ボニン島物語

久生十蘭




 天保八年十二月の末、大手前にほど近い桜田門外で、笑うに耐えた忍傷沙汰があった。盛岡二十万石、南部信濃守利済としただの御先手物頭、田中久太夫という士が、節季払いの駕籠訴訟にきた手代の無礼を怒って、摺箔の竹光で斬りつけたという一件である。
 奥州南部領は、元禄以来、たびたび凶荒に見舞われ、天明三年の大飢饉には、収穫皆無で種方たねかたもなく、三十万の領民の四分の一以上が餓死するなどということがあり、三十世備後守信恩のぶふさのときから、百五十年に及ぶ長々しい貧窮をつづけていたが、利済の代になると、貧乏も底が入って、城の上り下りに、濠端で諸商人の訴訟を受けるところにまで行きついた。
 肴屋、油屋、荒物小売、煙草屋、八百屋そのほか雑多な手代つらが、三十人ぐらいも濠端の柳の下に屯していて、殊更、駕籠擦りあう登城下城の混雑を見さだめ、信濃守の駕籠につき纒って、「商いの道が立ちかねまする、なにとぞ、お払いを」と、うるさくねだりこむのである。
 掛取りの居催促は、いまにはじまったことではなく、江戸の上邸では、毎年、四季の終りに、いつもこういうさわぎが起きる。三十三世修理太夫利視としみちのときには、芝の増上寺から借りた二千両の金の期限がきても返済できずにいたところ、増上寺の坊主どもが八十人ばかり上邸へおしかけ、登城しようとして玄関先に出てきた修理太夫の袂をとって強談したような例もあるが、途上の待伏せは、これが最初であった。
 訴訟の手代どもは、こうすれば、外聞を恥じ、代金を払うだろうというつもりがあるので、駕籠の左右について走りながら「わずか三両と二分二朱。おねがいにござりまする。なにとぞ、お払いを」と臆面のない高声でやる。お徒士、駕籠廻りはもとより、中間、杖突きのはてまで、みな無念に思うのだが、どうすることもできない。
 田中久太夫は、平山行蔵に剣を学び、実用流の奥儀を極めた藩第一の剣士であった。あるとき門弟の一人が賊を斬り、田中を招いて、日頃、お取立てにあずかった手のうちをごらんくだされと自慢顔で披露した。
 田中は見るなり不機嫌な面持ちになって、「美しく斬ろうなどと考えると、その隙に逃げられ、落度をとるようなことがある。要は、殺すことが主意なのだから、左手で髻でも掴んで急所を衝けば、かならず一刀のもとに斃すことができる。斬口の美しさを披露するような性根では、上達の見込みがないから、今日かぎり破門する」と叱責したことがあった。
 田中久太夫は徒士の御先手で駕籠脇についていたが、あまりの煩しさに、ついとり逆上のぼせ「三両、三両」と叫びながら、駕籠脇に迫ってきた才槌頭の襟首を掴むなり「おのれ」といって、ぬかるみへ取って投げた。これまでの例では、どんな悪口をいっても、南部藩士の刀を抜いたのを見たことがないので、手代どものほうは気が強い。ふて腐ったようなのが三十人ばかり、
「なんだなんだ」といいながら、寄り身になって久太夫のほうへ詰め寄ってきた。
 先頭にいるのが、赤木屋という油屋の手代で、これが音頭取らしく、
「よくも仲間を取って投げやがったな。訴訟するのが気に入らざ、斬るなと突くなと、儘にしてみやがれ、どうする」とがらにもない強がりをいって、久太夫の袴腰に手をかけた。
 久太夫は苦笑いしながら駕籠について歩いていたが、よくよく虫の居どころが悪かったのだとみえ、急に顔色を変えて刀の柄に手をかけた。
「赤木屋、おれは田中久太夫だが、見事、斬られてみるか」
 赤木屋の南部藩の田中久太夫は使い手だということは知っていたが、抜くはずがないと多寡をくくって、
「南部の稗飯食いに、人が斬れるのか。面白れえ、やってみろ」と減らず口をきいた。
 七尾駒三郎は、ぬかるみの中に立ちどまって、この始末をながめていた。久太夫の業物は、先年、糊口に窮して米一斗と替え、鞘の中には摺箔の竹光しかおさまっていないことを知っている。久太夫の籠手に生気が動くのを見るなり、
「田中、抜くなよ、物笑いになる」と後から声をかけたが、久太夫は、
「よし、斬ってやる」といいながら竹光を抜き、ひと打ちとばかりに振りかぶった。
 赤木屋の手代は、あっと叫んだが、逃げると後から斬られると思うので、逃げることもできない。
「もし、この通り、このとおり」と手をあわせながら、中腰になって久太夫のまわりを廻って歩く。後へ退くどころか、ぬかるみに足をとられ前方まえかたへのめずったりする。久太夫としては、相手が身近に来れば、刀をふりおろさぬわけにはいかないが、三十人からの手代どもが、遠巻きにしてじっと成行を注視しているので、それもできない。
 いかにもよく似せてあるが、竹光は竹光、斬ることもできなければ、斬れるわけのものでもない。赤木屋の手代が切尖の届くところへよろけてくると、それとなくうしろへ身を退すさらせて、三尺ほどの間隔を保ち、つくりつけの人形のように八双に刀をふりかぶったまま、荒い息をついている。
 赤木屋の手代のほうは、いかに貧窮したとはいえ、久太夫ほどの使い手が、竹光を差していようなどとは思わない。あぶない横這いの足許あしもと、油断のない久太夫の手許、師走のさなかに大汗になり「この通り、この通り」と手を擦りあわせ、これはもう必死の形相でジリジリと居所変いどころがえをしている。
 七尾駒三郎は同輩の危難を見捨ててはおけず、行列から外れて濠端に居残ったが、なまじっかな仲裁では、手代どもをつけあがらせることになるから、いい加減なことはできない。腰の刀はこれもよく出来た南部の竹光、義に勇んでそいつをひき抜けば、久太夫とおなじ羽目になる。駒三郎は、海彦うみびこが波をしずめのかたちで両手を前に出し、「しずまれ、しずまれ、大手が近い。すこしは場所柄をわきまえろ。しずまれというのに、しずまらぬか」と御下乗の衛士のいうようなことをいって、遠くから久太夫を宥めにかかった。
 南部利済の駕籠は、危いところで虎口をのがれ、大堰のあるお濠の角を曲って、そと桜田のほうへ急ぐ。それを追うようにして、池田丹波守の駕籠が下ってくる。松平伊予守の行列がくる。駕籠脇のお徒士は、柄袋をはねて刀の柄に手をかけ、この騒ぎを尻眼にかけながらさっさと通りぬけて行く。
 塘松とうしょうの梢に今朝降った雪が消え残り、木枯に吹きよせられた真鴨が三羽、薄氷の上で羽づくろいをしている。濠端の久太夫と赤木屋の手代は、活人画中の人物のように、ものの四半刻ばかり、そこで凝り固まっていたが、そのうちにどちらの顔にも疲労の色が濃くなり、斬るか斬らせるか、一挙に埓をあけなければ、このうえは、ひと時も保合もちあえぬようなところにまで迫ってきた。
 久太夫は貧苦で削ぎたった頬をひきつらせ、虚空を睨んでニヤリと笑い、「貧はすまじきもの」などと独語をいい、血走った眼で手代の顔を睨みつけていたが、
「下郎め、うぬがために、終生の恥辱をとったぞ」と大喝するなり、手代の真向へ、やツとばかりに竹光のを立てた。
 赤木屋の手代は、ひえツと息をひき、のけったままぬかるみにへたりこみ「斬りやがった、斬りやがった、あゝ、ひどいことをする」と頭をおさえて子供のように泣きじゃくっていたが、身に受けた傷が、蚯蚓腫れほどでもないことをさとると、俄かに立ちあがって、
「なんだ、竹箆か。うぬは、これで何度そくいいを練りやがった。刃傷の証拠にする。それをこっちへよこせ」といいながら、諸手で刀身に掴みかかった。
 これをとられると、恥の上塗り、久太夫は狼狽して、
「なにをする。これ、手を離せというのに」と入り身になって刀を庇う。とろうとする、やるまいとする。たがいにおし揉みあっているうちに、二人の手から竹光が落ちる。朴の鍔をつけた竹の刀は、大手の辻々を吹きめぐってきた一陣の旋風つむじに巻きこまれ、「あれよ」という間もなく、虚空高く舞いあがった。
 ちょうどそこへ津軽越中守の駕籠が下って来た。駕籠脇のお徒士はおどろいて空を指さし、「あれ、抜身が飛んで行く」と口々に叫び、この世にあろうとも思えぬ奇観をながめていたが、そのうちに、一人が思わず噴きだしたので堰が切れ、御先手の中間も、行列の総体が腹を抱えて笑いだした。
 久太夫の竹光は、雪もよいの低い雲の下で、旋風つむじ風道かざみちにしたがって生き物のように高く低く舞い遊んでいたが、濠を越え、吹上の御苑のあるあたりで、ふっと見えなくなってしまった。
 久太夫は腕組みをしたまま呆然と縁石の傍に佇んでいたが、涙をためた大きな眼で駒三郎のほうへ振返ると、
「おれは腹を切るが、ひだるい腹では斬りにくかろう。今生の名残りに、思うさま飲み食いしてから、心しずかにこの世にお暇をするつもりだ。深志甚左を誘って、夕刻から相伴あいをしに来てくれ、語り残したこともあるで」といった。

 上邸うちの久太夫のお長屋は、割場わりばといっていたもとの会所の跡で、板敷のところを道場にして、そこに久太夫が一人で住んでいる。
 七尾駒三郎と深志甚左衛門は、降りだした雪を踏みながら久太夫の長屋へ出掛けて行くと、久太夫は三畳だけ畳を敷いたところに切腹の場をこしらえ、貧乏徳利と竹皮包みを膝の前にひきつけて、二人の来るのを待っていた。
 座につくと、深志は「今日がお別れになるのだそうだ」と笑いながら久太夫に会釈した。「おぬしは勝手なやつだ。長年のよしみも思わず、一人だけで、楽なところへ抜けて行こうというのかい」
「おれは行くよ。おぬしらは六十、七十まで生きのびて、馬鹿なの世界で、いいだけっつっつするがよかろう。冥土の明窓あかりまどから見ていてやるぞ」
 気がついて、駒三郎がたずねた。「腹を切るというが、鰺切庖丁ひとつ見あたらぬ。なんで腹を切る気だ」
 久太夫はうなずいて、
「よく気がついてくれた。腹を切るのに、脇差のてもなるまいから、切れものはここに用意をしておいた」
 そういって、膝前ひざまえの貧乏徳利を顎でさしてみせた。
 深志は感慨を催したらしく、武者窓越しに露路の雪を見ながら、
「それで、おぬしは徳利のカケラで腹を切ろうというのかい、いかに窮してあげくでも、これはまたつまりきったことだ。南部の貧乏も、これで底が入ったというものだ」と、つぶやくようにいった。
 久太夫は、片口から五郎八茶碗やら、ありあうものに酒を注ぎわけ、
「なにも詰りはせん」とやさしい調子でやりかえした。
「南部の侍は貧乏で、腹を切る刀も持たぬが、そのかわり腹の皮はごくやわいで、瀬戸物のカケラでも切れると、いうところを見せてやるのだ。しっかりと見届けてもらいたい」
 深志がいった。
「いかにも検分をしようが、瀬戸物で腹を切るのでは、さぞや、ふんだんに血汐をふりまくことだろう。有難い役目ではないな」
 久太夫は片口の酒をグイ飲みして、
「これも因縁事のうちだと思え。正徳二年のことだった。三十二世利幹としもと公の代、大晦日の午すぎから、れいのごとくに掛取りが二十と何人押しかけてきた。元日になっても動かず、歳旦の式を挙げることができないのでみな弱り切った。おれの大曽祖父、同名、久太夫と深志の大曽祖父の恒右衛門が、それならば、腹でも切って埓をあけようかといって、割場の詰合いへ掛取りを呼びこみ、辞宜にも及ばず、下座しもざに並んで腹を切って見せた。それで掛取りは退散した。なりとかたちはちがうが月も十二月も末、相手もおなじく商家の手代面……南部の血筋は、大概、商家に責め殺されるときまったが、こんなことを、何度繰返せばいいのか、それがおかしくてならぬ」
「商人といえば利視公の代にも、そんなことがあったそうな」と駒三郎が後をひきとった。
「ご帰国に先立って、旅の仕度を商家へ注文されたが、金をやらぬので代物しろものをよこさない。お別れにきた客が、朝から上邸に詰めかけていたが、昼すぎになってもお発ちになるようすがない。呆気にとられて、挨拶をして、みな帰った。おれの曽祖父ひこじいが八方走りまわり、半蔵門の八戸の上邸から二百両ほど借りだしたが、それでは足らぬ。つい先の月、お輿入れになったばかりの奥方の化粧料のうちから、五十両ばかり拝借し、それで、ようやくご出立にということになった」
 田中久太夫は御先手物頭、武芸指南役で九石二人扶持、七尾駒三郎は中間小頭で六石五斗二人扶持、深志甚左衛門は物産奉行の調方しらべかたで三石二人扶持、江戸勤番では軽輩の扱いだが、いずれも大曽祖父以来、五代にわたる譜代の臣で、本国では会所の御用の間に勤め、御家老附寄合組に入っている。先祖代々、南部領の飢饉の貧困の中に生きつづけたせいで、話といえば、つい貧窮問答に落ちてしまうのである。
「これも利幹公の代だが、こんなこともあった」と久太夫がつづけた。
「江戸参覲の折、野州やしゅう阿久津あくつの鬼怒川が出水して川止めになり、宇都宮へ戻って、四日あまり滞在なさったが、旅費を使い果され、川は開いたが、渡りもならない。福島に使いをやって島田という商人から金を借り、それで、やっと安堵なすったが、その金というのは、わずか二十五両ということであった」
 駒三郎がいった。
「利視公の代だった。御用金、御繰合金、分限金と、さまざまな名目でお取りあげになったすえ、領内の農民から、寸志として一人一ヵ月二十文ずつ上納させたことがあった。それから、一坪につき二文の割合で坪役銭つぼやくぜにというのをとりこんだ。そのお蔭で、おれの大祖父は城下の商人に憎まれ、天明三年の大飢饉のとき、米を集める道をふさがれ、進退窮して森で縊れて死んだ」
 久太夫はうなずきながらいった。
「おぬしの大祖父のことを忘れていた。死にざまもいろいろだが、頭取ともあろう方が、縊れて死ぬは、よくよくのことであったのだろう」
 天明二年の冬は、前後を通じて夏のように暖かかった。十一月に少々凍ったが、これもかんに入ると解け、ちょうど、三、四月頃の気候であった。
 翌、癸卯三年の正月になると、いくらか寒さが加わったが、間もなくそれもゆるみ、北国にありながら、三月の末ごろまで寒さを知らずにすごした。
 四月に入り、麦の実入り時になると、毎日、北風ばかり吹き、極寒のように氷雨ひさめが降りつづいた。四月から八月末まで百五十日のうち、雨の降らない日はわずかに二十日、それも薄曇りか霧雨で、晴天というものはただの一日もなかったので、総体に麦は熟さず、刈取りを遅らせたが、ほとんど実成りはなかった。
 気候の不順は夏になっても立直らず、七月すぎに藤、山吹などが返り吹き、山々は春よりもさかんな花のながめになった。十月下旬まで蝉が鳴きやまず、十一月に筍が出そめ、九輪草、唐葵などは、四度も五度も花をつけた。
 稲は七月のすえになっても穂が出ない。たまさかの穂は、葉のうちに隠れて花もかからず、それさえ百分の一というのに、大豆、稗、粟、蕎麦のたぐいは、八月十三日の大霜に逢い、一夜のうちに全滅してしまった。
 南部領、盛岡の城下から東南、南部米の米所で作毛三分二厘五毛、西の方、山つづきの場所は青立あおだちも見られず、七戸以北、北郡一帯は稗、粟もない。本高二十万石にたいして不熟損毛の合計が十九万六千石。この三、四年、半作にもならぬ凶歳がつづいた揚句、麦作、秋作、雑穀の果てまで、収穫皆無ということになったので、古今未曽有の大飢饉になった。
 米価は一駄十六貫五百文、米一升は搗粟一升とおなじ値段で二百五十文。食うに足るものはなにによらず、恐ろしいような値がつき、米糠こめぬか麦糠ふすますら百文と、はねあがった。
 米糠や麦糠を湿しめして蒸す。米麦の砕けがまじっているので、熱いうちに搗けば餅になるのである。それも手に入らなくなると、あざみ、大蓼、笹の実を食い、野山へ分け入って、蕨、野老ところ、葛などを掘りまわる。何万とも知れぬ人間が山の地膚も見えぬほどに取りつくので、たいていの山も瞬く間に掘りつくしてしまう。峰にのぼり谷へ降り、いく山もいく山もやる。蕨根をさがして、五十里もある一ノ関まで行ったというのもあった。
 夏もまだ終らぬうちに、盛岡の城下では、藁しべを食い、豆殻を食い、松の木の皮を剥いで粉にして食うところにまで追いつめられ、もとは相当の家の人達が、乞食や非人の体になって、あてもなく市中を徘徊するようになった。顔色は土気色で、手足は枯木のよう。頬骨がとびだし、口もとの尖ったのが赤裸に菰を纒っているのは、山田の案山子かかしといった体裁で、これが生きた人間のすがただとは、どうしても思えなかった。
 九月の末から、非人乞食が牛馬を打殺して売るようになった。捨牛捨馬はもとより、牛馬を屠殺することは、南部藩では制札第一の法度になっていたが、牛馬を養いかね、飢え疲れたのを野山に捨てることが流行った。非人や乞食はそれを引取って皮を剥ぎ、オットセイでも売るように目方にかけ、鹿の肉だといって売る。
 牛馬の種が尽きると、犬猫に及び、はては鼠や鼬まで食うようになった。非人どもは、犬一匹五百文、鼠百文の割で売り、買ったほうは、その場で打殺して、塩もつけずに貪り食うのだった。
 盛岡から北、三戸郡や北郡では、九月ごろから人肉を食った。はじめのうちは、行倒れの肉を切取るくらいのことだったが、飢えて死んだ人間の肉は、枯渇して味が悪いというので、生きているのを殺して食うようになった。老人の肉は評判が悪く、女の子供の肉は柔らかで味がいいなどと無慚な評定をし、野山どころか、家の中にまで入りこんで女子供をさらい、山曲やまたわ川隈かわくまの人目につかぬところに竈をこしらえ、十人くらいも車座になって、恣に食らい競うという風であった。
 北郡の洞内村に腹黒い父親があった。ある日、隣家に行っていうことには、うちの伜も間もなく死ぬが、どうせ死ぬものだから、無駄にはしたくない。息のあるうちに殺したく思うが、伜だと思うと、さすがにそうもいたしかねる。おぬしが打殺してくれれば、礼に肉を半分やるがと、誠しやかにもちかけた。
 隣家の男は肉が欲しいところだったので、諒承して、鉈のひと打ちでその子を殺した。父親は傍に立って見ていたが、おのれ、おれの伜をどうすると叫ぶなり、杵をふるってしたたかに男の頭を打った。父親は、計画にかけて一時に二人の肉を得たので大いに恐悦し、近所へ隣家の男がうちの伜を殺したので仇を討ったなどと触れまわり、料理して、塩に漬け、それで一と月ばかり凌いだ。近所では事情を知っていたが、みな飢え疲れ、親子兄弟でも、たがいに打殺して食う時節なので、咎めるものもなかったということである。
 駒三郎の大祖父は、勘定所の頭取をつとめていた。十一月のはじめ、盛岡、寺小路東禅寺と報恩寺に救い小屋を建てて窮民の収容にかかったが、かねがね上納金の取立てをきびしくしていたので、問屋筋の受けが悪く、救い米に宛てるはずのものを出してくれない。二万人ほど窮民を集めたが、重湯を啜らせる方策もたたない。
 難民は救い小屋から四方へあふれだし、五十人、七十人と徒党を組んで町家に押しこみ、穀物はいうに及ばず、家財道具まで奪いとったうえで、家を焼いて立退く、といった体の乱暴を働くようになった。お救い米を宛てにして、大勢の難民が子供を連れ在方から出てきたが、お救い小屋が廃止になったので、子供に食わせる道がなく、生きたままかますや俵に入れて川に流した。
 城下の町民のうちに、餓死を恐れて自殺するものが多くなった。潔いものもあり、未練なものもあり、死態しにざまはいろいろだが、名を惜しむものは、一人で森の中へ入って縊れ、あるいは石を抱いて渕川に身を投げて死んだ。駒三郎の大祖父は、お救い小屋の不成就を恥じ、町民に姿をやつして森に入り、庶民とおなじようにして縊れて死んだのである。
 三人はしめやかに酒をくみかわし、それぞれもの思いに沈みこんでいたが、やがて久太夫は片口の酒の滴を払うと、いわくありげに二人の顔を見た。
「大曽祖父の死にかたも、生仲なものではないが、おれ、七尾、深志の三人の父の不幸にまさるものはないだろう。おぬしらは、父達が南部の産物を長崎へ持って行って商法の手違いをやらかし、その申訳に腹を切って死んだと聞かされていたのだろうが、それは表面のことで、内実には、こんな事情があったのだ。幕府の密事みつじなどに聞かれたら、大事になるから、めったに口外せぬつもりでいたが、今日でおれの命も終りになるから、腹を切るまえに、うちあけておく。話はあとでするが、まず、先にこれを読んでくれい」
 そういうと、地袋の手箱から「極内不可認」という朱判の据わった、官庫の秘冊をとりだして二人の前に置いた。
 駒三郎が手にとって読んだ。こんなことが書いてあった。

八丈島之南三百里程の処に有之候無人島之大体
 文禄二年、信濃深志城主彦七郎の子、小笠原貞頼さだより、家康の命を受け、伊豆下田より出船、八丈島の南、三百里の処にて無人の島嶼に行き当り、木標、二カ所に建、「日本国天照皇太神宮宮地、島長源家康公幕下小笠原四位小将民部大輔源貞頼朝臣」とあり
 爾来、毎年、同島に赴き、大いに利するところあり
 延宝二年、島谷市右衛門ら、無人の島嶼を巡検し、天照皇太神ほか二神を勧請し、「日本内」の木標をたつ
 享保十二年春、豊前小倉城主小笠原右近将監殿、日本より東南にあたり、無人島あり、五穀自ら実り、林木りんぼく、花多しと申すなり、実否を糺し申さばやと公儀へ御届けあり、すなはち御免を蒙り、伊勢の国にて大船をつくり、武具、馬具、兵糧等おびただしく積み入れ、小笠原式部と言ふ文武兼備の侍を主将として、都合、百五十人ばかり東南の沖へ乗出しけるが、首尾よく彼の島へ着岸せしや、又海中にて破船せしや、便り無かりしとなり
 其頃、同国の漁師ども、難風に逢ひて南海の絶島に吹きつけられしが、その島には、人一人も住まはず、五穀、満ち足り、平生、無人のところゆゑ、何によらず出来甚だよく、大勢にて久しくその島に逗留せしも、食物に差支へざりしとか。その後、五年目の春、順風に吹送られて故郷に戻りけるが、その島にて取りし、大きさ一斗も入るべき蛇の貝を持帰りける、
 然るに、其村の百姓ども、家財道具を片附、一軒残らず一夜のうちに何処ともなく引越しけり。
 漁師どものうち、其村出生の者、先達せんだつて、村に立帰りし時、彼の島といふは、五穀豊饒、魚貝鳥獣多く、日本のやうに不自由することあらじ、一村のこらず引越すならば、主人、地頭と言ふも居らぬゆえ、頭を抑へられる事なし、安楽世界とは、彼の島の事ならんなどと言ひしよしなるが、一村を挙げて欠落したるところより推せば、漁師どもの話に釣られ、その島に行きしものならんと「風聞雉子声」に見えたり、

田中市太夫、深志甚十郎、七尾仁兵衛上書
 一、依御下命、文政丙戌九年十月二日、閉伊郡釜石、藤代長右衛門船にて北郡大湊を開帆、同十五日朝、八丈島、同十八日青ヶ島、鳥島を見過し、同月廿二日、八丈島の南三百里の処にて御申聞せ候無人島に行当り申候
 一、島之模様、十七八里程廻りの島一ツ
 一、十二三里程廻りの島一ツ
 一、廻り一里、二里、三里程づつの島十五程御座候
 一、猶、右之島々より南三十里ほどの処に、廻り十七八里、廻り十四五里の島四ツ
 一、十七八里程の島の高さ、伊豆大島の山より稍々高き程、みなとに可成所一ヶ所、西南に向ひ、広さ三町程、船二三十艘も繋ぎ可申、深さ干潮にて二尋、満潮にて四尋斗
 一、右十七八里程之島、田地に成可二町四方程の平地一ヶ所、切畑に成可一町四方程の平地、四五ヶ所も有之、人居申様子見えず、住荒したる体も御座無、天然無人の島と相見え申候
 一、右之島、山の谷々より水の流れ沢山に御座候、川の広サ二三間程、小石多く、浅き川に御座候
 一、端舟にて廻り見申候処、十四五、十二三里までの島々には、いづれも湊一二ヶ所づつ、水の流も有事、一町四方より四五反まで平地、一二ヶ所づつ
 一、二三里廻りの小島十四五斗、共に平地御座無、船繋に可成申候処相見へ不申
 一、以上之島、何れも無人島にて、大木生茂り、魚色々見申候、獣之類は御座無候か見合不申候
 右之島々に在之木之分
 一、蘇鉄 一、しゆろ 一、かしはの木
 一、みさぎ 一、桑の木 一、むくろじ
 一、朴 一、蛇紋木
 一、いづれも二抱三抱程の大木にて、棕櫚も林程多く御座候、磯とべらに幹廻り高さ十三尋程、茗荷の葉の様なる大木、その他、椰子、檳榔の木の様成ルも相見え申候
 一、右之島にて、鳥は鶯、岩つぐみ、山鳩、五位鷺の形なる柿色の鳥、鴎に似て魚をとりとり
 一、魚は黒鯛、鯔、鮫、三尺斗の海老、三尺程も有ル章魚、亀は畳一畳程も有之青海亀、※(「王+毒」の「毋」に代えて「母」、第3水準1-88-16)たいまい、獲立も不成程、磯海苔の間、八尋より十尋程の海中に珊瑚沢山に有之、二月三月の内は鯨夥しく通行致候
 右之島にて[#「 右之島にて」は底本では「右之島にて」]取立申候物産
 一、赤珊瑚 ボケと申し、枝々スキ透ル、稀品の由、根本径二寸、枝ノヒロガリ三尺余、重サ三貫目以上のもの一ツ、
 一、白珊瑚、桃珊瑚、一貫目ほどのもの四ツ、外に枝珊瑚、珊瑚屑、十貫程有之
 一、※(「王+毒」の「毋」に代えて「母」、第3水準1-88-16)たいまい 背甲五百六十七枚、縁板千七十二枚、尤モ島ニテハ焼継、寄継不叶、背甲のまま
 一、古柯の葉 薬草として稀品也、十貫目以上
 一、蛇紋木 径六寸、丈十二尺のもの十本
 右物産天草島にて唐船に売渡申候仕訳
 一、珊瑚 総体ニテ二万五千百二十両
 一、※(「王+毒」の「毋」に代えて「母」、第3水準1-88-16)たいまい 総体ニテ一万二千百両
 一、古柯 三千七百両
 一、檳榔 三百四十両
 一、船は於長崎売払、陸地罷帰り申候 以上
文政己卯二年十二月
 上書あげがきを読み終るのを待って、久太夫が深志にいった。
「七尾はともかく、おぬしは産物の諸分しょわけに通じているはずだから、おおよその察しはついたろう」
 深志は暗い眼つきで、なにか考えていたが、「大方は知れた。船主舟子とも、おおよそ十人もの命を奪ったうえは、腹くらい切らねば相済まぬところだ」と投げだすようにいった。
「どうして、それがわかった」
「長崎で船を売ったと書いてあるが、船主舟子には一言も触れていない。渡外禁止は重い掟。外国との商貨の交易は長崎の貨物取衆かもつとりしゅう十人以外には法度だ。そこまで大事をやってのけたら、船主も舟子も、生かしてはおけまい」
「なるほど、よく見た……長い道中の間で、どうにか始末をつけたのだったろう。すんだことだから、それはそれでいいが、公家では、またぞろ、そのでんを蒸しかえそうとしている。おぬしらは、この二月に州崎の浜へ流れついた漂民の話を聞いたろう」
 駒三郎がいった。
「無人の島で四年ばかり暮らし、この春、のぼかぜに吹き送られて、事なく江戸に帰りついたという、大湊の舟子どものことだろう。鉄砲洲の上邸の揚屋におしこめてあるという話は聞いた」
「一人は、昨夜、揚屋の組格子に細紐をひっかけて縊れて死んだ。あとの三人は明後日、国送りになる。おれが介添になって行くことになっている」
「そういうことなら、腹など切ってはいられまい」と深志が笑った。久太夫は首を振って、
「言わねばわかるまい、介添はいいのだが、家老の毛馬内が脇差を買えといって三両くれた。つまりは、送り人を途中で斬ってしまえということなのだ」
「おぬしの早合点ではないのか」と駒三郎が揶揄するようにいった。
「早合点どころか、そうなるべき訳があるのだ。漂民の一人は大湊の船持ちで、思慮のある男だから、深く慎んで、滅多なことは言いださぬが、お上のほうでは、舟子どもが漂着したという島は、先年、物貨を取蒐めたその島だということを見ぬいている。のみならず、父達が島へ残してきた漁師ばらといっしょになっていたらしい形跡もある」
 深志が「うむ」と呻いた。駒三郎は癇走った顔になって、叫ぶようにいった。
「おぬしは、毛馬内に金を返して、腹を切ってしまえばそれですむのだろうが、おぬしが辞退すれば、ほかの人間が行って斬る。そのほうはどうする」
 久太夫は駒三郎の顔を見返し、
「どうするといって、おれに、なにができる。われら一族のごうの深さには、おれもほとほと驚きいっている。そのせいで、生きていることも面白くなくなった。貧乏とのやりあいも、もうこの辺でやめにしたい。言いたいこともあるだろうが、笑って、腹を切らしてくれい」
 深志がうなずいた。
「おれはなにも言わぬよ。それぞれの存念によることだ。したいようにするがよかろう」
「ありがたい。話も酒も尽きたそうな。では、そろそろ、やるか」
 久太夫は貧乏徳利をとって床に打ちつけた。いいほどのカケラを拾いだすと、それを手に持って行灯のそばへ行き、つくづくという風にながめていた。

 田中久太夫がいわれもなく自裁したあと、久太夫の役が、七尾駒三郎と深志にまわってきた。江戸の家老の毛馬内典膳は、二人を御用の間へ呼んで「如才もあるまいが、然るべく」といった。
 江戸を発ったのが、天保九年の四月三日。本土の果てなる大湊までは、途中を急いで十五日の旅である。杉戸、小金井、喜連川と泊りをかさね、四月十六日の午後、北郡の七戸に着いた。
 七戸から北は、砂丘まじりの地表が茫漠とひろがり、屋根に石を載せた暗ぼったい家が、二里に三軒、三里に二軒というぐあいにバラ撒かれ、そのむこうに錆色の荒くれた海が見える。いかにも、もの佗びた風景であった。
 天保四年から七年までつづいた大飢饉のあとがまだ片付かず、いたるところに白枯れた髑髏がころがっている。この辺の領民は、ほとんど死に絶えてしまったものとみえ、宿を出ると、夕方、つぎの宿に着くまで人間のすがたを見ることができない。砂丘のむこうに三十戸ばかりの村が見える。小休みをしようと思って行ってみると、人の住んでいる家は一軒もない。村端れの茅葺の屋根の下をのぞくと、壁は崩れ障子は破れ、おどろに荒れた出居でいの土間に、親子か夫婦か、手足の骨まで揃った骸骨が、より添うようなかたちで抱きあっているのは、すさまじいかぎりのながめであった。
 十七日の昼すぎ、野辺地という町に着いた。ここで奥州街道に別れ、津軽の海に突きだした半島の岸について行く。大湊はここからちょうど二日の行程になる。
 野辺地の町を出はずれると、左手に寒々と光る陸奥浦の海が見えてきた。二人のすこし前を清兵衛と庄吉が老人くさく背中を丸め、海風に吹きまくられながら、踊るような足どりで歩いている。
 清兵衛は大湊の船持ちで四十五歳、庄吉は田名部の名子なこ百姓で五十歳である。どちらもくちの重い、地味じみな風体で、言葉にこそは出さないが、踊るような足どりにも、ほどなく生れ故郷の土を踏む、やるせないほどのよろこびが感じられる。
 深志と駒三郎は心の奥に邪慳な企図をひそめている。その気になれば、この二人は寸刻のうちに命を失うのだが、なにも知らずに勇んで歩いていると思うと、いじらしくてならない。
 いうにいえぬ想いに胸をしめつけられ、駒三郎は、われとなく、前を行く二人に声をかけた。
「清兵衛さん、庄吉さん」
 二人は歩みをとめてこちらへ振返ると、
「はい」と答えるなり駆け寄ってきて、神妙なようすで道の上に膝をついた。
「ご用でございますか」
 国元へ届ける漂民に、差送りの役人がつくのは古くからの慣例だが、実誼な老人たちは、お上に無用の費いと煩いをかけているのだと思いこみ、すこしでも手数をはぶこうとさまざまに心を砕いているふうである。宿々しゅくじゅくの泊りでは、できるだけ少なく食い、小さくなって眠り、呼べば、かならずひと声で飛んできて、まめまめしい挨拶をする。
さきの見えた旅だ。そう急ぐにもあたらない。海の見えるところでひと休みしようじゃないか」
 清兵衛と庄吉は、慇懃にうなずくと、枯草の折畳まった場所をえらんで、駒三郎の座をつくった。深志が追いついてきて、駒三郎の傍に坐った。なにかいいたいことがあるらしく、海を見ながら煙草の煙を吹いていたが、二人のほうへ振返って「明後日の夕方には、故郷の土を踏める。さぞ、うれしいこったろうな」といった。
 清兵衛は、いつになく顔を笑み崩しながら、楽しそうにうなずいてみせた。
「庄吉、お前はどうだ」
 返事がなかった。
「どうした。萎れているようだが、お前はうれしくないのか」
 庄吉は膝に手を置いて畏っていたが、だしぬけに怪鳥の鳴くような声で、
「うんにゃ」と一声、絶叫、この世に、こんなつまらぬ土地柄はない。こんなところを故郷だなどと思ってはいない。従って、うれしくも面白くもないという意味のことを、わかりにくい浦方うらかたの方言でつけくわえた。
 清兵衛は狼狽して「庄吉さん、庄吉さん、お役人衆の前で、そんな憎まれ口を利くものではない。耳が痛む。やめてくれ」と宥めにかかると、庄吉は薄笑いをしながら、
「なんだ、清兵衛」と人を馬鹿にしたような調子でいいかえした。
 日頃、猫のようにおとなしい庄吉が、こんな不貞腐ったようすをしようとは、思ってもいなかったので、駒三郎は呆気にとられて庄吉の顔をながめていたが、この男は名子なこという農奴のうどにも劣るひどい生活をつづけているうちに、碌な口ひとつきけないようになり、たまさかものを言うと、つい羽目をはずしてしまうのだろうと思った。
 もともと南部の領民には文盲が多く、南部の盲暦めくらこよみといって、四季のめぐりを見る、大切な暦までが絵解えときになっている。満足に子供の名ひとつつけられず、正月生れた女の子はショガ、二月に生れたのはニガ、三月に生れたのはサガですましておくという始末である。
 名子というのは、地頭や地主から家と畑と農具を借り、その家の持物になって、死ぬまで奴隷のように働かされる貧農のことで、生涯、米を食わず、名子のそっちらひえといって、飯時になると、井戸や川の近くへ行って、稗だけのボロボロ飯を冷水で飲みくだすという話を、駒三郎もいつか聞いたことがあった。
 駒三郎は、それで諒承したが、深志はおさまらず、
「おい、庄吉、故郷に近くなったせいか、急に大風おおふうになったな。えいこら、もちっと、神妙にせい。清兵衛が気を揉んでいるのが、お前にはわからないのか」と頭ごなしに叱りつけた。
 庄吉は膝に手を置いて首を垂れていたが、顔をあげて薄濁うすにごった白眼をひきくと、
「さア殺せ」といいながら、あおのけにひっくりかえって、足をジタバタさせた。
 清兵衛は二人の前へ這いだしてきて、枯草の上に手を突き、
「これには、仔細のあることで」
と、こんな話をした。
 いま、お二人さまが坐っていられるのは、天明大飢饉のときの千人塚で、庄吉の父母の骨も、そこに埋っているはずである。また、野辺地の町でごらんになった二組の骸骨は、庄吉が夢に見るほど逢いたがっていた弟夫婦の成れの果てのすがただったので、たまさか故郷へ帰るなり、天明と天保の飢饉のあとを見て無常を感じ、急にとりとめなくなったと思う。郷里の土を踏むことが、うれしからぬわけはなく、乱心の言わせる言葉なのだから、お気にさえられぬようにと、丁寧な挨拶をしていると、庄吉は流れ雲を眼で追いながら、
「嘘つけ、清兵衛」と合ノ手を入れた。
 深志は清兵衛に笑顔をむけながら、
「わしには、意地を張っているとしか見えぬが、乱心なら乱心でもいい。それはそれとして、湊屋清兵衛といえば、江戸にまで聞えている名だが、大旦那のお前が、名子百姓の庄吉を庄吉さんと呼び、名子百姓の庄吉が、大旦那のお前を清兵衛と呼び捨てにするのは、納得がいかぬ」
 そういうと、清兵衛は吐胸をつかれたように、はッと顔を伏せた。
「なにか訳があるのかい」
 清兵衛は小さな声で、「これは島の慣例しきたりなのでございます」とこたえた。
「島というのは、お前らが住みついていたという無人島のことなのか、宿々の泊りでは、話を聞く暇もなかったが、ちょうどいい折だから、すこし島の話でもして聞かせろ」
 そういうと、駒三郎のほうへちょっと振返って、
「ここにいる七尾もそうだが、いつか一度行って見たいと思っている島がある。お前らの居た無人島がわれわれの存寄ぞんじよりの島だとはかぎらぬが、大体、おなじような見当になっているから、無人島の風物のありようだけでも、ざっと聞かしてもらいたい」
「それはもう、お安い御用で」といって、清兵衛が島のようすをくわしく話した。
 それは八丈島の東東南、三百里のところにある、大小十三ほどの島で、ペール島という島に住んでいるイギリス人は、ボニン諸島と呼んでいるということだった。
 清兵衛の話を取り集めると、その島の高いところには土当帰うどのき赤鉄あかてつ、タコの木という種類の巨木が亭々と聳え、谷間には木性羊歯、ヘゴが繁りあい、海岸には椰子、檳榔びろうなどの長木が、扇のように緑の葉をひろげている。
 近海には、鮪、サワラ、鯨が居り、青海亀や※(「王+毒」の「毋」に代えて「母」、第3水準1-88-16)瑁が砂原へ上がってきて卵を産みつける。ペール島のイギリス人やイスパニア人は、土人を妻にして、牛、山羊、鶏などを飼い、山の芋をつくり、珊瑚を採り、甘蔗から絞ったラムという強い酒を飲み、天産てんさんに満ち足りて、太古の民のような悠々たる歳月を送っているふうである。
 父達の上書あげがきを見てから、駒三郎にとって、八丈島の南にあるという無人島が、忘れられぬものになっているせいか、清兵衛の話を聞いていると、島のようすが彷彿と眼蓋の裏に浮んでくる。海岸の白い砂の上で椰子が葉冠をひらいて、斜めに海のほうへ傾いている。羊歯の繁みの中で羊が鳴いている。眼をつぶると、※(「王+毒」の「毋」に代えて「母」、第3水準1-88-16)瑁の甲を剥ぐひと、波の間に沈んで珊瑚を採るひとのすがたが見えるような気がする。
 駒三郎の聞きたいのは、父達が島へ残してきたという漁師どものこと、清兵衛や庄吉がその島でどんな暮しをしていたかということなのだが、イギリス人の話ばかりで、いっこうに自分らのことには触れない。話を外らしているようなところもある。それで、駒三郎がたずねてみた。
「清兵衛さん、すると、ずっとその島のイギリス人どもといっしょにいたわけなのかい」
 清兵衛は、なぜか急に狼狽して、「異人といっしょに居りましたのは、ほんのひと時で、間もなく、私らだけで、ほかの島に移りました」
 清兵衛らの移ったのは、ペール島の北にある、周り十里ほどの島で地味が肥え、黒土が六尺もあって、なにによらず、蒔いてものの成らぬということはない。林を開いて切替畑もつくったが、そこも物成りの早いところで、果実の種を捨てると、いきなり木になってしまうので、うっかり種も捨てられず、かえって迷惑した、などと語った。
 深志は笑って、
「それはまた、大した島だ。このあたりの痩せ枯れた地味にくらべると、まるで夢のような話ではないか。そんな安楽世界に住みながら、やはり日本が恋しくなったのか」
 清兵衛は慇懃にうなずくと、真北のほうを指して、「ちょうど霧隠れになっておりますが、あれは恐山おそれさんといって、北郡のしるしになる山でございます。あれをひと目見たいばかりに」
 庄吉が、また大きな声をだした。
「嘘つけ、清兵衛」
 深志は眉の間に皺をよせて、
「こら、話の邪魔をするな。お前は向うの水沢のそばへでも行っていろ。話がすんだら呼んでやる」
 庄吉は急におとなしくなって、言われたように斑雪まだらゆきの残った水沢のほうへ行くと、こちらに背を見せて枯蘆の間に坐った。
 思いついて、駒三郎がいった。
「清兵衛さん、なにか、われわれに隠していることがあるね。聞いた話だが、お前の仲間のものが揚屋の格子に細紐をひっかけて、首を縊って死んだそうな。それほど帰りたい御国おくにに帰ってきたというのに、なんのために縊れたりするのか。庄吉の言葉を例にひくのではないが、御国へ帰りたかったというのは、嘘のような気がする」
「どうしてまた、さようなことを」
「咎めているのではない。正直なことを聞きたいのだ。それについて考えるのに、江戸廻船に乗組んで、銚子沖で難風に逢ったというが、それもどうやら真実らしくない。清兵衛さん、それは難船したのではなく、最初から無人島へ行くつもりで、船を仕立てたのではなかったのかい」
 清兵衛は、そんなことがあろうはずはなく、考えられもしないことだとこたえた。
 深志が後をつづけた。
「いま七尾がいったが、いかにも納得のいかぬふしがある。さまざまな穀種こくだねを蒔いて、大仰な収穫をしたといったが、その穀種も、江戸へ運ぶ分だったのか。そうだろうな」
 清兵衛は背筋を立てると、底の入った眼つきでじっと深志の顔を見かえした。
 深志は手を拍って、
「そうしているところを見ると、なるほど立派な顔だ。船持ちだけの貫禄がちゃんと具わっている」
「お戯れで、恐れいります」
「大湊の湊屋は、南部藩の上納金でひき潰されたという噂も聞いている……清兵衛さん、覚悟の上の渡外だったのだろうな」
 駒三郎がいった。
「そちらが、さっぱりと肚を割ってくれれば、こっちにもうち開けたいことがある……ほんとうのことを聞かせてもらいたい。吹きっさらしの海端で、ひょんな話をしかけるようだが、どのみち、宿の泊りで話せるようなことではない。もう、大体、察しているのだろうが、じつのところは、大湊の町へ入らぬうちに、埓をあけたい気もあるのだ」
 清兵衛は、「申しあげましょうとも」と胸を張ってこたえた。
 深志はうなずいて、
「やはり、そうだったか。いや、そうあるほうが当然だ。大湊の藤代長右衛門は、叔父か甥になるひとだそうだが、船もろとも遠国へ持って行って、舟子一人、帰してよこさぬような悪い政事しおきでは、誰にしも、勘弁なりかねるから」
「いや、そのせいというのじゃない。天保四年の飢饉は、北郡に当りがひどくて、ごらんのような有様になり、百姓も漁師ばらも、息をつきかねて他領へ逃げだすので、北郡だけで、空家が八千軒にもなったと申します。ボニン島のことは、かねてあの辺を乗り廻して知っておりましたから、松前の出兵で船を召しあげられぬうちに、名子や手間取の漁師どもを連れて行って、無人島の開地かいちをやろうと思いたちましたので」
「だから、そこのところが聞きたい」駒三郎がいった。
「せっかく大事を手掛けながら、なぜ帰ってきた。漂民が国へ帰れば、どういう扱いを受けるか、知っているだろう」
 清兵衛は迷惑そうな顔をしていたが、
「とりたてのない土地にいる百姓を、一人でも多く島へ引こうという、みなの意見で、私と庄吉と松太郎という手間取が使者に立った。アメリカの捕鯨船は、奥州宮古の近くでおろしてくれる約束だったが、風の都合が悪くて、洲崎の沖で放されてしまい、とうとうお船手同心のお調べを受ける羽目になりました。島のことは一切、口外せずにいましたが、松太郎の口から実情が洩れ、そんな島で法楽をしていたのか、さりとは、のどかな奴どもだと、お叱りを受けた」
 清兵衛は海に背をむけて、煙草に火を磨りつけると、
「北郡の大湊と田名部は、むかしから漂民を大勢出しておりますが、国元へ戻しても、一歩も村から踏み出さず、船と名のつくものは、漁舟にさえも乗ってはならない。むずかしい掟に縛られて、つまらぬ生涯を送ることになりますが、押送り途中で斬るなどというのは、この齢になるまで、まだ聞いたことがなかった」
 駒三郎は、笑いながらたずねた。
「清兵衛さん、それを誰に聞いた」
「田中さまが揚屋に見えて、藤代船の話をなさり、このうえごうを重ねたくないから、おれは断るが、どのみち介添はつくのだから、いずれ、どこかで斬られるものと思えといわれました。松太郎は、がっかりして、それで首を縊って死んでしまった」
 清兵衛は煙管を叩いて、ふところにおさめると、隙のない眼つきで深志と駒三郎の顔を見くらべながら、
「田中さまは、手が立つうえに容赦のないお人だから、仕掛けどころは、大概、きまっているが、失礼ながら、あなたさま方は、たいして腕が立つようでもないし、それに、どちらも飄軽ひょうきんなご人体じんていだから、眠っているところをやるかも知れず、いきなりの出あいがしらに頂戴するかもしれず、頃合いがわからないので、寝た間も気が休まらない。庄吉などは、すっかり焦れてしまって、どうせ斬られるものなら、早く斬られてしまえというわけで、お声がかかると、いそいそとお傍へ飛んで行く」
 水沢のそばにいる庄吉のほうへ、チラと視線を走らせてから、
「ごらんなさいまし、庄吉は首の座になおったつもりで、ああして、おとなしく控えております」
 深志は「おれは、最初から斬る気はなかった。おぬしはどうだ」と駒三郎にたずねた。駒三郎は考えてから、「おれのほうにも、斬る気はなかったようだ」とこたえた。
 深志は、清兵衛のほうへ向いて、
「清兵衛さん、お聞きのような次第だ。これまでの常式では、野辺地の郡代官に引継げば、それでわれわれの役目がすむのだが、こんなところまでついてきたのは、しょうしょう、おねがいの筋があるからだ。なんと、清兵衛さん、聞いてはくれまいか」
 駒三郎が、かわって、
「わしからもおねがいする。二人をボニン島とやらに、連れて行ってもらいたい。田中から聞いて、なんと満ち足りた世界も、あればあるものだと思ったが、お手前の話で、どうにも執着が断ちきれなくなった。大湊に着く前に、埓をあけたいといったのは、じつは、このことだったのだ。どうでも、ならぬといわれれば、ここからすぐ津軽を廻って、出羽あたりへ落ちることになるのだが」
 深志は揉み手をしながら、
「ひとつ、貧乏話を聞いてもらいたい。七年前に俸給四分の一の借上げ……その頃はまだよかったが、七年の飢饉のあとから面扶持つらぶちになった。一人扶持といえば米五合だが、時節柄とあって、二合に切り下げ、貴賤平等に毎日、一人に白米二合、ほかに、味噌代、薪代として、二十文ずつ貰う。千石取も二合なら、百石取も二合……朝々、支配のところへ出掛けて行く。キッチリと量って、渡したぞ、頂戴しましたで帰ってくる。モノがあればいいほうで、三日に一度はまだ御配ごはいがない。そっちでなんとかしてくれということになる……貰うのは米でも、米を食っているのは、一人もいない。雑穀屋へ持って行って、粟か稗にかえてくる。そうでもしなければ間がもてぬ。思うことは、ただ食いたいということだけ……これがわれわれの境界だ。あっちら稗や糠飯を食わしておいて、人を斬ってもすさまじい。田中ではないが、腹でも切って死んでやりたくなるではないか……どうだろう、清兵衛さん、ねがいをかなえてはくれまいか。わしは、いささか本草と物産に眼があいているから、そのほうのすけをやる。ご迷惑はかけないつもりだ」
 清兵衛は手を振って、
「そこまでのことは、おっしゃるな。行くといわれるなら、お連れもしましょうが、その島だって、お二人が考えていられるような安楽世界ではありません。お話しましょう。こういう訳です。
 名子と手間取りが四十二人、船方は私を込めて十八人、合せて六十人の欠食人けがちどもを連れて島に着いたのが、天保五年の四月の十二日……小島を見捨みすてにして、どんどん南へ下って、小豆島ほどもあろうかという島にとりつきました。青苔の生えた洞門のようなところを通ると、その奥が岩にかこまれた湊になっていて、むこうに砂浜と山の嶺につづく岩阻道いわそばみちが見える。
 バナナという木の実、アナナスという果物、見も馴れず、名も知らぬ成りものが、谷と山襞を埋めつくしている、異国人の畑作だとは知らないから、なんとまあ成りものの多い島だなどといっている。
 島の奥まったところへ入りこむと、絵に描いたような美事な平地があって、なかほどのところを小さな川が流れ、浅い川瀬の中で、青や、赤や、紫や、色とりどりの蟹が走りまわっている。見ると、名子も舟子も、成りものの木の間に入りこんで、夢中になって木の実をせせっている。とりたてのない国から来たのだから、仕様がないといえば、それまでですが、稗粟をともしく食っている土地から、いきなり天産のありあまる島へ行き着いたのが、そもそも躓きのもとでした。
 私は早く船に戻ったが、夜になっても、あくる日になっても、ただの一人、帰って来るものはない。行ってみると、みな成りものの谷間に入っていて、腹が空くと、寝そべったまま、手を伸ばしてそばのものをひき寄せて食っているという……
 思いしめられることではありませんか。物があり余るばかりに、何年となく、礫まじりの砂上に鍬を突きたて、汗を流していた名子の働きものが、たった一日で、手のつけられぬ怠け者になってしまった。押しても、突いても、白眼でひとの顔を見あげるばかりで、働くこともしない。
 三日ばかりは、黙ってみていてくれたが、いくら異人でも丹精した畑作を、際限なしにやられてはたまらない。マザロというイタリーの人が代表で、島裏しまうらから出てきて、ここはわれわれどもの土地だから、すぐ出て行ってくれという掛合いです。この北に、いくらも島があるから、そこへ行ったらよかろうといっている。
 移ったのが、さきほどお話した、その島です。木の実は少ないが、蒔けば成る立派な畑地がある。さっそく竿入れをして、播種にかかったが、名子の若いやつや、舟子の陸使おかづかいどもが、せっかく無人の島へ来ながら、上から追い使われるのは面白くない。地頭じとう島主しまぬしもいらぬ。旦那も船頭も邪魔になる。この島の働きは、一切平等にやってもらいたいといいだした。
 一応、尤もな言い分だから、言いなりにしておさめたが、それも、長くはつづかなかった。舟子の一人が、ペール島の異国人のすることを見てきて、みなを焚きつけた。異国人のすることも、いいお手本にはならなかった。ペラホの土人の女を連れてきて、一人が三人ぐらいずつ家内にして、それらに働かせて、おのれらは楽をして食っている。それをこの島でやろうというわけです。
 そこにいる大将、お船頭、上乗り、お舵……そんなてあいは長いあいだ旦那面で楽をしてきた。今日から、われわれが旦那になる。お前らは名子か手間取りの分際にひきさがって、汗を流して働け。その代り、一年交代ということにしてやる。という言い草です。もとより黙ってはいなかったが、こちらは五人で、向うは五十人余り、戦争にならないから降参した。
 旦那になった名子どもは、わずかな平地を争って、飽くことなく自分のほうへ取りこもうとする。やるまいとする。垣根をつくる。それを壊しにくる。勾配の早いやつは、伝馬で小島におし渡って、そこを自分の領分にする。そうこうしているうちに最初の島に居残っているのは、いくらもいなくなり、散り散りに、小島に分れて住むようになった。
 それくらいですめばよかったが、間もなく、もっと悪い結果になった。昨年の秋ごろ、ペール島からペラホの土人の女が逃げてきて、ラムのつくりかたをおしえた。それが堕落のはじまりで、どの島へ行っても、酔いつぶれているか、飲んだくれてあばれている。働いている者はついぞ一人も見かけないようになった。
 とりたてのない土地から、一人でも人間を引くなどと、うまいことをいっていますが、つまりは、それらをコキ使って、じぶんらはラムを飲んで遊んでいようという了見なのです……人間が住んでいるところに、安楽世界はないものだ。間もなく、ボニン島も、地獄のようになることでしょう……こういうところですが、それでも行かれますか」
 深志と駒三郎は、相顧みて苦笑しながら
「そんなら、御国おくにのほうが、まだしもだ」とこたえた。
 明治八年、田辺太一の一行がボニン島へ調査に行ったとき、父島の西の渚に、その頃の住居のあとが残っているということだったが、それも、明治十六年、クラカトア島の大噴火で、印度の海岸を襲ったあの五十尺の海嘯つなみに洗い流され、あとしらなみとなってしまった。





底本:「久生十蘭全集 ※(ローマ数字2、1-13-22)」三一書房
   1970(昭和45)年1月31日第1版第1刷発行
   1992(平成4)年2月29日第1版第8刷発行
初出:「文藝春秋」
   1954(昭和29)年10月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「ヶ所」と「カ所」の混在は、定本通りです。
※誤植を疑った箇所を、「定本 久生十蘭全集 9」国書刊行会、2011(平成23)年6月24日初版第1刷発行の表記にそって、あらためました。
入力:門田裕志
校正:芝裕久
2021年1月27日作成
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