後白河法皇の院政中、京の賀茂
大宝律には、
一例をあげると、布十五反以上を盗んだものは、律では絞首、格では十五年の使役という擬文律があるが、それでは叡慮にそわないから、死罪はないことにし、盗んだ布も十五反以内に適宜に格下げして、徒役が軽くすむように骨を折ってやる。また強盗が人を殺して物を奪うと、偸盗の事実だけを対象にして刑を科し、殺したほうの罪は主罪に包摂させてしまう。法文は法文として、この時代には実際において死刑というものは存在しなかったのである。
文治二年に北条時政が京の名物ともいうべき群盗を追捕し、使庁へわたさずに勝手に斬ってしまった。これは時政の英断なので、緩怠に堕した格律に
公子と花世姫の真影は光長の弟子の
長い垂れ髪は匂うばかりの若々しさで、顔の輪廓もまだ子供らしい固い線を見せているが、眼差はやさしく、眼はパッチリと大きく、熱い涙を流して泣いているうちに、ふいになにか驚かされたというような霊性をおびた単純ないい表情をしている。公子のほうは、平安季世の自信と自尊心を身につけた藤原一門の才女の典型で、膚の色は深く沈んで
いまの言葉でいえば、二人の罪は尊族
寛典に甘やかされた考えからではなく、妻と娘に殺された父にして夫なる当の泰文は、かねて放埓無頼の行ないが多く、極悪人といわざるも、不信心と不徳によって定評のある奇矯な人物で、名を聞くだけでも眉を顰めるものが少なくなかった。のみならず、その妻と娘に、現在の父、そうして夫である男を殺させるようにしたのには、徹頭徹尾、泰文のほうに非があるのであって、二人の女性は無理矢理におしつけられ、やむにやまれず非常の手段をとったものである。公平な立場に立てば公子と花世に罪があるかどうかたやすく判定しかねる性質のものだったから、当然、寺預けか
泰文は
そのかみ忠文は将門追討の命を受けて武蔵国へ馳せ下ったが、途中で道草を食っているうちに将門が討ちしずめられ、なんのこともなく漫然と京へ帰還した。忠文としては、それはそれなりに一応の働きをしたつもりだったので、大納言実頼の差出口で恩賞が沙汰やみになったことを遺恨に思い、臨終の床で、
「おのれ、実頼」
などと言わでもの怨みをいう、あきらめの悪い死にかたをしたが、忠文が死ぬとすぐ、実頼の息子や娘がつぎつぎに変死するという怪事がおこった。
平安時代は、竜や、狐狸の妖異や、鳥の面をした
泰文はこれも面白いと思ったのか、どこかの家で慶事があると、かならず出掛けて行って中門口に立ちはだかり、
「悪霊民部卿、参上」
と無類の大音声で
泰文は中古の藤原氏の勇武をいまに示すかのような
一般の庶民は別にして、公家堂上家の生活は、風流韻事に耽るか、仏教の信仰にうちこむか、いずれはスタイルが万事を支配する形式主義の時代にいながら、泰文は、詩にも和歌にも、文学じみたことは一切嫌い、琵琶や笛の管絃の楽しみも馬鹿にして相手にせぬばかりか、かつて自分の手で
そのほかにも人の意表に出るような行動が多かった。泰文の身体のなかには、陳腐な習俗に耐えられないムズムズする
衒勇をふるうことも趣味の一つであった。当時、粟田口や逢坂越に兇悪無慙な剽盗が
「中納言大蔵卿藤原ノ泰文」
と名乗りをあげて通って行く。声の大きなことは非常なもので、賊どもは気を呑まれて茫然と見送ってしまうというふうだった。
また泰文は破廉恥な愛欲に特別な嗜好をもっていた。醍醐の花見や加茂の葵祭、勧学院の曲水の宴、仙院の五節舞、そういうありきたりな風流にはなじめない。すまし顔の女院や上は面白くない。すべて遊興は下司張った刺戟の強いほうが好ましい。宿場の遊女を単騎で征伐に行くのはもっとも好むところだが、そのほか毎夜のように邸を抜けだして安衆坊の散所へ出かけ、乞食どもと
朝霞が泰文のところへ輿入れしたのは十六歳の春で、十年のあいだに六人の子供を生んだ。泰文には文雄、
朝霞はどういう顔だちの婦人だったかわかっていないが、朝鮮から移ってきた秦氏の血をうけ、外来民特有のねばり強い気質をもっていたようである。泰文が朝霞を妻に迎えたのは、もともと功利的な打算から出たことで、女体そのものにはなんの興味もなかった。朝霞のほうもそれを当然の事と諒承し、毎夜のように母屋のどこかで演じられる
吝嗇というのではないが泰文は徹底した自己主義者で、金銭に関しては、前例のないほどキッパリした割り切りかたをし、子供の一代に金をかけることなどに、なんの意義も感じていなかった。あるだけの金は自分ひとりのもので、子供らに使われるのはこのうえもない損だというふうに、そのほうの
泰文は
「お前のいう子供とは、いったい誰の子供のことか」
と欠伸まじりに聞きかえし、それが自分の子供のことだと聞かされると、雷にでもうたれたような顔をした。そういえばこの家にも子供が何人かいたようだと、ようやく思いだしたらしかったが、その折、またなにか忙しい思いつきがあったのだとみえ、いいようにしたらよかろうであっさりと話をうちきってしまった。
翌年、長男の文雄が省試の試験に及第し、秀才の位をとったという話を泰文はよそで聞いたが、ふとその学資はどこから出ているのかと疑問をおこした。朝霞が家計のなかからひねりだしているのならそれこそゆるしがたいことなので、帰るなり北ノ坪へ行って問いつめると、朝霞はやむなく身附きの自領の上りから払っていたことを白状した。泰文は無気味な冷笑をうかべ、それはもともと嫁資の一部をなしているはずのものだから、そうと聞いたからには、さっそくこちらの領分へとりこむ、金のかかる三人のやつめらは、今日かぎり勘当するが、なお、あるだけの隠し田をさらけださなければ、二人の
そのころ泰文は東山の八坂の中腹に三昧堂のようなものを建てた。招かれたある男が、あなたほどの無信心者がどういう気で持仏堂など建てたのかとおかしがると、泰文はその男を縁端まで連れて行って眼の下の墓地を指さし、
「あれはうちの墓地だが、童めらが一人残らずあそこへ入ったら、おれはここに坐ってゆっくり見物してやるのだ、そのための堂よ」
と笑いもせずにいった。
泰文は自分の子供らの墓を縁から見おろしてやるというだけの奇怪な欲望から、そういう堂を建てたことをその男は了解し、呆気にとられてひき退ったが、あわれをとどめたのは勘当された三人の息子であった。長男の文雄は方略の論文を書いてかすかす試験に及第し、河内の国府の允になって任地へ発つ運びになったが、二男の国吉は燈心売りになり、三男の泰博は二条院の雑色になって乞食のような暮しをしていた。泰文のやりかたがあまりひどいので、親戚のものも見るに見かね、関白基房を通じて法皇のご沙汰をねがった。法皇も呆れて、子供らを家に入れるように注意したので、泰文は渋々勘当をゆるしたが、基房の差出口が癇にさわったとみえ、間もなくひどいしっぺいがえしをした。
三条高倉宮の東南に後白河法皇の寵姫が隠れていた。江口の遊女で
「ほとほとに(女洞に掛けた言葉)舟は渚に揺るるなり、あしの下ねの夢ぞよしあし」
などと空うそぶいてみだらな和歌を詠み、面憎いようすだった。
後白河法皇の院政中は、口を拭っておとなしくさえしていれば、なにをしてもゆるされた寛大な時代だったが、泰文の放埓は度をこえているので、法皇も弱りきり、しばらく都離れのしたところで潮風に吹かれてくるがよかろうと、思いついて敦賀ノ荘へ流すことにした。
あばれだすかと案じられた泰文は、意外にも素直に勅を受け、二十騎ばかりの伴を連れて加茂川でひとしきり
泰文が京にいなくなると、魔党畜類が姿を消したような晴々しさになった。長男の文雄も
「父君がいなかったら、なんとまあ毎日が楽しいことでしょう」
と思いつめたように、つぶやいた。
それはみなの心にあって、口に出さずにいたことだったが、こういう日日が永久につづけばいいというのは、誰しもが願うところだったので、文雄が、
「
といい、泰文が家名に傷をつけぬよう、京に帰さず、このうえとも長く敦賀へとめおかれるようにという願文をつくり、兄弟三人の連名で上書した。
泰文のほうは、いちどは素直に勅を受けたものの、もともとこんな潮くさいところに居着く気はない。関白基房は基道の伯父で、基実が死んだとき基道が小さかったので摂政になったが、基道の義母は清盛の女の盛子で、平氏と親戚関係になっていることから、基道にたいする清盛のひいきが強く、基房はあるかなしかの扱いを受けていた。泰文はその辺の機微をのみこんでいるので、五位ノ侍従だった基道の筋に途方もない金を撒き、公然と流罪赦免の運動をした。清盛は些細な罪で有能な官吏を流罪にするのは当をえた政治ではないなどと妙な
泰文は外法頭そっくりの異形な真額に冠をのせ、逢坂あたりまで出迎えた鉢叩き、傀儡師、素麺売などという連中に直衣を着せ、形容のしようもない異様な行列をしたがえて入洛するなり、早乗りをして白川の邸に馳せ戻った。伜どもが連名し、法皇に不届な上書したことを聞いていたので、すごい形相で中門から走りこむと、長い渡廊ノ間、対ノ屋、
二人はまた食うあてがなくなり、以前よりいっそうみじめな境涯に堕落し、安衆房の散所で人にいえぬようななりわいをして命をつないでいたが、その冬、国吉は
泰博が殺されたとき、さる府生が役所で
「やっと二人だけだ、祝辞を述べてもらうにはまだ早い」
と毒々しい
泰文ほど上手に刺客を使う男も少ないので、国吉と泰博は泰文が人をやって殺させたのだという風説が立った。「京草子」の作者もそれらしいことをにおわせているが、これは信じにくい。泰文は時流に適さない異相のせいで、ことさら残酷なことを好む変質者のように言伝えられているが、人をやって自分の子供を殺させるようなことまではしなかったろう。粗暴な振舞いや、思いきった悖徳異端の言動が多く、妻や子供らに酷薄な所業をしたが、それは考えるような悪質なものではなく、実のところは、なにか変ったことをしでかして、同時代の人間をあっといわせたいという要求から出ていると見る向きもある。残忍も無慈悲も、おのれを見せびらかし、自分というものを世間にしっかり印象づけたいという欲求によることなのであるから、風説どおりに人をやって子供たちを殺させたのなら、泰文がそれを吹聴もせずにおくわけはないからである。
国吉と泰博が陋巷で変死したとき、葛木は十八、花世は十一、四男の光麻呂はまだ六歳でしかなかったが、上書の件以来、泰文は猜疑心が強くなり、子供らをいっしょにおくと、ろくなことをしないというので、葛木と光麻呂を朝霞からひき離し、南ノ坪の曹司で寝起きさせるようにした。それほどの無慈悲なあしらいを受けても、朝霞は世をはかなむこともせず、
そういうわびしい明け暮れに、泰文の従弟の保平が、保嗣という十八になる息子を連れて安房の北条から出てきた。
保平はもと山城の
白女に言われるまでもなく、保平は朝霞にとって幼な馴染みのなつかしい人間で、心のやさしいことも、身に沁みて知っており、ひょっとしたら、泰文にでなく保平に嫁いでいたかもしれないという微妙な思いもあるので、釣りこまれたわけでもあるまいが、つい白女に本心をもらしてしまった。白女はこれで朝霞の退引きならぬ弱身を掴んだと思い、正面切って保嗣に働きかけたが、保嗣は冷静な賢い青年だったので、ここでなにかしでかしたら、泰文の腰刀の一と突きを食うだけだと、浪花の国府に任官したのをさいわい、事のおきぬうちにと、だしぬけに淀から舟に乗って浪花へ
白女の落胆はたいへんなもので、朝霞をつかまえては嘆きに嘆いた。朝霞もはじめのうちはなぐさめるくらいにしていたが、いつまでもおなじ
泰文のほうはそのころ新たな恋の悦楽にはまりこんでいた。相手は敦賀の国府にいた貧乏儒家、藤原経成の娘の公子という女歌人で、父について敦賀に下っていたが、急に京へ帰ることになり、敦賀ノ庄を出た日から泰文の道連れになった。
公子は天平時代の直流のような
ここに奇怪なのは泰文の態度だった。湧きたつような醜聞を平然と聞流しにしてるばかりか、自分からほうぼうへ出かけて行って、毎日どんな情けない目にあっているかというようなことを披露してあるき、おのれの話のあわれさにつまされて泣きだしたりした。この間、泰文という男はなにを考えていたのか、他人にはうかがい知られぬことである。奇妙なのはそれだけではない。保平をそのまま邸に置きながら、保平の家従や僕を車舎の梁に吊し、保平と朝霞の間にどんなことがあったのか白状しろと迫った。このへんの心理はまったく不可解である。
最初にやられたのは
「本当のことをいってもらいたい。保平が朝霞のところでなにをしていたか、あなたは知っているはずだ」
「この二十日ばかり、保平殿は私を疎外し、打明けたことをいってくれないからなにも知らない」
泰文は天羽の手首を括って繩の端を梁の環に通し、あぶれ者にその綱を引かせた。天羽は床から指四本のところまで吊りあげられ、十五分ばかりは頑張っていたが、腕が抜けそうになったところで呻きだした。
「おろしてください、知っているだけのことを言います」
天羽をおろすと、あぶれ者どもを車舎から追いだし、二人だけになったところで、いかめしく促した。
「さあ言え」
「保平殿の供をして、北ノ坪へ三度ばかり行ったが、それ以上のことはなにも知らない。と申すのは、明け方まで泉のそばで待っているのが例だからです」
あぶれ者が呼びこまれ、天羽はまた梁に吊りあげられた。こんどはすぐ降参した。
「本当のことをいいます。保平殿が北ノ方とねんごろにしていることは、
「もうたくさんだ」
泰文は天羽を括って
「保平と朝霞のことは、お前が見てよく知っているはずだと天羽がいった。お前はいったいなにをしてくれた、夜の明けるまで二人の傍にいて」
僕は知らぬ存ぜぬといっていたが、腕の関節が脱臼しかけたので、しどろもどろに叫びだした。
「なるほど、そういう不都合な時刻に北ノ坪へ入りました。けれども、お二人の傍にいたわけではありません。じつはとなりの曹司で、白女と遊んでおりました」
「言わぬなら、もう一度吊しあげるだけのことだ」
僕は震えだした。
「もうお吊しになるには及びません、なにもかも申します」
それで白女が呼びこまれた。
「お前がねんごろにした女房がここにいる。この女の前で、あったことをみな言ってみろ」
「申します。私はお二人の前で、さる実景を演じる役をひきうけました。ここにいるこのひとが、そうするように強請したからです。最初に保平さまが下着をとられ、それから奥方が下紐を解かれました」
「よくわかった。お前の言ったことをこの紙に書くがいい」
「かしこまりました」
僕は助かりたいばかりにすぐ筆をとったが、肩を痛めているので、はかばかしくいかなかった。しかしともかく書きあげた。泰文は誓紙をひったくると、腰刀を抜いて三度僕の胸に突きとおし、立ったままで、死にゆくさまを冷淡に見おろしていたが、僕が布直衣の胸を血に染めてこときれると、白女のほうへ向いていた。
「こんどは、お前の番だろうな」
白女が狂乱して叫んだ。
「どうぞ、命だけは」
「いやいや、そういうわけにはいくまいよ。とんだところを見せものにして、主人の淫慾をそそるとは出来すぎたやつだ。この俺だって、そこまでのことはしない」
そういうと、白女の垂れ髪を手首に巻きつけ、腰刀で咽喉を抉った。白女はむやみに血を出して死んだ。
泰文は二つの死骸を芥捨場へ投げだし、裏門から野犬を呼びこんで残りなく食わしてしまった。そうしておいて、保平のところへ行って陽気に酒盛をはじめた。
すさまじい絶叫や叱の声で、保平は事の成行を察していたので、どうされることかと生きた空もなかったが、泰文は徹底的な上機嫌で、なにがあったかというような顔をしている。保平はいよいよ薄気味悪くなり、翌日、なにやかやと言いまわして、泰文の邸から逃げだした。京にいる間、刺客を恐れてたえずビクビクしていたが、格別なんのこともなく、その秋、命恙なく安房に帰り着いた。
朝霞のほうにも、恐れるようなことはなにも起きなかった。それどころか、泰文はかつてないようなうちとけかたで、北ノ坪へやってきては世間話をするようになった。朝霞は泰文の気持をはかりかねて悩んでいたが、そういうことも度重なるとつい心をゆるし、どんなに責められても言わなかった隠し田のありかを白状してしまった。
「これは光麻呂と娘たちの分なのですから、そこのところは、どうぞ」
「わかっている。悪いようにはしない」
泰文は素ッ気なくうなずいてみせたが、つまりはそれが目的だったのだとみえ、それからはぷっつりと来なくなった。
朝霞と保平のいきさつはこれで無事に落着するはずだったが、事件は意外なところからあらたに掻きおこされることになった。
朝霞の兄弟も泰文の弟の
光覚は
その頃の北ノ方というものは、奥深いところで垂れこめているうちに、いつ死んだかわからないような死にかたをすることが多く、葬いも深夜こっそりとすましてしまうというふうで、世間的にはとるにも足らぬ存在だった。殊に泰文などときたら、いまあってもう無い自然現象のようなものだとしか思っていないのだから、朝霞と保平の一件などは、事実だろうと否だろうと、なんの痛痒も感じない。保平の僕と白女を殺したのは、そういったもののはずみでそうなったまでのことで、立腹したのでもどうしたのでもなかった。弟や義兄たちの抗議も、ただうるさいと思うばかりだったが、際限なくせっついてくるので癇をたて、そんな邪魔なら、尼寺へやるなり、殺すなり、いいようにしたらよかろうといってやると、では勝手ながらこちらで埓を明けるから、悪しからずという返し文が届いた。
それから三日ばかり後の夜、泰文の留守の間に、朝霞の兄の清成と清経が五人ばかりの青侍を連れてやってきて、すぐ朝霞のいる北ノ坪へ行った。朝霞は褥に入っていたが、縁を踏んでくる足音におどろいて起きあがると、長兄の清成が六尺ばかりの綱を、次兄の清経が三尺ほどの棒を持って入って来るのを見た。
「この夜更けに、なにをしにいらしたんです」
「気の毒だが、お前を始末しにきた。なにしろ、こんな因縁になってしまって」
「それは泰文の言いつけですか」
「そうだ」
清経がうなずきながらいった。
「したいことがあるならしなさい、待っているから」
「なにといって、べつに……どうせ、こんなことになるのだろうと思っていました」
「いい覚悟だ。花世はとなりに寝ているだろう。むこうへやっておくほうがよくはないか」
「そうですね、どうかそうしてください」
清成が几帳の蔭から花世を抱きあげて出て行ったが、すぐ戻ってきた。
「では、やるから」
「いまさらのようですが、保平とはなにもなかったのです」
「そうだろう。しかしこういう評判が立ったのだから、あきらめてもらうほかはない」
「わかっています」
「怖くないように帛で眼隠しをしてやる。どのみち、すぐすんでしまう」
「どうなりと、よろしいように」
清成が几帳の平絹をとって朝霞の顔にかけると、清経が綱を持って朝霞のうしろにまわった。綱の塩梅をし、棒を
「いったいまあ、なにをしているんです」
清経がふりかえりながらいった。
「この綱はよく滑らないから、べつなのを探してくる」
そういって出て行った。間もなく車舎から簾の吊紐をとって帰ってきて、眼隠しをするところからやりなおしたが、その紐もぐあいが悪いかしてやめてしまった。
「どうしたんです」
「これもぐあいがわるい」
また綱を探しに行き、こんどは棕櫚の繩をもってきて、それに切燈台の燈油をとって塗った。
「こんどこそ、うまくいきそうだ」
綱は棒にうまく
朝霞の亡骸は用意してきた
「時疫とは、いったいどのような」
「脚気が
泰文は薄眼になって聞いていたが、
「かわいそうな、さぞ痛い脚気だったろう」
と人の悪いことをいった。
朝霞が死んだのは承安三年の十月のことだったが、それから二年ほどはなにごともなくすぎた。
泰文は相変らず公子のところに通い、子供らは母のいない北ノ坪でしょんぼりと暮らしていた。すさまじい扼殺が行なわれた夜、葛木と光麻呂は遠く離れた曹司におり、花世はまだ十一で、眠っていたところを清成に抱きだされたのだったから、三人の子供らは、母がそんな死にかたをしたことは露ほども知らなかった。召使どものいうとおり、深草の実家で病死したと信じていたので、心の奥底にある母の影像は、さほど無残なようすはしていず、母に死なれた悲しみも、月日の経つにつれてすこしずつ薄れ、誰もあまりそのことをいいださぬようになった。
二年後のおなじ月に新しい母がきた。
泰文は公子が子供らに馴れすぎるのを面白くなく思っていたが、さすがにそうはいいかね、子供らにあたりちらしてわけもなく鞭で打ったりした。泰文の不機嫌の真の原因は、上の娘がそろそろ嫁資をつけて嫁にやらなければならない年頃になっていることで、そのことが頭にひっかかると、むしゃくしゃしてつい苛立ってしまうのである。泰文としては、どう考えてもそういう無意味な風習と折合をつける気にならないので、いっそのこと邸を尼寺にしてしまえとでも思ったのか、北ノ坪の入口に
さく花は千種 ながらに梢 を重み、本 腐 ちゆくわが盛 かな
という和歌を添えてつくづくにねがいあげた。法皇はあわれに思い、東宮博士大学頭範雄の三男の範兼を葛木の婿にえらび、一千貫の嫁資をつけ嫁入らすようにとつよいご沙汰をくだした。一説には、葛木の上書は公子が文案し、和歌も公子が詠んだものだといわれているが、たぶんそれは事実だったろう。おのれを持することの高い公子のような悧口な女が、どういうつもりで泰文のところへ後添いに来る気になったかと、いろいろに取沙汰されたものだが、国吉や泰博のはかない終りや、常ならぬ虐待を受けている三人の子供たちをあわれに思い、朝霞にかわって、泰文のでたらめな暴虐から護ってやろうと思ったのではなかろうか。葛木を泰文の邸から出したのはすべて公子の才覚だったとすれば、進んで後添いにきた公子の意外な行動も、それでいくぶん説明がつくのである。
そういう状況のうちに、この物語の本筋の事件の起きた治承元年になり、花世は十五、光麻呂は十一の春を迎えた。
花世と光麻呂はよく似た姉弟で、光麻呂が下げ髪にしているときなどは姉とそっくりだった。花世の美容については、「かたちたぐひなく美しう御座まして、後のために
「お前も、いずれは子をひりだす洞穴を持っているわけだが、おなじ生むなら、聖人になるような立派な子を生むがいい。父が自分の娘を知ると、生れて来る子供はかならず
泰文の卑しい眼差にあうなり、花世は父がいまどんな浅間しいことを考えているか、すぐ感じとってしまった。
「なにをなさろうというのです」
「だから、おれがその骨の折れる仕事をしてやるというのだ」
「そんなことは嫌でございます」
「欲のないやつだ。父のおれがこういうのだから、否応はいわせない」
途方もない話だが、信じられないような奇怪な交渉が、夏のはじめまでつづけられた。抵抗すれば息の根がとまるほど折檻されるので、気の毒な娘は、そういう情けない生活を泣く泣くつづけていくほかはなかったのである。
泰文はでたらめな
花世と公子は地獄にいるような思いがしたことだったろう。こんな畜生道の
北ノ坪で召次をしている犬養ノ善世という下部は、卯ノ花の
善世は眼の色を沈ませていつもむっつりと黙りこみ、なにを考えているのかわからないような陰気な男で、うちつけにそういう大事を洩らすのはいかがかと思われたが、ほかに助けとてもないのであるから、ある日、ままよと切りだしてみると、意外なことに、すぐ同腹してくれた。
犬養ノ善世はもとは鬼冠者といい、伊吹山にいた群盗の一味で、首の傷こそは、五年ほど前、
近々、泰文は八坂の持仏堂へ行くはずだから、仲間を集めてその途中で事をしたらと善世はいったが、公子は考えて、べつの意見を述べた。これまでの例では、泰文は危難にそなえて大勢の伴を連れて行くから、かならず仕終わせると思えない。油断のない泰文のことだから、こんどの八坂行には、われわれ二人も伴って目のとどくところへおくつもりにちがいない。奔放自在な泰文に立ちむかうには、緻密に考えた計画はむしろ邪魔なので、その場の情況に応じて、咄嗟に断行するといった、伸縮性のある方法のほうが、成功の公算が多いのではあるまいか。われわれはいつも泰文のそばにいるのだから、抜目なくかまえていれば、かならずいい折を発見することが出来るかと思う。お前はいつなんどき合図があっても、すぐに行動ができるよう、近いところで気をつけていてもらいたい。善世は、ご尤もなお考えであるといい、それで相談がまとまった。
八坂の第に着くと、泰文は谷と谷との間に架けた長い橋廊をわたって細殿に行き、はるか下の墓を見おろしながら酒盛をはじめた。いいぐあいに酔いが発しないらしく、
公子と花世は蒼くなって眼を見あわせ、今こそと、たがいの思いを通じあった。いずれこういう折があるものと期待していたが、それにしてもあまりに早すぎた。着いたばかりでは、善世も手が出まい。どうしたらよかろうという苛立ちと当惑の色が、たがいの眼差のなかにあった。公子が心をきめかねているうちに、花世はつと立って細殿から出て行ったが、間もなく戻ってきて、橋廊のきわから公子を手招きした。公子が足音を忍ばせながら花世のそばに行くと、花世は公子の耳に口をあてて、
「だいじょうぶ。いま善世が来ます」とささやいた。
しばらくすると、善世が夏草をかきわけながら谷のなぞえを這いあがってきた。ながいあいだ
「鯰め」と一気に金槌で打ちこんだ。
泰文はものすごい呻き声をあげ、それこそ、化けそこねた大鯰のように手足を尾鰭にしてバタバタとのたうちまわっていたが、つづいてもう一本、咽喉もとにうちこまれた犬釘で、すっかりおとなしくなってしまった。
星屑ひとつない暗い夜で、どこを見ても深い闇だった。八坂の山中に、光といえばこの燈台の灯だけであろうが、その灯は風にあおられながら、泰文の異形な外法頭をしみじみと照していた。