東洋文化史における仏教の地位

高楠順次郎




         一

 今日ここに講演の機会を与えていただいたことは感謝するところでありますが、果してご満足を得るかどうかを甚だ疑うのであります。書き出しておきました題目はこういう大きな題目でありますが、それの一小部分をお話するようなことに終ってしまうであろうと思うのであります。話の順序といたしましてインドのことが相当に多くを占めることと考えますが、これはどうか予めお許し下さることをお願い申しておきます。
 インドは理想の国であります、理想の国とのみでは分りませんが、理想を製造する国であります。この理想ということを解しなくてインドを統御することはとうてい為し得ないことであります。理想と申しましても非常に風変りの理想でありましてすべての方面で他の国とは全く違った理想を持っているのであります。人類愛――人間がお互いに愛するということはよく人の説くことでありますけれども、インドではこれを押し拡めて動物愛としているのであります。その動物愛をまた押し進めてこれを宗教愛としているのでありますから、動物と親しむことは人間と同じで、ことに牛の如きは神聖の動物とされておりますからではありますけれども、殺すなどのことは無論しない、昔から牡牛は労働に使役しますが、牝牛は決して労働には使わないというふうで、牛の殺されるのを見るとインド人は自分の兄弟が殺される如くに感じ、直ちに自分の生命を棄ててもその牛を救いに行くというふうの人間なのであります。それで毎年マホメット教の祭の時には牛を殺すのであるが、その殺す前に意地悪く、これを今夜殺して犠牲に供するのであるといってインド人の町を牽いて歩いて皆に犠牲になる牛を見せるのであります。
 そうするとインドの青年は徒党を組んでその牛を助けに行く、それで毎年マホメット教とインド教との間に戦争が起こります。そういうふうの国柄であるのでありますからそこ、に[#「そこ、に」はママ]ヨーロッパの人たちがいくら親切をもって臨んでいっても、この理想の根本が違うのでありますから、牛刀を携えてそうして毎日牛を殺してそれを食物としているというふうではどうしてもインドの国を治めることができない、それはあたりまえであります。そういう風変りの国であります。かくも理想が違っていると同時に、解釈の仕方も全く違っているといってもよいので、その一例を申して見ますると、文明の起原といったならば、生存競争が文明の起原であるというのでありますがインドでは全くこれとは違って、生存競争とは何であるか、お互いが競争してその結局は他人を倒すということである、その生存競争の結果は人と人とが争うばかりでなく、国と国とが争うこととなって、ついに今度のように大戦争を惹起して、そうして世界が共倒れになる、それが生存競争の結果である。それが文明といい得るか、ほんとうの文明は生存競争は無意義であるということを知った後に起こるのである。
 然らばほんとうの文明とは何か、それは相互扶助の世界である、力の世界ではなく、愛の世界を築き上げるということが人間の目的であり文明の目的である。ほんとうの文明は相互扶助の方面に起こらなければならぬ、生存競争では本当の文明というものは築き上げることが出来ないものであるというようにインド人は考える。また文明は都会生活から興るというのでありますが、論より証據でインドには都会というものはない、われわれの意味での都会というものはヨーロッパの人が来て作っているといってよいのであります。殆ど村落が少し増したというのがインドの都会である。インドでは村落のみであるとすると、インドには到底文明は出来ないことになる。而してまた村落よりもう一層淋しい山林生活がインドの理想となっているのであります。哲学も山林の中より生まれ、宗教は無論のこと、教育も音楽もすべてのことが、われわれが見て文明の要素と考えられるようなものはことごとく山林生活の中から出て来ている、インドの理想は山の中にあるといってもよいので、仙人生活がインド人の理想である。山林生活からインドの文明は出ているのに、ヨーロッパの文明は都会生活から来ている。インド人の考えで、都会生活とは何だ、罪悪の巣窟ではないか、人間は都会生活の結果としていよいよ悪くなって行くというのでありますから、考えがまるで違っているのであります。
 またヨーロッパの人の考えから申しますると、文明というものは人間が自然を征服することから起こる、人間がだんだんに自然の範囲を征服して行ってその上に文明が起こるのであるが、インド人から考えるとこれは大まちがいで、自然を征服するということは生存競争の範囲を拡げたということだけの話で、地上にあるすべての強き動物をことごとく人間が征服し得ればそれは人間の世界だけは拡がるだろうが、それは決してほんとうの文明ではない、ほんとうの文明は自然を征服するのではなくて自然に同化するということである、そういうのでありますからヨーロッパでもって文明の起原として考えられているものはインド人はことごとく否認する、否認するということは敢て理屈を拵えていうのじゃなくて、自然にそう考えているというより他にないのである、そういう風の調子でまるで考えが違っているのであります。その理想をまずもって了解しなくって、それでインドに臨んでいるというのがヨーロッパのインドに対する態度で、たいていの国ならば国が奪われ財力が奪われ武力もなくなってしまうというようになればもう精神までも失ってしまうのである。経済の力がすっかり奪われてしまったならばたいていの国の民族は亡びたといってよいようになる。
 しかしインドは決してそうではない。どんなに国が奪われても財力が奪われても、われわれのあらゆるものを奪い取ってもわれわれの精神を奪い取ることは出来ないであろう。武力で抵抗することができなければ無抵抗の抵抗で行く、抵抗はしないがわれわれは満足しないということは十分に表現しているというふうに、今ガンジーがやっているようなぐあいのやり方をインド人は正当防禦の方法として考えているのであります。そればかりでなく、終にあらゆるものを奪われてインドは貧乏な乞食の国になってしまったが、自分たちは乞食の生活をしておっても決してわれわれの理想の一部分も失うことはしないと信じている。事実インドの乞食の中には立派な哲学者もいるのであります。
 私は雪山の中に行きました時に、石窟の中にもぐもぐしている乞食がおったので、私はそれを呼び出しまして毛布を敷いてそこでだんだん話してみると、われわれの知っているような、ヨーロッパ人の研究しているようなウバニシャットの哲学であれ※(「口+它」、第3水準1-14-88)ヴェーダであれ、こっちのいうだけのことは向うは相当の答えをする。だんだん話して行くと、山の中におって海を知らないのであるから日本の国がどこにあるということを説明するのに甚だ困った。まず第一海というものが分らないのであるから、この山を越すと向うにインドのような大きな国があり、その先に恒河のような大きな河を幾つも合せたようなのがあって、その先にあるのがジャッパンプールである、そのジャッパンプールという所はインドの千分の一ぐらいしかないけれどもいま世界に雄飛している国だといったふうに説明するのでありますがなかなか要領を得ない、けれども静かに考えて、そうして昔ながらの哲学の理想を説き出すというようなことになるというと、なかなか雄弁に説き出す。これは唯一例でありますけれども、インドにはたくさん乞食がおりますが、それは決してその形に見えるような乞食のみの人間ではないということは明らかにいい得るのであります。
 で、われわれインドの乞食に対する時にはよほど寛大の態度で臨まぬというと時に失敗することがあるのであります。そういうふうな国柄であります。でどんな生活をしておっても自分の精神は失わない、どんなに蹂躙されても自分の理想を失うということはしない、このことだけはインド人はよく心得ているのであります。こういうふうの人種というものはよほど経済という事を頭に置かないような人間でなくては全く出来ないのでありますから、世界にこういう国は他にないといってよいのであろうと思います。それだからインドのことを考える時に、能く此国の状態を間違って説く人が多いのでありますが、そういう方面をお話する目的ではないのでありますから、まず理想が全く違っているということだけをお考え下さいまして、そうしてこの理想の流れがどの位の波紋を東洋に描いたのであるか、また今世界に向って描かんとしつつあるのであるかということを、だいたいはご承知のことでありましょうが、一通り辿って見たいと思うのであります。

         二

 インドの文明は古いように申しますけれどもそう古いものではない、文明としては極めて新しいものであります。新しいと申しましても紀元後二千年、その前がせいぜい二千年……もう少し刻んでいったら二千年に足りませんが、三千五百年かその前後の範囲の文明であります。無論その前にも文明はあったに違いないが、今形の上に残っている文明としてはそのくらいの範囲であります。まず四千年と見ましょう、シナも殆ど同じくらいであろうと思うのであります。
 シナも大変古い国のようにわれわれも考えておりますし、また文献が比較的永く存しておりますから非常に古いように思われるのでありますが、インドもやはりそれで誤っていたのであります。文献がずっと初めからのが残っている、リグヴェーダ(梨倶吠※(「口+它」、第3水準1-14-88))というものがその侭に残っているから、是は紀元前五千年くらい前から始まっているのだろうということをいう人もあるのでありますが、この頃の私の考えではどうしても紀元前二千年より古くは見られないと思うのであります。シナの方もだんだん研究して行ったら紀元前どのくらい古いのであるか、私はその方は深く考えたこともありませんが、そう非常に古いものではない、その古さは多少の差があるにしても、これも四千年ぐらいは慥にあったでありましょう。しかし何といっても東方ではシナ文化とインド文化、この二つが対立した大きな文化であるということは争われないことであります。
 この両大文明の間に雪山という大きな障壁が出来ているのであります。雪山はご承知のように、富士山のような一つの山ではないので、屏風の如くにインドの北面に東から西に走っている山脈で、それが世界第一の高山である。たといそれが第二としても第一より余計は下らない高山であります。西を見れば西に去る所を知らず、東を見れば東に去る所を知らず、見渡す限り十萬白竜天に朝する勢を為して走っている一大山脈である、これをインド人は世界の背梁骨だといっている。この障壁は両文明が相互に融和することを妨げたのであります。しかし妨げたといっても、シナ文明がインドの方に来るのを妨げたのである。シナの政治的の勢力はインドに一度は及びました。蒙古の朝の時にはモグルエンパイヤ(蒙古王朝)というのが起こって、インド、ペルシャを征服して王朝を形作ったのでありますが、これはインドばかりでなく、その時にその被害を逃れたのは東洋では日本だけで、あとはことごとく南洋もシャムも朝鮮も到るところ蒙古の勢力には降服したのであります。西の方はずっとペルシャから小アジアは無論のこと、ヨーロッパに入ってドイツの軍隊と和を講じて、そして北に向って進んで行ってロシア全土を征服した。それでロシアを征服して元の出た所のバイカルに戻って来たというのが蒙古の成吉思汗の勢力であります。
 それでありますからロシアの貴族の中にはわれわれと同じような顔をした人がたくさんおったのであります。それはその時の地方を治めた蒙古の可汗の後裔が伯子男爵となっておったのであった、そういうふうに世界を風靡したのであります。インドへも[#「インドへも」は底本では「イドンへも」]その勢力の及んだのは当然でありますが、それが相当永い間ではありましたが、政治的の勢力のみであってシナの文化はインドには殆ど及んでいない。また蒙古は文化として見るべきものは残っていない。それでシナの方から行く文明の勢力は雪山で妨げたということが出来るのであります。
 ところがシナの文化の輸入を防ぐほどの大なる障壁であるならば、インドの文化の輸出を防ぐ障壁であったかと申すとそうではない。この大雪山があるに拘らずインド文明の勢力というものは非常な勢をもってシナ、蒙古は無論のこと、満洲、朝鮮、日本、安南、南洋一切を征服したのであります。ちょうどそのありさまはこう雪山が長く拡がっているとしますと、山の両方から長い手を出し拡げてシナで両手を結び付けたというような形になりますので、左の手は北に出て、或いはヒンドウクシュ山脈、或いはパミールの高原を越えて、西域から中央アジアに入って、そして至るところ大きな文化の洲渚を作って、或いは亀茲国(クッチャ)であるとか、或は于※(「門<眞」、第3水準1-93-54)国(コータン)であるとかいうような文化国ができ、楼闌、敦煌というような文化の集散地が出来ました。戈壁沙漠を渡り切って瓜州、蘭州を通って、真っ直ぐに東の方に向って来まして五台山まで達しました。右の手は南の方インド洋に出まして錫蘭(師子洲)からハワイ(訶陵)、スマトラ(仏逝)その附近のボルネオ、バリというような島を通って、マレー半島に来りシンガポールからカンボジャに行き、そして扶南、林邑、ことごとくインド文明の勢力で新しい文明を作って、これをマレー・インド文明と名づけてよろしい大きな文明が出来まして、その勢力が伸びて五台山まで結び付くようになった。而して五台山まで結び付けるのが、時には海の中でありますから手が伸びて日本に直接にインドとの交渉が出来るようになったのであります。
 われわれの文化も単にシナから受け取ったばかりでなくインドからも直接に受け取っている事実、これがわれわれの文明で一番重きをなす点であると思う。そういうふうに南の方は船に依り、北の方は商隊に依り、一村一村と押して行って、シナまでは遠路であるが、行商隊がつねに往復しておった。この行商隊ぐらい確かなものはない。一村一村を押して行き、シナに着けばまた必ず一村一村を縫うて元の所に帰って行く。だからこれほど確かなことはありませぬ。ところが船の方でありますとそうはいかないので、船は幾艘も出たとしても必ずその全部が目的地に着くとは限らない、風のために妨げられることもある。またシナの海南島などは当時海賊の大将のおった所で、これに悩まされる、唐時代の海南島の首領は馮国芳といっておりましたが、組織的の海賊で、ペルシャから来る船を、五艘来れば三艘取る、十艘来れば五艘とるというふうにして、全部取ってはあともう来ないから少しは残しておく大変な掠奪を恣にしたのであります。ペルシャ人を生かして住まわしめた村落が東西十里南北二里ばかりというように広いものであった。それからまたこの首領は日本に親類があって日本人の豊田という者は自分の親類であるといっておりますから、これはたぶん紀州田辺の豪族豊田丸が連絡があったものであろうと思います。豊田丸の子は弘法大師の弟子となり高野山の開創に尽力したことがある、そういうふうに海賊にも掠められ、暴風にもやられるし、船の方は案外故障が多い、盛衰があります。けれども永い間には同様勢力を及ぼしまして、終に東洋はことごとくインドの文化の勢力範囲になってしまったというふうであります。一番関係のありますのは南の海の方の道でありますからこれを今少し説明して見ようと思います。これが日本に一番関係があるのであります。

         三

 だいたい六世紀頃にインドから非常な文化種族が移住して来たのでありますが、インドにそういう人種がおったかおらぬか分らない、ただ植民地の出先で非常な勢力を持ってこれが到る所に「ビヂャヤエンパイヤ」と名づける帝国を形作っているのであります。インドの本国ではどこにおったかまだよく分らないのであるが、出た所はコロマンデールの海浜から(マドラスの近傍)から出て来て、そしてセイロンは無論その勢力範囲で全く征服されたのであります。それからジャバに行ったのであるが、そのジャバを「カリンガ」(訶陵)と号しておりますからインドの南海岸から出たものに相違ないのであります。そのカリンガ時代のジャバにはご承知の通りブルバドール(千仏壇)といって、一つの山を全部彫刻して仏像壇にしたのがあります。これは東洋のギリシャといわれております。非常に立派な芸術的遺物のある所であります。而してマホメットの勢力に亡ぼされた後もこの地ばかりは亡ぼされなくして今に残っているのであります。こういう足痕を殘してスマタラに移りましては「サンブッセー」(三仏斉)という帝国を形作ったのであります。「サン」というのはスマタラ語で梵語の室利(神聖)を表する語で、神聖なるビヂャヤということで、ビヂャヤをブゼーと訛ったのであります。「ビヂャヤ」は梵語で「勝利」という語であります。それがスマタラのカレンバン河の河口に大帝国を作っておった、そこでインドに行く者は唐の時代にはここで梵語の文典を習って、そして船で島々を渡りてインドへ行くということが普通であったようで義浄三蔵もそういうふうに書いております。
 それからマレー半島に移って来ますと、マレー半島の土地の名はたいていインドの名前であります。シンガポールは「獅子城」という語でインドの言葉であります、カンボジャ(柬甫塞)というのはインドの地方の名である。唐の時代に一番盛んな所は真臘(チャンドラプーラ)という所で「月の城」というインド語であります。そのときのもう一つの中心は臨邑又は林邑といって、これは唐の時代には占波又は瞻波と称するに至った、チャンパもインドの地名である、これは新しい移住民がインドのチャンパという所から出て来たので、地名を改めたらしい、その前の名も「ルンミー」というのであるが、釋迦如来の生れた所がルンミーと申しますので、それを土語ではルンミーと申したのである。その音訳だと思います、正式の梵語では「ルンビニー」という地方で今にその古趾が残っております。今は「チャム」と云う人種が交趾に残っている、その辺から掘り出す物を見ますると、たいていインドの舎衛城であるとか、迦毘羅城であるとか、インドの名前が付いている。交趾シナあたりでは臨邑が一番北にありまして、チャム族であり、真臘(チャンプ)が南に在って今のカンボジャであります。
 それからもう少し行くとアンコルワット寺である。これは近頃発掘して大変有名な所でありますが、山田長政など徳川時代の人が行って見た人が多い。そのとき柱に書いたものが近頃発掘されて日本人が行っておったということが分ったのであります。アンコルワットを天竺徳兵衛は祇園精舎と[#「祇園精舎と」は底本では「祗園精舎と」]思っている、その土地をインドと思っている。しかしそれをインドと思うのは無理がないのでことごとくインドの名前が付いているからであります。アンコルワット寺院のある所も釋迦如来の太子たりし時の妃の名前が付いて、ヤソダラプラ(耶蘇陀羅城)というのである。すべてインド文明でもって成り立っている。インド人種で植民されている。そしてその結果が「インド・マレー文明」と名を付けてよいだけの一種の文明が出来上ったのであります。而してこの臨邑が一番日本に関係があったのであります。天平時代にここから出て来た人がある、仏哲という人であります。この仏哲という人は臨邑の慈善家であってよほどの学者であります。その人がマレーの沖に出て、今の西貢の沖あたりかも知れませんが、真珠を採集して慈善に宛てるために作業しているうちに船が難破して困っておった。時にインドから来た大きな船が通りかかった、その船はペルシャの船であったろうと思いますが、その船に乗っておったのがインドのバラモンで菩提仙那(ボーデイセーナ)という人であった。シナに来る途中であるというその人に出会ったのであります。
 バラモン僧正は仏哲を見つけて、救い上げて様子を聞くと「俺は臨邑の者であるが真珠を取りに出ていて、舟が難破して困っている」と答えた。これからシナに文殊を尋ねて行くのであるが、同伴せぬか」といった。文殊菩薩がシナにいるという伝説が当時専らインドに弘まっていた。それでインドから文殊菩薩を尋ねて幾人もシナに向って来たのであった、バラモン僧正もその一人である。文殊菩薩の道場が五台山の大華厳寺である。仏哲は喜んで「それじゃ連れて行ってくれ」というので二人は同伴してシナに来て寧波あたりから上陸して五台山に登った。五台山はご承知の通り文殊の道場となっており、清凉山と稱しております。文殊というのは詳しくは文殊室利(マンジュシュリー)といいますが、満洲朝の興りましたのは満洲であるが、これは文殊菩薩の「マンジュ」から出たのである。それで清凉山の清の字を取って清国と名づけたというのであります。
 清凉山は近頃まで仏教の中心とせられておったので、昔はたいへん盛んなものであったろうと思います。両人はそこに登って文殊を訪ねたところが気の利いた僧侶がおって「それは気の毒だ文殊は唯今留守である」どこへ行ったかと尋ねると「日本に行った」という、いま考えるのにこう言った人は日本の留学生の配剤でかく答えたのではないかと思われる。二人は失望して南楊州あたりに戻って来た、この地方で聖武天皇から派遣された留学僧理鏡に会って「五台に文殊を尋ねたが日本に行って留守だ」と話した。それでは日本に行ったらよい、いまちょうど遣唐大使丹遅真人広成の船が帰ろうとしている、それに乗って行くならば日本に楽に着く。それじゃ乗せて行ってもらおうというので二人は遣唐大使の船に乗って日本に来た。
 この船はじつに日本にとっては宝の入船で、帰朝左大臣になり文部卿になり日本の法政、軍政、文政、大学の全般をことごとく整備したともいうべき吉備真備が乗っている、留学の帰路である。それと同時に興福寺から送られた留学生の中で一番偉い人である玄※(「日+方」、第3水準1-85-13)もいる。奈良の大学頭になるために招かれた音博士の袁晉卿、これはシナの人で招聘されて来た学者、同じく日本に招聘されてシナから渡って日本に戒律を伝えるために先発師として送られた道※(「王+睿」、第3水準1-88-34)法師。まだ他にもたくさんおりますが、これに林邑の大音楽師仏哲とインドのバラモン僧正がいる。その船が大阪に入って来ますというとこれを迎えに出たのが行基菩薩、四天王寺にあった雅楽寮の楽師を率いて、海口に迎えました。行基菩薩が迎えるというと直ちに自分の尋ねる文殊だと思い込んでしまった、文殊であったかも知れないほどの偉い人であった。行基菩薩が迎えて自分の寺の、奈良の菅原寺に連れて行き、いろいろ歓待した。
 その夜は、非常に嬉しいので、文殊に会い而もその厚遇を受けたので、インド人であるから箸は使わないが、附けられた箸をもって拍板となし拍子をとって喜んで唄い出した。仏哲は熟練した音楽者であった。舞楽は多く仏哲が教えたもので、宮中に今残っている二十八番の舞楽の中で仏哲の手に触れない音楽は殆どないといって差支えない。彼が臨邑から伝えたものは臨邑八楽といって八種ある。楽曲も神話も皆インドのものであります。これが多くいま残っているのであります。大仏の開眼供養の大法会に殊更に作った太平楽というものもいま宮中に残っている。西暦七百年代に作った音楽でいま世界に残っているものはどこにもない、日本だけであります。この大音楽師が、一緒になって拍子をとって踊った。ところがそれを聞いて後ろの山におった老人は、この老人は裸で始終寝ておって、東大寺の方を始終見ている、そこで当時の人は「伏見の翁」といっておった。この翁は不思議な男で嘗て物を言ったことがない、唖だと思われておったのに、いまインドから拍子をとって唄い踊っているのを聞いて、その音楽が分ったと見えて丘から下りて来て、一緒に自分も踊り出した。「時なる哉、時なる哉、時至れり」といって踊り出した。これもインド人であったに相違ない。行基は両人を聖武天皇にご紹介するという訳で、聖武天皇も非常に満足であった。これは大仏を作って開眼供養にインド人を招くということが聖武天皇の思召でインド人を迎える内命を持った留学生がシナに出張しておったものと信ぜられます。五台山に登っても日本に来るように計らい、楊州に行っても日本人に会するように聖武天皇のお手が延びておったのだろうと思います。
 それでバラモン僧正が来ると直ぐ僧正に任ぜられて、時服を賜い荘田を与えられて大安寺に寓せしめられた。大仏が立つ時になると、バラモン僧正は開眼供養の大導師を命ぜられ、臨邑の仏哲に大音楽師として楽隊の長とならしめられた。そして開眼供養を行われる。東大寺の開基というのは聖武天皇とバラモン僧正、行基。行基は建った時には死んでおりますから、開眼供養には臨まなかったのですが、これも開山に加えられている。それからいま一人は行基の弟子で一番偉い良弁僧正、この四人が開基になっている。そういうふうに非常に用いられて、バラモン僧正は大安寺で、仏哲と同住して音楽を教え、梵語を教えた。仏哲の梵語の文典が徳川時代まであったことは確かでありますから、古い寺々を探しましたがどうしても見つからない。他書に見ゆる引文からどんなものであったかということは分ります。文典が残るくらいでありますから梵語を教えたということは確かであります。それから一切経の中から歌唱の文句を撰出して音楽の囀(歌詞)とするのは僧正の役で、これを舞楽に編み込み舞踊の型を作るのは仏哲の仕事であった。
 後には朝廷の音楽の中に「臨邑楽」というものを付け加えられそして盛んに教えられ、伎楽に代る舞楽全盛の時代となった。それが今日まで残っているのであります。こういうふうに音楽も教え梵語も教えてインド人、准インド人が奈良には居住しておったのであります。それでご承知の五十音の図でありますが、あの図は梵語の字音の並べ方の通りであります。あれは吉備真備が作ったというようなことを伝えているのでありますが、そうではなくて、この二人が教えておった梵語の表が自然に日本の言葉に移ってそうして五十音図表が出来たのだと思うのであります。而してまたかかる人が奈良におったのでありますから言葉も多少輸入され、日本の国語も影響を受けずにはおらない。今はちょうど二月で如月でありますが、木更衣とも書きます。木が衣物を着換えるというような意味で、木の芽立ちのことをいったのかも知れない。「キサライ」というのは梵語でそのまま「木の芽立ち」という語であります。これは月の名ではないが、この言葉が移ったのだと思います。ここに現に梵語を教えつつある人があり、また伏見の翁もインド人らしいのでありますから、教えて貰う人はどうしてもその勢力を受ける。かように日本語の中に梵語が入っているのは、ただ仏教と一緒に来たのではなく直接受取ったということが分るのであります。
 御経の中に見当らない言葉がたくさんある。例えば瓦というものはこれは梵語の「カパラ」である。これは御経の中を見ても出て来るものではない、その時まで草葺であったのが瓦葺が出来るようになった、これはインドでなんというか、それは「カパラ」であると教えられる。それから瓦という日本語が出来てきた。私共が小学校に行っていた明治八年頃に、掛図がありまして、掛図の一番初めの図に「瓦」がありました。なぜ「カハラ」と書かなければならぬかというと、それはカハラだからカハラと書かなければならぬ、こういう仮名遣いだから仕方がないというふうに教えられたのであります。が、それは元がカパラであったからそれが柔らかくなっても、カハラと書いて根本のパの音を残している。
 日本のハヒフヘホの音は元はP音であった証拠には、北の方で大平山を今でも「おうぴらやま」といっているので分る。また琉球では「大きに」というのを「オホキニ」と言っている。また大きな瓦を「イラカ」(甍)と申しますがこれも梵語であります。日常用いる物から眼に付くような物はたいてい梵語でいう。それからまた隠し言葉にもある。学林の中であらわにいうと気の毒なことがある。例えば酒のことを般若湯といって見たり、甘露水といって見たり香水といったりするのはみな隠し言葉である。一例を申しますと鼻のない人が来ると「カサ」がきたという。「カサ」とか「クサ」とかいうのはインド語であって、今では「カサ」というとすぐ分りますがその当時は梵語でカサといえば向うには分らないでお互いには通ずる。それから疱瘡を患った人を「アバタ」というが、疱瘡という語は「アブタ」、それがアバタとなって、アバタがきたといえば疱瘡を患った人がきたという意味である。それから今では馬鹿といえば誰でも怒りますが、馬鹿という語にはいろいろ説がありますが、インドでは馬鹿の表現が青鷺である。青鷺を「バカ」といいます、それが馬鹿ということになったのであろうと思います。しかしこれには新村博士の説には慕何と云う梵語の訛りだという説を採用すべきであるとのことである。男子の隠し所の名前も隠語から転じたのであります。それから寺の庫裡という言葉、これは煙出しのある家という梵語「クテイ」で、庫というのも梵語らしい、厨も同じ梵語かと思われます。たいていラの字の付いたものは梵語が多いのであります。
 私は近頃糖尿病を患いました、この病気には木※[#「木+忽」、415-8]がいいのでありますが、ラという音があるのでこれは梵語に違いないとだんだん探していきました所が、インドで苦い木、苦味のある※[#「木+忽」、415-9]を薬に用いる。それはタラタンの木で糖尿にもいいし胃にも腸にもよい、また神経痛にもよい。それでその根はタラコンと称し村井弦斎氏が胃腸の薬に用いている。御殿場に仏教女子青年館の会館が出來て私はそこに行っていることが多いのでありますが、糖尿になってから※[#「木+忽」、415-12]の木を切って皮を薬にして飲んでおりますが、非常によいのであります。まず胃にいい、腸にいい、それから刻んで風呂に入れると神経痛に宜しい、それでタラタン湯と号して飲薬にも薬湯にも用いております。
 それから訶林という木がある。これもインドの言葉であります。こういうような言葉はシナからきたのも多いのでありますが、猿のことを「マシラ」というのは摩期羅を漢字で摩斯羅としたから起こったらしい。軍神を建駄天というのを韋駄天と書いたから訛ったのであります。鼓というのはヅンドビまたはドドビの転である。みなインド語であります。それから饅頭というのも梵語であります。それから寺というのはこれは朝鮮のツオーラの転といいますが、これはまたインドの言葉から変化してきたのだと思います。長老を「テーラ」といいますからこれに家の字を付けて寺家、今の寺家というのと同じことであったと信ずる。それと同じことであったと信ずる。それと同じ浮屠というのは仏のことでありますが、シナでフトというから、それに家を付けて浮屠家ふとけといったのが「ほとけ」の名だと思います。そういうぐあいに、皿も梵語、幡も梵語である。閼伽(水)ももちろん梵語である、旦那も施主の意味で梵語である。そこにバラモンがおりましたので直接間接に教わったものと見ることが出来るのであります。萬葉集にこういう短歌がありますが、その意味は近頃まで解釈が出来なかった。
バラモンの作れる小田をはむ烏
   まなぶたはれてはたほこに居り
 この歌の意味が古人には分らなかった。バラモンが奈良朝に荘園を貰って田を作っていたということが分ればこれは何でもないことでありますが、そのバラモンの作った田をはむ烏までもバラモンの説教の感化を受けて、まなぶたはれて即ち涙を澪してはたほこに止っている、「ハタ」というのもインド語です。仏教の習慣では説法する時は法幢を建てるといって幡を立てて説法する。萬葉時代にバラモンの活躍という事実があったことを知ればかく解るのは適当と思います。それから骰子の遊び、これもインドから移って来たもので、サイコロの「サイ」というのは、博奕のことをパラサイというのでこれを略した名である。パラサイというのはこの遊びのインド語であります。萬葉の時には「カリ」という博奕があった、これは梵語でカリというのは一点を付けた骰子の名である。「コロ」というのは梵語で「クル」というのは「成就せよ」「出て来い」というような意味であるから転ばす時に「クル」といって投げ、望みの目が出た時は「クリタ」(成就した)という。クリタは四点の目で勝利を示すのである。この勝負に敗けたら酒を賭けるというのは酒づく、といい、人を泊らせる約束を寝づく、米を賭けるのを米づくという。この言葉もやはり梵語から来たのだと思います。ヅフ即ち搾取する意である。それから天平時代に、今のバラモン僧正より前からあるのでありますが、密陀絵という絵風がある油絵である。
 推古天皇の玉蟲の厨子も密陀絵であります、これはペルシャの言葉で「ムルダーセン」というのである。これは薬の名で、同時に絵の具に用いたものであった。この時代に鑑真和尚の医力が行われた、その薬に阿伽陀薬というのがある、アカダは毒消しの薬である。これも梵語である。万葉集にもある綿の名もインド直接ではないが中亜からきた語である。近時発掘したコータンという地がある。昔の名は豁旦かったんで、後には于※(「門<眞」、第3水準1-93-54)といった、この国が絹の本場である、この国名が綿の名に顕われてカッタン又はコットンとなった。始めは絹綿であったが後には木綿となった、連音となったのでハタが木綿となってキハタ、キワタルと転じた、ワタとハタは同名である。織る材料もハタ(ワタ)といい、織った帛もハタといった、織る機械もハタといい、織る人をも秦(ハタ)と称した。これは皆コータンの地名からきたものと思う。
 こういうふうに探していったらまだたくさんありましょう。そしてこれはちょっと要らぬことのようでありますが、これが日本の国語または文化によほど関係があるということをお話しようと思って申上げたのであります。
 先にお話しましたように舞楽が今に残っており、その中にインドの舞楽があるのでありますが、それが臨邑からきた臨邑八楽が主であった。奈良朝の末頃になるとこれを娯楽に用いるようになった。法楽ばかりでなくこれを娯楽に用いるようになった。それがだんだん変って後の催馬楽にも、猿楽にも、能にも、狂言にも、影響して時代の音楽趣味を支配しながら、舞楽自身も元の侭でも残りまたその影響を受けた俗楽も今に残っているというふうであります。

         四

 これより前にもインド人が日本に来ております。摩迦陀国王舎城から出て来た法道という人がある。日本の文化に大なる影響を与えた人であります。播州の赤穂から上陸して法華経山または広峰山という山がある。そこに籠りまして、インドから持って来た仏天を祭っている。牛頭ごづ天王は祇園精舎の鎮守の神であるが、それに観音を礼拝していたのである。孝徳天皇がご病気であったので、宮中に参内して修法をした結果終にご恢復遊ばされた。その時に皇子が五人おいでになったのでありますが、五王子が陛下にお降りになって、父天皇の病気平癒に功能があったというので皆一同羅拝なされたということである。五王子羅拝の謝意を受けたのである。而して宮中に三カ月も留まりその間に仏教の様式を伝えたのであります。大蔵会というのはまた一切経講会ともいい、一切経の書写、供養、もしくは転読の法会であるが、この法道が宮中で初めてこれを行ったのであります。それから説戒会も行われた。これは一週間に一度戒律を読んで復習し、それに触れたものがあるならば告白懺悔する。そういう儀式を説戒会といい、または布薩会ふさつえまたは斎会というこれが宮中で行われた、これが今の日曜学校に当ります。これは仏教の最初からあることであります。
 それから無遮会、それは誰がきても拒まず接待をする。この無遮会は五年に一回国王に依って行われる例であった。これを宮中で行ったのであります。それからまた外の斎会も宮中で行っている。その当時までは仏教行わるると雖も唯単なる学問的のことであったのだが、これからは本当の信者が多くなったと書いてある。法道はかくの如く仏教の上には大なる勢力を持ったのであります。のみならず祇園精舎の牛頭天王を持ち来ったものでありますから、祇園の祭の様式は皆これが教えたのであります。御旅所といって神さまが一週間ばかり他所に出張しておられる。その往来の行列はインドの式で「ヤートラ」と申しまして行像と訳します。それが行列を為しほこを出し、やまを出し、矢台やたいを出すというような儀式、これは皆インドの儀式に相違ない。それを教えまたいろいろそれに関しての作法も教えたのであろうと思うが、平安朝になって貞観十八年円如法師が広峰山から牛頭天王を招待して、京都の今の八坂神社の所に移した、これを感神院祇園社と謂う。これは新羅の牛頭山に在ます素盞嗚スサノオ尊を勧請して祭ったともいう。ともかくインドの牛頭天王と合祭してある。それが維新後神仏判然の時代となり仏教系の神を棄てた、八坂神社の前に牛頭天王と書いた額面は取除くことを忘れた。
 牛頭天王と素盞嗚尊とうまいぐあいに関係を付けたと思いますのは、牛頭天王も素盞嗚尊も朝鮮に行かれた、また出られたともいう。朝鮮の牛頭里いまは「ソシモリ」というが、ソシというのは牛ということで、モリというのは頭という意味に相違ない。頭を「おつむり」というから「モリ」は頭の意と思います。それでソシモリの里、即ち牛頭山に素盞嗚尊がおられた。素盞嗚尊というのも「スサ」というのは牛の意かも知れない。ところが牛頭天王は祇園精舎の鎮守の神であるが、インド祇園の山の名前は知れていないが多分牛頭山といったに相違ない。牛頭山は雪山の尼波羅国にもある、中アのコータンにもあった。シナには牛頭山、牛角山というのが三カ所もある。新羅にもあるべきである。これが牛頭里であると思う。この法道は王舎城の人であるのに、祇園精舎の鎮守を持って来て、なぜ王舎城の鎮守を持って来なかったろうかと考えて見ますと、やはり持ってきております。これは書いたものはありませぬけれども金毘羅社である。金毘羅神というのは王舎城の鎮守で王舎城の北の出口の所にある、向って左の山がちょうど象の頭によく似ている、これが象頭ぞうづ山というのである。一名は毘富羅ヒブラ山ともいう。象頭山の金比羅夜叉といってこれが王舎城の鎮守である。そして讃岐の象頭山にも金毘羅を祭り、そして内海を進んで赤穂から上陸して広峰の牛頭社を立てたのであろう。
 たいてい仏教と一緒に渡来した神様ならば「儀軌」といって祭式が明らかに教えられてある筈である。神様を拝む特別の方法が教えてあるのであるが、金毘羅に関してはそういふ儀軌がない。経もあるが偽書である。多分法道がインドから日本に着して赤穂に上陸する前に金比羅神を讃州の象頭山に祭り、牛頭天王を上陸後広峰に祭ったのであろうと思う。そういうふうにいろいろとインドと直接の関係があるのであります。こういうふうに考えていくと仏教、風俗、儀式、美術、薬物、遊戯に至るまで辿って行けば面白い研究でありますが今日はそれくらいにしておきまして、インド文明の大波が北と南とを通って東方に移って来たことを今少し話したい。普通はシナに一応伝わりもしくは朝鮮に伝わったのを日本が受けたのでありますが、そうでなく前に述べたように直接にインド人が日本にきて伝えたものも相当ある。そしてこれは実地に移したのでありますから日本にとって非常に深い関係を持つのであるということを知っておかなければならぬのであります。而して然らば今日の主題たる一切経がどういうぐあいに日本にきたかということを述べ、そしてどうして出版する運びになったかということを少しお話いたしたいと思うのであります。

         五

 仏が涅槃に入られる時に、「我入滅すとも我所説の法は滅不滅である、我所説の法以て汝が師と為せよ」といわれた。自分の肉身、即ち親身は滅しても法身は常住である、肉としての自身は亡びても法としての自身を大切にせよと言われたのである。それを字義通りに大切にするために佛が滅せられた年の七月に大迦葉が五百の仏弟子を集めて一切経を結集したのであります。一切経というものは仏が一代の中に説かれたもので、その中に自分が自発的に説かれ、自分の理想を説き出されたものが「経」というので、昔はこれを単に法といっていた。法というのは理想というのでありますから、仏法というのは仏の理想、説法というのは仏が理想を説かれる、転法輪というのは仏が理想の輪を社会に転進して理想を実現せられるというような意味である。法界というのは仏の理想の行われる世界である。法身とは仏の理想のみの身ということである。昔は法といったが今は経といっております。
 所が自分が自発的でなく、弟子が罪悪を犯すに随って制した戒律がある。生きた物を殺す、そういう行ないはしてはならぬと制せられたもの、それが法典となっているのであります。これを戒律といい律蔵という。経蔵というのは御経の蔵、律蔵は戒律の蔵、戒律を納めた文庫である。法典といえば国法とか、国の習慣とか歴史とかいうようなものを顧慮して作るものである。然るにこれらは一切構わないで真の理想から出たものが仏教の法典である。花井卓蔵博士も仏教の法典は純正な理想法典であるから重きをおかなければならぬということをいっております。論蔵というのは、仏弟子の作ったものである。この経律論を合せて三蔵という、三つの蔵に納めて区別する意味である、これが一切経である。一切というのは経ばかりではない、経律論の三つを三蔵といい又大蔵というのである。一切経、大蔵経というのは実は経ばかりではないが、主たるものについて名を立てたのである。その三蔵をみな知っているのを三蔵法師と名づける。
 玄奘三蔵とか、義浄三蔵とかいう人がそれであります。その一切経の初めは迦葉が、仏が自分の説いた法を以て師匠とせよといわれたのに基づいて、その仰せを守って仏弟子五百人を集めて仏の説かれた法を集めて一切経を拵えた、そしてこれだけ仏の教えがあったとして残したのであります。残したといっても仏の入滅せられた年から凡そ四百七、八十年の間は文字にも何にも書いてなかった、無字の一切経で文字なしに空に覚えておったのである。するとそれじゃ怪しいものだという人があるでありましょうが、インドはなかなか怪しくない。バラモンの教えには三吠陀ベーダといって十万頌もあるものを今まで曽て書いたことはない、口から耳に伝えているのであります。それは一音々々を順に読み習い、またそれを逆に読み習い、また第一字から第三字、第五字から第七字というように文字を飛んで習い、それから第二字と第四字、第六字と第八字というように読み、それを合せて覚えるというふうに、記憶の方法は至れり尽せりで、練習に練習を重ねて覚えているのであるから忘れるだろうというようなご心配は要らない。しかしかかる大変なものを頭の中に詰め込んでおこうとする努力は非常にインド人には強いのでありますが、一方それがためにインドの文明は停滞するようになってきたのである。シナでは文字を覚えなければならぬ、それがために俊才は文字を覚えまたこれを使うのに非常に頭を労するので文明が自然停滞するようになったという学者もあるのでありますが、かかる努力の偏重はよほど文化に関係することであろうと思います。
 とにかく仏教の方は四百年しか覚えることが出来なかったが、バラモン教の方は今に至る四千年間覚えているのであります。バラモンはこれを本職としているのであります。そういうことを専門にしているのがバラモン族であるが、仏教はそうでなく、昨日まで百姓をしておった者も、バラモン族も、王族も、男も女も皆入るのでありますから覚えておれといってもなかなか困難である、そこで紀元前八年頃に一切経を文字に書き残しました。それから以後その通りを守っているのが是が小乗の一切経であります。セイロン、ビルマ、シャム、カンボジャの一切経も同じことであります。同じ一切経を死守しております。それより他のものは一切入れない、その時に決めた通りを今に守っております。これがインドの小乗一切経である。
 所が大乗という方はそんなことをしない。一所に集成してこれが大乗の一切経でございというようなことはいわない。それでありますからどんな形であったか分らない。全部で幾らあったかも分らない。それでインドで出来た小乗一切経はシナに一冊も来ないといってよい。たくさんきておることはきておりますが、向うで一切経だといっているものは一冊もきておりませぬ。たった一冊「善見律」というのを訳したのがありましたのを私が発見した。二冊目を探そうとしても見出せない。そのくらい一切経を一遍にシナに持ってきたということはない。インドからシナに来る人が持って来る。また玄奘三蔵とか法顕三蔵というような人がインドに旅行して持って帰る。少しずつ持ってきたのを翻訳した。後漢の時代から宋の時代までに、九百六十年間に百七十余人の学者が、その中にはシナ人もいるしインド人もおりますが、九百六十年の永の年月かかって翻訳したのであります。それを集めて見ると広大な一切経となり、経もあり、律もあり、論もあってあれだけの大部の物となりました。シナに持って来る時にこれは本当の物だと思っても嘘の物もあったかも知れない。シナに持ってきてから偽作した物もあるかも知れない。インドの偽作という物は尚更多いかも知れない。偽作があるからいけないということをいう人もあります。
 小乗の方の人はちゃんと決めたままそのままを持っているからこれが正しいこれが歴史的である、これが原始仏教的であり根本仏教であるといって非常に西洋人には評判が良かったのでありますが、私はそんなことは関係しない。仏に説かれて、それを守っておったのであるとしても、初めには文字がない時が四百年間もあった。どうせ説かれた通りであろう筈がない。それに偽作もあってこそ本当の思想も分りまた各時代の思想を見ることが出来る、偽作と偽作でないのとを比較区別するということが研究なので、本当の物だけであると研究も何も要らない。それでありますから一切経はまあたくさんあるだけよい、遅い物も早い物も一緒にあるのがよい、こういうように見たいと思うのであります。
 それで百七十人の人が訳したのでありますがその中にたった一人日本人がいる、これはわれわれ忘れてはならない人で、奈良の興福寺から留学した霊仙法師、これが弘法大師、伝教大師などと一緒に入唐した、若いのに偉かってシナ学僧の上座に立ちて訳場の首席であった。そのため嫉みを受けて五台山に逃げて行っている中に朝鮮人に毒を盛られて殺されてしまった。その死ぬる時に五台山停点普通院の壁上に左の手記あるを慈覚大師が発見せられた、「日本国内供奉翻経大徳霊仙元和十五年九月十五日到此蘭若」としてあった。それから持っておった物などは常暁律師がシナに留学した時にシナ人弟子から受け取って還った。大元帥法という仏教の儀式は霊仙の教えた所である。霊仙はインドから来た般若三蔵の下に在って心地観経を訳した。この経は四恩のことを書いてある大切な経であります。これはシナの一切経には霊仙三蔵が訳したとは書いてない、その訳した時に自分で写して日本の皇室に奉ったのが石山寺に残っている、それで分ったのです。霊仙訳と書いてあるのであります。この人だけは三蔵法師と称せられておった。
 こういうふうにシナでたくさん訳出されまして日本に伝えたのでありますが、それを日本に伝えたのはまだ印刷しない前の一切経は玄※(「日+方」、第3水準1-85-13)僧正が唐の玄宗皇帝の時開元時代の写本一切経五千四十八巻全部携えて還って来たのであります。これは非常な努力であったろうと思うのであります。それで天平八年に帰ってきました。五千四十八巻の一切経で聖武天皇に献上した。そして聖武天皇の願経というものがありますが、朝廷からの特命で写さしめられた御経であります。この時のが日本に正式に一冊残らず全部渡って来た最初であると思います。これは玄※(「日+方」、第3水準1-85-13)僧正の将来であります。これが全一切経の根本になります。シナでは勅修――陛下が勅して拵えられる一切経、一切経を写すという事業が十五回ほど行われております。それから宋の太守の時初めて版にしました。即ち一切経は宋の時代になると翻訳時代は終って刊行時代となった。そして今までシナでは十四版までも刊行しました。朝鮮で二回、日本で今まで五回版にしております。
 それほどたくさん版にされた漢訳の一切経でありますが、それほど力を尽された本場のシナには漢訳の一切経が一版も完全には存していないといってよい。といってはあまりひどいのでありますが、明の一切経は或いは残っておるであろうと思います。清の竜蔵もあるべき筈である。西蔵の一切経、蒙古の一切経もある筈である、が責任をもって保存していないという意味で完全していないというのであります。しかし近頃私が一切経の中に出しました書物の中にも非常に良い書物がある。唐宋の時代の書物がシナで発見せられ朝鮮で発見せられたものもある。広いシナでありますから決してないということは申上げられませんけれども、まず全体として存していない。ところが日本には何れの時代の版も、朝鮮の版もシナの版も日本の版もみな完全に残っているのであります。これは大いにわれわれの誇りとすべきものであります。
 また西蔵の一切経もあり蒙古のもあり満州のもある。満州の一切経はシナにもう一部あるかないかというくらいかと思いますが、元三部あって一部はロシアとフランスに分けられております。一部は奉天の黄寺にあるということでありましたから、ちょうど日露戦争の時に私は末松男爵に随ってロンドンに三年戦争中に渡って滞在した時があり、まだ戦争が始まらぬ前に、日本を出る時どうせ奉天も日本の兵が占領するに違いないから、黄寺にある満洲経をどうか日本に取り寄せることが出来れば取って戴くことを願うということを時の宮内大臣に申し送った。宮内大臣もそれを諒とせられ、だんだん日本軍の進むに従って出先の山懸参軍にその事を申し送り一切経収容のことを希望された。然るに「今度の戦争は正義の戦争で分取りに類することは一切しない。殊にシナの中立地帯からたとえそれが大切なものであっても、これを無償で取るということは一切出来ない、これは陛下の思召しと雖もお断り申してくれ」ということであった。それを宮内大臣が明治天皇陛下に申上げられたところ、それほど大切な物なら内帑の金で買ってやれ、と仰せになって御内帑金二万円をお出しになって満洲の一切経を買入れの上大学にお下げになって頂戴したのであります。
 そうして日露戦後私は帰って見たところ満洲経として下げられたのは満洲の一切経でなくて蒙古の一切経であった。蒙古蔵ならばまだ幾つもある、満洲蔵は三つしかないその一つを得るのだから大切と思っていたのだから。その時内藤湖南君が朝日新聞から満洲に行くということであったので実地について調べて貰った。行って見るとその侭にある。ところが黄寺の方では無論分取られると思っておったのにお金を戴いたものでありますから、満洲経は景物としてその侭差し上げましょうということで、陛下のお蔭で満洲経と蒙古経と両大蔵を得たのであります。それを両方とも大学へお下げを戴いた、私は非常に喜んだのであります。その後振天府に入れてありました西蔵の一切経、これも要るなら下げてやろうということでこれも有難く下げて戴いたのであります。
 私はインド雪山の尼波羅ニポール国に行きまして梵本の一切経を買い集め随分苦労をして七百部ばかり得た、今では梵本は日本が一番多くを所持している。それまでに満洲のお経を担ぎ込み、蒙古のお経を担ぎ込み、西蔵のを担ぎ込んだ。これらの陛下からお下げ戴いたものを私が担ぎ込んだかの如く厄介視して、場所がないのにこういう読みもしない物を持って来るのは不都合だというので、梵本の一切経は図書館では受取って呉れない。その上にマックス・ミュラー文庫を岩崎男に依頼し買って貰って大学に入れた。この目録もまだ出来ないのにまた雪山から梵本を七百部も持って来るのは不都合だと言わぬばかりに図書館から排斥せられ、時の総長の計らいで梵語研究室に置くこととなった。仕方なく自分の教室に保管した。そして毎年講義の時には梵経所得の苦労を一度は必ず話した。インドの鉄道を離れて、七十五哩山駕籠に乗って、高山を二つも越して雪山の中に入って、そこで集めたものであると自慢まじりの話をする。学生同志では袖を引いてもうあの話が出たか、いやまだ出ない、今に出るから見ていろというふうで、私が話し出すとみな見合って笑っているというような有様。所がこれが震災に役に立ち梵本が助かる因となった。
 震災の時にはいよいよ火が教室に燃え移った。そうするとその時に京都の高等学校からベース・ボールのために来て一高に宿しておった学生が逸早く駈けつけて私の教室にきて見た、巡査の剣で戸を破って中に入った。そして金塗りの洋書などをまず運び出しつつある、所が私の講義を聴いた学生が駈け付けて、「そんなのは大切じゃない、これが大切だ」と示した。梵本はみな赤い風呂敷に包んである。これを運び出すことにした。教室の外部にはコンクリートの溝がある、これに板を渡して溝を越えて庭前に運び出す、これは平生からの訓練であった、その通りにやって呉れました。それでその翌日私が行って見るとそこに高く積み上げてある。そこには避難民がやってきて、きれいな紙は持って行って使用する、火のたきつけに用いる、雑巾の代りに用いる、次第に消え失せつつある。所が今のフランネルのような布で包んである梵本は焚くと臭いから火を焚くには用いない。雨にさらされている梵本をすっかり集めて選び分けて調べると、七百三十部あったのが六百八十部くらい残っている。紛失したのは一割に足らない。殆ど全部残っているといって宜しい。それで非常に私は喜びまして、書物が無くなったら辞職しようといっていたのをとうとう停年まで生き延びるようになったのであります。

         六

 イギリスはインドの南方仏教小乗の一切経を出版しております。ロシアでは大乗一切経の梵語の原本を出版しております。これは帝政時代から出版しておりましたが赤化ロシアになっても今も続いて出版しております。赤化ロシアの方が他の国よりもよほど理解があるといって梵語学者の仲間では賞讃しております。シャムの皇帝は曽て小乗の一切経を出版され世界の学界に提供した。後にまた註釈全部を出版して世に弘めた。ビルマでは有志が出版し、セイロンでも有志が出版して普及を計っている。
 古代の出版から近時の出版まで合せますと三十の一切経があります。でこれは古い写本、版本みな大切でありますが、近時学者の手に成った校本も研究には欠くべからざるものであります。それをみな集めようというのがわれわれの野心であったのであります。その中で図書館に入っていたのは焼けましたのが多いのであるが、他に本願寺にもあるし、東北大学にもある。とにかく日本には三十の一切経がことごとく存在しております。これはわれわれの誇りとすべき事柄であると私は考えます。インドで出来た一切経もインドの本国にはありませぬ。シナで翻訳され刊行された一切経もシナには残っていない。日本まで文化が押し寄せてきて、それからは決口はけぐちがないから日本には全く留ったという訳であります。それから日本の古寺院に、非常に面白い図書が残っておりますが、その残っているものの中に近頃中央アジアの発掘によって知られたものは日本に存在していることが分った。日本はこれがために重きを為すことになったのである。
 これも序にお話したいと思いますが、中央アジアの発掘ということは世界に動搖を与えた学術上の大事件であります。日本は東方に偏在しているのでそんなことには関係ないであろうというように考えられるかも知れぬが、シナで無くなったもの、シナ四百余州に見つからぬものが日本にあり、中央アジアで発掘された出土品と日本にある保存物とを比較すると同一物である。それでシナ本国になくて日本に残っている古書は、西洋人は或いは偽作だといっておったものもあります。今度中央アジアから掘り出されて来ると日本のものと同じで偽作でなく真物であるということが分った。その二、三の例を申し上げますと、梵本というのは古いものは棕櫚の葉に書いた物である。これを貝葉ばいよう梵本と申します。それが日本には非常に古い物があります。今のインド人は日々用いつつある梵字は知っているが昔の梵字は知らない。然るに発掘品から見ると昔の梵字は日本に伝わるものと同一である。日本の梵字の形を見ますと中には四、五世紀頃のもある、推古時代奈良朝以前のインドのものが日本に将来されているのであります。それを一々調査しまして写真に撮っております。
 まず最古のものは、河内高貴寺、大阪四天王寺、近江玉泉寺、京都百万遍知恩寺にある。大和法隆寺(御物)大和海竜王寺所蔵のものはこれに次ぎ、京都東寺、粟田口青蓮院、嵯峨清涼寺、坂本来迎寺所蔵のもの略これと同じく、また貝葉でなく紙本梵文にも逸品がある。三井園城寺大日経真言梵本一冊、河内金剛寺普賢行願讃一冊、高野山無量寿院大涅槃経一軸がある。いつか刊行したいと思っております、四天王寺に貝葉梵本があるという記録を見て寺に掛け合った所が「あるには相違ないが新しい物でとてもご参考にはならぬ」という返事がきた。それでも古い記録にあるからそれは大切な物に違いないと考えて行って見ますと、それがやはり最も古い四世紀頃の梵本である。そういうのがまだたくさんあるだろうと思いますが、今までに見つけ出した物だけでも以上の通りであります。字形でいったならば中央アジアで掘り出した物と文字の形が似ているから古物だということを何人も信じますが、日本だけにあった時にはこれはいつごろの物かも分らないし、真価も知れないのであります。こういう貴重品が日本に相当あるのであります。
 名前はお聞きになったこともあるでありましょうが善悪因果経という経がある。奈良朝時代に因果経の上部に絵が描いて色彩も麗わしく時価も非常に高いものがある。一枚が万金以上に価する。名宝展に久邇宮家の所蔵品が出されておりました。藤田男爵にも一枚、美術学校にも一葉あります。因果経という本は奈良朝にそれくらい行われておったにも係らずそれが一切経の中に入れてない。シナでは十五回も勅修があり、また十四回も印刷したのにこれが入れてないから、或いは日本で作ったものだというようなことを言っておったが、それが中央アジアで発掘されて全部が出土した。それが漢訳が全部出たのみならず胡語ソクデヤ(※(「穴かんむり/卒」、第4水準2-83-16)利)の言語で翻訳した物が出た。ソクデヤというのはギリシャ人とペルシャ人と一緒になったような人種であります。西域に住んでおりましたが、その言葉に訳翻されている因果経である。日本の偽作と言われたが同一の物が漢語胡語に訳せられて、それが発掘されたというのは大変面白いことだと思います。

         七

 それから三階教という仏教の一派がシナにあった。これは仏教の異端であります。仏教を三階に分けて仏教の第一期は唯一乗教の時代、第二期は唯三乗教の時代で、一乗三乗峻別して通学通行せざる時代にて、機根の勝れたる時代に相応する教えである。第三階は大小の区別なく一般に遍く行われる教義である。早くいえば第一階は機根上等の人のみに行われる教義、第二階は機根中等の人に相応する教義である。両方とも別真別正の仏法であるが、第三階は凡一覧の区別なく普真普正の仏法で普法の佛教普行の宗旨である。これは親鸞聖人、日蓮聖人の教えと似たようなものでありますが、それが隋の時代から唐の時代に行われた。隋の信行禅師が唱え出して唐の時代にまで行われたのでありますが、唐の開元時代に厳禁せられて終に無くなってしまった。
 ところがその経巻が三十五部四十四巻あった。それはみなシナで焼き棄てられた。それでシナにはない訳であります。所が敦煌からこれが出て来た。それがイギリスの博物館、フランスの博物館に行っております。所がこれも日本の正倉院の正語蔵の中にだいぶある。それから宇治の興聖寺の一切経の中にもある。法隆寺の一切経の中にもある。それであるから法隆寺に一切経を読んだ日蓮聖人も、親鸞聖人も読んだのかも知れぬ。読んだ読まんは疑問として、シナで一部も無くって敦煌遺品から出た物と日本にある物とが同じである。三階教は私の刊行しつつある一切経の中に出しております。それからまた日本にのみあって非常に不審に思われておったことがあります。光明皇后が百万塔を作られた。百万塔を作られたその中に入れられた小経は慥に版になっております。それは活版であるとか、活字にして木版か、銅版か、説も分れておりますが、とにかく版本であります。これは世界最古の版本であります。どこにも例のないことである。日本だけがどうしてそんなに古く刊行法を発明したのだろうか、随分疑問とせられたものでありますが、中亜の発掘でこれよりは遅いけれども掘り出した版本があった。百万塔の版経が一番古い物であるということは変りませぬが、それから僅か遅れた物が掘り出されたのでありますから、日本独特の物でなく、版行の方法は東亜には発見されておったということは知り得るのであります。

         八

 それから学問としての仏教でありますが、倶舎(実在論)唯識(理想論)というような類、そういう類の註釈というものが仏教研究には大事なものでありますが、これは多くはシナで述作せられたものがシナには殆どなくなった。で赤松連城れんじょう師、南條文雄博士が日本でかかる註釈を写して次第にシナに送って、そして南京の楊文会ようぶんかい氏がこれを出版して支那の学者は倶舎、唯識の論釈を読むことが出来るようになって、近頃唯識学者も出て研究もしております。玄奘三蔵以後に出来た唯識の研究書が本場のシナには紛失しておったのが日本には全部残っておった。でそれはシナにはなくて日本にばかりあるものと思っておりましたが、これも敦煌には残っております。こういうようなぐあいにこんなに大切な物が日本にある、その真価が向うの発掘によってますます認められたという形であります。こういうことを綜合して見まするというと、非常に大きな仏教文学というものが日本にあることになるのであります。
 今一つわれわれが忘れてならないことがある。大乗の涅槃経は梵本が一冊も出て来ない。そこで小乗涅槃経によってシナ学者が偽作したものかと疑う人もあった。然るに中央アジアの出土品の中に大乗涅槃経の梵本があった、その後私は高野の無量寿院で弘法大師筆と称する梵本一軸を発見した。これは大師の筆でなく大師以前のインド人の筆である多分唐筆をもって書いたものらしい。全く大乗涅槃経の梵本の一部であった。もはや疑問はないこととなった。かくの如く仏教文学の必要な材料がたくさん存している。そしてそれを精選しての出版も四回も行われている。一つの宗教文学として、こういう偉大な文学を持っている宗教は他にはない。宗教のみならず他の方面にしても一つの題目でこれだけ大きな文学のあるということは他に類例がないであろう。仏教の偉大なる文学ということに西洋人が近頃眼を付け出したのである。
 その文学が写本の侭でも残っており、大刊行物として精選して出した物も残っているということも、これも世界に類例のないことである。今まで出版しましたのは校正はするが古来の版本、写本と較べて校合して出版するということをしないのが多いのであります。なぜかと申しますと明の時代に明の皇帝が命じて校合して出したので、それをいまさら校正する必要がない。こういう説が行われた。これは困ったことだと思いました。
 明治十七年出版の縮刷は相当に校合してありますが、私はどうかして古写本が校合する必要があるということを立証せんとして石山寺に参りまして、同寺の天平写本を調べました。天平時代に朝廷で写させたのは立派なものでありますが、これは余計ありませぬ。正倉院の正語蔵にあるが、その時には見ることが出来なかった。石山寺のは田舎写しの経本でありますが、とにかく天平写経である。それと較べて見たら大体分るだろうというので大般若経だけ持って行きまして石山寺で較べて見ました。そうすると石山寺に残っている写本の方が版本よりは遙かに良い。今まで度々刊行した物の中に半頁ばかりも落ちたのがある。それから文字のまるで違ったのがある。写本の方を見ると、こっちの版本の方は解することが出来ないような所が明瞭に解し得ることをも見付けましたが、その時にちょうど前のイギリス大使のサー・チャールス・エリオットがおった。この人はいま奈良に逗留して日本の大乗仏教を研究しておりますが、ちょうど私が石山寺に行って調べていると、来山して黙って私の調べを見ている。東寺でも二度きましたが青蓮院には前後三度きました。それから高野にいる時も一度きました。石山寺にいる時には二度きました。
 私が「天平時代の写経を版本がいいか写本がいいか比較して見ている」といったら「結果はどうか」と尋ねる。「それは写本の方がよほどいい」というと「今まで出版する時に比較したことがあるか」「曽てなかった」「何故しないか」「理由は分らないが、古版本をそのまま用いたのである」「それじゃいよいよそれがいいということを知ったらお前はやる気か、やらぬ気か」「それはやったらどうだろうかという考えを決めようと思って見ているのだ」「それは直ぐにやらなければならぬ、これはいったい何時頃の物か」「西暦で七百五十年の奈良時代の物だ」「八世紀の物が、もし西洋にあったら、しかもそれがバイブルに関係した物であったら耶蘇教者は一寸刻みにして研究するだろう。それにこんなにたくさんあるじゃないか。天平の写経が石山寺に[#「石山寺に」は底本では「石寺山に」]十箱ある。こんなにたくさんある物を比較しないということは日本学者の恥だ。またこれを比較したが、それを出版しないということは不都合である」というような話をした。その日は帰ってまた翌日来る。同じ話をした。実は私が一切経を出版しますことを初めて決心しましたのはその時であります。それまでは費用のことを考え、出版後の売行きをも考え、今までも既に出しているのにまた出すというのは不必要だというふうにいろいろ考えておったが、写本が正しい、良いということが分り、しかも西洋人からそんなに焚付けられると、私には再考の暇もなくなって「出版する」と言った。すると「何時やるか」「何時やるかと云ってもこれから準備をして掛るから」というので、まず一番初めの賛成者にサー・チャールス・エリオットを入れた訳であります。
 その頃、日獨文化協会を作るというので、ゾルフ大使はどうしても西洋と日本との連絡は大乗仏教に依らなければならぬから、それが出来ない以上はどうしても真実の親密というものは出来ないから、そのために日獨文化協会を興すということであった。その時この一切経の話を聞いて、サー・チャールス・エリオットから聞いたらしい。私が訪ねて行った時に日獨文化協会のことは話さず、一切経のことを話した。ゾルフも梵語学者でありまして、梵語の教授になる積りだったらしいのでありますが、そういう訳で興味も深い。「どうしてもやらなければならぬ、西洋人が安心して読めるような、出来得るだけの対校もしてあって、しかもその対校が行き届いておって学術的に値うちのあるような一切経を作らなければならぬ、それを作るのにはお前が一番適任者だ」というふうに、二人から盛んに焚付けられて、そのためにゾルフ氏もまず賛成者として始めたのであります。不規則の始めようでありましたからどうかと思っていましたが、無事に五十五巻を即ち第一期を出したということは私自身夢のようであります。一文なしで、しかも拵え始めるとすぐその年に震災に遭うて、そして払い込んで貰った予約金というものはみな焼棄ててしまった。とても仕方がない、止めてしまおうという艱難まで嘗めましたが、一文なしでこんなことが出来るとは思わなかったが、しかもその一文なしで百八十万円の仕事が出来るということを私が証拠立てたというので、稚気の誇りを感じているのであります。
 いま十万ばかりの借財が残っておりますが、これはその全体の仕事に比べて見れば何でもない。それは二百部売れば償える。何時か売れるだろう、何時か売れたら返せばよい。向うから破産の申請のない限りは安心して進んでいる。それにいろいろの方面からのご厚意あるお助けもありまして、どうかこうか凌いで終りまでいくだろうと思っておりますが、いかない時には無理もない、一文無しでやったのだとお許しが願いたい。今度のを一緒にしたら二百五十万円ぐらいの仕事になるだろうと思います。一文なしで二百五十万の仕事をやったらそれは倒れるのがあたりまえで、倒れても当然とご批判を願いたいのであります。
 しかし大刊行物たるに違いないので、これに索引が出来ますと、これはインドを見る鏡のようなもので、インドの研究はシナの一切経を研究しなければ分らぬというて差支えない。それを研究しなければ最後の断案を下すことが出来ないといってよい。思想方面は殊にそうである。インドの思想方面というものがヨーロッパの人の着目している所で、ヨーロッパの倫理も行き詰まり、宗教も行き詰まり、すべてに行き詰まって、それまで馬鹿にしておったインドの説を聴かなければならぬような時期になっている。インドに行って思想を研究しようと思うと、インドの山の中に入らなければならぬ。しかもインド人は西洋人の手では、一向要領を得ることが出来ないが、その思想の写真が一切経という大きなものになって、しかもそれが間違いのない遺憾のないという点まで押し付けての研究が出来る。まず自分で手に握ることの出来るものでインドを研究する。前は歴史的のまた地理的のことはシナの法顕三蔵、玄奘三蔵、義浄三蔵の書いたものによってインドの研究を始めたのでありますが、今度細かい内容の思想までも知ろうとするにはどうしても一切経に依らなければならぬ。それで北京に於てはバロン・ステール・ホルンスタインがアメリカと連絡をとって研究所を建ててやっておりますが、大きな研究会を作って、ボストンとハーバードと北京とで連絡をとってやっておりますが、どうしても日本を棄てる訳にいかない。というのはこれだけの材料が日本にあり、この材料を読みこなすことはどうしても西洋人には出来ない。どうしてもこれを研究いたしますのには西蔵語を知らなければならぬ。サンスクリットを知らなければならぬ。漢文は自由に読めなければならぬ。また信仰的にも学術的にも相当仏教のことを知っておらなければならぬ。だからいくら賢明の西洋人でも一人ではやり遂げることは出来ない。一人仏教の分るものを北京に招致したいということであったので成田昌信君が行っております。材料だけは日本で整理してやりたいという考えでありますが、向うもなかなか放っておかない。
 日仏会館ではフランスからレビー氏とか、フシエ氏とか、マスベロ氏というような学者が来て相助けて日仏仏教辞書の編纂中であります。日本の仏教辞書をフランス語に訳して日仏仏教辞典法宝義林をいま拵えております。一巻は既に出来上りましたし、二巻を印刷して殆ど出来上っております。私とレビー氏との出版主任でやっております。これは震災後私が西洋に行きました時に、大正九年にフランスで私も加わって決議したのであります。仏教辞書を拵えるということについては日本学者の協力は必要であるから、日本で拵えて送ってくれというふうの話でありますから、こっちでも金がなくては指を染めることも出来ない。そのうちに向うがたまらなくなってレビー博士が日本に出て来た。二、三人連れて來て日仏会館で編纂している。こっちも加勢して進行している。幸いに大阪の和田氏が編纂費を出してくれるので一巻はすでに出版した。評判も相当に宜しいので一同喜んでいるのであります。

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 とにかく一切経を向うの人が平気で読めるようにしたいという希望であります。日本にこれだけの偉大なる文字があるが、それを辞書もなく、索引もなく、註釈もなくて、自由自在に読むものは西洋人にはない。日本人の力を借りなければいけないのは当然である。こういうことがはっきり西洋の人の頭に今では分ってきたのであるからかかる順序に進んだのであります。とにかくわれわれはインドに出てインドに亡びてしまい、シナに出てシナで亡びてしまったものを保存している。しかもインドにもなく、シナにもなく、朝鮮にもセイロンにも安南にもないという組織でこれを研究して持ち続けている。それはどういう組織かというと、まず教学の組織としては、一切経を研究するのにはそれぞれの順序がある。倶舎、唯識、三論というように順序がある。「唯識三年倶舎八年」というように今まで伝えられた。推古帝の時に法隆学問寺が出来まして、それが聖徳太子の時の大学であった。それから東大寺が仏教大学の組織を有するに至った時には、普通の大学と分れて、普通の大学は大学頭を戴いて法政、暦数、史書などの研究をする。仏教の方にも法相衆、三論衆、華厳衆など部門を分っていた。
 足利時代、聖フランシスコ・ザビエルが日本に初めて耶蘇教を弘めたのでありますが、その時に日本に七つの大学があるといって仏教大学のことを報告している。当時大学と見てよいものが多くあった。高野山学林、三井寺学林、比叡山学林などに明了に分っている。京都に南禅寺学林、妙心寺学林かと思われるものがある。外に足利学林がある。大宮学林(熱田)がある。とにかく学問としての仏教を各宗共に大学校をおいて研究している。日本で一宗派を開くに一切経を読みこなして、仏一代の教えを判別して分類し、自分は何れの部分に依って宗派を立つるということを宣明する。これが宗旨を立つる上に最も必要な仕事である。これを「判教」と名付ける。それでありますから一宗を建立するということはよほどむずかしい。後のものは宗祖の判教に依って自派の学的系統を相承せねば信仰の目標も成り立たない。この判教ということが学問組織を完成せしめた所以である。したがって学林祖織というものが出来、各宗派でも一つの大学を持っているようになった。西洋のどんな宗旨だってこんなに各宗派にみな大学を持っているようなことはありませぬ。これを文部大臣が普通の大学と同じように見て、仏教大学じゃいかぬ、竜谷大学にしろ、曹洞宗大学ではいかぬから駒沢大学にしろというように、俗名を付けさして普通の法律大学と一緒に扱う方法を設けたのはこの美しい組織を破壊したわけであります。これは岡田文部大臣だけは分っていた。かくの如く学林というような特別な組織があって、学林組織が今日まで続いている。次には寺院組織である。これは信仰としての組織である。各宗派とも別に門戸を張っている。学問の方は宗旨にのみ依らないで、倶舎の実在教も、唯識の理想教も、華厳の汎神教も、法華の実相教も研究していくのであるが、これは学問じゃない、信仰としての方面だけが寺院組織となったのであります。
 それは寺院の門末関係である。各宗派とも門末関係が出来て、それが秩序整然たる特殊の組織として残っている。これは朝鮮に行ってもないし、シナに行ってもないし、インドに行っても尚更ない。どの国に行っても日本のように徹底的な組織はない。これは日本の家族制度の組織がかくはっきりならしめた所以であります。その中で一層堅固に世襲で行くというような宗派もある。寺院組織を潰さないようにするのはわれわれの目前の要件であると思う。寺院仏教とか伝統宗教とかいって悪口はするものの、如何にしてもこれに似るべき組織は出来得ないのである。これは朝鮮にもないものでありますから、総督府は遽かに三十本山を認めたが、選び方がいけなかったので、その下に本山よりも偉い寺があるというようになって、多少困難に陥っている。とにかく一旦認めたのだからやめてはいかぬというので三十の本山を今も認めておりますが、かかる寺院組織の完備は自然の発達に待つとすると従来の寺院組織は日本として誇るに足るものであります。
 学林としても残っているし、寺院としても残っている。すなわち学問としても残っており、信仰としても残っている。こういうぐあいに一寸刻みにやって残しているのは、これは日本人がやったので日本人が偉いのだと思います。儒教でもそうであります。儒教はシナで出来たものでありますが、シナは儒教の国ではない。シナ人自身が儒教を棄ててしまった。棄てるばかりではない、全体儒教が分っていない。忠と説いても忠を徹底的に教えたのは日本人のみで、シナでは分っていない。儒教の精神を本当に理解しているのは日本人である。しかし震災の当時に日本唯一の孔子の像を焼いてしまった。誰一人これを助けにいかなかったのは遺憾でありますが、これは儒教は信仰として残ったものでないから、そうだったのかも知れませぬ。
 そういう訳でシナは儒教の国ではない。シナの土地が痩せている。インドは仏教の国ではない。当時哲学的にはインドが一番進んでおった、けれどもインドは本当に仏教を理解していない。今頃になって気付いて、十年前の統計では三千人しか仏教徒と書いて出す者がなかったが、十年後の統計で見ると三十二万八千五百人の人が仏教徒と書き出した。これはインド人が自覚してきたからでありますが、結局自分の国で棄てたことを後悔している。聖徳太子が言われたように日本は大乗相応の地である、大乗に適応した国は日本であるというのであるが、聖徳太子が適応するように、率土の浜王土に非ざるなしという憲法を書き出されて、日本の組織と仏教の組織とを合一せしめられた方針が重きを為しているのだと思います。日本の文明は仏教によって完成したといって差支えないと思います。而して仏教というものを今日のように研究の上でも、信仰の上でも、組織の上でも十分に完全にしたというのは日本人だから出来たので、日本人はこの点にはよほど偉いところがある。何でも来る物はみな受けるというのなら道教などでもきていそうなものである。聖武天皇に向って唐の玄宗皇帝は道教の道士を送ってやろうということを何遍も言われたが、聖武天皇は道教は日本には要らないと仰せられた。また耶蘇教でももう少し日本の耶蘇教者が研究を重ねて、あんなふうな西洋式でなくやったら日本的耶蘇教が日本で出来たでしょうが、いつも西洋の耶蘇教のように考えておったから日本の宗教にはならなかったのであります。

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 こういうぐあいに考えますと、日本人のやったもので、西洋の文明市場に持ち出して相当の値段で買ってくれるものは何かというと、これは大乗仏教より他にはない。今まで西洋人は小乗仏教に欺かれて、南方ビルマや、シャム、セイロンの仏教が純真の仏教であると思っていた。もちろん形式の仏教としてはセイロンの方がよいかも知れないが、しかし仏教の貴ぶべき所は仏の理想だということが分ってみると、やはり日本の仏教が一番徹底的である。哲学的にいっても、宗教的にいっても、学問の上からいっても、信仰の上からいっても徹底的であるということが分ってきたのであります。外に西洋人が貴ぶものがあるとすれば仏教文明の副産物である、仏教美術である。西洋人はこれに対し非常に敬意を払っております。これは日本の文明に伴うて出来上った大切な記念でありますが、日本の教育では情けないことに小学校から中学校、中学校から高等学校という間にこの日本の文明に大なる関係のある仏教美術を一枚も見せて貰えない。そういう教育なのであります。これは日本人が自ら棄てている形であります。
 それなら仏教の方は教えているかといえば教えていない。小学校の教科書にはたくさんの伝記はあります。武士とか文人とかの伝記はありますが、仏教者の伝記は弘法大師と伝教大師とあった、が数年前には弘法大師だけにして、伝教大師を除いたのです。私共はその時文部省にその理由を質した。なお多く入るべきであるのにどうしてこれを削ったかと尋ねると、理由はない、二人だからあまり多いとはいえない、で教案の方に残すから、今除けたばかりに責められて載せるとなると困るから、教師が教える時には教えるように教案の方には残すから勘弁せよということであった。
 日本の教育ではかく殆ど無視している。西洋人は却って大乗仏教と仏教美術には相当に頭を下げるのでありますから、続々研究のために来るのであります。その研究も昔とは違ってきた、前は一応の説明を与えてやれば満足して帰って行く、そしてその十分の一くらい旅行記の端に書けば満足している。しかし今頃来る人は全く相違している。天台を研究する人は叡山に登らなければ承知しない。真言を研究する人は高野山に登り、灌頂を受けなければ承知しない。西洋にも何千人という会員を持った協会もある、会堂を持って時々講演を開いているのもある、或いは文芸的に或いは劇的に仏教を表現せんとするものもある、如何にもして大文学美術を研究しようとする努力が四方に現われております。老子の如きは戦後大変に研究されましたが、これは一時の流行で長続きをしない、それはちょっと面白いというのでやるのであります。ところが仏教はちょっと面白いという時期はすでに遠き過去にある、今は実際問題に立ち入っている、宗教の行き詰りを打開せんとする努力時代である。一切経の一冊読むにも一千頁は読まなくてはならぬ、自然に深入りして、仏教の蘊奥とまではいかなくても大分詳しい所まで調べようというようなことになって来たのであります。
 文化事業もいろいろに出来ました。日仏文化事業も、仏教字典を編纂する。日獨文化事業も、大乗仏教に東西の融合点を見いださんとしている。日米文化学会も仏教美術に中心を置いている。何れも皆仏教を主眼としている。対支文化事業の方面もすでに仏教方面に大なる努力を払っていただいたのであるが、尚一層有意義にこの方面への進出を願いたい。仏教研究者はシナにもよほど増加したようであります。研究者の連絡を図るということが大切であるのは申すまでもないが、殊に同文同調の国風として進むために、意義深い仏教研究に資する事業を助勢するということは、時代に最も適した施設と考えるのであります。
 西洋の人が日本の大乗仏教を重んずるとシナの方面にもよほど影響がある。西洋の学者の日本に対する態度を見て初めてシナ学者はわれわれと対坐して研究の態度で交際するのでありますが、そうでないと日本を教え子の如くに考える習慣がなかなか取れないのであります。全体で漢文の研究はシナ人に一歩譲るような感じがしますが、仏教の教義問題では一日の長を誇ることが出来るのである。それには仏教を正式に研究した人でなければ分らないのであります。要するに、仏教の研究に関しては第一原本が梵文と巴利文である。この両語を知ることは仏教研究の第一要件である。第二原本が西蔵文である、西蔵一切経は唐代から元代までの飜訳で、殊に句々梵文の影を留めているのであるから、梵文の原型を知るに最も必要である。厳密なる研究には必須の研究である。仏教研究の第三原本が漢文一切経である。今では仏教研究者で漢文に指を染めぬものは余儀なく後塵を拝する外はないのである。而してこの漢文仏教を読破するには日本の解釈に通ぜねば教義的解決は不可能であるといって差支えないのである。第四原本と別立するほどでもないが、日本仏教を味読するだけの眼力がなければ仏教を学び得たとはいえないのであります。この点が西洋の進歩した学者とシナの先進学者の脳底に映じてきたのであります。日本に存在せる仏教研究学派が世界に認められたわけであります。研究学派の存在と相俟って研究材料の存在が三十種の一切経保存と無数の註解末書の存在によって立証されたのであります。
 一言に言えば、日本には研究の仏教、倶舎、唯識、三論もあれば、思索の仏教(華厳、天台)もある。実行の仏教(律)もあれば冥想の仏教(禅、真言)もある。信念の仏教浄土もある。仏教が行く所まで行って思想進展の頂点にまで達したのは日本であることを忘れてはならぬ。これが東西の学界に認められるに至ったのである。
「昭和五年二月十五日、外務省文化事業部に於ける講演」





底本:「高楠順次郎全集 第一巻」教育新潮社
   1977(昭和52)年2月25日第1刷発行
初出:外務省文化事業部に於ける講演
   1930(昭和5)年2月15日
※「仏」と「佛」、「残」と「殘」、「飜訳」と「翻訳」、「ヴェーダ」と「ベーダ」、「吠※(「口+它」、第3水準1-14-88)」と「吠陀」、「来」と「來」、「満州」と「満洲」の混在は底本通りにしました。
入力:大橋重紀
校正:小林繁雄
2009年1月18日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について