたもなくなった古い町々や古いいくつかの王朝の代りにもっとうるわしくもっと光輝あるそれらが生まれたのであった。そして今、彼は足もとにまだ真新しくちらかっている削りかすの山によって、彼と彼の仕事にとっては、今までの時の経過は幻にすぎず、ブラフマ神の頭脳からのただ一つの閃きが人間の頭脳の引火奴ほくちに落ちて燃えつくに要する時だけしか経過しなかったことを悟った。材料は純粋であり、彼の技術は純粋であった。どうしてその結果が驚異であらざるをえようか?
 われわれが事物にあたえることのできるいかなる表面も、結局は真実ほどよくわれわれを支持してはくれない。これのみが長持ちするものだ。概してわれわれはわれわれの在るところに在らず、いつわりの立場にある。われわれの本性の弱さからして、われわれは一つの場合を想像しわれわれをそのなかにはめこむ。したがって同時に二つの場合においてある。それだからそこから抜け出ることは二重に困難である。正気の瞬間においてはわれわれはただ事実のみを、ありのままの事情のみを注目する。世間体せけんていから見て君がいわねばならないことではなく、君のいいたいことをいえ。どんな真実でも見せかけよりはまさる。鋳掛屋いかけやのトム・ハイドは絞首台に立って、何かいいたいことはないか、と、かれた。彼はいった、「裁縫師たちに、最初のひと針を縫うまえにその糸に結び玉をつけることを忘れるな、といってくれ。」彼の仲間のお祈りは忘れられた。
 君の生活がいかに賤しくてもそれにまともにぶつかり、それを生きよ。それを避けたり、悪口いったりするな。それは君自身ほどは悪くない。それは君が最も富んでいるときに最も貧弱に見える。あら探し屋は天国においてもあらを探す。貧しくとも君の生活を愛したまえ。君はたぶん救貧院においてさえ、何か愉しく、心を躍らす、かがやかしいときをもつことであろう。入日は富んだ人の邸宅からと同じくかがやかしく養育院の窓からも反映される。春になればその戸口の前の雪は同じく早く溶ける。悠々たる心はそこにおいても宮殿におけると同じく満足して生き、同じく愉快な思いをもつことができないという理由はあるまい。町の窮民は往々にしていちばん独立的な生活をしているとわたしは思う。ことによるとかれらは単にためらわずに物を貰うことができるほど偉大なのかもしれぬ。たいがいの人間は町によって扶助されるのをいさぎよしとはしないのだとかんがえているが、かれらはそれよりもっと不名誉なことである、不正な手段によって自らを扶助せざるをえないことが多いのだ。賢人らしく、菜園の野菜のように君の貧困をたがやせ。衣服でも友人でも新しいものを手に入れようとあせるな。古いものに向かえ、それに戻れ。事物は変わらない、変わるのはわれわれだ。君の着物を売りとばせ、そして君の思想をとって置きたまえ。神は君が交友に不自由しないように計らうだろう。もしわたしが蜘蛛くものように終日屋根裏部屋の一隅に閉じこめられるとしても、わたしの思想さえ失わなければ世界はすこしもその広さを減じはしない。哲人はいった、「三軍もその帥をうばうべし、匹夫ひっぷもそのこころざしをうばうべからず。」そんなにやきもきと進歩発達をもとめ、多くの勢力に翻弄されるべく身をまかせるな。それはすべて放蕩である。謙遜は暗黒と同じく、天のもろもろの光りをあらわし示す。貧困と卑賤の蔭は身のまわりをとざすが、「しかも見よ! 宇宙はわれらの視野にひらけゆく!」クロイソスの富をあたえられてもわれわれの目的はやはり元どおりであり、手段も本質的には元どおりであることをわれわれはしばしば思い知らされる。のみならず、人はその貧しさによって活動範囲を局限されれば――たとえば書物や新聞が買えないというように――それは最も意義ふかい重要な経験にかぎられることにすぎない。彼は最も多くの糖分、最も多くの澱粉をあたえる材料を相手にせざるをえない立場におかれるのだ。それは、骨に近い、最も美味な肉の部分の生活なのだ。彼はむだなくらしをすることからふせがれる。低い水準に身をおいても高い水準の精神生活をもつことによって何ぴとも損をすることはない。余分な富は余分なものをしか買うことができない。金銭は魂の一つの必要物を買うにも入用でない。
 わたしは鉛の壁をめぐらした一隅に住んでいるが、その成分には鐘をつくる合金がすこしばかりまざっている。そして時折り、わたしが昼やすみをしていると外の世界からチャランチャランというもつれた音がわたしの耳にとどく。それはわたしの同時代者たちの物音だ。わたしの隣人たちは有名な紳士淑女との重要事件、かれらがどんなえらい人たちと正餐せいさんの食卓で出会ったかをわたしに話す。しかしわたしはそんな話には『デーリー・メール紙』の内容以上には興味がもてない。かれらの関心と会話とは主として衣服や風俗についてである。しかもどういうふうに装うとも鵞鳥は鵞鳥以上の何物でもない。かれらはカリフォルニアやテクサスの話、英国やインドの話、ジョージアまたはマサチュセッツの何某閣下の話など、すべてその場かぎりでたちまち過ぎさる現象を語り、わたしはやがてマムルークの騎兵隊長のように彼等の中庭から跳んで逃げだしたくなってしまう。わたしはわたしの立場に帰ってほっとする――人目につくところで、はでな見せびらかしの行列でねり歩くのではなく、できるならこの宇宙の創作者とともに歩きたい――この落ちつかない、神経質な、せわしない、こせこせした十九世紀に生きるのではなく、それが過ぎていくのを見ながら考えぶかく立ち、または坐っていたいのだ。人々は何を祝っているのだろうか? みんな準備委員会に加わって一時間ごとに誰かの演説を待っている。神は当日の会長にすぎず、ウェブスターが彼の代弁者なのだ。わたしはわたしを最も強く最も正当に引きつけるものを量り、それを解決し、そっちの方に引寄せられたいのだ――秤桿はかりざおにぶらさがって目方を軽くすることはしたくない――事実を仮想するのではなく実在する事物を受取りたいのだ。わたしの往きうる、そこではいかなる権力もわたしに刃向うことのできない唯一つの道を行きたいのだ。確乎たる土台を手に入れるまではアーチを築きはじめる気になれないのだ。薄氷のうえのダンスはやめようではないか。どこにだってしっかりした根底はあるのだ。旅行者が少年にむかって、ここの沼の底は堅いかどうか、と問いかけた話がある。少年は、堅い、と答えた。けれども、やがて馬は腹帯のところまで沈みかけたので彼は少年にいった、「君はこの沼の底は堅いといったのじゃなかったのかね。」少年は答えた、「堅いんですよ、だけれど、おじさんはまだ半分までもいかないのです。」世の中の沼や流砂もこのとおりである。けれどもそれを知っているのは達人のみである。ある、めったにえられない好機に、考えられ、いわれ、なされたことのみが価値をもつ。愚かにもただの木舞いや漆喰に釘を打ちこむ者になりたくない。そのような所為は夜わたしを寝つかさないであろう。わたしに金槌をあたえ、壁の骨組みをさぐらせてくれ。パテをあてにすることはできない。釘を十分に打ちこみ、それを入念に締めつけ、夜なかに目が醒めたとき自分のした仕事を満足をもって思い出せるようにしたいものだ。それはそのために詩神ミューズを呼びよせてもはずかしくない仕事だ。こうあってこそはじめて神もわれわれを助けるであろう。打ちこまれる一つ一つの釘は宇宙の機械の鋲であるべきであって、われわれがそれをはたらかすのである。
 愛よりも、金銭よりも、名誉よりも、むしろわたしに真実をあたえてもらいたい。わたしは結構な料理と酒がふんだんにあり追従的な客の居ならぶ、しかし誠実と真実とは見あたらない食卓につらなった。わたしは冷ややかな食卓から餓えをいだいて立去った。款待かんたいは氷のようにつめたかった。かれらを冷やすために氷の入用はないとわたしは思った。かれらは酒の年代や製造元の名声についてわたしに語った。しかしわたしはかれらが手に入れられず、買うことのできない、もっと光栄ある製造元の、もっと古い、もっと新しい、もっと純な酒のことを考えた。その様式、その家と庭と「接待」とはわたしにとっては何物でもない。わたしは王を訪れたが彼はわたしを控室で待たせ、客もてなしの能のない人間のごとくふるまった。わたしの近所には木のうろに住んでいる人間がいた。彼の態度は真に王者のふうがあった。わたしはむしろ彼をおとずれた方がよかった。
 いつまでわれわれはわれわれの玄関に坐りこみ、何でも実地の仕事をして見ればたちまちぼろを出すような、たあいないかびくさい美徳をおこなわなければならないのか? あだかも長々しい苦労で一日をはじめ、ジャガイモ畠の草取りをするために人を雇わなければならないかのように。そして午後には出かけていって前もって思案をめぐらした殊勝さでクリスチャンの柔和と慈善とをおこなう! 人間のシナ的高慢と停滞した自己満足とを思ってみよ。今の世代は立派な系統の当主であるということを自ら祝う傾きが少々ありすぎる。そしてボストンやロンドンやパリやローマにおいて、その長い伝統をかんがえて、得意になって芸術・文学におけるその進歩を語っている。そこには哲学協会の記録があり「えらい人々」の公けのめたたえがある! それは善人アダムが自らの善に見入っている図である。「そうだ、われわれは偉大な仕事をし、神々しい歌を歌った。それらは決してほろびないだろう。」――だが、それはわれわれが覚えていられるかぎりの話だ。アッシリアの学会とえらい人々――それらは今どこにあるか? われわれは何という若い哲学者であり実験家であることだろう! わが読者諸君のうち誰ひとり人間の全生涯を生き終えた人はいないのだ。今は民族の生活における春の季節にすぎないのかもしれない。われわれは「七年間つづく疥癬かいせん」はわずらったかもしれないが、まだコンコードにおいては「十七年間生きる蝉」は見たことがない。われわれは自分たちが生きている地球のほんの薄皮を知っているだけだ。たいがいの人間は地面から六フィートの深さまでも掘ったことがなく、それだけの高さを跳んだこともない。われわれはどこにいるのだか見当がつかない。おまけにわれわれの時間のほとんど半分はぐっすり眠りこけているのだ。しかもわれわれは自らを賢いと思いこみ、地上に一定の秩序をたてている。まことにわれわれは深遠な思想家であり、われわれは大望ある魂である! わたしが、森の地面に散り敷いた松の針のなかをいながらわたしの視野からかくれ去ろうともがいている虫を見おろして立ち、どうしてそれがそういったちっぽけな考えをいだき、次第によっては彼の恩人となり彼の同族に何かよろこばしい知らせをあたえるかもしれない、このわたしからその頭を隠そうとするのかを自らに問うとき、わたしは人間という虫であるわたしのうえに立っている、より大きな「恩人」と「知慧」とに思い到るのである。
 世界には新奇なものの絶えまない流入があるのに、しかもわれわれは信ぜられないほどの退屈さを我慢する。わたしはただ、最も進歩した国々においてさえ、どんな種類の説教がまだ耳傾けられているかを指摘しさえすればよい。そこには喜びとか悲しみとかいう言葉はある。しかしそれらは鼻にかかった声で歌われる讃美歌の折返しにすぎず、実はわれわれはありふれたもの、卑俗なものを信仰しているのだ。われわれはただ上に着る衣服だけを取りかえることができると思っているのだ。英帝国はたいへん大きな立派な国であり、合衆国は第一流の強国であるといわれている。われわれは、めいめいうしろに、もし各人がそれを自分の心に汲み入れさえすれば、英帝国を芥のようにただよわすことのできる大きな潮が満ち干していることを信じない。どんな種類の、十七年生きる蝉が次には地中からあらわれるか、誰が予測できよう? わたしの住んでいる世界の政府は、英国のそれのように一杯やりながらの正餐せいさん後の会談ででっちあげられたものではないのだ。
 われわれの内にある生命は河の水のようなものである。それは今年はかつて誰も覚えがないほど水嵩みずかさがまし、乾いた高地を水びたしにするかもしれない。この今年が特別の年となり、すべてのジャコウネズミをおぼらしてしまうかもしれない。われわれの住んでいるところはむかしから乾いた陸地だったわけではない。科学がその洪水を記録しはじめない前、水の流れが洗った岸を、ずっと内陸の場所にわたしは見うける。ニューイングランドじゅうにひろまっている次のような話は誰でも聞いたことがあるだろう――はじめはコネティカット州、後にはマサチュセッツ州の一農家の台所に六十年間置いてあった林檎の木の古テーブルの乾いた袖板から、その上に重なった幾つもの年輪をかぞえてみると、それよりもっと長年前その木が生きていた時分に産みおとされた卵から丈夫な美しい虫が生まれ出た。たぶんコーヒー沸しの熱にでもあたためられてかえったのであろうが、その虫が板をカリカリかじって出ようとしているのは数週間前から聞かれていた。この話を聞いて復活と不死とに対する自分の信念が強められるのを感じない人間があろうか。その卵は最初緑なす生きた木の白木質に生みつけられ、その木が次第にそのままの格好の枯れ切った残骸に変わってしまうまで、長年のあいだ社会の死んだような乾燥した生活のなかで多くの木質の年輪層に閉じこめられていた――この数年は一家の者がたのしい食卓のまわりに坐ったときに、外に出ようとするカリカリ嚼る音をたててみんなをおどろかしたこともたぶんあったろうが――どんな美しくはねある生命が、世上に最もありふれたお祝いの貰い物の家具のただなかから思いもかけず立ちあらわれて、ついにその申し分のない夏の日の生活をたのしむということがないでもない!
 わたしはジョンなりジョナサンなりがこの間の消息を解しうるとはいわない。しかしながら、単なる時の経過では決してけさせることのできない、あの朝の性格はこのようなものなのだ。われわれの眼をめしいさす光りは、われわれにとっては闇にすぎない。それに対してわれわれが目醒めうる日のみが曙けるのだ。さらに新たな日が曙けんとしている。太陽は夜明けの明星にすぎない。





底本:「森の生活」岩波文庫、岩波書店
   1979(昭和54)年5月16日改版第1刷発行
   1994(平成6)年11月15日第30刷発行
※「註文」と「注文」、「痩」と「瘠」の混在は、底本通りです。
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入力:Cavediver
校正:砂場清隆
2019年6月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

鋭アクセント付きι、U+1F77    378-1
鋭アクセント付きο、U+1F79    378-2


●図書カード