うすゆき抄

久生十蘭




 寛文本、仮名草紙の「薄雪物語」では、園部左衛門が清水寺で薄雪姫という美女に逢い、恋文を送って本意をとげたが、愛人に死なれて無情を感じ、高野山に入って蓮生れんじょう法師になる。操浄瑠璃の「新薄雪」は文耕堂が時代世話にこしらえ、道行の枕に「旅立に日の吉凶よしあしをえらばぬは、落人おちうどの常なれや」というのが小出雲こいずもの名文句として知られている。
 どちらも慶長三年の「うすゆきものがたり」を粉本にしていることはいうまでもないが、原作にあるのは、凡庸な恋愛風俗と室町時代の仏教思想をなえまぜたようなたわけた話ではない。仮名草紙で園部左衛門となっている大炊介おおいのすけは、男の中の男とでもいうような誠実な魂をもった大丈夫で、薄雪姫なる行子ゆきこのほうは、自分の生きる道を愛の方則から学びとるほか、なにひとつ知らぬような純情無垢の女性である。この一対の男女の上に、両親の反対や、政治的な策謀や、行きすぎた友情や、偽りの恋や、ありとあらゆる妨害が山と積みかさなる。男は底知れぬ勇気と果敢な行動で、女はおどろくべき辛抱強さと機略をもって抵抗し、二十年に及ぶ愛の戦争を継続するが、その癖、どちらも最後まで純潔なのである。二人は物狂わしいほどの熱情であくまでも一念を貫こうと心を砕くが、悲劇的な宿縁の翳に禍いされ、あわれにも身を亡ぼしてしまう。この話には見せかけの僥倖といったようなものは片鱗もない。あるものは不幸と苦だけである。なにひとつ慰藉のない荒涼たる一篇の情史は、読むものの胸をうたずにはおかない。
 筆者は松月しょうげつ尼というだけで、どういう人物か知られていないが、説話の文様あやからおすと、この事件に関係のあった一人だということがわかる。この事件の表裏に通じている人物といえば、大炊介の名親にあたる青山新七か、行子の母の資子もとこか、行子の侍女の高根の三人のうちにちがいないが、「くやみてもかひなきことなれど、せめてもの心やりに書きもしるしつ」などと言っているところを見ると、あまり悧口すぎて、娘のあたら花の命を散らした母の懺悔ともとれるのである。
 松月尼の述懐は、風摩ふうま大炊介と賀茂かも行子がはじめて小田原の城下で出逢った天正九年の夏からはじまり、大炊介が蜂須賀小六家政(二世小六、阿波守)の手について朝鮮征伐に行き、唐島からしまを経て京都へ帰った文禄二年の[#「文禄二年の」は底本では「永祿二年の」]秋の末で終っている。
 天正九年といえば、信長が高野の僧都、二十余人を斬り、家康が遠州高天神の城で武田勝頼の郎党の首、七百余級を獲ちとり、秀吉が鳥取城攻めにかかった年である。応仁の乱にはじまった大暗黒時代がおおよそ百年あまりもつづいているが、まだ終らない。上は大小名、各地に割拠して戦乱をおこし、しも万民、家も畠も顧みるいとまがなく、流賊のていになりさがって諸所を放浪し、ただもう人のものを掠め盗って当座の渇命かつめいを医そうとするばかり。かしこの乱暴、ここの一揆と、世をあげて動乱している中で、そうした纏綿たる愛の事業がくりひろげられたというのは異様に思われるけれども、当時の小田原という町のありようを考えると、うなずかれることもあるのである。
 天文二十年、兵乱に追われ、近畿から小田原へ逃げてきた某という男が相模府中へ入ると、町の数多い小路には塵さえも見られず、ちまたには高館が立並び、城には喬木が森々しんしんと繁り、三方の池には白鳥がのどかに泳いでいる。一しきというところから板橋というところまで、一里ほどの道の両側に隙間もなく棚を張り、唐の器物やら葡萄牙の珍品やら、山と積みあげて売買いしている。戦場の浅間しい地獄の沙汰を思いかえすと、とても現実のこととは思われず、あまりの勿体なさに涙を流したということであった。
 大炊介と行子の最初の出会いはなにないことからはじまった。行子は預けられていた京都の黒谷の尼院から、大炊介は儒学の勉強をしていた下野しもつけの足利学校から、どちらも五年ぶりに故里へ帰り着いたその第一日目に、偶然、渡し舟に乗りあわすという運命的なめぐりあいをしている。
 大炊介は二十二歳、行子は十七歳であった。大炊介は郷士の伜だが、いまは儒生のはしくれにすぎないから、もちろん供などは連れず、小狩衣に侍烏帽子をかぶったくらいのところ。行子のほうは小田原一の分限者といわれる蘆屋あしや道益の一ノ姫だから、荷担ぎのほかに、倔強な供と女房ぐらいは連れ、縫箔のある小袖に精巧な地の薄衣うすぎぬをかぶった優美な旅姿をしていたことだったろう。そうして磧から舟に移ったが、広くもない渡し舟のことだから、肩をすりあわせ、ひょっとすると膝を触れあって、おなじ胴ノ間に坐ることになる。
 行子の眼にうつった大炊介という男性は、蔓巻の打刀うちがたなを指したさむらいの風体なのに、どこにも髯がないことであった。鎌倉時代にはじまった貯髯ちょぜんの風は、天文の終りごろからいよいよ盛んになって、自持じもちの髯のほかに置き髯や懸けひげをつけ、法体ほうたいになっても豊かな髯をたくわえるという凝りかたなので、まずそのことが心をひいた。そういう威毛おどしげのついた顔ばかり見馴れてきた眼には、汚れのない玉のようなツルリとした顔は、あまり突飛で異なものだったが、だんだん見ているうちに、なるほどこういう美しさもあるものだと納得した。このごろ、近畿の大名や寺院の長老が稚児を集めて珍重しているが、そこにいる男性の顔は、髷を二つ折にし、歯を黒く染めたありふれた美童の面ではない。威儀正しい気品のある凛々しさがあふれ、古画に見る上代の旧上達部ふるかんたちべが、なにかの都合でこの世にたちかえってきたかと思われるほどであった。
 大炊介の見た行子は、稚気離ちきばなれのしない、咲きたての花のような面差しをした愛々あいあいしい女性で、生まれてからまだただの一度もこの世の不幸に逢ったことがなく、この世で思いのままにならぬものはないという、驕るかにも見える寛濶な表情をしていた。
 女性は顔をまわしてゆったりと川面や遠い河岸を眺めているが、どんなことにも興味と満足を感じる豊かな気質らしく、表情のなかにたえず微笑の波をたちあげるので、顔自体が生きているかと思われるほどである。なかでも溌剌と動いてやまぬのは、底知れぬ愛嬌をたたえた二つの眼で、こちらへ眼差をかえすごとに、しきりに大炊介に語りかけるのだが、なにを言おうというのか、大炊介にはついぞわからずにしまった。二人は舟のなかでは語りあわず、なにごともなく別れたのである。
「そこでさえ逢わなかったら、生涯、相引かず、思いこやることもない二人だったのに」と松月尼が書いている。これは、一つは二人がそうした出逢いをした運命のことを、一つはとうていこの世では溶けあえぬ敵同士の身分のことをいっているのである。
 この物語では、大炊介の父、関東一の乱破らっぱの大将、風摩小太郎が紀州貝塚の一揆に信長の手につき、さとカマリ(大掠奪)で蘆屋道益の血族を焼き殺し、その風摩小太郎が、道益の子の道長に箱根の木賀の湯で討たれるあたりが、因果のはじまりのように見えるけれども、両家の過去の因縁はそんな底の浅いものではなかった。どちらも清和源氏の分流でありながら、四代、満仲みつなかのときから敵同士になり、五百年の間、それとも知らずに殺し殺される、因果な争いをくりかえしてきた業の深い間柄だったのである。
 松月尼が説くのもそのことなので、そこは女だからあきらめが悪く、同族抗争の目もあてられぬ惨事を、七代まで遡って縷々懇切に述べている。そういう深い宿怨をたがいの血のなかにもった大炊介と行子の結びつきは、その後どんな風に運んでいたかというと、夏ごろ、ゆくりなく渡し舟に乗合わしただけの二人が、わずか一と月ほどののち、蟋蟀いとどの声もおさない秋のはじめに、毎夜のように屋形の裏庭で忍び逢う退引ならぬ関係になっていたのである。
 良縁結ばず、悪縁は至極疏通すという言葉があるが、このときの作用はだいたいそれに近いものであった。大炊介にしても、行子にしても、予定どおりに行動し、即興的な試みをしなかったら、おなじ渡し舟に乗りあわすようなことは絶対になかったはずだからである。足利学校の学頭をつとめた七世九華は六十一歳になったので、暇をもらって郷里の伊豆山へ帰ることになった。大炊介が、廃学する気になったのもそのせいだったが、老師を松原の渡しまで送ったところで、別れるに耐えられなくなり、その舟に乗って向岸まで渡り越してしまった。行子のほうの因縁のカセは、沼津あたりからはじまっている。父の道益は行子に箱根路を越させるのをいとしがり、沼津の浜まで迎いの船をやったが、真鶴岬をかわしたところで、行子は片浜から岸づたいに歩いて行くといいだし、急に船から降りてしまったのである。偶然と言捨ててしまえばそれだけのことだが、二人の上に眼に見えぬあやつりの糸のようなものがからみついていて、どうでもそうなるようにひき寄せたのだと思えなくもない。
 これで物語の筋を運ぶ段になるのだが、その前に、あわれな終末をつくりだした二人の境界を説明しておかなくてはならない。乱破らっぱとか出抜すっぱとかと呼ばれていた山武士野武士の類は、百姓のような見せかけをしているが、保元ほうげん以来、つぎつぎに滅亡した源平藤橘の血脈をひく武辺のまがいで、夢想家が多く、独力で家門挽回の大事をなすには、武芸の技くれなどは役にたたない、智能と機略によるが便利とあり、代々、山野に沈潜して六韜三略の勉強ばかりしていたため、そういう一類の中から異常な才能をもった軍師が大勢出た。美濃の蜂須賀、稲田、近江の日比野、長江、下総の勾坂こうさか、信濃の滝川などはそのいうなるもので、各地の大小名に招聘され、ふしぎな働きをしてみせた。
 大炊介の父の小太郎も清和から出た源氏の末流で、五代前から相州のひじり山に住みついて風摩という姓を名乗った。天文のはじめ四百人の野武士を統率する関東一の乱破の大将になり、あらゆる合戦に参加して五畿内の戦場を馳せめぐっていた。
 天正七年、武田勝頼が浮島ヶ原へ押しだしてきたとき、大炊介の父は北条の手について大いに武田の軍勢を馳け悩ました。北条三代記に「風摩小太郎、乱破四百人を扶持す」とあるが、領主だから合力ごうりきしたのではなく、勝頼のやりかたが不服だったというだけのことにすぎない。戦争の目的が気に入り、この大将ならと思うと、どちらの側へでも加担する。もちろん扶持は受けるが、その合戦かぎりのことで、どういう場合でも主従の関係は結ばない。これは乱破の一般の気風でもあるのだが、主従の関係ができて妙な重味がつき、恩愛の絆に縛られて自由を失うのを極度に嫌うのである。
 大炊介の父は大体そういった人物だった。大炊介が五歳になると、手許から離して小田原の青山新七という儒家へ預け、成年に達すると、小田原、入谷津いりやつ山曲やまたわで年五十石の上りのある田地を買って小さな家を建て、大炊介を一人でそこに住まわせ、「生涯、俺の子であることを口外してはならぬ、青山大炊介と名乗っておけ」と申しわたした。
 なんのために、そうまでして親子の関係を厳秘しようとしたのかわからないが、しかし、想像できないことはない。戦場における乱破の主な任務は、敵の後方を攪乱することにあって、村を焼いたり、敵産を掠奪したりするが、それを必要の程度にとめておくことはむずかしい。それどころか、大抵の場合、目をおどろかすような大掠奪になり、意外な血を流してしまうのが常なのであって、そのため思わぬところで深い怨みを受けている。そんなことは戦争には避けられぬ茶番ちゃばんのようなものだ、と小太郎は口ではいっていたが、心の底では、いつどこで仕返しをされるかわからぬという不安にたえず脅かされているふうで、小田原の町へ現われるときは、いつも何人か手下を連れ、たまさか一人で入谷津へやってくるときは、月のない夜中にかぎっていた。
 大炊介は見かけの割に豪胆で、一廉の役には立つはずであったが、小太郎はただの一度もカマリに誘ったことがなかった。そういう稼業に嫌悪を感じている証拠なので、大炊介に父姓を名乗ることを禁じたのも、その辺に人知れぬいわくがあったのだと思うほかはない。
 その父も死んでもう居ない。昨年の秋、どこかの戦争で重傷を受けて帰り、貝津藤吉という手下を連れて木賀の湯へ湯治に行ったが、それっきり帰って来なかった。藤吉にたずねると、「大将はいけませんでした」とそれだけ答えた。墓はと聞いたが口をつぐんで返事をしない。乱破の墓のあるところが知れると、怨みのある土着人が死体をひきずり出しにくるので、乱破の仲間以外にはけっして明かさないものだということであった。別な話だが、風摩小太郎の墓のありかがわかったら、第一番に死体をひきだしに来るのはたぶん蘆屋道益だったろう。というのは、紀州貝塚の一揆のとき、道益の老父と二人の弟が風摩の一党に焼き殺され、忘られぬ怨みを抱いていたからである。

 蘆屋道益もふしぎな運命を負った男だった。道益がまだ泉州の堺にいるとき、遠い縁つづきにあたる陰陽博士の賀茂円明がやってきて、「俺は間もなくこの世においとまをつげるが、その前に言っておくことがある。お前は二人の子供をもつが、気の毒ながら二人とも非業の死をとげる」と占示した。
 円明は易にかけては神に近い存在で、その人の占考は絶対に外れのないものであった。道益としても観念するほかはなかったが、自分の行途にそういう暗い運命が待ちかまえているのはかなわないから、血の近い山城の賀茂の一族の中からここ一番という石女うまずめを探しだし、叶わぬまでも運命に抵抗してみることにした。
 山城の賀茂は社家しゃけでいながら、賀茂村から比叡山の水呑みずのみに達する広大な領地をもって居り、一族の女たちは国学と古文こぶんに凝りかたまって、みな独身で終ってしまう。賀茂は神の子の転化語で、神武天皇の直系だとされ、古くから賀茂の女は孕まずという言伝えがあるくらいだが、それだけでは安心がならず、さんざん選り好みをしたすえ、賀茂資子もとこをもらうことにきめた。御書講に出仕したこともある才媛で、理非の弁別のはっきりした、非情なまでに折目正しい、身のうちに温味があるのかと思うような冷々れいれいと冴えかえった感じで、この母胎なら、どんな向う見ずな生命でも、とうてい宿りようがなかろうと思ったからである。
 道益は円明の占示に鼻を明かしてやったつもりで居たが、所詮は無益なわざであって、三年とたたぬうちにつぎつぎに男と女の子が生まれ、宿命というものの執念の深さを、はっきりと思い知らされた。
 長男のときは、賀茂宮で一万遍の大祓おおはらいをした選名が道長と告示されて気をよくしたが、女の子のときは薄雪と出た。薄雪ははかないものにたとえ、薄命の掛言葉にさえなっているのだから、道益は腹をたて、よみだけとって行子ともじり変えてしまった。
「これこそ因果というものの姿なのだろうか。あわれなことに、二人の子供はそうまでとは望みもしないほど日ごとに美しくなりまさった」と松月尼が歎いている。道益と資子は二人の子供が白痴うつけか片輪か、眼もあてられないほど醜くあってくれたらと思ったにちがいない。いずれはただならぬ死にかたをする子供らが、日に日に愛らしくなって行くのを見るのはやりきれたものではなかったろう。禁厭まじない物忌ものいみの手段にかけては、なにひとつ不足のない時代のことだから、道益はこれというほどのことはみなやったが、なお、二人の子供の将来にそなえるために、出来るかぎり資産を積んでおいてやろうと思った。この世は金が物言う便利な世界で、金で落せぬ判官もなく、金でほころばぬ渋面にがづらもない。非業とだけでは、どういう死にかたをするのか予想もつかないが、山ほど金を積んでおいてやれば、運数うんすうの呵責をいくぶん軽くすませることもあろうかというところから、一念発起して、猛然と金つくりにとりかかった。
 道益は、能登屋、臙脂屋などと肩をならべ堺十人衆の中座にすわり、朝鮮や明に手船を出して、異国の物貨を取仕切っていたが、こんなことでははかがいかぬと急に鉄砲買いを思いつき、商用の便宜のために心にもない切支丹のお水を授かり、葡萄牙人の間を駆けまわって、鉄砲、鉄砲ぐすり、鉄砲玉、火砲、海戦道具と、戦争の諸道具を大段おおだんに買いつけ、織田もその敵の毛利にも、そのまた敵の細川にも、一切無差別に売りこかし、相模府中の小田原に南蛮座をつくって、堺では見向きもされぬ南蛮端物はもの納屋なや払いをしたりし、わずかの間におどろくような蓄財をなしとげたのである。
 かんじんの二人の子供のほうは、毎年、年のはじめに歳徳神の居どころを探し、今年の恵方えほうは北だといえば、人を附けて北へ預け、南だといえば南へ送り、疲れを知らぬ奮闘をつづけていた。京都の尼寺へ預けておいた行子を急に小田原へ呼びかえすことにしたのは、その夏から金神こんじん遊行ゆうぎょうが西方へまわるのを忌んだためだが、なおそのほか、かねて築造にかかっていた山邸が、この夏ようやく落成したからでもあった。
 道益はやがて来る行子の十九の厄年を、どうして事なく越させようかと悩んでいた。災いはかならず起るときまっている。どんな恰好でやってくるかわからないが、内から起るより外から来る可能性のほうが多いから、まずそのほうの道を切るにかぎると、小田原の裏山、谷津のなぞえに砦のような三層の邸第を造営し、風にもあてずに楼閣のてっぺんに囲っておくことにした。前は谷津の谷にのぞむ急斜面、上は山に囲まれた深い谷戸やど、山曲にわずかばかりの瘠せ田があるが、五年ほど前から人が住まなくなり、荒れたままになっているという、いかにも取詰めた場所である。山邸のあるところは、府中の町端まで見晴す絶好の高台で、どんな人間が上ってくるか、十町先からはっきりと見分けられる。道は石高の一本道だから、途中に木戸を置いて守らせれば、そちらからの防ぎも十分につくはず、と細かく詮じつけ、邸のうしろに行き来もならぬ檜の森をとりこみ、櫓門のついた築泥塀ついじを長々とひきまわし、邸のつくりは本願寺の飛雲閣のをとり、いちばん上を四方窓のついた物見のような閣室にこしらえ、十畳つづきの二間に絵襖をひき、資子もいっしょにそこへ臥させることにした。
 これで残りなく手をつくした、と道益はほっとしたが、かんじんのところが一本抜けていた。今こそ荒れ田になっているけれども、いつかは持主が帰ってくるかもしれないというところまで考えておかなかったのは、なんといっても手抜かりであった。のみならず、山邸の地取り自体がすこぶる間のぬけたものであった。大炊介の田地と住居のある上の入谷津まではここも石高の一本道で、小田原の町へ降りるには、どうしても山邸の横を通るしかないのだが、そのうえ石高の坂道は西側の築泥塀の際で急に高くなっているので降りがけには、否応なしに塀の内側をのぞきこむようになり、防備という点からいうと、これはいかにも不束ふつつかなものであった。塀際をうねりあがる石高道は、一歩ごとにそこを通る人間をおしあげ、塀の上端うわば越しに頭から爪先まで露骨に見せてしまう。閣室の窓に倚る人間と坂を上る人間は、その辺のところで水平の位置をとることになり、たがいに顔を見合って笑うこともできれば、うなずくこともできるというわけなのである。人間の眼がある種の危険な作用をしないのだったら、山寨の守りは完全に近いものだったろうが、そうでなかったので、この防備は意味のないものになってしまった。
 道益が選りにえらんでこんなところに地幅をとったのは、人間の智慧の及ばぬ宿命のなせる業なのであろうが、道益が三層の楼閣を作ろうなどと思わなかったら、いやまたそこへ行子を置こうなどと思わなかったら、悪因縁に支配された男女が結びつけられる[#「結びつけられる」は底本では「終びつけられる」]こともなく、従って以後の悲劇もなかった。こうしてみると、道益の切羽詰った頭のなかで考えだしたことは、意図したところと反対に、なにもかも危険を生みだすことだけに役立ったともいえるのである。
 長男の道長のほうは寺へやって得度させ、これはというほどの寺領を後援し、大僧都にしあげてやろうと最初は思っていたが、天文六年の秋、雄略寺の光顕上人が名もない土民に刺殺された一条を聞きこむと、坊主にしても安心はならぬ、おのれでおのれの身を守るには、武芸の鍛錬に越すものはないという考えになり、北条氏の家中の某という武芸者について、思うさま刀槍弓馬の技を学ばせた。
 道長は父に似た骨太の巌乗づくりで、血の気が多く、なにかといえばいきりたち、うぬ、とか、おのれめらは、とか荒けた声をだす癇の強い子供だったが、打刀うちがたなを持つようになってからは、いよいよ思いあがった容態ようだいになり、生毛うぶげのはえた頬に懸髯をかけ、いちのたつ賑やかなところへ出かけては、わけもなく棚の八百物をとって投げ、道端の魚籠を蹴返し、きものでもしたように暴れくるい、結局は袋叩きにされ、傷をつけて帰ってくる。気狂いに刃物を持たしたような埓のなさで、これでも困ると眉をひそめていたが、二年ほど前の夏、祭礼の雑踏の中でりきんでまた叩かれ、逃げだしたところをうしろから斬りかけられ、大きな傷を背負って帰ってきた。
 道益はふるえのでるほど仰天し、箱根の木賀の湯は金創きんそうにも逆上のぼせにも利くというので、供をつけて湯治にやったところ、五日ばかりして、夜遅く一人で帰ってきた。どうしたのかとたずねると、道長は四角に坐って、内密に申しあげたいことがあるという。奥の間へ行くと、道長は昂然たる態で宣言なのりをあげた。
「木賀の湯ではからずも、かたきにめぐりあいましたので、討果して帰りました」
「恐ろしいことをいうの。お前に敵なぞあったのか」
「父上にはご老耄と見えます。先年、紀州貝塚で風摩のさとカマリに逢い、叔父御やら甥やら、生きながら焼き殺されたことをお忘れですか。敵といっても、これ以上のものはないはず」
「それはそうだが、よもや貴様が風摩小太郎を」
「討ち果したと申しました」
 朝夕、湯壺で全身に刀傷のある老人と出逢う。なにしろすさまじいばかりの手傷なので、どれほどの武功のあった士かと、宿のものにたずねてみると、あれこそは風摩小太郎と、そっとおしえてくれた。
 貝塚の一条は、子供心にも口惜しく思っていたが、逢うはずもない仇敵にこんなところでめぐりあったのは、討てという天慮にちがいない。風摩小太郎というのはどんな鬼かと思っていたら、六十ばかりのよぼけ爺で、右足の筋を切られて杖にすがって歩いている。子供と思って眼端めはしにもかけないふうだから、隙を見て討ちとってやろうとつけねらっていると、毎晩、夜中すぎに一人で湯壺に行くことがわかったから、岩阻道で待伏せ、行きすぎたところを後からぶッ通し、そのまま谷底へ蹴込んでしまったということなのであった。
 道益はおどろくより心細くなり、道長のしたり顔を眺めながら歎息をもらした。乱破のうちでも風摩ノ衆はとりわけ義理が固く、受けただけのものは無理をしても返すという風である。仲間の一人が江州、塩津の土着人に打ち殺されたというので、百戸からある村を八方から焼きたて、人も馬も逃さばこそ、一夜のうちに灰にしてしまったことがあった。諏訪、上原の合戦では、糧道の先達せんだつに道を教えなかったら、村はなへ煙硝を仕掛け、一郡七カ村を跡方もなく噴き飛ばしてしまった。
 先達をまごつかせたくらいでそうだから、大将を殺したとなっては、災害のほども思い知られる。道長などは、引裂かれるか、串刺しにされるか、焙られるか、煮られるか、いずれは乱離骨灰、それも道長だけですむことか、おのれ、資子、行子、一門一族、血につながるものは、堺から、山城から、紀州から、一人残らず根こそぎに探しだされ、目もあてられぬ始末になってしまう。円明の占兆せんちょうにあらわれたのは、つまりはこのことだったのだろう。どんなお先ッ走りの心霊が、こんな細かいところまで見抜いてしまうのか知らないが、非業の死とはよく言いあてたと、いっそ感心するくらいのものだった。
 当の道長は落着いたもので、そんなにご心配なさるな、たいしたことはないものです。風摩の大将をあやめれば、どう祟るくらいのことは心得ているから、その辺のところは念入りに首尾をしておいた。夜更けなり闇夜なり、誰かに見られたかというような浅墓なお気遣いはご無用である。谷底から死骸が上っても、そういう態たらくのおいぼれだから、岩端いわはなにつまずいてよろけこんだと思うだろう。背中の突傷にしても、何百とある傷の中から、これが新傷あらきずと見わけのつこうわけはない。だいいち、私のような若年者が風摩小太郎を手にかけたなどといったら、聞いたほうが笑いだすだろうなどと、子供のくせにませたことをいい、それで話の鳬をつけてしまった。
 道益は気の利いた男を二人ばかり木賀へやってようすをうかがわせると、なるほど道長のいうとおり、供は一人いたが気のうとい間抜けらしく、風摩の死体を駕に乗せ、なにもいわずに三島のほうへ下って行ったということで、やれやれと胸を撫でおろしたが、いちどつかえたおびえは去らず、府中で名の通った無法者を十人ばかり兵隊に雇いいれ、弓矢を持たせて見張りの櫓門へ追いあげた。しかしその後二年なんのこともなく、兵隊は毎日欠伸ばかりしていたのである。
 さて、渡し舟は松原の磧に着き、行子は迎いのものといっしょに、府中の一色のほうへ歩いて行ったが、伊達なまでに悠揚とした床しげな青年が、糸にでもひかれるように後からついてくるのに気がつくと、急に心が波立ってきた。
 行子は感じたことや考えたことをすぐ口に出してしまう屈託のない気質で、いつもなら、あんなひとが後をついてくる、ぐらいのことをいうところだが、今日はそうはしなかった。それどころか、目の早い供の中の誰かが気がついて、無礼なことを言い掛けたりしなければいいがと心配しだした。できるなら、どこまでもついてきてもらいたいので、供の仕打ちに腹をたて、どこかへ行ってしまったらどうしようと、それを恐れたのである。
 邸第を見あげる山下まで行き、そこから坂道をのぼりだした。振返って見なかったけれども、依然としてその人が後にいることは勘でわかった。行子はこれが最初の恋愛の経験に酔い痴れて、頭のなかに霞がかかったようになり、まわりの景色がなにも眼に入らなくなった。それにしてもすこし大胆すぎる、お心はよくわかったから、これくらいにしておいてと心の中で呟いているとき、うしろで下司どものがさつな声がきこえた。そんなことがなければいいがと案じていたが、果して荷担ぎがここからやらぬの態でそのひとの前にたちふさがり、ここなる屋形は相模の一の分限者、蘆屋道益どのの別業、またこれなるは道益どのの一ノ姫にあられる。この上には猪のいる山隈があるばかり。せっかくこの道を来られたには、屋形に御用の方とぞんずるが、お名を仰せあればお取次ぎいたす、などと弁口めかした詮議だてをしている。その人は意外な咎めを受けるものかなといった面持で、黙然と道なかに立ちつくしていたが、やがて慇懃に膝へ手をおろして、
「私はこの上の猪の出る山隈やまくまに、ささやかな領地を持っている青山大炊介という郷士ですが、四、五年、下野しもつけの足利に居り、この谷津にかような邸第の出来たことも、今日はじめて知った次第。隣保りんぽの仁義にも及ばなかったが、以後、よろしくお見知りおきねがいたい」
 軽やかに受流して、悠然と上のほうへあがって行ってしまった。
 あとを慕ってくると思っていたが、それは見当ちがいで、上の谷戸やとへ帰るひとだった。行子はむやみに興奮していたので、当外れの失望から神経の発作をおこし、三層閣の部屋へ入るなりひどい熱をだしてしまった。
 熱といってもいろいろだが、それは摩擦抵抗から生じる熱作用、といったたぐいのものだったのだろう。その夜、行子は頭の下でたえず熱い枕を廻しながら、朝までまんじりともしないという辛い夜を、生れてはじめて経験した。
 これまでにまだ一度もそういう感情に遭遇したことがなかったので、たったこれだけのことがなぜ眠りをさまたげるのか、なぜこうまで心の平安を乱すのか、なにひとつ領会できなかったが、詮じつめたところは、当外れは当外れとして、なにがなんでも、もう一度あの青年に逢いたいということなのらしい。ともかくこんな気持になってしまった以上、いまひとたびの、などと几帳の蔭の歌枕うたまくらのようなことを呟いていてもどうもなるものではない。そうならばそうのように、力一杯にやってみるだけのことだと、きっぱりとしたところへ思慮を落着けた。この日から行子は三層閣の部屋にいて、大炊介をひき寄せるための機略を練ることになるのだが、その前に戦国季世の女性とはどういうものだったか考えてみたい。
 その頃、戦場を馳駆する兵隊は、兜だけかぶって下は素ッ裸なのや、鎧はあるが太刀も兜もないようなのがすべてで、それがまた風俗でもあり生活の様式でもあった。人間の行動を規律するうるさい加減の約束はなにひとつない。弱い奴なら打ち倒せ、欲しいものはひったくれ、邪魔な相手はうち殺すという簡単明瞭な時代で、好運は、すべて冒険と僥倖だけにかかっている。四万の軍勢を擁する今川義元を、わずか三百の手兵で一夜のうちに討ち滅したのも博奕ばくちなら、滝川一益が骰子一つで長島の城をちとったのも博奕。戦国時代百年の間は、上は大将から下は荷担ぎの軍夫にいたるまで、運は天にあり、何物も進んで取るべしとばかりに、あらゆる冒険に身を挺するのである。
 戦場での乱暴狼藉はいうまでもないが、陣中の博奕もまた濶達なもので、一度に銭を五貫十貫、沙金五両十両と賭ける。敗けると、着ている鎧や太刀まで投げだすので、満足な武具をつけているものは一人もないということになる。それでいけなければ、京の誰それの土蔵を何棟、どこそこの郡を一つというぐあいに賭ける。勝てば土蔵一棟いくら、一郡いくらと計量して受取る。負ければ夜討ほそりをかけ、約束した土蔵の中のものを取ってわたす。勝てば勝ったで、一躍、有徳人うとくじん(分限者)になりあがるし、負ければ負けたで、なんとかしなければという一念から、必死の戦争をして高名手柄のチャンスを掴むのである。大将のほうもよく心得ていて、過分な金穀きんこくで忠誠の精神を買付ける。わずかの軍功に目をむくほどの褒美を投げだしてみせる。「将軍記」第十五に、秀吉が加藤清正や福島正則に度はずれの賞を出し、「わづか二百石の禄をうけしに、今、おのおの五千石を給はる。俄かに富貴に至る事、諸士、皆羨みつつ、いよいよ忠を励まん事を思へり」と、全軍が感奮する模様をしるしている。
「ケルメス・エロイーク(女だけの都)」では、城囲みに逢ってうろたえまわる亭主どもを奥へおしこめ、女房たちだけの機略で敵の大将を思うように料理してしまう。それは西班牙のナヴァールにあったことだが、日本にもそれに優るとも劣らぬ、機才に富んだ、人を人とも思わぬどっしりと肚のすわった女どもが大勢出て、それがまたこの時代の女流の特質でもあった。
 武将の夫人や正室は、夫が三年も五年も戦場を駆けまわっている間、家司けしどもを統御して一城一家を守って行かねばならず、娘たちはいつ人質にやられるか、気に染まぬ政略結婚をさせられるかわからない。いずれは自分の才覚と智慧で処理していくしかないのだから、生きる道はただこの道と、あらゆる困難を予想して、ひたすら智略を磨く。従って一乗谷じょうだにの落城に、持てるだけのものを持ちだしていいと約束させ、亭主や愛人を大手門から背負いだす朝倉の女房や、新婚匆々の夫を朝鮮征伐にとられ、それが不服で秀吉に手紙を書き、文辞のたくみだけで、事なく夫を返してもらう滝川采女うねめの妻のような女性が出来あがるのである。
 もう一つのタイプは、京都と堺、とりわけ堺自由市の富有の商人の女室にょしつで、このほうは機才にこそは乏しいが直情純真で冒険を好み、あっというような大事だいじをやってのける。耶蘇会士のルイス・フロイスは、堺三十二人衆の家族人の豪奢な生活を「日本書翰」で葡萄牙へ書き送っている。日比屋了珪は大富豪というほどのものでもなかったが、それでさえ、内儀と娘の部屋の調度は、見るものの眼を驚かさずにはおかなかったといっている。二十畳ほどの大座敷に南蛮屏風をひきまわし、壁にはゴブランの壁掛をかけ、マホガニーの卓にギャマンの大鏡と砂時計を置き、ルソンの猿とジャマイカの鸚鵡を飼い、夜は天蓋のついた純ヨーロッパ風の寝台で寝る。内儀が外出するときはベンガラの上着に琥珀か天鵞絨の裏のついた腰小袖をゆったりとまとい、娘たちは緋羅紗の小袖にカバヤという広袖を被衣かつぎにし、刺繍のあるハンカチとグランの財布を袂に忍ばせる。家にいるときはジャワの長い煙管で煙草をくゆらし、一瓶、沙金十両もする珍駄ちんだやモリチゥなどという南蛮酒を飲みちらす。娘たちは娘たちで、カステラや壺入りのコンヘイをそばに置き、ウンスン歌留多をしたり、リュートを弾いたり、長い春の日をのどかに遊び暮らしているが、内実はいずれも生活の饒多と単調さにみはて、なにか身震いのでるような強い刺戟を求めているので、わずかな難儀ですむなら、手荒な山武士にかどわかされてみたいとか、すぐ生返れるのなら、大太刀で思うさま斬られてみたいなどと思っている。
多聞院たもんいん日記」には、天文十年の秀吉の島津攻めに、堺商人の女房や娘が主人や父といっしょに面白ずくに従軍し、戦場の惨虐な光景に恍惚となるくだりが見えている。戦争とか、美とか、はげしい恋愛とか、そういう苛烈なものがなければ生甲斐を感じられない。いったん恋愛したとなると、あらゆる障害を乗越えて、ひたすら愛人のそばに身を置こうとする。相手が島流しにでもなれば、そこまで出掛けるし、牢に入れられれば、牢格子だけでも見に行かずにはおかない。一身の成行も肉親の悲嘆もおかまいなく、愛本来の論理にしたがって脇目もふらずに突進し、不朽の魂をつくりあげるといったぐあいなのである。
 行子もまた冒険好きな女流一般の例に洩れず、豊富すぎる生活のおりよどみにうんざりし、全身全霊でぶつかって行けるような境遇を求めていたのだったから、うってつけのけ口が見つかったというところだろうが、たった一度、渡し舟に乗りあわしたというだけの男に、後に見る行子ほどの骨の硬い女性が、いきなり夢中になってしまうというようなことはありそうにもない。
 大炊介の人柄は、血の荒れの見え獣物けだものじみた武辺流のなかでは、たしかに一風変った存在だったろうが、それはそれだけのもので、冷静な少女の心を魅するほどの力があったとは思えない。大炊介が持ちあわしているいろいろな特質は、そのころはまだ人知れぬ深いところで熟成しながらぐっすりと眠りこけている時期だったので、外見には、なにひとつ嘱目に価するようなものはなかったはずだからである。
 事実のところ、行子が大炊介を愛していたのかどうか、それさえ疑問なので、その当時は、妙にとりすました、いやなやつだと思っていたのかも知れない。行子の唐突な熱発ねっぱつ[#ルビの「ねっぱつ」は底本では「ねつばつ」]は、摩擦抵抗から生じる熱作用のようなものだといったが、これはほぼ真相に近いので、行子という娘は、他人から無視されたり、自由を拘束されたりすると、いちどはじきかえしてやらなければ気がすまない、強い発条ばねのようなものを持っていて、力いっぱいに反抗しているときくらい生の充実を感じることはない。事がむずかしければむずかしいほど、いっそうふるいたつという風になる。
 あんな当外れがなく、無下むげに失望を味わわされることもなく、父が三重閣のてっぺんに追いあげたり、十七にもなる娘のそばで、毎夜母が添臥せするような鬱陶しい所為をしてみせなかったら、それほどの熱をだすこともなく、上の谷戸にいる男を、無理から身近へひきよせようなどと、奇怪な大望をおこすこともなかったろう。
 行子は三階の閣室で、おなじ年ごろの高根たかねという侍女を相手に、のどかな顔で双六の骰子を振りながらいろいろと画策していた。こうまで取固とりかためたかこいのなかへひきこむにはどうすればいいのか。むずかしいようでも、そのほうはやり方次第でやれるが、難物なんぶつは、毎夜つづきの部屋に寝る母の資子である。二六時中、頭のなかが冴えかえり、およそ寝くたれるの寝呆ねほうけるのということのない眼のさといひとだから、気づかれずにぬけだすなどは、出来ない相談である。しかし、このほうも間もなく解決した。
 行子が黒谷の尼院のつぼねまがいで、似たような境遇の預姫あずかりひめと長い一日をもてあましていたころ、雑仕ぞうし比丘びく尼たちの乏しい食餌しょくじに悩み、古柯こかという葉を灰で揉んで噛んだり、護摩壇の罌粟加持けしかじにつかう罌粟の精を飲んだりして空腹をまぎらしていた。過度に厳格なりつの生活を緩和する一種の逃げ道として、むかしから行われている方法だというが、そんなものを飲んでいる間、比丘尼たちの表情に黄昏たそがれのようなものしずかな情緒がつき、人間の塵垢じんこうを離れた天人のような玲瓏たる顔つきになる。比丘尼たちに聞いてみると、眼はあいていても心は深く眠りこんでしまい、この世の苦もわずらいもみな忘れているということであった。古柯も罌粟の精もわけなく手に入るから、夜庭へまぎれだすときは、前もって母に飲ませておく。不眠で困っているのだから、いささか孝養の足しにもなるわけである。
 行子はそういう心境になっていたが、相手のほうはどうだったというと、大炊介は大炊介で、種類こそちがうが得態の知れぬ思いにかれて悩んでいたのである。
 足利学校は上杉憲実のりざねが再興したものだという。天正のはじめ、九世九華和尚が学頭になると、兵乱の間をぬけて学徒が四方から集まり、戦殃せんおうの最盛時でさえ、三千人の学徒が在学していたというが、国中が斬りつ斬られつ、血みどろな奔走をしているとき、上州の片隅に勉学に沈潜する静謐せいひつな世界が存在したとは、信じられないようなことである。
 大炊介が禅坊主まがいの儒学の勉強をしていたのは、自意だったのか父が勧めたのか書いていないが、思うに、それは小太郎の才覚なので、大炊介に小田原にいられると都合の悪いことができ、その間、当座の方便にそんなところへやったのだと思われるふしがある。青山新七という老人は訓戒を与えることしか知らぬ、腐れ儒者にありがちな朴念仁だったから、大炊介は春秋二度、聖山からこっそり逢いに来る母の香具かくの気ぜわしい愛撫のほか、人間の愛情というものを知らずに育ったが、五年前、足利学校へ追いやられる頃から、母がぷっつりと来ないようになった。足利へ父の手紙を持ってくる使者つかいのものにきくと、時疫にかかって急死したというようなことだったが、小太郎も副大将の貝津ノ藤吉も、母のことを言いだすと妙に話をそらしてしまう。とうとうくわしいことは聞けずにしまったが、その辺の事情をおすと、いずれ母に関係のあることだとも思われるのである。
 大炊介はそうして五年ぶりに入谷津の山曲へ帰着したが、もとより人などの来ることもない谷戸の奥なので、ここの谷窪、むこうの段地と、とびとびにある陸田おかだ狭田せばだもみな猪に踏み荒され、茅葺の山家は壁がぬけて蜻蛉や飛蝗ばったの棲家になり、いくらかは花を植えてあった前庭も葛や葎にとじられて、おどろおどろしいようすになっていた。大炊介という男は戦争三昧の荒々しい時流に関心がなく、といって士道実践の規範たる儒学にもさほど執心しているわけでもない。なにを志望し、なにを楽しみに生きているのか自分にもよくわからないような漠然たる年月を送ってきたが、きょう蘆屋道益の一ノ姫と松原の渡し舟に乗合わしたとき、ふと春風が吹きすぎるような、悩ましい暖気にあてられたのが患いになり、ほとほとと飛びあるく飛蝗ばったの足音を聞きながら、これもまた帰るなり出居でい敷莚しきむしろに寝ころがってしまった。
 あの笑顔が忘れられない。思わせぶりな眼配めくばせをしていたが、なにをいうつもりだったのだろうというようなことをくよくよと思い返していたわけだったろうが、先方は相模一の有徳人の一ノ姫で、こちらは自ら耕すほか食うあてのない貧郷士というのでは、問題にもなるものではない。夜討師ようちしの血脈のほうは隠しおおせることが出来ても、貧富に架ける橋はない。とうてい結ばれるはずもない縁なのだから、あてどのない恋にあくがれてこの世の憂きを増そうより、思いきりよく忘れてしまうにかぎると、翌朝早く起きだし、金鍬かなぐわを担いで谷窪へ降りて行くと、誰がやったのか田も畑も一夜のうちに綺麗に除草され、南さがりの段畑だんばたには、秋蒔あきまきの麦までおろしてあるという恠異かいいに遭遇することになった。
 こういう異変は一と月ほどのあいだ毎夜のようにつづき、追々、図に乗って、裏の納屋に米麦の袋を投げこんだり、眠っているうちに屋根の葺きかえをしたりするようになった。先年、父の小太郎が死んだのち、おおよそ千人ほど居る相模の乱破は、足柄下郡の聖山から箱根街道に沿った鷹巣山へ野館のだちを移したということで、これできっぱりと風摩と縁切りになったものと、ひとりぎめして安心していたのだったが、先方は義理固くて大将の遺孤いこを見捨てる気は夢さらない。大炊介が入谷津の荒田のそばへ帰ってきたと知ると、さっそく気をそろえて組をつくり、そこは夜目遠目のきく闇の精のような氏族うからで、のみならず、早乗りにかけては及ぶものがないという名人ばかりだから、毎夜、鷹巣から城山の尾根づたいにやってきて、月明りをたよりに畑仕事をし、夜のひきあけと同時に風のように帰って行く。こちらの迷惑も察せずに、乱破好みのやり方で、律気な合力に凝りだしたものなのであった。

 蘆屋道益は二十隻近くの手船を、毛剃けぞり九右衛門のような船頭ときもに毛の生えた上乗うわのりに差配をさせて、呂宋ルソン媽港マカオのあたりまで押し出させる一方、北条の運漕までも引受け、日に一度は川口の船屋敷へ出張して上荷あげに積荷の宰領をしていたが、夏も終って、川口に白々しらしらと秋波が立つ頃になると、船溜ふなだめにいる船頭や水子かこが、このごろ谷津の斜面なぞえにあるお邸の高楼たかどのに、一晩中、南蛮蝋燭の火がついているので、夜船の湊入みなといりの都合がよくなったと、道益の顔さえ見ればお世辞をいうようになった。
 入津の山の中段から上は、邪魔な灌木一本ない岩石まじりの斜面で、懸崖の端にどっしりと立ちあがっている三層閣の上層、四方窓の高居間から、さなきだに光力の強い南蛮蝋燭の灯がかがやきだしているところは、誰の目にも、夜船の湊入りをみちびく燈明台といったおもむきに見える。道益は大得意で機嫌よくうなずいていたが、いくらお世辞でもおなじことばかり巻きかえされると、諷刺あてこすりをいわれているようで気がさし、なんとなく面白くなくなった。
 そういうころ、会所の寄合で夜を更かし、供を一人連れて磧を通りかかると、落鰻おちうなぎを拾う下人げにんが五人ばかり、磧の岸に※(「竹かんむり/奴」、第4水準2-83-37)を仕掛けながら、
「見てみろ、また高楼に灯が入った。道益の一ノ姫は、今夜も船澗ふなまをあけて、谷戸の業平なりひらに夜舟を漕がせる気とみえる。これでもうつづけうちだが、ようまァ精の出ることだ」
 と声をそろえてはやしている。道益は手真似で供をとまらせ、川曲かわくまの闇だまりにしゃがみこんでいると、下人どもはそうとも知らず、あたり憚らぬ高声で、
「蘆屋の大人うしさかしいお人で、世渡りの道にかけては、諸事ぬかりなくやってのけるという評判だが、表の道に木戸をおき、唐門の櫓に見張りあげて守らせても、裏の水路はまるあきで、毎夜のように密貿易ぬけがいの船頭が入り込み、船澗ふなまへけしからぬ水馴竿みなれざおを振込むのを知らずにいるようでは、たいした器量人と思えない」
 というと、また一人が、
「その話では、小田原中がひっくりかえって笑っている。知らぬは道益殿ただ一人。川口の船頭衆がじれったがって、あれこれと遠廻しにほのめかすのだが、いっこうにお気がつかされぬ。わざわざあんなところに高楼をしつらえ、色めいたかぜすら嫌って、大切に囲ってござる一ノ姫が、布直衣に乞食烏帽子をかぶった貧相な青児あおこをひりだしたら、さぞや仰天するであろうと思うと、あまり気の毒で顔が見られぬ」
 とほざく。
 たいていのどんな親なら、これだけ聞かされてはおさまるはずがなく、「なにをぬかす、鰻掻きめら」と、ありあう※(「竹かんむり/奴」、第4水準2-83-37)を蹴散らしていきり立つところだが、さすがは老骨ろうこつ、そんな未熟な所為しょいはしない。いずれ残らずひっ捕えて、噂の出どころを究明してくれるつもり。川篝かわかがりの火の明りで一人一人の顔を見届け、足音を忍ばせてそっと磧から離れると、町の辻で供を帰し、一人で山邸へ上って行った。
 楼門のわきから入って、池について庭裏の森端もりはなまで進み、おおちの大樹の下闇の露もしとどなところにしゃがみこんでいると、月影も透かさぬほど密々と幹をりあった森の木の間から、夜目にもそれと知れる鈍色にびいろの小狩衣を薄手に着こなし、葡萄牙渡りの悪魔でもんの面甲をつけた男があらわれたと見るうちに、潜戸から行子が走りだしてきて、こうすれば男というものは抵抗できなくなると承知している巧者こうしゃな身振りで、相手の胸にどっと身を投げかけ、ただもう優しくありたいとねがっているように、身動きもせずに抱かれたままになっている。
 その時、邸の横から月三匁で雇っている兵隊が二人、非時ひじの見廻りに出てきたが、蒼白い月影を浴びながら行子を抱いて立っている小狩衣の姿を見ると、小腰をかがめて丁寧に礼をし、逃げるようにいま来たほうへ引返して行った。
 いったい資子はなにをしているのかと、三層上の部屋へ踏みあがって行くと、寝た間も気をたかぶらしている癇走った御料人ごりょうにんが、蒼白んだ小鼻のわきに寝脂ねあぶらを浮かせ、前後不覚に御寝ぎょしなっている。
 一家の頭目たるものには、家族一人一人の責任がかかっているわけだが、道益ほどの男になると、しでかした誤ちをいちいち叱ったりしない。誤ちが大きければ大きいほど、無感動な態度を装う。叱ったりなじったりするより、おだてあげて、悪達者に仕あげ、つまらぬ誤ちを繰返さぬように上手に揉みほぐしてしまうのである。
 道益としては、差当ってなにも言うことはない。下の座敷に褥を敷かせ、その夜は心ゆくまで熟睡し、さて翌朝になって考えたのは、頑是ないような行子が、どういう方法であんな離れ業をやり遂げたかということであった。そこはぬかりのない男だから、ときどき前触れもなく娘の部屋へ上ったりするが、いつ行ってみても、行子は贅沢な南蛮調度のなかにおっとりとおさまり、高根という侍女を相手に双六の骰子を振りながら、
「父上、四つ目の真中にチョンのあるのばかり出て、ちっとも先へ進まれません。ノ目を外した賽はないものでしょうか」
 などと甘えかかるところは、誰が見てもまったくの子供なのである。昨夜、裏庭の月明りの中で目睹した一件は、狐狸の仕業か草木の精のあやかしだったのではなかろうか。あどけない行子の顔を頭においては、なかなか現実のこととは思えないけれども、しんじつ娘だけの才覚でやり終わしたのだったら、これはもうとてものことなので、行子の頭のできぐあいを知っておくためにも、その点をきっぱりと突きとめておかなくてはならぬと思い、とりあえず御料人と[#「御料人と」は底本では「御料人の」]長男の道長が朝餉をしているところへ出かけて行った。
 道益は朝のかいにしている牛のちち金椀かなまりでやりつけながら、まず、は、は、はと思出し笑いをし、それから、昨夜、磧で聞いた鰻掻うなぎかきの下人どもの側言そばごとをおどけた口で話してきかせると、そのかみの才媛は、箸も置かぬしいんとした形で首から上だけをこちらへまわし、つくづくと道益の顔をながめてから、
「ご冗談でしょう。この私がつづきの部屋に臥っていることをお忘れですか。昨夜は、庭の池にたくさん田鶴たずが降りましたようですね。もう霜が来るでしょうか。そうそう、眠られぬまま、一首ものしました。眠らるる時しなければ蘆田鶴あしたずの、見ずの羽音を聞き明かすかも」
「蘆田鶴の……うむ、結構だね。和歌というものは、いつ聞いても心持をのびやかにしてくれるものだ。するとなんだな、お前は昨夜も眠れなかったのだとみえる。気の毒な、そう眼がさとくとも困ったものだ。もちろん冗談さ。たかが魚拾いの下司どものたわごと。そんな側言そばごとをしていたという話だ。お前の臥床を踏み越えて庭に忍びだすなんて、どうしたって出来ることではないからな」
 と去り気なく笑いおさめてしまったが、心の中では歯軋りをした。この社家しゃけくずれの女には、これでもう二度も欺された。難産でもするどころか、守札おまもりにも及ばずやすやすと二人も子供を産んでのけ、しどろもどろにあわてさせた。そのほうは宿業のうちと諦めたが、大口あいて寝くたれ、毎夜、娘が裏庭の森端まで忍びだすのも知らずにいるくせに、蘆田鶴も候もあったものではない。才走って見えるのは上っ面だけ、中味はとんだ愚図らしいと、連添ってから二十年目に、やっと女房の正体を見極めた。
 油断とは、高慢な心のゆるみをいうのであろうが、資子にしろ月三匁ずつの傭兵にしろ、高楼も築泥塀も、これなら大丈夫と頼りきっていたのがぬかりだったと嘆じていると、長男の道長は朝餉のあとの一服で、生毛うぶげもとれぬ稚顔ちがおの頬に煙草の煙をまつわらせながら、
「いまのお話ですが、長者の心、下司知らずとは、なるほどよく言ったもの。妹のやつの気位の高いのには、この日頃、私も閉口しているのですが、じつは一と月ほど前、こんなことがあったのです」
 とやにっこい口調で語りだした。
 道長という小伜の向う見ずと智慧の足らなさ加減には、これまでにもたびたび手を焼いている。こんどはどんな風癲ふうてんをやらかしたかとおどろき、
「や、また、なにをやった」
 とたずねると、道長はこんな話をした。一と月ほど前、妹が沈んだ顔で、この頃嫌な夢ばかり見るので、日暮れになるのが恐ろしい。夢というのはこんな夢である。菊燈台に南蛮蝋燭を立てならべ、灯の下で本を読んでいると、邸裏の木の間から、にび色の小狩衣に、悪魔でもんの面を出した南蛮頬をつけた男が忍びだしてきて、夜霧のようにぼーっと池の汀に立つ。すると、このわたしが三階から走りだし、ひかれるようにそのそばへ寄って行く。なにか儚く、もの悲しく、そのまま陰府よみへでもひきこまれるような気持がする。どういうわけで、こんな夢を見るようになったのかと考えてみると、これは原因がある。上の谷戸に住んでいる貧郷士が、小田原の行き帰りに、塀外の石高道を通りながら、貧にやつれ疲れ、とげとげとぎたった血の気のない頬にともしい笑いをうかべながら、じろりと閣室を見あげて行く。するとその晩かならず夢にうなされる。高慢なことをいうようだが、蘆屋の一ノ姫に生まれついたからには、美しいものだけを見て暮したいと思い、それを理想にしているのに、こんな高雅な環境に身を置きながら、朝夕、浅ましい姿を眼にしなければならないというのは情けない、といって泣く。
 では、どうすればいいのかとたずねると、あなたという人は、たいした武技も身につけていないくせに、すぐ腕をふりまわし、なにかといえば肩肱張っていきりだすという風だから、使者に立てても、満足な口上を言えるかどうか覚束ないが、頼むのはあなたしかないのだから、上の谷戸へ行って、夢のありようをくわしく話し、なることなら、石高道を通らぬように言ってもらいたい。南蛮頬の、面甲のというと、なんのことだと笑いだすかもしれない。父上の居間で、夢に見る面甲とおなじようなものを見つけたから、話の仕手してに、持って行って見せてやってくださいという。
 貧苦に憔れたざまをして、塀の外を通るさえ勘弁ならぬというのに、妹の部屋を見上げるなどは僭越至極。さっそく上の谷戸へ行き、出居の敷莚に、肱枕でひだるそうにうたた寝をしているのをひき起し、言われたとおりの口上を述べると、大炊介という貧郷士は、これは異なことをうけたまわるものかな。この一月、なにかけだるく、一度も府中へ下りたことがないから、邸のそばなどを通りようがない。なにかのおまちがいだろうとしらを切る。私も腹をたて、ないどころの話か、妹は貴様の貧相が眼について患いをひきおこし、死ぬほどに悩んでいる。貴様が妹の夢の中へかぶって出てくる南蛮頬とは、これこのようなものだと叩きつけてやると、そやつはニヤリと薄笑って、なるほどよくわかりました。そういうことであれば、かならずお言葉に従いますから、その旨しかと道益殿のご息女にお伝えください。この面甲は、お土産だと思っていただいておきますと、むさんに小狩衣の袖のなかへたくしこんだが、そのざまの鄙しげなこと、眼もあてられぬほどだった。
 道益は半眼はんがんになって聞いていたが、
「お前がその夢の話をすると、先方はニヤリと笑って、お言葉どおりにするといったのだな」
 と聞き返した。
「お齢のせいか、父上もくどくなられた。さよう、いま申したとおりです」
 道益は、思わずというふうに手で膝を打って、
「さてもさても、我が子ながら、なんという智慧けたやつであろう」
 痛しかゆしの甘辛面あまからづらで感嘆の声をあげると、道長は自分のことをほめられたのかと思い、いや、それほどでもない、と得意そうに笑った。
 見たところでは、道益は大満足の態で、資子には、かねて欲しがっていた花十字架はなくるすの螺鈿のついた葡萄牙ポルトガルの香筥をやると約束し、道長には、沙金で百両、革袋に入れたまま膝の前へ投げてやり、それで馬でも買えと言い置いて川口の船屋敷へ戻ると、気のきいた上乗うわのりを十人ほど奥の座敷へ呼びこみ、さっそく大炊介討取りの謀議にとりかかった。
 この十人は、才取面さいとりづらしてとぼけているが、もとは安房の海賊の流れで、陸にいるときは諸国の動静をさぐりまわる諜者の役をし、海外へ出れば、防備の薄い海村に焼討ちをかけ、恣ままに乱暴掠奪を働くという健気けなげなものどもであった。
 潮焼けしたのや、小鬢に矢傷のあるのや、そういう逞しい顔々が並ぶと道益は、
「久しくやらなんだが、猪狩をしようと思っての」
 と切りだした。
「みなも知っていよう。信濃の武田四郎勝頼が、穴山梅雪との契約をふいにして、娘を信豊にやったもつれから、武田と穴山が不和になり、来年の正月匆々、勝頼父子は諏訪の上原あたりへ押出す。相模、関東はいまや大乱に及ぶ形勢になっているが、北条の親子はもとより、織田方も徳川もいっこうにお気がつかされぬ。それで、この先月あとつきの船で届いたモスケッタ銃だが、火繩ほくちをあちこちさせる種ヶ島流とちがい、燧石ひうちいしを使った引落しの式になっている。当座の百梃は、いずれ武田と北条に半々くらいにおさまることになろうが、売物のことだから、いちどよく射ちためしてみたい。ついでのことに、猪狩りでもやらかしたらと思いついた。狩場はほかの場所でもない。山邸の上の谷戸にきめたが」
 すると、赤目爛れのすさまじいのが膝を進めて、
「その猪狩なら、われわれもねがうところ。目当ての猪というのは、貧乏烏帽子に、布直衣を着た痩猪でござろうが」
 道益は首をひねって、
「はてな、そんな猪が入谷津にいるとは知らなんだ。大方、道六神の化けたのでもあろうか。べつに目当てというほどのものはない。猪えらびは、お前らに任せよう。さっそく今夜とりかかるか。そうときめよう」
 と鷹揚にうなずいてみた。

 上の谷戸に住む青山大炊介と名乗る貧郷士は、風摩小太郎の遺孤だと知ったら、そうして、千人にもあまる乱破の結束が大炊介をかげの大将にし、当人の好むと好まぬにかかわらず、日毎、実誼じつぎ合力ごうりきをしていると知ったら、心の慢った蘆屋道益でも、災厄をみずから招きよせるような無謀な企てはしなかったろう。娘と貧郷士のただならぬ漆着しっちゃくを堰きわけるにしても、もっといい方法を考えだしたことだろうが、これも因縁のしからしむるところで、是非もない次第であった。
 猪狩は夜にかぎるということはないが、しかしそのときは夜狩だった。外国の浜里で自在に劫略もする、事を好む船手が十人ばかり、素ッ裸に茜染の下帯をしめ、小玉打ちの上帯に三尺八寸もある朱鞘の刀。柄だけでも一尺八寸もあって、それに細鍔をつけ、鐺は銀で八寸ばかり削ぎ継をし、おなじ拵えの二尺一寸の打太刀。髪の毛はわざと掴み乱して荒繩で鉢巻をし、黒革の脚絆を穿いて燧石銃を担いでいる。これはその後、京、堺を荒しまわった茨組の風俗になった。そういう異形いぎょうの一団が淡い月影を踏みながら、塀外の石高道を上の谷戸のほうへ踏み上って行くのを、道益は山邸の座敷の縁から見あげていたが、妻戸をたて切って褥にかえると、それなり、どうしたと思いもしなかった。
 自然界では、鳥、けだもの、虫けらの果てにいたるまで、毎日、無量の殺し合いをしているが、かつて刑罰を受けたということを聞かない。それどころか、当今、戦国の雄といわれるさむらい大将が、畜生の百倍もひどいことをして、なんのくいもなく、後生安楽な月日をゆったりと送れるというのはなぜであろう。言うまでもなく、ちっぽけな内心の声にげず、人殺しだろうと、自分のすることはみな正しいという悟りの中から無限の力をひきだすからである。力の強い偉大な人間は、善とか悪とか、良心のけじめなどに邪魔されず、おもい立った目的のために、そんなものは平気で振り落してしまうのである。
 ありふれた出生ででもあることか、非業に死すという、嫌な占兆に支配されている子供たちだから、くさめ一つにも胆を冷やし、この二十何年、仇な風にもあてぬように気をつかい、これだけがこの世の宝と、高塀の内に囲いこんでおいたのに、その大切な初花を、あるじに断りもなく手折りかかるような痴者しれものは、その罰で猪弾ししだまでもくらって命を落すのが当然の行きどころ。こうしているうちにも、上の谷戸のあたりで銃声一発ひびけば、それで事は終る。ひょっとすると、鉄砲沙汰にも及ばないかもしれない。心得た連中のことだから、貧士の一人や半分を仕留めるのに手間ひまはかけない。くびり殺すか叩き伏せるか、その場の思いつきで、手軽に片附けてしまうことだろう。
 翌朝、道益は起きぬけに府中へ下り、船澗ふなまのそばで上荷の宰領をしていたが、谷戸へやった手の者が、ひるごろになっても帰って来ないので気にしだした。といって何事があろうとも思えない。山曲につづく入谷津の谷戸は、山懐に囲まれた広くもない段地で、荒れはてた陸田おかだ狭畑せばたがあるばかりの奇もない場所である。猪狩りは名目だったが、思いたてば、なにをやりだすかしれない放埓な連中のことだから、面白ずくに巻狩りでもはじめ、二子山のあたりで遊びほうけているのでもあろうか。夜になったら帰って来るだろうと多寡をくくっていたが、その後、三日経っても消息がないので、上の谷戸でなにかしら異変があったのだと思うほかはなかった。
 四日目の夜、とりわけ夜目よめのきくやつを二人ばかり物見にやると、夜明けごろ意外な報告をもって帰って来た。入谷津の山端の木繁こしげみの間から谷底を見おろすと、そこここの段丘に蔓巻の打刀うちがたなを差し、鍬鋤を担いだ山武士態の男がむらむらに群れ、なにを運ぶのか、谷戸の斜面の古道こどうから鷹巣山の峯づたいに、何百という松明の火が点々とつづいている。薄月の光では細かい所作しょさを見届けることが出来なかったが、なににしても仔細ありげな様子だった。
「打刀を差した男めらが、段畑にむらむらと群れて……はて、それはまたどうしたことだ」
 話の仕掛が大袈裟なので、道益は、ことによったら風摩の一味かと仰天したが、間もなく思いあたることがあったので、むむとしぶり笑いをした。
「山武士態のが、小夜さよ更けの段畑で、鋤を振っていたというのだな。それでわかった」
 風摩の一族が伊豆のひじり山で晴耕雨読せいこううどくの簡素な生活をしていたのは、永禄のほんのはじめごろまでのことで、当今はそれぞれ大名小名の手について抱軍師かかえぐんしに成上り、一廉の大将面しておさまっているふうだから、夜更けの谷戸で狭畑せばたをほじくりかえすような謙虚な所業をするはずがない。
 ひとの話では、永禄十年に信長に岐阜の井ノ口城から追い落され、京の山科の地蔵堂で一塊の腐肉となって世を去った癩病やみ、斎藤竜興たつおきの業病の血を引くうからやからが美濃から相模へ流れてきて、こごしい山曲で人目を避けて農耕にいそしんでいるということだが、殊更、そんな夜更けに鍬鋤のわざに精をだすというからには、どうやらその一味らしく思われてきた。竜興の娘の妙子というのは、これもまた癩病の筋で、一時は南蛮寺の救癩院にひそんでいたが、そこにも居着かれず、香具かくと名を変えて伊豆の近くに住んでいたとも聞いている。もともとこのあたりは武蔵の斎藤の出生地で、何代かの間、斎藤実好さねよしの子孫が伊豆守を名乗っていた縁故の地なのである。それで道益がたずねてみた。「そのなかに、面甲をつけたのが、いくたりかいたはずだが」
 すると二人が、そういえばそれらしいのが七、八人いたようだとこたえた。
 南蛮ほおといっている葡萄牙渡来の鉄の面甲には、悪魔でもん、鬼、獅子、狼、鷲など、いろいろの型があり、矢弾やだま掠傷かすりきずから面部を保護するための武具だが、いつもその目的のためばかりに使われるとはかぎらない。越前の戦争のころには、竜興はもう身体の自由がきかなくなり、輿に乗って采配を振っていたが、顔の頽廃くずれを頭巾で包みかね、昼も夜も獅子の面甲をあてていたということである。夜闇よやみの庭先の忍逢いに、なんのための面甲かと理解に苦しんでいたが、癩者かたいまきというなら話は至極疏通する。
 これは徹頭徹尾誤解なので、とんだ見当違いというところだったが、道益はこの考えにはまりこんでたやすく抜け出せなくなっていた。娘の行子が進んで面甲を周旋し、兄を欺まして先方へ届けている。面甲で顔を隠して逢いに来てくれというのだったろうが、そういうところから推すと、相手の業病を承知で、なお離れがたくなっているのらしい。それほどの強い恋が、いつどこでどうして萌えだしたのか。そういう事情が明白になった以上、このままには放っておけない。猪狩を口実にするような方法では手ぬるい。この後とも、厚顔しく娘を抱きにくるようだったら、人手を借りずに射殺してしまおうと決心した。
 後でわかったことだが、谷戸へ押しあがった道益の手の者は、いうまでもなく風摩ノ衆に殺されたのである。谷津の邸第の楼門で見張りをする輩、非時の見廻りをする兵隊、川口にいる船頭のなかにも風摩の一類がいた。あまり騒ぎが大きいので、夜狩のいきさつは、その日のうちに鷹巣山につたわっていた。道益の手の者は、谷戸の口で乱破の下廻りに誘導され、谷袋の奥へ追込まれたうえ、八方から矢を射かけられ、十梃あまりのモスケッタ銃を敵方に差上げたところで、あえなく大詰おおづめ[#ルビの「おおづめ」は底本では「おおづ」]をだした。箱根の外輪山に囲まれた入谷津の谷戸は、そういう仕事を仕終すのにこの上もない土地柄だったのである。その間、道益といえども茫然と手を束ねていたのではなかった。近くは日金山から長尾峠、遠くは丹沢、籠坂峠のあたりまで人をやって手掛けをたずねさせたが、とうとう消息知れずというところに落着した。
 癩、天疱瘡てんほうそう赤狼斑せきろうはんなど天刑病者の聚落は、山間僻陬のところどころに散在したが、ほとんどすべてが人外境を形成し、他郷から入りこんだ者はかならず命を奪うことになっている。谷戸へ上った船手は、癩村の禁忌に触れたので上手に始末されたのだと観念したが、道益の心中はおだやかではなかった。道益ほどの老獪な男でも、腹をたてるときにはやはり腹をたてるので、伜や娘のあぶない加減の身の上も忘れ、おのれの手で谷戸の貧郷士を射ちとめてやりたいというひとつのねがいに凝り固まっているようにみえた。夕方、船屋敷からひきあげてくると、機嫌よく一家で団欒だんらんし、このごろ齢のせいで睡気ねむけづいて困るなどといい、匆々に自分の部屋へひきとるが、それは見せかけで、池泉に向いた寝間に入ると、日の暮れきらぬうちからモスケッタ銃を腰だめにし、庭端の森のほうを見込んでぎょろぎょろしていた。
 秋もけ、十月も半ばをすぎると、相模の山々の漆やぬるでに朱がし、月のない夜闇がひとしお色濃く感じられるようになった。
 ものの半月あまり、道益は鉄砲を据えて根気よく居坐っていたが、待ちに待った甲斐があって、夜更け近く、いつか見た貧郷士が、小狩衣に悪魔でもんの面甲をつけたなりで佶屈と森の中から出てきた。最初の一瞥では、この前とすこし身丈がちがうようであった。遠目にも猛々しい体躯で、不態ぶざまなほど肩幅が張りだし、猪首の坐りぐあいも妙である。他人の邸の庭で女と忍逢うにしては、歩きっ振りがいかにも馬鹿げている。貧郷士が忍んでくるときには、上の燈台に、というのは娘の行子の部屋のことだが、花々しいほど南蛮蝋燭の灯がともり、十里先の海の上からでも見えるくらいに輝きだすのだが、なぜか今夜にかぎってそれがないのもおかしい。そういうきれぎれの疑問が道益の念頭を擦過さっかしたが、娘の幸福を脅かす毒蟲を取って捨てたい、射ち殺してやりたい、踏みにじってやりたい一途な悪念にとりつかれていた折だったので、照尺を睨むなり、
「かったいめ、よくも娘をたばかし居ッた」と曳鉄をひいた。
 むやみな銃声がおこり、筒口から雲のように硝煙が噴きだして庭面にわもいちめんにたちこめた。道益は鉄砲を杖にして縁端に立ち、池の汀のほうを透してみると、見ン事、射ち当てたとみえ、貧郷士は汀石みぎいしの露草の間にあおのけに倒れている。
 時ならぬ銃声に驚いて、邸の内外から居るだけの家人や兵隊が集まって来、倒れている人体と道益の顔を見くらべながら口々にざわめきたつうち、資子と行子が、これも寝入端を驚かされたひょんな顔で庭先に出て来た。
「人が倒れているようですが、何事だったのですか」
 鼻稜はなすじしらませて資子がたずねたが、道益は至極上機嫌で、
「人でなどであるか、あれは狸よ。このせつ、夜な夜な池のほとりに迷いだして来るので、一発のもとに仕止めてくれた。見ていろ、いまに尻尾を出す」
 そういいながら、行子のほうへ振返った。
「小狩衣なぞを着こみ、南蛮頬までつけている。したたかこうを経た狸とみえる」
 夏頃から夜な夜なここで抱かれていた当の恋人が、知死期ちしごの苦悶を型づけながら死んでいる姿を見たら、とても耐えられるものであるまい。泣きだすか、狂乱するか、わめくかと側目そばめづかいで行子の顔を見ていたが、行子はなんの気振りも見せず、描いたような美しい口元をひきしめながらあどけなく露草のなかをながめている。
 頭もまわるらしいが、健気けなげでもある。それにしても、なんという気丈な娘だろうと道益は心のなかで舌を巻いていると、行子は道益のほうに顔をかえしながら、
「これは兄上ではありませんか。どうしてこんなことをなすったの」とたずねた。
 道益は、おッといって庭先をみまわした。なるほど、こんなときには人先きにあらわれるはずの道長の顔がみえない。鉄砲を縁に投げだし、跣足はだしで池の汀まで駆けて行ってみると、風態こそちがうが身体のつくりはまごうかたなき伜の道長であった。
「さては、このことだったのか」
 道益は道長を抱くことも忘れ、空を仰いでつぶやいた。
 二人の子供は、二人ながら非業の最期を遂げると円明が言い残したが、いかにもその一人はこんな体裁になった。非業の死とは、現在の父親が、命よりもいとしく思うその子をおのれの手にかけて殺すということなのであった。あのとき円明は、こういう成行を見ぬいていたのだが、さすがにそこまでのことは、うちあける気になれなかったのだろう。
 道益は露草のなかに坐りこみ、にわかに十も年を取ったように落ちこんで、身も世もなく悲嘆にくれていたが、行子は道長は死んだようには見えないといいだした。
「鉄砲の音におどろいて倒れたくらいのところでしょう、どこにも血のあとがみえません」
 改めてみなおすと、いかにも死んでいるのではなかった。下司どもに担がせて座敷へ移すと、間もなく息をふきかえし、照れでもするどころか、
「父上、すんでのことに仕止められるところでしたな。いくら面甲をつけているからといって、現在、血を分けた自分の伜のざまが見抜けぬとは、情けない」と大口をきいた。
 なんのつもりでこんな装束をし、小夜更けの庭先なぞへ出て来たのかとたずねると、
「あなたはご存じなかったでしょうが、妹めはとんだ猫かぶりで、評判どおり、谷戸の貧郷士を呼びこみ、抱きつくやら、しなだれるやら、さんざんな放埓をするのです。陽の照っている間は、あんなとりすました顔をしているが、乱破くずれの小伜に抱かれているときは、どんな甘ったれたことをぬかすか、聞いてやりたいと思って」などと愚にもつかぬことをいう。
 見ればみるほど腹のたつようなたわけだが、地獄を覗いて戻って来たいま、こんな馬鹿な伜でも抱きよせたいほど可愛く、うなずきながら聞いていると、道長が図に乗ってこんなことをいった。
「そんな笑いかたをなさるところをみると、私を馬鹿だと思っていられるのでしょうが、あなたが考えているようなものでもないのです。妹のためにもならないし、言えばびっくりなさるだろうから言わずにいましたが、上の谷戸で貧郷士に化けこんでいるあいつこそは、風摩小太郎の現在の忘れがたみなのです」
「お前はときどき途方もないことを言いだすが、そんなことを、いったい誰から聞いた」
「誰からというようなことではなかった。自然にわかりだしたとでもいいましょうか。だいいちが面相です。箱根の木賀ノ湯で、風摩小太郎とおなじ湯壺につかりましたが、あの郷士の顔がそれと瓜二つです。妹に頼まれて面甲を叩きつけに行ったときふとそう思い、気中きあたりがしてしようがなかったが、この間、いつぞやの嫌味を言いに行くと、出居でいの敷莚に胡坐をかいているやつがいる。誰だと思います。風摩小太郎の供をして木賀に来ていた貝津の藤吉……父上、これ以上のことがあり得ると思いますか。それで話はわかってしまった……ところで今夜のいきさつですが、妹と大炊介の交通は、なんといっても物騒でしょう。谷戸の郷士を小太郎の伜と知りつつ交情をつづけているのなら、これは放っておけますまい。こんな態で池の汀へ迷いだしたのは、その辺のところを探りだしてやろうと思ったから……まんざら馬鹿でもないでしょう」
 とひょうげた顔で笑った。
「うすゆきものがたり」の筆者は、「筒先に音あって、むかうに声なきは、から鉄砲なりしにや」と婉曲に言いまわしているが、いったい誰が鉄砲から弾丸を抜いておいたか、それくらいのことが道益にわからないわけはないから、あまり機略に富んだ娘も困ったものだと、さぞや味気ない思いをしたことだったろう。
 そのせいばかりでもあるまいが、そういう騒ぎがあった半月ほど後、筆記によれば十月の四日、蘆屋道益は小田原の事業を人知れず手仕舞いにして、金ばこと財宝を荷駄につけて京都へ転住を決行している。
 妻の資子と娘の行子は、一日前に目立たぬように手船で淀へ送った。荷駄を二隊に分け、一隊を道長に宰領させて鉄砲隊をつけ、風摩の野館から離れた安全な足柄路をやり、道益自身は半日ほど遅れて小田原を発ち、後の荷駄について箱根路を行ったが、測り知れぬ宿業の仕手にあやつられ、父子ともどもそこで絶滅することになるのである。
 伊豆相模を通って、武蔵から京へ上る道は、古くは足柄路の一筋だけだった。延暦二十一年に富士山が噴火し、焼石が押しだして通れなくなったので、箱根の近くに新道を開いたが、翌年、足柄路が恢復し、以来、足柄、箱根の二道になった。足柄路は酒匂さかわ川のほとりを関本に上り、苅野、矢倉沢を通って足柄峠を越え、鮎沢(いまの竹下)へ出る。箱根路のほうは、小田原から湯本の湯坂を上り、城山、鷹巣山の峯伝いに二子山の西麓を通り、葦河宿(元箱根)を経て三島(伊豆国府)へぬけるが、この二つの路は車返しの近くで落合い、黄瀬川について沼津宿へ下りるようになっていた。
 箱根路は険阻だが、足柄路のように大廻りをしないので普通の足で一日行程ほどの違いになり、十六夜いざよい日記の婦人達も急ぐ旅には箱根路を通ったらしくみえている。いまいったように道長のほうは半日早く、道益のほうは半日遅れて小田原を発った。道長の荷駄に追いつくつもりもなかったのだが、二道がいっしょになる車返しの丁字路で両方の隊が落ちあうことになった。
 それは真っ暗がりの闇夜であった。月の出には間があり、星の光も及ばぬぬば玉の岩坂道。松明もつけず、闇の塊のようになってうごめいていたが、二又路の岩鼻をかわしたところで、両隊がだしぬけに行きあうことになったのである。道益のほうでは、道長の荷駄は沼津あたりまで降りたものと思っていたし、道長のほうは、途中で手間どったことを忘れていたので、道益の荷駄がこんなところまでやってくるとは考えてもいなかった。
 両隊の距離は半町ほどもあったろうか。双方がなにより先に認めあったのは、星の光に映しだされた銃身のきらめきだった。道長も道益も、風摩が伊豆の聖山から箱根の鷹巣山に移り、近くに野館を構えていることを知っていたので、いつ襲われるかわからないという不安にたえず脅かされていた。双方の荷駄についていた鉄砲隊が、銃身のきらめきを見るなり、ほとんど同時に、
「来た」
と叫んだ。最初に射ちだしたのは道長のほうだった。箱根路は鷹巣山につづいている。風摩が襲うとすれば、そのほうから来るはずだったから、この措置は一応当然だったが、この一発は、その後につづく惨澹たる災厄をひきおこす運命的な発砲になった。
 道益のほうは荷駄をつけた馬を岩阻道に伏せ、それを楯にして目ざましい応戦をはじめた。モスケッタ銃の一斉射撃は、恐るべき破壊力をしめし、一挙に道長の荷駄の半数を倒した。
「やっつけろ、皆殺しにしろ、やっつけないと、やられるぞ」
 道長はそう叱※(「口+它」、第3水準1-14-88)するなり、鉄砲を持って狂気のように前へ飛びだして行った。
「射て、射て、射て」
 道益は闇のなかで耳馴れた声を聞いたと思った、はッとしてなにか叫び出そうとしたとき、真向からきた一弾に胸板を射ぬかれた。道益は不屈の精神をふるい起し、苦痛に耐えながら銃をとって射ちかえした。その弾丸は道長の眉間を貫いた。円明の遺言はこうしてまぎれもなく成就したのである。
 そういうちっぽけな悲劇に関係なく、絶望的な殲滅戦は、それからなお二十分ほどもつづいた。やがて銃声がおさまり、もとの静寂にたちかえった。月が出て山の端にあがったが、地上には、照すべき命のかけらは、はやただの一つも残っていなかった。
「うすゆきものがたり」の前編、因果物語にある部分は、ここで完結しているが、大炊介と行子の恋愛史ともいうべきものは、この物語が終ったところから新に書き起されている。
 後編では、母の資子が才女の才を発揮し、あらゆる方法で二人を堰きわける。資子は縁故をたよって、御所の曹司から摂津の芥川城へ、そこから伊勢の浅香城へというふうに転々と行子の身柄を移す。大炊介は資子の策略にかかり、蜂須賀家政の手について朝鮮征伐に追いやられる。その間、行子は二度も資子の手から逃げ、南蛮寺で全身がくずれ見るかげもなくなった大炊介の母の香具にめぐりあって看護することなどある。七年後、大炊介は朝鮮から帰って来、日本の隅々まで十年あまり行子の所在をたずねまわった末、浅香城に居るのをつきとめて逢いに行くが、そのとき行子の顔に癩の結節けっせつが出ていたので、忌わしい顔を見られるのを恥じ、大炊介の足音が下のきざはしまで近づいて来たのを聞きつつ、天主閣から投身して死ぬところで終っている。





底本:「久生十蘭全集 ※(ローマ数字2、1-13-22)」三一書房
   1970(昭和45)年1月31日第1版第1刷発行
   1992(平成4)年2月29日第1版第8刷発行
初出:「オール讀物」
   1952(昭和27)年1月号〜3月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「永禄」と「永祿」、「虫」と「蟲」の混在は、底本通りです。
※1952(昭和27)年1月号初出時の表題は「うすゆき抄」です。
※1952(昭和27)年2月号初出時の表題は「つきかげ抄 雪月花三部作の内」です。
※1952(昭和27)年3月号初出時の表題は「このはな抄」です。
※誤植を疑った箇所を、「定本 久生十蘭全集 8」国書刊行会、2010(平成22)11月24日初版第1刷発行の表記にそって、あらためました。
※誤記注記「文禄二年の[#「文禄二年の」は底本では「永祿二年の」]」は初出時は「永祿二年の」となっています。
入力:門田裕志
校正:芝裕久
2021年3月27日作成
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