出かけるはずの時間になったが、
窓ぎわに坐って待っているうちに、六十一になる安が、ひとり息子の伊作の顔を見たさに、はるばる巴里までやってきた十年前のことを思いだした。
滋子はそのとき夫の克彦と
安は滋子の母方の叔母で、伊作を生むとまもなく夫に死に別れ、傭人だけでも四十人という
長唄は六三郎、踊は水木、しみったれたことや薄手なことはなによりきらい。好物は、かん
伊作が巴里に落着いているのは、春と秋の三ヵ月くらいのもので、夏はドーヴィル、冬はニースと、一年中、めまぐるしく遊びまわっているふうだから、いまは巴里にいないのかもしれず、いるにしても、あのめんどう臭がり屋が出迎いなどしそうもない。駅の出口あたりで、途方にくれておろおろしている叔母のようすが見えるようで、思っただけでも胸がつまるようだった。克彦もしきりに心配するので、その日の午後の急行に乗り、夜おそく巴里に着いて伊作の宿へ行ってみると、案の定、どこかで遊び呆けているのだとみえ、叔母の電報は再配達の青鉛筆のマークをいくつもつけて、手紙受のガラスの箱のなかにおさまっていた。
翌朝、時間より早目に駅へ行って、ホームの目につくところに立っていると、
「おや、滋さん、どうしてここへ?」
と、けげんな顔をした。
「どうしてって、なによ。お出迎いにあがったんじゃありませんか」
安は、のびあがるようにして、あたりを見まわしながら、
「若旦那は?」
「伊作は、よんどころない用事があるっていいますから、あたしがご
「それはどうも、わざわざ」
駅の表へ出ようとすると、安は急に渋って、「こんなところで降ろされてしまったけど、ここが巴里なの」と、ひくい声でたずねた。
「そうよ、ここが巴里よ」
滋子がうなずいてみせると、安は、
「へえ、これが巴里」
あきれたような顔で、煤ぼけた駅前の広場を見まわしていたが、タクシーにのせられるとだんだん機嫌が悪くなって、
「巴里って、ずいぶん、しみったれたところなんだねえ。若旦那、なにがよくて、七年も八年も、こんなところでまごまごしているんだろう……子供のとき、世界一周唱歌で、花のパリスに来てみれば、月影うつすセイン河、なんて、うたったもんだけど、まるっきり、絵そらごとだったよ。呆れたねえ」
と、こきおろしはじめた。滋子はつくづくと安の顔をみて、
「呆れるってのは、こっちのことだわ。こんなところまで、一人でトコトコやってくるなんて、いったい、どうしたというわけなの」
安は案外な落着きかたで、
「こんど、
「来るひとも来るひとだけど、出すひとも出すひとだわ。たいへんだったでしょう、マルセーユなんかじゃ、どうだったの」
「べつに、なんでもなかった」
「なんでもないことはなかったでしょう。でも、よく気がついて、あたしのところへ電報をうったわね」
「なんの電報?」
「あなたがマルセーユから電報をくだすったから、こうして
「それは、あたしじゃない。滋さんの所書きを出るとき忘れてきたもんだから、打ちたいにも打ちようがなかった」
「でも、あなたのほかに、誰が電報を打つというの」
安もへんだと思ったか、
「マルセーユじゃ、ちっとも心細い思いなんかしなかったのよ。税関がすんだので、なんとかいう旅行社のひとに、駅まで送ってもらうつもりにしていると、どこかの奥さまが寄っていらして、お一人で日本から? よくまあねえ。さぞ、たいへんでしたでしょう。駅でしたら、あたくしがお送りいたしましょう。ちょうど車を持っておりますからって」
「それは、いい都合だったのね」
「三十七八の、すっきりした、なんともいえない容子のいい方なの。まだ時間があるからとおっしゃって、なんという通なの、明石町の船澗のあたりにそっくりな
「電報も、その方が打ってくだすったのね」
「そうなのよ……でも、おかしなことだったの。あわてていたもんだから、電報の文句だけいって、若旦那の所をいうのを忘れちゃったんだから、なんにもなりゃしない。汽車が出てから気がついて、巴里へ着くまで心配のしどおしだったけど、あなたが出ていてくれたので、ほっとしたわ」
伊作のほうはともかく、ブリュッセルへ電報を打つところまで気をきかしたのは、誰だったのだろうと思って、
「その方のお名前、伺って?」
「それが、つい、気がつかずだったの。でも、あの方なら、どこでお逢いしても、すぐわかる。汽車が出るまで、ホームで見送ってくだすったけど、あんな愁いのきいた、眼に沁みるような美しい顔、見たことがない。いまでも、ありありと眼の底に残っているわ」
そんなことをいいながら、籠信玄から塩せんべいをだして、
「あなた、好きだったわね、銀座の田丸屋よ。荷物が着くと、どっさり入っているわ」
のどかな顔で、移りかわる河岸の景色をながめていたが、薄靄の中でぼんやりと聳えているエッフェル塔を見つけると、うれしそうに手を
「ちょいと、あれ、エッフェル塔でしょう……巴里の万国博覧会といって、よくあの写真を見せられたもんだった。おやおや、なつかしいこと」
他国で旧知にでも逢ったようにニコニコしていたが、
「ねえ、滋さん、あの上へのぼれるのかしら。エッフェル塔のてっぺんで初日の出を拝んだといったら、話の種になるわね」
「ええ、のぼれるのよ。でも、あそこが開くのは十時ですから、お日の出を拝むというわけにはいかないわね」
「ええええ、それで結構だから」
うつらうつらしながら、そんなことを思いだしていると、安が小走りに部屋へ入ってきて、
「滋さん、こんなところにいたの。もう時間よ、さあ、出かけよう」と、せきたてた。
川崎をすぎると、
欧州引揚船の荷物検査は無事にすんだためしがないが、こんどもまた、子供の靴下から、ぞろりと宝石があらわれて、五日も観音崎の沖でとめられ、ようやく上陸許可になったと思うと、検疫中にチフス患者が出たり、なにか、ひどくごたごたした。
安は白足袋の爪先をきっちりと揃え、伏目になって、なにかかんがえているふうだったが、
「伊作は、もう日本へ帰って来ないだろうと、ずっと前から覚悟していたのよ」
と、だしぬけに、そんなことをいいだした。
「へえ、どうして」
「どうしてってことはないけど、そんな気がしたの。だから、帰ってきたなんていわれても、ほんとうのような気がしないのよ」
「帰るも帰らないもあるもんですか、否応なしよ……二十年近くも
「書記官でいらしたころ、よくお見えになったよ」
「ついこの間、聞いたんですけど、千田さん、ホームシックにかかって……日本へ帰りたい帰りたいで、神経衰弱になって、ご夫婦でピストル自殺をなすったんですってよ」
「あの千田さんが、ご夫婦で……それはお気の毒だったわねえ」
「なにしろ、任地がアンカラでしょう。そうまでなさるには、どんなにお辛かったろうと思って、つくづくお察ししたわ。そんな方もあるのに、伊作なんか、帰ってきたって、欧羅巴のほうばかり眺めながら、腑ぬけのようになって暮すんでしょう。帰らないですむなら、あんなひと、帰って来ないほうがいいんだわ……あなた、やはり逢いたい?」
「逢いたいね」
「母親なんて、馬鹿なもんだわね。あんな目にあわされながら、息子が恋しいだなんて」
「ええええ、どうせ、あたしは馬鹿なのよ」
安を車に残して、山下桟橋へ行ってみたが、ようすがわからない。冷たい風が、波しぶきといっしょに吹きつける桟橋を、
合宿所へ行くと、伊作はいたが、姿を見せず、ホテルのポーターのようなのが、代りに出てきて、磯子の萩ノ家という家で待っていてくれ、すぐ行くから、と伊作の
もとはどういう邸だったのか、竹の
飛瀑障りというのか、池のむこうの小滝を、楓の真木が一本、斜めに切るように滝壺のほうへ枝をのべ、萩ノ家というだけあって、庭いちめんにうっとうしいほど萩を植えこんでいる。
すぐ行くといった伊作は、十一時すぎになってもやってこない、安は、のんびりと庭をながめてから、
「どうしたのかしら、ひどく遅いわね。もう二時間になるわ」
腹立ちまぎれにあたりちらすと、
「どこかへ遊びに行って、こっちのことなんか、忘れてしまったんだろう」
安は、こちらへ背を見せたまま、気のない調子でいった。
「それにしたって、こんなに待ちこがれているひとがいるのを、知らないわけでもあるまいし」
安は、居なりに、こちらへむきかえると、
「あたしゃ、いつも待たされどおしよ。日本で待ち、巴里へ行っちゃ待ち、この二十年、若旦那の帰りばかり待って、暮してきたようなもんだわ……巴里じゃ、窓のそばの天鵞絨椅子に坐って、足音に耳をたてていたっけ……でも、それは、こっちの我儘……子供が大きくなれば、母親なんかいらなくなる。それはあたりまえのことなの……婆ァ、うるせえ、はやく帰っちまえって、宿から追いだされてしまったけど、うるさがらせに行った、あたしのほうが悪いんだから、文句をいうセキは、ありはしない。でも当座は悲しいから、帰る汽車の中で、マルセーユまで、泣きづめに泣いたわ。フランス人に見られるといやだから、廊下へ出て泣いたり、はばかりへ入って泣いたり……」
そういうと、クスクスと笑いだした。親馬鹿も、ここまでくれば行きどまりだと、滋子は、なにをいう気もなくなって、
「そんな目にあって、笑っていれば、世話はないのよ」
「だって、おかしいじゃないの。あたしゃ、汽車の便器の蔽い蓋に腰をかけて、手ばなしで泣いていたの。その恰好を思いだすと、笑わずにゃ、いられないのよ」
「まあまあ、たんと、とぼけていらっしゃい。あなたがおっしゃるから、あたしもいいますけど、ほんとうに、あのときぐらい、困ったことはなかった……朝になっても、伊作は帰ってこない。あなたは
安は、おっとりと笑って、
「なけれァ、ないって、いやいいのよ。あんな、しみったれた飲ませかたをするから……でも、エッフェル塔はよかったねえ。エレヴェーターを降りてから、階段をあがらせられたのには弱ったけど、あの景色だけは、いまでも忘れない」
「四階の
そんなことをいっているうちに、このながい間、聞こうと思いながら、つい、聞きそびれていたことを思いだした。
「ねえ、聞きたいことがあるのよ……エッフェル塔を降りて、下のシャン・ド・マルスを歩いているとさ、だしぬけに、あっ、若旦那って大きな声をだしたでしょう?……あれは、なんだったの?」
安は大袈裟に首をひねって、
「おぼえていないね。なにか、あなたの聞きちがいでしょう」
と、わからない顔をしてみせた。
とぼけたりするところをみると、たしかに、なにかあったのらしいが、伊作を
女中が電話だといいに来た。出てみると伊作からだった。
「なんなのよ、ひとを、こんなに待たせて」
「用事がかさなって、すぐには、ぬけられそうもない。
「ちょっと待って……代人って、なんなの。あまり、へんなひとを、よこさないでちょうだいよ」
「君も知っているだろう。正金銀行のボストンの支店長をしていた
「知ってるわ。幹
「あのひとのお嬢さんの
「あなたにしては、神妙な話ね。ええ、よくわかったわ。その方が代人?」
「十分ほどしたら、そちらへ行くから、よろしく」
杜松という娘の顔を、滋子は、あっけにとられてながめながら、生まれてからまだ、こんな美しい膚の色も、こんな完全な横顔も見たことがなかったと思った。
杜松は
「この花は、萩でしょうか」
と、しずかにたずねた。滋子はそばへ立って行って、
「あれが山萩、むこうのは豆萩……野萩……あちらが
杜松は顔をかしげるようにして、萩の花々をながめながら、
「花も、サンパチックな、いい花ですけど、葉も、いやしい葉ではありませんのね」
といった。滋子は思わず笑いだして、
「萩の葉をほめたのは、あなたがはじめてかも知れないわ。そういえば、フランスには、萩はなかったようでしたね」
「レスペデーズって、いくらか似たのがありますけど、まるっきり、べつなものですわ」
そういうと、流れるように瞳をよせて
「日本にだけあって、フランスにない花を見たくなると、息苦しくて、どうしていいかわからなくなるの……いぜん、母と二人で、
「フランスでは、土筆のことを、鼠の尻尾というんでしょう」
「あたしたちが土筆を摘んでいると、村の人が通りかかって、この国には、食えるようなものがないからなァ、なんてからかって行きますのよ」
急に陽が翳って、湿った潮の香にまじった苔の匂いが、冷え冷えと座敷にしみとおってきた。杜松が坐っているあたりは、いっそう蔭が深くなり、着物のくすんだ地色がしっとりと沈み、白い膚の色が浮きだすようにあざやかに見えた。
ふだんの滋子なら、すぐ気がつくのに、いままで見すごしていたのが、ふしぎなくらいだった。見てみると、三十歳ぐらいのひとの着付だが、十八、九の若さで、ちっともおかしくないというのは、これは、たいへんなひとなのだと思った。
「失礼ですけど、そのお
杜松は、どこか薄青い深い眼付で、滋子を見ながら、
「おほめをいただきまして、ありがとうございます。でも、これは母のおさがりですのよ。いちど、ちょっと日本へ帰ったときにつくったんだそうですけど、この着物が好きで、日本へ帰ることがあったら、これを着て帰るようにって、よく、あたしにそうもうしましたので、きょう思いきって着てみましたの……でも、三十年というと、たいへんなデモードね」
「あなた、巴里のキャンプで、伊作といっしょでしたって?」
「十二人の方と、おなじキャンプに七十日ばかりおりましたが、山住さんには、たいへんに、お世話をいただきました。船の中でも、いろいろともう……」
安はニコニコ笑いながら、二人の話を聞いていたが、だしぬけに、
「あなたさま、いぜんから、伊作をごぞんじでいらっしゃいましたか」
とたずねた。杜松は瞼をふっくらさせて、
「いいえ、そのときがはじめて」
「そうでしたか、それはそれは……ほんとうに、ふしぎなご縁で」
滋子は笑って、
「ふしぎなご縁とはまた、旧式なことね」
「でも、知らない同士が、キャンプで知りあうなんてのは、よくせきな縁よ。戦争がなかったら、死ぬまで、逢わずにしまったかもしれないんだから」
幹さんとおっしゃる方にお電話、と女中がいいにきた。
「ええ、
杜松が立って行くと、安は滋子のそばへいざりよって、
「滋さん、あなた気がついて?」
鹿のような濡れた大きな眼で滋子の顔を見つめながら、
「杜松さんって、あたしの孫なのよ」
と、ささやくようにいった。滋子は呆れて、安の顔を見かえしながら、
「いったい、なにをいいだすつもりなの」
安は、急に幅のあるようすになって、
「伊作の娘なら、あたしにとっては孫でしょう、そうじゃなくって?」
滋子は、押しまくられて、たじたじになりながら、
「伊作がいったことなの、それは?」
「いいえ……でも、あたしには、ちゃんとわかるの」
滋子は肩をひいて、
「よしてちょうだい、へんなことをいうのは……伊作にちっとも似てなんかいないじゃありませんか、眼だって鼻だって……あなた、どうかしているわ」
「父と娘は、後姿が似るというけど、ほんとうね。いま立って行った後姿……肩のぐあい、首、頭の付きまで、伊作にそのままよ……白状するけど、エッフェル塔の下で、あっ、若旦那って頓狂な声をだしたでしょう。あなたは気がつかなかったようだけど、伊作と女のひとが乗った自動車が、すぐ前を通って行ったの………その女のひとってのは、マルセーユで、いろいろ親切にしてくだすった、あの奥さまなのよ」
「たいへんな、めぐりあいね」
安はうなずいて、
「まだ、たいへんなことがあるのよ。杜松さん、その奥さんに瓜二つなの」
滋子は、波のように揺れ揺れる萩の花むらを、眼を細めてながめながら、おなじ車におさまって、巴里の町なかを通るなどというのは、二人にとって、おそらくたった一度の油断だったのだろうが、それを見るはずもない安に見られたというのは、どういうことなのだろうと、つくづくと考え沈んだ。
杜松は、生き生きした顔つきになって戻ってくると、心のうれしさを包みきれぬといったようすで、
「山住さんからでしたのよ……そちらの昼食には間に合わないけど、かならず夕方までに帰るからと、おっしゃっていらっしゃいました」
「お世話さま……ずいぶん長いお電話でしたのね。なにか面白い話があって?」
杜松は身体をはずませながら、
「おあてになったわ。それは面白いお電話でしたのよ。山住さん、あんなにお笑いになったの、はじめてよ。そうして、あたしが電話を切ろうとしますと、もうすこし、もうすこしって……」
廊下に足音がして、女中たちが懐石膳を運んできた。
膳がひかれて、薄茶が出ると、安は茶碗を手に持ったまま、杜松のほうへ向きかえて、
「みょうなことをおたずねするようですが、お母さま、昭和十二年の暮ごろ、マルセーユへおいでになったことはございませんでしたか」
杜松は指を折ってかぞえながら、
「昭和十二年といいますと、千九百三十七年のことですわね……ええ、よくおぼえていますわ。十二月の二十七日の朝、マルセーユまで、お出迎えしなければならない方がおいでになったともうしまして」
「巴里から?」
「あたくしどもは、仏蘭西と伊太利の国境のそばにあるサン・レモというところに住んでおりましたんです……それで?」
「ちょうど、日本から着いたばかりのところを、あなたさまと瓜二つのお美しい方に、いろいろとお世話をいただきましたが、すると、やはり、あなたさまのお母さまでいらしたのですね。お名前を伺うのを忘れて、きょうまでお礼をもうしあげることもできませんでしたが、その後、お母さま、ごきげんよくっていらっしゃいますか」
杜松は下眼にうつむいて、
「母はマルセーユからサン・レモに帰る途中、車といっしょに崖から落ちて、亡くなりましたの」
「まあ、なんということでしょう……元日のひるごろ、エッフェル塔の下を車でお通りになるのをお見かけしましたが、すると、それが……」
杜松は眼を見はって、
「母は、その年の、十二月三十日の午後に、亡くなりましたんです」
安は、なにげないふうで、チラと滋子の顔を見ると、茶碗を袱紗のうえにかえし、両手を膝において、しずまりかえってしまった。
女中がまた電話をいいにきた。滋子が電話へ出て、しばらくして帰ってくると、杜松がいない。
「杜松さんは」
「庭を見るって……ほら、あそこに」
なるほど、池の汀の萩の間に、うらうらとした杜松の後姿が見えていた。
滋子は、そこへ坐りこむと、血の気をなくした顔に、なんともいいようのない薄笑いをうかべながら、
「あなたのおっしゃるとおりだったわ」
身体を支えるように、右手を畳について、
「あなたは、ちゃんと見ぬいていらしたんですから、驚きはなさらないでしょう……ね、驚かないでちょうだい。伊作、通訳になって、いまの船で、仏印へ発ったんですってよ。芦田とかいう参謀が、電話でしらせてよこしたの。引揚船が
安は天井を見あげるような恰好で、だまって聞いていたが、
「若旦那は、もう日本へは帰って来ないつもりなんだね」
といいながら、顔をうつむけたひょうしに、キラリと光るものがひとつ膝のうえに落ちた。
「いずれはこうなるものと、
「でも、どうしてこんな末のことまで見ぬいていたの?」
「若旦那と幹さんの奥さんのことは、ずうっと前に知っていた。あんなふうに、世間をだますようなことをしているんじゃ、いい終りはしなかろうから」
「巴里へやってきたのは、二人を別れさせるつもりだったわけ?」
「あんなところまで出かけて行くからには、もちろん、そのつもりだったのさ。若旦那のことなんか、けぶりにも口に出しはしなかったんだけど、マルセーユのレストランで食事をした短い間に、幹さんの奥さんは、こちらの気持を察しておしまいになったんだろう。こんなことをいうと、笑われそうだけど、元日の朝、車のなかで若旦那と並んだ姿を見せたのは
野萩の花の下に立っている杜松の後姿を、つくづくというふうにながめながら、
「