上野、厩橋(前橋)で十五万石、酒井の殿さま、十代
その
と
失敗の前例は数々ある。四代、雅楽頭忠清は専横のことがあり、大老職と大手御門先の上邸を召しあげられ、大塚の下邸に遠慮中、切羽詰って腹を切った。
その後、柳沢出羽守の
御留守役の末席にいる犬塚
雅楽頭の屈託するようすが目にあまるので、犬塚はたまたま出府してきた国家老の本多民部左衛門をつかまえて相談をしかけた。
「御当家は、一と口に、井伊、本多、酒井と申し、諸大名
雅楽頭は煩労には耐える気力がなく、職をおさめ、政事を補佐するという
「国許でも、お選みの当初から、案じていたのはこのことであった。
と、言ってのけた。そこで犬塚が重ねて問いかけた。
「では、ご同意くださるか」
「同意しようとも」
「たしかに承わりました。柳営の
「ほかに法はあるまい。なにがさて、そうときまったら、一日も早いほうがいいぞ」
「申すまでもなく」
「お上の手前は、なんと言いつくろえばよろしかろう。お役替などおすすめしたら、慮外なとお怒りになるかも知れず。その辺のところがむずかしい」
「仰せのとおりですが、お
「たのうだぞ」
ということで、その日は別れた。
寛延二年の春、桃の節句のすんだあと、雅楽頭の御前で、犬塚がなにげない顔でこんなことをいった。
「御用部屋にお入りなされてから、四度目の春を迎えましたが、日々のご心労、お察し申しております」
雅楽頭は、俗に思案顔という
「そのことよ」
と肩を落して溜息をついた。
「上申の
「大きに、な……内書の扱いひとつにも、旧例故格といううるさいものがあって、もってのほかに心労する……このせつ、おれは瘠せたそうな。そちにもそう見えるか」
「目立って、ご
とソソリをかけ、媚びるように雅楽頭の顔を見あげた。
「忠節に
雅楽頭は駄々っ子のようにふくれっ面をして、ちぇっと舌打ちをした。
「このうえ、まだ勤めるのか……わしはもう
「では、おやめなされては如何」
雅楽頭は手で脇息を打つと、力のない声で、ふ、ふと笑った。
「
「その儀ならば」
答えのかわりに、はっと平伏して、
「ほかに、なにかお望みの筋でも」
と尤もらしい顔でたずねあげた。雅楽頭は細い顎をうごかして
「望めと言うなら、言ってみよう。願いをあげて退役するからには、ついでのことに、
溜間詰というのは、無役のまま
「それでは、あまり
「いやいや、望みは大いなるに越したことなし……憚りながら、手前がお上なら、もうちっと上のことを望みまする」
「慾張者め、そちなら、なにを望む」
「播州姫路の松本
雅楽頭は膝を乗りだして、
「そうなるか」
「なりましょう」
「そう運べば、この上の
犬塚は自信ありげな面持で、
「幸い、御家老も
と、のみこんだようなことをいった。
雅楽頭の
雅楽頭は喜悦満面のおもむきで、厩橋へ早馬をやって、城代、高須
夕景に及ぶと、宴はいよいよ
雅楽頭はゆったりと盃をあけながら、チラチラと川合蔵人の顔をながめていたが、今日の慶事に、あまりにもそぐわないようすをしているので、たまりかねて、上段の間から声をかけた。
「蔵人、いっこうに酒がはずまぬようだな」
蔵人は腕あぐらをとくと、膝の上に手をおき、
「なかなかもって」
と裏の枯れた渋辛声でつぶやいた。
「お家の大変というのに、どうして浮かれていられましょうや」
聞きとがめて、雅楽頭が問いかえした。
「これは耳障りな。大変とは、どういう大変……いわれを聞こうか。まあ、これへ進め」
川合蔵人は上段の間の下まで進みでると、開きなおった
「大変と申したは、御領地
と息巻くようにいった。雅楽頭は額ぎわまで血の色をあげて、
「だまれ、
「
雅楽頭は、しどろもどろで、
「おのれは、藩祖さまが
蔵人は
「腹を召されようとなら、ご遠慮なく召されい。蔵人、お供つかまつる」
と、切って放したようにいった。
詰合いの用人、小姓どもは、息をのんで控えていたが、そのうちに一人が立って、蔵人に、
「お次へ、お立ちなさい」
と言いかけたが、返事もしない。押しかえして催促すると、蔵人は光をためた金壺眼で用人の顔を仰ぎ見、重ねて言えば、抜討ちに討って捨てよう
用人は、これはと、一と足あとへ退ると、蔵人はとっさの間に
翌々日、蔵人の長屋へ見事な鞍置馬が一匹届いた。この馬は雅楽頭の乗料で、雅楽頭から和解のしるしとして贈ったものだった。
蔵人は御前に罷り出て、ねんごろにお礼を申し述べたが、いぜんとして楽しまぬ顔で、うちとけたような気配は、いささかも感じられなかった。
姫路の蔵人の居宅は曲輪の西、船場御坊というところにあって、庭の地境になるところを夢前川のつづきが流れている。
玄関は十畳敷、書院は三十畳敷で、間数が多く、江戸では、千石取りの邸でも及ばないような広大もない構えであった。
姫路へ移ってからも、蔵人は、ただのいちども晴れやかな顔を見せたことはなかった。日の出前に城に上り、浅黄木綿のぶっさきの羽織のうしろから、
内蔵介は雅楽頭の嘱目をうけ、若年ながら、高千石をもって江戸詰家老に申しつけられたが、おいおい遊蕩に身が入り、不行跡な振舞が人の
若気のあやまちで、すませばすまされる
二十年来、蔵人に仕えている
「死ね」
と一喝するなり、未練もなく首をはねたということである。
八月の末[#「八月の末」は底本では「八月の未」]、犬塚又内が江戸へ帰るので、蔵人のところへ挨拶にきた。蔵人は、いつにない鄭重なあしらいで、又内を書院に通し、
「
と、うちとけたふうにいった。
「江戸表、同役中へ御用差がたまり、差繰りに骨を折っておる。隠密の御用は、書状ではいけぬから、一通りお聞きあって、同役へお取次ねがう。出立の前に、いちどお出でくださらぬか。それで、出立は何日」
「この二十日に」
「それならば、民部左衛門も誘って、二十日の夕刻から、お出掛けなさい。出府なされば、五六年はお目にかかれぬのだから、用談が終ったら、ゆるりと
「では、そのせつ」
そういって、又内は帰った。
二十日の午後、蔵人は
「夕刻、七つ時分に、隠密の用談があって、本多民部左衛門、犬塚又内、松平主水の三人が見えられる。
作左衛門は敷居ぎわにかしこまって、はいはいと、うなずいた。
「心得のために申し聞かすが、今日は重い用談があるによって、家内のものどもを邸に置けぬ。とりわけ、女どもは
「
「おお、そうよ。口々には錠をおろし、玄関には、そちが居坐って、番をいたせ。お城からなにか申して来ても、玄関から一寸でも離れてはならぬ。また、おれが呼ぶまでは、何事があろうとも内に入るな。しかと申しつけたぞ」
「かしこまりました」
七つ過ぎ、民部左衛門、又内、主水の三人が、うち連れてやってきた。蔵人は式台まで出迎え、
「これはこれは、ようこそ」
と愛想よく挨拶をし、庭にむいた広書院に案内した。主水はうちつづく座敷をながめ、
「お手広なお住居ですな。風がよく入って涼しいこと」
などといっているところへ、作左衛門が吸物の
「酒は三
蔵人は盃台から盃をとって、一杯飲んで又内に差し、その盃から、さらに一献かさね、それを民部左衛門に差した。
盃が三巡したところで、家来を呼んで膳をひかせ、勝手へ出て来て、
「みなを長屋へおしこめろ。口々の錠を忘れるな。一間一間に燭台を出しておけ」
と作左衛門に言いおき、書院にとってかえすと、又内に、
「姫路にお下りになるのは、しばらく
「ご丁寧なご挨拶で痛みいる。では、ご内儀さまへ、ちょっと、おしるべに」
二人は座を立って書院を出る。いく
「少々、お待ちを。只今、家内を召し連れます」
といって部屋から出て行った。
又内が待っていると、間もなく、蔵人はとってかえし、又内の膝ぎわのギリギリのところへ詰め寄るなり、
「お手前は、お家の仇。そのままにはしておかれぬ」
と切り声を掛け、
「無惨やな。いかなる次第で、狼藉に及ばれる」
と叫び、鯉口四五寸抜きあわせるのを、蔵人、身を
「これはしたり」
と、よろばいながら立ちかけるところを、袈裟掛けにし、乗りかかって喉を払う。
蔵人は又内の絶命するのを見届けると、風呂場へ行って返り血を浴びた衣類を脱ぎ捨て、顔を洗い、手足を清め、用意してあった
「又内どのは、奥で家内にお逢いなさっていられる。民部左衛門どの、この
主水は縁に出、柱に
「わたくしめになら、ご
と涼しげな顔で
蔵人は民部左衛門と肩をならべて、まだ、いく間ともなく座敷を通り、北側の小間に連れこんだ。
「又内どのを案内してまいる。ちょっとお待ちを」
座敷から出て行く
「おのれは又内と同心して、お家に仇をした。ゆるしてはおかぬ」
と叫んで抜きつけた。民部左衛門は壁ぎわまで飛び
「仇とは、どういう仇……
眼を怒らせつつ抜きあわしたが、これも、あえなく右手を切り落された。
「やったな」
左手に刀を持ちかえたところを、
蔵人は乗りかかって止めを刺すと、脇差の血も拭って鞘におさめ、それを床の間に置き、さっきのとおりに、風呂場へ行って
「おい、作左衛門、用談はすんだぞ」
と笑いながらいった。
「じつはな。
「それは大変」
「おどろくほどのことではない。それについて、たのみたいことがある。おれは切腹するが、どうか
そういって、又内と民部左衛門の死体のある部屋へ連れて行った。
「見ろ、両人とも抜きあわしているだろう。騙し討ちではなかったぞ」
果し合いの次第をくわしく話し、
「委細は、この一通に書きこめておいた。介錯をしたら、これを主水どのにお渡し申せ。
と胸をおしくつろげ、左の脇へ脇差を突き立てた。
作左衛門は後にまわって介錯すると、衣服を着かえて書院へ行った。
「さぞかし、ご退屈なことでありましたろう。手前、主人が申しますには、今夕、本多、犬塚のご両所を打ち果したよしにございます」
「首尾は」
とたずねた。作左衛門はうなずいて、
「ずいぶん、首尾よく」
「よしよし……さらば、
「ぬからず、切腹いたしました」
ふところから蔵人の遺書を出し、
「委細はこの一通に」
といって主水に渡した。
主水は受取って、
「目付衆の立会で拝見することにしよう。あずかっておく」
煙草を二三服喫い、
「火の元、勝手など、見廻りたいが、検視のすまぬうちは、ここを立つわけにはいかぬ。おぬし、行って見廻って来い」
そういうと、硯箱を出させ、番頭、目付衆、親類中に宛てて、さらさらと手紙を書きだした。